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PROGRAM/放送作品
ブラック・ダリア
[R-15]ロサンゼルス最悪の迷宮事件をデ・パルマが映画化!欲望にまみれた黒い謎を暴くサスペンス!
作家エルロイがロスの闇を描く『L.A.コンフィデンシャル』を含むシリーズのうち、原作発表順では第1作となる同名小説を、鬼才デ・パルマが映像化。実際に起きた未解決猟奇事件に着想を得たL.A.ノワール。
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COLUMN/コラム2016.03.03
ソフィア・コッポラ、彼女の瞳にうつるもの〜『ヴァージン・スーサイズ』、『ロスト・イン・トランスレーション』、『マリー・アントワネット』、『SOMEWHERE』、『ブリングリング』
パーソナルな魅力が溢れ出した知的で美しい容姿。決して派手ではないけれどシンプル&エレガンスな、1点1点上質なアイテムをさらりと着こなすファッションセンス。 さらにはアートや音楽の洗練された感性さえを持ち合わせ、世界を代表する映画監督フランシス・フォード・コッポラを父に持つという恵まれた家柄で育った。女の人生を生きる上で、欲しいものをすべて手に入れた女性である。 映画監督としてだけでなく、新進気鋭のカメラマンとしての実績や、ファッションデザイナーとして「ミルクフェド」を設立し、最近ではその活動は映画の域を越え、ハイブランドのCM監督もこなす。 クリスチャンディオールのキャンペーンではナタリー・ポートマンを起用した「MissDior」のCM(2013年)を手がけ、オシャレ女子から圧倒的な支持をうける「Marc Jacobs」の人気フレグランス「デイジー」シリーズなどのCMも監督し、まるで映画の1シーンのようなショートトリップに世の女性達をいざなってくれたのも記憶に新しい。 更に、今年2016年には「椿姫」の後援者でイタリアのデザイナーのヴァレンティノ・ガラヴァーニがソフィアの『マリー・アントワネット』に感激したことから、イタリアのローマ歌劇場でのオペラ「椿姫」の舞台監督に抜擢された。ソフィアは、今まさに、初の「オペラ監督」としての挑戦に奮闘中なのである(公園期間は5月24日〜6月30日)。 自分の可能性を花開かせ続けるその姿から勇気をもらうと同時に、1度は彼女のような人生歩んでみたいとソフィアに強い憧れを抱く女性は少なくないはずだ。 生まれもって宝くじを引き当てたかのような特権を持つ存在でありながらも、決して家柄におごることなく自分を貫き、夢を叶える。 20世紀の「与えてもらう」ような受け身のお姫様ではなく、自分の夢を自分でつかみ取る彼女こそ21世紀の女性の憧れの的なのである。 そんな彼女が「映画」という手段を選び、発信しようとしているメッセージとは何なのであろうか。作品に共通して描かれているものがあるとすれば、それは、誰しもの心にひっそりと潜むガラス細工のような「孤独」ではないだろうか。 ソフィアと言えば、作品に合わせた色彩を効果的に使った美しい色味で描かれる世界観も特徴の1つであるが、彼女は誰よりも知っていたのではなかろうか。孤独は、色のないからっぽの感情ではなく、カラフルな世界に身を置いたときによりいっそう滲み出るものだということを。 たくさんの色や光に囲まれた瞬間にこそ、自分のむなしさや寂しさがよりいっそう際立つことを。 だからいつだって彼女の作品は美しいのかもしれない。 ソフィアが描いてきたいくつかの孤独の表現について追ってみようと思う。 彼女の長編映画デビュー作でありながらも、彼女の作品の世界観を確立させたミシガン州に住む美しい5人姉妹の自殺を描いた『ヴァージン・スーサイズ(1999)』では、一緒に過ごしていても心は離れている姉妹達の孤独感。家族という間柄であっても、満たせない見えない人と人との間の距離感を垣間みた。 次にアカデミー脚本賞を受賞した『ロスト・イン・トランスレーション(2003)』では、言葉の通じない海外に行った時に味わう異邦人としての哀愁や異文化の中での孤独の感情に寄り添った。監督自身の東京での経験を下敷きにして、海外版でも日本語の字幕は一切つけず、観る者に孤独を疑似体験させた。 世界中で注目されてきたフランス王妃を描いた『マリー・アントワネット(2006)』では、下着すら自分でつけることを許されない生活の中で、仮面を付けるかのように洋服を何着も何着も着替えることで、不安、不満をモノで満たしていく孤独な女心をこれ以上ないほど愛らしい世界観の中、表現した。 続いて、父と娘のつかの間の休暇を描いた『SOMEWHERE(2010)』では 、ハリウッドスターを主人公とし、端から見たら人気者で多くの人に囲まれるうらやましがられる生活をしていても、充実感とは裏腹に空虚な気持ちを拭えない中年男性の孤独を映し出した。 また最新作『ブリングリング(2013)』では、全米を震撼させた実際の高校生窃盗団の事件を描き、犯罪が露見する可能性がゼロではないにも関わらず、誰かに認めてもらいたいという想いも消しきれないSNSの普及した現代社会に起こりうる、承認欲求という新しいタイプの孤独を描いた。 ちなみに、彼女がはじめて監督・脚本を務めたモノクロの16mmフィルムで撮影した14分の『Lick the Star(1998年)』もスクールカースト(階級社会)の中で生まれる思春期の「孤立感」がコンセプトだ。「ヴァージン・スーサイズ」を彷彿とさせる独特の芝生の使われ方など随所に彼女の才能を感じることが出来る作品で、白黒なものの登場人物達は活き活きと描かれている。字幕付きのものが日本では観られないのが残念だが、ネットに何件かアップされている動画を映画ができる友人と観るのがおすすめだ。 彼女のこれまでの作品の中で、私は特に「リック・ザ・スター」「ヴァージン・スーサイズ」「ブリングリング」といった10代の思春期の頃に抱える抑え切れない程の強いエネルギーや、集団心理を描いた作品に興味を持っている。 特に「ヴァージン・スーサイズ」には、女性が避けることができない人生の悲哀もひっそりと閉じ込められているように感じる。 女は他人から比較されずに生きていくことができないし、同時に自分も人と比較することをやめられない生き物である。 「私は私」と思うタイプの人でさえ、年を重ねれば若い頃の自分と「あの子も昔はかわいかった」なんて比較されていく。 一生続く、毒をもった甘い戦いが女の世界には存在しているのだ。 自分の部屋がまるで世界の中心のように思うことさえある思春期。1つの空間に閉じ込められた1歳ずつしか年齢の違わない姉妹達、そこにはまるで満開のバラが咲き乱れたような、異常なエネルギーが漂っていたのではなかろうか。 男性からすると一種の連帯感かもしれないが、まるで1つの花のように見えた彼女達は、それぞれ別の花びらの集合体だったのではないか。 だからこそ一致団結していたように見えた姉妹達も最期の瞬間は、バラバラの場所、それぞれの方法で死を選んだのかもしれない。 同時に、彼女達は、自分たちが1番美しい瞬間を永遠に閉じ込めようとしたのではないだろうか。「死」という選択肢を使って。彼女達にとって「死」とは、美しいままでいるための1つの手段だったようにも思えて仕方がないのである。 また、場所も時代もおかれている状況も違うけれど「ブリングリング」にも思春期の抑えられない強いエネルギーが描かれていると同時に、「自分は自分」でいることの難しさを伝えている。 10代の頃からSNSの普及によって、幸せの基準がわからなくなってしまったブリングリングのメンバー達は、罪の意識を抱くよりも、Facebookに窃盗したセレブの持ち物をアップし続け、周囲に注目される存在であることを望んだ。 被害者の1人でありながらも自宅を撮影場所として提供したパリス・ヒルトンが被害状況を語った際、「普通の泥棒はお金や宝石を盗むけど、彼らはお金ではなく、雑誌に出ているものを欲した」と語った。 そこに理屈は存在していない。「承認されたい」という欲望を抑えることができなくなった若者達の感情は、こんがらがってしまった電線のようだ。 他人の生活が必要以上に見えるようになってしまった現代を生きる上で、人に流されず自分らしくいることが難しくなっていることについて、小さな警鐘を鳴らしたのではないか。 それにしてもなぜ、彼女は性別年代問わず、人の感情を繊細にすくいとることができるのであろうか? 世界的な巨匠を父に持ち、1歳で乳児役として「ゴッドファーザー」に出演し、小さい頃から大人の目にさらされてきたソフィア。 人の顔色に敏感にならざるを得なかったであろうし、時に誰よりも比較されてきたのは、他でもなく、彼女自身だったからのかもしれない。 余談になるが、コッポラ一族の勢いはとどまることを知らない。 2013年、フランシス・フォード・コッポラの孫ジア・コッポラは、「パロアルト・ストーリー」で映画監督デビューを果たす。原作はハリウッドの若き開拓者的存在であるジェームズ・フランコが書いた短編小説。ジェームズ・フランコ自ら、ジアに監督を依頼し、ジュリア・ロバーツの姪であるエマ・ロバーツやヴァル・キルマーの息子のジャック・キルマーが起用され、青春の不安定さから来る思春期の若者達の繊細な気持ちを描いた。 インテリアやレースのカーテンといった小物等からもソフィアの感性を受け継いだことが肌で感じられる作品である。 甘くけだるく、耳に残る音楽は「ヴァージン・スーサイズ」の音楽でもおなじみのソフィアの従兄弟であり、フランシス・フォード・コッポラを叔父に持つシュワルツマンが担当。改めて、溢れんばかりの才能に恵まれた一族である。 「アメリカン・グラフィティ」「ラスト・ショー」「ヴァージン・スーサイズ」のようなタイプの10代の繊細な感情の機微を描いた青春映画を欲している人は、こちらの作品も観ても良いかもしれない。■ ©1999 by Paramount Classics, a division of Paramount Pictures, All Rights Reserved
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PROGRAM/放送作品
マトリックス
世界が何者かによって作られたまやかしだとしたら…映画史に永久に残る哲学SFアクションシリーズ第1弾
現実と区別のつかないリアルな夢。高次の存在によって創造されたこの世界。我々の人生は本物か?というSFでおなじみのテーマを、革新的映像表現によるアクションの釣瓶打ちで描く、映画史上最も重要なSFの1本。
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COLUMN/コラム2014.12.10
宇宙探査に挑む人類を脅かす“人智を超えた恐怖”を描いた2作品〜『イベント・ホライゾン』と『パンドラム』
こうした問いかけはジョルジュ・メリエスの『月世界旅行』(1902)以来、SF映画における最もポピュラーなテーマであり、多くのクリエイターの創作意欲を刺激し、映画ファンの夢とロマンをかき立ててきた。そんな宇宙探査映画の歴史に新たなエポックを刻み込んだのが、クリストファー・ノーラン監督の『インターステラー』(14)である。地球終焉のカウントダウンのさなかに交わされた父と娘の“約束”の物語が、無限の宇宙空間へと飛翔し、時空と次元を超えて想像を絶するうねりを見せていくこの超大作は、まさに視覚的にも感情的にも圧倒されずにいられない究極のスペース・アドベンチャーであった。 しかしながら『インターステラー』がそうであったように、宇宙探査ミッションには想定外のトラブルが付きもので、時には人智を超えた“恐怖”との遭遇も覚悟せねばならない。むろん、その代表格はリドリー・スコット監督作品『エイリアン』(79)だが、これ以降に作られた数多くのSFホラーの中でとびきり異彩を放っているのが『イベント・ホライゾン』(97)である。『インターステラー』でも扱われた“ワームホール(時空の抜け道)”を意外な形でストーリーに組み込んだこの映画、あの『バイオハザード』シリーズ(02~)でおなじみのヒットメーカー、ポール・W・S・アンダーソン監督のハリウッド第2作にして、彼のキャリアの最高傑作とも言っても差し支えないであろう本格的な恐怖映画なのだ。 物語は西暦2047年、7年前に忽然と消息を絶った深宇宙探査船イベント・ホライゾン号からの信号がキャッチされ、その設計者であるウェアー博士を乗せた救助船クラーク&ルイス号が調査に赴くところから始まる。イベント・ホライゾン号には生存者はひとりもいなかったが、なぜか船のあちこちから生命反応が検知される。そして内部に足を踏み入れたクルーは何者かの気配に脅え、奇怪な幻覚や幻聴に悩まされるようになる…。 本作はクラーク&ルイス号の一行がイベント・ホライゾン号に到達するまでの導入部からして、じわじわと恐怖感を煽っていく。ウェアー博士が同行するクルーに聴かせるのは、イベント・ホライゾン号との最後の交信を録音したテープ。そこにはこの世のものとは思えないおぞましい呻き声や悲鳴が記録されており、ラテン語の声も含まれている。それはまるでオカルト・ホラーにしばしば盛り込まれる“悪魔の肉声”のようであり、宇宙空間を漂流するイベント・ホライゾン号は不気味な幽霊船そのものだ。そう、まさしくこの映画はロバート・ワイズ監督の名作『たたり』(63)をお手本にし、宇宙船を幽霊屋敷に見立てたSF“ゴシック”ホラーなのである。 『エイリアン』に加え、『シャイニング』(80)のサイキックな要素も取り込んだフィリップ・アイズナーのオリジナル脚本は、さらなる驚愕のアイデアを炸裂させる。ここで序盤におけるウェアー博士のもったいぶったワームホールの解説が伏線として生きてくる。イベント・ホライゾン号がワームホールを抜けて行き着いた別次元とは何なのか。ネタバレを避けるため詳細は避けるが、そこにこそ本作最大の“人智を超えた恐怖”がある。ホラー映画好きならば誰もが知る某有名作品のエッセンスを大胆に借用し、なおかつそれをワームホールと結びつけたアクロバティックな発想には脱帽せざるをえない。ルイス&クラーク号のクルーの行く手に待ち受ける真実は、宇宙のロマンとは真逆の極限地獄なのだから! ウェアー博士役のサム・ニールと船長役のローレンス・フィッシュバーンを軸とした俳優陣の緊迫感みなぎるアンサンブル、ノートルダム大聖堂にヒントを得たというイベント・ホライゾン号の斬新な造形、長い回廊や医務室といった船内セットの優れたプロダクション・デザインも重厚な恐怖感を生み、一瞬たりとも気が抜けない。製作時から17年が経ったというのにまったくチープに見えないのは、CGに頼るのを最低限にとどめ、生々しい質感のアナログな特殊効果を多用した成果だろう。ちなみに筆者は、かつて東銀座の歌舞伎座前にあった配給会社UIPの試写室で本作を初めて鑑賞したとき、登場人物が扉を開け閉めしたりする物音だけで心臓が縮み上がった思い出がある。 もう1本、併せて紹介する『パンドラム』(09)は、ポール・W・S・アンダーソンが製作に回り、クリスティアン・アルヴァルト監督を始めとするドイツ人スタッフとコラボレートしたSFスリラーだ。西暦2174年、人口の爆発的増加によって水と食糧が枯渇した地球から惑星タニスという新天地へ旅立った宇宙船エリジウム号が舞台となる。 まず面白いのは冒頭、長期間にわたる冷凍睡眠から目覚めた主人公の宇宙飛行士2人が記憶を喪失してしまっていること。自分たちがどこへ何のために向かっているのかさえ思い出せない彼らは、上官のペイトン(デニス・クエイド)が睡眠室に残って指示を出し、部下のバウアー(ベン・フォスター)が船内を探検していく。観客である私たちも特権的な情報を与えられず、2人の主人公と同じく暗中模索状態で不気味に静まりかえった広大な船内をおそるおそるさまようことになる。 ペイトンとバウアーが真っ先に成し遂げるべきミッションは船の動力である原子炉を再起動することだが、バウアーの行く手には正体不明の凶暴な人食い怪人がうようよと出現。さらには生存者の男女2人との出会いや人食い集団とのサバイバル・バトル、バウアーの失われた記憶やエリジウム号に隠されたミステリーといったエピソードが、異様なテンションを持続させながら矢継ぎ早に繰り出され、まったく飽きさせない。『エイリアン』や『プレデター』シリーズや『ディセント』(05)などを容易に想起させる既視感は否めないが、後半に『猿の惑星』(68)ばりの壮大なひねりを加えたストーリー展開も大いに楽しめる。全編、汗とオイルにまみれてノンストップの苦闘を演じきった俳優陣の熱演も凄い。よくも悪くもアンダーソン的なB級テイストに、スタッフ&キャストのただならぬ頑張りが血肉を与えた快作と言えよう。 さすがに破格のバジェットを投じ、並々ならぬクオリティを誇る『インターステラー』と比較するのは酷だが、きっとこの2作品も多くの視聴者に“見始めたら、止められない”スリルを提供することだろう。もはや宇宙探査というアドベンチャーが地球滅亡という切迫した設定とともに描かれるようになった21世紀において、このジャンルはいつまで“SF”であり続けるのだろうか? 上『イベント・ホライゾン』TM & Copyright © 2014 Paramount Pictures. All rights reserved./下『パンドラム』© 2014 Sony Pictures Television Inc. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
マトリックス リローデッド
救世主とは何か?マトリックスの真実を上回る驚愕の真相が終盤で明らかに!深遠な哲学SFシリーズ第2弾
覚醒後に限界なくパワーアップし続けるネオ。そのネオのプログラムを取り込みウイルスと化して無限増殖するエージェント・スミス。そしてマシン軍団の侵攻にさらされる現実の非力な人類たち…新局面を迎える第2弾。
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COLUMN/コラム2014.06.21
ハリウッド暗黒史に語り継がれるふたつの怪事件 ― その虚飾にまみれた倒錯と悲哀の世界
ブラック・ダリア事件は、20世紀のアメリカ犯罪史上最もセンセーショナルな未解決事件のひとつである。1947年1月15日の午前10時半、ロサンゼルスの空き地を通りかかった主婦が発見した女性の死体は、胴体がふたつに切断されていた。さらに血と内臓を抜かれたうえに性器が切除され、口が左右の耳元まで裂かれたその死体はさながらグロテスクなアートのようで、ネクロフィリアらの性的倒錯者による犯行が疑われた。被害者の名はエリザベス・ショート。ハリウッド女優としての成功を夢見て、マサチューセッツ州から上京してきた22歳の美しい白人女性だった。ロス市警は前例のない大がかりな捜査態勢を敷き、何人もの容疑者が捜査線上に浮かんだが、事件は迷宮入りしてしまう。 マスコミが熾烈な取材合戦を繰り広げ、被害者エリザベスを悪夢のようなメロドラマのヒロインに見立てて報じたこの事件は、ブラック・ダリアというネーミングもキャッチーだった。事件の前年に公開されたレイモンド・チャンドラー脚本のスリラー映画『青い戦慄』の原題が『The Blue Dahlia』であり、生前のエリザベスが黒い服を好んだことからブラック・ダリアと命名されたのだ。殺人の手口といい、被害者のプロフィールといい、そのあまりにも異様な残虐性と悲劇性を知れば知るほど、否応なく闇の中の真相への好奇心をかき立てられてしまう。そんな特別な魔力を秘めた怪事件である。 ブライアン・デ・パルマ監督が手がけた2006年作品『ブラック・ダリア』は、ジェームズ・エルロイの“暗黒のL.A.4部作”の一作目となった同名犯罪小説の映画化だ。エルロイとブラック・ダリア事件の間には数奇な因縁がある。エルロイは事件発生の翌年にあたる1948年にロサンゼルスに生まれたが、10歳の時に母親を何者かに惨殺されてしまう。しかもその事件は迷宮入りし、やがてどす黒い犯罪の世界に引きつけられたエルロイは、非業の死を遂げた自らの母親の残像をエリザベス・ショートにだぶらせていく。こうしてブラック・ダリア事件は“アメリカ文学の狂犬”と呼ばれる異端的作家の原点となった。そんなエルロイの個人的なトラウマや執着が反映された小説に基づく『ブラック・ダリア』は、事件の全貌を徹頭徹尾リアルに再現することを試みたノンフィクション的志向の作品ではなく、あくまで“事実を背景にしたフィクション”なのである。 かくして完成した『ブラック・ダリア』は、デ・パルマ監督のもとにヴィルモス・ジグモンド(撮影)、ダンテ・フェレッティ(美術)、マーク・アイシャム(音楽)らの一流スタッフと、ジョシュ・ハートネット、アーロン・エッカート、スカーレット・ヨハンソン、ヒラリー・スワンクらの豪華キャストが集った堂々たるハリウッド大作だというのに、興行的にも批評的にも失敗作と見なされた。その要因はいくつか考えられるが、筆者が思うにまず脚色のミスが挙げられる。エルロイの長大な原作小説から多くの要素を削ってプロットをスリム化したにもかかわらず、出来上がった映画は極めてストーリーが錯綜してのみ込みづらい。エルロイ流の濃密な心理描写&暴力描写が際立つ小説では、複数のエピソードがいつしか絡み合い、ひとつの真実へと到達する構成が圧倒的なカタルシスを生んだが、たかだが2時間の映画でそれを成し遂げるのは容易ではない。そもそもデ・パルマという監督は職人的なストーリーテラーではなく、根っからのヴィジュアリストである。大勢の登場人物の入り組んだ相関関係を描くには不向きなタイプで、ドラマの焦点がぼけてしまった感は否めない。 それ以上に大問題なのはマデリンというファムファタールを演じるヒラリー・スワンクが、どこからどう見てもミスキャストとしか思えないことだ。マデリンが惨殺されたエリザベス・ショートに“瓜ふたつの美女”という設定は、この物語において絶対に押さえておかねばならない重大ポイントだというのに、“男前”のスワンクはお世辞にも主人公の警官バッキー・ブライカート(ジョシュ・ハートネット)をひと目で魅了するほどの美貌の持ち主とは言いがたい。おまけにエリザベス役のミア・カーシュナーとは似ても似つかぬ貌立ちであり、二重の意味で不可解な配役となった。エリザベスの可憐さや愛に飢えた哀しみを表現したカーシュナーの好演が光るぶん、なぜカーシュナーにひとり2役でエリザベスとマデリンを演じさせなかったのかと惜しまれる。そうすれば“死んだはずの美女へのオブセッション”を主題にしたヒッチコックの『めまい』の信奉者であるデ・パルマの創作意欲も、大いに刺激されたであろうに。こうも観る者に困惑を強いるスワンクの役どころ、逆にぜひとも注目していただきたい。 とはいえフィルムノワールには“混乱”が付きものであり、それがいびつな魅惑にも転化しうるジャンルだけに、上記のネガティブなポイントも踏まえたうえで本作を楽しみたい。とりわけ“ミスター・ファイアー”の異名で鳴らす熱血警官リー・ブランチャード(アーロン・エッカート)と“ミスター・アイス”ことブライカートの出会いから、エリザベスの死体が発見されるまでのハイテンポな導入部がすばらしい。この警官コンビが犯罪者のアジトを張り込む姿を映し出すカメラが緩やかにビルの屋上を越え、エリザベスの死体発見者の主婦を捉えていくダイナミックなクレーンショット! その後もブランチャードが2人の殺し屋に襲撃されるシークエンスなど、デ・パルマ印の“影”や“階段”に彩られ、長回しとスローモーションを駆使したスリリングな場面が少なくない。『ファントム・オブ・パラダイス』の怪優ウィリアム・フィンレイと、『ハリー・ポッター』シリーズのレギュラー女優フィオナ・ショウが終盤に見せつける狂気の形相も圧巻のひと言。そしてデ・パルマといえば『キャリー』『殺しのドレス』から近作『パッション』に至るまで“衝撃のラスト”が十八番だが、本作のラストには“アメリカ犯罪史上最も有名な死体”たるエリザベスの切断死体を活用している。そのサプライズ演出にギョッとさせられるか、ニヤリとするか、ぜひお見逃しなく。 ブラック・ダリア事件から12年後の1959年6月16日、TVシリーズ「スーパーマン」の主演俳優としてお茶の間のヒーローとなったジョージ・リーヴスが自宅で突然の死を遂げた。拳銃による自殺説が有力とされているこの事件を題材にした『ハリウッドランド』は、架空のキャラクターである私立探偵ルイス・シモの調査を通して、リーヴスが死に至るまでの軌跡を忠実に再現したという触れ込みの実録ドラマだ。ハードボイルド・ミステリーの形をとっているが、知られざる“衝撃の真実”が見どころではない。カメラワークや色調共にクラシック・スタイルの端正な映像で語られるのは、スーパーマンのイメージが強すぎて映画界では大成せず、人知れず苦悩を深めていった男の悲劇。当時のハリウッドはテレビの普及などによってスタジオ・システムが揺らぎつつあったが、まだTVドラマは二流役者の仕事と見なされていた。 何より驚かされるのは、リーヴス役のベン・アフレックにまったくスター俳優らしいオーラのようなものが感じられないことだ。リーヴスはスタジオ重役の妻(ダイアン・レイン)との不倫に耽ったり、それなりに華やかな俳優人生を送ったようだが、アフレックの瞳や表情には生彩がなく、動きもやけに鈍い。白黒テレビの時代ゆえに、青と赤ならぬくすんだ灰色のタイツ&マントに身を包んで「スーパーマン」の撮影をこなすシーンなどは、目も当てられないほど痛々しい。本作が製作された2006年はアフレックのキャリアが停滞していた時期で、それがオーラの欠如となって表れたのか、それとも確固たる役作りによるものだったのか、今となっては不明である。いずれにせよアフレックの悲哀漂う演技は、破滅へと向かうリーヴスのキャラクターに見事にはまり、ヴェネチア国際映画祭男優賞受賞、ゴールデン・グローブ助演男優賞ノミネートという栄誉をたぐり寄せた。そしてこの翌年、アフレックはミステリーノワールの秀作『ゴーン・ベイビー・ゴーン』で監督デビューを果たし、のちに『アルゴ』でアカデミー作品賞を受賞。飛躍的な復活を遂げたのだった。 また本作は、エイドリアン・ブロディ演じる探偵シモのキャラクターの負け犬っぷりも強烈だ。妻子と別れ、どん詰まりの日々を送るシモは、金目当てで請け負ったリーヴスの死の調査に深入りするうちに、この孤独なスーパーマン俳優にシンパシーを抱くようになる。すなわちこれは一見対照的な世界に身を置きながらも、本質的に同じ悩みを持つ男たちの魂が共鳴する物語なのだ。この映画には『ブラック・ダリア』のような過激なヌードやバイオレンスもなく、本格的なスリラーや謎解きを期待する人は肩すかしを食らうだろう。しかしある程度の人生経験を積み、ふと“もうひとつの人生”を夢想したりする40代以上の視聴者の心には、ちょっぴり切なく響くドラマに仕上がっているのではあるまいか。 1940~1950年代の混沌としたムードや風俗を今に甦らせた『ブラック・ダリア』『ハリウッドランド』には、現代劇では醸し出せない優雅さと禍々しさがせめぎ合っている。夢という名の虚飾と欲望にまみれた奇々怪々なふたつの事件。それらを生み落としたハリウッドの得体の知れない闇には、まだまだ映画化の題材がいくつも転がっていそうである。■ ©2006 EQUITY PICTURES MEDIENFONDS GmbH & Co.KG? And NU IMAGE ENTERTAINMENT GMBH
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PROGRAM/放送作品
マトリックス レボリューションズ
現実世界でザイオン籠城戦!仮想世界では無限増殖したエージェント・スミスとの最終対決!今、決戦のとき!
前作から難解さを増したシリーズ。深すぎ!だからこそ何度も見たい。見るほどに発見が。ネットでも調べたい。我々を覚醒させる“SF知のアスレチック”ここに完結!かくして「マトリックス」三部作は伝説になった。
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COLUMN/コラム2016.02.15
男たちのシネマ愛④愛すべき、キラキラ★ソフィアたん(2)
なかざわ:では、そろそろ作品の方に話題を移しましょうか。 飯森:まずは「ヴァージン・スーサイズ」【注22】と「ブリングリング」【注23】をセットにしてお話したいと思います。 なかざわ:なるほど。どちらの作品も、ある特定の時期の少女たちに顕著な感受性というものを、ソフィア・コッポラならではの視点から描いているように思えますよね。 飯森:確か彼女って、一時期タランティーノ【注24】と付き合っていたことありましたよね?あれ彼女の方がファンだったんじゃないですか?まぁタラの方にもコッポラ一族とコネクションが欲しかったというのもあったのかもしれませんが。というのも、今回改めて「ヴァージン・スーサイズ」を見て、タランティーノの影響がかなりあるなって気がしたんですよ。 なかざわ:とおっしゃいますと? 飯森:ソフィアたんというと音楽のセンスが良くて、過去のポップミュージックから「よくぞこれを選びました!」という絶妙な楽曲を引っ張り出してくる。それが、その後も彼女の顕著なスタイルであり続けるわけですが、「ヴァージン・スーサイズ」にはタランティーノに共通するような音楽使いの良い意味での“雑さ”がある気がするんですよ。例えば、カットが変わると同時に引用した音楽もぶつ切りに終わらせちゃうとか。「この雑な感じ、70’sっぽくてダサかっこいいっしょ?」というのが’90年代のタランティーノの大発明だったじゃないですか。あの頃は’70年代がリバイバルで流行ってましたから。音楽だけでなく洋服のセンス、車のセンス、テロップや編集の過剰なケレン味なども含め、クール70’sの匂いが妙にタラ臭いんですよ。あれの女子版。まあ時代設定が’70年代の映画だからそうしてるってこともあるのでしょうが。 なかざわ:王道的な名曲とマニアックな楽曲を無造作に混ぜ込むあたりもタランティーノ的かもしれませんね。彼女って、幼少期に当たる’70年代の楽曲は結構王道寄りだけど、思春期に差しかかった’80年代以降の楽曲になると途端にエッジが効いていたりする。そんな選曲の傾向を見ていると、’90年代の申し子だなという印象を受けます。 飯森:それ!僕がタラっぽいと言っているのは、まさにその点なんです。非常に’90年代っぽい。タランティーノのフォロワーというか、ポスト・タランティーノというか。ただ、だから悪いと言っているわけじゃないですよ、「ヴァージン・スーサイズ」は事実上の長編デビュー作ですから、誰かの影響があるのは当然のことだと思います。と言っても、僕の気のせいかもしれませんけどね。 なかざわ:でも間違ってはいないように思いますよ。 飯森:で、この作品。冒頭でナレーションが入って、いきなり映画のオチを明かしちゃうんです。リズボン家の5人姉妹が自殺したと。なぜ彼女たちは自殺してしまったのか…ということを、近所に住んでいた、もしくは学校で同じクラスだった男子たちが、大人になった25年後に回想するというお話なんです。でも、結局その理由は最後まではっきりとは分からない。特に、一番下の妹がリストカットをし、一度は助かったのに結局投身自殺してしまう動機は一番不可解です。 映画開始直後、理由を描く暇もなく早速自殺しようとする。後からも答えは一切描かれない。でも、答えはその娘自身が最初の未遂の時に医師に向かってハッキリと明言してるんですけどね。 で、上のお姉ちゃんたち4人が遺されるわけですが、彼女らも特段に号泣したり精神的に荒れたりなどすることもなく、淡々と日常へ戻ってしまうのも、映画的には控え目すぎる気がするし、およそドラマチックじゃない。男の子たちに誘われて夜遊びなどもするけど、それも大して悪さをするわけじゃない。で、お母さんから厳しく叱られる。でも「厳しく」と言っても常識の範囲内ですよ?どの家でもあれぐらいは怒られる。「キャリー」【注25】の狂った母親みたいではないから、そこにも映画的な大げささは盛っていない。なのに、どうやらそれを苦にして自殺しちゃったみたいなんですよ。4人の姉妹全員が同じ屋根の下で同時に。これは何なのか?と。 なかざわ:唐突で意味が分からないですよね。死ぬほどのことなのか?と。 飯森:でもね、我々は今は分からなくなっちゃったかもしれない。なぜならオジサンになったから。最初に自殺未遂をしでかした妹が冒頭で医者にハッキリ明言してるんですよ、「10代の女の子じゃなければ死のうとした理由は分からない。先生には絶対分からない。オジサンだから」って。これは原作小説にはないから、脚本も書いてるソフィアたんが加えたと思われるセリフなんですが、答えは映画開始直後に出てたんです。「理由は10代にしか分からない」がこの物語にソフィアたんが出した結論なんですよ。 お姉ちゃん達の場合は、夜遊びの罰として外出禁止にされたから、って理由っぽいものが一応あるにはある。でもだからって「死んでやる!」という、その二つの釣り合わなさということは、我々はオジサンだから分かる。そんな損な話はないと。でも、それが分からなかった時期ってあるんじゃないですか?っていうことを描いた映画だと思うんですよ。 もう一方の「ブリングリング」ですが、こちらはある男の子がロサンゼルスに引っ越してきて、一人の中国系の女子と意気投合をする。お互いにお洒落とかファッションが好きなんですよね。この二人が学校帰りに旅行中の知人の家に空き巣へ入ろうということになり、味をしめて次からはパリス・ヒルトン【注26】やオーランド・ブルーム【注27】など有名人の豪邸を狙うようになる。有名人のフェイスブックを見ると「今パリにいます」とか書いてあるけど、それって家が留守ってことじゃん?だったら住所もセレブマップですぐ分かるから、空き巣に入って盗もうよ♪みたいな軽いノリで。そこに他の女子も仲間として加わって、次から次へとセレブの豪邸に忍び込んでは高級ブランド品を盗んでいく。でも、彼らにとっては盗みが本当の目的なんではなくて、ただ単にセレブの自宅やワードローブの中身を見て、友達同士「わー!」「すごーい!」「ステキー!」ってキャッキャやりたいだけなんですよね。そのついでに戦利品も頂いていっちゃう。 なかざわ:それっていうのは、今のSNS文化【注28】はもちろんのことですけれど、若者たちの過剰なセレブ崇拝というのもバックグラウンドにあると思います。ある時期から、アメリカではゴシップ誌を賑わせる“セレブ”と呼ばれる人々が、テレビのリアリティー番組で自分の豪邸や華やかな暮らしぶりを自慢げに披露するようになり、若い人たちがやたらと興味を惹かれて憧れるようになったんですよね。 飯森:とはいえ、興味があるからといって空き巣に入るというのも発想が飛躍している。でも一番理解不能なのは、その犯行をSNSでイエーイ!みたいな感じでアップして自ら晒しちゃう感覚ですよ。それは捕まるに決まってるよね?と。確かに、悪いとは分かっていても衝動が抑えられないってことはあるかもしれない。それは分かる。でも、証拠隠滅するなり何なり自分が逮捕されない悪知恵も普通は働かせるはずですよ。それを、シッポ出さないようにするんじゃなくて逆に自らネットに晒すとは!これもまた、大人になった今なら「バカなクソガキどもめ」と思うだけかもしれないけれど、ある限られた年頃だったら理解できるんじゃない?と感じるんです。 なかざわ:そうですね。人間の死だとか犯罪だとか、そういった重大な事柄に対する想像力の欠如ですよね。モノを知らない若者ならではの無軌道というか。 飯森:かといって、その無軌道をソフィアたんは批判しているようにも見えない。もちろん共感しているわけでも推奨しているわけでもないとは思うのですが。しかし高校生くらいのガキが調子に乗って、ここではそれこそ警察に捕まるような悪いことをしているわけですけれど、刑務所に入れられたら大変だ、家族や周りにも迷惑がかかる、という大人の理性がストッパーにならない年頃ってあるじゃないですか。友達と一緒になって、いいじゃん!やっちゃおうよ!と盛り上がっている時の楽しさ。それを得意気に自慢する楽しさ。つまりは調子ぶっこいている楽しさ。もちろん犯罪行為までは普通いかないけれど、10代の頃を振り返ってみた時に、誰しも多かれ少なかれ身に覚えがある、あの感覚。ソフィアたんはその年代の子供たちにしか見えないであろう世界の“キラキラ感”を描いているんですよ。“キラキラ感”って言葉も作ってみたんですが、これもどうにもオジサン臭いな(笑)。 なかざわ:言うなれば危険な冒険ですよね。一歩間違えれば犯罪に巻き込まれてしまう、もしくはその行為そのものが犯罪になりかねない。でも楽しいからやってしまった。そういう経験がある人は多いと思いますよ。 飯森:それはさっきの「ヴァージン・スーサイズ」も同様で、夜遊びで無断外泊して親から怒られるなんて、「ブリングリング」の空き巣以上に誰にでも経験がありますよね?それが原因で自殺するというのは、一見すると飛躍ですけど、彼女らのような10代だったら共感できるかも知れない。一切の外出を禁じられてしまったことで、姉妹は日々変化していく学校生活や友達関係に参画できなくなってしまう。1ヶ月後に外出禁止が解かれたとき、どんな顔をして学校へ行けばいいのか。長い人生の中で後から振り返れば取るに足らないことですが、いま10代だったらそれがどれほど重大かは、我々も何十年か昔を思い出せば共感できると思うんです。そんなの堪えられない!そうなるぐらいならいっそ死んでしまいたい!って衝動的に思うのも、10代ならありうる。 なかざわ:彼女たちにとっては生き地獄だったのかもしれませんね。 飯森:かといって全然地獄っぽくは描かれてないですけれどね。むしろきれいに描かれている。地獄だから自殺したんじゃなくて、世界がきれいすぎて見えるほど感受性が敏感な年頃だったから自殺しちゃった。だから全編、徹底的にきれい。この映画、とにかく景色がきれいなんですよ。もう異常なんです。25年前の出来事の回想なので、思い出の中の風景のようにも見えるし。美人姉妹の目には世界がこういう風に見えていたのかとも思える。世界がキラキラに描かれているんです。大人にとってはなんの面白みもない住宅街の退屈な風景であっても、10代の女の子の目を通すと、世界はこんなにも輝いて見えるのか!と思うわけです。あるいは、あれは男子たちの目線なのかもしれない。遺された近所の男の子達が、あの25年前の夏の集団自殺は何だったのだろう?と40歳ぐらいになってから思い返す映画なので、男子目線のノスタルジックな美しさなのかもしれない。どちらにせよ、ティーンの頃に我々の目にも確かに見えていたはずの、信じられないくらいの世界の“キラキラ感”を視覚化することに成功しているんです。 なかざわ:確かに、感受性が豊かで多感な時期の記憶というのは、実際よりもかなり美化されて脳裏に焼き付きますからね。 飯森:これを描ける人はソフィアたん以外にはなかなかいない!才能ですね。親のコネだけじゃ無理です。偉大すぎる親父さんでもこれだけは描けそうにない。オジサンだから(笑)。 <注22>1999年制作、アメリカ映画。 <注23>2013年制作、アメリカ映画。 <注24>クエンティン・タランティーノ。1963年生まれ。アメリカの映画監督。「レザボア・ドッグス」(’92)で脚光を浴び、カンヌ映画祭で最高賞パルム・ドールを獲得した「パルプフィクション」(’94)で時代の寵児となる。<注25>1976年制作、アメリカ映画。狂信者の母親に悪魔の子と冷遇されて育った超能力イジメられっ娘のパワーが、イジメのエスカレートにより暴走して大惨劇を引き起こす。<注26>1981年生まれ。アメリカのソーシャライト(社交界の名士)。ヒルトンホテル創業者一族の出身で、お騒がせセレブとしても有名。劇中に登場する自宅は本物。 <注27>1977年生まれ。イギリスの俳優。「ロード・オブ・ザ・リング」(’01)シリーズのレゴラス役でブレイクし、その後も「パイレーツ・オブ・カリビアン」(’03)シリーズや「キングダム・オブ・ヘブン」(’05)などのヒット作に出演。<注28>TwitterやFacebookなどのSNSを利用した生活様式のこと。 次ページ>> 「ロスト・イン・トランスレーション」&「SOMEWHERE」 『ヴァージン・スーサイズ』©1999 by Paramount Classics, a division of Paramount Pictures, All Rights Reserved『ロスト・イン・トランスレーション』©2003, Focus Features all rights reserved『マリー・アントワネット(2006)』©2005 I Want Candy LLC.『SOMEWHERE』© 2010 - Somewhere LLC『ブリングリング』© 2013 Somewhere Else, LLC. All Rights Reserved
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PROGRAM/放送作品
理由
若き黒人死刑囚は冤罪か?それとも…ショーン・コネリー円熟のドンデン返しサスペンス
死刑廃止論者の大学教授が冤罪解明に奔走する前半から一転、後半は思わぬ方向に急展開するという、異なる緊張感を味わえるドンデン返しサスペンス。主人公の娘役で当時11歳のスカーレット・ヨハンソンが出演。
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COLUMN/コラム2017.04.20
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2017年5月】飯森盛良
ソダーバーグによる伝染病パニック映画だが、この“新型インフルのパンデミックで人が死にまくり社会が麻痺して文明社会が一時停止状態におちいる”は、いずれ確実に起きる! 国立感染症研究所のHPには「どの程度可能性があるか、それがいつくるかは、誰にもわからないというのが事実です。しかしながら、インフルエンザ専門家の間では、『いつ来るかはわからないが、いつかは必ず来る』というのが定説」とある。厚労省はHPで死亡者「17万人から64万人」との試算を公表しているが…ただし! 09年1月2日付け産経新聞は「政府(筆者注:麻生政権)は、死者数の見込みを現在の『最大64万人』から上方修正するなど、より厳しい被害想定を立てる方針を固めた。他の先進諸国に比べ、死者数や感染率の見積もりが低すぎるという指摘が専門家らから強く出されたことが理由となった」と報じている。なお、厚労省は自治体に向けて「埋火葬の円滑な実施に関するガイドライン」を策定しており、その中では「感染が拡大し、全国的に流行した場合には、死亡者の数が火葬場の火葬能力を超える事態が起こり」と想定。「火葬の実施までに長期間を要し、公衆衛生上の問題(筆者注:死体山積み野ざらし腐敗)が生じるおそれが高まった場合には、都道府県は、新型インフルエンザに感染した遺体に十分な消毒等を行った上で墓地に埋葬(筆者注:土葬)することを認めることについても考慮するものとする。その際、近隣に埋葬可能な墓地がない場合には、転用しても支障がないと認められる公共用地等を臨時の公営墓地とし」との指針まで示している。一方、農水省は、我々国民に向けて「新型インフルエンザに備えた家庭用食料品備蓄ガイド」を配布しており、その中では「電気、ガス、水道の供給が停止した場合への備えについて」なんて章まで設けている…ヤバい!これはマジでヤバいぞ!! 全国民、この映画を心して見て、もっと本気で怖がって、各自がXデーに備えるべき!!!■ © Warner Bros. Entertainment Inc.