“アメリカン・ニューシネマ“の時代。1960年代後半から70年代に掛けて、反体制的・反権力的な若者たちや数多のアウトローが、アメリカ映画のスクリーンに躍った。
 そんな中で、屈指の人気キャラクターに数えられるのが、ブッチ・キャシディとサンダンス・キッド。
 “ニューシネマ”第1弾の作品が、主役の犯罪者カップルの名前を取った「ボニーとクライド」という原題だったのを、『俺たちに明日はない』(67)という邦題にして、当たりを取ったのに倣ったのであろう。1969年製作の「ブッチ・キャシディとサンダンス・キッド」は、『明日に向って撃て!』というタイトルで、翌70年に日本公開となった。

*****

 1890年代のアメリカ西部。「壁の穴」強盗団のリーダーで頭が切れるブッチ・キャシディと、その相棒で名うての早撃ちサンダンス・キッドは、絶対的な信頼で結ばれていた。
 ある時強盗団は、同じ列車の往路と復路を続けて襲うという大胆な計画を実行。往路は見事に成功し、2人は馴染みの娼館でくつろぐ。
 サンダンスは一足早く抜け、恋人の女教師エッタ・プレイスの元へ。翌朝合流したブッチは、新時代の乗り物と喧伝される自転車をエッタと相乗りし、安らぎの一時を過ごす。
 強盗団は予定通り、復路の列車強盗も敢行。しかし鉄道会社が雇った凄腕の追っ手に、仲間の何人かは射殺され、ブッチとサンダンスも、執拗な追跡を受ける。
 命からがら、エッタの元に帰還。これを機に、ブッチが以前から口にしていた新天地に、3人で向かうことにする。
 ニューヨークでの遊興を経て、夢に見た南米ボリビアに到着。しかしそこはまるで想像と違った、貧しい国だった。
 今度はエッタの協力も得ながら、銀行強盗を重ねる。しかしこの地でも追っ手の影を感じたブッチとサンダンスは、足を洗うことに。そして、錫鉱山の給料運搬の警護を行う。
 ところがその最中、山賊団が襲撃。ブッチは生まれて初めて、人を殺してしまう。
 行く先に暗雲が垂れ込める中、「2人が死ぬところだけは見ない」と、かねてから言っていったエッタは、ひとりアメリカへ帰国。
 ブッチとサンダンスは、再び強盗稼業に舞い戻る。しかし仕事後、ある村で休息していたところを、警官隊に包囲されてしまう。
 応戦しながらも手傷を負い、追い詰められていく、ブッチとサンダンスだったが…。

*****

 脚本のウィリアム・ゴールドマンは、8年掛けて、ブッチ・キャシティとサンダンス・キッドという、実在した2人の伝説的アウトローについてリサーチ。彼らの生涯を扱った脚本を書き上げた。
 軽妙なタッチで笑えるシーンも多々ありながら、そこで描かれるのは、かつてはジョン・ウェインのようなヒーローが闊歩した、西部の荒野は、今はもう存在しない。ブッチやサンダンスのような、時代遅れのアウトローたちは、ただただ滅んでいくという世界だった。
 ゴールドマンが執筆時に想定していたキャストは、ブッチ・キャシディはジャック・レモン、サンダンス・キッドにはポール・ニューマン。そして実際に、ニューマンが映画化に向けて動き出すこととなる。
 脚本に付いた値段は、当時としては最高値の40万㌦。ニューマンの記憶によると、当初は彼とスティーヴ・マックィーンが、この脚本料を折半して、2人の本格的な共演作として、取り組む予定だったという。
 マックィーンは脚本を気に入りながらも、このプロジェクトから退いた。その理由は、ライバルであるニューマンとのクレジット順、即ち主演としてどちらの名前を先に出すかや、ブッチとサンダンスどちらの役を演じるかで軋轢があった等々、諸説あるが、はっきりとしたことは、今となってはわからない。
 結局ポール・ニューマンのプロダクションが、20世紀フォックスと組んで、本作『明日に向って撃て!』の映画化を進めることとなった。

 監督候補として、これまでにニューマンと組んで成果を上げた者たち、マーティン・リット、スチュアート・ローゼンバーグ、ロバート・ワイズらの名が挙がった。しかしそれぞれオファーに対して、芳しい返事はもらえなかった。
 ニューマンとプロダクションを共同経営するジョン・フォアマンが推薦したのが、ジョージ・ロイ・ヒルだった。ロイ・ヒルは映画監督としては、61年にデビュー。これまでに、『マリアンの友だち』(64)『モダン・ミリー』(66)等のコメディやミュージカルを手がけ、その現代的な感覚が評価されていた。
 監督に正式に決まったロイ・ヒルが、ニューマンと打合せをすると、どこか話が噛み合わない。ニューマンが自分が演じるのは、サンダンス・キッドと思い込んでいたのに対し、ロイ・ヒルは、ブッチ役こそニューマンにふさわしいと考えていたからだった。
 はじめはロイ・ヒルの提案に、ニューマンは首を縦に振らなかった。ブッチ役には喜劇的要素が必要だが、自分にはその素養は無いと、考えていたのである。
 それに対しロイ・ヒルは、コメディ・タッチなのは設定であって、役そのものではないと、説得。それを受けたニューマンは、脚本を読み直し、ブッチ役を演じることを受け入れた。

 ニューマンの相棒の候補となったのは、マーロン・ブランドやウォーレン・ベイティ。マックィーンの名が挙がったのも、実はこの段階になってからだったという説もある。
 ロイ・ヒルは、ブランドやマックィーンのような、わがままなトラブルメーカーと組むのはまっぴら御免だった。そんな彼が強く推したのが、ロバート・レッドフォード。
 その頃のレッドフォードは、30代はじめ。主演作こそあったが、大きなヒットはなく、ブランドやベイティ、マックィーンとは比べるべくもない。まだスターとは呼べない、ただの二枚目俳優だった。
 ロイ・ヒルは、過去作のオーディションでレッドフォードと邂逅。その後も彼が舞台に立つ姿を見て、印象が良かったのである。
 このオファーに関して、ロイ・ヒルとレッドフォードは、改めて面会。その時の印象についてレッドフォードは、「どっちもドス黒いアイリッシュの血を引いていて、お互いに腹の中が読めた」と語っている
 ニューマンはレッドフォードにまだ会ったことがなく、特に彼を推す理由もなかった。一方で、最初にサンダンス役にレッドフォードをと言い出したのは、妻のジョアン・ウッドワードだったなどとも、後年言っている。
 この辺も何が真実だか、曖昧模糊とした話だが、とにかくロイ・ヒルは、レッドフォードにこだわった。20世紀フォックスの製作部長だったリチャード・ザナックから、レッドフォードを起用するぐらいならば、「この企画を流す」と宣告までされたが、最終的にはニューマンや脚本のゴールドマンまで味方につけて、粘り勝ちを収めた。
 レッドフォードは、ロイ・ヒルを信じて、しばらくの間は他の仕事を入れずに待っていた。そして、生涯の当たり役を摑むことになった。

 エッタ・プレイス役には、ジャクリーン・ビセットやナタリー・ウッドも候補に挙がったが、『卒業』(67)で注目の存在となっていた、キャサリン・ロスが決まる。その後目覚ましい活躍をしたとは言い難いロスだが、『卒業』『明日に向って撃て!』という、“アメリカン・ニューシネマ”初期の代表的な2本で、忘れがたいヒロインを演じた女優として、日本でも長く人気を集めた。
 因みにニューマンは、エッタの存在については、「たいして重要ではない」と発言したことがある。彼曰く本作は、「これはじつは、二人の男の恋愛を描いたもの」だからである。
 しかしそこが強調されてしまうと、当時はまだまだ観客の耐性がなく、居心地の悪い思いをさせてしまうことになる。そこでロイ・ヒルは、ブッチ、サンダンス、エッタの3者を、三角関係のように描くことにした。本作の中で最もロマンティックなのが、サンダンスの恋人であるエッタとブッチの自転車二人乗りのシーンであるのは、実はこうした流れに沿ってのことと思われる。

 本作は、メキシコ、ユタ、コロラド、ニュー・メキシコでロケを行った後、ロサンゼルスのスタジオで撮影が続いた。その間にはっきりとしたのは、12歳の差がある、ニューマンとレッドフォードの、共通点と相違点。
 共にアウトドア派で、政治的にはリベラル。そして、ハリウッドの金儲け主義を嫌悪していた。
 メキシコロケの際は、現地の水で体調を崩したくないというのを表向きの理由にして、2人ともビールなどアルコール類しか口にしなかった。そんなこともあってか、打ち解けるのが早かったという。
 一方で、演技のスタイルは正反対。ロイ・ヒル曰く、「ニューマンは撮影する場面を徹底的に、頭の中で分析する。その間、レッドフォードはただそこに立って、しかめっ面をしている…」
 レッドフォードは、リハーサルをすると、無理のない自然さが失われてしまうと考えていた。しかし本作に関しては、「ニューマンがやりたがっていたから」という理由で、リハーサルに臨んだ。
 アクターズ・スタジオなどで学んだ、メソッド俳優であるニューマンは、準備が出来ていても、とことん話し合って、納得がいくまでは撮影に入るのを嫌がった。それに対しレッドフォードは、必要もないのにグズグズしているのを見ると、イライラ。
 現場では折々、ニューマンとレッドフォードの意見の衝突が起こった。2人ともエキサイトはすれども、決して険悪にはならず、ロイ・ヒルはそれを、スポーツ観戦のように楽しんだという。
 ニューマンとロイ・ヒルは、時間にはうるさい人間だった。それに対して、レッドフォードは遅刻魔。ニューマンは、レッドフォードの利き腕が左手なのに引っ掛けて、本作のタイトルを、『レフティ(左利き)を待ちながら』に変えたいと思ったほどだと、ジョークを飛ばしている。そしてわざわざ、「約束の時間を守るのが礼儀の基本」という格言を縫い込んだレースを、レッドフォードにプレゼントしている。

 ニューマンは、本作及びブッチとサンダンスのキャラクターについて後年、「嬉しい想い出。二人とも映画の中でいつまでも活躍してほしい好漢だった」と語っている。そんなことからもわかるように、笑い声が絶えない撮影現場だったという。
 撮影初日に、ニューマンはレッドフォードに、こんな風に声を掛けた。「四千万ドルの興収を上げる映画に初めて出演する気分はどうだい?」
 レッドフォードは内心、「自信過剰だ」と思ったというが、本作が69年9月に公開されると、ヴィンセント・キャンビー、ポーリン・ケイル、ロジャー・エバートといった、著名な映画評論家たちにディスられながらも、爆発的な大ヒットとなった。興収は4,000万㌦どころではなく、1億200万㌦まで伸びた。
 アカデミー賞では、作品賞、監督賞など7部門にノミネート。その内、脚本、主題歌、音楽、撮影の4部門で受賞となった。
 その直後から、ニューマンとレッドフォード、再びの顔合わせを望む声は、引きも切らなかった。71年にはニューヨーク市警に蔓延する汚職を告発した刑事の実話の映画化『セルピコ』で、レッドフォードが主役の刑事役、ニューマンが同僚の警官役で再共演という話が持ち上がった。
 こちらの話は流れて、73年にシドニー・ルメット監督、アル・パチーノ主演で実現したが、その同じ年にニューマン&レッドフォードに加えて、ジョージ・ロイ・ヒル監督というトリオが、復活!その作品、1930年代を舞台に、詐欺師たちの復讐劇を描いたクライム・コメディ『スティング』は、『明日に向って撃て!』を超える大ヒットとなった上、アカデミー賞でも10部門にノミネート。作品賞、監督賞など7部門を獲得する、大勝利を収めた。
 その後も度々、ニューマン&レッドフォード&ロイ・ヒルのトリオ、或いはニューマン&レッドフォードのコンビによる作品製作が模索されたが、ロイ・ヒルが2002年に80歳で亡くなり、ニューマンも07年に83歳で逝去したため、遂に実現には至らなかった。
 80代を迎えたレッドフォードも18年に、『さらば愛しきアウトロー』を最後の出演作に、俳優業を引退。
 いま改めて振り返れば、本作『明日に向って撃て!』で、60年代アメリカ映画を代表する二枚目俳優、ポール・ニューマンの薫陶を受け、レッドフォードは、一挙にスターダムにのし上がった。その後70年代ハリウッドを代表する大スターへと成長していったのは、多くの方がご存じの通りである。
 彼はサンダンス・キッド役のギャラで、ユタ州のコロラド山中に土地を購入して、サンダンスと命名。その地に「サンダンス・インスティチュート」を設立して、若手映画人の育成を目的とする、「サンダンス映画祭」の生みの親となった。
 そうした事々を考えると、『明日に向って撃て!』は、“アメリカン・ニューシネマ”の名作という位置付け以上に、映画史に残した影響が、非常に大きな作品なのである。■

『明日に向って撃て!』© 1969 Twentieth Century Fox Film Corporation and Campanile Productions, Inc. Renewed 1997 Twentieth Century Fox Film Corporation and Columbia Pictures Industries, Inc. All rights reserved.