検索結果
-
PROGRAM/放送作品
最後の晩餐
[R15相当]食いまくってヤリまくって大往生!退廃と悪趣味の極み、最高にして最低なガストロノミー映画
食って食って食いまくり、女をとっかえひっかえヤリまくり、糞便と吐瀉物にまみれて死んでいく…男の夢をグロテスクに誇張して描いてみせた文明風刺作。マストロヤンニやノワレといった名優がこんな役よくぞ演じた!
-
COLUMN/コラム2017.01.09
飲んで食ってファックしてゲロ吐いて糞尿まき散らして死んでいく、ブルジョワたちの快楽自殺。エログロなブラックコメディ〜『最後の晩餐』〜01月11日(水)深夜ほか
フェデリコ・フェリーニ監督の『甘い生活』('60)とミケランジェロ・アントニオーニ監督の『情事』('59)が、'60年の第13回カンヌ国際映画祭でそれぞれパルムドールと審査員特別賞を獲得。黄金期を迎えた'60年代のイタリア映画界は、巨匠の芸術映画からハリウッドばりの娯楽映画まで本格的な量産体制に入り、文字通り百花繚乱の様相を呈した。 そうした中で、戦後イタリア映画の復興を支えたネオレアリスモの精神を、新たな形で高度経済成長の時代へと受け継ぐ新世代の社会派監督たちが台頭する。『テオレマ』('68)や『豚小屋』('69)のピエル・パオロ・パゾリーニ、『悪い奴ほど手が白い』('67)や『殺人捜査』('70)のエリオ・ペトリ、『アルジェの戦い』('66)のジッロ・ポンテコルヴォ、『ポケットの中の握り拳』('65)のマルコ・ベロッキオ、『殺し』('62)や『革命前夜』('64)のベルナルド・ベルトルッチなどなど。権力の腐敗や社会の不正に物申す彼らは、保守的なイタリア社会の伝統や良識に対しても積極的に嚙みついた。 中でもパゾリーニと並んで特に異彩を放ったのが、当初は『女王蜂』('63)や『歓びのテクニック』('65)といったセックス・コメディで注目された鬼才マルコ・フェレ―リだ。 美人で貞淑な理想の女性(マリナ・ヴラディ)を嫁に貰った中年男(ウーゴ・トニャッツィ)が、子供を欲しがる嫁や女の親戚たちにプレッシャーをかけられ、頑張ってセックスに励んだ末にポックリ死んじゃう『女王蜂』。 全身毛むくじゃらの女性(アニー・ジラルド)と結婚した男(ウーゴ・トニャッツィ)が、嫁を見世物にして客から金を取ったり、その処女を物好きな金持ちに売ったりして荒稼ぎした挙句、難産で死んだ後も彼女をミイラにして金を儲けるという『La donna scimma(類人猿女)』('64)。 イタリア映画お得意のセックス・コメディを装いながら、イタリア社会に蔓延る偽善や拝金主義、さらには家族制度や男尊女卑などの伝統的価値観を痛烈に皮肉りまくったフェレ―リ。 その後も、女王然とした女(キャロル・ベイカー)が愛人の男たちを足蹴にする『ハーレム』('68)や、逆に男(マルチェロ・マストロヤンニ)が女(カトリーヌ・ドヌーヴ)を犬扱いする『ひきしお』('70)、男尊女卑の男(ジェラール・ドパルデュー)が妻にも恋人にも見捨てられ最後は自分のペニスを切り落とす『L'ultima donna(最後の女)』('76)など、'60年代から'70年代にかけてエキセントリックかつ強烈な反骨映画を撮り続けたフェレーリだが、その最大の問題作にして代表作と呼べるのが、カンヌでも賛否両論を巻き起こした『最後の晩餐』('74)である。 あらすじを簡単にご紹介しよう。パリのとある大邸宅に4人の裕福な中年男たちが集まって来る。有名レストランの料理長ウーゴ(ウーゴ・トニャッツィ)、テレビ・ディレクターのミシェル(ミシェル・ピッコリ)、裁判官のフィリップ(フィリップ・ノワレ)、国際線機長のマルチェロ(マルチェロ・マストロヤンニ)。美食家の彼らは大量の食料品を屋敷に運び込み、連日連夜に渡って豪華な晩餐会を開くことになる。その目的は、美食三昧の果てに死ぬこと。しかし、食欲だけでは飽き足らなくなった彼らは、たまたま屋敷を訪れた豊満な女教師アンドレア(アンドレア・フェレオル)と3人の娼婦たちを招き、やがて事態は美食とセックスと汚物にまみれた酒池肉林のグロテスクな宴へと変貌していく。 要するに、人生に悲観したブルジョワたちが快楽の果ての自殺を目論み、飲んで食ってファックしてゲロ吐いて糞尿まき散らして死んでいく姿を赤裸々に描いた、エログロなブラックコメディ。見る者の神経をあえて逆撫でして不愉快にさせるフェレーリ監督の、悪趣味全開な演出が圧倒的だ。今となって見れば性描写もグロ描写もさほど露骨な印象は受けないものの、'70年代当時としては相当にショッキングであったろうことは想像に難くない。 しかも主人公4人を演じるのは、いずれもイタリアとフランスを代表する一流の大御所スターばかり。そのネームバリューにつられて見に行った観客はビックリ仰天したはずだ。これが一部からは大変なブーイングを受けつつも、カンヌで審査員特別賞を受賞したというのは、やはり'70年代のリベラルな社会気運の賜物だったと言えるのかもしれない。 面白いのは、主人公たちが自殺をする理由というのが最後まで明確ではないという点だろう。とりあえず、ウーゴが女房の尻に敷かれて頭が上がらない、フィリップは女にモテず独身で年老いた乳母に性処理してもらっているっていうのは冒頭で描かれるが、それ以外の2人が抱えた事情については全く触れられていない。いずれにしても、恐らく取るに足らないような漠然とした理由であることが想像できる。そんな甘ったるいブルジョワ親父たちが、快楽の限りを尽くして死のうとするわけだ。全くもってバカバカしい話なのだが、その根底には行きつくところまで行きついた現代西欧文明の物質主義に対する大いなる皮肉が込められていると見ていいだろう。 そんな男たちの愚かで滑稽な最期を見届けるのが、プロレタリアートの女教師だというのがまた皮肉だ。しかも、これがフェリーニの映画に出てくるようなアクの強い巨体女。食欲も性欲も底なしの怪物で、終始男たちを圧倒する。それでいて、母性の塊のような優しさで男たちを包み込む。まるで庶民の強さ、女の強さを象徴するような存在だ。演じているアンドレア・フェレオルは、なんと当時まだ20代半ば。いやはや、その若くしての貫録には恐れ入るばかりだ。その後もフォルカー・シュレンドルフやリリアーナ・カヴァーニ、フランソワ・トリュフォーらの巨匠たちに愛され、ヨーロッパ映画を代表する怪女優として活躍していくことになる。ちなみに、舞台となる屋敷の管理人をしている老人を演じているのはアンリ・ピッコリ。そう、ミシェル・ピッコリの実父だ。 恐らくルイス・ブニュエルの『皆殺しの天使』('62)や『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』('72)にインスパイアされたものと思われる本作。マルコ・フェレ―リならではの社会批判や文明批判が、最も極端かつ過激な形で結実した希代の怪作と言えるだろう。その後の彼は酔いどれた詩人(ベン・ギャザラ)の苦悩と再生を描く『町でいちばんの美女/ありきたりな狂気の物語』('81)、自由奔放な母親(ハンナ・シグラ)とその娘(イザベル・ユペール)の複雑な愛憎を描く『ピエラ 愛の遍歴』('83)と、より内省的なテーマへと移行していく。日本ではあまり注目されることなく'97年に他界したフェレーリだが、もっと評価されてしかるべき孤高の映像作家だと思う。■ © 1973 Mara Films – Les Films 66 – Capitolina Produzzioni Cinematografiche ( logo EUROPACORP)
-
PROGRAM/放送作品
ニュー・シネマ・パラダイス [インターナショナル版]
[PG12]映画が娯楽の殿堂だった頃。老映写技師と少年の心のふれあいをノスタルジックに綴る感動作
イタリアの名匠ジュゼッペ・トルナトーレの繊細な人物描写と、エンニオ・モリコーネの感動的な音楽により綴られた、映画史に残る至高の名作をデジタルレストア版でお届け。
-
COLUMN/コラム2016.12.29
飲んで食ってファックしてゲロ吐いて糞尿まき散らして死んでいく、ブルジョワたちの快楽自殺。エログロなブラックコメディ〜『最後の晩餐』〜01月11日(水)深夜ほか
フェデリコ・フェリーニ監督の『甘い生活』('60)とミケランジェロ・アントニオーニ監督の『情事』('59)が、'60年の第13回カンヌ国際映画祭でそれぞれパルムドールと審査員特別賞を獲得。黄金期を迎えた'60年代のイタリア映画界は、巨匠の芸術映画からハリウッドばりの娯楽映画まで本格的な量産体制に入り、文字通り百花繚乱の様相を呈した。 そうした中で、戦後イタリア映画の復興を支えたネオレアリスモの精神を、新たな形で高度経済成長の時代へと受け継ぐ新世代の社会派監督たちが台頭する。『テオレマ』('68)や『豚小屋』('69)のピエル・パオロ・パゾリーニ、『悪い奴ほど手が白い』('67)や『殺人捜査』('70)のエリオ・ペトリ、『アルジェの戦い』('66)のジッロ・ポンテコルヴォ、『ポケットの中の握り拳』('65)のマルコ・ベロッキオ、『殺し』('62)や『革命前夜』('64)のベルナルド・ベルトルッチなどなど。権力の腐敗や社会の不正に物申す彼らは、保守的なイタリア社会の伝統や良識に対しても積極的に嚙みついた。 中でもパゾリーニと並んで特に異彩を放ったのが、当初は『女王蜂』('63)や『歓びのテクニック』('65)といったセックス・コメディで注目された鬼才マルコ・フェレ―リだ。 美人で貞淑な理想の女性(マリナ・ヴラディ)を嫁に貰った中年男(ウーゴ・トニャッツィ)が、子供を欲しがる嫁や女の親戚たちにプレッシャーをかけられ、頑張ってセックスに励んだ末にポックリ死んじゃう『女王蜂』。 全身毛むくじゃらの女性(アニー・ジラルド)と結婚した男(ウーゴ・トニャッツィ)が、嫁を見世物にして客から金を取ったり、その処女を物好きな金持ちに売ったりして荒稼ぎした挙句、難産で死んだ後も彼女をミイラにして金を儲けるという『La donna scimma(類人猿女)』('64)。 イタリア映画お得意のセックス・コメディを装いながら、イタリア社会に蔓延る偽善や拝金主義、さらには家族制度や男尊女卑などの伝統的価値観を痛烈に皮肉りまくったフェレ―リ。 その後も、女王然とした女(キャロル・ベイカー)が愛人の男たちを足蹴にする『ハーレム』('68)や、逆に男(マルチェロ・マストロヤンニ)が女(カトリーヌ・ドヌーヴ)を犬扱いする『ひきしお』('70)、男尊女卑の男(ジェラール・ドパルデュー)が妻にも恋人にも見捨てられ最後は自分のペニスを切り落とす『L'ultima donna(最後の女)』('76)など、'60年代から'70年代にかけてエキセントリックかつ強烈な反骨映画を撮り続けたフェレーリだが、その最大の問題作にして代表作と呼べるのが、カンヌでも賛否両論を巻き起こした『最後の晩餐』('74)である。 あらすじを簡単にご紹介しよう。パリのとある大邸宅に4人の裕福な中年男たちが集まって来る。有名レストランの料理長ウーゴ(ウーゴ・トニャッツィ)、テレビ・ディレクターのミシェル(ミシェル・ピッコリ)、裁判官のフィリップ(フィリップ・ノワレ)、国際線機長のマルチェロ(マルチェロ・マストロヤンニ)。美食家の彼らは大量の食料品を屋敷に運び込み、連日連夜に渡って豪華な晩餐会を開くことになる。その目的は、美食三昧の果てに死ぬこと。しかし、食欲だけでは飽き足らなくなった彼らは、たまたま屋敷を訪れた豊満な女教師アンドレア(アンドレア・フェレオル)と3人の娼婦たちを招き、やがて事態は美食とセックスと汚物にまみれた酒池肉林のグロテスクな宴へと変貌していく。 要するに、人生に悲観したブルジョワたちが快楽の果ての自殺を目論み、飲んで食ってファックしてゲロ吐いて糞尿まき散らして死んでいく姿を赤裸々に描いた、エログロなブラックコメディ。見る者の神経をあえて逆撫でして不愉快にさせるフェレーリ監督の、悪趣味全開な演出が圧倒的だ。今となって見れば性描写もグロ描写もさほど露骨な印象は受けないものの、'70年代当時としては相当にショッキングであったろうことは想像に難くない。 しかも主人公4人を演じるのは、いずれもイタリアとフランスを代表する一流の大御所スターばかり。そのネームバリューにつられて見に行った観客はビックリ仰天したはずだ。これが一部からは大変なブーイングを受けつつも、カンヌで審査員特別賞を受賞したというのは、やはり'70年代のリベラルな社会気運の賜物だったと言えるのかもしれない。 面白いのは、主人公たちが自殺をする理由というのが最後まで明確ではないという点だろう。とりあえず、ウーゴが女房の尻に敷かれて頭が上がらない、フィリップは女にモテず独身で年老いた乳母に性処理してもらっているっていうのは冒頭で描かれるが、それ以外の2人が抱えた事情については全く触れられていない。いずれにしても、恐らく取るに足らないような漠然とした理由であることが想像できる。そんな甘ったるいブルジョワ親父たちが、快楽の限りを尽くして死のうとするわけだ。全くもってバカバカしい話なのだが、その根底には行きつくところまで行きついた現代西欧文明の物質主義に対する大いなる皮肉が込められていると見ていいだろう。 そんな男たちの愚かで滑稽な最期を見届けるのが、プロレタリアートの女教師だというのがまた皮肉だ。しかも、これがフェリーニの映画に出てくるようなアクの強い巨体女。食欲も性欲も底なしの怪物で、終始男たちを圧倒する。それでいて、母性の塊のような優しさで男たちを包み込む。まるで庶民の強さ、女の強さを象徴するような存在だ。演じているアンドレア・フェレオルは、なんと当時まだ20代半ば。いやはや、その若くしての貫録には恐れ入るばかりだ。その後もフォルカー・シュレンドルフやリリアーナ・カヴァーニ、フランソワ・トリュフォーらの巨匠たちに愛され、ヨーロッパ映画を代表する怪女優として活躍していくことになる。ちなみに、舞台となる屋敷の管理人をしている老人を演じているのはアンリ・ピッコリ。そう、ミシェル・ピッコリの実父だ。 恐らくルイス・ブニュエルの『皆殺しの天使』('62)や『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』('72)にインスパイアされたものと思われる本作。マルコ・フェレ―リならではの社会批判や文明批判が、最も極端かつ過激な形で結実した希代の怪作と言えるだろう。その後の彼は酔いどれた詩人(ベン・ギャザラ)の苦悩と再生を描く『町でいちばんの美女/ありきたりな狂気の物語』('81)、自由奔放な母親(ハンナ・シグラ)とその娘(イザベル・ユペール)の複雑な愛憎を描く『ピエラ 愛の遍歴』('83)と、より内省的なテーマへと移行していく。日本ではあまり注目されることなく'97年に他界したフェレーリだが、もっと評価されてしかるべき孤高の映像作家だと思う。■
-
PROGRAM/放送作品
イル・ポスティーノ[オリジナル完全版]
届けて欲しいのは“心”。詩人と青年の心の交流を描く至極のドラマ。主演のマッシモ・トロイージの遺作
チリの詩人パブロ・ネルーダをモデルにした、アントニオ・スカルメタの小説を映画化。1950年のイタリアを舞台に詩人と青年の交流を描く。主演のマッシモ・トロイージの遺作となり、アカデミー賞音楽賞を受賞。
-
COLUMN/コラム2019.03.04
チリを舞台にした小説が、“伝説”のイタリア映画になるまで〜『イル・ポスティーノ』〜
「友である故マッシモに捧げる」 本作『イル・ポスティーノ』の終幕、エンドロール前にこのようなクレジットが挿入される。マイケル・ラドフォード監督が、本作の主演男優にして共同で脚色を手掛けた、マッシモ・トロイージに捧げた献辞である。 そしてこの簡潔な献辞こそが、本作を“伝説”へと、昇華させたとも言える…。 『イル・ポスティーノ』は、1994年に撮影され、その年の「ヴェネチア国際映画祭」オープニングを飾った後、製作国イタリアでヒット。翌95年にはアメリカでも公開となり、大きな話題となった。 その年度の「アカデミー賞」では、作品賞、監督賞、主演男優賞、脚色賞、オリジナル音楽賞の5部門にノミネートされるという、外国作品としては異例の高評価を獲得。結果的にルイス・バカロフのオリジナル音楽に、オスカーが贈られた。 そして96年5月に、日本公開。我が国でも、多くのファンを得た作品である。 イタリア南部ナポリの小さな島が舞台の本作の主人公は、30歳の青年マリオ。漁師の父親の後を継ぐ気もなく、今時で言えば“ニート”のような生活を送っている。 彼の暮らしを大きく変えたのは、高名な詩人パブロ・ネルーダとの出会い。ネルーダはその政治的な姿勢のために母国を追われたが、支援者の尽力で、妻マティルデと共に、この島に居を構えることとなったのだ。 ネルーダの元には、世界中から山のようなハガキや封書が届く。そのため、局長1人で運営されている島の郵便局では、人手が足りなくなり、彼の元に郵便物を運ぶ“配達員”を雇い入れる必要が生じた。 自前の自転車を使用するという条件も合って、マリオは首尾よく、その仕事を手に入れ、毎日ネルーダ邸に通うようになる。当初は郵便を届けては、幾ばくかのチップを受け取るだけの関係だったが、マリオがネルーダの著書を手に入れ、詩について質問をしたことがきっかけとなり、2人は徐々に親しい間柄になっていく。 そんな時マリオは、酒場に勤める美女ベアトリーチェに一目惚れ。恋の成就のため、詩人に協力を求めるのだが…。 アントニオ・スカルメタという、チリの小説家の作品を原作とする本作は、ベースとなる展開は原作に基づいているが、映画化に当たって大きく改変した箇所がある。一つは、原作では1960年代後半から70年代前半に掛けてのチリだった舞台を、1950年代初頭のイタリア・ナポリの小さな島に移したこと。そして原作では17歳の少年だったマリオを、30歳の青年に変えたこと。 映画化は、イタリアの監督・俳優であるマッシモ・トロイージが、原作に惚れ込んだことに始まる。彼は友人のイギリス人監督、マイケル・ラドフォードに協力を頼み、2人で映画化を進めることとなった。 1953年生まれのトロイージは、撮影時には40歳を過ぎており、さすがに17歳のマリオを演じるのは、無理。そのため、マリオの年齢は、30歳ということになった。 しかし、フランスの名優フィリップ・ノワレが演じたパブロ・ネルーダは、チリ出身の実在の人物。しかも“ノーベル文学賞”を受賞するなど、世界的に知られた存在である。 物語が展開する、時代背景や場所を移すことが可能だったのは、ネルーダが歩んだ軌跡にある。詩人であると同時に、外交官で共産党員の政治家であったネルーダは、時のチリ政府に睨まれたため、1949年2月に母国を脱出。以降、3年半に及ぶ亡命生活を余儀なくされる。 逮捕状が取り下げられ、彼がチリに帰るのは、52年8月のこと。実はその前の51年頃に、彼が仮の住まいとして身を寄せたのが、ナポリ湾に浮かぶカプリ島だったのである。 こうして、“チリ”の作家が書いた小説の舞台を“ナポリ”に移して、“イギリス人”が監督する“イタリア映画”が作られることになったわけである。 本作の魅力は、繊細ではあるが、無知な怠け者でもあったマリオが、ネルーダと出会い、“詩”の素晴らしさに目覚め、同時に“恋”を知り、成長していくところにある。共産主義者のネルーダの影響を受けて、“労働者”としての自覚が生まれたことが、彼に思わぬ悲劇をもたらしてもしまうのだが…。 そんなマリオを演じたのが、マッシモ・トロイージ。映画化に取り掛かった時、トロイージの身体は重大な疾患を抱えていた。医者からは即時の心臓移植を勧められていたが、彼は映画製作を優先した。 「映画は僕の生命。僕が新しい心臓を持つ前に、古い心臓をこの作品にあげるんだ」と語っていたというトロイージだったが、やはり無理は利かない。ほぼ出ずっぱりにもかかわらず、彼の身体は1日2時間しか撮影に耐えられなかった。 そうして、日々衰弱していくトロイージに接して、ラドフォード監督は1日の撮影が終わる度に、「明日はあるのだろうか?」と心配したという。そんなトロイージを支えたのは、『イル・ポスティーノ』に掛けた、こんな熱い想い。 「僕らは、息子たちが自慢できるような映画をつくろうとしているんだ」 そして、4か月に及ぶ撮影期間が終わる、クランクアップの瞬間、トロイージはラドフォードに言った。 「ごめんよ、僕は君に全部をあげられなかった。この次は全部あげるからね」 ラドフォードは、思わず涙したという。 …撮影が終わって12時間後、トロイージは、心臓発作を起こして、帰らぬ人となった。それ故の献辞が、「友である故マッシモに捧げる」なのである。 さてここで、原作及び実在のパブロ・ネルーダについて触れたい。原作の舞台は、1960年代後半から70年代前半のチリということは述べたが、それはそのまま現実のチリの時勢とネルーダの運命に重ね合わせられている。 原作でのネルーダは、マリオの恋を加勢する中で、チリ共産党から大統領候補へと指名され、選挙運動へと突入していく。これは実際に、1969年に起こった出来事である。 翌70年、「チリ人民連合」の統一候補にサルヴァトール・アジェンデが指名されると、ネルーダは立候補を取り下げて支援に回り、その年の9月にアジェンデ大統領が誕生。これは世界史上で初めて、合法的な選挙によって“無血”で誕生した、社会主義政権であった。 71年にノーベル文学賞とレーニン平和賞を受賞したネルーダは、72~73年にはチリのフランス大使としてパリに赴任。アジェンデ政権の外交を支える一員となる。 73年3月、アジェンデ政権は国会議員選挙でも国民の支持を得て、圧倒的な勝利を収めた。しかしその年の9月11日、中南米に社会主義政権が存在することを快く思わないアメリカが介在して、軍事クーデターが発生。アジェンデ大統領は自殺に追い込まれ、チリはクーデターの首謀者である、アウグスト・ピノチェト将軍による軍事独裁政権の時代へと、突入していく。 その時ネルーダは、癌を患いフランス大使を辞しており、チリに帰国して静養中。アジェンデ政権崩壊と共に、当局によって軟禁状態となる。そして9月24日、ネルーダは失意の中で心臓発作を起こし、69年の生涯の幕を閉じる。 チリではその後、ピノチェトによって“左派”が徹底的な弾圧を受け、数多くの者が拉致されては虐殺されたり、行方不明となった。原作では、ネルーダと親しくて共産党員となっていたマリオも権力側に連行されて、そのような運命を辿ることが暗示される…。 映画化を主導したトロイージは、映画版の舞台となったナポリの出身。この地はかねてからイタリア国内では失業率が高く、「イタリア共産党」への支持も強い地域であった。 もちろん映画版には、原作ほどの政治的エッセンスは感じられない。しかしトロイージが、常に「人民の側の詩人」であったネルーダが重要な役割を果たすこの原作に惹かれ、己の生命を賭してまで映画化を進めたのには、ある種の“共感”があったであろうことは、想像に難くない。 「僕らは、息子たちが自慢できるような映画をつくろうとしているんだ」 映画版のマリオが辿る運命、そしてトロイージ自身に訪れた“死”。かくて『イル・ポスティーノ』は、“伝説”の映画となった。■ ©1994 CECCHI GORI GROOUP. TUTTI I DIRITTI RISERVATI.
-
PROGRAM/放送作品
フォート・サガン
3大スターが競演したフランス版『アラビアのロレンス』。ベストセラー小説を壮大なスケールで映画化
登場人員1万人を費やし、モーリタニアの砂漠で9週間も撮影したスケールと映像美が見どころ。原作者も認めるジェラール・ドパルデューのハマり役や、ヌードも辞さないソフィー・マルソーの瑞々しさも魅力的。
-
PROGRAM/放送作品
ラ・ポワント・クールト
離婚寸前の夫婦が漁村で愛の対話を重ねる…ヌーヴェルヴァーグの先駆となったアニエス・ヴァルダの記念碑作
“ヌーベルヴァーグの祖母”と呼ばれたアニエス・ヴァルダ監督の長編映画デビュー作。結婚生活の危機に瀕した若い夫婦が交わす観念的な会話と、彼らが訪れた漁村の村人たちの日常を、審美的な映像で交錯させる。
-
PROGRAM/放送作品
深夜カフェのピエール【HDリマスター版】
[R15+相当]都会に憧れた俳優志望の青年はやがて夜のパリの街でさまよい、娼婦に恋をする…
田舎から出てきて男娼になった青年が過酷な都会をさすらう姿を、アンドレ・テシネ監督がパリの夜の街並みを背景に妖しく映し出す。主人公が思いを寄せる娼婦役エマニュエル・ベアールの美しさにも注目。