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COLUMN/コラム2015.10.06
【DVD/BD未発売】これが日本初登場! 犯罪活劇の名手ドン・シーゲルが意外にもスペインの地で観光メロドラマに挑んだ異色レア作〜『スパニッシュ・アフェア』〜
■ドン・シーゲル命のわが映画人生 今回筆者がここで紹介する映画は、これまでずっと本邦劇場未公開でソフト化もされず、海外においても未ソフト化のままという、ドン・シーゲル監督の1950年代の知られざる幻のレア作品『スパニッシュ・アフェア』(57)。したがって、今回のザ・シネマでの放送が日本初登場となる。まだ中学生の時分に、まずはテレビで『ダーティハリー』(71)を初めて目にして、その強烈なアクションと暴力の洗礼を受け、年を経てさらに彼の奥深い映画世界をもっと知りたいと個人的に掘り下げて探究するようになって以来、シーゲルは、数ある筆者のお気に入り監督たちの中でも、とりわけ偏愛する特別な映画作家のひとり。シーゲルの長年の熱狂的ファンを自認する筆者は、硬質で引き締まった彼の活劇映画の魅力をひとりでも多くの映画ファンにぜひ分かち合って頂きたいと、これまでにも、時たま訪れる幸運な機会を積極的に有効活用しては、こちらの意を汲んでくれる同志たちのありがたいご協力とご支援を得て、まだまだ知られざるシーゲルの貴重なお宝発掘と紹介に相努めてきた。 2005年、キングレコードで本邦劇場未公開の彼の呪われた遺作『ジンクス』(82)のDVDが発売された際にライナーの執筆を手がけたのをはじめ、2007年にやはり同社から発売された、『殺人者たち』(64)、『ガンファイターの最後』(69)、『突破口!』(73)、『ドラブル』(74)というシーゲル円熟期の4作品からなる<ドン・シーゲル・コレクション>のDVD-BOXが発売された際には、個々の作品解説以外に、シーゲルの長い映画キャリアの全体を鳥瞰した「ドン・シーゲル再入門」と題した小冊子を執筆。そして2008年にはWOWOWで、「ドン・シーゲル 知られざる傑作」特集と銘打って、これが日本初紹介となる激レアな『中国決死行』(53)、『殺人捜査線』(58)に加えて、これまた本邦では未ソフト化のままだった『第十一号監房の暴動』(54)、『グランド・キャニオンの対決』(59)という貴重な初期4作品の特集放映が奇跡的に実現した(その折に執筆した拙文が以下のサイトで読めるので、どうかぜひご参照ください[http://www.eiganokuni.com/column_kuwano.html])。 そして今回、また縁があって、「シネマ解放区」の番組ラインナップの作品選定のお仕事を筆者もお手伝いするという光栄な機会に恵まれ、2000本以上にも及ぶ膨大な映画作品リストの山の中からこちらが篩い分けて強力プッシュした推薦作のうち、今回この『スパニッシュ・アフェア』と、別稿のマリオ・バーヴァ監督の『黄金の眼』(67)という、なかなかこれまで日本では見られる機会がなかった2本の作品が、めでたく番組に初登場する運びとあいなった(こちらのリクエストに応えて下さった、Iさんをはじめ、ザ・シネマの関係者の皆さん、厚く御礼申し上げます!)。というわけで、今回はいつにも増して張り切って作品紹介に相努めることにしたい。 ■観光メロドラマ映画!? シーゲル屈指の異色作『スパニッシュ・アフェア』 では早速、『スパニッシュ・アフェア』の話に移ろう。ここでまず、シーゲル監督のこの時期のフィルモグラフィを繙いてみると、1956年に『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』、『暴力の季節』、そして翌57年には『殺し屋ネルソン』と、いわゆる“ハリウッド・フィフティーズ”の映画作家シーゲルの、まさに精髄と言うべき傑作群が集中的に生み出されている。それだけに、『暴力の季節』と『殺し屋ネルソン』の間の57年に生み落とされながら、日本の映画ファンには長いことブランクのままお預けを食っていたこの『スパニッシュ・アフェア』への期待が、ますます高まろうというものだ。 しかし先に勝手に皆さんの期待を煽っておいてから、いきなり水を差すようで恐縮だが、この『スパニッシュ・アフェア』は、正直なところ、知られざる傑作、埋もれた名作とはなかなか言い難く、また、先の他の3作品とは題材や趣向が大きく異なり、平和なはずの街でいつのまにか恐るべき陰謀がひそかに進行するさまや、非情で反社会的なアンチ・ヒーローたちの予測しがたい行動を緊迫したスリル満点に綴ったノワール映画でもない。 実はなんと、この『スパニッシュ・アフェア』は、シーゲルがヨーロッパのスペインに出向き、モノクロではなくカラーで撮り上げた作品。「セプテンバー・アフェア」という原題を持つ『旅愁』(50)をはじめ、『ローマの休日』(53)や『慕情』(55)、『間奏曲』(57)など、この時期、海外のさまざまな国を舞台に、かの地の異国情緒溢れる風景や文化風俗を随所に盛り込みながら、主役の男女の恋の行方を波瀾万丈に描いた、一連のハリウッド製観光メロドラマ映画の系譜に連なる、シーゲルの作品群の中でも一風変わった異色作なのだ。 映画はまず、スペインはマドリードにある歴代のスペイン王家の貴重な美術コレクションを数多く収蔵したプラド美術館の至宝、ゴヤやベラスケス、エル・グレコなどの傑作絵画の数々を、艶やかなテクニカラーの画面で順々に映し出すところから始まる。プラド美術館でそれらの名画の現物を実際に撮影するという、何とも贅沢で、映画ではおそらく初めての試みとなる光栄な機会に浴することができたのは、シーゲルの情熱と予期せぬ幸運のおかげ。当初、プロデューサーを通じて同美術館に撮影許可を願い出たものの却下され、それでもなお、その夢をぜひ実現させたいと、暇を見つけては美術館に足を運んでいたシーゲルは、彼の監督助手に就いていた現地の青年が偶然にも美術館の館長と知り合いと判り、彼の口利きによって意外にもすんなり撮影許可を得ることができたという。 ちなみに、上記の名画の数々をバックにしたクレジット紹介での本作の監督名義は、略称・愛称のドンではなく、ドナルド・シーゲル。ついでにここで明記しておくと、この『スパニッシュ・アフェア』のデータ資料に関して、本来頼るべきインターネット・ムービー・データベースでは、本作の共同監督として、シーゲルのほかにもう一人、スペイン人のベテラン映画監督ルイス・マルキーナの名前が挙げられていて、それに準拠する形で、本作を共同監督作品とする情報資料が一部で流通している。しかし、実際に本作の冒頭のクレジット画面で確認したところでは、マルキーナはスペイン側の製作スタッフの筆頭にテクニカル・アドバイザーとして記載されているのみで、シーゲルに関する文献資料を参照してみても、この人物に関する言及は一切ない。ことによると、スペイン本国では、この人物が後から部分的に監督を務めて、別バージョンという形で『スパニッシュ・アフェア』を公開している可能性もなきにしもあらずと思い、ネットの画像検索で本作に関する各国の映画ポスターを見比べてみたが、やはりこのマルキーナが監督としてクレジットされているものは見つからなかった。従って、この『スパニッシュ・アフェア』は(少なくとも今回の放映版に関する限り)、シーゲルの単独監督作とみてまず間違いないだろう。 さて、本作の物語の主人公となるのは、スペインのマドリードへとやって来たひとりのアメリカ人建築家。この地に建設すべく彼のデザインした現代的なホテルの設計案が、どうもこの国の景観や風土には馴染まないとして、スペインの首脳役員たちから難色を示されていることを知った主人公は、改めて役員たちのもとへ出向いて彼らを説得しようと、ロマの血を半分引く美しいスペイン人女性を通訳に伴って、セゴビアやバルセロナ、トレドなど、スペイン各地を回るドライブの旅へ出発する。次第に2人は心惹かれ合うようになるが、さらにここに、彼らのあとを執念深くつけ回すロマの青年が絡んで、嫉妬と愛憎に満ちた波乱の恋愛劇が3人の男女の間で展開していくこととなる。 アメリカ人建築家の主人公を演じるのは、先にサミュエル・フラー監督の『拾った女』(53)でアカのスパイを演じ、後にはブロードウェイ・ミュージカルの「ラ・マンチャの男」やTVドラマの世界でも活躍して多くの賞に輝いた実力性格俳優のリチャード・カイリー。一方、ロマの血を引く美しいヒロインを演じるのは、当時のスペイン映画界で数多くのヒット作に主演し、得意の歌や踊りもしばしば披露して高い人気を誇ったというカルメン・セビージャ。本作の劇中でも、見事な歌やフラメンコ・ダンスを披露して観客を楽しませてくれる。 ■次第に浮き彫りとなる、シーゲル映画お馴染みのテーマと世界観 異国の地スペインで、さまざまなカルチャー・ギャップに遭遇して戸惑いつつ、なお懸命に奔走する主人公の姿を、シーゲル監督は軽妙かつユーモラスに描き出していく。役員の一人が所有する広大な牧場で、アメリカのカウボーイとしての知られざる本性と自負を見せ、スペイン式闘牛に敢然と挑む主人公。あるいは、スポーツカーに乗って道を猛スピードで走る主人公と、そんな彼を通せんぼするかのように、道幅いっぱいに広がってのんびり悠然と進む山羊の群れ。そして、それらの体験を通じて、カイリー演じる主人公は、次第に挫折と自らの無力感をまざまざと味わうことになる。その一方で彼は、カタルーニャの伝統的な民族舞踊サルダーナを、セビージャ演じるヒロインや大勢の人々とひとつの輪になりながら楽しく踊ったり、あるいは、ヒロインがふと口ずさむロマの歌を一緒にデュエットしたりするうち、軽やかな自由と解放感に浸った新たな自己を見出すことにもなるのだ。 モダンな建築デザインの利便性と機能性を強調して翻意を促すアメリカ人建築家の主人公と、時代を超えて残る大聖堂を話の引き合いに出しながら、多少古めかしくても、それには固有の歴史と伝統があり、また人々の篤き信仰と愛と美があると、どこまでも悠然と構えて、主人公の懸命の訴えにもなかなか首を縦に振ろうとしないスペイン人の役員たち。その両者の姿は、今日におけるグローバル・スタンダードとローカル・アイデンティティとの対立の構図を先取りしていて、さらにこれを、自分たちの価値観を他にも無理やり押しつけようとする文化帝国主義と、それに対する抵抗の闘い、と言い換えることもできるだろう。 そして、いささか強引にこう整理してみると、一見ゆるい観光ロード・ムービーのような本作が、実は何を隠そう、あの『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』の戦慄的な世界をまさに裏返しにした、まぎれもないシーゲル映画の一本であることに、映画ファンならば次第に気づくはずだ。この映画では、人間が本来持つ感情をすっぽり欠落させたまま、外見だけはそっくりそのまま人体を乗っ取ってひそかに地球侵略を企む異星人たちに対し、ケヴィン・マッカーシー演じる主人公が必死に最後の抵抗を試みるわけだが、本作ではむしろ、本来の人間的な感情やゆとりを失って硬直した態度を見せているのは主人公のカイリーの方であり、スペインでさまざまな異文化の洗礼を受けるうち、ようやく彼も本来の人間らしさを取り戻していくようになるのである。 本作と『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』との興味深い符合を示す、一つの決定的に重要なモチーフがある。これは、後者では映画最大の山場において生じ、そしてこの『スパニッシュ・アフェア』においても、物語の終盤、主人公とヒロインとの関係が一つの大きな転機を迎える場面で生じる出来事なので、ここではあえて詳細は伏せ、ぜひ見てのお楽しみとしておこう(実はさらにもう一つ、本作のラストでは、セビージャ扮するヒロインが、これまたシーゲルの後年の有名作の最後で主人公が示すのとほぼ同じ身振りを、いち早く先取りして披露しているので、これもぜひお見逃しなく!)。 ちなみに、本作の脚本を手がけたのは、先にシーゲルとは『中国決死行』や『第十一号監房の暴動』でもコンビを組んでいたリチャード・コリンズ。彼の推薦によってシーゲルが本作の監督を務める運びとなったものの、シーゲルは、コリンズの脚本の出来には最初から不満で、まだまだ手直しが必要だと考えていた。しかし、本作のプロデューサーがコリンズの脚本をそのまま気に入って、手直しすることを一切許さなかったため、シーゲル自身は、本来ならもっとずっといい映画が作れたはずなのに、と悔いの残る作品になったという。 最初から作品のアラが見えていたのに、それでもシーゲルが、本作の監督の役を引き受けたのは、彼にとっては初めて6ケタに届いたギャラの支払いが良かったそうで、「俺はこれまで娼婦になったことはなかったのに…」とは、自伝でのシーゲルの自嘲気味の捨て台詞。それ以上の詳しい裏事情は、自伝ではよく分からないが、以前、本欄で『紅の翼』(54)のことを解説した際に拙文の中で紹介したように、その映画の中に出演している元モデルの女優ドウ・アヴェドンとシーゲルが結婚したのが、まさにこの映画が作られた1957年のこと。きっと、これが大きく関係しているに違いない。ちょっとした小遣い稼ぎにスペインまで遠出、といえば、1960年代半ば、この地で撮影されるマカロニ・ウェスタン3部作で一躍人気スターとなるクリント・イーストウッドの先導役を、ここでシーゲルが図らずも務めていたというのも面白い。 ストーリーに目をつぶった分、他の部分に心血を注いで映画作家としてのプライドを見せつけた、ということなのかどうかは知らないが、シーゲルは、彼お得意の高低差を活かしたスリリングなアクション・シーンを後半に配してドラマを存分に盛り上げるほか、中盤のある場面では、実に思い切った大胆不敵な演出とカメラワークを採用している。それは、バルセロナの夜の街路を、カイリーとセビージャの主役2人が連れだって歩きながら会話する場面。何気なく眺めていると、つい見落としてしまいそうになるが、ここでシーゲルは実に3分半近くにもわたって、彼らの姿を延々と長廻しの移動撮影により、ワンショットで撮り上げているのだ! うーん、さすがはシーゲル。これだから決して目が離せない。 かくして、シーゲル探究の楽しくも険しいわが映画修行の人生は、まだまだこれからも続くのであった…。■ COPYRIGHT © 2015 BY PARAMOUNT PICTURES CORPORATION. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2015.09.22
【DVD/BD未発売、ネタバレ】実在の保安官が愚直に悪と対峙。今は亡き女優たちの熱演と共に心に刻みたい快感と痛みが相半ばする伝説の復讐劇〜『ウォーキング・トール』〜
1973年と言えばハリウッド映画に暴力が渦巻いていた時代。俺の正義に則って暴力を行使して何が悪い?!と言わんばかりに、凶悪犯に平然と銃口を向けたのはサンフランシスコ市警察のはぐれ刑事『ダーティ・ハリー』(71)だったが、本作『ウォーキング・トール』で主人公、ビュフォード・パッサーが敵に回すのは生まれ故郷のほぼ町全体。かつて平和だったホームタウンを牛耳る得体の知れないならず者集団だ。やがて始まる反抗→制裁→復讐の執拗なループは、個人が集団相手に喧嘩を売るリベンジマッチが大好きな多くの映画ファンにとって、絶好の"ストレス発散サンドバッグ"となるだろう。 出来レースが常識のプロレス界に失望した元レスラー、ビュフォードが妻子を伴い帰郷してみると、懐かしい故郷テネシー州マクネアリ郡には売春宿とカジノが同居した怪しげな社交場"ラッキースポット"が店開きし、そこには町中の男たちが出入りしていた。お客も娼婦も全員見た目熟年風なのは、今と比べて人間の熟成速度が早かった時代の特色としてスルーするとして、ビュフォードは早速、カジノのディーラーのイカサマを見抜き、経営者等と殴り合いに。さすがプロレスに向かなかった正義漢らしい反応なのだが、彼がここで被る暴力のレベルがいきなり凄い。奴らはビュフォードをボコボコにした後、ナイフで胸と背中をズタズタに切り裂いた挙げ句、雨の国道に放置してしまうのだ。結果、200針も縫う大怪我を負うも、ビュフォードは見事復活。こん棒片手に!、単身売春カジノに乗り込み、悪者たちの急所を的確に殴打した後、所場代として支払った3630ドルだけキャッシャーから取り返し、暴力を振るった罪で逮捕される。待ち受けていたのは、金で買収された判事と、当初からビュフォードの帰還を快く思っていなかった保安官と警官チームだ。しかし、裁判を傍聴する陪審員たちに、言われなき暴力によって受けた胸の傷を見せながら自らの正当性を訴えたビュフォードは、見事無罪を勝ち取り、勢いで保安官選挙に立候補し、当選してしまう。 エンドロールの前に、お約束の「これは事実に基づいたフィクションです」との断り書きはあるものの、ベースになっているのは1964年にテネシー州マクネアリ郡で保安官に選出された実在の人物、ビュフォード・パッサーのリアル武勇伝。(あまくまで)記録によると、保安官在任中に8回撃たれ、7回刺され、1度に6人と格闘し(冒頭のカジノ殴り込みシーンと思われる)、3人を刑務所送りにし、3人を病院送りにしたという伝説的な人物だ。それを証明するように、劇中でもビュフォードの不治身ぶりはスーパーヒーロー並みだ。冒頭の200針縫い生還劇を筆頭に、例えば、深夜の国道を猛スピードで通り過ぎた暴走車をスピード違反で検挙しようとして、正面から銃弾を浴びるも、奇跡の生還とか、妻を助手席に乗せて走行中に襲われ、妻は死亡するも、自らはまたも奇跡の生還とか。 それらはある程度盛られている可能性は否めないものの、反面、ビュフォードが自ら実践し、数少ない部下たちに説き続ける"法と秩序の遵守"と"いかなる賄賂も拒否"の基本理念は、悪が堂々と蔓延っていた1970年代も今も変わらぬ人としての倫理感。過激すぎるバイオレンスが連打される中で、揺るぎないメッセージとして伝わってくる。 物語の背後に広がるアメリカ社会の深い闇が、痛快なリベンジ劇をさらにリアルなものにしている。帰郷直後にビュフォードが面会に訪れる幼馴染みのオブラは、黒人故に差別されてきた経験から、「お前にも少数派の気持ちが分かるか?」「1人では何も出来ない。団結することが必要だ」と吐き出す。舞台になるテネシー州最大の都市、メンフィスは、かつて、1968年4月4日にマーティン・ルーサー・キング・ジュニアが暗殺された地であり、隣接するアラバマ州セルマはキング牧師等が黒人有権者登録の妨害に抗議して行進を始めた、言わば公民権運動発祥の地。そんな今も昔も変わらない封建的で排他的且つ危険な土地で、ビュフォードはオブラを副保安官に指名し、黒人たちに重労働を課して暴利を貪る白人密造酒業者を令状なしで摘発する。 彼がこん棒を持って立ち向かう相手はそれだけではない。平和な街を賄賂によって頽廃させた"ラッキースポット"のオーナーとその仲間は、州都ナッシュビルの大物(恐らく州議会議員)をも金で取り込み、圧倒的優位を以てビュフォードを圧殺しにかかる。 そんな劣勢をただ愚直に正義感のみで跳ね返そうとするなど狂気の沙汰ではないか!?無謀な反撃を続ける夫を心配する妻のポーリーンに対して、オブラは『あいつらと戦うには狂気と拳銃しかない』と静かに言い放つのだが、正義を支えるものが狂気以外あり得ないという現実が、殴るほどにサンドバッグの中からこぼれ落ちて来る。これは見た目痛快でも、中身は暴力と差別の連鎖を断ち切れない民主主義国家、アメリカのダークサイドがアッパーカットのように心を浸食する、けっこう痛い復讐劇なのだ。 裏話を少し。本作が予想外にヒットしたために、配給元のユニバーサルはビュフォード本人を主役に据え、タイトルも『ウォーキング・トール(胸を張って堂々と歩くの意)』から原題をズバリ『ビュフォード』に変えてシリーズ化を発表するが、その直後、ビュフォードは不運にも交通事故によって36歳の若さで他界してしまう。その結果、ガードンマン出身の巨漢俳優、ボー・スベンソンを新たな主役に迎え、『ウォーキング・トール2/新・怒りの街』(75)と続く『ウォーキング・トール3/続・怒りの街』(77)が製作された。時を経て、アメリカンプロレスWWEのCEO、ビンス・マクマホンが製作し、同組織のスーパースター、ザ・ロックが主演したリメイク作品『ワイルド・タウン/英雄伝説』(04)は、ザ・ロックの超人ぶりが誇張された荒唐無稽な活劇映画として世に放たれる。そこには、オリジナルが漂わせる閉塞感と絶望感は当然如く皆無だった。 『ウォーキング・トール』が漂わせる不思議なリアリティの原因は、ビュフォードを演じるジョー・ドン・ベイカーにあるような気がする。ベイカーのいかにも腕力に長けていそうな無骨さと、笑うと崩れるベビーフェイスが醸し出すアンバランスは、アクションスターにまず無駄な筋肉量を求めがちな今のハリウッドに絶えて久しい"普通の人"を想起させずにはおかないからだ。だからこそ、そんな普通人を狂気に駆り立てる悪意が際立つのだと思う。現在79歳のベイカーは『007』シリーズのヴィラン役等で今も活躍しているが、劇中でビュフォードがほのかな恋心を抱く娼婦、ルーアンを魅力的に演じるブレンダ・ベネットは、当時結婚していたTVシリーズ『超人ハルク』の主演俳優で夫のビル・ビクスビーを残し、1982年に自殺。ビュフォードの妻、ポーリーンを演じるエリザベス・ハートマンも、1987年にビルの5階から飛び降りて非業の死を遂げている。今は亡き女優たちの在りし日の姿を目に焼き付けつつ鑑賞したい、快感と痛みが相半ばする伝説的バイオレンス映画である。■ © 2015 by Paramount Pictures Corporation. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2015.09.09
【DVD/BD未発売】日本での劇場公開もソフトのリリースもなし。アメリカから届いたマイナー映画の力作をこのチャンスに是非!〜『ファミリー・ウィークエンド』〜
そもそも、ハリウッドのメジャーカンパニーはシリーズ映画のプリクエルかリブートしか作ってないのだ!と言ったら叱られるだろうか? それはさて置き、そんな知名度優先のハリウッドでも、年に数本、スター不在のシリーズ映画ではないオリジナル作品が細々と製作され、それなりの評価を得ている。『ファミリー・ウィークエンド』はまさにそんな1作だ。配給元としてクレジットされているBedford Falls Companyの過去作を調べてみら、ジェイク・ギレンホールとアン・ハサウェイがバイアグラの営業マンと若年性アルツハイマーを患う女性との恋を描いた『ラブ&ドラッグ』(10)にヒットした。なるほど、さもありなん。『ファミリー~』も頑張り屋の女子高生が両親を拘束するという危ない設定から、観客を一気に想定外の領域へと誘う異色コメディに仕上がっている。こんなチャレンジングな企画にGOサインを出せるのはインデペンデント系ならでは。全米公開から2年以上が経過した現時点で、日本での劇場公開もソフトのリリースもされてないので、映画好きにとってはお得感満載だ。 舞台は雪深いアメリカ、ミシガン。ある冬の朝、郊外に建つ瀟洒な豪邸で目覚めた主人公のエミリーが、家族の目に付きそうな場所に高校の縄跳びコンテストまで時間が迫っていることを記したメモを貼り付けている。なぜなら、今の家族は全員バラバラで、自分がコンテストで優勝しようがしまいが知ったこっちゃないことをエミリーは知っているから。案の定、見事優勝を勝ち取り、州大会へとコマを進めたエミリーを祝福する家族の姿は会場にはなかった。そこで、エミリーは一計を案じる。こうなったら、パパとママを睡眠薬で眠らせてから拘束し、もう一度夫婦とは、親とは、家族とはどうあるべきかを自らレクチャーしようと!?勿論、一歩間違えば、否、確実に罪に問われることを承知の上で。 果たして、エミリーの"両親拘束計画"は再び家族をひとつに束ねることになるだろうか?という、大方の道筋はインデペンデント系とは言えハリウッド映画の王道を外さないのだが、製作、監督、脚本各々の担当者がTVドラマに精通しているせいか、とにかくキャラクターの描き方が巧い。まず、今や立派なスポーツとしてギネスにも登録されているスピード縄跳び(1分間に何回飛べるかを競う)に熱中しているエミリーは、映画の冒頭から一点を見つめて小刻みに縄を飛び越える姿に象徴されるように、とにかく一所懸命で一途。家族を再生させるためなら命すら捨てそうな勢いでストーリーも牽引して、終始スピード感に溢れたメインキャラだ。そんなエミリーに負けず劣らず、問題の家族も曲者揃い。パパのダンカンはここ数年絵らしい絵を描いてない落ち目の画家で放任&自由主義者、ママのサマンサはそんな夫に脇目もくれず家にも堂々と仕事を持ち込むワーカホリックな広告ウーマン、兄のジェイソンは映像アーティストの自称、ゲイ、妹のルシンダは常に『タクシー・ドライバー』(76)でジョディ・フォスターが演じた少女娼婦を模している映画かぶれ、弟のミッキーは動物オタク、と言った具合に。 しかし、キャラクターは風変わりなまま放置されると意味をなさない。まるで拡散したまま元に戻るようには思えになった彼らが、歌好きのお祖母ちゃん、GGの提案で片手に縫いぐるみを持ってリビングに集まり、拘束されたままの両親を囲んで、縫いぐるみを介してそれぞれの胸の内を吐露し合った時、丸い輪を形成し始める。実はみんな、バラバラな家族の中で何とか自分の居場所を見つけ、藻掻いていたことが露わになる。そう、エミリーの無謀な計画は無駄ではなかったのだ。 そんな家族再生ドラマとしての側面に加えて、本作にはもう一つ重要なテーマがある。ギネス級とは言えマイナーなスピード縄跳びにはまっているエミリーも、未だフラワーチルドレンなパパも、仕事に飢えているママも、ゲイを装った映像作家の兄も映画や動物にぞっこんの弟妹たちも、全員イカれているけれど、夢中になれるものがあるステキな面々。そこには、たとえ世間一般の倫理を逸脱していようとも、常識
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COLUMN/コラム2015.09.05
フェデリコという大いなる存在 ~スコーラの見たフェリーニ~
今年6月にエットレ・スコーラ監督の最新作『フェデリコという不思議な存在』(2013)がようやく劇場公開された。1931年北イタリアのトレヴィコ生まれのスコーラは、イタリア式喜劇の正統的な継承者として知られる名匠であり、本作完成時には既に82歳の高齢になる。フェデリコ・フェリーニ(1920年リミニ生まれ)に対する敬愛の情溢れるこの伝記映画でも触れられていたように、スコーラが11歳年長の先輩監督との知遇を得たのは、ユーモア誌『マルカウレリオ』の寄稿家時代だった。 1931年ローマで創刊された『マルカウレリオ』は、戦中の1943年に一時休刊に追い込まれたものの、戦後直ちに復刊され、1958年に廃刊されるまで<ユーモアの殿堂>として屹立した。1947年、まだ16歳の高校生だったスコーラが同誌の編集部に通い始めた時の先輩ライターの中には、フェリーニの他に、ステーファノ・ヴァンツィーナやフリオ・スカルペッリ、ヴィットリオ・メッツら、監督や脚本家として、50年代以降のイタリア式喜劇の中心的なメンバーとして活躍することになる錚々たる面子が揃っていた。ほとんど一回りという年齢差にも関わらず、『マルカウレリオ』誌におけるフェリーニとスコーラの共通点は、ギャグマンとしてのみならず、イラストレーターとして諷刺画(カリカチュア)も手がけ、類希なる造形力の片鱗を覗かせていたことだろう。 実はスコーラが自作の中でフェリーニを登場させたのは、今回が初めてではない。スコーラの代表作『あんなに愛しあったのに』(1974)は、第2次世界大戦中にレジスタンス(対独抵抗運動)の同志だった3人の男性を通して眺められた戦後イタリア史であり、ネオレアリズモの伝統を継承することを改めて宣言した映画である。 そもそもロベルト・ロッセリーニの『無防備都市』(1945)に端を発するネオレアリズモは、第2次世界大戦末期のレジスタンスから始まり、敗戦直後のイタリア社会の抱える諸問題(失業や戦災孤児)に向き合った作品群を指した。『マルカウレリオ』誌での活動と並行しながら、ラジオや映画へと仕事を広げたフェリーニは、『無防備都市』を始めとするロッセリーニ作品の脚本家を経て、ネオレアリズモの分化が顕著となった1950年代に監督デビューを果たしたのだった。 『あんなに愛しあったのに』の3人の登場人物、実業家として成功するジャンニ(ヴィットリオ・ガスマン)、救命士となるアントニオ(ニーノ・マンフレディ)、売れない映画評論家となるニコラ(ステーファノ・サッタ・フロレス)は、ブルジョアジーとプロレタリアート(労働者)、そしてインテリゲンツァ(知識人)の各階級を代表しながら、ネオレアリズモ以降の戦後史を背負って行く。こうした些か類型的な人物造形が、屡々<自伝的>と称されるフェリーニの諸作にも通じることは明らかだが、<ブーム>と呼ばれたイタリアの高度経済成長期を代表する映画として劇中で取り上げられたのが、フェリー二の『甘い生活』(1959)に他ならない。 故郷のリミニで過ごした自堕落な下積み時代に取材した『青春群像』(1953)、ジャーナリストとして目撃した現代ローマのデカダンスを活写した『甘い生活』、そして映画監督として掴んだ栄光とその失墜に対する恐れと慄きの告白である『81/2』(1963)の3作は、フェリーニの実人生の3つの局面に対応する<自伝的な>側面を備えたフィクションである。なかでも、<パパラッツィ>という言葉を世間に広めた『甘い生活』は、当初『青春群像』の主人公モラルド(フランコ・インテレンギ)の後日談として構想されながら、<ラテンの恋人>マルチェッロ・マストロヤンニが起用されることで、ストーリーの一貫性よりも場面ごとのスペクタクル性が前面に押し出される一方で、ネオレオリズモの方法をイタリア社会から個人の内奥へと転じた傑作となった。 <ブーム>に沸き立つローマを現代のバビロンに見立てた『甘い生活』は、ヘリコプターに吊り下げられたキリスト像という意味深長な開幕の後、魅惑的なスペクタクル・シーンの連続が観客を陶酔の渦に巻き込まずにはおかないだろう。とりわけ、主人公マルチェッロの同行取材の最中に、ハリウッド女優(アニタ・エクバーグ)が深夜の<トレヴィの泉>で水浴びをする件は、嘆息なしに見られない名場面として長く記憶されることとなった。 フェリーニ作品に登場する女性像としては、(私生活における細君でもある)小柄で愛くるしい聖女タイプのジュリエッタ・マシーナと、グラマラスで扇情的な娼婦タイプのエクバーグが双璧をなしているが、スウェーデン出身のセクシー女優に過ぎなかったエクバーグが、永遠のイコンとして映画史に刻まれた瞬間だった。フェリーニ晩年の『インテルビスタ』(1988)では、すっかり歳を召したエクバーグが再登場し、マストロヤン二と一緒に往年の美貌を懐かしがってみせたが、惜しむらくも本年1月に逝去している。 『甘い生活』の15年後に完成された『あんなに愛しあったのに』の中で、スコーラはこの<トレヴィの泉>の撮影現場を再現し、(幾分頭髪の寂しくなりつつあった)フェリーニ本人を登場させるという荒業をやってのけた。若き日のフェリーニは痩身の美男子で、ロッセリーニのエピソード映画『アモーレ』(1948)では、俳優として顔見せしたこともあったほどが、TV用映画『監督ノート』(1969)以降、すっかり恰幅の良くなった体躯をカメラに晒すようになる。<自伝的なフィクション>から、映画の中で映画についての考察を促す<自己反省的なメタ映画>へと、フェリーニの作風が変わりつつあった。 監督本人がスクリーンに登場し、映画製作について(虚実を織り交ぜつつ)あけすけに語り始める。こうしたメタ映画をひとつのジャンルとして定着させたのは、フェリーニの功績と言ってよいだろうし、監督がスター化すると同時に、脚光を浴びたのがチネチッタ撮影所だった。1937年、ムッソリーニ政権下に開設されたチネチッタ撮影所は、50年代から60年代にかけてはハリウッドの大作史劇の製作を支えたものの、映画産業の斜陽化が顕在化した70年代に入ると、経営的な苦境を迎えることとなる。そうした逆風の時代にあって、類まれなる造形力を発揮する工房として、チネチッタを愛用したのがフェリーニであり、フェリーニを敬愛するスコーラであった。 『フェデリコという不思議な存在』では、チネチッタ最大級の第5ステージに焦点が当てられ、背景であるべきスタジオが前景化されている。TV番組のスタジオと化したチネチッタを題材にした『インテルビスタ』は元より、『オーケストラ・リハーサル』、『カサノバ』、『そして船は行く』など、後期のフェリーニ作品は、殆ど撮影所の外に出ることを自ら禁じるかのように演出されている。港町のリミニに生まれたフェリーニの作品では、<海>が重要なモチーフとして繰り返し登場するが、ネオレアリズモの後継者としてロケーションを重用した初期から、巨匠としてチネチッタに君臨した後期まで、フェリーニの描く<海>がどのような変遷を辿るのかに着目してみるのも一興かも知れない。■ (西村安弘) © Rizzoli 1960
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COLUMN/コラム2015.08.15
来夏公開! リメイク版『ゴーストバスターズ』の偉大なる前日談〜『ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン』〜
中西部の地方都市に住むアニーは、起業に失敗して貯金もゼロの30代半ばの独身女子。楽しみと言えば幼馴染みのリリアンとバカ話をすることだけだった。そんなある日、リリアンから結婚することを告白された彼女は、ブライズメイズ(新婦介添人)の代表を頼まれて、喜んで引き受ける。でも不器用な彼女は失敗ばかり。加えて新郎の上司のセレブ妻でなんでも器用にやってのけるヘレンの存在が引き金となって、リリアンに先を越された寂しさと焦りが爆発。ブランチ・パーティをぶち壊して、ついにはリリアンと大喧嘩をしてしまう。はたして二人の友情は元通りになるのだろうか…。 結婚式の介添人が大騒動を引き起こすというプロットが、『ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』を彷彿とさせたため、“女版ハングオーバー!”との前評判の中、2011年に米国で公開されてメガヒットを記録したのが『ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン』である。でも見終わったあとで「『ハングオーバー! 』とそっくり」と感じる観客はまずいないはず。何て言うか、もっと痛くて切ないのだ。 ティーンの頃に思い描いた未来の可能性は年々閉ざされていく。その一方で同世代の友人たちは結婚して大人へのステップを上っていく。本作はあらゆる角度から追いつめられていくアニーの心理を執拗にほじくり返す。そこに男と女という違いは存在しない。三十代ボンクラというひとりの人間がただそこにいるだけである。バカの一つ覚えのように異性を「スイーツ」呼ばわりする男子も、この映画には魂の片割れを見いだして涙するかもしれない。コメディに冷淡なアカデミー賞で脚本賞にノミネートされたのも納得の完成度だ。 映画の発案者であり、主人公アニーを演じたのは「サタデー・ナイト・ライブ」史上最高の女性キャストとの呼び声高いコメディエンヌ、クリステン・ウィグ。彼女が、古くからの友人アニー・マモロと共同で書いた脚本を持ち込んだ先は、それまでも脇役として顔を出していた『無ケーカクの命中男/ノックトアップ』(07年)や『寝取られ男のラブ♂バカンス』(08年)といった映画の監督/プロデューサーだったジャド・アパトーだった。こうしたヒット作を通じて、男同士の友情をメインにした”ブロマンス映画”というジャンルを確立したアパトーは、その方程式を女子に応用したウィグの脚本を絶賛。テレビドラマ『フリークス学園』以来の盟友ポール・フェイグを監督に指名して映画を現実のものとしたのである。 コメディ映画としての本作の大きな特徴は、ギャグのボケをすべて女優がこなしているところにあるだろう。しかも生半可なギャグではなく、セックス、ゲロ、ウンコ絡みのギャグがふんだんに飛び出す過激なものだ。そんなコメディ映画はそれまでハリウッドには存在しなかった。「女性が悲惨な目に遭っても男のようには笑えない」という認識が世間では一般的だからである。普通の監督なら出演者の一部を男優に差し替えるところだろう。しかしポール・フェイグはウィグとともに「悲惨な目に遭っても笑える」最強の女性キャスト陣を選んだのである。 まずアニーの親友リリアンを演じたのはマヤ・ルドルフ。名曲「ラヴィング・ユー」で知られるミニー・リパートンの娘で、ポール・トーマス・アンダーソン夫人でもある彼女は、実生活ではロサンゼルスのコメディ劇団「グラウンドリングス」時代以来のクリステンの親友。だから映画内の二人の友情はとても真実味が感じられる。 劇中最も難しいキャラであるイヤミなヘレン役に指名されたのは、オーストラリア出身の正統派美女ローズ・バーンだ。それまで『トロイ』(04年)や『28週後…』(07年)といったシリアス映画に出演しながら、いまひとつパッとしなかった彼女は、アパトーのプロデュース作『伝説のロックスター再生計画!』(09年)でイカれたポップスター役を好演。コメディ・センスを全面開花させた本作以降は、『ネイバーズ』(14年)や『ANNIE/アニー』(14年)といった作品で活躍。コメディ界に欠かせない人材になっている。 同じオーストラリア出身でも、アニーのルームメイトの妹を演じたレベル・ウィルソンはこの時点ではアメリカでの知名度はゼロだった。だが強烈な存在感を本作で示した彼女は、『バチェロレッテ あの子が結婚するなんて!』(12年)やパワフルな歌声も披露した『ピッチ・パーフェクト』(12年)、『ナイト ミュージアム/エジプト王の秘密』(14年)によってスターへの階段を駆け上っていった。年末に日本公開が予定されている『ピッチ・パーフェクト』(15年)は、すでに本国でメガヒットを記録しており、パート3の製作が早々と決定している。 こうした才人揃いの出演者の中でも最も観客の目を引いたのは、一番ヨゴレなメーガンを演じたメリッサ・マッカーシーだろう。それまでも『ギルモア・ガールズ』(00〜07年)や『サマンサ Who?』(07〜09年)といったテレビ・コメディの脇役として知られていたものの、まさか洗面室のシンクに跨って、苦痛に顔を歪めて便意と戦う!なんてギャグをやってのける人だとは誰も思わなかったはず。本作における爆発的な演技によってアカデミー助演女優賞にノミネートされた彼女は、特別出演したアパトー監督作『40歳からの家族ケーカク』(12年)や『ハングオーバー!!! 最後の反省会』(13年)でもシーンを一気にさらう怪演を披露。また当初は男の設定で脚本が書かれていたにも関わらず「男同士じゃありきたりだ」とのジェイソン・ベイトマンのアイディアによって、急遽彼の相棒役を務めることになったダブル主演作『泥棒は幸せのはじまり』(13年)は大ヒット。彼女が映画館に客を呼べるスターであることを証明した。 こうしたメリッサのスター化に伴って、監督ポール・フェイグとのコンビがレギュラー化した。サンドラ・ブロックと組んだ刑事コメディ『デンジャラス・バディ』(13年)、ジェイソン・ステイサムやジュード・ロウといった大スターを従えて主演を張ったスパイ・コメディ『SPY』(15年)は連続大ヒットを記録。後者ではローズ・バーンとのリユニオンを果たしている。 こうした作品によって一躍コメディ界のヒットメイカーとなったフェイグのもとに『ゴーストバスターズ』リメイク版の監督がオファーされたのは昨年のことだ。ビル・マーレイやダン・エイクロイド、ハロルド・ライミスといった80年代を代表する才能が集結していた傑作コメディを現代に蘇らせるには、一体どんなメンツが必要なのだろうか? 考えた末にポール・フェイグが声をかけた相手はクリステン・ウィグ、メリッサ・マッカーシー、そしてレベル・ウィルソンだった。ちなみに他のキャストは「サタデー・ナイト・ライブ」の現レギュラーであるケイト・マッキノンとレスリー・ジョーンズ、セシリー・ストロングといった面々。そう、全員女性なのだ。 このキャスティングはハリウッド中に大きな話題と物議を呼んだ。しかしフェイグは「面白いコメディアンを集めたら、たまたま女性ばかりだっただけだよ」と全く気にしていないようだ。映画は現在撮影中で来年夏に公開予定である。フェイグは決して奇をてらったわけではなく、このキャスティングに圧倒的な自信を持っているはず。それは、この『ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン』を観れば明らかだろう。■ Artwork © 2012 Universal Studios. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2015.08.09
芸術性と優れた脚本でジャンル映画ファンを魅了する、スパニッシュ・ホラーの世界
世紀末から新世紀にかけて、Jホラーが世界的に注目を浴びていた。ハリウッド映画は、すぐさまリメイク化や新たな才能を欲し、日本版のリメイク『ザ・リング』(02年)を作り、その続編『ザ・リング2』(05年)では、オリジナル版の中田秀夫を監督に抜擢した。さらに清水崇も、ハリウッド版リメイク『THE JUON/呪怨』(04年)とその続編『呪怨 パンデミック』(06年)の監督を手がけた。それ以外にもJホラーの世界躍進は凄まじかったが、それに負けず劣らずの勢いにあったのが、スパニッシュ・ホラーだった。 それ以前のスパニッシュ・ホラーは、独特なテイストで強烈なインパクトを放つものが多かった。稀代の怪優ポール・ナッチー主演の『ヘルショック 戦慄の蘇生実験』(72年)、イギリスとの合作による怪作『ホラー・エクスプレス/ゾンビ特急“地獄”行』(72年)、オリジナリティ溢れる『エル・ゾンビ』シリーズ全4作(71~75年)、『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド/ゾンビの誕生』(68年)の換骨奪胎版といえる『悪魔の墓場』(74年)、ナルシソ・イバニエス・セラドール監督の伝説的名作『ザ・チャイルド』(76年)など。 でもJホラーと共に世界的に脚光を浴びてきた現代のスパニッシュ・ホラーは、画家サルバドール・ダリや映像作家ルイス・ブニュエルらシュールレアリスムの芸術家を多数生んだお国柄を反映してか、恐怖の秀逸な設定と共にキメの細かな映像を重視し、多かれ少なかれ芸術性を感じさせるような濃密なドラマを構築している。 ペドロ・アルモドバルが発掘した異才アレックス・デ・ラ・イグレシアも代表的な映像作家といえるだろうが、現代のスパニッシュ・ホラーの起爆剤になったのは、新進気鋭のジャウマ・バラゲロの監督デビュー作『ネイムレス 無名恐怖』(99年)が注目されてからだと思う。バラゲロは次いでアメリカとの合作『ダークネス』(02年)を手がけ、スパニッシュ・ホラーの次代を担う監督に急成長した。 そして、『次に私が殺される』(96年)のスペイン映画界の鬼才アレハンドロ・アメナーバル監督が、大スターのニコール・キッドマンを主演に据え、スペイン・アメリカ・フランス合作の心霊映画の傑作『アザーズ』(02年)を発表し、バラゲロも人気TVシリーズ『アリー・myラブ』(97~02年)のキャリスタ・フロックハートを主演に迎えた『機械じかけの小児病棟』(05年)を手がけた。またバラゲロ、セラドール、イグレシアら全6人の監督が競作したアンソロジー『スパニッシュ・ホラー・プロジェクト』(06年)が作られ話題にもなった。さらにメキシコ出身で世界的なヒットメイカーになったギレルモ・デル・トロはスペイン映画にも参画し、『デビルズ・バックボーン』(01年)やオスカー受賞作『パンズ・ラビリンス』(06年)を監督しつつ、『永遠のこどもたち』(07年)や『ロスト・アイズ』(10年)等でスペインの才能ある若手監督を抜擢してきた。 現代のスパニッシュ・ホラーは、比較的脚本が素晴らしく、作品のクオリティも高い。ジャンル系映画ファンの熱い支持を獲得し、なかでも中核をなすバラゲロの知名度は格段に高い。特に彼の『機械じかけの小児病棟』は、娯楽性と芸術性を融合させた秀作で、英国の小さな島にある閉鎖寸前の病院を舞台に、時の流れと切ない思いが繊細に練り込まれた濃密な恐怖ドラマを堪能することができる。 過去の失敗で心に傷を負った臨時の看護師エイミー(フロックハート)は、不治の病を患う少女マギーと親しくなり、彼女が言う、“機械の少女”の謎を調べてゆくと……。 長らく封鎖されている病院の2階、子供患者の骨が突然折れる怪異な現象、前に在籍した女性看護師の急死、古びた記録フィルム、アニメ『眠れる森の美女』(ディズニー・アニメではなく、本作のために製作)など、これら全ての要素がドラマを形作る要素になっていて、まったくもって無駄がない作りだった。 次いで、バラゲロがパコ・プラサ(別名義フランシスコ・プラサ)と共に、当時注目されていたPOV(主観映像)手法で監督したのが、『REC/レック』(07年)だった。若い女性リポーターのアンヘラとTVカメラマンが、一台のTVカメラのレンズを通して、未知の感染ウィルスによってアパートの住民らが次々とゾンビのように変貌してゆく様を捉えていて、切迫した恐怖がストレートに伝わってきた。一瞬の迷いや躊躇が命取りになる凄、まじい緊迫感と展開により、観ているコチラが疲労感を味わうほどだ。この作品は世界的に大成功を収め、複数台のPOVによって、アパート内外の状況を捉えた続編『REC/レック2』(09年)が作られた。 そして、バラゲロがクリエイティヴ・プロデューサーにまわり、パコ・プラサの単独監督になった『REC/レック3 ジェネシス』(12年)では、雰囲気が一変。設定は、前2作とほぼ同時間帯の結婚披露宴会場に移り、そこがウィルスによって地獄の惨状になる。ジェネシス=“起源”といえる明確な描写はないものの、1作目で未知の病気にかかった犬の目撃情報があり、3作目では新郎側のペペ叔父さんが、「病院で犬に咬まれた」と言っていた。だから1作目でアパート周辺に徘徊していた犬と、3作目で病院に現れた犬は同じ犬だった可能性が高い。 1作目では、人間の凶暴化は未知のウィルスだと最初は思われていたが、2作目になると、アパート最上階の研究室が、悪魔によるウィルスに対抗するワクチン開発のための極秘施設だと判明する。バイオホラーからオカルトホラーへと奇妙な変貌を遂げる離れ技と、悪魔に憑依された少女メデイロスの血を求める神父を新たに登場させ、神父VS悪魔の図式を打ち立てていた。ここで1と3作目でウィルスを放った(と思われる)犬の存在が、ある意味、悪魔のしもべのような見方もできる。まるで『エクソシスト』(73年)や『オーメン』(76年)などの大好きなジャンル系映画のテイストを盛り込んだともいえるだろう。 3作目では、冒頭のみPOV構成だったが、途中から通常の演出に切りかわり、広い会場で離れ離れになってしまった新郎新婦の“逢いたい”というそれぞれの熱い想いが、感染者らを次々と駆逐する。特に純白の花嫁衣裳をまとった新婦クララが、チェーンソーで長いドレスの裾を切り落とし、感染者を次々と斬り刻みながら、白いドレスを鮮血で染めあげてゆく姿が美しかった。1~3は物語に関連性をもたせながらも、一作毎に異なる要素を盛り込んでいた。しかし3作目では、1、2作目のヒロインのアンヘラは出てこないし、舞台は違うし、前2作との雰囲気があまりに異なっていた。 でもタイトルのRECは、録画や記録の意味。1作目では、TV局の取材側が尋常ならざる渦中に陥り、撮影しなくてはならないという、アンヘラとカメラマンの半ば本能や使命みたいな気持ちが感じられた。2作目ではアパート内部に潜入した特殊部隊員らの小型携行カメラをはじめ、アパート外部の報道カメラや携帯電話のカメラなど、それぞれ異なる意図で撮影されたPOVで構成されていた。いまや動画カメラの氾濫により、誰もがいつ何どき、撮影する側や撮影される側になるとも限らない、異常な社会を感じさせる。 そして3作目では、おそらく人生で最も輝いているだろう“結婚と結婚披露宴”の幸せそうな主役(新郎新婦)を記録する(映す)ことで、その後の展開のみならず、前2作との違いが浮き彫りになってくる。そこに面白味があるし、3作目の物語の深みであろう。バラゲロ単独監督のシリーズ4作目もあるが、まずは1~3作目のそれぞれの魅力を堪能して欲しい。■ ©2007 CASTELAO PRODUCTIONS, S.A.
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COLUMN/コラム2015.08.03
サービス精神に溢れた究極の脱走映画〜『脱走特急』〜
戦争映画というジャンルの中でも、傑作率が非常に高いカテゴリーがいくつかある。よく言われるのが「“潜水艦モノ”にハズレ無し」。『眼下の敵』(1957年)、『Uボート』(1981年)、『U-571』(2000年)といった第二次世界大戦を舞台にした映画だけでなく、『レッド・オクトーバーを追え』(1990年)や『クリムゾン・タイド』(1995年)、『K-19』(2002年)のような現代劇でも潜水艦モノは傑作揃いだ。潜水艦という限定された空間で、登場人物も限定される潜水艦モノは、“密室劇”としてサスペンスフルな展開が作りやすく、その辺りがハズレの少ない映画となりやすい土壌となっているのであろう。また前述の『眼下の敵』や『Uボート』のようなジャンルを代表する大傑作によって、このカテゴリーの作品のフォーマットがある程度完成形となっていることも大きな要因であると思われる。 そして“脱走モノ”というカテゴリーもまた、戦争映画というジャンルの中では傑作率が高いカテゴリーとなっている。潜水艦モノとはまったく真逆で、バラエティ豊かな大量の登場人物と、まったく制約の無い完全なオープンフィールドで物語が進む脱走モノは、自由度が非常に高いことでともすれば難易度は上がることが想定される。しかし潜水艦モノと同じように、このカテゴリーの先達にして最高峰となる『大脱走』(1963年)という存在によって、脱走モノのフォーマットが完成してしまっていることもあり、後続の類似作品はそのフォーマットをなぞることでハズレの無い作品が成立しやすくなっているのだ。 しかし後続の作品群の中でも傑作とされる作品は、『大脱走』をなぞりながらも、差別化を図るために様々な蛇足(と言ったら失礼だが)を加えている。『脱走山脈』(1968年)は脱走するのが人だけではなく、動物園で殺処分されそうだった象と共にスイスを目指す映画であったし、収容所内で飛行機を作って脱出を図る実話を基に制作された『空中大脱走』(1971年)、『勝利への脱出』(1980年)は“脱走”にサッカーを組み合わせるというウルトラCを成功させた痛快作だった(『大脱走』フォロワーではないが、日本では黒澤明が脚本を担当した『暁の脱走』(1950年)や、正式には脱走モノではないが勝新太郎の人気シリーズ『兵隊やくざ 大脱走』(1966年)という作品もあった)。 斯様に傑作映画を生み出している脱走モノというカテゴリーの中で、実は『大脱走』と並び称すべき大傑作が存在しているのをご存じであろうか。それがこの『脱走特急』なのである。 第二次世界大戦の真っ最中の1943年。破竹の勢いでヨーロッパを席巻したナチスドイツとイタリアは、アメリカの参戦によって徐々に劣勢に立たされていた。そんなとき、アメリカ空軍パイロットのライアン大佐はイタリア軍によって撃墜され、捕虜収容所に送り込まれる。この収容所に収容されている捕虜はフィンチャム少佐率いるイギリス陸軍ばかりであったが、ライアンは捕虜の中で最も階級が高いこともあって捕虜収容所のリーダーとなる。この収容所から脱走することに執念を燃やすフィンチャムと、イタリアは遠からず降伏することを予見するライアンは対立するが、その頃連合軍のイタリア上陸に戦線が崩壊してついにイタリアが降伏する。一夜にして警備兵たちはいなくなったが、代わりにドイツ軍がやってくることを察知し、捕虜たちは全員で脱出を図る。しかしドイツ軍に補足され、捕虜たちは貨物列車に乗せられてドイツ本国に移送されることになるが、ライアンたちは隙をみて列車を奪うことに成功。中立国のスイスに向けて列車を走らせていくが…。 4,400万ドル(現価では3億ドル以上)という当時としてはあり得ない巨費を投入したエリザベス・テイラーの『クレオパトラ』(1963年)の影響で経営危機にあった20世紀フォックス社が、まだ経営が健全であることを証明するために会社の意地だけで大規模な予算を投じて制作された本作。そんな大作の主人公ライアン大佐に抜擢されたのは、歌手のフランク・シナトラだ。シナトラは本業が歌手とは思えないほど堂々たる演技で、『第三の男』『ライアンの娘』の名優トレヴァー・ハワードと渡り合っている(ちなみにハワードは実際にイギリス軍落下傘兵としてイタリア戦線に従軍し戦功十字章を受けている)。他にも『荒野の七人』のブラッド・デクスター、ジョシュ・ブローリンの父で『カプリコン1』のジェームズ・ブローリン、『ナイトライダー』のエドワード・マルヘア、『007サンダーボール作戦』のアドルフォ・チェリなどが出演し、映画に厚みを与えている。 また本作で唯一の女性出演者であるラファエラ・カラは、胸元が深く開いた開襟シャツとタイトスカート姿で縛られたままベッドに横になって身悶えたり、なまめかしくストッキングを履きかえるシーンなど、サービス精神満タンで、本作を観た思春期の小中学生に多大なるインパクトを与えている(こういうサービスは『大脱走』には無い)。 さらに本作が『大脱走』を凌駕していると言っても過言でない点は、怒涛の戦闘シーン。脱走モノは、ともすれば戦争映画でありながら戦闘シーンは省略傾向になりがちであるが、本作はその点においてもサービス満点だ。 特に、スイスに向かって特急列車で脱出をはかる主人公たちに対して、3機のメッサーシュミットBf108戦闘機(ホンモノ!!)が空から攻撃を繰り返し、数百人のドイツ兵を乗せた軍用列車が追いまくり、仲間たちを逃がすために激しい銃撃戦が展開されるクライマックスは必見。ドイツ軍の猛攻によって一人また一人と仲間を失いながらも、スイスに向かって脱出をはかる手に汗握る展開は、脱走モノというともすれば地味になりがちなカテゴリーの映画としては特筆に値するほどのサービス精神に溢れている。戦後20年が経った段階で制作された映画ではあるが、装備品などもよく整っておりマニアも納得の出来栄えだ。 またイタリア軍から始まって、ドイツ国防軍、ゲシュタポ、武装親衛隊と、敵のレベルもクリア難易度の高い敵へとエスカレートしていくという流れも素晴らしく、ステージクリア系のアドベンチャー映画としての体裁もしっかりと整っている点も素晴らしい。 さらにこの手の痛快娯楽映画としてはあり得ない、ある意味『大脱走』以来の定番を覆す衝撃的なラストも必見。シナトラ自身はこのラストに納得をしていなかったらしく、改変を求めていたようだが、このラストこそが本作を凡百の脱走モノとは一線を画する大傑作たらしめている名シーンなのだ(このシーンでのシナトラとハワードの演技はアカデミー賞ものだ)。 脱走モノとしての定番をしっかりとおさえ、さらに戦争映画のあらゆる要素をぶち込んだ脱走映画の究極系がこの『脱走特急』なのである。■ Motion Picture © 1965 Twentieth Century Fox Film Corporation and P‐R Productions. Renewed 1993 Twentieth Century Fox Film Corporation and P‐R Productions. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2015.07.20
プレップファッションとギャル語が満載!!みんながノーテンキでいられた時代のカルト映画『クルーレス』。
1995年に全米公開され、"ハイスクール・ロリータ"とも言われたファンシーなファッションとメイク、連発されるギャル用語、そして、主人公のブルジョワ女子高生、シェールの一見ノーテンキに見えて実は知的でイノセントなキャラクターが受けて、今でも少女たちの間でカルトムービーとして君臨する『クルーレス』。その根強い人気は、日本公開後にVHSが発売された後も、繰り返しDVDがリリースされ、公開後10年が経った2005年には"コレクターズエディション"と題する特典付きDVDが再度発売されたことでも明らかだ。何がそんなに受けるのか? まずは、ファッション。ビバリーヒルズの高校に通うシェールと親友のディオンヌが通学服として愛用している必須アイテムは、トラッドをガーリーにアレンジした'90's風プレップスタイル。冒頭で登場するタータンチェックのミニスカスーツを始め、女子高生たちが劇中で着るチェックの柄はシェールの7種類を始めトータルで実に53種類。また、シェールが散らかったワードローブの中から探し出そうとするお気に入りのシャツは、1961年にアメリカ西海岸で開業以来、複合セレクトショップとして人気の"フレッド・シーガル"でゲットしたもの。その日本一号店が、ようやく今年4月、東京の代官山にオープンしたのは記憶に新しい。また、男友達とドライブ中に喧嘩して、危険エリアのサン・バレーに置き去りにされる時にシェールが着ているのは、ボディコンシャスの権化、アズディン・アライアの赤いミニドレスだったり、狙いを定めたイケメン男子と初デートに出かける時に彼女が選ぶのは、カルバン・クラインの白いボディコンミニだったりと、表情はまだ子供なのに服は男の視線を刺激しまくり。そんな娘を見たパパが、「下着みたいだ」と怒るのも無理はない。この映画に"ロリータ"と形容詞が付く理由は、そんなところに起因するのだ。因みに、衣装デザインを担当しているのは、25歳のヒロインが17歳の女子高生に化けて高校に潜入する『25年目のキス』(99)や、同じ高校の同窓生たちが13年ぶりに再会する『アメリカン・パイパイパイ!完結編 俺たちの同騒会』(12)等、キャンパスルックのパイオニア、モナ・メイ。服好きで映画好きの女子たちの間ではレジェンドなデザイナーだ。 連発されるギャル語にも耳をそばだてよう。言葉は生きもの。時代の空気を映す鏡だ。今でもハリウッド映画やドラマでよく耳にする「whatever(どうでもいいじゃん)」や、「totally~(超なになに)」、「as if(サイテー~)」等々は、日本の女子高生用語としても転用できそうなフレーズだ。その場合は、シェールのように少しダレ気味に、相手を小馬鹿にする感じが必要だろう。また、お互いのパパとママが再婚し、2人が離婚した今も交流を続けている血が繋がらない兄のようなジョシュのことを、シェールが「ex-stepbrother(元・義兄)」なんて表現しているのも、アメリカの離婚事情の現れ。重ねて、言葉は生きもの。社会情勢の変化に伴い形を変えて当たり前なのだ。 シェールたちが学校で義務付けられているカリキュラムの中に、堂々と"ディベート"が組み込まれているのも、討論を重んじるアメリカならでは。ある日、国の移民政策に対して反対か賛成かを議論し合う授業で、シェールが賛成する理由を「パパが開くパーティにもっとたくさん人が呼べると楽しい。故に、移民も大歓迎」と発表してどん引きされるのだが、ロジックはどうであれ、反対意見と対決する姿勢こそが大事なわけだ。 監督と脚本を担当しているエイミー・ヘッカリングは、南カリフォルニアにある高校を舞台に、ロスト・ヴァージンを目指す女子高生の奮戦ぶりを描いた出世作『初体験 リッジモント・ハイ』(82)以来、不倫の末に産まれた赤ちゃん目線で母親や大人たちの騒動を眺める『ベイビー・トーク』(89)と、その赤ちゃんに妹ができる続編『リトルダイナマイツ★ベイビー・トークTOO』(90)、そして、年上の大学教授と不倫する女子大生に恋してしまう一途な男子学生の苦闘を綴る『恋は負けない』(00)等、愚かだけれど憎めない人々のささやかな物語を紡ぎ続け、今に至っている。ヘッカリング作品が時代や国境を超えて愛され続ける理由は、ファッションやカルチャーだけではない。難しい事は抜きにして楽しみ、時に懐かしみ、思い入れられるテーマが各々の作品のベースにあるからだ。それは、映画の公開後、『初体験 リッジモント・ハイ』『クルーレス』『ベイビー・トーク』の3作が次々とTVシリーズ化され、アメリカ国内のみならず全世界に拡散されていったことでも証明されている。 そして、『クルーレス』の世界観は、その後、シェールに負けず劣らずノーテンキなハイスクールギャルがハーバード大学に乗り込む大ヒット作『キューティ・ブロンド』(01)や、シェールたちの立ち位置をニューヨークのキャリアガールに置き換えた『セックス・アンド・ザ・シティ』(08)、さらに、ヘッカリング自身がエピソードの一部を監督したTVシリーズ『ゴシップガール』(12)にも引き継がれている。 偶然だが、シェール役の候補者の1人には、後に『キューティ・ブロンド』でブレイクするリース・ウィザースプーンがいたし、ライバルにはやはりブレイク前のアンジェリーナ・ジョリーやグウィネス・パルトロウ等、未来の大器がひしめいていた。そんな強者たちを押し退け、シェール役をゲットしたのがアリシア・シルバーストーンだ。15歳で映画デビュー後、18歳の時に出演した『クルーレス』でティーンエイジスターのトップに躍り出た彼女の、大人びたルックスと甘えた声のギャップは男女を問わず虜にし、一躍時代のアイコンにジャンプアップ。業界人としてもクレバーだったアリシアは直後、自ら製作プロ"ファースト・キス"を成立し、当時個性派俳優として注目され始めていたベネチオ・デル・トロを共演者に迎えた『エクセス・バケッジ シュガーに気持ち』(97)をプロデュースする等、活動の場を広げる。 しかし、9.11後、テーマ選びもバジェットに於いても守勢に回ったハリウッドに、アリシア等女優プロデューサーの出番は減り、かつて、エイミー・ヘッカリングが監督した、あのノーテンキなコメディ自体の需要が減ってしまったのは、実に嘆かわしいことだ。かつて、メディアの取材に応えて、「心が澱むから暗い話には興味がない」と明言したヘッカリングと、彼女の意図を汲み取ってお馬鹿だけど憎めない女子高生を好演したアリシアが、久々にコラボする機会を待ち焦がれているのは、何もファッションチェックに忙しい女子高生ばかりじゃない。夢見る男子だったオジサンたちだって、あの頃の自分に戻って泣き笑いしたいに違いないのだ。■ COPYRIGHT © 2015 PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2015.07.11
ある検閲官の懺悔〜『インモラル物語』〜
ワタクシ、ザ・シネマ中の人です。どうしてもこの作品については自分で書きたかったため、プロのライターさんに執筆をお願いしているこの神聖な場にまで、しゃしゃり出てきてしまいました。 こんな商売やってる人間ではありますがワタクシ、家に映画のポスター類はたったの1枚しか貼ってません。映画のスチール写真がいっぱい手に入る立場なので、役得で、そういうのを安いIKEAのフォトフレームに入れて壁中に飾りまくる、という、ちょっと一般の方には真似のできないインテリア・コーディネイトができちゃいますんで(イヤらしい自慢話でスイヤセンねぇ)、市販のポスターは要らんのです。ただ1枚の例外、それが『インモラル物語』のものでして、それぐらい心酔しとる作品なのであります。 この映画を作ったのは、Walerian Borowczykというポーランド人の監督です。Wikiによると「ワレリアン・ボロズウィック」、過去に出たDVDでは「ワレリアン・ボロウズウィック」、「ヴァレリアン・ボロヴツィク」などと不統一にカタカナ表記されてきましたが、我がザ・シネマでは、原音に近い「ヴァレリアン・ボロフチック」と表記することにしました。今後これで定着させていきたいです。よろしくお願いします。 ザックリ言ってエロ映画の人です。ラス・メイヤーとか、ティント・ブラスとか、カトリーヌ・ブレイヤとか、ポルノと映画の境界線上にいるような映像監督っていますよね。そっち系の人です(我ながら乱暴なレッテル貼り…)。 もちろん、上記の銘々がそれぞれ確固たる作家性とか個性とかを持ってる。ではこのヴァレリアン・ボロフチック監督ならではの味とは何か?それが一番効率よくわかるのが今回放送する代表作『インモラル物語』なんですな。なんとなれば本作、オムニバスだからです。ショーケース的に全部が詰まってるんで。 まずオープニング・クレジット。黒背景に白のセリフ体フォントで文字が書かれ、それが細い罫線で囲まれているデザイン。シンプルだけどカッコいい!絵画を学んできた人だけにセンスある!この洗練されたデザインは各話のタイトルとしても出てきます(他作でも)。そしてオープニング・クレジット最後=本編直前に、「いかに愛が心地よくとも、愛の多様な形の方がはるかに心地よいーーラ・ロシュフーコー」という箴言の引用が入って、いよいよ4つの“愛の多様な形”を描いていく本編の幕が上がるのであります。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 第1話は「満潮」。20歳の男子が、16歳の従姉妹を連れてチャリで海へと出かけます。男子は命令調で支配的なタイプ。女子はとことん従順タイプ。2人とも線が細くて色白な、似ている従兄妹同士。その日、空は曇天、波は荒れ模様。男の方はM-37デニムハット風の帽子に、パーカーにジーンズにHUNTER風ゴム長という出で立ちで、女子の方は黒ビキニの水着の上から透け感のあるリネンのチュニックを羽織って、チャリで出かけていきます。2人ともオシャレですなぁ。可愛らしいカップル。 あえて衣装について詳述したのは、まったく時代を感じさせないベーシックなスタイルだから。いま見てもちっとも色褪せてなくて、流行を超越してる。女子は髪型・眉型ナチュラルだしスッピンなので時代を感じさせる手がかりはほとんど無く、今年の映画だと言っても通用するぐらいですが、実は1974年製作なのです。幼さを残すヌードが忘れがたい、ソバカスも可愛い16歳従姉妹役のこの若い女優さんも、今は50を軽く超すオバチャンのはずですが、その2015年現在の姿をまるで想像できない。不思議な不朽感を持った映画です。劣化してない。 この従兄妹同士2人が海辺に着きまして、断崖絶壁がそそり立つひと気の無い岩陰で2人きりになり、何をするのかと言えば、「いとこ同士は鴨の味」なぞと申しますけれど、まぁ、その手のことですわ。満潮になるその一瞬のタイミングに合わせて、男子が従姉妹に“お口でイカせてもらおう”という、しょうもないことを試みるのです。年の近い若い親戚男女2人による、秘めやかなセクシャル・チャレンジであります。 お話の中身は、以上です。話は有って無きようなもの。あとは、チャリのペダルを漕ぐほどに増す海の気配、やがて目の前に一気に開ける海岸、草がなびく砂丘を駆け下り、海藻の付着した岩場を踏み越え、コケて足を切って血を流したりしながらも、断崖絶壁の真下までたどり着き、そこで男子はジーンズのポケットから潮汐表を取り出して時間を調べ、満潮時の波打ち際MAXギリギリに2人して寝転んで、男子はジーンズのチャックを下ろし、そしてついに、従姉妹は、横たえた全身に波をかぶって口内に塩味を感じながら、従兄弟に“お口でご奉仕”を始める、という、ただそれだけのエピソードなのです。 そこにはドラマも何もないんですけど、これを、とことん美しく描き上げようというのが、ヴァレリアン・ボロフチックという監督の味。監督・脚本だけでなく、編集も手がけているんですけど、ドン引きのロングショットや、身体のセクシーな部位に寄った極端なクローズアップが頻繁に差し挟まれるのが、この監督の特徴です。第1話の場合ですと、従姉妹の唇の異常なまでのアップが何度も何度も入ってきます。唇の縦ジワ、薄い色のホクロやソバカス、薄っすら生える可愛らしい産毛=女子ヒゲ、舌のザラザラ感や舌裏のなんとも卑猥な構造までも、監督は執拗に撮り続け、デカデカと全画面に映し出します。 ワタクシが唯一の例外として部屋に飾っているポスターは、この、従姉妹の唇のどアップという絵柄でして、これは本作を象徴するメイン・ヴィジュアルでもあるのです。 美しい。美しすぎるエロであります。時は90年代。VHSでの初見時、ワタクシは大学生。AVは山ほど見ておりました。自慢じゃないが童貞でもありませんでした。しかし、エロとは、性とは、これほどまでに美しい営みだったのか!ということを知らずに二十歳過ぎまで生きてきちゃってたのです。なんたる無知!エロは美しかったのであります!なんたる衝撃! ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 第2話は「哲学者テレーズ」。舞台は19世紀末。宗教的に厳格な家庭の子女テレーズは、厳しい母親に外出を咎められ、物置部屋=お仕置き部屋に閉じ込められますが、そこで見つけてしまったカビ臭い古書が、フランス革命期(劇中の時点からさらに100年以上前)に流行った作者不明の有名なエロ小説『女哲学者テレーズ』。ページを繰るごとにあらわれる100年前の猥褻な挿絵に興奮した彼女は、密室なのをいいことに、ひとりHに夢中になる、という、これまたストーリーなど有って無きがごときエピソードであります。でも、いいんです。それ求めてないし。 この第2話は、とりわけヴァレリアン・ボロフチックらしさ全開のエピソードになっています。「宗教的に禁圧しても抑えきれない女性の自然な性欲」ということが割とよくテーマとして取り上げられるボロフチック作品。代表作『罪物語』(1975年)とか『修道女の悶え』(1977年)なんかはまさにそのテーマを膨らませドラマ性を持たせた作品と言えます。テーマ的に、いかにも“らしい”のが本エピソードなのです。 それと、ボロフチックさんは監督・脚本・編集だけに飽き足らず、さらに美術まで手がけているワンマンぶりなのですが、ヴィジュアル面の趣味こだわりもハッキリしてる人でして、特にこのエピソードにはボロフチック流プロダクション・デザインが横溢していて趣味性全開。お仕置き物置にある、薄っすらチリの積もったような、19世紀末ヴィクトリアン調の古道具の数々の、なんとも味のあるレトロ趣味に、見ている方も思わずウットリです。 第1話で見られた極端なクローズアップも健在で、本エピソードでは、部屋にかけられた古いエッチングの肖像画(万札の諭吉みたいな絵)が、どアップのインサートカットで時折映し出されます。プライバシーで守られるべき個人の性的な秘め事をジッと見つめる他者視線、という禁忌感を出そうとしてるのでしょうか?それとも、取り澄ました顔したこの肖像画の人物たちも、生前は性的な営みに励んでいたんだ、人間みんな同じだ、と言いたいのか? とにかくこの「肖像画や彫像がインサートでアップで入ってくる」という演出も、ボロフチック映画の顕著な特徴です。 さて、古道具や古い肖像画のアップを短切に切り返しながら、キャメラはやがて、この物置部屋に漂っている、かすかなホコリ臭さカビ臭さまでをも撮らえていきます。これなんかもボロフチック映画の持つたまらない魅力ですな。先にもあげた代表作『罪物語』(1975年)や、『邪淫の館・獣人』(1975年)などでも見ることができますが、「ホコリ美」とでも造語を作って呼びたくなるような独特の空気感。枯れ感。それは、ハリウッド映画ではもちろん、イギリス、フランスあたりのヨーロッパ映画でさえお目にかかったことのない、本物のヨーロッパ感です。強いて言えばヴィスコンティやベルトルッチといったイタリア勢の描く“西洋の没落”感にはちょっとは近いかもしれませんが、あれらはゴージャスすぎて「ホコリ美」じゃありませんからやっぱり別モノです。もっと蒼枯としていてホコリの漂う、そして、そのホコリさえも美しいと思わせるような、本物のヨーロッパの枯れ感なのです。 同じ中欧ということで強引に十把一絡げに扱うつもりは毛頭ないのですが、たとえば、チェコの、シュヴァンクマイエルやカレル・ゼマンのアニメーションにある、あるいは『闇のバイブル 聖少女の詩』や『カルパテ城の謎』といったチェコ怪奇ファンタジー映画にある、あの独特のレトロな美。あれに近いものがあって、あの感じから幻想風味を抜いてヒストリカル&リアリスティック風味を足したような感じの映像表現なのです。 そんな空気感に包まれて、ひとり息を弾ませ指遊びに耽るいけないテレーズ嬢。テレーズを演じるシャルロット・アレクサンドラは、女流エロ監督カトリーヌ・ブレイヤの『本当に若い娘』(1976年)でもヒロインを演じているポチャリ姫。彼女の豊満な真っ白いプニョンプニョンな肌が、カビ臭い、ホコリ臭い、乾いた室内で次第にピンク色に上気していき、汗ばんでいきます。ホコリ臭さに体臭がまじったにおいを確かに嗅いだような錯覚を、映画を見ていて禁じえません。 美しい。美しすぎるエロであります。ただ女のオナニーを描いただけの、物語性のまったくないお話なんですが、いいんです。それを求めてはいけない。美を求めてください。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 第3話以降をこの調子で紹介していくには紙幅が尽きてしまいましたので、最後にイヤらしい自慢話をもう一発。前述の、性的な身体部位に寄ったクローズアップの頻繁な挿入、というボロフチック流演出ですが、この演出において監督がいちばんアップにしたがるのは、実は女性のヘアなんです。この映画、ヘアがどアップで映る映る!で、ここからが自慢話なんですが、立場上、ワタクシ、ノーモザイクで字幕も入っていない、業界用語で言う“白素材”という状態でこの映画を見る立場なワケです。そこからモザイクをかけたり字幕を入れたりするのが仕事ですからね。ということでノーモザイクで見ちゃいました!いいのでしょうか?良い仕事に就いたもんだ。 美しい。美しすぎるヘアなのであります。モザイクから解き放たれた陰毛は、モジャモジャと萌えいづる生のたくましさを感じさせます。性=生の営みを描く映画として、この、萌えるようなヘアをアップで映すということには、ちゃんとした意味がある。 そのヘアにモザイクをかけないと、いちおうテレビですので、現在の日本国ではそのまま放送はできませんから、強烈な冒涜感と罪悪感に苛まれながらも、泣く泣く仕事としてモザイクをかけたのであります。検閲官の苦悩であります。 この映画、美しすぎるエロだと評しました。つまり、それっていうのはとりもなおさずアートということに他なりません。かつて、16世紀、ミケランジェロの作品の股間を葉っぱで隠そうという“イチジクの葉運動”という馬鹿げたムーブメントがありました。19世紀、マネの裸婦画「オランピア」がサロン・ド・パリでナンセンスな批判の対象になりました。攻撃する側はいつの世も「有害だ」と言って叩くワケですが、叩く側と叩かれる側と、どちらの側が人類の文明にとって有害な/有益な存在か、歴史の出すファイナル・アンサーはたいがいの場合、決まっとるのです。検閲官は常に歴史の敗者です。 ヴァレリアン・ボロフチック監督の作品は歴史ものが多い。本作も第1話は現代ですが、第2話は1890年、第3話1610年、第4話1498年と、様々な時代を舞台にしています。いつの時代も人間存在は性的欲望に悶えている、ということがボロフチック監督の一大テーマであり、さらに作品によっては、「それを抑圧しようとするヒステリックな勢力と、抑圧されまいとする人間の自由な性欲」といういつの世にも通じる対立構造を描いてもいます(本作なら第2話と4話)。 …抑圧したくてしてるんじゃないんですけどねぇ。仕事なんです勘弁してください。ボロフチック監督、スンマセン!いつかワタクシの方が間違っていたと、歴史の審判が下ると覚悟しとります。■ "CONTES IMMORAUX" by Walerian Borowczyk © 1974 Argos Films
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COLUMN/コラム2015.07.06
フランスの気鋭監督が創出した“立てこもり活劇”の醍醐味~『スズメバチ』
本作が2002年の秋に日本公開された際に、ポスターやチラシに添えられたキャッチコピーは今でもよく覚えている。「12000発喰らえ」。しかし謳い文句通りの“ド派手なドンパチ”を期待して劇場に足を運んだ観客は、実際に本編を目の当たりにして面食らったのではないか。何せ序盤の約30分、これといった見せ場がほとんどない。観客を退屈させないための“方程式”に則った昨今のハリウッド・アクションや、本家のハリウッド以上にハリウッド的な娯楽性に富んだヨーロッパ・コープ製のフレンチ・アクションに慣れ親しんだ映画ファンは、本作のいささか冗長で無愛想にも映る導入部に焦れったさを感じるかもしれない。 正直なところ決して洗練されたタッチの導入部ではないが、作り手の狙いははっきりしている。「荒野の七人」のテーマ曲を口笛とアカペラで奏でながら、練りに練った犯罪計画を実行に移そうとしている若い窃盗犯グループ。人身売買、武器密輸などの凶悪犯罪を繰り返してきたアルバニア・マフィアのボスを、物々しい装甲車で護送しているフランス警察の特殊部隊。そして職場に向かおうとしている元消防士のしがない中年警備員。7月14日のパリ祭を背景に、そんな見ず知らずの登場人物たちが偶然にも“ある場所”に集結していく過程が描かれる。そう、この映画は冒頭30分を長々と費やして、アクション映画を形成する重要な要素のひとつであるシチュエーション=状況設定を組み立てているのだ。その30分を乗りきった観客には、ご褒美として中盤以降に怒濤のシークエンスが待っている。 その“ある場所”とは、ストラスブールの工業地帯にたたずむ黒い外壁の巨大な倉庫だ。ここに忍び込んだ窃盗犯グループは、前述の中年男ともうひとりの若い警備員を拘束し、大量のノートパソコンを強奪してトンズラしようともくろんでいる。ところが時同じくしてストラスブール近郊の別地点で、ボスを奪還しようとするマフィアの武装軍団が特殊部隊の護送車を襲撃。からくも生き延びた女性中尉リボリと数名の部下は、まだ窃盗犯グループがとどまっている倉庫に一時避難する。倉庫はあれよあれよという間に武装マフィアに包囲され、外界への連絡手段を断たれたリボリに残された道はただひとつ。その倉庫に身を潜めたまま窃盗犯や警備員たちと力を合わせ、軍隊並みの重装備を誇るマフィアを迎え撃つことだ。 言わば、これは倉庫を“砦”に見立てた伝統的な“立てこもり型”のアクション映画である。逃げるという選択肢を奪われた登場人物が、閉塞した限定空間に籠城して必死の抵抗を試みる。孤立無援にして、圧倒的な多勢に無勢。まともに闘ったら絶対に勝ち目はない。ゆえに登場人物がすべきことは敵の侵入を“防ぐ”ことであり、そこにヒリヒリするような極限状況のスリルが生まれる。スカッとした爽快さ&豪快さを売りにしたアクション大作とは真逆の、首を真綿で締められるがごときマゾヒスティックな緊張感。生き抜くためには命知らずの度胸や腕っぷしの強さよりも、ひたすら忍耐力と臨機応変の対応力が求められる。そこに立てこもり活劇の醍醐味がある。 このジャンルの代表作というと、ジョン・カーペンター監督の『要塞警察』(76)とその原点であるハワード・ホークス監督の西部劇『リオ・ブラボー』(59)がすぐさま思い浮かぶ。とりわけこの映画と『要塞警察』の類似性は誰の目にも明らかだ。しかしながら本作には「このシチュエーションの活劇が撮りたかった!」という作り手の並々ならぬ意欲が全編にみなぎっており、パクリや二番煎じと誹る向きはどこにもいないだろう。浮ついたギャグや、二丁拳銃などのアクロバティックな描写は一切ない。その代わりに戦闘中の登場人物が残りの弾薬数を確認したり、状況がじわじわと切羽詰まっていくプロセスをリアルに見せる工夫が随所に盛り込まれ、本格的な立てこもり活劇に仕上がっている。 『スズメバチ』というタイトルも言い得て妙だ(原題は『Nid de guêpes(スズメバチの巣)』)。目の部分が不気味に赤く光る暗視ゴーグルを装着した武装マフィアが、暗闇の中からうようよと無数にわき出ては、容赦なく倉庫に群がってくるイメージは、まさしくスズメバチを想起させる。生憎、筆者はその筋には詳しくないが、銃器の演出にもそうとうこだわりがあるのだろう。立てこもる側の登場人物にはそれぞれのキャラクターの個性に合わせてショットガン、カービン銃、自動小銃といった新旧織り交ぜた武器を持たせ、武装マフィアはサイレンサー付きの銃でひたひたと攻め入ってくる。撃ち抜かれた壁の銃痕の穴から光が差し込むというガン・アクション映画には定番のショットにも、“スズメバチの巣”のヴィジュアル化を意識した美学が宿っている。ちなみに監督は本作の成功がきっかけでハリウッドに招かれ、ブルース・ウィリス主演の『ホステージ』(05)を発表し、最近では「マイウェイ」の共作者として名高いポップスター、クロード・フランソワの伝記映画『最後のマイ・ウェイ』(12)を手がけたフローラン・エミリオ・シリ。『スズメバチ』は彼の長編第2作であり、本邦初登場作品である。 「ここを突破されたらヤバい!」というギリギリの切迫感が少々物足りず、クライマックスへのなだれ込み方が大味になってしまったことなど難点はいくつか見受けられるが、『TAXi』(97~07)シリーズで名を馳せた某俳優が演じるキャラクターが早々に戦闘不能に陥ったり、誰が最後まで生き残るのかは予測不可能。「12000発喰らえ」のキャッチコピーに引かれた観客の期待にも応えるであろう“フレンチ立てこもりアクション”のカタルシスを、ぜひ堪能してほしい。■ © 2002 - CINEMANE FILMS - CARRERE GROUP - PATHE IMAGE PRODUCTION - FRANCE 2 CINEMA