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COLUMN/コラム2016.01.20
人の死が蔓延した時代に生まれた、グラフィックノベルのような『夜明けのゾンビ』
21世紀に入り、ゾンビ系ゲームの人気と共にゾンビ映画が量産され、さらに伝説的なカルト映画『ナイト・オブ・リビング・デッド/ゾンビの誕生』(1968)、そして数多くの熱狂的信者を生みつつ、のちのゾンビ映画やゾンビ系ゲームに多大な影響を与えた名作『ゾンビ』(1977)等を生んだジョージ・A・ロメロ監督は、多くのリスペクトを浴びて“リビングデッド・サーガ”の待望の新作を発表した。と同時に、それまでの鈍い動きしか見せなかったゾンビとは異なり、敏捷性と怪力をも兼ね備えた現代型ゾンビが登場する作品も多数作られたのが印象深かった。 そして、ゾンビ熱が冷めかかった2011年に製作された『夜明けのゾンビ』は、ゾンビ映画としてはかなりの異色作だ。ゾンビ映画のほとんどの時代設定が現代か近未来だが、南北戦争終焉の1865年から始まる物語。 なぜ、ゾンビと南北戦争なのか?と推測してみると、南北戦争開戦から、ちょうど150年の節目でもあるし、スティーヴン・スピルバーグ監督のメジャー大作『リンカーン』が2012年公開のため、タイミングをちょうど見計らった(または便乗するともいう)という穿った見方もできる(ちなみに2012年には、南北戦争末期を舞台にした『リンカーン vs ゾンビ』なる低予算映画も作られた)。でも死が隣り合わせの戦争と“ゾンビ=生ける屍”を交錯させることで、生と死が混沌とした時代を表現したかったとも解釈できる。 とはいえ、ゾンビが人肉に咬みついて皮膚を引き裂くような描写は少なからずあるが、内臓をむんずとつかみ出したり、肉や骨が剥き出しになった咬傷に、これでもかとカメラが寄って露骨なグロさを強調することはない。あくまでアメリカ史にゾンビが存在したという時代を表現したかったのだろう(だからゾンビ映画にありがちな、グチャグロな描写はほぼ皆無なので、それらを期待してはダメです)。 それは、随所にグラフィック的なアニメを挿入していることからも伝わってくる。これには、アニメで表現した異色ドキュメンタリー映画『戦場でワルツを』(2008)の影響が少なからずあると思う。この映画は、アニメ表現の可能性及び多面性を大きく広げたといってもいい。 『夜明けのゾンビ』は、ヤング家に代々受け継がれてきた日記が残されていて、末裔のマルコム・ヤング(『X-MEN2』『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』のブライアン・コックス)が語る形式になっている。いうなれば、彼がナレーションの役目を担っているわけだ。 南北戦争を生きのびたエドワード・ヤング(TVシリーズ『HEROES Reborn/ヒーローズ・リボーン』のマーク・ギブソン)の葛藤と死闘の日々が、序章から第7章にかけて描かれる。 南北戦争が終わって6年後、墨絵のように薄暗く、寒々とした山林の中に居を構えたエドワードだが、2日間狩りに出ている間に妻がゾンビに咬まれてしまい、ゾンビ化した妻を撃ち殺してしまった。しかも11歳の愛息アダムが行方不明に! エドワードは、地獄のような世界で、いつゾンビになるかもしれないため、自らが生きた証しを残そうと全てを記録しはじめた。そこにはゾンビの弱点とか、動作が鈍い特徴も記しておいた。そして、馬にまたがって愛息アダム捜索の旅に出ると、日々ゾンビが増えていることに気づき、ゾンビになった息子を発見する。アダムを撃ち殺した彼は、生前息子と一緒に行きたがっていたエリスの滝に、息子の遺灰を撒くために旅を続ける……。 大自然を背景にエドワードの姿がナレーションと共に語られるため、常に客観的な視点で映ることになる。エドワードのアップを捉えていても、淡々と語られるナレーションに耳を傾けながら、エドワードの言動を静かに見つめる感じだ。しかしエドワードやゾンビらが自然の中を徘徊するその映像が、時折見事なグラフィック映像のように映し出される。それらが、随所に挿入されたアニメと共に編集されて、一連の流れの中に紡ぎ出されると、映画全体がある種のグラフィックノベルのように見えてくる。 グラフィックノベルとは、表現のみならず、アート志向の絵柄で構築された大人向けのコミックスのこと。今までは『ロード・トゥ・パーディション』(2002)や『ヒストリー・オブ・バイオレンス』(2005)等、グラフィックノベルの原作が映画化された作品はたくさんあったが、その逆、映画というメディアを使ってグラフィックノベルのような形式にした作品は珍しい。果たしてそれが、作り手の真意かは定かでないが、本作の新鮮な驚きはそこにこそあると思う。 エリスの滝を目指すエドワードの前に、ゾンビ以外に様々な人間が現れる。南軍の残党の将軍ウィリアムズ(『悪魔のいけにえ2』『マーター・ライド・ショー』のビル・モーズリィ)は、北軍に多くの部下を殺されて気がふれてしまい、腹心の部下2人とジョンソン軍医を従え、強姦や略奪を繰り返し、人をさらってきてはゾンビ免疫を探し続けていた。ゾンビ免疫さえ手に入れば、ゾンビの群れを引き連れ、“元南部を奪い返す”という途方もない謀略を抱いている。人をさらうのは、ゾンビ研究とゾンビ免疫を探すため。将軍ウィリアムズは、唾液が血流に侵入することで感染することを突きとめていて、ゾンビは決して自然現象ではなく、人間が作ったものだとわめき散らしている。 将軍ウィリアムズらに誘拐された妹のエマ(TVシリーズ『HELIX―黒い遺伝子―』のジョーダン・ヘイズ)を奪い返そうと考えるアイザックは、エドワードに協力を要請する。 そしてエドワードやアイザックを助けるのが、森の中で孤独に静かに暮らしている女祈祷師イブ(『ハウリング』『E.T.』のディー・ウォーレス)だった。しかも彼女は、ゾンビ誕生の秘密を握っていた。さらに彼女が隠し持っていた巻物には、世界各地で数世紀に渡って、ゾンビの事例があることが記してあった。古代アフリカでは、部族の聖職者が巻物を使い、死者を蘇らせていた。その1200年後、ヨーロッパ人が廃墟の下から、その巻物を発見し、自らを神と思い込んだ者たちが、“人間の生き死に”を操ろうとした。その過程で、何千もの命、あるいは魂が奪われたのだ。ゾンビの伝説は全て繋がっていて、先の事例から250年後、奴隷船で感染が起きた。元々邪悪な目的のための奴隷船は、やがて7つの海に呪いを広げていった。こうしてゾンビは、感染力と傲慢な者たちによって増殖していったという。 人間の邪悪な歴史的事件において、ゾンビが必ず関わってきたことを匂わせている。ゾンビがあるところ、人間の邪悪さが蔓延しているという証しか。 エドワード、アイザック、エマ、イブがそれぞれの痛みを感じていて、その痛みが彼ら自身に“生”への実感を与えている。確かに“生”を最も強く感じる瞬間は、恐怖や死を間近に感じる時である。筆者がホラー映画を愛するのは、緊迫感溢れる恐怖を描くと同時に、そこに“生”への執着を感じるためだ。 エドワードは言う。「この恐怖の中でも変わらない、自然の美しさに驚いた。久しぶりに生きていることを実感できた……」 末裔マルコム・ヤングのナレーションがこう語る。「世界は痛みに溢れている。いつの世も変わらない。だが大したことではない。周囲の人々が、生きる喜びを教えてくれる……」 そして、こう付け加えた。「歴史とは、生存すること。暗闇に包まれた人生、傷ついた心の日々。他に生きがいはないのか。金色の夕陽や滝の水のきらめきでもなかった……だが今は、全て違って考えることができる。ゾンビが彷徨う世界でも、希望を失わない限り、なんだって可能になる」 『夜明けのゾンビ』は過去の時代が舞台であるが、世界に不穏な空気……徐々にキナ臭くなっている今の映画でもある。“ゾンビ=生ける屍”にならないため、希望を持って生きること。作品からそんなメッセージ性をほのかに感じ取ることができる。■ ©2011 Foresight Features Inc.
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COLUMN/コラム2016.01.09
めくるめく恐怖と官能が渦巻く『バーバリアン怪奇映画特殊音響効果製作所』で英国が生んだ特異な才能、ピーター・ストリックランドを発見せよ!
一度聞いたら忘れられないが、覚えるのも難しい奇天烈な邦題がつけられた『バーバリアン怪奇映画特殊音響効果製作所』(原題:『Berberian Sound Studio』)は、1973年イングランド・レディング出身のイギリス人監督、ピーター・ストリックランドの長編第2作である。これに先立つデビュー作『Katalin Varga』(2009)はベルリン国際映画祭、ヨーロッパ映画賞ほかで賞に輝いたが、日本では劇場未公開となり、DVD化もされていない。 イギリスとルーマニアの合作映画『Katalin Varga』をひとたび観れば、ストリックランドがただ者ではないことはすぐわかる。舞台となるのはルーマニアのトランシルヴァニア地方で、主人公の美しい女性カタリン・ヴァルガが幼い息子を伴って馬車に乗り、辺境の村から村へと旅する姿が綴られていく。カタリンの目的は、かつて自分の体を弄んだ憎き男たちへの復讐を成し遂げること。カルパチア山脈の雄大さと神秘性、そして時折画面に立ちこめる不穏な気配が、このうえなく繊細な撮影と音響設計によって表現される。物語の骨子はいわゆる“レイプ・リベンジ”ものの一種と言えるが、そんなものはあってないかのように積極的にストーリーラインを逸脱し、詩的なざわめきを映画に吹き込むストリックランド監督の独特の感性がこの禍々しいロードムービーをアートの域に高めており、筆者は「観たことのないような映画を観た」との強烈な印象を受けた。 ストリックランドがその3年後に発表した『バーバリアン~』(2012)は、ルーマニアでオールロケを敢行した『Katalin Varga』とはまったく異なるヴィジュアル・ルックを持つ作品だ。舞台はイタリアの音響スタジオなのだが、撮影はすべてロンドンで行われた。なぜそんなことが可能だったかというと、この映画は風景というものがまったく映らない室内劇だからだ。 物語は主人公のイギリス人録音技師ギルデロイ(トビー・スティーヴンス)が、異国のバーバリアン音響スタジオに到着するところから始まる。ジャンカルロ・サンティーニという風変わりなイタリア人監督に腕を見込まれ、サウンド・ミキシングを依頼されたのだ。ところがサンティーニの新作『呪われた乗馬学校』は、残虐な魔女が復活して女子生徒たちを血祭りに上げていくホラー映画で、そんなジャンルに携わった経験のないギルデロイはいきなり面食らう。高圧的な態度を連発するプロデューサー、女好きのくせに高尚なことをまくし立てるサンティーニ、いつも不機嫌な美人秘書の言動に翻弄されたギルデロイは、ろくに英語も通じない完全アウェーのスタジオ内で孤立し、極度の精神的混乱に陥っていく……。 映画製作の現場を舞台にしたメタ映画はいくつもあるが、これはポスト・プロダクション、それも録音作業のプロセスに特化した珍しい作品だ。おまけに1970年代を背景に設定したストリックランドは、当時イタリアで一大ブームを巻き起こしたジャーロ(ジャッロとも呼ばれる)映画にオマージュを捧げている。ジャーロとはトリッキーなプロットや殺人描写、女優のセクシュアルな魅力などを売り物にしたイタリア製クライム・ミステリーのこと。ジャーロ映画にはしばしば黒革の手袋で凶器を握り締めた殺人鬼が登場するが、『バーバリアン~』ではスタジオのフィルム映写技師が黒革の手袋をはめている。ただし劇中劇の『呪われた乗馬学校』は典型的なジャーロではないオカルト・ホラーなので、ストリックランド監督はマリオ・バーヴァの『血ぬられた墓標』やダリオ・アルジェントの『サスペリア』あたりをイメージしたのだろう。 スタジオ内には次々と大量の野菜が運び込まれてくる。スタッフはスイカやキャベツを刃物でザクッザクッと切り刻み、瓜をグシャッと床に叩きつける。それは殺害シーンの効果音だ。マイクブースにこもった女優たちは断末魔の絶叫を放ち、魔女の呻き声をしぼり出す。『呪われた乗馬学校』の映像は一切映らないが、観客はこれらの効果音やアフレコの創作過程を通して視覚と聴覚を刺激され、いかなる血まみれの光景がスタジオ内に照射されているのかを否応なく想像させられる。単にジャーロの様式を現代に甦らせるだけでなく、物理的な手段によって架空の恐怖=フィクションが生み出され、その過剰に増幅するフィクションが主人公の現実をのみ込んでいく様を描いているところに、ストリックランド監督の並々ならぬ才気が感じられる。オープンリールのレコーダーなどのアナログな機材や小道具をずらりと揃えたプロダクション・デザインへのこだわりに加え、極めて優れた撮影、編集、音響のテクニックも凄まじい。これまた『Katalin Varga』とは別のベクトルで“観たことのない”圧倒的なオリジナリティがほとばしる異常心理劇に仕上がっているのだ。 新進のフィルムメーカーがどのようなテーマやスタイルを好んで志向するのかは2本観ればたいてい察しがつくものだが、『Katalin Varga』と『バーバリアン~』を観てもストリックランドという監督は謎が深まるばかりである。というわけで、絶好のタイミングでイギリスから届いた彼の長編第3作『The Duke of Burgundy』(2015)をブルーレイで鑑賞してみたが、またもや驚嘆させられた。 人里離れた森の洋館を舞台にしたこの最新作は、昆虫学者の女主人と若いメイドの倒錯的な関係を描いた女性同士のラブ・ストーリーだったのだ! 今度はイギリスとハンガリーの合作で、ロケ地はオール・ハンガリー。主演女優は『バーバリアン~』にも出演しているイタリア人のキアラ・ダンナと、『アフター・ウェディング』やTVシリーズ「コペンハーゲン/首相の決断」で知られるデンマーク人、シセ・バベット・クヌッセンという無国籍的な取り合わせ。1970年代のヨーロピアン・エロス映画を彷彿とさせる魅惑的なデザインにフォークバラードが流れるメインタイトルに続き、無数の蝶の標本に彩られた密室内の秘めやかなSM恋愛劇が耽美的かつフェティッシュな映像美で紡がれていく。『バーバリアン~』に通じる濃厚な夢幻性や毒々しいユーモアに加え、ヒロインたちの危うい愛のかたち、そこに生じる痛みや妄執をエモーショナルに物語ってみせたストリックランドの新たな試みに、筆者は鑑賞中に絶え間なく興奮し、わけのわからない感動にさえ襲われた。日本でも“需要”が見込まれそうな作品なので、おそらく配給会社が放っておかないだろう。 筆者にとってピーター・ストリックランドという監督は3本観ても未だ謎だらけだが、世界中を見渡しても稀なほど特異な才能の持ち主であることは断言できる。まずは、これまでに唯一日本に紹介された『バーバリアン~』で、めくるめく恐怖と官能が渦巻く世界に浸ってほしい。■ ©Channel Four Television/UK Film Council/Illuminations Films Limited/Warp X Limited 2012
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COLUMN/コラム2016.01.05
【未DVD化】英国ニュー・ウェイヴが革命の季節に放った反逆の映画『if もしも‥‥』
もし君が英国のパブリックスクールに憧れていたとしたら、『if もしも‥‥』はその幻想をコナゴナに打ち砕いてくれるはず。この映画で描かれるパブリックスクール、とにかく陰惨すぎる! それゆえに主人公の終盤の行動が説得力満点なわけだけど。 この終盤の展開を観た者ならば、本作が1969年にカンヌ映画祭でグランプリを獲っていたという事実に少なからず驚くはずだ。哲学的な作品が幅を利かすあの祭典で、こんな衝動的な映画が栄冠に輝くなんて! でも前年のグランプリ作を知ったなら納得するんじゃないだろうか。というのも、1968年のグランプリ作は該当作無し …ていうか、カンヌ映画祭自体が開かれなかったのだ。 映画祭中止の理由は、学生運動を発端にフランス全土のストライキへと発展した、五月革命にある。これに触発されたフランソワ・トリュフォーやジャン=リュック・ゴダール、ルイ・マルといったヌーヴェルヴァーグの映画作家たちが騒ぎだし、映画祭自体がストライキされたのだ。だからその翌年に学生の反乱を描いた『if もしも‥‥』が栄冠に輝いたのはある種の必然だったわけだ。 ヌーヴェルヴァーグ(新しい波)を英語では「ニュー・ウェイヴ」という。同時代の英国にもそう呼ばれた映画作家の集団が存在しており、『if もしも‥‥』はこの英国ニュー・ウェイヴ映画のひとつの到達点的な作品でもあった。 この集団の代表的な映画監督としては、トニー・リチャードソン、カレル・ライス、そして『if もしも‥‥』の監督リンゼイ・アンダーソンが挙げられる。ライスとアンダーソンは当初、映画評論誌『シークエンス』の同人であり、その点も『カイエ・デュ・シネマ』の同人だったヌーヴェルヴァーグの作家たちとよく似ていた。 彼らはフリー・シネマと呼ばれた社会派ドキュメンタリーの製作を経て、劇映画へと進出していった。リチャードソンは『怒りを込めて振り返れ』(59年)や『蜜の味』(61年)といった力作を発表。ライスも『土曜の夜と月曜の朝』(60年)で続いた。アンダーソンの長編劇映画デビュー作は、そのライスが製作した『孤独の報酬』(63年)である。労働者階級出身のラグビー選手を描いたこのシリアス・ドラマは、主演のリチャード・ハリスがカンヌ映画祭で主演男優賞を獲得するなど高く評価された。 だがこれに続く長編はなかなか製作されなかった。アンダーソンは自分の資質に合った脚本をじっと待っていたのかもしれない。そんなところに『十字軍』と題された脚本が持ち込まれてきた。これを読んだアンダーソンは即座にストーリーが『新学期・操行ゼロ 』(33年)をベースにしたものであることを見抜き、映像化を決断したのだった。 29歳で夭折したフランスの映画監督ジャン・ヴィゴが撮った『新学期・操行ゼロ』は、抑圧的な寄宿舎学校の生活とそれに反抗する生徒たちを描いたことが原因で、政権批判と見做され12年間も上映禁止されていたという呪われた作品だった。しかしこれをヌーヴェルヴァーグの作家たちは絶賛。フランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』(59年)にも絶大な影響を与えていた。 そんな『新学期・操行ゼロ』の現実版ともいえる五月革命が、ヌーヴェルヴァーグの作家たちが住むフランスでは巻き起こっていた。しかしアンダーソンの住む英国では、ロックがポップ・カルチャーを席巻してはいたものの、文化が政治そのものに影響を及ぼす度合いはいまひとつだったのである。 こうした状況に苛立ったアンダーソンが起こした<映画内英国五月革命>が『if もしも‥‥』だったのかもしれない。その証拠に、冒頭シーンで顔の下半分をマフラーで隠し続けるトラヴィスの姿からは『大人は判ってくれない』、寮の部屋に貼られたマシンガンを抱える黒人のポスターからはゴダール『ワン・プラス・ワン』(68年)といったヌーヴェルヴァーグ作品へのオマージュを感じる。 アンダーソンの母校チェルトナム・カレッジで行われた撮影は、資金不足との戦いだったという。しかしアンダーソンは一部のシーンを安いモノクロのフィルムで撮影することで、これを乗り切った。そのため本作は、シーンによって唐突にモノクロに変わってしまうのだが、それがかえって意味ありげな効果をあげている。 公開された『if …もしも』は英国内で絶賛と誹謗中傷の両方を呼び起こした。これほどの社会的なインパクトを与えたのは、これがデビュー作だった主演俳優マルコム・マクダウェルの存在感によるところが大きい。 実はアンダーソンを含めて「ニュー・ウェイヴ」の映画作家たちのほとんどが上流階級出身のインテリだった。彼らが社会派なのはそうした自分の出自にやましさを感じていたからで、それゆえ主張自体は正しいものの、どこか絵空事的な雰囲気が漂っていたのである。だが労働者階級出身のマクダウェルは、その主張を不敵な演技によってぐっと生々しいものに変えてくれたのだ。 本作一本で一躍スターになったマクダウェルは、『オー! ラッキーマン』(73年)や『ブリタニア・ホスピタル』(82年)でもアンダーソンと組んでいるが、その際の役名はいずれも『if もしも‥‥』と同じミック・トラヴィスである。決して同一人物ではないのだが、アンダーソンのもとでマクダウェルが反逆者を演じる 時、彼はトラヴィスという人格になるのだろう。 トラヴィスのまたの名をアレックスという。なぜなら『if もしも‥‥』を観たスタンリー・キューブリックが、「主人公のアレックス役を演じられるのは彼しかいない!」とマクダウェルを主演に招いたのが、『時計じかけのオレンジ』(72年)だったからだ。マクダウェル一世一代の当たり役のアレックスのプロトタイプは『if もしも‥‥』にあったのだ。 『時計じかけのオレンジ』は多くの人間の人生を変えた。五月革命を真似た学生運動を英国の大学で行って失敗して以来、冴えない人生を送っていたマルコム・マクラーレンは、映画の斬新なデザイン感覚に触発されてロンドンにブティック「SEX」をオープン。パートナーのヴィヴィアン・ウエストウッドとともに過激なファッションの服をデザインしてセンセーションを巻き起こした。店の常連はやがてロック・バンド、セックス・ピストルズを結成。彼らは政治にまで影響を及ぼすロンドン・パンク・ムーヴメントの牽引者となっていった。 アメリカでは、1972年にアーサー・ブレマーという21歳の男が、大統領選挙出馬を狙っていたアラバマ州知事ウォレスの暗殺を図って逮捕された。彼は『時計じかけのオレンジ』を見て以来、ずっとウォレス暗殺を夢想していたという。そんな彼が出版した日記をモチーフにポール・シュレイダーが書いたのが、あのマーティン・スコセッシ監督作『タクシードライバー』の脚本である。ロバート・デ・ニーロが演じた主人公の名はトラヴィスといった。 シュレーダーやスコセッシが『if もしも‥‥』を観ていたかは定かではない。だが人が社会への反抗を叫ぶとき、本人の自覚があろうがなかろうが、『if もしも‥‥』が潜在的に影響を及ぼしている可能性は結構高いのである。■ COPYRIGHT © 2015 PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2015.12.20
テロの時代を予見した作品とその監督を、単純に不運とは言わせない!!〜『ブラック・サンデー』〜
映画はアメリカ大統領を含む8万人の観衆がフットボール試合を観戦する巨大スタジアムで、パレスチナのテロ集団"黒い九月"が仕掛けた無差別テロ計画を、イスラエル諜報特務庁"ムサド"が阻止しようとするパニック・サスペンス。単なる娯楽映画の枠組みを超え、強烈なリアリズムが終始観客の心を掴み続ける力作である。だが、日本公開目前の1977年、配給元に「上映すれば映画館を爆破する」という脅迫が届いたため、用意されていたプリントは破棄され、公開中止が決定する。その3年前の1974年には、東アジア反日武装戦線"狼"による三菱重工ビル爆破事件が発生し、衝撃の余波が続いていたこともあった。しかし、たとえ公開中止になろうとも、1970年代のハリウッド映画を代表する話題作へのファンの評価と飢餓感は消えることなく、2006年にはソフト化され、2011年、"第2回 午前十時の映画祭"に於いて、遂に細々ではあるが劇場公開の運びとなる。製作時から実に34年後の公開だった。 この映画が長く語り継がれる所以は、人物や状況を手持ちカメラやロングショットで追い続けるドキュメンタリー・タッチにある。物語の幕開けはベイルート。"黒い九月"のメンバーが祖国アメリカへの復讐に燃えるベトナム帰還兵、ランダー(ブルース・ダーン)を操り、無差別テロを計画しているアジトに、"ムサド"の特殊部隊が乱入。しかし、リーダーのカバコフ(ロバート・ショー)はその時シャワーを浴びていたテロの首謀者、ダリア(マルト・ケラー)を見逃したため、計画はやがて実行へと移されることになる。映画監督デビュー前にアメリカ空軍の映画班で記録映画を数多く手がけ、その後、TVの生番組を152番組も演出した経験があるジョン・フランケンハイマーは、冒頭の数分で手持ちカメラを存分に駆使。その効果は絶大で、実際はモロッコのタンジールで撮影されたベイルートのざらざらとした画像とも相まって、観客を即座にテロ前夜の緊迫した世界へと取り込んでしまう。 フランケンハイマーのリアルなタッチは人物像にも及ぶ。 イスラエルとパレスチナの終わらない報復の連鎖の中で、家族を失い、必然的に孤高のテロリストとならざるを得なかったダリアを、気丈ではあるが不幸な戦争の被害者として、出征先のベトナムで捕虜となったばかりに、解放され、帰国後は母国民から裏切り者の烙印を押され、妻子にも去られ、精神に異常を来したランダーを、祖国から見放された狂気の人物として各々描写。さらに、"ムサド"を率いてきたカバコフにすら、劇中で「もう殺戮はたくさんだ」といみじくも独白させる。そんなテロ戦争の深い闇の中で、舞台となるアメリカとアメリカ国民はただ逃げ惑うしかないという矛盾が浮かび上がる。まるで、あの9.11を予言したかのような原作と脚色は、その後、『羊たちの沈黙』(91)で世に出るベストセラー作家、トマス・ハリスによるもの。これはハリスにとって最初に映画化された原作であり、『羊~』から続く『ハンニバル』シリーズ以外で唯一映画化された作品でもあるのだ。 気鋭の作家の筆力を得て、フランケンハイマー・タッチは後半、さらにヒートアップして行く。ダリアとランダーが武器として用意したプラスティック爆弾の密輸入に成功し、まずはその威力を試すため、カリフォルニアのモハベ砂漠の小屋で爆破させると、トタンに無数のライフルダーツが開くシーンの視覚的恐怖から、テロ一味が決行の日時と場所に設定したマイアミのスーパーボウル当日、ランダーが操縦する爆弾を搭載した飛行船がスタジアム上空に接近するのを、カバコフがヘンコプターから身を乗り出して追跡する空中戦へと転じるクライマックスのカタルシスは半端ない。リアルな犯罪サスペンスが娯楽アクションに俄然シフトする瞬間だ。 スーパーボウルのシーンはNFLの全面協力の下、マイアミのオレンジボウルで行われた第10回スーパーボウル、ダラス・カウボーイズVSピッツバーグ・スティーラーズの試合前日、10000人のエキストラを投入して撮影された。試合当日にパニックシーンの撮影は危険だったからだ。エキストラは全員ボランティアだったため、後日、フランケンハイマーは謝礼代わりに彼らの仕事ぶりを得意のドキュメンタリー映画に収めることで、その献身に応えている。タイヤメーカー、グッドイヤーが飛行船を提供したのもフランケンハイマーの尽力によるもの。彼とグッドイヤーはFIレースを描いた『グラン・プリ』(66)以来、信頼関係にあったからだ。 『ブラック・サンデー』を語る上で、改めてジョン・フランケンハイマーを取り上げないわけにはいかない。映画の公開直前、配給のバラマウントはかつてない量のモニター試写を行い、結果、かつてない程の好評を獲得し、自信を持って劇場公開に踏み切った。『ジョーズ』(75)に匹敵するブロックバスターになると信じて。ところが、映画は同じ1977年に公開された『スター・ウォーズ』の興収に遠く及ばなかった。そして、これを境にフランケンハイマーは映画作家としてのカリスマを失う。モンスター映画『プロフェシー/恐怖の予言』(79)、ドン・ジョンソン主演のディテクティブもの『サンタモニカ・ダンディ』(89)、H・G・ウェルズ原作『D.N.A./ドクターモローの島』(96)等を発表したものの、どれも『ブラック・サンデー』以前の代表作、アカデミー賞4部門に輝いた『終身犯』(62)以下、『グラン・プリ』『フィクサー』(68)『ホースメン』(71)『フレンチ・コネクション2』(75)等と比べて、質的に劣る作品ばかりだった。 そして、2002年、フランケンハイマーは脊髄手術の合併症により72歳で死去。1960~70年代のハリウッド映画に独自のダイナミズムとリアリズムを持ち込んだ巨匠は、惜しまれつつ、ファンの記憶の中に仕舞い込まれる。ハリウッドメジャーの期待を裏切った彼自身も、もしかして、映画と同じく不運な人だったのかも知れない。しかし、遊園地を舞台に爆弾魔と検査官を攻防を描いた『ジェット・ローラー・コースター』や、同じフットボール試合で発生する狙撃事件を追った『パニック・イン・スタジアム』等、'77年に起きたパニック映画ブームの一翼を担った他作品と比べると、『ブラック・サンデー』がいかに大人の鑑賞に耐え得る重層構造になっているかがよく分かる。単純な悪人も、ひたすら雄々しいヒーローも登場しないテロの時代の空虚を画面にとらえながら、同時に、娯楽的要素もたっぷりのバニック映画とその監督を、単純に不運と呼ぶのはいささか申し訳ない気がする。■ COPYRIGHT © 2015 PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2015.12.12
死体消失事件をめぐる驚愕の真実を描き、スパニッシュ・スリラー&ミステリーの充実を証明する逸品~『ロスト・ボディ』~
このジャンルにおけるハリウッドやイギリスのクリエイターたちが映画界からTVドラマ界へと活動の場をシフトする傾向が強まるなか、スペイン映画こそが約100分間ひたすらハラハラ&ドキドキする映画を楽しみたい!という私たちの欲求を補完してくれる役目を果たしているのだ。“スパニッシュ”といえば、先頃ザ・シネマでも大々的に特集が組まれた“ホラー”のレベルの高さは広く知られているが、ミステリー&スリラーの充実ぶりも目覚ましいものがある。 近年のスペイン製スリラー&ミステリーの隆盛の元をたどってみると、アレハンドロ・アメナーバル監督の『テシス/次に私が殺される』(1996)、『オープン・ユア・アイズ』(1997)、『アザーズ』(2001)の成功が思い起こされる。とりわけアメリカ資本とタッグを組み、スター女優のニコール・キッドマンを主演に据えた『アザーズ』は、国際的なマーケットにおけるスペイン映画のブランドバリューを高めたエポック・メイキングな作品となった。 その後しばらくブランクは生じるものの、スペイン産の英語作品というパターンのプロジェクトは『[リミット]』(2010)、『レッド・ライト』(2012)、『記憶探偵と鍵のかかった少女』(2013)、『グランドピアノ 狙われた黒鍵』(2013)、『MAMA』(2013)へと受け継がれて現在に至っている。 スペインのジャンル・ムービー事情を語るうえでは『TIME CRIMES タイム・クライムス』(2007)も見落とせない。新人のナチョ・ビガロンド監督が放ったこの奇想天外なタイムパラドックスSFは、低予算作品でありながらスペイン国内で大ヒットを記録し、ファンタスティック系の映画祭で数多くの賞に輝いた。このような興行的な成功例が生まれると、スタジオやスポンサーに「スリラー&ミステリーは客を呼び込める」「海外に打って出ることができる」という自信が芽生え、新たな投資への好循環が沸き起こる。このジャンルで実績を積み重ねたプロデューサーやペドロ・アルモドバル、ギレルモ・デル・トロといった大物監督のバックアップのもと、若い才能たちが次々と育ち、今まさにスペインのジャンル・ムービーは豊かな“収穫期”を迎えている感がある。 ところが日本においては、スペイン製のスリラー&ミステリーが全国的なシネコン・チェーンのスクリーンにかかることは滅多にない。ここ数年、このジャンルの愛好家である筆者が唸らされた『ヒドゥン・フェイス』(2011)、『悪人に平穏なし』(2011)、『ネスト』(2014)、『ブラックハッカー』(2014)、『マーシュランド』(2014)といった快作は、いずれも小劇場や特集上映でひっそりと紹介されるにとどまっている。これらの“宝の山”のほとんどが、今もレンタルショップの片隅で日の目を見ずに眠っているのだ。 前置きが長くなって恐縮だが、今回ピックアップする『ロスト・ボディ』(2012)も“宝の山”の中の1本である。『ロスト・アイズ』(2010)、『ロスト・フロア』(2013)という似たタイトルのスペイン映画があっていささか紛らわしいが、これはどれも『永遠のこどもたち』(2007)のベレン・ルエダが主演を務めたミステリー・スリラーであるということ以外、内容的にはまったく繋がりがない。出来ばえに関しては『ロスト・ボディ』がダントツの面白さである。 日本では特集上映〈シッチェス映画祭セレクション〉で紹介された『ロスト・ボディ』は、ある真夜中、郊外の法医学研究所の死体安置所から製薬会社オーナーである高慢な中年女性マイカの遺体が忽然と消失したところから始まる。心臓発作で急死したマイカにはアレックスという年下の夫がおり、捜査に乗り出したベテランのハイメ警部はアレックスを呼び出し、彼がマイカを殺害して死体を隠蔽したのではないかと疑って事情聴取を始めるのだが……。 映画の比較的早い段階で、ひげ面の容疑者アレックスがマイカ殺しの犯人だという事実がフラッシュバックで観る者に提示される。ミステリーの核となるのは、なぜマイカの遺体が消えたのかという点だ。アレックスは外部にいる若く美しい愛人カルラと携帯で連絡を取りながら、ハイメ警部の厳しい事情聴取をのらりくらりとかわそうとするが、アレックスを取り巻く状況は悪化の一途をたどる。次第に追いつめられたアレックスは、特殊な毒薬を使って殺害したはずのマイカは実は生きていて、自分への復讐を実行しているのではないかという強迫観念に囚われていく。アレックスがマイカの幻影に脅えるシーンは、ほとんどホラー映画のようだ。 そもそも死体安置所を備えた2階建ての法医学研究所という空間を、警察の取調室代わりに仕立てたシチュエーションの妙がすばらしい。おそらく室内シーンの大半はセットで撮られたはずで、ミステリー・スリラーでありながらホラー的なムードを濃厚に漂わせた陰影豊かな美術、照明、撮影が、この映画のクオリティの高さを裏付けている。猛烈な雨が降りしきり、雷鳴の閃光がまたたく濃密な映像世界は、いつ幽霊が出没しても不思議ではない不気味な気配を醸し出している。 こうしたオリオル・パウロ監督率いるスタッフの的確な仕事ぶり、死美人役のベレン・ルエダとホセ・コロナド、ウーゴ・シルヴァらの演技巧者たちの迫真のアンサンブルに加え、何よりこの映画はオリジナル脚本が抜群に優れている。やがて死体消失の怪事件は夜明けの訪れとともに急展開を見せ、矢継ぎ早に意外な真相が明かされていく。いわゆるどんでん返しが待ち受けているわけだが、それは単にサプライズ効果を狙ったトリッキーな仕掛けではなく、登場人物の“情念”と結びついた本格ミステリーの醍醐味を堪能させてくれる。謎だらけの死体消失事件には、ある目的を達成するために恐ろしいほどの執念を燃やす首謀者とその共犯者が存在しているのだ! 巧妙な伏線をちりばめたうえで炸裂する“驚愕の真実”と、ラスト・カットまで持続する並々ならぬ緊迫感に筆者は舌を巻いた。こんな隠れた逸品を目の当たりにするたびに、スペイン製ジャンル・ムービーの発掘はしばらく止められそうもないと感じる今日この頃である。■ ©2012 Rodar y Rodar Cine y Television/A3 Films. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2015.12.05
髑髏が怪異な現象を巻き起こす『がい骨』は、今は亡き、2大怪奇スター競演が魅力!
だがハマー作品も、60年代終わり頃からマンネリ化と作品の質の低下(今振り返れば、それでも充分面白かったが)を招き、観客に飽きられはじめて興行も厳しい状況に陥っていった。それでもハマーを世界的に知らしめた、『フランケンシュタインの逆襲』(57年)と『吸血鬼ドラキュラ』(58年)でのピーター・カッシングとクリストファー・リーの競演は、ホラー映画史に刻むほどの名場面の数々を生んだ……。 比較的若い映画ファンからすれば、カッシングといえば『スター・ウォーズ』(77年)での帝国軍モフ・ターキン役で知られているし、リーの場合は『スター・ウォーズ エピソード2&3』(02・05年)のドゥークー伯爵役や『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズ(01・02・03年)のサルマン役、そしてティム・バートン監督作品などで人気を集めてきた名優だ。 ピーター・カッシングとクリストファー・リーは、60年代から英国製怪奇映画のスターとして海外でも広く知れ渡り、SF&ホラーのジャンル系映画を製作するアミカス・プロダクションの映画にもたびたび出演した。アミカスは、オムニバス形式の怪奇ホラー物に活路を見出し、『テラー博士の恐怖』(64年)をはじめ、『残酷の沼』(67年)、『怪奇!血のしたたる家』(71年)、『魔界からの招待状』(72年)などを次々と発表し、単独のSF&ホラーものでは、『Dr.フー in 怪人ダレクの惑星』(65年)、『怪奇!二つの顔の男』(71年)、『恐竜の島』(74年)、『地底王国』(76年)などを製作してきた。 そのアミカスが65年に製作した『がい骨』では、カッシングとリーを競演させたうえ、ハマーの『フランケンシュタインの怒り』(64年)や『帰って来たドラキュラ』(68年)では監督を務めつつ、Jホラーにも多大な影響を与えた心霊映画の名作『回転』(61年)、デヴィッド・リンチ監督の『エレファント・マン』(80年)や『砂の惑星』(84年)では撮影監督を手がけたフレディ・フランシスが監督に抜擢された。 怪奇スターのカッシングとリー、監督フランシスの3人は、アミカスのオムニバス作品『テラー博士の恐怖』で一度組んで実証済みの黄金トリオ。その3人が挑んだ『がい骨』は、ロバート・ブロック(代表作「サイコ」「アーカム計画」)の短編小説「サド侯爵の髑髏」(朝日ソノラマ発行「モンスター伝説 世界的怪物新アンソロジー」所収、現在絶版)が原作である。 物語はとてもシンプルで、悪魔学や黒魔術等のオカルト研究家として名高いクリストファー・メイトランド(ピーター・カッシング)が、骨董商人マルコが売りつけようとした不気味な髑髏の魔力に徐々に魅せられてゆくという怪奇譚。 メイトランドは、マルコから昨日も、人皮で装丁された古めかしい奇書「悪名高きサド侯爵の生涯」を購入し、それを愛でるように読んでいた。そして今回持ってきた髑髏は、サド侯爵のものだとマルコは言う。「1814年、サド侯爵が埋葬されてまもなく、頭部が盗まれた。盗んだのは骨相学者ピエールで、彼は研究対象としてサドに興味があった。サドが本当に常軌を逸していたかを、髑髏から探ろうとしていたんだ。数日後、死んだピエールの友人である遺言管理人ロンドがピエールの家を訪れると、ピエールの愛人が“彼は、あの夜から邪悪に豹変した”と言う。まもなく髑髏の魔力により、ロンドがピエールの愛人をナイフで殺害した。彼は自らの犯行を説明できず、唯一、口にした言葉が、“髑髏(がい骨)”だった……」 メイトランドは、マルコからその話を聞かされても真実か否か疑わしく、しかもあまりに高額のため、購入を躊躇していた。 だがまもなく、メイトランドのライバルで知人でもあるオカルト蒐集家フィリップス卿(クリストファー・リー)から意外な事実を知らされる。あの髑髏は、フィリップス卿の蒐集品の一つで、何者かに盗まれたという。しかもフィリップス卿は、「盗まれて、ホッとしている。君も手を出すな」と。さらに迷信を信じない彼が、「あれは危険だ。サドが異常ではなく、悪霊に憑かれていた。髑髏には今も悪霊が……」と言う姿を見たメイトランドは、あの髑髏がサドのものであると確信を得て、心底欲しくなってしまう。 そしてフィリップス卿は、先日の有名なオークションで17世紀の石像4体(ルシファー、ベルゼブブ、リヴァイアサン、バルベリト)を高額落札したのは、髑髏の意志だったと言う。 導入部のオークション会場で、フィリップス卿が石像4体をメイトランドと異様に競って落札した理由がここにあった。会場でフィリップス卿が少しばかり病的に見えたのも、髑髏に脅えていたせいかもしれない。あげくに、その石像がどのように用いられるのか、フィリップス卿が身を持って知る展開も見事だった。 かたやメイトランドにとって、マニアやコレクターの性(さが)のせいか、恐怖や呪いの話を聞かされても、それ以上にサド侯爵の髑髏が欲しくてたまらない。私のものにするんだという強い執着心を抱き、なんとか手に入れようとする。 サド侯爵の髑髏(造型物らしさはなく、本物の人骨のよう)は不気味だが、見た目は“がい骨”そのもの。髑髏の意志を表現するため、髑髏の2つの眼孔の内側から見たような主観映像がたびたび挿入される。それはメイトランドを見据えるかのような印象を与えるが、恐怖までは感じられない。そのため、髑髏で恐怖を表現するのではなく、髑髏の意志によって人間の欲望が増幅(強調)され、存在感いっぱいの怪奇スターが異常行動を見せる! そこに緊迫感が生まれ、恐怖を滲ませる。 例えばその一つが、マルコのアパートをメイトランドが訪れた際に起きる衝撃のアクシデントだろう。ある男がアパートの上層階から、吹き抜けに取り付けてあるステンドグラスを幾つもつき破って落下してゆく凄絶ショット(まるでダリオ・アルジェント作品を観ているような興奮を覚えた)。 白眉はメイトランドと髑髏が対峙する、約20分にもおよぶ終盤のシークエンスだろうか。メイトランドは、髑髏を自分の書斎のガラス戸棚に収容するが、やがて髑髏は魔力を発揮し宙に浮遊しはじめる。その魔力に屈したメイトランドは、ベッドに寝ている妻を殺害しようとする。この一連のくだりは、ピーター・カッシングの台詞らしい台詞がひとつもない一人芝居で、彼の名演とフレディ・フランシスの演出が相まって、見事な緊迫感を生んでいる。 現在のホラー映画はVFXの見せ場が幅を利かせているが、かつては怪奇スターと監督の絶妙なコラボレーションによって興奮したものである。VFXの見せ場も嬉しいが、今では怪奇スター不在に寂しさを感じる。 劇中半ばに、メイトランドとフィリップス卿がビリヤードを興じる場面がある。カッシング、リー、フランシスの3人は鬼籍に入ってしまったが、あの世でのんびりとビリヤードを楽しんで欲しいと願う。『がい骨』での怪奇スター競演を観ながら、映画界で長年活躍してきた3人に感謝したい気持ちでいっぱい……。■ COPYRIGHT © 2015 BY PARAMOUNT PICTURES CORPORATION. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2015.11.22
話題の食人族映画『グリーン・インフェルノ』のイーライ・ロスが原案・製作・脚本・主演したディザスター・パニック・ホラー〜『アフターショック』〜
これはルッジェロ・デオダート監督の『食人族』(81年)やウンベルト・レンツィ監督の『人喰族』(84年)等の人喰い族を題材にしたモンド映画をリスペクトした作品である。とりわけ前者の『食人族』は、POV(主観映像)によるファウンドフッテージ形式をとったモキュメンタリー(疑似ドキュメント)作品にも関わらず、日本では衝撃のドキュメンタリーという悪ノリ宣伝にのって劇場公開され、真実か?作り物か?の議論を呼んで異例の大ヒット! ちなみにモンド映画とは、観客の見世物的な好奇心をそそらせるような猟奇系ドキュメンタリー、もしくはモキュメンタリーのことを指し、モンドはグァルティエロ・ヤコペッティ監督のドキュメンタリー映画『世界残酷物語』(62年)の原題“MONDO CANE”に由来する。 でも『グリーン・インフェルノ』は、ファウンドフッテージ物でもモキュメンタリーでもなく、モンド映画が持ついかがわしさは多少薄れているものの、生々しい残虐描写を盛り込みつつ、現代的アプローチで食人族映画を復活させた。ジャングルの森林破壊によって先住民のヤハ族が絶滅に瀕すると考えた過激な学生グループが小型飛行機に乗るが、熱帯雨林に墜落する。生き残った学生数人はヤハ族に捕われてしまい、一人ずつ喰われていった。ヤハ族は食人族だったのだ……。 生きた人間からえぐった眼球を生のまま食べたり(オエッ)、生きた人間の四肢をナタで切断して肉塊を燻製にして(笑)食べるなど、ロス監督らしいエゲツない描写に溢れている。 血生臭い『グリーン・インフェルノ』の脚本を務めたロスとギレルモ・アモエドは、その前にディザスター・パニック・ホラー『アフターショック』(12年)の脚本で組んでいる。 ロスは、ある映画祭で上映されたニコラス・ロペス監督の作品を観てとても気に入り、いつか一緒に組もうと約束した。そしてロペス監督がチリ地震での体験を基にした作品を作りたいと言うと、ロスも意気投合し製作が決定。ロペス監督の盟友ともいえる脚本家ギレルモ・アモエドも参加し、ロスは製作と共同脚本を務め、俳優として出演もした。 チリを観光旅行する男友だちの3人が、ワインを愉しみつつ、昼は観光、夜はクラブで女性をハント。さながら導入部は、『ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』(09年)風のダメンズな匂いを感じさせながら、そこに巨大地震が起きて一変! ガラス片が体に突き刺さった女性とか(痛々しいっ)、壁が崩れ、天井からコンクリートの塊が落下してきて人間が果実のように潰れて圧死する! さっきまで、生の狂騒を感じさせていた空間が、阿鼻叫喚の地獄絵図に様変わり。津波が来るぞ、来るぞっという噂(情報)が流れだし、生き残った人間たちは高台を目指して右往左往するし、パニックに乗じて暴動や略奪があちこちで起こり、しかも刑務所から囚人たちが多数脱走し、更に混沌とした世界に変貌する。 大地震による恐怖もあるが、それによって引き起こされた人間のモラル崩壊が相次いで描かれる。地震の恐怖以上に人間の様々な凶行が、一層恐ろしく映し出される。 実は『ホステル』と『グリーン・インフェルノ』と同じく、『アフターショック』も似たようなシンプルな構成を取っている。導入部は若者たちの姿を、妙に脳天気に映し出しながら、突然ある異常な事態を迎えて恐怖の坩堝に落ちていく展開だ。その落差により、ショックと残虐に満ちた描写が一層際立つし、観る者たちに主人公たちの苦しみを疑似体験させようとする。ちぎれた腕を探す男の姿はどこか滑稽に映るが、どこか真実味をおびているし、時に不快感をももよおさせるほどの陰惨な場面も続出する。 例えば『ホステル』でいえば、拷問人に肉体を痛めつけられて肉体損壊される過程を丹念に見せながら、主人公と思しき人物が、隙をついてなんとか逃げ出そうとする際の、きりきりと胃が痛むような緊迫感が持続していた。あのなんともいいようのないショックと恐怖がたまらなかった。 おそらくイーライ・ロスが固執し続けるのは、彼自身が若い頃に『食人族』や『人喰族』等のモンド映画を観て受けた、超絶トラウマ体験の衝撃……すなわち“恐くて目を覆いたくなるようなショックで不快なものを見せつけてやろう”という精神なんだと思う。それがロスの心にも息づいていて、自分と同じようなトラウマ体験を、今の観客にも味あわせてやろうという意気込みが感じられる。まさにロスの監督作品は、“恐怖とショックと残酷の遺産”である。 だからロスにとって、作品がモンド映画か否かではなく、思わず観客の気持ちをひかせてしまうほどの、人間たちのリアルで恐るべき所業が主として映し出される。人間ほど恐くて魅力的なものはないのだから。 『アフターショック』では、地震よりも人間たちのほうが恐ろしい。パニックに乗じて囚人たちが民衆の中に巧みに入り混じってしまい、助けてもらいたいと思っても助けてもらえない状況に陥ってゆくし、普段は人の良さそうな人たちでも、銃を手にして発砲してくる始末だ。無法地帯になってしまった街中では、危険な不良グループがたむろし、だからといって重傷者を助けるわけでもなく、逆に弱っている者を血祭りにあげて嬌声をあげるし、若い女性を見れば、ここぞとばかりに襲いかかって欲望の赴くままにレイプする。 そうかと思えば、クラブから主人公たちを外に導こうとする、優しい清掃のおばさんがあっけなく死んでしまうし、展望台に運ぶケーブルカーのワイヤーが突然切れて、高所から傾斜度の高い坂をすべり落ちて婦女子全員が死んでしまう場面がある。人間の善悪では関係ないところで起きる自然災害の恐怖を伝える一方、神に仕える神父と修道女たちのいかがわしい関係によってできただろう堕胎児が地下墓地に埋葬されていて、善悪の人間に関わらず、誰しも恐ろしい本性を隠し持っていることを匂わせている。 そしてラストで、なんとか助かって、ようやく解放された空間に出てきたヒロインが直面する恐怖には、観る人によっては御都合主義と見られそうだが、私なりの解釈では、地獄からなかなか抜け出せなかった悪夢のようなものだと解釈した。現実かもしれないし、ヒロインが見た恐ろしい夢かもしれない。そのあたりのさじ加減が、実に上手い。 『アフターショック』はイーライ・ロスの監督作品ではないが、ロスの特徴が多分に盛り込まれた作品である。ちなみに『アフターショック』でロスが、ヒロインの一人、ロレンツァ・イッツォと共演し、その数年後に結婚するまでに到った記念碑的な作品でもある。ロスはイッツォを『グリーン・インフェルノ』の主役に起用し、食人族の族長が見染める処女を演じさせた。『アフターショック』の彼女とはかなりイメージが異なるので、見比べてみるのも一興である。■ ©2012 Vertebra Aftershock Film, LLC
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COLUMN/コラム2015.11.12
【DVD/BD未発売】暗殺組織のキテレツな内部抗争を英国流のブラックユーモア満載で描いたアクション・コメディ~『世界殺人公社』~
今にして振り返れば、1980年代以前のテレビ東京(かつての名称は東京12チャンネルだった)やUHFの映画枠は宝の山だった。真っ昼間や深夜にたまたま観てしまったアクションやスリラーやホラーがいちいち強烈で、あの頃の記憶をたどると「あれ、何ていうタイトルだったかなあ」「死ぬまでに何とかもう一度観られないものか」という怪作、珍作、ケッ作がわんさか脳裏に浮かび上がってくる。日本での封切り時に「殺人のことなら、何でも、ご要望に応じます!!」という人を食ったキャッチコピーがつけられた1969年のイギリス映画『世界殺人公社』も、まさにそんな幻の1本であった。 20世紀初頭のヨーロッパ各地で謎だらけの殺人事件が続発し、ロンドンの新米女性記者ソーニャが取材に乗り出すところから物語が始まる。道ばたで盲目の男性からメモを手渡され、指示に従って帽子の仕立屋に赴くと、あれよあれよという間に馬車に乗せられ、到着した先は“世界殺人公社”の本部。何とこのアングラ組織は殺人代行サービスを請け負い、奇想天外な手口で要人の暗殺を遂行しているのだ! 実はこの映画、「野性の呼び声」「白い牙」などで名高い動物文学の大家ジャック・ロンドンの未完小説の映画化なのだが、動物はさっぱり出てこず、不条理なまでに奇抜なストーリー展開が滅法面白い。組織の2代目チェアマンであるロシア系のイワン・ドラゴミロフと対面したソーニャは、殺しのターゲットを尋ねられて「イワン・ドラゴミロフよ」と返答する。するとイワンは「おやおや、信じがたいことだが、標的はボクのようだな」などと困惑しつつも、その意表を突いた依頼を2万ポンドで受諾。欲にまみれて堕落した組織の幹部たちに自分の命を狙わせ、自らも幹部たちを殺しにかかると宣言する。要するに、世にも奇妙な暗殺組織内での殺人合戦が繰り広げられていくのだ。 何ともデタラメな話ではあるが、映画の中身は驚くほど多彩な趣向を凝らした仕上がりで、まずは伝説のTVシリーズ「プリズナーNO.6」の音楽を手がけたロン・グレイナー作の胸弾むスコアが、アールヌーヴォー風デザインのお洒落なメインタイトルに響き渡るオープニングからして掴みはOK。 続いて登場するヒロインはダイアナ・リグですよ。彼女こそは『女王陛下の007』のボンドガール、すなわちジェームズ・ボンドが唯一結婚したテレサを演じたイギリス人女優。ボンドガール女優は大成しないというジンクス通り、その後のキャリアはパッとしなかったが、本作は『女王陛下の007』と同年に製作されたリグの貴重な主演作なのである。 そして真の主人公たるイワン・ドラゴミロフに扮するのは、紳士の国イギリスらしからぬ異端の野獣派スターとして当時名を馳せたオリヴァー・リード。暗殺を生業とする言わばシリアルキラーのくせに、罪を犯した悪人殺しに崇高な使命感を抱き、世界をよりよくするために活動していると豪語するイワンを堂々と演じている。シーンチェンジごとに神出鬼没の変装&コスプレを披露しつつも、持ち前の無骨な風貌に反したスマートなアクションと、ドヤ顔で大見得を切るセリフ回しには見惚れずにいられない。 そんなオリヴァー・リード=イワンの命を狙う幹部連中のキャスティングもやけに豪華だ。クルト・ユルゲンス、フィリップ・ノワレらの国際色豊かな面々が、ドイツの将軍やらパリの売春ホテル経営者に扮して曲者ぶりを発揮。おまけに組織を乗っ取ってヨーロッパを支配する野望に燃える副チェアマンをテリー・サバラスが演じるのだから、濃厚にして重厚な存在感もたっぷり。それなのにベイジル・ディアデン監督(『紳士同盟』『カーツーム』)の語り口は、とことんハイテンポで軽妙洒脱だったりする。 前述の通り、本作は『女王陛下の007』と同年に作られたが、まるで歴代ボンドの中で最もユーモア感覚に長けたロジャー・ムーアの登場を先取りしたかのようなスパイ・コメディのテイストも味わえる。序盤、組織の幹部が円卓を囲むシーンは“スペクター”の会議のようだし、イワンとソーニャがロンドン、パリ、チューリッヒ、ウィーン、ヴェニスをめぐって群がる敵を返り討ちにしていく設定も“007”風。ダイアナ・リグに至ってはノングラマーのスリムボディを大胆露出(といってもヌードではなく、素肌にバスタオル姿どまりだが)し、『女王陛下の007』以上のお色気サービスを満喫させてくれる。 クライマックスは観てのお楽しみだが、巨大な飛行船と特大の爆弾を持ち出したそのシークエンスの何と馬鹿馬鹿しくて壮大で痛快なこと! ジェームズ・ボンドばりに八面六臂の大暴れを見せつけるオリヴァー・リードが、ますますロジャー・ムーアのように見えてくるこの懐かしの怪作。ザ・シネマでの放映にあたって初めてエンドロールを確認できたが、撮影場所のクレジットは案の定“made at パインウッド・スタジオ”であった。イギリス流のシニカルなユーモアが大爆発する逸品を、とことんご堪能あれ!■ TM, ® & © 2015 by Paramount Pictures. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2015.11.07
【DVD/BD未発売】淡い詩情を漂わせ、恋愛の残酷な本質にそっと触れた珠玉の小品~『くちづけ』~
なぜか日本では未だソフト化されていない1969年のアメリカ映画『くちづけ』は、アラン・J・パクラ監督のデビュー作である。ハリウッド・メジャーの一角、パラマウントでプロデューサーを務めたのちに監督へと転身したパクラは、ジェーン・フォンダ主演のサスペンス劇『コールガール』(71)で成功を収め、ウォーターゲート事件を題材にしてアカデミー賞4部門を制した『大統領の陰謀』(76)で名匠の仲間入りを果たした。そのほかにも『パララックス・ビュー』(74)、『ソフィーの選択』(82)、『推定無罪』(90)など、陰影あるミステリー映画や人間ドラマで職人的な手腕を発揮した。 そのパクラ監督が『コールガール』の2年前に発表した本作は、何やらエロティックな連想を誘う邦題がついているが、扇情的な官能描写とは無縁のみずみずしい青春ロマンスだ。主人公はアメリカ東部の大学に入学するため、バスに乗ろうとしているジェリー。いかにも内気な優等生といった風情で、昆虫オタクでもある彼の視界に突然、プーキー・アダムスという女の子が飛び込んでくる。 プーキーはジェリーとは別の大学の新入生なのだが、彼女は見かけも性格も普通の女子大生とは違っていた。文学少女風のショートヘアにべっ甲の丸縁メガネをかけ、困惑するジェリーにお構いなく「人間は70年間生きたとしても、いい時間は1分だけなのよ」などと甲高い声で一方的に奇妙なことをしゃべりまくる。バスを降りていったん別れた後も、ジェリーが入居した男子学生寮に押しかけてきて、一緒に遊ぼうと持ちかけてくる。かくして、すっかりプーキーのペースに巻き込まれたジェリーは、成り行き任せで彼女とのデートを重ねていくのだが……というお話だ。 本作が作られた1969年はアメリカン・ニューシネマの真っただ中だが、ここには『いちご白書』(70)のような若者たちの悲痛な叫びはない。翌1970年に大ヒットした『ある愛の詩』のように、身分の違いや難病といったドラマティックな要素が盛り込まれているわけでもない。ジェリーとプーキーが草原、牧場、教会などをぶらぶらとデートし、他愛のない会話を交わすシーンが大半を占めている。 しかし大学街の秋景色をバックに紡がれるこのラブ・ストーリーは得も言われぬ淡い詩情に満ちあふれており、フレッド・カーリン作曲、ザ・サンドパイパーズ演奏による主題歌「土曜の朝には」のセンチメンタルなメロディも耳にこびりついて離れない。このフォークソングはアカデミー歌曲賞候補に名を連ねたが、この年オスカー像をかっさらったのは『明日に向って撃て!』におけるバート・バカラックの「雨にぬれても」だった。 とはいえ、本作の魅力はノスタルジックな詩情だけではない。やがて中盤にさしかかるにつれ、映画のあちこちに不穏な“影”が見え隠れし始める。デートで墓場に立ち寄ったりする主人公たちに強風が吹きつけたり、プーキーがウソかマコトかわからない身の上話を告白したりと、それまで恋に夢中であることの喜びを謳い上げていた映画に、そこはかとなく嫌な予兆がまぎれ込んでくるのだ。エキセントリックな言動を連発していたプーキーが、実はただならぬ“孤独恐怖症”とでもいうべき病的な一面を抱えていることが明らかになってきて、ふたりの関係はメランコリックなトーンに覆われていく。 終盤、忽然と姿を眩ましたプーキーのことが心配になったジェリーが、ようやく彼女の居場所を突き止めてある部屋の“扉”を開けるシーンは、観る者に最悪のバッドエンディングさえ予感させ、ほとんどスリラー映画のように恐ろしい。 プーキーを演じたライザ・ミネリはご存じ代表作『キャバレー』(72)でアカデミー主演女優賞に輝いた大スターだが、それに先立って本作でもオスカー候補になっている。まるでストーカーのように押しかけてくるファニーフェイスのプーキーが、ジェリーとの恋を通してぐんぐんキュートに変貌していく様を生き生きと体現。後半には一転、ヒロインの内なる孤独の狂気をも滲ませたその演技は、今観てもすばらしい。ライザ・ミネリがまだ日本で“リザ・ミネリ”と呼ばれていた頃の映画初主演作である。 言うまでもなくラブ・ストーリーは今も昔も映画における最も“ありふれた”ジャンルだが、本作は何も特別なことを描いていないのに、一度観たら忘れられないラブ・ストーリーに仕上がっている。愛すべきキャラクターと魅惑的な詩情を打ち出し、誰もが経験したことのある恋愛の残酷な本質にそっと触れたこの映画は、今なお切ない刹那的なきらめきを保ち、ザ・シネマでの放映時に新たなファンを獲得するに違いない。■ TM, ® & © 2015 by Paramount Pictures. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2015.10.14
【DVD/BD未発売】ゴールドの輝きを放つ埋もれた至宝 オシャレな痛快娯楽活劇〜『黄金の眼』〜
時は、今を遡ること約半世紀前、当時まだ東西冷戦時代さなかの1960年代半ば。 『007/ドクター・ノオ』(62)を皮切りに、御存知、映画『007』シリーズが始まり、世界的に大ヒットしたのを受けて、『電撃フリント』2部作(66/67)や『サイレンサー』シリーズ(66-68)など、ダンディなスパイとセクシーな美女たちが敵味方相乱れて対峙し、華麗にして荒唐無稽な冒険とアヴァンチュールを繰り広げる同種の軽妙な娯楽スパイ映画が続々と登場。TVドラマの世界でも、「0011ナポレオン・ソロ」シリーズ(64-68)、「スパイ大作戦」シリーズ(66-73)など、数多くの模倣・類似作が作られて、60年代のポップで華やかなエンターテインメント文化は、世界中で大いに活況を呈することになる。 「スパイ大作戦」は、いまや周知の通り、トム・クルーズ製作・主演の大ヒット映画『ミッション:インポッシブル』シリーズ(96-)として現代に蘇ったわけだが、そのオリジナルTV版の誕生に、『007』シリーズと並んで大きな影響を与えたのが、こちらはスパイではなく、泥棒一味による大胆不敵な強奪計画の行く末を愉快に綴った映画『トプカピ』(64)。そして、これに続いて、イタリア製の『黄金の七人』(65)や、オードリー・ヘップバーン主演の『おしゃれ泥棒』(66)など、上質の娯楽犯罪喜劇映画も次々と生み出された。 さらには、お馴染みの人気アメコミ・ヒーロー「バットマン」も、実写版TVドラマ・シリーズ(66-68)として全米のお茶の間に復活。フランスからは、往年の人気大衆小説をもとに、覆面の怪盗主人公が『ファントマ』映画3部作 (64-67)で蘇り、さらには、イギリスの新聞連載漫画を原作に、異才ジョゼフ・ロージーが、キャンプ趣味満載の奇妙奇天烈な女スパイ映画『唇からナイフ』(66)を発表するのも、まさにこの頃。 そして、奇しくも日本ではあのモンキー・パンチ原作のお馴染みの人気漫画「ルパン三世」の雑誌連載が始まった1967年、イタリアから、同国の人気コミックを映画化した新たな魅惑作が登場する。それが、今回ここに紹介する痛快娯楽活劇『黄金の眼』(67)だ。 ■イタリア映画界が生んだマエストロ、マリオ・バーヴァの世界へようこそ 『黄金の眼』の監督を手がけたのは、本来“イタリアン・ホラーの父”として名高いマリオ・バーヴァ(1914-80)。遅咲きの長編劇映画監督デビュー作『血ぬられた墓標』(60)で世界的ヒットを飛ばして、イタリア映画界に一躍ホラー映画ブームを巻き起こした彼は、以後も耽美的なゴシック・ホラーの傑作を次々と放つ一方、時代に先駆けて“ジャッロ”と呼ばれる猟奇サスペンスものやスラッシャー映画も手がけて、ホラー映画の新たな地平を切り拓いたマエストロ。独特の様式美に満ちた彼の映像世界に魅せられる映画人たちは数多く、『呪いの館』(66)が、オムニバス映画『世にも怪奇な物語』(68)の中でフェデリコ・フェリーニ監督が演出を手がけた一挿話に、また、SFホラーの『バンパイアの惑星』(65)がリドリー・スコット監督の『エイリアン』(79)に多大な影響を与えたほか、マーティン・スコセッシやティム・バートン、ジョン・カーペンター、そして日本の黒沢清といった錚々たる映画作家たちが、バーヴァ映画の熱烈なファンであることを公言している。 その時々の映画界の流行り廃りに応じて、時には史劇やマカロニ・ウェスタンなど、他ジャンルの作品も手がけることもあったバーヴァ監督にとって、本作は結局、娯楽犯罪活劇に挑む最初で最後の機会となったが、冒頭で列挙したような、同時代のさまざまなエンターテインメント作品のエッセンスを巧みにすくい取って混ぜ合わせつつ、そこに彼ならではの創意工夫に富んだ演出と、卓越したヴィジュアル・センス、そして、一見しただけではなかなか気付かない、さりげないトリック撮影を随所に効果的に盛り込み、誰もが理屈抜きに面白く楽しめて、至福のひと時を味わえること請け合いの、極上の会心作に仕立てている。 『黄金の眼』の物語の内容はいたって単純明快で、神出鬼没の覆面の怪盗ディアボリックが、何とか彼をふん捕まえようと躍起になる警部や大臣ら、お偉方たちの涙ぐましい努力を嘲笑うかのように、高価な宝飾品や金塊を獲物と付け狙っては、大胆不敵にして奇想天外な犯罪計画を次々と立案実行していくというもの。首尾よくことが運んだ際に、ジョン・フィリップ・ロー演じるディアボリックが、してやったりとばかり、ムハハハハ~と上げる高笑いが何とも小気味よく、それを耳にする我々の方まで、ついニヤリと頬が緩んでしまう。単純で強烈なエレキサウンドの印象的なギターリフをはじめ、瞑想的なシタールの音色や、甘い吐息にも似た独特の女声コーラスなど、イタリアが生んだもうひとりの偉大なマエストロたるエンニオ・モリコーネが多彩に奏でる本作の映画音楽も、いつもながら素晴らしい。 そしてまた、主人公のディアボリックが、恋人にして仕事の相棒でもあるセクシーなブロンド美女のエヴァと、時あるごとに甘美で心ときめく愛の戯れを交わす様子を、何とも悩ましい衣裳や小道具、斬新で奇抜なセット、そして絶妙な構図とカメラワークの巧みな連携プレーで、どこまでも遊び心いっぱいに妖艶に描いてみせるバーヴァ監督の演出も、心憎いほどオシャレでエレガントだ(エヴァをセクシーでキュートな魅力満点に演じるオーストリア出身の女優、マリサ・メルの美しい容姿も忘れ難く、とりわけ物語の終盤、彼女の立ち姿を下から仰ぎ見るようにして捉えるショットは、最高にグルーヴィー! ちなみに、エヴァとディアボリックの2人がガラス張りの浴室でシャワーを浴びる場面、そして、無数の高額紙幣で埋め尽くされた回転ベッド上で裸になって抱き合う2人、という本作のオツな名場面は、オタク趣味全開のロマン・コッポラの長編劇映画監督デビュー作『CQ』(2001)の中でも再現されているほか、ジョン・フィリップ・ローその人も、同作に特別出演している)。 ■黄金の眼を持つ男、バーヴァの映像マジックの舞台裏 さらには、あのバットマンの秘密基地よろしく、ディアボリックが地中の洞窟に作り上げた秘密の隠れ家のレトロフューチャーなセット・デザインも実に見事で、本作の大きな見どころの一つといえるが、実はこれは、現実のものでもミニチュアのセットでもなく、実写で人物を映した背景にマットペイントで合成を施して作り上げたもの、と聞いて、さらに驚く人もきっと大勢いるに違いない。 実はバーヴァの父親は、初期のイタリア映画産業において撮影監督、そして特殊効果のパイオニアとして活躍した人物。当初は画家志望だったバーヴァ自身も、やがて映画界に進み、父親直伝の指導の下、特殊効果を活かした撮影トリックや、多彩な色を使った照明法などにも幅広く通じた有能な撮影監督として長年映画作りの現場に関わり、独自のヴィジュアル・センスにより一層磨きをかけるという過去の蓄積があった。 そんなバーヴァ監督だけに、ちょっとしたトリックを使った特殊撮影は、すっかりお手の物。先に例に挙げたディアボリックの秘密の隠れ家の全景だけでなく、ゴツゴツと地肌の露出したその背景や、海辺に聳え立つ古城など、ほかにもバーヴァは本作の随所に、巧みなマット合成や多重露出、疑似夜景など、さまざまな撮影トリックを駆使して、映画魔術師ぶりを遺憾なく発揮している(前時代的でいかにも作り物めいて見えるスクリーン・プロセスは、今日の映画ファンの目からするとちょっと御愛嬌だが、そこがかえって、原作の平面的なコミックの世界に近づけているようにも見える)。映画の中盤、獲物と狙う高価なネックレスを盗み出すべく、古城の内部に忍び入ったディアボリックが、監視カメラのモニター画面をポラロイド写真に巧みにすり替えて、警察の目をまんまと欺くという一場面が登場するが、このときのディボリックは、世界屈指のバーヴァ映画マニア、ティム・ルーカスがいち早く指摘した通り、まさにバーヴァ監督その人の似姿にほかならないと言えるだろう。 ちなみに本作は、イタリアの大物映画プロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティスの製作のもとに作られたもので、バーヴァ監督に与えられた当初の製作予算は300万ドルと、それまで長年、それよりはるかに低予算での映画作りに慣れていた彼にとっては、桁違いの大金。ところがバーヴァは、結局、わずか40万ドルの製作費で映画を見事完成させてしまったという。それにすっかり感激したプロデューサーが、では残りの予算で次はぜひ続編を、と意気込んだのに対し、バーヴァ監督の方は、大作を引き受けると同時に重い責任を背負い込まされるのはもう御免、と断ってしまったのが、今となっては何とも惜しまれるところだ。 ■やっぱ『バーバレラ』より、バーヴァでしょ なお、デ・ラウレンティスは本作に続いて、フランスのエロティックなSFファンタジー・コミックを映画化した『バーバレラ』(68)を製作・発表。同作の監督ロジェ・ヴァディムの当時の愛妻ジェーン・フォンダが、いきなり冒頭で、何とも奇妙な無重力ストリップを披露するのが評判を呼び、キッチュな珍品としてカルト的人気を集めることになる。今回、いちおう参考のために、筆者も数十年ぶりに『バーバレラ』を見直したが、煩悩に苦しむガキの時分ならばいざ知らず、全篇ひたすらおバカな可愛い子チャンぶったカマトト演技を披露するジェーン・フォンダと、ヴァディム監督の平板で凡庸な演出に早々に飽き飽きして、すっかり退屈・閉口したことを、ここに謹んで報告しておきたい。 それにひきかえ、この『黄金の眼』は、何度見返してもやはり面白い。もうかれこれ約半世紀前に作られた映画だが、今日、『007』や『ミッション:インポッシブル』といったお馴染みの人気映画シリーズの近年の諸作品と並べて見ても、一向に遜色がないどころか、かえってこちらの方が小粒でもキラリと光って素晴らしいと思う、筆者のような変わり種の映画ファンも、案外多そうな気がする。冒頭の方では、本作の誕生にそれなりに寄与したであろう先行作品の名前をざっと列挙したが、それとは逆に、その後、本作の影響を何がしか受けて作られたエンターテインメント作品も、きっと数多くあるに違いない。 例えば、『007/サンダーボール作戦』(65)で鮮烈な悪役演技を披露したアドルフォ・チェリが、本作でも似たような犯罪組織のボス役で登場し、ディアボリックと因縁の対決を繰り広げることになるが、上空の飛行機から2人が飛び降りて相争う本作の場面が、『007』シリーズに再びフィードバックされて、あの『007/ムーンレイカー』(79)の冒頭のよりダイナミックなスカイダイビングの場面に繋がったのかもしれない。 あるいは、『ミッション:インポッシブル』シリーズの第4作『ゴースト・プロトコル』(2011)の中で、トム・クルーズがドバイの超高層ビルの壁面をよじのぼる例の場面。最初はてっきり、これは「スパイダーマン」が発想源だろうと思ったのだが、もしかすると、本作でディアボリックが古城の壁面をよじ登る場面が影響を与えている可能性もなくはない。ちなみに、アメリカの人気ヒップホップ・グループ、ビースティ・ボーイズが1998年に発表した「Body Movin’」という曲のミュージック・ビデオは、この場面を中心にした『黄金の眼』のパロディとなっている。 はたしてお互いに直接的な影響関係があったかどうか、本家本元は一体どちらか、といったマニアックな話は、いったん始めるとなかなかキリがないし、これ以上下手に立ち入ると、とんだ藪蛇にもなりかねないので、とりあえずここらで筆者も話を切り上げ、話の続きは皆さんにお任せすることにしよう。それでは、かつて日本でも劇場公開はされたものの、その後我が国ではなぜか長い間、DVDやブルーレイ化されることはおろか、ビデオソフト化されることもなく今日まできてしまった、この埋もれた逸品をどうか存分にお楽しみあれ!■ COPYRIGHT © 2015 PARAMOUNT PICTURES. 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