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COLUMN/コラム2022.09.08
オードリー・ヘプバーンの転機となった傑作ロマンティック・コメディ『ティファニーで朝食を』
初めて「大人の女性」役に挑戦したオードリー ハリウッドの妖精、オードリー・ヘプバーンの転機ともなった不朽の名作である。ヨーロッパ某国の王女様を演じた初主演作『ローマの休日』(’53)でいきなりアカデミー主演女優賞を獲得し、その知性と気品に溢れる美しさと少女のように天真爛漫で無垢な愛らしさで、たちまち世界中の映画ファンを虜にしてしまったオードリー。以降も『麗しのサブリナ』(’54)や『昼下がりの情事』(’57)などの名作に次々と主演し、清楚で可憐で初々しい処女を演じ続けた彼女が、初めて色っぽい大人の女性役に挑んだ作品。それが作家トルーマン・カポーティの小説を映画化した『ティファニーで朝食を』(’61)だった。 オードリーが演じるのは、大都会ニューヨークの洒落たアパートメントに暮らす自由気ままな女性ホリー・ゴライトリー。高級宝石店ティファニーをこよなく愛し、夜な夜な街へ繰り出しては朝帰りする毎日。ニューヨークの社交界でも顔が広い彼女は、金持ち男性とレストランやナイトクラブに同伴することで生計を立てている。昔から映画解説などで娼婦と紹介されることの多いホリーだが、しかし正確を期すならば男性のデート相手を務めて高額ギャラを稼ぐエスコートレディ。もしかしたらクライアントと寝ることもあるかもしれないが、劇中でもその辺はあえて曖昧にされている。現代風に言うならばフリーランスのキャバ嬢、原作者カポーティに言わせると「アメリカ版の芸者」である。 そんな彼女が明け方のニューヨーク五番街へとタクシーで乗り付け、まだ開店前のティファニー本店のショーウィンドーを眺めながら、コーヒーとデニッシュの軽い朝食を取るところから物語は始まる。アパートの鍵をなくしたため玄関のブザーを鳴らし、日本人の大家ユニヨシ氏(ミッキー・ルーニー)に朝からこっぴどく怒られるものの、全く気にする様子のないホリー。すると今度はお昼過ぎ、寝ていた彼女自身が玄関のブザーで起こされる。アパートの新たな住人ポール(ジョージ・ペパード)が引っ越して来たのだ。 ちょうど良かったわ、これからシンシン刑務所に入っているマフィア、サリー・トマトと面会するの、彼から教えてもらった天気予報を弁護士に伝えるだけで100ドルも貰えるのよ!というホリーの話に困惑しながらも、陽気で無邪気であっけらかんとした彼女に惹かれるポール。ホリーもどことなく兄と雰囲気が似ているポールに親近感を覚えるが、しかし恋愛感情を抱くようなことはなかった。なぜなら、彼女の目標は大富豪と結婚して玉の輿に乗ること。エスコートの仕事もそのためのコネ作りだ。一方のポールもまた、実は本職の小説家では全く食えないため、年上の裕福な人妻2E(パトリシア・ニール)のヒモをしている。上昇志向の強いパーティガールに、甲斐性なしの二枚目ジゴロ。とても結ばれそうにはない2人だ。 ある日、ポールはアパートの前で見張る中年紳士を見かける。2Eの夫が差し向けた私立探偵かと思いきや、なんとホリーの夫ドク・ゴライトリー(バディ・イブセン)だった。テキサスの田舎で生まれた孤児ホリーは、生活のために親子ほど年の離れたドクと14歳で結婚。しかし貧乏暮らしに嫌気がさして家出し、兵隊に行った唯一の肉親である兄を養うため、一獲千金の夢を追い求めてニューヨークへやって来たのだ。ポールの親身な支えもあって、夫ドクにハッキリと別れを告げるホリー。これを機に彼女との仲が深まったポールは、ようやく作家としてのキャリアも上向きになってきたことから、2Eとの愛人関係を解消してホリーにプロポーズしようとするものの、しかし愛よりも経済的な安定を望むホリーの決意は固かった…。 原作者カポーティは大いに不満だった!? 原作はトルーマン・カポーティが’58年に発表し、全米に一大センセーションを巻き起こした同名の中編小説。カポーティのもとにはハリウッドの各スタジオから映画化のオファーが殺到したそうだが、その中から彼が選んだのはパラマウントだった。プロデューサーのマーティン・ジュロウとリチャード・シェファードは、マリリン・モンロー主演のコメディ『七年目の浮気』(’55)や『バス停留所』(’56)で有名なジョージ・アクセルロッドに脚色を任せ、パラマウントの看板スターだったオードリーにホリー役をオファー。娼婦まがいの仕事をする女性の役など、オードリーが引き受けるとは思えなかったが、しかし当時32歳でキャリアの新たな方向性を模索していた彼女は、一抹の不安を抱えつつもこのチャンスに賭けることにする。ところが、原作者カポーティは映画版の出来栄えに不満で、中でも特にオードリーのキャスティングにはひどく憤慨していたという。 もともとカポーティが小説のインスピレーションにしたのは、ニューヨークのカフェ・ソサエティ(社交界)に出入りしていた彼自身が、実際に身近で目の当たりにした若い女性たち。アメリカ経済の中心地であるニューヨークには、豊かな生活を夢見て全米各地から大勢の女性が集まり、その若さと美貌でリッチな男性をゲットすべく社交界に入り浸っていたが、しかしその多くは一時チヤホヤされただけで姿を消してしまう。主人公ホリーはそうした女性たちの象徴であり、語り部である名無しの作家はカポーティ自身であった。 ホリーのモデルは複数存在するが、その中のひとりには息子をアメリカ南部の親戚に預け、ニューヨークの男たちを渡り歩いたカポーティの母親リリー・メイも含まれていたという。また、そうした恵まれない出自でありながら生来の社交性と巧みな話術を駆使し、当時はまだ珍しいオープンリー・ゲイだったことから上流階級のマダムたちに気に入られ、カフェ・ソサエティの一員に食い込んだカポーティ自身の半生も、ホリーの人物像に色濃く投影されていると見て間違いないだろう。いずれにせよ、原作ではそうした華やかなニューヨークのシビアな光と影が映し出され、ホリーのキャラクターも未熟だがシニカルでタフな女性として描かれていた。 しかし、アクセルロッドの脚色では小説版のダークな面が一掃され、主人公ホリーも無邪気でナイーブな愛くるしい女性へと変身。さらに、原作では同性愛者と思しき語り部の作家を、ハンサムで颯爽としたシスジェンダー男性ポールとして書き換え、2人の恋愛模様を軸としたロマンティック・コメディに仕上げている。なので、原作者カポーティが本作を見て憤慨したというのも無理はなかろう。 さらに、倫理や道徳の表現に厳しいヘイズコードの検閲をパスするため、いかがわしい仕事をするホリーの日常生活からセクシャルな要素をそっくり取り除いたことから、ストーリー自体が現実を都合よくシュガーコーティングした夢物語と化してしまったことは否定できまい。ただ、その決定的な弱点を大いに補って余りあるのが、ホリーを演じるオードリー・ヘプバーンその人である。性的な魅力を武器に男たちを手玉に取りながらも、決して清らかさや純粋さを失わないホリーという非現実的なキャラは、むしろ性的な魅力に乏しい永遠の妖精オードリーが演じてこそ初めて説得力を持つ。カポーティは友人でもあったマリリン・モンローをホリー役に想定していたそうだが、少なくともこの映画版に関して言えばオードリーで大正解。もし仮にこれがモンローだったら、映画そのものがコメディというよりもジョークとなってしまったはずだ。 「ムーン・リバー」なくして本作は語れない! もちろん、軽妙洒脱で洗練されたブレイク・エドワーズの演出も功を奏している。大人向けの荒唐無稽なユーモアを基調としつつ、同時にそこはかとない切なさや哀しみを漂わせた語り口が実に味わい深いのだ。この絶妙なセンチメンタリズムを盛り上げるのが、エドワーズ監督とはテレビ『ピーター・ガン』(‘58~’61)以来の欠かせないパートナーである作曲家ヘンリー・マンシーニが手掛けたテーマ曲「ムーン・リバー」。人気のない早朝のニューヨーク五番街で、ジヴァンシーのデザインした黒いドレスに身を包んだオードリーがティファニー本店の前に降り立ち、「ムーン・リバー」の甘く切ないメロディが流れるオープニング・シーンなどは、本作が現代のおとぎ話であることを強く印象付ける。アパートの非常用階段でオードリーが「ムーン・リバー」を弾き語りするシーンも最高。決して歌の上手い人ではないのだが、だからこそプロの歌手では表現できない情感を醸し出す。これぞ女優の歌だ。 そんなエドワーズ監督のコメディ演出が際立つのは、ホリーがカフェ・ソサエティの友人たちを自宅へ招いたパーティ・シーン。脚本では主なセリフ以外に具体的な描写がなかったため、エドワーズ監督はスタッフやキャストと撮影現場で相談しながら、あの「奇人変人の大饗宴」とも呼ぶべきクレイジーなパーティを作り上げたのだ。パーティ客として集められたのは、普段から監督とは気心の知れた友人ばかり。衣装や小道具もキャストが私物を持ち寄り、撮影では本物のシャンパンが振る舞われたという。この賑やかな演出が評判となったことから、ならばパーティ・シーンだけで映画を作ってしまおうと考えたエドワーズ監督。そこから生まれたのが、ピーター・セラーズを主演に迎えた『パーティ』(’68)だったのである。 その一方、後に批判されるようになったのはミッキー・ルーニー演じる日本人の大家ユニヨシ氏。白人がアジア人を演じること自体が「イエローフェイス」と呼ばれて現代ではNGなのだが、加えて「眼鏡をかけたチビで出っ歯の日本人」というユニヨシ氏の外見は、敵国日本を貶めるため戦前・戦中のアメリカで流布された醜い日本人像そのもので、今となって見れば非常に差別的だ。当時はこれを「面白い」と思ったというエドワーズ監督だが、後に「酷い過ちだった」と認めている。また、演じるミッキー・ルーニー自身も、自伝の中でユニヨシ役を後悔していると告白。かつてハリウッドで最も稼ぐスーパースターだったルーニーだが、しかし本作の当時はすっかり落ち目で仕事にあぶれていた。それゆえ、違和感を覚えつつも断るに断れなかったようだ。 オードリーの相手役に起用されたのは、当時新進の若手スターだったジョージ・ペパード。アクターズ・スタジオで修業を積んだ彼は、本作にもメソッド演技を持ち込もうとしたため、撮影現場ではエドワーズ監督と対立することが多かったと伝えられる。これには主演のオードリーも困惑したらしい。そもそもオードリーは直感で芝居をする女優で、役柄を自分の個性に近づけるタイプの人。役柄に自分を寄せてなりきるメソッド演技とは正反対であるため、ペパードとは水と油だったようだ。 しかも、その後のフィルモグラフィーを見ても分かるように、ペパードは男臭いタフガイ役を好む俳優である。そのため、リッチな中年女性の尻に敷かれる男というポール役の設定に不満があり、名女優パトリシア・ニール演じる愛人2Eの強気なセリフを大幅に削らせてしまったらしい。アクターズ・スタジオ時代にはペパードと親しかったというパトリシア曰く、「彼はすっかり自分を大物だと勘違いしていた」とのこと。おかげで撮影現場では彼ひとりだけ浮いてしまい、後にキャリアが低迷すると辛酸を舐めることとなる。 ちなみにニューヨークを舞台とした本作だが、実際にニューヨークでロケされたのは10日間程度だけ。大半がハリウッドのパラマウント・スタジオで撮影されている。例えば、ホリーとポールが五番街のティファニー本店を訪れるシーン。入り口から店に足を踏み入れた2人が、ショーケースに飾られた豪華なイエローダイヤに息を呑む場面まではティファニー本店でのロケだが、2人の顔をクロースアップで映したカットバック以降は全てスタジオに再現されたセットを使用。雨の降りしきるクライマックスのニューヨーク路上シーンも、パラマウント・スタジオに常設されたニューヨーク・セットで撮影されている。 かくして、およそ250万ドルの予算に対して、興行収入1400万ドルという空前の大ヒットを記録した本作。アカデミー賞ではヘンリー・マンシーニが最優秀作曲賞と最優秀歌曲賞の2部門を獲得。サントラ盤アルバムも映画音楽としては異例の大ヒットを記録した。それまでハリウッド映画において音楽は、なるべく目立たないようにストーリーを盛り上げる脇役だったが、しかしテーマ曲「ムーン・リバー」のメロディを様々なアレンジで使った本作のポップでキャッチーな音楽スコアは、アルフレッド・ニューマンの『慕情』(’55)やマックス・スタイナーの『避暑地の出来事』(’59)と並んで、映画音楽の概念と役割を変えるうえで大きな役割を果たしたと言えよう。 もちろん、本作で大人の女優への新規路線開拓に成功したオードリーも、『噂の二人』(’61)や『マイ・フェア・レディ』(’64)、『暗くなるまで待って』(’67)などの難役へ積極的に挑戦するように。中でも、『シャレード』(’63)や『パリで一緒に』(’64)、『おしゃれ泥棒』(’66)などは、本作のホリー役なくしては生まれなかったのではないかとも思われる。■ 『ティファニーで朝食を』© 2022 BY PARAMOUNT PICTURES CORPORATION. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2022.09.05
平凡な兵士の勇気と戦場の悪夢を全編ノンストップで描いた戦争映画大作『1917 命をかけた伝令』
サム・メンデス監督の祖父の記憶をヒントに生まれたストーリー 処女作『アメリカン・ビューティ』(’99)がオスカーの作品賞や監督賞など主要5部門を独占し、以降も『ロード・トゥ・パーディション』(’02)や『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』(’08)などで賞レースを賑わせた名匠サム・メンデス。さらに、『007 スカイフォール』(’12)に『007 スペクター』(’15)と、立て続けに2本のジェームズ・ボンド映画をメガヒットさせたわけだが、しかしそれっきり撮りたいと思うような作品がなくなったという。どの脚本を読んでも、いまひとつ気に入らなかったメンデス監督。そんな折、プロデューサーのピッパ・ハリスから「それなら自分で脚本を書いてみたら?」と勧められ、真っ先に思い浮かんだのが、子供の頃より祖父から聞いていた第一次世界大戦の思い出話だったという。 サム・メンデス監督の祖父とは、トリニダード・トバゴ出身の作家アルフレッド・ヒューバート・メンデス。15歳でイギリスへ渡って教育を受けた祖父アルフレッドは、1917年に19歳で第一次世界大戦へ出征し、キングス・ロイヤル・ライフル連隊の第1大隊に配属されている。その任務は各指揮所に指示を伝える伝令役。身長163センチと非常に小柄だったため、敵に見つかることなく無人地帯を駆け抜けることが出来たらしい。その当時の様々な思い出話を、祖父の膝の上で聞いて育ったというメンデス監督。いずれは映画化したいと考えていたそうだが、今まさにそのタイミングが訪れたというわけだ。 ただし、それまで映画の脚本を手掛けたことがなかった彼は、自身が製作総指揮を務めたテレビシリーズ『ペニー・ドレッドフル 〜ナイトメア 血塗られた秘密〜』(‘14~’16)のスタッフライターだったクリスティ・ウィルソン=ケアンズに執筆協力を依頼。早くから彼女の才能を高く買っていたメンデスは、それまでにも幾度となく共同プロジェクトを準備していたが、しかし実現にまで至ったのは本作が初めてだった。メンデスが祖父から聞いた逸話の断片と、クリスティが膨大な資料の中から選んだ複数のエピソードを繋ぎ合わせ、ひとつの脚本にまとめあげたという。それがアカデミー賞10部門にノミネートされ、撮影賞など3部門に輝いた戦争映画『1917 命をかけた伝令』だった。 仲間の命を救うため戦場を駆け抜けた若者たち 時は1917年4月6日。フランスの西部戦線ではドイツ軍が後退し、連合国軍はこの機に乗じて総攻撃を仕掛けるつもりだったが、しかしこれはドイツ軍による巧妙な罠だった。航空写真によって、敵が秘かに待ち伏せしていることを確認したイギリス陸軍。明朝に突撃する予定のデヴォンシャー連隊第2大隊に一刻も早く伝えねばならないが、しかし肝心の電話線がドイツ軍によって切断されていた。そこで指揮官のエリンモア将軍(コリン・ファース)は、14.5キロ先の第2大隊へ伝令役を派遣することを決める。 この大役を任せられたのが若き下士官のスコフィールド(ジョージ・マッケイ)とブレイク(ディーン=チャールズ・チャップマン)。実際に指名されたのは、兄ジョセフ(リチャード・マッデン)が第2大隊に所属するブレイクで、スコフィールドは彼の親友であることから同行することになった。第2大隊の指揮官マッケンジー中佐(ベネディクト・カンバーバッチ)に作戦中止の命令を伝え、兵士1600名の命を救わねばならない。タイムリミットは明朝。そこかしこに遺体の散らばった無人地帯を乗り越え、いつどこで敵兵と遭遇するか分からない戦場を突き進むスコフィールドとブレイク。だが、そんな彼らの前に次々と過酷な試練や困難が待ち受ける…。 味方の部隊に重大な指令を伝えるため、2人の若い兵士が命がけで戦場を駆け抜けるという極めてシンプルなプロット。そんな彼らが行く先々で目の当たりにする光景や、敵味方を含めた人々との遭遇を通じて、あまりにも不条理であまりにも残酷な戦争の現実が、まるで悪夢のように描かれていく。ストーリーそのものはフィクションだが、そこに散りばめられた逸話の数々は、メンデス監督の祖父をはじめとする当事者たちの実体験に基づいているのだ。 第二次世界大戦に比べると、映画の題材となることの少ない第一次世界大戦。その理由のひとつは恐らく、悪の権化たるナチスや大日本帝国を倒すという人類共通の大義名分があった第二次世界大戦に対して、第一次世界大戦にはそうした純然たる悪が存在しなかったからなのだろう。しかし見方を変えれば、だからこそ戦争の愚かさがよりハッキリと浮き彫りになる。要するに、未来ある若者を戦地へ送り込んだ各国リーダーの罪深さ、それこそが第一次世界大戦における本質的な悪だったとも言えるのだ。 それゆえ、本作では敵のドイツ軍兵士も残虐非道な悪人などではなく、放り込まれた戦場での殺し合いに右往左往し、直面する死に恐れおののく平凡な人間として描かれる。「自分がたまたまイギリス人だから主人公も英国兵だけれど、実際はどこの国の兵士が主人公でも通用する物語だ」というメンデス監督。きっとイギリスだけではなく、ドイツにもフランスにもロシアにも、彼らのように仲間を救うため命をかける兵士たちがいたに違いない。この時代も国境も越えた揺るぎない普遍性こそが、この映画に備わった真の強みなのであろう。 細部まで計算し尽くされた疑似ワンカット演出 劇場公開時には、全編ワンカットの臨場感あふれる映像が大きな話題となった本作。観客に戦争を追体験させることで、人類の負の歴史を次世代へ語り継ぎたいと考えたメンデス監督と製作陣。そのために最も有効な手法と考えられたのが、カメラが最初から最後まで切れ目なく主人公と一緒に戦場を疾走するワンカット演出だったのである。ただし、実際は複数の長回しショットをつなぎ目が分からないように編集した疑似ワンカット。例えば、ドイツ軍塹壕の室内はスタジオセットだが、実は出口の直前で屋外セットのロケ映像に切り替わっている。また、スコフィールドが川へ飛び込んでからの映像も、激流に呑み込まれるシーンはラフティング施設で撮影されているが、滝に落ちてから先はティーズ川でロケされている(ちなみにロケ地は全てイギリス国内)。 とはいえ、シークエンスによっては10分~20分もノンストップでカメラを回さねばならず、なおかつ被写体を後ろから追ったかと思えば前方に回ったり、クロースアップのため接近したかと思えば引きのロングショットで背景を捉えたりと、カメラワークも流動的で非常に複雑。そればかりか、クレーンショットにステディカムショット、ジープやバイクを使った移動ショットなど、ひとつのシークエンスで幾つものカメラ技法を駆使している。そのため、撮影に際しては一連のカメラや役者の動きを具体的に細かく指示した図面を作成。それを基に入念なリハーサルを繰り返したという。 さらに、リハーサルでは移動やセリフにかかる時間も細かく記録し、それに合わせてセットの寸法サイズなどを決定。例えば冒頭の塹壕シーン。まずは何もない平地で役者とカメラを動かして何度もリハーサルを行い、シークエンス全体に必要な通路の長さや避難壕の広さを計算している。その際、ハプニングが起きる場所ごとに立ち位置をマーキング。それらの記録をベースにして、塹壕セットを建設したのだそうだ。もちろん、果樹園と農家のセットなども同様の方法で建設。そう、まるで100年以上もそこに建っているかのような生活感の漂う農家も、実は本作の撮影のため更地に作られたセットだったのである。 このようにして、まるで観客自身がその場に居合わせているような、臨場感と没入感のある映像を作り上げていったサム・メンデスと撮影監督のロジャー・ディーキンス。ただ、この手法には大きな弊害もあった。照明を使えなかったのである。なにしろ、カメラは絶え間なく移動しているうえ、縦横無尽に向きを変えるため、現場に余計な機材を置くとカメラに映り込んでしまう。それでも屋外シーンでは自然光を使えるが、問題は室内シーンと夜間シーンである。そのため、ドイツ軍塹壕の室内では懐中電灯を照明代わりに使用。また、戦火に見舞われた町エクーストを舞台にした夜間シーンでは、燃え盛る教会の炎(実は巨大照明が仕込まれている)と照明弾が暗闇を明るく照らしている。 このエク―ストの巨大セットがまた素晴らしい出来栄え!もともとは破壊される前の街並みを丸ごとセットとして建設。それを撮影のためにわざわざ壊したのだそうだ。なんとも贅沢な話である。しかも、ただ照明弾を打ち上げてセットを照らすのではなく、俳優やカメラの動きと調和するようにタイミングを計算して発射。その甲斐あって、まるで夢とも現実ともつかぬ幻想的で神秘的なシーンに仕上がっている。 さらに本作は、主人公スコフィールドとブレイクのキャスティングも良かった。観客がすんなりと感情移入できるよう、メンデス監督はあえて一般的な知名度の低い若手俳優を起用。スコフィールド役のジョージ・マッケイにブレイク役のディーン=チャールズ・チャップマンと、どちらも子役時代から活躍している優れた役者だが、しかし本作以前は決してメジャーな存在とは言えなかった。中でも、古風な顔立ちと素朴な佇まいのマッケイは、100年前の若者を演じるにはピッタリ。繊細で内向的な個性と少年のように無垢な表情が、ナイーブで実直なスコフィールドの苦悩と哀しみと勇気を見事に体現している。一方のチャップマンも鬼気迫るような大熱演を披露。ブレイクがドイツ兵に腹を刺され、段々と血の気が引いて顔が青ざめていくシーンは、メイクでも加工でもなく純然たる演技だというのだから驚く。 かくして、全編ワンカットという映像的な技巧に甘んずることも頼ることもなく、悪夢のような戦争の記憶を未来へと語り継ぐ力強い反戦映画を作り上げたサム・メンデス監督。’22年12月に全米封切り予定の次回作『Empire of Light』(’22)は、’80年代を舞台にした恋愛映画とのことだが、初めて単独でオリジナル脚本を手掛けているのは、恐らくこの『1917 命をかけた伝令』で培った経験と自信あってこそなのだろう。■ 『1917 命をかけた伝令』© 2019 Storyteller Distribution Co., LLC and NR 1917 Film Holdings LLC. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.09.02
歴史的事実をベースに、まさに“韓国の至宝”のための脚色!?『タクシー運転手 ~約束は海を越えて~』
1979年10月26日。韓国で朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が、側近によって暗殺された。 最近ではイ・ビョンホン主演の『KCIA 南山の部長たち』(2020)でも描かれたこの事件で、16年間に及ぶ“軍事独裁政権”は終焉を迎え、それまで弾圧されていた、“民主派”の人々が表舞台へと現れた。いわゆる、「ソウルの春」である。 しかし、それから2ヶ月も経たない12月12日、暗殺事件の戒厳司令部合同捜査本部長だった軍人の全斗煥(チョン・ドファン)が、“粛軍クーデター”を起こして、全権を掌握。翌年=80年5月17日には全国に戒厳令を発布し、野党指導者の金泳三(キム・ヨンサム)氏や金大中(キム・デジュン)氏らを軟禁し逮捕した。 強権的な“軍事独裁”の再来に対して、学生や市民は抵抗。金大中氏の地元全羅南道の光州(クァンジュ)市でも、学生デモなどが行われたが、戒厳軍は無差別に激しい暴力で応じ、21日には実弾射撃に踏み切った。そして27日、光州市は完全に制圧された。 一連の過程の中で、市民や学生の中には、死傷者が続出。これが世に言う、“光州事件”のあらましである。 本作『タクシー運転手 ~約束は海を越えて~』(2017)は、ノンポリの傍観者だった小市民が、偶然の出来事から、韓国近現代史の重要な節目となったこの事件に、対峙せざるを得なくなる物語である。 ***** キム・マンソブは、11歳になる娘を男手一つで育てている、ソウルの個人タクシー運転手。出稼ぎ先のサウジアラビアで重労働に従事したこともある彼は、業務中にデモ行進による渋滞などに巻き込まれると、「デモをするために大学に入ったのか?」「この国で暮らすありがたみがわかってない」などと、舌打ちするような男だった。 家賃や車の修理代にも事欠くマンソプは、ある日タクシードライバーの溜まり場である飲食店で、これから外国人客を乗せ、光州と往復すれば、10万ウォンもの報酬が得られるという話を耳にする。マンソプは依頼を受けた運転手になりすまし、クライアントのドイツ人記者ユルゲン・ヒンツペーターを車に乗せる。 サウジで覚えた片言以下の英語でヒンツペーターとやり取りしながら、光州に向かったマンソプ。厳しい検問を訝しく思いながら、口八丁手八丁で何とか掻い潜り、市内へと入っていく。 ヒンツペーターの目的が、光州での軍部の横暴をフィルムに収めることと知ったマンソプは、巻き込まれるのは御免と、何度もソウルに戻ろうとする。しかし光州の学生や市井の人々と親しくなると同時に、共に行動するヒンツペーターの、ジャーナリストとしての矜持に触れ、彼の中の“何か”も変わっていく…。 ***** ドイツ人俳優トーマス・クレッチマンが演じたユルゲン・ヒンツペーターは、実在のジャーナリストで、1980年の5月20日から21日に掛けて。光州市内の取材を敢行。軍事独裁政権による強力な報道規制が敷かれる中で彼がカメラで捉えた“真実”は、22日に母国ドイツの放送局で放送され、翌日以降は各国で、ニュースとして報じられた。 彼がその後制作した、“光州事件”を扱ったドキュメンタリーは、全斗煥政権が続く韓国にも、密かに持ち込まれた。そして公的には「北朝鮮による扇動」「金大中が仕掛けた内乱」などと喧伝された事件の真相を、少なくない人々に知らしめる役割を果したのである。 韓国で1,200万人もの観客を動員する大ヒットとなった本作『タクシー運転手』は、長く厳しい闘いを経て、“民主化”を遂げた現在の韓国社会に、“光州事件”の記憶を呼び起こした。そして映画公開の前年=2016年1月に78歳で亡くなったヒンツペーターと、彼の協力者だった“タクシー運転手”の存在に、スポットライトを浴びせたのだ。 本作を“エンタメ”として成立させるために、チャン・フン監督ら作り手が、些か…というか、事実よりもかなり「盛った」描写や設定の改変を行っているのは、紛れもない“真実”である。誤解のないよう付記しておくが、私はそれを批判したいのではない。歴史的事実を活かし、時には知られざるエピソードを詳らかにしながら、血塗られた近現代史を堂々たる“社会派エンタメ”に仕立て上げる、韓国映画の逞しさや強かさには、心底驚嘆している。 詳細は観てのお楽しみとするが、本作クライマックス、光州脱出行のカーチェイスは、どう考えても「ありえない」。事実をベースにした“社会派エンタメ”の最新作、リュ・スンワン監督の『モガディシュ 脱出までの14日間』(2021)でも同様な描写が見られたが、ここまで踏み切ってしまう、その果断さが、逆に「スゴい」とも言える。 そんな本作で最も劇的な脚色が行われているのは、実は主人公である“タクシー運転手”の設定である。ソン・ガンホが演じるマンソプのモデルとなったのは、キム・サボクという人物。ヒンツペーターが2003年に韓国のジャーナリスト協会から表彰された際などに、“運転手”の行方探しを呼び掛けながらも、見付からず、生涯再会が果たせなかったのは、紛れもない事実である。 しかし本作に於ける、“タクシー運転手”が、偶然耳にした情報から客を横取りして、その目的も知らないままに光州へ向かったという描写は、映画による完全な創作。本作の大ヒットによって、サボク氏の息子が名乗り出て明らかになったのは、サボクとヒンツペーターは、“光州事件”取材の5年前=1975年頃から知り合いで、“同志的関係”にあったという事実だった。 またサボクは、マンソプのようなノンポリの俗物ではなく、“民主化”の波に参加するような人物であったという。そして、ヒンツペーターの呼び掛けにも拘わらず、サボク本人が見付からなかった背景には、“光州事件”そのものがあった。 現場を目の当たりにしたサボクは、「同じ民族どうしが、どうしてこうも残忍になれるのか」と言いながら、1度はやめていた酒を、がぶ飲みするようになったという。そして“事件”取材の4年後=84年に、肝臓癌で亡くなっている。 サボク氏の息子は本作を観て、「喜びと無念が交錯した」という。自分の父が“民主化”に無言で寄与したことが知られたのは嬉しかったが、前記の通り、マンソプのキャラが、父とはあまりにもかけ離れていたからだ。 息子さんの「無念」は理解しつつも、この“脚色”を、私は積極的に支援したい。それは、ソン・ガンホの主演作だからである。 “韓国の至宝”であり“韓国の顔”とも謳われるソン・ガンホ。出演する作品のほとんどが、代表作と言えるような俳優であるが、歴史的史実をベースにした作品も、彼の得意とするところだ。 時代劇では、『王の運命 -歴史を変えた八日間-』(15)『王の願い ハングルの始まり』(19)のように、朝鮮王朝に実在した君主を演じる“王様”俳優でもあるが、近現代を舞台にした作品こそ、印象深い。『大統領の理髪師』(04)『弁護人』(13)『密偵』(16)そして本作である。『大統領の理髪師』は1960年代から70年代を舞台に、ひょんなことから“独裁者”の大統領(朴正煕をモデルとする)の理髪師となってしまった、平凡な男が主人公。否応無しに、政府の権力争いに巻き込まれていく。『弁護人』では、後に“進歩派”の大統領となる、盧武鉉(ノ・ムヒョン)の弁護士時代をモデルにした役を演じた。政治には興味がない金儲け弁護士が、時の全斗煥政権による学生や市民への弾圧に憤りを覚え、“人権派”に変貌を遂げていく。『密偵』は、日帝の植民地時代が舞台。日本人の配下にある警察官が、スパイとして独立運動の過激派組織に近づきながら、やがて彼らの考え方に共鳴していく。こちらは、実在した組織「義烈団」が、1923年に起こした事件をモデルとしている。 ここに本作を並べてみれば、どこにでも居るような男が、歴史の大きなうねりに翻弄されて、変貌を遂げていくといった流れが浮かび上がる。時代劇の中でも、朝鮮王朝時代のクーデター事件をモチーフにした『観相師 -かんそうし-』(13)で演じた役どころなどは、この系譜と言えるだろう。 本作に関してチャン・フン監督は、シナリオを読んだ瞬間に、ガンホの顔が思い浮かんだという。そしてオファーを受けたガンホは、一旦は断わったものの、時間が経過してもその内容が頭から離れず、結局は引き受けることになった。それはこの役を演じるのに、他の誰よりも自分が適役であることを、感じ取っていたからではないのか? さて今生で再び相見えることは叶わなかった、本作登場人物のモデルである、ドイツ人ジャーナリストと、韓国人“タクシー運転手”。本作大ヒットの翌々年=2019年に、約40年振りの再会を果すこととなった。 その舞台は、光州事件の犠牲者を追悼、記憶するために設立された「国立5.18民主墓地」。その中に設けられた、ヒンツペーター氏の爪と髪が埋葬されている「ヒンツペーター記念庭園」に、サボク氏の遺骨が改葬されたのである。 これもまた、韓国のダイナミックな“社会派エンタメ”作品がもたらした、ひとつの果実と言えるだろう。■ 『タクシー運転手 〜約束は海を越えて〜』© 2017 SHOWBOX AND THE LAMP. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2022.09.02
速く、そして高く。青春時代はロケットのように —『遠い空の向こうに』—
「(コールウッドの空に放たれた)ロケットは、物理的な力だけで空を飛んだわけではない。町の人々の熱心な応援と、やさしい先生のあたたかい指導、それに少年たちの“夢”があってこそ飛んだのだ」 『ロケットボーイズ』ホーマー・ヒッカム・ジュニア著/武者圭子 訳(草思社:刊) ◆スプートニク・ショックがもたらしたもの 1957年10月。ソビエト連邦は人類初となる人工衛星スプートニクの打ち上げに成功。米ソ冷戦の渦中において、その報は宇宙開発競争を展開していたアメリカにとって衝撃的なものだった。 だがスプートニクが軌道に乗ったことで、一人の高校生の夢も軌道に乗ることになる。高校生の名はホーマー・ヒッカム。米ウエストヴァージニア州にある炭鉱の町コールウッドに住む彼は、夜空を横切るスプートニクを目撃したことから、自分もロケットを作りたいという思いに駆り立てられていく。 1999年に公開された『遠い空の向こうに』は、ロケットエンジニアとしてNASAに所属し、のちに航空宇宙プロジェクトの顧問として宇宙開発に多大な貢献をなした、ホーマー・ヒッカム・ジュニアの自伝を映画化したものだ。原作タイトルの『ロケットボーイ(ズ)』は、ヒッカムと高校の仲間たちの愛称で、彼らがロケットづくりに没頭し、古い炭鉱の町に先端科学のきらめきを与える青春物語でもある。 そう、伝記の舞台となるコールウッドは、住民の多くが炭鉱に従事し、ホーマー(ジェイク・ギレンホール)もまた自分も地元の炭鉱で働くのだと、ある種の諦観にとらわれていた。しかし1957年10月4日、夜空にひときわ美しく輝くスプートニクを見たことで、ホーマーはそこに人工衛星の軌跡だけではない、自分の未来を見つけたのだ。 映画はそんなホーマーが、悪友ロイ(ウィリアム・スコット・リー)やオデル(チャド・リンドバーグ) と見よう見まねで手製のロケットを打ち上げ、散々な結果で途方に暮れるのを起点に、失敗にめげず、数学のできる変わり者のクエンティン(クリス・オーウェン)を引き入れ、本格的なロケット製作にとりかかるまでを原作にほぼ沿った形で描いていく(細かな改変はあるが)。その過程で、高校の物理教師ライリー(ローラ・ダーン)が良き理解者となり、大学の奨学金が賞金の国家科学フェスに出展するようホーマーたちをサポートする。そしてロケットボーイズは自分たちの持つ技術を完璧なものにするため、直面している問題の克服に取り組んでいく。そんな努力が実り、彼らのロケットは科学的にも技術的にも精度が上がっていき、また町の人々も次第にロケットボーイズに興味を持ち、打ち上げ実験を楽しみにする者や協力者を有していくのだ。 だがドラマにおいて最大の障壁は、ホーマーの父親ジョン(クリス・クーパー)の存在だ。炭鉱場の監督を務める父は、自分の仕事に誇り深く、よく言えば厳格、悪く言えば保守的で、ホーマーたちが時間を無駄に浪費していると感じている。映画はそんなヒッカム父子の確執を相互理解へと誘導し、涙を誘うクライマックスへと全ての要素を向かわせていく。大空に勢いよく上昇していくホーマーたちのロケットを、町のあらゆる人々がさまざまな場所から見上げるシーンに、誰もが湧き上がる感情を抑えることはできないだろう。 映画の原題“October sky”(10月の空)は、文字どおりホーマーのスプートニク・ショックを換言したタイトルで、同時に原作小説のタイトル“Rocket Boys”のアナグラムになっている。これは監督のジョー・ジョンストンがコンピュータのアナグラム解析プログラムで発見したもので、最初から意図されたものではない。しかし監督の豊かな感性と情熱が本作の中核にあることは、映画が見事に物語っている。 ◆ジョンストン監督にとっての『スター・ウォーズ』 『遠い空の向こうに』を手がけたジョー・ジョンストンは、『スター・ウォーズ』(77)で映画の世界に参入し、同作においてストーリーボードやメカデザインを担った視覚効果出身の監督だ。自らも軽飛行機の操縦免許を持ち、『ロケッティア』(77)を筆頭に、自作にはどれも空を飛ぶことへの憧れと執着が反映されている。本作も、ホーマー・ヒッカムの飛行に対する思いがジョンストンの指向と一致し、そういう点では非常に作家性の強い映画であるといえるだろう。 またジョンストン監督の前述したキャリアから、この映画に『スター・ウォーズ』の幻像を重ねる者も少なくない。同作の主人公であるルーク・スカイウォーカーは、反乱同盟軍のパイロットになる夢を抱いているが、育ての親である叔父オーウェンは、彼を農作業に縛り付けて外界に出そうとはしない。 この抑圧された若者の苦悩を、ホーマーは痛々しくも共有している。彼も物語の中盤で、父ジョンが炭坑の大事故で重傷を負い、高校を退学して炭坑労働者となり、一家の家計を支えなければならなくなる。誰もが人生で夢や理想を持ちながらも、それを達成することの難しさを、ルークもホーマーも体現しているのだ。 だがホーマーは、ジェダイの騎士オビワンの王女レイア救出に加わることになるルークと同様、不治の病と闘いながら自分を支えたライリー先生への思いに応えようと、再びロケット作りの夢を追いかけようとする。なにより『スター・ウォーズ』ではルークが帝国の暗黒卿ダース・ベイダーの息子であり、父子の軋轢を描いたように、本作もまたホーマーとジョンの相克を明確に示している。 本作が初公開された同時期、『スター・ウォーズ』はシリーズ3作目『スター・ウォーズ ジェダイの復讐』(83)から経年をへて、新作(『スター・ウォーズ エピソード1/ ファントム・メナス』(99))が発表され、フォースが若者の努力や行動とは無縁の、血統主義の象徴として描かれたことを嘆くファンもいた。そんなタイミングで世に出た『遠い空の向こうに』は、本来『スター・ウォーズ』が描くべきだったものがここにあると賞賛を受け、延いてはそれが、ジョンストンの経歴にも重ねられたのだ。視覚効果ファシリティのILMで10年間を過ごし、もう自分は宇宙船やエイリアンを充分すぎるほど開発したと、VFXアーティストから映画監督へと転身したジョンストン。彼こそが、ルーカスの向かうべきはずの轍をしっかりと踏みしめ、自ら正しかるべき『スター・ウォーズ』を展開したのだと。 ◆スピルバーグからの賞賛と贈り物 実際のところ、ジョンストンはILMでのキャリアを「働きながらフィルムスクールに通っているようなものだった」(*1)と述懐し、ルーカスにあらんかぎりの謝意を捧げている。 なによりジョンストンの監督としての門出は、もう一人の偉大な作家が盛大に祝っている。『ジョーズ』(75)そして『未知との遭遇』(77)の監督スティーブン・スピルバーグだ。スピルバーグは『遠い空の向こうに』を観て「素晴らしい映画だ」と称賛し、返す刀で『ジュラシック・パークIII』(01)の監督のポストをジョンストンに任している。加えて、かつて自分の作品の視覚効果を支えた盟友への返礼を、大ヒットしたフランチャイズのオファーをもって示したのだ。 ホーマー・ヒッカムがロケットを飛ばす夢を叶えたように、ジョンストンもまた、視覚効果の世界から一歩を踏み出し、大きく創造の夢を飛躍させたのである。そう、ロケットは物理的な力だけで空を飛んだわけではない。町の人々の熱心な応援と、やさしい先生のあたたかい指導、それに少年たちの“夢”があってこそ飛んだのだ。■ (*1)「STAR WARS STORYBOARDS オリジナル・トリロジー」(株式会社ボーンデジタル:刊)ジョー・ジョンストンの序文より抜粋 『遠い空の向こうに』© 1998 Universal Studios. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.08.19
サム・ライミ、アメコミ映画までの遠い道のり。その第一歩が『ダークマン』
サム・ライミのフィルモグラフィーを眺めると、「多様」あるいは「一貫性のなさ」といった言葉が浮かんでくる。彼が監督作品として扱ってきた題材の幅広さには、驚きを禁じ得ない。 なぜそうなったのか?その事情に関わる部分は後ほど触れるが、映画ファンとして、彼の作品への入り口が何であったかは、世代で、大きく分かれると思う。 アラサーぐらいだったら、やっぱり『スパイダーマン』3部作(2002~07)か。“MCU=マーベル・シネマティック・ユニバース”誕生前夜に、コミック作品の映画化に大成功。今日のアメコミ映画隆盛の礎を築いた、立役者の1人がライミであることは、言を俟たない。『スパイダーマン』前後で評価が高い、『シンプル・プラン』(98)や『スペル』(09)などを、こよなく愛する向きも少なくないだろう。 私を含めて、ライミ作品の日本デビューに立ち会った主な層は、1959年生まれのライミに近い年代。もう50~60代になってしまった。 アメリカ公開は1981年だったインディーズ作品『死霊のはらわた』は、日本では輸入ビデオでマニアの間で話題になった後、劇場公開に至ったのは、85年のこと。それまで聞き慣れなかった、というか少なくとも日本には存在しなかった、“スプラッター映画”という言葉を広めて定着させたのは、紛れもなくこの作品だった。 その頃のライミは、まだ20代中盤。日本でも一躍大注目の存在に…と言いたいところだが、まだまだ“ホラー映画”の地位が低い時代である。一部好事家の間で関心が高まったというのが、正確なところだろう。 その後映画コラムなどで紹介されていたエピソードも、また微妙だった。それは、ライミが日本人と会うと、「ねぇねぇ僕、サム・ライミ。サムライMe!!」と笑って去っていくという内容。 当時の真っ当な(!?)映画ファンからは、「けっ!」という受け止め方をされても、致し方なかった。「東京」や「ゆうばり」で開催される「ファンタスティック映画祭」が定着し、クエンティン・タランティーノが現れる90年代前半頃までは、“オタク”的なノリには、概して冷たいリアクションが待ち受けていたのだ。 そんなサム・ライミの監督人生は12歳の時、父親の8㍉カメラを使って作品を作ったことに始まる。その後同級生の仲間などと映画を撮り続ける中で、高校時代には1学年上のブルース・キャンベルと邂逅する。 ライミ組の常連出演者となるキャンベルに続いて、ミシガン州立大学進学後には、ロバート・タパートと出会う。タパートは映画製作のパートナーとなり、現在でもホラー映画専門レーベルの「ゴースト・ハウス・ピクチャーズ」を、ライミと共同で運営している。 まだ海の者とも山の者ともつかない、二十歳前後の3人。ライミ、タパート、キャンベルが、9万ドルの資金を集めて製作したのが、『死霊のはらわた』だった。 それまで「ホラーは苦手」というライミだったが、「世に出るなら、低予算のホラーだ」とタパートに説き伏せられたことから、様々なホラー作品に触れて研究を重ねた。そしてタパートが製作、キャンベルが主演、ライミが監督を務めた『死霊のはらわた』が、世に送り出された。この作品の成功で、3人は次のステップに進むこととなる。 続いて挑んだのが、ライミが本来指向するところのスラップスティックコメディ、『XYZマーダーズ』(85)。インディペンデント系ではあるが、「エンバシー・ピクチャーズ」という、名の通った映画会社と初めて組んだ作品である。 主演に無名の俳優は据えられないという、「エンバシー」からの“口出し”によって、キャンベルをやむなく脇役に回さざるを得なくなったのをはじめ、準備から撮影、ポストプロダクションまで、映画会社の介入は続いた。その挙げ句、まともに公開してもらえず、3人組にとってこの作品は、悪夢のような結果に終わったのである。 その後起死回生を図って取り組んだのは、『死霊のはらわたⅡ』(87)。続編というよりは、第1作をスケールアップしたリメイク的な内容で、コメディ色を強めたこの作品で、3人は再び成功を収める。 そして勇躍、初めてハリウッド・メジャーの「ユニヴァーサル」と組んだのが、本作『ダークマン』(90)である。ライミのフィルモグラフィー的には、インディペンデントからメジャーへの、そして『死霊のはらわた』から『スパイダーマン』への架け橋的な位置に属する作品と言える。 ***** 科学者のペイトン・ウェストレイクは、火傷などの重症者を救える、“人工皮膚”の開発に、日夜取り組んでいた。完成まであと一歩と迫りながらも、99分経つと溶解してしまうため、研究は足踏みが続いた。 ペイトンにはもう1つ気がかりなことがあった。同棲中の弁護士ジュリーにプロポーズしたものの、新しい仕事で手一杯の彼女に、返事を保留されてしまったのだ。 そんな時、“人工皮膚”を99分以上持たせるためのヒントが見つかる。助手と共に喜ぶペイトンだったが、突然街のギャングであるデュラン一家に研究所を襲撃される。彼がそれとは知らずに持ち出してしまったジュリーの書類が、街の再開発計画を巡る汚職の証拠だったのである。 助手は惨殺され、ペイトンも拷問に掛けられる。そして顔を強酸性の溶液に突っ込まれ、火を放たれた研究所は炎上する。 駆け付けたジュリーの目前で、研究所は爆発。ペイトンも耳だけを残し、塵と化したかと思われた。 悲嘆に暮れるジュリー。しかし爆発で河川へと飛ばされたペイトンは、生きていた。身元不明のホームレスとして病院に収容され、全身40%もの火傷の苦痛を感じないように、視床の神経を切断されて。 この処置で抑制力を失い、常人を超える力を持ったペイトンは、病院を脱出。しかし二目と見られない容姿になってしまった彼は、ジュリーの前に現れるのを躊躇せざるを得ない。ペイトンは、自分をこんな姿にしたギャングたちへの、復讐を誓う。 スラムの廃工場に居を構え、研究・開発を再開したペイトン。未完成の“人工皮膚”で様々な人間に成りすましながら、高い知能と超人的パワーを駆使して、ギャングたちを次々と血祭りに上げていくのだったが…。 ***** 初メジャー作品が、『ダークマン』になったのには、深い理由がある。 サム・ライミについて言及した場合、彼がこよなく愛するものとして、必ず登場するのが、1930年代にスクリーンで人気を博した後、TV時代の到来と共に、再編集されてお茶の間で大人気となった『三ばか大将』。ライミ作品の多くに共通する、度を超えたドタバタ感は、この影響が大きい。 それと共に指摘されるのが、アメコミへの偏愛である。 ライミは『死霊のはらわたⅡ』の後、「ザ・シャドー」「バットマン」などのアメコミを原作とした作品で、メジャーデビューしようと画策した。しかし両企画とも不調に終わり、それぞれ別の監督によって、映画化されるという憂き目に遭う。 付記すればメジャーデビューを果した後も、アメコミ企画への執着は続いた。「バットマン」の映画化を成功させたティム・バートンがそのシリーズを離れる際、後を引き継ごうと目論むも、失敗。また「マイティ・ソー」の企画を「20世紀フォックス」に持ち込んだが、これも実現できなかった。 自分の愛するアメコミの映画化を、何としてでも成し遂げたい。しかし誰も、自分にその企画をやらせてくれようとはしない。だったらアメコミっぽい話を、自分で作ってしまえ! 些か乱暴なまとめ方だが、そうして出来上がったのが、『ダークマン』だった。実際に本作の製作意図として、ライミはこんなことを言っている。「やや古典的な物語を描いて、漫画のストーリーのように、できるかぎりドラマチックでインパクトが強い作品にしたかった」 この企画をプレゼンされた「ユニヴァーサル」は、すぐに製作をOKした。 さてハリウッド・メジャーが、相手である。若き天才科学者、転じて“ダークマン”となる主演俳優に、ブルース・キャンベルを当てる構想は、『XYZマーダーズ』の時と同じく、無残に却下された。結果的にキャンベルは、本作ではその意趣返しのようにも取れる形でスクリーンに登場するのだが、それは観てのお楽しみとしておく。 主演に決まったのは、まだアクションスターのイメージはなかった、若き日のリーアム・ニーソン。その相手役のジュリーには、当時ニーソンが付き合っていたジュリア・ロバーツがキャスティングされそうになったが、諸事情によりNGに。 最終的にジュリーには、ライミの“インディーズ”仲間だったコーエン兄弟のミューズにして、その兄の方のジョエル・コーエンの妻であった、フランシス・マクドーマンドが決まった。普段から親しかったマクドーマンドの起用は、当初からの希望通りであり、ライミはほっと胸を撫で下ろした。 しかしその後3度もアカデミー賞主演女優賞を獲ることとなるマクドーマンドと、本作まで女優をまともに演出したことのなかったライミとのギャップは、大きかった。現場では、衝突が絶えなかったという。 とはいえ、元々は親しい同士。マクドーマンドとのやり取りは、「創造的なプロセス」になったと、ライミは語っている。 結局は思い通りの作品に仕上げることを不可能にしたのは、やっぱり映画会社だった。ポストプロダクションで「ユニヴァーサル」が差し向けた編集マンとライミは、深刻な意見の相違を見る。 余談になるが、ライミはこれ以降も含めて、数多の苦労や屈辱をもたらした映画会社の姿勢を、反面教師としたようだ。彼とロバート・タパートが主宰する「ゴースト・ハウス・ピクチャーズ」で、Jホラーの雄である清水崇監督を招いて、『呪怨』をハリウッド・リメイクする際、他のプロデューサーの口出しがあると、「…清水が撮りたいアイディアがあればそれを撮る。ちゃんとお金を用意するから」と、間に入ったという。 さて、何とか完成に向かった『ダークマン』。しかし音楽を付ける前のバージョンで「ユニヴァーサル」の重役から、「我が社の歴史上、最低の試写評価を受けた映画だ」と、“死刑宣告”のような発言をされる。 ところが蓋を開けてみると、批評も興行も上々。ライミのメジャー処女作は、「成功」と言って差し支えない成果を収めた。『ダークマン』は、監督及び主演を変えながらシリーズ化され、また逆流するかのように、コミック化もされた。 とはいえやっぱり、自分の愛するアメコミ作品の映画化という夢は、忘れられなかった。ライミは本作の後、『死霊のはらわた』シリーズの第3作に当たる『キャプテン・スーパーマーケット』(93)を監督してからは、幅広いジャンルの作品を手掛けるようになる。実はそのほぼすべてが、念願のアメコミ企画を実現させるための、助走だった。 西部劇の『クイック&デッド』(95)、クライム・サスペンスの『シンプル・プラン』、スポーツ映画の『ラブ・オブ・ザ・ゲーム』(99)、スリラーの『ギフト』(2000)。こうした多様な作品にチャレンジしたのは、デビュー以来自分に付き纏う、“ホラー映画”の監督というイメージを払拭し、巨額の製作費を投じるアメコミ映画を任せてもらうためであったと言われる。 そして、遂に長年の想いを果した『スパイダーマン』3部作で、ライミは押しも押されぬ地位を築いた。 そんな彼の最新作は、“MCU”に初参入し15年振りにアメコミの映画化を手掛けた、『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』(22)。詳細は省くが、こちらは彼の原点とも言える、『死霊のはらわた』のMCU版リメイクとの評まで出る、ファンにはたまらない仕上がりだった。 映画会社との数多の戦いを経て、ライミが己の最も好きなジャンルで、こんな好き放題が出来るようになったというのも、改めて感慨深い。■ 『ダークマン』© 1990 Universal City Studios, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.08.08
不屈の精神と魂の自由を謳いあげた戦争映画の傑作『大脱走』
第二次世界大戦下のドイツで本当に起きた大脱走劇 捕虜収容所からの脱走劇を題材にした戦争映画は枚挙に暇ないが、しかしこの『大脱走』(’63)ほど映画ファンから広く愛され親しまれてきた作品は他にないだろう。実際に起きた脱走事件を基にしたリアリズム、史上最大規模と呼ばれる脱走計画を余すことなく再現したダイナミズム、自由を求めて困難に挑戦する勇敢な男たちの熱い友情を描いたヒロイズム。『OK牧場の決斗』(’57)や『老人と海』(’58)、『荒野の七人』(’60)などの名作で、不屈の精神を持った男たちを描き続けたジョン・スタージェス監督だが、恐らく本作はその最高峰に位置する傑作と言えよう。 舞台は第二次世界大戦下のドイツ。脱走困難とされる「第三空軍捕虜収容所」に、ドイツの捕虜となった連合軍の空軍兵士たちが到着する。彼らの共通点は脱走常習者であること。実は、当時のドイツ軍は頻発する捕虜の脱走事件に頭を悩ませていた。なにしろ、逃げた捕虜を捜索するためには貴重な時間と人員を割かねばならない。かといって、戦争に勝つことを考えれば敵兵を逃がして本隊へ戻すわけにはいかないし、ジュネーブ条約で捕虜の保護が義務付けられているので処刑するわけにもいかない。そこでドイツ空軍は脱走常習者だけを一か所に集めて厳しい監視下に置き、なるべく余計な手間を減らそうと考えたのである。 とはいえ、集まったのはいわば「脱走のプロ」ばかり。しかも、ナチス親衛隊やゲシュタポに比べるとドイツ空軍は良識的で、規則を破った捕虜への懲罰も比較的甘い。そのため、到着早々から脱走を試みる者が続出。フォン・ルーガー所長(ハンネス・メッセマー)から自重を求められた捕虜リーダーのラムゼイ大佐(ジェームズ・ドナルド)も、脱走によって敵軍を混乱させるのは兵士の義務だと言って突っぱねる。 それからほどなくして、「ビッグX」の異名を取る集団脱走計画のプロ、ロジャー・バートレット(リチャード・アッテンボロー)が収容所に連行されてくる。にわかに色めき立つ捕虜たち。目ぼしい英国空軍メンバーを一堂に集めたバートレットは、収容所の外へ繋がるトンネルを3カ所掘って、なんと一度に250名もの捕虜を脱走させるという壮大な計画を発表する。 トンネルの掘削に必要な道具を作る「製造屋」にオーストラリア人のセジウィック(ジェームズ・コバーン)、実際に掘削作業を請け負う「トンネル王」にポーランド人のダニー(チャールズ・ブロンソン)、資材を調達する「調達屋」にアメリカ人のヘンドリー(ジェームズ・ガーナー)、掘削作業で出た土を処分する「分散屋」にエリック(デヴィッド・マッカラム)、身分証などの書類を偽造する「偽造屋」にコリン(ドナルド・プレザンス)、収容所内の情報を収集する「情報屋」にマック(ゴードン・ジャクソン)といった具合に担当者を決め、捕虜たちは前代未聞の大規模脱走計画を着々と進めることとなる。 一方、彼らとは別に脱走計画を試みるのが一匹狼のアメリカ兵ヒルツ(スティーヴ・マックイーン)。何度も脱走を繰り返しては独房送りになるため通称「独房王」と呼ばれる彼は、その独房で隣同士になったアイヴス(アンガス・レニー)と組んで単独脱走を試みようとしていたのだ。それを知ったバートレットたちは、単独脱走が成功したらわざと捕まって収容所へ戻り、外部の情報を教えて欲しいとヒルズに頼む。というのも、集団脱走計画を成功させるためには逃走経路の確保も必須だが、しかし収容所内からは外の様子がよく分からないからだ。 当然ながら、この無茶な依頼を一旦は断ったヒルズ。ところが、その後トンネルのひとつが看守に発見されてしまい、ショックを受けて錯乱したアイヴスが立ち入り禁止区域に入って射殺されたことから、考えを改めたヒルツはバートレットらに協力することにする。こうしてヒルツの持ち帰った外部情報をもとに計画を進めた捕虜たちは、’44年3月24日に前代未聞の大規模な集団脱走を実行に移すのだが…? 各スタジオから企画を断られ続けた理由とは? 原作は実際に第三空軍捕虜収容所の捕虜だった元連合軍パイロット、ポール・ブリックヒルが執筆した同名のノンフィクション本。彼自身は実際に脱走しなかったものの、しかし計画そのものには加わっていた。’50年に出版されて大評判となった同著の映画化を、かなり早い時期から温めていたというジョン・スタージェス監督。当時MGMと専属契約を結んでいた彼は、最初に社長のルイス・B・メイヤーのもとへ企画を持ち込んだものの、「物語が複雑すぎるうえに予算がかかりすぎる」として断られたという。 その後独立してからも、あちこちの映画スタジオやプロデューサーに相談したが、スタージェス曰く「どこでも話を逸らされておしまいだった」らしい。最大のネックとなったのは、脱走した主要登場人物の大半が死んでしまうこと。気持ちの良いハッピーエンドがお約束だった当時のハリウッド映画において、この種のほろ苦い結末は観客の反発を招きかねないため、確かにとてもリスキーではあったのかもしれない。また、映画に華を添える女性キャラが存在しないこともマイナス要因だったそうだ。 風向きが変わるきっかけとなったのは、黒澤明監督の『七人の侍』(’54)をスタージェス監督が西部劇リメイクした『荒野の七人』。これが予想を上回る大ヒットを記録したことから、同作の製作を担当したミリッシュ兄弟およびユナイテッド・アーティスツは、いわばスタージェス監督へのご褒美として『大脱走』の企画にゴーサインを出したのだ。予算はおよそ400万ドル(380万ドル説もあり)。同年公開された戦争映画大作『北京の55日』(’63)の約1000万ドル、コメディ大作『おかしなおかしなおかしな世界』(’63)の約940万ドルと比べてみると、実はそれほど高額な予算ではなかったことが分かるだろう。 それゆえ、当初はカリフォルニアのパームスプリングス近郊を、戦時中のドイツに見立ててセットを組むという計画もあったらしい。ところが、組合の規定によってエキストラでもプロを雇わねばならず、そのため現地で人材調達をすることが出来ない。それではあまりに不経済であることから、やはりドイツが舞台ならドイツで撮影するのが理に適っているということで、ミュンヘン郊外のバヴァリア・スタジオで撮影することになったという。ちょうどスタジオの周囲も実際の収容所と同じく森に囲まれているし、大勢のエキストラも近隣の大学生を安く雇うことが出来た。収容所の屋外セットは400本の木を伐採し、森の中に空き地を作って建設したという。ちなみに、撮影終了後は倍に当たる800本の木の苗を新たに植えたそうだ。 撮影の準備で最大の難問だったのは、この第三空軍捕虜収容所のセットをどれだけ忠実に再現できるかということ。本来ならば実際に現地へ赴いて参考にすべきところだが、しかし収容所のあったザーガン(現ジャガン)周辺は戦後ポーランド領となり、当時は東西冷戦の真っ只中だったため視察が難しかった。現存する写真資料だけでは心もとない。そこで白羽の矢が立てられたのは、実際に脱走計画でトンネル掘削を担当した元捕虜ウォリー・フラディだった。劇中ではブロンソン演じるダニーのモデルとなった人物である。製作当時、母国カナダで保険会社重役となっていたフラディは、本作のテクニカル・アドバイザーとして招かれセット建設に携わり、捕虜収容所の外観だけでなくトンネルの中身まで、限りなく正確に再現したという。 豪華な名優たちの共演も大きな魅力 その一方で、史実を大幅にアレンジしたのは脚本。まあ、こればかりは仕方ないだろう。なにしろ、本作はドキュメンタリーではなくエンターテインメントである。なによりもまず、映画として面白くなくてはならない。脚本は映画『アスファルト・ジャングル』(’50)の原作者として有名な作家W・R・バーネットが初稿を仕上げ、戦時中に捕虜だった経験のあるイギリス人作家ジェームズ・クラヴェル(ドラマ『将軍 SHOGUN』の原作者)が英国軍人の描写に信ぴょう性を与えるためリライトを担当したそうだが、しかし最終的にはスタージェス監督自身が現場でどんどん書き直してしまったらしい。また、『ジャイアンツ』(’56)の脚本家として知られるアイヴァン・モファットもノークレジットで参加しているが、その件については改めて後述したいと思う。 実際にトンネルを抜けて捕虜収容所の外へ出たのは79名。そのうち3名が現場で捕らえられ、76名がいったんは逃げおおせたものの、しかし最終的に脱走に成功したのは3名だけで、再び捕虜となった73名のうち50名が見せしめのためゲシュタポによって処刑された。こうした動かしがたい事実をそのままに、脱走計画の詳細などもなるべく事実に沿って描きつつ、映画らしいアクションとサスペンスの要素をふんだんに盛り込んだ、ハリウッド流のエンターテインメント作品へと昇華させたスタージェス監督。そのほろ苦い結末にも関わらず、意外にも自由でポジティブなエネルギーに溢れているのは、やはり彼独特の揺るぎない反骨精神が物語の根底を支えているからなのだろう。 確かに脱走した捕虜の大半は処刑され、生き残った者も3名を除いて再び捕虜となってしまうが、しかしそれでもなお彼らは希望を棄てない。なぜなら、ナチスは彼らの身体的な自由を奪うことは出来ても、魂の自由まで奪うことは出来ないからだ。いわば独裁的な権力に対して、堂々と中指を立ててみせる映画。本作が真に描かんとするのは、権力の弾圧や束縛に決して屈しない強靭な精神の崇高さだと言えよう。だからこそ、あのクライマックスに魂の震えるような感動を覚えるのである。 『荒野の七人』でもスタージェス監督と組んだマックイーンにコバーン、ブロンソンをはじめ、英米独の名優たちがずらりと顔を揃えた豪華キャストの顔ぶれも素晴らしい。中でも、コリン役のドナルド・プレザンスは実際に第二次大戦で連合軍の爆撃隊にパイロットとして加わり、第三空軍捕虜収容所の近くにあった第一空軍捕虜収容所に収容されていたという経歴の持ち主。集団脱走計画に加わったこともあったという。また、調達屋ヘンドリー役のジェームズ・ガーナーも、朝鮮戦争へ従軍した際に部隊内の調達役を任されていたそうだ。この2人の熱い友情がまた感動的。ただし、彼らが飛行機で逃亡を試みるというプロットは本作独自のフィクションだという。 ほかにも魅力的な役者がいっぱいの本作だが、しかしテーマとなる「不屈の精神」を最も象徴的に体現しているのは、独房王ヒルツ役のスティーヴ・マックイーンだろう。表向きはクールな一匹狼だが、しかし内側に熱い闘志を秘めた生粋の反逆児。ただ、そんなヒルツも当初は単なるアウトサイダー的な描かれ方をしており、そのため撮影途中でラフ編集版を見たマックイーンは憤慨して席を立ってしまったらしい。おかげで撮影も一時中断することに。そこでスタージェス監督はマックイーンの意見を取り入れて脚本をブラッシュアップすべく、ハリウッドから脚本家アイヴァン・モファットを招いたというわけだ。オープニングでヒルツが立ち入り禁止区域にボールを投げ込むシーンは、その際に書き足された要素のひとつだったという。 やはり最大の見せ場は終盤のバイク逃走シーン。もちろん、これも映画オリジナルのフィクションである。大のオートバイ狂だったマックイーン自身がスタントも兼ねているが、しかしジャンプ・シーンなどの危険なスタントは保険会社の許可が下りなかったため、マックイーンの友人でもあるバイクスタントマンのバド・イーキンズがスタントダブルを担当。実は、ヒルツをバイクで追跡するドイツ兵の中にもマックイーンが紛れ込んでいるらしい。これぞまさしく映画のマジック(笑)。本当にバイクが好きだったんですな。 ちなみに、実際の集団脱走劇に加わったのは主にイギリス人やカナダ人の空軍兵士たちで、アメリカ人は脱走計画の準備にこそ参加したものの、しかし計画が実行される前に他の収容所へと移送されていたらしい。だが、最重要マーケットであるアメリカでのセールスを考えれば、有名ハリウッド俳優のキャスティングは必要不可欠。そもそも本作はハリウッド映画である。そのため、劇中では米兵の移送がなかったことに。主要キャラクターについても、一部はモデルとなった特定の人物がいるものの、それ以外は複数の人物をミックスした架空のキャラクターで構成された。また、捕虜たちが脱走計画に必要な物資を調達する方法に関しても、実際は英米の諜報機関が外部から協力していたらしいのだが、機密情報に当たるとして劇中では詳細が一部省かれている。■ 『大脱走』© 1963 METRO-GOLDWYN-MAYER STUDIOS INC. AND JOHN STURGES. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2022.08.04
ハリウッドの反逆児デニス・ホッパーによるフィルム・ノワールへのオマージュ『ホット・スポット』
‘80年代半ばから静かに盛り上がったネオ・ノワール映画ブーム 名優デニス・ホッパーが監督を手掛けたネオ・ノワール映画である。かつて’40年代半ば~’50年代にかけて黄金時代を迎えた犯罪映画のサブジャンル、フィルム・ノワール。ローキー照明で明暗のコントラストを強調し、トリッキーなカメラアングルや悪夢的なイメージを多用するなど、ドイツ表現主義の影響を色濃く受けたスタイリッシュなモノクロ映像が特徴的な当時のノワール映画群は、犯罪の世界を通してアメリカ社会や人間心理のダークサイドをシニカルな視点で見つめ、『深夜の告白』(’44)や『ローラ殺人事件』(’44)、『ギルダ』(’46)、『裸の街』(’48)、『アスファルト・ジャングル』(’50)、『黒い罠』(’58)などの名作を生んだわけだが、しかし’60年代に入ると急速に衰退してしまう。これは恐らく、ケネディ大統領暗殺やベトナム戦争の激化によって、映画よりも実際のアメリカ社会の方が暗くなってしまったからかもしれない。 そんなフィルム・ノワールのジャンルが再び台頭したのは’70年代に入ってからのこと。やはりきっかけはロマン・ポランスキーの『チャイナタウン』(’74)であろう。これが大ヒットしたことによって、『さらば愛しき女よ』(’75)や『ザ・ドライバー』(’78)などのノワール映画が注目を集めたのである。こうした作品は古典的なノワール映画の重要なエッセンスを継承しつつ、時代に合わせたテーマやカラー映画の特性を生かした映像スタイルなどのアップデートが施されたことから、古き良きモノクロのノワール映画とは区別してネオ・ノワール映画と呼ばれる。 さらに『アメリカン・ジゴロ』(’80)や『白いドレスの女』(’81)、『郵便配達は2度ベルを鳴らす』(’81)の相次ぐ大成功によって、ネオ・ノワール映画はハリウッドのメインストリームに。特に’80年代半ば~’90年代初頭は同ジャンルの全盛期だった。『白と黒のナイフ』(’85)に『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』(’85)、『ブルーベルベット』(’86)、『エンゼル・ハート』(’87)、『ブラック・ウィドー』(’87)、『フランティック』(’88)、『ブラック・レイン』(’89)に『シー・オブ・ラブ』(’89)、『グリフターズ/詐欺師たち』(’90)、『氷の微笑』(’92)などのネオ・ノワール映画が商業的な成功を収め、『大時計』(’48)が元ネタの『追いつめられて』(’87)や『都会の牙』(’50)が元ネタの『D.O.A.』(’88)など、往年の古典的ノワール映画のリメイクもこの時期に相次いだ。『チャイナタウン』の続編『黄昏のチャイナタウン』(’90)が作られたのも象徴的であろう。 また、MTVブームによって火の付いたミュージック・ビデオには、ノワール映画のスタイリッシュなビジュアルに影響を受けたものが多かった。『特捜刑事マイアミ・バイス』(‘84~’89)や『ツイン・ピークス』(‘90~’91)といったテレビ・シリーズのヒットも、ネオ・ノワール映画人気の副産物だったように思う。その『特捜刑事マイアミ・バイス』でブレイクした俳優ドン・ジョンソンが主演を務め、『ブルーベルベット』でキャリア復活したデニス・ホッパーが監督した本作もまた、こうしたトレンドの申し子的な作品だったと言えるだろう。 観客を映画の世界へと引きずり込むミステリアスなムード それは、とある暑い夏の日のこと。南部テキサス州の田舎町にハリー・マドックス(ドン・ジョンソン)という謎めいた流れ者がやって来る。ジョージ・ハーショウ(ジェリー・ハーディン)の経営する中古車販売店のセールスマンとして雇われた彼は、同店で事務員として働く19歳の清楚な美女グロリア(ジェニファー・コネリー)に惹かれるのだが、その一方でハーショウの若く妖艶なトロフィー・ワイフ、ドリー(ヴァージニア・マドセン)の誘惑にも抗えず、いつしかドリーとの激しい情事に溺れていく。 そんな折、中古車販売店の近くで火事が発生し、ハリーは町の銀行に勤める職員が消防士を兼ねていることを知る。そこで彼は空きビルに時限発火装置を仕掛けて火災を起こし、職員が出払っている隙を狙って銀行強盗を決行。留守番をしている支店長ウォード(ジャック・ナンス)を縛り上げ、まんまと大金を強奪することに成功する。何食わぬ顔をして消火活動を手伝うハリーだったが、誰もいないはずのビルに人が残されていたことから救助に向かい、かえって警察から怪しまれてしまう。保安官(バリー・コービン)に逮捕されて尋問を受けるハリー。しかし、警察に入ったアリバイ証言の通報で釈放される。証言主はドリー。ハリーが銀行強盗犯であることに気付いていた彼女は、これをネタに夫殺しを持ち掛けて来るものの、さすがのハリーも殺人は躊躇するのだった。 一方、ハリーはグロリアが町はずれに住むチンピラ、フランク・サットン(ウィリアム・サンドラー)に脅迫されていることを知る。かつてグロリアにはアイリーン(デブラ・コール)という姉妹同然の親友がいたのだが、学校の女教師と同性愛の関係にあったことをネタにサットンから脅迫され自殺していた。そしてグロリア自身もまた、アイリーンと全裸で川遊びしている姿をサットンに盗撮され、その写真をネタに金銭を要求されていたのだ。グロリアと本気で愛し合うようになっていたハリーは、サットンのもとへ乗り込んで彼に暴行を加え、脅迫をやめさせようとしたところ、勢い余って殺害してしまう。そこでハリーは銀行から奪った金を彼の自宅に仕込み、サットンを犯人に仕立てて警察の目を欺き、愛するグロリアを連れてカリブへ高跳びしようと目論むのだったが…? まるで’50年代で時の止まったような古き良きアメリカの田舎町。その裏側で秘かに蠢く犯罪の影、曰くありげなヒーローに怪しげなファムファタール、掴み損ねた夢とほろ苦い結末。ホッパーが出演した『ブルーベルベット』ともどことなく相通じる、古典的なフィルム・ノワールの香りがプンプンと漂う。むせかえるように暑いアメリカ南部の気だるい昼下がりと、ブルーやピンクの鮮烈なカラー照明に彩られた夜間シーンの対比が、およそ非現実的でミステリアスなムードを醸し出し、見る者を否応なく映画の世界へと誘っていく。冒頭で砂漠の向こうから車で現れた主人公ハリーが、再び車に乗って蜃気楼の向こうへと去っていくラストも非常に寓話的だ。 監督としての前作『ハートに火をつけて』(’89)でもノワーリッシュな世界に挑んだホッパーだが、長回しを多用したスローなテンポやスタイルを重視した様式美的な演出を含め、本作はより本格的で洗練されたネオ・ノワール映画に仕上がっている。マイルス・デイヴィスやタジ・マハール、ジョン・リー・フッカーら豪華ミュージシャンを演奏に迎えた、ジャック・ニッチェのブルージーで激渋な音楽スコアも最高。若い頃に俳優として、ニコラス・レイやヘンリー・ハサウェイといったノワール映画の名匠たちとも仕事をしていたホッパーにとって、これはそうした偉大なる先人たちへのオマージュでもあったように思う。初監督作『イージー・ライダー』(’69)でニューシネマの時代の到来を決定づけたハリウッドの反逆児が、リアルタイムでは一部を除き低予算のB級映画として過小評価されがちだったフィルム・ノワールに敬意を表するのは、ある意味で必然だったと言えるかもしれない。 撮影の始まる3日前に脚本が丸ごと差し替え! ただし本作、実はもともとデニス・ホッパーの企画ではなかったという。原作はアメリカのハードボイルド作家チャールズ・ウィリアムズが、’53年に発表したパルプ小説「Hell Has No Fury」。’81年に再出版された際に「The Hot Spot」と改題されている。当初監督する予定だったのは、後に『リービング・ラスベガス』(’95)でオスカーを席巻するイギリス出身のマイク・フィギス。母国で撮ったネオ・ノワール映画『ストーミー・マンデー』(’88)で注目され、当時ハリウッド進出を準備していたフィギスだったが、何らかの理由で本作を降板することとなり、『背徳の囁き』(’90)でハリウッド・デビューしている。その後釜として起用されたのがホッパーだったというわけだ。主演のドン・ジョンソンによると、脚本もフィギスの書いたものが既に存在していたが、しかし撮影の3日前になって突然、ホッパーから新しい脚本がキャスト全員に配られたらしい。 その新しい脚本というのが、原作者のウィリアムズ自身がノラ・タイソンと共同で脚色を手掛けたもの。少なくとも’62年には完成しており、一度はロバート・ミッチャム主演で映画化も企画されたそうだが、結局お蔵入りになったまま長いこと放置されていた。それをホッパーが引っ張り出してきて、銀行強盗に焦点を当てたフィギスの脚色と丸ごと差し替えたのである。撮影直前に脚本の内容が加筆修正されるなどはよくある話だが、しかし同じ小説を基にしているとはいえ、全く新しい脚本に変更されるというのは恐らく稀なケースであろう。 キャストには『特捜刑事マイアミ・バイス』の最終シーズンを撮り終えたばかりのドン・ジョンソンに加え、ヴァージニア・マドセンにジェニファー・コネリーという当時売れっ子の若手スター女優を配役。中でも白眉なのは、美しくも堕落したファムファタール、ドリーを演じているヴァージニアであろう。ネオ・ノワール映画『スラム・ダンス』(’87)でも悪女役に挑んだヴァージニアだが、本作では何不自由のない田舎暮らしに退屈して刺激を求める裕福な若妻を、少々大袈裟とも思えるような芝居で演じている。この「過剰さ」こそが実はキモであり、ある種の非現実的で悪夢的な本作のトーンを、ドリーという背徳的なバービードールが体現しているのだ。この役を演じるにあたって、『深夜の告白』のバーバラ・スタンウィックをお手本にしたというヴァージニア。劇中で着用するアンクレットもスタンウィックを真似したのだそうだ。 一方のジェニファー・コネリーは、往年のノワール映画であればテレサ・ライトやアン・ブライスが演じたであろう清楚な隣のお嬢さんグロリア役。当初、ホッパーはユマ・サーマンを候補に挙げていたらしいが、しかし『ダルク家の三姉妹』(’88)を見て一目惚れしたジェニファーに白羽の矢を当てたという。そういえば、本作の撮影監督ウエリ・スタイガーも、『ダルク家の三姉妹』がきっかけで起用したのだそうだ。なお、本作はヴァージニアとジェニファーがヌード・シーンを披露したことでも話題になったが、2人とも後姿の全身ショットはボディダブルを使っている。 ちなみに、主なロケ地となったのはテキサス州の田舎町テイラー。ここは本作の撮影から30年以上を経た今でもまだ’50年代の面影を残しているそうで、古き良きアメリカの田舎を体現するにはうってつけの町だったようだ。また、一部のシーンは州都オースティンでも撮影。例えば、ストリップ・クラブの外観はテイラーで現在も営業するメキシコ料理店を使用しているが、その内部はオースティン近郊に当時実在した「レッドローズ・クラブ」というストリップ・クラブで撮影されている。また、ジェニファー演じるグロリアが暮らす閑静な住宅街もオースティン近郊。よく見ると、隣家の軒先に日本の旭日旗が掲げられているが、当時のオースティンには日系人住民が多かったらしい。■ 『ホット・スポット』© 1990 ORION PICTURES CORPORATION. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2022.08.03
製作から30年。ニール・ジョーダンのインスピレーションとパッションの賜物!『クライング・ゲーム』
ニール・ジョーダンは、1950年生まれのアイルランド人。母が画家だったため、幼い頃から絵画に親しみ、17才で詩、戯曲を書き始めたというが、少年期から映画にも夢中だった。 当時のアイルランドは検閲が厳しく、上映が許可される作品は“宗教映画”ばかり。ジョーダンは、その手の作品を数多く観たというが、その一方で、ダブリンに2館だけ在ったアートシアターに通い、50年代末に始まる、フランスの映画運動“ヌーヴェルヴァーグ”の洗礼を受ける。更にはニコラス・レイ監督の『夜の人々』(1948)『理由なき反抗』(55)などに、大いにハマった。 国立のダブリン大学卒業後は、教師、俳優、ミュージシャンとして働きながら、小説家デビュー。処女短編集「チュニジアの夜」や、長編デビュー作「過去」が高く評価され。更には83年の長編第2作「獣の夢」で、作家としての地位を決定づける。 しかしテレビの台本を書いたのをきっかけに、活動の主な舞台を、映画界に移す。82年には、『脱出』(72)『エクスカリバー』(81)などで知られるジョン・ブアマンのプロデュースで、初監督作品『殺人天使』(日本では劇場未公開)を発表する。この作品の主演だったスティーブン・レイは、それまでは舞台やテレビを中心に活躍していたが、以降は映画にも積極的に出演。ジョーダン監督作の、常連となっていく。 本作『クライング・ゲーム』(92)は、実は『殺人天使』で映画監督デビューを果たした直後から、再びスティーブン・レイ主演の想定で、脚本の執筆をスタートした企画。順調に進めば、監督第2作となる可能性もあった。 ***** イギリス領内の北アイルランドに駐留する、黒人兵士。街の警備中、折々人種差別的な罵倒を受けて、傷ついていた。 そんな彼が、誘拐される。犯人は無差別テロも辞さない武装組織、「IRA=アイルランド共和国軍」。イギリスとの交渉材料として、兵士を拉致・監禁したのである。 その実行犯グループで、人質の見張り役となった男は、黒人兵士と会話を交わす内に、彼に友情を覚える。もしイギリス側が交渉に応えぬまま、時間切れとなった場合、彼を殺さなければならないのに…。 ***** 捕えた者と捕えられた者との間に友情が生まれるが、やがて殺す時がやってくる…。スティーブン・レイを想定して描かれた、「IRA」の見張り役と、人質の黒人兵士の関係は、ジョーダン監督曰く、アイルランド文学ではお馴染みの構図だという。 こうした物語に現実味を持たせるためには、実際に起こった事件の要素を加えた。黒人兵士はブロンドの女性に誘惑されて、拉致されるのだが、70年代にはバーなどで「IRA」の女性メンバーが、イギリス兵を引っ掛けて自宅に連れ帰り、射殺するという事件が、度々起こっていたのである。また当時は、民兵組織が敵対する国家などとの取引材料に、人質を取る事件も、頻発していた。 因みに「IRA」は、北アイルランドをイギリスから分離・独立させて、全アイルランドの統一を図るため、過激なテロ闘争を行っていた、実在の組織。善悪を単純化して描く、90年代ハリウッド映画などに度々登場したことから、映画ファンの間では当時、アラブ人テロリストなどと同様、“悪役”の印象が強かった。 しかし90年代中盤以降、「IRA」とイギリスとの間では和平交渉が進み、2000年代中盤には、武装闘争は終結に至っている…。 ***** 処刑までのタイムリミットが迫る中、黒人兵士は見張り役の「IRA」戦士に、最後の願いをする。ロンドンに居る恋人を捜し出し、「愛していた」と伝えてくれ。そしてその恋人の支えとなってくれと。「IRA」戦士は兵士との約束を守るべく、その“恋人”に会いに行くのだったが…。 ***** ジョーダン曰く、何度書いても、この「“恋人”に会いに行く」部分で、筆が止まってしまった。 そこでこの企画は、一旦棚上げに。ジョーダンは先に、「赤ずきん」をベースにしたファンタジーホラー『狼の血族』(84)、ナット・キング・コールの名曲に想を得た『モナリザ』(86)を発表。両作が国際的に高い評価を受け、ハリウッド進出まで果した後に、「“恋人”に会いに行く」後の展開を、再び考えることにした。 事態を大きく動かす妙案が、ジョーダンの頭に浮かんだ!兵士の“恋人”を、○○にすれば良いんだ!! パズルの大きなピースが埋まり、ジョーダンは“映画化”に向かって、邁進することとなる。そしてこのインスピレーションこそが、本作『クライング・ゲーム』(93)が初公開時、観る者の多くをして、「衝撃的!」と言わしめる結果をもたらしたのである。 それから30年近く経って、2022年の今だと、“恋人”が○○であることを、「衝撃的!」と受け止めにくくなっている。また本作はかなり有名な作品なので、実際に鑑賞していなくても、どんな展開が待ち受けているか、ご存じの方も少なくないだろう。 しかし敢えて今回は、本作を未見で、展開も知らない方々には、この後の文章を読むのは、鑑賞後まで控えることを、オススメしておく。 <以下、ネタバレがありますので、ご注意下さい> ***** 黒人兵士のジョディ(演:フォレスト・ウィティカー)を処刑できなかった、見張り役のファーガス(演:スティーブン・レイ)。しかしジョディは、「IRA」のアジトを急襲したイギリス軍車両に轢かれ、命を落としてしまう。 アジトが爆破される中、ファーガスは辛くも逃げ延びて、ロンドンに潜伏。ジョディの“恋人”で美容師のディル(演:ジェイ・デヴィッドソン)に会いに行く。 ジョディとの関わりは隠しながら、美しく魅力的なディルとの距離が近づいていく、ファーガス。ディルもそんな彼に惹かれ、やがて2人はベッドを共にするが…。 ディルの肉体は、“男性”だった! ショックを受けたファーガスは、一旦は彼女を拒絶。ディルを傷つけてしまうが、やがて仲直り。2人の不思議な関係が続いていく。 そんな時に、「IRA」の仲間だったジュード(演:ミランダ・リチャードソン)が現れ、テロ行為への加担を迫る。渋るファーガスだったが、ディルに危険が迫ることを避けるため、計画に加わらざるを得なくなる。 果たして、ファーガスとディルの運命は? ***** 物語を動かす大きなフックは見付かったものの、それが困難の始まりとも言えた。主人公が、イギリスを恐怖に陥れていた「IRA」のテロリストであることに加え、人種差別や性差別の問題にまで、踏み込んでしまっている。こんな企画に製作費を出してくれるスポンサーは、そう簡単には見付からない。 イギリスでは、全土で同性愛が違法ではなくなったのは、1982年のこと。それ以前に、性犯罪法で処罰を受けた男性の同性愛者たちの罪が赦免されるのは、2016年まで待たなければならなかった。 LBGTQやトランスジェンダーなどという言葉が一般的ではなかった93年に、ディルのようなヒロイン像というのは、斬新過ぎた。それに加えて、そのディルを演じられる俳優を見付けるのが、簡単ではなかった。 スティーブン・レイをはじめ、フォレスト・ウィティカー、ミランダ・リチャードソンと、他の主要キャストには、適役を得た。しかし「無名の黒人男性で、女性役ができる」という条件のヒロイン探しは、困難を極めたのである。 撮影開始まで8週間と迫った頃、ジョーダンは、かのスタンリー・キューブリックに相談した。キューブリックは先の条件を確認した上で、「画面に登場して30分は女性に思える」者を探すなど、「2年掛かっても、無理」と断定したという。 スタッフが手分けして、それらしい者が居そうな、ロンドンのクラブを回った。最終的には著名な映画監督で、自身ゲイだったデレク・ジャーマンからもたらされた情報で、ディルが見付かった。 ジェイ・デヴィッドソン。並外れて美しく、演技は未経験だったが、ジョーダンは“彼女”に決めた。 そしてジョーダン曰く、「完璧に自由な環境でしか撮れない映画」の製作が進められることとなった。「完璧に自由」ということは即ち、「完璧に金がない」ということでもあった。 いざ作品が完成して、92年10月のイギリスでの公開が近づくと、ジョーダンは評論家などに手紙をしたためた。本作の展開については「秘密厳守」、特に、ディルが“男性”であることを明かさないようにと、お願いする内容だった。 作品のデキが、素晴らしかったからだろう。評論家達は、ジョーダンの願いを聞き届け、「秘密」は守られた。 この展開はその年末の、アメリカ公開に当たっても、堅持された。本作はニューヨークを中心に大ヒット! ロングラン公開となって、アメリカのアカデミー賞でも6部門にノミネートされ、ジョーダンは“オリジナル脚本賞”を受賞する。 因みに日本での公開は、翌93年6月。その年の3月に開催されたアカデミー賞で、ジェイが“助演男優賞”の候補になっていること自体が、「ネタバレ」とも言えた。しかし公開に当たっては、ディルが“男性”であることは伏せられ、観た者にも「秘密」を広げないように、お願いがされた。 ところが実際にスクリーンに対峙すると、ファーガスがディルとベッドインして、彼女が“男性”であることを知る「衝撃的!」なシーンで、ディルの股間には、悪名高き“ボカし”が掛かっていたのである。日本では無粋な規制によって、本作の本質に関わる部分が、何が何やらわからない状態にされていたのが、逆に「衝撃的!」と言えた。 さて記してきた通りに、92年という時制の中で、「IRA」のテロリストである主人公や、心が“女性”である美しい男性ヒロイン等々の設定や仕掛けが、アクチュアル且つ先鋭的であった、本作『クライング・ゲーム』。30年経って、そうしたヴィヴィッドさは失われても、挿入される曲や寓話なども含めて、言葉や構成へのこだわりが、現在でも光り輝く。 また今作の後には、商業作品は『スターゲイト』(94)程度しか出演しなかったジェイ・デヴィッドソンは、その後本作で見せたような装いを捨てて、男性的な外見へと変貌を遂げたとも聞く。そうしたことも含めて、いま改めて観る価値が高い作品とも、言えるだろう。■ 『クライング・ゲーム』© COPYRIGHT PALACE (SOLDIER'S WIFE) LTD. AND NIPPON FILM DEVELOPMENT & FINANCE INC. 1992
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COLUMN/コラム2022.07.22
フィリップ・ド・ブロカの明暗。“映画作家”として生涯の1本!『まぼろしの市街戦』
第一次世界大戦末期、ドイツ軍がフランスの小さな村から撤退する際、強力な時限爆弾を仕掛けた。イギリス軍にその情報を連絡しようとしたレジスタンスは、電話の途中でドイツ兵に射殺されてしまう。 そのためイギリス軍に届いたのは、「真夜中に騎士が打つ」という謎のフレーズのみ。フランス語ができるという通信兵のプランピックは、その謎を探って時限爆弾を解除するよう命じられ、村へと派遣される。 すべての住民は破壊を恐れて、緊急避難。村に残されたのは、精神科病院の患者たちと、解き放たれたサーカスの動物たちだけ。患者たちは持ち主が不在となった家屋に入り込み、それぞれの妄想のままに、貴族や司教、将軍、理髪師、娼婦等々になりきった。 そんな患者たちから“ハートの王様”に祭り上げられたプランピックは、彼らに翻弄され、一向に謎は解けない。とりあえず放った2羽の伝書鳩の内、1羽はイギリス軍に無事着くも、もう1羽はドイツ軍に撃ち落とされる。両軍は事態把握のため、偵察隊を村へと送り込む。 狂人であっても善良で平和的な患者たちを救おうと、奔走するプランピックだったが、大爆発の時は刻一刻と迫る。彼はやむなく、相思相愛となった娘コクリコと、最後の時を過ごそうとするが、彼女の述べた言葉から、謎のフレーズの意味が判明。僅かな残り時間に、爆弾の解除へと挑む。 その一方イギリス・ドイツ両軍が、村へと迫る。果たしてプランピックと、愛すべき狂人たちの運命は…。 ***** 正常な者で構成されている筈の軍人たちが、互いに銃を向けて殺し合う。その一方で、狂気の世界の住人たちは、他人を傷つけることなく、楽しげに人生を謳歌する…。 フランス製の戯画的な反戦ファンタジーである本作『まぼろしの市街戦』(1966)を熱烈に支持する者は、我が国にも少なくない。2018年に「4Kデジタル修復版」としてリバイバル公開された際には、邦画のヒットメーカーである瀬々敬久監督が、こんなコメントを寄せている。「中学生の頃、テレビの洋画劇場で見て大衝撃を受けて以来、生涯ベスト。あの淀川長治さんも、その日は本気で大興奮していた」 映画評論家の山田宏一氏やイラストレーターの和田誠氏なども、本作のファン。大森一樹監督に至っては、現代日本を舞台にした『世界のどこにでもある、場所』(2011)という作品で、本作の再現を試みている。 フィリップ・ド・ブロカ。 カルト的な人気作である本作は、1933年生まれのこのフランス人監督の歩みと、密接に関わって誕生した。 ド・ブロカはパリに在る、国立のルイ・リュミエール高等学校で、映画撮影技術について学んだ。1953年に卒業すると、カメラマンとして、トラックに乗ってアフリカを旅行。後にジャン=ポール・ベルモンドを主演に擁して、『リオの男』(1964)『カトマンズの男』(65)など、異国情緒に溢れた冒険活劇を次々と放つようになったのは、この時の経験がベースになったと言われる。 アフリカから帰った後、ド・ブロカは兵役に就く。軍の映画製作部に配属されて、ドイツのバーデン=バーデンで1年を過ごした後の任地は、アルジェリア。それは折しも、宗主国フランスに対して、民族解放戦線が起こした独立戦争、“アルジェリア戦争”が激化した頃であった。 凄惨なテロの応酬に、大規模なゲリラ掃討作戦。ド・ブロカは2年間に渡って、戦場の恐ろしい光景をフィルムに収めることとなった。そしてこの経験のため、すっかり悲観的で厭世的となり、それが後の彼の監督作品に影響を及ぼすこととなる。 除隊後に商業映画の世界に進んだド・ブロカは、クロード・シャブロルやフランソワ・トリュフォーといった、映画史に革命を起こした“ヌーヴェルヴァーグ”の寵児たちの助監督に付く。そうしたキャリアや世代的なこともあって、時折ド・ブロカも、“ヌーヴェルヴァーグ”の一端を担った監督と分類されることがある。しかし映画作りへの取組みは、シャブロルやトリュフォーとは、明らかに一線を画すものだった。 兎にも角にも、「楽しい映画を」という姿勢。それはアルジェリアの経験から、「自分にできるのは喜劇映画を作って人々に微笑みをもたらすことぐらいだ…」という境地に至ったことから、生じたものと言われる。 稀代のアクションスター、ジャン=ポール・ベルモンドと初めて組んだのは、『大盗賊』(61)。この作品は、合わせて10本の作品を共にすることになる、プロデューサーのアレクサンドル・ムヌーシュキンとの、初顔合わせでもあった。 そして先に挙げた、ベルモンド主演の冒険活劇、いわゆる「~の男シリーズ」の端緒を切って、評判となった後に辿り着いたのが、1966年の『まぼろしの市街戦』であった。 本作の基となったものとして、まず挙げられるのが、原案にクレジットされているモーリス・ベッシーが、ド・ブロカに話して聞かせたという新聞の三面記事。それは精神科病院から抜け出した者たちが、ある村にやって来て、思い思いに田園で過ごしたという内容だった。 これに加えて、第2次世界大戦時に、ナチス・ドイツが占領するフランス北部の村で起こった出来事も、本作の着想源になったと言われる。それは、住民が逃げ出す際に、精神科病院の患者たちや小屋に閉じ込められていた動物たちの束縛を解いたため、彼らが自由の身になったという逸話だった。 ド・ブロカ、そして彼とコンビを組んでいた共同脚本のダニエル・ブーランジェは、これらから想像力を掻き立てられ、本作のストーリーを編んでいった。そのベースには、ド・ブロカの戦場体験があったことは、言うまでもない。 元ネタのひとつが、第2次大戦下の実話だったにも拘わらず、舞台を第1次大戦に置き換えたのは、製作時点から時制を離すことで、生々しさを避ける狙いもあったようだ。ナチに占領された第2次大戦の記憶は、フランス人のトラウマとして、まだまだ根強い頃だったのである。 しかし、スターを擁した冒険活劇の監督が、このような「地味」に映る企画に取り組むことに、賛意を示す者は少なかった。出資者がまったく見付からず、おまけにド・ブロカの伴走者であるアレクサンドル・ムヌーシュキンも、製作から降りてしまったのである。 ド・ブロカは妻ミシェルと共に、自らプロデューサーを務めることになった。そしてハリウッドの映画会社ユナイテッド・アーティスツがフランスに持つローカル・プロと、イタリアの製作会社という2社の出資を得て、自ら興したプロダクションで、本作の製作に挑んだのである。 主なロケ地は、パリから40㌔ほど北に在る、サンリスという街。 主演のプランピック役に招かれたのは、イギリス人俳優のアラン・ベイツ(1934~2003)。60年代は、ジョン・シュレシンジャーやケン・ラッセル、ジョン・フランケンハイマーといった気鋭の監督たちの作品に、主演級で起用されていた俳優である。 ベイツは、本作のクランクイン直後に足首を折ってしまったため、撮影はベイツに負担を掛けないように進められることとなった。そのため本作の彼はよく見ると、常に一本足で走っているという。 ヒロインのコクリコには、ジュヌヴィエーヴ・ビジョルド(1942~ )が抜擢された。フランス系カナダ人の彼女は、モントリオールの劇団のパリ公演で、アラン・レネに見出され、『戦争は終った』(65)に出演。そのため一時的にフランスに滞在したことから、本作の出演につながった。 精神科病院の患者を演じて脇を固めるのは、ピエール・ブラッスール、ジャン=クロード・ブリアリ、ミシェリーヌ・プレール、ミシェル・セローといった、フランスの名優たち。イギリス軍の大佐を演じたアドルフォ・チェリは、イタリア人。『007/サンダーボール作戦』(65)の悪役で、ジェームズ・ボンドと死闘を繰り広げたことが、有名である。 さて本作は1966年の12月、フランスで公開されると、観客には見事にそっぽを向かれた。そのためド・ブロカと妻ミシェルは、とにかく1人でも多くに観てもらおうと、チケットを配りまくるハメとなった。 評論家からは、“愚者の物語”と評する声が上がった。つまり興行・批評とも、本国では散々な事態となってしまったのだ。 本作を映画史の闇に埋もれさせなかったのは、実はアメリカとイギリスでの成功だった。特にアメリカは、ハーヴァード大学の在るマサチューセッツ州の街で公開したところ、1週間の上映予定が、結果的には何と5年ものロングランになったという。 この地での盛況を見た、配給のユナイテッド・アーティスツは、国中の大学所在地での興行展開を決定。各所で当たりを取り、本作はいわゆる、“カルト映画”となった。 時はアメリカで、ベトナム反戦運動の燃え盛る頃。本作は多くの若者たち、その中でも特に、ヒッピーたちの支持を集めたのである。 本作で撮影監督を務めたピエール・ロムは、ド・ブロカが高校で映画撮影技術を学んでいた時の、同級生で親友。そんなロムが、アメリカで初めて仕事をする際、現場の者たちは、フランス人が撮影を担当することに、懐疑的な姿勢を見せていた。ところがロムが、本作の撮影監督とわかると、態度が一変。その後は、天才扱いされたという。 しかしアメリカでの成功は、ド・ブロカの懐を潤すことはなかった。ロム曰く、金に困ったド・ブロカが、格安で配給権をユナイテッド・アーティスツに売ってしまったので、本作のために彼が陥った借金地獄の緩和には、繋がらなかったのである。 ド・ブロカはフランスでの大失敗に絶望し、一時は監督業から足を洗おうとさえしたが、結局は脳天気な活劇方面へと、再シフトすることとなる。その一方で、アメリカでの評判から、ハリウッドで監督する話も持ち上がった。 しかし、“映画作家”ではなく“現場監督”扱いされるようなハリウッドの製作体制では、思うようなものは作れない。ド・ブロカはそうした結論に至り、生涯アメリカ映画を手掛けることは、なかった。 本作が辿った道のりと、それに左右されたド・ブロカの監督人生は、1人の“映画作家”としては、不幸な側面が強いのかも知れない。しかしそれ故に、本作の存在はより輝かしいものになったとも言えるのが、何とも皮肉である。■ 『まぼろしの市街戦』© 1966 Fildebroc SARL. (Indivision de Broca)
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COLUMN/コラム2022.07.11
ホラー映画文化とそのファンへ大いなる愛を込めた吸血鬼映画の傑作!『フライトナイト』
自身も熱烈なホラー映画ファンだったトム・ホランド監督 ハリウッドが空前のホラー映画ブームに沸いた’80年代。ジェイソンにフレディにマイケル・マイヤーズにレザーフェイスなどなど、数々の血に飢えた連続殺人鬼がスクリーンを縦横無尽に暴れ回り、日進月歩で進化する特殊メイク技術を駆使した血みどろの残酷描写がファンを大いに沸かせた。その一方で、吸血鬼ドラキュラやフランケンシュタインの怪物やミイラ男といった、いわゆる古典的なホラー・モンスターは半ば絶滅の危機にあったと言えよう。唯一の例外は狼人間。『狼男アメリカン』(’81)でリック・ベイカーが披露した狼男の変身シーンは特殊メイクの世界に革命を巻き起こし、同じ年に公開された『ハウリング』(’81)と並んで人狼映画リバイバルの起爆剤となった。 それに対して、かつてホラー・モンスターの王様だった吸血鬼は、せいぜいコメディ映画でパロディにされるくらいが関の山。『ザ・キープ』(’83)や『スペース・バンパイア』(’85)のように変化球的な作品もあったが、しかし正統派の吸血鬼映画とは一線を画していた。そうした中、古典的な吸血鬼を現代風にアップデートし、誰も予想しなかったサプライズ・ヒットを記録した作品が『フライトナイト』(’85)だった。 産みの親は『チャイルド・プレイ』(’88)でもお馴染みのトム・ホランド監督。俳優としてキャリアをスタートしたホランドは、映画監督を志してまずは脚本家へと転身。カルト的な人気を誇るテレビ映画『のろわれた美人学生寮』(’78)が評判となり、リチャード・フランクリン監督の『サイコ2』(’83)の脚本で高い評価を得たホランドだったが、しかしマイケル・ウィナー監督の『Scream For Help』(’84・日本未公開)で脚本をズタズタにされてしまったことから、自分の書いたオリジナル脚本を自分自身の手で忠実に映画化したいと考えるようになる。 予てより、古典的ホラー・モンスターを現代に復活させたいと願っていたホランド監督。元ネタとなったのは、ある時思い浮かんだ「ホラー映画ファンの高校生が、隣家の住人が本物の吸血鬼であることに気付く」というアイディアだ。これは面白い映画になる!と思ったものの、しかしそこから1年近くもストーリーを発展させることが出来なかった。そこでホランドは「こういう場合に高校生の少年だったらどうするだろう?」と考える。恐らく周囲の大人に訴えても信じてもらえないはずだ。ならば誰に相談する?そこで彼は突然ひらめいたという。そうだ!ヴィンセント・プライスだ!と(笑)。こうして生まれたのが、ホランドにとって永遠の憧れであるピーター・カッシングとヴィンセント・プライスの名前を合体させた、ピーター・ヴィンセントというキャラクターだった。そう、トム・ホランド監督自身が、実は主人公の少年と同じく熱狂的なホラー映画ファンだったのだ。 アメリカのホラー映画文化に欠かせない「ホラー・ホスト」とは? アメリカの小さな田舎町に住む平凡な高校生チャーリー・ブリュースター(ウィリアム・ラグズデール)は、毎週金曜日の深夜にテレビで放送されるホラー映画番組「フライトナイト」を欠かさず見ている大のホラー映画ファン。ある晩彼は、長いこと空き家だった隣家に新しい住人が引っ越してきたことに気付くのだが、しかしよく見ると地下室に棺桶を運び込んでいた。ちょっと不思議に思うものの、その時は大して気にしなかったチャーリー。しかし、その日から町の周辺で若い女性の変死体が発見されるようになり、ニュース報道で犠牲者の顔写真を見たチャーリーは思わず目を疑う。前日に隣家を訪れたコールガールだったのだ。 新しい住人はジェリー・ダンドリッジ(クリス・サランドン)とビリー・コール(ジョナサン・スターク)の男性2人。しかし、ジェリーは日中ずっと留守にしているようだ。どう考えても怪しい。夜になって自室から隣家を覗き見にしていたチャーリーは、ダンドリッジが若い女性の血を吸おうとしている様子を目撃してしまう。あれは絶対に吸血鬼だ!そう確信したチャーリーは母親や警察に訴え出るも信じてもらえず、恋人エイミー(アマンダ・ビアース)や筋金入りのホラー映画マニアである親友エド(スティーブン・ジェフリーズ)から心配されてしまう。一方、正体がバレたことに気付いたダンドリッジは、これ以上ことを荒立てると殺すぞとチャーリーを脅迫。窮地に追い込まれたチャーリーが、最後の頼みの綱として相談したのは、テレビ「フライトナイト」のホスト役ピーター・ヴィンセント(ロディ・マクドウォール)だった。 吸血鬼ハンターを名乗っているヴィンセントだが、もちろんあくまでも番組内の設定であり、実際は落ちぶれた往年のホラー映画スターに過ぎない。しかも、視聴率不振で番組をクビになってしまった。ドラキュラだのフランケンシュタインだのといった、ヴィンセントが愛する古き良きホラー・モンスターはもう時代遅れなのだ。最初はチャーリーの訴えを真に受けず、大人をからかうのもいい加減にしなさいと突き放したヴィンセント。しかし、エイミーとエドから「チャーリーを正気に戻したい」と相談され、現金と引き換えに一肌脱ぐこととなる。番組の小道具である吸血鬼ハンター・グッズを使って、ダンドリッジが吸血鬼ではないことをチャーリーの目の前で証明しようというのだ。ところが、実際にチャーリーたちを連れてダンドリッジの屋敷を訪れたヴィンセントは、そこで彼が本物の吸血鬼であることに気付いてしまう…! 本作のことを「古き良きホラー映画とそのファンへ贈るラブレター」と呼ぶトム・ホランド監督。先述したように大のホラー映画ファンだった彼は、劇中のチャーリーと同じようにテレビのホラー映画番組をこよなく愛していたという。’50年代に古い映画のテレビ放送が始まったアメリカ。予算のないローカル局では、主に権利料の安いB級ホラー映画を毎週金曜の深夜に放送し、ティーンの視聴者から人気を集めた。そうした番組に欠かせなかったのが「ホラー・ホスト」。地元の売れない役者やタレント、局アナなどが、それぞれ独自に考え出したホラー・キャラクターに扮し、番組のプロローグとエピローグで今週のホラー映画を紹介するのだ。エド・ウッド映画にも出演した女吸血鬼ヴァンピラや、歌手デビューまでした妖怪ザッカリーなどがその代表格。’80年代にはエルヴァイラが大ブレイクし、主演映画まで作られた。 アメリカでは子供時代~青春時代にかけて、こうした番組でユニバーサル・モンスター映画やロジャー・コーマン映画、RKOホラーやハマー・ホラーなどの古典を見て育ったというホラー映画マニアがとても多い。もちろん、ホランド監督もそのひとり。主人チャーリーはまさに学生時代のホランド監督であり、その親友エドは当時のホラー映画ファン仲間であり、ヴィンセントは彼らの世代が夢中になったホラー映画番組ホストの象徴なのだ。しかも、’80年代半ば当時はホラー映画マニアが市民権を得始めた時代。今ほどではないにせよ、ファンの祭典であるホラー・コンベンションも増えつつあった。ホラー映画好きを公言しただけで白い目で見られた、ホランド監督の学生時代とは大違い。恐らく感慨もひとしおだったに違いない。これは言わば、脈々と受け継がれるアメリカのホラー映画文化と、それを形成してきたファンへの愛情がたっぷり詰まった作品。それこそが『フライトナイト』の本質的な魅力であり、’11年に作られたリメイク版で決定的に足りなかった点だと言えよう。 新時代の吸血鬼像を作り上げた気鋭の特殊効果チーム そんな本作の魅力を支える最大の功労者は、間違いなくヴィンセント役のロディ・マクドウォールであろう。彼の演じるヴィンセントなくして、本作は成立しなかったと言っても過言ではない。当初、ホランド監督はヴィンセント・プライスにオファーするつもりだったそうだが、しかし当時のプライスは高齢なうえに健康問題を抱えており、それなりの運動量を要求される本作は物理的に不可能だった。そこで浮上したのが、ホランドが脚本に携わった映画『処刑教室』(’82)に出ていたマクドウォールだったという。 ご存知の通り、12歳の時に出演したジョン・フォード監督の名作『我が谷は緑なりき』(’41)でスターダムを駆け上がり、本作の当時すでに40年以上のキャリアを誇っていたマクドウォール。その間に幾度となく浮き沈みを経験していたことから、「ヴィンセントは私そのものだ」と語るほど役柄に深い思い入れを持っていたという。しかも、プライベートでは膨大な数の映画フィルムをコレクションし、古き良き時代のハリウッド映画をこよなく愛した筋金入りの映画マニア。本作に込めたホランド監督の想いを、恐らく誰よりも理解していたに違いない。ちなみに、サイレント時代から同時代まで幅広い映画人と交友関係のあった彼は、週に2回自宅へ友人を招いてパーティを開いていたらしい。ただし、毎週火曜日がストレート向け、金曜日がゲイ向けと分けていたのだとか。ホランド監督や主演のウィリアム・ラグズデールも、そのストレート向けパーティに何度も招待され、そこで憧れのヴィンセント・プライスとコーラル・ブラウンの夫妻に紹介されて舞い上がったそうだ。 このように懐かしい時代へのノスタルジーが込められた作品だが、その一方で古式ゆかしい吸血鬼のイメージを’80年代仕様にアップデートした点も特筆すべきであろう。それまでの映画に出てくる吸血鬼と言えば、顔を青白く塗って牙を付けただけのベラ・ルゴシ型か、もしくは特殊メイクで野獣のように獰猛な顔をしたノスフェラトゥ型のどちらかだったが、本作の吸血鬼ダンドリッジはその両者を合体・進化させたハイブリッド型。普段はセクシーでハンサムな普通の人間だが、しかし血を吸う際には目を光らせて牙が飛び出し、さらに本性を現すと醜悪なノスフェラトゥ型モンスターへと変身する。中でも、当時最先端の特殊メイク技術を駆使して作られたノスフェラトゥ型は、それまでの吸血鬼映画とは比べ物にならないくらいリアルで凶悪だった。 これはやはり、『ポルターガイスト』(’82)や『ゴーストバスターズ』(’84)でもお馴染みのリチャード・エドランド率いる視覚効果&特殊メイク・チームの功績が大きいだろう。中でも、当時まだ駆け出しだったスティーヴ・ジョンソンが素晴らしい仕事をしている。もともとエドランドはリック・ベイカーに声をかけていたのだが、働き過ぎで休みが欲しいことを理由に断られたため、『ゴーストバスターズ』で実力を発揮したジョンソンに白羽の矢を立てたという。そのほか、『ロード・オブ・ザ・リング』三部作でオスカーに輝くランドール・ウィリアム・クックや、『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズのケン・ディアスなど、後にハリウッドの大御所となる特殊効果マンたちが名を連ねている。本作で彼らが生み出した新時代の吸血鬼は、その後『ロスト・ボーイ』(’87)や『フロム・ダスク・ティル・ドーン』(’96)などに受け継がれていくこととなる。■ 『フライトナイト』© 1985 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.