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PROGRAM/放送作品
恋人はゴースト
リース・ウィザースプーンの魅力満開。爽やかな気分を運んでくれるラブストーリー。
『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』でオスカー女優となったリース・ウィザースプーンだが、やはり彼女は21世紀の“ラブコメの女王”。本作のコミカルな役どころで真骨頂を発揮している。
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COLUMN/コラム2016.04.04
【DVD受注生産のみ】日本が格差社会となってしまった今ふたたび輝きを放つ、60年代のみずみずしい社会派ヒューマン・ドラマ〜『愛すれど心さびしく』〜
『愛すれど心さびしく』の方が響きも美しくスッキリとしているし、なによりもストーリーの核心を的確に捉えている。当時の配給会社担当者の優れたセンスが光るネーミングだ。 主人公は物静かな聾唖者の青年ジョン(アラン・アーキン)。彼は同じく聾唖者で知的障害を持つ親友スピロス(チャック・マッキャン)の後見人だが、たびたびトラブルを起こすことからスピロスは施設へ送られてしまう。唯一の親友と離れ離れになってしまったジョン。その孤独を察した担当医師の配慮によって、彼は施設からほど近い小さな町へ引っ越すこととなる。 古き良きアメリカの面影を今に残す、のどかで平和な田舎町ジェファーソン。だが、そこには人知れず悲しみや苦しみを抱える人々が暮らしている。ジョンが下宿することになったケリー一家は、父親が腰を痛めて働くことができなくなったため、家計の足しにと自宅の使わない部屋を貸出していた。高校生の長女ミック(ソンドラ・ロック)は音楽家を夢見ているが、家には楽器はおろかレコード・プレイヤーすら買う余裕もない。それでも頑張って勉強して、いつかは自分の夢を叶えたい。将来への希望を胸に抱く多感な年頃の少女。しかし、そんな彼女に貧困という残酷な現実が重くのしかかる。 ダイナーで夕食を取っていたジョンが知り合ったのは、酔って客に絡んでいる風来坊の男ブラント(ステイシー・キーチ)。元軍人である彼は除隊後に幾つもの職を転々とするも、どれも上手くいかずに自暴自棄となっていた。誰かに自分の話を聞いてもらいたい。ただそれだけなのに、人々は迷惑そうな顔をするだけで相手にもしない。 ダイナーを追い出されて怪我をしたブラント。それを見たジョンは、たまたま通りがかった黒人の医師コープランド(パーシー・ロドリゲス)に助けを求める。白人の治療はしないと頑なに突っぱねる彼を、ジョンはなんとか説得して応急処置を施してもらう。荒廃した黒人居住地区で小さな医院を営むコープランドは、貧困と差別に苦しむ同胞たちを献身的に支える一方、白人へ対しては静かに憎悪の目を向けていた。そんなある日、娘ポーシャ(シシリー・タイソン)の恋人が白人の若者グループに因縁をつけられ、相手を怪我させてしまう。逮捕された恋人を救うため父親に助けを求めるポーシャ。しかし、コープランドはそれを断る。黒人が白人と争えばどうなるのか、彼は痛いほどよく分かっていたからだ。しかし、それを理解できない娘は父親を激しく憎む。 貧困や人種差別など様々な社会問題を背景としながら、それらの障害によって人々の対立や誤解が生まれ、お互いの溝が深まっていく。今から50年近く前の1968年に作られた映画だが、その光景があまりにも現代の世相と似通っていることに少なからず驚かされるだろう。貧しさゆえ高校を中退せざるを得なくなったミック。もっと勉強したい、自分の可能性を試したい。そう涙ながらに訴える娘に、心を鬼にした母親が疲れきったように言う。“若い頃は誰だって夢を見るもの。でも、いずれは忘れてしまう”と。夢を見ることすら許されない貧困の現実。そのやるせない痛みは、今の観客の胸にも鋭く突き刺さるはずだ。 社会の理不尽に心を打ち砕かれ、言いようのない悲しみを抱えた人々。そんな彼らに、主人公ジョンは深い理解を示し、癒しと救いを与えていくことになる。貧しさにゆえに崩壊しかけたケリー一家、社会に馴染むことのできない不器用なブラント、人種差別が心の壁を作ってしまったコープランド親子。言葉を喋ることのできないジョンは、だからこそ彼らの悩みや問題の根幹を鋭い観察眼で見抜き、そっと優しく背中を押していく。人は誰もが孤独な存在。でも、お互いに心を開けば分かり合える。そう気づかせていく。なぜなら、そんな彼も本当は孤独だからだ。 ここからはネタバレになってしまうため、詳しくは述べない。ジョンを待ち受ける運命は哀しくもほろ苦いが、しかし同時にささやかな希望の余韻も残す。彼が人々に示してくれた優しさと思いやり。それは、2016年の今の我々にも必要なものだと言えよう。 そして、本作はその繊細かつ瑞々しい演出のタッチ、夏から秋へかけての季節の移り変わりを叙情的に捉えた美しい映像にも特筆すべきものがある。 監督はロバート・エリス・ミラー。’50年代から『うちのママは世界一』や『ルート66』などのテレビドラマを手がけてきた彼は、ジェーン・フォンダ主演のラブコメディ『水曜ならいいわ』(’66年)で劇場用映画デビュー。キアヌ・リーヴス主演の『スウィート・ノベンバー』(’01)としてリメイクされた『今宵限りの恋』(’68)を経て、本作のゴールデン・グローブ賞作品賞ノミネートで一躍評価されるようになった。 その後、ジェームズ・コバーン主演のコメディ『新ハスラー』(’80)やブルック・シールズ主演のアメコミ活劇『ブレンダ・スター』(’89)など、わりと多岐に渡るジャンルを手がけた人だが、やはり本作のような繊細で美しいドラマに本領を発揮する人だと言えよう。 その証拠とも言うべきが、この次に撮った『きんぽうげ』(’70)。こちらは兄妹のように育ったいとこ同士の男女を主人公に、それぞれが理想の恋人を見つけて4人で共同生活を始めるというお話。フリーセックスの花開く時代を物語るかのように、のびのびとした奔放な恋愛関係を繰り広げていく彼らだが、しかしそんな自由はいつまでも続かない。 嫉妬や束縛。ナイーブな若者たちが目覚めていく人間のどうしようもない性(さが)。楽しい共同生活はやがて終わりを迎え、彼らは人生のままならなさを通じて大人へと成長していく。このほろ苦さ。実はお互いに愛し合っていたのに…という、ある種の近親相姦を匂わせるいとこ同士の複雑な関係は若干余計に感じるが、しかしイギリスやスペイン、イタリア、スウェーデンなどヨーロッパ各国を舞台に、四季折々の美しい街や自然の風景を織り交ぜながら描かれる繊細なドラマは、さすがロバート・エリス・ミラーだと唸らされる。それだけに、後に『ブレンダ・スター』のような凡作を立て続けに撮ってキャリアを終わらせてしまったことが惜しまれる。 最後に素晴らしいキャストについても言及せねばなるまい。主人公ジョンを演じているのはアラン・アーキン。映画デビュー作『アメリカ上陸作戦』(’66)でいきなりアカデミー主演男優賞候補になった彼は、本作でも同賞にノミネート。近年は脇役として変わり者の爺さんなんかを演じており、『リトル・ミス・サンシャイン』(’06)でアカデミー助演男優賞を獲得したことも記憶に新しいだろう。どちらかというとアクの強い個性的な役者だが、本作では穏やかな心優しい青年を素朴な味わいで演じて観客の胸を揺さぶる。 一方、そんな彼と心を通わせる少女ミックを演じるソンドラ・ロックもまた魅力的だ。後に『ガントレット』(’77)や『ダーティファイター』(’78)などでヒロインを演じ、クリント・イーストウッドの公私に渡るパートナーとして活躍。別れる際にひと悶着したことでも話題となったが、そんな彼女も本作ではまだデビューしたての美少女。思春期特有の危うさや脆さを全身で体現しており、なんとも眩いばかりに初々しい。こちらもアカデミー賞の助演女優賞にノミネート。間違いなく彼女の代表作と呼んでいいだろう。■ TM & © Warner Bros. Entertainment Inc.
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PROGRAM/放送作品
(吹)復讐のガンマン
少女暴行魔を追い詰めろ!リー・ヴァン・クリーフ演じる孤高の保安官による、執念のマカロニ追跡劇!
マカロニ・ウエスタンの顔、リー・ヴァン・クリーフと、汚い不精ヒゲ男を演じさせたら天下一品のヨゴレ役者トーマス・ミリアンが荒野の追跡劇を演じる。ファンの間で伝説となったモリコーネの傑作テーマ曲も必聴だ。
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COLUMN/コラム2016.03.15
セックス依存症のクリスティーナ・リッチが拉致される監禁映画かと思いきや、実は、ブルースで歌い上げる魂を揺さぶる南部賛歌〜『ブラック・スネーク・モーン』〜
アメリカ深南部のミシシッピー州メンフィス。男とみれば見境なくセックスする奔放な少女レイ(クリスティーナ・リッチ)はトラブルに遭い、血まみれで路上に置き去りにされてしまう。彼女の命を救ったのは初老の黒人農夫ラザルス(サミュエル・L・ジャクソン)だった。だが彼はレイの素性を知ると、「お前から悪魔を追い払ってやる。それこそ神がワシに下された使命なのだ!」と語りだし、彼女を鎖で縛りつけるのだった …。 サミュエル・L・ジャクソンとクリスティーナ・リッチの共演作である、この『ブラック・スネーク・モーン』。序盤のストーリーだけを文字にすると、まるで『悪魔のいけにえ』のような米南部への偏見ムキ出しの70年代B級映画みたいだ。でもその後の展開は全く違う。ストーリーは寧ろ南部賛歌へと向かっていく。というのも、本作の監督クレイグ・ブリュワーはメンフィス出身であり、やはりこの街を舞台にした『ハッスル&フロウ』(05年)で長編デビューした男だから。 『ハッスル&フロウ』は、ピンプ(娼婦の元締め)をしていた男が突如ラッパーになることを決意して、友人や娼婦たちを巻き込んでデモテープを製作する姿を描いた異色のドラマだった。その背景にはむせかえるような南部の自然があり、あらゆる意味で「濃い」住民たち、そしてキリスト教会の存在があった。 地元の人気ラップグループ、スリーシックス・マフィアが製作した劇中曲「It's Hard Out Here for a Pimp」はアカデミー楽曲賞をラップ・ナンバーとして初めて受賞。そしてこの曲をパフォームした主演のテレンス・ハワードとタラジ・P・ヘンソンは10年後にテレビドラマ『エンパイア~成功の代償』(15年〜)でリユニオンし、まるでその後の二人のような人気ラッパーとその妻を演じて全米に大ブームを巻き起こしている。そう、クレイグ・ブリュワーがいなかったら『エンパイア~成功の代償』は存在しなかったのだ(それを『エンパイア』の製作陣も理解しているのか、ブリュワーは第2シーズンで監督に招かれている) そんなヒップホップ度が高い映画で世に出ながら、続く『ブラック・スネーク・モーン』ではブリュワーが表立ってヒップホップを語ることはない。その代わりに大々的に取り上げているのはブルースだ。 ラザルスは、かつて凄腕ブルースマンでありながら、妻を弟に奪われたショックでギターを弾くことを止めていた。しかしレイが過去の辛い体験からセックス依存症に陥っていたことを知ることで、生きていく限り自身の内面の闇と共存していくしかないことを悟る。そんなラザルスがレイの前で弾き語りしてみせる「ブラック・スネーク・モーン(黒い蛇の呻き)」は、癒しへの願望と苦痛の発露、欲望と畏れが一斉にドロリと押し寄せてくるようなナンバーだ。 この曲のオリジナルを唄ったのは、ブラインド・レモン・ジェファーソンという1893年生まれの盲目のブルースマンだ。ブラインド・メロンのバンド名の語源となった彼は1920年代に活躍した戦前ブルースの代表的存在だ。 加えて本作では、「ブルースとは一種類しかない、それは男と女の愛だ」「ブルースはハートから始まる」などと黒人の老人が延々と語るインタヴュー映像が物語に挟み込まれている。その老人こそ、やはり伝説的なブルースマンのサンハウスだったりする。 1902年にミシシッピー州で生まれたサンハウスは、チャーリー・パットンが創始したデルタ・ブルースを継承し、広めた人物。ディープな声と、ギターを叩きつけるような荒々しい演奏がトレードマークだ。60年代ロックに多大な影響を与えたロバート・ジョンソンとマディ・ウォーターズは彼の弟子にあたる。 1942年の録音を最後に音楽シーンから姿を消してしまっていたサンハウスだが、それはミュージシャンを引退してニューヨークで一労働者として働いていたから。1964年に熱心なファンによって生存が確認され、再び活躍するようになった。インタヴュー映像はその復活後に撮られたものだ。本作は、サンハウスが説く「ブルース論」をドラマ化した映画であるとも言えるだろう。 かつて人気ブルースマンだったのに今は農夫というラザルスのキャラクターは、ロック・ファンには奇妙に感じられるかもしれない。しかし活動の基盤がクローズドな黒人コミュニティである以上、音楽一本で食べていくのは並大抵のことではない。サンハウスもそうだったし、もっと後の世代でもR.L.バーンサイドのように半農半ブルースマンの生活を送っていた者は多い。バーンサイドが音楽に専念出来るようになったのは、65歳のときにドキュメンタリー映画『Deep Blues: A Musical Pilgrimage to the Crossroads』(91年)でデルタ・ブルースのスタイルを守り続けている存在としてクローズアップされて以降のことだ。 『ブラック・スネーク・モーン』におけるラザルスの演奏スタイルは、このR.L.バーンサイドを参考にしている。劇中、酒場でジャクソンがバックバンドを従えて「アリス・メイ」という曲を演奏して客を大いに沸かせるシーンがあるのだが、「アリス・メイ」はバーンサイドの代表曲であり、バックバンドもこの映画の撮影開始直前に亡くなっていたバーンサイドのサイドマンたちなのだ。 不倫や煩悩、犯罪といった人間のダークサイドを歌うブルースは、日本では反キリスト教的な音楽として捉えられることが多い。だが実際にはこうした音楽を愛する南部の人々は、熱心なキリスト教信者でもある。彼らにとっては、ダークサイドも聖なるもの、永遠なるものを求める気持ちも生きる上で欠かせないものなのだ。ブルースで生きる力を取り戻したレイが歌う曲がゴスペル・ソング「This Little Light of Mine」であることがそれを証明している。 そのレイを演じるクリスティーナ・リッチは、この作品の翌年に少女マンガのような『ペネロピ』(08年)に主演しているとはとても信じがたい捨て身の熱演を披露。対するサミュエル・L・ジャクソンも得意の説教調のセリフ回しや狂気を帯びた表情はもちろん、本作のために習得したというギターの腕も素晴らしい。個人的には『アンブレイカブル』(00年)と並ぶジャクソンのベスト・アクトだと思う。またレイの恋人に扮したジャスティン・ティンバーレイクの脆さを感じさせる演技も見ものだ。 本作を発表後のクレイグ・ブリュワーは、残念ながらその特異な才能を全面的に活かせているとは言い難い。2011年には『フットルース 夢に向かって』を監督しているが、これはケヴィン・ベーコンのブレイク作『フットルース』(84年)のリメイク作。舞台を中西部から南部に変えたことや、脇役で出演していたマイルズ・テラーにブレイク・ポイントを与えるなど見所はそれなりにあるものの、やはりオリジナル脚本でないと内面が矛盾だらけのキャラクターが織りなす特濃ドラマは作れないようだ。 そんなブリュワーが暖めている企画に、チャーリー・プライドの伝記映画がある。プライドはミシシッピー州生まれの黒人でありながら、子どもの時からカントリー音楽に親しみ、黒人リーグの野球選手として活躍後に、カントリー・シンガーとしての活動を開始して人種の壁を乗り越えて遂には大スターになった人物。主演には盟友テレンス・ハワードを予定しているそうで、ブリュワー曰く、「ヒップホップ、ブルース、カントリーが揃うことでメンフィス三部作が完結する」のだそう。いつの日か、その構想が実現することを期待したいものだ。■ COPYRIGHT © 2016 BY PARAMOUNT VANTAGE, A DIVISION OF PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED.
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PROGRAM/放送作品
ザ・カンヌ・レジェンズ/栄光の歴史1~3
世界三大映画祭の一つであるカンヌ国際映画祭。その栄光と激動の歴史を描いたドキュメンタリー・シリーズ
カンヌ国際映画祭の栄光と激動の歴史を、貴重な映像やインタビューなどを交えて描くドキュメンタリー・シリーズ。
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COLUMN/コラム2016.03.08
白い世界に現れた、赤いコートの美少女! 若きロボット科学者と少女のミステリアスな関係を描いた〜『EVA<エヴァ>』〜
ロボットとひと口で言っても多彩である。漫画やアニメに登場する巨大ロボットを想起する人もいるだろうし、インダストリーのリアルな工業用ロボットを思い起こす人もいる。または今一番身近でポピュラーな、ロボット掃除機をあげる人もいるだろうか。でも『EVA』で描かれるのは、人工知能が備わった自律型で、人間社会と共存しうる高性能ロボットの開発と、それに伴う人間たちの感情である。ここに登場する精巧な“S・I”シリーズの最新型ロボットは、人間と見紛うほどリアル。 よく、人型の自律ロボットを描くにあたって思いだされるのが、アイザック・アシモフが提唱したロボット工学3原作。人間を守るための重要な規約で、「第1条/人間に危害を加えてはならない。第2条/第1条に反する場合を除き、人間に服従しなければならない。第3条/第1条及び第2条に反するおそれがない限り、自己を守らなければならない」……これらの規約は、人型ロボットの物語を構築していく際には、映画の作り手の意識・無意識を問わず、考えなければならない。 例えば、アシモフの原作小説「バイセンテニアル・マン」を基に、人間になりたいと願う家事用ロボットを描いた『アンドリューNDR114』(99年)をはじめ、感情を実験的にプログラムされた子供型ロボットがアイデンティティーを求めて彷徨う『A.I.』(01年)、アシモフの短編集「われは、ロボット」を原案にして、殺人事件の容疑がかけられたロボットと刑事が対峙する『アイ,ロボット』(04年)、法令違反の改造を施されたロボットが独自に進化を遂げてゆく『オートマタ』(14年)など、いずれも作品の底辺にアシモフのロボット工学3原則の匂いを感じ取ることができる。 ロボットが人間に近づこうとする、或いは、ロボットが進化するSFドラマを構築しようとする場合、ロボットを通じて人間の普遍的な姿を投影したり、科学の暴走に警鐘を鳴らすなどの表現を込めてきた。しかし『EVA』の舞台の近未来では、自律型の執事用ロボット“S・I・7”やペット型ロボット“グリス”などが、人間社会と密接に絡んで共存している。ここではロボットの進化や脅威を描くのではなく、人間とロボットの壁(境界)を超えた“普遍的な愛”を詩的に捉えている。 雪がしんしんと降り積もる郊外の静かな街を背景にして、ロボット製造から一度は逃げてしまった科学者が、再び自律型の高性能ロボットを作ろうとするドラマ。詩的でファンタジックなメルヘン要素を見せていく一方で、哀しみをおびた情緒的な愛の寓話とも受け取れる。例えば、ロボットが人間の指示に従わず、どうしようもない時にかける言葉がある。それはロボットに対する、最も神聖な言葉「目を閉じると、何が見える?」 するとロボットは、安らかに眠るように突然機能を停止!……それはロボットにとって、死を意味する。一度ショートした感情の記憶は修復不可能で、再起動しても同じロボットではなくなってしまう。そのあたりの表現が、ハリウッド映画とは異なるスペイン映画らしい芸術性か。 若くて優秀なロボット科学者アレックス・ガレル(『ラッシュ/プライドと友情』のダニエル・ブリュール)は、かつて高性能の自立型ロボット第1号“S・I・9”を研究・製造していたが、肝心の感情生成機能が欠けていて未完成のままだった。そして、突然どこかへ雲隠れしてしまってから10数年後、大学の女性ロボット科学者ジュリアに呼び戻され、完璧な自律型ロボットの製造を依頼される。彼は一緒にいたくなるようなロボットを造りたいと切望するが、そのためには外見や感情データを収集するための人間のモデルが必要だった。 そしてアレックスは、ロボット科学者で兄のダビッド、かつてのアレックスの恋人で兄の妻になっていたラナ・レヴィ(『スリーピングタイト 白肌の美女の異常な夜』のマルタ・エトゥラ)との久々の再会を果たした。 父亡きあと、空き家になった実家でロボット製造に取りかかるアレックスだったが、ある日、通りがかった小学校で赤いコートを着た美少女エヴァ(クラウディア・ヴェガ)を発見してから、喋ったり、何度も逢ううちに新たなロボット製造のモデルに相応しいと考えはじめる。 純白の世界の中、赤いコートを着て歩き回る10歳の美少女は、少々おませで、アレックスの心を無邪気に翻弄する。『ロリータ』(61年)のように、大人の男性と美少女の妖しげな匂いを仄かに放っているが、ある事実が判明する。それはエヴァが、兄ダビッドと元恋人ラナの娘だった。両親は、エヴァがアレックスと一緒に仕事をすることに反対していた。 エヴァ(EVA)の名は、旧約聖書の創世記に誕生した最初の女性イヴに由来し、ヘブライ語で“命”や“生きるもの”を意味する。ラナは、エヴァに何を託したかったのか? そしてアレックスが、エヴァがラナの娘と知らず、なぜエヴァに夢中になったのか? おそらく、ラナに対する秘かな想いを、知らず知らずの内にエヴァの中に見ていたためか。アレックスのエヴァへの気持ちは、ラナへの断ち切れぬ愛でもある。アレックスのラナへの強い愛情は、更に強い妄想を抱かせてしまい、意外な事実が明らかとなり、恐ろしい事態へと発展していく。 エヴァは母ラナに反対されながらも、好意を抱くアレックスに協力する。その結果、ロボットの感情記憶装置の設定データを採取され、“S・I・9”にプログラムされる。見たモノに反応し、人間のように経験が記憶を創りあげてゆくビジュアルは、まるで雪の結晶のようにファンタジックで美しいが、とても壊れやすいガラス細工のようにも見える。そして、アレックスのエヴァを通じて感じさせるラナへの愛も、雪の結晶のように美しくも儚い。 おそらく「街全体を白く染めあげている雪」と「“S・I・9”の心を創りあげる記憶」と「アレックスのラナに対する愛情の記憶」の3つを、結晶というシンボリックな形で関連づけているよう。 表向きはSF映画だが、その実、人間が愛に翻弄される詩的な寓話だった。アレックスの愛が新たな愛を生み、別の嫉妬や憎悪を生み、ある意味、結晶のようにつながっている。だから、ロボットらしい見せ場などのSF的醍醐味はほぼ皆無であるが、その代わりに詩的でファンタジック、それでいて哀切な世界観にしばらく浸っていたくなるほど。だから大人向けのSFダーク・メルヘンといった方が適切かもしれない。 それこそが『EVA』の最大の魅力だと思う。メルヘンのように雪の白い世界の中、赤いコートを着た美少女が現れ、大人たちにかつての愛を思い出させ、無邪気に翻弄してまわる。人間にとって、なかなか消せない愛、忘れられない愛は、記憶の中に生き続ける……そんな作り手の想いが伝わってくる。 ラナがエヴァによく読んであげた本が、「アラビアンナイト」だった。エヴァはその本について、こう言う。「眠りにつくお姫様を、王子様が殺さなきゃいけないの。だけどお姫様は、毎晩毎晩、王子様にステキなお話しをしていたの。王子様は、続きが気になって、お姫様を殺せなくなってしまうのよ。こうして一夜、一夜、過ぎていきました……」 美少女エヴァの寝顔は、安らかであって欲しい。■ ©Escándalo Films / Instituto Buñuel-Iberautor
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PROGRAM/放送作品
『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命(いのち)の泉』公開記念特番
シリーズ第4弾『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命(いのち)の泉』の見どころを紹介するミニ番組
シリーズ最新作『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命(いのち)の泉』が遂に公開。シリーズ最強の敵“黒ひげ”をはじめとした、実在の人物や伝説が多数登場。ジョニー・デップのインタビュー映像も必見!
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COLUMN/コラム2016.03.03
ソフィア・コッポラ、彼女の瞳にうつるもの〜『ヴァージン・スーサイズ』、『ロスト・イン・トランスレーション』、『マリー・アントワネット』、『SOMEWHERE』、『ブリングリング』
パーソナルな魅力が溢れ出した知的で美しい容姿。決して派手ではないけれどシンプル&エレガンスな、1点1点上質なアイテムをさらりと着こなすファッションセンス。 さらにはアートや音楽の洗練された感性さえを持ち合わせ、世界を代表する映画監督フランシス・フォード・コッポラを父に持つという恵まれた家柄で育った。女の人生を生きる上で、欲しいものをすべて手に入れた女性である。 映画監督としてだけでなく、新進気鋭のカメラマンとしての実績や、ファッションデザイナーとして「ミルクフェド」を設立し、最近ではその活動は映画の域を越え、ハイブランドのCM監督もこなす。 クリスチャンディオールのキャンペーンではナタリー・ポートマンを起用した「MissDior」のCM(2013年)を手がけ、オシャレ女子から圧倒的な支持をうける「Marc Jacobs」の人気フレグランス「デイジー」シリーズなどのCMも監督し、まるで映画の1シーンのようなショートトリップに世の女性達をいざなってくれたのも記憶に新しい。 更に、今年2016年には「椿姫」の後援者でイタリアのデザイナーのヴァレンティノ・ガラヴァーニがソフィアの『マリー・アントワネット』に感激したことから、イタリアのローマ歌劇場でのオペラ「椿姫」の舞台監督に抜擢された。ソフィアは、今まさに、初の「オペラ監督」としての挑戦に奮闘中なのである(公園期間は5月24日〜6月30日)。 自分の可能性を花開かせ続けるその姿から勇気をもらうと同時に、1度は彼女のような人生歩んでみたいとソフィアに強い憧れを抱く女性は少なくないはずだ。 生まれもって宝くじを引き当てたかのような特権を持つ存在でありながらも、決して家柄におごることなく自分を貫き、夢を叶える。 20世紀の「与えてもらう」ような受け身のお姫様ではなく、自分の夢を自分でつかみ取る彼女こそ21世紀の女性の憧れの的なのである。 そんな彼女が「映画」という手段を選び、発信しようとしているメッセージとは何なのであろうか。作品に共通して描かれているものがあるとすれば、それは、誰しもの心にひっそりと潜むガラス細工のような「孤独」ではないだろうか。 ソフィアと言えば、作品に合わせた色彩を効果的に使った美しい色味で描かれる世界観も特徴の1つであるが、彼女は誰よりも知っていたのではなかろうか。孤独は、色のないからっぽの感情ではなく、カラフルな世界に身を置いたときによりいっそう滲み出るものだということを。 たくさんの色や光に囲まれた瞬間にこそ、自分のむなしさや寂しさがよりいっそう際立つことを。 だからいつだって彼女の作品は美しいのかもしれない。 ソフィアが描いてきたいくつかの孤独の表現について追ってみようと思う。 彼女の長編映画デビュー作でありながらも、彼女の作品の世界観を確立させたミシガン州に住む美しい5人姉妹の自殺を描いた『ヴァージン・スーサイズ(1999)』では、一緒に過ごしていても心は離れている姉妹達の孤独感。家族という間柄であっても、満たせない見えない人と人との間の距離感を垣間みた。 次にアカデミー脚本賞を受賞した『ロスト・イン・トランスレーション(2003)』では、言葉の通じない海外に行った時に味わう異邦人としての哀愁や異文化の中での孤独の感情に寄り添った。監督自身の東京での経験を下敷きにして、海外版でも日本語の字幕は一切つけず、観る者に孤独を疑似体験させた。 世界中で注目されてきたフランス王妃を描いた『マリー・アントワネット(2006)』では、下着すら自分でつけることを許されない生活の中で、仮面を付けるかのように洋服を何着も何着も着替えることで、不安、不満をモノで満たしていく孤独な女心をこれ以上ないほど愛らしい世界観の中、表現した。 続いて、父と娘のつかの間の休暇を描いた『SOMEWHERE(2010)』では 、ハリウッドスターを主人公とし、端から見たら人気者で多くの人に囲まれるうらやましがられる生活をしていても、充実感とは裏腹に空虚な気持ちを拭えない中年男性の孤独を映し出した。 また最新作『ブリングリング(2013)』では、全米を震撼させた実際の高校生窃盗団の事件を描き、犯罪が露見する可能性がゼロではないにも関わらず、誰かに認めてもらいたいという想いも消しきれないSNSの普及した現代社会に起こりうる、承認欲求という新しいタイプの孤独を描いた。 ちなみに、彼女がはじめて監督・脚本を務めたモノクロの16mmフィルムで撮影した14分の『Lick the Star(1998年)』もスクールカースト(階級社会)の中で生まれる思春期の「孤立感」がコンセプトだ。「ヴァージン・スーサイズ」を彷彿とさせる独特の芝生の使われ方など随所に彼女の才能を感じることが出来る作品で、白黒なものの登場人物達は活き活きと描かれている。字幕付きのものが日本では観られないのが残念だが、ネットに何件かアップされている動画を映画ができる友人と観るのがおすすめだ。 彼女のこれまでの作品の中で、私は特に「リック・ザ・スター」「ヴァージン・スーサイズ」「ブリングリング」といった10代の思春期の頃に抱える抑え切れない程の強いエネルギーや、集団心理を描いた作品に興味を持っている。 特に「ヴァージン・スーサイズ」には、女性が避けることができない人生の悲哀もひっそりと閉じ込められているように感じる。 女は他人から比較されずに生きていくことができないし、同時に自分も人と比較することをやめられない生き物である。 「私は私」と思うタイプの人でさえ、年を重ねれば若い頃の自分と「あの子も昔はかわいかった」なんて比較されていく。 一生続く、毒をもった甘い戦いが女の世界には存在しているのだ。 自分の部屋がまるで世界の中心のように思うことさえある思春期。1つの空間に閉じ込められた1歳ずつしか年齢の違わない姉妹達、そこにはまるで満開のバラが咲き乱れたような、異常なエネルギーが漂っていたのではなかろうか。 男性からすると一種の連帯感かもしれないが、まるで1つの花のように見えた彼女達は、それぞれ別の花びらの集合体だったのではないか。 だからこそ一致団結していたように見えた姉妹達も最期の瞬間は、バラバラの場所、それぞれの方法で死を選んだのかもしれない。 同時に、彼女達は、自分たちが1番美しい瞬間を永遠に閉じ込めようとしたのではないだろうか。「死」という選択肢を使って。彼女達にとって「死」とは、美しいままでいるための1つの手段だったようにも思えて仕方がないのである。 また、場所も時代もおかれている状況も違うけれど「ブリングリング」にも思春期の抑えられない強いエネルギーが描かれていると同時に、「自分は自分」でいることの難しさを伝えている。 10代の頃からSNSの普及によって、幸せの基準がわからなくなってしまったブリングリングのメンバー達は、罪の意識を抱くよりも、Facebookに窃盗したセレブの持ち物をアップし続け、周囲に注目される存在であることを望んだ。 被害者の1人でありながらも自宅を撮影場所として提供したパリス・ヒルトンが被害状況を語った際、「普通の泥棒はお金や宝石を盗むけど、彼らはお金ではなく、雑誌に出ているものを欲した」と語った。 そこに理屈は存在していない。「承認されたい」という欲望を抑えることができなくなった若者達の感情は、こんがらがってしまった電線のようだ。 他人の生活が必要以上に見えるようになってしまった現代を生きる上で、人に流されず自分らしくいることが難しくなっていることについて、小さな警鐘を鳴らしたのではないか。 それにしてもなぜ、彼女は性別年代問わず、人の感情を繊細にすくいとることができるのであろうか? 世界的な巨匠を父に持ち、1歳で乳児役として「ゴッドファーザー」に出演し、小さい頃から大人の目にさらされてきたソフィア。 人の顔色に敏感にならざるを得なかったであろうし、時に誰よりも比較されてきたのは、他でもなく、彼女自身だったからのかもしれない。 余談になるが、コッポラ一族の勢いはとどまることを知らない。 2013年、フランシス・フォード・コッポラの孫ジア・コッポラは、「パロアルト・ストーリー」で映画監督デビューを果たす。原作はハリウッドの若き開拓者的存在であるジェームズ・フランコが書いた短編小説。ジェームズ・フランコ自ら、ジアに監督を依頼し、ジュリア・ロバーツの姪であるエマ・ロバーツやヴァル・キルマーの息子のジャック・キルマーが起用され、青春の不安定さから来る思春期の若者達の繊細な気持ちを描いた。 インテリアやレースのカーテンといった小物等からもソフィアの感性を受け継いだことが肌で感じられる作品である。 甘くけだるく、耳に残る音楽は「ヴァージン・スーサイズ」の音楽でもおなじみのソフィアの従兄弟であり、フランシス・フォード・コッポラを叔父に持つシュワルツマンが担当。改めて、溢れんばかりの才能に恵まれた一族である。 「アメリカン・グラフィティ」「ラスト・ショー」「ヴァージン・スーサイズ」のようなタイプの10代の繊細な感情の機微を描いた青春映画を欲している人は、こちらの作品も観ても良いかもしれない。■ ©1999 by Paramount Classics, a division of Paramount Pictures, All Rights Reserved
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PROGRAM/放送作品
『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命(いのち)の泉』公開記念特番
シリーズ第4弾『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命(いのち)の泉』の見どころを紹介するミニ番組
シリーズ最新作『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命(いのち)の泉』が遂に公開。シリーズ最強の敵“黒ひげ”をはじめとした、実在の人物や伝説が多数登場。ジョニー・デップのインタビュー映像も必見!
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COLUMN/コラム2016.02.16
ザ検閲官ストライクス・バック!〜『インモラル物語』後編、百合肉林とバチカン3P編、の巻〜
二度とやるまい、と心に決めていた、プロの映画ライターや評論家の方が映画評を書くべきこの場に、ザ・シネマのチャンネル関係者が分をわきまえず自ら駄文を寄せる、という禁を再び犯すことをお許しください。 前回、「ある検閲官の懺悔」と題して『インモラル物語』評を書いた際、文字数の関係で、4話オムニバスのこの作品のうち前半2話までしか言及できずに中途半端に終わったわけですが、今回、ヴァレリアン・ボロフチック監督特集という、ありえないマニアックな特集を組み、再び『インモラル物語』の放送権を買ってきてオンエアする運びとなりましたので、捲土重来、後半2話について書かせていただきます。 とはいえ、ボロフチック監督論といったようなことは、実は不肖ワタクシ、雑食系映画ライターなかざわひでゆき氏と、ザ・シネマ開局10周年記念シリーズ対談の第3回で、2時間以上にわたって語り尽くしておりますので、そちらの方もあわせてお読みいただきたく存じます。 今回ここでは、各エピソードで取り上げられている題材について解説します。ボロフチック監督、エロを描くのに夢中すぎて、題材にしている歴史上の人物の最低限の説明さえも省いており、その歴史的背景を多少は知っていないと物語がよく理解できないという嫌いが後半2話はありますので、解説する意義はあろうかと。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ では早速、第3話から。第3話はエリザベート・バートリのお話です。 これは、劇中で何が起きているどういうストーリーなんだか、エリザベート・バートリ伝説を知らない人が見たらさっぱり解らなかろうと思うんで、そこを解説しましょう。 エリザベート・バートリ。オカルト愛好家や吸血鬼好きの人ならお馴染みの名前で、通称“血の伯爵夫人”。アンチエイジングにいささか熱心すぎちゃったオバサマでして、トランシルヴァニア公国の名門貴族バートリ家のご出身であらせられます。 嗚呼、トランシルヴァニア!浪漫ですなぁ!ドラキュラ伝説で有名ですね。ルーマニアに属し、「ルーマニアと言えばドラキュラ、ドラキュラと言えばトランシルヴァニア」といった連想が日本人でもすぐ頭に浮かんできますが、実はドラキュラ(のモデルとなった串刺し公ヴラドⅢ世)は、トランシルヴァニアとはあんまし関係なくって、ワラキア公だったんです。 ワラキア公国は今のルーマニアの前身で、一方トランシルヴァニアの方は、実は歴史的にはハンガリーの一部だったんですなぁ。 エリザベートはナーダシュディ家というこれまた名家の男と結婚するんですけど、あんまりにも名門すぎる実家バートリ家の姓を結婚後も名乗ったんでエリザベート・バートリと呼ばれ続けたのあります。 ちなみに、このトランシルヴァニア公国はハプスブルグ帝国と因縁が深く、ハプスブルグはドイツ語圏ということで「エリザベート・バートリ」はドイツ語読みでして、ハンガリー語では「バートリ・エルジェーベト」となります。我々日本人と同じで姓が先で名が後なんですな。ハンガリー人は民族大移動までさかのぼるともとはアジア系で、顔は白人化しても赤ちゃんにはいまだに蒙古斑があるぐらい。映画関連ですとユニバーサルの『魔人ドラキュラ』やエド・ウッドがらみで有名な元祖ドラキュラ俳優の英語名ベラ・ルゴシさんが、ハンガリーからの移民でして、本名はルーゴシ・ベーラと言うのです。 さて。伝説ではエルジェーベトは、召し使いに髪をとかしてもらっている時、たまたまグッと髪を引っ張られ、痛くてカッとなって手鏡かなんかで召し使いの顔面をしたたか殴打したところ、流血して血が垂れた。その血が付いた肌が若返って美肌になったような気がしたので、やがて領地の農民の娘を集めてきては殺し、その生き血を搾り取って風呂桶にためて半身浴する、という戦慄のエステを始めたと言われています。 映画ですと、美魔女もしくは美熟女ぐらいに見える美人女優さんをキャスティングしてきて、「美人だったからビューティーへの執着が強すぎて狂った方向へと暴走しちゃったんだ」という解釈に大抵はなってますが、実はこの時、史実のエルジェーベトは6人の子持ちの40代〜50歳(50でタイホ)という年齢だったのです…。あのスンマセン、ちょっとだけガッカリさせてもらってもよろしいでしょうか…。 この血まみれ美肌術の犠牲者は600人以上とも言われてます。スキンケア目的オンリーならせめて効率的に血だけ抜けばいいようなものを、被害者に対して無意味にサディスティックな拷問も加えており、いたぶって愉しんでもいたらしく、むしろそっちの方が主目的だったのかもしれない。典型的なサイコパスですな。 で、まずここです。普通、バートリ・エルジェーベトを映画化するんなら、このエロ・グロ・サドな出来事が当然メインとなり、観客の怖いもの見たさのゲスい好奇心を満たすのが常道というもの。作品はおのずとホラー映画のおもむきになっていく。それと、劣化を気にしていたエルジェーベトがピッカピカの美魔女として完璧に仕上がるビューティー殺シアムなくだりは、特殊メイクの見せ場になります(老舗ハマープロ作品なのにマンネリから脱するためヌードシーンを盛り込んだりと、挑戦的な内容になってる71年の『鮮血の処女狩り』なんかはそれ)。 しかし、本作では全然そこにウエイトを置いてないのが、さすがボロフチック監督。まず、処女たちがサディスティックに殺される場面は一切描かれません。そこを省略して、一気に話が飛んで血の風呂にエルジェーベトが浸かるところは出てきますが、これもホラーチックに演出するのではなく、わずかに脂肪が混じってるような、少しベタッとした鮮血が、入浴者の女体にどうまとわりつくか、をキャメラは舐め回すように追うだけで、エロティックであってもグロテスクではない。こんな描き方したのはボロフチックさんだけです。 さて、再び史実に戻りましょう。被害者の1人が脱出に成功したことからエルジェーベトの犯行が明るみに出る。いかんせん彼女が名門出身すぎて捜査も裁判も大がかりなものとなり、ハンガリー副王が自ら指揮を執ることに。エルジェーベトの犯行に加担した彼女の手下どもは拷問の末に自供させられて全員処刑されます。が、しかし。彼女はあんまりにも名門すぎちゃって処刑もできない。そこで仕方なく、城の自室に閉じ込めてブロックを積み上げドアをふさぎ、窓も塗り固め、ブロック1個分だけ穴を開けといてそこからメシだけは与える、という形で、死ぬまで拘禁することになります。便所もなくて尿は垂れ流し糞は山をなす。その状態で彼女は3年以上も生き続けたとのこと。 ここも、映画的には大変おいしいエンディングになるところですな。観客の処罰感情を大いに満たしてくれる。別の言い方をすれば、観客自身の内にも潜むサディズム的欲求を程よく満たしてくれるんですから、おいしいエンディングだと言っていいでしょう(73年のスパニッシュ・ホラー『悪魔の入浴・死霊の行水』はグロ描写も容赦なかったが、特にこのラストが秀逸!ブロック1個分の穴から差し入れられたメシの食い残しが数週間・数ヶ月分たまってハエがたかり青カビも生え、そんな室内で激しく劣化したエルジェーベトの老いさらばえた顔が映って終わり。後味悪くて超最高!)。 しかし、我らがボロフチック監督は、やはりそこも華麗にスルーです。そんな汚らしいとこは描こうとしない。とにかく本作の本エピソードで描かれるのは、女体・女体・女体! エルジェーベトがおぼこい田舎娘たちを集めてきて、全裸にして湯浴みで体を清潔にさせ(乙女たちは百合チックに違いの秘所を石鹸で洗いっこしたりする)、後で殺すってことを黙っておいて宝石とかを大盤振る舞いし、全裸の処女たち大喜び百合肉林の図が展開!そのうち、くんずほぐれつの宝石ひったくり合い全裸キャットファイトへとエスカレート!!といったところが本エピソードのクライマックスになるのです。 とにかく、こんなバートリ・エルジェーベトものは他には無い!悪名高き「血の伯爵夫人」を題材に、こんな映像に仕立てようと思うのはボロフチックさんだけです。唯一無二の、徹底的に耽美な、絢爛たる百合絵巻なのであります!嗚呼、眼福眼福! 最後に、ついでなので、近年のバートリ・エルジェーベト映画をあと2本ご紹介しときましょう。 日本で昨年DVDが出たばっかの08年製作『アイアン・メイデン 血の伯爵夫人バートリ』。スロヴァキア・ハンガリー・チェコ・英仏合作と、英仏はともかくとして本場で制作されてる作品です。凄惨な事件の舞台となったエルジェーベトの城がなんと今も残っていて現在はスロヴァキア領となってるんですが、その本物の城址でロケを行ったりもしています。本作は「エルジェーベトは悪くないもん!」的なストーリーで、すべては濡れ衣だった、政治的な陰謀だった、“血の風呂”というのも実は赤っぽい色のただの薬湯だったんだ(いくらなんでもそりゃ無理あるだろ!)、と、「血の伯爵夫人といっても、実は怪物などではなくて、1人の気高き女性政治家だったのだ」的ないわゆる“現代的再解釈”が試みられています。その場合に鍵となるのが、カトリックとプロテスタントの宗教対立。エルジェーベトはプロテスタントなんですが、カトリックのハプスブルグ家がこの地域に影響力を及ぼそうとしており、ハンガリー貴族の中にはカトリックの親ハプスブルグ派もいてエルジェーベトと対立しており、そこにさらにオスマン・トルコ帝国の侵略が重なって三つ巴でしっちゃかめっちゃかだったのが当時のハンガリー。そんな政治情勢下でエルジェーベトはカトリック派により濡れ衣を着せられたんだ、という解釈になっています。歴史的にはこういう説も確かにあるにはあるんです。 そしてもう1本、09年独仏合作『血の伯爵夫人』は、出演ジュリー・デルピー、ダニエル・ブリュール、ウィリアム・ハートと、バートリ・エルジェーベト映画史上最高の豪華キャスティングが実現。しかもジュリー・デルピーは主演のみならず脚本・製作・監督・音楽ぜんぶこなすというイーストウッドばりの入魂っぷりです。アート&エロとしては今回ウチで放送するボロフチックさんのやつがぶっちぎりトップですが、ドラマとしてはこれが一番よくできている。「恋に破れたのは劣化のせいだ、どうせ男は若い女の方がいいんでしょ」という苦悩をジュリー・デルピーが等身大に演じていて、ドラマがきちんと共感可能なリアリティをともなって描かれており、安いホラー専属女優なんかが出てるのとは格が違うさすがの出来栄え。歴代のバートリ・エルジェーベト映画で、この“恋に狂った鬼女の切なさ”を出せているのはデルピーだけかも。それにグロも満載で、ご存知でしょうか「鉄の処女」という有名な拷問器具があるんですが、それの使用シーンもバッチリ出てきて見所の一つになってます。その上、史実にも一番これが忠実と、バートリ・エルジェーベト映画で最初まず1本どれ見ようかというのならこれをお勧めしときます。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 次いってみよ。第4話はルクレツィア・ボルジアのお話ですが、父アレクサンデルⅥ世、兄チェーザレ・ボルジアとの近親相姦3Pが延々と描かれます。ボロフチック監督はボルジア家についてや歴史的背景についてなんかは一切説明しようとせずに、ひたすら3P描写に徹してますんで、ワタクシとしてはちょっとそこらへんを補足説明することにいたしましょう。 時は15世紀ルネサンス期。ローマ教皇アレクサンデルⅥ世というとんでもない生臭坊主がおりました。イタリアという国は天下統一がなされず、後々まで小邦分立状態が続いたのですが、その群雄割拠のイタリアでは、ローマ教皇は「教皇国」という国家の元首でもあったのです。つまり、全カトリック世界の宗教上のトップであると同時にイタリアの一戦国大名でもあるという二重の立場だった。陰謀と暗殺を駆使する“イタリア版まむしの道三”か?将又、聖俗を自在に往き来し暗躍する“イタリアの後白河法皇”か?そんな感じの、とっても生臭〜い人です。 で、その教皇アレクサンデルⅥ世は、教皇国の勢力拡大、ゆくゆくはイタリア天下統一という野心を抱き、自分の子供たちをその目的のための駒として使いました。 まずはコネでカトリックの重職に就けた息子のチェーザレ・ボルジア。18歳の若さで枢機卿団に列せられ、24にして還俗してからは教皇軍の司令官として兵馬の権を握って能く軍を率い、あわせて、政治家としては権謀術数の限りを尽くしイタリア天下統一を推し進め、それを果たせないままわずか31で戦場に果てた漢。さしずめ“イタリアの織田信長”といったところですな。駒に使われたというよりも親父の権威をむしろ自分の野望のために利用したと言っていい、親父を上回るクセ者です。なお、余談ながら、同時代人の外交官マキャヴェリはチェーザレの敵国人としてチェーザレと直接外交交渉を繰り広げましたが、その政治的したたかさを高く評価し、著書『君主論』の中で絶賛。「マキャヴェリズム」とはイコール「チェーザレのような生き様」のことであり、チェーザレ・ボルジアは、人間の一典型、ステレオタイプとして永遠の存在となったのです。 そして、娘のルクレツィア・ボルジア。絶世の美女で、父と兄によって政略結婚の駒として使われ3度も嫁がされてます。まさに“イタリア版お市の方”。最初の夫はミラノの御曹司でした。映画の中で、黒い貴族風の衣装をまとっている、へなちょこ顔の男が出てきます。クッキーを勧められ毒殺をビビりまくって食べないというコントを披露する男です。まぁ毒殺はボルジア家のお家芸なのでビビるのも無理はないんですけど、あの男がその御曹司。で、父まむしの道三と兄の信長が、その御曹司の利用価値が低くなってルクレツィアを別の有力諸侯に嫁がせようと判断した時、強引に別れさせようとします。御曹司を暗殺しようとしたとも言われてる。 で、この時です。別れさせられそうになった御曹司が、「妻ルクレツィアは実の父・兄と近親相姦関係にある!」と爆弾発言をして逆襲に打って出た。ヨーロッパでは、誰かを貶めて政治的に失脚させようとする時「あいつは近親相姦してる!」と究極の誹謗中傷をするというゲスい伝統があるんです(はるか後の世にかのマリー・アントワネットも、逮捕された後「息子の王太子と近親相姦してた!」と革命裁判で濡れ衣を着せられそうになってます)。 これに対し「御曹司はインポだからこの結婚は無効だ」とボルジア家の方でも反撃に出て、近親相姦疑惑vsインポ疑惑という、これぞまさしくゲスの極みな論戦が巻き起こり、結局、最終的には勝負はボルジア家の勝ち。しぶしぶ「はい、私はインポでございます」と公式に認めさせられて御曹司が引っこむ形になりました。 この時ですね、映画で描かれているのは。発情した種馬の絵を父と兄妹でイヤらしくニヤニヤ眺めながら、娘婿をからかう、というくだりが出てきますが、そういう経緯があったのです。 御曹司と正式に別れる前、ルクレツィアは、パパの部下で自分とパパとの連絡係を務めてた美男とSEXしてデキちゃった、との風説が出回ります。お相手の美男は哀れ兄貴チェーザレに叩き殺されちゃう。チェーザレからしてみれば「絶世の美女の妹ルクレツィアなら政略結婚の駒として使い道がいくらもあるのに、それを連絡係風情が手出して孕ませて使い物にならなくしちゃいやがってコノ!」ということで、全身政治家としては激怒するのも無理はない。しかしこの時も「チェーザレが妹萌えで、だから嫉妬に狂って美男を叩き殺しんたんだ」というデマが飛びます。 なお、映画の中でチェーザレは赤い服をまとっていますが、これは「緋の衣」といって枢機卿のユニフォームですんで、この劇中の時点で“イタリアの信長”ことチェーザレはまだ還俗して軍人になってはおらず、枢機卿としてバチカンにあったということですな。写真の奥、枢機卿の「緋の衣」を着ているのがチェーザレです。一番右の「三重冠」というやつをかぶっているのが教皇、つまり“パパ”です。 とにかくですねぇ、ルクレツィアが父親が誰かよくわからない子供を出産した、というデマが存在しますので、それがこのエピソードの終わりの方では描かれているんですわ。 といったようなことでして、彼らの生前から噂されていた下世話な噂を、ボロフチック監督はこの第4話で映像化してみせたわけです。登場人物たちが、そういう歴史上の実在の人物なんだ、“イタリアの信長”、“イタリアのお市”、さらに“イタリアの道三”みたいな連中なんだ、ということは、踏まえた上でご覧いただいた方がいいでしょう。 あと、このエピソードでは時おり教皇庁の腐敗を叫ぶ狂信者みたいな男が出てきますが、これはサヴォナローラというドミニコ会の修道士。メディチ家が栄華を極めたルネサンス芸術の都フィレンツェで、メディチ家に取って替わって実権を握り、神権政治を実施。「虚栄の焼却」なぞと称してルネサンス美術を燃やしたり焚書したりした、まぁ、ISみたいな男です。こいつが燃やしてなかったら今日に伝わるルネサンスの人類的遺産はもっと多かったはず。ボロフチック監督、こういう手合いが生理的に大っ嫌いなんでしょうなぁ。ボルジア家の3Pは批判的に描かないくせに、この男のことは一片の同情もなく描き捨てている。まぁ、近親相姦のタブーを犯すよりも、芸術を焼き滅ぼす方が、後世への罪ははるかに重い、ということなんでしょう。 「本を焼く者はやがて人間を焼く」と言ったのはドイツのユダヤ人ロマン主義詩人ハイネで、それはナチスの所業を予言しましたが、サヴォナローラさんは他人を焼き殺す前に自分が焼かれちゃった。“イタリア版まむしの道三”教皇アレクサンデルⅥ世によって教会を破門されて、最期は自分が火刑台の灰になるという末路をたどったのです。 もし将来、「ボロフチック監督の映画は猥褻で不道徳だからフィルムを焼け!」なんて言い出す輩が現れた時には要注意、ってことですな。■ "CONTES IMMORAUX" by Walerian Borowczyk © 1974 Argos Films