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COLUMN/コラム2017.04.05
【本邦初公開】これが日本未公開で未ソフト化なんておかしくないですか!?な文句なしの娯楽作!「ウェルメイド」とはこういうことさ〜『ゲティン’ スクエア』〜04月20日(木)深夜ほか
今回4月にお送りする、ザ・シネマが買い付けてきた激レア映画全3本は、どれも本邦初公開ですが、そのうちここではサム・ワーシントン主演のオーストラリア産クライム・ムービー『ゲティン’ スクエア』をご紹介させていただきます。 のっけからいきなり武装強盗シーンで始まるこの映画。目出し帽をかぶった犯人数人組がショッピングモールの事務所を襲います。従業員の給料を奪おうというのです。そこに一発の銃声が。強盗の一人が撃たれました。そいつを背負い、現金もバッグに詰め、一味はワンボックスカーに撤収。急発進させた車内で撃たれた男の死亡が確認されます。死んだのはジョニー。「どっちみち廃人だったしなコイツ」と犯人の一人が吐き捨てます。 ここで場面が切り替わり、刑務所の鉄条網がアップで映って「GETTIN’SQUARE」とタイトルが入ります。時制が6ヶ月前にさかのぼりました。結末を最初に見せて「どうしてこうなった!?」を逆にたどっていく構成です。ここまでが5分強のタイトルバック。テンポの良い編集と音楽使い、オーストラリア映画らしい抜けのいい風景ショット、つかみはOK!この監督は上手いぞ! 監督はジョナサン・テプリツキーという人で、誰かと思ったら『レイルウェイ 運命の旅路』(2013)撮った人でした。あの映画、「“反日”映画だ!」なんて一部で言われましたが全然そんなことはなく、むしろ若干反米か?ぐらいの反イラク戦争映画、実に良くできた豪英合作の反戦映画でした。「拷問はイカンぞ!」というね(トランプさん聞いてる?)。日本で紹介されることの少ない監督ですが、確かな技量を持っている人と見た。 閑話休題。さかのぼること半年前、ジョニーと本作の主人公バリー(彼も強盗グループの一員です)はそのムショに服役中でした。バリーは仮釈放を認めてもらおうと何度も査問会に訴えてきたけど却下され続け、今回もまたダメ。彼は殺人罪で懲役12年。しかしそれは冤罪で、汚職刑事に供述調書を捏造されたからで、真犯人は別にいるんだ、と一貫して主張してきたのですが、その名前を「俺はチクリはやらない」と頑なに黙っているため、聞き入れてもらえないのです。 この主人公バリーを演じるのがサム・ワーシントン。2009年の『アバター』&『ターミネーター4』、その後の『タイタンの戦い』&『タイタンの逆襲』等で今やすっかりおなじみのハリウッド・スターですが、本作の本国公開は2003年。彼のキャリアでも初期の頃にあたります。バリーは、主張している通り実際に無実で、ムショに入れられたのは本人曰く「しょんべん漏らしてたぐらいガキだった」歳。それでも「チクリはしない」と仁義を貫いて早8年という、愚直で朴訥な男です。サム・ワーシントンの好演が光ります。 しかし!そんな主役を完全に喰っちゃう珍演を見せるのが、ジョニーを演じるデヴィッド・ウェンハム(ウェナムと表記されることも)です。『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズのファラミア(ボロミアの弟で父デネソール侯から目の仇にされていた次男)で知られる俳優です。リスさん/ウサギさん系ルックスからは想像もできないバっキバキの腹筋を披露した『300』シリーズ、逆にルックス的にはこっちの方が似合う『ヴァン・ヘルシング』でのコメディリリーフ的ヘタレ修道士役も印象に残ってはいるものの、いかんせん脇も脇…。でも本作でのジョニー役は、それらと比べて役が大きくて準主役級。決して悪人ではないんだけれど頭があまりにも悪すぎて人生に支障をきたしちゃってるジャンキー、という忘れがたいDQNキャラに命を吹き込んだウェンハムは、この年のオーストラリア各映画賞で男優賞を総なめにするほどの高い評価を得ました。必見です! このジョニーがまず仮釈放されます。査問会で珍しくまっとうなことを言い(劇中で彼がまともなことを言うのはここだけ)、それが委員たちにまぐれで好印象を与えたのです。バリーは例によって真犯人を明かさなかったため申請を棄却されますが、しかし彼もその直後、母親が病死し(彼はいつも家族写真を眺めて懐かしがっていたのですが死に目に会えず…)、独り未成年の弟が実家に遺されてしまったために、急きょ仮釈放が認められます。 獄中でバリーとジョニーが最後に言葉を交わした時、2人はGET SQUAREを固く誓い合います。GET SQUAREとは「堅気になる」という意味で、何度も何度もセリフに出てくる、本作劇中の最頻出イディオム。今となっては、しっかり者で常識人のバリーが、麻薬常用で脳がすかすかスポンジ状になっちゃったとしか思えないラリパッパのジョニーの面倒を見てやってるような保護・被保護の関係ですが、もとはと言えば、ガキで入所したバリーにジョニーがあれこれ世話を焼いてやったという過去があり、それをバリーはいまだに恩義に感じていて、今も2人は厚い友情でむすばれたダチ公同士なのです。 そして最後の1人。3人目の主要キャラクターが、レストラン・オーナーの成り金おやじダレンです。演じるのは「ハリポタ」でワームテール役だった人ティモシー・スポールさん。本作の舞台となるオーストラリア東岸ゴールドコーストのサーファーズパラダイスという土地で、「テキサス・ローズ」という場違いな悪趣味全開アメリカン風ダイナーを営んでいます。ウエイトレスは全員露出度の高いカウガールのエロ制服を着せられており(牛革白黒模様ブラ×フリンジ付きリンリンランラン風インディアン革ミニスカ)、そして歳の離れた奥さんはと言うと見事に金髪巨乳のビッチ。まごうかたなきTHEトロフィー・ワイフですな。『ウルフ・オブ・ウォールストリート』におけるマーゴット・ロビー的な。 バリー、ジョニー、ダレン、全員GET SQUAREしたいと思っている前科者たち。中でもダレンは、流行らないレストランのオーナーとして一応は成功しており、すでにGET SQUAREをほぼ達成できていて、違法なことから完全に足を洗いたいと願って万事において自重している妻子持ち。バリーとジョニーはムショを出たてで、堅気としての人生を今まさにスタートさせたく思っている。でも、そう簡単にはいかない。世間が受け入れてくれないのです。 バリーは、いくら冤罪を主張していても結局「殺人罪で8年服役していた」という“前科”が付いて回っちゃいますから、どこも雇ってくれません。ムショでは調理場担当として調理師スキルを習得しており、しかも腕も良いのですが、誰も雇わない。 ジョニーはアホすぎて出所後もトラブルを自ら次々と招きよせちゃいます。堅気になりたいと本気で思っていることは確かなのですが、社会常識が無さすぎてその方法が彼にはわからない。 ダレンはと言うと、カネを任せていた会計士が特捜部に目をつけられたトバッチリで、資産を特捜に差し押さえられそうになります。彼が築いてきた資産の元手となったのは大昔に彼が銀行詐欺を働いて得たカネで、その件ではちゃんと服役してキッチリお務めも済ませており、シャバに出てきてからあくまで運用で蓄財してきたのですけど、それを全額没収され、しかもその資産運用がマネーロンダリング行為にあたるとして、その容疑で久しぶりに逮捕されそうという絶体絶命の立場に。 堅気として真面目に生きたくてもそうさせてくれない世知辛い世の中で、どんどん彼ら3人はのっぴきならないシチュエーションに追い込まれていくのです。 そこから、どう最後の(最初の)武装強盗のシーンに話がつながっていくのか!?というお話なのですが、いゃあ、シナリオよく出来ているんですわ。まず脚本が良い!そして演出が良い!ウェンハムも良い!舞台が良い!サーファーズパラダイスの風景が良い!おまけに音楽使いまでが良い!これサントラ欲しくなる映画ですよ。グルーヴ・アルマダの「Easy」、「チョレえ!チョレえ!いま思い返せば超チョロかった!」と何度も繰り返すだけの、もう「ゴッキゲン!」としか評しようのない当時流行ビッグビートの歌が、クライマックス→エピローグ→エンドロールにかけてフルコーラスでかかるのですが、ここのBGMとあいまったラストのガッツポーズ感は、まさしく痛快無比!!!!!!!! これだけはネタバレを何卒お許しいただきたいのですが、この映画、追い込まれた男どもの痛快きわまりない大復讐劇なのです。GET SQUAREには「仕返しする」、「恨みを晴らす」という意味も別にあって、この映画のタイトルって実はWミーニングになっていて…いや、もうこれ以上は何も申しますまい。あとはぜひとも本編をご覧ください。実に良く出来た娯楽映画で、「こういうのってあんまし趣味じゃないんだよね…」というクセもなくて万人向けで、洋画チャンネルの編成マンとしては自信をもって視聴者の皆さんにお薦めできるタイプのコンテンツであります!■ © 2003 Universal Pictures. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2017.04.02
【本邦初公開】東西冷戦下のモスクワで育まれるイデオロギーを超えた男女のささやかな愛。当時のロシアを知る映画ライターが作品の魅力と知られざるソ連の素顔に迫る!〜『ペトロフカの娘』〜04月27日(木)深夜ほか
出演はゴールディ・ホーンにハル・ホルブルック、アンソニー・ホプキンス。そして監督は、以前にここでもご紹介した切ない系青春映画の傑作『愛すれど心さびしく』(’68)の名匠ロバート・エリス・ミラー。この顔ぶれにして、なぜか今まで日本では劇場未公開。それどころかテレビ放送やソフト発売すらされていなかった幻の作品が、この『ペトロフカの娘』(’74)である。 ペトロフカとは、ロシアのモスクワ中心部にある大通りのこと。ネタバレになりかねないので深くは言及しないが、ここには名前の由来となったヴィソコ・ペトロフスキー修道院やロシアン・バレエの殿堂ボリショイ劇場、そして権力の象徴たるモスクワ警察署が存在し、今では高級ブランドのブティックが軒を連ねるショッピングストリートだ。 実は筆者、このペトロフカ通りから徒歩で15分くらいの場所に住んでいた。時は’68年~’72年、そして’78年~’83年。大手マスコミのジャーナリストだった父親がモスクワ特派員として2度に渡って赴任し、家族ともども暮らしていたのだ。当時はまだ東西冷戦の真っ只中。ソビエト連邦はブレジネフ書記長の政権下にあった。そんな鉄のカーテンの向こう側を知る人間として、本作はいろいろな意味で興味深い映画だ。 ストーリーは東西の壁に阻まれた男女の悲恋ドラマである。主人公は米国新聞社のモスクワ特派員ジョー(ハル・ホルブルック)。妻に先立たれたばかりの彼は、現地の友人コスチャ(アンソニー・ホプキンス)を介してオクチャブリーナ(ゴールディ・ホーン)というロシア人女性と知り合う。自由奔放にして天真爛漫。口を開けば歯に衣着せぬ物言いだが、やたらと尾ひれや背びれを付けるので、何が本当で何が嘘なのかよく分からない。仕事もなければモスクワの居住許可証もないが、政府高官をはじめとする男たちの間を渡り歩いて逞しく生きている。ゴールディ・ホーンのコケティッシュでキュートな不思議ちゃんキャラがなんとも魅力的だ。 ちなみに、オクチャブリーナとはロシア語の10月、オクチャーブリ(Октя́брь)に由来する名前。10月といえばソビエト政権樹立のきっかけとなった十月革命。それゆえ、男ならオクチャーブリン、女ならオクチャブリーナと名付ける親がソビエト時代は多かった。ただし、ロシア語ではアクセントのないOをアと発音するので、厳密に言うと10月はアクチャーブリ、ヒロインの名はアクチャブリーナと発音すべきなのだが、本作ではセリフも字幕も英語読みとなっている。 で、そんなオクチャブリーナに振り回されつつも、いつしか強く惹かれていくジョー。当局の目をかいくぐっての異文化交流がやがて恋愛へと発展していくわけだが、しかしそんな2人の間に厳格なソビエトの社会体制が立ちはだかる…という筋書きだ。 原作は1971年に出版された同名小説。著者のジョージ・ファイファーは本来ノンフィクション作家で、ソビエト時代のロシアに関する著書も数多い。本人が実際にどれだけ現地へ足を運んだことがあるのかは定かでないが、ある程度の正確な知識や情報を持っていたであろうことは、この映画版を見れば想像に難くない。とはいえ、原作と映画は基本的に別物と考えるのが妥当だと思うので、ここではあくまでも映画版に焦点を絞って話を進めていこう。 まず、本作に登場するモスクワの風景や街並みが明らかに本物と違うのは仕方あるまい。なにしろ、ソビエト体制の矛盾に斬り込んだ内容なので、当時のモスクワでの撮影は絶対に不可能だ。選ばれたロケ地はオーストリアのウィーン。マット合成で赤の広場を背景に差し込むなどの工夫は凝らされているものの、建築様式の違いなどは見た目に明らかだ。それよりも筆者が少なからず違和感を覚えたのは、主人公ジョーとロシア人コスチャの友人関係である。当時のソビエトで外国人と現地人が交流することは別に違法ではなかったものの、現実には限界があったと言えよう。特に現地人にとってはリスクが高い。なぜなら、万が一の時にスパイの嫌疑をかけられる可能性が生じるからだ。特に主人公ジョーのようなジャーナリストには、KGBの尾行が付くことも十分に考えられる。筆者の父親も日頃から尾行は意識していたようだし、実際に自宅アパートの電話は常時盗聴され、通りを挟んだ向かい側のアパートからも部屋が監視されていた。本作の場合、当時の社会状況や主人公の職業を考えると、現地人のアパートへ気軽にふらりと立ち寄る彼の行動は軽率だ。 なので、西側から来た外国人が日常的に付き合う現地人となると、仕事の一環を兼ねての政府関係者か、もしくは当局から派遣された外国人専用のメイドや秘書(人材派遣センターはKGBの管轄で、彼らは派遣先で見聞きしたことを報告していた)などにおのずと限られてしまう。と考えると、ジョーとコスチャの親密な友人関係は、決してあり得ないとは言わないまでも、あまり現実的ではない。 その一方で、オクチャブリーナがジョーの住む外国人専用アパートを訪れる際、塀を乗り越えて裏口から侵入するというのは結構リアルな描写だ。当時、モスクワ市内には外国人専用アパートが何か所もあり、その正門にはミリツィアと呼ばれる武装した民警兵士が常駐していた。居住者はもちろん顔パスだが、現地人はそこで許可証をチェックされる。なので、オクチャブリーナのように一見すると無茶な手段も仕方ないのだ。 ちなみに、筆者の父親にも現地民間人の友人はいた。その方は日本語が話せたので、電話連絡は全て日本語で。自宅へ招くときは疑われないよう、外国人の泊まる高級ホテルで落ち合い、父の運転する自家用車で正門からアパートへと直接入った。さすがに外国人ナンバーの車まではミリツィアもチェックしないからだ。そういう意味では、意外と緩いところもあったのである。 実際、当時のソビエトの市民生活は、外から想像するよりも遥かにのんびり平穏だった。もちろん、日本ではあり得ないような制約は多かったし、言論や移動の自由も全くないし、文化的にはだいぶ遅れているし、生活レベルも高いとは言えなかったものの、その一方でモスクワ市内に点在するルイノックと呼ばれる市場では新鮮な肉や野菜が沢山揃っていたし、有能でも無能でも誰もが平等に一定の給料を貰えるし、不祥事さえ起こさなければ仕事をクビになることもない。とりあえず体制に盾ついたりせず、贅沢を望んだりしなければ、それなりに楽しく生活できたのだ。建前上は民主主義国家として市場経済の導入された現在のロシアで、ソビエト時代を懐かしむ声が多い理由はそこにある。 そうやって振り返ると、本作で描かれるモスクワの市民生活はけっこう正しい。とはいえ、ちょっと時代的に古くも感じる。例えば本作ではジャズが当局から禁止されていて公衆の面前で演奏することが出来ないとされているが、しかしそれは’50年代までのこと。’60年代以降は大規模なジャズ・フェスティバルも各地で開かれていたし、当局の認可するジャズクラブも存在した。’75年にソロ・デビューした女性歌手アーラ・プガチョワはジャズやロック、R&Bなどを積極的に取り入れてロシアの国民的大スターとなったし、彼女に多くのヒット曲を提供したラトヴィア出身の作曲家レイモンズ・パウルスは’60年代から活躍するジャズ・ミュージシャンだった。’70年代には西側の流行音楽も数年遅れで入っており、例えば’74年にはTレックスのレコードも正規版でリリースされている。なので、本作は『ニノチカ』(’39)の時代辺りでストップしたソビエト観の基に成り立っているとも言えよう。 その一方で、本作は当時の多くのハリウッド映画に登場したような、体制側に洗脳されたロボットのような人間、死んだような目でクスリとも笑わない陰鬱な人間としてではなく、アメリカ人と何ら変わることない等身大の人間として、ロシア人を描いている点は特筆に値する。実際に昔からロシア人は陽気で大らかで人懐っこい人が多かった。劇中に出てくる政府高官のように、お堅い役人でもいったん仕事を離れると気さくだったりする。その点はまさにその通り!といった感じだ。 ちなみに、劇中では役人や警察への賄賂としてアメリカ製のタバコが使われているが、他にもいろいろと賄賂に有効なものはあった。筆者の父親がよく使っていたのは日本航空の水着カレンダー。あとは、ひっくり返すと女性の水着が消えてヌードになるボールペンも効果抜群だったので、西側へ旅行した際にはまとめ買いしてきたものだった。やはり世の東西を問わず人間はスケベなのだ。 モスクワ市民のささやかな日々の営みを、時に瑞々しく、時に爽やかに、そして時に切なく描くロバート・エリス・ミラーの演出も素晴らしい。ラストへ向けての抒情感溢れる哀しみなどは、まさしく彼の真骨頂。そういえば、先述した筆者の父親の友人は、とある事件を起こして当局に逮捕されてしまった。実は生活の足しにと現地通貨のルーブルを、うちの両親がこっそりドル紙幣に両替してあげていたのだが、どうやら彼はそれを闇市で転売していたらしく、KGBのおとり捜査に引っかかってしまったのだ。その煽りでうちの父親はスパイ容疑の濡れ衣を着せられ、共産党機関紙プラウダでも報じられた。たまたま本社から帰国の辞令が出ていたので、我が家に関しては大事に至らなかったのだが、父の友人は強制労働送りになったはずだ。あの日、彼の奥さんが泣いて取り乱しながら我が家に電話をかけてきた。ほっそりとした華奢な体に憂いのある瞳の、とても美しい女性だった。筆者は息子さんとも仲が良かった。あの一家は今どうしているだろうか。本作の哀しいラストを見ながら、ふと思い出してしまった。■ © 1974 by Universal Pictures. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2017.03.18
『ラ・ラ・ランド』に繫がるビビッドな色彩と、伝説のセレブカップル、ドヌーブ&マストロヤンニの不変の愛が宿る〜『モン・パリ』〜03月02日(木)深夜ほか
デイミアン・チャゼルがアカデミー賞史上最年少の32歳で監督賞を受賞し、ここ日本でもブレイクスルーの兆しを見せている『ラ・ラ・ランド』のおかげで、にわかに脚光を浴びているジャック・ドゥミである。ご存知の通り、監督のデイミアン・チャゼルが『ラ・ラ・ランド』に忍ばせたオマージュの中で顕著なのが、ドゥミの代表作『シェルブールの雨傘』(64)や『ロシュフォールの恋人たち』(67)を模したジャジーなメロディと、カラーリング=配色。意図的に配置された原色のイエローやレッド、ピンクやグリーンの衣装やインテリアが、物語の楽しさとも相まって、いかに観客の気持ちを和ませるかを、映画史上、最も熟知していたフィルムメーカーの一人がドゥミだった。 決して巨匠の範疇ではなかったが、その59年の生涯でドゥミは映画監督として幾つかのイノベーションを試みている。1つは、長編デビュー作『ローラ』(61)から『シェルブール』『ロシュフォール』ヘと繫がるラブロマンス路線。イノセントなヒロインの運命を、盟友、ミシェル・ルグランの音楽に乗せて描いたミュージカルという表現ツールは、『シェルブール』から『ロシュフォール』を経て『ロバと王女』(70)へと引き継がれる。そして、またもカトリーヌ・ドヌーブを主役にカラーリングを意識し、当時フランスでは"エディット・ピアフの再来"と騒がれたミレーユ・マチューと彼女の歌声をフィーチャーし、さらに、"男の妊娠"という斬新なデーマに切り込んだのが『モン・パリ』(73)だ。 まず、この映画のカラーリングは過去のどの作品より攻めている。モンマルトルで美容院を経営するヒロイン、イレーヌに扮した当時30歳のドヌーブが、いきなりグリーンのパフスリーブのニットにハートマーク入りTシャツ、そして、デニムのつなぎで登場したかと思えば、場面が変わると、次はブルーのフェイクファージャケット、さらに毛足の長いピンクやパープルのニットコートと立て続けに着替え、その都度、ドヌーブのブロンドヘアにはニットと同じ色のヘアピンが止められているという念の入れようだ。ドヌーブ自身も映画全体に溢れるカラフルな色に触発されたのか、ノーブラの上に薄いサーモンピンクのニットセーターを着て現れる。ニットの下で揺れる豊満な乳房をアピールしつつ! さて、マルチェロ・マストロヤンニ演じるイレーヌのパートナー、マルコはイタリアからやって来たバツイチの自動車学校経営者。最近、あまり体調が芳しくない彼は、イレーヌを伴い訪れた病院で、何と妊娠4ヶ月だと告げられてパニックになる。医者はホルモン異常と加工食品の摂取が原因だと言うが、そんなのあり得るだろうか?やがて、イレーヌとマルコは"人類が月に降り立って以来の出来事"(←原題)とメディアに持てはやされ、マルコは男性用マタニティウェアのモデルとして売れっ子に。このあたり、ファッショニスタとしてはドヌーブより数段上のマストロヤンニが、お腹の部分が突き出たマタニティデニムや、ベルボトムのコーデュロイを小粋に着こなしてイタリア仕込みのセンスを披露。カールしたヘアとチョビ髭が人類初の"妊夫"になってしまった男の居場所のなさを現して、味わい深いことと言ったらない。 脚本を兼任するドゥミは、男の妊娠を受けて雄叫びを上げる女性たちの台詞に、折しも1970年代初頭に世界中で巻き起こった女性解放運動=ウーマンリブの風潮を盛り込んでいる。女たちは、「これで不妊のプレッシャーから解放されるわ!」とか、「自由に中絶できるじゃない!?」とか意気盛んだが、この問題は40年以上が経過した今も議論の的だし、さらに、劇中ではジェンダー(性別に基づいて社会的に要求される役割)についてさりげなく言及するシーンもある。妊娠したマルコに憧れる美青年が、「僕も性転換したい」と言い放つのだ。当時、ドゥミがどこまで真剣に考えていたかは不明だが、ジェンターという概念をいち早く受け容れていたことは確かで、ここにも彼のイノベーターぶりを感じる。マルコの妊娠そのものより、それを叩き台に性的定義への問いかけを、フランスのエスプリをたっぷり注入したラブコメディというフォーマットに落とし込むとは!? バックステージでは真逆のことが起きていた。正確な時期は定かではないが、製作当時、または直前にドヌーブはマストロヤンニの子供を出産したばかりだったのだ。そう、それから遡ること2年前、『哀しみが終わるとき』(71)で愛児を亡くした夫婦を演じたのが縁で恋に落ち、直後『ひきしお』(71)で孤島に残された男女に扮した2人にとって、『モン・パリ』は3度目の共演作。3度目ともなればツーカーなのは当然だが、ところどころよく見ると、2人の間で交わされるボディタッチが過剰に感じる場面もなくはない。モンマルトルのアパートのキッチンで、マルチェロの手が席を立とうとするカトリーヌのお尻にそっと添えられたり、シャンプー台に上向きに座った彼の手が、自然に彼女の後ろに回ってハグしたり、等々。これら、まるで、ドゥミの演出を無視して私生活での距離感が自然に画面に現れたかのような瞬間を、是非見逃さないで欲しい。 当時、未婚のまま公私共に堂々と行動を共にするセレブカップルとしての2人の認知度は、今で言えば正式に結婚する前のブランジェリーナ以上。映画雑誌ではほぼ毎号、コートダジュールやパリのクラブで頻繁にデートを重ねるプライベートショットがグラビアを飾ったものだ。しかし、この恋はやがて終わりを告げる。評伝"運命のままにーわが愛しのマストロヤンニ"(日之出出版)に因ると、2人が『哀しみの終わるとき』のロケで出会ったのは、マストロヤンニが『恋人たちの場所』(69)の共演者、フェイ・ダナウェイと、ドヌーブが『暗くなるまでこの恋を』(69)の監督であるフランソワ・トリュフォーと、各々別れた直後だったという。そうして、自然に惹かれ合い、交際を始めたものの、約3年が経過したある日のこと、突然、ドヌーブの方から一方的に別れが告げられる。予期せぬ言葉に狼狽えるマストロヤンニに対して、「もう刺激がないの」と言い放ったというドヌーブの冷酷なほどの正直さもさることながら、一方で、愛する女への未練を率直に口にするマストロヤンニの、ドヌーブ以上に自分の感情に忠実でいられた男としての器の大きさを感じるエピソードではないか。 しかし、晩年、癌を患ったマストロヤンニが暮らすパリの自宅を幾度となく訪れ、最期を看取ったのは、誰あろうドヌーブと、彼女がマストロヤンニとの間に設けた愛娘で、後に女優デビューするキアラ・マトスロヤンニだった。その後、ドヌーブはマストロヤンニについて、「マルチェロと関わった人間は、誰1人として彼のことを忘れることはできない」とコメント。そう聞くと、改めてスターの世界の移ろいやすさと、それでも変わらず相手を認め、尊ぶ気持ちの強さを感じないわけにはいかない。『モン・パリ』が描くホラ話とも言える大胆かつコミカルな物語の裏側に、そんな生々しく温かいドラマが隠されていることを含んだ上で見ると、また違う味わいがあるのではないだろうか。■ L'EVENEMENT LE PLUS IMPORTANT DEPUIS QUE L'HOMME A MARCHE SUR LA LUNE
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COLUMN/コラム2017.03.08
サブジャンルの驚異的な再構成者、アダム・ウィンガード&サイモン・バレット〜『ザ・ゲスト』〜03月17日(金)深夜ほか
長男カレブを兵役で亡くし、喪失に耐えながら暮らしているピーターソン一家のもとに、ある日ゲスト=訪問者が訪れてくる。その男の名はデヴィッド(ダン・スティーブンス)。彼はアフガニスタンでカレブと一緒に戦ったと戦友だと主張し、一家に哀悼の意を捧げる。そしてスティーブンは母親の悲しみに寄り添い、父親と酒を酌み交わし、あまつさえ学校でいじめに遭っている息子のボディガードを請け負うなど、彼らのために誠心誠意ふるまうのだった。しかし長女アンナ(マイカ・モンロー)が、目的の分からないデヴィッドの善人じみた行為に疑問を抱き、軍に連絡して詳細を確認しようとするのだが……。 米国内の問題として横たわる戦場帰還兵を物語のフックとし、得体の知れない人物が平穏な家庭に介入してくる違和感を、独自の語り口と凄惨なバイオレンス描写、そして絶妙な配合のユーモアを交えて構成していく本作『ザ・ゲスト』。監督であるアダム・ウィンガードと脚本家のサイモン・バレットは、大意ではあるが本作の出自を以下のように語っている。 「前作『サプライズ』の成功によって、創造的な自由が与えられたんだ。そこで僕たちは、子どもの頃に影響された、1980年代のアクション映画やホラー映画と同じエッセンスを持つ作品を手がけてはどうだろうか、と考えたんだよ」(『ザ・ゲスト』日本版Blu-ray特典インタビューより) 1982年生まれのアダム、1978年生まれのサイモンにとって、多感期に遭遇した80年代のホラー&アクションは、自身にとって創造のベースとなっているようだ。同インタビューでは直接のリファレンスとなった具体的なタイトルを挙げていないが、『ザ・ゲスト』に通底するそのテイストは、同じ時代を生きた映画ファンなら多くの者がピンとくるに違いない。シルベスター・スタローン演じるベトナム戦争帰還兵が排他的な扱いを受け、その怒りを戦士としての破壊衝動にエスカレートさせていく『ランボー』(82)や、殺人ヒッチハイカーを拾ってしまった青年が、命がけの対決へと巻き込まれていく『ヒッチャー』(86)と同種のものを共有している。かろうじてサイモンはテリー・オクィン主演の『W(ダブル) ステップファーザー』(87)を『ザ・ゲスト』の構成要素として名指ししているが、本作もまた殺人鬼の裏顔を持つ継父が平和な家庭へと侵入してくる、80年代ホラーを象徴する映画だ。 こうした80年代ホラーやアクションが持つ空気感というのは、独特であるがゆえに後の映画などに継承、または反映されにくい。特にビデオの台頭によって、ストレートなプロットと粗製乱造ゆえの安普請さをもってそれとなす、インディ系レーベル独自のビデオスルー映画が量産された時期と重なることから、これらと絡まったより特殊な性質を包含している。 しかしアダムとサイモンは、この混沌としたテーマと真摯に向き合い、見事に80年代ホラー、アクション映画に対する憧憬を自作へと昇華させている。さらにはこうした既存のサブジャンルにひと味加えることで、単なる時代へのオマージュではなく、独創的な恐怖を生み出すことに成功しているのだ。 ■『ザ・ゲスト』の基幹をなすもの もっとも、こうしたアダムとサイモンのアプローチは今日的に始まったものではない。監督&脚本のデュオとしてキャリアを重ねる二人だが、その傾向は5年前の『サプライズ』(11)の頃から顕著だ。 本作も1970年代を席巻した「ホーム・インベーション」(家宅侵略もの)の文脈に沿いつつ、『ザ・ゲスト』と同様にひねりを加えて独自の世界を構築している。ここで詳述しておくと、ホーム・インベーションは女子学生寮に忍び込んだ連続殺人犯の凶行を描いた『暗闇にベルが鳴る』(74)を筆頭に、留守を預かるベビーシッターが姿なきサイコキラーの通話におびえる『夕暮れにベルが鳴る』(79)など、いわゆる『エクソシスト』(73)や『悪魔のいけにえ』(74)といったマスターピースが生まれた時代と共に生成されてきた、ホラー映画のサブジャンルのことだ。 しかしこのホーム・インベーションは『死霊のはらわた』(81)を起点とするスプラッタ(スラッシュ=血まみれ)の登場や、『リング』(98)を嚆矢とするジャパン・ホラーの世界的な台頭など、恐怖の手触りの変化にともない、その勢いは先細りしていった。特に致命傷を与えたのは『スクリーム』(96)の存在で、ホラー映画の定型的な演出をメタに笑い飛ばす本作はホーム・インベーションもその俎上に乗せて解体し、同ジャンルが持つ恐怖の機能を失わせたのである(冒頭のドリュー・バリモアのエピソードがまさにそれだ)。 しかし世紀をまたぎ、フランスでは実話を元にした戦慄のホーム・インベーション『THEM ゼム』(06)が生み出され、いっぽうスペインでは押し込み強盗に襲撃される一家の悲劇を描いた『スペイン一家監禁事件』(10)や、アメリカでもリブ・タイラーが謎の訪問者の襲撃を受け、その格闘ぶりが話題となった『ストレンジャーズ/戦慄の訪問者』(08)が製作されるなど、ホーム・インベーションは世界規模でその恐ろしさを取り戻していったのだ。 アダムとサイモンは、いまいちど胸筋を大きく律動させたこのサブジャンルを大胆に再構成することで、新たな感触を持つホーム・インベンション映画の生み出しに成功している。特にストーリーが進むにつれて展開が変調を放ち、思ってもない方向へと加速度的にエスカレートしていく意外さは『ザ・ゲスト』に継受されているといっていい(もっとも同作とて、謎の男が一家に忍び寄ってくるという点で充分ホーム・インベーションにカテゴライズされるのだが)。 『ザ・ゲスト』の基幹をなすものとして『サプライズ』の重要性にも言及せずにはおれないのだ。 ■ジャンルを超えた、名作そのものへの再構成アタック そんな『サプライズ』『ザ・ゲスト』を経てアダムとサイモンが向かった先は、サブジャンルというざっくりとした枠にとどまらず、歴史的に評価の定まった作品そのものを再構成するという大胆なアタックへと踏み込んでいく。それが彼らの最近作となる『ブレア・ウィッチ』(16)だ。 森にまつわる魔女の伝説を追い、森の中でこつ然と消えた映画学科の大学生たち。その行方不明から1年後に発見された撮影テープには、彼らが遭遇した恐怖の一部始終が刻まれていたーー。ホラー映画の革命作として名高い1999年の『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』は、ファウンド・フッテージ(発見された未公開映像)のスタイルを借り、まるでドキュメンタリーに接しているかのような迫真性と、未公開映像の中に写り込む、正体の全く分からない怪奇現象の数々で観る者を翻弄した。 アダムとサイモンは、前作を違う角度からとらえた『ブレアウィッチ2』(00)をまたぎ、前作に直リンクする正統な続編を目指しているが、その中身は『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』を再構成したリメイクといっていい。行方不明者の一人である姉ヘザーの行方を探し続けていた、大学生のジェームズ。ある日、彼は姉らしき人物の映った映像をYouTubeで見つける。意を決したジェームズは仲間たちと共にデジカムを携え、かのいまわしきブラック・ヒルの森へと足を踏み入れるーー。ドローンやGoProといった新規の映像メディアを駆使し、ヘザーの行方を追いながらも、事の真相に迫るために深く森へと分け入っていくジェームズたち。しかしカメラは姉が目にしたものよりも、さらに恐ろしい現象を多角的に映しだすことになる。 アダムとサイモンは、いささか風化ぎみなファウンド・フッテージ・ホラーの古典を現代的に展開させながら、『サプライズ』『ザ・ゲスト』で得た再構成の方法論をマッシュアップさせ、前作が持つ恐怖の本質をより生々しく追求しているのだ。 サブジャンルの驚異的な再構成者、アダム・ウィンガード&サイモン・バレット。『ザ・ゲスト』を機に、この異才を放つデュオに注目してもらえたら、あなたの映画体験はさらに豊かなものになるだろう。■ ©2013 Adam David Productions
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COLUMN/コラム2017.03.01
世間に不敵な挑戦状を叩きつけた連続殺人鬼の実話事件を映画化した、“アナザーサイド・オブ『ダーティハリー』”というべき秀作〜『ゾディアック』〜03月30日(木)ほか
■この暗号文を解いてみよ! 謎の連続殺人鬼〈ゾディアック〉、ここに登場 1960年代末、アメリカ西海岸のカリフォルニア州サンフランシスコ周辺を舞台に、残忍な手口による殺人や傷害事件が相次いで発生。やがて、当初は丸に十文字のマークを署名代わりに記し、後に〈ゾディアック〉と名乗ることになる正体不明の犯人が、3つの新聞社に、自らの犯行を認める声明書のみならず、アルファベットやギリシャ文字、天気記号や占星術の記号などを組み合わせた謎めいた暗号文も同時に送りつけてきて、これを解けば、俺の正体は判る、この暗号文を新聞に掲載しなければ、俺はまた人殺しをして暴れまくってやると脅し、自らの存在を世間に向けて挑戦的にアピールした。 彼の要求に応じて新聞の一面に掲載されたその暗号文は、ほどなくして「俺は人殺しが大好きだ。なぜなら、それはとても面白いからだ」云々と書かれてあったことが解読されるが、そこには「お前たちに俺の名前を教えてなんかやるものか」とも書かれていて、〈ゾディアック〉の正体は一向に明らかになることがないまま、以後も彼は、半ばゲームを楽しむかのように不敵な犯行や言動を繰り返して、警察や報道陣を翻弄。現代のメディア社会を揺るがす劇場型犯罪の愉快犯としてその悪名を轟かせ、やがて彼の名を騙った模倣犯まで登場して、世間をすっかり不安と恐怖、混沌の渦へと陥れた。 しかし、1971年以降、〈ゾディアック〉から送りつけられる挑戦状は間遠になって数も減り、1978年の手紙を最後にそれもふっつりと途切れて事態は沈静・収束化した。〈ゾディアック〉は総計37名にも及ぶ殺人を犯したと豪語したが、彼の手によるものと警察が断定した犯行は4件で、死者は5名。結局、一連の事件の真相も、連続殺人鬼の正体も、不明で未解決のまま、事件は迷宮入りとなって、〈ゾディアック〉は伝説的存在と化し、既に皆もよく御存知の通り、まだ事件の記憶もホットで生々しい頃から、あの『ダーティハリー』(1971 ドン・シーゲル)でクリント・イーストウッド演じるはみ出し者の刑事が対決する連続殺人鬼、〈さそり〉のモデルとなったのをはじめ、映像や音楽、文学など、多種多様なポップカルチャーの題材の源泉となり、あるいはまた、その後の現実社会で起きた多くの劇場型犯罪事件の雛型ともなって、今日まで広く知れ渡っている。 ■適材適所の監督起用となった、フィンチャーによる『ゾディアック』映画化 1969年、〈ゾディアック〉が最初の手紙と暗号文を送りつけた新聞社のひとつ、サンフランシスコ・クロニクル紙に、当時、見習いの諷刺漫画家として在籍していて、はからずも事件と運命的に遭遇し、以後も一連の騒ぎを間近で見聞して、最後まで事件の真相と真犯人を執念深く追い続けたロバート・グレイスミスがその顛末を綴った2冊のノンフィクションをもとに、この〈ゾディアック〉事件を映画化する本作の企画が立てられ、その監督として、真っ先に白羽の矢が立ったのが、ほかならぬデイヴィッド・フィンチャーだった。これは本作のプロデューサーたちからすれば、当然の人選だったと言えるだろう。 周知の通り、フィンチャーは先に、彼の出世作となった『セブン』(1995)で、猟奇的な連続殺人鬼を題材にしたサスペンス・スリラーを手がけている。そこでは、ブラッド・ピット演じる若手刑事が、ケヴィン・スペイシー扮する連続殺人鬼の挑発と煽動にまんまと乗せられて、抜き差しならぬ深みにはまり、最終的にはスペイシーが仕掛ける殺人ゲームの最後の総仕上げを行う、共犯者の役割を割り当てられていた。 あるいはまた、20世紀末に生み出され、その後21世紀初頭にはからずも現実のものとなる、〈9.11〉テロの光景をいち早く先取りする衝撃作となった『ファイト・クラブ』(1999)。ここでは、ブラッド・ピットが逆に、エドワード・ノートン扮する主人公の分身たる誘惑的な煽動者として登場し、彼との殴り合いを通して、ノートンもまた危険なゲームへとひたすら暴走・没入していく姿を、けれん味たっぷりの映像と音響を通してセンセーショナルに描き、フィンチャー監督自身、現代の映画界におけるトリックスター的な攪乱者として、頭角を現していた。その名もずばり『ゲーム』(1997)と題された作品もある通り、フィンチャーの映画世界においては、主人公たちが、ある種のゲームを介して、互いに対立・闘争し、あるいは惹かれ合って不思議な共犯関係を結ぶことが、常に物語を始動させる大きな役割を果たしていて、この『ゾディアック』は、フィンチャーにとっても、まさにうってつけの題材であったに違いない。 それに加えて、〈ゾディアック〉が現実に暴れ回っていた当時、まだ子供だったフィンチャーは、奇しくもサンフランシスコから北にわずか30kmほど離れた地域に住んでいて、スクールバスに乗って下校する際、ハイウェイ・パトロールの連中がしばらく警護でバスにつき添うのを自ら実際に体験し、〈ゾディアック〉と呼ばれる連続殺人鬼がスクールバスとそれに乗る児童たちを標的にした恐るべき犯行予告を行っていたことを、父親の口から聞かされたことがあったという(幸いにも現実にはそうした凶行事件は起きなかったが、映画『ダーティハリー』の中では、アンディ・ロビンソン扮する連続殺人鬼の〈さそり〉がスクールバス・ジャックの暴挙に打って出て、子供たちやそれをなす術もなく見守る市民らを、恐怖のどん底に叩きこむことになる)。 本作の監督依頼のオファーを受け入れたフィンチャーは、この〈ゾディアック〉事件を映画化するにあたって、実証主義的なアプローチによる徹底したリサーチを改めて行った上で、実際に起きた出来事を努めてリアルに再現するのに心血を注ぎ、従来、『セブン』や『ファイト・クラブ』などで披露してきた、これ見よがしの才気走った派手で過剰な作風とはうって変わり、きわめて抑制の効いた渋い演出を全篇にわたって披露して、映画作家としての成熟ぶりを窺わせる充実した作品に仕上がっている。 その一方で、『セブン』では、ケヴィン・スペイシー演じる連続殺人鬼が“七つの大罪”を犯した連中に天誅を下す様子は、直接的に画面には映さず、既に凶行がなされた後の酸鼻を極めた犯行現場という形で、彼の異常者ぶりが示されていたのに引き比べると、この『ゾディアック』では、正体不明の〈ゾディアック〉が、夜、人気のない暗がりに車を停めてデートを楽しもうとしていた1組の高校生のカップルや、あるいは、湖畔で昼間ピクニックを楽しんでいた大学生のアベックらを相手に、冷酷非情な犯行に及ぶ決定的瞬間を、迫真の臨場感できわめて即物的に描いているのが本作の特色となっていて、その何ともクールでドライな感触が、〈ゾディアック〉の得体の知れなさと薄気味悪さをいっそう際立たせている。 そしてまた、街の全景を捉えた冒頭のロングショットから、恐怖におびえる被害者の顔のアップ、さらには、きっとこれはデジタル合成処理をしたものだろうが、夜の街路を走り抜けるイエローキャブを真上からぴたりとフォローして滑らかに捉えたマジカルな俯瞰移動撮影まで、その都度、被写体と絶妙の距離感を保ちながら、スタイリッシュな画面をリズミカルに構成する、フィンチャーの卓越した映像センスと、ハリス・サヴィデスの見事な撮影手腕(『エレファント』(2003)、『ラストデイズ』(2005)など、ガス・ヴァン・サント監督とのコンビでも知られた名キャメラマンだが、2012年、惜しくも55歳でこの世を去った)も、素晴らしい。 映画の前半は、〈ゾディアック〉による犯行場面の描写を主体に話が進行していくが、彼が書いた手紙と暗号文が自分たちの働く新聞社に届いたのをきっかけに、ジェイク・ギレンホール扮する本作の原作者にして諷刺漫画家と、ロバート・ダウニーJr.扮する同僚の敏腕記者が、暗号解読と犯人の正体探しに熱中するようになって相棒を組む一方、マーク・ラファロとアンソニー・エドワーズが、事件を捜査する担当刑事に扮して、やはりコンビで劇中に登場。物語の焦点は、次第に2組のコンビへと重点をシフトしつつ、彼らがそれぞれ〈ゾディアック〉の正体を突き止めようと懸命に奔走する様子が、じっくりと描き出されることとなる。 フィンチャー監督は、本作を映画化するにあたって、やはり1970年代前半のほぼ同時代、ワシントン・ポスト紙の2人組の新聞記者が、とある軽犯罪事件の裏に秘められた意外な政治的陰謀を明るみにし、当時の合衆国大統領ニクソンをついに辞任に追い込んだ衝撃的な政治スキャンダル、〈ウォーターゲイト事件〉の顛末を映画化した『大統領の陰謀』(1976 アラン・J・パクラ)を、下敷きとして活用したことを自ら明かしている。ただ、『大統領の陰謀』の新聞記者コンビが、その粘り強い地道な取材活動の末に、事件の真相を暴くことに成功して社会的正義を最終的に勝ち取り、彼らにとっても、そしてそれを見守る観客にとっても、それなりのカタルシスを得られるのに対し、この〈ゾディアック〉事件は、先にも説明した通り、現実において、犯人の正体も居所も一向に掴めぬまま、歳月ばかりが空しく過ぎ去っていく。 ■『ダーティハリー』の裏版 !? 本来は『ゾディアック』が表看板だったはずなのに… この『ゾディアック』の物語のちょうど中間の折り返し点にあたる箇所で、劇中の登場人物たちが、この現実に起きた〈ゾディアック〉事件に想を得て作られた映画『ダーティハリー』を、皆で揃って劇場へ見に行くという印象的な一場面が登場する。いささか皮肉めいたこの場面において、マーク・ラファロ演じる刑事は、映画をあくまで絵空事や他人事として楽しんで鑑賞することが出来ずに途中退席してしまう。そして、ロビーでひとり煙草を吹かしているところへ、映画を見終わって外に出てきた同僚から、「あの(クリント・イーストウッド扮する)キャラハン刑事は、君がてこずっている事件を、ものの見事に解決してくれたじゃないか」と声をかけられたラファロは、「正当な法の手続きは、必要ないってわけか、ふん」とふてくされた態度を見せ、それを脇で見守っていたギレンホールが見るに見かねて、「きっとあなたが、彼(=〈ゾディアック〉)を捕まえますよ」とラファロに慰めの言葉をかけると、「でも、既にもう、こうして映画は出来上がっているじゃないか」と、あらためて彼は自嘲気味の捨て台詞を吐くことになるのだ。 映画『ゾディアック』のドラマは、ここから4年の歳月を一気に飛び越えた上で、なおもこの先しばらく続くことになるが、疲労と焦燥のみが蓄積されていくその煮詰まった事態についに耐えかねて、ギレンホール&ダウニーJr.、そしてラファロ&エドワーズという2組のコンビは、共に後者の相棒が別れを告げて去って行き、コンビを解消するはめとなる。さらに今度は、お互いに取り残された者同士でギレンホールとラファロが新たなコンビを組むものの、その2人の関係も次第に冷え込み、〈ゾディアック〉のおぼろげな影をひたすら追いかけるという欲望と執念ばかりが自己目的化して亢進・肥大化し、心の内に募らせたオブセッションによって、自らの人生そのものが崩壊の危機に瀕し、愛する妻子からも愛想を尽かされてひとり孤独を噛み締める、ギレンホールの哀れでやるせない姿が大きく浮き彫りとなっていくのだ。このあたりの展開は、フィンチャー監督が、『大統領の陰謀』と並んで、本作を作る上で大いに参照した、1970年代の政治サスペンス映画を代表する傑作『カンバセーション…盗聴…』(1974 フランシス・フォード・コッポラ)の影響が色濃く見て取れるはずだ。 フィンチャー監督の映画は、往々にして上映分数が2時間半を超える長尺の作品が多く、気軽に見るにはいささかしんどくて疲れることもなきにしもあらずだが、やはり2時間半強の長さがあるこの『ゾディアック』の場合、彼らの人生の軌跡を見つめる上で、その作品の長さにはそれなりの必然性があったと言えるだろう。ギレンホールにダウニーJr.、そしてラファロら、実力演技派の俳優たちが顔を揃え、人騒がせな連続殺人鬼〈ゾディアック〉の出現と挑発によって人生を狂わされ、茨の道を歩むはめとなる彼らの見応えのある競演を、どうかぜひ腰を据えてじっくりと味わって欲しい。■ © Warner Bros. Entertainment Inc. and Paramount Pictures Corporation
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COLUMN/コラム2017.01.20
極限の緊張サスペンスに込めたクルーゾ監督の狙いと、それを継受した1977年リメイク版との関係性を紐解く〜『恐怖の報酬(1953)』〜01月10日(火)深夜ほか
わずかの振動でも爆発をおこす膨大な量のニトログリセリン(高度爆発性液体)を、悪路を眼下にトラックで輸送する--。それを耳にしただけでも、全身の毛が逆立つような身震いをもたらすのが、この『恐怖の報酬』だ。この映画が世に出て、今年で63年。その間、いったいどれほど多くの類似ドラマや引用、パロディが生み出されてきたことだろう。 だが一度は、それらを生み出したオリジンに触れてみるといい。先に挙げた設定をとことんまで活かした、観る者を極度の緊張へと至らしめる演出と仕掛けが、本作にはたっぷりと含まれている。 「この町に入るのは簡単さ。だが出るのは難しい“地獄の場所”だ」 アメリカの石油資源会社の介入によって搾取され、スラムと化した南米のとある貧民街。そこは行き場を失ったあぶれ者たちの、終着駅のごとき様相を呈していた。そんな“地獄の場所”へと流れてきたマリオ(イブ・モンタン)を筆頭とする四人の男たちは、貧困がぬかるみのように足をからめとる、この呪われた町から脱出するために高額報酬の仕事に挑む。その仕事とは、爆風で火を消すためのニトログリセリンを、大火災が猛威をふるう山向こうの石油採掘坑までトラックで運ぶことだった。 舗装されていないデコボコの悪路はもとより、道をふさぐ落石や噴油のたまった沼など、彼らの行く手には数々の難関が待ち受ける。果たしてマリオたちは無事に荷物を受け渡し、成功報酬を得ることができるのかーー? 仏作家ジョルジュ・アルノーによって書かれた原作小説は、南米グァテマラの油田地帯にある石油採掘坑の爆発と、その消火作業の模様を克明に描いた冒頭から始まる。その後は、 「四人が同じ地に集まる」 「ニトログリセリンを運ぶ」 と続く[三幕構成]となっているが、監督のアンリ・ジョルジュ・クルーゾはその構成を独自に解体。映画は四人の男たちの生きざまに密着した前半部と、彼らがトラックで地獄の道行へと向かう後半の[二部構成]へと配置換えをしている。そのため、本作が爆薬輸送の物語だという核心に触れるまで、およそ1時間に及ぶ環境描写を展開していくこととなる。 しかし、この構成変更こそが、物語をどこへ向かわせるのか分からぬサスペンス性を強調し、加えて悠然とした前半部のテンポが、どん詰まりの人生に焦りを覚える男たちの感情を、観る者に共有させていくのだ。 そしてなにより、視点を火災に見舞われた石油資源会社ではなく、石油採掘の犠牲となった町やそこに住む人々に置くことで、映画はアメリカ資本主義の搾取構造や、極限状態におけるむき出しの人間性を浮き彫りにしていくのである。 ■失われた17分間の復活 だが不幸なことに、クルーゾによるこの巧みな構成が、フランスでの公開から36年間も損なわれていた時代があったのだ。 今回ザ・シネマで放送される『恐怖の報酬』は、クルーゾ監督の意向に忠実な2時間28分のオリジナルバージョン(以下「クルーゾ版」と呼称)で、前章で触れた要素が欠けることなく含まれている。 しかし本作が各国で公開されたときにはカットされ、短く縮められてしまったのだ(以下、同バージョンを「短縮版」と呼称)。 映画に造詣の深いイラストレーター/監督の和田誠氏は、脚本家・三谷幸喜氏との連載対談「それはまた別の話」(「キネマ旬報」1997年3月01日号)での文中、封切りで『恐怖の報酬』を観たときには既にカットされていたと語り、 「たぶん観客が退屈するだろうという、輸入会社の配慮だと思うんですけど」 と、短縮版が作られた背景を推察している。確かに当時、上映の回転率が悪い長時間の洋画は、国内の映画配給会社の判断によって短くされるケースもあった。事実、本作の国内試写を観た成瀬巳喜男(『浮雲』(55)監督)が、中村登(『古都』(63)監督)や清水千代太(映画評論家)らと鼎談した記事「食いついて離さぬ執拗さ アンリ・ジョルジュ・クルゾオ作品 恐怖の報酬を語る」(「キネマ旬報」1954年89通号)の中で、試写で観た同作の長さは2時間20分であり、この時点でクルーゾ版より8分短かったという事実に触れている。 しかし本作の場合、短縮版が世界レベルで広まった起因は別のところにあったのだ。 1955年、『恐怖の報酬』はアメリカの映画評論家によって、劇中描写がアメリカに対して批判的だと指摘を受けた(同年の米「TIME」誌には「これまでに作られた作品で、最も反米色が濃い」とまで記されている)。そこでアメリカ市場での公開に際し、米映画の検閲機関が反米を匂わすショットやセリフを含むシーンの約17分、計11か所を削除したのである。それらは主に前半部に集中しており、たとえば石油の採掘事故で夫を亡くした未亡人が大勢の住民たちの前で、 「危険な仕事を回され。私たちの身内からいつも犠牲者が出る。死んでも連中(石油資源会社)は、はした金でケリをつける」 と訴えるシーン(本編37分経過時点)や、石油資源会社の支配人オブライエン(ウィリアム・タッブス)が、死亡事故調査のために安全委員会が来るという連絡を受けて、 「連中(安全委員会)を飲み食いさせて、悪いのは犠牲者だと言え。死人に口なしだ」 と部下に命じるシーン(本編39分経過時点)。さらにはニトログリセリンを運ぶ任務を負った一人が、重圧から自殺をはかり「彼はオブライエンの最初の犠牲者だ」とマリオがつぶやく場面(本編45分経過時点)などがクルーゾ版からカットされている。 こうした経緯のもとに生み出された短縮版が、以降『恐怖の報酬』の標準仕様としてアメリカやドイツなどの各国で公開されていったのである。 なので、この短縮版に慣れ親しんだ者が今回のクルーゾ版に触れると「長すぎるのでは?」と捉えてしまう傾向にあるようだ。それはそれで評価の在り方のひとつではあるが、何よりもこれらのカットによって作品のメッセージ性は薄められ、この映画にとっては大きな痛手となった。本作は決してスリルのみを追求したライド型アクションではない。社会の不平等に対する怒りを湛えた、そんな深みのある人間ドラマをクルーゾ監督は目指したのである。 1991年、マニアックな作品選定と凝った仕様のソフト制作で定評のある米ボイジャー社「クライテリオン・コレクション」レーベルが、本作のレーザーディスクをリリースするにあたり、先述のカットされた17分を差し戻す復元をほどこした。そしてようやく同作は、本来のあるべき姿を取り戻すことに成功したのである。この偉業によってクルーゾの意図は明瞭になり、以降、このクルーゾ版が再映、あるいはビデオソフトや放送において広められ、『恐怖の報酬』は正当な評価を取り戻していく。 ■クルーゾ版の正当性を証明するフリードキン版 こうしたクルーゾ版の正当性を主張するさい、カット問題と共に大きく浮かび上がってくるのは、1977年にウィリアム・フリードキン監督が手がけた本作の米リメイク『恐怖の報酬』の存在である。 名作として評価の定まったオリジナルを受けての、リスクの高い挑戦。そして製作費2000万ドルに対して全米配収が900万ドルしか得られなかったことから、一般的には失敗作という烙印を捺されている本作。しかし現在の観点から見直してみると、クルーゾ版を語るうえで重要性を放つことがわかる。 フリードキンは米アカデミー賞作品賞と監督賞を受賞した刑事ドラマ『フレンチ・コネクション』(71)、そして空前の大ヒットを記録したオカルトホラー『エクソシスト』(73)を手がけた後、『恐怖の報酬』の再映画化に着手した。その経緯は自らの半生をつづった伝記“THE FRIEDKIN CONNECTION”の中で語られている。 フリードキンは先の二本の成功を担保に、当時ユニバーサル社長であったルー・ワッサーマンに会い「わたしが撮る初のユニバーサル映画は本作だ」とアピールし、映画化権の取得にあたらせたのだ。 しかし権利はクルーゾではなく、原作者であるアルノー側が管理しており、しかも双方は権利をめぐって確執した状態にあった。だがフリードキン自身は「権利はアルノーにあっても、敬意を払うべきはクルーゾだ」と考え、彼に会って再映画化の支えを得ようとしたのだ。クルーゾは気鋭の若手が自作に新たな魂を吹き込むことを祝福し、『フレンチ・コネクション』『エクソシスト』という二つの傑作をモノした新人にリメイクを委ねたのである。 こうしたクルーゾとフリードキンとの親密性は、作品においても顕著にあらわれている。たとえば映画の構成に関して、フリードキンはマリオに相当する主人公シャッキー(ロイ・シャイダー)が、ニトログリセリンを輸送する任務を請け負わざるを得なくなる、そんな背景を執拗なまでに描写し、クルーゾ版の韻を踏んでいる。状況を打破するには、命と引き換えの仕事しかないーー。そんな男たちの姿をクローズアップにすることで、おのずとクルーゾーの作劇法を肯定しているのだ。 しかしラストに関して、フリードキンの『恐怖の報酬』は、シャッキーが無事にニトログリセリンを受け渡すところでエンドとなっていた。そのため本作は日本公開時、このクルーゾ版とも原作とも異なる結末を「安易なオチ」と受け取られ、不評を招く一因となったのである。 ところがこの結末は、本作の全米興行が惨敗に終わったため、代理店によってフリードキンの承認なく1時間31分にカットされた「インターナショナル版」の特性だったのだ。アメリカで公開された2時間2分の全長版は、クルーゾ版ならびに原作と同様、アレンジした形ではあるがバッドエンドを描いていた。にもかかわらず場面カットの憂き目に遭い、あらぬ誤解を受けてしまったのである。 そう、皮肉なことにクルーゾもフリードキンも、改ざんによって意図を捻じ曲げられてしまうという不幸を、『恐怖の報酬』という同じ作品で味わうこととなってしまったのだ。 さいわいにもクルーゾ版は、こうして自らが意図した形へと修復され、本来あるべき姿と評価をも取り戻している。なので、クルーゾ版の正当性を証明するフリードキン版も、多くの人の目に触れ、正当な評価を採り戻してもらいたい。それを期待しているのは、決して筆者だけではないはずだ。■ ©1951 - TF1 INTERNATIONAL - PATHE RENN PRODUCTIONS - VERA FILM - MARCEAU CONCORDIA - GENERAL PRODUCTIONS
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COLUMN/コラム2017.01.09
飲んで食ってファックしてゲロ吐いて糞尿まき散らして死んでいく、ブルジョワたちの快楽自殺。エログロなブラックコメディ〜『最後の晩餐』〜01月11日(水)深夜ほか
フェデリコ・フェリーニ監督の『甘い生活』('60)とミケランジェロ・アントニオーニ監督の『情事』('59)が、'60年の第13回カンヌ国際映画祭でそれぞれパルムドールと審査員特別賞を獲得。黄金期を迎えた'60年代のイタリア映画界は、巨匠の芸術映画からハリウッドばりの娯楽映画まで本格的な量産体制に入り、文字通り百花繚乱の様相を呈した。 そうした中で、戦後イタリア映画の復興を支えたネオレアリスモの精神を、新たな形で高度経済成長の時代へと受け継ぐ新世代の社会派監督たちが台頭する。『テオレマ』('68)や『豚小屋』('69)のピエル・パオロ・パゾリーニ、『悪い奴ほど手が白い』('67)や『殺人捜査』('70)のエリオ・ペトリ、『アルジェの戦い』('66)のジッロ・ポンテコルヴォ、『ポケットの中の握り拳』('65)のマルコ・ベロッキオ、『殺し』('62)や『革命前夜』('64)のベルナルド・ベルトルッチなどなど。権力の腐敗や社会の不正に物申す彼らは、保守的なイタリア社会の伝統や良識に対しても積極的に嚙みついた。 中でもパゾリーニと並んで特に異彩を放ったのが、当初は『女王蜂』('63)や『歓びのテクニック』('65)といったセックス・コメディで注目された鬼才マルコ・フェレ―リだ。 美人で貞淑な理想の女性(マリナ・ヴラディ)を嫁に貰った中年男(ウーゴ・トニャッツィ)が、子供を欲しがる嫁や女の親戚たちにプレッシャーをかけられ、頑張ってセックスに励んだ末にポックリ死んじゃう『女王蜂』。 全身毛むくじゃらの女性(アニー・ジラルド)と結婚した男(ウーゴ・トニャッツィ)が、嫁を見世物にして客から金を取ったり、その処女を物好きな金持ちに売ったりして荒稼ぎした挙句、難産で死んだ後も彼女をミイラにして金を儲けるという『La donna scimma(類人猿女)』('64)。 イタリア映画お得意のセックス・コメディを装いながら、イタリア社会に蔓延る偽善や拝金主義、さらには家族制度や男尊女卑などの伝統的価値観を痛烈に皮肉りまくったフェレ―リ。 その後も、女王然とした女(キャロル・ベイカー)が愛人の男たちを足蹴にする『ハーレム』('68)や、逆に男(マルチェロ・マストロヤンニ)が女(カトリーヌ・ドヌーヴ)を犬扱いする『ひきしお』('70)、男尊女卑の男(ジェラール・ドパルデュー)が妻にも恋人にも見捨てられ最後は自分のペニスを切り落とす『L'ultima donna(最後の女)』('76)など、'60年代から'70年代にかけてエキセントリックかつ強烈な反骨映画を撮り続けたフェレーリだが、その最大の問題作にして代表作と呼べるのが、カンヌでも賛否両論を巻き起こした『最後の晩餐』('74)である。 あらすじを簡単にご紹介しよう。パリのとある大邸宅に4人の裕福な中年男たちが集まって来る。有名レストランの料理長ウーゴ(ウーゴ・トニャッツィ)、テレビ・ディレクターのミシェル(ミシェル・ピッコリ)、裁判官のフィリップ(フィリップ・ノワレ)、国際線機長のマルチェロ(マルチェロ・マストロヤンニ)。美食家の彼らは大量の食料品を屋敷に運び込み、連日連夜に渡って豪華な晩餐会を開くことになる。その目的は、美食三昧の果てに死ぬこと。しかし、食欲だけでは飽き足らなくなった彼らは、たまたま屋敷を訪れた豊満な女教師アンドレア(アンドレア・フェレオル)と3人の娼婦たちを招き、やがて事態は美食とセックスと汚物にまみれた酒池肉林のグロテスクな宴へと変貌していく。 要するに、人生に悲観したブルジョワたちが快楽の果ての自殺を目論み、飲んで食ってファックしてゲロ吐いて糞尿まき散らして死んでいく姿を赤裸々に描いた、エログロなブラックコメディ。見る者の神経をあえて逆撫でして不愉快にさせるフェレーリ監督の、悪趣味全開な演出が圧倒的だ。今となって見れば性描写もグロ描写もさほど露骨な印象は受けないものの、'70年代当時としては相当にショッキングであったろうことは想像に難くない。 しかも主人公4人を演じるのは、いずれもイタリアとフランスを代表する一流の大御所スターばかり。そのネームバリューにつられて見に行った観客はビックリ仰天したはずだ。これが一部からは大変なブーイングを受けつつも、カンヌで審査員特別賞を受賞したというのは、やはり'70年代のリベラルな社会気運の賜物だったと言えるのかもしれない。 面白いのは、主人公たちが自殺をする理由というのが最後まで明確ではないという点だろう。とりあえず、ウーゴが女房の尻に敷かれて頭が上がらない、フィリップは女にモテず独身で年老いた乳母に性処理してもらっているっていうのは冒頭で描かれるが、それ以外の2人が抱えた事情については全く触れられていない。いずれにしても、恐らく取るに足らないような漠然とした理由であることが想像できる。そんな甘ったるいブルジョワ親父たちが、快楽の限りを尽くして死のうとするわけだ。全くもってバカバカしい話なのだが、その根底には行きつくところまで行きついた現代西欧文明の物質主義に対する大いなる皮肉が込められていると見ていいだろう。 そんな男たちの愚かで滑稽な最期を見届けるのが、プロレタリアートの女教師だというのがまた皮肉だ。しかも、これがフェリーニの映画に出てくるようなアクの強い巨体女。食欲も性欲も底なしの怪物で、終始男たちを圧倒する。それでいて、母性の塊のような優しさで男たちを包み込む。まるで庶民の強さ、女の強さを象徴するような存在だ。演じているアンドレア・フェレオルは、なんと当時まだ20代半ば。いやはや、その若くしての貫録には恐れ入るばかりだ。その後もフォルカー・シュレンドルフやリリアーナ・カヴァーニ、フランソワ・トリュフォーらの巨匠たちに愛され、ヨーロッパ映画を代表する怪女優として活躍していくことになる。ちなみに、舞台となる屋敷の管理人をしている老人を演じているのはアンリ・ピッコリ。そう、ミシェル・ピッコリの実父だ。 恐らくルイス・ブニュエルの『皆殺しの天使』('62)や『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』('72)にインスパイアされたものと思われる本作。マルコ・フェレ―リならではの社会批判や文明批判が、最も極端かつ過激な形で結実した希代の怪作と言えるだろう。その後の彼は酔いどれた詩人(ベン・ギャザラ)の苦悩と再生を描く『町でいちばんの美女/ありきたりな狂気の物語』('81)、自由奔放な母親(ハンナ・シグラ)とその娘(イザベル・ユペール)の複雑な愛憎を描く『ピエラ 愛の遍歴』('83)と、より内省的なテーマへと移行していく。日本ではあまり注目されることなく'97年に他界したフェレーリだが、もっと評価されてしかるべき孤高の映像作家だと思う。■ © 1973 Mara Films – Les Films 66 – Capitolina Produzzioni Cinematografiche ( logo EUROPACORP)
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COLUMN/コラム2017.01.05
オリジナル版の要素を取り込みながら、異なるムードを醸しだした〜『パトリック 戦慄病棟』〜01月21日(土)深夜
ある種、変態的なラヴストーリーともいえるオーストラリア映画『パトリック』(78)は、79年のアボリアッツ国際ファンタスティック映画祭グランプリを受賞しながらも、日本では劇場未公開。でもSF&ホラー映画ファンの熱い支持を得てきたカルト映画だ。 監督には、ヒッチコック監督の『トパーズ』(69)で撮影現場を経験したことのある、根っからのヒッチコッキアン、リチャード・フランクリン(1948年生まれ~2007年死去)。『パトリック』では、『サイコ』(60)のように母親にトラウマをもった青年を主軸にし、『疑惑の影』(43)、『ダイヤルMを廻せ!』(54)、『マーニー』(64)等、随所に師匠へのオマージュを盛り込んでサスペンスを盛りあげていた。また1983年には、師匠の大ヒット作の続編『サイコ2』を監督してヒットさせた。 今回の作品は、大まかな流れはオリジナル版と似たような展開を見せるが、大胆な脚色を施して全体のムードを変え、結末も異なるリメイク版になっている。監督には、オーストラリア出身で、ジャンル系映画の異色ドキュメンタリー『マッド・ムービーズ~オーストラリア映画大暴走~』(08)で注目された気鋭マーク・ハートリーが務めた。 そのためか、オリジナル版にあったヒッチ作品へのオマージュの数々が、本作でも異なる形で散見できる。例えば、病院へと連なる断崖沿いの道路を自動車が這うように走行してゆく場面は『断崖』(41)風だし、病院に入る真俯瞰ショットは『北北西に進路を取れ』(59)を彷彿させ、キャシディ婦長の妖しい存在感は『レベッカ』(40)のダンヴァース夫人を匂わせるし、妖しい雰囲気を放ちつつ地下室に秘密が隠されているあたりは『サイコ』のサイコ・ハウスを意識している。オリジナル版が、ヒッチへのリスペクト&オマージュ描写がサスペンスを醸成する一要因を担っているところから、新たにヒッチ・サスペンスの要素を盛り込むことも、リメイクの重要な要素だと考えたのかもしれない。 とはいえ、オリジナル版との最も大きな違いは、海沿いの崖の上に建つ古びた私立病院ロジェット・クリニック(修道院を改装して再利用した設定)の陰湿なたたずまいと、重度の昏睡状態の患者を実験体にし、電気実験による脳研究を推し進めるロジェット院長の存在だろうか。ロジェット・クリニックは海沿いにあるため、霧が立ち込める時があり、実に怪しげで幻想的な雰囲気を醸しだしている。そのうえ研究で高い電磁波を使っているためか、院内では植物が育たないという(コワッ)。そこの院長ロジェットが、かつて医学界でフランケンシュタインの異名を取り、医学界から追放されたのち、密かにスポンサーの資金力を得、非道な研究をずっと続けている。脳がたとえ損傷した患者であっても、投薬直後に高圧電流を流して刺激し、眠っている神経を呼び覚ましてつなぎ変えようとする驚きの実験だった。 ロジェットのパトリックに対する見解はこうだ。「24時間、彼の脳電図を観察している。生理現象から神経衰弱まで、脳波の記録を。すべてのパトリックの動作は、意識の有無にかかわらず電流次第。神経中枢を刺激すれば、いいだけ。植物状態とはいえ、彼の脳内には電流が流れている。時々、いずれかが作用して体を動かすだろう。ただそれだけのこと。彼は、73kgの動かぬ肉塊。死んだ脳を抱えたな。すべて私の指示に従え。この扉が開いたら、今までのやり方は忘れろ!」 ロジェットは、実験体パトリックを治療したいわけでなく、あくまでも持論の証明が欲しいだけ。そのための“生ける屍”だと思っている。その下で“氷の女王”の威厳を漂わせる看護師長ジュリアがいる。彼女はロジェットの娘で、噂では一度ここを出て結婚するが、夫が自殺し戻ってきたといういきさつがある。 ゴシックホラーのような舞台に、我が道をゆくマッドサイエンティストの凶行は、まるで怪奇映画のたたずまい。そんな異常な世界に、オリジナル版より、だいぶ美少年になったパトリックと、彼が好意を抱くキャシー・ジャカード看護師との奇妙な関係が描かれる。クリニックの地下室は、ロジェットとジュリア以外は立ち入り禁止。 キャシーは、恋人エド・ペンハリゴン(オリジナル版でキャシー役を熱演したスーザン・ペンハリゴンに敬意を表した役名)との関係が悪化し、ストーカーのような彼から離れるため、ロジェット・クリニックの看護師業務に就くことになった。 キャシーを演じたのが、ビーチ系映画やホラー映画で活躍してきたスレンダー女優、シャーニ・ヴィンソン。サーフィン系OVA映画『ブルークラッシュ2』(11)ではしなやかなスレンダーボディを充分拝ませてくれたし、『パニック・マーケット3D』(12)では津波によるサメ・パニックに対峙するスクリーム・ヒロインを全身で熱演! 『サプライズ』(11)では、サヴァイバル・スキルを身につけたヒロインが襲撃者たちを相手にキリング・マシーンと化してゆく変貌ぶりがたまらなかったぞ。これらの作品で一気にシャーニのファンになった筆者としては、オリジナル版のキャシー役を演じた癒し系のスーザン・ペンハリゴンとは異なり……ちょっと見、健気に見えそうなシャーニが、白衣(映画では白ではなく水色だけど)に身を包み、恐怖と気丈に対峙していく姿に萌え萌えなのだ。 そして、シャーニ扮するキャシーが、ロジェット・クリニックで最初に担当を任された患者が、15号室(オリジナル版も同じ15号室。タロットカードで15は、悪魔に属するカードで、拘束・束縛・誘惑・妬みなどの意味がある)のパトリックだった。 キャシーがベッドに寝たきり状態のパトリックと初接見の日、キャシーがパトリックに顔を近づけた時、彼の口から飛ばされた唾が彼女の顔にかかった。ロジェットやこの病院を“植物園”と揶揄する同僚の看護師は、無意識に筋肉が反応しただけだと言うのだが……。 キャシーは、同僚の看護師がパトリックのシーツを取り換える際、彼の体をぞんざいに扱っている姿を目撃し内心驚いてしまう。優しいキャシーに対し、パトリック流のあいさつがツバを吐くことだった。でもキャシーにとって、その後もパトリックが彼女の前で唾を吐き続けることから、彼の意識を感じ取るようになる。でもパトリックが意識を伝えてくるのは、キャシーだけ。 知り合ったばかりの精神科医ブライアンにパトリックのことを相談すると、ブライアンがいきなりキャシーに対しツバを吐いた。驚いたキャシーはブライアンに激怒するが、どうやらパトリックの超能力によって、ブライアンの意識に侵入してやらせた行為だった。パトリックにしてみたら、2人だけの秘密を、他人に、しかも男に話したことが許せなかったらしい。観ているうちに、パトリックが吐く唾にはいろいろな思いが込められているように見え、時にパトリックの想いの一つ……キャシーへの性的な隠喩も込められているように思う。 キャシーが、パトリックの体をあちこち触り、股間の方に手を伸ばすと股間が膨らんでくるくだりはエロティックだし、パトリックがパソコンを使って、キャシーに「オナニーして欲しい」と伝えてくるところはちょっと怖い。 パトリックはキャシーを好きになるが、やがてそれが執着へと変化し、脳で思い描いたことを超能力で強引に変えてしまう。でも彼の超能力で大概なものは思い通りにできるが、真に操りたいのは、一人の看護師キャシーの心だが、それがほんとに難しい。 怪奇幻想的なムードを漂わせながら、拘束されたようなパトリックが超能力という絶大な力を持ってしても、キャシーの女心を拘束できない変態的なラヴストーリー。オリジナル版にとらわれず、新たな要素とオリジナル版の魅力を巧みに融合させたエンタメ・ホラーだと思う。■ © MMXIII Roget Clinic Pty Ltd, Screen Australia, Melbourne International Film Festival Premiere Fund, Film Victoria, Screen Queensland, Cherryhill Holdings Pty Ltd, PDER Pty Ltd and FG Film Productions (Australia) Pty Ltd
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COLUMN/コラム2016.12.17
ゾンビ映画ファンだけでなく、ゾンビ嫌いな人にも観て欲しい、2人の愛を見せつけられる秀作ドラマ『ゾンビ・リミット』
ちょうど1981年~1985年は、リターンドと名づけられた未知のウィルスが発見され、多数の死者を出した第1次流行期にあたる。そのウィルスの感染者はリターンドと呼ばれた。感染者が出血した場合、他者は決して血に触れてはならないし、感染者をそのまま放置すれば、数日後には意識を喪失し、生肉と血に飢えたゾンビのように凶暴性を発揮する。 これは現代史において人類最大の悲劇となり、現在まで世界中の犠牲者は1億人以上とされる。第1次流行期から治療を研究しはじめて10年後、リターンド(感染者)の髄液から採取した“リターンドたんぱく質”により大きな希望がもたらされた。そして第2次流行期以後は、多くの人を救うことができた。 でも全てのリターンドを完治できるわけではなく、感染後、36時間以内に薬“リターンドたんぱく質”を注射し、効果があらわれた者だけしか助からないし、助かった者も一生、薬をうち続けなければならない。国はリターンドに薬を配給し、患者を管理していた。 一方、リターンドへの反発は徐々に大きくなり、反リターンド派のみならず一般市民による差別やデモが相次ぎ、各地でリターンドが襲撃される暴行死傷事件が起きていた。そのため、リターンドは密かに暮らし、周囲にカミングアウトすることはなかった。 ゾンビのような凶暴化した人間を生み出す新種のウィルスに対する反応を、多少のシミュレーション風に描いたものでは、『28日後…』(02)の続編『28週後…』(07)が思いだされる。感染者の恐怖とそれに対する社会(世界)の対応が描写されていたが、見せ場のメインは、ゾンビのような感染者が人間に襲いかかる光景だった。 でも『ゾンビ・リミット』では、未知のウィルスに感染したリターンドが徐々に増殖してゆき、それに対する社会と人間たちの様々な反応を描いたドラマであって、ゾンビのように凶暴化したリターンドが人間に襲いかかる描写はほんのわずかしかない。だから、そのテの凄惨な残酷描写を期待するファンにとっては、最初は肩すかしを喰らった感があるかもしれないが、それでも徐々に見応えある作品世界に没入してゆくハズ。 ゾンビ映画をリスペクトしつつも、ゾンビ映画の見どころの一つ、感染者の人間襲撃場面を極力排している。でも筆者は、それでも本作が大好き。愛すべき作品である。しかしこの邦題は、あまり好きじゃない。原題は“THE RETURNED”で、未知のウィルス名、およびその感染者を指すが、RETURNEDだけなら「戻ってきた」という意味がある。薬“リターンドたんぱく質”の効果によって、ゾンビ化から戻ってくるという意味もあるためか、邦題は劇場公開やレンタル・ビデオ市場を考慮し、分かりやすいゾンビの語を使用し、ゾンビ化への限界点を意味するだろう『ゾンビ・リミット』と名づけたのかもしれない。 主人公は、ミュージシャンでギターの講師もするリターンドのアレックスと、その恋人のリターンド治療医師のケイト。 6年前のある日、アレックスがショップで倒れている中年男性を助けようとしたところ、実は彼がリターンドとは分からず、指を咬まれてしまう。アレックスを診察したのがケイトで、2人はリターンドと担当医師という関係を超えて愛を育むことになる。 ケイトは、日々リターンド患者を診察し、彼らに対して慌てさせないよう優しく接する。感染した幼い子供をもつ両親が、「“リターンドたんぱく質”の在庫はあとわずかという噂が流れているが……」と質問されると、ケイトは「根も葉もないデマよ」とキッパリ。国はリターンドをできる限り増やさないよう、感染者に“リターンドたんぱく質”を配給し続けているのだから、必然的にそれを採取できる感染者は減少してくる。それを早くから察知していた国側は、“リターンドたんぱく質”の代わりになる、人工開発された“合成たんぱく質”の研究開発に着手するが、未だ完成にいたっていない。 ケイトはその事実を知っていても、優しい女医を演じて嘘をつき続け、しかも自分の勤務病院の薬品管理部の女性を通じて、アレックスのために密かに“リターンドたんぱく質”を高額で横流ししてもらっている。ケイトはエゴにはしってしまい、リターンドの治療医師にあるまじき行為を取っていた。アレックスも、彼女の行為をありがたいと感じながらも反道徳的な行為に対して何も言わない。2人の部屋の冷蔵庫には、手に入れた“リターンドたんぱく質”のアンプルがたくさん隠してある。 そんな2人の姿を見ていると人間の本性を感じ取ると同時に、この世界観に説得力が増してくる。ケイトは、アレックスさえ今のままでいてくれれば、他の感染者=リターンドがどうなってもいいと考えているわけじゃない。ケイトがまだ子供だった頃、両親がリターンドとなり、哀しい出来事を体験した……だからこそ彼女は、リターンドの治療医師になったと推測できるし、かつて愛する者を救えなかった後悔が、アレックスのために横流しをさせたと理解できる。 しかも、ケイトのリターンドに対する気持ちが、前半のこんな場面で力強く迫ってきた。ある日ケイトが勤務する病院に、黒い目だし帽を被った反リターンドの過激派が銃を持って襲撃した! 彼らはケイトに銃をつきつけ、「いかれているな、ゾンビのお世話か?」と揶揄した。するとケイトは、「彼らは、リターンドよ」と気丈に言い返した。怒った過激派は、更に「(彼らを)ゾンビと言え」と銃を向けていきがるが、彼女は決して「ゾンビ」とは言わなかった。 だからケイトは、たとえ社会や民衆がリターンドをゾンビと表現しようとも、自身の中ではあくまでリターンドという思いが強い。このケイトの思いを感じ取れる人なら、邦題の『ゾンビ・リミット』には少々抵抗があるハズだ。 そして、ケイトの病院に入院中だったリターンド患者は、過激派によって全員射殺され、リターンド=感染者の名簿を奪われてしまう。 過激派によるリターンド患者殺害の衝撃は、2016年7月に起きた「相模原障害者施設殺傷事件」の加害者のように傲慢だが、それは彼らだけではなかった。感染者=リターンドは社会の弱者でありマイノリティで、“リターンドたんばく質”の在庫薄が明らかにされると、リターンドの社会の風当たりは一層強くなっていく。 反リターンド派によって、“リターンドたんぱく質”配布所や病院が続けざまに襲撃され、しまいには病院そのものが軍の統治下に置かれた。そして国側がついに発令。「リターンドは、3日以内に監視センターに出頭しなければ逮捕する」と。大型バスに乗り込むリターンドたちの姿は、まるで第二次大戦でユダヤ人らがナチの強制収容所に運ばれる様とダブッてくる。 筆者も彼らをゾンビとは言いたくない……リターンド患者が増えてゆく世界を、リアル・シチュエーション風に描きつつ、アレックスとケイトの2人の愛と葛藤のドラマが展開する(それについての詳細は、ここでは書かないでおきます)。どうか本作を観て欲しい。もしゾンビ化させるようなウィルスが蔓延したら?……それをシリアスに捉えた危機的社会として描写しているからこそ、アレックスも、ケイトも、真に迫る魅力を発する。 国から“リターンドたんぱく質”の配給が停止されようとした時、アレックスは、25年来の親友にリターンドであることをカミングアウトしたことで、予想外の事態に陥ってしまう。そして、反リターンドの過激派が感染者名簿を入手してリターンド狩りをはじめる。更に出頭しないリターンドを捜査する警察の手も迫る。是非、追いつめられてゆく2人の姿を目に焼きつけて欲しい。■ © 2013 CASTELAO PICTURES, S.L. AND RAMACO MEDIA I, INC.. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2016.12.13
人間同士の相互不理解がもたらすカオス!パラノイアの暴走する先はほとんどホラー⁉〜『トランストリップ』〜
日本人にとって南米の映画といえば、例えばメキシコやブラジル、アルゼンチン辺りならパッと思いつく監督や作品も少なくないだろうが、しかしチリの映画となると馴染みが薄いのではないだろうか。それもそのはず、かの国では政情不安定な時期が長く、サイレント映画以降はなかなか映画産業が発展しなかった。’60年代にはニューシネマ運動の盛り上がりも僅かにあったようだが、それも’73年の軍事クーデターで誕生したピノチェト大統領の独裁政権下で潰えてしまう。同国出身のアレハンドロ・ホドロフスキーが、母国ではなくメキシコを活動拠点に選んだのも無理はなかろう。本格的にチリ映画界が産業として成長するようになったのは、ここ20年ほどのことなのだ。 最近はアカデミー外国語映画賞候補になったパブロ・ラライン監督の『NO』(’12)や、ベルリン国際映画祭の女優賞に輝いたセバスティアン・レリオ監督の『グロリアの青春』(’13)など、世界の主だった映画祭や映画賞でチリ映画が高く評価されることも増えてきた。そんな中、現在最も国際的な注目を集めているチリの若手映像作家の1人がセバスティアン・シルバだ。 カナダでアニメーション制作を学んだ後、イラストレーター兼ロックミュージシャンとして活躍した経歴のあるシルバ監督。特にイラストレーターとしてはニューヨークで個展を開き、実を結ばなかったもののハリウッドへ招かれたこともあったという。チリへ帰国して暫くはソロ・アーティストとして活動するも、やがて自らの制作プロダクションを立ち上げて映画監督へ転向。長編2作目の『La Nana(女中)』(’09)がサンダンス映画祭のワールド映画部門グランプリやラテンアメリカ映画祭の批評家賞などを獲得し、ゴールデン・グローブ賞の外国語映画賞にもノミネートされたことで、一躍脚光を浴びることとなったのである。 そんなセバスティアン・シルバ監督の作品に共通するキーワードは“相互不理解”と“パラノイア”である。裕福な家庭で長年に渡って雇い主の信頼を得てきたメイドを主人公にした『La Nana』では、年を取ってきた彼女に良かれと思って家主が若いメイドを補佐役として雇ったところ、自分の立場が脅かされると思い込んだ主人公が強迫観念を暴走させていく。また、同じくサンダンス映画祭でワールド映画部門監督賞に輝いた『Crystal Fairly & the Magical Cactus』(’13)は、幻のドラッグを求めてチリを旅する利己的なアメリカ人の若者(マイケル・セラ)とラブ&ピースな現代版ヒッピー女性(ギャビー・ホフマン)の対立を描くロードムービーだった。ベルリン国際映画祭でテディ賞を獲得した最新作『Nasty Baby』(’15)では、ゲイのカップルとその親友の女性が親切心で恵まれない浮浪者と関わったところ、その浮浪者がゲイに偏見を持つ差別主義者だったことから命の危険に晒されるという、弱者をヘイトする弱者の構図が描かれた。ディスコミュニケーション=相互不達によってもたらされるカオス、それこそがシルバ監督の一貫して描いてきているテーマだと言えよう。 そして、日本で唯一見ることのできるシルバ監督作品が『トランストリップ』(’13)。ちょうど『Crystal Fairly & the Magical Cactus』の直後に撮影され、ほぼ同時期に発表されたアメリカとチリの合作映画である。両作品にマイケル・セラが出演しているのもそのためだ。まずは簡単にストーリーを説明しよう。 主人公はカリフォルニアからチリへとやって来た若いアメリカ人女性アリシア(ジュノ・テンプル)。現地在住の従姉妹サラ(エミリー・ブラウニング)のもとを訪れた彼女は、その足でチリ南部の島へとバカンスに向かう。同行するのはサラとその彼氏アウグスティン(アウグスティン・シルバ)、その姉バーバラ(カタリーナ・サンディノ・モレノ)、そしてアウグスティンの同級生ブリンク(マイケル・セラ)だ。ただでさえ初めての外国旅行で緊張している上に、見ず知らずの他人に囲まれたアリシアは気分が落ち着かない。 5人揃って車に乗り出発したのも束の間、従姉妹のサラが学校の試験を受けるために戻らねばならなくなる。明日には合流するから、それまでみんなと一緒にいてというサラに押し切られ、知り合ったばかりの3人と旅を続けることになったアリシア。仲間同士の中でたった一人の赤の他人。内気で大人しく繊細なアリシアは、少々乱暴だが気がよくて明るい若者たちの輪に溶け込めない。島へ着いてからもなかなか打ち解けられず、彼らの他愛ない悪ふざけやジョークを必要以上に深刻に受け止める彼女は、やがて自分が彼らに嫌われている、馬鹿にされている、危害を加えられるかもしれないという妄想に取りつかれ、どんどん精神のバランスを崩していく…。 とまあこんな感じなのだが、冗談半分で催眠術を掛けられたアリシアが一気に被害妄想を暴走させていく後半の展開は殆どホラー。まるで悪霊に取りつかれたような有様だ。まさか自分たちが誤解されているなどと思いもよらない若者たちは、彼女の異常な行動の原因や理由を全く理解できず、パニックで右往左往するしかない。まさしくディスコミュニケーションの招いたカオス、そして悲劇としか言いようがないだろう。 悪意を持った人間は一人も出てこない。誰もが言ってみればごく普通の若者だ。しかし、人見知りで生真面目で感受性豊かなアリシアにとって、アウグスティンら仲間たちは得体のしれない野蛮人にしか思えない。一方、細かいことなど気にしない楽天的なアウグスティンたちにとってみれば、終始うつむき加減で怯えたような様子のアリシアはどことなく薄気味の悪い存在だったりする。お互いに頑張って歩み寄ろうとはするものの、その溝はなかなか埋められない。次第に不信感を募らせていく両者の心理を丁寧に汲み取ることで、ヒリヒリとするような緊張感を高めていくシルバ監督の演出は非常に巧み。誰もがどこかで身に覚えのある嫌な感覚を蘇らせるのだ。 そう、相容れない他者との相互不理解というのは、恐らく誰でも一度は経験したことがあるはず。イジメや民族紛争の原因も往々にしてそこにあると言えよう。たいていの場合は、そういうものと割り切ってやり過ごせば済むものだが、しかし小さな島という限定空間の中に閉じ込められるとそうはいかない。みんなが自分と同じ価値観を持ち、自分と同じジョークで笑い、自分と同じものを好きだとは限らないという、我々が時として忘れがちな当たり前のことを、この作品は強烈に思い起こさせてくれる。 そして、本作は最後までその相互不理解が解消されることはない。恐らくクライマックスは賛否両論だろう。実際、あのエンディングはなんなんだ⁉という批判の声も多い。しかし、世界中で紛争やイジメのなくなることのない現実を鑑みれば、一見して不完全燃焼のように見える本作のラストも当然の帰結だろう。そこには、軍事独裁政権の恐怖政治によって国民の間に根深い相互不信の広がったチリという国の、いまだ払拭できないトラウマと歴史の教訓が反映されているようにも思えるのだ。■ © 2013 MAGIC, MAGIC LLC