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COLUMN/コラム2021.03.01
“ゾンビ”を発明した男ロメロの最後の挑戦!『サバイバル・オブ・ザ・デッド』
120余年に及ぶ映画の歴史の中で、偉大なる発明と言えるものは、数多ある。そんな中でも、現在日々世に送り出される映画やドラマ、TVゲーム他の創作物に、多大な影響を与えているひとつが、“ゾンビ”であろう。 連日連夜、世界のありとあらゆる所で、スクリーンやモニターを、“ゾンビ”が徘徊している。そして、そんな“ゾンビ”の発明者こそ、本作『サバイバル・オブ・ザ・デッド』(2009)の監督、ジョージ・A・ロメロ(1940~2017)であることに、異議を唱える者はまず居まい。 ロメロは弱冠28歳の時に発表した、モノクロ低予算の長編作品『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(1968)で、“リビングデッド≒ゾンビ”を初登場させた。この作品で彼が現出させたのは、理由が不明のまま死者たちが甦り、生きている人間を襲っては喰い殺す、生き地獄のような世界。噛みつかれた者は確実に、死に至る。そして蘇っては、生者を喰らうようになる…。『ナイト・オブ…』は、続く『ゾンビ』(78)『死霊のえじき』(85)と合わせて、「リビングデッド・トリロジー」と言われる。この3作品でロメロは、“ゾンビもの”というジャンルを映画の世界に創り出し、確立したのである。 ロメロ作品以前にも、“ゾンビ”という名のモンスターは、存在した。そしてスクリーンにも登場していた。 それは西インド諸島のハイチに伝わる民間伝承を元にしたもので、ブードゥー教の司祭によって蘇らされた、歩く死体を指す。こちらの元祖“ゾンビ”は、生者の奴隷として働かされ、人肉を喰らうことなどない。1960年代中盤生まれの筆者の世代が、幼少時に“世界のモンスター図鑑”のような書籍で目の当たりにした“ゾンビ”は、こちらの方である。 付記しておけば、ロメロが自ら創造した“リビングデッド”に、“ゾンビ”と言う名を冠した事実はない。それは他者によるネーミングであるが、“トリロジー”の第2作、原題『DAWN OF THE DEAD=死者たちの夜明け』が、ヨーロッパや日本で公開される際に、『ゾンビ』というタイトルが付けられたことで、決定的になったものと思われる。 いずれにしろ人を喰う“ゾンビ”が登場する作品で、ロメロの影響を受けていないものは、ジャンルを問わず、皆無と言っても良い。ロメロが居なければ、「バイオハザード」も、「ウォーキング・デッド」も、「アイアムアヒーロー」も、『カメラを止めるな!』(17)も存在しなかったのである。 それにしても、架空のモンスターに過ぎない“ゾンビ”が、なぜここまで市民権を得て、持て囃されるようになったのか?その一因として、社会のリアルな現実や世相を創作物に投影するのに、実に都合が良い存在であることが挙げられる。 元々オリジナルの『ナイト・オブ…』のモチーフは、“ベトナム戦争”である。続く『ゾンビ』では、死して尚巨大なショッピングモールに集まってくる“ゾンビ”たちが、消費社会でコマーシャリズムに踊らされる現代人へのアイロニーであることは、あまりにも有名だ。 ロメロに続く“ゾンビもの”の中で、例えば韓国製の『新感染 ファイナル・エクスプレス』(16)で起こるゾンビ禍には、“朝鮮戦争”が重ねられている。また多くの作品で、死者が“ゾンビ”化する原因に、生物兵器の流出や疫病によるパンデミックを紐づけるのは、市井の者が抱くリアルな不安が、反映された結果であろう。 さて、そんなすべての“祖”であるロメロだが、“トリロジー”最終作の『死霊のえじき』以降は、暫し“ゾンビもの”から離れる。その時点で、このジャンルでやれることは「やりつくした」のは事実だった。またクリエイターとして、“ゾンビもの”だけで終わりたくないという思いも、あったのだろう。 しかしロメロは、それまでの“ゾンビもの”とは勝手が違う、例えば『ダーク・ハーフ』(93)のような、製作費が高額でスターを起用したメジャー作品では、観客や批評家の支持を得ることが、出来なかった。また常に幾つかの企画を抱えながらも、クランクイン直前で頓挫というケースも、続いたのである。 しからば改めてということか、“ゾンビもの”を監督する企画が浮上したこともあった。こちらも結局は、製作サイドやスポンサーと折り合いがつかず、実現することはなかった。 結局『死霊のえじき』で“トリロジー”にピリオドを打った85年以降の20年間は、長編の監督作品は3本しかなかった、ロメロ。猛然とスパートを掛けたのは、2000年代後半のことだった。『ランド・オブ・ザ・デッド』(05)『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』(07)『サバイバル・オブ・ザ・デッド』(09)…。“ゾンビもの”を連発したのである。 この“新三部作”の口火を切った『ランド・オブ…』では、“ゾンビ”の侵入をフェンスで阻む街に於いて、人間界が富裕層と貧困層に大別されている。バリバリ社会批判を盛り込んだこの物語は、時系列的には、『ナイト・オブ…』にはじまる“リビングデッド・トリロジー”の流れを汲む。“トリロジー”の、いわば外伝的な内容と言える。 一方、それに続く『ダイアリー・オブ…』は、“トリロジー”から離れた新たなタイムライン、別次元での“ゾンビ”発生からスタートする物語。そしてそのアプローチも、挑戦的且つ大変ユニークなものとなっている。 卒業製作で作品を撮影中の映画学科の大学生が、“ゾンビ”発生という未知の事態に遭遇し、そのままカメラを回し続ける。即ち『ダイアリー・オブ…』は、主観映像によるフェイクドキュメンタリータッチの作品なのである。 そしてそれに続く『サバイバル・オブ…』は、時系列的には、『ダイアリー・オブ…』から連なる物語となっている。 死者がよみがえるようになった世界。アメリカのデラウェア州沖に浮かぶプラム島では、島を二分する、オフリン一族とマルドゥーン一族の対立が、激化していた。 オフリンは、死んで“ゾンビ”となった者は、頭を撃ち抜いて脳を破壊。永遠の眠りに就かせるべきだと主張し、次々と実行。一方マルドゥーン側は、死者が“ゾンビ”となっても、神の思し召しとして、そのまま生かしておくべきという考えだった。 一族の長パトリックをリーダーとするオフリン側は、マルドゥーンとの争いに敗れる。そして島外へと、追放されてしまう。 それから3週間後の、ペンシルベニア州フィラデルフィア。軍から脱走した元州兵のブルーベイカーたちは、強盗を続けて、糊口をしのいでいた。 そんな時に出会った少年から、ブルーベイカーたちは、ネットで見付けた「安全な島」の情報を知らされる。彼らはその情報を信じ、その島=プラム島へと向かうことを決める。 成り行きで、島から追放されたパトリック・オフリンも伴うことになった彼らは、半信半疑で島へと渡る。そこで見たものは、鎖につながれて生前の行動をなぞるように繰り返す“ゾンビ”たちだった。そしてそれは、“ゾンビ”を生かしておくべきと考える、マルドゥーンの仕業だった。 怒りの炎を燃やしたパトリックは、マルドゥーンに対する復讐を企てる。オフリン一族とマルドゥーン一族の戦いは、よそ者である元州兵たちを巻き込んで、再燃するのだった…。 『サバイバル・オブ…』に関しては一見した瞬間、ウィリアム・ワイラーが監督した、『大いなる西部』(58)のリメイク的な内容であることに気付く方が、少なくないであろう。テキサスが舞台の『大いなる西部』では、水源を巡って2つのファミリーが対立しているのだが、それを“ゾンビ”の処し方に置き換えた形だ。 一体なぜ、こういった内容の作品になったのか?実は前作『ダイアリー・オブ…』が、世界中にセールスされて黒字になったのを受けて、製作サイドからもう1本、何か“ゾンビもの”が撮れないかという提案が急遽あった。しかしロメロには、ちょうど手持ちのアイディアがなかったのである。 そこで思い付いたのが、ロメロ自身が大好きな西部劇の名作『大いなる西部』を、“ゾンビもの”として、現代に蘇らせるというプロジェクト。これならば、人間の愚かしさや不毛な対立劇という普遍的なテーマに、“ゾンビもの”に不可欠な、ガンアクションも盛り込めるというわけだ。 製作費は300万㌦で撮影期間は24日間という、前作『ダイアリー・オブ…』を下回る、過酷な撮影条件だったが、これはロメロにとっては、意義のある挑戦だった。成功すれば、“ゾンビもの”という枷さえ受け入れれば、ジャンルを横断した、意欲的な試みを行うことができるという証になる筈だった。 しかし残念なことに、『サバイバル・オブ…』は、アメリカでまともに劇場公開されることなくソフト化。世界中で製作費の10分の1である30万㌦しか稼ぎ出せず、ロメロの“ゾンビもの”6本の中で、唯一大コケした作品となってしまったのである。 2000年代後半、年齢的には60代後半に、一気呵成に3本の“ゾンビもの”を撮り上げたロメロ。しかし『サバイバル・オブ…』の興行的失敗が祟ったか、2010年代、70代に突入したその後は、沈黙を守ることとなる。 もうロメロの新作は、見られないのか?そんなことを人々が思うようになった頃、2017年6月、ロメロの新たな“ゾンビもの”の企画が明らかにされた。『ロード・オブ・ザ・デッド』!メガフォンは取らないものの、ロメロが共同脚本と製作手掛けるということだった。 ところがその1か月後の、7月17日。ロメロの訃報が、世界を駆け巡った。そして『ロード・オブ…』は、数多いロメロの幻の企画の中の1本となってしまったのである。 それから4年、“新型コロナ禍”で、全世界が恐怖と不安に包まれている今だからこそ、心して観よう!「映画史を変えた男」の最後の“ゾンビもの”にして、“遺作”となってしまった、『サバイバル・オブ・ザ・デッド』を!! 偉大なるジョージ・A・ロメロの魂と無念を、大いに感じ取って欲しい。■ 『サバイバル・オブ・ザ・デッド』© 2009 BLANK OF THE DEAD PRODUCTIONS INC. ALL RIGHTS RESERVED
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COLUMN/コラム2021.02.05
初恋のときめきと喜び、痛みと哀しみを瑞々しく描く普遍的なラブストーリー『君の名前で僕を呼んで』
8年間の紆余曲折が結実した名作 1980年代のイタリア、木漏れ日の眩しい緑豊かな田舎の避暑地、ゆったりと過ぎていくのどかで平和な時間、初めて出会った17歳の少年と24歳の青年が、生涯忘れられぬひと夏の恋を経験する。思春期の若者の揺れ動く感情と抑えきれぬ性の衝動、誰もが一度は経験する初恋のときめきと興奮と喜び、そして否応なく訪れる別れの痛みと哀しみとほろ苦さ。そんな世代や性別を問わず共感できる普遍的なラブストーリーを、これほど瑞々しく鮮やかに描き出した作品はなかなかないだろう。 原作はエジプト出身でニューヨーク在住の文学研究者アドレ・アシマンが’07年に発表した同名小説。出版と同時に全米のメディアで称賛され、優れたLGBTQ文学に贈られるラムダ文学賞にも輝く同作に強い感銘を受けた人々の中に、『花嫁のパパ』や『天使のくれた時間』のプロデューサー、ハワード・ローゼンマンと元俳優の脚本家ピーター・スピアーズがいた。’08年に共同で映画化権を取得した2人は、スピアーズの友人でもあるイタリアの監督ルカ・グァダニーノに演出をオファーするものの、当時多忙だった彼はプロデュースのみで関わることにしたという。そこでローゼンマンとスピアーズは他を当たることになるのだが、なかなか先へ進まないまま時間だけが経ってしまった。 そんな本作の企画に大きな動きがあったのは’14年のこと。『眺めのいい部屋』や『モーリス』、『ハワーズ・エンド』、『日の名残り』などで知られる巨匠ジェームズ・アイヴォリーが脚本を執筆することになったのだ。さらにグァダニーノ監督のスケジュールも調整がつき、当初はアイヴォリーとの共同監督という案もあったものの、最終的に監督は1人の方がいいという判断から、グァダニーノが単独で演出を手掛けることとなる。その後も相次いでキャストやスタッフ、ロケ地も決まるが、しかしストーリーの都合で夏にしか撮影できないという制限があったため、関係者のスケジュールが変わるたびに撮影が延期され、ようやく着手できたのは’16年の夏だったという。 それはいつもと変わらぬ夏休みのはずだった… 時は1983年の夏、場所は北イタリアの風光明媚な田舎町。ギリシャ=ローマ美術史の教授サミュエル(マイケル・スタールバー)を父に、幾つもの言語に精通した翻訳家アネラ(アミラ・カサール)を母に持つ17歳の少年エリオ(ティモシー・シャラメ)は、自身もイタリア語に英語、フランス語を自在に操るマルチリンガルで、ピアノやギターの優れた演奏家でもあり、文学と音楽をこよなく愛する知的で感受性の豊かな思春期の少年だ。17世紀に建てられた先祖代々受け継がれる美しいヴィラに暮らし、眩い太陽の光と緑豊かな自然に囲まれて読書や音楽を楽しみ、フランス人のマルシア(エステール・ガレル)やキアラ(ヴィクトワール・デュボワ)など近所の幼馴染らと無邪気に戯れながら長いバカンス・シーズンを過ごすエリオ。それはいつもと変わらぬ夏休みのはずだった。 そんなある日、24歳の大学院生オリヴァー(アーミー・ハマー)がアメリカからやって来る。エリオの父親は自身の研究活動を手伝ってもらうため、毎年アメリカから大学院生をインターンとして受け入れ、自宅に6週間滞在させていたのだ。ハンサムで知的で自信に満ち溢れたオリヴァーに、これまでのインターンとは違う何かを感じて惹きつけられるエリオ。オリヴァーもまた、聡明で繊細なエリオに好感を抱いている様子で、積極的にスキンシップをとって来るのだが、エリオはついつい本心とは裏腹に意地悪な態度を取ってしまう。そればかりか、ダンスパーティでキアラと親しげに踊るオリヴァーを見たエリオは嫉妬し、わざとマルシアとのデートを自慢して彼を挑発する。当然ながらオリヴァーはエリオと距離を置くように。それがまたエリオには苛立たしい。 とある晩、親子3人の団欒の場で母アネラが、16世紀フランスの小説をドイツ語でエリオに読み聞かせる。それは身分違いの王女に恋した騎士の話。その想いを王女に告白すべきか否か。翌朝、自転車に乗ってオリヴァーと2人で町へ出かけたエリオは、意を決して彼に自らの素直な気持ちを打ち明ける。それを口にしちゃいけないと年下のエリオをけん制しつつも、自らも同じ想いであることを否定しないオリヴァー。これを境にエリオとオリヴァーの距離はだんだんと縮まり、2人はかけがえのない幸福な時間を過ごすのだが、しかし夏の終わりは少しずつ、だが確実に近づいていた…。 あるべき大人の姿が物語の屋台骨を支える 恐らく本作の最も特筆すべき点は、男性同士の恋愛を男女のそれと全く変わらぬものとして、ごくごく自然な筆致で描いていることであろう。なので、LGBTQを題材にした映画でよくあるような、差別や偏見との闘いや葛藤などはほとんど存在しないに等しい。もちろん、全くないというわけじゃない。現にエリオもオリヴァーも、自分たちの関係を周囲には隠し通そうとする。恐らく理解されないと考えているのだろう。しかし、恋に落ちた2人だけの煌めく世界には迷いも苦悩も罪悪感も一切ない。ただひたすら、心から純粋に愛し愛されることの歓喜と幸福に満ちているのだ。 そんな彼らを温かな目で見守るのが、優しくて落ち着いていてユーモアのセンスがあり、息子の知性や意思をきちんと尊重して受け止める、エリオの進歩的で教養豊かな両親だ。ゲイ・カップルと家族ぐるみの付き合いをしているくらいだから、当時としてはかなりリベラルなインテリ夫婦なのだろう。息子とオリヴァーの関係だって、言われずともすべてお見通し。それでいて、息子が必要とする時に支えるだけで、それ以外は一切口出しをしない。まさに大人とはかくあるべし。一歩間違えれば綺麗ごとになりかねないキャラクターだが、しかし終盤で父親サミュエル(原作者の父親がモデルだという)がエリオに語る含蓄に溢れる言葉が、この映画の意図するところを明確にし、絵空事にならない豊かな説得力を両親の役割に与えている。 自分が若かった頃に必要だった人間になること。それが次世代の若者の手本となり、やがては彼らが生きやすい社会を形成することにもつながるだろう。映画もまた然り。相手が誰であろうと人を心から愛することに優劣はないし、ましてや恥ずべきことでは決してない。そもそも愛情とは人間にとってごく自然な感情であり、その喜びも哀しみも痛みもすべてをひっくるめて、かけがえのないほど素晴らしいものなんだ。そんなメッセージを持った映画を若い頃に求めていた作り手たちが、次世代の若者たちへ向けて贈る人生の指標的な物語。それがこの『君の名前で僕を呼んで』なのだと言えよう。 古き良き時代ののどかで素朴な北イタリア、のんびりと流れていく贅沢な時間。その中で一進一退を繰り返しながらも、確かな愛情の絆を育んでいくエリオとオリヴァー。その全てを端正な映像美と穏やかなテンポで描いていくルカ・グァダニーノの監督の演出がまた筆舌に尽くしがたい。特に、’80年代当時に思春期真っ盛りだった世代の映画ファンにとっては、本作の驚くほどリアルで鮮やかな時代の再現力には息を吞むはずだ。グァダニーノ監督が参考にしたというモーリス・ピアラ監督の名作『愛の記念に』(’83)や『ラ・ブーム』(’82)など、当時のヨーロッパ産青春映画のノスタルジックで甘酸っぱい世界そのもの。また、監督の地元であるロンバルディア州の町クレマとその近郊で撮影されたというロケーションには、どこかベルナルド・ベルトルッチ作品を彷彿とさせるものも感じられる。 さらに、イタリア語に英語、フランス語、ドイツ語など多言語が自在にポンポンと飛び交うセリフも、主人公の育った環境の豊かさや登場人物たちの教養の高さ、そしてヨーロッパの地政学的な背景を雄弁に物語る。これは日本語吹替版ではなかなか伝わらない要素なので、やはり字幕版で見るべき作品なのかもしれない。 ‘80年代ヨーロッパを彩った名曲の数々にも注目 加えて、’80年代ノスタルジーを一層のこと掻き立てるのが、全編に渡って散りばめられたBGMの数々である。アメリカのシンガー・ソングライター、スフィアン・スティーヴンスのオリジナル曲を中盤とエンディングに使用している本作だが、それ以外では’80年代当時のヒット曲が様々な場面で流れる。この選曲がまた極めてヨーロッパ的で面白い。 今以上にヒットチャートのローカル色が強かった当時、アメリカとヨーロッパでは上位にランキングされる楽曲やアーティストのメンツもかなり異なっていた。ヨーロッパで一世を風靡するような大ヒット曲が、アメリカでは全く受けないなんてことはザラだったし、もちろんその逆もまた然り。本作のサントラはグァダニーノ監督自身が選曲したそうだが、恐らくアメリカ人の監督だったらこうはならなかったであろう。そこで、最後は劇中で使用された印象的な楽曲を幾つか紹介して、本稿の締めくくりとさせていただきたい。 「Paris Latino」Bandoleroフランス出身の一発屋ディスコ・バンド、バンドレロが’83年にリリースしたデビュー曲。タイトル通りのラテン風ユーロディスコ・ナンバーで、フランスやベルギーなどフランス語圏を中心にヨーロッパ各国で大ヒット。その大きな波を受けて、アメリカやイギリスでもヴァージン・レコードから発売されたがパッとしなかった。劇中では、オリヴァーに肩を触られたエリオがドギマギするバレーボールのシーンで使用されている。 「Lady Lady Lady」Giorgio Moroder featuring Joe Espositoドナ・サマーのプロデューサーとして一時代を築いたジョルジオ・モロダーが、そのドナの大ヒット曲「バッド・ガールズ」などの共同ソングライターだったジョー・エスポジートをボーカルに迎えて発表したバラード曲。もともとは映画『フラッシュダンス』のサントラ用にレコーディングされ、同年発売されたモロダーとエスポジートのコラボ・アルバム「Solitary Man(邦題『レディ・レディ・レディ』)」にも収録された。アメリカでは全米チャート86位と振るわなかったが、ヨーロッパ各国ではトップ10入りするヒットに。劇中ではダンスパーティのチークタイム曲として使用されている。 「Love My Way」The Psychedelic Fursその「Lady Lady Lady」に続いて流れるダンス・ナンバーが、’80年代に日本でも人気だったUKのポストパンク・バンド、ザ・サイケデリック・ファーズが’82年に出したシングル「Love My Way(邦題『ラヴ・マイ・ウェイ』)」。彼らといえば、後に映画『プリティ・イン・ピンク』で使用された同名曲(’81年発売)が恐らく最も有名だと思うのだが、こちらを選ぶあたりは大ファンを自認するグァダニーノ監督らしいセンスと言うべきだろうか。 「Words」F.R. Davidエリオがマルシアと屋根裏部屋でセックスをするシーンで、ラジオから流れてくる甘く切ないポップ・バラードが、フランス出身のシンガー・ソングライター、F・R・デヴィッドの代表曲「Words(邦題『ワーズ』)」。これは当時、日本のディスコでもかなり流行ったので、ご存知の方も少なくないかもしれない。’82年にリリースされるやヨーロッパ各国のヒットチャートで1位を独占し、全英チャートでも最高2位をマーク。今なお’80年代を代表する名曲としてヨーロッパで愛され、幾度となくリミックス盤もリバイバル・ヒットしているのだが、なぜかアメリカでは不発に終わってしまった。■ 『君の名前で僕を呼んで』© Frenesy, La Cinefacture
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COLUMN/コラム2021.02.04
漂泊者ポランスキーの「呪われた映画」『ローズマリーの赤ちゃん』
本作『ローズマリーの赤ちゃん』(1968)の原作小説は、アイラ・レヴィン(1929~2007)が、67年に発表。ベストセラーになった。 レヴィンは、物語に時事的な社会問題を織り込んでサスペンスを醸し出す、巧みなストーリーテラーとして評価が高かった作家である。72年に出版された「ステップフォードの妻たち」は、“ウーマン・リブ”の時代への男性の恐怖心をベースにしたもの。76年の「ブラジルから来た少年」では、ナチス・ドイツ残党の実在の医師メンゲレが、当時最新の“クローン”技術で、ヒトラーの復活を企てる。 そしてそれらに先立つ「ローズマリーの赤ちゃん」は、50年代末から60年代初めに起こった世界的な大事件から、着想を得ている。 ニューヨークに住む、ローズマリーとガイの若夫婦。ガイは俳優で、舞台やテレビCMなどに出演するも、今イチぱっとしない。 夫婦は歴史のあるアパート、ブラムフォードへと引っ越す。2人の中高年の友人ハッチは、過去に数々の事件が起こった場所だと懸念するが、夫婦は耳を貸さなかった。 入居して間もなくローズマリーは、隣室のカスタベット夫妻宅の居候だという、若い娘テリーと親しくなる。しかしその数日後、テリーは窓から身を投げ、自殺を遂げる。 その件がきっかけで、ローズマリーとガイは、テリーの面倒を見ていた隣室の老夫婦、ローマンとミニーと顔見知りになる。夕食に招かれるなどする内に、ガイは演劇に詳しいローマンと親しくなり、カスタベット家を頻繁に訪ねるようになる。 そして間もなく、ガイのライバルの俳優が突如失明。ガイに役が回るという、思いがけないチャンスが巡ってきた。 時を同じくしてガイは、子作りにも積極的になる。ローズマリーの排卵日、彼女はミニーから差し入れられたデザートを食べた後、目まいに襲われ、ベッドに臥せってしまう。 その夜ローズマリーは、夢を見る。ガイやカスタベットらが見守る中で、人間離れした者に犯されるという内容の悪夢であった。 翌朝起きると、彼女の身体のあちこちに、引っかき傷が出来ていた。ガイは、子作りのチャンスを逃したくなかったので、意識のないローズマリーを抱いたと説明をする。 エヴァンスが『反撥』に感心して、ポランスキーに監督をオファーしたことは、先に記した通りだ。『反撥』は、セックスへの恐怖心が昂じて、閉鎖空間で現実と妄想の区別がつかなくなって狂っていく、若い女性が主人公の作品である。 そんな作品を撮ったポランスキーこそ、「ローズマリー…」の映画化に正に打ってつけの人材と、エヴァンスは見込んだ。そしてポランスキーもまた、この題材に強く惹かれたというわけである。 ポランスキーは自分で注文をつけた通り、ほぼ「原作に忠実」な映画化を行った。そんな中ローズマリーが犯されるシーンで、LSDを服用したかのような、サイケな映像を用いて、現実とも妄想ともつかないように演出している辺り、当時の彼の才気が爆発している。 原作からの改変として、ポランスキーが挙げるのは、次の一点のみ。 「…私はラストを少し改変した。というのは、本の結末は少しばかり失望させるものだったからだ。あそこはちょっと長引きすぎると思う」。 これに関しては機会があったら、是非原作と映画版の違いを、自らの目で確かめて欲しい。 何はともかく、レヴィンの原作とポランスキー監督のマッチングは、大成功! ローズマリー役のミア・ファローのニューロティックな感じもピタリとハマった。映画は大ヒットを記録し、ポランスキーはアカデミー賞の脚色賞にもノミネートされる。 通常ならばこうした経緯を、「幸運な出会い」と表現するべきなのであろう。しかしこの作品に関しては、それ以上に他の形容をされる場合が多い。「呪われた映画」であると…。 後に原作者のレヴィンは、自分は“サタン”を信じないと発言。またポランスキーは、無神論者であることを明言している。それなのにこの作品とその成功は、作り手がつゆとも思わなかった、“悪魔”を呼び込んでしまったのである。 『ローズマリー…』の大成功により、ハリウッドの住人として認められたポランスキーは、映画公開の翌年=69年2月、ロサンゼルスに居を構える。それから半年経った8月9日朝、ポランスキー家のメイドが、5人の遺体を発見する。 殺害されていたのは、ポランスキーが『吸血鬼』で出会って結婚し、当時妊娠8カ月だった女優のシャロン・テートと、ポランスキー夫妻の関係者ら。ポランスキー本人は、次回作のシナリオ執筆のためロンドンに滞在しており、留守にしていた。 数か月後、凶行に及んだのは、チャールズ・マンソンが率いるカルト集団であることが判明。この犯行は無差別殺人の一環であり、ポランスキーの邸宅が狙われたのは、単なる偶然であった。 いずれにせよ、『ローズマリー…』が成功せず、ポランスキーがロスに居を移すことがなかったら…。若妻がカルト集団に惨殺されることも、なかったわけである。 因みに映画でローズマリーらが住むアパート、ブラムフォードの外観に使われたのは、ニューヨークのセントラルパーク前に在る、ダコタハウス。1980年12月8日、ここに住むジョン・レノンが、玄関前で撃たれて落命した、あのダコタハウスである。 これは、映画とは何ら関係のない事件である。しかしミア・ファローが、ビートルズのメンバーと共に、インドで瞑想の修行に臨んだ過去の印象などもあってか、『ローズマリー…』を「呪われた」と語る場合、不謹慎な言い方になるが、レノンの殺害が、その彩りになってしまっているのは、紛れもない事実と言える。『ローズマリーの赤ちゃん』TM, ® & © 2021 by Paramount Pictures. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2021.02.02
原作者スティーブン・キングが小説版以上の出来と認めた青春ホラーの傑作『キャリー』
ブラアン・デ・パルマをメジャーな存在へと押し上げた出世作 ブライアン・デ・パルマ監督の出世作である。ニューヨークのインディーズ業界からハリウッドへ進出したものの、初のメジャー・スタジオ作品『汝のウサギを知れ』(’72)が勝手に再編集されたうえに2年間もお蔵入りするという大きな挫折を経験したデ・パルマ。その後、『悪魔のシスター』(’72)や『ファントム・オブ・パラダイス』(’74)がカルト映画として若い映画ファンから熱狂的に支持され、敬愛するヒッチコックへのオマージュを込めた『愛のメモリー』(’76)も好評を博す。そんな上昇気流に乗りつつあった当時の彼にとって、文字通り名刺代わりとなるメガヒットを記録した作品が、スティーブン・キング原作の青春ホラー『キャリー』(’76)だった。 主人公は16歳の女子高生キャリー・ホワイト(シシー・スペイセク)。狂信的なクリスチャンのシングルマザー、マーガレット(パイパー・ローリー)に厳しく育てられた彼女は、それゆえに自己肯定感が低く内向的な怯えた少女で、学校ではいつも虐めのターゲットにされている。宗教本を押し売り歩く母親マーガレットも、近所では鼻つまみ者の変人。アメリカのどこにでもある平凡な田舎町で、隔絶された世界に住む母子は完全に浮いた存在だ。 そんなある日、学校のシャワールームでキャリーが初潮を迎える。だが、知識のないキャリーは下腹部から流れ出る鮮血に慄いてパニックに陥り、その様子を見たクラスメートたちは面白がってはやし立てる。そればかりか、帰宅して生理の来たことを報告したキャリーを、母親マーガレットは激しく叱責する。それはお前が汚らわしい考えを持っているからだと。神に祈って許しを請うよう、嫌がる娘を狭い祈祷室に無理やり閉じ込めて罰するマーガレット。この一連の出来事が起きて以来、キャリーは自らの特異な能力に気付いていく。実は彼女、怒りの衝動によって周囲の物を動かすことが出来るのだ。図書館で調べたところ、それはテレキネシスと呼ばれるもので、世の中には他にも同様の能力を持つ人がいるらしい。自分は決してひとりじゃない。そう思えた時、キャリーの中で何かが少しずつ変わり始める。 一方、学校ではシャワールームの一件に腹を立てた体育教師コリンズ先生(ベティ・バックリー)が、虐めに加わった女生徒たちに放課後の居残りトレーニングを課す。さぼった生徒はプロム・パーティへの参加禁止。これに不満を持ったリーダー格の人気者クリス(ナンシー・アレン)が抵抗を試みるものの、コリンズ先生の怒りの火に油を注いでしまい、彼女だけがプロムから締め出されることとなる。そんな懲りないクリスとは対照的に、虐めに加わったことを深く反省する優等生スー(エイミー・アーヴィング)は、ボーイフレンドのトミー(ウィリアム・カット)にキャリーをプロムへ誘うよう頼む。それは彼女なりの罪滅ぼしだった。 学校中の女子が憧れるハンサムな人気者トミーからプロムの誘いを受け、思わず頬を赤らめて舞い上がるキャリー。烈火のごとく怒り狂い猛反対する母親をテレキネシスで抑えつけた彼女は、精いっぱいのおめかしをして意気揚々とプロムへと出かけていく。さながら醜いアヒルの子が美しい白鳥へと変貌を遂げた瞬間だ。プロム会場では人々から羨望の眼差しを向けられ、そのあどけない笑顔に自信すら覗かせるようになったキャリーは、トミーに優しくリードされて夢心地のチークダンスを踊る。これまでの惨めな人生で味わったことのない高揚感と幸福感に包まれるキャリー。だが、その裏で彼女を逆恨みするクリスが、恋人の不良少年ビリー(ジョン・トラヴォルタ)や腰巾着ノーマ(P・J・ソールズ)らと結託し、公衆の面前でキャリーを貶めるべく残酷ないたずらを仕組んでいた…。 紆余曲折を経た映画版製作までの道のり 学校では虐められ、家庭では虐待を受ける孤独な超能力少女の復讐譚。幸福の頂点から地獄へと叩き落されたキャリーが、いよいよ強大なテレキネシスの能力に覚醒し、炸裂する怒りのパワーによって凄まじい大殺戮が繰り広げられる終盤の阿鼻叫喚は、スプリット・スクリーンやジャンプカットの効果を存分に活かしたデ・パルマ監督のダイナミックな演出も功を奏し、ホラー映画史上屈指の名シーンとなった。とはいえ、本質的には大人への階段を上り始めた少女の自我の目覚めと、若さゆえに残酷な少年少女たちが招く悲劇を丹念に描いた普遍的な青春ドラマ。超能力はあくまでもヒロインの自我を投影するギミックに過ぎない。だからこそ、劇場公開から45年近くを経た今もなお、観客に強く訴えかけるものがあるのだろう。そもそも、スティーブン・キング作品の映画化に失敗作が少なくないのは、こうしたストーリー上の超常現象的なギミックに惑わされてしまい、核心である日常的なドラマ部分を軽んじてしまいがちになるからだ。そう考えると、原作の本質を見失うことなく映画向けに再構築した脚本家ローレンス・D・コーエンの功績は計り知れない。 スティーブン・キングの処女作として’74年に出版され、翌年にペーパーバック化されると大きな反響を巻き起こしたホラー小説『キャリー』。当時、映画製作者デヴィッド・サスキンドのアシスタントとして働いていたコーエンは、持ち込まれた多くの企画の中から2つの作品に目をつける。それが『アリスの恋』(’74)のオリジナル脚本と、まだ出版される前の『キャリー』の原稿だった。中でも、10代の若者の純粋さや残酷さを鮮やかに捉えた『キャリー』に強い感銘を受けたという。だが、前者はマーティン・スコセッシ監督による映画化がすぐ決まったものの、後者はボスであるサスキンドのお眼鏡に適わなかった。なにしろ、ホラー映画はB級という先入観がまだまだ強かった時代だ。基本的にフリーランスの立場だったコーエンは、折を見て幾つもの映画会社や製作者に『キャリー』を持ち込んだが、しかしどこへ行っても眉をひそめられたという。 製作主任を務めた『アリスの恋』の撮影終了後、新たな仕事を探していたコーエンは、親しい友人の勧めで『明日に向かって撃て』(’69)の製作者ポール・モナシュの面接を受ける。しかし興味を惹かれるような企画がなかったため立ち去ろうとしたところ、モナシュから「そういえば、もうひとつ企画があったな。『キャリー』っていうんだけれど、知っているかね?」と声をかけられて思わず振り返ってしまったという。実はモナシュが既に映画化権を手に入れていたものの、まだベストセラーになる前だったため埋もれていたのだ。運命を感じたコーエンは、モナシュのもとで『キャリー』の企画を担当することに。テキサス在住の若い新人女性が書いたという脚本の草稿を読んだところ、原作に忠実でもなければ本質を捉えてもいないため、コーエンが一から脚本を書き直すこととなったのだ。 こうして出来上がった新たな脚本を、当時モナシュと配給契約を結んでいた20世紀フォックスに提出したコーエン。通常、映画会社が判断を下すのに数週間はかかるのだが、本作はその翌週にフォックスから却下の返答があったという。当然ながら、脚本の仕上がりに自信のあったモナシュとコーエンは落胆する。しかし捨てる神あれば拾う神あり。世の中には不思議な偶然があるもので、ちょうど同じ時期に『キャリー』の映画化権をモナシュに売却した出版エージェント、マーシア・ナサターがユナイテッド・アーティスツ(UA)の重役に就任し、『キャリー』の映画化企画を持ちかけてきたのである。 原作に惚れぬいた2人の才能の奇跡的な出会い 一方その頃、『キャリー』の映画化に情熱を燃やす人物がもう一人いた。ブライアン・デ・パルマ監督である。原作本を読んですっかり夢中になったデ・パルマは、なんとしてでも自らの手で映画化したいと考え、エージェントを介してモナシュにコンタクトを取ったという。当時まだデ・パルマのことをよく知らなかったモナシュは、何人もいる監督候補のひとりとして面接することに。しかし、これが上手くいかなかった。長い下積みを経て映画プロデューサーへと出世した典型的なハリウッド業界人であるモナシュの目には、口数が少なくて控えめな芸術家肌のデ・パルマは理解し難い人種だったのだろう。結局、モナシュとコーエンはデ・パルマを監督候補から外し、ロマン・ポランスキーやケン・ラッセルを有力候補として検討する。 ところがその後、UAの制作部長からモナシュに、デ・パルマを監督に起用するようお達しが来る。というのも、『キャリー』を諦めきれなかったデ・パルマがエージェントを通してUAに売り込みをかけたところ、たまたま制作部長がデ・パルマのファンだったというのだ。かくして、UA側の意向でブライアン・デ・パルマが『キャリー』の演出を任されることに。ちょうど同じ頃、完成したばかりの『愛のメモリー』を試写で見たコーエンは、もしかするとデ・パルマはこの作品に適任かもしれないと考えを改めるようになり、実際にニューヨークで本人と打ち合わせしたことで、その予感が確信に変わったという。改めて本人と話をしてみると、キング作品の本質的な魅力はもちろんのこと、コーエンが書いた脚本の意図も十分に理解していた。デ・パルマが要求した脚本の大きな改変は2つだけ。キャリーが母親マーガレットを殺すシーンと、劇場公開時に話題となったクライマックスの結末だ。 原作ではキャリーがテレキネシスで母親の心臓を止めるのだが、しかしこれをそのまま映像にすると地味でパッとしない。コーエンも頭を悩ませていたシーンだったが、最終的にデ・パルマが見事な解決策を思いつく。キッチンの包丁やハサミをテレキネシスで次々と飛ばし、まるで殉教者セバスティアヌスのごとく母親マーガレットを磔にしてしまうのだ。さらに、原作ではキャリーと同じような能力を持つ少女がほかに存在することを示唆して終わるものの、コーエンの書いた初稿では惨劇をただひとり生き延びた優等生スーが精神病院へ幽閉されて幕を閉じていた。しかし、これまた映画のエンディングとしてはインパクトが弱い。結局、撮影が始まっても結末を決めかねていたデ・パルマとコーエンだったが、ギリギリの段階でデ・パルマはジョン・ブアマン監督の『脱出』(’72)をヒントに、後に数々のエピゴーネンを生み出す衝撃的なラストを考えついたのである。 そのほか、『ファントム・オブ・パラダイス』のオーディションで知り合い惚れ込んだ女優ベティ・バックリーをキャスティングするため、コリンズ先生の役柄を膨らませて出番を増やしたり、原作では卑劣な悪人であるクリスやビリーのキャラクターにユーモアを加えることで、ともすると重苦しくなりかねないストーリーにある種の口当たりの良さを盛り込んだりと、いくつかの細かい改変をコーエンに指示したデ・パルマ。ちなみに、原作だとキャリーは超能力を使って町を丸ごと破壊してしまうが、さすがにこれは予算の都合を考えると不可能であるため、当初からプロム会場を全滅させるに止める方針だったようだ。 さらに、デ・パルマの功績として忘れてならないのは、イタリアの作曲家ピノ・ドナッジョの起用である。当初、デ・パルマは『愛のメモリー』に続いてヒッチコック映画の大家バーナード・ハーマンに音楽を依頼するつもりだったが、同作の完成直後にハーマンが急逝してしまう。そこで彼が白羽の矢を立てたのが、ダンスティ・スプリングフィールドもカバーしたカンツォーネの名曲「この胸のときめきを」で知られるイタリアの人気シンガーソングライター、ドナッジョだった。もともとドナッジョが手掛けたニコラス・ローグ監督の『赤い影』(’73)のサントラ盤を気に入っていたデ・パルマは、随所でハーマンのトレードマークだった『サイコ』風のスコアを要望しつつも、ホラー映画のサントラには似つかわしくない甘美なメロディをドナッジョに書かせる。これは英断だったと言えよう。その結果、キャリーの深い孤独や悲しみを際立たせるような、実に繊細でロマンティックで抒情的な美しいサウンドトラックが出来上がったのだ。本作で見事なコラボレーションを実現したデ・パルマとドナッジョは、これ以降も通算8本の映画でコンビを組む。なお、プロム会場のチークダンス・シーンで流れるバラード曲を歌っているのは、当時スタジオのセッション・シンガーだったケイティ・アーヴィング。スー役を演じている女優エイミー・アーヴィングの姉だ。 かくして、スティーブン・キングの小説に惚れ込んだブライアン・デ・パルマにローレンス・D・コーエンという、2人の優れた才能が奇跡的に巡り合ったからこそ生まれたとも言える傑作『キャリー』。実際、原作者のキング自身が高く評価しているばかりか、小説版よりも良く出来ていると太鼓判を押している。映画の作り手にとって、恐らくこれ以上の誉め言葉はないのではないだろうか。■
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COLUMN/コラム2021.02.01
リドリー・スコットのもうひとつのエポックメーキング『テルマ&ルイーズ』
齢80を越えても、精力的に作品を撮り続けている、リドリー・スコット監督。20数本に及ぶ、そのフィルモグラフィーを眺めると、SF、刑事アクション、クライム・サスペンスから歴史大作、戦争映画、人間ドラマまで、実に多彩なジャンルを手掛けていることに、改めて驚かされる。 そんな中でも“映画史”に残る作品と言えば、監督第2作・第3作の『エイリアン』(1979)『ブレードランナー』(82)あたりを挙げる者が、やはり多いのだろうか? 両作が、その後のSF映画の歴史を塗り替えたことに異議を唱える者は、まずはいまい。 私はリドリーの監督作品の中で、この2本に匹敵する、エポックメーキングとなった作品として、本作『テルマ&ルイーズ』(91)を挙げたい。歳月を経ても、この作品は色褪せるどころか、その歴史的意義は、年々高まる一方のように思える。 アメリカ中西部アーカンソー州に住む、専業主婦のテルマ(演: ジーナ・デイヴィス)と、ダイナーのウェイトレスで独身のルイーズ(演:スーザン・サランドン)は、親友同士。ある週末、十代の頃から夫に縛られる生活を送ってきたテルマを誘い出し、ルイーズが自慢の66年型サンダーバードを駆って、ドライブ旅行へと出掛けた。 テルマは、どうせ許してくれないと、傲慢な夫に黙っての旅立ち。その際に、以前夫から護身用にと渡された拳銃を、無造作にルイーズに預けた。 目的地への途中、食事に寄ったカントリーバーで、解放感から、店のマネージャーの男とのダンスに興じたテルマは、悪酔いして涼みに店外へ。そこでマネージャーから、レイプされそうになる。間一髪、ルイーズが男の首筋に拳銃を突きつけ、テルマは泣きじゃくりながらも、難を逃れた。 その場を去ろうとした彼女たちだったが、男は悔し紛れに、「俺のをしゃぶりな!」などと、卑猥な罵声を2人に浴びせる。その瞬間、ルイーズの“何か”がキレた。彼女は拳銃の引き金を引き、銃弾を浴びた男は、そのまま息絶えた。 楽しい筈の週末のちょっとした旅は、一転。逃亡の旅へと、変わる。 国境を越えて「メキシコに逃げる」と、決意したルイーズだったが、優柔不断なテルマは、揺れ動く。しかしやがて彼女も、自分を守ってくれた親友と行動を共にすることを、決意した。 地元の警察からFBIまで、州を越えて捜査の網が広がっていく。そして、生まれ育ってきた社会の理不尽な規範に長年縛られてきた女2人は、大胆不敵なアウトローへと、変貌を遂げていく。テルマ&ルイーズの、明日をも知れない逃避行の行方は? 封切り時に、まだ20代後半だった私は、本作鑑賞前、今ひとつピンと来ていなかった。あのリドリー・スコットの最新作が、アメリカ中西部を舞台にした、女性2人が主人公の“ロードムービー”であることに。 当時の私にとってリドリー・スコットと言えば、多感な十代の頃に出会った『エイリアン』であり、『ブレードランナー』だった。それに付け加えるならば、本作の前の監督作品で、大々的に日本ロケを行った、『ブラックレイン』(89)だったのである。 そしていざ本作を観ると、アメリカで“フェミニズム映画”として論争になった理由が、理解できたような気がした。当時の私は自分のことを、“フェミニズム”寄りな人間だと思っていた。“男性優位”な社会の中で、多くの女性が一方ならぬ苦労をしていることを認識しており、「女性の気持ちがわかっている」つもりだった。 そうした意味で本作の意義を見出しながらも、少なからぬ違和感が残った。そもそも、酒に酔って男にスキを見せたから、テルマはレイプされそうになったのではないか?彼女に、責任はないのか? また逃避行の旅の途中、2人のサンダーバードに遭遇しては、性的なからかいを仕掛けてくる、大型トレーラーの男性運転手への処断も、「?」だった。物語の終盤近く、2人は何度目かの遭遇をした彼を下車させて、警告する。しかし態度を改めないため、怒った2人は、彼のトレーラーに銃弾を撃ち込んで、爆発炎上させてしまう。 セクハラを受けたといっても、言葉の問題に過ぎないじゃないか。いくら何でも「やり過ぎだ」と、当時の私には感じられた。 しかし後々、自分も家庭を持って齢を重ねていく内に、女性にとっての“ガラスの天井”が思った以上に厚く、己もそんな中で、“男性優位”の社会に安住してきたことに思い至った。若造の自分が、「女性の気持ちがわかっている」などと、傲慢な気持ちを抱いてことを思い返しては、恥じ入るようにもなった。 そうなると、テルマとルイーズの取った行動に対する考えも、変わってくる。本作に於いては2人の行いが、実に納得がいくように描かれているのである。 2人が逃避行を余儀なくされるに至る、レイプ未遂の一件。酒場でいかに意気投合しようとも、合意のない女性を、無理矢理に性欲のハケ口にするなど、論外である。そしてこの加害者にして被害者となる男は、これまでもこんな卑劣な手口で、数多の女性たちに被害を及ぼしてきたことを窺わせる。 また2人の逃走劇が進む内に明らかになるのだが、ルイーズは若き日に、レイプの犠牲になっていた。そしてその時、警察などの対応に絶望して、故郷のテキサスを離れたのである。「殺害」したのは、確かにやり過ぎだろう。しかしそうした彼女の痛ましい過去が、たまたま手にしていた拳銃の引き金を引かせてしまったのだ。 続いて、運転中のテルマとルイーズにセクハラ嫌がらせを行った、トレーラー運転手の問題。2人は野卑なこの男に、「アンタの妻や娘、姉妹が同じことされたら、どう思う?」と、はっきり問い質している。しかし運転手は、そう言われたことを屁とも思わない態度を取ってみせる。これでは“映画”的には、トレーラーを爆破されても、致し方あるまい。 レイプ未遂犯、トレーラーの運転手からテルマの夫、そして若き日の“ブラピ”が演じる強盗の青年まで、本作に登場する男どものほとんどが、女性を下に見て、彼女たちから搾取することを恥じない者たちだ。例外のように、マイケル・マドセン演じるルイーズの恋人が優しさを見せるが、彼も彼女が自分の前から消えそうになるまでは、結婚を申し込めなかった。自分本位な部分が、拭えない男性である。 追っ手の側には、終始彼女たちに同情的な姿勢を見せる、ハル警部(演:ハーベイ・カイテル)が登場する。しかし彼も彼女たちの救いとなる力は、残念ながら持ち得ない。 こうして監督と俳優の共犯関係が出来上がり、見事な演技を見せたジーナ・デイヴィスとスーザン・サランドン。その年度のアカデミー賞で、共に主演女優賞にWノミネートされた。 すでに『偶然の旅行者』(88)で助演女優賞の受賞経験があるデイヴィスも、『アトランティックシティ』(80)以来のノミネートとなったサランドンも、この時は残念ながら、オスカーを手にすることはなかった。同一作品から2人の候補が出たことによって、票が割れたのと、この年は『羊たちの沈黙』(91)のジョディ・フォスターという、強力なライバルがいたのである。 以前より社会問題に対しての意識が高かったサランドンとデイヴィスだが、本作以降その政治的発言や行動が、益々注目されるようになった。そんな中で、サランドンが遂にオスカーを掌中に収めたのは、4年後のこと。当時の彼女のパートナーであったティム・ロビンスが監督を務め、死刑制度に対する疑義を打ち出した、社会派の作品『デッドマン・ウォーキング』(95)での主演女優賞受賞だったのは、至極納得がいく。『テルマ&ルイーズ』は、娯楽性を大いに湛えながらも、観る者を試す“リトマス試験紙”の役割をも果たす。リドリー・スコットは“コメディ”として演出したともいうが、やはり凡百の監督では、ここまでの作品には、仕上げられなかっただろう。 そんなリドリー・スコット監督こそ、まさに現代の“巨匠”の名にふさわしい。■
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COLUMN/コラム2021.01.12
寡作の巨匠エリセの、奇跡のような長編デビュー作『ミツバチのささやき』
1985年春、二浪してようやく大学に入学した私は、映画研究会に入った。映画に関してうるさ型の学生が集まるその部室で、当時1本の映画が大きな話題になっていた。「アナちゃんは撮影の時に、自分が本当にフランケンシュタインに会っていると思ったのよ」 その作品では、劇中で“フランケンシュタイン”の映画を観た主人公の少女が、怪物が実際に存在すると思い込んでしまう。そしてその撮影の場に於いても、主人公を演じた、アナという名のその子役は、特殊メイクで作られたフランケンシュタインと会って、映画内と同様に、本物だと信じてしまったのだ…。 そんなことを、年齢は私と同じながら、大学の年次は2年上の女性が、目を輝かせながら喋っていた。 その作品は、『ミツバチのささやき』。ヒロインのアナ・トレントの名と共に、学生の映画サークル内に限らず、当時の映画ファンの口の端に、頻繁に上ったタイトルである。 日本公開よりは12年前=73年に製作されたスペイン映画『ミツバチの…』ブームの仕掛人は、“シネ・ヴィヴァン六本木”。それまではなかなか観られなかった、世界のアート系映画を次々と公開し、83年のオープンから99年の閉館まで16年間、“ミニシアター文化”隆盛の一翼を担った映画館である。80年代文化をリードした、堤清二氏率いるセゾングループ内でも、異彩を放つ存在だった。 85年2月に公開された『ミツバチの…』は、キャパ185席のシネ・ヴィヴァンで12週間上映。観客動員4万8,000人、興行成績は6,400万円という、堂々たる興行成績を打ち立てた。 この作品の“ツカミ”は、先に挙げた先輩の言のようなことだが、ここで改めてどんな内容であるのか、そのストーリーを紹介する。 スペインでは1936年、血みどろの内戦が勃発した。当時の政府は、人民戦線が率いる、左派政権。それに対して、右派の反乱軍がクーデターを起こし、戦闘に突入したのである。この内戦は“スペイン市民戦争”という名称でも、広く知られる。 両陣営には、外国勢力からの支援や直接参戦などがあった。また、欧米の市民や知識人が、人民戦線政府を応援するために、義勇軍として参戦する動きも広がった。 ノーベル賞作家のアーネスト・ヘミングウェイが、40年に発表した小説「誰がために鐘は鳴る」。ゲイリー・クーパーとイングリッド・バーグマン主演で43年に映画化されたことでも知られるこの小説は、義勇軍に参加した、ヘミングウェイの体験を基に描かれたものである。 内戦は3年近くに及んだが、39年には、反乱軍の勝利に終わる。そのリーダーは、フランシス・フランコ将軍。ヒトラーのナチス・ドイツとも連携した、悪名高きフランコの独裁政治が始まった。『ミツバチの…』の舞台である1940年は、内戦が終わって、日が浅い頃。国土も人心も負った傷が大きく、荒廃した風景がそこかしこに広がっていた。 そんな中で母のテレサは、綴った手紙の文面から、敗れた共和派に近かったことが、窺える。父のフェルナンドに関しては、共和派として知られた、実在の哲学者ウナムーノと2ショットの写真が登場する。このことから、彼も妻のテレサと共に、共和派として挫折したという見方が出来る。 しかしウナムーノは、内戦勃発後はむしろ反乱軍側に足場を置いていたと、指摘される人物。そこでフェルナンドも、内戦中は反乱軍側に与していたのではと、解釈することも可能だ。この場合一つの家庭内で、夫婦のスタンスが対立していたことになる。 いずれにしろ大人たちは、内戦で深く傷つき、そこから抜け出せなくなっている。1940年という時代設定には、こうした意味合いがあるのだ。 そして本作の製作年である、1973年。この頃のスペインでは、内戦終結後30年を超えて、フランコの独裁は、まだ続いていた。表現の自由は厳しく規制され、政府に批判的なクリエイターは、弾圧を受ける運命にあった。 スペインが生み、国際的な評価を得た映画作家と言えば、必ず名が挙がるであろう、ルイス・ブニュエル。彼が独裁政権下の40年代中盤以降、メキシコやフランスなど国外に渡り、そこで数多くの映画を作ったのには、そんな背景がある。 そんな中で本作は、反政府的・反権力的な傾向は明らかと見られながらも、検閲側からそうした烙印が押されないように、直接的な描写は避けている。上映禁止にはならないよう、巧妙に作られているのだ。 本作のヒロインであるアナの両親は、フランコの独裁によって抑圧された社会の中で、抜け殻のように生きている。そんな両親の庇護から、彼女は逃走を図り、ラストでは「私はアナよ」と囁く。 彼女は、希望の存在なのである。そしてその囁きは、“自立”の宣言と捉えられる。エリセをはじめとした、当時の若きスペインのクリエイター達の、想いや願いが籠められているのであろう。
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COLUMN/コラム2021.01.04
すべてのホラー映画の原点 『悪魔のいけにえ』のホントに怖い顛末
1974年10月1日、アメリカ・テキサス州オースティンのドライブインシアターと映画館で、無名のスタッフ・キャストによる、1本の低予算B級映画が公開された。 その時関係者は誰ひとりとして、予想だにしなかったであろう。その作品が半世紀近く経った2020年代になっても、「ホラー映画のマスターピース」として語り継がれるようになることなど。“芸術性”が高く評価されて、MoMA=ニューヨーク近代美術館にマスターフィルムが永久保存されるという栄誉にも浴した、その作品のタイトルは、“TEXAS CHAINSAW MASSACRE(テキサス自動ノコギリ大虐殺)”。翌75年2月1日に日本でも公開された、本作『悪魔のいけにえ』である。 冒頭、上部にスクロールしていくスーパーで、5人の若者の身に、残酷な運命が待ち受けていることが予告される。続いて「1973年8月18日」と、真夏の出来事であることを示すスーパーが浮かび上がって、物語のスタートである。 テキサスの田舎町で、墓が掘り起こされては、遺体の一部が盗み去られるという事件が頻発する。若い女性サリーと、その兄で車椅子のフランクリンは、祖父の墓が被害に遭ってないかを確認しにやって来た。ワゴン車での旅の同行者は、サリーの恋人ジェリー、友人のカークとその恋人パム。 5人は墓の無事を確認すると、かつてサリーとフランクリンが暮らした、祖父の家へと向かう。しかしその途中に乗せたヒッチハイカーの男によって、彼ら彼女らの行く先に、暗雲が垂れ込め始める。 その男は、ナイフでいきなり自分の掌を傷つけた上、フランクリンに切りつける。そして車を飛び降りると、自らの血で車体に目印のようなものを付けるのだった。 男を追い払い、気を取り直した5人は、ガソリンスタンドへ寄るも、ガソリンは切れていて、夜まで届かないという。仕方なく一行は、今は廃屋のようになっている祖父の家へと向かった。 そこからカークとパムのカップルは、近くの小川で水遊びをしようと出掛ける。その時、一軒の家が目に入る。 ガソリンを分けてもらおうと、彼らが訪れたその家で出くわしたのは、人面から剥いだ皮で作ったマスクをした大男“レザーフェイス”。チェーンソーを振り回して人間を解体する彼と、その家族は皆、シリアルキラーの人肉食ファミリーであった…。 そこからは、ラストのあまりにも有名な“チェンソーダンス”に至るまで、若者たちは次々と絶叫と共に、血祭りに上げられていく。マスクを付けた殺人鬼による、若者大虐殺の展開など、今どきのホラーを見慣れた観客にしてみれば、既視感満載かも知れない。 しかしそれは、当たり前の話だ。『悪魔のいけにえ』こそが、そのすべての始まり、原点の作品だからである。70年代後半以降、ほとんどのホラー映画は、本作の影響下にあると言っても、過言ではない。「『悪魔のいけにえ』のように、宇宙を舞台にした恐怖に支配された映画を作りたい」これはあの『エイリアン』第1作(79)の製作前に、脚本を担当したダン・オバノンが、リドリー・スコット監督に本作を見せて、語った言葉である。 ここで多くの方々の誤解を、解いておこう。本作は首チョンパや内臓ドロドロなど、人体損壊のゴア描写が炸裂するような、いわゆる“スプラッタ映画”では、まったくない。直接的に皮膚に刃物を刺して人を殺すシーンなどは、1カットもないのである。血飛沫が上がるのは、犠牲者が車椅子に乗ったまま、チェンソーで切り刻まれてしまうシーンぐらい。実はTVでも放送出来るように、直接的な残酷描写は、避けて作られている。 それでいながら、いやそれだからこそ、“レザーフェイス”が初めて登場するシーンに代表されるように、予期せぬ突発的な暴力が、我々に大きなダメージを与える。また、ギリギリまで描いて、後は観客の想像に委ねるという手法が、脳内の補完によって、実際に描かれたもの以上に、強烈な印象を残すのである。それが延いては、「とにかく怖かった~」という記憶になっていく。“レザーフェイス”の妙な人間臭さも、実に効果的だ。次から次へと、来訪者=犠牲者が訪れることに泡を喰ったり、ヘマをやらかして、家族に罵倒されたりする描写などがある。『13日の金曜日』のジェイソンや、『エルム街の悪夢』のフレディのような超然とした存在よりも、人間臭い殺人鬼が行う大量殺戮の方が、よりリアルで怖いものかも知れない。 16mmフィルムによる撮影でもたらされた、粒子が粗くザラザラした画面や、BGMは一切使用せず、効果音のみという音響演出も、まるで殺人現場のドキュメンタリーを見ているかのような錯覚を、観客にもたらす。もっとも16mmを使用したのは、単に予算上の問題だったというが、結果的には怪我の功名である。 さて、本作が撮影されたのは、73年の夏。監督のトビー・フーパー(1943~2017)は、まだ30代に突入したばかりだった。 テキサス州オースティンで生まれ育ち、幼い頃からの映画好きだった彼は、テキサス大学在学中には、短編映画や記録映画を手掛けている。その後処女作『Eggshells』(69)が、映画コンテストなどで高く評価されるも、興行的には不発に終わった。 そこでフーパーは、考えた。低予算でも製作し易い、“ホラー映画”で勝負を掛けようと。参考にしたのは、墓を暴いて女性の死体を掘り返しては、それを材料にランプシェードやブレスレットなど作っていた、殺人者エド・ゲインの実話や、監督自身が子どもの頃に親戚から聞いた、怖い噂話など。脚本家のジャック・ヘンケルとの共作で、シナリオは完成した。 経験の浅い映画学生をスタッフに雇い、キャストには、地元の無名俳優を起用。そしていざ、クランク・インとあいなった。 ロケ中心で撮影された本作の撮影現場は、執拗に俳優を追い込むものとなった。リアリティーを追求し、本物の刃物を使ったために、ケガ人が出たり、予算不足から、俳優の顔に直に接着剤を塗って、特殊メイクが行われたり。血糊は口に含んだものを、俳優にぶっ掛けたという。 本作のヒロインで、いわゆる“ラスト・ガール”、最後まで生き延びるサリーを演じたのは、マリリン・バーンズ。役柄とはいえ、固い箒で殴られたり、雑巾を口に押し込められたり、とにかく悲惨な目に遭った。 ガンナー・ハンセン演じる“レザーフェイス”に、チェンソーを振り回されながら追いかけられるシーンでは、監督から「後ろから切られるかもしれないぞ」と、声を掛けられたため、「本当に殺されるかも知れない」と、恐怖に駆られて、本気で走って逃げたという。彼女の臨場感溢れる“絶叫”は、作り物ではなかったのだ。 ロケ地である夏場のテキサスは、外気が40度に上り、照明を当てれば50度以上の暑さとなる。物語上は1日の話である本作だが、撮影は1カ月近く続いた。その間、俳優たちはずっと同じ衣装を、着続けねばならなかった。途中からは、汗臭さを通り越した異臭を放つようになった。 クライマックスで描かれる、殺人一家の食卓シーンは、猛暑の中で閉め切って撮影されたため、卓上の肉料理は、すべて腐っていたという。そんな中での撮影は、カットが掛かる度に、誰かが吐きに行くという惨状を呈した。 こんなことが、本物の動物の死体を大量に解体して作られた、インテリアが散乱する中で行われたわけである。素人主体の現場故に、撮影予定や台本が場当たり的に変更されていく混乱と相まって、撮影途中でスタッフが次々と逃げ出した。 因みにインテリアのみならず、殺人一家の一軒家を作り込んだ、プロダクションデザイナーのロバート・バーンズは、“レザーフェイス”の人面マスクも作成。マスクは3タイプ作られたが、“レザーフェイス”は、局面によってマスクを替えるという設定で、クライマックスの食卓シーンでは、チークを入れるなど化粧を施した分、逆におぞましさが募るマスクで登場する。 さて狂気の撮影が終わって、先に記したような編集と音入れ作業に、フーパーは1年以上を掛けて、『悪魔のいけにえ』は完成。しかし大手配給から怪奇物の名門まで、様々な映画会社に持ち込んで観てもらっても、芳しい評価は得られず、公開のメドはなかなか立たなかった。 本作をようやく引き受けてくれたのは、ニューヨークの独立系配給会社。フーパーはじめ関係者は、ほっと胸を撫で下ろした。 そしてはじめに記した通り、フーパーの地元、テキサス州オースティンで公開されると、ストレートなタイトルと「実話の映画化」という、大ウソの誇大広告が功を奏して、劇場には長蛇の列が。多くの観客が、軽い気持ちで週末のスクリーンに臨んだが、観終わると良くも悪くも打ちのめされ、賛否両論が沸き起こった。 そして上映は、全米各地へと拡大。やがてメジャー製作の大作映画と伍して、ヒットチャートに名を連ねるようになった。“ホラー”への挑戦という、新人監督フーパーの賭けは、大勝利に終わった。…と言いたいところだが、そうは問屋が卸さなかった。 本作の配給を託した独立系配給会社は、実はマフィアが経営する、フロント企業。フーパーたちが要求する、利益の配分に全く応じようとしないという、ある意味映画の内容以上に、怖い顛末が待っていたのである。■ 『悪魔のいけにえ』© MCMLXXIV BY VORTEX, INC.
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COLUMN/コラム2021.01.04
ダリオ・アルジェントの代表作にしてイタリアン・ホラーの金字塔『サスペリア』
日本でも社会現象となった大ヒット作 イタリアン・ホラーの巨匠ダリオ・アルジェントの名刺代わりというべき代表作であり、恐らくイタリア映画史上、最も世界的な成功を収めたホラー映画であろう。イタリアを皮切りに公開されたのは1977年。ジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』とスティーブン・スピルバーグの『未知との遭遇』によって空前のSF映画ブームが巻き起こり、ジョン・トラヴォルタ主演の『サタデー・ナイト・フィーバー』でディスコ・ブームが頂点に達した年である。改めて振り返ると凄い一年であったと言えよう。 もともとホラー映画があまり一般受けしないイタリア本国で大ヒットしたのは勿論のこと、ここ日本でも「決してひとりでは見ないでください」という秀逸なキャッチコピーの効果もあってたちまち社会現象に。アメリカでは20世紀フォックスが配給権を獲得したものの、血みどろの残酷描写が問題視されるのを恐れたらしく、即席で立ち上げたペーパー会社インターナショナル・クラシックスで配給することとなり、盲目のピアニストが盲導犬に喉元を食いちぎられるシーンなど約8分の映像をカットしたうえで劇場公開したが、こちらもフォックスの予想を遥かに上回る興行成績を記録し、気を良くした同社はアルジェントの次回作『インフェルノ』(’80)に出資することとなる。 アルジェント監督のターニングポイントに そんな本作は、それまで一連のジャッロ映画で鳴らしたアルジェント監督が、初めてスーパーナチュラルなオカルトの世界に挑戦することで、独自の映像美学をとことんまで極めたターニングポイント的な作品でもあった。ジャッロ(日本ではジャーロと表記されることもあるが、本稿では原語の発音に近いジャッロで統一する)とは、’70年代に一世を風靡したイタリア産猟奇サスペンス・ホラーのこと。本来はイタリア語で“黄色”を意味するのだが、昔からイタリアではペーパーバックで売られる犯罪スリラー小説の表紙が黄色に装丁されていたため、いつしか犯罪スリラーのジャンル全体をジャッロと呼ぶようになった。 そのジャッロ映画ブームの口火を切ったのが、アルジェント監督の処女作『歓びの毒牙(きば)』(’70)。女性ばかり狙う連続殺人鬼の正体を追うアメリカ人作家をスタイリッシュな映像美で描いた典型的なジャッロ映画なのだが、これが全米興行収入ランキングで1位という誰も想像しなかったような大ヒットを記録したことから、イタリア中の映画会社がこぞって似たようなジャッロ映画を量産するようになる。アルジェント自身も『わたしは目撃者』(’71)に『4匹の蠅』(’71)とジャッロ映画の秀作を連発。畑違いの歴史ドラマに挑んだ『ビッグ・ファイブ・デイ』(’74)が大コケした後、『サスペリアPART2』(’75・日本では『サスペリア』の大ヒットを受け、勝手に続編と銘打って劇場公開)でジャッロの世界へ戻ったアルジェントは、いい加減に猟奇サスペンス・ホラーの世界から足を洗おうと考える。恐らく、ジャッロ映画の最高峰とも呼ばれる『サスペリアPART2』を以てして、彼としてはやり尽くしてしまった感があったのだろう。 やはり本作でひときわ目を引くのは、けばけばしい極彩色と壮麗な美術セットによって表現された、一種異様なまでに幻惑的なゴシック映像美であろう。さながら、アルジェントのダークでディープなイマジネーションから生まれた悪夢のような異世界。冒頭、ニューヨークからドイツへと到着したスージーは、空港の自動ドアを出た瞬間から、さながら「不思議の国のアリス」の如く、世にも奇妙で残酷で恐ろしいアルジェント・ワールドへと足を踏み入れるのだ。そこでは、全ての事象がアルジェント流のロジックで展開する。そもそも、アルジェント作品は処女作『歓びの毒牙(きば)』の頃からそうした異空間的な傾向が少なからずあり、ストーリーはあくまでも彼の思い描くビジョンをスクリーンに現出させるためのツールに過ぎなかったりするのだが、本作ではオカルトという非現実的かつ非日常的なテーマを手に入れたことによって、その独創的なアルジェント・ワールドを究極まで突き詰めることが出来たと言えるだろう。 中でもアルジェントがこだわったのは、往年のテクニカラー映画を彷彿とさせる鮮烈な色彩。特にディズニー・アニメ『白雪姫』(’37)は、アルジェントと撮影監督ルチアーノ・トヴォリにとって重要なお手本となった。ミケランジェロ・アントニオーニやマルコ・フェレーリ、モーリス・ピアラとのコラボレーションで知られるトヴォリは、もともと日常的なリアリズムを大切にするカメラマンで、なおかつホラー映画には全く関心がなかったため、本作のオファーを受けた当初は大いに戸惑ったそうだが、アルジェントの熱心な説得で引き受けることにしたという。当時既にテクニカラーは時代遅れとなり衰退してしまっていたが、アルジェントの要望に応えるべくトヴォリは発色に優れた映画用フィルム、イーストマン5254を使用。ただし、手に入ったのはテキサスの倉庫に保管されていた40巻のみだったため、現場では各シーンを2テイクまでしか撮影できなかったという。 さらに、照明の基本カラーを三原色の赤・青・緑に指定し、シーンに合わせて黄色などの補色を使用。通常の映画撮影ではあり得ないほど強い照度のカラー照明を、俳優などの被写体のすぐ近くに寄せて当てたのだそうだ。シャープな輪郭を強調するため、照明のディフューザーやカメラのフィルターレンズは不使用。そうして撮影されたフィルムは、当時テクニカラー社のローマ支社に唯一残されていたテクニカラー・プリンターでプリントされた。その仕上がりと完成度はまさに驚異的。同じように原色のカラー照明を多用した撮影は、イタリアン・ホラーの父と呼ばれる大先輩マリオ・バーヴァ監督が『ブラック・サバス 恐怖!三つの顔』(’63)や『モデル連続殺人!』(’64)などで既に実践しているが、本作はその進化形と呼んでもいいかもしれない。 強い女性ばかりが揃ったメイン・キャスト なお、もともとヒロインのスージー役にはダリア・ニコロディが想定されていたものの、彼女が主演ではアメリカのマーケットで売れないと映画会社に判断され、アルジェントがブライアン・デ・パルマ監督の『ファントム・オム・パラダイス』(’74)を見て気に入っていたジェシカ・ハーパーに白羽の矢が立った。当時、ジェシカはウディ・アレンの『アニー・ホール』(’77)の脇役をオファーされていたが、エージェントからの勧めもあって『サスペリア』を選んだという。その親友となるサラ役には、恋人だったベルナルド・ベルトルッチ監督の『1900年』(’76)でロバート・デ・ニーロとジェラール・ドパルデューを相手に3Pシーンを演じたステファニア・カッシーニ。性格の悪いオルガ役を演じているバーバラ・マニョルフィは、晩年のルキノ・ヴィスコンティがお気に入りだった美形俳優マルク・ポレルの奥さんだった人だ。 『サスペリア』©1977 SEDA SPETTACOLI S.P.A ©2004 CDE / VIDEA
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COLUMN/コラム2021.01.04
社会派エンターテインメントの巨匠が挑んだ’70年代らしいエコロジカル・ホラー『プロフェシー/恐怖の予言』
動物パニック映画ブームから派生したエコ・ホラーとは? ‘70年代のハリウッド映画で流行したエコロジカル・ホラー(通称エコ・ホラー)。その基本的なコンセプトは、「地球環境を破壊する人類に対して自然界(主に動物や昆虫)が牙をむく」というもの。これはスティーブン・スピルバーグ監督の『ジョーズ』(’75)を頂点とする’70年代動物パニック映画ブームにあって、そのサブジャンルとして派生したものと考えられる。 なにしろ、当時のアメリカ映画ではサメだのネズミだのアリだのクモだのと、ありとあらゆる生物が人間に襲いかかってきた。その要因のひとつとして、「環境破壊」という設定は非常に使い勝手が良かったのだろう。しかも、’70年に国家環境政策法が制定され、同じ年に環境保護庁が誕生したアメリカでは、環境破壊に対する危機感や懸念が国民の間で徐々に共有されるようになっていた。光化学スモッグに悩まされた日本をはじめ、当時は世界中の先進国が同様の問題に直面していたと言えよう。つまり、時代的にエコ・ホラーの受ける条件が整っていたのである。 ただ、エコ・ホラーというジャンル自体のルーツは、恐らく『キング・コング』(’33)にまで遡ることが出来るだろう。南海孤島の秘境で発見された巨大なゴリラ、キング・コングが大都会ニューヨークで大暴れするという物語は、まさしく「傲慢な人類」に対する自然界の逆襲に他ならなかった。また、核実験の影響で巨大化したアリとの死闘を描くSFパニック『放射能X』(’54)は、当時懸念されつつあった放射能汚染による環境破壊の問題が背景としてあり、そういう意味で’70年代に興隆するエコ・ホラーの直接的な原点とも言える。 『吸血の群れ』(’72)では環境汚染によって小さな島の爬虫類たちが人間への報復を開始、『フェイズIV 戦慄!昆虫パニック』(’74)では天体の異変によって高度な知性を持ったアリが人間を襲撃し、『アニマル大戦争』(’77)ではオゾン層破壊の影響で狂暴化した動物たちが自然公園のハイキング客たちを殺しまくる。さらに、オーストラリア映画『ロング・ウィークエンド』(’74)では「自然環境」そのものが意志を持って人間を狂気へと追い詰め、日本映画『ゴジラ対ヘドラ』(’71)では海洋汚染の生んだ怪獣ヘドラがゴジラと対決した。かように、’70年代は世界中のホラー映画やモンスター映画で大自然が罪深き人類に対して牙をむいたのである。水質汚染によってミュータント化したクマが、広大な森林で人間を次々と襲う『プロフェシー/恐怖の予言』(’79)もそのひとつだ。 自然豊かなメイン州の森林地帯を恐怖に陥れる巨大モンスター 主人公は大都会で恵まれない貧しい人々のために奔走するロバート・ヴァーン医師(ロバート・フォックスワース)。どれだけ行政に訴えても貧困層の住環境や健康問題が改善されないことに無力感を覚えているロバートは、ある日環境保護庁から自然環境調査の仕事を依頼される。メイン州の広大な森林地帯を地元の製紙会社が森林伐採のため購入したものの、その一帯に暮らす先住民たちが土地の所有権を訴えて裁判を起こし、両者ともに一歩も譲らない状態なのだという。そこで当局の導き出した解決策が、森林地帯の環境汚染状況を把握すること。もし環境汚染が立証されれば先住民側の有利になるし、汚染が確認されなければ製紙会社側の言い分が通る。どちらに転んでも、訴訟問題解決の糸口になると当局は考えたのだ。畑違いの依頼に躊躇するロバートだったが、しかしこれで当局に恩を売れば自身の仕事にも有利になると説得され引き受けることにする。 その頃、メイン州の森林地帯では不可解な出来事が起きていた。森の中で伐採作業中だった作業員たちが行方不明となり、その捜索に駆り出されたレスキュー隊も消息を絶ってしまったのだ。ロバートと妻マギー(タリア・シャイア)を出迎えた製紙会社の現場監督アイズリー氏(リチャード・ダイサート)は、先住民たちによる嫌がらせに違いないと疑っているが、しかし先住民たちは伝説の怪物カターディンが森を守っているのだと主張しているという。両者の対立はまさに一触即発。あくまでも中立を守る立場のロバートとマギーだが、先住民たちへの偏見や差別意識を隠さない製紙会社側の強硬姿勢に眉をひそめるのだった。 やがて調査を開始したロバートは、森林地帯で深刻な環境汚染が進行しているのではないかと疑いを持つ。というのも、川に棲息している鮭やオタマジャクシが異常な大きさへ成長し、性格の大人しいはずのアライグマが狂暴化して人間に襲いかかって来るのだ。しかも、先住民グループのリーダー、ホークス(アーマンド・アサンテ)とその妻ラモナ(ヴィクトリア・ラシモ)によると、森に住む先住民たちの間では健康被害が広がり、妊婦が奇形児を死産するケースも多いという。しかし、いくら当局に訴えても、川の水質検査では異常がないため聞き入れては貰えなかったのだ。 一方、製紙工場側のアイズリー氏は汚染物質の流出を完全に否定するが、しかしロバートは泥濘に溜まった銀色の物質を見逃さなかった。工場から流出する排水の中にメチル水銀が含まれており、それが森林一体の生態系に深刻な影響を及ぼしていたのだ。しかしメチル水銀は重いので川底に沈んでしまう。水質検査で異常がなかったのはそのためだった。事実を知った妻マギーは大きな衝撃を受ける。実は彼女は子供を妊娠しており、知らずに川で獲れた鮭を食べていたからだ。 その頃、森の中でキャンプを楽しんでいたネルソン一家が、醜悪な姿をした巨大モンスターに襲われ皆殺しにされる。それはメチル水銀に汚染された魚を食べてミュータント化したクマだった。しかし、地元の保安官やアイズリー氏は先住民グループの犯行と考え、ホークスらの逮捕に動き出す。事実を確認すべく惨劇の現場へと向かったロバートたち。折からの悪天候で森の中で足止めを食らった彼らに、狂暴な怪物クマが襲いかかる…。 ストーリーのヒントは『ローズマリーの赤ちゃん』!? 本作で最も注目すべきは、あのジョン・フランケンハイマー監督が演出を手掛けている点にあるだろう。『影なき狙撃者』(’64)や『大列車強盗』(’65)、『グラン・プリ』(’66)に『フレンチ・コネクション2』(’75)、『ブラック・サンデー』(’77)などなど、骨太な社会派エンターテインメント映画で一時代を築いた巨匠が、なぜ今さら出尽くした感のあるモンスター映画を!?と当時の映画ファンを大いに戸惑わせた本作。しかも、興行面でも批評面でも全く振るわず、これを機にフランケンハイマー監督のキャリアは下り坂となっていく。ただ、劇場公開から40年以上を経た今、改めて見直すと、決して出来の悪い映画ではないことがよく分かるだろう。 ■撮影中のジョン・フランケンハイマー監督(左) 環境問題や公害問題、先住民問題など、’70年代当時の社会問題を巧みに絡めたストーリー展開は、なるほど“社会派エンターテインメント映画の巨匠”の異名に恥じぬメッセージ性の高さ。むしろ、ミュータント化した巨大クマが巻き起こす阿鼻叫喚の恐怖パニックよりも、そうした社会派的なテーマの方に監督の強い思い入れが込められているように感じられる。醜悪なモンスターの全貌や血生臭い残酷描写をなるべくスクリーンでは見せず、観客の想像力に委ねることで緊張感を煽っていく演出も手馴れたものだし、スコープサイズの超ワイド画面のスケール感を生かしたカメラワークも堂に入っている。さすがは巨匠の映画らしい風格だ。ただ、それゆえ肝心のホラー要素がなおざりにされている印象も拭えない。恐らく、このモンスター映画らしからぬ“生真面目さ”が当時は仇となったのだろう。要するに、観客や批評家が求めるものとのギャップが大きかったのだ。 脚本を担当したのは『オーメン』(’76)で知られるデヴィッド・セルツァー。『オーメン』が劇場公開されて社会現象を巻き起こした直後、フランケンハイマー監督から「ホラー映画の脚本を書いてくれないか」と直々にオファーを受けたというセルツァーは、自身が多大な影響を受けたロマン・ポランスキー監督の『ローズマリーの赤ちゃん』(’68)をヒントにしたのだそうだ。さらに、当時メイン州の郊外に暮らしていた彼は環境問題や先住民問題にも関心があり、日本の水俣病についても勉強していた。当初は「メイン州の大自然を満喫していたキャンプ中の夫婦が、知らず知らずのうちメチル水銀に汚染された魚を食べてしまい、妊娠中の妻が奇形児を生んでしまう」という『悪魔の赤ちゃん』(’74)的なストーリーだったらしいが、脚本会議を重ねていくうちに巨大クマのアイディアが加わったようだ。 ただし、ロケ地となったのはメイン州ではなく、カナダはバンクーバー郊外の森林地帯。今では“ノース・ハリウッド”と呼ばれるカナダ映画産業のメッカで、ハリウッドの映画やテレビドラマが数多く撮影されているバンクーバーだが、本作はその最初期に作られたハリウッド映画と言われている。そういう意味でも興味深い作品と言えよう。目玉となる巨大クマのモンスタースーツは、ミニチュア撮影用とロケ現場用の2種類が製作され、『プレデター』(’87)のスーツアクターとして有名な身長2m20cmのケヴィン・ピーター・ホールと、後に『13日の金曜日 PART6 ジェイソンは生きていた!』(’86)や『ブロス/やつらはときどき帰ってくる』(’91)の監督となるトム・マクローリンが交互に演じている。実はマクローリン、もともとフランスでマルセル・マルソーに師事したパントマイム芸人だったらしい。 なお、モンスタースーツの製作は当初リック・ベイカーに依頼されたが短い納期を理由に断られ、次に声をかけたスタン・ウィンストンとはギャラの金額が折り合わず、最終的にトム・バーマンが引き受けることとなった。このグログロな巨大クマ、チーズの溶けたピザに似ていることから、撮影現場では「ピザ・ベアー」と呼ばれていたそうだ(笑)。■
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COLUMN/コラム2021.01.03
鬼軍曹と二枚目新兵との禁じられた“恋”を描く名匠ジョン・フリンの監督デビュー作!
今日お勧めするのは1968年の『軍曹』です。これは当時画期的だった、同性愛を扱ったハリウッド映画です。 舞台はフランス、駐留米軍の基地に主人公のカラン軍曹(ロッド・スタイガー)がやって来ます。時代は朝鮮戦争の後、ベトナム戦争の前という設定で、戦争がないので規律がゆるんでいるのを見た軍曹は、引き締めなきゃならないと思って、兵士たちを厳しくしごきます。その兵士のなかに、スワンソン一等兵という美青年がいます。ジョン・フィリップ・ローという、ギリシャ彫刻のような俳優が演じています。軍曹は「君は今どき珍しい立派な若者だ、そして立派な兵士だ」と言ってスワンソンに目をかけるんですが、だんだん変なことになってきます。 つまり、この軍曹は自覚のないゲイで、自分で気づかないままスワンソンに恋してしまうんです。 ハリウッド映画では長い間、同性愛が描かれることがありませんでした。「ヘイズ・コード」という自主規制によって禁じられていたんです。しかし、『軍曹』公開の直前にこれが撤廃されて、ようやく描かれるようになったんです。 『軍曹』に主演のロッド・スタイガーはシドニー・ルメット監督の『質屋』(64年)で高く評価された俳優ですが、『質屋』は劇場で公開されるアメリカ映画で初めて女性の乳房をスクリーンに映し出した映画でもあります。 スタイガーは『軍曹』の前に『夜の大捜査線』(67年)でアカデミー主演男優賞を獲りました。人種差別的な警察官役ですが、最後は黒人刑事シドニー・ポワチエと友情を結ぶ儲け役でした。 『軍曹』の監督はジョン・フリン。この後に作った『組織』(73年)は、リチャード・スタークの「悪党パーカー」シリーズが原作の傑作ハードボイル ド・アクションでした。『ローリング・ サンダー』(77年)もよかった。ポー ル・シュレイダー脚本で、ギャングに手首を潰されたベトナム帰還兵が手に鉤爪をつけて復讐します。 ジョン・フリンは実はジャーナリスト出身で、名匠ロバート・ワイズ 監督から、戦場カメラマンのロバー ト・キャパの伝記映画のための取材を依頼されて、映画界に入ります。 ワイズの『ウエスト・サイド物語』(61 年)でもニューヨークのギャングの調査を担当しています。 この『軍曹』、当時はまったく話題 にならず、その後も、ゲイである軍曹を否定的に描いている、と批判されましたが、今、見直すと、現在アメリカ の軍隊内で問題になっている、男性による男性へのセクハラを何十年も早く告発する内容になっています。 また、軍曹の抱えたトラウマが、 最近の映画『トム・オブ・フィンラ ンド』(17年)で、ゲイのイラストレ イター、トム・オブ・フィンランドが戦争中に抱えたトラウマと同じなんですね。 たしかに地味ではありますが、タブ ーに挑戦した問題作です! (談/町山智浩) MORE★INFO.●1966年、ロバート・ワイズが自らの製作会社を立ち上げ、その第1作としてデニス・マーフィ原作『軍曹』の映画化権を取得した。●監督には、ワイズ監督作品のほか、『大脱走』『太陽の帝王』(共に63年)などの助監督として評価の高かったジョン・フリンを抜擢し、監督デビュー作となった。●当初は名バイプレイヤー、サイモン・オー クランドに主役のオファーがされたが、彼 は映画のために減量するのを嫌がり、ロッ ド・スタイガーに交代した。●撮影中にスタイガーの母親が心臓発作で死去している。 ©︎Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved