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フェリーニ 大いなる嘘つき
インタビュー、メイキング映像、スタッフの証言…偉大なる創造者フェリーニの実像が明らかに!
F・フェリーニが亡くなる直前にD・ペティグリュー自ら行ったインタビューをベースに、巨匠の人となりや創作の秘密の一端を明かしていくドキュメンタリー。フェリーニ作品の未公開映像やスタッフの証言も満載。
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COLUMN/コラム2016.07.29
『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』公開~「このへんなようせいさんたちは、まだアイルランドにいるのです。たぶん。」~監督インタビューで迫る、「どうして“ポスト・ジブリ”と評されているのか!?」の謎
『オブ・ザ・シー 海のうた』は、日本ではまだあまり知られてはいないアイルランドのアニメーション監督の第2作だ。劇場長編デビュー作である前作は日本未公開。それでもこの監督とその最新作には、今回、日本人なら誰もが注目しておかなければならない。理由は、監督トム・ムーアと彼が創設したアニメ制作会社カートゥーン・サルーンが“ポスト・スタジオジブリ”と評されているからだ。その評判が本物だということは、2作しかない監督作がどちらもアカデミー長編アニメ映画賞にノミネートされていることで証明できる。 宮崎駿は引退した。一方のハリウッド勢、ピクサー&ディズニー、対するドリームワークスのアニメはここ十何年間か、実写も及ばないような映画の質的高みに昇りつめており、ユニバーサルもソニーも負けておらず、1作ごとに驚かされ泣かされている。だがいずれも宮さんが抜けた穴を埋めるような活躍ではない。たしかに素晴らしい傑作が矢継ぎ早に送り出されてはいるが、宮崎アニメの魅力は、それとは全く別のものだったからだ。 だがついに、ポスト宮崎駿が西の果てアイルランドから出現したというのである。それほどの監督のデビュー作が未公開で、2作目にしてようやく、字幕だけでなく吹き替えでも公開されると決まったというのだから、これは観ないわけにはいかない! 監督にインタビューするチャンスを得て、この機会に一日本人観客として迫りたかったのは、「何がどう“ポスト・ジブリ”なのか!?」という点だ。だが、そのインタビューに入る前に、まず今作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』のあらすじを紹介しておこう。 【ストーリー】海辺の灯台の家で、幼いベンはお父さんお母さんと暮らしていました。ベンは大好きなお母さんから「あなたは世界一のお兄ちゃんになるわ」と褒められて、赤ちゃんが産まれてくるその日を楽しみにしていました。優しくて物知りなお母さんはベンにたくさんのお話や歌を教えてくれます。巨人のマクリルと愛犬の物語や、アザラシの妖精セルキーが歌うと妖精が家に戻れる不思議な伝説、古い言葉で綴られる美しい歌など……。 ある晩、ベンはお母さんに海の歌が聞こえる貝の笛をもらいました。うれしくて、笛を大事に抱いて眠りについたのでしたが、目を覚ますとお母さんの姿がありません! お母さんは赤ちゃんを残して、海へ消えたのです。それから今も、ベンとお父さんの心は傷ついたまま。お母さんがいなくなったのは妹・シアーシャのせいだと思っているベンは、ついつい彼女に意地悪をしてしまうのでした。 6年がすぎて、今日はお母さんの命日でもある、シアーシャの誕生日。町からお祝いにやってきたおばあちゃんは、いまだに喋らない彼女が心配でたまらないようです。その夜、シアーシャは美しく不思議な光に導かれ、お父さんが隠していたセルキーのコートを見つけ、海へ入ってしまいました。悲劇の再来を恐れたお父さんはコートを海へ投げ捨ててしまい、おばあちゃんは嫌がる兄妹を町へ連れて行くのでした。町はハロウィンでお祭り騒ぎ。居心地の悪いおばあちゃんの家から抜け出した兄妹は、愛犬クーとお父さんが待つ家へ向かいます。そんなふたりの後を妖精・ディーナシーの3人組が追いかけます。彼らはシアーシャがセルキーだと気づき、フクロウ魔女のマカとその手下のフクロウたちのせいで石にされた妖精を元通りにしてほしいと頼んできたのです。その時、4羽のフクロウがシアーシャに襲いかかり、ディーナシーたちの感情を吸い取って石に変えてしまいました。その場は逃げ切ったふたりでしたが、ベンが目を離した隙にシアーシャがいなくなってしまいました。妹を探すうちにベンは語り部の精霊・シャナキーから、マカの歪んだ愛情が妖精の国と妹の命を消しつつあると教えられます。マカの魔力に勝てるのはセルキーの歌だけ。それもハロウィンの夜が明けるまでに歌わないと、すべてが消えるというのです。ベンは、妹と妖精たちを救えるのでしょうか!? 今作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』、映像がとにかく美しい。絵本が動いているような絵は、写実的なジブリというよりむしろ、デフォルメされた可愛いキャラデザととことんデザイン化された美術から、『まんが日本昔ばなし』とつい世代的にはたとえたくなってしまう。ケルト音楽バンドのKiLAによる音楽が、この絵本調の映像世界をよりいっそうフォークロリックに引き立てる。 「ジブリっぽい」というのは、そうした見た目上の表面的な部分ではなく、もっと深い、作品の魂の部分をさして言っているように個人的には感じられたが、そのことにはおいおい触れるとして、まずは監督に直接お礼を伝えたい。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 聞手:本当に美しかったです!ありがとうございました。映画を観てこんなに「きれい!」と思えたのは何年かぶりです。今回、今作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』と、デビュー作『ブレンダンとケルズの秘密』も拝見しましたが、有名な絵画へのオマージュを幾つか発見したような気がしています。パウル・クレーとかクリムトとか。当たっていますか? 監督:全くその通り!当たってます。 聞手:クリムトっぽいと感じたのは、今作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』にも前作にも美術の中に多用されている、渦巻き模様を見た時です。渦巻きのクルクルっと蔓が伸びるような動きを見ていてそう感じたのですが、あそこまで渦巻きにこだわって、繰り返し何度も何度も描いているのは、いったいどういう理由からなのでしょう? 監督:渦巻きや螺旋、それに幾つか重ねた円。それらはケルト人に先立つ太古の時代のピクト人*01たちが遺した装飾なのです。ピクト文化というのは、アイルランドやスコットランドに大昔あった石の文化ですね。 私の映画ではイメージ作りのため、そうした古代のデザインを取り入れています。大昔の文化と現代の芸術をつなぐということは、この映画で達成しようとしている試みにとって大変に重要でして、劇中、神話や民話のキャラクターと人間のキャラクター、2人の異なるキャラクターを、そっくりの顔に描いたり声優にも1人2役やってもらっていたり、リンクさせているのですが、それも同じ狙いからです。 この映画は、古い民話の中に私たちの芸術を見出すことはできるか?私たちの真実を民話の中に見つけることはできるか?そこにチャレンジしようとしています。古い民話を現代の観客のために描き直す、解釈し直す、ということに挑みたかったのです。 *01…今のイギリスのスコットランド辺りにいた先住民族。アイルランド人やスコットランド人、ウェールズ人の祖でもあるケルト民族の一派ともされるが、言語系統が不明で、ケルト系ではない可能性もあり、謎が多い。 そういうわけで、ピクト人が遺した様々なイメージ、石に刻まれた模様などを、アートディレクターのエイドリアン・ミリガウに見せた時です。彼が「これはパウル・クレーやカンディンスキーだ!」と言った。それらの現代美術も古代のデザインから引用していたんですね。 聞手:古代のデザインを現代美術の巨匠たちが引用し、その絵画と、そもそもの古代のデザインを、あなたは作品にさらに引用して、古代と現代をつなげる、ということを試みているわけですね。しかし、なぜ古代と現代をつなぐことがあなたにとってそこまで重要なのですか? 監督:アイルランドでは95年から07年まで「ケルトの虎」と呼ばれる高度成長期があったのですが、その時に不安を覚えたからです。昔ながらの風景を残さず、その上に舗装道路を作ろうとしたりショッピングモールを建てようとしたり。社会の表層、上の層が塗り変えられていくのと同時に、その下の層にある、いにしえの文化までもが忘れ去られようとしている。そのことに危機感を募らせたのです。 聞手:東京も同じですね。日本で高度成長というと戦後の1960年代だったのですが、我々日本人は、監督の仰る“下のレイヤー”まで東京をメチャクチャに掘り返してしまって、もう原状回復はとても無理そうです。江戸の町を思わせる遺構も文化も今ではほとんど残っておらず、残念でなりません。ダブリンはどうでしょう?原状回復できそうですか?もう手遅れですか? 監督:私は、ダブリンの中心街のどこにでも、古い時代の遺跡やその名残りみたいなものが今でも残っていると感じますね。ところで、自分はとてもラッキーだったと思っているのですが、私はキャリアの中で2つの時代を経験しているんですよ。お金はいっぱいあるけれども価値観がなかなか思う方向に行かない時代と、あまり経済は良くないけれども、その中でも芸術を大事にしていこうという時代です。まず、スタジオを99年に設立したので、当時は好景気でしたから政府の助成を受けながら映画作りを始めることができました。 やがて08年にバブルが崩壊すると、今度は、経済が危機的状況でも芸術は大切なのか?という課題に取り組むことになったのです。「ケルトの虎」が崩壊したこの経済危機の時にアイルランドが直面したのは、物質文明から脱却するにはどうしたらいいのか、という大きな課題でした。この時に人々の考え方は大きく変わりましたね。失いかけていたものを思い出し、それを大切にしようと考えるようになった。幸か不幸かアイルランドの経済成長期は先進国の中でも遅くやってきた方なので、古いライフスタイルを守っていったり蘇らせたりできる選択肢が、その時点でも私たちには残されていたのです。 しかし、一方で私は、古くからの文化というものは消そうと思ったってそう簡単に消え去るものではないとも思っていますが。私たちの世界観の中にあまりにも深く、物の見方として根付いてしまっているからです。例えば音楽ですね。 聞手:今作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』の音楽を担当しているKiLAのケルティッシュ・サウンドがまさにそれですね。日本では何年か前に「トイレの神様」という曲が流行ったのですが、おばあちゃんの訓えで「トイレには神様がいるからいつも清潔にしておきなさい」といった歌でした。日本には八百万の神がいると言われています。トイレにまでいる。田舎に行くと道路脇に『千と千尋の神隠し』の冒頭に出てきたような石の祠や道祖神が、今でもそこらじゅうに建っています。宗教として信仰しているというほどのことはなくても、たとえばその祠を蹴り倒したりするのは、とても罪悪感を覚える、バチが当たったって不思議はない、と、ちょっと畏怖する程度には今でも誰もが信じています。 アイルランドではどうなのでしょう?今作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』も民話の妖精たちがたくさん出てくる物語ですし、日本でも“妖精の国アイルランド”といったイメージを、貴国や欧米文化に少し詳しい人ならば抱いていますけれども、そうしたイメージ通りなのでしょうか? 監督:私の祖母の世代はトゥアハ・デ・ダナーン(Tuatha Dé Danann)*02やディーナ・シー(daoine sídhe)*03の存在を本気で信じていましたね。カトリックを信じるのと同時に妖精の存在も100%信じていて、教会に行くかたわら妖精にもお供え物をしていた。その信仰はアニミズム*04的な色合いが濃くて、自然や大地への尊敬、あるいは畏怖というものを祖母たちは持っていました。 *02…アイルランド・ケルト神話に出てくる神族。現在アイルランドに暮らす人間のケルト民族との戦いに敗れたこの神々は、塚の奥底深くや海の彼方へと逃れ隠れて暮らすようになり、キリスト教が伝来してからは体も小さく縮んで妖精(sídhe)に落魄してしまった。*03…02の神々のなれのはての妖精(sídhe)のこと。今作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』にも、主人公兄妹を不思議な冒険に導くキーキャラクターとして、3人の老ディーナ・シーが登場する。*04…「精霊信仰」のこと。原始宗教の特徴とされる。例えば日本の“山の神”、“川の神”、“滝や奇岩を御神体として拝む”、“古道具に魂が宿る”といった信仰は典型的なアニミズム。 今、アイルランドもまるでアメリカの一角みたいな風景に変わりつつある中で、祖母たちのような時代は永遠に過ぎ去ろうとしている。ですが、例えば先ほどあなたが言っていた流行歌とか、そういった形でもいいので、新しい信仰の形、文字通りの信仰ではないし呪術的なものでもないけれど、そうした新しい信仰のあり方を通して、アニミズムへの思いや“何かを尊重する”ということを、現代の世代は受け入れ、引き継いでいけるのではないかと考えています。 アイルランドにエディ・レニハンという現代のシャナキー(Seanchaí)*05がいるのですが、彼が「フェアリー・ツリー」と呼ばれている1本の樹を守る運動をしていたことがありました。自分の体を樹にくくりつけ、樹を倒して道路を作ろうとしている人たちに抵抗したのです。その運動のおかげで樹は倒されず道路が樹の周りを二手に迂回して作られることになったのですが、ある時私は彼に「その樹が本当に妖精の樹だと信じていたのか?」と聞いてみたことがあるんです。すると「いや、そうは言わない。だが私にこの樹の言い伝えを聞かせてくれた人は確かにそう信じていた。樹を守る理由としてはそれで十分じゃないか」と言うのです。妖精を信じる/信じないではなく“何かを尊重する”という態度の問題なのだと私は考えています。 *05…アイルランド・ケルト人の語り部のこと。古代、ケルト人は氏族の歴史と掟を明文化せず、それらを語り部の暗唱に頼った。したがってシャナキーは氏族社会において尊敬された。現代においてはアイルランドの口承文学・伝統芸能とみなされている。 聞手:私事で恐縮ですが、うちの近所に敷地が凹型の家がありまして、へこんだところには『となりのトトロ』に出てくるような大樹が生えており、おそらく御神木か何かで切れなかったんだろうと思うのです。貴国と日本は考え方が似ていますね。今作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』に出てくるセルキーの伝説も、もともとは、アザラシは毛皮を脱ぐと中身が美女で、毛皮を人間の男に隠され結婚させられるが、何年かして毛皮を見つけ出してアザラシに戻り、子供を残して海へと帰ってしまうという話だと本で読みました。これも、日本の天女の羽衣伝説にあまりにもソックリで、ビックリしています。ところで、今作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』で主人公兄妹を引き取って都会に連れて行く、ちょっと偏屈そうなおばあちゃん。家中にキリストの聖画とか十字架とかを掛けていましたが、あのキャラクターだけとても宗教色強く描いている意図は? 監督:特にそういう意図では描いていません。むしろ、カトリックがアイルランド中で広く信仰されていると描こうとしていますよ。例えば、子供たちがバス停でバスに乗り込むシーンでは、あれは停留所が教会の前だったでしょう。そしてバスを降りたところから歩くと聖なる泉にたどり着きますが、そこの祠にはマリア様の像がたくさん飾られている。歴史的には聖母信仰やキリスト教は、その前のアニミズムの様々な女神たちの信仰に覆いかぶさるようにして信じられていったのです。この映画の中でも、聖なる泉の祠のシーンでは、入るとすぐにキリスト教の文化があって、そこから先、奥へ奥へ、地下へと降りていくと、深い所は偶像崇拝の異教的な世界が広がっており、そこを主人公は進んでいくことになるわけです。 聞手:2つの宗教や異文化が混ざり合う「シンクレティズム」ですね。日本でも、例の八百万の神というのを信じるアニミズム的な土着の神道と、外来の仏教という2つの宗教があって、その2つは歴史的に「神仏習合」とか「本地垂迹」とかいった混淆現象をよく起こしています。 監督:面白いですねえ。ちなみにアイルランドには聖人崇拝があります。全員キリスト教の聖人ということになってはいますが、もともとはケルトの神々だったのです。昔の神の性格を引き継ぎながらも、キリスト教の聖人として新たにフィクションとして作られたのではないかと私は考えています。あと、アイルランドと言えばセント・パトリックス・デーが有名でしょう?シンボルマークが三ッ葉のクローバーで、それはキリスト教の三位一体に由来すると一般的には信じられていますが、もっともっと古い時代の名残りではないかという説もあるのです。聖パトリック*06以前から、先史時代から、アイルランドには三位一体信仰があって、3人の女神を信仰していたとも言われているのです。私の考えでは、ある宗教が入ってきて何かを乗っ取ってしまうのではなく、土着の信仰と融合して現地化していく信仰のあり方が一番うまくいくと思います。 *06…アイルランドにキリスト教を布教したとされる聖人。その命日がセント・パトリックス・デーで、本国のみならずアメリカなどでもアイルランド系移民(および全然関係のない異民族異人種)によって祝われ、映画の中でもしばしば描かれる。 聞手:今作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』で物語のメインとなるのはハロウィンの1日ですが、ハロウィンも、土着の古代ケルトの祭りが後に外来のキリスト教と混じり合ったシンクレティズムの顕著な例ですね。 監督:その通りです。ハロウィンはケルトの言葉では「サウィン(Samhain)」と呼ばれていましたが、ケルト暦では1年間でもっとも重要な日だとされていました。現実世界とそうでない世界、この2つの世界を隔てる壁がとても薄くなる日です。ディーナ・シーたちがそのままの姿で歩き回っても怪しまれない日なんてハロウィンだけです。ヒントを得たのは『E.T.』です。ほら、思い出してみてください、あの映画でも子供たちがETを連れて外に出るのはハロウィンだったでしょう?あと個人的な話ですが、忘れもしない87年の出来事で、当時私は10歳でしたけれど、ハロウィンの晩に大嵐が来たことがあって、私と妹はとても怖がったのですが、そんな時、母が「この風はシェイダン・シー(séideán-sídhe)という、妖精が家に帰る時に吹く風なんだよ」と教えてくれました。あのシーンは『E.T.』だけでなくそんな子供時代の思い出からも着想を得ているんです。今作のクライマックスには、主人公たちが家に無事たどり着けるように先導してくれる2頭の犬の精霊が出てきますが、あの犬は風が形をとっているという設定です。なので、駆け抜けていくところを、つむじ風として表現していて、民家の戸板を吹き飛ばしたりする。風とハロウィンが結びついているのは、極めて個人的な私自身の思い出から来ているんですよ」 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 今作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』(と前作)を見て、インタビューも終えた今、大いなる疑問であった、この監督と彼の制作会社の「何がどう“ポスト・ジブリ”なのか!?」が解ったような気がする。 ジブリ、というか宮崎駿は、主に『となりのトトロ』、『もののけ姫』、『千と千尋の神隠し』の3作品で、埼玉の鎮守の杜にそびえるクスノキの大樹や、粗大ゴミが不法投棄される川に今も神はいて、さかのぼって(と言ってもたかだか500年ほど前の)戦国時代の深い森には荒ぶる神々がおり、森を切り開く人間どもと生存競争をくりひろげていた、ということを描き、20世紀を生きていた当時の我々に見せつけた。そうやって日本のあまねく一般大衆に、日本はアニミズム息づく神の国なのだという事実を再発見させたのである。この世ならざる巨木や奇岩の前に立つ時、条件反射的かつ生理的に畏怖の念を覚え、それに神性すら認めてしまう我々としては、大いに納得がいったものだった。あの感覚を実感として生々しく感じた覚えのある我々日本人の前に、宮崎アニメは民俗学的説得力、宗教社会学的リアリティをもって提示され、この国には、目にはさやかに見えねども、八百万の神がいるのだと、あらためて信じさせてくれたのである。「このへんないきものは、まだ日本にいるのです。たぶん。」とはよく言ったものだ。だがいつか、マックロクロスケことススワタリのように(彼らもまた言うまでもなく神様だ)居づらくなったからとコッソリ出て行かれたりしないよう、我々日本人はこれからも、トトロ神やニギハヤミコハクヌシにお供え物を絶やさず、その神域をいつも清め(トイレの神様にそうするように)、お祀りしなければならないのである。 続いては、世界がニッポンを再発見する番だった。一方で仏教といういわゆる“高等”宗教(または普遍宗教)を持ちながら、あわせて、このような古代からの宗教観(いわゆる“原始”宗教または民族宗教)も持っている日本人。それが、その精神構造のままで、当時世界第2位の経済大国にまで昇りおおせている。最先端のテクノロジーを使い倒している。その現実の、途方とてつもないギャップたるや!ファミコンを作り『AKIRA』を作り半導体を作り低燃費高性能な自動車を作りながら、同時に、クスノキの神や川の神を信じてもいる日本民族。宮崎アニメは世界にその超絶ギャップも再発見させ、激しくギャップ萌えさせたのだった。なんと摩訶不思議な民族なのだろう、日本人という連中は! トム・ムーア監督とカートゥーン・サルーン社の作品を観ると、あの当時と同じ発見がある、驚きが蘇る、ということなのだろう。確かに“ポスト・スタジオジブリ”である。ジブリに、とりわけ宮崎アニメに、なかんずく『トトロ』、『もののけ』、『千と千尋』の3本の偉大さに、極めて近いところまで迫っている、と強く感じさせる魅力がある。 カトリックという普遍宗教を奉じながら、太古の神々のなれのはてである妖精たちの存在を今なお心のどこかで信じているアイルランドの人々。そんな精神風土の過去と現在をつないで作品に描くアニメ作家の出現に、世界は再び驚嘆し、映画的な幸福をかみしめながら次作を待望している。「ヨーロッパ文明の一角に、しかも西欧圏に、原始アニミズムを信じる民族がいた!」 かつてイエイツらによるケルト復興運動によって19世紀に一度は再発見されたその魅力も、リバイバルから百年以上が経過して推進力が落ちつつあった。いま三たび、世界は不思議の国アイルランドを驚きをもって発見したのである。 その驚きと、豊かで自由なアイルランドの精神風土への憧れが、2本しかないトム・ムーア監督の作品にどちらも、アカデミー長編アニメ映画賞ノミネートという高い評価を与えさせたのだろうう。彼の映画を観る時間、観客は、どこの国のなに人であったとしても、赤毛にそばかすのアイルランドの子供になるという疑似体験ができる。現地を旅したってせいぜい旅人気分しか味わえない。その文化の“中の人”だけが本来有している民族の目を持てる、というこのことは、すぐれて映画的な体験だ。まさに宮崎アニメがそうだったように。 であるのだから、03年に宮崎駿の『千と千尋の神隠し』がそうなったように、トム・ムーア監督作品もアカデミー賞受賞の栄誉に輝く日が、遠からず来るのではないかと感じる。■ 監督:トム・ムーア 出演:デヴィッド・ロウル、ブレンダン・グリーソン、リサ・ハニガン、ルーシー・オコンネル 脚本:ウィル・コリンズアートディレクター&プロダクションデザイン:エイドリアン・ミリガウ音楽:ブリュノ・クレ、KiLA 2014年/93分/アイルランド・ルクセンブルク・ベルギー・フランス・デンマーク合作/カラー/ビスタサイズ/DCP/5.1ch/原題:SONG OF THE SEA /日本語字幕:山内直子・高崎文子 ©Cartoon Saloon, Melusine Productions, The Big Farm, Superprod, Nørlum 提供:チャイルド・フィルム、ミラクルヴォイス、ミッドシップ配給:チャイルド・フィルム、ミラクルヴォイス宣伝:ミラクルヴォイス 後援:アイルランド大使館 2016年8月20日(土)、YEBISU GARDEN CINEMA他全国公開!http://songofthesea.jp/
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最新映画情報
最新映画の公開情報や最新DVDの発売情報を放送。来日した監督、スターの記者会見、インタビューなどもお送りします。
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COLUMN/コラム2017.11.15
五臓六腑にサイモン・ペグが染み渡る珠玉のダークコメディ『変態小説家』~11月08日(水)ほか
■ブリットコムの伝統を踏襲しつつ、新しい境地に立つ怪作 児童作家から犯罪小説家へと転身を図るべく、ビクトリア朝時代の連続殺人事件を研究していた主人公ジャック(サイモン・ペグ)。ところがそのうち「自分も殺人鬼に殺されるのでは?」という妄執に取り憑かれ、引きこもり状態になってしまう。そんなある日、ジャックはエージェントから「ハリウッドの経営幹部があなたの仕事に興味を抱いている」と聞かされ、その重要会議に出るための準備を迫られる。そして彼が家から一歩外へと踏み出したとき、ジャックはさらなる恐怖と直面することになるのだ! 『変態小説家』……いやぁ、それにしても、ため息が漏れるくらいひどい邦題である。原題も“A Fantastic Fear of Everything”(すべての素晴らしい恐怖)と、冒頭のストーリーを踏まえていないと抽象的で理解に困るが、それでもその不忠実さは邦題の比ではない。せめてもうひとつばかし知恵を絞り『妄想小説家』くらいのニュアンスを持たせて欲しかった。それというのも、この要領を得ない邦題のせいで、本作の持ち味がいまひとつ周りに伝わっていない気がするからだ。 そう、このサイモン・ペグ主演のホラーコメディには、いろいろと楽しい要素が詰まっている。まずパラノイアに陥ったジャックの心象が、彼の手がけた児童文学の形を借り、不条理な世界を形成していく異様な語り口が独特だ。そこへ加え、密室から外界へと舞台が移行していく急展開の妙や、細かな伏線を抜かりなく回収していく「空飛ぶモンティ・パイソン」(69〜74)式の構成など、由緒正しいブリットコム(英国コメディ)の韻を踏まえつつ、この映画ならではの世界を形成しているのだ。そもそも主人公が殺人鬼の影に支配される設定からして、ブラックな笑いを特徴とするイーリング・コメディ(英イーリング撮影所で製作された黄金期のコメディ作品群)の様式をまとい、ブリットコムの古典的な流儀に対して敬意を示しているし、また同時にサイモン・ペグの盟友であるエドガー・ライト監督が成立させた、軽快にリズムを刻むフラッシュ編集を採り入れるなど、ブリットコムの最先端な手法にも目配りしている。そうした性質もあって、本作は『007』シリーズの撮影で知られるイギリスの伝統スタジオ、パインウッドが支援している低予算映画の第一回作品となった(撮影自体はもうひとつの伝統スタジオ、シェパートンで行なわれているのが皮肉だが)。 ■笑いの異能者による一人芝居を楽しめ! 本作を監督したクリスピアン・ミルズは、映画『キングスマン』(14)でも楽曲が使用されている英国ロックバンド「クーラ・シェイカー」のギターボーカルとして知られている。なによりもお父さんが、英国を代表する喜劇役者ピーター・セラーズの主演作を数多く手がけたロイ・ボールティング監督で、ブリットコムの血筋をひいた作り手といえる。事実、これが初監督とは思えぬ堂に入ったコメディ演出や、既知されるコメディ映画に類例のない不思議なお笑い感覚が全編にただよっている。 また共同監督として、レディオヘッドやザ・ヤング・ナイヴスのMVで知られるPVディレクター&アニメーターのクリス・ホープウェルが共同監督に名を連ね、彼が手がけたレディオヘッド「ゼア・ゼア」のPVに登場した、動物たちのモデルアニメーションが本作でも効果的に使われている。 だが何にもまして、主人公のジャックを演じたサイモン・ペグ自身の存在が、独特のユーモアとして機能している。特に映画の前半に展開される、彼の一人芝居は圧倒的な見ものだ。常に何かに怯えている狭心なさまや、外界を警戒していたジャックが意を決し、全ての元凶となるコインランドリーに向かうまでの葛藤を、ひたすらハイテンションな演技と、古典落語を演じる噺家のごとき言葉たぐりと感情表現で、観る者を飽きさせることなく劇中へと誘っていく。 このように主人公が常に不安を抱えた一人芝居は、主人公の女性が検診を受け、結果がわかるまでの感情の揺れ動くさまをリアルタイムで捉えた『5時から7時までのクレオ』(62)や、男性恐怖症の女性が妄執にとらわれていくプロセスを丹念に描いたロマン・ポランスキー監督の『反撥』(65)に近いテイストのものといえる。特に本作の場合、後者である『反撥』からの強い影響は明らかだ。象徴的に挿入される眼球のアップや、同作の主人公キャロルの画面から滲むような焦燥感など、それらを『変態小説家』は劇中で見事なまでに反復している。いちおう本作は『ウィズネイルと僕』(87)で知られるブルース・ロビンソン監督が執筆した小説“Paranoia in the Launderette”を基にしたという指摘があるが、こうした映画を出典とするディテールも、同作のプロデュースを務めているサイモンのオタク的なこだわりを感じさせる。 ■実際のサイモン・ペグは、映画とは真逆!? そんなふうに、プロデューサーとしてこの映画を成立させ、また劇中でも圧倒的なパフォーマンスを見せるサイモン・ペグだが、筆者が主演作『ホット・ファズ -俺たちスーパーポリスメン!』(07)の宣伝プロモーションで出会ったときの彼は、あの突き抜けて陽性な感じとは程遠い、物静かで知性的な雰囲気をただよわせていた。もちろん、ときおり楽しいコメントを提供し、周囲に笑いをもたらしてくれるが、それは同席したエドガー・ライト監督の談話を補足するような場合がほとんどで、自分から率先して笑いをとるようなことはなかったと記憶している。 『ショーン・オブ・ザ・デッド』(04)や『宇宙人ポール』(11)など、サイモンとの数多いコンビ共演で知られているニック・フロストは、こうしたコメディ俳優の二面性を主演作『カムバック!』(14)で取材したさい、以下のように語っていた。 「コメディ俳優は 実生活も笑いと楽しさにあふれていると思われがちだけど、コメディとドラマを自然体で演じるタイプの役者は、精神的にも相当の負荷がかかるんだよ」(*1) もっとも、このコメントは同じ頃に亡くなった名優ロビン・ウィリアムスの訃報に触れたものだったのだが(同作の劇中、ロビン主演のTVコメディ『モークとミンディ』(79)が引用されている)、先のサイモンの印象があまりにも強く残っていたので、筆者は反射的に彼の盟友サイモンのことを連想してしまった。 スクリーン上のサイモンと現実の彼との隔たりに、精神的負荷が起因していると思うほど短絡的ではないにせよ、フロストの話は笑いを生業とする役者にはテンプレのごとくついてくるものだ。しかしサイモンの場合、こうしたギャップをコントロールし、あえて自身の中で楽しんでいるフシがある。例えば先の『ホットファズ』のインタビューでも、 「僕はイギリスの、あまり事件が起こらない場所で育ったんで、ロンドンの観光地みたいなところで怪奇事件が起きたら面白いと思い、アイディアを膨らましたんだ」(*2) と発想のきっかけをこのように話していたし、ジェリー・ブラッカイマーが製作するハリウッド・アクション映画のテイストを拝借したことにも、 「ハリウッド・アクションに決して悪意を抱いているワケじゃなく、二兆拳銃の銃撃戦が田舎のパブで行われている、そんなセッティングのズレに笑ってほしいんだよ」(*3) と答えている。なので『変態小説家』で見せた演技も、こうしたギャップにこだわるサイモン自身を体現しているのかもしれない。単にインタビュー当日、虫の居所が悪かっただけかもしれないが、邦題が招く誤解を少しでも和らげるためにも、このようにまとまりよく結ばせてほしい。■ ©2011 SENSITIVE ARTIST PRODUCTIONS LIMITED
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PROGRAM/放送作品
クイーン・オブ・ザ・ヴァンパイア
悲劇のヴァンパイアがロックスターに!古典的な吸血鬼のイメージを覆すヴァンパイア・ホラー
94年のヒット作『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』の続編。前作同様、不死身ゆえの孤独な運命を背負うヴァンパイアの悲劇性を切り口にしながらも、ロック音楽を絡めて描くスタイリッシュホラー。
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COLUMN/コラム2018.11.16
『ゾンビ』のバージョン乱立の裏話(ロメロ本人によるインタビュー証言あり!)
■「ディレクターズ・カット版」とは? コアなファンにはいささか基礎的な話になるかもしれないが、この機会に整理しておきたい。 『ゾンビ』には大別して二つのバージョンがある。ひとつは本作の監督であるジョージ・A・ロメロ自身が編集を手がけた127分の「米国劇場公開版」。そしてもうひとつは、製作を担当したダリオ・アルジェントの監修のもとで編集された119分の「ダリオ・アルジェント監修版」だ。ストーリーは同じだが、細かなシーンの有無やサウンドトラック、残酷シーンなどに違いが確認できる。ちなみに1978年、日本で劇場初公開されたのは後者で、1985年に国内で初ビデオリリースされたときは、前者がマスターとして採用された。 今回の「ディレクターズ・カット版」は、前者である「米国劇場公開版」がキチンと形となる前のもの。ロメロが1978年の2月に本作の撮影を終え、同年5月に開催されたカンヌ映画祭のフィルムマーケットに出品するために、発表を急いだ粗編集のバージョンである。「米国劇場公開版」よりも12分長く、同バージョンにはないシーンがいくつも含まれている。代表的なものを以下に列記すると、 ■巡視艇基地でフラン(ゲイラン・ロス)とスティーヴン(デヴィッド・エムゲ)が強盗たちに詰め寄られるシーン。■神父がピーター(ケン・フォリー)とロジャー(スコット・H・ライニガー)に話すセリフが多い。■移動中のヘリでの会話が長い。■ピーターとロジャーがショッピングモールの管理室から偵察に出て、もう一度戻るシーン。■クリシュナ教信者姿のゾンビを撃退したあと、フランが「みんなこの場所に夢中で現実を見失っている。ここは刑務所と同じ」とスティーヴンに話すシーン。■ロジャーが死んだ後、3人がモール内での生活を送るシーンが「米国劇場公開版」よりも長い。 このカンヌに出品されたものは、ホラーやSF関連のコンベンションやカレッジなどでも上映され、正式なバージョンでないにもかかわらず、知る人には知られる存在となっていた。四つ星評価で有名な映画評論家レナード・マーティンのムービーガイドブック“Leonard Maltin's Movie Guide”には、かなり以前からこのロングバージョンのことが記されており、また日本では1985年にパイオニアLDCからリリースされた『ゾンビ』のレーザーディスクに封入されているライナーノーツ(執筆は光山昌男氏)にもこの『米国劇場公開版よりも長いバージョンのことが細かく触れられていた(同ライナーノーツでは『ゾンビ/アンカット・アンド・アンセンサード』と仮称) それから9年後の1994年。このロングバージョンは『ゾンビ/ディレクターズ・カット完全版』(ディレクターズ・カット版)というタイトルを得て、東京国際ファンタスティック映画祭にて日本で初上映され、新宿シネパトスを封切りに劇場公開されることになる。 ■ロメロ監督自身による「ディレクターズ・カット版」の位置付け こうした性質上、ロメロ本人はこれを正式な監督承認のものとは明言していない。同バージョンは前述したように、あくまで粗編集のものであって、完成した「米国劇場公開版」が監督自身の認めるバージョンである。そのため一般的に本国では、この「ディレクターズ・カット版」は「エクステンデッド・エディション(拡張版)」という呼称がなされている。 以下のインタビュー発言は2010年4月8日、筆者が『サバイバル・オブ・ザ・デッド』(09)のプロモーションでロメロに取材をしたときのものだ。雑誌用に起こした文字テキストから、使わなかった部分でこうした会話が交わされている。 ——『ゾンビ』には監督の手がけたバージョンは127分のアメリカ劇場公開版と、139分のエクステンデッド・エディション(ディレクターズ・カット版)がありますね。 ロメロ 僕自身、いろんなバージョンが出ているのは知ってるんだけど、それぞれのバージョンを全部は観ていないし、どれがどれだかよくわからない。契約上ダリオ・アルジェントがヨーロッパの公開版の権利を有し、彼がカットするという条件だった。それは彼の方がヨーロッパの観客の好みを知っていて、僕のほうがアメリカの好みを知ってるからっていうことで、だから僕がアメリカ公開版をカットした。それがオリジナル版かと言われればそれかもしれないし、ダリオのカットしたものもあるし、僕が一番最初にオリジナルをカットしたものもある。だから何をもってオリジナルかというのはわからないし、よく特典映像とか言って誰も観ていない映像ってのがあるけど、そういうのは僕も見てないくらいでね(笑)。いったい誰が撮ったんだというような映像があるもんね、『ゾンビ』には。 ——僕が知りたかったのが、ダリオ・アルジェント側に渡したという編集素材用の3時間ラフ・カットバージョンが存在するというのがあって、それは噂の域を出てなかったんですけども、それは本当に存在するんでしょうか? ロメロ ノーノー(笑)、あの作品を僕はそんなに撮影してないってば。 ■バージョン違いが生まれた背景 同作の熱心なファンとの温度差を覚える淡白な回答だが、ではなぜ「ディレクターズ・カット版」という、あたかも監督承認のようなタイトルがつけられたのか? これは1992年に公開された『ブレードランナー ディレクターズ・カット最終版』以降、興行的に耳馴染みのあるワードや語感を優先し、従来のものとバージョンの異なる作品を総じて「ディレクターズ・カット」と呼ぶ傾向にあり、本作もそれに準じたものといっていい。しかしロメロは自分で編集をおこなう監督だし、ディレクターズ・カットという呼称に決して偽りはない。むしろ粗編集版をさらに刈り込んでいるだけに「エクステンデッド・エディション」という呼び名にこそ違和感が残る。 なにより承認の有無にかかわらず、完成版を作っていくうえで、何が必要で何が切り落とされていくのか、その過程がうかがえるだけでも「ディレクターズ・カット版」は興味深いバージョンだ。まさに国文学の世界における「原典」と「異本」の関係にも似て、考古学的な興味を大いに喚起させられるものといえるだろう。 そもそも、なぜこうしたバージョン違いが生じたのかは、ロメロが言及したとおり流通権の分与が起因となっている。国内での資金調達に限界を覚えたロメロと製作会社「ローレル・グループ・エンタテインメント」の代表リチャード・P・ルビンスタインは、資金援助を海外に求め、同社の渉外担当であるアーヴィン・シャピロを通じて『ゾンビ』の脚本を海外の映画関係者に配布。それに反応したのが、当時最新鋭のサラウンド音響設備を活かしたいという理由で作品を探していた、プロデューサーのアルフレッド・クオモだったのだ。加えて氏がダリオ・アルジェンドへと脚本を手渡し、彼らはヨーロッパと極東、そして日本など英語圏以外の権利と引き換えに、イタリアの映画製作会社「ティタヌス」に流通権を販売。投資をバックアップしたのである。 また質問の後ろに出て来る「3時間バージョン」というのは、撮影と並行して作成され、アルジェント側にも編集の元として送られたワークプリントで「ディレクターズ・カット版」のさらに前段階のものだ。3時間は大げさだとロメロに否定されたが、実際それは2時間30分に及び、その一部は同作の秀逸なドキュメンタリー『ドキュメント・オブ・ザ・デッド』(85)の作中で見ることができる。だが残念なことに撮影監督のマイケル・ゴーニックによれば、これらの素材はすべて破棄されたという。◾️ ©1978 THE MKR GROUP INC. All RIGHTS RESERVED.
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PROGRAM/放送作品
インテルビスタ
映画愛そのものを映画として描いた巨匠フェリーニの大名作。代表作『甘い生活』のファンは必見
撮影班、出待ちの女優、大道具、取材陣…、撮影所の様子や映画制作の醍醐味、フェリーニの映画への愛がぎゅっと収められた映画。中でも『甘い生活』の二人が27年の時を越えて再会するシーンは見逃せない。
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COLUMN/コラム2019.01.01
フロイト的解釈で、良心とセックスを描く『昼顔』。ブニュエル監督曰く、その難解なオチの意味とは!?
スペインを代表する巨匠ルイス・ブニュエル。盟友サルヴァドール・ダリと組んだシュールリアリズム映画の傑作『アンダルシアの犬』(’29)で監督デビューし、社会リアリズム的な『忘れられた人々』(’50)から文芸ドラマ『嵐が丘』(’53)、冒険活劇『ロビンソン漂流記』(’54)、そして『皆殺しの天使』(’62)や『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(’72)のような不条理劇に至るまで、幅広いジャンルの映画を世に送り出したが、その中でも最も興行的な成功を収めたのが、第28回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を獲得した『昼顔』(’67)である。 原作はフランスの作家ジョゼフ・ケッセルが1928年に発表した同名小説。当時、長年住み慣れたメキシコを離れ、『小間使いの日記』(’63)を機にフランスへ拠点を移していたブニュエルは、『太陽がいっぱい』(’60)や『エヴァの匂い』(’62)で知られる製作者コンビ、アキム兄弟から本作の映画化を打診される。既に何人もの監督に断られた企画だったらしく、ブニュエル自身も全く気に入らなかったらしいのだが、むしろそれゆえ「自分の苦手な作品を好みの作品に仕上げる」ことに興味を惹かれて引き受けることにしたのだそうだ。 そこで、ブニュエルは『小間使いの日記』で既に組んでいた新進気鋭の脚本家ジャン=クロード・カリエールに共同脚本を依頼する。当時、ルイ・マル監督作『パリの大泥棒』(’66)の撮影でサントロペに滞在していたカリエールは、ブニュエルから「『昼顔』の映画化に興味はないか」との電話連絡を受けて、「あんな下らない凡作を映画にするんですか?」と違う意味で驚いたらしい(笑)。しかし、「原作にフロイト的な解釈を加えて、良心とセックスの関係性を描く」というブニュエルのコンセプトに関心を持ち、協力することを承諾したという。 主人公はパリに住むブルジョワ階級の人妻セヴリーヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ)。医者である夫ピエール(ジャン・ソレル)を心から愛している彼女だが、この仲睦まじい夫婦は重大な問題を抱えていた。セヴリーヌがいわゆる不感症で、夜の性生活が皆無に等しかったのである。そんなある日、女友達ルネ(マーシャ・メリル)から共通の知人が陰で売春をしているとの噂を耳にして関心を持ったセヴリーヌは、夫の親友ユッソン(ミシェル・ピッコリ)に場所を教えてもらった売春宿を訪れる。そして、マダムのアナイス(ジュヌヴィエーヴ・パージェ)から「昼顔」という源氏名を与えられ、午後の2時から5時までという条件で働くことになるのだった。 舞台を制作当時の現代へ移しているものの、基本的なプロットは原作とほぼ同じ。しかし、ブニュエルはそこへフロイト的な精神分析学の要素を加える。どういうことかというと、主人公セヴリーヌの深層心理を表すドリーム・シークエンスを随所に挿入しているのだ。それはいきなりストーリーの冒頭から描かれる。馬車に乗ったセヴリーヌとピエール。妻の不感症を責めるピエールは、2人の御者に命じてセヴリーヌを馬車から引きずり降ろし、激しく鞭で打ったうえにレイプさせる。夫の許しを請い抵抗しつつも、しまいには恍惚の表情を浮かべるセヴリーヌ。次の瞬間、シーンは寝室で語らう夫婦の様子へと切り替わり、以上がセヴリーヌの妄想であったことに観客は気付く。ここでハッキリと示されるのは、夫の性的な期待に応えられないことに対するセヴリーヌの罪悪感と、本当は強引に組み伏せられて凌辱されたいというマゾヒスティックな彼女の性的願望だ。 これはある意味、セックスの不条理を描いた作品といえるだろう。心では紳士的で優しい夫ピエールを愛するセヴリーヌだが、しかし彼女の体は暴力的で屈辱的な快楽を求めており、それゆえに温厚なピエールが相手では決して満たされることがない。しかも、彼女は自分のそうした淫らな欲望(ひいてはセックスそのもの)を「汚らわしい」ものと恥じており、こんな私はピエールの妻として失格だと考えているふしがある。彼を受け入れたら私の本性がバレてしまうかもしれない。だからこそ、夜の営みを拒絶してしまうのだ。 でも他の女性はどうなのだろう?みんなはどんなセックスをしているのか?そんな折、自分と身近なブルジョワ女性が売春をしているとの噂を耳にして、彼女はいてもたってもいられなくなる。しばしば、セヴリーヌがアナイスの売春宿で働き始めたのは、不感症を克服して夫の期待に応えるためと解釈されるが、それはちょっと違うのではないだろうか。まあ、結果的にそうなることは確かなのだが、むしろ己の不条理な性的欲望の正体を確かめるための探求心が原動力だったのではないかと思うのだ。 と同時に、本作は「女性の性」にまつわる「神話」を破壊するものでもある。ピエールはセヴリーヌに決してセックスを強要しない。拒絶されるたびに我慢して受け入れる。それはそれで良識的な行動であることは間違いないのだが、恐らくその根底には自分の愛する女性は純粋であって欲しい、貞淑な良妻賢母であって欲しいという願望があることは間違いないだろう。彼女に秘めたる欲望があるとは想像もしていない。つまり、セヴリーヌを勝手に美化しているのである。これは多かれ少なかれ男性が陥る罠みたいなものだ。彼が本来すべきは、何が問題なのかを彼女と話し合って解決していく姿勢なのだが、「男性と同じく女性にも性的欲求がある」という認識が欠如しているため、なかなかそこまで至らない。そういう意味では、セヴリーヌ自身も道徳的な「女性神話」に縛られている。だから自分の願望を口にすることが出来ず、愛しあいながらも夫婦の溝が深まってしまうのだ。 かくして、昼間は不特定多数の男を相手にする売春婦、夜は貞淑なブルジョワ妻という二重生活を送ることになるセヴリーヌ。最初のうちこそ強い抵抗感を覚えていたものの、様々な変わった性癖を持つ男性客や自由奔放な同僚女性たちと接するうち、次第に淫らな性の快楽を受け入れていく。女性に凌辱されて悶える中年男を見て「おぞましい」と言っていたくせに、大柄な東洋人男性から乱暴に扱われて恍惚の表情を浮かべるセヴリーヌ。それはさながら「女性神話」の呪縛からの解放であり、「私は決しておかしいわけじゃない」と彼女が己のマゾヒスティックな性欲を肯定した瞬間だ。そうやって徐々に自信を強めるに従って、それまでどこか他者に対して冷たかった彼女の態度は明らかに柔和となり、ピエールとの夫婦関係も格段に改善していく。ある意味、ようやく自分の人生を取り戻したのだ。 面白いのは、セヴリーヌがそうやって自信を付けていく過程で、現実と妄想の境界線もどんどんと曖昧になっていく点だ。例えば、カフェでお茶をしていたセヴリーヌが謎めいた貴族男性(ジョルジュ・マルシャル)に誘われ、彼の豪邸で喪服(といっても全裸にシースルー)に着替えて死んだ娘を演じるというシーンなどは、現実に起きたことともセヴリーヌの白日夢とも受け取れる。これはブニュエル自身があえて狙った演出だ。そもそも、セヴリーヌにとって貞淑な妻でいなくてはならない現実は悪夢みたいなもの。むしろ、己の性的願望を投影した妄想の世界こそが彼女にとってのリアルだ。なので、自己肯定を強めていくに従い、その境界線が曖昧になっていくのは必然とも言えるだろう。 ところが、やがてセヴリーヌにとって想定外の事態が起きる。横柄で乱暴なチンピラ、マルセル(ピエール・クレマンティ)との出会いだ。兄貴分のイポリート(フランシスコ・ラバル)に誘われ売春宿を訪れたマルセルは一目でセヴリーヌを気に入り、彼女もまた激しく暴力的に抱いてくれるマルセルの肉体に溺れる。といっても、もちろん愛しているわけじゃない。セックスの相性が抜群なのだ。しかし、単細胞なマルセルは勘違いしてしまう。次第にストーカーと化し、足を洗ったセヴリーヌの自宅を突き止めて押し入るマルセル。その結果、夫ピエールはマルセルに銃撃され、その後遺症で全身が麻痺してしまう。 この終盤のベタベタにメロドラマチックな展開も原作とほぼ同様。恐らく、原作を読んだブニュエルが「まるでソープオペラだ」と揶揄していた部分と思われる。だからなのだろう、最後の最後に彼は冗談なのか真面目なのか分からないオチを用意し、観客を大いに戸惑わせる。これもまたセヴリーヌの妄想なのか?それとも、ここへたどり着くまでの全てが彼女の思い描いた夢物語だったのか?見る人によって様々な解釈の出来るラストだが、ある種の爽快感すら覚えるシュールな幕引きは、本作が女性の魂の解放をテーマにした不条理劇であることを伺わせる。シュールリアリストたるブニュエルの面目躍如といったところだろう。 ちなみに、劇中で東洋人男性(日本人とも受け取れる描写があるものの、脚本家カリエールは中国人だと言っている)が、売春婦たちに見せて回るブンブンと音が鳴る箱。あの中身が何なのか?と疑問に思う観客も多いことだろう。中身を見たマチルダ(マリア・ラトゥール)は嫌な顔をして目を背けるが、しかしセヴリーヌは興味深げにのぞき込む。観客には一切見せてくれない。実はブニュエルもカリエールも、あの中身については全く考えていなかったらしく、見る者の想像に任せるとのこと。そういえば、ブニュエルは本作のラストについても「自分でもよく意味が分からない」と言っていたそうだ。なんとも人を食っている(笑)。 また、本作は主演のカトリーヌ・ドヌーヴとブニュエルの折り合いが悪かったとも伝えられているが、カリエールによると実際に険悪なムードになったことはあったそうだ。そもそもの発端は、撮影が始まって2~3日目に、ドヌーヴと夫役ジャン・ソレルが脚本のセリフに異議を唱えたこと。ちょっとセリフが陳腐じゃないか?と感じた2人は、自分たちで書き直したセリフを現場に持ち込んでブニュエルに変更を申し出たのだ。それを読んだブニュエルは、その場でにべもなく提案を却下。ドヌーヴとソレルは納得がいかない様子だったらしい。だからなのか、ドヌーヴは全裸でベッドに座って振り返るシーンの撮影で脱ぐことを断固として拒否。これにはブニュエルも激しく怒り、ドヌーヴがショックで気を失うほど怒鳴り散らしたという。結局、その日の撮影はそのまま中止に。しかし、翌日ドヌーヴはちゃんとセットに現れ、言い過ぎたことを反省したブニュエルがさりげなく声をかけると、それ以降は監督の指示に素直に従うようになり、撮影が終わる頃には強い信頼関係で結ばれていたそうだ。 なお、本作はドヌーヴをはじめとする女優陣がとにかく魅力的だ。セヴリーヌの女友達ルネには、『サスペリアPART2』(’75)の霊媒師ヘルガ・ウルマン役でもお馴染みのマーシャ・メリル、売春宿の女将アナイスには『エル・シド』(’61)などハリウッド映画でも活躍した名女優ジュヌヴィエーヴ・パージェ、気の強い売春婦シャルロット役には『マダム・クロード』(’77)で高級売春組織の元締マダム・クロードを演じたフランソワーズ・ファビアン。豪華な美女たちを眺めているだけでも楽しい。■ © Investing Establishment/Plaza Production International/Comstock Group
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PROGRAM/放送作品
グアンタナモ、僕達が見た真実
無実の青年達が見たテロリスト収容所の実態!アフガン侵攻の裏側を告発した衝撃ノンフィクション
9.11テロ後の米軍によるアフガニスタン侵攻に巻き込まれた青年達が不当に拘束された事件を、インタビューを交えて再現。社会派監督が驚愕の事実を世界に知らしめた本作はベルリン国際映画祭で監督賞を受賞した。
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NEWS/ニュース2012.06.05
最新イタリア映画 『シュン・リーと詩人』(仮題) アンドレア・セグレ監督インタビュー
これにあわせて、昨年のヴェネチア映画祭で称賛され、先の「イタリア映画際2012」でも本邦初上映された、『シュン・リーと詩人』(仮題)のアンドレア・セグレ監督にインタビューを行った。また、ザ・シネマの視聴者に向けて、イタリア映画の魅力・見どころについて一言メッセージをいただいた。黄金時代から、イタリア映画の”今”にも興味を持って頂ければ幸いです。 ※『シュン・リーと詩人』(仮題) ▼STORY“小さなヴェネツィア”と呼ばれる町キオッジャにある“パラディーゾ(天国)”という名のオステリア。地元漁師たちにとって文字通り天国のような憩い場となっているこの店で働き始めた女性シュン・リー。 片言のイタリア語しか喋れず、孤独と不安の中で働くシュン・リーだったが、“詩人”と呼ばれる年配の常連客ベーピと出会い、お互いの孤独を埋め合うように、次第に打ち解けていく。詩情漂うラグーナ(潟)の風景とともに描かれる、文化も歳も違う2人の心の交流。それぞれにとっての異国で出会った2つの魂は、静かに波紋を広げ、霧の中で彷徨い続ける。 ※今回、イタリア映画際にあわせて来日されたアンドレア・セグレ監督 Q : ドキュメンタリーから劇映画に進出したわけですが、何かキッカケがあったのでしょうか? A : ドキュメンタリーを撮りながら映画を学んだんですが、映画が自分の好きな芸術だなということが分かったので、役者を使ってフィクションも撮ってみたいなというふうに思いました。今後もフィクションもドキュメンタリーも撮っていきたいと思います。 Q : フィクションとドキュメンタリーって、やっぱりどちらも脚本があって映画が出来ますが、劇映画の場合は人を使わなければいけない。俳優を使わなければいけない。その、俳優を使うということに対してはどう思いますか? A : ドキュメンタリーの場合、枠組み(トリートメント)はありますが、脚本はなくて、何を撮りたいかと誰について撮りたいか、どこで撮りたいかということを考えます。ダイアログはないですし。ドキュメンタリーの場合の書く作業というのは、編集のときに撮り終わって、全部を見てどういうふうに組み立てていくかというところになります。 Q : 役者は必要がないわけじゃないですか。劇映画になると俳優を使わなければいけない。演出が必要になってくるわけで、それはどうやって? A : ドキュメンタリーの場合は、大体どんな人間でも物語るものを持っているし、中でも特に面白い物語を持っている人がいるんですけれども、自分がドキュメンタリーの仕事でしてきたのは、面白い物語を持っていて、同時に役者としての能力を持っている人を使ってドキュメンタリーを撮ってきました。 フィクションの場合はその逆なわけで、役者を使ってどれだけ本物の人物に近づけられるかという作業になるわけです。その際にもドキュメンタリーでもやっていた普通の人を役者として使うということが役に立ったと思います。 Q : 探すのは大変だったでしょう?自分が求めていることを表現してくれる俳優を探すというのは。 A : もちろんその役に合う役者を見つけてくるのは非常に大事なことで、大きな注意を払わなければいけないんですけれども、自分が役者を探す際に求めたのは、役者としての能力もそうなんですけど、彼ら自身の人間としての在り方がこの映画の中の人物像と結び付く点があるということを大事にしました。彼ら自身の感じ方だとか考え方が登場人物と繋がるところがあるような。能力の有無ではなくて、それによって人物に入ることがよりしやすくなると思うし、人間らしさが出てくると思っていました。単純な仕事としてではなくて人生の一部として捉えることが出来るというイメージでしょうか。例えばチャオ・タオに関しては、彼女自身が外国で仕事がしたいと思っていたわけです。ですから、仕事の意味でも、別の意味でも中国からイタリアに仕事で移っていく、移民とまでは言わないにしても、そのような要素、気持ちを持っていたのです。ラデ・シェルベッジアに関しては、彼はハリウッドでずっと仕事をしてきていますが、大きなセットで仕事をするのではなくて、小さな映画をやりたいという気持ちを持っていて、そういう意味でキオッジャの小さなバールで展開するお話というのは彼にすごく合っていたわけですね。それからバッティストン(デイヴィス役)は今まで悪役をやったことがないんですね。そういう意味で今回悪役をすることが出来た。そういう人物と役者の人間性のどこかが結びついていることによって、一種の何らかの意味でのドキュメンタリー的な部分がこの映画の中にも入ってきたと言えるのではないかと思います。 Q : 描いていることが異文化と人との出会いと、それから異文化に出会った人間の孤独、その2つが中心に描かれているような気がするんですけれども、それを描こうというのは、やはりドキュメンタリーをずっと撮ってらして、しかも移民に関することに関心を持っているからということと関係がありますか? A : 今のイタリアでは大きな変化が起きていると思います。それが何故かというのを知りたいと思っていました。人間のアイデンティティがすごく変わりつつある時代だと思うんですね。この映画の中ではアイデンティティの危機も描いています。特に主人公の2人に関して、1人は子どもの未来のために子どもを置いて国を後にする、自分の文化を後にしていくというのがアイデンティティの危機ですし、もう片方では年老いて自分がずっと生きてきた漁師の世界が終わりつつあるということを目の当たりにしているわけですね。人間というのは、そういった変化、つまり壁にぶち当たったときに、不安になり暴力的な態度に出たり混乱したりするわけですけれども、逆に障壁にぶつかってそれを乗り越えたときには、何か新しい自分を見つけることが出来るはずだと、そういうふうに思います。 Q : 見つけることは出来るのでしょうか? A : シュン・リーは自分の一部を祖国から遠く離れたところ、ラグーナで見つけることが出来ました。ラグーナに来ていきいきと感じることが出来て、出会いもありましたし、借金を払って子どもを呼び寄せることによって子どもに未来を与える。そういう意味では新しい意味を見出すことが出来たと思います。ベーピのほうは自分が思っていたよりも、詩人とは呼ばれていたわけですけれど、それは単純に韻を踏むことが出来るということで呼ばれていただけで、本当の詩人というふうには誰も思っていなかったんだけれども、彼女と出会うことで自分に詩人の要素があるということを理解することが出来たわけですね。漁師小屋に関しても、単純に漁の生活のために使っていた場所だったのが、詩情に結び付く場所であるということを見つけたわけです。 Q : 私たち日本人にとって、中国人も外国人、イタリアの人も外国人で、外国人同士の話を全く関係のない日本人に見せるということの難しさを考えたことはありますか?分かってもらえないんじゃないかとか、色々複雑な思いを抱かれることはありませんか? A : 日本だけじゃなくて今までも色んな映画祭に出ていて、イギリス、フランス、アイスランド、スペインとかに出ていますが、やはり国によって反応は違いますし、例えば最初のほうのシーンで、カードで目配せをして口で伝える場面があるんですけれども、勿論イタリア人は分かるし、スペイン人も同じようにカード遊びをするのでそのトリックは分かったんですけれども、イギリスではそれが全然分からなかった。勿論他の国でも分かっていないと思いますけれど。ですから、色んな国の観客の反応によって色んな発見がありますし、観客の反応によって映画が変わっていく。自分が考えていた反応とは全く別の反応が表れてくる場合もあるし、だけども映画は観客が観ることによって完成されるわけであって、最初は自分の頭の中で考えていたものが、観る人の頭の中に入っていって、反応が生まれたときに、本当の意味でその作品になるわけですね。色んな反応があることによって色んなものが生まれてくるし、自分が映画を作るときに「これは伝わるだろうか?伝わらないだろうか?」みたいなことを心配するんですが、それを越えていった先に作り手と受け手の両方のものになるわけですね。これはイタリアであったことなんですけど、ウクライナ人の女性が「私の物語を語ってくれてありがとう」と言ってくれたのです。中国人の女性が主人公なのに、子どもを置いて来た母親という部分に共感を抱くことが出来たんです。 Q : 女性の気持ちが絵になっていると思ったんですけど、もう1つ、女性の側からの視点みたいなものがこの映画に全然なくて、やっぱり男性の目から見た女性っていう形になっているのが私には面白かったんです。女性を描いてはいるけれど、それはやっぱり男性の目を通して見た女性であるっていうふうに思えたんですね。それは意識したことですか? A : 女性の視点で描くというのは、やろうと思って出来ることではないと思うのです。どんな人間でも女性的な部分、男性的な側面は持っていると思うんですけど、自分としては自分の中の女性的な部分が出た映画だと思っていたんですが、結局のところは自分は娘がいる男だし、父親の視点から描いたのかもしれないですね。ともかく、それは意図的にやったことではないです。 Q : 女性とか男性っていうことを越えて、もっと詩的で美しい映画だというふうに受けとめたんですね。 A : やっぱり詩というのは人間を理解するうえで一番普遍的な手段だと思うんですね。人間性というものに触れたかったので詩を使ったわけです。 Q : 主人公のシュン・リーには子どもがいて、その子どもに対するこだわりというのはとても大きいんですけれど、それは監督自身が父親になったからということと関係していますか?もしかしたら子どもがいなかったらそういうふうに子どもを持つ母を描くとは思わなかったのではないかという気もするんですが。 A : 勿論そういった感受性は自分が父親になったことから生まれてきているとは思うんですが、それ以上にイタリア人に言いたいことは、そういった女性移民というのがイタリアには沢山いるんですが、彼女たちは愛情を何らかの形で必要としている場所で働いていることが多いんですね。しかもその子どもたちは祖国に置いてきているんですが、彼女たちが働いている場所は、例えばヘルパーで老人の世話をしていたりとか、子どもの世話、もしくはこの映画のようにオステリアで働くということは、カウンターの向こうで男たちの話を聞いて応えるという仕事なわけですが、そういった形で働く人間がすごく多い。 しかし彼女たち自身の愛情の対象は祖国に置いてきているわけですね。自分の子どもを置いてきて、他人が必要としている愛情のために働くということは、非常にヒロイックなことだと思うんです。自分の子どもの未来のために彼女たちは来ているわけで、何もその世界を支配しようとか誰かの仕事を奪おうとかして来ているわけじゃなくて、単純に自分の子どもの未来のために来ているということ。結局のところ、この映画の本当の主人公というのは、最後のほうまで喋らない子どもだと思うんですね。子どもがイタリアに来れるのか来れないのかというところが、この映画のカギになってくるわけですから。 Q : 最後にザ・シネマの視聴者に、イタリア映画の魅力・見どころなどを教えてください。 A : イタリア映画の魅力は、小さな物語の中に、普遍的な物語を見出すことができるところです。たとえば、私が監督した『シュン・リーと詩人』(仮題)もキオッジャという小さな街を舞台にしていますが、『フェリーニのアマルコルド』のように、小さな場所を舞台にしていながら、人間誰もが感じるようなことを描き、普遍的な世界のこと語っています。そのような作品が多く、それが魅力なのではないかと思います。■