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PROGRAM/放送作品
サハラ 死の砂漠を脱出せよ
トレジャーハンター達が死の砂漠でうごめく陰謀から世界を救う!アクションアドベンチャー映画
映像化不可能と言われていたクライヴ・カッスラーの人気冒険小説を映画化。幻の財宝を求めるトレジャーハンターが世界に迫る危機を救う!出演はオスカー俳優のマシュー・マコノヒーとペネロペ・クルス。
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COLUMN/コラム2017.07.10
廃れゆくミシシッピ河岸の風景と、マーク・トウェインと現代を繋ぐ少年の冒険談〜『MUD マッド』〜07月11日(火)ほか
ウディ・アレンにとってのニューヨーク、M・ナイト・シャマランにとってのフィラデルフィア、ベン・アフレックにとってのボストン、等々、映画監督にとって生まれ育った土地は自作の撮影地になりやすい。何しろ、町のディープな情報に精通しているし、第一、思い入れが半端ないはずだ。 ジェフ・ニコルズの場合はアーカンソーだろう。マイケル・シャノンと初めてコラボした「Shotgun Stories」(07)がアーカンソーで、以後「Midnight Special」(12)はすぐ南のルイジアナ(共にミシシッピ川流域)、同じシャノン主演の『テイク・シェルター』(11)はやや北上してエリー湖に接するオハイオだ。場所は微妙に異なるがすべて水辺であることは偶然だろうか?ミシシッピ川とその支流の1つ、アーカンザス川に接するリトルロックで育ったニコルズが、同じエリアの川縁にハウスボートを浮かべて暮らす人々にフォーカスした『MUD マッド』は、彼の故郷への、川への思いが最も顕著な作品だ。 14歳の少年、エリスはアーカンソーの河岸にあるハウスボート(ボートハウスとも言う)に住み、川で採った魚をトラックに乗せ、家々に売りさばく父親の手伝いをしている。父親はボートで川に出て、魚がいそうなスポットに着くと潜水服に着替え、川底まで潜ってそこで蠢く魚たちに狙いを定める。まるで、水温と水の濁りまでが観る側に体感として伝わって来るような冒頭のシーンは、監督であるニコルズの原体験がベースになっている。ノースカロライナ大学の芸術学部で映画製作を学んでいた頃、お手製の潜水服を着てムール貝を採るミシシッピ流域に住まう漁師たちの写真集に惹きつけられた彼は、それをきっかけに流域のライフスタイルと歴史、そして、現状について調査を開始したのだ。 すると、彼の親族の多くがハウスボートの住人であり、彼らの住まいは法律上、住人が居住権を有する資産とは認められず、転出後、破棄される運命にあるという厳しい現実に直面する。それはミシシッピ流域に限らず、アメリカ南部全体に広がる伝統的ライフスタイルの消失を意味していた。劇中で、エリスの父親が漁師として充分な収入が得られず、本来ボートの持ち主である母親が転出を望む以上、川での暮らしは断念するしかないと息子に語るシーンには、そんな流域住民の逃れられない宿命が描き込まれているのだ。 南部独特の泥で茶色く濁った水、アーカンザス川が合流する大河ミシシッピに浮かぶ砂の小島、小島の沼に巣くう毒蛇の群れ。それらは、監督が美しくも恐ろしい故郷の自然に対して捧げた映像のオマージュに他ならない。その最たるものが、川の氾濫によって木の上に持ち上げられたままのボートだ。そして、主人公のマッドはそのボートで秘かに生を繋ぐ謎めいたアウトサイダーである。 仲違いが絶えない両親の目を盗み、こっそりマッドに食料を調達するエリスが、そのうち、失った初恋の痛みを、女絡みで犯罪を犯し、命を狙われる身のマッドと共有して行くプロセスは、世代も背景も異なる2人を主軸にすることで、甘くほろ苦いだけの初恋ものとも、単なる犯罪ドラマとも違う入り組んだ和音を奏でていく。さらに、男子にとっての父権不在、単純に善悪では判別できない男女の関係性と、2層3層になった脚本は自分自身の体験をベースに監督自らが認めたもの。風景と人間関係が瑞々しく、且つ強烈に観客の心に突き刺さってくるのはそのためだ。 ミシシッピを舞台にした少年の冒険談と言えば、誰もがマーク・トウェインを思い浮かべるはず。トウェインもミシシッピ流域で少年時代を過ごし、代表作の『トム・ソーヤーの冒険』や『ハックルベリー・フィンの冒険』は少年期の体験がベースになっているからだ。また、そのペンネーム(本名はサミュエル・ラングホーン・クレメンズ)はトウェインが川を航行する蒸気船で働いていた頃、水深を測る担当者が船底が川底に激突するすれすれの深さを船長に知らせる時に叫ぶ、「Mark Twain(2つめのマーク)」から取ったものだとか。Twoを南部訛りで発音するとTwainになるらしい。 トウェインとニコルズの出会いは彼が13歳の頃に遡る。ある日、学校の教室で『トム・ソーヤーの冒険』を秘かに読みふけっていたニコルズは、特に文中にあったあるフレーズに強く触発される。そこには、主人公のトムが川を泳いで河口に浮かぶ無人島に渡り、昼寝をするという、何とも自由で幸せな情景が独特の文章を用いて書かれていたのだ。それが後に『MUD マッド』のプロット作りに繫がったのは言うまでもない。 トウェインの作品に登場する人物にはすべて実在のモデルがいると言われる。トム・ソーヤーはトウェイン自身で、ハックルベリー・フィンは近所に住んでいたトム・ブランケンシップという少年がモデルだとか。そう、『MUD マッド』ではサム・シェパードが演じている役名と同じだ。トウェインは回想録の中でトムについて、「他人に縛られることなく自由に生きる町で唯一の人間」と語っているが、それは名優シェパードによって見事に具現化されている。マッドとエリスの交流を終始対岸で見守りつつ、クライマックスでは俄然存在感を発揮するアウトロー像は、この物語が最後に行き着く失われた父親のイメージを体現して余りあるものがあるのだ。 ニコルズは脚本執筆段階からトム役にサム・シェパードを想定していたというから、そのハマリ役ぶりは半端ないし、同じく『真実の囁き/ローン・スター』(96/未公開)を観て以来、監督がマッド役に決めていたというマシュー・マコノヒーの存在感が傑出している。犯罪を犯しても尚、自らの思いを全うしようとする傍迷惑なほど頑固で純粋なキャラクターは、確かに『真実〜』で演じたメキシコ国境の町で発生した人種問題が絡んだ難事件に挑む若き保安官に通じる透明感がある。 この後、『ダラス・バイヤー・クラブ』(13)での減量によるメソッド演技でオスカー以下数多くの演技賞を受賞し、今や役のためなら体型と見かけを変えられる、否、まるで"肉体改造依存症"に陥っているかのようなマコノヒーだが、『MUD マッド』は彼がまだ美しくいられた時代の最後を飾る作品。物語の後半ではあんなに大切にしていたアイボリーのシャツを脱ぎ捨て、鍛え上げた上半身を開示してしまうナルシストぶりは、当時も今も変わらない性癖なのだが。 マコノヒー、シェパード、ヒロイン役のリース・ウィザースプーン、熾烈なオーディションによって選ばれた子役たち、そして、マッドを追いつめる組織のボスを演じる悪役の権化、ジョー・ドン・ベイカー等を巧みに配置し、気鋭の監督が故郷への立ちがたい思いを注入した『MUD マッド』は、廃れゆくアメリカ的風土への、そして失われた少年時代へのオマージュとして、重ねて味わい深い作品だ。■ © 2012, Neckbone Productions, LLC.
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PROGRAM/放送作品
サラマンダー
邪悪な巨大竜の前に人類は滅亡してしまうのか?クリスチャン・ベイル主演のSFパニック・スリラー
現代に蘇った邪悪な巨大竜サラマンダーと人類の死闘を描く、SFパニック・スリラー。出演は『ダークナイト』のクリスチャン・ベイルと『評決のとき』のマシュー・マコノヒー。最新VFXを駆使した映像は迫力満点。
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COLUMN/コラム2016.10.13
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2016年11月】キャロル
80年代~ウォール街でウルフ(狼)と呼ばれた実在の人物ジョーダン・ベルフォートの回顧録『ウォール街狂乱日記』を映画化。若くして巨万の富を築いた証券マンの栄光と転落をレオナルド・ディカプリオ&マーティン・スコセッシ監督が5度目のタッグで描く。あらすじはというと・・・学歴もコネもない22歳の青年ジョーダン・ベルフォートは、お金持ちになりたい!という夢を抱きウォール街で株式ブローカーとして働き出します。ところが働き始めてすぐに「ブラックマンデー」と呼ばれる大恐慌が起きて会社は倒産。そこでジョーダンは仲間を集めて証券会社を設立し、巧みな話術を活かしたセールストークと詐欺まがいの株取引で大金を稼ぐようになります。会社を大企業に成長させて自らも億万長者となったジョーダンは、ドラッグとセックスまみれの豪遊生活に明け暮れる・・・。結局、派手にいろいろやりすぎて警察から目を付けられ、投資詐欺で逮捕され服役するのですが・・・その顛末を描いたお話です。(ちなみに出所した彼は、自伝(この映画の原作)を書いたり、セールストークの講演会とか開いたりして現在も大儲けしているそうです。さっすが~!なのか?!)本作は、まぁ、つまるところ酒を浴びまくりドラッグをキメまくり人を騙しまくってカネを儲けまくるという、よくぞ映像にしたものだと思うほど、とにかくクレイジーな映画なのです。(っていうかこれが実話だってことに驚愕!!)それに加えてディカプリオが、ロウソク垂らしてアヒアヒする全裸SMプレイで完全ドMになったり、ドラッグが効き過ぎて涎ダラダラ状態で床を這いつくばったり・・・レオ様ってば、これはいくらなんでもやりすぎでしょ(それほどアカデミー賞欲しいのね?)・・・と思わずにはいられない史上最大級の崩れっぷりが、本当に、スゴイ。そしてこのクレイジーすぎる暴れっぷりラリっぷりは、実在のジョーダン・ベルフォート本人から「実際はこうだった」とアドバイスをもらって再現したもので、本当にぜーんぶ実際に起こった話だっていうんだから、驚きを通り超して呆れてしまいます!!とにかく百聞は一見にしかず。マーティン・スコセッシ監督が「彼は何でも出来る」と絶賛した、レオナルド・ディカプリオの超スゴ演技を11月のザ・シネマで是非ご覧ください!! COPYRIGHT © 2016 PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED.
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PROGRAM/放送作品
恋するレシピ ~理想のオトコの作り方~
最高のパートナーはダメ男!?『SATC』のサラ・ジェシカ・パーカー出演のロマンティック・コメディ
『10日間で男を上手にフル方法』のマシュー・マコノヒーと、『セックス・アンド・ザ・シティ』のサラ・ジェシカ・パーカーが共演したロマンティック・コメディ。サラ・ジェシカ・パーカーが等身大の女性を好演。
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COLUMN/コラム2015.09.29
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2015年10月】キャロル
『ペリカン文書』、『依頼人』のベストセラー作家ジョン・グリシャムの処女作を映画化。人種差別問題の絡んだ事件を通して正義を問う法廷ドラマ。サミュエル・L・ジャクソン、ケヴィン・スペイシーら実力派俳優に囲まれながらも、当時まだ若手だったマシュー・マコノヒーが負けず劣らずその実力を発揮。本作が出世作となり、一躍スターダムに躍り出た。近年“演技派”としてめざましい活躍のマシューだが、本作を観るとやっぱり彼は昔から実力演技派だったのだなと思わざるを得ない。特に最後のスピーチ!あれは演技じゃなく、マジでマシューの言葉なんじゃないかとさえ思わせるほど心揺さぶられる。今キャストを見てみるとその豪華な顔ぶれに驚くのだが、ドナルド・サザーランド、クリス・クーパーらの名バイプレイも見逃せない!ぜひ10月のザ・シネマでご覧ください。 © 1996 Warner Brothers Productions, Ltd. and Regency Entertainment (USA), Inc. in the U.S. only. © 1996 Warner Brothers Productions, Ltd. and Monarchy Enterprises S.a.r.l. All rights reserved.
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PROGRAM/放送作品
10日間で男を上手にフル方法
男にフラれたい女と、女をフッてはいけない男。そんな男女の交際爆笑10日間を描くラブ・コメディ
10日間で男をフリたい女性編集者と10日以内に恋人を作りたい広告マンの、笑える駆け引きを描いたラブ・コメディ。男に嫌われるためのムチャクチャな言動を実践するケイト・ハドソンの姿が逆にキュート。
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COLUMN/コラム2012.03.01
映画の中のニューヨーク
■映画を彩る街・ニューヨーク もしもアカデミー賞にロケーション部門があったら、ニューヨークの街はノミネートのほとんどを独占してしまうことだろう。それだけたくさんの映画の舞台となり、魅力的な姿を映し出して来たニューヨーク。この街のあの場所が描かれて来た舞台裏を知ると、映画の中のニューヨークをより楽しめるようになる。いわゆるニューヨークと呼ばれるエリアは、マンハッタン島を中心に合計5つの区域で成り立っている。中心にあるマンハッタン島と隣のブルックリンには3本の橋が渡っており、最も南に位置し、最も美しいと言われ数々の映画でも描かれてきたのがブルックリン橋(2)。 アメリカで屈指のコメディ俳優、ベン・スティラーが監督した『僕たちのアナ・バナナ』ではマンハッタンから見て橋の向こう側、ダンボ地区にあるブルックリン・ブリッジ・パーク(3)がロケ地として使われている。映画同様、このあたりからはマンハッタンの美しい摩天楼を眺めることができるため、昼夜問わず多くのカップルや観光客が訪れる。 また、『10日間で男を上手にフル方法』にはスタッテン・アイランド(4)へ行くシーンがあるが、マンハッタンからスタッテン・アイランドへは無料のフェリーでしか渡ることができず、ブルックリンとスタッテン・アイランドを渡すペラザノナローズ・ブリッジ(5)が結んでいる。 タクシーで去っていくケイト・ハドソンをマシュー・マコノヒーが走って追いかけるラストシーンはブルックリン橋の上。通常、徒歩や自転車は車道の上にある橋を渡るのだが……。 5月に放送する『セックス・アンド・ザ・シティ』でも、仲違いしたミランダとスティーブがこの橋の上で夫婦としてやり直すことを誓う感動的なシーンが繰り広げられる。 ■マンハッタン内に星の数だけあるホテル群も、映画の舞台として大事な役目を担っている。 例えば『ホーム・アローン2』のザ・プラザ(6)、イーサン・ホーク監督の、タイトルもそのままの『チェルシー・ホテル』(7)など単なるロケ地以上の存在感を示すものも。 その中で、最も多く映画の舞台に使われたホテルのひとつは、間違いなくウォルドルフ=アストリア・ホテル(8)だろう。 ミッドタウン東側のグランド・セントラル駅に近いこの高級ホテルには、そうそうたる人物が宿泊していたとしても有名。マリリン・モンローやフランクリン・D・ルーズベルト大統領、昭和天皇や吉田茂も宿泊者リストに名を連ね、『Jエドガー』(クリント・イーストウッド監督)で映画化されたハーバート・フーヴァーはウォルドルフ=アストリアに居住していたことがある。 いまでもこのホテルでは映画関連の記者会見や取材場所として使われることが多く、ジャンケットと呼ばれる映画のプレスデーが開催される週末には、黒塗りのリムジンがホテル正面玄関に横付けされ、スターたちがホテル入りする。 マンハッタン内でプレスデーが行なわれるホテルは限られており、ウォルドルフ=アストリアで張っていればスターに会える確立も高そうだ。 そういった外交や映画界とのつながりが深いためか、このホテルは映画の中にもたびたび登場する。 フランシス・フォード・コッポラ監督の『ゴッドファーザーPART II』でも使われているが、これは実在したマフィアたちがウォルドルフ=アストリアを定宿にしていたという逸話からきているのだろう。 主演のエディ・マーフィ自身もよくこのホテルに宿泊していたことから『星の王子ニューヨークへ行く』でもアキーム王子が泊まるホテルとして登場する。『メイド・イン・マンハッタン』ではジェニファー・ロペスがメイドとして働くホテルに、『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』ではアル・パチーノ演じる盲目の軍人が宿泊、そして『ウディ・アレンの重罪と軽罪』の舞台にもなった。 そのウディ・アレンは彼が住むアッパーイーストにある高級ホテル、カーライル(9)のバーにて彼が映画の撮影をしていない秋~春にかけて毎週月曜日クラリネットを吹いているので、彼を間近で見るチャンスかも。 ■ ニューヨークの真ん中に位置する巨大な公園、セントラル・パーク(10)も映画の舞台としていろいろな顔を見せて来た。 ここで撮影された映画は数知れず、セントラル・パークのすぐ南に位置するザ・プラザが舞台の『ホーム・アローン2』(6)、公園の西側にある自然史博物館(11)が舞台の『ナイト・ミュージアム』(余談だが、主演のベン・スティラーは子供の頃、この博物館のすぐ近くに住んでいたそうだ)、そして紅葉のセントラル・パークの美しい景色が見られる『オータム・イン・ニューヨーク』など。 『僕たちのアナ・バナナ』でエドワード・ノートンにジェナ・エルフマンが「ニューヨークがこんなに美しいなんて」と言うシーンで、セントラル・パーク内の池にかかるボウ・ブリッジが使われている。ラスト、3人が仲良く歩くシーンはセントラル・パーク東側にあるメトロポリタン美術館(12)の屋上にある彫刻ガーデンだ。 そして、ちょうどセントラル・パークを挟んだ西側の72丁目に位置するのが高級アパートメント、ダコタ・ハウス(13)。この高級アパートの名を世界中に広めたのは1980年12月8日に起きたジョン・レノン銃撃事件だろう。 ジョン亡き後、彼が住んでいた部屋から眺めることができる場所にストロベリー・フィールズのモニュメントが作られた。いまでもこのアパートに住むオノ・ヨーコによって建てられた慰霊の地には多くのファンが訪れ「イマジン」を口ずさんでいる。 ダコタ・ハウスは映画の舞台としても多くの作品に登場しており、ロマン・ポランスキーの『ローズマリーの赤ちゃん』ではミア・ファロー演じるローズマリーと夫(ジョン・カサヴェテス)が引っ越してくるアパートとして、『バニラ・スカイ』ではトム・クルーズが住むアパートとして登場している。 また、同じくニューヨークの高級住宅地を舞台にした『パニック・ルーム』も瀟酒なタウンハウスが舞台となっている。地価の高いニューヨーク、特にマンハッタン内では高層アパートではなく低層のタウンハウスに住むことができるのは限られた極一部の富裕層のみ。こういった家に住む人々の身に起きる奇怪な出来事……というのが「○○○は見た」的な興味を掻き立てる要因のひとつになっているのかもしれない。 ■ ブルックリン橋、高級ホテル、セントラル・パーク、高級アパートメント、そのどれもがニューヨークらしく、ここにしかない情景として映画を物語るのに重要な役割を担っている。 同じロケ地でも全く違った見え方がする映画を見比べてみるのもおもしろい。いつかニューヨークを旅したときに、映画の中で観た景色が思い浮かぶというのも、映画と現実がリンクする素敵な経験となるだろう。■
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PROGRAM/放送作品
U-571
ドイツ軍の最新鋭潜水艦に潜入せよ!第二次大戦の史実を基に創造したリアルな戦争アクション
第二次大戦で実際に行われた暗号機奪取作戦をヒントにした戦争アクション。ドイツ軍最新鋭潜水艦に潜入した米軍兵の死闘を、実物大のレプリカ・セットで舞台を再現するなど、リアリティ重視の骨太な演出で描く。
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COLUMN/コラム2018.12.10
『コンタクト』と『コスモス(宇宙)』の間にあるもの(ネタバレあり)
■科学と信仰の融和をうながす高度なSF映画 1997年に公開された『コンタクト』は、我々が地球外知的生命体と接触したときに起こりうる事態に熟考を巡らせ、科学と信仰というテーマを尊重して扱ったハイブロウなSF映画だ(それはSFという言葉ですらも陳腐に感じさせる)。『2001年宇宙の旅』(1968)と同様、膨大な科学的根拠に基づく構築がなされ、このジャンルに知性を回復させている。その価値は公開から20年の間にスペースサイエンスが更新され、同テーマを受け継ぐ優れた後継作(『インターステラー』(2014)『メッセージ』(2016))があらわれようとも、まったく色褪せることはない。 ジョディ・フォスター演じるエリナー"エリー"・アロウェイは「我々は宇宙で一人ではない」という信念のもと、SETI(地球外知的生命体探査)計画を推進する電波天文学者。彼女は文明を持つエイリアンの存在に確信を抱いており、その実証を得るべく地球外からの信号をスキャンし、メッセージの受信を待機している。 そしてある日、ついに彼女は26万光年彼方のヴェガから発信される素数信号をキャッチし、信号は解読へと運び込まれていく。電波の中には惑星間航行を可能にするポッドの設計図が仕込まれており、それを建造してエイリアンとのコンタクトを図ることになるのだ。だがこうした行為が、世界における科学と信仰の議論を活性化させていくのである。 ■カール・セーガン博士の信念 物語の最後、エリーは子ども時代からのクセだった膝をかかえて座る姿勢をやめ、足を伸ばしてグランドキャニオンの岩場に座っていることに観る者は気づかされるだろう。彼女のこのクセは幼少時代、父親の葬儀のときから兆候を見せている。つまり父の死は神のみぞ知る運命ではなく、過失なのだというエリーの宗教的懐疑論者としての立場を体現するものだ。プロローグでその座りかたをしなくなったということは、彼女の心境の変化を暗示している。 ポッドに乗り込んだエリーは知的生命体の存在を示す驚異的な体験によって、科学者としての合理性だけでなく神秘主義を受け容れていく。そして「真理を求める」という点において科学と信仰は共通なのだと、映画は両者の融和を唱えて終わるのである。 『コンタクト』の物語が美しいのは、こうして映画が広大な宇宙への探求や、宗教科学の論議といった大きな物語を、主人公の「自己探求」というミニマルな主題ヘと換言していく点にある。物語の冒頭、無限に拡がる宇宙が幼少時代のエリーの瞳へとシームレスに重なるシーンで、物語は先述の要素を早い段階から示しているが、それを布石として最後を締める円環構造がきわめて美しく、そして洗練されている。 なによりもこの「自己探求」は、原作者であるカール・セーガンが強く唱えていた信念でもある。自身が構成し進行を務めた宇宙科学ドキュメンタリー『コスモス(宇宙)』(1980)を筆頭に、メディアを通じて地球外知的生命体の推測にあらんかぎりの可能性を感じさせてくれた稀代の天文学者は、自身の原作小説をもとにしたこの映画にアドバイザーとして関わっている(セーガン博士は本作公開前の1996年に死去)。 『コスモス』は氏の天体的な理想や理論を拡げ、それを観ている視聴者に宇宙に対する目を見開かせたテレビ番組だ。恥ずかしながら少年時代の筆者もそのひとりだが、そうした種の人間にとって『コンタクト』は、エリーの「自己探求」を、より感動的なものとして捉えさせてくれる。 というのも、この番組の最終章となる「地球の運命」の中で、セーガン博士は地球外知的生命体の可能性について、 「宇宙では化学元素や量子力学の法則も共通であり、生物はその同じ法則のもとに生息しているはずだ」 と仮定し、生物構造や言語が異なる宇宙人のメッセージを解読する方法として、そこには科学という共通の言語があると雄弁に語っている。そして知性を持つ生命体の誕生を探求することは、ひいては地球人の存在を紐解くことへとつながるとセーガン博士は結ぶ。 すなわち知的文明を探す旅は、私たち自身を探す旅でもあるのだ、と——。 『コンタクト』は、このようにセーガン博士の原作を元にしながら、同時に氏の信念に基づく製作がなされ、偉大な天文学者へのあらん限りの賛辞にあふれている。ちなみに映画の最後にエリーが砂を手にするが、これは「宇宙への探求は、広大な砂場のたった一粒を探すようなもの」という『コスモス』の作中で幾度となく繰り返されたメッセージの暗喩だ。 ただ本作について語るとき、劇中に出てくる奇異な日本描写などの瑣末に目を奪われ、我が国ではいまひとつ肯定的な意見に乏しい印象がある。また同時期の公開作に『ロストワールド/ジュラシック・パーク』や『タイタニック』(1997)といった話題作が目白押しだったことから、これらの間に埋もれたようにも感じられ、正当な掘り起こしも浅いまま現在に至っている。加えて後年、本作の映画化初期プロジェクトに関わっていたジョージ・ミラー(『マッドマックス』シリーズ)が「わたしのやろうとしていたものよりもワーナーは安全な製作をとった」とする発言などもあり、風向きもいまひとつ良好とは言えない。なので、自分こそが本作最大の理解者であると主張するつもりは毛頭ないものの、ゼメキス版『コンタクト』の復権に少しでも貢献できればさいわいである。 ■他作に散見される『コンタクト』の影響 そんな『コンタクト』だが、個人的には経年をへて、その価値を実感することがある。それは本作を構成する要素が、後続作品にエッセンスとして流用されているところだ。 実近だと2016年に公開され、怪獣ゴジラをハードに再定義した傑作『シン・ゴジラ』にそれを見いだすことができる。たとえば同作の劇中、ゴジラの擁護を唱えるデモ団体が官邸前で反対派と対立するシーンは、『コンタクト』でVLA(超大型干渉電波望遠鏡群)に押し寄せる運動団体の描写や、ひいては科学者と宗教家の対立を彷彿とさせるものだし、矢口(長谷川博己)に会いに来た米国特使のカヨコ・パターソン(石原さとみ)が着替えをせずに横田基地に来たのだと告げ「ZARAはどこ?」とファッションブランドを訊ねるシーンは、同作で政府と顧問団との懇親パーティに出るため、エリーがコンスタンティン調査委員(アンジェラ・バセット)に「素敵なドレスを売っているブティックを知らない?」と訊ねるシチュエーションからの影響が指摘できる。 なにより受信電波から抽出された装置の設計図が、平面ではなく立体で構成されるものだったという設定は、ゴジラの構造レイヤーの解析表が立体によって解読がなされたところと瓜二つだ。それらをもって『シン・ゴジラ』が『コンタクト』からエッセンスを拝借したと主張するのは短絡的だが、数多くのクラシック映画からの引用が見られる『シン・ゴジラ』だけに、『コンタクト』もそれらのひとつとしてあるのを否定することはできない。 しかし、こうしたアイディアの共有はとりもなおさず同作の価値を立証するもので、むしろ『コンタクト』が他者に影響を及ぼす優れた作品だという論を補強するうえで心強い。庵野秀明総監督は、とりわけ強力な支援者として賛辞を贈りたい気分だ。『コンタクト』の劇中「わたしたちは孤独ではない」と唱えたエリーのように。◾︎ © Warner Bros. Entertainment Inc.