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COLUMN/コラム2016.04.16
男たちのシネマ愛⑥愛すべき、クレイグ・ボンド。そして、愛すべき洋画の未来。(4)
飯森:さて、ここからはざっくばらんにと申しますか、最終回ですので洋画チャンネルに今後要望することなどを忌憚なく提言としてお聞かせいただければ。もしかすると、あれは出来ない、これも出来ないという話になっちゃうかもしれませんが(笑)。 なかざわ:逆に、今の一般視聴者が洋画チャンネルに求めているものって何でしょうかね? 僕なんか完全にマニアなので少数意見にしかならないと思うんですが。 飯森:よく視聴率って問題になりますよね。恐らく、多くの方が視聴率というものに対してあまり良いイメージを持っていないと思うんですけど。どんなにいい映画を放送しても、視聴率が低いということは見られていないということであり、求められていないということを意味します。逆に、視聴率が取れているというのはニーズが満たされている証拠ですよね。だから、視聴率狙いというのは決して悪いことではない。ただ、視聴率を取れる映画というとほぼ決まっていて、うちの場合ですとアクション映画だけなんですよ。せいぜい遡って’70年代くらいまでの。圧倒的に数字を持っているのはジェイソン・ステイサム(注79)とスティーブン・セガール(注80)の二強。あとはスタローンとかシュワルツェネッガーですね。そういうものさえ放送していれば視聴率は取れてしまいます。チャンネルの収入は視聴率にかかっている部分もかなり大きいので、収益を上げようとするとそういう映画は欠かせない。でも同時に、本当にそれが視聴者が求めているものなの?満足してもらえてるのか?という疑問も頭をもたげてくるわけです。 なかざわ:もっと潜在的なポテンシャルのあるターゲット層もいるかもしれませんよ? 飯森:僕もステイサムはヘアスタイルを真似るぐらいリスペクトしてますから(笑)、ステイサム映画やセガール映画を低級とか低俗とか思う気持ちは微塵もない。むしろ、そういうことを言っては娯楽映画を見下す映画ブルジョワたちには反感を覚えるぐらいで、いつか革命起こして打倒してやるぞと思っている闘争的映画プロレタリアなんですが(笑)、それでもステイサム映画などの視聴率が取れる映画イコールみんなが本当に愛している映画、というわけではないんじゃないの!?とも疑っているんです。おそらく、ステイサムは“安心感”じゃないですかね。美味い店を開拓するのは、不味いリスクもあるし何より億劫ですけど、いつも行くファミレス全国チェーンのメニューなら、どれ頼んでも大ハズレはないだろ、的な発想。 ザ・シネマ編成 飯森盛良「あなたのハートには、何が残りましたか? それではみなさん、また会いましょうね、サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。」 なかざわ:暇つぶしに丁度いいということもある。ザ・シネマさんだと中高年の男性視聴者が多いですよね? だいたい人間ってみんなそうだと思うんですが、年を取ってくると小難しい映画は見たくなくなるんですよ。ただでさえ日常や社会の煩わしさに追われて、仕事だなんだと1日疲れきって家に帰ってテレビをつけたとき、さらに疲れるような映画は御免被りたいと思ってしまう。 飯森:良いこと仰った!それこそが善良なる勤労映画プロレタリアートの心情です!僕も商売柄なかなか本音をカミングアウトしづらいんですが、ここだけの話「勘弁してくれよ…難解なアートフィルムなんて見たくねえよ!」というのが、公人としてでなく私人としての偽らざる本心です(笑)。それに比べたらステイサムは本当に一億倍好きですよ。そういうレベルの奴がやっているチャンネルなんだということで、逆に信頼していただきたい(笑)。 なかざわ:年をとるとそれこそステイサムやセガールのように、勧善懲悪でドンパチがあって、綺麗なオネエちゃんが出てきて、大して実のある中身ではないかもしれないけど、楽しく1時間半ないし2時間を過ごせました。あー面白かった!という映画を求めるようになっていきますよね。 飯森:高校・大学の頃は小難しい映画を見てめんどくさい議論を人に吹っ掛けるのがオシャレで知的でカッコイイと思っていましたし、映画ファンの端くれとして退屈でも我慢して勉強する義務があるとも思っていましたけど、今はとてもじゃないけどそんな余裕はない。あれは良くも悪くも“若さ”でしたね。今や僕はまごうかたなき中年のオッサンですから、ひたすらエンターテインメントを希求切望してやまない。しがない疲れたサラリーマンのこの俺のことを腹の底から楽しませてくれ!と。でも、エンターテインメントだからといって必ずしもステイサムである必要はないんじゃないかとも思ったりもします。様々な選択肢を用意していかねばとは思っています。 なかざわ:視聴率という分かりやすい数字だけを拠り所にして、偏ったジャンルの映画ばかりを提供していくと、どんどんと尻すぼみになっていくと思いますよ。結果的に自分で自分の首を絞めることになってしまう。チャンネルの将来的な展望を考えても、多種多様な選択肢を提示していくことは必要不可欠だと思います。 飯森:まさにそれが深夜帯に放送している「シネマ解放区」(注81)です。未ソフト化映画とか激レア映画とか、いろいろと提供することで尻すぼみを回避しようと努力していて、そこの枠で映画好きな方々とのコミュニケーションはちゃんと取れていると思うんですよ。「ザ・キープ」(注82)をやるといえば大喜びしてくれる人はいますし、野沢那智版「ゴッドファーザー」三部作(注83)も反響が大きかった。でも、そこまで映画が大好きで詳しいわけじゃない、という視聴者の方が、実は圧倒的多数なんです。コア層というのは文字どおりコアですからね、決してマスじゃない。そうしたマス層にザ・シネマを便利に使ってもらおうとすると、現状どうしてもステイサムやセガールだらけになっちゃう。こうした悩みは、どこのチャンネルも抱えていると思いますよ。実に難しい! なかざわ:まさにジレンマですね。理想としては、そういう方々にも幅広い選択肢を認知してもらえればいいんでしょうけど。 注79:1967年生まれ。イギリスの俳優。代表作は「トランスポーター」(’02)シリーズ、「アドレナリン」(’06)、「エクスペンダブルズ」(’10)シリーズなど。注80:1952年生まれ。アメリカの俳優。日本で武道を学んだ親日家としても知られる。代表作は「刑事ニコ/法の死角」(’88)、「沈黙の戦艦」(’92)、「暴走特急」(’95)など。主演作の多くに「沈黙の~」という邦題が付けられる。注81:激レアなお宝映画や懐かしの日本語吹き替え、エロティック映画などを放送するザ・シネマの平日深夜枠。注82:1983年制作。アメリカ映画。東欧の古城に幽閉された悪霊をナチス軍が解放してしまう。熱烈なファンの多い作品だが、現在はソフト化などされていない。完成版に不満を持つマイケル・マン監督の意向だとされる。注83:ニューヨークのマフィア、コルレオーネ・ファミリーの軌跡を描くフランシス・フォード・コッポラ監督作品。「ゴッドファーザー」(’72)、「ゴッドファーザー PARTⅡ」(’74)、「ゴッドファーザー PARTⅢ」(’90)の3本が作られた。声優の野沢那智がアル・パチーノの声を担当した日本語吹替えバージョンが人気。 次ページ >> かつてのように人々がハリウッド映画だからといって興味を持たないような状況になってしまっている。(飯森) 『007/カジノ・ロワイヤル(2006)』CASINO ROYALE (2006) © 2006 DANJAQ, LLC, UNITED ARTISTS CORPORATION AND COLUMBIA PICTURES INDUSTRIES, INC.. All Rights Reserved. 『007/慰めの報酬』QUANTUM OF SOLACE © 2008 DANJAQ, LLC, UNITED ARTISTS CORPORATION AND COLUMBIA PICTURES INDUSTRIES, INC.. All Rights Reserved. 『007/スカイフォール 』Skyfall © 2012 Danjaq, LLC, United Artists Corporation, Columbia Pictures Industries, Inc. Skyfall, 007 Gun Logo andrelated James Bond Trademarks © 1962-2013 Danjaq, LLC and United Artists Corporation. Skyfall, 007 and related James Bond Trademarks are trademarks of Danjaq, LLC. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2016.04.20
男たちのシネマ愛⑥愛すべき、クレイグ・ボンド。そして、愛すべき洋画の未来。(5)
飯森:それをどうやるのかですよ。洋画と邦画の興行収入が逆転し邦高洋低と言われるようになって久しい今の日本では、洋画でも「アナ雪」のようなとんでもないモンスター・ヒットがたまに出る一方で、その他大勢が埋もれてしまい、かつてのように人々がハリウッド映画だからといって興味を持たないような状況になってしまっている。その現状からひっくり返していかないと、安パイ的なアクション映画依存からの脱却、脱ステイサム、脱セガールはできないでしょう。新しいことや未知のこと、世界のことに興味関心を持ってもらえないとね。 なかざわ:でも、映画の影響力が薄れているのは日本だけの問題ではないですけれどね。アメリカでもそうですよ。ロサンゼルスの街を車で飛ばせば一目瞭然ですが、ビルボード(注84)の大半がテレビドラマです。映画の看板は一部のエンターテインメント超大作だけで、それ以外はショッピングモールの壁にポスターが貼ってあればいいくらいのもの。ハリウッドのお膝元がそんな状況ですからね。 飯森:僕は個人的にはアメリカの映画とドラマを無理に区別する意味はないという考えなので、どっちが流行っていてもいいとは思うんですけれど、どっちかは常に流行っていてほしい。だけどどっちも流行ってない。今の日本では外国映画だけじゃなくて海外ドラマもそれほど注目はされていませんよね? 昔のように、日本で普通に暮らしているだけでそのドラマを知っちゃってる、見ちゃってるというほど世間一般大衆に広くは受容されてはいない気がする。ネット配信で選択肢は飛躍的に増大したけど、作品数ばかり増えてブームが起きない。 なかざわ:確かに一昔前の「24-TWENTY FOUR-」(注85)や「LOST」(注86)ほどの勢いはないかもしれません。 飯森:そのどちらにも当時ハマりましたし、僕はさらに前の「ビバリーヒルズほにゃらら白書」(注87)世代で、キャラの設定年齢と同学年なので当時は周りも全員ハマっていた。その前が「ツイン・ピークス」(注88)でその前は「エアーウルフ」(注89)とか「Aチーム」(注90)とか「ナイトライダー」(注91)を毎週見てた。まさに海ドラで育ってきた世代です。僕より上の人だとそれこそ「0011ナポレオン・ソロ」(注92)とかでしょ?さらにその前の’50年代のテレビ黎明期には国産コンテンツ不足で供給が追いつかないんで海外ドラマが盛んに輸入されていた。戦後日本人はそれらを浴びるように見ることによって、自由主義陣営の価値観を他の西側諸国と共有している国民になることができた。さきほどの「キングスマン」なんか良い例で、異民族異人種に対して公然と差別発言をするようなレイシストは、映画の中では最低の悪役として扱われるんだよ、それは議論の余地もなく悪だからねと。それが先進国の常識ってもんでしょ? アメリカ人に聞いてもイギリス人に聞いても、フランス人でもドイツ人でも、少数の変な人はさておき大多数のマトモな人なら必ずそう答えるであろう、戦後民主主義社会のモラル、自由世界の常識、映画やドラマが描く正義というものを、海外コンテンツを通じて、我々の親も、我々自身も、子供の頃からエンタメを通じ学んできた。単一民族社会だと思い込んでいる国産コンテンツにはそういう観点のメッセージ性は薄い。それが今では、映画を見る人も海外ドラマを見る人もごく一部というような状況になっちゃって、どんどん国産ドメスティック寄りになっているけど、オイオイ大丈夫なのか!?とつい心配になっちゃうんですよね。 なかざわ:それを言ったら、アメリカ人こそドメスティックな映画やドラマしか見ないですけどね(笑)。 飯森:だからトランプさんが人気なのか!まぁそれは冗談として(笑)、アメリカは世界の中心ですからそれでもいいんですよ。多民族移民社会ですからバカ娯楽作であってもそういうメッセージ性は強い。ただ、東の果ての小国の島国に暮らす我々日本国民が、国際スタンダードみたいなものに興味を示す、それが常に気がかりで仕方ない、俺って周りから浮いてないかどうか心配だ、という、かつてのような多少コンプレックスの入り混じった心理状態って、むしろ健全なことだと僕は思うんですよね。“ほどよきコンプレックス”ってのは在ると思いますよ。 なかざわ:僕なんかはまさに外国の映画、外国の音楽、外国のドラマにどっぷりと浸かって影響を受けてきた人間ですけれど、その一方でこれは外へ行ってみて初めて分かることなんですが、これだけ外国文化を貪欲に吸収してきた国というのは世界的に見ても希なんですよ。 飯森:かつてはねえ。 なかざわ:そういう意味では、日本も普通の国になっちゃったという風には思いますね。 飯森:日本はそもそもが普通の国ではないので、意識的に貪欲に吸収するぐらいで丁度いいんです。まず島国で孤立している。それだけならイギリスもニュージーランドも条件は同じですが、単一民族社会というのは勘違いにせよ確かに異民族は少ないし、何より、言語的に他と似たところが全く無い極めて特異な“孤立言語”を国語にしていることが決定的に普通とは違う。フランス人は似てるイタリア語をある程度は解る、だから習得するのも簡単だ、北欧がみんな英語ペラペラなのもそういうこと、ピンクと赤とオレンジの差ぐらいしか違わないからね、みたいな親戚言語が、日本語には存在しない。話者は1億2500万人くらいしかいなくて、その人口すら今後どんどん少子化で減っていく。ほっといたら言葉の壁で外の考え方なんて入ってこない。それなのにアンテナを外向きに張らずに今後やっていけるの!?と。世界の常識なんて知るか、俺は俺独自のルールで動くんだ、悪いか!というのは、北朝鮮とかISとかと同じ考え方ですけど、あんまりそっち系にはなっていってほしくないんだよな…。もっとも、日本の市場がドメスティックなコンテンツばかりになったとしても、ハリウッド映画と比べても全く遜色がない。いやむしろハリウッドより上!娯楽としても上だしメッセージ性も強いし、ということなんであれば、好きなだけ鎖国してガラパゴス列島に引き篭もったっていいかもしれない。栄光ある孤立というか、ソロ充でね。でも、そうじゃないでしょ? なかざわ:まあ、全くダメですね(笑)。百歩譲って、日本のユーザーが親しみを感じない外国コンテンツよりも自国コンテンツを選ぶのは、選択の自由です。でもね、日本は肝心の作り手が外国の優れた作品から積極的に学んでいるようには思えない。もちろん、全員がそうだとは言いません。でも、自己満足でしかない代物も多い。それが全体のクオリティーを下げている。そういう作品ばかり見せられる日本の観客の“見る目”も劣化してしまっている。そこが今の問題だと思います。 飯森:まさにそこですよ!駄作が生まれるのは作り手の恥、彼らの能力の問題で、防ぎようがないし我々の知ったことでもないんですが、それのヒットを許してしまったら観客の質の問題、民度の問題、我々自身の恥になりますから、その事態だけは防ぎたいですよね。もちろん日本映画でも良いものや大傑作はありますよ?わざわざ言うまでもありません、当然です。でもその一方で、これぞまさしく「どうしてこうなった!?」としか言いようがない、それがその形で完成しちゃってる現実が信じられない、眼球が破裂し頭部が爆発しちゃいそうになる作品も、割と多いですよね。アーク《聖櫃》か! ここまでヒドいのはアメリカ映画では見た覚えがほとんどない級の駄作に、年に何本も出会う気がする。つまらないとかを通り越し、破綻・崩壊しちゃってる。良いものはあるが、極端に悪いものが極端に多すぎることが問題です。まともなチェック機能が働いてるのか!?と。なぜ、誰が、この状態でよしとしてしまったのか?これでいいかどうかどういう検証をしたのか?作ってる途中で改良や見直しはできなかったのか?と不思議で仕方ないものに、割かしよく遭遇する気がする(笑)。 なかざわ:これでオッケーだと思ったんだ!?っていうね。それこそ最近話題になった、人気コミックを実写化した、とある邦画とかですよね。あれなんかでは、この程度でいいだろう、というような作り手たちの意識すら透けて見えた気がします。 飯森:はて?漫画原作なんて今時いっぱいありますから、どの作品のことを仰られているのか僕にはさ〜っぱり見当もつきませんが(笑)。 なかざわ:エッ、普通この流れで逃げます!? わざとらしくトボけないでくださいよ(笑)。あれには僕も悪い意味で本当に度肝を抜かれました。怖いもの見たさで見に行った人も多いとは思いますが、それにしたって不健全な現象だと思いますよ。 飯森:まぁ、作り手さんにしてみれば努力もしてるだろうし、制作上の仕組みの問題のせいもあるんだろうと気の毒にも思いますけどね。優秀な人材はいるのに、その人が我を通せない。そのせいで本意ではないような作品に仕上がってしまうという。クリエーターのこだわり=良い意味での“ワガママ”が通らないと物作りはダメですよ。クリエイティブなんてどこかからはチームプレイじゃなく個人技になっていかないと本当はおかしいんですから。僕はなかざわさんの仰る業界人の不勉強ということ以上に、そういう構造的な問題や、メンタリティーや国民性、つまり悪い意味で「和を以て貴しとなす」という、ノーと言いづらい、我を通しづらい日本社会の同調圧力とかが原因じゃないのかと推測します。とはいえ「だから仕方ないよねえ…」と同情ばかりもしていられなくて、それが海外でも公開されるとなると…。 なかざわ:まさに、国辱もの(笑)。 飯森:例えばの話、仮にその日本の某人気コミックなるものが、お隣の韓国でも大人気だったりしちゃったりすると仮定します。あくまで仮の話ですよ(笑)? ならば当然、韓国人も「お、日本人があれを実写化したんだったら見てみるか」と思うでしょ?でも我々としては「いや〜ん、見ないで〜♥」って感じじゃないですか。もうまいっちんぐですよ。だって相手はあの韓国ですよ!? 韓国といえば、我々が嫉妬と羨望の入り混じった目で見せつけられている、とてつもない傑作を年に何本も生み出している映画先進国なわけじゃないですか。ついここ最近だけでも「コンフェッション/友の告白」(注93)とか「インサイダーズ/内部者たち」(注94)とか、生涯ベスト級の圧倒的な傑作を余裕で量産できちゃう。そんな国でその仮の映画が「ほっほう、これが日本映画界が放った噂の勝負作ですか、どれ、拝見しましょうか」と腕組んで足組んで見られちゃう、そして「…フッ、勝ったな!」と彼らをして勝ち誇らせちゃうというのは…実にまいっちんぐです。悔しすぎます!我々日本人には100年以上にわたってアジアの最先進国で一等国だというメンツがある。それが1ラウンドKO負けサンドバッグ状態みたいな負け方は、できればしたくないんですけどねぇ…。 なかざわ:いや、僕だって基本的には日本映画は好きですから。だからこそ、現状に対して言いたくなってしまうんです。なんとか頑張ってくれと。取材で各国を歩いていると確かに日本映画ファンは沢山います。でもね、彼らが影響を受けた監督、大好きな映画って、殆どが何十年も前の人や作品なんです。せいぜい北野武(注95)くらいですよ。存命なのは。 飯森:三池崇史(注96)さんとかはどうなんです? なかざわ:三池さんや園子温(注97)さんは、あくまでもカルトの領域を出ません。確かに熱狂的なファンはいるけれど、黒澤明(注98)や小津安二郎(注99)や溝口健二(注100)ほどの知名度はありませんし、市川崑(注101)や成瀬巳喜男(注102)らと並び称されているわけでもありません。 飯森:是枝裕和(注103)さんとかも、たとえばアッバス・キアロスタミ(注104)くらいには尊敬されているのかもしれないけれど、そういう芸術家みたいな人はどこの国にもいますしね。芸術作品やちょっと良い佳作良品を作っている人ならいますが、世界が常に新作を待ち望んでいる、世界がひれ伏すクラスの娯楽作家というのを、日本の映画界にも望みたいところです。 なかざわ:だから、日本映画の伝統云々を言う前に、そうした現実を日本の映画人は真摯に受け止めなくちゃいけないと思います。過去の栄光にすがっているようじゃダメですよ。 飯森:いやはや、深い対談になってまいりました!でも、これ今後の洋画チャンネルに期待することって話からはかなりズレてますよね。さすがにちょっと戻しましょうか(笑)。 注84:街中に掲げられた巨大広告看板のこと。注85:凄腕捜査官ジャック・バウアーがテロの脅威と戦うアメリカのテレビドラマ。’01年~’14年まで9シーズンが制作され、番外編のテレビ映画も作られた。注86:旅客機事故で謎の無人島に不時着した人々のサバイバルを描くアメリカのテレビドラマ。’04年~’10年まで放送された。注87:1990年から始まった「ビバリーヒルズ高校白書」。住所である「Beverly Hills, 90210」が元のタイトルだが、日本で勝手に「高校白書」と名付けたことで主人公たちが高校を卒業し大学に進学すると「ビバリーヒルズ青春白書」と途中改題した。2000年まで続き、’90年代を象徴する映像作品となった。注88:田舎町での女子高生死体遺棄事件を、デイヴィッド・リンチ監督が不条理かつシュールに描き、カルト的人気を博したアメリカのテレビドラマ。’90年~’91年まで放送され、映画版も作られた。注89:テレビドラマ「超音速攻撃ヘリ エアーウルフ」のこと。日本では’86年~’87年まで日本テレビで放送され、幾つかの長尺テレビムービー版が金曜ロードショーで放映された。注90:テレビドラマ「特攻野郎Aチーム」のこと。日本では’85年~’88年までテレビ朝日で放送され、何話かは日曜洋画劇場で放映された。注91:ドライバーのマイケル・ナイトが愛車兼相棒の人工知能搭載スーパーカー“ナイト2000”に乗って悪と戦う。日本では’87年~’88年までテレビ朝日で放送され、幾つかの長尺テレビムービー版が日曜洋画劇場で放映された。注92:日本では’66年~’70年まで日本テレビで放送されたテレビドラマで、映画「コードネーム U.N.C.L.E.」のオリジナル。注93:2014年制作。韓国映画。チソン、チュ・ジフン、イ・グァンス出演。誰も被害者が出ずに金だけ手に入るはずの自作自演保険金詐欺を企み、悲惨な被害を出してしまった友人グループが、のっぴきならない立場に追い込まれていく。イ・ドユン監督。注94:2015制作。韓国映画。イ・ビョンホン、チョ・スンウ出演。政界の汚れ仕事を担ってきたが裏切られ消されそうになるチンピラが、検事と組んで韓国政界最上層部に戦いを挑む。ウ・ミンホ監督。注95:1947年生まれ。日本のお笑い芸人、俳優、映画監督。監督としての代表作は「その男、凶暴につき」(’89)、「ソナチネ」(’93)、「菊次郎の夏」(’99)など。世界的な人気と知名度も高い。注96:1960年生まれ。日本の映画監督。代表作は「殺し屋1」(’01)や「ゼブラーマン」(’04)、「13人の刺客」(’10)など。クエンティン・タランティーノら各国の映画監督に多大な影響を与えている。注97:1961年生まれ。日本の映画監督。代表作は「愛のむきだし」(’08)、「冷たい熱帯魚」(’11)、「地獄でなぜ悪い」(’13)など。海外の映画祭でも数多く受賞している。注98:1910年生まれ。日本の映画監督。映画史上最も重要な映像作家であり、日本が世界に誇る巨匠中の巨匠。代表作は「羅生門」(’50)、「七人の侍」(’54)、「隠し砦の三悪人」(’58)、「用心棒」(’61)、「椿三十郎」(’61)、「影武者」(’80)などなど。スティーブン・スピルバーグやジョージ・ルーカスなど多くの映画監督が影響を受けた。1998年死去。注99:1903年生まれ。日本の映画監督。代表作「東京物語」(’53)は世界各国でたびたび不朽の名作リストの上位にランクされるなど、海外での人気と評価が圧倒的に高い。ヴィム・ヴェンダースやジム・ジャームッシュなど、小津に影響を受けた映画監督も数多い。1963年死去。注100:1898年生まれ。日本の映画監督。「西鶴一代女」(’52)と「雨月物語」(’53)、「山椒大夫」(’54)が3年連続でヴェネチア映画祭で受賞。「雨月物語」はアカデミー賞の衣装部門にもノミネートされた。ジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーなど、ヨーロッパの映画監督に影響を与えた。1956年死去。注101:1915年生まれ。日本の映画監督。アカデミー外国語映画賞候補になった「ビルマの竪琴」(’56)を筆頭に、「野火」(’59)や「東京オリンピック」(’65)、「細雪」(’83)などが海外で映画賞を獲得して高い評価を得た。日本では「犬神家の一族」(’76)に始まる金田一耕助シリーズでも有名。2008年死去。注102:1905年生まれ。日本の映画監督。代表作は「めし」(’51)、「浮雲」(’55)、「流れる」(’56)、「女が階段を上る時」(’60)など。女性映画の名手として知られ、ダニエル・シュミットやレオス・カラックスなどヨーロッパの映画監督に影響を与えている。1969年生まれ。注103:1962年生まれ。日本の映画監督。処女作「幻の光」(’95)が海外の映画祭などでも注目され、「誰も知らない」(’04)や「そして父になる」(’13)が国際的にも高い評価を得ている。注104:1940年生まれ。イランの映画監督。「桜桃の味」(’97)でカンヌ映画祭グランプリを受賞。 次ページ >> 今は業界全体が努力をして工夫を凝らさなくてはいけないでしょうね。(なかざわ) 『007/カジノ・ロワイヤル(2006)』CASINO ROYALE (2006) © 2006 DANJAQ, LLC, UNITED ARTISTS CORPORATION AND COLUMBIA PICTURES INDUSTRIES, INC.. All Rights Reserved. 『007/慰めの報酬』QUANTUM OF SOLACE © 2008 DANJAQ, LLC, UNITED ARTISTS CORPORATION AND COLUMBIA PICTURES INDUSTRIES, INC.. All Rights Reserved. 『007/スカイフォール 』Skyfall © 2012 Danjaq, LLC, United Artists Corporation, Columbia Pictures Industries, Inc. Skyfall, 007 Gun Logo andrelated James Bond Trademarks © 1962-2013 Danjaq, LLC and United Artists Corporation. Skyfall, 007 and related James Bond Trademarks are trademarks of Danjaq, LLC. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2016.04.27
男たちのシネマ愛⑥愛すべき、クレイグ・ボンド。そして、愛すべき洋画の未来。(6)
飯森:僕の立場から言うと、とりあえず邦画は人に任せるんで、やはり世界の優れたコンテンツを日本の消費者にも見てもらわなくてはいけない。我々の感性を世界標準の感性とこれらも一致させ続けていかなくてはならない。そのために、なんとかして洋画の市場を活性化させたいと思っています。ハリウッドの俳優が日本へやってきて、成田空港に黒山の人だかりができる。それってすごく健全なことだったと思うんですよ。 なかざわ:まあ、今だってワン・ダイレクション(注105)とかジャスティン・ビーバー(注106)が来日すれば大フィーバーになりますけれどね。映画の場合は、いまだにトム・クルーズ(注107)とかジョニー・デップ(注108)辺りで止まっている。そもそも、ハリウッド自体が彼ら以降の世代のスーパースターを生み出せないでいるんですよ。第二のトム・クルーズとか、第二のブラッド・ピット(注109)とか呼ばれるスターは数え切れないほど出てきましたけど、みんな人気短命で終わっていますから。 飯森:それでも、かつてはトム・クルーズほどの俳優じゃなくても、来日すれば話題になっていたと思うんですよね。 なかざわ:ちょうど先日、ハリウッドを拠点に活動している日本人の若手女優さんにインタビューしたんですね。いろいろと諸事情あって名前は出しませんけれど。彼女は最初から日本ではなくハリウッドを目指して外へ出ていった。そこで、今の日本の若者は内向きで外国に出て行かないと言われていますが、それについてどう思いますか?という質問をぶつけてみたんですよ。そうしたら、開口一番に「それって嘘だと思います」って答えが返ってきた。若い人を知らない大人が勝手に言っているだけだと。外へ出て行っている若者は沢山いますよ、と言うんですね。それはそうかもしれないと思いました。大人が若者の生の声を聞いていないだけなんじゃないかと。そう考えると、日本人に受け入れられる外国スターというのも、消費者の声にちゃんと耳を傾ければ、もしかすると新たに生み出せるかもしれません。 飯森:なるほど。実は意外に若い世代はドメスティック志向ではないのかもしれませんね。そうだとしたら少し安心だ。ただ、もう一つ大きな問題があると僕は感じていて、昔って、媒体の数が限られていましたでしょ?昭和の頃には今のネット媒体が一つも存在しない訳ですから、効率的に宣伝もできたでしょうし、その少数の媒体がそれぞれ今よりずっと影響力もあっただろうと思うんですよ。配給会社の宣伝マンがそうした限られた宣伝媒体に対していろいろなアプローチで仕込みをしていて、あるハリウッド大作が来る、ある大物外タレが来日するとなると、多くの媒体・多くのメディアが一斉にそれを報じていた。そもそもコンテンツを流すウインドウ自体が映画館とテレビ、せいぜい後にレンタルビデオぐらいしかなかった上に、そのように宣伝媒体の数も少ないのだから、情報発信で“選択と集中”が可能だった。それならばブームは起せるし、国民的関心も集められる。ただ、今の時代は媒体が複雑多岐に渡ってしまっているため、宣伝の足並みが揃わない。ウインドウも映画館からレンタル、ウチのような有料テレビ、ネット配信、無料BSや普通の地上波テレビと分散していて、同じハリウッド大作がその順番で「ついに登場!」のていで各ウインドウに何度も何度も出現する。お客さんも、映画館原理主義派、レンタル派、ウチみたいなCSにどっぷり派、ネット配信派、地上波だけで満足派、無料BSも見てる派に分裂している。これでは大きなうねりやブームは起きづらい。兵力分散や兵力の逐次投入、つまり“小出しにする”というのは愚策中の愚だと言われていて、戦いでそれをやった方は確実に負けるとされている。勝つためには“選択と集中”が不可欠な訳ですが、不本意ながらもメディアの多様化で結果として兵力の逐次投入みたいな格好に今の業界はなってしまっている。作品を流している我々ウインドウ側も、それを告知してくれる宣伝媒体側も、メディアの垣根を越えて大同団結して、まとめて海外コンテンツの大きなうねりを生み出すことができればいいんですけどねぇ。一社一社が各個にスタンドプレイでいくら頑張っても各個撃破されるだけ。撃破というか、自滅ですね。各個自滅。 なかざわ:昔は物事がシンプルだったから良かったんですよ。今は業界全体が努力をして工夫を凝らさなくてはいけないでしょうね。 飯森:そろそろ洋画も巻き返しを図らないとヤバい時が来たように思いますね。洋画専門チャンネルにしても、競合他社同士がお互いが良きライバルとして切磋琢磨することで、まずはCS全体を盛り上げていくことが大切だろうと思います。なんかCSで面白いことやっているな、映画ファンとしては注目しとかないと、と世間に思ってもらえるようにしなくては。今、自分たちはその段階にいると見ています。なので、うちとしては例えば、昭和のお宝吹き替え尊重路線だったりとか、激レア映画の発掘だったりとか、コアな洋画ファンに喜んでもらえるような企画は今後も続けていきたいと思っています。これだけネットを含めたメディアが増えたにも関わらず、いまだに見ることのできない映画は沢山ありますし。 なかざわ:それは是非ともお願いしたいところですね。それこそ、’80年代に一大旋風を巻き起こしたキャノン・フィルム(注110)の映画なんかも、今では全く見れなくなってしまった作品が多いですから。「ハンナ・セネシュ」(注111)とか「黄昏のブルックリン・ブリッジ」(注112)とか。それと、’70~’80年代に日本で劇場公開ないしビデオ発売されたイタリア産娯楽映画も、うもれてしまっている作品が本当に多い。「マリーナの甘い生活」(注113)とか「キャロルは真夜中に殺される」(注114)とか、もう一度見たいですもん。イタリア版DVDには英語の字幕すら付いていないので(笑)。 飯森:そして、マスの方たちに圧倒的にウケる新たな方策というものは引き続き宿題となっちゃいましたが、「俺のしかばねを乗り越えて行け!」じゃありませんけど、大きすぎるステイサムとセガールの存在を乗り越え、裾野を今一度大きく広げ直して、洋画そのものをリブートしなければいけませんね。「いや〜映画って、本っ当にいいものですね!」という、あの幸福にもう一回帰り着くためにはどうすればいいのか。そこに次の10年は挑戦していきます! なかざわ:…と、いったあたりですかね。いやはや、半年続けてきたこの対談連載も、とうとう終わってしまいましたね、お疲れ様でした。 飯森:なかざわさんの方こそお疲れ様でしたよ!いやマジで。僕はただくっちゃべっていただけですが、毎回このボリュームを原稿に書き起こしていたなかざわさんは堪ったもんじゃない!ただ、おかげさまで、自分で言うのもナンですけれど、非常に評判も良く反響も大変ありましたので、今回は10周年記念ということでやったんですが、アニバーサリーとかとは関係なしに、なかざわさんとはまた間を置かず近々にこの場でトークをさせていただきたいと思ってます。 なかざわ:是非そうしましょうよ!「続・男たちのシネマ愛」といった形でね。 飯森:それでは皆さん、また会いましょうね。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。 (終) 注105:イギリス出身の男性アイドルグループ。’10年にデビューし、世界中のティーン女子の間で爆発的なブームを巻き起こした。注106:1994年生まれ。カナダ出身の男性アイドル歌手。’08年にデビューし、これまでに1500万枚以上のアルバムを売り上げている。ビリーヴァーと呼ばれる熱狂的ファンが世界中にいる一方、たびたびトラブルを起こす問題児としても有名。注107:1962年生まれ。アメリカの俳優。「トップ・ガン」(’86)でブレイクし、その後も「レインマン」(’88)や「ミッション・インポッシブル」(’96)、「ラスト・サムライ」(’03)などのヒットを出している。注108:1963年生まれ。アメリカの俳優。「シザーハンズ」(’90)でブレイクし、「ギルバート・グレイプ」(’93)や「エド・ウッド」(‘94)などで活躍。「パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち」(’03)のジャック・スパロウ役でも有名。注109:1963年生まれ。アメリカの俳優。「テルマ&ルイーズ」(’91)で注目され、「トゥルー・ロマンス」(’93)や「セブン」(’95)でブレイク。ブラピの愛称でも親しまれる。注110:アメリカの独立系映画会社。’79年に社長就任したイスラエル人の映画監督メナハム・ゴーランと従兄弟ヨーラム・グローバスのもと、チャック・ノリス主演のB級アクションから、ロマン・ポランスキーやジョン・カサヴェテスなど巨匠の芸術映画まで、数え切れないほどの作品を世に送り出した。’89年にゴーランが辞任してから急速に衰退。注111:1988年制作。アメリカ映画。ナチスドイツと戦った女性パルチザン、ハンナ・セネシュの実話を描く。マルーシュカ・デートメルス主演、メナハム・ゴーラン監督。注112:1983年制作。アメリカ映画。ニューヨークのブルックリンを舞台にした大人のラブロマンス。エリオット・グールド主演、メナハム・ゴーラン監督。注113:1989年制作。イタリア映画。自由奔放なセクシー美女マリーナの華麗なる男性遍歴を軸に、「甘い生活」(’60)などフェリーニ映画へオマージュを捧げた作品。キャロル・アルト主演、カルロ・ヴァンツィーナ監督。注114:1986年制作。イタリア映画。殺人鬼に狙われた女性心理学者を描く猟奇サスペンス。ララ・ウェンデル主演、ランベルト・バーヴァ監督。 『007/カジノ・ロワイヤル(2006)』CASINO ROYALE (2006) © 2006 DANJAQ, LLC, UNITED ARTISTS CORPORATION AND COLUMBIA PICTURES INDUSTRIES, INC.. All Rights Reserved. 『007/慰めの報酬』QUANTUM OF SOLACE © 2008 DANJAQ, LLC, UNITED ARTISTS CORPORATION AND COLUMBIA PICTURES INDUSTRIES, INC.. All Rights Reserved. 『007/スカイフォール 』Skyfall © 2012 Danjaq, LLC, United Artists Corporation, Columbia Pictures Industries, Inc. Skyfall, 007 Gun Logo andrelated James Bond Trademarks © 1962-2013 Danjaq, LLC and United Artists Corporation. Skyfall, 007 and related James Bond Trademarks are trademarks of Danjaq, LLC. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2016.02.15
男たちのシネマ愛④愛すべき、キラキラ★ソフィアたん(4)
なかざわ:ちなみに、これは全く個人的な感想なんですが、「ロスト~」は映画ライターとして非常に興味深い見所がありまして。まずはCM撮影で日本人監督の長い演技指導を、通訳がバッサリと一言で説明してしまうシーン。意訳しすぎ!っていう(笑)。 飯森:あそこは僕も爆笑しました。ウイスキーのCMで、ディレクターが「もっと感情を込めて!これ、サントリーの最上位のブランドなんだから、高級感を込めつつ、かつ、親友と再会した時のような、思いのこもった懐かしい口調(?)で、商品名を万感こめて言って」とか何とか無理難題を言って、熱っぽく指示を出しているのに、一言「もっとゆっくり言ってください」と通訳されちゃう。ビル・マーレイも「えっ、それだけ?彼は絶対もっと何か言ってたでしょ!」と当惑する。「高級感+懐かしい友と再会した時の感じ」は、確かに早口じゃダメにせよ、単に機械的にスローに言うだけでは表現できないでしょ! なかざわ:ああいう事態って、外タレの来日インタビューの現場において、さすがによくあるとまでは言いませんし、あそこまで大胆に端折る通訳さんもまずいませんけど、でも似たようなことはあるよね!とニンマリさせられました。私は多少なりとも英語が理解できるので、肝心な部分が省略されても外タレ本人のコメントから拾えますが、記者が全員英語が分かるわけではない。中にはだいぶ意訳してしまう通訳さんがいるんですよ。それでもせめてコメントの主旨が伝わればいいと思うのですが、省略しすぎたせいで発言内容の辻褄が合わなくなることもありますし、中には発音を聞き間違えて誤訳しているケースもあります。 飯森:僕も“記者会見あるある”だなと思いました。昔は来日記者会見にもよく行っていましたから。でも今の僕は、困ったことに、ああいう事態に当事者として巻き込まれちゃってるんですよ。まぁ、この CMディレクターさんみたいに偉くはないけど、僕もザ・シネマの様々な物作りをする上で、立場上は指示を出さないといけない側の人間じゃないですか。で、やはり「高級感を込めて」とか「親友と再会した感情を込めて」とか、そういった細かい感情のニュアンス指示は出しますよ。たとえや形容詞をあれこれ使い、映画のシーンやキャラを例に出して、どうにか細かいニュアンスまで相手に伝えようと長く話しちゃう。長い中のどこか一箇所でいいからピンときて、物を作る上で理解の鍵にしてくれたらと。しかしですねえ、15分も話したことが一言で済まされてしまう(笑)。そういう人が実際たまにいるんですよ!たとえば、「オシャレ」でも様々なニュアンスの「オシャレ」があるじゃないですか?「ブリングリング」のような今どきの若者っぽいオシャレさなのか、「ヴァージン・スーサイズ」のような’70年代っぽいレトロなオシャレさなのか。レトロと言ってもソフィアたん系か、それともタランティーノっぽいのがいいのか。その微妙な違いを伝えんがために15分も喋りまくって「そういうオシャレ感をもっとプラスして」と指示しているのに、「一言で言うともっとオシャレにってことですね!」で済まされちゃうと、「大丈夫かなぁ?」と心配になってくる。で、案の定、上がってきたものを見ると「そっちのオシャレじゃなくてこっちのオシャレだって説明したじゃんかよ!」みたいな齟齬が、よく生じる。一言で言えることなら15分も話してないって! なかざわ:日本語同士なのにロスト・イン・トランスレーションですか(笑)。 飯森:だから今回見直してみたら我がことのように共感できた。やたらめったら「一言で言うと」って話を単純化したがるのはよくない。それって「細かいことはどうでもいい」と言ってるのと同じですから。少なくとも、ウイスキーのCMとか映画チャンネルとかで、人と一緒に情感を視覚化するような表現の仕事においては、細かいことこそが重要なので大変よくない。いわんや通訳も。無口な通訳なんて、職場放棄ですよそれ。とにかく、そんなような、似たような経験のある人は、あそこでは笑えると思います。ただ、公開当時の僕には幸か不幸かまだそういう愉快な人生経験が足りなかったので、そこでは笑えず、全編東京ロケという点だけが唯一この映画の引きの部分だった。 なかざわ:その東京ロケの描写というのも、そこを日常の生活の場として暮らしている我々とはちょっと違う視点ですよね。確かに東京ではあるんだけれど、僕らの知っている東京とは印象が異なる。あれって、ホテルの窓から東京の表層だけを眺める異邦人の肌感覚なんですよ。取材で頻繁に海外を訪れる僕としても、それはすごく良くわかる。たとえばロサンゼルスには数え切れないほど行っていますが、僕の知っているロサンゼルスと、そこに住んでいる人のロサンゼルスは違うはずです。だから、公開当時あの作品に出てくる東京や日本人の描写に違和感を覚えた人も多かったと思うんですが、似たような経験をしている僕から見れば、逆に極めて正確だと思うんです。そもそも、生活習慣も考え方も違う外国人の見る日本が奇妙に見えるのも仕方がない。 飯森:監督自身も、短期間ではあるけど実際に日本に滞在していた経験があるらしいので、決して嘘臭い描写は無いんですよね。たとえば、「47RONIN」【注42】のように無茶苦茶な勘違いや間違いはない。逆に、そうした異邦人の感じるアウェイ感をちゃんと捉えている点は地味に凄いと思います。 あと、僕は長いこと日本のドラマやお笑い番組を全く見ていないんですけれど、この作品で「Matthew’s Best Hit TV」【注43】っていう日本のバラエティー番組が出てくるじゃないですか。そこにハリウッド俳優がゲストで出演するわけですけど、日本のお笑い文化を理解していないから、「これのどこが面白いの?」とキョトンとしてしまう。あれは普段バラエティーを見ない僕としては激しく同意しましたね。“日本のお笑いあるある”。 なかざわ:日本人では飯森さんくらいかもしれませんよ、そこで共感したの(笑)。 飯森:よく日本人で「アメリカのコメディーはつまらない」と言ってる人がいますが、それって単に「所変われば品変わる」ってだけの話で、相手からも同じことを逆に言われているんですよ。優劣じゃないってことですね。 あと面白いなと思ったのは、劇中でハリウッド俳優に付いて回る日本企業の担当者が、広告代理店の社員を紹介するシーン。スターは5~6人の日本人から次々と名刺を渡されて挨拶をするのだけれど、あれって日本人的にはよく見る光景ですよね。でも、よくよく考えると意味がなくて、無駄な習慣というか、はっきりと困った悪習だったりする。 なかざわ:ああいう、現場に直接関係のない人をズラズラと連れてくるのって、僕の知る限りでは日本特有の光景ですよ。たとえば、日本だとタレント1人につき事務所の関係者や広告代理店、スポンサー企業など、なんでこんなにいるの!?ってくらい大勢の人間が金魚のフンみたいについてくる。まあ、タレントの知名度によって人数も変わりますが。あんな光景、海外では見たことないですよ。それこそ、ハリウッドのベテラン大物俳優さんだって、自分で車を運転して1人で取材現場にぶらりとやってくることもありますし。基本的にマネジャーすら付いてこない。とあるエミー賞【注44】の主演女優賞を取ったこともある有名な女優さんなんか、取材が終わって会場ビルの玄関前に一人でタクシーを待っていましたから。「あれ!?何やっているの?」って聞いたら「車を修理に出しているから今日はタクシーなのよ。ガードマンに電話で呼んでもらったから、もうすぐ来るはず。車がないって不便よねえ」だって(笑)。 飯森:それ超カッコいい!自立してるというか大人というか。いや、僕もあの日本式の無駄な光景を見ていると「ガキの使いじゃあるまいし…」っていつも思いますよ。なんなんですかねあれは?これに限っては優劣の問題かもしれませんね。アメリカは良くて日本の悪い面。当ザ・シネマでは、ゾロゾロと連れ立って詣でるのは絶対厳禁にしている。だから今日のこの取材だって、いつも僕が独りぼっちで単身フラリと東京ニュース通信社さんにお邪魔してるぐらいです(笑)。そもそも相手に失礼じゃないですか。現場で何をするわけでもない随員から次々と名刺を貰ったって迷惑なだけですよ。 なかざわ:しかも、その人たちと今後何かしらの関わりがあるのかといったら、ほとんどないですからね。形式だけの習慣はやめて貰えますか?って思います。 飯森:本当にあんたの顔と名前も覚えなきゃいけないの?限りあるオジサンの記憶力を無駄遣いさせないでよ!と。でも、あの光景を普通のことだと思っている大方の日本人は、普通にスルーしてしまったシーンかもしれない。いや、あそこ笑うところですから!恐らくソフィアたんは日本滞在中に実際そういうことがあって衝撃を受けたからこそ、あのシーンを脚本で書いたんだろうと思います。だから、この作品は我々日本人が気付かない日本独特の不条理を描いたコメディーとしても楽しめるんです。 ソフィアたんの映画って、お高くとまっているようでいて結構お茶目なんですよね。「SOMEWHERE」でも、主人公が次の映画で老けメイクが必要だというので、石膏を使ってマスクの型どりをすることになる。で、顔中に石膏を塗られるんだけど、その鼻の穴だけ開いて喋れない状態のまま、カメラはずーっと主人公の顔だけを撮り続けるんです。聴こえてくるのはスーコースーコー鼻息だけ。あそこはなんとも間抜けで笑える。「長えよ!」って。 なかざわ:子供の頃から慣れ親しんだハリウッド業界の、実は間抜けで笑える裏側というのを随所でさらっと描くのも彼女の映画の面白さかもしれません。 飯森:そういう絶妙なギャグセンスも彼女にはありますね。ある面ではコメディーなんです。 なかざわ:だから、特定のカテゴライズが出来ない監督ですよね。 飯森:いわゆるハリウッド・メジャー【注45】とは違う点だと思います。ラブコメとか、アクションとか、お決まりの型にはまらないところが。ジャンル・ムービーじゃないんですよね。 <注42>2013年制作、アメリカ映画。日本の「忠臣蔵」を独自に解釈して映像化したものの、もはや日本ですらない無国籍な風景や美術デザイン、衣装デザインなどが失笑を買った。 <注43>2001年~2002年に放送された音楽バラエティー番組。藤井隆の扮するキャラクター、マシュー南が司会を務める。<注44>テレビ番組などに関する様々な業績を称える賞で、1949年より毎年開催されている。世界のテレビ業界で最も権威があり、テレビ版アカデミー賞とも呼ばれる。 <注45>ワーナー・ブラザーズや20世紀フォックスなどハリウッドの大手映画会社、およびそこで作られる映画作品のこと。 次ページ>> 「マリー・アントワネット」 『ヴァージン・スーサイズ』©1999 by Paramount Classics, a division of Paramount Pictures, All Rights Reserved『ロスト・イン・トランスレーション』©2003, Focus Features all rights reserved『マリー・アントワネット(2006)』©2005 I Want Candy LLC.『SOMEWHERE』© 2010 - Somewhere LLC『ブリングリング』© 2013 Somewhere Else, LLC. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2016.02.15
男たちのシネマ愛④愛すべき、キラキラ★ソフィアたん(5)
なかざわ:そろそろ「マリー・アントワネット」に行きましょうか。 飯森:これまでに説明したソフィアたんの良いところが全部詰まっていて、製作費的にも一番お金がかけられていて、しかもマリー・アントワネットという日本人にも馴染みのある題材を取り上げている、個人的なイチオシです。と同時に、実は僕が一時的にソフィアたんを嫌いになる決定的要因となった作品でもあるんですよ。というのも、司馬遼太郎【注46】なんかを好んで読んでいる僕みたいなオジサンが、マリー・アントワネットの映画を見に行くということは、当然のことながらドラマチックな歴史大作を期待していたわけです。ところが、お話は確かにみんなが知っているマリー・アントワネットの伝記なんですけれど、この映画にはドラマチックな要素が全くない。なので、歴史にロマンを求めるオジサンとしては、これにはカチンときちゃいましてね。「いいとこのお嬢ちゃんが俺の領分にまでチャラチャラ入ってきたな!あんたに歴史が分かるの!?」と。 なかざわ:実際、当時はそういった批判もありましたよね。 飯森:しかし、今となってはそんな自分の見る目の無さを恥じ入るばかりです。ソフィアたん、ごめんね…。彼女の作家性の核となるのが“キラキラ感”であることは申してきましたが、「マリー・アントワネット」も同じだったんですよ。歴史のロマンを描こうとしていなくて、見どころは“キラキラ感”なんです。特にこの作品は、彼女の作品群の中でもダントツに眩しい。見た目的にはキャンディ・ポップ【注47】で、サーティワン・アイスクリーム【注48】みたいなというか、マカロン【注49】みたいなというか、そういう色彩に溢れている。 なかざわ:実際にマカロンも出てきますしね。 飯森:衣装の色彩設計も本当にマカロンを参考にしたらしいです。でも、そんなドレスは当時存在しない。 なかざわ:時代考証的には完全に間違っていますよね。靴だってマノロ・ブラニク【注50】だし。 飯森:だから、公開当時は「こんなものけしからん!キューブリックの『バリー・リンドン』【注51】を見習え!」って無茶なキレ方をしていたんですが、でも見習わなくて本当によかった!だって、忠実な時代考証に基づいたドラマチックな歴史映画を見たければ、まさに「バリー・リンドン」を見ればいいんだから。ソフィアたんは確信犯で「従来のような歴史映画には絶対したくない」とはっきり宣言している。つまり、司馬遼好きの歴史オジサンなんて、はなっから相手にしていないんですよ。だから、本作で衣装を担当したのは「バリー・リンドン」でオスカーを獲ったミレーナ・カノネロ【注52】なんです。ミレーナ・カノネロ本人が、その、時代考証的には間違っているマカロン色の衣装も本作では手がけている。で、またアカデミー衣装デザイン賞を獲った。人と同じことを真似してやっても無価値ってことなんです。その当たり前のことに今回僕は初めて気づいた。 なかざわ:音楽だって’80年代のニューロマ系【注53】が中心ですし。バウ・ワウ・ワウ【注54】とかアダム・アント【注55】とかですよね。 飯森:そのバウ・ワウ・ワウのヒット曲「アイ・ウォント・キャンディ」【注56】が流れるシーンが、“キラキラ感MAX”なんです。フランス宮廷での生活に慣れてきて、楽しくて楽しくて仕方ないマリーは、めいっぱい浪費をするわけです。高いものや綺麗なものが大好き。どんどんお買い物をして、靴やらマカロンやらが堆く積み上がっていく。パーティーやって夜遊びもやる。そういう映像をパッパとつないでいくミュージックビデオのようなイメージシーンでその「アイ・ウォント・キャンディ」が流れる。あと、「ブリングリング」でパリス・ヒルトンの豪華なクローゼットを披露したように、本作でもありとあらゆるお洒落アイテムを収蔵したマリー・アントワネットのウォークイン・クローゼットが出てくる。 なかざわ:ファッション好きな人が見たら興奮が止まらないでしょうね! 飯森:“クローゼット・パラダイス”って言葉もまた作ってみたんですが、そろそろ作りすぎですかね(笑)。“クローゼット・パラダイス”は着道楽の人には堪らない、いつまででも見ていたいシーンですよ。あんなクローゼットがあったら、もうどれを着ていこうか悩まなくて済む。あらゆる色、素材の衣類やアクセサリーが自宅にある。「これと合う色がない」とか「素材感がチグハグ」とかいった朝の悩みから永久に解消される!どんなコーディネートも自由自在で、思いついたことが即・形にできる。パラダイスは天上になくてもよくて、自宅のあの程度の空間で十分なんだ、それを眺めているだけで観客は多幸感に満たされるんだ、って演出を最初に発明したのは「SATC」【注57】の方が先かもしれませんけど、ソフィアたんはこの「クローゼット・パラダイス」表現をさらに一歩進めてみせた。 あと、マリー・アントワネットは夜遊びにもはまって、夜な夜な無断外泊をしてパリの舞踏会で踊りまくるんですけれど、この朝帰りのシーンにも注目して欲しい。馬車に揺られたマリーが、徹夜明けでちょっとグッタリし、ガラス窓にもたれかかって朝焼けを眺めながら、パリの盛り場から自宅であるベルサイユ宮殿【注58】へと戻っていく。この感覚がね、渋谷で夜遊びをした若い子が始発の山手線に乗って、電車に揺られながら、東から昇る朝日の暖かさを頬に受けて自宅へと帰っていく、あの二十歳前後にしかない達成感と虚脱感の入り混じった感覚そのものなんですよ。オジサンになった今となっては遊びで徹夜なんて楽しくもなんともないから極力御免被りたい。体力的にあとを引くし仕事にも支障が出るし。でも若い頃は楽しかったでしょ?世界に対する征服感というか、つい数年前まで許されなかった夜遊びをして、見たことのなかった朝焼けを見るわけです。あの朝焼けは間違いなくキラキラしていたでしょ?その“キラキラ感”を、18世紀のフランスを舞台にした映画で再現しちゃっている。凄いことですよ! しかも、それが重要な意味を持つことを示すかのように、同じようなシーンは二度出てきます。同性・異性の友人たちグループと夜っぴて遊び疲れ、一緒に昇る朝日を見に屋外に行く時、疲れ切ってて会話もろくに無い状態で、朝焼けに刻々かわる空をグッタリ虚脱しつつウットリ陶然としながら、惚けたようにみんなで見つめる。その、彼ら込みの風景の、なんとキラキラしていることか! あと、オールナイトの夜会で旦那のルイ16世【注59】がベルサイユ宮殿へ帰りたがるくだりが出てくるんですよ。眠いし疲れたと。でも、マリーにとって夜はこれから。そこで彼女はこう言うわけです。「あなた、朝日の昇るところ見たことないでしょ?」と。朝日童貞だと。すると、旦那は「朝日くらい見たことあるさ!」と切り返す。「夜も明けきらないうちから公務で狩りに行くから、朝日なんて何度でも見たことがある」と言い返すわけです。野暮天としか言い様がないんですよ!するとマリーは「その朝日じゃないのよね…」という呆れ顔をしてみせる。つまり彼女が言っているのは、午前4時台の山手線の車窓から見える朝日、冒険の成果として獲得した朝日のことなんだけれど、ルイ16世にはその違いが分からない。 なかざわ:それもまた、ある年齢の若者だけが見ることのできる“キラキラ感”ですね。 飯森:ルイ16世が言っているのは、「部活の朝練で俺はいつも夜明け前に起きてる」とか「新聞配達のバイトで夜明け前に起きてる」とかですよね。どんだけ野暮天なんだよ陛下は!まぁ、遊び好きの女の子にとっては、あんまり一緒にいて楽しい奴じゃないだろうとは思いますね。 だから、ということでもないんですけど、先ほども言ったように、本作では「ベルばら」でもお馴染みのスウェーデン貴族フェルゼンが出てきます。マリー・アントワネットと運命の大恋愛を繰り広げた人物ですね。ところが、アンチ恋愛主義者と思われるソフィアたんは、まるっきりと言っていいほど彼との恋愛を描かない。ちょっとした恋の駆け引き的なセリフこそあれど、特にそこ広げるでもなくフェルゼンはフェードアウトしていきます。「ベルばら」だと例の野沢那智さん【注60】が声をやっていて、止め絵【注61】とか3回パン【注62】とかの出崎演出【注63】が大げさに炸裂して、一世一代、運命の恋が劇的に描かれているんですけどね。 なかざわ:ソフィアのロマンスに対する無関心って、清々しいくらいに一貫していますね。 飯森:そして、最後はフランス革命【注64】が起こるわけですが、そこは異常にアッサリ。これに僕なんかは公開時に噛み付いたんですが、ソフィアたんはそこを描きたいわけじゃないからアッサリだったんです。民衆がベルサイユ宮殿になだれ込んできて、マリー・アントワネットは彼らに対して深々と頭を下げる。それでも許されずにベルサイユを追放されてパリで幽閉されることになる。その際、馬車に乗せられて連れて行かれるのだけれど、同じ馬車に子供たちと野暮天の旦那もいる。その旦那さんとマリーは優しく見つめ合ってね、「酷いことになっちゃったけど、一人で連れて行かれるわけじゃないからお互いに良かったわよね、貴方もいるし子供たちもいるし…」みたいなことを、ふっと苦笑いみたいな微笑みで表現する。ルイ16世も同じように微笑み返す。幼いうちに政略結婚させられた上、ルイ16世は性的不能者だったらしいので、マリーは結婚後も7年くらいに渡って処女だったと言われています。つまり、好きで結ばれたわけではないし、二人の間に恋愛要素はなかった、一人は派手好きの遊び好きで一人は野暮天。だけど、それでも一応はいたわりあいながら共に生きてきた異性のパートナーとして描かれている。ラブストーリー一歩手前の男女を描いてきたソフィアたんの面目躍如たるところだと思います。ここにも“ラブストーリー一歩手前キラキラ”の眩しさがちょっとあったように記憶してます。この眩しさが描きたかったんでしょうね。どぎつい革命の流血沙汰なんか描きたくなかったんだろうと今なら分かります。 なかざわ:そう言われると確かにそうです。 飯森:ちなみに、マリー・アントワネットの夜遊び仲間として、ポリニャック夫人【注65】とランバル公妃【注66】が出てきます。ポリニャック夫人は仲間の中でも一番賑やかで騒々しくて、ランバル公妃はいつもニコニコしながら黙っている控えめな女性。そんな彼女たちが、その後どうなったのか。この映画では描かれていませんが、うるさい女ポリニャック夫人は真っ先にマリーを見捨てて亡命します。一方の大人しいランバル公妃はマリーのことをかばい、最期までともに行動をしたせいで暴徒に惨殺されてしまった。民衆はその首を棒に突き刺して、マリーのいる監獄の窓へ向かって掲げて見せたと言われています。お前もこうしてやるから覚悟しろ、ってことですね。フランス革命というのは、ある面では今のIS【注67】みたいな状態になっていたわけですよ。「余談ながら」とこういうエピソードをどうしても付け足したくなるのが、司馬遼オジサンの悪い盛り癖なんですけれど(笑)。 なかざわ:ポリニャック夫人を演じているのはローズ・バーン【注68】ですね。彼女はドラマ「ダメージ」【注69】の真面目な若手弁護士とか、映画「インシディアス」【注70】シリーズのお母さんの印象が強いので、しとやかで清楚なイメージだったのですが、そういう意味では異色のキャスティングでしたね。まあ、「ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン」【注71】ではビッチな役どころでしたけど。 飯森:ランバル公妃役はメアリー・ナイって女優さんで、「誰だお前!?」って感じですけど、なんとビル・ナイ【注72】の娘さんということで、ソフィアたんとは七光りつながりのお友達なのかな?ふくよかで温厚そうで、セリフも大してない割にはすごく印象的で美味しい役でしたね。こんな女性が生首を串刺しにされたとはねぇ…劇中では出てきませんけど。 とにかく、フランス王国の国家財政を遊興で破綻させたという悪名高い歴史上の人物マリー・アントワネットを、ソフィアたんは“10代キラキラ”の次元まで引き戻してくることで、ちょっとはヤンチャもした全ての元10代が共感できる少女として見せているんです。買い物しまくって夜遊びして朝帰りしただけの女の子のお話。誰でも身に覚えのある若さゆえの放逸。「それって首まで斬られなくちゃいけないほどの悪かよ!?」と見終わった後で思わずにはいられない。今“お馬鹿セレブ”なんて呼ばれて叩かれている、パリス・ヒルトンとかそれに続く向こうの若い有名人の派手で無軌道なライフスタイルにしたって、彼らはマリー・アントワネット同様、我々庶民と違いカネを持ってるから乱痴気騒ぎのスケールがおのずと大きくなってしまうだけで、カネの無い我々にしても無いなりのスケールで若い頃は乱痴気騒ぎをしてたじゃないか。カネに比例したスケールの大小こそあれ、やってることの性質は同じ。誉められたものではないにしても、そこまで叩かれるべき悪なのか?大人ぶって常識ぶって叩けるほど我々元10代のオジサンは潔白だったっけ?なんてことまで思います。 いずれにしても、ソフィアたんの作品を振り返ってみると、彼女は単なる親の七光りでもなければ、ガーリーという言葉で片付けられる監督でもない。10代後半のキラキラをもう一度追体験してみたいという、全ての老若男女が見る価値のある映画を作り続けている、唯一無二の映像作家です。 なかざわ:それが彼女の作家性というものですね。 <注46>1923年生まれ。日本の小説家。「梟の城」で直木賞を受賞。歴史を題材にした小説で知られる。その他の代表作に「龍馬がゆく」「国盗り物語」など。1996年死去。 <注47>キャンディのようにカラフルでポップなアイテムなどのことを指す俗称。<注48>アメリカ発祥のアイスクリームのチェーン店。<注49>フランスを代表する焼き菓子。メレンゲに砂糖とアーモンドパウダーを加えたもの。カラフルな色合いと風味が人気。<注50>イギリスの高級靴ブランド。故ダイアナ妃やマドンナなどのセレブも愛用。 <注51>1975年制作、イギリス映画。全編をロウソクの光や自然光のみで撮影するなどし、18世紀ヨーロッパの雰囲気を忠実に再現した。アカデミー賞で4部門を獲得。スタンリー・キューブリック監督。 <注52>1946年生まれ、イタリアの映画衣装デザイナー。「バリー・リンドン」(’75)、「炎のランナー」(’81)、「マリー・アントワネット」(’01)、「グランド・ブダペスト・ホテル」(’14)で4たびアカデミー衣裳デザイン賞に輝く。<注53>正式名称はニューロマンティック。’70年代末から’80年代にかけて、イギリスから生まれたロック音楽のジャンル。代表的なアーティストはカルチャー・クラブやデュラン・デュランなど。 <注54>1980年に結成されたイギリスのロックバンド。日本でもTVCMに出演するなど大ブレイクした。 <注55>1954年生まれ。イギリスのロック歌手。’77年に結成したバンド、アダム&ジ・アンツでブレイクし、’82年の解散後はソロとしても活躍。 <注56>1982年に全英チャート9位をマークしたヒット曲。 <注57>1998〜2004年制作。アメリカのテレビドラマと、それをもとにした2008年と2010年の映画。NYに暮らすキャリア女性4人組の、奔放、かつ、お買い物中毒・ファッション・アディクトともいえる派手な暮らしぶりが話題となりヒット。<注58>1682年に建築されたフランスの宮殿。王族らが住んでいた。現在は世界遺産に指定されている。 <注59>1754年生まれ。フランスの国王。フランス革命で捕らえられて処刑された。1792年死去。 <注60>1938年生まれ。声優。2010年没。その代表作でありながらDVD/BD未収録だった『ゴッドファーザー』吹き替え特集をザ・シネマ10周年特集として放送し話題を集めた。前々回の対談のトークテーマ。 <注61>出崎演出の特徴の一つで、劇的なシーンでアニメの動きを止め、セル画調のベタ塗りではなく水彩画のような濃淡のムラのある一枚絵で印象を強調する手法。 <注62>出崎演出の特徴の一つで、映像で、キャメラを横に振ることが「パン」。それを同じ短い絵で3回リフレインして、印象を強調する手法。 <注63>止め絵や3回パン、透過光による逆光表現などを用いて、アニメにドラマチックな効果をもたらす演出術。出崎統は1943年生まれのアニメ監督。代表作は「あしたのジョー」(’70)や『エースをねらえ!』(’73)、「ベルサイユのばら」(’79)など。2011年死去。 <注64>18世紀後半に起きたフランスの市民革命。それまでの絶対王政から共和制へと移行した。 <注65>1749年生まれ。マリー・アントワネットの取り巻きとして、その優位な立場を私利私欲に使ったことで悪名高い。1793年、亡命先のウィーンで死去。<注66>1749年生まれ。マリー・アントワネットの女官。フランス革命時には国王一家を救うために奔走し、そのせいで1792年、暴徒に首を切り落とされた。 <注67>イスラミック・ステートの略。イラクやシリアの一部を支配しているイスラム過激派組織。 <注68>1979年生まれ。オーストラリア出身の女優。「トロイ」(’04)でブラッド・ピットの相手役を演じて注目される。 <注69>2007年から2012年まで放送されたアメリカのテレビドラマ。冷酷非情なベテラン弁護士パティと真面目な若手弁護士エレンの女同士の対決を描く。 <注70>2010年制作、アメリカ映画。怪奇現象に見舞われた一家の恐怖を描く。<注71>2011年制作、アメリカ映画。親友の花嫁介添え人に選ばれた女性を描くコメディ。アカデミー賞2部門ノミネート。 <注72>1949年生まれ、イギリスの俳優。「ラブ・アクチュアリー」(’03)の高齢者ロックシンガー役で英国アカデミー助演男優賞を受賞。代表作に「パイレーツ・ロック」(’09)、「マリーゴールド・ホテル」シリーズ(’12、’15)など。 次ページ>> ザ・シネマ社内で勃発!“「ブリングリング」ゲイ論争”の顛末 『ヴァージン・スーサイズ』©1999 by Paramount Classics, a division of Paramount Pictures, All Rights Reserved『ロスト・イン・トランスレーション』©2003, Focus Features all rights reserved『マリー・アントワネット(2006)』©2005 I Want Candy LLC.『SOMEWHERE』© 2010 - Somewhere LLC『ブリングリング』© 2013 Somewhere Else, LLC. 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COLUMN/コラム2016.02.15
男たちのシネマ愛④愛すべき、キラキラ★ソフィアたん(6)
飯森:最後に語っておきたいのが、ザ・シネマ社内で勃発した“「ブリングリング」ゲイ論争”です。 なかざわ:へ? どういうことです? 飯森:いや、あの作品が公開された時に、いつもの調子でうちのスタッフと感想や解釈について雑談していたんですけれど、僕は主人公の男の子がゲイだとは全く気付かなかったんです。本国のティーザー【注73】版ポスターには、主人公たちが格好つけてかけるサングラスだけが縦に並んでいて、そこに各キャラクターそれぞれの肩書きが書いてあるんですね。こいつが「首謀者」、こいつは「スター」みたいな感じに。で、この男の子のサングラスにはThe Right-Hand Manと書かれているんです。直訳すると「右手男」。これはどういう意味だろうと。日本では頼りにしている手下のことなどを「ボスの右腕」なんて呼んだりしますが、果たして英語の慣用表現でもそう言うのか?まあ、辞書で調べれば一発で分かったものを、調べるまでもなく、僕はマスタベーションのことだろうと即・思ったわけです(笑)。「右手が恋人」って表現が日本語にはあるじゃないですか。 なかざわ:はいはい、だったら左利きの人はどうするんだって話ですけどね(笑)。 飯森:左手だと他人に手コキされてるみたいでもっと気持ちいいという真面目な学説もありますが(笑)。まあ、それはいいとして、僕はThe Right-Hand Manというのを、オナニーしまくっている童貞野郎という意味に曲解したんです。 なかざわ:いやいや、英語でも「右腕」で正解ですよ(笑)。 飯森:首謀者である中国系の娘の右腕ってことが正解だったんですけどね。僕は、転校生で友達のいない主人公が、たまたま仲良くなった女の子とつるんで女子グループに入れてもらい、あわよくば誰でもいいから一発やらせてくれ!一番気が合う中国娘だったら最高だけれど、ハーマイオニー【注74】でも相手にとって不足はない、他の名も無き脇役みたいな娘たちでも一手ご指南願えるんだったら選り好みはしないんで是非とも!というわけで、彼女たちに気に入られようとワンチャン狙いでパシリとして仕える“童貞残酷物語”だと勘違いしちゃったんですよ。これがね、うちの女性スタッフによると「違う!彼はもともと男子グループよりむしろ女子グループにこそ入りたいようなメンタルの持ち主なんだ」と。男同士つるんでマッチョにスポーツなんかするよりは、女子に混じってファッションの話をしたいゲイの男の子なんだと言うんですが、悔しいことに僕には1ミリたりともゲイの要素がないので、当時はその解釈に納得いかなくて大論争にハッテン、もとい発展したんですよ。僕はゲイの考えは分からないけど、童貞の考え方なら理解できる。っていうか残念ながらそれしか理解できない。なので、主人公と主犯格の中国系の女子とは波長の合う親友、という描き方をソフィアたんはしていただけだったんですが、僕には主人公が彼女に惚れていて、やりたがっているようにしか見えなかった。そして、最後には捕まって刑務所送りになる。刑務所行きの護送車で、ダニー・トレホ顔【注75】とかアイス・キューブ顔【注76】が並ぶ囚人の中、ツルンとした顔の紅顔の美少年がただ1人。これはもう… なかざわ:完全にやられちゃうなと(笑)。 飯森:女子とやりたい一心で犯罪にまで手を染めちゃった童貞小僧が最後はダニー・トレホにやられちゃうという、まことに皮肉な、因果応報なお話でしたとさ!と綺麗にオチがつく解釈のはずだったんですけれど、うちの女性スタッフからは「どこをどう見たらそんな話になるんだ!ソフィアを汚すな!!」って憤慨されましてね(笑)。その後で、いろんな人の話を聞いても、僕以外は全員、あの子はどう見てもゲイじゃん?って言うんですよね。 なかざわ:まあ、確かに彼の立ち位置は微妙ですけれどね。明確に彼はゲイです、っていう直接的な描写もありませんし。 飯森:でも、彼がパリス・ヒルトンの家から盗んだ靴を、下着姿になって履くシーンがありますよね。 なかざわ:とはいえ、世の中にはノンケでも女装が好きな人は結構いますし、なにしろ、パリス・ヒルトンの靴ですから、思わず履いてみるっていうのも有り得ますよね。シャンパンを注いで飲む奴もいそうですけど(笑)。 飯森:それじゃ元彼のタランティーノじゃないですか(笑)。でも、ですよねえ!僕だって絶対に履いちゃいます。綺麗な女性芸能人の靴が手元にあったら、そりゃノンケだって普通は履いてみるでしょう。でもね、今となっては、この論争は勝負アリなんですよ。僕の完敗です。まず過去の監督やキャストのインタビューを見ると、「彼はゲイ」と明言していたんですよ。もちろん、映画は作り手のものではなく我々観客のものなので、受け手によって解釈は自由です。見る方がノンケだと感じたのならそれがその人にとっては唯一絶対の正しい解釈なんですけど、ただしこの論争に関しては、僕が全面的に間違っていたと負けを認めざるをえない。というのも、もしこいつがノンケだとしたら、今まで述べてきたソフィアたんの作家性と合致しなくなってしまうから。 最後に刑務所へ護送車で送られていく彼の表情がその決定的証拠です。罪の意識や後悔の念を感じているようには見えない。女子たちの誰かに童貞を捧げられなかった無念さも無論ありません。彼が脱童貞のために女子のパシリをしていたノンケなんだったら、ここで「女とやりたくて犯罪にまで手を染めたのに、結局やれず終いで、逆に男にやられちゃうのかよ、チキショー!」という顔をしていなければならない。でも、 それどころか、満足気な達成感すら見て取れるんです。微妙に眩しそうに微笑んでいるように見える。たまたま異性だった、恋愛には発展しえない親友の女子と、思いっきりやりたい放題を楽しんだ、そのキラキラした瞬間の数々、“10代キラキラ”と“ラブストーリー一歩手前キラキラ”を思い返して眩しそうに目を細めている。そう解釈したほうがよほどソフィアたんらしい。 なかざわ:そう考えると、彼女はセックスというものを、結構どうでもいいものに分類しているように思えますね。 飯森:だから、前月のヴァレリアン・ボロフチック特集の次にソフィア・コッポラを特集できるというのは、本当に良かったと思うんです。セックスというものが人間にとって欠くべからざる重要なファクターだというボロフチックに対して、セックス?恋愛?どーでもいいわ!というのがソフィアたん。彼女はそういう白か黒かみたいなことには興味がなくて、その中庸にこそホンワカとした機微のようなものを見出している。ここはぜひ、オジサンたちもボロフチックは見るでしょうから、今回ソフィアたんの作品にも触れていただいて、十代の頃に戻ってもう一度“キラキラ感”を体感して欲しいと思いますね。うおっまぶしっ! (終) <注73>一般的には本格的な広告展開を行う前の段階として、商品などの詳細を明かさないことで消費者の注意を喚起する宣伝手法のこと。映画やテレビドラマなどにおいても、作品のタイトルやイメージ画像のみを使用したポスターや予告編を流布し、その次に展開する正式なポスターや予告編へと繋げていく。 <注74>「ハリー・ポッター」シリーズのキャラクター。演じるのはエマ・ワトソン。1990年生まれ。イギリスの女優。「ブリングリング」では、空き巣に積極的に加わりながら家庭では良い子を演じ、事件発覚後は巻き込まれただけと主張する悪役を好演している。<注75>1944年生まれ。アメリカ出身の俳優。元ギャング。コワモテの悪役俳優として活躍し、「マチェーテ」シリーズ(’10、’13)で主演し注目される。<注76>1969年生まれ。アメリカ出身のラッパー、俳優。伝説のヒップホップグループN.W.A.の元メンバーで、映画に進出してからは出演だけでなく、製作、脚本、監督までこなす。 『ヴァージン・スーサイズ』©1999 by Paramount Classics, a division of Paramount Pictures, All Rights Reserved『ロスト・イン・トランスレーション』©2003, Focus Features all rights reserved『マリー・アントワネット(2006)』©2005 I Want Candy LLC.『SOMEWHERE』© 2010 - Somewhere LLC『ブリングリング』© 2013 Somewhere Else, LLC. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2017.05.15
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2017年6月】キャロル
私立探偵イージー・ローリンズを描くウォルター・モズレイの超人気ハードボイルド小説を映画化。主演はデンゼル・ワシントン、製作総指揮は『羊たちの沈黙』の名監督ジョナサン・デミ、ヒロインを演じるのは『フラッシュ・ダンス』のジェニファー・ビールス。 1995年製作のこの映画、見ごたえがあって実に面白い。物語のはじめでは、主人公の人柄や置かれた状況、いよいよ事件に巻き込まれる様が、適度な緊張感を保ちながらもじっくりと描かれ、あっという間に引き込まれてしまう。さらに、事件の鍵を握る女が一体どれほどの女なのか否が応でも期待が高まる中、ついに登場する“青いドレスの女”ジェニファー・ビールスの神々しい美しさときたら。 最近の映画ってものすごくカットが短い上に、展開がとにかく早い。勢いに任せて見せられてしまう感じがあって、面白かったとしてもすぐに忘れてしまうことが多いような気がしている。そんな折、偶然出逢った本作は、私の中で何日も何週間も、ずっといい後味を残している。6月のザ・シネマで、是非ご覧下さい。■ © 1995 TriStar Pictures, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2017.06.03
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2017年6月】飯森盛良
冒頭、動物のマネ(動態模写)する少年達が全米ライフル協会みたいな銃好きの連中に射殺される。何これ?と思ったら夢だった。サマーキャンプでバンガローが同室の少年達。全員が落ちこぼれ。キャンプ場を抜け出し“何か”をしようと“どこか”を目指し夜間旅立つ。時おりフラッシュバックする、各人が抱える複雑な家庭の事情エピソードと、そして動物が射殺される謎のインサート映像…何これ?本作、ロードムービーでありサマーキャンプ映画であり少年達のひと夏の冒険映画なのだが…その先に待ち受ける衝撃の結末とは!? そこで冒頭の夢、殺される動物、すべてが最後に繋がり…ってスタンドバイミー越えてるじゃんコレ!見終わった後もカーペンターズの同名テーマ曲が切なく耳に残る。■ © 1971, renewed 1999 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2017.05.12
シュールでキュートでカルトなギリシア映画『籠の中の乙女』の意味不明な箇所に解説を付けてみた
怪作『籠の中の乙女』に妹役で出演していたマリー・ツォニさんが亡くなりました。亡くなった詳しい状況は報じられていないようですが、これはWHO(世界保健機関)が定めた報道の国際ガイドラインにのっとってのことでしょう。日本でも内閣府のHPにそれは掲載されています。 要は、自殺報道を詳細に報じてはいけない、という国際ルールでして。そういうことすると後追い自殺を生みますからね。日本でも定着しつつある考え方です。 ということでマリー・ツォニさんが亡くなった話題はあまり深掘りせずに、彼女が我々映画ファンに遺してくれた、とてつもなく変な映画、まごうかたなき怪作、であると同時に2009年カンヌ映画祭「ある視点」部門受賞、2010年度アカデミー外国語映画賞ノミネートと、国際的にたいへん高く評価されたギリシア映画『籠の中の乙女』について、緊急で書きます。7月、ワタクシのやってる平日深夜「シネマ解放区」ゾーンで再放送もしますんでよろしく。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ いやはや、ほんと変な映画です。カンヌの「ある視点」部門ってのは変な映画が獲る賞なのですが、とりわけ本作は変。まずBGMが無い。それと大半のシーンがカメラ据え置きで、ズームとか移動撮影とかが極端に少ない。カメラが追わないから役者がよく見切れており、見た目的にとっても変なのです。あまりに「静的」と言うか。 舞台は一軒の家ワンシチュエーションからほとんど出ず、その家は広い庭のある豪華な白亜の平屋で、しかもプール付き。各部屋、窓が大きく取られており、そこからギリシアのカラッとした日差しが差し込んで、わたせせいぞうか鈴木英人のイラストみたいでちょっと素敵です。でも、あまりに清潔感あふれすぎていて、ここまでくると逆に異常。むしろ寒々しく殺風景に感じられてくる始末。 だから、「静謐な」という形容動詞がいちばんしっくりくる印象の映画です。「閉塞感」と言うのも近い。それはなぜか? これは、籠の中に乙女たちを閉じ込める映画だからです。父親が娘2人(マリー・ツォニさんは下の妹役)と息子1人、3人の子供達(と、もしかしたら奥さんのことも)を自宅に監禁して育てているというお話なのです。 外界から隔絶されているため、当時おそらく外の世界では国債暴落とかデフォルト危機とか、緊縮財政と民営化の圧力がメルケルさんあたりからかかったりとかで、ギリシアは国全体が蜂の巣を突ついたような大騒ぎだったはずなんですけど、このお宅だけは異常なまでに「静謐」。文字通り「閉塞感」で窒息しそうな日常が来る日も来る日も繰り返されます。 外の世界は危険がいっぱい、おうちが一番安全なんだ、ということで、お父さんは家族が家から出ることを禁じています。 ワタクシ事ながら、ウチも子供3人いる貧乏子だくさん一家ですが、こういう考え方には、恐ろしいことに、父親としてちょっとだけ賛同しちゃう面も無くはない。レェ・ティ・ニャット・リンさん事件とか通学児童の列に車が突っ込んだとか、そういう子供が犠牲になる痛ましいニュースを見るたびに、学校にも行かせず家から一歩も出さないでいられないものかなぁ…と、一瞬どうしたって考えちゃいますよそりゃ。 あるいは海外旅行。ワタクシが若かった90年代とか、冷戦が終わってこれから世界は明るい21世紀を迎えるんだ、と信じきっていた時代であれば、バンバン海外行って見聞広めてきてくれ、バックパッカーみたいな貧乏旅行でいい、多少トラブルに巻き込まれたとしても、よっぽどのことでなければそれもまた良い人生勉強だよ、打たれて強くなれ!ぐらいに思ったかもしれない。実際そういう感覚でワタクシの世代はフットワーク軽く世界中に飛び出して行ってましたし、送り出す親御さんが海外行くごときで気を揉んだなんて話も周囲ではついぞ聞かなかった。世界は夢のように平和でしたから。しかし2001年9月のあの日以来、世界は決定的に変わってしまった。今では海外に出かけようとして「テロ」という言葉が頭をよぎらない人なんていないのではないでしょうか。子供が海外に行く!? 正直やめてほしいと思っちゃいますねぇ…。 しかし、子供を家に縛りつけておこうなんていうのは、ろくな考え方じゃない。この映画では、そうすることによって、事件やテロに巻き込まれない代わり、とんでもない家庭崩壊、人の道を踏み外すことになっていくのです。それが、静かに静かに、静謐に、どこまでも美しく描かれていく。 本作における子供達は、幼少の頃から「外には怪物がいる!」とシャマラン映画みたいな、あるいは湯婆婆みたいな、もしくはラプンツェルの母ちゃんみたいなウソを信じ込まされてきたので、おそらく全員二十歳前後ぐらいになっているでしょうが家から出たことがなく、顔に生気がなく、表情に乏しく、精神年齢は小学校低学年ぐらいでストップしているような感じです。 しかし当然カラダだけは大人。湯婆婆んちの坊が湯屋のあのペントハウスで二十歳過ぎになっちゃったと思ってくださいよ。たまらんですよ!とっくのとうに第二次性徴期も完了し、すでに息子の息子はいつでも発射可能状態。これを狭い家に閉じ込めておくのですから、溜まったものを定期的に放出させないと暴発しちゃうであろうことは想像に難くありません。ということで父親は自分の勤め先の女ガードマン・クリスティーナにお金を払い、お兄ちゃんにあてがっています。とても段取りめいた、決まった動作でテキパキとコトに及んでいるところから察するに、お兄ちゃんとクリスティーナのSEXは定例になっているみたいです(このこと覚えておいてください)。 いやはや、エロ映画やAVって、人間にとって必要なんですなぁ!エロ映画もAVも見たことがないお兄ちゃんは(メディア禁止なので)、ただ入れて出すだけの犬猫の交尾のようなSEXしかできないんですから悲しい話です。女の方は全然イケない。クリスティーナの好きなコト、それはもちろんクンニです! あるとき、入れられて出されるだけで欲求不満きわまったクリスティーナはお兄ちゃんに「舐めて」と頼みますが、拒否されます。相手は精神年齢子供レベルなので「これはあなたのためにいいことなのよ」とウソつきますが騙せず、逆に後背位でヤリたい(犬猫みたいに)と要求されて、サセちゃいます。自分はイケなかった…。 そこで、事の後で、今度はお姉ちゃんに百合クンニを頼みます。その家の女の子たちとも、いちおう口をきく程度の接点はあるのです。「消しゴム付き鉛筆あげるから」とか「カチューシャあげるから」とか「ヘアジェルあげるから」とか言って釣って(相手は精神年齢小学生ですから)。依頼主である一家のパパには内緒で。 監督のヨルゴス・ランティモスさんは、本作の公式サイトでこう述べています(以下コピペ)。 「(前略)男の子の方が性的欲求が強いとみなされていて、女の子より多くの課題を課せられる。両親も、姉妹には性教育の必要を感じていませんし、より保守的に育てています。彼女らの性生活なんて考えもしない。でも両親は長男がセックスしていることを誇らしく感じています。少なくともギリシャでは一般的な考え方ですね。古臭い考えですが、よその国にも残っているのではないでしょうか。」 こういう女子への偏見というか聖処女願望というか変な思い込みから、両親にとっては完全ノーマークだったお姉ちゃん。それがレズ舌技で性に目覚め、自分も舐められてみたいという欲望が芽生えます。崩壊の序曲、パンドラの箱が半開きになりました。お姉ちゃんは末っ子の妹(故マリー・ツォニさん扮演)に後日、何か物あげるから自分のことも舐めてくれと要求。最初は肩を舐めてくれと頼みます。肩舐められても無意味ですが精神年齢小学生ですからカタとクリの違いをわかってない。ただ、次には内腿を舐めてとか、腰骨とかヘソとか、だんだんとリクエスト部位がリクエリトリスに、もといリクストエがクリストスに、ええいまどろっこしい、陰核、じゃなかった核心へと近づいていきます…何言ってんだオレは。 そしてとうとう、お姉ちゃんが禁断の智慧の実を喰らってパンドラの箱を全開にしちゃう瞬間が訪れます。クリスティーナがお姉ちゃんに次またクンニさせようとした時、お姉ちゃんは、クリスティーナ側から提示されたあらゆる子供の好きそうなお土産には興味を示さずに、クリスティーナが持っていた映画のレンタルビデオをバーターでよこせと強硬に要求します。 この家にはデッキとTVは有る。と言ってもビデオカメラで撮影したホームビデオを何度も何度も繰り返し見るためだけに有るもので、TV放送とか映画ソフトとかはこれまでは見れなかったわけですが、こうしてお姉ちゃんはレンタルビデオを見ることができるようになるのです。これでパンドラの箱が開きます。 と、ここまでがあらすじ。ここまでは未見の人でも読んでてネタばれということはありません。しかし、ここから先はネタばれに踏み込んでいきます。未見の人は本編をご覧になった後でぜひ再読しに戻ってきていただければ幸い。またいつの日かお会いしましょう、さようなら! ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ で、さて、「いや〜映画って、本っ当にいいものですね!」って、ことですよね、ここから先の展開は。映画のおかげで世界が広がる。家の中だけ、家族5人だけで閉じていた狭い世界が一気に開けます。ロッキーIVにハマる!ジョーズにハマる!フラッシュダンスにハマる!そうして体験したことのない人生を疑似体験する。亡き友のリベンジのため成功と平和の日々に別れを告げふたたび命がけの戦いに臨むとか、責任を背負う者たちが圧倒的脅威・深刻な危機と向かい合って打ち勝つとか、自分の特技にひたむきに打ち込むことで成功をつかむとかは、そうそう誰もが体験できるものではありません。それを疑似体験できてしまう。それが映画、それこそが映画を見るって行為の本質でしょう。お姉ちゃんはそれらを疑似体験して、弟と妹を置いて一気に覚醒していくのです。 ちなみにロッキーIVを見て、お姉ちゃんは窓ガラスをミラー代わりにロッキーのマネをします。その時、某主演スターの顔マネ声マネで、口を「へ」の字にひん曲げ完全になりきっており、ここは思わずフイた!な名シーン。「ハイここ笑うとこですよ〜」と親切過剰な演出になっていないので気づかないかもしれませんけど、ここ確信犯で笑わせようとしてますよね?ランティモス監督は、 「映画全体のトーンとして物事を誇張して描いていて、そこには、嗤うしかないバカげたユーモアがたくさんある。大爆笑じゃなくたっていいんだ。ユーモアはいつも爆笑と決まったものじゃないから。ただ、多くの試写会場ではほとんど爆笑に近いところまでいっていたけどね。でもその一方で、別の会場は静まり返っていたこともあったな」 と別のインタビューで語っています。ま、わかる人にはわかるギャグセンスってことですな。シュールで「静謐」でアートフィルムっぽいルックではありますが、吹くような笑いも果敢に獲りにきている、意外に狙ってる映画なのです。 とにかく、映画によってお姉ちゃんの知覚の扉がパッカ〜ンと開く。それを開けるのはLSDではなく映画なのでした。海外で貧乏旅行とか武者修行しなくたって、それで人生経験は仮想で積めるのです。それが映画を見る意味です。彼女はまず、映画によって「名前」を手に入れます。千と千尋の湯婆婆のように、父親は子供たちに名前さえ付けず自我を封じて支配しており、名無し状態でその歳まで育ててきたのですが、お姉ちゃんは「名前」という概念がこの世にあることを知って自分を「ブルース」と名付け、弟妹にもブルースと呼ぶよう命じます。自我の芽生えです。 「ブルース」というキャラクターは、ロッキーIVにもジョーズにもフラッシュダンスにも確か出てこないはずですが、実は!なんと『ジョーズ』のあの伝説の撮影用サメロボット、スピルバーグが作ったあれのスタッフ内輪での呼び名が「ブルース」だったのです。お姉ちゃん、プールですっかりサメになりきってジョーズごっこしてましたからね。 もっともレンタルビデオの『ジョーズ』本編中にはそのコードネームは出てこなかったはずですし、DVDではなくなぜか今時VHSなので映像特典やコメンタリーが付いているはずもなく、どうやってロボの内輪の呼称がブルースだとお姉ちゃんが知ったのかは謎なのですが。ということでこの推理、ハズレてるかもしれませんけどね。 とにかくプールで弟とジョーズごっこをしている時にジョーズ劇中のセリフを完コピで空んじて、弟に「姉ちゃん一体どうしたんだろ…急に物知りになっちゃって」と怪しがられ、チクられたっぽくって、パパに映画見たことバレちゃいます。 パパは激怒です。不潔な外界の不浄な大衆文化に長女が触れてしまった!けしからん!! 取り上げたVHSで長女の頭をこてんぱんに殴りつけ、さらにはクリスティーナこそが元凶と、その住まいまで乗り込んで行って、今度はVHSデッキ本体で脳天を力一杯ぶん殴ります。 …く、狂ってやがる!このお父さんこそ諸悪の根源なのですが、どうしてここまで極端に外界を遮断しようとしているのか?奥さんまで外に一歩も出れないようなのですが、一体どういう訳なのか? 勤め先で、父親は同僚とこんな会話を交わします。 同僚「奥さん 具合は?」父親「同じだ」同僚「外出は?」父親「しない」同僚「車イスでも たまには出ないと」父親「妻は来客もイヤがるんだ。私は君をビールにでも呼びたいが」同僚「奥さんは悲惨な目に遭ったんだ。うつ状態にもなる。写真では活発な女性に見えた。バレーボールのチャンプ?」父親「ハンドボールだ」 …うつ状態?悲惨な目に遭った?車イス?って普通に歩いてましたけど!? これらのことはその後、言及も説明もされません。言いっぱなしです。 さらにお父さん、下の娘に足の爪を切らせながら、こんな物悲しい歌を口ずさみます。 「♪愛する君を失って 僕の青春も終わった 見上げれば星が涙を流し 鳥たちも悲しげに鳴いている 寂しい夕暮れに ふさぐ心(ここから、なぜか勤務先の工場の外観ショットが映し出されながら)君がいなくなって 何もかも悲しげだよ いとしい人よ 君は今 どこに? 捜し求めても むなしいだけ」 なぜこの映像に合わせてこの曲を?どういう意図か?若い頃にここの職場で、女がらみ痴情のもつれ系で何か一悶着あったのか!? それが家族監禁と何か関係しているのか!? 謎は深まるばかりです。 インタビューでランティモス監督はこう言っています。 「(両親が狂った監禁育児をしている背景をまったく描かないこと)は私にとってとても重要でした。でなければ全く違う映画になっていたでしょうね。観客が夫婦の背景を知っていたら、彼らの行為が良いか悪いかという目で見てしまったのではないでしょうか(後略)」 ということで、観客に深読みさせてあえて翻弄し興味関心を持たせて、「んもぉ〜気になって仕方ないじゃない!」と言わせようという、これは作り手の焦らしテクかもしれませんな。あまりここ真剣に謎解きしても、まんまと監督の術中にハマるだけで徒労かもしれません。答えは「答えは無い」じゃないかと。なのでワタクシとしては、ここは華麗にスルーしておこうと思います。 さてさて。お父さんがVHSデッキでクリスティーナの脳天カチ割ったため、息子の性欲処理係がいなくなっちゃった。「今度は熟女にしよう。その方が安心だ」と夫婦で相談していた直後に、話がどう転がったらそうなるのか、お姉ちゃんと妹、どちらかがお兄ちゃんの性欲処理係になるという話になっちゃって、お兄ちゃんが風呂場で2人の女体をすみずみ検分吟味した結果、お姉ちゃんの方を選ぶという、おぞましい展開に。懐かしの赤さんなら「まさに外道」と言うところですな。外界から隔離したら外道に育っちゃった。 そして、娼婦みたいなケバいメイクをお母さんが(!)お姉ちゃんに手ずから施して、ついにお姉ちゃんはお兄ちゃん(いや、おそらく彼女からしてみたら弟か)の部屋に入ってSEXをします。まさに外道!ここが冒頭の、クリスティーナとの段取りめいたSEXとの対比になっている。今回は初組み合わせの対戦カードなので段取りが決まってません。特にお姉ちゃんはもちろん処女で、SEXについて真っ白の無知ですから、何をどうしていいかわからず、弟のなすがままにされます。無知すぎて、これがSEXだとも近親相姦だとも認識できていないでしょうし、近親相姦がタブーということも理解できないでしょう。 ただ、動物としての本能が、この穢らわしい行為が犬畜生にも劣るような、生殖の常道を踏み外した鬼畜のおこないなのだと、お姉ちゃんに気づかせます。そして事が終わった後のベッドで、隣で賢者タイムにひたっている弟に向け、彼女は血を吐くようにして絞り出し、映画のセリフを暗唱するのです。 「もし またやったら八つ裂きにしてやる。いいか、娘に誓って言う。お前の一族は生かしちゃおかねえ。とっとと町から出てけ」 これは何の映画からの引用なのか?この作品の英語版Wikiに、ハッキリとこう明記されています。 「姉はSEXのあいだじゅう不快で、事の後で弟に向かい『ロッキーIV』から引用した脅しのセリフを暗唱する」 ロッキーIVだって?ソ連に行っちゃうあの?ドラコが出てきて最後はゴルビーまで出てくるあれ?あれにそんなセリフあったか?「娘」とか「一族」とか「町」とか、一切そんなファクター出てこない映画だったですよね!? 変だと思って今TSUTAYA行って借りてきて再生してますけど、案の定そんなセリフ出てきませんね。これはWikiの間違いではないでしょうか。 では、一体これは何の映画からの引用なのか?正解はわかりませんが、海外の批評では「どれか特定の映画からの引用という訳ではないが、映画からインスピレーションを受け、長女が生み出した言葉」との見立てが複数紹介されています。ただし、そう監督本人が語っている発言は、ちょっと探してみましたがネット上では発見できませんでした。日本版セルパッケージソフトの映像特典は予告編だけみたいで監督によるコメンタリーは収録されていないようですから、その線でも調べはつかず、裏取りができておりません。 ただ、「長女が生み出した言葉」という解釈が当たっているとしたら、それはこの映画においては重大すぎる意味が込められていて、長女のフォースの覚醒を描いていることになります。あの狂った父親は、子供達に名前を付けないだけでなく、普通の名詞すら教えていないのです。言葉を奪った訳です。言葉つまり社会とつながるためのコミュニケーションツールを奪った。千尋の名前を奪ってコントロールした湯婆婆どこの騒ぎじゃありません。例えばお塩、テーブルソルトのことを「電話」だと教え込んでいます。この家では外界との接触を断つため電話は子供達には隠しているので、想像するに、子供達が本か何かで「電話」という言葉を知ってしまった時に、「電話とはこれだよ」と塩を見せたのでしょうか。また、イヤらしい言葉も無いことになっていて、女性のアソコのことは「キーボード」と呼ばせており「マ×コ」という言葉は存在しないことになっています(それは普通どこの家庭でもそうか)。また「海」や「高速道路」というものを子供達は知りませんので、それは「アームチェアー」と「強風」の別名だよと教えています。言葉をメチャクチャに教えることで、家族以外とはコミュニケーションとれない人にしちゃっている。 そういう前提があって、長女が映画からインスピレーションを受けて言葉を自分で生み出したのだとしたら、それはものすごい進歩じゃないですか!映画がお姉ちゃんを一気に成長させ、外に出て行くトレーニングとして役立った、ということですから、本作の解釈としてこの見立ては魅力的ですし説得力もあるのですけれど、いかんせん裏が取れませんので、とりあえず今の段階では「そういう説もある」とだけご紹介しておきましょう。 さて、弟とSEXさせられちゃいました。この決定的な出来事により、お姉ちゃんの中で、何かが壊れます。 SEXの後、今日は両親の結婚記念日だということで一家はパーティーを催します。子供達も演し物をやる。姉妹はダンスを。そしてお姉ちゃんが全身全霊をかけて激踊りするのは、『フラッシュダンス』クライマックスでのジェニファー・ビールスによるダンスの真似なのです。説明一切ありませんが、ある世代なら振り付けを見ただけで一発でピンときます。それは見ていて恥ずかしくなるほど下手くそきわまりない、でも一生懸命ではある、必死の踊りです。ジェニファー・ビールスは審査員を一人一人指差す振りを組み入れた空駆ける激ダンスにて見事にチャンスをつかみ、望んでいた人生のスタートを切るところで映画『フラッシュダンス』は終わりましたが、お姉ちゃんが家族一人一人を指差しながら一心不乱に踊っても、「もう沢山!」と打ち切られてしまい、穢らわしいものでも見せられたようにあしらわれるだけ。しかも、穢らわしい近親相姦を仕組んだ張本人である、お母さんその人によって。チャンスなど与えてくれません。 そして、この映画はとうとう、とんでもない終局を迎えるのであります。ついにお姉ちゃんが行動を起こすのです。ここまでネタバレ全開で書いてきて今さらナンですが、あえてラストについてだけは、野暮もきわまれりなので具体的にこれ以上は書きますまい。ただ、この結末、おそらくは決定的な破局なのではないでしょうか。そこはハッキリとは描かれませんけどワタクシはそう思っています。一週間ほどして異臭が漂ってきて…ってことになったに違いない、とワタクシは想像するのです。 再びランティモス監督のインタビュー。 「(前略)映画は、自分なりの方法で見てもらえるよう、余地を残しておきたいですね。ですから結論を示し過ぎないようにして、皆さんにはスクリーンで起きていることに自由に反応してもらえたら。啓蒙的な映画にはしたくありません。」 はたして、お姉ちゃんはどうなったのか?もしかしたら内側から開けられて外の世界へと飛び立ち、ジェニファー・ビールスのように新たな人生を始められたのかもしれません。その可能性も無くはない。が、腐って異臭の発生源となり後日発見されたかもしれない。どっちか答えを観客に見せる気なんかさらさら無い、という、ものすごい突き放した終わり方をこの映画はします。最後まで謎やほのめかしやメタファーに満ちた、知的に感性的にとてもエキサイティングな作りの作品です。きっとカルト化して永遠に残り、在りし日のマリー・ツォニさんの美しい姿を閉じ込めたまま、その時代時代の映画ファンたちを翻弄しつづけるような、不朽の一本になっていくのでしょうね、この『籠の中の乙女』は。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 蛇足ながら、ランティモス監督、この長編デビュー作の次に撮った作品が『ロブスター』という、コリン・ファレル、レイチェル・ワイズ、ジョン・C・ライリー、ベン・ウィショー、レア・セドゥと、そうそうたる面々が出ている(『籠の中の乙女』で長女役だった女優さんも出ている)オールスターキャスト映画。であるにもかかわらず、あいかわらずランティモス節全開で、これまた無茶苦茶にシュールで奇っ怪きわまりない、ゴリっゴリのカルト映画です! 綺麗すぎる風景ショット、惨殺される動物たちや、見ているこっちが恥ずかしくなる下手くそ素人ダンスなど、『籠の中の乙女』と共通するイメージも数多く散りばめられているのですが、いちばん共通しているのはテーマでしょう。『ロブスター』は次のような物語です。 結婚しない者は動物に変身させられるという、体制が結婚を強いている社会。夫婦者は都会で普通に暮らせ(ただし独りで出歩いていると職質受ける)、独身者はホテルでの官製ねるとんパーティーに強制参加させられ、期日内にカップル成立しなかった者は獣に姿を変えられてしまう。国家は「動物も悪くない生き方ですよ」などと口では言うが、明らかに“処分”しているようにしか見えない。ねるとんで早く自分と“共通点”のある相手を見つけてカップルにならないとヤバい(“共通点”なきゃいけないの?そこそんなに大事か!?)。カップルになれた者は得意満面、まだの人を露骨に見下します。それと、ねるとんホテル滞在中はオナニー禁止。そんな無駄なことするヒマあったら異性とヤれ、早く結婚して早く子供作れ、と。あと、ねるとん出席者はハンティングにも参加が必須で、森の中に潜む独身者を狩らねばならない。1人狩ると人でいられる期間を1日延長してもらえる。 独身者というのは、その結婚強制国家体制から逃れてきた独身者たちが、ゲリラのように森の奥に潜伏して組織を作っていて、こっちでは恋愛は御法度(オナニーはOK)。影で男女がイチャついていたら“総括”されるという、これはこれで恐い社会です。全体主義国家と極左暴力集団の対立みたくなってます。 主人公コリン・ファレルは最初ねるとんに参加し、そこで事件を起こしてしまい独身者の森に逃れてきて、レイチェル・ワイズと運命の出会いを果たし、愛し合うようになるのですが、そこは恋愛禁制の集団で…さて、そこからどうなっていくか、というお話。とんでもない丸投げな終わり方をするところも『籠の中の乙女』と同じです。 晩婚・非婚のご時世に、またとんでもなくセンセーショナルな作品をブチ込んできましたな。どうもこのランティモス監督という人は、結婚して家庭を築くって何!? というテーマに取り憑かれている人のようなのです。 「幼いころに両親が離婚して母親に育てられたのですが、母は私が17歳の時に死にました。ですから私は若くして天涯孤独の身で世の中に出て、ひとりで生活して勉強してきました。」 と語ってもいますが、こうした生い立ちから、家族制度や結婚制度、親が子供を育てるといったことに対する、一種独特の視座をランティモスさんは確立していったのかもしれません。 それでは最後に、『籠の中の乙女』の時のランティモス監督のインタビュー発言をもう一つご紹介して、終わりにしましょう。 「(前略)ある日、友人との会話の中で、みんなどうせ離婚してしまうのに、なぜ結婚して子供をもうけるのか、とからかったんです。だって最近では離婚するカップルが多く、片親に育てられる子供が多いのに結婚する意味なんてあるのかと。そうしたら、明らかに軽いジョークだというのに、みんな僕のことを怒りました。よく知っている友人が、家族の話題となるとそんなにムキになるなんて!それがきっかけで、自分の家族を極端に守ろうとする男、というアイディアが芽生えたのです。外界からの影響が一切なく自分の家族だけで永遠に一体となっていこうとする男。それが子育ての最高の形とかたくなに信じる男です。」 © 2009 BOO PRODUCTIONS GREEK FILM CENTER YORGOS LANTHIMOS HORSEFLY PRODUCTIONS – Copyright © XXIV All rights reserved
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COLUMN/コラム2017.05.03
今ハリウッドが最も注目する映画監督、ドゥニ・ヴィルヌーヴとその作品。最新作『メッセージ』に至る彼の映画とは。
※ヴィルヌーヴ監督の過去作のネタバレが含まれます。未見の方はご注意ください。 ドゥニ・ヴィルヌーヴが『メッセージ』という、変則的ではあれどポジティブなメッセージを持った映画を撮った。ただそれだけのことが大事件に思えるのが、ヴィルヌーヴという才気と野心に満ちた映画監督の作家性と言える。それほどまでにヴィルヌーヴは、強烈で、苛酷で、風変りな映画を作り続けてきたのだ。 『灼熱の魂』で自ら命を絶った母親の苛酷すぎる人生、『複製する男』の迷宮の如き精神世界、『プリズナーズ』でヒュー・ジャックマンが見せた狂気じみた暴走、『ボーダーライン』の法律などお構いなしの歪んだ正義。映画を観てスカッとしたい、ロマンチックな展開にキュンとしたい、腹を抱えて笑いたいなんて気持ちは鉄槌で粉々にされるのがオチだ。もちろんそんな目的でヴィルヌーヴ作品を選ぶ時点で、取り返しのつかない間違いを犯してしまっているわけだが。 とはいえ、ヴィルヌーヴを“わかっている”顔で語るのは危険極まりないことでもある。このカナダ人監督は、観客に解釈の余地を残すタイプの映画作家で、スト―リーを理解する上で重要な要素さえも韜晦のベールに包んでしまう。もはや“よくわからない”ことすらトレードマークになっているにも関わらず、最注目の気鋭監督としてハリウッドで受け入れられている現状は“奇跡”と呼んでいいだろう。 ではヴィルヌーヴの作品はなぜ、どこか観客を突き放したような印象を受けるのか。本人の発言を追ってみると「何度観ても考えさせられ、それでも答えがわからない『2001年宇宙の旅』が大好きだ」と言っていて、乱暴に言えば結論を提示しないオープンエンディングを好む監督ということになる。一方で「どんな題材でも観客に身近な物語として感じて欲しい」とも発言している。 過去作に当てはめてみると、精神的に極限まで追い詰められるような状況を描き、あなたにも起こることかも知れませんよと観客に物語への参加を促しつつ、「すべての答えは風の中さ」と嘯くような作風……いや、かなり歪曲しているのは承知の上ですが、当たらずとも遠からず、ではないだろうか。 もうひとつ、一般的な作劇と異なる要素として、ヴィルヌーヴの映画は主人公が一定しないケースが非常に多い。『灼熱の魂』の主人公は誰かと問われれば、2人の子供に遺書を残した母親と、その遺言によって見知らぬ兄と父を探す旅に出る子供たち、ということになる。しかし物語が終わってみると、冒頭にだけ登場した小さな刺青のある少年こそが、誰よりも重要な人物だったとわかる。 『プリズナーズ』の主人公はヒュー・ジャックマン扮する、娘を誘拐された父親だ。父親は釈放された容疑者の青年を拉致監禁して、娘の居場所を聞き出そうと苛酷な拷問にかける。しかしこの事件は、娘を想うがゆえの常軌を逸した暴力とは別のところで、別の刑事がひょっこり解決してしまう。 『プリズナーズ』はジャンルとしてミステリーの形式を取っていて、『灼熱の魂』は精神的な意味でのミステリーだ。そしてどちらの映画も、複雑に絡み合った糸を解きほぐし、ひとつの筋道にたどり着く類の作品ではない。ヴィルヌーヴの映画に明快な解はない。観終わった時に「これって誰の物語だったのだろう?」と思考を促され、検証すればするほど語られていない物の大きさに愕然とするのである。 『複製された男』は、同じ流れにありながらとんでもない変化球だ。ある大学講師が自分と瓜二つの見た目の役者が存在していることを知り、興味を持って接触しようとする。しかし役者の方が性質の悪い男で、大学講師は美しい恋人を差し出すように脅迫を受けるのだ。 単純化を試みると、『複製された男』は物語自体が「妻(もしくは恋人)には文句ないけど浮気もしてみたい!」という分裂した気持ちのメタファーである。ミもフタもない言い方だが、2人の男は分裂したひとつの人格で、劇中で描かれるストーリーは男の精神世界か妄想ということになる。われわれは見たものすべてを疑ってかからなくてはならない類の作品なのだ。 そしてやっかいなことに、随所に挿入される空撮の目線が誰なのかがよくわからない。神、と言ってしまうのは短絡的すぎる。原作小説に登場する3人目の自分なのかも知れないが、とにかくこの痴話じみた葛藤の物語を、まったく第三者の目線から見下ろしている何者かがいる。ここでも「じゃあこれは誰の物語か?」という疑問が頭をもたげてくるのだ。 前作『ボーダーライン』でヴィルヌーヴと主演のベニチオ・デル・トロは、デル・トロが演じたアレハンドロという男のセリフを9割がた削除した。このアレハンドロこそが原題でもある「SICARIO」であることが終盤で明らかになるのだが、物語の形式上の主人公はエイミー・ブラント扮するFBI捜査官ケイトであり、アレハンドロは登場する分量も少なければ、セリフに至ってはほんのわずか。しかし最も尺を割いているケイトは最後まで傍観者以上の役割を与えられない異様さが、作品のテーマにも繋がってくる仕掛けだ。 ヴィルヌーヴはアレハンドロをまるで脇役であるかのように描写し、クラマイックスで一気に主役交代を成し遂げる。得意の主人公のかく乱だ。ちなみにアレハンドロが愛する妻と娘を亡くしているという設定は実は序盤で示唆されている。メキシコの街フアレスで、車に乗っているアレハンドロの顔から町の壁に貼られている「行方不明者」の張り紙にフォーカスが移動する。共演者のジェフリー・ドノヴァンによると、その行方不明者こそがアレハンドロの妻なのだという。 この伏線に気づく観客はほとんどいないだろうし、気づくにしても2度目以上の鑑賞でなければ不可能に近い。そして気づいたとしても、アレハンドロは貼り紙に一瞥もくれていない。視界の端に入っていて、表情を押し殺して苦悶に耐えているのだ、と想像することはできるが、これも想像でしかない。こういう小さな要素を繋ぎ合わせ、自分なりの答えを探り当てることがヴィルヌーヴ作品の鑑賞法なのである。 そんなヴィルヌーヴが「ダークな作品が続いてさすがに疲れた」と言って撮った『メッセージ』も、素直にハッピーな映画などではない。謎の宇宙船が地球に現れ、未知の地球外生物の言葉を解析しようとする言語学者の物語であると同時に、大切な人を亡くした喪失感にまつわるとてもパーソナルなヒューマンドラマでもある。ただし自分の感情に折り合いをつける方法が「宇宙人の言語体系を通じて既成概念を転換させる」ことなので、やはりゴリゴリの知的SFと呼ぶべきかも知れない。 『メッセージ』の主人公は明確にヒロインのルイーズであり、珍しく単独主人公の作品になっている。が、敢えて言うとこの映画の主人公は「言語」と「概念」である。ついに人間だけでなく概念が主人公になってしまった。この概念と『スローターハウス5』との相似は映画ファンには気にならずにはいられないところだが、ヴィルヌーヴは筆者とのインタビューで「その映画は知らない」と明言したし、原作者のテッド・チャンは小説を執筆してから『スローターハウス5』を知ったというから、偶然の一致以上の答えが出ないのはいささか残念ではある。 そしてヴィルヌーヴの次回作はかの『ブレードランナー』の続編、『ブレードランナー2049』。『ラ・ラ・ランド』のライアン・ゴズリングが主演を務めるだけでなく、前作からデッカード役のハリソン・フォードも再登場する。つい短絡的に「また主人公が複数いる!」と飛びつきそうになるが、そこはヴィルヌーヴ。こちらの予想など鼻で笑うような斜め上をいく怪作に仕上がることを期待したい。■ 『メッセージ』5月19日(金)TOHOシネマズ六本木ヒルズほか全国ロードショー配給:ソニー・ピクチャーズ