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ゲッタウェイ(’72)
バイオレンスの鬼ペキンパーの真骨頂!マックィーンの代表作!そして、ガンアクションの最高傑作!!
お尋ね者夫婦の逃避行をマックィーンとアリ・マッグローが演じた傑作アクション。クライマックスのショットガンによる銃撃戦はペキンパー演出の象徴的シーンであり、かつアクション映画史に残る名シーンだ。
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COLUMN/コラム2018.02.15
「男と女」の間に横たわる“裸の真実”を、ロバート・アルドリッチ監督が2つの世界を鋭く対比させながらソフト&ハードに追求した異色のネオ・ノワール『ハッスル』~2月5日(月)ほか
■祝ロバート・アルドリッチ監督生誕100周年 今年2018年は、1918年に生まれ、1983年にこの世を去ったロバート・アルドリッチ監督の生誕100周年にあたる。 アルドリッチ監督といえば、文字通りの戦場を舞台にした『攻撃』(1956)や『特攻大作戦』(1967)などの戦争映画をはじめ、『アパッチ』(1954)、『ヴェラクルス』などの西部劇、映画業界そのものを物語の舞台に据えた『悪徳』(1955)、『女の香り』(1968)などのハリウッド内幕もの映画、灼熱の砂漠での集団サバイバル劇『飛べ!フェニックス』(1966)、大恐慌下の貨物列車を舞台に無賃乗車の帝王と鬼車掌が対決を繰り広げる『北国の帝王』(1973)、そして、女子プロレスの闘技場のリングを舞台にした遺作の『カリフォルニア・ドールス』(1981)に至るまで、さまざまな苦境の中で、自らの意地と誇りを賭けて必死に闘い続ける主人公たちの姿を描き続けた活劇映画の屈指の名匠。 昨年、やはり彼の代表作の1本である戦慄のゴシック・ホラー『何がジェーンに起ったか?』(1962)で初めて競演し、劇中の物語のみならず、製作現場やその舞台裏においても凄まじい確執と対立劇を繰り広げることとなった往年のハリウッドを代表する2人のスター女優、ベティ・デイヴィスとジョーン・クロフォードの壮絶なライバル対決を、アルドリッチその人も主要登場人物の1人に配しながら描いた海外ドラマ『フュード/確執 ベティ vs ジョーン』(2017)が、全米や日本のBSでも連続放送されて話題を呼んだ。 今回ここに紹介する『ハッスル』(1975)は、アルドリッチが、彼の映画史上最大のヒット作となった『ロンゲスト・ヤード』(1974)に続いて、当時人気絶頂だったバート・レイノルズと再び監督・主演コンビを組んで放った一作。しかしこの『ハッスル』に、刑務所の囚人と看守たちがそれぞれアメフト・チームを結成して真っ向から激突する、『ロンゲスト・ヤード』風の単純明快で痛快無類の娯楽活劇を期待すると、きっと肩すかしを食うに違いない。 『ハッスル』は、彼の映画にはきわめて珍しい本格的な男女のラブ・ストーリーに、刑事ドラマの要素が絡み合った二重の物語構成となっていて、一見それがうまく一つに融合しないまま、全体的に真っ二つに分裂しているような印象を観る者に与え、なかなか簡単に一言で説明するのが難しい、何とも奇妙で厄介なアルドリッチ映画なのだ。 もともと本作は、前作『ロンゲスト・ヤード』の大成功に気を良くしたアルドリッチとレイノルズが共同で製作会社を設立し(それぞれの名前、ロバート(Robert)とバート(Burt)を掛け合わせて、ロバート(RoBurt)・プロと命名された)、先にスティーヴン・シェイガンの脚本を読んだレイノルズが、気に入ったラブ・ストーリーがあると、アルドリッチに映画化の話を持ちかけたところから、この企画はスタートした。 その物語や人物設定は少々変わったユニークなもので、ここで恋愛劇を繰り広げることになる男女はそれぞれ、ロス警察の警部補と高級娼婦という間柄。当初の脚本では、警部補たる主人公と同棲中の恋人はアメリカ人となっていたものの、主人公が、娼婦である彼女とさらに深く踏み込んだ真剣な関係を築くべきかどうか思い悩むという設定を、保守的で旧来の価値観に囚われたアメリカ人の一般観客にすんなり受け入れさせるには、ヒロインを、アメリカ人とはまた別の道徳観念を持つ外国人にした方が有効で得策、とアルドリッチは考え、当初の設定を思い切って改変することを決断。かくしてレイノルズの相手役のヒロインに起用されたのが、その類い稀なる美貌とエレガンスを武器に次々と名作、話題作に出演し、当時は無論のこと、今日もなおフランス映画界を代表するトップ女優の座に君臨し続けるカトリーヌ・ドヌーヴだった。 ■自由奔放な恋を謳歌・擁護する女ドヌーヴ 当時の彼女は30代を迎えたばかりで、成熟した大人の女性の魅力が全身からこぼれんばかり。先に鬼才ルイス・ブニュエルの傑作『昼顔』(1966)では若き人妻にして娼婦という大胆な役柄を妖艶に演じるなど、数々の映画で底知れぬ女の魔性を発揮する一方で、シャネルの香水の広告搭やイヴ・サン=ローランのファッション・モデルとしても活躍し、抜群の人気と名声を誇っていた。 そしてまた、ドヌーヴといえば、つい最近、セクハラをめぐる論争に一石を投じて世間の耳目を集めたことも、記憶に新しいところ。少し遠回りになるが、やはり本作とも少なからず関連する出来事なので、ここでできるだけ手短に(とはいえ、元の文意を歪めたりしてあらぬ誤解が生じないよう慎重に)、それについて振り返っておくことにしよう。 昨秋、ハリウッドの大物プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインのセクハラ疑惑が浮上して以降、SNSやメディアを通じてセクハラを告発するムーブメントが沸き起こり、全米の映画や芸能界のみならず、世界的にその動きが波及して加速・過熱化するなか、今年の1月9日、フランスの新聞「ル・モンド」が、その行き過ぎに対して危惧を表明する共同の声明文を、著名な作家や文化人ら、フランスの100人の女性たちの連名で掲載。レイプは犯罪である、とはっきり断った上で、しかし、男性が女性に言い寄ること自体は罪ではないし、そのことの自由に対してもっと寛容であるべきだ、とする趣旨のこの記事に、ドヌーヴも賛同してその100人の中に名を連ねていたが、これがさらなる論議や大きな反発を招く事態に。 かくしてドヌーヴは、翌週1月14日付の「リベラシオン」紙にあらためて単独で公開書簡を送り、記事の中にセクハラをよしとすることなど何も書かれていないし、そうでなければ自分も署名などしていなかった、と弁明。そして、誰もが皆、自らを裁判官や陪審員、死刑執行人のように振る舞う権利を持つと感じ、SNS上での単なる非難が、処罰や辞職、そしてしばしば、メディアによる弾劾裁判へと通じてしまう時代風潮はどうにも好きになれない、自分はあくまで自由を愛するし、将来も愛し続ける、と従来の立場を堅持した上で、先の「ル・モンド」の記事に感情を傷つけられたかもしれないすべてのセクハラ被害の当時者たちに対してのみ、謝罪を表明した。 最近の一連のセクハラ告発をめぐる大きな議論は、きわめてデリケートで難しい問題ではあり、この狭い紙幅の中でそう簡単に要約・紹介できる類いの代物ではないので、ここから先はぜひ各自でさらなる情報収集に努めて、より正確で幅広い問題の把握と判断をお願いしたいが、いずれにせよ、今回の新たな騒ぎで、「男と女」をめぐる、お国柄や宗教、歴史や文化・社会的背景の違いによる、その人それぞれの価値判断や道徳観念・倫理感の違いが改めて浮き彫りとなり、『ハッスル』のヒロインにドヌーヴを思い切って起用したアルドリッチの判断は、確かに的を射たものであったことが、はからずも今日改めて証明された、といえるかもしれない。 かくして実現したレイノルズとドヌーヴという米仏の男女の人気スター同士の顔合わせは、それなりに功を奏し、この『ハッスル』は、前作『ロンゲスト・ヤード』ほどの大ヒットには及ばなかったものの、それでも全米での興行収入が1000万ドルを突破し、商業的に充分な成功を収めることになった。 ■男と女、嘘つきな関係 アルドリッチ自身、この『ハッスル』は何よりもまず、警察官と高級娼婦との間で繰り広げられるユニークなラブ・ストーリーであると、インタビューの場ではことあるごとに語っていて、さらにはドヌーヴをヒロインにキャスティングできたことが、この映画にとっては大きかったと強調している。しかし、従来のアルドリッチ映画ファン、そしてまた、現代の観客がこの『ハッスル』の中におけるラブ・ストーリーのパートを目にする時、それでもなお、物語や人物の初期設定自体にどうも根本的な誤りがあるのではと、つい困惑と違和感を覚えざるを得ないだろう。 先にも軽く述べた通り、レイノルズがこの映画の中で演じるのは、ロス市警の警部補。彼は、なかなか正義が報われない今日の腐敗した社会にやるせない思いを抱きながら、日夜職務に励む一方で、ドヌーヴ扮するフランス人の美しい高級娼婦と目下同棲中。かつて妻がよその男と不貞を働き、裏切られた苦い経験を持つバツイチのレイノルズは、ドヌーヴをそれなりに愛してはいるものの、2人の繋がりはあくまで肉体関係のみと割り切って、お互いの仕事には不干渉でいることを取り決め、彼女から、あなたさえそれを望むなら自分の商売はやめても構わない、と結婚を迫られても、煮え切らない態度を示すばかり。 それでいて、古き良き時代の懐メロや映画をこよなく愛する昔気質のセンチメンタリストであるレイノルズは、いつかドヌーヴと2人で自らの思い出の地ローマへと旅立つのをたえず夢見ていて、またある時は、近くの映画館で上映中のフランス映画の人気作『男と女』(1966)を彼女と一緒に見に行って、甘美で切ない恋物語の世界に浸り込む。しかも、この『ハッスル』の中にレイノルズとドヌーヴが本格的に絡む濡れ場などは一切画面に登場せず、その代わりに、同じ一つ屋根の下でドヌーヴが目には見えない他の男性顧客たちを相手に長々とテレフォン・セックスの会話に励むのを、そのすぐ脇からひとり指を咥えて眺めて悶々とするレイノルズの姿を、ひたすらキャメラは追い続ける始末なのだ。 これでは、そのさまをじっと辛抱強く見守る我々観客もついモヤモヤイライラして、2人のどっちつかずの曖昧な恋愛関係がどうせ長続きしないことは、はじめから分かり切ったことだろう、それに第一、当人たちの感情はさておいて、本来、法の番人たる警部補が娼婦と同棲中であるという事態が外部に知れたら、それだけで即アウトだろうに、と、あれこれツッコミを入れたくなるのも、致し方ないではないか。 こうして見てくると、この『ハッスル』の中におけるラブ・ストーリーのパートは、うわべだけ綺麗事ばかりを並べ立てた、いかにも絵空事の世界にしか筆者には思えない。けれども、ここで翻ってよく考えてみると、そこにこれまた一見オシャレでファッショナブルだが中身は空疎な恋愛映画の代名詞である『男と女』をあえて引用して重ねて見せる、作者アルドリッチの自虐的で苦いアイロニーに満ちた演出意図も、次第につかめてくるはずだ。 おそらくアルドリッチ自身、映画の準備段階でこの『ハッスル』の説話上の弱点に気づき、商業的な要請と期待に沿って、表向きは男女の人気スター同士の共演によるソフトで甘美なラブ・ストーリーを紡ぎ出す一方で、そちらでは何かと障壁や制約があってなかなか発揮できなかった彼本来の演出手腕を、『ハッスル』の裏番組にして実はこちらこそがメイン・ディッシュたる刑事もののサスペンス・ドラマの方に、思うさまハードに叩きつけたのではないだろうか。 ■男と女 アナザー・ストーリー 実際、『ハッスル』の物語が刑事ドラマのパートへと移行すると、これまで紹介してきたレイノルズとドヌーヴとのセンチで生ぬるい恋愛劇とはうって変わって、日常的に殺人や暴力事件が頻発する犯罪都市ロスのどす黒い闇に包まれたダークサイドの実態が、本来のアルドリッチ映画らしい非情なタッチで容赦なく赤裸々に暴き立てられていくことになる。 ビーチサイドでひとりの若い女性の変死体が発見され、その体内に多量の薬物や精液が見つかったことから、ロス市警の警部補レイノルズは、何やらあやしい事件の匂いを嗅ぎあてる。しかし、ここでも彼の姿勢は腰が引け気味で、あえてそれを単なる自殺として片付け、手っ取り早く事件の幕引きを図ろうとする。けれども、身元の確認作業に立ち会って、自分の愛する娘が痛ましい姿に変わり果て、素っ裸のままゴロンと遺体安置所に寝かされているさまを目の当たりにして怒りを露わにした父親役のベン・ジョンソンが、レイノルズに猛然と食ってかかって真相の徹底究明を迫ったことから、ようやくレイノルズは、本格的な事件の捜査に乗り出すことになるのだ。 かくして、ロスの裏社会に巣食う麻薬や売春などの犯罪組織や、彼らを陰で操る悪の黒幕の存在が浮上し、亡くなった若い女性は、(『攻撃』や『ロンゲスト・ヤード』でもその卑劣な悪役ぶりが印象的だった)エディ・アルバート扮する大物の悪徳弁護士が経営するストリップクラブでダンサーとして働き、さらにはブルーフィルムに出演し、乱交パーティーにも出席していたという、文字通り剥き出しの裸の真実が次々と明らかになる。ここでジョンソンが、愛する我が娘の素っ裸の遺体のみならず、在りし日の彼女がブルーフィルムの中で披露するあられもない痴態をまのあたりにして、耐え難い苦悩と絶望に苛まれる姿ほど、衝撃的で重苦しい痛みを伴った気まずい場面も、他にそう多くはないだろう。 (おそらく『ハッスル』のこの場面に強くインスパイアされて、ポール・シュレイダー監督が『ハードコアの夜』(1979)を撮り上げたのであろうという推論を、筆者は以前、この「シネマ解放区」の『ハードコアの夜』の紹介文の中で述べたことがあるので、ぜひそちらもご参照あれ。それと、『ハッスル』の中には、ジョンソン本人はまだ知らない意外な衝撃的真実が、実はもう一つあるのだが、やはりそれはネタバレ厳禁として、ここでは一応伏せておこう。) ところで『ハッスル』は、映画の冒頭部でビーチサイドに横たわる若い女性の変死体が発見された直後に、海を見下ろす小高い丘の中腹に建てられた瀟洒なリゾートハウス風の家のバルコニーで静かに佇むドヌーヴの姿をキャメラが捉えるところから、本格的なドラマが幕を開ける。一見優雅で高尚なムード満点の高級娼婦ドヌーヴと、俗悪で薄汚いロスのアンダーグラウンドの世界をあちこち経巡った末、哀れな最期を遂げた若い娘(ここでその役に扮しているのは、知る人ぞ知る当時のアメリカの人気ポルノ女優、シャロン・ケリー。当然彼女は、この映画の中でも体当たりの裸演技を披露している)。 つまり、ドヌーヴとケリーは互いが互いを照らす鏡像=分身関係にあり、2人の人生における明暗、天国と地獄という一見対照的な構図が、既に最初に端的に明示されるわけだが、実のところ、ドヌーヴの商売も、一皮剥けばケリーのそれからそう遠く隔たったものではない。ドヌーヴ演じるヒロインの過去は、映画の中でそうはっきりとは語られないが、アルバート扮する大物の悪徳弁護士は、実は彼女の上得意の顧客の一人でもあり、あるいはドヌーヴも、ケリーのように若い時分、アングラ世界の底辺を這いずり回っていた可能性は充分考えられる。 そしてまた、実はレイノルズと、ケリーの父親に扮したジョンソンも、やはり互いに鏡像=分身関係にあることが、ドラマの進展を見守るうち、観客にも了解されることになる。先にレイノルズが、過去に妻に裏切られた苦い経験があることを記したが、朝鮮戦争の復員兵であるジョンソンの方もまた、戦争体験で不能となり、彼の妻が不貞を働いていた事実が彼女自身の告白を通して明かされ、物語の中盤には、各自、喧嘩が原因で、額にこぶを作ったレイノルズと、目の周囲に痛々しいアザと傷跡をつけたジョンソンが、まるで鏡のように向き合って対面する、両者の鏡像=分身関係を何よりも雄弁に物語る一場面も登場する。 悪徳権力者ばかりが栄え、社会の底辺にいる弱者は容赦なく見捨てられる現代の不平等で腐敗した体制に対して、共に憤懣やるかたない感情を抱きながらも、斜に構えて目の前にある現実からたえず目を逸らし、何かにつけ、自分の夢想の世界へと逃避していたレイノルズは、もう一人の自己たる、怒りに燃えるジョンソンに引きずられる形で、ようやく社会、そして自らを取り巻く現実と正面から向き合う決意を固めるのだ。 ■アルドリッチとアルトマン 言われてみれば、あるある!? 筆者ははじめに、『ハッスル』を紹介するにあたって、この映画は二重の物語構成となっていて、一見それがうまく一つに融合しないまま、全体的に真っ二つに分裂しているような印象を観る者に与える、云々、と述べたが、しかしこうして、刑事ドラマのパートをじっくり丹念に追って見てみると、これは、表看板たるソフトで甘いラブ・ストーリーに対する、強烈でハードなカウンターパンチとして機能していて、両者はやはり、それなりに有機的に組み立てられていることが分かってもらえたのではないだろうか。 そしてこちらの刑事ドラマのパートに注目するならば、この『ハッスル』は、かつてフィルム・ノワールの精髄というべき傑作『キッスで殺せ』(1955)を生み出していたアルドリッチが、久々にこの不可思議で魅力的なジャンルならざる映画ジャンルに立ち返って撮り上げた、ネオ・ノワールの1本と呼ぶことも充分可能だろう。この点において『ハッスル』は、いささか唐突ながら、今は亡きアメリカ映画界のもうひとりの鬼才、ロバート・アルトマンの傑作ネオ・ノワール『ロング・グッドバイ』(1973) と意外な接近遭遇をしていることに、今回久々に映画を見返してみてふと気が付いた。 この2人のロバートたる、アルドリッチとアルトマン。名前がよく似ているというのみならず、反権威主義を前面に押し出したその不撓不屈の反骨精神と、山あり谷あり起伏の激しい波瀾万丈の映画人生、そして、作品の中に痛烈な体制批判や諷刺を盛り込みつつ、遊び心とユーモアも決して忘れない快活な娯楽精神という点でも、大いに共通性がある。その一方で、こと2人の作風に関して言うなら、豪快、剛腕で鳴らす直球勝負のアルドリッチに対し、人一倍のひねくれ者で型にはまることを嫌うアルトマンは変化球勝負と、一見対照的で、案外両者はこれまであまり引き比べられることがなかったように思う。 はたして両者の間に直接的な影響関係があるかどうかは不明だが、現今の体制や時流にはどうしても馴染めないままロスの街を東奔西走する、『ハッスル』の昔気質で時代遅れの主人公のキャラ設定や、鏡像=分身を用いた対位法的なストーリーテリング、そして、『カサブランカ』(1942)や『白鯨』(1956)、『裸足の伯爵夫人』(1954)をはじめ、作品のここかしこにちりばめられた、さまざまな往年の映画や音楽の引用、目配せの仕方などは、『ロング・グッドバイ』のそれと結構よく似ている。あるいはまた、『ハッスル』でドヌーヴがすぐ脇にいるレイノルズを尻目に他の男たちとテレフォン・セックスに励む場面は、やはりアルトマンが同じくロスの街を舞台に、こちらはレイモンド・チャンドラーならぬカーヴァーの原作を彼独自の味付けで料理した大作群像劇『ショート・カッツ』(1993)の中で、人妻たるジェニファー・ジェイソン・リーが、家庭の中に場違いな仕事を持ち込んで、夫や赤ん坊を尻目にテレフォン・セックスに励む場面に、何がしかの影響を与えているのだろうか? いずれにせよ、冒頭でも述べた通り、今年はアルドリッチの生誕100周年。これを機に、『ハッスル』だけでなく、他のさまざまなアルドリッチ映画にもぜひ目を向けて、その強烈で無類に面白い映画世界を、ひとりでも多くの映画ファンに存分に楽しんでもらいたいところだ。■ TM, ® & © 2018 by Paramount Pictures. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
猿人ジョー・ヤング
ストップモーション・アニメの父オブライエンとその弟子ハリーハウゼンによる特撮巨大ザル映画
ストップモーション(人形コマ撮り)アニメの祖ウィリス・H・オブライエンと、その弟子で後に特撮の魔術師と呼ばれるレイ・ハリーハウゼンが『キング・コング』にあやかって放った、新たなる特撮の傑作。
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COLUMN/コラム2018.03.01
男たちのシネマ愛ZZ②おたずね者キッド・ブルー/逃亡!列車強盗
飯森:さて、まずは西部劇『おたずね者キッド・ブルー/逃亡!列車強盗』から始めましょうか。 なかざわ:これはデニス・ホッパーが主演。アンチヒーローという意味では、当時のホッパーらしい役どころだと思うのですが、その一方でキャラクターそのものは非常にライトですよね。そこは意外だったと思います。 飯森:『イージー・ライダー』が1969年ですよね?で、これは… なかざわ:1973年です。 飯森:アメリカン・ニューシネマの代表作ベスト3に入るような名作『イージー・ライダー』を撮ったホッパーが、その数年後に主演した映画ということですが、これまたまごうかたなきニューシネマですよね。 なかざわ:これは舞台となるアメリカ西部の町、保安官曰く「真面目でまともな人しか住んでいない町」に、製作当時のアメリカ社会における体制側を投影していますよね。 飯森:そういうことを言い出す奴が出てきたらヤバい!怖い世の中になりつつある!真面目でまともって、そうと認められなかった奴は住めないのかよ、誰が何の権利で決めてるんだよ、と。怖い社会ですねえ。70年代の流行語では「スクエア」と呼びましたね、こういうことを言う、体制側の古い頑迷な人間のことを。 なかざわ:そんな町へ、強盗稼業から足を洗って更正を決意したデニス・ホッパーがやって来るわけです。 飯森:後半のセリフによると相当な大物アウトローだったらしいんですけどね。冒頭で仲間が怪我したことで「俺、足を洗おっかなぁ」と、意外とそこは軽い。 なかざわ:そう、しかもけっこう素直で真面目。心を入れ替えてコツコツと働くわけです。 飯森:最初は床屋の床掃除なんかをするんだけど、偏見に満ちたスクエアな大人たちから目の敵にされて辞めてしまう。その次に鶏肉の加工業者に行ったら、今度はブラック企業だったのでまた辞めちゃって、最終的にアメリカの後の工業化を先取りしたような象徴的な工場で過酷な労働を強いられる。職業を転々とするわけだけど、それって根気が続かないとか飽きっぽいとかいった彼の側の問題じゃないんですよね。多分に社会の側の問題ですよね。そして、そんな彼に対するスクエアな住民の接し方も、極めて“上から”というかね。同じ下宿で寝泊まりしている、やけにデカいツラしたがるオッサンとか。 なかざわ:「お前みたいな性根の腐った若造は軍隊で鍛え直すべきだ!」みたいなこと言う人ですよね。 飯森:ありがちで益体も無いオッサンの説教ですけど、でもキッド・ブルーって兵隊上がりだと思うんですよ。南北戦争の北軍の青い軍服着てるじゃないですか。 だから二つ名も「キッド・ブルー」なんでしょう?劇中で具体的に言及されないものの、元北軍の兵隊くずれだと解釈するのが妥当だと思うんですよ。オッサンは目の前の若造がその悪名高いキッド・ブルーとは知る由もない。服も軍服ではなくオーバーオールの作業着に着替えちゃってますからね。というか逆に、あのオッサンの方こそ、むしろ軍隊経験あるのかよ?と。 なかざわ:だいたい、そういう偉そうなことを言う奴に限って自分のことは棚に上げがちですからね。 飯森:そうそう!最近の日本でもよく見受けられる(笑)。キッド・ブルーは戦争を経験したせいで心が荒んじゃって、列車強盗の方がまだマシだとアウトローになっちゃった可能性もある。要するに、おっしゃる通り軍隊に行きましたけど、その結果こうなっちまったんだよバカヤロー!という(笑)。 なかざわ:ちょっと話が横道にズレますけど、この映画ってキャスティングにもちゃんと意味があると思うんです。例えば、この宿泊客のオッサンを演じているのはラルフ・ウェイト。彼は当時アメリカのテレビで9年間続いた国民的なホームドラマ『わが家は11人』で、古き良きアメリカの理想的な父親像を演じた俳優なんですよ。さらに、キッド・ブルーを目の敵にする保安官役にはベン・ジョンソン。巨匠ジョン・フォードの西部劇映画で、不器用だけど真面目で誠実なアメリカ南部の男性像を演じた名優です。このまさに「古き良きアメリカの良心」を象徴するような役者たちに、あえて体制側の「悪い奴」を演じさせているというのは、明らかに意図されたものだと思うんですね。 飯森:ほほう。ベン・ジョンソンは分かりますけど、ラルフ・ウェイトという人は知りませんでしたね。邦題が付いているということは、その『わが家は11人』は日本でも放送していたんですか? なかざわ:はい、ただ全シーズンは放送されていないと思います。日本だとあまり受けなかったようですから。ラルフ・ウェイトは4年前に亡くなったんですけど、晩年はドラマ『NCIS~ネイビー犯罪捜査班』で主人公ギブスの父親役をやっていました。 飯森:なるほど、70年代当時、スクエアどもが盲信していた古い価値観や古い社会構造そのものに対して物申したのがニューシネマだったわけですけど、その意図を汲んだようなキャスティングなのですね。決して極端な悪人というわけではないんだけど、自由奔放な主人公に対してネチネチと小うるさいというか…。体制に与さない者や体制を批判する者を敵視するような連中。 なかざわ:自分たちの考える規範から外れた人間は目障りでしょうがないんですよ。 飯森:でも宿泊客のオッサン、後半ではよそ者の女と援交してたりするんですけどね(笑)。 なかざわ:そう、結局どいつもこいつも偉そうなこと言うくせに、行動が伴わない偽善者なんです(笑)。 飯森:そう考えると、これは当時なぜ注目されなかったのか不思議に思えるくらい、典型的なニューシネマ映画なんですよね。知らない世代に説明すべきニューシネマ的特徴を全て押さえていて、ニューシネマの名作ベスト20くらいには入ってきても全然おかしくないですよ。 ==============この先ネタバレが含まれます。============== ただし、たいていのニューシネマは最後って主人公が意味もなく死ぬじゃないですか。当時の、行きたくもないし戦う意味も解らないベトナム戦争に行かされて犬死するという若者世代のリアルが投影されていて、自由を求めて反抗しても結局、俺たち若者なんて体制の中で意味なく潰されていくんだよ、という諦観と厭世観が物悲しい味わいとなって、ニューシネマには一般的にある。しかしこれはネタバレですが、この映画ではそうはならないんですよね。その点では異色かもしれません。 なかざわ:明朗快活というか、後味の良い終わり方をしますよね。 飯森:これは恐らく、たまたま日本ではすり抜けてしまったんでしょうね。きちんとした形で日本公開されていれば、それなりに高い評価を得て、当時の若者たちの心に残っていたはずの映画だと思います。日本未公開でさらに未ソフト化なのがとにかく勿体ない。それを今回、ウチで放送できるというのは素直にうれしい! なかざわ:そういえば、床屋でキッド・ブルーに難癖をつけて、そのあと酒場で殺し合いする男いますよね。あれをやっているのって、『悪魔の追跡』のジャック・スターレット監督なんですよ。彼はもともと俳優からスタートして、本作の当時は監督業と並行して役者の仕事もしていたんですけど、後に『ランボー』でもスタローンを痛めつける保安官補役を演じているんです。 飯森:というか、この映画のベン・ジョンソンの保安官って、『ランボー』でブライアン・デネヒーが演じた保安官と被りますよね。長髪の流れ者ランボーが町にやって来るわけだけど、ここはお前みたいな薄汚い長髪の流れ者がいて許される町じゃねえんだから一刻も早く出ていけという。その意味不明なレッテルの貼り方が実にソックリで。典型的なスクエア! なかざわ:価値観が合わなければ無視でもすりゃいいのに、徹底的に排除しないと気が済まない。 飯森:そんなところに、唯一の理解者である良き友人として移住者ウォーレン・オーツの夫婦が出てくる。 なかざわ:いやあ、デニス・ホッパーにウォーレン・オーツですよ!すごい顔合わせですよね。 飯森:本当にこれでなぜ劇場公開されなかったのか、首を傾げたくなります。で、そのウォーレン・オーツ。良き理解者と言えば良き理解者なんだけど、だいぶ理解のしすぎというか(笑)。あそこまでいくと完全にBL。 なかざわ:ん~、本人的には無自覚のようにも思えますが。 飯森:でも一緒にお風呂にまで入っちゃうんですよ?狭い一人用バスタブで体を密着させて!そんなことするのあとは淀長さんぐらいですって(笑)。ウォーレン・オーツ曰く、古代ギリシャは素晴らしかったと。人々は知を称揚して、義を重んじ、愛で結ばれていたんだと。お前と俺は親友だから、古代ギリシャ人だったなら「愛してるぜ!」と堂々と言い合えていたはずだ。今の俺たちの時代は不自由だからそんなこと言ったらダメってことになっているけど。だから古代ギリシャの方がいいだろ?なっ?そう思うだろ?って。これはもう明らかにBLでしょう!? なかざわ:でもまあ、70年代当時のヒッピーたちの、ラブ&ピースな精神を投影したものと解釈できなくもないですけどね。 飯森:なるほど、汎人類的な意味でのラブということですね。僕は結構なBLだと思いました。物語上の当時には許されていなかったことだから、さすがに公然とはカミングアウトできないだけで。というか自覚してないだけ。ウォーレン・オーツには確かに奥さんもいるけれど、それって男は女と結婚するもんだと思い込んでるから結婚したに過ぎなくて、奥さんに対しては愛情も、性欲さえもない。 なかざわ:確かに、そういえば奥さん、旦那に対してそういう不満を持っていますよね。 飯森:だからキッド・ブルーは、この欲求不満の奥さんに強引に迫られて、後にどうこうなっちゃうんだけど、そこでウォーレン・オーツは「よくも俺の妻に手を出したな!」と怒るんじゃなくて、「よくも俺以外の誰かとどうこうなったな!」と、そっちかよ!という嫉妬に怒り狂う(笑)。まあ、これはいろいろな見方があるとは思いますが。 なかざわ:映画ですから人によって解釈が違って当たり前ですよね。それにしても、このジェームズ・フローリー監督って、目立った代表作は『弾丸特急ジェット・バス』くらいしか思い浮かばない。 飯森:『刑事コロンボ』もけっこう撮っているみたいですね。 なかざわ:あとは『グレイズ・アナトミー』とか。基本的にテレビ畑の人ですよね。オールマイティだけど、映像作家としての個性は薄い。一方、脚本のバッド・シュレイクはクリフ・ロバートソン主演のカウボーイ映画『賞金稼ぎのバラード』やスティーヴ・マックイーン主演の西部劇『トム・ホーン』(allcinemaではバッド・シュレイダーと誤表記)、カントリー歌手ウィリー・ネルソンの自伝的映画『ソングライター』など、まさにカントリー&ウエスタンな作品ばかり書いてきた脚本家。なので、本作はシュレイクのカラーが前面に出た作品のようにも思います。 飯森:それを職人肌の何でもできる監督に任せたところ、意外にも佳作が出来ちゃったという感じなのかな。製作当時のアメリカ社会への風刺もたくさん込めましたね。 なかざわ:それでいて、難しい社会派の問題作ではなく誰が見ても楽しめるウエスタン・コメディとして仕上げられている。そのあたりは、器用な娯楽職人の監督に撮らせたことのメリットかもしれません。 飯森:ただ、恐ろしいというか皮肉なのは、この映画が作られてから既に40年以上が経っているにも関わらず、世界が全くと言っていいほど進歩していない点ですよ。ここに投影されている70年代当時の社会問題は、とっくの昔に解消されていなきゃならないと思うんですけどね。 なかざわ:ラルフ・ウェイトやベン・ジョンソンのセリフでも、あれ?それって最近誰かが言ってたよね?みたいなやつが多い。良い言い方をすれば、今でも通用する映画(笑)。 飯森:いやいや、全然良くないですってば(笑)。70年代当時にこうした古い社会、世にはびこる偏見や体制の問題点を変革しようとした人たちが2018年の世界を見たら、全く変わってない!むしろ後退してるじゃん!どんなディストピアだ!って思うでしょうね。 なかざわ:俺たちが戦ったものは何だったんだ!と。確かに、イラク戦争以降辺りから急激に時代が逆戻りしてしまった感はありますよね。 飯森:なので、1960年代から70年代にかけてのカウンターカルチャーという歴史的な文脈を踏まえながら見ていただくと、感じるところは多いと思いますし、そのうえで2018年の今、我々が住む世界はどうなっているのか、比べてみるとさらに感慨深い…というか、考え込むことになるかもしれない(笑)。 なかざわ:でも、そこから問題意識を持っていただけるとありがたいですよね。 飯森:そういえば、これは最近いろんなところで語っていることなんですが、僕はアメコミ映画も大好きで、公開を常に心待ちにしているジャンルなんですが、そろそろ供給過剰なような気もしてきたんです。逆に、僕がいま一番見たいのはこういったニューシネマ。社会派の良作は最近もあるんですが、「今の世の中ってけっこう絶望的だよね?ね?ね?」と同時代人と認識を共有しあうための、もしくは絶望的だと気付いてない人に気付かせるための、絶望映画。それすなわちニューシネマなんですが、その供給が足りていない。それは絶望を克服する足掛かりとなりますから必要なんです。なので、今回のように本物の昔のニューシネマの中から埋もれた名作を掘り出して、70年代当時の人々と問題意識を共有しながら、今の社会についていろいろと考えたいなと思うんです。本当は新作も見たいんですけどね。 [後日、男たちが『ブラックパンサー』試写会場でばったり出喰わし、上映後…] 飯森:(号泣しながら)いやはや!早くも前言を撤回せねばならない時がきたようです!! 絶望を克服するためのニューシネマが今こそ必要だ、アメコミヒーロー映画ばっか見てる場合じゃないぞ、と言ってたんですけど、この『ブラックパンサー』は、まさにそのための完璧な映画でしたね! なかざわ:早っ!舌の根も乾かぬうちに(笑) でも、確かに、今の世の中を見渡して、多くの心ある人々がモヤモヤと感じていることが、これでもかと詰め込まれていましたね。レイシズムについて。 飯森:早くも僕の今年のマイベストは『ブラックパンサー』で確定したことをこの場で宣言しときます。 なかざわ:凝ってるなぁと思ったのは、ブラックパンサーと女スパイのルピタ・ニョンゴと女戦士のダナイ・グリラの三人組が、着ている服の色が、黒・緑・赤でしたよね。これって汎アフリカン色ですよ!こんなところまで行き届いてるのかよ!?と感心しましたね。 飯森:それは気づかなかったです!それと、一般劇場公開でも付くのかどうか知りませんけど、我々がいま見たマスコミ試写バージョンだと、本編開始前にいかにもB-boyみたいな感じの監督が出てきて、「YOメーン、日本の兄弟たち、俺様が撮った『ブラックパンサー』、マジやっべえから見てくれよな、今までのマーベルヒーロー映画の常識をブッ壊してやったぜ!!」みたいなビッグマウスなMCかましてきたじゃないですか。あれで、「おいおい…このノリなのかよ…大丈夫か!?」と最初は不安に思ったんですけど、完全に杞憂でした。 なかざわ:そんな喋り方じゃなかったでしょ!にしても、もともと監督はこういう映画を撮るタイプじゃないじゃないですか。 飯森:なんの人なんですか? なかざわ:えっ?ライアン・クーグラーですってば! 飯森:えええっ!!!『フルートベール駅で』と『クリード チャンプを継ぐ男』の!? いやはや、それを聞いて納得ですわ!僕は予断を持つのが一番イヤなので映画見る前には前情報を一切遮断するよう意識して努めてるので、今の今まで全然知らなかったです。それは、驚愕と同時に、超納得! なかざわ:ジャンル的に本来はこういう映画を撮る人じゃないけれども、テーマ的、メッセージ的には、彼のフィルモグラフィの延長線上に確実にある作品でしたよね。『ブラックパンサー』自体はコミック原作があって、彼は雇われ仕事な訳だけれども、雇う方も彼のフィルモグラフィを踏まえた上での人選で、それが今回は上手くハマったってことですね。 飯森:いやぁ〜、道理で“今の時代に見る価値ある感”に号泣するような映画にな仕上がった訳だ!常々、「こんな悪は実在しねーよ!という悪を描いたって無意味。のどかでのんきで平和な時代ならともかく、今はこういう緊迫した時代なんだから!」と訴えてきたんですよ。もちろんノーランとか、マーベルでも『ウィンター・ソルジャー』とか『シビル・ウォー』とか、これまでにも深い作品はありましたけど、『ブラックパンサー』の登場でさらに一段階、位相が変わりましたね。これはマジで凄い!ということで、このクオリティなんだったらこれからもアメコミ映画どんどん作ってください!と、土下座しながら前言撤回します。 次ページ >> 『ロッキーの英雄・伝説絶ゆる時』 『おたずね者キッド・ブルー/逃亡!列車強盗』© 1973 Twentieth Century Fox Film Corporation. 『ロッキーの英雄・伝説絶ゆる時』© 1972 Twentieth Century Fox Film Corporation. Renewed 2000 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.『The Duchess and the Dirtwater Fox』© 1976 Twentieth Century Fox Film Corporation. Renewed 2004 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.
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PROGRAM/放送作品
(吹)軍用列車
軍用列車内で怪死事件が発生!乗員・乗客の誰が人殺しか!?ブロンソン主演のアクション・ミステリー西部劇
『ナバロンの要塞』の冒険小説家アリステア・マクリーンが、自身の原作を脚色。列車内での殺人というミステリーの王道にアクション要素を加えた異色西部劇。ブロンソンは本作でも愛妻ジルと息の合った共演を見せる。
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COLUMN/コラム2018.10.16
男たちのシネマ愛『スモール・タウン・イン・テキサス』
映画ライターなかざわひでゆき×ザ・シネマ飯森盛良の対談シリーズ「男たちのシネマ愛」が今、初の音声ファイルとなって帰ってきた!今回熱く語るのは、名物特集「激レア映画、買い付けてきました」として調達してきた2018年11月の3作品の2本目、ニューシネマ風味の効いた香ばしい70'sアクション、本邦初公開『スモール・タウン・イン・テキサス』!にしても何この展開!!?? 見れるのはザ・シネマのみ!!!
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PROGRAM/放送作品
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PROGRAM/放送作品
リオ・グランデの砦
“西部劇の父”フォード監督が描くウエスタン・ホーム・ドラマ。頑固親父の軍人をジョン・ウェインが好演
“西部劇の父”ジョン・フォード監督作の中でも、『アパッチ砦』、『黄色いリボン』と並ぶ“騎兵隊三部作”の1本。主演はジョン・ウェイン。その妻役の女優モーリン・オハラはウェインとの名コンビで知られる。
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PROGRAM/放送作品
黄色いリボン
ジョン・ウェイン主演、西部劇の名匠ジョン・フォード監督の“騎兵隊三部作”の1本
アカデミー撮影賞受賞。『アパッチ砦』、『リオ・グランデの砦』と並ぶジョン・フォード監督の“騎兵隊三部作” の1本。主演は三部作を通じてもちろんジョン・ウェイン。タイトルは有名なアメリカ民謡が由来。
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PROGRAM/放送作品
幌馬車(1950)
本物のカウボーイ出身の俳優ベン・ジョンソン初主演。新天地を目指す教団の旅を描くジョン・フォード西部劇
ジョン・フォード監督の西部劇『黄色いリボン』で知られる本物の元カウボーイ、ベン・ジョンソンが初主演を果たしたフォード・ウエスタンの静かなる名作。新天地を目指すモルモン教徒たちの困難な旅路を描く。