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COLUMN/コラム2024.11.06
センセーションを巻き起こした!アメリカ映画最高のヒーローの“死に様”。『11人のカウボーイ』
19世紀後半のアメリカ西部。牧場主のウィル・アンダーソン(演:ジョン・ウェイン)は、1,500頭の牛を売るため、640㌔離れた街まで移動させる、“キャトル・ドライヴ”の必要に迫られていた。 しかし、必要な助っ人を得ることができない。近隣で金が出たという話が広がり、男たちは皆そちらに行ってしまったのである。 ウィルは友人の勧めから、教会の学校に通う少年たちをスカウトすることにしたが…。 ****** 本作『11人のカウボーイ』(1972)は、“デューク(公爵)”ことジョン・ウェイン(1907~79)の主演作。フィルモグラフィーを眺めると、“戦争映画”などへの出演も少なくないが、“デューク”と言えばやっぱりの、“西部劇”だ。 ジョン・フォード監督の『駅馬車』(39)でスターダムに上り、その後長くハリウッドTOPスターの座に君臨したウェインだが、64年に肺癌を宣告されて片肺を失う。しかし闘病を宣言して俳優活動を続け、60代に突入してからの主演作『勇気ある追跡』(69)で、念願のアカデミー賞主演男優賞を受賞! 本作に主演した頃は、まだ意気軒昂であった。しかし『11人のカウボーイ』は、ジョン・ウェイン主演の“西部劇”としては、明らかに異彩を放つ作品である。 ウェインは本作に関して、「私の映画生活で記念すべきチャレンジ…」と発言している。この「チャレンジ」とは、多分監督に関しても含まれる。本作のメガフォンを取ったのは、ニューヨーク派の新鋭マーク・ライデル(1934~ )だった。 ライデルは俳優出身で、60年代にTVシリーズの監督で頭角を現した。その後劇場用映画として、『女狐』(67)『華麗なる週末』(69)で評判を取ったが、“西部劇”に関しては、長寿TVシリーズの「ガンスモーク」を10話ほど手掛けてはいたものの、劇場用作品としては、本作が初めて。 後に『黄昏』(81)で、当時70代のヘンリー・フォンダとキャサリン・ヘプバーンにオスカーをもたらすなど、ベテラン俳優の手綱さばきも評価されたライデル。しかしこの頃はまだまだ、“若造”であった。 ***** ウィルの下に集まった11人は、みんな10代。厳しい訓練を行い、やがてコックとして雇った黒人のナイトリンガー(演:ロスコー・リー・ブラウン)も携えて、“キャトル・ドライヴ”は出発の日を迎えた。 過酷な道程で、11人はそれぞれに、厳しいウィルへの不満を抱く。しかしその想いや愛情に触れて、一同はやがて彼に対し、尊敬の念を深めていく…。 ***** ジョン・ウェインにとって、ハワード・ホークス監督の『赤い河』(48)への出演が、キャリアの転換点となったのは、自他共に認めるところ。それまで彼を「でくのぼう」扱いしていた、恩師のジョン・フォードにも、ちゃんと演技が出来ることを知らしめたのだ。『赤い河』は、“キャトル・ドライヴ”の道中を通じて、ウェインとモンゴメリー・クリフトが演じる、血の繋がらない父子による、相克と和解の物語である。『11人のカウボーイ』でウェインの演じるウィルは、2人の息子を若くして失っている。そんなウィルが、11人の少年カウボーイたちを率いて、“キャトル・ドライヴ”に挑む。ここにはやはり、“疑似父子”関係が見出せる。名作『赤い河』への目配せは、作り手の側には当然あったように思われる。 ライデル監督の苦労は、“ウェインの息子たち”11人のカウボーイを選ぶところから始まった。何百人もの少年を面接したが、乗馬と芝居の両方を経験している者は、ゼロ。 選んだ11人の内、6人は荒馬や荒牛を乗りこなすロデオ経験者だったが、他の5人は俳優で、馬に乗ったことがなかった。そこでクランク・イン前は、ロデオと演技の特訓。各々に自分のできること、即ち、乗馬と演技の見本を示すようにと指導を行い、やがて馬に乗れなかった者も、馬上に跨って牛を捕縛する投げ縄などを、マスターしていった。 そして、撮影開始。ライデルにとっては、少年たちを演出する以上の難物が控えていた。“デューク”である。 ***** ウィルと少年たちの“キャトル・ドライヴ”を追ってきた、牛泥棒の一団がいた。ある夜彼らが、襲撃を掛けてきた。 ウィルは少年たちに手を出させないよう、牛泥棒のリーダー格であるロング・ヘア(演:ブルース・ダーン)に、素手での1対1の闘いを挑んだ。ロング・ヘアはその闘いに敗れると、卑怯にも拳銃を取り出し、ウィルを背後から撃ち殺すのだった。 今際の際のウィルの言葉を受けて、ナイトリンガーは少年たちを故郷に送り届けようとする。しかし目の前でウィルを殺害されてしまった、少年たちの想いは違っていた。 彼らは誓った。ロング・ヘアたちへの復讐を果し、1,500頭の牛を取り戻す…。 ***** 当時のインタビューで、マーク・ライデルはこんなことを言っている。「政治的見解では両極にある私とデュークだ。彼の政治的立場を私は嫌悪する。しかし、俳優として彼ほど魅力のある男を私は知らなかった…」 当時はアメリカによるベトナムへの軍事介入に対して、“反戦運動”が盛り上がっていた頃。“リベラル派”に属するライデルにとって、かつて“赤狩り”を支援し、“ベトナム戦争”に対しては、アメリカ政府の立場を全面的に支持する作品『グリーン・ベレー』(68)を製作・監督・主演で作り上げた、“タカ派”の大御所ウェインは、政治的には唾棄すべき存在だった。しかし俳優としてのキャリアは、リスペクトに値する…。 本作は1971年4月5日にクランクイン。ニューメキシコ州のサン・クリストバル牧場やコロラドのパゴサ・スプリングスなどでロケを行った後、カリフォルニアのバーバンク撮影所へと戻った頃には、7月になっていた。 長きに渡ったロケで、実は撮り終えてない野外シーンが1つあった。それは、ウェインと敵役であるブルース・ダーンの対決。作品の流れで言えば、長年ハリウッド随一のタフなヒーローだったウェインが、エンドマークが出るまでまだ20分もあるのに、殺害されてしまうシーンであった。 それまでのウェインは、例えば『アラモ』(60)で実在の人物であるデイヴィー・クロケットを演じた時のように、劇中で英雄的な死を迎えることは幾度かあった。しかし本作のような無残な殺され方は、前代未聞のことだった。 これまでのジョン・ウェイン主演作でも、殴り合いのシーンは、各作にルーティンのように存在する。従来の“西部劇”は「悠揚として迫らざる」、ゆったりとして落ち着いた描写をモットーに撮られている。 しかし時代的には、セルジオ・レオーネ監督の『荒野の用心棒』(64)をはじめとしたマカロニ・ウエスタンや、サム・ペキンパー監督の『ワイルドバンチ』(69)などが、“西部劇”の世界を席捲。決闘シーンはより荒々しく、血生臭い傾向が強くなっていた。 ダーンは、ウェインとの対決の後のシーンでは、鼻を折られたという設定で、付け鼻を付けている。そんな激しい闘いで、いくら天下のジョン・ウェインであっても、無傷なのはおかしいと、ライデルは考えた。リアリズム風の格闘で、ウェインとダーンは共に血まみれにならなければ…。 しかしウェインは、“西部劇”に於いてそうしたリアルな描写には、ずっと反対し続けてきた。あるインタビューでは、「幻想(イリュージョン)を描くかわりに、何もかも“リアリズム”にしようとしている…それで、電気装置をつかって……血が噴き出るように仕掛けたりする…」などと、嫌悪感を露わにしている。登場人物すべてが血みどろの戦いの末に果てていく、『ワイルドバンチ』のサム・ペキンパー演出を、明らかに意識し揶揄していた。 ライデルは本作に於ける“最大のチャレンジ”に挑むため、当時撮影現場に於いてウェインの最側近と言える存在だった、デイヴ・グレイソンと、相談を重ねた。グレイソンはプロのメイクアップ係で、60年代からはウェインの全作品のメイクを担当した人物。ウェインは40代からカツラを装着していたため、グレイソンとは、公私ともに身近な関係だった。 しかし現代的な“西部劇”の作り方に対し、「…幻想を映画から追い出そうとしている」と反発するウェインを、果して説得などできるのか!? 問題のシーンの撮影日の朝、グレイソンがライデルから呼び出されると、その場には5~6人のスタッフが集まっていた。議題は、いかにウェインを血だらけにするか。「デュークがいいと言ったら、出来ますよ。でも、男のメーキャップ係が四人要ります」「どうして四人掛かりなんだね?」「三人は彼を押さえ付けておく係です」 そんなやり取りの末に、スタントディレクターが、ウェインの説得役を買って出た。しかしいざウェインのトレイラーに向かうと、挨拶と雑談だけで終わって、これから撮るシーンのことをまったく切り出せなかった。 結局は同行したグレイソンが、口を開くしかなかった。「ねぇ、デューク、みんなは今度のシーンであんたを血だらけにさせたがっているんだが、恐くて言い出せないでいるんだ」 それに対してウェインは、「下らん!」と一喝。しかしちょっと間を置いてから「まあ、いいだろう。やってくれよ。血糊とやらを塗りたくってくれ」 ウェインは個人的には好まないながらも、時代の変化の中で観客の嗜好が変わってきたことは、理解していたのである。と言っても、彼が言うところの「傷口がバックリ開いて、肝臓(レバー)がこっちに飛んで来る」ような、極端な残酷描写だけは、決して許そうとしなかったが。 この対決シーンに、大酒飲みのウェインはほろ酔い状態で臨んだ。酔いに任せて、撮影の合間はジョークを飛ばしたり陽気に振る舞ったという。 対決相手を演じたブルース・ダーン(1936~ )は、本作出演後、『ブラック・サンデー』(77)『帰郷』(78)などの話題作・問題作に出演。年老いてからは、『ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅』(2013)で、カンヌ国際映画祭男優賞を受賞し、アカデミー主演男優賞にもノミネートされた名優である。ローラ・ダーンの父親としても知られる彼だが、本作出演時は、若手俳優の1人に過ぎなかった。 そんなダーンに、ウェインはこんなアドバイスを贈った。「悪役を演じるときは手加減するな、よい俳優になりたければいじめられたほうがよい」 そんなウェインの助言が実ったというべきか?「ジョン・ウェインを撃った男」として悪名を馳せたダーンの元には、本作公開後に脅迫状が届き、リンチの警告まで受けるに至った。 ジョン・ウェインが背後から撃ち殺されてしまうということが、どれだけセンセーショナルな事態であったか! 例えば本邦を代表する映画評論家の1人、山田宏一氏も当時、次のように記している。 ~…『11人のカウボーイ』には、幻滅を感じ、いや、それどころか、怒りを禁じえないのだ。…ぼくらファンにことわりもなしにージョン・ウェインをあっさり殺してしまったのである!~ 山田氏はマーク・ライデル監督への悪罵を尽くした挙げ句、西部劇の不滅のヒーローであり、アメリカ国民の夢であるジョン・ウェインに無残な死をもたらした、本作『11人のカウボーイ』について、~ほとんど犯罪だ。~と断じている。 ジョン・ウェインは本作の4年後、『ラスト・シューティスト』(76)で、末期がんで余命いくばくもないガンマンを演じ、ならず者たちとのガンファイトで、再びスクリーン上での“死”を演じてみせた。そしてそれを遺作に、79年6月11日、再発した胃がんのために72歳でこの世を去った。 今日考えるに本作『11人のカウボーイ』は、「悠揚として迫らざる」タッチの西部劇の終焉を象徴する、歴史的な1本であったのだ。■ 『11人のカウボーイ』© Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2024.11.05
イタリア映画界の伝説的セックス・シンボル、エドウィジュ・フェネシュの代表作シリーズがザ・シネマに登場!
世界的に性の解放が叫ばれ映画における性表現が自由化された’70年代、イタリアではセックス・コメディ映画が大ブームを巻き起こす。Commedia sexy all'italiana(イタリア式セックス・コメディ)と呼ばれるこれらの映画群は、一部の野心的で志の高い作品を除けば美女たちの赤裸々ヌードと低俗な下ネタギャグで見せるバカバカしいB級エンターテインメントで、それゆえ当時の批評家からは散々酷評されたものの、しかし大学生や労働者階級の若者を中心とした男性ファンからは大いに支持された。バーバラ・ブーシェにグロリア・グイダ、ラウラ・アントネッリにアニー・ベル、フェミ・ベヌッシにリリ・カラーチにダニエラ・ジョルダーノにアゴスティナ・ベッリにジェニー・タンブリにキャロル・ベイカーなどなど、数多くのグラマー女優たちがイタリア式セックス・コメディ映画で活躍したが、中でも特に絶大な人気を誇ったのはエドウィジュ・フェネシュである。 「イタリア式セックス・コメディの女王」と呼ばれ、イタリアでは’70年代を象徴するセックス・シンボルとして有名なエドウィジュ・フェネシュ。欧米では今もカルト的な人気が高く、クエンティン・タランティーノ監督やイーライ・ロス監督もフェネシュの大ファンを公言しているほどだが、しかし日本では劇場公開作が少ないため知名度は極めて低い。そんな彼女の代表作のひとつである『青い経験』シリーズが、なんとザ・シネマで放送されるということで、今回は作品の見どころに加えて、日本ではあまり知られていない女優エドウィジュ・フェネシュとイタリア式セックス・コメディの世界について解説してみたいと思う。 ジャッロ映画の女王からイタリア式セックス・コメディの女王へ 1948年12月24日のクリスマス・イヴ、当時まだフランス領だった中東アルジェリアの古都ボーヌ(現在のアンバナ)に生まれたエドウィジュ・フェネシュ。父親フェリックスはスコットランドやチェコの血が入ったマルタ人、母親イヴォンヌはベネチアをルーツとするシシリア生まれのイタリア人だが、2人の間に生まれたフェネシュの国籍はフランスである。裕福な家庭に育って9歳からバレエを習っていたそうだが、しかし両親の離婚とアルジェリア独立戦争の影響から、母親に連れられて南仏ニースへ移住。18歳の時に初めて結婚したが、しかし1年も経たず離婚している。 人生の大きな転機が訪れたのはちょうどその頃。ニースの街を歩いていたところ、映画監督ノルベール・カルボノーにスカウトされ、出番1シーンのみの端役ながら’67年に映画デビューを果たしたのだ。その年、当時カンヌ国際映画祭で毎年行われていた美人コンテスト「レディ・フランス」に出場して優勝したフェネシュは、さらに欧州各国代表が集まる国際大会「レディ・ヨーロッパ」にも出場。惜しくも3位に終わったものの、しかしこれをきっかけにイタリアのエージェントから声がかかり、女性ターザン映画『Samoa, regina della giungla(サモア、ジャングルの女王)』(’68)に主演。フェネシュは母親と一緒にローマへ移り住む。 ただし、フェネシュが最初に映画スターとして認められたのはイタリアではなく西ドイツ。なかなかヒットに恵まれず燻っていた彼女は、イタリアの男性向け成人雑誌「プレイメン」でヌードグラビアを発表したところ、ひと足先に性の解放が進んでいた西ドイツへ招かれてセックス・コメディ映画に引っ張りだことなったのだ。その中の一本が、西ドイツとイタリアの製作会社が共同出資した『Die Nackte Bovary(裸のボヴァリー)』(’69)。この作品でフェネシュは、その後のキャリアを左右する重要な人物と出会うことになる。イタリア側の映画プロデューサー、ルチアーノ・マルティーノである。 祖父は日本でも大ヒットしたイタリア初のトーキー映画『愛の唄』(’30)で知られる往年の名匠ジェンナーロ・リゲッティ、祖母は「イタリアのメアリー・ピックフォード」と呼ばれた大女優マリア・ヤコビーニ、母親リア・リゲッティも元女優で、5つ年下の弟もB級娯楽映画の名職人セルジオ・マルティーノという映画一家出身のルチアーノ・マルティーノ。’60年代初頭よりミーノ・ロイとのコンビでソード&サンダル映画やマカロニ・ウエスタン、モンド・ドキュメンタリーなどのB級娯楽映画を大量生産してヒットを飛ばしたルチアーノは、’70年に自身の映画会社ダニア・フィルムを設立。弟セルジオやウンベルト・レンツィ、ドゥッチョ・テッサリ、ジュリアーノ・カルニメオなどの娯楽職人を雇い、ジャッロ(イタリア産猟奇サスペンス)やクライム・アクションといった人気ジャンルの映画を次々とプロデュースしていた。 そのルチアーノ・マルティーノと’71年に結婚(年齢差は15歳)したフェネシュは、いわばダニア・フィルムの看板スターとして売り出されることになる。第1弾となったのがセルジオ・マルティーノ監督のジャッロ映画『Lo strano vizio della signora Wardh(ワルド夫人の奇妙な悪徳)』(’71)だ。これがイタリアのみならずヨーロッパ各国やアメリカでもヒットしたことから、立て続けにジャッロ映画のヒロインを演じたフェネシュ。先述した通り「イタリア式セックス・コメディの女王」と呼ばれた彼女だが、同時に「ジャッロ映画の女王」でもあったのだ。タランティーノやイーライ・ロスが夢中になったのもジャッロ映画のフェネシュ。ただ、実のところ彼女が主演したジャッロ映画はせいぜい5~6本。数としては決して多くないのだが、しかしいずれも非常にクオリティが高く、中でもセルジオ・マルティーノ監督と組んだ『Lo strano vizio della signora Wardh』と『Tutti i colori del buio(暗闇の中のすべての色)』(’72)は、当時のダリオ・アルジェント作品と比べても引けを取らない見事な傑作。いまだ日本へ輸入されないままなのは実に惜しい。 次に、ルチアーノ・マルティーノは折からのイタリア式セックス・コメディの人気に便乗するべく、ピエル・パオロ・パゾリーニの『デカメロン』(’71)や『カンタベリー物語』(’72)に影響されたエロティック時代劇コメディ『Quel gran pezzo dell'Ubalda tutta nuda e tutta calda(全裸でセクシーなウバルダの見事な作品)』(’72)をエドウィジュ・フェネシュの主演で発表。これがイタリア国内で空前の大ヒットを記録したことから、イタリア式セックス・コメディのブームが本格的に到来したと言われている。もちろん、フェネシュにとってもキャリアの大きな転機となり、これ以降、彼女は年に3~5本のハイペースでイタリア式セックス・コメディ映画に主演することとなる。 イタリア式セックス・コメディが若い男性ファンに支持された理由とは? イタリア式セックス・コメディとは、’60年代に花開いた「Commedia all'italiana(イタリア式コメディ)のサブジャンル。高度経済成長期にさしかかった当時のイタリアでは、ローマやミラノなどの大都会を中心に庶民生活は豊かとなり、リベラルで進歩的な価値観が急速に浸透していったが、しかしその一方でカトリックの総本山バチカンのお膝元だけあって旧態依然とした保守的な価値観も根強く、さらに地方へ行けば家父長制の伝統も色濃い男尊女卑の風潮もまだまだ残っていた。そんなイタリア社会の矛盾を辛辣なユーモアで笑い飛ばしたのが、ジャンル名の語源ともなったピエトロ・ジェルミ監督の『イタリア式離婚狂騒曲』(’61)やディーノ・リージ監督の『追い越し野郎』(’62)、マルコ・フェレーリ監督の『女王蜂』(’63)といった一連の「イタリア式コメディ」映画。その中でも、イタリア庶民の大らかな性をテーマにした巨匠ヴィットリオ・デ・シーカの『昨日・今日・明日』(’63)や、デ・シーカに加えてフェリーニやヴィスコンティなどの巨匠が集結したオムニバス艶笑譚『ボッカチオ’70』(’62)辺りが、イタリア式セックス・コメディのルーツと言えるかもしれない。 そのイタリア式セックス・コメディが興隆したのは’70年代に入ってから。当時のイタリアでは学生運動や労働者運動など左翼革命の嵐が吹き荒れ、リベラルな気運が高まる中で映画の性描写も自由になっていた。実際、ヌードや濡れ場を積極的に描いたのは、ベルナルド・ベルトルッチやエリオ・ペトリ、サルヴァトーレ・サンペリなどの左翼系映画監督たちだ。パゾリーニなどはその代表格と言えよう。『デカメロン』と『カンタベリー物語』(’72)が立て続けにヒットすると、それをパクった「デカメロンもの」と呼ばれる映画群が雨後の筍のように登場。これをきっかけにイタリア式セックス・コメディが量産されるようになり、たちまち学園ものから犯罪ものまで様々にバリエーションを広げ、いわばポルノ映画の代用品として若い男性観客層から支持されるようになる。 先述したようにカトリック教会の影響などから、依然として保守的な価値観の根強かった当時のイタリア社会。それゆえ、映画における性表現の自由化は進んだものの、しかしこれがハードコア・ポルノとなるとまた話は別で、アメリカやフランスなど他国に比べると普及するのがだいぶ遅かった。イタリアで最初のポルノ映画館がミラノでオープンしたのは’79年。ちょうどアメリカとイタリアが合作したポルノ巨編『カリギュラ』(’79)が公開された年だ。最初の純国産ハードコア・ポルノ映画と言われているのは、ジョー・ダマート監督がドミニカ共和国で撮影した『Sesso nero(黒いセックス)』(’80)。それ以前は、例えばラウラ・ジェムサー主演のソフトポルノ『愛のエマニエル』(’75)のように、国外への輸出用などにハードコア・シーンを別撮りして追加するケースこそあったものの、しかし本格的なハードコア・ポルノ映画がイタリアで作られることはなかったそうだ。 ちなみに、ラウラ・アントネッリが主演したサルヴァトーレ・サンペリ監督の『青い体験』(’73)や、パスカーレ・フェスタ・カンパニーレ監督の強烈な風刺喜劇『SEX発電』(’75)などの一部作品を除くと、本国イタリア以外では滅多に配給されることもヒットすることもなかったというイタリア式セックス・コメディ。エドウィジュ・フェネシュの主演作にしたって、日本で劇場公開されたのは『ああ結婚』(’75)のみで、あとはテレビ放送やビデオ発売されただけ。それだって一握りの作品だけだ。なぜイタリア式セックス・コメディは国外で通用しなかったのか。その最大の理由は恐らく、セクシズム丸出しのユーモア・センスにあるのではないかと思う。 なにしろ、当時のイタリア式セックス・コメディは覗きや痴漢やレイプなど女性の人権を蔑ろにするような描写がテンコ盛りで、なおかつそれらを面白おかしく消費する傾向が強い。登場する女性キャラも男性に都合の良い好色な美女だったり、お堅い女性でも無理やり押し倒せばメロメロになったり。いわゆる「いやよいやよも好きのうち」ってやつですな。また、同性愛者や身体障碍者、有色人種などのマイノリティを小バカにするようなネタも多い。確かに当時のアメリカやヨーロッパ、日本などでも男尊女卑かつ差別的な表現を含むセックス・コメディは少なからず存在したが、しかしイタリア式セックス・コメディのそれはちょっとレベルが違うという印象だ。 とにもかくにも、こうしてイタリア式セックス・コメディの女王として超売れっ子となったエドウィジュ・フェネシュ。中でも特に人気を集めたのは、女性警官やらナースやらに扮したフェネッシュが、その美貌とお色気で性欲過多なイタリア男たちを大暴走させる職業女性ものである。セクシーでタフな美人女性警官が珍騒動を巻き起こす『エロチカ・ポリス』(’76)シリーズに、色っぽい女性兵士が男社会の軍隊を大混乱に陥れる『La soldatessa alla visita militare(女兵士の軍隊訪問)』(’76)とその続編の「女兵士」シリーズなど枚挙に暇ないが、今回はその中から妖艶な女教師が男子生徒ばかりかその父兄までをも悩殺する『青い経験』(’75)シリーズがザ・シネマにお目見えする。 エドウィジュ・フェネシュのセクシーな魅力が詰まった『青い経験』シリーズ 日本ではタイトルに「青い経験」を冠したエドウィジュ・フェネシュの主演作が全部で5本、テレビ放送ないしビデオ発売されているものの、しかし正式なシリーズ作品はナンド・チチェロ監督の『青い経験』(’75)とマリアーノ・ラウレンティ監督の『青い経験 エロチカ大学』(’78)、そしてミケーレ・マッシモ・タランティーニ監督の『青い経験 誘惑の家庭教師』(’78)の3本。それ以外は日本側で勝手にシリーズを名乗らせた無関係な映画である。その中から、今回ザ・シネマで放送されるのは2作目と3作目。そこで、まずはシリーズの原点である1作目を簡単に振り返っておきたい。 頭の中が女の子とセックスのことでいっぱいのお坊ちゃんフランコは、勉強などそっちのけで悪友たちとイタズラ三昧の毎日。息子の将来を心配した汚職議員の父親が、フランコの成績改善と引き換えに昇進を校長へ持ちかけたところ、エドウィジュ・フェネシュ演じる美人教師ジョヴァンナが家庭教師を務めることになり、すっかり一目惚れしたフランコは彼女をモノにするべく勉強そっちのけで猛アプローチを展開する。『青い体験』の影響下にあることは一目瞭然の性春コメディ。権力者の不正が蔓延るイタリア社会の悪しき風習をさりげなく皮肉っている辺りは、マカロニ・ウエスタンの名脚本家ティト・カルピの良心と言えるかもしれないが、しかしデート・レイプや人身売買を笑いのネタにしたり、同性愛に関する描写が偏見まみれだったり、やっぱり最後は男が女を強引に押し倒すことで結ばれてハッピーエンドだったりと、内容的に性差別的な傾向が顕著な作品でもある。 そして、今回放送されるのが2作目『青い経験 エロチカ大学』と3作目『青い経験 誘惑の家庭教師』。いずれもストーリー的には完全に独立しており、キャストの顔ぶれ自体は続投組が多いものの、しかし登場人物も設定も作品ごとに全く違うため、1作目を見ていなくても問題はないし、そればかりか見る順番すら気にする必要はないだろう。 邦題の通り大学キャンパスが主な舞台となる『青い経験 エロチカ大学』。謎の過激派グループから誘拐を予告された大富豪リカルド(レンツォ・モンタニャーニ)は、秘書ペッピーノ(リノ・バンフィ)の助言で貧乏人に化けて家族ともども下町へと引っ越すのだが、しかし大学生の息子カルロ(レオ・コロンナ)はそんなことお構いなしで、性欲を持て余した悪友たちとエッチなイタズラに勤しんでいる。そんな彼は学長の姪っ子である新任の美人英語教師モニカ(エドウィジュ・フェネシュ)に一目惚れするのだが、父親リカルドも町で偶然知り合った彼女に夢中となり、強引に理由を作ってモニカに英語の個人教授を依頼。すっかり2人が出来ているものと早合点したカルロは、なんとかしてモニカを自分のものにしようと大奮闘する。 ‘70年代のイタリアといえば、過激派テロ・グループ「赤い旅団」による政治家や富裕層を狙った誘拐事件が多発して社会問題となったわけだが、本作ではそんな危うい世相を背景に取り込んで金持ちの独善的な身勝手を揶揄しつつ、美人教師のお色気に理性を失って右往左往する男どもの愚かさを笑い飛ばす。モニカが英単語を学生たちに復唱させながら服を脱いでいくという、カルロが妄想する英単語ストリップ・シーンなどは捧腹絶倒のバカバカしさ(笑)。なんとも他愛ない学園セックス・コメディに仕上がっている。 続く『青い経験 誘惑の家庭教師』は、大作曲家プッチーニが生まれたトスカーナ地方の古都ルッカが舞台。ミラノ出身の美人ピアノ教師ルイーザ(エドウィジュ・フェネシュ)は、恋人である評議員フェルディナンド(レンツォ・モンタニャーニ)の住むルッカへ引っ越してくるのだが、そんな彼女に大家の息子マルチェロ(マルコ・ゲラルディーニ)が一目惚れ。ところが、悪友オッタヴィオ(アルヴァーロ・ヴィタリ)がルイーザを売春婦と勘違いして噂を広めたところ、色めき立ったアパート管理人アメデオ(リノ・バンフィ)や大家の外科医ブッザーティ(ジャンフランコ・バッラ)など、アパートの住人であるスケベ男たちが彼女の体を狙って我先にと殺到する。 これまた老いも若きも揃って過剰な性欲に振り回される、世の男たちの滑稽さと哀しい性を笑い飛ばした作品。さらに実は既婚者であることを隠しており、なおかつ市長選への出馬で不倫スキャンダルを隠し通したいフェルディナンドとの駆け引きも加わることで、上へ下へと大騒ぎのドタバタ群像劇が繰り広げられる。暴行まがいの展開でマルチェロがルイーザをモノにするラストは少なからず問題ありだが、それも含めてイタリア式セックス・コメディらしさが詰まった映画と言えよう。 どちらの作品も、エドウィジュ・フェネシュのルネッサンス絵画を彷彿とさせるヴィーナスのような美貌と、古代ローマの彫刻も顔負けの立派なグラマラス・ボディこそが最大の見どころ。また、レンツォ・モンタニャーニにリノ・バンフィ、アルヴァーロ・ヴィタリなど、フェネシュ主演作の常連でもあったイタリア式セックス・コメディに欠かせない名優たちの、実にベタでアクの強いコメディ演技も要注目である。 その後、’79年にルチアーノ・マルティーノと離婚したフェネシュは、引き続きイタリア式セックス・コメディで活躍しつつ、ディーノ・リージやアルベルト・ソルディなど一流監督の映画にも出るようになるのだが、しかし先述したようにハードコア・ポルノの普及でイタリア式セックス・コメディが急速に衰退すると、演技力よりも美貌とヌードが売りだった彼女にとって厳しい時代が訪れる。そこで、後にフェラーリ会長やアリタリア航空会長を歴任し、当時フィアット・グループの重役だったルカ・ディ・モンテゼーモロの恋人だったフェネシュは、その強力なコネを使ってテレビ界へ転身。バラエティ番組の司会者やエンターテイナーとして活躍するようになり、おのずとヌードも封印してしまう。ティント・ブラス監督の文芸エロス映画『鍵』(’83)の主演を断ったのもこの頃だ。 ちなみに、映画会社社長ルチアーノ・マルティーノに大物実業家ルカ・ディ・モンテゼーモロと、社会的地位の高い男性パートナーの影響力に助けられてキャリアを切り拓いたフェネシュだが、これは昔のイタリア女優に共通する処世術。ソフィア・ローレン然り、シルヴァーナ・マンガーノ然り、クラウディア・カルディナーレ然り、イタリアのトップ女優たちの多くは、夫や恋人である大物プロデューサーや有名映画監督などの後ろ盾があった。「イタリアではプロデューサーの妻やガールフレンドがいい役を独占する」と不満を持ったエルサ・マルティネッリは、アメリカでブレイクしたことからハリウッドに活動の拠点を移してしまった。なにしろ、伝統的に男尊女卑の根強いイタリアでは映画界も基本的に男性社会。女優が名声を維持するためには、権力を持つ男性のサポートが必要だったのである。 閑話休題。やがて舞台女優へも進出してセックス・シンボルからの脱却を図ったフェネシュは、’90年代に入ると自らの製作会社を設立して映画やテレビドラマのプロデューサーとなり、名匠リナ・ウェルトミュラーの『Ferdinando e Carolina(フェルディナンドとカロリーナ)』(’99)やアル・パチーノ主演の『ベニスの商人』(’04)、イタリアで話題になったテレビのロマンティック・コメディ『È arrivata la felicità(幸せがやって来た)』(‘15~’18)などを手掛けている。イーライ・ロス監督のアメリカ映画『ホステル2』(’07)へのカメオ出演で久々に女優復帰も果たした。最近では巨匠プピ・アヴァティが半世紀に渡る男性2人の友情を描いた映画『La quattordicesima domenica del tempo ordinario(平凡な時代の第14日曜日)』(’23)に、ガブリエル・ラヴィア演じる主人公マルツィオの別れた妻サンドラ役で登場。若き日のサンドラの母親役をシドニー・ロームが演じているそうで、これは是非とも見てみたい。■ 『青い経験 エロチカ大学』© 1978 DEVON FILM – MEDUSA DISTRIBUZIONE『青い経験 誘惑の家庭教師』© 1979 DEVON FILM – MEDUSA DISTRIBUZIONE
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COLUMN/コラム2024.11.05
“香港ノワール”の巨匠ジョン・ウー、ハリウッド時代の最高作!『フェイス/オフ』
ジョン・ウーは、1946年中国・広州生まれ。幼き日に家族で香港へと移り住んだ。少年時代から親しんだ映画の世界へと飛び込み、『カラテ愚連隊』で監督デビューを飾ったのは、73年のことだった。 その後様々なジャンルの作品を手掛けたが、所属する映画会社とのトラブルから、一時台湾に“島流し”状態に。そんな紆余曲折もあったが、86年に香港に戻ると、『男たちの挽歌』を監督。この作品が記録破りの大ヒットとなり、社会現象を起こした。 それまでコメディやカンフー映画が中心だった香港映画界に、ウーは、“英雄片”日本で言うところの“香港ノワール”というジャンルを確立。そして90年代初頭まで、このムーブメントをリードする存在として、ほぼ1年に1本ペースで作品を発表した。「スローモーションを駆使した二丁拳銃でのガンファイト」「メキシカン・スタンドオフ~同時に拳銃を向け合う2人の男」「画面に舞い飛ぶ白い鳩」等々。“ジョン・ウー印”と言うべき、斬新でスタイリッシュなアクション演出の評判は、狭い香港内に止まらなかった。 折しも97年の中国本土への返還を、目前に控えた頃。香港の映画人の多くは、海外マーケットを睨み、そこに活路を見出そうという志向が強くなっていた。 ウーに最初に声を掛けたハリウッドの映画人は、オリヴァー・ストーン。それは91年のことだったが、香港で撮る次回作が決まっていたので、話はまとまらなかった。 ウーのハリウッド・デビューは、93年。ジャン=クロード・ヴァンダム主演の『ハード・ターゲット』。続いて96年に、主演にジョン・トラヴォルタ、クリスチャン・スレイターを迎えた、『ブロークン・アロー』が公開されて、1億5,000万㌦の興収を上げる、大ヒットとなった。 それらに続いて、ハリウッド入り後の劇場用映画第3作となったのが、本作『フェイス/オフ』(97)である。 元々の脚本は91年に、当時大学生だった、マイク・ワーブとマイケル・コリアリーのコンビが執筆したもの。200年後の世界が舞台というSFで、激しく敵対する2人の男の顔が入れ替わって、更に戦いがエスカレートしていくという内容だった。 早々に権利は売れて、当時人気絶頂の2大筋肉スター、アーノルド・シュワルツェネッガーとシルベスター・スタローンの共演作として映画化を進める動きとなった。しかしその企画は流れ、その後も再三映画化の試みはあったものの、なかなか実現に至らなかった。 やがてこの脚本は、ウーのところに持ち込まれる。善と悪を象徴する、2人の男の顔が入れ替わるという設定には心惹かれたウーだったが、SF仕立てであることに気が乗らず、一旦は断っている。 他での話もまとまらず、再びウーの元に、この企画は戻ってくる。そこでウーは、現代のアメリカ社会を舞台にした物語に、脚本をリライトしてもらうことを条件に、本作『フェイス/オフ』の監督を、引き受けることを決めたのである。 ***** FBI捜査官のショーン・アーチャーは、遊園地でテロリストのキャスター・トロイに狙撃される。銃弾はアーチャーの身体を貫通し、彼が抱いていた、幼い息子の命を奪った。 それから6年。アーチャーはキャスターを追い続け、彼が弟のポラックスと空港から逃亡を図るという情報を摑んだ。死闘の末、アーチャーはキャスターを取り押さえる。 その際に植物状態になったキャスターが、ロサンゼルスに細菌爆弾を仕掛けていたことが判明。場所を知るのはポラックスだけだが、その在処を吐こうとはしなかった。 そこで、奇想天外な作戦が発動した。昏睡するキャスターの顔を、最新技術で剥ぎ取り、アーチャーに移植。キャスターになりすましたアーチャーが刑務所に入り、先に収監されているポラックスから情報を聞き出すというものだった。ごく数人を除いて、FBIの仲間や家族にも極秘での決行だった。 アーチャーは、爆弾を仕掛けた場所を聞き出すのに成功し、任務は完了…と思いきや、驚くべき人物が面会に現れる。それは、アーチャーの顔をしたキャスターだった。 植物状態から目覚めた彼は、配下を呼び寄せ、医者らを脅して手術をさせた上、アーチャーの任務を知る者を、すべて抹殺したのである。呆然とするアーチャーを獄に残し、キャスターはポラックスを釈放させ、自ら仕掛けた爆弾を解除。英雄となった。 自分の顔や地位、家族までも奪われてしまった…。アーチャーはキャスターへの復讐のため、刑務所内に騒乱を起こし、脱獄する。 それぞれが最も憎悪する男の顔を纏った2人。その対決の行方は!? ***** ハリウッド入り後、『フェイス/オフ』に取り掛かる前の2作、ウーは香港時代とは勝手が違う、映画会社主導による製作体制に、散々苦しめられた。『ハード・ターゲット』では、公開前のモニター試写の結果として、暴力描写や“ウー印”のスローモーションやクロスカッティングなどの多くが、カットされてしまう。更には、主演のジャン=クロード・ヴァンダムの意向が強く働き、完成版は、彼のアクション中心に編集されてしまったのだ。 ハリウッド的な作劇に於いてヒーローは、「泣いてもいけないし、もちろん死んでもいけなかった」。それまでのウー作品の登場人物とは、ほど遠いと言える。 悪に対する扱いも、「情け容赦は無用」の香港映画とは大違い。ハリウッドでは、「善と悪が鉢合わせしたとき、ヒーローの弾丸は、敵がナイフか棍棒を拾い上げるまで。当たることはない…」と、ウーは吐き捨てるように述懐している。 撮影現場で、俳優からセリフを変更したいという注文が出ても、監督には修正する自由が与えられていないのも、ありえない話だった。ウーは香港時代、俳優の要望によるものと脚本通りの2ヴァージョン撮ってみることが多かった。演じる本人の意見に従った方が良い結果が出ることを、経験として学んでいたのである。 思い通りに仕切れなかった、『ハード・ターゲット』そして『ブロークン・アロー』を経て、ウーは、ハリウッドで撮りたいものを撮ろうと思ったら、政治力が必要なことを思い知った。そしてそうした“力”を、『ブロークン・アロー』のヒットによって、遂に手にすることが出来たのである! ウーがハリウッドで、撮影現場での自由裁量権やファイナルカットの権利を得て初めて臨んだのが、本作『フェイス/オフ』だった。先に挙げた、俳優からのセリフ変更の要望などにも即応できるよう、脚本家も現場に帯同。提案があると、すぐに書き換えに応じてもらえる態勢を取ったという。 “善”と“悪”、激しく敵対する、『フェイス/オフ』の2人の主役。キャスティングされたのは、ジョン・トラヴォルタとニコラス・ケイジ。 FBI捜査官ショーン・アーチャー役のトラヴォルタは、ウーの前作『ブロークン・アロー』に続いての主演となった。トラヴォルタは20代前半に、『サタデーナイト・フィーバー』(77)『グリース』(78)という、当時のメガヒット作に連続主演。時代の寵児となりながらも、その後長く低迷した過去がある。 彼が復活を遂げたのは、クエンティン・タランティーノ監督の『パルプ・フィクション』(94)。それをきっかけに、40代で第2の全盛期に突入していた。そんなトラヴォルタにジョン・ウーを引き合わせたのも、タランティーノだった。 タランティーノにとってジョン・ウーは、「ものすごいヒーロー」であり、ウーが手掛けた“香港ノワール”に関しては、「セルジオ・レオーネ以来最高のもの」と称賛を惜しまなかった。タランティーノの長編初監督作『レザボア・ドッグス』(92)で、ギャングたちが揃いの黒スーツで現れるのは、ウーの『男たちの挽歌』の影響と言われる。 そんなタランティーノが、ウーとトラヴォルタ双方に、それぞれの凄さを吹聴。更に試写室でフィルムを見せるなどして、2人の間を取り持ったのである。 ウーは自作2本で主演を務めたトラヴォルタのことを、「謙虚で控えめだが自信に満ちている」と称賛。彼こそ「本物の男だ」と言い切っている。 テロリストのキャスター・トロイに、ニコラス・ケイジが選ばれたのは、トラヴォルタの希望もあってのこと。当時のケイジは、30代前半。『リービング・ラスベガス』(95)でアカデミー主演男優賞を受賞後、『ザ・ロック』(96)『コン・エアー』(97)とアクション大作への主演が続き、ノリにノッていた。 ケイジは元々、ウー作品の大ファン。香港時代の作品もしっかりチェックしていた。冒頭でアーチャーを狙撃するトロイに口ひげがあるのは、ウー監督“香港ノアール”の1本、『狼 男たちの挽歌・最終章』(89)のチョウ・ユンファを意識してのことだったという。 アーチャーの妻イヴ役には、金髪でノーブルなイメージのあるジョアン・アレン。FBI捜査官の夫を支えながらも、顔が入れ替わったキャスターとも、その正体を知らずに、“夫婦”として関係してしまうという役どころである。 映画会社は、もっと若くてキレイな女優をキャスティングしようとした。しかしウーは、オリヴァー・ストーン監督の『ニクソン』(96)で大統領の妻を演じたアレンを観て、彼女に決めた。イヴ役には、抑制された演技が必要だと思っていたからである。 ウーはクランク・イン前に、トラヴォルタ、ケイジと、入念にコミュニケーション。“善”の象徴であるショーン・アーチャー、“悪”の権化であるキャスター・トロイ、それぞれのキャラを表現するために、シンボリックなポーズや振舞いを決めた。 例を挙げれば、ケイジ特有のブラつくような歩き方や口調を緩めてはっきりと発音する話し方を、キャスターの特徴に採用。トラヴォルタは顔が入れ替わった後の演技のために、これらをマスターしなければならなかった。 冒頭トラヴォルタ演じるアーチャーは、愛する人の顔を優しく撫でる仕草を見せる。これが伏線となって、物語の後半イヴは、我が子の命を奪った憎きキャスターの顔を持つ男が、実は自分の夫であることに気付くのである。 トラヴォルタとケイジが別々に登場するシーンは、撮影した日の内に編集。翌日には相手の演技をチェックできるようにした。アーチャーの息子が殺されるシーンを見たケイジは、すぐにトラヴォルタに電話を入れて、こう言ったという。「ジョン、挑戦は受けたぜ。君のシーンを見て泣けたよ。感謝している。この映画の演技のレベルを君が決めてくれたんだから」 手術を受けてキャスターの顔になったアーチャーは、鏡に写った己の顔を激情の余り叩き割ってしまう。このシーンでケイジは、ウーが思わず涙を流すほど、迫真の演技を見せた。 ジョアン・アレンは、トラヴォルタとケイジが、互いの身体の位置や身振り、声のリズムからパターンまで、完コピし合うのを、間近で目撃。そのクオリティの高さに、舌を巻いたという。 ウーの作品世界にぴったりハマった、トラヴォルタとケイジ。こうしたキャストの力も借りて、仰々しいまでのアクション演出に、家族愛や仁義の世界を塗して放つ、香港時代のウーが完全に帰ってきた。 ・『フェイス/オフ』撮影中のジョン・ウー監督(左)とニコラス・ケイジ。 2時間18分の上映時間の中で、度々壮絶なアクションが繰り広げられる本作だが、そんな中でも印象深いのが、キャスターの顔をしたアーチャーが、脱獄後に潜伏先で、アーチャーの顔のキャスターと対決するシーン。マフィアとFBIを交えた大銃撃戦が展開されるのだが、アーチャーはその場に居合わせた幼い子どもを恐怖から守るために、ヘッドフォンを掛けさせて、名曲「虹の彼方に」を聞かせる。このメロディが、ウー印のスローモーション撮影でのガンファイトを、美しく彩るのである。 この「虹の彼方」は、オリビア・ニュートン=ジョンが歌うヴァージョンだったのだが、映画会社は、楽曲使用料の支払いを拒否。しかしウーは、自腹を切ってまで、断固としてこの曲の使用にこだわった。後に会社側も、そのこだわりの意味を認めて、ウーに楽曲使用料を支払ったという。製作費8,000万㌦であった本作が、2億5,000万㌦近い興収を上げる大ヒットとなったことを考えれば、当たり前と言えるが…。 ウーは93年から2003年まで、ハリウッドで長編劇映画6本をものした。「この10年間のハリウッドのアクション映画をみれば、ウーの影響がいかに大きいかわかる」 これは本作の後にウーを、大ヒットシリーズの第2弾『M:I-2 ミッション:インポッシブル2』(2000)の監督に招いた、トム・クルーズの言である。 ハリウッド製6本の内、ボックスオフィスのTOPを飾ったのは、『ブロークン・アロー』『フェイス/オフ』『M:I-2』の3本。中でも評価と人気が高いのが、本作『フェイス/オフ』である。 ニコラス・ケイジの近作に、自身のキャリアをパロディにしたコメディアクション作品『マッシブ・タレント』(22)があるが、その中で『フェイス/オフ』をネタにした場面も登場する。ケイジも本作が、大のお気に入りというわけだ。 5年ほど前からは、『ゴジラvsコング』(2021)などのアダム・ウィンガード監督によって、続編の企画が進められている。巷間伝わってくる話によると、アーチャーとキャスター、宿敵同士の2人だけの物語ではなく、それぞれの成長した子どもたちを交えた、4人の物語になるという。 昨年=2023年に起きた、「WGA=全米脚本家組合」のストライキの影響もあって、現在は製作に遅れが出ている状態だというが、果して!?ジョン・ウーが監督するわけではないことも含めて、本作のファンとしては、観たいような観たくないような…。■ 『フェイス/オフ』© 1997 Touchstone Pictures. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2024.11.01
バンパイア映画に変革を起こした’80年代ティーン向けホラー・コメディ映画の快作!『ロストボーイ』
スラッシャー映画ブームの真っ只中に登場したバンパイア映画復活の起爆剤 レーガン政権の打ち出した経済政策「レーガノミックス」による景気回復、MTVブームを筆頭とするユース・カルチャーの盛り上がり、さらには大型シネコンを併設したショッピングモールの急速な普及などを背景に、購買力があってトレンドに敏感な10代の若年層をメインターゲットに定めた’80年代のハリウッド映画。おのずとティーン受けを意識したような作品が増えたわけだが、その中でも特に人気があったのは青春映画とSFファンタジー映画、そしてホラー映画である。 ただし、当時のホラー映画で主流だったのはジェイソンやフレディ、マイケル・マイヤーズのような連続殺人鬼が、セックスとドラッグとパーティに明け暮れる今どきの若者たちを次々と殺しまくるスラッシャー映画。別名でボディカウント映画とも呼ばれたそれらの作品は、文字通り死体の数と血みどろゴア描写、さらには適度なエロスが主なセールスポイントで、それゆえ批評家からは「低俗」だの「悪趣味」だのと非難されたわけだが、しかし刺激的な娯楽を求めるティーンたちからは大喝采を受けた。『ハロウィン』(’78)の成功を経て『13日の金曜日』(’80)で火が付いたとされる’80年代のスラッシャー映画ブーム。その一方で、すっかり活躍の場を奪われたのは吸血鬼やフランケンシュタインの怪物、ミイラ男といった古典的なホラー・モンスターたちだ。 唯一の例外は狼男(人狼)であろう。特殊メイクの技術が飛躍的に進化したおかげで、人間から人狼への変身シーンをリアルに描くことが出来るようになったこともあり、『狼男アメリカン』(’81)や『ハウリング』(’82)など、いわば新感覚の人狼映画がちょっとしたブームに。古式ゆかしいゴシック・ムードを極力排し、コンテンポラリーなモダン・ホラーに徹したのも良かったのだろう。それに対し、依然としてクラシカルなイメージが強い吸血鬼やフランケンシュタインの怪物などのモンスターたちは、トニー・スコット監督の『ハンガー』(’83)やフランク・ロッダム監督の『ブライド』(’85)のようなアート映画に登場することはあっても、メインストリームのハリウッド映画からは殆んど姿を消してしまう。 そうした中、ハリウッドにおけるバンパイア映画衰退の風向きを変えたのが、古き良きバンパイア映画へのオマージュを青春コメディとして仕立てた『フライトナイト』(’85)。これが思いがけないサプライズヒットとなったことから、『ワンス・ビトゥン 恋のチューチューバンパイア』(’85)や『ヴァンプ』(’86)などのティーン向けB級バンパイア映画が相次いで登場する。にわかに盛り上がり始めたバンパイア映画の復活。いわばその起爆剤となったのが、850万ドルの低予算に対して全米興行収入3200万ドル超えのスマッシュヒットを記録した『ロストボーイ』(’87)である。 新しく住み始めた町はバンパイアの巣窟だった…!? 舞台はカリフォルニアの架空の町サンタカーラ(ロケ地はリゾートタウンとして有名なサンタクルーズ)。美しい砂浜や遊園地などの賑やかな行楽スポットに恵まれ、地元住民だけでなく大勢の観光客でごった返すサンタカーラだが、しかしなぜかティーンエージャーの行方不明事件も多く発生しており、巷では「殺人の名所」などと呼ばれている。そんな曰く付きの町へアリゾナから引っ越してきたのがエマーソン親子。紆余曲折の末に夫と離婚した母親ルーシー(ダイアン・ウィースト)は、18歳の長男マイケル(ジェイソン・パトリック)とヤンチャ盛りの次男サム(コリー・ハイム)を連れ、変わり者の祖父(バーナード・ヒューズ)がひとりで暮らす実家へと戻って来たのだ。 町で人気のビデオレンタル店で働き口を見つけ、紳士的でおっとりとした独身の店主マックス(エドワード・ハーマン)とお互いに惹かれ合うルーシー。その頃、弟サムを連れてビーチのロック・コンサートへ行ったマイケルは、そこで見かけたセクシーな美少女スター(ジェイミー・ガーツ)に一目惚れするのだが、しかし彼女はカリスマ的な不良デヴィッド(キーファー・サザーランド)をリーダーとするバイカー集団「ロストボーイズ」の一員だった。なんとか彼女に近づくため、デヴィッドとのバイクレース勝負に挑んだマイケル。その根性を気に入ったデヴィッドらは、隠れ家にしている海岸の洞窟へとマイケルを招き入れ、仲間の証として怪しげな赤い酒を飲むよう勧める。血相を変えて止めようとするスター。しかし、不良どもに舐められたくないマイケルはそれをグイッと飲んでしまう。 一方、大のアメコミ・マニアであるサムは、商店街のコミックショップで店番をしている同年代のエドガー(コリー・フェルドマン)とアラン(ジェイミソン・ニューランダー)のフロッグ兄弟と知り合う。ホラーが大の苦手という臆病なサムに、しきりにバンパイア本を勧めて来るフロッグ兄弟。曰く、この町で暮らすのに必要なサバイバル・マニュアルで、裏には緊急時の連絡先も記されているという。訳が分からず唖然とするサムだったが、しかしロストボーイズとつるむようになってから兄マイケルの様子がおかしい。昼夜の逆転したような生活を送るようになり、昼間は日光を嫌ってサングラスをかけている。ある晩、遂に愛犬ナヌークがマイケルに襲いかかり、サムは鏡に映った兄の姿を見て愕然とする。なんと、半透明だったのだ。 鏡に映らないのはバンパイアの証拠である。ロストボーイズの正体は血に飢えたバンパイア軍団で、地元で多発する行方不明事件も彼らの仕業。バンパイアの血を飲んだ者もまたバンパイアになってしまうのだが、マイケルが洞窟で飲まされた怪しげな赤い酒はデヴィッドの血だったのだ。しかし半透明ということは、まだ完全にバンパイアになりきったわけじゃない。いわば半バンパイアである。バンパイア本によれば、親バンパイアを殺せば半バンパイアは助かるらしい。そこで、サムはフロッグ兄弟の協力のもと、兄マイケルを救うため親バンパイアを倒そうとするのだが…? 当初の企画ではファミリー向けのキッズ・ムービーだった! 劇場公開時の映画ファンにとって斬新だったのは、バンパイアがロン毛にレザーコートを羽織った、ロックバンド風のクールな若いイケメン集団(+グルーピー風美女)であること。なにしろ、それまでの映画に出てくるバンパイアって、基本的にはドラキュラ伯爵的な紳士のイメージが強かったですからな。バンパイアが本性を現すとノスフェラトゥ型モンスターに変身するというのは『フライトナイト』と一緒だが、しかし役者のもとの顔を活かした「やり過ぎない特殊メイク」は、バンパイアの人間としての側面を見る者に意識させて秀逸。物語にある種のリアリズムを与えたと言えよう。 さらに、BGMにはINXSやフォーリナーのルー・グラム、エコー&ザ・バニーメンなどトップ・アーティストによる流行りのロックサウンドが満載。なおかつ、お洒落でスタイリッシュなビジュアルはまさしくMTV風である。そのうえ、アクションにユーモアにスプラッターも満載の賑々しさ。当時のティーンたちが熱狂したのも当然と言えば当然である。本作が後の『バッフィ/ザ・バンパイア・キラー』(’92)やそのテレビ版『バフィー~恋する十字架』(‘97~’03)、『フロム・ダスク・ティル・ドーン』(’96)に『ヴァンパイア/最後の聖戦』(’98)など、様々なバンパイア映画に少なからぬ影響を与えたことは明白。それこそ、サイレントの時代から長い歴史を誇るバンパイア映画の伝統に、新たな変革を起こした作品と呼んでも差し支えないかもしれない。 監督は『依頼人』(’94)や『バットマン フォーエヴァー』(’95)、『評決のとき』(’96)などでお馴染みの名娯楽職人ジョエル・シューマカー。当時は’80年代青春映画の金字塔『セント・エルモス・ファイアー』(’85)を大ヒットさせたばかりだった。実はもともとリチャード・ドナーが監督する予定だった本作だが、しかしゴーサインが出たタイミングで既に『リーサル・ウェポン』(’87)に取り掛かっていたことから、ドナー夫人ローレン・シュラーが過去にプロデュースしたテレビ映画で組んだシューマカー監督を推薦。当時のワーナー社長マーク・キャントンから直接オファーを受けたシューマカー監督だが、しかし最初はあまり気が進まなかったという。というのも、ジャニス・フィッシャーとジェームズ・ジェレミアスの書いたオリジナル脚本はファミリー向けのキッズ・ムービーだったらしい。 オリジナル脚本の主人公たちは13歳~14歳の子供ばかり。さながらドナー監督の手掛けた『グーニーズ』(’85)のバンパイア版という感じで、小さなお子様が見ても安心の健全な内容だったという。全く興味の湧かなかったシューマカー監督は、オファーを断るためエージェントに電話をかけたのだが、生憎ちょうどランチタイムで担当者は不在。仕方ないのでジョギングに出かけたところ、走りながら頭の中に様々なアイディアが湧いてきたという。登場人物たちの年齢は変えてしまえばいい。もっとセクシーでクールで刺激的な要素を盛り込んだら全然面白くなるはず。そんな風に考えているうち、すっかりやる気が出てきたのだそうだ。 『デッドゾーン』(’83)や『インナースペース』(’87)でジャンル系映画に実績のあるジェフリー・ボームに脚本のリライトを指示したシューマカー監督は、デザインのベースとなるロストボーイズのロックスターみたいな髪型やファッションのイメージ原案も自ら手掛けたという。さすがは衣装デザイナー出身である。若者の最新トレンドに敏感だったことは、本作だけでなく『セント・エルモス・ファイアー』を見ても分かるだろう。しかも、恐怖とユーモアのバランス感覚がまた絶妙。本編を見たワーナー幹部からは「ホラーなのかコメディなのか、どちらかハッキリさせろ」と、暗に再編集を要求するようなクレームが入ったそうだが、あえて無視して従わなかったのは大正解だ。 2人のコリーを筆頭に旬の若手スターたちが勢ぞろい また、メインキャストに当時の新進若手スターをズラリと揃えたのも良かった。中でも、『ルーカスの初恋メモリー』(’86)で全米のティーン女子のハートを鷲摑みにし、えくぼのキュートなアイドル俳優として大ブレイクしたばかりのコリー・ハイムは、ヤンチャで憎めない弟キャラのサム役にドンピシャ。軽妙洒脱な芝居のなんと上手いことか。コメディアンとしてのセンスは抜群。「兄ちゃんはバンパイアだ!ママに言いつけてやる!」は抱腹絶倒必至である。そんなサムを助けてバンパイア退治に大活躍するフロッグ兄弟には、『グレムリン』(’84)に『グーニーズ』、『スタンド・バイ・ミー』(’86)などで超売れっ子だったコリー・フェルドマンと、当時まだ無名の新人だったジェイミソン・ニューランダー。ことにフェルドマンとハイムの相性は抜群で、本作をきっかけに『運転免許証』(’88)や『ドリーム・ドリーム』(’89)など数多くの映画でダブル主演。ファーストネームが同じであることから「The Two Coreys」の愛称で親しまれ、私生活でも’10年にハイムが38歳の若さで急逝するまで生涯の大親友となった。 サムの兄貴マイケル役のジェイソン・パトリックは、キアヌ・リーヴスの後継者として『スピード2』(’97)に主演したことで知られているが、当時はティーン向けSF映画『太陽の7人』(’86)に主演して注目されたばかり。エージェントの勧めでオーディション初日に参加したというパトリックだが、しかし本人はB級ホラー映画に抵抗があって出演を渋ったらしく、シューマカー監督が6週間かけて口説き落としたという。『太陽の7人』といえば、ロストボーイズの紅一点スター役のジェイミー・ガーツも同作に出演しており、キャスティングの難航していたスター役にパトリックが推薦したのだそうだ。ロストボーイズのリーダーであるデヴィッド役のキーファー・サザーランドも、確か当時は『スタンド・バイ・ミー』の不良役で注目されたばかりでしたな。その子分のひとりで黒髪のドウェインを演じているビリー・ワースは、「セブンティーン」や「GQ」などの雑誌で引っ張りだこだった人気ファッション・モデル。『ビルとテッドの大冒険』(’89)シリーズでブレイクするアレックス・ウィンターが、最初に退治される吸血鬼マルコを演じているのも要注目だ。 そのほか、前年の『ハンナとその姉妹』(’86)でアカデミー助演女優賞を獲ったばかりだったダイアン・ウィースト、『アニー』(’82)のルーズベルト大統領など歴史上の人物を演じることが多かったエドワード・ハーマン、テレビのシットコム『ブロッサム』(‘91~’95)のお祖父ちゃん役で親しまれたバーナード・ヒューズなどのベテラン名優も脇を固めているが、やはり当時旬のティーン・スターたちの起用がヒットに繋がったであろうことは想像に難くないだろう。 なお、劇場公開の直後から続編を期待する声があり、実際にシューマカー監督は主要キャストを全員女性に変えた『The Lost Girls』というタイトルの続編を企画していたそうだが実現せず。ところが、21世紀に入って待望のシリーズ第2弾『ロストボーイ:ニューブラッド』(’08)がDVDスルー作品としてお目見えする。メインキャストは若手に刷新されているが、脇にはコリー・フェルドマン演じるエドガー・フロッグが登場し、エンディングにはサム役でコリー・ハイムもカメオ出演していた。さらに、第3弾『ロストボーイ サースト 欲望』(’10)もDVDリリース。今度はエドガーとアランのフロッグ兄弟が主役で、エドガー役のフェルドマンに加えてアラン役のジェイミソン・ニューランダーも復活。サム役でコリー・ハイムも参加予定だったがスケジュールの都合で出られず、本人は4作目があれば出演したいと言っていたみたいだが、残念ながら3作目がリリースされる7カ月前に病死してしまった。■ 『ロストボーイ』© 1987 Warner Bros. Entertainment Inc. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2024.10.07
ニューマン&レッドフォード+ジョージ・ロイ・ヒル!名トリオが放った、これぞ“ニューシネマ”!!『明日に向って撃て!』
“アメリカン・ニューシネマ“の時代。1960年代後半から70年代に掛けて、反体制的・反権力的な若者たちや数多のアウトローが、アメリカ映画のスクリーンに躍った。 そんな中で、屈指の人気キャラクターに数えられるのが、ブッチ・キャシディとサンダンス・キッド。 “ニューシネマ”第1弾の作品が、主役の犯罪者カップルの名前を取った「ボニーとクライド」という原題だったのを、『俺たちに明日はない』(67)という邦題にして、当たりを取ったのに倣ったのであろう。1969年製作の「ブッチ・キャシディとサンダンス・キッド」は、『明日に向って撃て!』というタイトルで、翌70年に日本公開となった。 ***** 1890年代のアメリカ西部。「壁の穴」強盗団のリーダーで頭が切れるブッチ・キャシディと、その相棒で名うての早撃ちサンダンス・キッドは、絶対的な信頼で結ばれていた。 ある時強盗団は、同じ列車の往路と復路を続けて襲うという大胆な計画を実行。往路は見事に成功し、2人は馴染みの娼館でくつろぐ。 サンダンスは一足早く抜け、恋人の女教師エッタ・プレイスの元へ。翌朝合流したブッチは、新時代の乗り物と喧伝される自転車をエッタと相乗りし、安らぎの一時を過ごす。 強盗団は予定通り、復路の列車強盗も敢行。しかし鉄道会社が雇った凄腕の追っ手に、仲間の何人かは射殺され、ブッチとサンダンスも、執拗な追跡を受ける。 命からがら、エッタの元に帰還。これを機に、ブッチが以前から口にしていた新天地に、3人で向かうことにする。 ニューヨークでの遊興を経て、夢に見た南米ボリビアに到着。しかしそこはまるで想像と違った、貧しい国だった。 今度はエッタの協力も得ながら、銀行強盗を重ねる。しかしこの地でも追っ手の影を感じたブッチとサンダンスは、足を洗うことに。そして、錫鉱山の給料運搬の警護を行う。 ところがその最中、山賊団が襲撃。ブッチは生まれて初めて、人を殺してしまう。 行く先に暗雲が垂れ込める中、「2人が死ぬところだけは見ない」と、かねてから言っていったエッタは、ひとりアメリカへ帰国。 ブッチとサンダンスは、再び強盗稼業に舞い戻る。しかし仕事後、ある村で休息していたところを、警官隊に包囲されてしまう。 応戦しながらも手傷を負い、追い詰められていく、ブッチとサンダンスだったが…。 ***** 脚本のウィリアム・ゴールドマンは、8年掛けて、ブッチ・キャシティとサンダンス・キッドという、実在した2人の伝説的アウトローについてリサーチ。彼らの生涯を扱った脚本を書き上げた。 軽妙なタッチで笑えるシーンも多々ありながら、そこで描かれるのは、かつてはジョン・ウェインのようなヒーローが闊歩した、西部の荒野は、今はもう存在しない。ブッチやサンダンスのような、時代遅れのアウトローたちは、ただただ滅んでいくという世界だった。 ゴールドマンが執筆時に想定していたキャストは、ブッチ・キャシディはジャック・レモン、サンダンス・キッドにはポール・ニューマン。そして実際に、ニューマンが映画化に向けて動き出すこととなる。 脚本に付いた値段は、当時としては最高値の40万㌦。ニューマンの記憶によると、当初は彼とスティーヴ・マックィーンが、この脚本料を折半して、2人の本格的な共演作として、取り組む予定だったという。 マックィーンは脚本を気に入りながらも、このプロジェクトから退いた。その理由は、ライバルであるニューマンとのクレジット順、即ち主演としてどちらの名前を先に出すかや、ブッチとサンダンスどちらの役を演じるかで軋轢があった等々、諸説あるが、はっきりとしたことは、今となってはわからない。 結局ポール・ニューマンのプロダクションが、20世紀フォックスと組んで、本作『明日に向って撃て!』の映画化を進めることとなった。 監督候補として、これまでにニューマンと組んで成果を上げた者たち、マーティン・リット、スチュアート・ローゼンバーグ、ロバート・ワイズらの名が挙がった。しかしそれぞれオファーに対して、芳しい返事はもらえなかった。 ニューマンとプロダクションを共同経営するジョン・フォアマンが推薦したのが、ジョージ・ロイ・ヒルだった。ロイ・ヒルは映画監督としては、61年にデビュー。これまでに、『マリアンの友だち』(64)『モダン・ミリー』(66)等のコメディやミュージカルを手がけ、その現代的な感覚が評価されていた。 監督に正式に決まったロイ・ヒルが、ニューマンと打合せをすると、どこか話が噛み合わない。ニューマンが自分が演じるのは、サンダンス・キッドと思い込んでいたのに対し、ロイ・ヒルは、ブッチ役こそニューマンにふさわしいと考えていたからだった。 はじめはロイ・ヒルの提案に、ニューマンは首を縦に振らなかった。ブッチ役には喜劇的要素が必要だが、自分にはその素養は無いと、考えていたのである。 それに対しロイ・ヒルは、コメディ・タッチなのは設定であって、役そのものではないと、説得。それを受けたニューマンは、脚本を読み直し、ブッチ役を演じることを受け入れた。 ニューマンの相棒の候補となったのは、マーロン・ブランドやウォーレン・ベイティ。マックィーンの名が挙がったのも、実はこの段階になってからだったという説もある。 ロイ・ヒルは、ブランドやマックィーンのような、わがままなトラブルメーカーと組むのはまっぴら御免だった。そんな彼が強く推したのが、ロバート・レッドフォード。 その頃のレッドフォードは、30代はじめ。主演作こそあったが、大きなヒットはなく、ブランドやベイティ、マックィーンとは比べるべくもない。まだスターとは呼べない、ただの二枚目俳優だった。 ロイ・ヒルは、過去作のオーディションでレッドフォードと邂逅。その後も彼が舞台に立つ姿を見て、印象が良かったのである。 このオファーに関して、ロイ・ヒルとレッドフォードは、改めて面会。その時の印象についてレッドフォードは、「どっちもドス黒いアイリッシュの血を引いていて、お互いに腹の中が読めた」と語っている ニューマンはレッドフォードにまだ会ったことがなく、特に彼を推す理由もなかった。一方で、最初にサンダンス役にレッドフォードをと言い出したのは、妻のジョアン・ウッドワードだったなどとも、後年言っている。 この辺も何が真実だか、曖昧模糊とした話だが、とにかくロイ・ヒルは、レッドフォードにこだわった。20世紀フォックスの製作部長だったリチャード・ザナックから、レッドフォードを起用するぐらいならば、「この企画を流す」と宣告までされたが、最終的にはニューマンや脚本のゴールドマンまで味方につけて、粘り勝ちを収めた。 レッドフォードは、ロイ・ヒルを信じて、しばらくの間は他の仕事を入れずに待っていた。そして、生涯の当たり役を摑むことになった。 エッタ・プレイス役には、ジャクリーン・ビセットやナタリー・ウッドも候補に挙がったが、『卒業』(67)で注目の存在となっていた、キャサリン・ロスが決まる。その後目覚ましい活躍をしたとは言い難いロスだが、『卒業』『明日に向って撃て!』という、“アメリカン・ニューシネマ”初期の代表的な2本で、忘れがたいヒロインを演じた女優として、日本でも長く人気を集めた。 因みにニューマンは、エッタの存在については、「たいして重要ではない」と発言したことがある。彼曰く本作は、「これはじつは、二人の男の恋愛を描いたもの」だからである。 しかしそこが強調されてしまうと、当時はまだまだ観客の耐性がなく、居心地の悪い思いをさせてしまうことになる。そこでロイ・ヒルは、ブッチ、サンダンス、エッタの3者を、三角関係のように描くことにした。本作の中で最もロマンティックなのが、サンダンスの恋人であるエッタとブッチの自転車二人乗りのシーンであるのは、実はこうした流れに沿ってのことと思われる。 本作は、メキシコ、ユタ、コロラド、ニュー・メキシコでロケを行った後、ロサンゼルスのスタジオで撮影が続いた。その間にはっきりとしたのは、12歳の差がある、ニューマンとレッドフォードの、共通点と相違点。 共にアウトドア派で、政治的にはリベラル。そして、ハリウッドの金儲け主義を嫌悪していた。 メキシコロケの際は、現地の水で体調を崩したくないというのを表向きの理由にして、2人ともビールなどアルコール類しか口にしなかった。そんなこともあってか、打ち解けるのが早かったという。 一方で、演技のスタイルは正反対。ロイ・ヒル曰く、「ニューマンは撮影する場面を徹底的に、頭の中で分析する。その間、レッドフォードはただそこに立って、しかめっ面をしている…」 レッドフォードは、リハーサルをすると、無理のない自然さが失われてしまうと考えていた。しかし本作に関しては、「ニューマンがやりたがっていたから」という理由で、リハーサルに臨んだ。 アクターズ・スタジオなどで学んだ、メソッド俳優であるニューマンは、準備が出来ていても、とことん話し合って、納得がいくまでは撮影に入るのを嫌がった。それに対しレッドフォードは、必要もないのにグズグズしているのを見ると、イライラ。 現場では折々、ニューマンとレッドフォードの意見の衝突が起こった。2人ともエキサイトはすれども、決して険悪にはならず、ロイ・ヒルはそれを、スポーツ観戦のように楽しんだという。 ニューマンとロイ・ヒルは、時間にはうるさい人間だった。それに対して、レッドフォードは遅刻魔。ニューマンは、レッドフォードの利き腕が左手なのに引っ掛けて、本作のタイトルを、『レフティ(左利き)を待ちながら』に変えたいと思ったほどだと、ジョークを飛ばしている。そしてわざわざ、「約束の時間を守るのが礼儀の基本」という格言を縫い込んだレースを、レッドフォードにプレゼントしている。 ニューマンは、本作及びブッチとサンダンスのキャラクターについて後年、「嬉しい想い出。二人とも映画の中でいつまでも活躍してほしい好漢だった」と語っている。そんなことからもわかるように、笑い声が絶えない撮影現場だったという。 撮影初日に、ニューマンはレッドフォードに、こんな風に声を掛けた。「四千万ドルの興収を上げる映画に初めて出演する気分はどうだい?」 レッドフォードは内心、「自信過剰だ」と思ったというが、本作が69年9月に公開されると、ヴィンセント・キャンビー、ポーリン・ケイル、ロジャー・エバートといった、著名な映画評論家たちにディスられながらも、爆発的な大ヒットとなった。興収は4,000万㌦どころではなく、1億200万㌦まで伸びた。 アカデミー賞では、作品賞、監督賞など7部門にノミネート。その内、脚本、主題歌、音楽、撮影の4部門で受賞となった。 その直後から、ニューマンとレッドフォード、再びの顔合わせを望む声は、引きも切らなかった。71年にはニューヨーク市警に蔓延する汚職を告発した刑事の実話の映画化『セルピコ』で、レッドフォードが主役の刑事役、ニューマンが同僚の警官役で再共演という話が持ち上がった。 こちらの話は流れて、73年にシドニー・ルメット監督、アル・パチーノ主演で実現したが、その同じ年にニューマン&レッドフォードに加えて、ジョージ・ロイ・ヒル監督というトリオが、復活!その作品、1930年代を舞台に、詐欺師たちの復讐劇を描いたクライム・コメディ『スティング』は、『明日に向って撃て!』を超える大ヒットとなった上、アカデミー賞でも10部門にノミネート。作品賞、監督賞など7部門を獲得する、大勝利を収めた。 その後も度々、ニューマン&レッドフォード&ロイ・ヒルのトリオ、或いはニューマン&レッドフォードのコンビによる作品製作が模索されたが、ロイ・ヒルが2002年に80歳で亡くなり、ニューマンも07年に83歳で逝去したため、遂に実現には至らなかった。 80代を迎えたレッドフォードも18年に、『さらば愛しきアウトロー』を最後の出演作に、俳優業を引退。 いま改めて振り返れば、本作『明日に向って撃て!』で、60年代アメリカ映画を代表する二枚目俳優、ポール・ニューマンの薫陶を受け、レッドフォードは、一挙にスターダムにのし上がった。その後70年代ハリウッドを代表する大スターへと成長していったのは、多くの方がご存じの通りである。 彼はサンダンス・キッド役のギャラで、ユタ州のコロラド山中に土地を購入して、サンダンスと命名。その地に「サンダンス・インスティチュート」を設立して、若手映画人の育成を目的とする、「サンダンス映画祭」の生みの親となった。 そうした事々を考えると、『明日に向って撃て!』は、“アメリカン・ニューシネマ”の名作という位置付け以上に、映画史に残した影響が、非常に大きな作品なのである。■ 『明日に向って撃て!』© 1969 Twentieth Century Fox Film Corporation and Campanile Productions, Inc. Renewed 1997 Twentieth Century Fox Film Corporation and Columbia Pictures Industries, Inc. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2024.10.07
MCU版『スパイダーマン』シリーズが世界中で愛される理由とは?
実写版マーベル作品と実写版スパイダーマンの歩み 今やハリウッド業界を代表する巨大フランチャイズと化したマーベル・シネマティック・ユニバース(以下MCU)。その第1弾はジョン・ファヴロー監督、ロバート・ダウニー・ジュニア主演の『アイアンマン』(’08)だったわけだが、しかしそれ以前のMCUなどまだ存在しない時代から現在に至るまで、数多くのマーベル・コミック・ヒーローたちが映画やテレビで実写化されてきた。その中でも最も実写化に成功したキャラクターと呼ばれるのがスパイダーマンである。 もともとライバルのDCコミックに比べて、自社コミックの実写化にあまり積極的ではなかったマーベル。最古の実写化作品と言われるのは、全15話の連続活劇映画(=シリアル映画)として作られた『Captain America』(’44)である。それっきりマーベルの実写化は暫く途絶えてしまうのだが、やはりDCコミックの『バットマン』(‘66~’68)や『ワンダーウーマン』(‘75~’79)といったTVシリーズのヒットや、世界中で空前のブームとなった映画『スーパーマン』(’78)シリーズの大成功を意識してなのか、マーベルも’70年代半ばよりテレビ向け実写ヒーロー物の製作へ本格的に乗り出す。その最初期の番組が、原作「スパイダーマン」では高校生だった主人公ピーター・パーカーを大学生に設定し直したテレビ版『The Amazing Spider-man』(‘77~’79・日本未公開)だ。 日本では1時間半のパイロット版が映画『スパイダーマン』(’77)として劇場公開された同番組のヒットを契機に、マーベルは日本でも人気を集めたテレビ・シリーズ『超人ハルク』(‘77~’82)、テレビ映画版『Dr. Strange』(’78・日本未公開)に『爆走ライダー!超人キャプテン・アメリカ』(‘79・日本未公開)などのテレビ向け実写ヒーロー物を相次いで製作。ここ日本でも東映がマーベルとライセンス契約を結び、日本独自のキャラクターと物語を設定した特撮ヒーロー番組『スパイダーマン』(’78)が作られている。 その後、チャック・ノリスやチャールズ・ブロンソンのB級アクションを中心に一時代を築いた映画会社キャノン・フィルムズが、’85年に「スパイダーマン」の映画化権を獲得して実写化に乗り出すも、しかしイスラエル出身でアメコミに馴染みの薄い社長メナハム・ゴーランとヨーラム・グローバスがスパイダーマンのコンセプトを誤解していたこともあって製作は難航。そうこうしているうちに、キャノンが社運を賭けた超大作『スーパーマンⅣ/最強の敵』(’87)が興行的に大惨敗。おのずと実写版「スパイダーマン」の企画も暗礁に乗り上げてしまう。 そのうえ、DCコミックの『バットマン』(’89)シリーズやダーク・ホース・コミックの『マスク』(’94)シリーズが大成功を収める一方、マーベル・コミックの実写化はメナハム・ゴーラン製作の『キャプテン・アメリカ 卍帝国の野望』(’90)がビデオ・スルー扱いになったり、ロジャー・コーマン製作の『The Fantastic Four』(’94)がお蔵入りになったりと不運続き。しかし『ブレイド』(’98)と『X-メン』(’00)の相次ぐ大ヒットによって、徐々に風向きが変わってくる。 そうした中、’99年にソニー傘下のコロンビア・ピクチャーズが「スパイダーマン」の映像化権(実写とアニメを含む)を獲得。少年時代から原作コミックの大ファンだったというサム・ライミがメガホンを取り、トビー・マグワイアがピーター・パーカーを演じた映画『スパイダーマン』トリロジー(‘02~’07)が誕生したのである。CGの進化によってスパイダー・アクションをリアルに映像化できるようなったこともあり、サム・ライミ版トリロジーは世界中で空前の大ヒットを記録。『X-MEN』シリーズと並んでアメコミ・ヒーロー映画人気の立役者となり、さらにはMCU誕生の下地を作ったとも言えよう。 しかし、ライミ監督とソニーの対立が原因で予定されていた4作目が製作中止に。それに伴ってシリーズのリブートが決定し、監督もキャストも変えて作り直した新シリーズが生まれる。それが、当時『ソーシャル・ネットワーク』(’10)で頭角を現していた注目の若手アンドリュー・ガーフィールドをピーター・パーカー役に抜擢した、マーク・ウェブ監督の『アメイジング・スパイダーマン』(’12)だ。ところが、今度はソニーとマーベルが’15年に新たな契約を結び、マーベルとディズニーが展開するMCUへスパイダーマンを組み込むことが決まったため、結果的にマーク・ウェブ版は2作目で終了。まずはトム・ホランド演じる新生ピーター・パーカー/スパイダーマンを『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』(’16)で初登場させたうえで、『スパイダーマン:ホームカミング』(’17)に始まるMCU版『スパイダーマン』シリーズが本格始動したというわけだ。 MCU版『スパイダーマン』の流れを総まとめ! まずはMCU版『スパイダーマン』シリーズの流れをザックリと紐解いてみよう。 先述した通り初登場は『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』。同作ではバッキーが容疑者となったテロ事件を巡って、キャプテン・アメリカことスティーヴ・ロジャース(クリス・エバンス)とアイアンマンことトニー・スターク(ロバート・ダウニー・ジュニア)が真っ向から対立。アベンジャーズが内部分裂したため、新たなメンバー候補を探したトニーは、ニューヨークで自警活動に勤しむ様子がSNSで話題の覆面ヒーロー、スパイダーマンに注目し、その正体である15歳の高校生ピーター・パーカー(トム・ホランド)をスカウトする。この時点では、クモに噛まれたせいで特殊能力を得たこと、若くて美人なメイおばさん(マリサ・トメイ)と2人暮らしであること以外に詳しい情報はなし。憧れのアベンジャーズに入れるかもしれないということで張り切ったピーターは、トニーからプレゼントされたハイテク・スーツに身を包んで、アベンジャーズ同士の空港での対決に参戦。しかし、それが終わると普通の生活へ戻るように言われて自宅へ帰される。 その直後から始まるのが第1弾『スパイダーマン:ホームカミング』だ。トニーに認めてもらいたい、アベンジャーズの一員になりたいと、放課後の部活も放り出してスパイダーマン活動に奔走するピーターだが、しかし治安の良い現代のニューヨークでは派手な活躍の場もなし。そんなある日、奇妙なハイテク武器を使ったATM強盗に遭遇したピーターは、その武器の出所を探っていったところ、盗んだ地球外物質を元手に開発した違法な武器を闇で売り捌く秘密組織の存在を知る。組織のボスは巨大な翼を持つハイテク・スーツに身を包んだ悪党バルチャー(マイケル・キートン)。その正体は残骸回収業者のエイドリアン・トゥームス(マイケル・キートン)だ。かつてアベンジャーズが戦った後の残骸回収事業を請け負っていたトゥームスだが、しかしその事業をトニー・スタークと政府の合弁会社に横取りされたことから、家族や仲間を養うため違法ビジネスに手を染めていたのである。自分をスパイダーマンだと知る親友ネッド(ジェイコブ・バタロン)と共にバルチャーの悪事を阻止せんとするピーター。しかし、未熟ゆえ他人を危険に巻き込んだことからトニーにハイテク・スーツを取り上げられ、さらにはトゥームスが片想い相手の美少女リズ(ローラ・ハリアー)の父親だと知って途方に暮れる…。 続いてスパイダーマンが登場したのはアベンジャーズ・シリーズの『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』(’18)と『アベンジャーズ/エンドゲーム』(’19)。トニーとドクター・ストレンジ(ベネディクト・カンバーバッチ)を助けて活躍したピーターは、晴れてアベンジャーズの一員となってサノス(ジョシュ・ブローリン)との決戦へ臨むのだが、しかし全てのインフィニティ・ストーンを手に入れたサノスのスナップ(指パッチン)によって全宇宙の半分の生命体が消滅。ピーターや親友ネッドなども塵となって消えてしまう。しかしそれから5年後、残りのアベンジャーズたちの活躍で「指パッチン」がリバースされ、ピーターを含む何十億という人々が復活。その代わりにトニーが命を落としてしまった。 この悲劇を受けて始まるのが『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』(’19)。恩師トニーを失った悲しみを胸に秘めつつ、平和な日常生活を存分に満喫するピーター。その一方で、アベンジャーズの統率役ニック・フューリー(サミュエル・L・ジャクソン)からの呼び出しを無視し続けている。何故なら、ヒーローの任務よりも青春を謳歌したいから。学校の企画で2週間のヨーロッパ研修旅行へ参加することになったピーターは、片想い中の同級生MJ(ゼンデイヤ)にパリでロマンチックな告白をしようと計画していた。ところが、最初の訪問先ヴェネチアで人型のウォーター・モンスターが出現。すると、どこからともなく現れた謎のヒーロー、ミステリオ(ジェイク・ギレンホール)がモンスターを倒す。予てより、アイアンマンの跡を継ぐのは荷が重いと感じていたピーターは、マルチバースの地球から今の地球を救うために来たというミステリオこそアイアンマンの後継者に相応しいと考え、トニーから受け取った人工知能メガネを譲り渡す。ところが、このミステリオの正体は、かつてトニーに解雇されたスターク社の社員。同じようにトニーに恨みを持つ仲間を集めて、ミステリオなるスーパーヒーローの虚像を作り上げていただけだった。騙されていたことに気付いたピーターは、親友ネッドと同じく自分の素性を知ったMJも仲間に加えて、派手な英雄伝説を作るため自作自演のテロ行為を重ねていくミステリオ一味を阻止しようとするのだが…? そして、実写版「スパイダーマン」映画史上最大のヒットを記録した傑作『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(’22)。前作のクライマックスでマスコミに正体をバラされたうえ、ドローン攻撃を仕掛けてミステリオを殺した犯人という濡れ衣を着せられたスパイダーマン。殺人に飢えた不良高校生、正義を騙るヴィランと罵られたピーターは、証拠不十分のため辛うじて起訴は免れたものの、しかし自分ばかりかメイ叔母さんや親友ネッド、恋人MJまでもが誹謗中傷に晒されたことに胸を痛める。そこで彼はドクター・ストレンジに相談。忘却の魔術「カフカルの魔法陣」を用いて、スパイダーマンの正体を知る全ての人々の記憶を消し去ろうとするのだが、しかし優柔不断なピーターが「やっぱりMJは例外にして」「あとネッドも!」「そうだ、メイおばさんも!」と繰り返し邪魔するためドクター・ストレンジの魔術が失敗。それどころか、マルチバースのあらゆる世界からスパイダーマンの正体を知る人々を集めてしまい、サム・ライミ版シリーズのグリーン・ゴブリン(ウィレム・デフォー)やドクター・オクトパス(アルフレッド・モリーナ)、マーク・ウェブ版シリーズのエレクトロ(ジェイミー・フォックス)などのヴィランが次々と現れる…! トム・ホランドこそMCU版『スパイダーマン』成功のカギ! 同じ世界観をクロスオーバーする『アベンジャーズ』シリーズとの相乗効果もあってか、興行的にも批評的にもサム・ライミ版やマーク・ウェブ版を凌ぐほどの大成功を収めたMCU版『スパイダーマン』シリーズ。実は筆者も、このMCU版シリーズが実写版「スパイダーマン」映画の中で一番好きだったりする。もちろん、サム・ライミ版の偉大さは認めざるを得ないし、マーク・ウェブ版も十分に健闘していたと思うが、しかしこのMCU版シリーズには過去のスパイダーマン映画にはない独特の魅力がある。そのひとつが、明るくて爽やかで楽しい青春ドラマという基本路線を打ち出したジョン・ワッツ監督の明朗快活な演出だ。 ・『~:ノー・ウェイ・ホーム』演出中のジョン・ワッツ監督(左から2番目)と主要キャスト 例えば、従来のスパイダーマン映画におけるピーター・パーカーは、学校でも居場所のないいじめられっ子で友達も少なく、そのうえ自らの浅はかな行動のせいで父親代わりのベンおじさんを死なせてしまうなどの深いトラウマを抱えており、なるほど確かに根は純粋で素直で正義感溢れる若者だが、しかし同時に陰キャや非モテを拗らせたような暗い部分もあって、それゆえ「大いなる力には大いなる責任が伴う」というヒーローとしての宿命的な葛藤に思い悩む。要するに、キラキラとした青春の眩しさや瑞々しさばかりではなく、そのダークサイドにも焦点が当てられていたわけだ。 一方のMCU版シリーズに目を移すと、少なくとも主人公ピーターの日常にはそうした暗くて重い要素は殆どない。なるほど確かに、こちらのピーターも科学オタクのギークで決して学園の人気者とは言えないが、しかしかといっていじめられっ子というわけではないし、親友ネッドだけでなく趣味を同じくするギーク仲間たちにも恵まれている。ピーターにばかり意地悪するフラッシュといういじめっ子もいるにはいるが、しかしこのフラッシュも実のところスクールカーストではピーターと同じギーク仲間だし、そもそも彼に同調してピーターを苛めるヤツもいない。また、ベンおじさんにまつわるエピソードもMCU版シリーズでは描かれず、そもそもベンおじさんが存在したのかどうかも定かではない。むしろ、『ノー・ウェイ・ホーム』でメイおばさんがベンおじさんの役割を兼ね、ピーターの人間的な成長を後押しすることになる。 こうした大幅な設定変更もあって、MCU版シリーズにおけるピーターの青春模様は、少なくとも最大の困難に直面する『ノー・ウェイ・ホーム』までは底抜けに明るい。ピーターも天真爛漫で正直で真っすぐで、思い立ったら吉日の猪突猛進!単細胞なので迷う前に行動へ移してしまう。そのうえ、お喋りでおっちょこちょいなヤンチャ坊主。そうかと思えば、恋愛には意外と不器用なシャイボーイだったりする。良い意味で世間も苦労も疑うことも知らない純朴な15歳の子供である。しかも、とにかくヒーローとして活躍するのが楽しくて仕方ない。1日も早くアベンジャーズの仲間に入りたい!ということで、トニー・スタークに認めてもらうべく必死に自己アピールする健気な姿は、まるでご主人様の注意を惹こうとする子犬の如き可愛らしさだ。 そんなピーターと対峙するのが、理不尽な目に遭って辛酸を舐めてきたせいで心を病み、怒りや憎しみに目がくらんでしまったヴィランの大人たちだ。彼らは人生経験をもとに世界を冷酷非情で不公平なものだと考えており、それが自らの悪事を正当化する言い訳ともなっているのだが、しかし人生経験が浅いからこそ汚れのない真っ直ぐな眼で世界を見ているピーターにその理屈は通用せず、結果的にはスパイダーマンの少年らしい理想論的な正義こそが世界を混沌から救うことになる。この斜に構えたところのないヒーロー像も大きな共感ポイントと言えよう。ワッツ監督は『キャント・バイ・ミー・ラブ』(’87)や『セイ・エニシング』(’89)などのキュートな’80年代青春コメディをドラマ・パートのお手本にしたそうだが、そうか、トム・ホランドがどことなく青春映画アイドル時代のパトリック・デンプシーと似ているのはそのためか(?)。 で、このトム・ホランドをピーター・パーカー役に起用したことの功績もかなり大きいと言えよう。サム・ライミ版のトビー・マグワイアは1作目の時に27歳、マーク・ウェブ版のアンドリュー・ガーフィールドは29歳だったのに対し、MCU版のトム・ホランドは『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』の時点で20歳。ピーター・パーカーの年齢設定に最も近い。しかも、その童顔といい高い声といい、まさにティーンの少年そのもの。明るくて元気で愛くるしい個性もピーターを演じるにピッタリだ。これほどのハマリ役もそうそうあるまい。オーディションによって7500人の中から選ばれたそうだが、恐らくトム・ホランドなくしてMCU版『スパイダーマン』シリーズの成功はなかったろうと思う。まさにキャスティングの勝利だ。 もちろん、その他にもMCUの世界観をシェアするヒーローたちとの関わりや、過去シリーズではピーターのお手製だったスパイダーマンスーツのハイテク化など、MCU版シリーズが愛される理由は枚挙に暇ないだろう。青春ドラマ的なワクワク感を前面に出した『スパイダーマン:ホームカミング』、ヨーロッパへ飛び出してアクションもロマンスもスケールアップした『スパイダーマン・ファー・フロム・ホーム』、そして思いがけず切なくて感動的なクライマックスを迎えるスパイダーマン映画の集大成的な『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』と、いずれ劣らぬ完成度の高さ。10月のザ・シネマではその3作品が一挙放送される。是非とも、MCU版「スパイダーマン」だからこその面白さを存分に堪能していただきたい。■ 「スパイダーマン:ホームカミング」(C) 2017 Columbia Pictures Industries, Inc. and LSC Film Corporation. All Rights Reserved.|MARVEL and all related character names: (C) & TM 2024 MARVEL 「スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム」(C) 2019 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.|MARVEL and all related character names: (C) & TM 2024 MARVEL 「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」(C) 2021 Columbia Pictures Industries, Inc. and Marvel Characters, Inc. All Rights Reserved.|MARVEL and all related character names: (C) & TM 2024 MARVEL
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COLUMN/コラム2024.10.02
世界的ポップスターと数学教師の格差婚から、働く女性の理想の恋愛と結婚を考察する正統派ロマンティック・コメディ『マリー・ミー』
住む世界も価値観も正反対な男女の結婚の行方とは…? 女優・歌手・ダンサーと三つの顔を併せ持ち、今や映画界でも音楽界でも不動の地位を築いたハリウッドの女王ジェニファー・ロペス(aka J. Lo)が、自身を彷彿とさせる世界的な歌姫を演じたロマンティック・コメディである。 主人公は長いキャリアと世界的な人気を誇る音楽界のスーパースター、キャット・ヴァルデス(ジェニファー・ロペス)。年下の若いグラミー賞歌手バスティアン(マルーマ)とのデュエット曲「マリー・ミー」が目下大ヒット中の彼女は、プライベートでもバスティアンと交際して世間の注目を集めており、いよいよニューヨーク公演のステージで彼との結婚を発表することとなる。もちろん、この現代の御伽噺のようなビッグネーム同士の結婚に世間は話題騒然。コンサートはウェブでもライブ中継され、会場はもとより世界中の2000万人以上のファンが固唾を飲んで結婚発表を見守る。 ところが、コンサートの最中にバスティアンがキャットのアシスタントと浮気していたことが発覚。ウェブのゴシップサイトで大々的に報道され、会場に詰めかけたファンもスマホでニュースを知って困惑する。あまりのショックと屈辱にステージ上で茫然とするキャット。そこで彼女の目に入って来たのは、客席で「マリー・ミー」のプラカードを持つ中年男性チャーリー・ギルバート(オーウェン・ウィルソン)の姿だった。何事もなかったようにバスティアンとの結婚を発表なんて出来ないが、しかしかといってこのまま黙って引き下がるわけにもいかない。何らかの行動を起こさねばと焦った彼女は、思い余って見ず知らずのチャーリーとの結婚を発表してしまう。 チャーリーはニューヨーク市内の小学校に勤める平凡な数学教師。善良で心優しい男性だが生真面目で堅苦しいところがあり、それゆえ元妻と離婚する羽目となってしまい、近ごろは同居する年頃の娘ルー(クロエ・コールマン)からも敬遠されがちだ。アナログレコードと古いポップスを愛する彼は、最近の音楽トレンドや芸能ゴシップなどさっぱり。キャットのコンサートに足を運んだのも、小学校の同僚教師パーカー(サラ・シルヴァーマン)に誘われたからで、娘との親子関係を改善するきっかけになればと考えたのだ。なので、いきなりステージ上のキャットからプロポーズされてドン引きするチャーリーだったが、しかし彼女の切羽詰まったような表情からのっぴきならないものを感じ、その場の流れに任せてキャットとの結婚を世界中のファンの前で誓う。 かくして、当人たちにとっても想定外の展開で夫婦になったキャットとチャーリー。どうせスターの気まぐれ、すぐに守秘義務契約を交わして離婚すればいいと考えていたマネージャーのコリン(ジョン・ブラッドリー)だが、しかしキャットは当面のところ離婚するつもりなどないという。これまで幾度となく普通に恋愛をして結婚したが、そのたびに裏切られてきたキャット。そんな人生を変えるには、なにか違ったことをせねばと考えたのだ。それに、浮ついた業界人と違って地に足のついた、真面目で謙虚なチャーリーに少なからず好感を抱いていたのである。 一方のチャーリーもまた、マスコミが面白おかしく作り上げたイメージと違って実際は長所も短所もある普通の女性であるキャットに親近感を覚え、なおかつプロのエンターテイナーとして一切の妥協を許さず仕事へ臨む彼女に尊敬の念を抱いていく。確かに住む世界も価値観も全く違う2人だが、しかし相手を理解していくうちにキャットは忘れかけていた「普通」の感覚を思い出し、チャーリーは自分の殻を破って新しいことに挑戦しようとする。こうしてお互いの交流によって人間として成長し、やがてなくてはならない存在となっていくキャットとチャーリーだったが…? ジェニファー・ロペスの実体験が投影されたヒロイン像 原作は’12年に出版されたボビー・クロスビー原作のグラフィック・ノベル。コロナ禍の影響で全米公開が’22年2月へ大幅にずれ込んでしまったが、実際は完成する8年前にジェニファー・ロペスの製作会社ヌーヨリカン・プロダクションが原作の映画化権を取得し、コロナ前の’19年11月には撮影を終えていたらしい。パンデミックという不測の事態があったことを差し引いても、たっぷりと時間をかけて大切に温められた企画であったろうことは想像に難くない。 J. Loのチームが恐らく最もこだわったのは、ヒロインのキャットにジェニファー自身を重ね合わせることであろう。劇中のキャットと同じくジェニファーもまた、マスコミによってあることないこと面白おかしくゴシップ記事を書きまくられ、「気が強くて我がままな女王様気質のセレブ」というイメージを一方的に作り上げられてきた経緯がある。残念ながら男運があまりないのもキャットと一緒。恋多き女性として知られるジェニファーだが、しかし有名人ゆえ金に目のくらんだ最初の夫(一般人)からは暴露本やプライベートビデオをネタに食い物にされかけ、本人が「本物の愛で結ばれていた」という俳優ベン・アフレックとは彼がマスコミの注目を嫌うため上手くいかず、後に復縁・結婚しても長続きしなかった。いわば有名税みたいなもの。たとえば、結婚を機に芸能界を引退して家庭に入りますとなれば、もしかすると結婚生活も上手くいったのかもしれないが、しかしキャットと同じく天性のエンターテイナーであるジェニファーにそれは到底無理な話であろう。 そのうえで、本作は良くも悪くも世間の注目に晒される側の視点から「スーパースター」と呼ばれる女性セレブの人間的な実像に迫り、さらにはキャリア志向の強い「働く女性」にとって理想の恋愛と結婚、そして男性像とはどういうものかを考察していく。だいたい、主人公キャットだって別に多くを求めているわけじゃない。金持ちじゃなくてもイケメンじゃなくても構いません。とりあえずちゃんと仕事をしていて誠実で良識があればオッケー。大事なのは女性を対等の人間として扱ってくれて、その能力や仕事を正当に評価して尊重してくれること。そういう意味で、地味で真面目な数学教師チャーリーはまさに理想の男性なのだ。 そうしたフェミニスト的な視点は、ブレインとなる主要スタッフの大半が女性で固められていることと無関係ではなかろう。監督はインディーズ出身で本作が初のメジャー進出となったカット・コイロ。脚本家チームも3人のうち2人が女性だ。中でも特に重要な役割を果たしたのが、ジェニファー・ロペスと並んでプロデューサーに名を連ねているエレイン・ゴールドスミス=トーマスである。 もともとハリウッドのタレント・エージェントとしてジュリア・ロバーツやスーザン・サランドン、ジェニファー・コネリーなどの大物女優を顧客に持ってたゴールドスミス=トーマスは、ジュリア・ロバーツの製作会社レッド・オム・フィルムズに加わってプロデューサーへと転向。そこでの初プロデュース作品が、ジェニファー・ロペス主演の大ヒット・ロマンティック・コメディ『メイド・イン・マンハッタン』(’02)だった。その後、J. Loのヌーヨリカン・プロダクションへ移籍して社長(ジェニファーはCEO)に収まった彼女は、『ジェニファー・ロペス 戦慄の誘惑』(’15)以降のヌーヨリカン製作作品の殆んどでプロデュースを担当。本作のグラフィック・ノベルを読んで、脚本家たちに女性視点で脚色するよう指示したのはゴールドスミス=トーマスだったという。 観客5万人が詰めかけた本物のコンサート会場で撮影!? さらに、本作は主人公キャットの恋人である若手トップスター歌手バスティアン役として、コロンビア出身で南米はもとより北米でも絶大な人気を誇るラテンポップ・アーティスト、マルーマを起用したことでも話題に。これが演技初挑戦かつ映画デビューだったマルーマは、ジェニファーとデュエットするテーマ曲「マリー・ミー」などの楽曲も提供している。サントラで使用された楽曲の大半は本作のために書き下ろされたオリジナル曲だが、キャットが自らのコンサートで尼僧や僧侶に扮したダンサーをバックに歌い踊るダンスナンバー「Church」は、ジェニファーが以前よりストックしていた未発表曲を掘り起こしたものだという。J. Loが最も影響を受けたスターのひとり、マドンナの「Like A Prayer」を彷彿とさせる楽曲だ。 ちなみに、終盤でキャットがバスティアンのコンサートにゲスト出演し、デュエット曲「マリー・ミー」を披露するシーンは、バスティアンを演じるマルーマのマディソン・スクエア・ガーデン公演に便乗して撮影している。会場に詰めかけた5万人の聴衆は、映画のエキストラではなくコンサートの来場客だ。ただし、テーマ曲「マリー・ミー」がリリース前に流出しては困るため、同曲のパフォーマンス・シーンは事前に無観客で撮影を完了。そのうえで、観客の前ではテンポの良く似たジェニファーの楽曲「No Me Ames」(ファースト・アルバムに収録されたマーク・アンソニーとのデュエット曲)をマルーマとデュエットしてもらい、そのステージを見守る観客の映像を「マリー・ミー」のパフォーマンス映像と編集で混ぜ合わせたのである。 ロマンティック・コメディの大ヒットが減少している昨今、『ノッティング・ヒルの恋人』や『ローマの休日』を彷彿とさせる正統派ロムコムの本作も、予算2300万ドルに対して興行収入5000万ドル強と、必ずしも大成功とは言えない結果となってしまったが、しかし公開翌週の2月14日には全米興行成績ランキングで1位をマーク。バレンタイン・デーにロマンティック・コメディがトップに輝くのは史上初めてのことだったそうだ。むしろ本作は映画館よりも配信サービスやテレビ放送で好成績を記録しているらしい。そのホッコリとする温かな後味の良さも含め、自宅でのんびり寛ぎながら楽しむにうってつけの作品なのかもしれない。■ 『マリー・ミー』© 2022 Universal Studios. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2024.09.30
「すべて本当にあったこと」を描いた、ロマン・ポランスキー畢生の傑作は今…。『戦場のピアニスト』
実話ベースの本作『戦場のピアニスト』(2002)の原作本に、ロマン・ポランスキーが出会ったのは、1999年のこと。パリで監督作『ナインスゲート』がプレミア上映された際に、友人から渡されたのである。 一読したポランスキーは、長年待ち望んだものに出会った気持ちになった…。 ***** 1939年9月、ポーランドの著名な若手ピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンはいつものように、首都ワルシャワのラジオ局でショパンを演奏していた。しかしその日、ヒトラー率いるナチス・ドイツが、ポーランドに侵攻。シュピルマンの人生は、大きく変転する。 老父母や弟妹など、家族と暮らしていたシュピルマン。ユダヤ系だったため、街を占領したドイツ軍の弾圧対象となる。 ナチスがポーランド各地に作ったユダヤ人ゲットーへの移住が命じられ、住み慣れた我が家から強制退去。移った先では、ドイツ兵による“人間狩り”や“虐殺”が横行する。 42年8月、ゲットーのユダヤ人たちの多くが、強制収容所に送られることになった。しかし列車へ乗り込まされる直前、シュピルマンは、ユダヤ系ながらナチスの手先となった友人から、家族と引き剥がされ、この場を去るように促される。 家族で唯一人、収容所行きを免れたシュピルマンは、ゲットーに戻り、肉体労働に従事。このままではいつか命を落とすと考え、脱出を決行する。 ナチスに抵抗する、旧知の人々らの協力を得て、隠れ家を移りながら、命を繋ぐ。 44年、ワルシャワ蜂起が始まり、戦場となった街が、灰燼と帰していく。そんな中で必死に生き延びようとする、シュピルマンの逃走が続く…。 ***** 33年パリで生まれたポランスキーは、3歳の時に、家族でポーランドに移り住んだ。青年時代にウッチ映画大学で監督を志し、やがて長編第1作『水の中のナイフ』(62)で、国際的な評価を得る。 その後は海外へ。イギリスで、『反撥』(65)『袋小路』(66)『吸血鬼』(67)を成功させると、ハリウッドに渡って『ローズマリーの赤ちゃん』(68)を監督。更に声価を高めた。 しかし69年、妊娠中だったポランスキーの若妻シャロン・テートが、カルト集団に惨殺されるという悲劇に見舞われる。強いショックを受けた彼は、一時ヨーロッパへと移るが、『チャイナタウン』(74)の監督依頼を受けて、アメリカに戻る。 ところが77年、ポランスキーは13歳の少女を強姦するという事件を起こし、アメリカ国外へと逃亡。以降は主にフランスをベースに、監督作品を発表し続けている。 紆余曲折ある彼の監督人生の中で、ずっと胸に抱いていたこと。それは、いつかポーランドの「痛ましい時代の出来事を映画化したい」という思いだった。 ユダヤ系であるポランスキーは、ナチスの占領下で過ごした少年時代に、ゲットーでの過酷な暮らしを経験。その後両親と共に、強制収容所へ送られそうになる。寸前に、父の手で逃がされた彼は、終戦を迎えるまで、幾つもの預け先を転々とすることになった。 戦後になって、父とは再会。しかし母は、収容所で虐殺されていた…。 自分が経験した、そんな時代に起こった事々を作品にしたい。しかしながら、自伝的な内容にはしたくない…。 ポランスキーは、スティーヴン・スピルバーグから、『シンドラーのリスト』の監督オファーを受けながら、断っている。その舞台となるクスクフのゲットーが、実際に自分が暮らした地であり、描かれることが、自身の体験にあまりにも近かったためだ。「ふさわしい素材」を得て、「映画監督として、しっかりとした」ヴィジョンを持って臨まねばならない。そう心に秘めて待ち続けたポランスキーが、60代後半になって遂に出会ったのが、ウワディスワフ・シュピルマンの回想録である、「戦場のピアニスト」だったのだ! ポランスキー曰く、シュピルマンの体験と自分の間に、「ほどよい距離があった」。自分の住んでいた街とは舞台が違い、自分が知っている人間は、誰1人登場しない。それでいながら、「自分の知る事柄が書かれていた」。自らの体験を活かしつつも、客観的な視点で物語を紡ぐのに、これほど相応しいと思える原作はなかったのである。 シュピルマンの著書は、「ぞっとさせられる反面、その文章には前向きなところもあり、希望が満ちていた」。また、「加害者=ナチス/被害者=ユダヤ人」という単純な図式に陥ることなく、シュピルマンの命を救うのが、同胞から恐れられていた裏切り者のユダヤ人だったり、ナチスの将校だったりする。ナチスにも善人が存在し、ユダヤ人にも憎むべき者がいたという、原作の公平な視点にも、いたく感心したのだった。 ポランスキーは、戦後はポーランド音楽界の重鎮として後半生を送っていたシュピルマン本人と面会。映画化を正式に決めた。残念ながらその翌2000年、製作の準備中に、シュピルマンは88年の生涯を閉じたのだが…。 ポランスキーが、ポーランドで映画を撮るのは、『水の中のナイフ』以来、40年振り。資金はヨーロッパから出ており、アメリカの俳優は使わないという条件だった。 それでいながらセリフは英語とするため、ロンドンでオーディションを行うことになった。1,400人もの応募があったが、ポランスキーはその中からは、“シュピルマン”を見つけることはできなかった。 結局ポランスキーが白羽の矢を立てたのは、アメリカ人俳優。1973年生まれで、まだ20代後半。ニューヨーク・ブルックリン育ちのエイドリアン・ブロディだった。 シュピルマンに、風貌が似ていたわけではない。しかしポランスキーはブロディの出演作を数本観て、「彼こそ“戦場のピアニスト”」と思ったのだという。ポランスキーが「思い描いていた通りの人物になりきることのできる」俳優として、ブロディは選ばれたのである。 アメリカ人のブロディを起用するため、スポンサーを説得するのには、1カ月を要した。その上で、製作費の減額を余儀なくされた。 そこまでポランスキーが執心したブロディは、本作以前にスパイク・リーやケン・ローチなどの監督作品で主要な役を演じながらも、まだまだ新進俳優の身。ポランスキーの心意気に応え、戦時に大切なものをことごとく失ったシュピルマンになり切るため、住んでいたアパートや車、携帯電話など、すべてを手放して、単身ヨーロッパへと渡った。 ブロディの父は、ポーランド系ユダヤ人で、ホロコーストで家族を失った身。母は少女時代、ハンガリー動乱によって、アメリカに逃れてきた難民だった。ブロディ家では子どもの頃から、戦争のことやナチスの残虐さが、いつも話題になっていた。 クランク・インまでの準備期間は、6週間。部屋に籠りきりで行ったのは、まずはピアノの練習。少年時代にピアノを習った経験が役立ったものの、毎日4時間ものレッスンを受けた。 同時に進められたのが、ダイエット。摂取するものが細かく指示されて、体重を10数㌔落とした。撮影中に遊びに来たブロディのガールフレンドが、彼を抱き上げてベッドに運べるほど、瘦身になったという。 他には、ヴォイストレーニングや方言の練習、演技のリハーサルが繰り返される毎日を送った。 本作でもう一方の“主役”と言えるのが、1939年から45年に掛けての、ワルシャワの市街。しかしゲットーの在った地をはじめ、ほとんどの場所は戦後に再建されており、撮影に使えるような場所は、ほとんど残っていなかった。 そのためポランスキーは、広範なリサーチと自分自身の記憶を頼りに、美術のアラン・スタルスキと共に、ワルシャワとベルリン周辺で、数ヶ月のロケハンを敢行。本作の100を超える場面に必要な撮影地を、探し回った。 最終的には、ベルリンの撮影所の敷地内に、ワルシャワの街並みを建造。また、同じくベルリンに在った、旧ソ連兵舎を全面的に取り壊して、広大な廃墟を作り上げた。これは、全市の80%が壊滅したと言われるワルシャワ蜂起の、すさまじい戦禍を再現したものだった。 本作の撮影は、この廃墟が雪に覆われたシーンからスタートした。ブロディ演じるシュピルマンが、壁を上って、その向こう側に行くと、どこまでも荒涼たる光景が広がっている。「これが自分の住む街だったら」と思うと、ブロディは自然に涙がこぼれたという。 ワルシャワでは、屋内・屋外ロケを敢行。様々なシーンの撮影を行った。 ロケ地探しで至極役立った、ポランスキーの記憶力。ナチの軍服や兵士たちの歩き方、ゴミ箱の大きさに至るまで、当時の再現に、大いに寄与した。記憶でカバーできない部分は、終戦直後の46年に書かれた、シュピルマンの原作に頼った。 戦時のワルシャワで起こった様々な事件を再現するためには、多くのリサーチが行われた。クランク・イン前には、歴史家やゲットーの生存者の話を聞き、スタッフには、ワルシャワ・ゲットーについてのドキュメンタリーを何本も観てもらった。 ポランスキーは本作に、当時彼自身が体験したことも、織り込んだ。その一つが、シュピルマンが、収容所に送られていく家族からひとり引き離されるシーン。 原作ではシュピルマンは、その場から走って逃げたと記している。しかしポランスキーは、歩いて去るように、変更した。 これはポランスキーがゲットーを脱出した際に、ドイツ兵に見つかった経験が元になっている。そのドイツ兵はみじろぎひとつせずに、「走らない方がいい」とだけ、ポランスキーに言った。走るとかえって、注意を引いてしまうからである。 そんなことも含めて、本作で描かれているのは、「すべて本当にあったこと」だった。 撮影は、2001年2月9日から半年間に及んだ。その期間中、ポランスキーは当時の辛かった思い出の“フラッシュバック”に、度々襲われることになる。しかし撮影前のリサーチ段階での苦痛のほうが大きかったため、憔悴するには至らなかった。 本作のクライマックス。シュピルマンが隠れ家とした場所でナチスの将校に見つかり、ピアニストであることを証明するためピアノを演奏する、4分以上に及ぶシーンがある。 こちらはドイツのポツダムに在る、住宅街の古い屋敷でのロケーション撮影。画面から伝わってくる通りの寒さの中で、カメラが回された。 スタッフが皆、分厚いコートを来ている中で、ブロディは着たきりのスーツだけ。しかし監督は画作りのため、すべての窓を開け放しにした。ブロディは死ぬほどの寒さの中で、演技をしなければならなかった。 このシーンに登場する、トーマス・クレッチマンが演じるドイツ国防軍将校の名は、ヴィルム・ホーゼンフェルト大尉。シュピルマンを連行することなく、隠れ家の彼に食事や外套を提供して、サバイバルを手助けする。 本作で詳しく描かれることはなかったが、実在したこの大尉は、ナチスの方針に疑問を抱き、迫害に遭ったユダヤ人らを、実は60人以上も救っている。シュピルマンを助けたのは、偶然や気まぐれではなかったのである。 不運にも彼はワルシャワから撤退中に、ソ連軍の捕虜となった。そしてシベリアなどの捕虜収容所に、長く拘置されることになる。 シュピルマンは戦後、自分を助けてくれたドイツ人将校を救おうと、手を尽して行方を捜索。収容所に居ることがわかると、当時はソ連の衛星国家だった、ポーランドの政界に解放を働きかけた。しかしホーゼンフェルトが自由の身になることはなく、52年に心臓病のため57歳で獄死してしまう…。 さて6ヶ月間、本作に打ち込んだエイドリアン・ブロディは、シュピルマンの“孤立感”を体感しようと試み、飢えをも経験する中で、感じ方や考え方に変化が生じた。そのため撮影が終わってから、何と1年近くも、鬱状態から抜け出せなかった。 一方でブロディは、本作に出たことによって、俳優としての自分がやりたいことが何なのか、はっきりと自覚することができたという。 ちなみにブロディがレッスンを経て、楽譜を見ずにピアノを弾けたようになったことを、ピアノ教師が絶賛。この後も続けるように勧められたが、本作が撮了するとモチベーションを保てず、やめてしまったという。 監督のポランスキー、主演のブロディが報われたのは、まずは2002年5月の「カンヌ国際映画祭」。そのコンペ上映で15分間のスタンディング・オヴェーションを得て、最高賞のパルムドールに輝いた。そして翌03年3月には「アカデミー賞」で、ポランスキーに“監督賞”、ブロディに“主演男優賞”が贈られた。 それまでは、“鬼才”という呼称こそがしっくりくる感があったポランスキー。件の事情で国外逃亡中の身だったため、オスカー授与の場に立つことはなかったが、本作『戦場のピアニスト』によって、紛うことなき“巨匠”の地位を得たのである。 しかしそれから歳月を経て、90を超えたポランスキー、そして本作への評価も、今や安泰とは言えない。 2017年に大物プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインによる数多くの性加害が告発されて以降、大きな高まりを見せた#MeToo運動。その文脈の中では、少女を強姦してアメリカ国外へ逃亡したポランスキーの、“巨匠”としての地位も、揺るがざるを得ない。 ポランスキーに性的虐待を加えられたと告発する者は、他にもいる。アカデミー賞受賞後、彼のアメリカ入国を認めさせようという機運が一時高まったが、もはや取り沙汰されることはない。 そして現在、イスラエルが、ガザ地区で戦争を続けている。 ナチスに母を、カルト集団に妻子を奪われた“被害者"である一方、レイプで女性の人生を狂わせた“加害者”であるポランスキー。 ナチスのジェノサイドの犠牲者であるユダヤ民族が作った国家イスラエルは、国際的な批判の高まりを無視して、パレスチナの民への攻撃を行っている。『戦場のピアニスト』は、製作から20年以上経った今観ても、衝撃的且つ感動的な作品である。ポランスキーが意図した通り、「ナチス=悪/ユダヤ=善」という単純な図式を回避したからこその素晴らしさがある。 しかしながら、2024年の今日。そんな作品だからこそ、複雑な気持ちを抱きながら観ざるを得なくなってしまったのも、紛れもない事実である。■ 『戦場のピアニスト』© 2002 / STUDIOCANAL - Heritage Films - Studio Babelsberg - Runteam Ltd
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COLUMN/コラム2024.09.24
コロナ禍で追求された、全編アクションの可能性『アンビュランス』
◆破壊王マイケル・ベイの挑戦 機動力に満ちたカメラワークや、過剰なほどに爆発を散りばめたショットなど、それらを素早い編集で組み合わせ、監督マイケル・ベイはキャリア早期より迫力ある映像サーカスを展開してきた。「ベイヘム」と呼称されるそれは、氏を認識する視覚スタイルとして周知され、皮肉も尊敬も交えて氏を象徴する重要なワードとなっている。1995年の初長編監督作『バッドボーイズ』を起点に、ベイはそのほとんどを破壊的なアクションに費やし、さらには機械生命体が車に変形するSFシリーズ『トランスフォーマー』と関わりを持つことで、ベイヘムを必要不可欠とするステージへと自らを追いやっている。そしてショットの多くをCGキャラクターやVFXに依存する本シリーズにおいて、爆発や破壊のプラクティカルな要素をどこまで追求することができるのか、彼はそれを実践してきたのである。 そんなマイケル・ベイに、大きな試練と挑戦の機会が訪れる。それは2020年に起こった、世界的なパンデミックの拡大だ。いわゆる新型コロナウイルス(COVID-19)の蔓延によって、映画業界全体の作品製作や公開が頓挫してしまったのだ。 しかし、ベイはこうした困難の中で、どれだけ過激なアクション演出を成し遂げられるのかという実験に挑んだのだ。それが2022年に公開された『アンビュランス』である。 病に侵された妻を助けたいと、元軍人のウィル(ヤーヤ・アブドゥル=マティーン2世)はカリスマ的な犯罪者ダニー(ジェイク・ギレンホール)の誘いにより、3,200万ドルの銀行強盗に加担する。 だがロサンゼルス史上かつてない巨額の奪取に成功したものの、彼らは捜査組織の容赦ない追跡を受けることになる。しかもウィルたちが逃亡のためにジャックしたのは、救命士キャム(エイザ・ゴンザレス)が負傷した警官を救護中のアンビュランス(救急車)だった……。ウィルとダニーは内も外も予断を許さぬ状況下で、二転三転する事態と、重くのしかかる善悪の葛藤に対処せねばならなくなる。 映画はこうした破壊と変転に満ちたカーチェイスを、わずか24時間のオンタイムで描いていく。ベイは配信を発表手段とした前監督作『6アンダーグラウンド』(2019)でも、開巻から延々20分間に及ぶカーチェイスを披露し、その様相は狂気を放っていた。しかし、今回は同作の規模を超えるものが、冒頭から終わりまで絶え間なく続くのである。 新型コロナウイルス感染によるロックダウンのなか、全編アクションの映画を撮影する—。そんな『アンビュランス』の叩き台となった脚本は、2005年にデンマークで製作されたスリラー『25ミニッツ』がベースとなっている。同作は心臓発作の患者を乗せた救急車をジャックした、2人の銀行強盗を主人公にしたものだ。『アンビュランス』の脚本を手がけたクリス・フェダックは、デンマーク人のマネージャーであるミケル・ボンデセンがオプション契約した『25ミニッツ』を紹介されたのだ。 『25ミニッツ』の核となるコンセプトが気に入ったフェダックは、本作をロサンゼルスへと置き変え、考えうる限りのカーチェイスや設定をクレイジーに拡張させたのである。 ミニマルを極めた状況設定から、やがて大きな展開へと発展していくアクション映画。そんな『アンビュランス』のストーリーこそ、ベイはコロナ禍で全編アクションの可能性を追求する、自分のアプローチと完璧にマッチしていると確信。生まれ故郷であるロサンゼルスを中心に、40日間のタイトな撮影を実践しようと、同作の撮影に踏み切ったのだ。 さいわいにも、本作のプロデューサーであるジェームズ・ヴァンダービルトとウィリアム・シェラックは、前プロデュース作品の『スクリーム』(2022)で、パンデミックの制限下における撮影プロトコルを確立させたばかりだった。この方法に従うことを前提にして、『アンビュランス』の製作にゴーサインが出たのである。 ◆FPVドローンをフル活用した撮影 前述どおり、本作の撮影はすべてロサンゼルスとその近郊でおこなわれた。こうした限定空間を安っぽいものに見せぬよう、クルーはエリア照明や色彩、ロケーションや撮影方法に至るまで、過去にないアプローチで手がけることを至上とした。また常時5台のマルチカメラによる態勢はベイのスタイルだが、これは限定空間を多面的に捉えることに役立つことになる。そしてすべての爆発ショットは、関係各部署と綿密なリハーサルを施行し、一秒単位で時間を計って綿密に調整された。カメラクルーには細かな安全装備が施され、さらに管理者が付き添うことで、万全を期した撮影が徹底されたのだ。 さらに今回はドローンを最大限に活用することで、多動的で視覚的な拡がりを持つショットをものにしている。 しかも『アンビュランス』で使用されたドローンは撮影用カメラを吊り下げて動くヘビーリフトタイプのものとは異なり、RED社の超小型6Kシネマカメラ「Komodo」を一体化させた最軽量・高画質の最新鋭ツールだ。それはFPV(ファースト・パーソン・ビークル)ドローンと呼ばれ、カメラと連動したゴーグル越しに操縦して撮像を得る、シミュレーションスタイルの撮影手段を持つギアである。操縦者たちはFPVドローンの操作テクニックと撮影技を競うドローン・レーシングリーグで上位を占める精鋭たちが集められ、例えばカメラアイが時速160キロのスピードでオフィスビルの屋上から壁面をつたい、地上からわずか1フィートスレスレまで潜り込んだり、あるいはロサンゼルス・コンベンションセンターの地下駐車場でのワンショットによるチェイスシーンなど、通常のカメラ撮影では不可能な移動ショットを可能にしたのだ。 このように、FPVドローンの全面投入はパンデミック制限下での撮影に貢献しただけでなく、これまでのアクション映画にない視覚領域へと我々をいざなう、全く新しい空撮の概念を映画の世界にもたらしたのである。 ◆『トランスフォーマー』を凌駕する車の投入 しかしロックダウンのプロトコルに基づく作品とはいえ、本作には30台を超すパトカーやアンダーカバー車、それに主人公の救急車と複数のスタントカーが用意され、車をキーアイテムとする『トランスフォーマー』さえも凌駕する台数が『アンビュランス』に投入されている。 なによりアメリカ国防総省と太いパイプで繋がり、最新の現用兵器や重火器類を自作に投入してきた初物好きのベイらしく、本作で登場する警察と消防要員のオフサイト本部として機能するMCU(移動コマンドユニット)は市場に出ていない最新式だ。加えて同台に複数のモニターを設置し、後部座席やシートポジションをカスタマイズするなど、完全な映画オリジナルにしている。 そして、本作のもうひとりの主人公ともいえる救急車は、民間消防会社の世界的大手・ファルクが所有する最高級クラスのもので、それを2台レンタルし、同時にスタント用のものを3台ほど撮影用にストックされた。しかし激しいアクションに車体をさらしながら、それらすべてを完璧な状態に保って返却せねばならなかったので、プロップマスターは相当神経を使ったという。また救急車の内装は病院同様に白が基調となっており、俳優のライティングが通常のカーアクションよりも難しかった。この問題を解決するため、照明や機器、そしてライトアップスイッチも追加され、こうして大幅に加工した内装も元に戻さねばならなかったのだ。 大破壊のための、細心に支えられた創造心。「ベイヘム」とは、この矛盾を正当化させる、エスプリの宿ったワードといえるかもしれない。『アンビュランス』は、それをさらに確信させる映画となったのだ。■ 『アンビュランス』© 2022 Universal Studios. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2024.09.20
ティム・バートンが作り上げた、今日まで連なる“アメコミ”ムービーの原点『バットマン』
長らく「子どもの読み物」と揶揄されることが多かった、“アメコミ/アメリカン・コミック”の映画化作品で、最初に大きな成功を収めたのは、リチャード・ドナー監督、クリストファー・リーヴ主演の『スーパーマン』(1978)である。 1938年に生まれた、最古参の“アメコミ”ヒーロー「スーパーマン」を大スクリーンに乗せるこのプロジェクト。脇にマーロン・ブランド、ジーン・ハックマン等々といった大物スターを配した超大作映画として製作され、世界的な大ヒットとなった。 この成功に乗じて、「スーパーマン」と並ぶ「DCコミックス」の人気ヒーロー、「バットマン」を映画化しようという動きも、早速起こる。マイケル・E・ウスランとベンジャミン・メルニカーという2人のプロデューサーが、79年に「DC」から、その権利を買い取ったのである。 当初は『スーパーマン』のシナリオを書いたトム・マンキーウィッツが雇われたが、脚本化は不調に終わる。結局「バットマン」が、実際にその雄姿をスクリーンに躍らせるまでには、それから10年もの歳月を要することになった。 81年、この企画の軸となるプロデューサーが、ピーター・グーバーとジョン・ピーターズへと移る。2人はワーナー・ブラザース映画と契約を結び、製作費1,500万㌦でこの企画を進めることとなった。この予算は83年には、倍の3,000万㌦にまで膨らむ。 そうした中で、新たな脚本家が、雇われては消え雇われては消え…。その数は10人に達したという。 また監督としては、ジョー・ダンテやアイヴァン・ライトマンなどが取り沙汰された。しかしこちらも、なかなか正式決定には至らなかった。 ティム・バートンの名が挙がったのは、長編初監督作品だった『ピーウィーの大冒険』(85/日本では劇場未公開)の成功を受けてのこと。ちょうどその次作である『ビートルジュース』(88)をワーナーの撮影所で準備中だったバートンと会った、プロデューサーのピーターズは、「バットマン」の映画化に対するバートンの情熱と考え方を聞いて、1958年生まれでまだ20代だった彼を、最有力候補とした。 “オタク”出身の代表的な監督のように言われるバートンだが、実は“アメコミ”に夢中になったことは、ほとんどなかった。そんな中で「バットマン」は、バートンが共感できる、ただ1人のコミック・ヒーローだったという。「バットマン」の主人公は、表では大富豪で著名な慈善家であるブルース・ウェインだが、裏では日々“自警活動”で悪を制裁するバットマンであるという、2つの人格を持つ複雑なキャラクター。こうした点に強く惹かれた少年時代のバートンは、アダム・ウェスト主演のTVシリーズ「怪鳥人間バットマン」(66~68)を観るために、放送日は大急ぎで学校から帰宅したという。 また80年代に刊行された、「バットマン」をシリアスでダークな存在として描く、2つのシリーズものコミックには、強く影響を受けた。フランク・ミラーの「ダークナイト・リターンズ」(86)、アラン・ムーアの「ザ・キリング・ジョーク」(88)である。 これらの作品でも描かれる通り、バートンは、ヒーローである“バットマン”と、シリーズを通じて最強のヴィランである“ジョーカー”は、「ワンセット」で、「この2人は基本的に2つのおとぎ話。光と影」であると考えた。そしてそうした解釈に基づいて、「バットマン」の“映画化”にチャレンジしようと決めたのである。 しかし39年の初登場以来、半世紀もの間、大きな人気を得てきた“アメコミ”ヒーローを映画化するには、並大抵ではない覚悟が要る。 バートンは、78年にサンディエゴで開かれたコミコンに参加した際、ショッキングな光景を目の当たりにしていた。公開前の『スーパーマン』について、雄弁に語るリチャード・ドナー監督に対し、熱狂的なファンが、「あんたたちが伝説をぶち壊しにしてるとみんなに言いふらしてやる!」と罵声を浴びせたのである。しかもそれに対し、場内は割れんばかりの拍手喝采で沸きあがった。 そんな体験もあって、「バットマン」の映画化に挑むのは、イコールで「途方もない問題を抱え込むことになる」ことに、自覚的にならざるを得なかった。その上で、あくまでも自分の発想に忠実な映画を作ろうという、決意を固めたのであった。 バートンは、それまでに書かれたシナリオはすべて却下し、ジェリー・ヒックソンによる31頁の準備稿に基づいた新たなシナリオの執筆を、サム・ハムに依頼。『ビートルジュース』製作中にも拘わらず、週末にはハムと会って、脚本についての話し合いを進めたという。 しかしながらこの時点ではまだ、ティム・バートンを監督に据えることに、ワーナー・ブラザースは正式にはOKを出してしていなかった。88年3月、『ビートルジュース』が公開され、予想を超える大ヒットとなった時点で、ようやくGOサインとなったのである。 そしてその年の暮れ、本作『バットマン』(89)は、クランクイン。メインの撮影地は、イギリスのパインウッド・スタジオで、その95エーカーの用地と18のサウンドステージを駆使して、舞台となるゴッサム・シティが建造された。製作費は、3,500万㌦となっていた。 ***** 暴力がはびこる大都市ゴッサム・シティ。しかしこの街のギャングたちの間で、ある噂が囁かれていた。犯罪現場には巨大な蝙蝠の装いをした“バットマン”が現れ、犯罪者たちに制裁を加えては去っていくと…。 その噂を信じて取材を続ける新聞記者ノックスと女性カメラマンのヴィッキー・ベールは、調査の過程で大富豪のブルース・ウェインと出会う。ヴィッキーは謎めいたウェインの佇まいに惹かれるが、孤独な影を持つウェインは、彼女になかなか心を開けない。ヴィッキーが追う“バットマン”の正体が自分であることも、もちろん明かせなかった。 一方でゴッサムの裏社会を仕切るグリソムの右腕ジャック・ネーピアは、ボスの愛人に手を出したことがバレて、罠にハメられる。化学工場で警官隊に追い詰められたジャックの前に、“バットマン”が出現。ジャックは“バットマン”を拳銃で撃つが、強力なバットスーツに跳ね返され、逆に化学薬品のタンクへと突き落とされる。 警察の手を免れて、逃げおおせたジャック。しかし化学薬品の作用で肌は真っ白となり、顔面は極端に引きつった笑い顔に固定され、まるでトランプのジョーカーのようになってしまう。 ジャックは、自ら“ジョーカー”を名乗る。そして、グリソムをはじめ、暗黒街の大物を、次々と血祭りに上げる。 “ジョーカー”は恐るべき犯罪で街を支配。「市政200年記念祭」を乗っ取り “バットマン”に果たし状を叩きつける。ウェインは、“ジョーカー”との過去の因縁に気付き、復讐心を燃やしながら、対決に臨む…。 ***** “バットマン”役の候補となったのは、チャーリー・シーンやメル・ギブソン、ピアース・ブロスナンなど。しかしバートンは、いかにも“ヒーロー”然とした俳優を起用する気は、端からなかった。 “バットマン”が、例えばアーノルド・シュワルツェネッガーのような体格だったとしたら、それを隠すためのスーツなど着る必要はあるまい。バットスーツは、身体を保護するだけでなく、心を守る鎧でもある。そしてその外見に隠された、“人間性”を表せる俳優を求めた。 バートンが最初に思いついたのは、ビル・マーレイ。しかしプロデューサーのピーターズから、別の俳優を提案されると、即座にそちらに切り替えた。それは前作『ビートルジュース』で組んだばかりの、マイケル・キートンだった。 キートンならば、“バットマン”のマスクから覗く眼で、“狂気”を表現してくれるに違いない!彼の身長が175㌢で、筋骨隆々とは遠かったのも、ポイントが高かった。 しかし『ビートルジュース』以前は、『ラブ IN ニューヨーク』(82)や『ミスター・マム』(83)などで“コメディアン”としての印象が強かったキートンの抜擢には、ある意味想定通りのリアクションが起こった。従来の「バットマン」ファンから、ブーイングの嵐が寄せられたのだ。 キートンは原作のようにはアゴが尖ってない上、頭髪も薄いし背も高くない。コミックに引っ掛けて、これこそ究極の「キリング・ジョーク」だなどと嘲られ、抗議の手紙が5万通以上も届いたという。 一方“ジョーカー”役には、クリスチャン・スレイター、デヴィッド・ボウイ、ウィレム・デフォー、ロビン・ウィリアムズなどの名も挙がったが、ジャック・ニコルソンこそ“ジョーカー”に相応しいという声が、当初から高かった。スタンリー・キューブリック監督の『シャイニング』(80)で彼が演じた、狂気に陥る主人公とイメージが重なるのも、大きかったと見られる。実際バートンも、ニコルソン以外の“ジョーカー”を考えたことはなかったという。 ニコルソンのギャラは、製作費の6分の1以上を占める600万㌦に加えて、興行収入からの歩合。その上で、仕事時間を自分で決められるという条件付きだった。 監督のバートンを何よりも悩ませたのが、クランク・イン直前になっても出来上がらない、“脚本”だった。固まってないシークセンスが山のようにある中で、ワーナーが土壇場で脚本を書き直すと決定。エンディングは、何度もリライトされることとなった。 因みに脚本の初期段階では、コミックやTVシリーズではお馴染みの、バットマンの相棒ロビンも登場したという。配役としては、エディ・マーフィが候補だったというが、混乱の中でいつしかその存在は消えていった。 撮影開始2日前に、ヴィッキー・ベール役に決まっていたショーン・ヤングが、落馬して鎖骨を折り、出演不能になった。そこで急遽、代役としてキム・ベイシンガーがキャスティングされた(ショーン・ヤングは本作の続編『バットマン リターンズ』(92)で、ヴィランの“キャットウーマン”役を巡ってトラブルを起こすのだが、それはまた別の話)。 クランクイン後にバートンを大混乱に陥れたのは、何と、プロデューサーのジョン・ピーターズだった。撮影現場を訪れては、勝手に脚本の改訂やスタッフの解雇を繰り返すという暴挙に出たのである。 本作クライマックスで、“ジョーカー”はヴィッキー・ベールを人質に取って、鐘楼を上がっていく。この撮影の際ニコルソンがバートンに、「どうして私は階段を上がらなければならないんだ?」と尋ねる一幕があった。それに対してバートンは、「どうしてかな…。とにかく上がってくれ。そこで話し合おう」としか答えられなかったという。 とはいえニコルソンは、バートンに対して寛大な態度を守った。撮影中は、「君の必要としているもの、望んでるものを手に入れろ。そしてただ進み続けるんだ」と、励まし続けた。稀代の名優ニコルソンが、毎日2時間のメイク時間を経て現場に臨むと、6回の演技で6通りの異常者を演じてみせた。バートンはニコルソンに対し、リスペクトの念を強く抱いた。 ・『バットマン』撮影中のティム・バートン監督(左)とジャック・ニコルソン(右) マイケル・キートンに対しては先に記した通り、外部からのプレッシャーが大きかったが、それとは別の意味で、現場では悪戦苦闘の連続だった。基本的に彼は即興的な演技を得意としてきたのに、内向的な役柄とバットスーツで、それらを封印せざるを得なかったからだ。しかもシナリオが絶えず書き換えられ、撮影現場のムードは、ただただ重苦しかったという。「孤独」を強く感じたというキートンは、結果的にそれが“バットマン=ブルース・ウェイン”というキャラを演じる上で「幸いした」と後に述懐している。しかし撮影中はそんな考えに至るわけもなく、何とか眠れるように、「へとへとになるまで夜のロンドンを走った」のだという。 こうしたバートンやキートンの“悪戦苦闘”は、89年6月に本作が公開になると、空前の大ヒットという形で報われた。アメリカでの興収は10日間で1億㌦を超えた初めての映画となり、最終的な興行成績も、当時としては史上5番目にまで達した。 この作品以降、“アメコミ”出身のキャラクターでも、その性格を“人間ドラマ”として重層的に描くことが、「当たり前」となった。その流れは、それから35年経って、“アメコミ”映画が隆盛を極める今日まで続く。 さてバートンはと言うと、映画会社が当然のように望んだ、本作の続編にすぐに取り掛かることはなかった。大ヒットこそしたものの、自分の思い通りにいかなかった本作の内容に、大きな不満が残ったからである。 結局バートンが再びマイケル・キートンを主役に、『バットマン リターンズ』に臨んだのは、本作の3年後。その際は本作の体験に懲りて、要らぬ口出しをハネつけられるように、自ら製作にも当たった。そしてその後は多くの監督作品で、プロデューサーを兼ねるようになったのである。■ 『バットマン』BATMAN and all related characters and elements are TM and © of DC Comics. © 1989 Warner Bros. 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