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シネマ・トーク~ザ・シネマ開局10周年スペシャル~(前編)
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映画界この10年の動きを振り返る映画好きのためのトーク番組。出演は、『映画ブ、作りました。― 千秋&苺の映画感想ノート』を上梓された千秋、ジェイソン・ステイサムの声でおなじみ声優の山路和弘、映画ライターのてらさわホーク。司会は映画が大好きというドーキンズ英里奈。前編では、この10年間の興収上位作品や、高騰する製作費、日本での吹き替え人気の高まりなどについて語る。
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COLUMN/コラム2017.12.09
12月8日(金)公開『オリエント急行殺人事件』!なんでもできる人・ケネス・ブラナーがこのクラシックにどう挑むか!?
原作者の曽孫も賞賛する、ブラナー版『オリエント急行殺人事件』の独自性 ひとつの難事件を解き終え、イスタンブールからイギリスに向かうべく、オリエント急行に乗り込んだ名探偵エルキュール・ポアロ(ケネス・ブラナー)。そこで出会ったアメリカ人の富豪、ラチェット(ジョニー・デップ)に身辺警護を頼まれるが、ポアロはあっさりと断ってしまう。だがその夜、雪崩のために脱線し、立ち往生を食らったオリエント急行の客室で、刺殺体となったラチェットが発見される……。「マルチキャスト」「オールスター」「アンサンブル共演」etcー。呼び名は多様だが、主役から端役に至るまで、登場人物すべてをスター級の俳優で固める映画というのは、ハリウッド・クラシックの優雅なスタイルだ。時代の趨勢によってその数は縮小されていったが、それでも夏休みや正月興行の花形としてときおり顔を出すのは、それが今もなお高い集客要素を包含しているからに相違ない。 そんなマルチキャスト方式の代表作ともいえる『オリエント急行殺人事件』は、ミステリー小説の女王として名高いアガサ・クリスティの原作のなかで、最も有名なものだろう。これまでに何度も映像化がなされ、とりわけシドニー・ルメット監督(『十二人の怒れる男』(57)『狼たちの午後』(75))による1974年のバージョンが、この偉大な古典の映画翻案として多くの人に「衝撃の結末」に触れる機会を与えてきた。 今回、ケネス・ブラナーが監督主演を務めた新生『オリエント急行殺人事件』は、そんなルメット版を踏まえ、徹底した豪華スターの共演がなされている。しかしどちらの作品も、マルチキャストは単に集客性を高めるだけのものではない。劇中におけるサプライズを成立させるための重大な要素であり、必要不可欠なものなのだ。ありがたいことにミステリー愛好家たちの努力と紳士協定によって、作品の命といえるオチに関しては「ルークの父親はダース・ヴェイダー」よりかろうじて秘密が保たれている。なので幸運にして本作の結末を知らない人は、この機会にぜひ「なぜ豪華キャストでないとオチが成立しないのか?」という驚きに触れてみるといい。 とはいえ、モノが徹頭徹尾同じであれば、長年愛されてきたアガサの原作にあたるか、最良の映画化であるルメット版を観れば事足りるだろう。しかし今回の『オリエント急行殺人事件』は、過去のものとは一線を画する価値を有している。 そのひとつとして、ブラナー監督が同時に稀代の名探偵である主人公ポアロを演じている点が挙げられるだろう。『愛と死の間で』(91)や『フランケンシュタイン』(94)など、氏が主役と監督を兼ねるケースは少なくない。しかしアガサ・クリスティ社(ACL)の会長兼CEOであるジェームズ・プリチャードによると、このアプローチに関し、今回は極めて強い正当性があるという。いわく、「ポアロという人物はこの物語の中で、登場人物全員を指揮している立場であり、ある意味で監督のような仕事をしている存在です」とーー。 かつてさまざまな名優たちが、ポアロというエキセントリックな名探偵を演じてきた。しかしこの『オリエント急行殺人事件』におけるブラナーのポアロは、プリチャードが指摘する「物語を指揮する立場」としての役割が色濃い。列車内での殺人事件という、限定された空間に置かれたポアロは、乗客たちのアリバイを事件と重ね合わせて検証し、理論づけて全体像を構成し、犯人像を浮かび上がらせていく。確かにこのプロセスは、あらゆる要素を統括し、想像を具象化する映画監督のそれと共通している。だからこそ、役者であると同時に監督としてのスキルを持つ、ブラナーの必要性がそこにはあるのだ。 さらにはブラナーの鋭意な取り組みによって、この『オリエント急行〜』は原作やルメット版を越境していく。完全犯罪のアリバイを解くだけにとどまらず「なぜ容疑者は殺人を犯さなければならなかったのか?」という加害者側の意識へと踏み込むことで、この映画を犯罪ミステリーという立ち位置から、人が人を断罪することへの是非を問うヒューマニティなドラマへと一歩先を行かせているのだ。シェイクスピア俳優としてイギリス演劇界にその名を馳せ、また監督として、人間存在の悲劇に迫るシェイクスピアの代表作『ヘンリー五世』(89)や『ハムレット』(96)を映画化した、ブラナーならではの作家性を反映したのが今回の『オリエント急行殺人事件』最大の特徴だ。ブラナーが関与することで得られた成果に対し、プリチャードは賞賛を惜しまない。 「ケネスは兼任監督として、ものすごいリサーチと時間と労力をこの作品に注いでくれました。映画からは、そんな膨大なエネルギー量が画面を通して伝わってきます。『オリエント急行殺人事件』はアガサの小説の中でも、もっとも映像化が困難な作品です。しかしケネスの才能あってこそ、今回はそれをやり遂げることができたといえるでしょう」 ブラナー版の美点は、先に挙げた要素だけにとどまらない。密室劇に重きを置いたルメット版とは異なり、冬場の風景や優雅な客車の移動ショットなど、視覚的な攻めにも独自性がみられるし、『ハムレット』で実践した65mmフィルムによる撮影を敢行し、マルチキャスト同様にクラシカルな大作映画の優雅さを追求してもいる。 『忠臣蔵』や『ロミオとジュリエット』のような古典演目が演出家次第で表情を変えるように、ケネス・ブラナーの存在を大きく誇示する今回の『オリエント急行殺人事件』。そうしたリメイクのあり方に対する、原作ファンや観客の受け止め方はさまざまだ。だが殺人サスペンスという形式を用い、人の愚かさや素晴らしさを趣向を凝らし描いてきた、そんなアガサ・クリスティのマインドは誰しもが感じるだろう。 古典を今の規格に適合させることだけが、リメイクの意義ではない。古典が持つ普遍的なテーマやメッセージを現代に伝えることも、リメイクの切要な役割なのである。■ © 2015 BY EMI FILM DISTRIBUTORS LTD. ALL RIGHTS RESERVED.
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PROGRAM/放送作品
シネマ・トーク~ザ・シネマ開局10周年スペシャル~(後編)
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映画界この10年の動きを振り返る映画好きのためのトーク番組。出演は、『映画ブ、作りました。― 千秋&苺の映画感想ノート』を上梓された千秋、ジェイソン・ステイサムの声でおなじみ声優の山路和弘、映画ライターのてらさわホーク。司会は映画が大好きというドーキンズ英里奈。後編では、この10年の人気スターや、ギャラ長者番付といった気になるテーマについて語る。
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COLUMN/コラム2017.04.02
【本邦初公開】東西冷戦下のモスクワで育まれるイデオロギーを超えた男女のささやかな愛。当時のロシアを知る映画ライターが作品の魅力と知られざるソ連の素顔に迫る!〜『ペトロフカの娘』〜04月27日(木)深夜ほか
出演はゴールディ・ホーンにハル・ホルブルック、アンソニー・ホプキンス。そして監督は、以前にここでもご紹介した切ない系青春映画の傑作『愛すれど心さびしく』(’68)の名匠ロバート・エリス・ミラー。この顔ぶれにして、なぜか今まで日本では劇場未公開。それどころかテレビ放送やソフト発売すらされていなかった幻の作品が、この『ペトロフカの娘』(’74)である。 ペトロフカとは、ロシアのモスクワ中心部にある大通りのこと。ネタバレになりかねないので深くは言及しないが、ここには名前の由来となったヴィソコ・ペトロフスキー修道院やロシアン・バレエの殿堂ボリショイ劇場、そして権力の象徴たるモスクワ警察署が存在し、今では高級ブランドのブティックが軒を連ねるショッピングストリートだ。 実は筆者、このペトロフカ通りから徒歩で15分くらいの場所に住んでいた。時は’68年~’72年、そして’78年~’83年。大手マスコミのジャーナリストだった父親がモスクワ特派員として2度に渡って赴任し、家族ともども暮らしていたのだ。当時はまだ東西冷戦の真っ只中。ソビエト連邦はブレジネフ書記長の政権下にあった。そんな鉄のカーテンの向こう側を知る人間として、本作はいろいろな意味で興味深い映画だ。 ストーリーは東西の壁に阻まれた男女の悲恋ドラマである。主人公は米国新聞社のモスクワ特派員ジョー(ハル・ホルブルック)。妻に先立たれたばかりの彼は、現地の友人コスチャ(アンソニー・ホプキンス)を介してオクチャブリーナ(ゴールディ・ホーン)というロシア人女性と知り合う。自由奔放にして天真爛漫。口を開けば歯に衣着せぬ物言いだが、やたらと尾ひれや背びれを付けるので、何が本当で何が嘘なのかよく分からない。仕事もなければモスクワの居住許可証もないが、政府高官をはじめとする男たちの間を渡り歩いて逞しく生きている。ゴールディ・ホーンのコケティッシュでキュートな不思議ちゃんキャラがなんとも魅力的だ。 ちなみに、オクチャブリーナとはロシア語の10月、オクチャーブリ(Октя́брь)に由来する名前。10月といえばソビエト政権樹立のきっかけとなった十月革命。それゆえ、男ならオクチャーブリン、女ならオクチャブリーナと名付ける親がソビエト時代は多かった。ただし、ロシア語ではアクセントのないOをアと発音するので、厳密に言うと10月はアクチャーブリ、ヒロインの名はアクチャブリーナと発音すべきなのだが、本作ではセリフも字幕も英語読みとなっている。 で、そんなオクチャブリーナに振り回されつつも、いつしか強く惹かれていくジョー。当局の目をかいくぐっての異文化交流がやがて恋愛へと発展していくわけだが、しかしそんな2人の間に厳格なソビエトの社会体制が立ちはだかる…という筋書きだ。 原作は1971年に出版された同名小説。著者のジョージ・ファイファーは本来ノンフィクション作家で、ソビエト時代のロシアに関する著書も数多い。本人が実際にどれだけ現地へ足を運んだことがあるのかは定かでないが、ある程度の正確な知識や情報を持っていたであろうことは、この映画版を見れば想像に難くない。とはいえ、原作と映画は基本的に別物と考えるのが妥当だと思うので、ここではあくまでも映画版に焦点を絞って話を進めていこう。 まず、本作に登場するモスクワの風景や街並みが明らかに本物と違うのは仕方あるまい。なにしろ、ソビエト体制の矛盾に斬り込んだ内容なので、当時のモスクワでの撮影は絶対に不可能だ。選ばれたロケ地はオーストリアのウィーン。マット合成で赤の広場を背景に差し込むなどの工夫は凝らされているものの、建築様式の違いなどは見た目に明らかだ。それよりも筆者が少なからず違和感を覚えたのは、主人公ジョーとロシア人コスチャの友人関係である。当時のソビエトで外国人と現地人が交流することは別に違法ではなかったものの、現実には限界があったと言えよう。特に現地人にとってはリスクが高い。なぜなら、万が一の時にスパイの嫌疑をかけられる可能性が生じるからだ。特に主人公ジョーのようなジャーナリストには、KGBの尾行が付くことも十分に考えられる。筆者の父親も日頃から尾行は意識していたようだし、実際に自宅アパートの電話は常時盗聴され、通りを挟んだ向かい側のアパートからも部屋が監視されていた。本作の場合、当時の社会状況や主人公の職業を考えると、現地人のアパートへ気軽にふらりと立ち寄る彼の行動は軽率だ。 なので、西側から来た外国人が日常的に付き合う現地人となると、仕事の一環を兼ねての政府関係者か、もしくは当局から派遣された外国人専用のメイドや秘書(人材派遣センターはKGBの管轄で、彼らは派遣先で見聞きしたことを報告していた)などにおのずと限られてしまう。と考えると、ジョーとコスチャの親密な友人関係は、決してあり得ないとは言わないまでも、あまり現実的ではない。 その一方で、オクチャブリーナがジョーの住む外国人専用アパートを訪れる際、塀を乗り越えて裏口から侵入するというのは結構リアルな描写だ。当時、モスクワ市内には外国人専用アパートが何か所もあり、その正門にはミリツィアと呼ばれる武装した民警兵士が常駐していた。居住者はもちろん顔パスだが、現地人はそこで許可証をチェックされる。なので、オクチャブリーナのように一見すると無茶な手段も仕方ないのだ。 ちなみに、筆者の父親にも現地民間人の友人はいた。その方は日本語が話せたので、電話連絡は全て日本語で。自宅へ招くときは疑われないよう、外国人の泊まる高級ホテルで落ち合い、父の運転する自家用車で正門からアパートへと直接入った。さすがに外国人ナンバーの車まではミリツィアもチェックしないからだ。そういう意味では、意外と緩いところもあったのである。 実際、当時のソビエトの市民生活は、外から想像するよりも遥かにのんびり平穏だった。もちろん、日本ではあり得ないような制約は多かったし、言論や移動の自由も全くないし、文化的にはだいぶ遅れているし、生活レベルも高いとは言えなかったものの、その一方でモスクワ市内に点在するルイノックと呼ばれる市場では新鮮な肉や野菜が沢山揃っていたし、有能でも無能でも誰もが平等に一定の給料を貰えるし、不祥事さえ起こさなければ仕事をクビになることもない。とりあえず体制に盾ついたりせず、贅沢を望んだりしなければ、それなりに楽しく生活できたのだ。建前上は民主主義国家として市場経済の導入された現在のロシアで、ソビエト時代を懐かしむ声が多い理由はそこにある。 そうやって振り返ると、本作で描かれるモスクワの市民生活はけっこう正しい。とはいえ、ちょっと時代的に古くも感じる。例えば本作ではジャズが当局から禁止されていて公衆の面前で演奏することが出来ないとされているが、しかしそれは’50年代までのこと。’60年代以降は大規模なジャズ・フェスティバルも各地で開かれていたし、当局の認可するジャズクラブも存在した。’75年にソロ・デビューした女性歌手アーラ・プガチョワはジャズやロック、R&Bなどを積極的に取り入れてロシアの国民的大スターとなったし、彼女に多くのヒット曲を提供したラトヴィア出身の作曲家レイモンズ・パウルスは’60年代から活躍するジャズ・ミュージシャンだった。’70年代には西側の流行音楽も数年遅れで入っており、例えば’74年にはTレックスのレコードも正規版でリリースされている。なので、本作は『ニノチカ』(’39)の時代辺りでストップしたソビエト観の基に成り立っているとも言えよう。 その一方で、本作は当時の多くのハリウッド映画に登場したような、体制側に洗脳されたロボットのような人間、死んだような目でクスリとも笑わない陰鬱な人間としてではなく、アメリカ人と何ら変わることない等身大の人間として、ロシア人を描いている点は特筆に値する。実際に昔からロシア人は陽気で大らかで人懐っこい人が多かった。劇中に出てくる政府高官のように、お堅い役人でもいったん仕事を離れると気さくだったりする。その点はまさにその通り!といった感じだ。 ちなみに、劇中では役人や警察への賄賂としてアメリカ製のタバコが使われているが、他にもいろいろと賄賂に有効なものはあった。筆者の父親がよく使っていたのは日本航空の水着カレンダー。あとは、ひっくり返すと女性の水着が消えてヌードになるボールペンも効果抜群だったので、西側へ旅行した際にはまとめ買いしてきたものだった。やはり世の東西を問わず人間はスケベなのだ。 モスクワ市民のささやかな日々の営みを、時に瑞々しく、時に爽やかに、そして時に切なく描くロバート・エリス・ミラーの演出も素晴らしい。ラストへ向けての抒情感溢れる哀しみなどは、まさしく彼の真骨頂。そういえば、先述した筆者の父親の友人は、とある事件を起こして当局に逮捕されてしまった。実は生活の足しにと現地通貨のルーブルを、うちの両親がこっそりドル紙幣に両替してあげていたのだが、どうやら彼はそれを闇市で転売していたらしく、KGBのおとり捜査に引っかかってしまったのだ。その煽りでうちの父親はスパイ容疑の濡れ衣を着せられ、共産党機関紙プラウダでも報じられた。たまたま本社から帰国の辞令が出ていたので、我が家に関しては大事に至らなかったのだが、父の友人は強制労働送りになったはずだ。あの日、彼の奥さんが泣いて取り乱しながら我が家に電話をかけてきた。ほっそりとした華奢な体に憂いのある瞳の、とても美しい女性だった。筆者は息子さんとも仲が良かった。あの一家は今どうしているだろうか。本作の哀しいラストを見ながら、ふと思い出してしまった。■ © 1974 by Universal Pictures. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
プラチナ シネマ・トーク
ザ・シネマの週間イチオシ作品枠、土曜字幕・日曜吹き替え夜9時からの「プラチナ・シネマ」の直前解説番組
映画ソムリエの東紗友美が、毎週、著名な有名映画ライターや評論家を迎えて送る、イチオシ枠「プラチナ・シネマ」直前の映画解説ミニ番組。週末のお休み前のひととき、最高の映画鑑賞時間の幕が上がるのはここから!
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COLUMN/コラム2018.04.01
【男たちのシネマ愛ZZ⑥】『フランソワの青春』
飯森:先月に続く激レア映画対談、もとい映画闇鍋対談の後半戦ですね。今回は4月にお届けする20世紀FOXの激レア映画3本について、またまた熱く語り合いたいと思います! なかざわ:宜しくお願いいたします! 飯森:じゃあまずは『フランソワの青春』から始めましょうか。 なかざわ:いかにもあの時代、’60年代末の、ヨーロッパ映画、フランス映画の抒情的な香りを漂わす作品だと思いました。ジャンル的にいうと、いわゆる初恋ものですよね。童貞の少年が年上の大人の女性に恋をするというジャンル。ただし、主人公が年齢的にまだ小学生なので、『青い体験』とか『おもいでの夏』みたいに筆おろしまではいかない。 飯森:そこまでいったら『思春の森』になっちゃいますって(笑)。 なかざわ:主人公は、おじさん夫婦のもとで育てられている孤独なフランスの少年。ある出来事のせいで心に傷を負っている。その彼が、イギリスからやって来た、おじさんの戦友の娘だという美しい大人の女性に秘かな恋心を寄せる。この女性を演じているのがジャクリーン・ビセットなんですよね。 飯森:これですよ!僕は今回初めてこの作品を見たんですが、ずっと前からタイトルだけは知ってて見たいと思ってたんですけど、日本ではソフト化自体一度もされたことがないようで、中古VHSをヤフオク!で落とすという奥の手さえも使えずに困っていたんです。だったら最終手段、仕事にかこつけて(笑)買っちまおうと。全盛期ジャクリーン・ビセットの美貌を拝んでみたかったんですが、さすがにウルトラ綺麗っすね! なかざわ:ちょうどこの直前辺りが『ブリット』なんですけど、今まさに美貌の大輪が花開かんとする時期ですからね。ここから『大空港』や『映画に愛をこめて アメリカの夜』などを経て、’70年代を代表する美人女優となる。 飯森:濡れTシャツから乳首が透ける海洋アドベンチャー『ザ・ディープ』も眼福だったなぁ。だいたい、各時代に1人いるんですよね、彼女みたいな絶世の美人って。俺のタイプとか、好きな系統の顔とか、そんな個人的なつまらん趣味をはるかに超越した存在で、誰もが認めざるを得ない美人。言うなれば、美人の基準標本ですよ。「一般論として美人の典型例がこれです」と、例として示せるぐらいの。 なかざわ:ちょうど去年かな、『ナインイレヴン 運命を分けた日』という映画に出ていましたけど、お婆さんになっても絶世の美人でしたよ。 飯森:それは見れてないな。お婆さんになったジャクリーン・ビセットかぁ、う~ん、見たくないような…。見ても言われないと気づかないかもしれませんね。 なかざわ:いや一目で彼女だって分かります。恐らくリフトアップやボトックス注射などしてないので、皴の数なんかは年相応という感じですけれど、とても上品で美しい年齢の重ね方をしている。 飯森:おお、ほんとだ!iPhoneで検索したら、まんまですね。この人が道を歩いてたら「何者だあの婆さんは!?」とザワつきますな。 なかざわ:そのジャクリーン・ビセットが、主人公の11歳の少年がおじさん夫婦と暮らすフランスの田舎にある古いお屋敷に泊まりに来るわけです。 飯森:あれがまた、凄い大豪邸ですよね! なかざわ:いわゆるシャトーですよ。フランスの王侯貴族が、田舎の田園に別荘として建てたお屋敷です。 飯森:あのシャトーに暮らすおじさん夫婦って、王侯貴族にしちゃ地味に見えますけど? なかざわ:これってイギリスやイタリアもそうなんですが、ああいう古いお屋敷って維持費がかかるので、経済的に苦しい没落貴族だと比較的安く手放したりするケースもあるんですよね。田舎だと過疎化で人も少なくなってしまいますし。それを、裕福な中産階級や金持ちが買うことはよくあるんです。 飯森:確かに過疎化というのはその通りで、この映画の舞台って、本当に、凄まじい田舎ですもんね!ほぼ無人の世界に近い。 なかざわ:でも、それがいいんですよ。寂しげで哀愁が漂って。あの時代のフランス映画ならではの雰囲気だと思います。個人的な印象で言うと、ちょうどジャン=ガブリエル・アルビコッコの『さすらいの青春』辺りを彷彿とさせるような。で、監督のロバート・フリーマンという人、もともとは有名な写真家なんですね。 飯森:それもビートルズのアルバム・ジャケットなどを撮っていた。ちらっとネットで名前を検索してみたら、ビートルズの見たことのあるお馴染みの写真ばかりだったんで、あーこれこれ!とビックリしました。 なかざわ:確か映画監督としては、これを含めて数本しか撮っていない。 飯森:でも、言われてみると納得ですよね。これは確かに写真家の撮った映画だと。 なかざわ:そうです。セリフよりも映像の醸し出す雰囲気で淡々とストーリーを紡いでいく作品なんですよ。実際、初恋のほろ苦さをテーマにしたプロットそのものはシンプルでたわいない。 飯森:ただ、『おもいでの夏』みたいな映画と違うのは、一夏の思い出、童貞卒業、みたいなスッキリとしたヌキ所が無くって、最後まで見ても、なんとも言えないモヤモヤした未消化感と、あとはゾワゾワと心を波立たせるような不穏さがある。それが味ですよね。 例えば、風景がとても綺麗な映画で、これ今回ウチでHDで放送できますので(※HDサービス環境でご視聴の方は)、その綺麗さを存分にご堪能いただけると思うんですが、ただ、綺麗なだけじゃなくて、すごくシンメトリーな構図で画を捉えようとしますでしょ?お屋敷の門の真正面にカメラを置いて、まるで絵画のように全て左右対称に撮らえて。 なかざわ:視覚的なアプローチが写真家らしいですよね。 飯森:絵の中のような世界で、逆に、綺麗すぎて薄ら寒いんですよ。絵に閉じ込められて出られなくなったら怖いよな…と思わせる。綺麗なんだけど非日常的な感じに思わずゾワっとする。あと、主人公もすごい美少年で、女の子みたいな顔した男の子なんだけど、どこか暗い影があるというか、感情が乏しいというか。 なかざわ:いわゆる可愛らしい少年というより、ちょっと普通とは違う子だよねって雰囲気を醸し出している。 飯森:それがなぜか、ボロッボロの穴だらけの汚いセーターを着ているんですよね。あそこにもゾワっとくる。綺麗な風景の中にボロをまとった美少年。なんなんだこれは、と。 なかざわ:そう、あれがまた不思議なんだけど。別に虐待されているわけではない。確かにおばさんの接し方はちょっと冷たいけれど、虐められているわけじゃないですからね。 飯森:彼は普段は学校にも行かず家庭教師に勉強を教わっていて、しかも家にはおじさんとおばさん、召使のお爺さんがいるだけ。日常的な遊び相手がいないから、ずっとペットのウサギちゃんを抱っこしてて、ツリーハウスに上って独りぼっちで工作をしたりと、本当に孤独なんですよ。滅亡後の世界に独り取り残されたボロをまとった子、みたいなゾワゾワ感がある。 なかざわ:同年代の子供との交流もほんの僅かですもんね。 飯森:友達はちょっと出てくるけれど、学校に通ってないからたまにしか会ってないようだし、遊び場となると、東映特撮の採石場のような、あまり綺麗じゃない所で、あそこにもゾワっとする。そこへ行く道は、雑草の生い茂る野っ原で、そこにはセメントで護岸された汚い用水路が通ってるんだけど、水は濁ってて、なんか得体の知れん物が浮いてて、そこにドブ板みたいなのが橋として渡したあるだけで、まあ薄汚い。ゾワゾワする不穏な絵がチョイチョイ差し挟まれてくる。 これがこの子の世界の全てなのかよ、なんか閉じた世界だな…と。そんな、絵の中に閉じ込められたような、崩壊後の世界のような毎日が、来る日も来る日も繰り返される永劫の中で、ある日ジャクリーン・ビセットがお泊りにやって来て、彼は彼女に恋して、日常に変化の兆しが訪れるわけだけど、その恋の仕方がどうにも子供らしくない。 なかざわ:夜中にベッドで寝ているジャクリーン・ビセットにこっそり忍び寄っていってね。 飯森:おーはーよーございまーす、って感じで。マーシーか! なかざわ:でも布団にソッと入り込むのではなくて、髪の毛をハサミでちょん切る(笑)。 飯森:女の髪にフェティッシュな執着はあまり抱かんだろ、あの歳で。ジャクリーン・ビセットもビビりますよね。 なかざわ:あれがもうちょっとエスカレートして、バスルームでオッパイを触ったりするようになると『ナイト・チャイルド』のマーク・レスター君になるんですよ(笑)。あどけない美少年が実は変態サイコパスだったと。これはそういう映画じゃありませんが。ジャクリーン・ビセットはそんな少年を大人の対応で優しくたしなめるわけですけど。 飯森:でも理想的な大人の女性なのかというと、実はそんな女でもなさそうだということを、映画は徐々にほのめかしていく。僕が、ここ上手いなぁ!と感心したのは、男の子がジャクリーン・ビセットの部屋に忍び込んでクローゼットを漁る。下着でも盗むのかと思いきや、そういう変態マセガキ『ナイト・チャイルド』行為はせずに、香水だけ失敬して、あとは彼女の服をただウットリ眺めるだけなんですよね。大人の女の人のお洋服って綺麗だなぁ、ポォ~って。その中に、金属のドレスが一着ある。鎧かたびらのようなAラインのマイクロミニのノースリーブワンピね。当時流行ってた。あれって、パコ・ラバンヌというデザイナーのプレタポルテで、この頃のフランスだとフランソワーズ・アルディがよく着てたイメージですよ。映画だと『冒険者たち』でジョアンナ・シムカスも着てた。あの中でジョアンナ・シムカスは女流写真家で、自分の個展かなにかを開くときに、これからは私の時代よ!ってなノリであの派手な勝負ドレスで着飾って会場に乗り込みフラッシュを浴びる。でも、結局は大して注目されず鳴かず飛ばずで、中年負け犬男2人とトリオを組んで海洋トレジャーハントに夢をかけるようになる。つまりあの服って、虚栄心の象徴だと思うんですよ。自らを飾り立てて盛り立てて。でないとあんな金属で出来たドレスなんか着ませんよ普通! なかざわ:そもそも、あの頃のスウィンギン・ロンドンな最先端モードって、例えば全身が鎖で出来ているドレスとか、汗かいたら絶対に蒸れるビニール素材の『ブレードランナー』みたいなドレスとか、およそ実用的とは思えないようなファッションが多かったじゃないですか。 飯森:パコ・ラバンヌはその中でも極めつけで。なんせ『バーバレラ』の衣装担当ですからね。あれを生身の一般人が着るか普通!?という話ですよ。あの金属ドレスで、ジャクリーン・ビセットがどんな女か監督は描こうとしていると思うんですよね。当時のパコ・ラバンヌが持っていた意味合いは、ビートルズに付いて回ってたフォトグラファーなんだから百も承知してたはず。あれを着てる芸能人気取りの目立ちたがりの女を飽きるほど見てきたはず。その意味合いは何かと言えば、意外と、派手な場が好きな浮っついたチャラ女なんですよ、ということ。要はパリピなのよ。純真な少年の初恋に値するような、清純なマトモな女じゃないんですと。そのことを観客にだけ知らせるためのサインじゃないかと思うんです。子供は見てもわからない。でも当時の観客なら、あれ見ただけで一発でピンときたんだろうと想像するんですが、子供は誤解するんだ。金属の服を着ているから彼女はスパイだと(笑)。外国から来たって聞いたもんでソビエトによって追われてきたチェコの女スパイじゃないかって、『007』の見過ぎみたいなことを言う。 なかざわ:無知って素晴らしいですよね(笑)。 飯森:なぜに唐突にチェコと言い出したかというと、この映画の前年がプラハの春でしたからね。TVでプラハの春のニュース映像を見て、映画館では『007』を見て、おそらくその2つがゴッチャになっちゃってる。ちょっと夢見がちなところがあるんですかね、あの少年は。 なかざわ:ああいう周りに何もない環境で、しかも普段から独りぼっちということであれば、あらぬ空想や妄想を逞しくしてしまうのも頷ける話ではありますけどね。 飯森:で、ここから先はネタバレになりますが、 【この先ネタバレが含まれます。】 ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 飯森:優しく綺麗なお姉さんだなぁと思っていたら、実はおじさんの知人の娘でもなんでもなくて、若い愛人だったと観客には後半でバーンと明かされる。パコ・ラバンヌの伏線、汚い用水路の伏線、もろもろここで回収です。 なかざわ:大人の世界は汚いですからねえ…。 飯森:あとは、少年を冷遇しているおばさん。少年のことを、息子も独立し久しぶりに夫婦水入らずだったはずの生活を台無しにするお邪魔虫として目の敵にしていて、すごくトゲトゲしく接するんですよね。だから彼は気にして家ではなくツリーハウスの方にずっといるんですが、この人がまたちょっと痛くて、成人した息子もいるのに未だに変に乙女なところがある。ヤな感じで色気づいているんですよね。大昔に旦那がくれたラブレターを引っ張り出してきて読み上げたりとか。妙な恋愛モードなのね。 なかざわ:髪を染めたりとかもして。ジャクリーン・ビセットに対抗意識燃やして。でも結局、旦那には「次に髪染めるときは色を変えろ」とか言われちゃうし(笑)。 飯森:まあ、あの奥さんの、大人になりきれていない、いつまでも腰を据えない乙女チッックテンションに、旦那はウンザリしてたのかもしれませんね。そして、そんな理由でおばさんに意地悪されてるあの男の子は一番可哀想。おばちゃん、いい歳なんだからもう落ち着いてくれよと。キャピキャピしてる暇があるんだったら俺のことちゃんと育てろよって(笑)。 なかざわ:悪い人じゃないんだけど自己中。 飯森:でもって最後はチャラ男ですよ。ジャクリーン・ビセットの滞在と時を同じくして、おじさん夫婦のチャラい放蕩息子が家に帰ってくる。 なかざわ:マルク・ポレルですね。彼はルキノ・ヴィスコンティ監督の『ルードウィヒ/神々の黄昏』と『イノセント』に出ていて、恐らく晩年のヴィスコンティが第2のヘルムート・バーガーに育てようとしていたのだろうと思うんですけど、結局はB級アクション俳優みたいになっちゃった。 飯森:次に寵愛しようとしてたのかな?(笑) まあ、ヘルムート・バーガーもB級ポルノ俳優みたいになっちゃいましたけどね。そう言われると、この主人公の男の子もヴィスコンティ映画に出ていてもおかしくないような彫刻的な超絶美少年ですね。で、チャラ男に話を戻しますが、奴は親父の愛人だとはつゆ知らずにジャクリーン・ビセットを口説きまくるんだけど、ことごとくソデにされる。 こうして狂騒曲を、滑稽に、愚かしく、しかしこの映画ですから静謐に、大人どもが演じた挙句に、とうとうジャクリーン・ビセットが帰る日がやって来る。そして、これは究極のネタバレだな、でもハッキリ言っちゃいますけど… 少年の恋は最後まで実りませんよ。そりゃ当然でしょ!まだ11歳なんだもの、付き合ったり結婚したりというオチになろうはずがない。筆下ろしにしたって早すぎる。恋は実らず終い、結局は、全てが元に戻って終わる。 なかざわ:そうなんですよね。あそこで少年が何か突拍子もない行動にでも出るのかなと思ったら、まるで全てを受け入れるかのような表情でしたからね。 飯森:彼女のクローゼットからパクった香水を頭から1瓶丸ごとかぶるという奇行には出ますけどね。せいぜいがそれで、むせるような彼女の香りに全身包まれて、お終い。ゾッとする終わり方ですよ。絶望的になんにもない日常に戻る。「べた凪」って言葉あるじゃないですか。風や波がやんで、海の水面が鏡のように静まり返ってしまう。昔の帆船時代なら死ぬところ。そういう状態に戻っちゃう怖さですよ。綺麗なお姉さんがやって来て、性の目覚めではないかもしれないけど、少なくとも恋を知り、何かが変わってくれるかと思ったら、何一つ変わらなかった!ほろ苦い初恋というより救いのない絶望ですよ。せめて別れ際にエヴァでミサトさんがシンちゃんにしてくれたようなご褒美のチューでもくれてやって、「大人のキスよ。帰ってきたら続きをしましょ♥」とでもリップサービスの1つも言ってやればいいのに、それさえあげない。けっこう絶望的な、怖い怖い終わり方だなーとゾワッとしましたね。 なかざわ:でも、この映画の場合はそれで正しいんだ思いますよ。こういう、ほんのりと暗くて寂しくてセンチメンタルな作品は好きですね。 飯森:そう。褒めてます。胸にグッと迫る哀感があると思います。 なかざわ:この手の映画ってヨーロッパではいつの時代にも作られていて、なおかつ常に一定の映画ファン層に受け入れられる土壌があるように思います。 飯森:孤独と閉塞感というテーマに興味がある人にもオススメな1本ですね。 なかざわ:日常の中で何か決定的な不満があるわけじゃないんだけれど、漠然と満たされないものや息苦しさを抱えている人が、共感できるような部分はあるかもしれません。 飯森:人生のうちそういう瞬間って、誰しもあるかもしれません。僕も今こういう業界にいると、目まぐるしすぎてそれが悩みなんですけど、その前の仕事では、毎日が同じことの繰り返しで全く変化がない、という生活を送っていたことがあるんです。そうするとやがて閉塞感に襲われるんですよ。あれはなかなかしんどい!出口のない怖さを感じるんですね。あの息苦しさを上手く描出している映画だと思いました。それと、ジャクリーン・ビセットはとにかく綺麗と! なかざわ:歌手のシャンタル・ゴヤも出てきますよね。’60年代フレンチ・ポップス界のイエイエ・ガール。 飯森:プールのシーンですね。水着姿で。ジャクリーン・ビセットとシャンタル・ゴヤって、よくよく考えるとすごい顔合わせですよね!そういうキューティーたちの’60年代ヨーロッパ・カルチャーにアイドルを探せって感じで憧れてずっと見たいと願い続けてきた作品なんで、ほんとに、念願叶って良かった!! なかざわ:それと、あの意地悪なおばさん役をやっているジゼル・パスカルという女優さん、モナコ公国のレーニエ公がグレース・ケリーと結婚する前に付き合っていた元カノなんですよ。 飯森:ええっ!? マジですか?ほんとに王侯貴族予備軍だったのかよ! なかざわ:若い頃はムチャクチャ美人だったらしくて、あのゲイリー・クーパーと付き合っていたこともあるそうです。レーニエ公とはお互いに結婚まで考えたらしいんですけど、自分の息子を跡継ぎにしたいレーニエ公の姉アントワネット公女に「ジゼルは子供が生めない体だ」って根も葉もない噂を流されて、それが原因で破局してしまったと言われています。 飯森:そりゃまた、エグい話ですなあ…。意地悪バアさんどころか、気の毒な人だったのね…。 なかざわ:オードリー・ヘプバーンの『シャレード』で切手鑑定士を演じていたポール・ボニファスも、召使のお爺さんとして出てきますし、脇役のキャスティングにも注目して欲しいですね。■ © 1969 Les Productions Fox-Europa S.A.R.L. and Les Films du Siecle. Renewed 1997 Twentieth Century Fox Film Corporation and Les Films du Siecle. All rights reserved. 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存
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PROGRAM/放送作品
【削除】プラチナ・シネマ トーク<8月号総集編>
ザ・シネマの週間イチオシ作品枠、土曜字幕・日曜吹き替え夜9時「プラチナ・シネマ」の解説番組総集編
映画ソムリエの東紗友美が、毎週、著名な有名映画ライターや評論家を迎えて送る、イチオシ枠「プラチナ・シネマ」直前の映画解説ミニ番組。その5分番組をまとめた月間総集編。
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COLUMN/コラム2018.04.11
【男たちのシネマ愛ZZ⑦】『MOVE』
飯森:次にご紹介するのが、先月の『イカサマ貴婦人とうぬぼれ詐欺師』と同じく、これが恐らく本邦初公開となる激レア未公開作品で邦題もまだ付いてない『MOVE』ですね。 なかざわ:のっけから人を食ったような展開で、思わず呆気にとられましたよ(笑)。マーヴィン・ハムリッシュによる、いかにも’70年代らしいポップなテーマ曲がまた良いんだよなあ。 飯森:マーヴィン・ハムリッシュとは? なかざわ:作曲家です。恐らく一番有名なのはバーブラ・ストレイサンド主演の『追憶』と、ポール・ニューマン&ロバート・レッドフォードの『スティング』ですかね。あとはブロードウェイ・ミュージカル『コーラスライン』の音楽も彼の仕事ですよ。 飯森:うわっ!ものすごい超大物じゃないですか!! この映画では、それほど耳に残る音楽がなかったような気もしますけど…(笑)。 なかざわ:いや、僕はこういう’70年代的なイージーリスニング風の爽やかサウンドは好きですね。確かに『追憶』や『スティング』ほどの強烈なインパクトはないかもしれませんが。で、冒頭で主演のエリオット・グールドが道を歩いていると、反対側から道路工事のローラー車が近づいてきて、とんでもないことになっちゃう。 飯森:両足がアスファルトにくっついちゃって動けなくなる。そこへローラー車がどんどんと近づいてきて、「動けねーよー!」と叫んでいるうちにペッチャンコに轢き潰されるという(笑)。まるっきし漫画。あれって夢落ちでしたっけ? なかざわ:いや、これが白日夢というか、要するにストレスを抱えた主人公の妄想で、全編に渡ってあちこちで、こういった妄想が差し込まれるんですよ。 飯森:しかも、どこまでが現実でどこからが妄想なのか、その境界線が全く分からないような描き方がわざとされていますよね。 なかざわ:そう!他にもほら、近所の奥さんが赤ちゃんにオッパイをあげていると… 飯森:胸が3つあるという。『トータル・リコール』かっつーの(笑)。赤ん坊嫌いという意味なのか、エリオット・グールドいつもイラついてますからね。 なかざわ:現実と妄想の線引きが全くなされないまま、いきなりあれが出てくるからビックリしますよ。これが『暴力脱獄』や『マシンガン・パニック』のスチュアート・ローゼンバーグ監督の作品だっていうんだから、なおさら狐につままれたような気分になっちゃいます。 飯森:以前になかざわさんとの対談でも語った『マジック・クリスチャン』に通じる雰囲気がありますよね。あの時代特有のシュールな空気感は似ているんだけど、でもあそこまでぶっ飛んでいるわけでもない。本作には物語のすじはちゃんとありますからね。エリオット・グールド扮する主人公は脚本家を目指しているんだけどスランプ気味で、今現在はエロ小説の執筆で生計を立てている。それと犬の散歩バイト。 なかざわ:犬の散歩のアルバイトって他の映画でも見たことあるんですけど、実際にああいう仕事があるんですかね? 飯森:それがアメリカでは今もバリバリあるらしいです。中堅以下の大学を卒業しても就職口が見つからない、とはいえ学費ローンは卒業後すぐから返済せねばならない、ということで卒業して犬の散歩師になった若者の話題を、どこかの経済ニュースでここ数年以内に見た記憶がありますから。お客さんから預かったペットの犬を外へ連れ出し、散歩がてらウンチやオシッコをさせる仕事らしんですが、アメリカは家の中に犬用のトイレはないのかよ!?と。 なかざわ:ない方がおかしいような気もしますけどね。 飯森:でしょ?にしても、当時の日本では考えられないことですよね。今だと普通ですが。 なかざわ:確かに、昔のマンションはペット厳禁のところが多かったと思います。 飯森:さすがアメリカは進んでいて、あの頃からすでにマンハッタンのマンションでは大型犬が飼われていた。 なかざわ:その依頼人のお婆ちゃんをメエ・クェステルがやっているんですよね。アニメの『ベティ・ブープ』の声優として有名な。 飯森:ああ!そういえば、そんな声のお婆ちゃん出てきましたね。 なかざわ:彼女は晩年にウディ・アレンの『ニューヨーク・ストーリー』にも出ているので、恐らくニューヨーク在住だったんでしょうね。 飯森:で、まあ、エロ小説書いて犬を散歩させて、それで食っていけて本人も自由で楽しい人生だと言うんだったら別に一向に構わないと思うんですけど、彼自身は「こんな人生クソだ…」と、あせりとイラ立ちを覚えてる。 なかざわ:上昇志向というか、より豊かな生活をしたいという野心は強いんでしょうね。というのも、これからもっと広いアパートに引っ越しをするという設定じゃないですか。 飯森:美人の奥さんもいますし、いずれ子供もできるかもしれないし、エロ小説と犬の散歩だけで一家を養っていくというのは、さすがに自由奔放すぎるかもしれない、それじゃダメだと。脚本家として認められたいと思いつつ、嫌々ながらも食うために今の仕事をやっているんですよね。しかもエロ小説書いてるわりに自身の下半身はインポ。そういう環境の中で自信を失っているのかな。 なかざわ:男性としてってことですね。 飯森:それでも奥さんは文句を言わない。いい奥さんなんですよね。自分で仕事も持っていて。旦那さんに「もっと稼いできなさいよ!」なんてガミガミ言うこともないし。むしろ、夫がインポ気味でセックスレスになっていることに寂しさを感じている。とても優しい奥さんなんだけど、エリオット・グールドはイライラして八つ当たりするんですよね。で、よりによってそんな時に引っ越しをしようとしている。 なかざわ:で、よりによってその引っ越し屋がなかなか来ない(笑)。そればかりか、彼の思い通りにならないようなことが次から次に起きる。 飯森:あれを見ていて『インサイド・ヘッド』を思い出したんですけど、あの映画でも引っ越し屋が約束の日になかなか来ないじゃないですか。 なかざわ:日本だったらあり得ませんね。そんな業者はすぐに廃業ですよ。 飯森:確かに、賃貸契約が明日までっていう時に引っ越し屋が来なかったら大事になっちゃいますもんね。そういうわけで、主人公が引っ越したいのに肝心の引っ越し屋は来ず、家中段ボールだらけで困った!という中でイライラもますます募り、しかも現状の自分には不満だし性的にも萎えちゃっている。そんな八方塞がりで悩んでいる時に、すげえ良い女から逆ナンされちゃうわけですけど、あのシーンって現実なんですかね?妄想なんですかね? なかざわ:それがこの映画だと分からないんです。あと、ちょいちょい社会風刺をぶっ込んでくるじゃないですか。 飯森:拳銃夫婦とかね。これ最近だと笑うに笑えないタイムリーすぎるギャグになっちゃってるんだけど、当時NYは治安が凄まじく悪かったじゃないですか、’60年代に政治の季節で荒れた名残りで。で、ここら辺は物騒だから銃規制すべき!ではなくて、むしろ物騒だから逆に銃武装しよう!という、アメリカ人以外には納得しづらいワイルドウエストの論理で拳銃を持った夫婦が、アパートで賊と銃撃戦を始めちゃう。 なかざわ:40年以上経った今もアメリカそこは全く変わってませんね。 飯森:ってか200年変わってない(笑)。せめてこの時代に手を打っていればねぇ…。でも、この映画の良いところは、そういうこと言っている奴らをおちょくっている点ですよ。エリオット・グールドが買い物から帰ってくると、アパートの踊り場で、拳銃夫婦の奥さんがどっかの田舎州の元ミスだったからとミスコンの格好をしていて、旦那の方は西部劇のガンマンみたいないで立ちで、同じく西部のアウトローみたいな格好しているチンピラと銃撃戦していて、自衛のために銃武装ってお前ら西部劇か!と風刺している。このシーンは現実ではなく妄想だって分かりやすいんですけど、そういう社会風刺的な見どころも多いですね。 なかざわ:この映画って’70年の7月にアメリカで封切られていて、ちょうど『ボブ&キャロル&テッド&アリス』や『M★A★S★H』でエリオット・グールドがブレイクしたばかりの時期なんですよね。それにもかかわらず、なぜかアメリカ本国でも滅多に見ることが出来ない。 飯森:そうなんですよ。残念ながら今回はあまり画質が良いとは言えない4:3の、つまりブラウン管時代の古いTV用マスターかVHSマスターで放送するんですが、その理由はアメリカ本国でもワイドのニューマスターのテープを作っていないから。それだけ貴重な作品をウチが発掘してきたということの証ではあるのですけどね。 なかざわ:もしかすると、当時の観客もこれを見て困惑してしまったのかな。それが理由でマイナーのまま? 飯森:いや、’70年代の観客であれば、この映画を理解できるだけのリテラシーは持ち合わせていたと思いますよ。 なかざわ:とはいえ、IMDbのユーザー・レビューも数えるほどしかない。よっぽど見ている人が少ないんでしょうね。 飯森:僕的には、「そんな映画も見れるザ・シネマって凄くないですか!?」とは、声を大にして訴えたい。そういえば、逆ナンしてくる女の子を演じているジュヌヴィエーヴ・ウェイトって、『ジョアンナ』に出ていた女優さんですよね。あの娘も’60年代~’70年代らしいというか、あまり肉感的ではなくて、ツィッギーみたいに細くてキュートな娘なんだけど、ここでは惜しげもなくヌードを披露している。 なかざわ:しかもエリオット・グールド相手に(笑)。 飯森:背中まで毛だらけで、あれは衝撃的!でも、エリオット・グールドがカッコいいっていうのも、いかにも’70年代っぽいですよね。 なかざわ:服を着ていても脱いでも、どこからどう見たってただのメタボ気味なオッサン。今のハリウッドではあり得ない体型ですよ。 飯森:でも、あの斜に構えたところと、その中に漂うシニカルな知性というのが、’70年代ならではの「いい男」なんでしょうね。彼とか『ソルジャー・ボーイ』のジョー・ドン・ベイカーとか、ブサイクなモッサいオッサンが最高にカッコ良かった、古き良き時代。俺もあの頃生まれていたら相当モテてたな(笑)、なんて言ったら怒られますが。 なかざわ:’70年代に持て囃されたスターたちって、’80年代以降の落ちぶれ方が激しい人も多いですもんね。エリオット・グールドだって、最近でこそテレビドラマで復活していますけど、一時期はまるでそっぽ向かれていましたから。 飯森:’70年年代後半、『スター・ウォーズ』とか日本だとピンク・レディーとか、あそこらへんを境に時代の求める顔や性格がガラリと一変しましたよね。それこそ、反体制の知的なムードやニヒリズムを売りにしていた人は、’80年代以降は悲惨だったかもしれない。エリオット・グールドだって、反体制的でやさぐれた感じが売りでしたからね。 なかざわ:そう、その不健康な感じが’80年代以降、彼にとって不利になったのかもしれません。 飯森:それにしても、こういうナンセンスな不条理コメディってのも、最近ではすっかり見かけなくなりましたねぇ…。 なかざわ:僕の記憶にある限りでは『マルコビッチの穴』が最後ですかね。 飯森:それだってもうずいぶん昔ですよ。 なかざわ:そういうちょっと首を傾げるようなユーモアの中にこそ、実は社会風刺なり人間風刺なりを滑り込ませやすいと思うんですけどね。そう考えると、これは非常に知的で様々な解釈を許容する大人向けの不条理コメディと言えるかもしれません。 飯森:この映画って、最後の終わり方もまたちょっと不思議なんですよね。ここから先はネタバレですけど、 【この先ネタバレが含まれます。】 ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 引っ越し業者が来ないせいで無駄に何日も過ごしてしまい、外泊したエリオット・グールドが自宅へ帰ってみたら荷物はなくなっているし、奥さんの姿もないし、次の入居者がもう入っちゃってた。どうしよう!俺の居場所はもうない!とパニクって、一応ためしに新居の方を覗いてみたら、既に引っ越しは終わっていて奥さんがお風呂に入って待っていて、彼はなあんだとホッとする。 なかざわ:あの奥さん役の女優、ポーラ・プレンティスっていう’60年代の青春映画のスターだったんですよ。コニー・フランシスの主題歌で有名な『ボーイハント』とか。コメディエンヌとしても人気で、ピーター・セラーズの映画にも出ていましたね。 飯森:本作の頃にはいい具合に熟してます(笑)。その奥さんとエリオット・グールドが仲良く泡風呂で体を洗いっこしていると、カメラが俯瞰で真上から2人の姿を捉えながらグーッと上昇していってTHE ENDとなるんですが、カメラはいつまでも天井に突き当らず無限に上昇していく。浴室の四方の壁もそれにともなってビョ~ンと上に伸びていくんですよね。つまり、天井高が数百メートルもある縦穴みたいなありえない形の浴室で、最初は役者の数メートル上にあったカメラが、上昇して浴槽の夫婦からどんどん遠ざかり、穴の底の2人は点みたいになっていく。 これって、とりあえず引っ越しは終わったし、何か差し迫って困っているわけでもない、食ってはいけてるんだし、新居で夫婦水入らずで、幸せだから別にいいんじゃないの?ってことなんですかね?世界の底の狭い穴蔵に2人きりだけど、案外これも良いもんじゃないか、と。 なかざわ:いずれにせよ、この映画が非常に寓話的であることを物語るシーンですよね。 飯森:僕としては、『フランソワの青春』と同じテーマを逆から描いて正反対の結論に持っていってる映画だという気がするんですよ。要するに、閉塞感。閉塞感のある日常がまた無限に繰り返されて、主人公は脚本家として成功することもなく、これまで通り不本意なエロ小説の執筆と犬の散歩をずっと続けていくのかもしれないけれど、ちょっとMOVEして気分も変わり、今の俺の人生にも満足すべき要素だってあるじゃないか、そこに喜びを見出せばいいじゃないか、ってことに気が付いた。奥さんの存在ですね。 なかざわ:ささやかな幸せを噛み締めるというやつですね。 飯森:そう、閉塞感とささやかな幸せって、実は≒なのかもしれませんよね。日々激動するドラマチックすぎる人生に、ささやかな幸せなんて無いでしょう?『フランソワの青春』でネガティヴに描かれたテーマを、ここでは「それもまた良し」とポジティヴに描いている。その違いのように思うんですよね。だから、この2本はセットで見ていただいて確かめてもらえるといいかもしれませんね。 最後に、今回僕が20世紀フォックスから貰った画像の中にはなくて、本編の中でも出てこないんですけど、この映画の宣材写真で、奥さんのポーラ・プレンティスがヌードになっているお宝カットをネット上で発見したんですよ。エリオット・グールドと一緒に泡風呂に入っていて、泡にまみれながらオッパイ丸出しでカメラ目線。これがまた形の良いオッパイなんだ!さすがに商売柄、ネットで拾ってきた画像をここに著作権侵害で晒すわけにもいきませんので、リンクを貼ったツイートを僕のツイッターのトップに期間限定で4月いっぱい固定しておきますから、見たい人は見にきてください(笑)。 なかざわ:そうだ、あと今回も『イカサマ貴婦人とうぬぼれ詐欺師』と同様に、邦題も決めなければいけないんだった!しかし、これは難しいですね…。 飯森:僕も今回は降参ですわ。原題の『MOVE』には「動き出す」という意味と、「引っ越し」という意味の両方が含まれているわけですが、この英語のダブルミーニングを上手いこと邦題に生かそうとするのは無理!もう『MOVE』のまんまでいいんじゃないかと。 なかざわ:それは私も同感です。前回、飯森さんが仰っていたように、独創的過ぎるタイトルを考えても配給元からNGを喰らう可能性がありますしね。■ © 1970 Pandro S. Berman Productions, Inc. and Twentieth Century Fox Film Corporation. Renewed 1998 Twentieth Century Fox Film Corporation and Pandro S. Berman Productions, Inc. All rights reserved. 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存
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PROGRAM/放送作品
プラチナ・シネマ トーク
ザ・シネマの週間イチオシ作品枠、土曜字幕・日曜吹き替え夜9時からの「プラチナ・シネマ」の直前解説番組
映画ソムリエの東紗友美が、毎週、著名な有名映画ライターや評論家を迎えて送る、イチオシ枠「プラチナ・シネマ」直前の映画解説ミニ番組。週末のお休み前のひととき、最高の映画鑑賞時間の幕が上がるのはここから!
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COLUMN/コラム2018.04.13
【男たちのシネマ愛ZZ⑧】『ソルジャー・ボーイ』
飯森:〆は『ソルジャー・ボーイ』です。これって、アメリカでDVD出てるんですかね? なかざわ:日本では最近ようやく出ましたよね。 飯森:というのも、これも画面サイズが4:3で、もし本国でちゃんとしたDVDが出ていればワイドなニューマスターを作り直しているはずで、ウチもそれを取り寄せて放送できたと思うんですが。 なかざわ:どうやらアメリカでは、少なくとも現時点でビデオ・オン・デマンドのDVDしか出てないみたいですね。注文するとDVD-Rに焼いて郵送してくれるというサービス。しかし、そちらもやはり画面サイズは4:3。先ごろ発売された日本盤DVDも同じ。でも、IMDbのデータベースを調べてみると、1.85:1のビスタサイズが本来の画面サイズだったらしいですね。 なかざわひでゆき…映画&海外ドラマ・ライター。雑誌「スカパー!TVガイド BS+CS」で15年近くに渡ってコラム「映画女優LOVE」を連載するほか、数多くの雑誌やウェブ情報サイトなどでコラムや批評、ニュース記事を執筆。主な著作は。「ホラー映画クロニクル」(扶桑社刊)、「アメリカンTVドラマ50年」(共同通信社刊)など。ハリウッドをはじめとする海外の撮影現場へも頻繁に足を運んでいる。 飯森:いまだにトリミング版しか出回っていないということか。残念ですね。しかし、その理由も分からなくはない。それについては後で述べるとして、いずれにせよ、これはアメリカでも長らく見れなかった幻の作品で、ようやく最近になって徐々に陽の目を見ることになったわけですから、激レアか激レアじゃないかで言えばやはり激レアと言っていいだろうと。これが、ズバリ、『ランボー』の元ネタなんですよね! なかざわ:まさに!一目瞭然ですよね。 飯森:ここでちょっと『ランボー』をおさらいしておきましょう。アメリカの田舎町に流れ着いたベトナム帰還兵のランボーが、保安官から「おい、そこの長髪のアンチャン、お前みたいな薄汚い連中にはこの町に来て欲しくないんだよ、町外れまで送ってくからさ、出て行ってくれないかな、戻ってくんじゃねえぞ!」という、まるで先月ご紹介した『おたずね者キッド・ブルー』みたいな酷いレッテルを貼られて追っ払われる。で、そんなのに従う義務はないからランボーが再び町に戻っていくと、今度は保安官に不当逮捕されて拷問まがいの取り調べを受ける。ブチ切れたランボーは保安官どもを殴り倒して脱獄し、山中に逃げ込む。山狩りで追いかけてきた保安官たちやハンターや州兵と、元陸軍特殊部隊グリーンベレー出身でゲリラ戦のプロであるランボーによる、数百対1ぐらいの“戦争”が、2時間にわたって描かれる。…と、いきなりのネタバレで恐縮ですが、それが『ソルジャー・ボーイ』のラスト15分間クライマックスと完全に重なるんです。保安官による不当逮捕にキレて、アメリカの田舎町で戦争おっぱじめる構図が。 なかざわ:そのラスト15分までは、わりとノンビリしたロードムービーなんですよね。 飯森:ベトナムからアメリカに帰還して復員したばかりの軍人4人組が、あれは恩給なのか除隊一時金なのか、お金を引き出すんですよね。それを皆で出し合ってアメリカの象徴キャデラックを中古で買い、西部を目指してロードトリップするわけです。 なかざわ:まさしくアメリカの原風景みたいな景色が広がっていく。 飯森:西部を目指すのもアメリカを象徴してますが、これは、カリフォルニアで牧場の共同経営をしようと計画してるからなんです。でもこいつらが、タチ悪いんだ。中古車の買い叩き方なんか、あれではカツアゲですよね。お店の人が値段を決めれないという。「俺の言い値で売ってくれるよね?じゃないとどういう目に遭うか分かってる?」みたいな。道中で女も回してヤリ捨てるし。 なかざわ:要するに、彼らは戦場の荒くれ者なんですよ。もともとどのような若者だったのかは分からないけど、少なくともベトナムの戦場では荒くれ者でないと生き残れなかったはず。そのメンタリティから抜けきらないまま、アメリカ本国に戻ってきてしまった。 飯森:当時のアメリカ版ポスターの惹句には、「Danny, Shooter, Fatback and the Kid are carrying a deadly disease. War」とあります。4人の若者ダニーとシューター、ファットバック、キッドが、戦争という死の病を抱えている、つまりベトナムで感染してアメリカに菌を持ち帰ってきてしまったと。 なかざわ:それって、戦場で地獄を見てしまった人間の「心の病」みたいなものなんでしょうね。 飯森:当時は「ポスト・ベトナム症候群」と呼ばれるメンタルの病気があって、今で言うPTSDのようなものなんですけれど、単に心が折れて鬱になるばかりか、攻撃的な性格になることもあったみたいですね。ポスト・ベトナム症候群を描いた映画としてはこれが元祖かもしれません。その後『ローリング・サンダー』が出ましたけど、『ソルジャー・ボーイ』が1971年で、『ローリング・サンダー』はいつでしたっけ? なかざわ:’77年です。だいぶ後になりますね。 飯森:あれは「ホームカミング作戦」という、国務省による捕虜返還交渉の成果でせっかく帰国できた男がしでかす話でしたが、その’77年の時点ではベトナム戦争はもう終わってます。’75年がサイゴン陥落ですから。アメリカが手を引いて「俺もう付き合いきれねえ、カネもあんま出せねえから、これからはお前らで勝手にやんな」とトンズラこくのが’73年。それをニクソンはカッコ良く「ベトナマイゼーション」なんて呼んで誤魔化してましたけど、最悪のハシゴ外し外交ですよ。さんざん引っ掻き回しといて酷い話なんですが、とにかく、『ローリング・サンダー』の’77年のベトナムは、北が南を飲み込んで赤化統一されてから数年がたっている。でも『ソルジャー・ボーイ』の頃はまだバリバリ戦争中だったんですよ。そこが凄い!この描き方アリなのかよ!?と。 なかざわ:そういう時代背景を踏まえたうえで見ると、いろいろな発見や驚きがあるかもしれませんね。 飯森:そう!ぜひ踏まえて見ていただきたい。これ、冷静に考えると酷い話なんです。ベトナム戦争に行った人間は、要するに、おかしくなって帰ってきましたと。さっきの惹句にもありましたけど、戦争菌に感染してきちゃいましたと。もうバイ菌扱いなんですよ。酷い!これって、戦後40年以上経った今になってみれば、ベトナムへ行かされた人に対して失礼だろ!とも思えてしまいますよね。先ほど申した、アメリカでもきちんとソフト化されていない理由ってのは、これじゃないのかな。帰還兵の在郷軍人団体がクレーム入れてきてもおかしくない。 「近えよ」 でもあの頃、反戦運動をしていた人たちのうち一部は、確かにそういうレッテル貼りをしていたんですよね。例えば、当時はベトナム帰還兵のことを「ベイビー・キラー」とか「レイピスト」とか呼んで戦争犯罪人扱いする人たちもいたわけです。でも、兵隊がみんながみんな向こうで戦争犯罪をやってたわけじゃないでしょ?まして当時は徴兵制ですよ! なかざわ:そうなんですよね。意外と忘れがちなんですけど。僕も昔、高校生の頃かな、『イエスタディ』というカナダ映画を五反田の名画座で見て、そのことを初めて知りました。『ある愛の詩』と『シェルブールの雨傘』を足して2で割ったような甘い恋愛メロドラマなんですけど、主人公の若者が徴兵で無理やりベトナム戦争へ行かされて、恋人と離れ離れになるんです。アメリカ人男子とカナダ人女子のカップルなんですけどね。 飯森:切ないですねえ…同じ北米にいて、英語も通じて、なのに男子の方は祖国が東南アジアで戦争してるってだけで、そっちで死ぬかもしれない。カナダ人男子だったらそんな心配は無用なわけですからね。この差は、このリスクはどういうことだと。誰のせいの何リスクなんだと。カナダ政府はベトナム戦争に反対でジョンソン政権と険悪になったぐらいですからね。ちなみに僕の世代になると、ベトナム徴兵映画と言ったら『1969』なんですよね。ロバート・ダウニー・Jr.とキーファー・サザーランドとウィノナ・ライダーの。徴兵逃れをして逃げる若者たちのロードムービーでしたが。まあ、とにかくですねえ、はっきり言って、当時のアメリカ男子はほとんど赤紙に近かったんですよ。いや、赤紙というか商店街の福引に近い。 なかざわ:はぁ?…どういうことです!? 飯森:全米各地に徴兵委員会という行政があって、そこで福引のガラガラみたいなやつを回すんです。コロンと出てきた玉には誕生日が書いてある。それを365回繰り返す。出ちゃった順番が早いほど兵役に持ってかれる可能性が高くなる。まさに、ベトナム行く行かないは運次第だったんです。そんなので運悪くベトナムへ行かされた人が、命からがら帰ってきたら「このベイビー・キラー野郎め!」と罵倒され、唾かけられたりウンチ投げられたりする。 なかざわ:理不尽も甚だしい!! 飯森:戦犯みたいな野郎に唾かけたりウンチ投げたりするならともかく、戦争へ行かされた人たちをみんな一括りにして非難するのはどうなのかと。 なかざわ:でも、今だってすぐ極論に走る人たちっているじゃないですか。右とか左とかいった政治的スタンスの違いに関係なく。そのどちらにも極端な人たちはいる。もう少し理性をもって、バランスを考えながら振る舞えないのかと。 飯森:この『ソルジャー・ボーイ』という作品は、そうした反戦側の極論的なスタンスにわりかし乗っちゃっているように思うんですよね。帰還兵は人殺しと暴力に慣れきっている危険な奴らだから気をつけろ!というレッテル。『ローリング・サンダー』も同じ問題点がある。それ繋がりで言えば『タクシードライバー』にも。 なかざわ:なるほど。ただ、彼らの暴力的な言動の源を遡っていくと、やはり戦争がそもそもの原因で、もともと彼らが悪かったわけじゃ決してない、と思えるような気もするんですが。 飯森:でも、そうは劇中では描いていませんよね?なんで彼らがこうなってしまったのか、この映画では一切触れられていない。まるで「帰還兵=ベイビー・キラー」みたいな描き方がされているし、実際そうとしか見えない。しかも、まだベトナム戦争の真っ最中で、帰還兵や廃兵がどんどんアメリカへ戻ってきているような時期にですよ!? なかざわ:そう言われると確かにそうですね。そうか!もしかすると僕なんかは先に『ランボー』だとか『地獄の黙示録』みたいな、後のベトナム戦争映画を色々と見てしまっていて、予め情報が刷り込まれているから、勝手に深読みをしてしまったのかもしれませんね。 飯森:確かに我々は後続の作品群から客観的な視点を得ているので、それをもとに印象がおのずと補正されてしまうことはあるかもしれません。でも、例えば僕自身がベトナムから帰ってきて、戦死せずに祖国に生還できてよかったとホッと一息つきながら最初に地元の映画館でこの映画を見たら、わりと傷つくと思うんですよ(笑)。 この、不当な偏見と差別の修正を図っていったのが、僕は’80年代とスタローンという漢だったと思うんです。キレる理由を’82年の『ランボー』で初めてちゃんと描いた。なんで俺がアメリカを敵に回して、一人だけの軍隊で同胞を相手に戦争しなきゃいけないんだ!という理由をスタローンは言語化したんです。俺たちが国のためにベトナムでどれだけ酷い目に遭わされてきたか!それなのに祖国に帰ってきて受けるのがこんな扱いなのか!アメリカ社会は俺たちを何だと思ってるんだ!と最後にトラウトマン大佐に泣きじゃくりながら物凄い長ゼリフで訴えるじゃないですか。あそこはゴッソリ原作に無い展開、映画のシナリオ用に書かれたセリフです。スタローンは共同脚本にも名を連ねてますが、誰の手で盛り込まれたものなのか…なんにしても「俺たちに代わってよく言ってくれた!」と、当時の帰還兵ならスタローンに泣いて拍手喝采したと思いますよ。 飯森盛良…ザ・シネマ開局準備段階から異動もなくずっと居座り続けている唯一のスタッフでヌシ的存在。「シネマ解放区」および「厳選!吹き替えシネマ」の黒幕。また「プラチナ・シネマ」の解説番組と、「ふきカエ ゴールデン・エイジ」「町山智浩のVIDEO SHOP UFO」『(吹)プロメテウス[ザ・シネマ新録版]』『(吹)ブレードランナー[ザ・シネマ新録版]』プロデューサー。 なかざわ:確かにその通りですね。 飯森:あれでバッシングの潮目が変わった。’85年の『ランボーII』のラストでもまた言うんですよ。「俺たちの望みは、俺たちが国を愛したように、国も俺たちを愛して欲しいんだ」と、今度は手短に。短いながらこれも帰還兵たちの声なき声をスタローンが代弁したんだと思うんです。映画で世論の流れを変えた。どんだけ偉大な漢なんだと僕は声を大にして言いたい! あと’87年になると『ハンバーガー・ヒル』という映画も出ましたよね。「アパッチ・スノー作戦」という激戦を描いた作品ですけど、あの中でいったん兵役が終わって除隊したのに再志願してベトナムに戻ってくる兵士が一人いるんですよ。その彼がなぜ舞い戻って来たのか訊かれて、空港では誰も歓迎してくれないし「ご苦労様」と言うかわりにウンチを投げつけてきて、祖国はとんでもないことなっていたと。あんな所にはいたくないから、仲間がまだ戦っているベトナムに戻ってきたんだ、としみじみ言うんです。ランボーのセリフとこのセリフで、だいぶベトナム帰還兵の名誉回復がはかられて、ようやく我々はニュートラルにこの戦争のことを歴史として見ることが出来るようになった。『プラトーン』と『カジュアリティーズ』でも、レイピストもいたかもしれないけど正義感を失わない兵士も当然いたんだと描かれた。とにかく、政治の季節が終わった’80年代、まず『ランボー』がやりすぎカウンターカルチャーとしての帰還兵差別を終わらせたことは意義深いですな。もちろんベトナム人民の苦難はもっとずっと筆舌に尽くしがたいわけですが。 そういえば、この『ソルジャー・ボーイ』の若者たちがグリーンベレーだって、劇中で言及していましたっけ? なかざわ:いや、覚えていませんね。ごめんなさい。 飯森:実は彼らもグリーンベレーなんですよ。軍服を見れば分かる。一目瞭然ですけど、冒頭、帰国した時にグリーンベレーを被っていて、その左オデコの部分に黄色い盾型の布が付いているんですが、あれは「ベレーフラッシュ」といって土台となる布で、その土台の上から米陸軍は金属の階級章か紋章をさらに付ける決まりなんです。で、その黄色のベレーフラッシュが「第1特殊部隊グループ」というグリーンベレー部隊のものなんですよ(下写真左)。あと着ている「グリーン・サービス・ユニフォーム」という緑色の制服の左肩に「特殊部隊群章」と呼ばれる水色のワッペンが付いている(下写真右)。そこから、彼らは100%確実に元グリーンベレーだと断言できるんです。ランボーと同じだったんですよ。これは、グリーンベレーの男たち4人組が復員して、人殺しに慣れきってしまったせいで大殺戮を犯すという話だったんですね。先ほど、この映画は原因を描かずにベトナム帰還兵は全員ヤバいと描いてる点が問題だと述べましたが、強いて理由を探るなら「グリーンベレーってのは悪い奴らだ!」ってことなのかもしれません。 (Wikipediaからのパブリックドメイン画像) なかざわ:なるほど!そうか(笑)。 飯森:グリーンベレーって一時期、人殺し集団のように言われていたことがありましたよね。その元凶になった人物っていると思うんですよ。 なかざわ:…ジョン・ウェインだって言いたいんでしょ? 飯森:そう(笑)!あの人の『グリーン・ベレー』ってのはまあ、とんでもない映画でしたから。まるで西部劇。 なかざわ:彼の映画は全部西部劇のフォーマットになっちゃいますよね。晩年の刑事アクション『ブラニガン』でロンドンに行っても、結局はロンドンで西部劇をやってますから。 飯森:こっちの作品ではベトナム戦争で西部劇やってる。グリーンベレーは助けに来た騎兵隊、ベトナム人がインディアン。南は良いインディアンで北は悪いインディアンだと。そういう旧態依然とした現状把握で物事を単純化しようとした。これが、プロパガンダ目的のタチの悪い戦意高揚国策映画なのかと思いきや、ジョン・ウェインが作りたくて好きで自分で作っていたという(笑)。 なかざわ:なにしろ、インディアンに対する虐殺の歴史にしたって、「土地を必要としている白人がいるというのに、それを独り占めしようとしたあいつらが悪いんだ!」なんて平気で言っちゃう人でしたからね。 飯森:…笑っちゃいかんのですが、もはや酷すぎて笑うしかない!『グリーン・ベレー』は’68年でしたけど、’68年に反戦運動とか学生運動やっていたような人たちは、ジョン・ウェインがその手の人だってことはとっくに分かりきっていたから驚かなかったかも。もう、あきらめてた。でも、そのとばっちりを受けたのがグリーンベレーですよ。変な人から変に褒められちゃって。こういうのを「贔屓の引き倒し」と言う(笑)。そのせいでグリーンベレーってのは何をするか分からない危険な連中だというイメージが付いちゃった。その頂点がカーツ大佐。 そういえば、『ランボー』って、映画は’82年ですけど、原作が出版されたのは実は’72年なんですよ。 なかざわ:なるほど、『ソルジャー・ボーイ』とほぼ同時期ですか。 飯森:これって偶然なのか何なのか、ビックリしちゃいますよね。 なかざわ:でも、同じ時代の空気を吸った人たちが、たまたま同じような着想を得てそっくりな物を作るということは、ままあることだと思うんですよ。 飯森:同感です。実際、『ソルジャー・ボーイ』の劇場公開と、『ランボー』原作の出版時期って、ほとんどタイムラグありませんから。パクることすらできないぐらい時期が被っている。 映画版『ランボー』では描かれていなかったと思うんですけど、ブライアン・デネヒーの演じた保安官って、原作では実は朝鮮戦争の退役軍人で英雄なんですよ。で、『ソルジャー・ボーイ』にも同じく朝鮮戦争の退役軍人が出てきましたよね?主人公たちのことを軟弱者呼ばわりする。「戦争が終わってもいないのに尻尾巻いて逃げ帰って来やがって、この腰抜けどもめ」と、わざと聞こえよがしに飲み屋で大声で言って喧嘩を売る。同じように従軍経験があっても、朝鮮戦争世代とベトナム戦争世代では何故かジェネレーションギャップがあるみたいなんですが、原作版『ランボー』の方にも全く同じ要素が存在するんですよ。 なかざわ:その感覚って、戦争を知らない我々にはよく分かりませんよね。もしかすると、「俺たちの若い頃は凄かった!それに比べて今時の若いもんは…」という、よくあるオヤジの戯言なのかもしれませんが。 飯森:そもそも朝鮮戦争とベトナム戦争って似てるじゃないですか。一つの国が北と南に分裂して、北を共産圏が支援して南をアメリカが支援すると。構造が似ているので比較がしやすいってこともあるのかも。で、原作版『ランボー』における保安官って、実はランボーとほぼ同格の主人公として描かれていて、なぜ彼があんな人になってしまったのかということも掘り下げられているんです。ずばり『グラン・トリノ』なんですよ。朝鮮戦争から帰った若いイーストウッドが、フォードの工場で働かずに田舎町で保安官になってドーナツ食ってるうちにブクブク太って中年のブライアン・デネヒーになっちゃった(笑)。確かに頑固者で問題のあるオヤジだけど、決して根っからの悪人ではない、正義感もあるという描かれ方をしていて、映画版とは全くの別物です。また、ランボーの方も、ベトナムでの捕虜体験と拷問のトラウマが暴力を爆発させてしまう彼個人の特殊な事情なのだとして、’72年という早い時点でちゃんと描写している。 でも一方の同時期の『ソルジャー・ボーイ』の主人公たちは、地元住民や保安官が持つ銃の影を見ただけで、あるいはカチャっというコッキング音を聞いただけで、いきなりスイッチが入っちゃって、冷静沈着な殺人マシンと化し女子供まで殺しまくる。アメリカ版ソンミ村虐殺事件みたいなことをヤラかしちゃう。「しまった!カッとなってヤッちまった!」という後悔さえなく、皆殺しにした後で溜飲が下がったようなスッキリ顔までする始末。あのヤバさはほとんど『影なき狙撃者』です。 なかざわ:あちらは、最近話題になったスリーパー・セルみたいなもんですけどね。 飯森:朝鮮戦争で捕虜になって敵に洗脳され、暗示をかけられていて、帰国後ある条件でスイッチが入ると無感情な殺人マシーンに変身するんですよね。ソルジャーボーイズたちも、戦場で暴力に慣れきったというよりも、そっちに近い。要は、ちょっとマトモじゃないヤバい奴という、酷い扱われようですよ。まあ、『ローリングサンダー』の方は捕虜体験が原因だとは描いてるんですが、とにかく、どっかおかしくなっちゃってる危険人物、という酷いスタンスは変わりないですからね。そこがランボーと違う。あっ!今気づきましたけど、さっき名前をあげた『タクシードライバー』もそう考えると『影なき狙撃者』に通じるものがありますね。あっちでおかしな人になって帰って来た帰還兵が大統領候補の暗殺を企てる。なぜならマトモじゃないから、という映画ですもんね。 なかざわ:にしても、主演のジョー・ドン・ベイカーってそういうヤバい役が似合いますよね(笑)。 飯森:なかざわさんと初めて対談した際のお題も、ジョー・ドン・ベイカー主演『ウォーキング・トール』でしたね。我々にとっては縁の深い役者ですな。あれでもキレて手が付けられないヤバい人の役だった。町の治安悪化が気に入らないからと保安官になって、なぜかブッとい丸太ン棒でチンピラの脳天を次々とカチ割って回るという。 なかざわ:ヤバいアメリカ人を演じさせたら彼の右に出る者はいませんよ。顔がそうだもん。 飯森:ただ、ジョー・ドン・ベイカーにしてもジョン・ウェインにしても、あの時代のアクション俳優のカッコ良さと言ったらね!手に持った拳銃が小さく見えてしまうくらいデカいんですよね。アサルトライフルがサブマシンガンぐらいに見えちゃうし。あと、今のアクション俳優って鍛えすぎちゃってて、無駄な贅肉を落としているから逆に強そうに見えないんですよ。見せびらかすための自意識過剰な筋肉で。それに比べてジョー・ドン・ベイカーやジョン・ウェインは、人目なんて一切気にしてない。欲望のままに厚切りのステーキを何枚も貪り食って、毎晩のようにバーボンをガンガン飲まないと、あんな体型になりませんからね。見せびらかすという感覚すら理解しない獰猛なだけの野獣みたいな、あれはカッコ良い! なかざわ:全身から醸し出すオーラがマッチョなんですよね。いくら一所懸命に筋肉を鍛えたって、あのオーラを出すことは絶対に出来ない。晩年の『ブラニガン』だって、よく考えるとお爺ちゃんが拳銃持ってノソノソ歩いてるだけなんですけど(笑)、ものすごくマッチョに見える。 飯森:ちょうど『ペンタゴン・ペーパーズ』も劇場公開されたばかりですが、ベトナム戦争というのはとてもタイムリーなテーマだと思うんですよね。当時は政治の季節でしたけど、今もまた、すっかりそうなってしまった。しばらくはあの時代について考えていきたい。『ソルジャー・ボーイ』もその材料となる一本で、今回ぜひとも見ていただきたいと思います。 と、いうことで、前後編に分けた今回の対談もこれでおしまいですが、おそらくまた遠からぬうちにやるでしょうから、その時はまたよろしくお願いします! なかざわ:こちらこそ、次回を楽しみにしています!■ 写真撮影/中島繁樹 © 1971 Twentieth Century Fox Film Corporation. Renewed 1999 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved. 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存