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PROGRAM/放送作品
(吹)ビバリーヒルズ・コップ
エディ・マーフィの人気に火をつけた『ビバリーヒルズ・コップ』シリーズ、第1作目!
「ミッドナイト・ラン」『ジョー・ブラックをよろしく』などを手掛けたマーティン・ブレスト監督の出世作。製作には『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズのジェリー・ブラッカイマー、と豪華な顔ぶれ。
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COLUMN/コラム2017.11.30
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2017年12月】にしこ
監督自身、アイルランドからアメリカへ移住し、自らの夢を叶えた人物。作中の様に、奇跡の様な飛び道具キャラクターの存在は実際あったかわかりませんが、当時の自分と家族のもがきを懐かしく、そして同じ様な経験をしたであろう、多くの他国からアメリカへやって来た人たちへの暖かく愛しい目線で描かれる名作です。2人の娘、クリスティとアリエルを連れてカナダ経由でアメリカにやってきたジョニーとサラ夫妻。入国規制が緩いカナダ経由でNYに入ろうとした冒頭から緊迫感が漂います。なぜ彼等はアイルランドからニューヨークへやってきたのか。言葉では言い表せない喪失をなんとか心機一転に変えるためにやってきたその理由は、作中で明かされます。小学校高学年の長女クリスティは長女らしいしっかり者。いつもハンディカムを回して家族を撮影しています。それは彼女が家族を俯瞰で観察し、必要とあればその均衡あやうい絆のバランスを保つため。物語は彼女の目線で語られていきます。一方幼い妹のアリエルは、その天真爛漫さで、新天地であるニューヨークの生活を子供ならではの柔軟性で楽しみ、家族を和ませます。そんな2人と対照的に、両親であるジョニーとサラは、まだぬぐいきれない喪失感と日々の生活の苦しさに余裕のない毎日。サラはジョニーに言います。「幸せなフリをして。子供たちのために。お願い」と。どんなに愛し合っていても、それだけでは超えられない悲しみがある。人には人それぞれの悲しみがあり、それを肩代わりすることはできないから。そんな生活の中、ヤク中患者の巣窟の様なニューヨークの治安の悪い地域のマンションに住む家族は、ハロウィンをきっかけに、謎の隣人マテオと出会う事になります。アリエルが「トリック・オア・トリートをやってみたい!」と言い出した事がきっかけ。これは、アイルランドからやってきた家族、というところに重要な意味が有ります!なんとアイルランドはハロウィン発祥の地でありながら「トリック・オア・トリート」がありません!これは、アメリカで生まれた独自の風習。アイルランド本国ではハロウィンは精霊や妖精が集うお祭りなので、日本でいうとねぶた祭りみたいに、でっかい山車が街を凱旋する。みたいなお祝いの仕方をします。(アイルランド在住1年。ザ・シネマ編成部にしこ体験談。)謎の隣人マテオははたして何者なのか?何者かどうかはさておき、彼との出会いで家族の運命が変わっていきます。学校の課題でハロウィンのコスチュームを作る事になった姉妹。姉のクリスティが「秋」の仮装をしたことを指摘された時に、「autumだね!」という母に「fall」よ!といいます。アイルランドでは秋の事を「オータム」と、アメリカでは「フォール」と言う。こういった文化の違いに子供たちが日々学び、格闘している姿をさらっと描くところも名匠の手腕。そして、クリスティ、アリエル姉妹を演じた実際の姉妹であるボルジャー姉妹。彼女達の純度の高いあの日々しか撮りえなかった瞬間を収めたというだけで、この作品には価値があると思います。クリスティが学校の学芸会で「デスペラード」を独唱するシーンの尊さ。アリエルの底抜けな純真さ。あえていいたい。この作品の主役は彼女達です。この作品の脚本は、監督のジムと娘の共同で書かれたもの。苦しく、懐かしく、そして輝かしかった日々であったことが、この作品を観ればわかります。必見です。■ © 2003 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.
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PROGRAM/放送作品
スパイ・ゲーム
ロバート・レッドフォードとブラッド・ピットの初共演で話題となったサスペンス・スパイ・アクション!
窮地に陥ったかつての弟子を救おうとするCIAエージェントをロバート・レッドフォードが演じ、彼が監督した『リバー・ランズ・スルー・イット』で彼の再来といわれたブラッド・ピットと初共演した話題作。
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COLUMN/コラム2017.12.10
名匠トニー・スコットの本領発揮、痛快なスパイ映画の傑作『スパイ・ゲーム』を吹替えでもいかが?~12月字幕+吹替え3バージョン
カリフォルニア州ロサンゼルスにある460mの吊り橋、ヴィンセント・トーマス橋。ロサンゼルス港とサンペドロ地区を結ぶ最高高所は56mというこの橋からの眺めは、カリフォルニアらしいビーチ風景ではなく、港湾工業地帯の無機質なものとなっている。 2012年8月19日、この殺風景な橋から老齢の男性が飛び降り自殺を図った。老人の名はアンソニー・デビッド・スコット。『エイリアン』『ブレードランナー』などで知られるリドリー・スコット監督の実弟で、トニー・スコットという名前で世界的な大ヒットを連発した名監督だ。 トニーは1944年6月21日、3人兄弟の末っ子としてイングランドで生まれた。ロンドン王立美術大学を卒業したトニーは、画家として活動しつつBBCでドキュメンタリーを撮りたいと考えていたが、長兄のリドリーの薦めで劇映画監督を志す。リドリーの設立したCM制作会社RSA(リドリー・スコット・アソシエーツ)でCMの監督としてその実力を認められたトニーは、1983年に小説『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』にインスパイアされて、同じ吸血鬼映画である『ハンガー』で長編映画監督としてデビューを飾る。カトリーヌ・ドヌーヴ、デヴィッド・ボウイ、スーザン・サランドンという豪華スターが揃った『ハンガー』はカルト的な人気を誇る作品となったが、興行的には成功とは言い難い結果となってしまった。 再びCM業界へと戻ったトニーのもとに、2人の男が訪れる。『ハンガー』を評価したドン・シンプソンとジェリー・ブラッカイマーだ。既存のハリウッド映画に飽き飽きしていたシンプソンとブラッカイマーは、まったく新しい映画を作れる監督を探していた。白羽の矢が立ったトニーは『トップガン』を監督。1981年に開局して大ムーブメントを巻き起こしていたMTVに倣い、映画をサントラのプロモーションビデオのように撮る斬新さと、細かなカット割りによる緊張感溢れるドッグファイトシーンが好評を博した。さらに主演のトム・クルーズは、本作によって世界的な大スターへの階段を駆け上がり、映画のサントラは爆発的な大ヒット。フライトジャケットのMA-1やレイバンのサングラスを着用したフォロワーが世界中に溢れるなど、これまでの映画とは異なるビジネス展開が発生するエポックメイキングな作品となった。 『トップガン』の大ヒットによって一役スター監督となったトニーだったが、その後の作品で『トップガン』を超える社会現象を巻き起こすような作品があったかというと微妙だ。シンプソンとブラッカイマーの出世作の続編『ビバリーヒルズ・コップ2』は前作を超えるヒットとはならなかったし、上り調子だったケビン・コスナーを主演に迎えた『リベンジ』も興行的には失敗となった。再びトム・クルーズとタッグを組んだ『デイズ・オブ・サンダー』はヒットしたものの、続くブルース・ウィリスの『ラスト・ボーイスカウト』は壊滅的な興行収入となってしまったのだ。 しかし『トゥルー・ロマンス』では痛快なバイオレンス・ラブ・ロマンスとして非情に高い評価を獲得し、盟友デンゼル・ワシントンと初タッグを組んだ『クリムゾン・タイド』は緊迫感溢れる潜水艦映画として大ヒットを記録した。ロバート・デ・ニーロとウェズリー・スナイプスが共演したストーカーサスペンスの『ザ・ファン』は奮わなかったが、『インデペンデンス・デイ』や『メン・イン・ブラック』で面白黒人枠でスターになったウィル・スミスをシリアスな役に挑戦した『エネミー・オブ・アメリカ』は興行的にも批評的にも成功を収め、再び売れっ子監督に返り咲いたトニーが2001年に監督したのが、この『スパイ・ゲーム』となる。 1991年。伝説のCIA工作員であるネイサン・ミュアー(ロバート・レッドフォード)は、この日をもってCIAを円満退職することとなっていた。しかし早朝から長年の友人であるCIA香港支局長のダンカン(デヴィッド・ヘミングス)からの電話で起こされることに。ダンカンからの情報は、ミュアーの愛弟子の工作員であるトム・ビジョップ(ブラッド・ピット)が、中国の蘇州刑務所での作戦中に拘束されたというものであった。しかもビジョップは中国で行われる別の作戦を途中離脱して、許可なく蘇州刑務所に潜入していたのだった。しかも折り悪く米中通商会談の直前ということもあり、アメリカ政府はビジョップ見殺しもやむなしの方向に流れていた。 CIA内では、何故ビジョップが職場放棄をしてまで蘇州刑務所に潜入したかを確認するため、ミュアーの上司であるフォルジャー(ラリー・ブリッグマン)とチャールズ・ハーカー(スティーヴン・ディレイン)らがミュアーを呼び出し、彼が知るビジョップの実像のヒアリングを開始する。そこでミュアーはビジョップと初めて出会ったベトナム戦争末期の暗殺作戦の話を語り始める。それはミュアーとビジョップの師弟関係と、CIA内でも誰も知らなかった様々な新事実が浮かび上がる15年に渡る長大な物語であった。そしてミュアーは決別していた愛弟子ビジョップを救うべく、ヒアリングの休憩時間の間をぬって、長年の工作員生活で培った手練手管を使っての救出作戦を策謀する。しかしビジョップ処刑までのタイムリミットはすでに20時間を切っていた……。 本作はロバート・レッドフォードとブラッド・ピットという新旧超絶ハンサム俳優の共演で話題となった映画なのだが、ただのハンサム俳優ではない二人の演技力が極限まで引き出された作品と言える。二人が演じたミュアーとビジョップの師弟関係の描き方が見事で、物語が進むにつれて二人の絆と確執が観る者の共感を呼ぶものとなっている。レッドフォードにとっては、僅かなチャンスを決して逃さないプロフェッショナリズムに徹しながらも熱い感情を内に秘めるミュアー役は、キャリアの後半の中でも傑出したキャラクターとなっている。筆者はこの作品から遡ること25年前に出演した『コンドル』でレッドフォードが演じた若きCIAエージェントのその後の姿がミュアーであると勝手に想像して楽しんだりしている。もちろんトンパチで生意気な天才エージェントのビジョップを演じたピットも素晴らしい。 トニーの演出も冴えまくり、トニーお得意の激しいカットの切り替えが過去と現在が入り混じる展開の中で効果を発揮。スパイアクションでありながら発生する激しい銃撃戦や、予想外の度を超えた大爆発も実にトニー映画らしい。また綿密に張られた伏線が、クライマックスで一気に回収される痛快な展開と、感動的でありながら決してしみったれた形で終わらない爽やかなラストは必見の作品となっている。 さて、本作はVHSやDVDなどのメディアに収録されたバージョンとテレビ東京の木曜ロードショーで放映されたバージョン、そしてフジテレビのプレミアステージで放映されたバージョンの3つのバージョンの日本語吹替え版が存在している。メディアバージョンはレッドフォード役と言えばこの人、野沢那智が担当し、ピット役は定番の山寺宏一が担当。そしてテレ東バージョンではテレ東・テレ朝のピット役の定番声優・森川智之と、レッドフォード役には広川太一郎が担当したりなんかしちゃったりしている。フジテレビバージョンのピット役は、日テレ・フジ版のブラピ定番声優の堀内賢雄が担当し、レッドフォード役には磯部勉という意外なキャスティングがされているのだが、これがまた望外にハマっている(広川版に近い感じ)。 何と今回はザ・シネマでこの3バージョンがすべて放送されるので、それぞれのバージョンを聴き比べて、名人たちの吹替えの妙を楽しんで頂きたい(筆者は原語版も含めて、テレ東版が一番のお気に入りです)。■
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PROGRAM/放送作品
バレンチノ(1977)
奇才ケン・ラッセルが、初期ハリウッドの大スター、ルドルフ・ヴァレンチノの波乱万丈の人生を描く。
『Tommy/トミー』をはじめ、独特の世界観と芸術性で知られるケン・ラッセルが、若干31歳でこの世を去ったサイレント映画時代の伝説的スター、ルドルフ・ヴァレンチノの生涯を描いた伝記的映画。
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COLUMN/コラム2014.09.04
あまりにも短すぎたキャリア絶頂期が過ぎ去った後、孤高の鬼才ウィリアム・フリードキンが放った刹那的な輝き〜『L.A.大捜査線/狼たちの街』、『ジェイド』
1960年代半ばにドキュメンタリーからフィクションの世界へと転身し、『誕生パーティー』(69)、『真夜中のパーティー』(70)という舞台劇に基づく異色作2本を発表。続いて『ダーティハリー』(71)と双璧を成すポリス・アクションの最高峰『フレンチ・コネクション』(71)で作品賞、監督賞を含むアカデミー賞5部門を制し、その2年後にはオカルト・ホラーの歴史的な金字塔『エクソシスト』(73)を発表して空前の社会現象を巻き起こした。 ところがフリードキンの時代は長く続かなかった。『エクソシスト』の後は『恐怖の報酬』(77)、『ブリンクス』(78)、『クルージング』(79)といった意欲作を世に送り出したものの興行的にパッとせず、あれよあれよという間に威光が衰えたフリードキンは、同世代のフランシス・フォード・コッポラ、ひと世代下のスティーヴン・スピルバーグらに追い抜かれ、置き去りにされてしまう。器用な職人監督にはなりきれず、なおかつ常人には理解しがたいこだわりを内に秘めたこのフィルムメーカーは、1980年代以降もメガホンを執り続け、トミー・リー・ジョーンズと組んだ軍事サスペンス『英雄の条件』(00)、筆者が愛してやまないナイフ・アクションの快作『ハンテッド』(03)、マシュー・マコノヒー主演の異色ノワール『キラー・スナイパー』(11)などで健在ぶりを示すが、その合間には数多くの失敗作を手がけている。 巨匠と呼ぶにはあまりにもキャリアの絶頂期が短かったフリーンドキンだが、このたびザ・シネマで放映される『L.A.大捜査線/狼たちの街』(85)は、彼が全盛時のパワーを取り戻したかのような刹那的輝きに満ちた力作である。物語は連邦捜査官のチャンスが、偽札製造のプロに定年退職寸前の相棒を殺害されるところから始まる。怒りの弔い合戦を決意したチャンスは、経験の浅い新たな相棒ジョンとともに犯人エリックを追い、執念深い捜査を繰り広げていく。 陽光眩いアメリカ西海岸が舞台とあって、フリードキン流の泥臭いドキュメンタリー・タッチが全開だった『フレンチ・コネクション』とはヴィジュアルのルックがまったく異なっている。とことんドライで、そこはかとなく「マイアミ・バイス」風のスタイリッシュ感をまとった映像を手がけたのは、この前年にヴェンダースの『パリ、テキサス』(84)とアレックス・コックスの『レポマン』(84)、翌年にジャームッシュの『ダウン・バイ・ロー』(86)に携わった撮影監督ロビー・ミューラー。砂漠などのロケーションが鮮烈な印象を残すこの映画は、やがてフリードキン作品らしく思いもよらない方向へと屈折し、法を遵守する立場のはずの主人公の凄まじい暴走を描いていく。 そのハイライトは、憎きエリックをあぶり出すための偽札作りの手付金の調達を上司に却下されたチャンスが、相棒をむりやり従わせて誘拐強盗を犯す場面だ。何とか5万ドルの入手に成功したものの、犯罪組織に追われる身となったチャンスとジョンは、車に飛び乗って逃走を図る。ところが逃げても逃げても敵がわき出してくるため、チャンスの車は行き当たりばったりで水路や線路を突っ走った揚げ句、高速道路を猛スピードで逆走し、一般市民の対向車を山のようにクラッシュさせていく。囮捜査の資金調達をめぐるプロット上のささいなエピソードをはてしなく肥大化させ、映画史上希に見る異様なカー・アクション・シークエンスを実現させたフリードキンの型破りな剛腕! 『フレンチ・コネクション』や『ハンテッド』にも色濃く見られたチェース・シーンへのただならぬ執着に圧倒され、唖然としつつも理屈を超えた感動を覚えずにいられない。 この怒濤のカー・チェイスに加え、エリック役の若きウィレム・デフォーのカリスマ性も見逃せない。序盤、エリックが砂漠の工場でひとり黙々と偽札製造を行うシークエンスは、まるで至高の芸術作品の創造に没頭するアーティストを連想させる。エレガントな狂気と神出鬼没の狡猾さを兼ね備えた出色の悪役を体現したデフォーは、これが出世作となって『プラトーン』(86)、『最後の誘惑』(88)、『ミシシッピー・バーニング』(88)といった話題作に相次いでキャスティングされることになる。エリックの運び屋に扮したジョン・タトゥーロの助演も要チェックである。 初見の方のために物語の行く末は伏せておくが、チャンスとエリックがついに直接相まみえるクライマックスには異常な展開が待ち受けている。法の裁きや復讐、偽札による金儲けといった思惑を超え、奇妙なまでに曲がりくねって行き着く男たちの壮絶な運命は、驚くほど呆気ないがゆえに極めてフリードキン的だ。おまけに、これほど登場人物が顔面に被弾する銃撃シーンの多い映画は珍しい。北野武監督のデビュー作『その男、凶暴につき』(89)に影響を与えたとも言われ、実際いくつかの共通点が見られる本作は、あらゆる点において何かが確実に狂っている映画なのである。 そしてザ・シネマにお目見えする、もう1本のフリードキン作品『ジェイド』(95)も紹介しておきたい。ある大富豪がアフリカ製の斧で惨殺されるという奇怪な猟奇事件が発生し、検事補コレリの調査によって“ジェイド(淫婦)”の異名を持つ井正体不明の美女の存在が浮かび上がる。カリフォルニア州知事のセックス・スキャンダルにも絡んでいる“ジェイド”とは何者なのか。ジョー・エスターハスが脚本を担当している点からも、『氷の微笑』(92)の二匹目のドジョウを狙ったことが明らかなエロティック・サスペンスである。 ところが男と男の因縁を描かせると天下一品のフリードキンに、男と女の淫らな秘密をめぐるこの企画を委ねるのは少々筋違いであった。いろんな出来事がめまぐるしく起こるので退屈はしないが、フリードキン的な濃厚さは乏しく、ストーリー上必要不可欠な官能性もいまひとつ。にもかかわらず本作には、“チェイス狂”フリードキンの本領発揮たるカー・アクションが盛り込まれている。主人公コレリの車が何者かにブレーキを破壊され、サンフランシスコの坂道を転がり落ちるシーン。さらに証人を殺害した運転手不明の車を追跡し、大勢のアジア系市民によるパレードでにぎわうチャイナタウンに乱入するシークエンス。もはや本筋のミステリー劇そっちのけで繰り広げられるこれらのカー・チェイスは、『L.A.大捜査線~』と同じく名スタント・コーディネーター、バディ・リー・フッカーとのコラボレーションによるものだ。また本作はジョン・ダール監督の傑作『甘い毒』(94)とともに、セクシー女優リンダ・フィオレンティーノの艶めかしい魅力が拝める代表作でもある。 ふと思えば『L.A.大捜査線~』のウィリアム・L・ピーターセン、『ジェイド』のデヴィッド・カルーソといういささか影の薄い主演男優ふたりは、それぞれのちに「CSI:科学捜査班」のギル・グリッソム、「CSI:マイアミ」のホレイショ・ケインという当たり役で名を馳せることになる。奇人とも暴君とも呼ばれる孤高の鬼才フリードキンは、ピーターセンやカルーソにどれほど現場で無茶な要求を突きつけ、彼らのキャリアにいかなる影響を与えたのか。そんな想像を思い巡らせながら鑑賞するのも一興かもしれない。■ COPYRIGHT © 2014 PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED.
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PROGRAM/放送作品
ビバリーヒルズ・コップ
エディ・マーフィの人気に火をつけた『ビバリーヒルズ・コップ』シリーズ、第1作目!
「ミッドナイト・ラン」『ジョー・ブラックをよろしく』などを手掛けたマーティン・ブレスト監督の出世作。製作には『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズのジェリー・ブラッカイマー、と豪華な顔ぶれ。
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COLUMN/コラム2017.04.02
下流社会、ワーキングプア、貧困連鎖、子どもの貧困、若者の貧困、貧困女子、貧困女子高生、女子大生風俗嬢、下流老人、老後破産etc。それをお仏蘭西語で「レミゼ」と言う
失業率が3%を切ってほぼ完全雇用が実現!? 人手不足で大変だ!だから賃金上がるかも。就活も空前の売り手市場だったしね❤︎などと景気のいいことばかりが言われております、春もうららな今日この頃。皆様いかがお過ごしでしょうか。今回は、放送回数が残すところあと2回となったレミゼについて書きます。 唐突ですが、下流社会、ワーキングプア、貧困連鎖、子どもの貧困、若者の貧困、貧困女子、貧困女子高生、女子大生風俗嬢、下流老人、老後破産etc。この10年でこうした不景気なワーディング、増えましたねぇ…。 お仏蘭西語でこれを何と言うか知ってます?何を隠そう「レ・ミゼラブル」と言うんです。 というわけで、レミゼという作品を格差や貧困問題とからめて話すことは、実は、意外と正攻法なのです。なので、しばらくは格差と貧困についての話にお付き合いください。 まずですけれど、上記の様々なワーディング、それぞれの発火点となった出どころは、たぶんコレら↓ではなかったしょうか。天下御免の公共放送様は受信料ぶんの良い仕事してますね!さすがです。 2005年9月16日発売 三浦展著『下流社会/新たな階層集団の出現』2006年7月23日放映 NHKスペシャル「ワーキングプア――働いても働いても豊かになれない」2014年4月27日放送 NHKスペシャル「調査報告 女性たちの貧困~“新たな連鎖”の衝撃~」2014年9月28日放送 NHKスペシャル「老人漂流社会 "老後破産"の現実」2014年12月28日放送 NHKスペシャル「子どもの未来を救え ~貧困の連鎖を断ち切るために~」2015年10月13日発売 中村淳彦著「女子大生風俗嬢 若者貧困大国・日本のリアル」2016年3月17日発売 三浦展著『下流老人と幸福老人』2016年8月18日放送 NHKニュース7「特集:子どもの貧困(に出てきた貧困女子高生うららちゃん)」2017年2月12日放送 NHKスペシャル「見えない“貧困”~未来を奪われる子どもたち~」 当時見たとき「これは…日本だいじょぶなのか!?」とかなりショックを受けた覚えがあり、事態はそれから年々悪化していったという実感がありますなぁ…。 「プレカリアート」という言葉もできました。これ「プロレタリアート」+「プレカリアス(【形】「不安定な」)」のカバン語。非正規雇用の人+そういう不安定な雇用形態のせいで失業してしまった人を指すワーディングです。 2009年2月26日発売 雨宮処凛著『プレカリアートの憂鬱』 この「プレカリアート」が90年代のグローバリゼーションの進行によって世界中で増え、西側各国で中間層が消滅して格差が広がり、ひと握りの狂ったスーパー富裕層が生まれる一方、大多数の国民(=大多数の有権者)が経済的な安心感を得られなくなって、その怒りと不安が今、豊かで自由だったはずの西側資本主義各国で、極端な投票行動の形をとって噴出し、世界を激変させています。これは世界史の大転換点になっちゃうかもしれません。まず悪い方への転換でしょうねえ…。 イギリスがEUを抜けてトランプさんが大統領になるという、いわゆる“内向き”というやつ。2017年いま現在目の当たりにしているディストピアSF的なこの現実も、すべては格差と貧困のせいです。格差と貧困はマジでヤバい!テロやミサイルに負けず劣らずものすごくヤバい!! なぜなら“内向き”、“孤立主義”、“保護主義”が行き過ぎると、いずれ国家間の戦争へと発展するからです(第二次世界大戦の原因は“保護主義”でしたからね ※注)。どうにか改善しなければもっともっと極端でヤバい事態におちいっていく、こんにちの自由世界にとって喫緊の課題が、この、格差と貧困問題でしょう。 ※注)第二次大戦10年前の1929年の世界恐慌の際、欧米列強が保護主義政策をとったことが、大戦の最大の原因です。「ブロック経済」と言いますが、英国£経済圏(=大英帝国圏)の「ポンド・ブロック」、南北アメリカ$経済圏の「ドル・ブロック」、そして金本位制をとり続けていた仏+蘭+ベルギーとその植民地からなる経済圏「金ブロック」と、自分たち仲良しグループだけの経済圏を作り、そこの中だけで保護貿易政策をとって経済を蘇らせようとしたのですけれど、このグループに入れなかったのがご存知、日独伊でした。植民地などの“圏”を持っていない“持たざる国”三国です。この三国が日独伊三国同盟を結んで結束しつつ、「オレたちも独自の経済圏を急ぎ築かねば!」と周辺国に勢力を伸ばそうとしたので軍事的緊張が高まり、各地で衝突を生み、しまいには世界大戦に突入しちゃって8000万人もの死者を出したのでした。トランプさんが「TPPいち抜けた!」と言った時、引き留めようと安倍さんが「自由貿易こそが世界の平和と繁栄に不可欠」と言ったのは、こうした歴史を踏まえているのですけど、はたしてこれからのトランプ時代の世界はどうなっていくのやら…。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ で、本題レミゼの話。『レ・ミゼラブル』という映画は、もとがミュージカルであることは皆さんご承知の通り。さらに大もとはヴィクトル・ユーゴーの大河小説だってこともご存知の通り。で、その原作レミゼのテーマこそ、何を隠そう実は、格差と貧困なのです!「レ・ミゼラブル」とは「悲惨な人々」という意味なのですから、もう、当然それがテーマに決まっています。 映画版(といってもたくさんあるので、ここではウチで放送している2012年のトム・フーパー版)も元のミュージカルも、格差と貧困をテーマにしているようには、正直それほど見えません。まず、原作は岩波文庫版で全4冊、新潮文庫版で全5冊というボリューム。ミュージカル版も映画版も2時間半を優に超す長尺ではありますけれども、その尺でこの原作小説4ないし5巻に書いてあること全てを再現するなんて、どだい無理な話。どうしても抄訳版というかダイジェスト的なものにならざるをえません。プロットを大づかみに追うだけで時間いっぱいで、一つ一つの挿話にまで言及している尺がない。これは長編小説の映画化の宿命です。それで、格差と貧困というテーマがかなり省略されちゃってる。 もう一つ、ミュージカル化された時代のニーズもあったかもしれない。映画の元になったミュージカル版は1985年にロンドンで初演されました。鉄の女サッチャー流の新自由主義「サッチャリズム」のせいで失業率が上がり賃金は下がっていた時代ではありますが(日本はこれから逆に失業率が下がりきったんで賃金が上がるそうな。だといいんだけどねぇ…)、80年代は今よりずっと浮かれ気分の時代でしたので(なにしろそこにテロと難民問題まではまだ絡んできませんでしたし、まだリベラリズムも健在でしたし)、格差と貧困問題がこんにちほどアクチュアルな時事テーマではなかったということもあったのかもしれません。そこ膨らませてもあんまし共感する人いないよ、そんな時代気分じゃないし、あんたネクラね、と。ネアカがウケてた時代だったのです。 というわけで、格差と貧困問題をそこまで掘り下げているようには見えないミュージカル/映画版ですけど、原作小説はタイトル通りそれこそが最大のテーマとして、長大な全編を縦串として縦貫しているのです。 たとえば主人公のジャン・ヴァルジャン。ひもじくてパン1斤を盗んだ罪により19年間も服役させられた、というところから話は始まりますが、映画版ですと「パンを一つ盗んだだけだ。妹の子が飢え死にしそうだった」と歌詞で一言説明されるだけなので、格差と貧困というテーマが深刻には浮かび上がってきづらい。しかし原作だと、読んでる方までしんどくなるくらいの赤貧描写でジャン・ヴァルジャンの前半生が綴られていきます。しかもこういう話はきょうび日本でも大いにありえそうなので、読んでいて余計にしんどい…。 以下、著作権が切れている豊島与志雄の翻訳版で、原作から直接引用します。 「彼はごく早くに両親を失った。母は産褥熱の手当てがゆき届かなかったために死に、父は彼と同じく枝切り職であったが木から落ちて死んだ。ジャン・ヴァルジャンに残ったものは、七人の男女の子供をかかえ寡婦になっているずっと年上の姉だけだった。その姉がジャン・ヴァルジャンを育てたのであって、夫のある間は若い弟の彼を自分の家に引き取って養っていた。そのうちに夫は死んだ。七人の子供のうち一番上が八歳で、一番下は一歳であった。ジャン・ヴァルジャンの方は二十五歳になったところだった。彼はその家の父の代わりになり、こんどは彼の方で自分を育ててくれた姉を養った。それはあたかも義務のようにただ単純にそうなったので、どちらかといえばジャン・ヴァルジャンの方ではあまりおもしろくもなかった。そのようにして彼の青年時代は、骨は折れるが金はあまりはいらない労働のうちに費やされた。彼がその地方で「美しい女友だち」などを持ってるのを見かけた者はかつてなかった。彼は恋をするなどのひまを持たなかった。」 「彼は樹木の枝おろしの時期には日に二十四スー得ることができた。それからまた、刈り入れ人や、人夫や、農場の牛飼い小僧や、耕作人などとして、雇われていった。彼はできるだけのことは何でもやった。姉も彼について働いたが、七人の幼児をかかえてはどうにも仕方がなかった。それはしだいに貧困に包まれて衰えてゆく悲惨な一群であった。そのうちあるきびしい冬がやってきた。ジャンは仕事がなかった。一家にはパンがなかった。一片のパンもなかったのである、文字どおりに。それに七人の子供。」 こうしてパンを盗まざるをえないところにまで追い詰められたジャン・ヴァルジャン。初犯です。ビビりながらやってるんで腰が引けてます。パン屋のおやじに追っかけられてパンを投げ捨て逃げるもとっ捕まり、懲役まずは5年…(後に脱獄未遂で合計19年に)。徒刑囚として首枷をはめられます。 「(前略)頭のうしろで鉄の首輪のねじが金槌で荒々しく打ち付けられる時、彼は泣いた。涙に喉がつまって声も出なかった。ただ時々かろうじて言うことができた、「私はファヴロールの枝切り人です。」それからすすり泣きしながら、右手をあげて、それを七度にしだいにまた下げた、ちょうど高さの違っている七つの頭を順次になでてるようであった。彼が何かをなしたこと、そしてそれも七人の小さな子供に着物を着せ食を与えるためになしたことが、その身振りによって見る人にうなずかれた。 彼はツーロン港へ送られた。(中略)過去の生涯はいっさい消え失せ、名前さえも無くなった。彼はもはやジャン・ヴァルジャンでさえもなかった。彼は二四六〇一号であった。姉はどうなったか?七人の子供はどうなったか?だれがそんなことにかまっていようぞ。若い一本の樹木が根本から切り倒される時、その一つかみの木の葉はどうなるだろうか。 それはいつも同じことである。それらのあわれな人々、神の子なる人々は、以来助ける人もなく、導く人もなく、隠れるに場所もなく、ただ風のまにまに散らばった、おそらく各自に別々に。そしてしだいに、孤独な運命の人々をのみ去るあの冷たい霧の中に、人類の暗澹たる進行のうちに多くの不幸な人々が相次いで消え失せるあの悲惨な暗黒のうちに、沈み込んでいった。彼らはその土地を去った。彼らの住んでいた村の鐘楼も彼らを忘れた。彼らのいた田畑も彼らを忘れた。ジャン・ヴァルジャンさえも獄裏の数年の後には彼らを忘れた。」 読んでて、正直しんどい…。「ただ風のまにまに散らばった、おそらく各自に別々に」って…生々しくてコワっ!一家離散ですよ。今の日本でも十分ありえそうってのがますますイヤですなぁ…。1985年(ミュージカル化された年)とか少し前であれば、このくだりを読んでもそこまで生々しくは感じなかったと思うんですが、いま読むとイヤ〜にリアルなんです。ま、完全雇用が達成され賃金が上がるんだったら、これからはそんなこともなくなるのかもしれませんが(ホントかよ!?)。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 続いてファンティーヌ。アン・ハサウェイが「♪夢やぶれて」を大熱唱しアカデミー助演女優賞に輝きました。あそこは確かに泣けるほど哀れでアカデミー賞も納得なんですが、原作を読むと、もっとずっとしんどい転落人生だったことがわかります。もう、まんまこんにちの日本の“貧困女子”や“女子大生風俗嬢”とおんなじなんです。 まず、映画を見ていても、男に逃げられシングルマザーになって風俗に身を沈めた、という転落過程の概略はわかりますが、これがディティールまで見ていくと予想以上にヒドい話でして。ファンティーヌは女子4人と男子学生4人でグループ交際をしてたんですが、グループデートに行ったある日、レストランで男子たちが突如いなくなり、待てど暮らせど戻ってこない。かなり経ってからウエイターが女子チームのもとに男子チームからのメモを届けに来て、 「愛する方々よ! われわれに両親のあることは御承知であろう。両親、貴女たちはそれがいかなるものであるかよく御存じあるまい。幼稚な正直な民法では、それを父および母と称している。ところで、それらの両親は悲嘆にくれ、それらの老人はわれわれに哀願し、それらの善良なる男女はわれわれを放蕩息子と呼び、われわれの帰国を希ねがい、われわれのために犢(こうし、子牛)を殺してごちそうをしようと言っている。われわれは徳義心深きゆえ、彼らのことばに従うことにした。貴女たちがこれを読まるる頃には、五頭の勢いよき馬はわれわれを父母のもとへ運んでいるであろう。(中略)すべて世間の人のごとくに、われわれの存在もまた祖国に必要である。われわれを尊重せられよ。われわれはおのれを犠牲にするのである。急いでわれわれのことを泣き、早くわれわれの代わりの男を求められよ。もしこの手紙が貴女たちの胸をはり裂けさせるならば、またこの手紙をも裂かれよ。さらば。 およそ二カ年の間、われわれは貴女たちを幸福ならしめた。それについてわれわれに恨みをいだきたもうなかれ。追白、食事の払いは済んでいる。」 とそのメモには書いてあったのです。つまりこれ、女子チームを置き去りにして永遠に姿をくらまし連絡も断つという、男子チームによる究極の“ヤリ逃げ”なのです。うん、クズ野郎だわ!まあ勝手なことを言いやがります。「両親、貴女たちはそれがいかなるものであるかよく御存じあるまい」とあるのはファンティーヌたちが孤児だからで、だから「両親」という言葉の意味もよく知らねーだろ、と言っていて、加えて「民法では、それを父および母と称している」なんてわざとバカにして言うあたり、良いとこのボンボンが孤児を見下しているのは明らか。二度と会うつもりのないヤリ逃げ相手への一方的な別れの手紙とあって、そうしたゲスな差別意識を隠そうともしていません。 かくしてファンティーヌはデキちゃった子供コゼットとたった2人きり経済援助もなく捨てられ(相手のクズ男は子供が生まれたことちゃんと知ってます)、ファンティーヌは食うために働かなきゃならず面倒見きれないのでコゼットを断腸の思いでテナルディエ外道夫婦に預け…という展開になってしまったのです。 今の日本でも、たまに外道な保育所に預けられた子供が虐待されたり死んじゃったりする痛ましいニュースが報じられますが、いやでもそれとダブります。園児を自治体への申告数より多く受け入れて一人あたりの給食を減らし利ザヤを稼いでいた外道すぎる保育園なんてのもありましたが、テナルディエにかぎらず、子供を引き取れば行政から助成金がもらえるということで、カネ目当てで子供を預かり、面倒なんかハナっから見る気なし、メシも与えず完全ネグレクトのド外道という輩は、19世紀のフランスにもいたそうです。 ちなみに、このファンティーヌの元カレにしてコゼットの実の父ですが、 「(そいつ)のことを語る機会はもう再びないだろう。で、ただちょっと、ここに言っておこう。二十年後ルイ・フィリップ王の世に、彼は地方の有力で富裕な堂々たる代言人となっており、また賢い選挙人、いたって厳格な陪審員となっていた。けれど相変わらず道楽者であった。」 というのが、そいつの語られざる後半生になります。ファンティーヌはとっくに亡くなりコゼットがアマンダ・セイフライドに美しく成長したくらいの時期に、このクズは、田舎の名士になっていたと。死んでほしいですね! 余談ながら、虐待里親テナルディエ外道夫婦の実娘はご存知エポニーヌですが、現代日本人が聞いたところで変だとも何とも思いませんけど、これ、今で言うところの“キラキラネーム”みたいなんです。19世紀フランスにもあったんですね!通俗小説とかのキャラにはありがちで(今だと2次元か)、普通は3次元のリアルな人間にはまず付けないような、なかなか奇抜なネーミングセンスらしいです。そうした珍妙な名前を貧しい人たちは我が子につけがち、ということを、原作者ユーゴーはいささか批判的に書いていますが、これもまた、格差と貧困の副産物と言ってもいいでしょう。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ それ以外も、原作ではほとんど全ての登場人物が、貧困階級の出身か、次第に貧困に堕ちていくか、一度は貧困を経験したことがあります。マリユスは金持ちの祖父の家を飛び出してから貧乏学生として苦学して身を立てますし、ジャヴェールは親が服役囚で刑務所生まれというコンプレックスの裏返しで犯罪者を異常に憎悪しすぎていて更生すら許さない。あと、原作には激レアお宝本のコレクター爺さんというのも出てくるんですが、この人はその歳まで世間様に迷惑をかけることもなく真っ当に生きてきたのに、だんだんと貧乏になっていって、食うにも困るようになり、人生のささやかな贅沢であったコレクションの本を切り売りして、とうとうそれさえ全て売り尽くし、最晩年に何もかも失って、ついに革命に身を投じる、男版「♪夢やぶれて」みたいな老後破産の下流老人で、実に泣かせるキャラなのです。 原作では、ヴィクトル・ユーゴーは序文を記しております。ちょっと難しいんですが、 <序>法律と風習とによって、ある永劫の社会的処罰が存在し、かくして人為的に地獄を文明のさなかにこしらえ、聖なる運命を世間的因果によって紛糾せしむる間は、すなわち、下層階級による男の失墜、飢餓による女の堕落、暗黒による子供の萎縮、それら時代の三つの問題が解決せられない間は、すなわち、ある方面において、社会的窒息が可能である間は、すなわち、言葉を換えて言えば、そしてなおいっそう広い見地よりすれば、地上に無知と悲惨とがある間は、本書のごとき性質の書物も、おそらく無益ではないであろう。一八六二年一月一日オートヴィル・ハウスにおいてヴィクトル・ユーゴー というのが全文。ここまで難しいのは全編でもこの序文だけで物語本編は先に引用したように全然わかりやすく読みやすいので、本編まで難しいのか!?と尻込みしないでいただきたいのですが、とにかくこの序文は意味不明です。 ワタクシ流に噛み砕くと、 前科者の社会復帰ということを法律や風習がまるっきし考慮に入れておらず、一度でも罪を犯したら人生そこで終了。または、下流社会、貧困女子、子どもの貧困といった問題が解決されない。つまり「社会的窒息」ということが起こりうる。言い換えれば「地上に無知と悲惨とがある間は、本書のごとき性質の書物も、おそらく無益ではないであろう。」 というようなことを言っているのだろうと思います。今の時代が、ユーゴーの生きた1862年と同じように、格差と貧困に苦しんでいるのだとしたら、この小説は今ふたたび、存在意義を取り戻し、読む価値がある、そして考える必要のあるものとして蘇った、と言えるのではないでしょうか。 よく「不朽の名作」などと軽々しく言います。不朽、「朽ちない」ということですけど、それってたいていの場合ちょっと大げさに誉めすぎだとワタクシ常々思っておりまして。普通は朽ちますって!映画でも小説でもマンガでも、物語ってものには賞味期限も消費期限も存在しますから、某ファストフードの腐らないハンバーガーじゃあるまいし、朽ちるのが自然、オワコンになるのが自然だと思うのです。 ただ、このレミゼに限ってだけは、こんにちの格差社会が行きすぎてしまった結果、1862年に発表されたこのフランス文学で取り上げられているテーマが、ぐるっと一周回って再びタイムリーになってしまったがために、155年も前の小説であるにもかかわらず、ものすごく旬なのです。155年目の今日、小説『レ・ミゼラブル』を読むと、旬感・不朽感がハンパありません。 映画版は、先にも書きましたが、格差と貧困というこの旬なテーマをそこまで掘り下げてませんので、見ていて「旬だ」、「タイムリーだ」ということは感じづらいのですが、原作小説の方はヤバいです! 原作は文庫で4〜5巻ととにかくボリューム満点で、しかもラノベみたいに改行がやたらと打ってあって白場が多いというものではなく、文字ビッチリ真っ黒で4〜5巻という純文学ですから、けっこう手ごわい大物。しかし、旬感・タイムリー感を味わうためには、映画版だけでなくぜひとも、この原作小説にもチャレンジなされることを、本稿では激しくお薦めしたいのであります。 副読本としてご推薦したい、大いに助けとなる本も1冊あるんです。鹿島茂著『「レ・ミゼラブル」百六景』(文春文庫、¥940)という本がそれ。映画版が公開されるタイミングで文庫化されたんですが、原作小説を読み解く上で、これは超役立つサイドブックです!見開きの左ページにはレミゼ原作本の19世紀の木版挿絵を掲載し、対向右ページには仏文学者の鹿島茂先生の文章が掲載されている。文章の前半半分ぐらいはその挿絵のシーンのざっくりダイジェストで、残り後半半分でフランスの歴史やその当時の世相などが解説されています。たとえばジャン・ヴァルジャンが盗んだパンは当時の労働者の日給と比較して幾らぐらいしたのか!?とか、ジャン・ヴァルジャンは姉と7人の甥・姪を養っていましたが、それが当時の肉体労働者の日当でまかなえるのか!?といったことが解説されていて、当時のフランス社会への理解が大いに進みます。原作にチャレンジされるのであれば座右にマストの必読本です。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ここまで本稿では、映画そっちのけで原作小説を激オシしてきましたが、では映画版に独自の価値はないのか?単なる原作のダイジェスト版にすぎないのか?と言えば、言うまでもなく、もちろんそんなことありません!当然じゃないですか!! というフォローを、最後に入れさせてください。 まず、映画版には歌がありますよね。音楽の感動は、どれだけ原作小説を読んだところで1デシベルたりとも得られません。当たり前です。原作には「♪夢やぶれて」も「♪民衆の歌」もありゃしません。 次に、映画版には映像があります。これも当然ですけど、19世紀前半のフランスの、街はどうなっていたのか?暮らしぶりはどうだったのか?登場人物たちはどんな服を着ていたのか?どんな部屋に住んでいたのか?それらを小説を読んで想像しろと言われたって無理です。それが、映画界最高峰のスタッフ、何度もアカデミー賞にノミネートされた美術のイヴ・スチュワートや衣装のパコ・デルガドらの一流の仕事によって目視できるのです。逆に、先に映画を見て映像を脳に焼き付けておけば、原作を読みながら服や街やインテリアを思い浮かべることは可能になります。 原作小説に当時の木版挿絵が載っていれば、服装や街の感じを19世紀の雰囲気ごと味わうことはできますけど、映画のように迫力まで感じることはできません。徒刑囚ジャン・ヴァルジャンが乾ドックで造船のような過酷な肉体労働に従事している冒頭の圧巻のシーンや、クライマックスの革命に立ち上がる群衆の感動的シーンなどは、木版挿絵でその迫力まで表現することは不可能です(ドックのシーンは原作にそもそも無いし)。さらに、出版元によっては挿絵を1カットも載せてないところもありますし。 あと、2時間半オーバーとはいえ、原作小説を読破するのと比べれば、そりゃはるかにお手軽に物語に接することができるというものです。ハショられてるとはいえ最低限あらすじは拾うことができます。世界文学の最高峰『レ・ミゼラブル』がどんなお話か、最低限知っているか知らないか。2時間半の映画版を見るだけで「最低限知っている人」の方のグループに入れちゃうんですから、これも大きなメリットでしょう。 と、映画にも独自の価値はありますが、それでも、やはり原作じゃないと得られないメッセージがあるということも確かなので、映画版のウチでの放送もあとわずかで終了します。その後でお時間にもし余裕がおありなら、ぜひ、映画を見た後で原作にもチャレンジしてみては?というご提案でした。■ © 2012 Universal Pictures. 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PROGRAM/放送作品
特番:映像が語る東西冷戦
東西冷戦に終わりを告げた「ベルリンの壁崩壊」、あれから20年の月日が経というとしている…
1989年11月9日、当時ベルリンを東西に隔てていた「ベルリンの壁」が崩壊。それは「東西ドイツ統一」の幕開けだった。冷戦の始まりから壁崩壊までの歴史を、時代を反映した名作映画やドキュメンタリーでふり返る。
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COLUMN/コラム2016.04.07
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2016年4月】うず潮
ロバート・ロドリゲス監督の『エル・マリアッチ』『デスペラード』に続くマリアッチ三部作完結編!『デスペラード』に続き主演は アントニオ・バンデラスが務め(第1作『エル・マリアッチ』の主演はカルロス・ガラルドー。本作では製作を担当)、バンデラスを操ろうとする悪徳CIA捜査官にジョニー・デップ、敵役のボスにウィレム・デフォー、その用心棒にミッキー・ローク、さらに ダニー・トレホと個性派俳優が大集結!面々ともに劇中で持ち味出しまくりです! あらすじは、→バンデラス、恋人を殺され引きこもりに…→デップ、麻薬王のデフォーが計画するクーデターを指揮する将軍の殺害をバンデラスに依頼→この将軍、バンデラスの恋人を殺した張本人!バンデラス、復讐に燃え仲間を集める→デップ、デフォーが将軍に支払う大金を横取りしようと画策するが… ロバート・ロドリゲス監督のアクション演出センスが光るガンファイトも、もちろん必見ですが、ジョニー・デップが劇中に着ているナイスなTシャツにもご注目。マジ笑えます!是非ご覧頂きたい1本です! © 2003 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.