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COLUMN/コラム2018.10.23
フランソワ・トリュフォー監督の名作『突然炎のごとく』のアメリカ版アレンジ・リメイク!
今回紹介するのは『ウィリーとフィル/危険な関係』(80年)。これは日本では劇場公開されず、TVで1度放送されただけで、その後VHSもDVDも出ていません。ものすごく珍しい映画のひとつです。この映画は1970年から1980年の10年間を描いた物語で、マーゴット・キダーがヒロインを演じています。この女優さんはこのあいだ亡くなってしまいました。その追悼放送の意味も込めています。 マーゴット・キダーの周りにいる2人の男が、ウィリーとフィル。この3人の関係を描いているのですが、彼女をめぐって男2人が争ったりせず、男たちは彼女がどちらを愛していても幸せなんです。しかも男同士、ものすごく仲がよくて、愛し合っている。そんな三角関係なんですね。この映画の最初、名画座でのある映画の上映シーンから始まるんですけど、それはフランス映画で、フランソワ・トリュフォー監督が1962年に作った“JULES AND JIM” という映画。日本では非常に変で『突然炎のごとく』というタイトルなんですが(笑)、そのジュールとジムを、ウィリーとフィルが観ているところからこの映画は始まります。 この『突然炎のごとく』という映画がいかに世界中の映画に影響を与えたかを知らないと、なぜ『ウィリーとフィル』という映画が作られたのかわからないと思います。『突然炎のごとく』は、これまでの結婚制度であるとか男尊女卑とかを破壊するような、革命的な映画として衝撃を与えて、62年にこれが公開された後、60年代のカウンターカルチャーという、世界的な文化革命が起こるんですね。その起爆剤となった映画なんです。 そしてこの『ウィリーとフィル』は、ニューヨークに住んでいるイタリア系とユダヤ系の男同士。ウィリーのほうは高校の先生でユダヤ系、非常にまじめな男です。フィルは写真家でイタリア系の女ったらし。この一見まったく合わないような2人が『突然炎のごとく』を観に行って、意気投合します。イタリア系のフィルを演じているのはレイ・シャーキーという俳優さんで、この人は若くして亡くなったので代表作がそんなにないんですが、ユダヤ系のウィリーを演じているマイケル・オントキーンという人は、『ツイン・ピークス』(90 ~ 91年)の保安官のハリー・トルーマンを演じた人として、日本では非常に有名ですね。この2人が一妻多夫の映画である『突然炎のごとく』を観たあとに、ある女性と出会います。それが、マーゴット・キダーです。彼女を2人とも愛して、10年間ずっと、くっついたり離れたりしながら暮らしている。ちなみに『突然炎のごとく』はこの映画だけじゃなくて、まずアメリカでものすごいブームを呼んだときに、影響を受けたのが『俺たちに明日はない』(67年)なんですね。さらに『明日に向って撃て!』(69年)もそうでした。 この『ウィリーとフィル』は、監督であるポール・マザースキーの自伝的なものでもあります。この人は実際に主人公たちと同様にNYから出てきた人で、TVの仕事をして、その後ハリウッドに行き映画監督になったので、フィルのたどる道は、マザースキー監督自身がたどった道でもあるんですね。こういった感じで事実がすごく反映されているんですけど、中でもマーゴット・キダー扮するヒロインの非常に自由な、結婚をしても結婚というものに縛られず、2人の男を同時に愛するシングルマザーとなるんですが、この彼女のキャラクターには、キダー自身のすごく自由な性格も投影されていますね。この映画は、一見何の映画なのかわからない、時代性を映しすぎているからという問題があるんですけど、知れば知るほど非常に深い映画です。■ (談/町山智浩) MORE★INFO. 当初はウディ・アレンとアル・パチーノの主演で企画されていた。撮影はウィリー役にジョン・ハードを配して始まったが、最初の週でクビになった。ナタリー・ウッドが自身の役でカメオ出演している。フランス映画好きのマザースキー監督、本作の後にも『素晴らしき放浪者』(32年)をリメイクした『ビバリーヒルズ・バム』(85年)を撮っている。
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COLUMN/コラム2018.10.11
舞台裏ではスターと監督の軋轢が?有象無象のならず者がメキシコ革命で暴れまわる痛快マカロニウエスタン!『ガンマン大連合』
マカロニウエスタンの巨匠と言えばセルジオ・レオーネだが、もう一人忘れてはならない同名の大御所がいる。それがセルジオ・コルブッチだ。スタイルとリアリズムを追求して独自のバイオレンス美学を打ち立てた芸術家肌のレオーネに対し、シリアスからコメディまでなんでもござれ、荒唐無稽もデタラメも上等!な根っからの娯楽職人だったコルブッチ。多作ゆえに映画の出来不出来もバラつきはあったが、しかし時として『続・荒野の用心棒』(’66)や『殺しが静かにやって来る』(’68)のような、とんでもない傑作・怪作を生み出すこともあった。そんなコルブッチには、メキシコ革命を舞台にした「メキシコ三部作」と一部のマカロニファンから呼ばれる作品群がある。それが『豹/ジャガー』(’68)と『進撃0号作戦』(’73)、そして『ガンマン大連合』(’70)だ。 主人公はスウェーデンからメキシコへ武器を売りにやって来たキザな武器商人ヨドラフ(フランコ・ネロ)と、靴みがきから革命軍のモンゴ将軍(ホセ・ボダーロ)の副官に抜擢されたポンコツのならず者バスコ(トーマス・ミリアン)。国境近くの町サン・ベルナルディーノでは、庶民を苦しめる独裁者ディアス大統領の政府軍と、実は革命に乗じて金儲けがしたいだけだったモンゴ将軍の一味、そして非暴力を掲げて合法的に革命を遂行しようとする理想主義者サントス教授(フェルナンド・レイ)に心酔する若者グループが、3つの勢力に分かれて攻防を繰り広げていた。 モンゴ将軍に呼ばれてサン・ベルナルディーノに到着したヨドラフ。その理由は、町の銀行から押収したスウェーデン製の金庫だった。鍵の暗証番号を知る銀行員を殺してしまったため、スウェーデン人のヨドラフなら開け方が分かるだろうとモンゴ将軍は考えたのだ。成功したら中身の大金は2人でこっそり山分けするという算段。ところが、頑丈な金庫はヨドラフでも手に負えない代物だった。唯一、暗証番号を知っているのはアメリカに身柄を拘束されたサントス教授だけ。そこでモンゴ将軍は、万が一の裏切りを用心してバスコを監視役に付け、アメリカの軍事要塞に捕らわれているサントス教授をメキシコへ連れ戻す使命をヨドラフに託すこととなる。 …ということで、道すがら女革命戦士ローラ(イリス・ベルベン)率いるサントス派の若者たちの妨害工作に遭ったり、ヨドラフに恨みを持つアメリカ人ジョン(ジャック・パランス)の一味に命を狙われつつ、過酷なミッションを遂行しようとするヨドラフとバスコの隠密道中が描かれることとなるわけだ。 ド派手なガンアクションをメインに据えた痛快&豪快なマカロニエンターテインメント。荒々しいリズムに乗ってゴスペル風のコーラスが「殺っちまおう、殺っちまおう、同志たちよ!」と高らかに歌い上げる、エンニオ・モリコーネ作曲の勇壮なテーマ曲がオープニングからテンションを高める。革命の動乱に揺れるメキシコで、有象無象の怪しげな連中が繰り広げる三つ巴、いや四つ巴の仁義なき壮絶バトル。コルブッチのスピード感あふれる演出はまさに絶好調だ。終盤の壮大なバトルシーンでは、『続・荒野の用心棒』を彷彿とさせる強烈なマシンガン乱射で血沸き肉踊り、フランコ・ネロの見事なガンプレイも冴えわたる。コルブッチのフィルモグラフィーの中でも、抜きんでて勢いのある作品だと言えよう。 もともとマカロニウエスタンはロケ地であるスペインの土地や文化が似ている(元宗主国だから文化が似ているのは当たり前だけど)ことから、メキシコを舞台にした映画はとても多いのだが、その中でもメキシコ革命を題材にした作品と言えば、左翼革命世代の申し子ダミアーノ・ダミアーニ監督による社会派西部劇『群盗荒野を裂く』(’66)を思い浮かべるマカロニファンも多いだろう。しかし、コルブッチはダミアーニではない。確かに『豹/ジャガー』は左翼的メッセージがかなり強く出た作品だったが、あれはもともと『アルジェの戦い』(’66)で有名な左翼系社会派の巨匠ジッロ・ポンテコルヴォが監督するはずだった企画で、コルブッチは降板したポンテコルヴォのピンチヒッターだった。政治色が濃くなるのも当然だ。その点、コルブッチ自身が原案を手掛けて脚本にも参加した本作は、基本的に荒唐無稽なエンタメ作品に徹している。世界史に精通していたと言われる博識なコルブッチが、あえてメキシコ革命の史実を無視するような描写を散りばめているのも、その決意表明みたいなものかもしれない。 ただ、脚本の中に政治的な要素が全くないかと言えばそうでもない。金儲けのためなら政府軍にも革命軍にも武器を売る現実主義者ヨドラフ、革命の理想など特に持たず軍隊で威張り散らしたいだけのお調子者バスコ。この火事場泥棒みたいな2人が隠密道中を通じて、市民革命の強い理念に従って行動するサントス教授と若者たちに、少しずつ感化されていく過程が見どころだ。特に、マカロニウエスタンで野卑なメキシコ人を演じさせたら右に出る者のない名優トーマス・ミリアンが演じるバスコのキャラは興味深い。 棚ぼた式にモンゴ将軍の副官となり、虎の威を借る狐のごとくヒーロー気取りで振る舞う、もともと革命の精神とは全く縁のなかった貧しく無教養な男バスコ。「メキシコ人をバカにするな」「外国人と通じている女は罰してやる」「インテリは本と一緒に焼かれろ」。こういう偏った主張をする人間が、政治的混乱に乗じてマウントを取っていい気になるのは、古今東西どこにでもある光景だろう。しかし、そもそもがコンプレックスをこじらせただけのバカであって、根っからの悪人というわけではない。そんな単細胞な男が教養豊かなサントス教授から、本来の革命精神とは相容れない国粋主義の矛盾と欺瞞を説かれ、あれ?俺って実は悪人の側だったわけ?と気づき始め、純粋に自由と正義を信じて革命に殉じていく若者たちに感情移入していく。この視点はなかなか鋭い。 なお、マカロニブームを牽引した2大スターのフランコ・ネロとトーマス・ミリアンだが、映画で共演したのはこれが初めて。ミリアンにとっては意外にも初のコルブッチ作品だった。一方のネロはコルブッチ映画の常連組。監督が彼のアップばかり撮ることに嫉妬したミリアンは、電話でコルブッチに泣きながら抗議したと伝えられている。ただし、イタリア映画の英語版吹替翻訳で有名なアメリカ人ミッキー・ノックスによると、逆にコルブッチがミリアンにばかり気を遣うもんだから、不満に思ったネロがへそを曲げてしまったそうだ。ん~、どっちが本当か分からないが、しかしどっちも本当だという可能性もある。ミリアンがごねる→コルブッチが気を遣う→ネロがへそを曲げる、という流れならあり得るかもしれない。いずれにせよ、コルブッチとネロのコラボレーションはこれが最後となり、当初コルブッチが手掛ける予定だった『新・脱獄の用心棒』(’71)の出演もネロは渋ったという。結局、ドゥッチオ・テッサリが監督に決まったことで引き受けたのだが。いやはや、スターって面倒くさいですね(笑)。 なお、本場ハリウッドの西部劇でもお馴染みのジャック・パランスは、コルブッチの『豹/ジャガー』に続いてマカロニへの出演はこれが2本目。フェルナンド・レイも『さすらいのガンマン』(’66)以来のコルブッチ作品だ。また、ローラ役のイリス・ベルベンはドイツのテレビ女優。『続・荒野の用心棒』以降のコルブッチ作品に欠かせないスペインの悪役俳優エドゥアルド・ファヤルドが冒頭で政府軍の司令官を、ドイツの有名なソフトポルノ女優カリン・シューベルト(後にハードコアへも進出した)がヨドラフと昔なじみの売春婦ザイラを演じている。◾️
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COLUMN/コラム2018.09.16
出てくるのは悪党だらけ!『ダーティハリー』に続くドン・シーゲル監督の痛快B級犯罪アクション!
‘70年代のハリウッドを代表するアクション映画といえば、『フレンチ・コネクション』(’71)と『ダーティハリー』(’71)。奇しくも同じ年に公開されたこの2本は、アメリカのみならず世界中のアクション映画に多大な影響を及ぼしたわけだが、中でも手段を選ばず問答無用で犯罪者を始末していく刑事ハリー・キャラハンの活躍を過激なバイオレンス描写満載で描いた『ダーティハリー』は、一部の良識派インテリ層から眉をひそめられつつ、折からの凶悪犯罪の増加や治安の悪化に不満を募らせていた大勢の庶民からは拍手喝采で迎えられた。おかげで、映画界では「なんちゃってダーティハリー」なアウトロー刑事がにわかに急増。一般市民が法で裁くことのできない犯罪者を成敗するという、『狼よさらば』(’74)に代表される一連のヴィジランテ(自警団員)映画ブームも、『ダーティハリー』の影響によるものと考えていいだろう。そんなアクション映画の金字塔『ダーティハリー』の生みの親が当時59歳のベテラン、ドン・シーゲル監督。それまでB級映画専門の職人監督としてコツコツとキャリアを築いてきたシーゲルは、これ1作でアクション映画の巨匠へと祭り上げられたわけだが、その彼が次回作として選んだ映画がこの『突破口!』だった。 主人公は農薬散布業者のチャーリー・ヴァリック(ウォルター・マッソー)。もともと曲技飛行のパイロットだったチャーリーだが、同僚だった妻ナディーン(ジャクリーン・スコット)との結婚を機に、ニューメキシコの片田舎で小さな農薬散布会社を立ち上げる。しかし、大手の業者に押されて経営は火の車。そこで彼は、妻や2人の従業員を従えて銀行強盗に乗り出す。といっても、狙うのは田舎町の小さな支店ばかり。一度に奪う金額はたかだか知れたものだが、しかしその方が銀行の警備が手薄で捕まるリスクも少ないからだ。そんなある日、いつもの手順通りに田舎町トレス・クルーセスの銀行を襲ったチャーリーたち。ところが、今度ばかりはちょっと勝手が違っていた。警備員の反撃で仲間のアルが殺され、運転手役のナディーンまで警官の銃弾に倒れてしまう。しかも、家に戻って奪った現金袋を開けてみたところ、中には76万ドルもの札束が入っていた。田舎の銀行にこれだけの大金があるのは明らかにおかしい。それがマフィアの違法資金だと気付いたチャーリーは、残った仲間ハーマン(アンディ・ロビンソン)と共にメキシコへの高飛びを画策するのだが、そんな彼らに警察やFBIの捜査網、さらにはマフィアの放った殺し屋モリー(ジョー・ドン・ベイカー)の魔手が迫る…というわけだ。 『ダーティハリー』という超特大級のヒットを放っておきながら、その直後に作った本作が紛うことなき筋金入りのB級アクションというのも、なるほど、娯楽職人ドン・シーゲルならではと言えるだろう。といっても『ダーティハリー』自体、当時ユニバーサルと専属契約を結んでいたシーゲルが、愛弟子クリント・イーストウッドの希望でワーナーへ貸し出されて撮った作品なので、もしかすると彼としては通常営業に戻りましたというだけのことだったのかもしれないが。いずれにせよ、決して多額の予算を注ぎ込んだ作品ではないし、撮影だって2か月弱程度という速さで済ませている。ロケ地もネバダ州周辺のみ。規模的にはかなりコンパクト・サイズだが、しかし最初から最後まで全く目が離せない痛快な犯罪アクション映画に仕上がっている。 だいたいオープニングからして素晴らしい。朝靄がたちこめるアメリカのありふれた田舎町。郵便局では老人が軒先に星条旗を掲げ、牧場ではカウボーイが牛の群れを世話する。民家の庭先では少女が芝刈り機でせっせと草を刈り、空き地ではフットボールに興じる少年たちが賑やかに駆け回っている。そんなのどかで平和な日常風景から一転、田舎町は銀行強盗の阿鼻叫喚に包まれるわけだが、そこへ至るまでに不穏な空気を高めながらジワジワと緊張感を煽っていく「溜め」の演出、そしていざ銃撃戦が起きてからは急転直下のスピーディな展開。この日常から非日常へのドラマチックな転換、大胆な緩急のさじ加減は実に見事だ。まさに掴みはバッチリ。『殺人者たち』(’64)にしろ『ダーティハリー』にしろそうだが、ドン・シーゲル監督は映画の冒頭で観客に強烈なパンチを食らわせることで、作品の世界へ一気に引き込んしまうのがとても上手い。これぞ職人技だ。 続くカーチェイスも迫力満点。銀行から飛び出してきたチャーリーとハーマンを乗せて走り出す黄色いリンカーン・コンチネンタル。しかし、傍に停めてあったパトカーにぶつかり、その衝撃でボンネットがパッカリと開いてしまう。視界が遮られたままハンドルを握る運転席のナディーン。そこへ駆けつけた別のパトカーが激突。パトカーは目の前の雑貨店の軒先を破壊して軽トラックに突っ込み、リンカーン・コンチネンタルはボンネットを振り落としてハイウェイへと逃げ去る。実はこの一連のカースタント、事前の計画通りには行かなかった。まずボンネットが開いたのは全くの計算外。激突したパトカーも本当は雑貨店に突っ込んで停車するはずだった。しかし撮り直しをしている余裕などないため、そのままオッケー・テイクとせざるを得なかった。低予算映画ゆえの妥協ではあるが、しかしそれがかえってアクションにリアルなライブ感をもたらしている。最大の見どころであるクライマックスの、複葉機VSクライスラー車の世にもイカレたカーチェイス(?)もほぼ一発撮り。これまた臨場感がハンパない。 中盤からは警察やマフィアの追手を上手いこと出し抜きつつ、高飛び計画の準備を着々と進めていくチャーリーの姿が描かれるわけだが、余計な説明の一切を省いた語り口が功を奏する。なぜ今その行動を取るのか、その行為に何の意味があるのか。一見しただけでは分からない描写も多いのだが、それらの巧妙に仕掛けられた伏線が最後の最後になって見事に結実し、どんでん返しという大きな答えとなって提示される。この、いわゆる「アハ体験」の気持ち良さときたら!なるほど、そういうことだったのね!と誰もが思わず膝を打ってしまうはずだ。出てくるのが悪党だらけというのも、「善人よりも悪人に感情移入してしまう」と公言していたシーゲル監督らしい設定。そういう意味では『殺人者たち』と双璧であろう。 主人公チャーリーを演じるのはウォルター・マッソー。この冷静沈着で抜け目のない犯罪者役に、喜劇俳優としてのイメージの強いマッソーを起用したことは、恐らく当時は意外なキャスティングだったに違いない。もっとも、本作以降立て続けてアクション映画に出演することになるのだが。それに、映画ファンならご存知の通り、マッソーはそのキャリアの初期において、『シャレード』(’73)や『蜃気楼』(’65)といったサスペンス映画で悪役を演じている。ただの面白いオジサンではないのだ。実際、本作では善とも悪ともつかないアンチヒーローを、人間味たっぷりに演じて魅力的だ。最愛の妻を目の前で亡くしながらも涙ひとつ見せず、淡々と銀行強盗の証拠隠滅作業を進めながらも、これが今生の別れとさりげなく妻の亡骸に口づけをする姿に、チャーリーという人間の複雑な本質が垣間見える。ちなみに、このキスシーンは脚本にはなく、マッソーの完全なアドリブだったそうだ。 そんなチャーリーの足を引っ張る愚かで軽率な若者ハーマンを演じるのが、『ダーティハリー』の殺人鬼スコーピオンで強烈な印象を残したアンディ・ロビンソン。もともと彼はドン・シーゲルの長男で当時人気俳優だったクリストファー・タボリの友人だった。スコーピオン役を探していたシーゲルが息子に「ニューヨークで一番才能のある若い舞台俳優は誰だ?」と尋ねたところ、クリストファーがアンディの名前を挙げたのだそうだ。実際に彼の芝居を見るためニューヨークへ足を運ぶ予定だったシーゲル監督だが、急な所用で断念することに。その代理としてクリント・イーストウッドがアンディの出演する舞台を観劇し、太鼓判を押したことからスコーピオン役に決まったのである。監督自身も彼のことをいたく気に入ったらしく、それゆえスコーピオン役でタイプキャストされることを心配したのか、『ダーティハリー』完成直後に「もしかすると君のキャリアを潰してしまったかもしれない」と漏らしていたという。前作のサイコパスとは全く違うハーマン役に起用したのは、もしかすると監督なりの気遣いだったのかもしれない。 マフィアの殺し屋モリー役には、ヴィジランテ映画の名作『ウォーキング・トール』(’73)でもお馴染み、’70年代を代表する強面タフガイ俳優の一人ジョー・ドン・ベイカー。そのほか、『ダーティハリー』の市長役でも有名なジョン・ヴァーノン、『刑事マディガン』や『テレフォン』(’77)にも出演したシェリー・ノース、『殺人者たち』の小悪党ミッキー・ファーマー役も印象深いノーマン・フェルなど、ドン・シーゲル・ファンには馴染みのある顔が揃う。銀行の警備員役として’30年代のB級西部劇スター、ボブ・スティールが顔を出しているのも興味深い。ちなみに、チャーリーとベッドインする銀行頭取秘書役のフェリシア・ファーは、ビリー・ワイルダーの『ねえ!キスしてよ』(’64)で嫉妬深い夫を狂わせる美人過ぎる奥さんを演じた女優だが、実はウォルター・マッソーの親友ジャック・レモンの妻でもある。 最後に小ネタ的なトリビアをまとめて。本作の撮影監督を務めるマイケル・C・バトラーは、ブルースクリーン合成を開発した伝説的な特撮マン、ラリー・バトラーの息子で、実はその父親の親友だったドン・シーゲル監督が名付け親だった。また、冒頭で警察無線のオペレーターをやっている女性は、若い頃シーゲル監督の恋人だった’40年代のコロンビア専属女優キャスリーン・オマーリー。さらに、オープニングではシーゲル監督の子供たちも出演している。スプリンクラーを跨いでいく幼い少女は当時7歳の娘キット、芝刈り機で庭の草を刈っている少女は13歳の長女アン、道行く女の子をひやかす少年3人組のうち真ん中が14歳の息子ノウェル。なお、ロバの背中にサドルを乗せようと悪戦苦闘する少年はウォルター・マッソーの息子チャールズである。彼は銀行強盗シーンにも登場。銀行前のブランコに乗っている手前の男の子がそうだ。というのも、当初は地元の少年がキャスティングされていたのだが、生々しい銃撃戦の撮影にビビッて逃げ出してしまったらしい。その代役としてチャールズが再登板することとなり、保安官に車のナンバーを教えるシーンではセリフもこなしている。▪️ © 1973 Universal City Studios, Inc. Copyright Renewed. All Rights Reserved. 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存
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NEWS/ニュース2018.05.02
【イベントレポート】ハル・ハートリー監督『トラスト・ミー』試写イベントレポート Part.2
(Part.1はこちら) 村山:インディペンデントっていう意味では、ハル・ハートリーって、デビューからほぼ一貫して自分で音楽を作っているわけです。すごくインディーズの音楽シーンとの親和性のある方で、もう一人のゲストをここでお呼びしたいです。ハル・ハートリーの『ブック・オブ・ライフ』っていう映画でも音楽を提供されている、ミュージシャンの嶺川貴子さんをお迎えしたいと思います。どうぞ拍手でお迎えください。 (拍手) 村山:嶺川さんというと、さっきも言ったようにハル・ハートリーの映画に音楽を提供したりされたわけですけど、あれはそもそもどういうきっかけだったんですか? 嶺川:私もいろいろ思い返してみているんですけど、たぶんその前後あたりに、私が前にいたレーベルで…レコード会社が、90年代だったからわりと自由にどんどんリリースをしてくれて。私がたぶんアルバムを出した後とかに、ちょっとその辺は私も記憶が曖昧なんですけど、その当時『シンプルメン』と『トラスト・ミー』を観てすごく好きになって、「いい」って言っていたから。ハル・ハートリーは映画の音楽も自分でやっていたりして。 村山:(ハル・ハートリーは)ネッド・ライフルっていう名義でやっていました、あの頃は。 嶺川:すごく簡単なメロディーなんだけど、印象に残ってけっこう好きだったので、そのサントラをカバーしようみたいな企画があって。たぶん、それをやったことで、私の曲が提供されたということだったと思います。 村山:その「ア・シンプル・マン」というタイトルは… 嶺川:はい。不思議な。 村山:不思議な…嶺川さん以外にも曽我部恵一さんであるとかいろんな方が、寄ってたかってハル・ハートリーの作った、言葉は悪いですけど、ちょっと素人感のある音楽をカバーするアルバムを出されたんですね。 嶺川:そうですね。 村山:(会場の中で)そのアルバムを買った人っています? (数人手が挙がる) 僕も買いました!だからやっぱり、僕ら一観客とかオーディエンスでしたけど、あのころ嶺川さんがハル・ハートリーっていう名前を広めるのに一役買ってた感っていうのを僕はすごく感じていた。 嶺川:そうなんですか。 村山:その後に、直接お会いしたことがある? 嶺川:たぶん、そのプロモーションの後、VHSの短編集を出したりとかしたことがあったので、ハル・ハートリーの。だからそれで一度お会いしているんですよね。でも、遠くのほうに記憶が… 村山:それはその時、どんな人だったかみたいな記憶っていうのはまだ残っていますか? 嶺川:すごく、写真のとおりの感じの。 村山:本当、文系の大学生みたいなビジュアルしていますよね。 嶺川:そうですね。 村山:深田監督もそうですけど。ではその時に何をしゃべったかとかもあまり覚えていない? 嶺川:うん…たぶん何かに残っているはずなんですけど、ちょっとそれを見つけられなかった。 村山:それは雑誌の対談みたいな? 嶺川:何かこう、ちっちゃな冊子になっているはずなんですけど。 深田:映画系の冊子とかですか? 嶺川:いえ、たぶん当時のプロモーションの。 村山:持っている人います? (手が挙がる) 深田:実は持っている人がいるのか・・・。 村山:お持ちですか?ハートリーと嶺川さんがお話ししている…見せてもらっていいですか?個人的に(笑)。 深田:貴重な歴史的な資料として。 「ああ、こういう映画、音楽アリなんだ」みたいな、コロンブスの卵みたいな気持ちで観ていた 村山:さっきちょっと素人くさいって言いましたけど、なんとなくハートリーの音楽ってやっぱりすごく特徴的だと思ったし、「ああ、こういう映画、音楽アリなんだ」みたいな、コロンブスの卵みたいな気持ちで観ていたんですけど。もともとミュージシャンである嶺川さんとかが聞いたときって、どんな印象だったんですか?映画音楽として。 嶺川:本当にこう、簡単なというか。でも、私も作る音楽はけっこうそういう、鼻歌から出てきたりとかあるし、弾いていてぽろぽろって出てきたりするから、そういう部分で共感したのかもしれないし。映画の音楽って、残ったりするものが多いから。特にハル・ハートリーの音楽、「ヨ・ラ・テンゴ」とかも。 村山:そうですよね。「ヨ・ラ・テンゴ」を日本に紹介したのは誰かわからないですけど、日本版が出る前にハル・ハートリーの映画で認知したっていう印象があって。 嶺川:ああ、そうですか。 村山:「ヨ・ラ・テンゴ」を日本に紹介したのはハル・ハートリーなんじゃないかなってちょっと思ったりしていたんです。 嶺川:そうかもですね。でも彼らは長いから、キャリアが。 村山:まあ、そうですね。でも本当にインディーズバンドからみたいな人たちだから。そもそもそのコンピレーションアルバムを出そう、みたいに思われるほどに、入れ込んだくらいお好きだったってことですよね、ハル・ハートリーの映画が。 嶺川:そうですね。当時、フランス映画社が…『アンビリーバブル・トゥルース』とか、後から観て、その辺でずっと好きで。あのあたりはよく映画館に行っていた。 村山:シャンテとか行っていた。 嶺川:それでハル・ハートリーの映画は、先ほどお話を聞いていて、深田監督の言っていることが、「正に」というか。そういうちょっと外れたオフな人たち。最近も観直したら、やっぱり自分もすごく重なるところもあるし。 村山:どの映画を観ても、世の中で生きづらいっていう人たちの映画ですよね。 嶺川:そうですね。そういうのがすごく、何か共感していたのかもしれないです。 村山:やっぱりさっきおっしゃった、音楽の世界でそういう企画があったみたいに、当時のミニシアター文化の風通しの良さみたいなものと、音楽の世界とちょっと近い雰囲気ってあったんですかね。 嶺川:ああ、そうかもしれないですね。20年くらい…20年? 村山:『トラスト・ミー』が公開されて25年ですね、ちょうど今年で。 『トラスト・ミー』を鑑賞したら、今の親子の関係とか、お母さんの関係とか… すごく現代的ですよね。 村山:深田監督は、我々が思い出話をするより、新しい世代として…我々はやっぱり思い出補正みたいなものが入っているんじゃないのかという心配があって・・・。 深田:いえ、自分は本当にハル・ハートリーについては、むしろ村山さんにいろいろ教えてもらって、今はそういう位置づけなのかとか知っているくらいで。『トラスト・ミー』についても、今回このトークに先立って観ているんですけど、うっかりすると「あれ、これいつの映画なんだろう」っていうのがわからなくなるんですね。 ハル・ハートリーって実はけっこう最近もコンスタントに撮っているじゃないですか、日本に来ていないだけで。携帯電話が出てこないから、「そうか、初期の作品だ」っていう。やっぱりあそこで描かれている家族の姿…さっきの繰り返しになっちゃうんですけど、本当に最近のハリウッドはある種、家族とかそういうことに対してけっこう保守的になってきているなというふうに感じるんですね。 最初、親子が喧嘩していて、仲良くなって終わるっていう。本当にそんなものばっかりですけど。それに比べると、全然『トラスト・ミー』のほうが現代を描いていると思うし、逆にすごくしっくりくるなっていうふうに… 嶺川:私も特に『トラスト・ミー』を観直したら、今の親子の関係とか、お母さんの関係とか… 深田:すごく現代的ですよね。 嶺川:すごく「ああ…」って。 村山:深田監督の『淵に立つ』も、家族の温もりとかを全否定してかかるようなおそろしい映画でしたけれど。 深田:いえ、否定すればいいってものではもちろんないんですけど。回復することを前提に描かれる家族の悲劇ほど…結局それって家族はまとまって生きているのが正しい姿だよねっていう前提で捉えるから、家族が壊れていくことが悲劇みたいな感じで描かれちゃうんだけど、たぶん『トラスト・ミー』で描かれている家族の喧嘩とか親子の葛藤とか母との葛藤とか、ある意味テクニカルにというか、すごく対義的に描かれている。ですけど、やっぱりそこにあるものが予定調和になっていかない感じがあるので。そこがすごくいいですよね。 嶺川:すごく正直すぎて、グサッてくるくらい。 村山:だから、本当にひどい親御さんとかよくハートリーの映画に出てくるんですけど、それが別にひどいから悪いとか、それを解決すればいいとか、そういうレベルで物語は語っていないですね。 深田:語っていないですね。それで、なんだろう…難しいですよね、まだご覧になっていないので。いくつかいい台詞があったなと思いながら、思い出せないし、思い出しても言えないんだよなという、いろいろ考えてしまって。 村山:それはこれから楽しみに観ていただいて。 深田:いいなと心に残る台詞がいくつもあります。 村山:それで、今日は嶺川貴子さんがミニライブをこれからやってくださるという。すごく貴重なライブだと思って、すごく楽しみにしておりますが、嶺川さん、準備の方をよろしくお願いします。 『ブック・オブ・ライフ』に提供した「1.666666」、 『トラスト・ミー』より「End Credits」「Cue #16」を披露 村山:嶺川さん、ありがとうございました。最初にやっていただいた曲が、さっき言っていた『ブック・オブ・ライフ』という映画のオープニングでかかる曲で、本当にリクエストまで聞いていただいてありがとうございました。 こんなにハル・ハートリーばっかりやるライブってやったことないんじゃないですか。 嶺川:初めてです。カバーをしてみました。 村山:カバーアルバム以来の。 嶺川:そうです。 村山:まだ、今日この中でハル・ハートリーの映画を観たことがない方がいらっしゃったら、観終わった後に、嶺川さんがハル・ハートリーの…ミュージシャンのときはネッド・ライフルって名乗っていたことが多いんですけど、その世界をライブでやってくださっていたな、っていうことが多分わかっていただけると思います。ありがとうございます。 嶺川:私なりの、追加したものはありますけど。 村山:お時間も迫ってまいりまして、トークセッションはここまでに、ということになります。最後に、二人から何かご挨拶的なことをお願いしていいでしょうか。 深田:さっきの様子だと、けっこうハル・ハートリーの映画を観ているっていう方が多く集まっているのかなと思うんですけど、でも若い人もいらっしゃるみたいですし初めての方もいると思います。本当に若い世代にどんどん観てほしい作家だなと、30代の人にも20代の人にも10代の人にも観てほしい作家だなと思うので、特にこの『トラスト・ミー』なんて女子高生の話なので、今の高校生が観ても共感できるんじゃないかなと思うので、これを機会に、もっと広まってほしいなと思います。 村山:ありがとうございます。嶺川さんもお願いできますでしょうか。 嶺川:私もそうですね。このお祭りがシネマさんで放送されるということで、観直したりして、また私の今の歳で観ると深いものがあって。でも深田監督がおっしゃっているように、10代とか20代とかの若い方にも、観てどんなふうに思ったのか聞いてみたいです。 村山:ありがとうございます。ザ・シネマさんで放送が4月からありますし、4月・5月には大阪・東京でハル・ハートリー作品の劇場公開もございます。さっき言ったように『ヘンリー・フール・トリロジー』というものが日本語字幕でBOXになって、今Amazonで買えたりもしますので。皆さん、ハル・ハートリーという監督を再び我々日本人が取り戻すためにご協力を、感想をつぶやいたりとかそういうことでも全然構わないので、いただければと思います。どうぞよろしくお願いします。本日はありがとうございました。 ================================ 「NYインディーズ界最後のイノセンス ハル・ハートリーの世界」 特設サイト:https://www.thecinema.jp/special/halhartley/ ================================ ザ・シネマの視聴方法はこちらから https://www.thecinema.jp/howto/ ザ・シネマ カスタマーセンター TEL:045-330-2176(受付時間 土・日・祝除く 9:30-18:30) ================================ スカパーならお申込みから約30分で見られます! 「ザ・シネマ」1chだけでも契約できます。更に加入月は0円! (視聴料は月額700円(税抜)+基本料金 390円(税抜)) https://promo.skyperfectv.co.jp/guide/ TEL:0120-556-365(年中無休 10:00-10:20) ================================
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COLUMN/コラム2018.02.15
「男と女」の間に横たわる“裸の真実”を、ロバート・アルドリッチ監督が2つの世界を鋭く対比させながらソフト&ハードに追求した異色のネオ・ノワール『ハッスル』~2月5日(月)ほか
■祝ロバート・アルドリッチ監督生誕100周年 今年2018年は、1918年に生まれ、1983年にこの世を去ったロバート・アルドリッチ監督の生誕100周年にあたる。 アルドリッチ監督といえば、文字通りの戦場を舞台にした『攻撃』(1956)や『特攻大作戦』(1967)などの戦争映画をはじめ、『アパッチ』(1954)、『ヴェラクルス』などの西部劇、映画業界そのものを物語の舞台に据えた『悪徳』(1955)、『女の香り』(1968)などのハリウッド内幕もの映画、灼熱の砂漠での集団サバイバル劇『飛べ!フェニックス』(1966)、大恐慌下の貨物列車を舞台に無賃乗車の帝王と鬼車掌が対決を繰り広げる『北国の帝王』(1973)、そして、女子プロレスの闘技場のリングを舞台にした遺作の『カリフォルニア・ドールス』(1981)に至るまで、さまざまな苦境の中で、自らの意地と誇りを賭けて必死に闘い続ける主人公たちの姿を描き続けた活劇映画の屈指の名匠。 昨年、やはり彼の代表作の1本である戦慄のゴシック・ホラー『何がジェーンに起ったか?』(1962)で初めて競演し、劇中の物語のみならず、製作現場やその舞台裏においても凄まじい確執と対立劇を繰り広げることとなった往年のハリウッドを代表する2人のスター女優、ベティ・デイヴィスとジョーン・クロフォードの壮絶なライバル対決を、アルドリッチその人も主要登場人物の1人に配しながら描いた海外ドラマ『フュード/確執 ベティ vs ジョーン』(2017)が、全米や日本のBSでも連続放送されて話題を呼んだ。 今回ここに紹介する『ハッスル』(1975)は、アルドリッチが、彼の映画史上最大のヒット作となった『ロンゲスト・ヤード』(1974)に続いて、当時人気絶頂だったバート・レイノルズと再び監督・主演コンビを組んで放った一作。しかしこの『ハッスル』に、刑務所の囚人と看守たちがそれぞれアメフト・チームを結成して真っ向から激突する、『ロンゲスト・ヤード』風の単純明快で痛快無類の娯楽活劇を期待すると、きっと肩すかしを食うに違いない。 『ハッスル』は、彼の映画にはきわめて珍しい本格的な男女のラブ・ストーリーに、刑事ドラマの要素が絡み合った二重の物語構成となっていて、一見それがうまく一つに融合しないまま、全体的に真っ二つに分裂しているような印象を観る者に与え、なかなか簡単に一言で説明するのが難しい、何とも奇妙で厄介なアルドリッチ映画なのだ。 もともと本作は、前作『ロンゲスト・ヤード』の大成功に気を良くしたアルドリッチとレイノルズが共同で製作会社を設立し(それぞれの名前、ロバート(Robert)とバート(Burt)を掛け合わせて、ロバート(RoBurt)・プロと命名された)、先にスティーヴン・シェイガンの脚本を読んだレイノルズが、気に入ったラブ・ストーリーがあると、アルドリッチに映画化の話を持ちかけたところから、この企画はスタートした。 その物語や人物設定は少々変わったユニークなもので、ここで恋愛劇を繰り広げることになる男女はそれぞれ、ロス警察の警部補と高級娼婦という間柄。当初の脚本では、警部補たる主人公と同棲中の恋人はアメリカ人となっていたものの、主人公が、娼婦である彼女とさらに深く踏み込んだ真剣な関係を築くべきかどうか思い悩むという設定を、保守的で旧来の価値観に囚われたアメリカ人の一般観客にすんなり受け入れさせるには、ヒロインを、アメリカ人とはまた別の道徳観念を持つ外国人にした方が有効で得策、とアルドリッチは考え、当初の設定を思い切って改変することを決断。かくしてレイノルズの相手役のヒロインに起用されたのが、その類い稀なる美貌とエレガンスを武器に次々と名作、話題作に出演し、当時は無論のこと、今日もなおフランス映画界を代表するトップ女優の座に君臨し続けるカトリーヌ・ドヌーヴだった。 ■自由奔放な恋を謳歌・擁護する女ドヌーヴ 当時の彼女は30代を迎えたばかりで、成熟した大人の女性の魅力が全身からこぼれんばかり。先に鬼才ルイス・ブニュエルの傑作『昼顔』(1966)では若き人妻にして娼婦という大胆な役柄を妖艶に演じるなど、数々の映画で底知れぬ女の魔性を発揮する一方で、シャネルの香水の広告搭やイヴ・サン=ローランのファッション・モデルとしても活躍し、抜群の人気と名声を誇っていた。 そしてまた、ドヌーヴといえば、つい最近、セクハラをめぐる論争に一石を投じて世間の耳目を集めたことも、記憶に新しいところ。少し遠回りになるが、やはり本作とも少なからず関連する出来事なので、ここでできるだけ手短に(とはいえ、元の文意を歪めたりしてあらぬ誤解が生じないよう慎重に)、それについて振り返っておくことにしよう。 昨秋、ハリウッドの大物プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインのセクハラ疑惑が浮上して以降、SNSやメディアを通じてセクハラを告発するムーブメントが沸き起こり、全米の映画や芸能界のみならず、世界的にその動きが波及して加速・過熱化するなか、今年の1月9日、フランスの新聞「ル・モンド」が、その行き過ぎに対して危惧を表明する共同の声明文を、著名な作家や文化人ら、フランスの100人の女性たちの連名で掲載。レイプは犯罪である、とはっきり断った上で、しかし、男性が女性に言い寄ること自体は罪ではないし、そのことの自由に対してもっと寛容であるべきだ、とする趣旨のこの記事に、ドヌーヴも賛同してその100人の中に名を連ねていたが、これがさらなる論議や大きな反発を招く事態に。 かくしてドヌーヴは、翌週1月14日付の「リベラシオン」紙にあらためて単独で公開書簡を送り、記事の中にセクハラをよしとすることなど何も書かれていないし、そうでなければ自分も署名などしていなかった、と弁明。そして、誰もが皆、自らを裁判官や陪審員、死刑執行人のように振る舞う権利を持つと感じ、SNS上での単なる非難が、処罰や辞職、そしてしばしば、メディアによる弾劾裁判へと通じてしまう時代風潮はどうにも好きになれない、自分はあくまで自由を愛するし、将来も愛し続ける、と従来の立場を堅持した上で、先の「ル・モンド」の記事に感情を傷つけられたかもしれないすべてのセクハラ被害の当時者たちに対してのみ、謝罪を表明した。 最近の一連のセクハラ告発をめぐる大きな議論は、きわめてデリケートで難しい問題ではあり、この狭い紙幅の中でそう簡単に要約・紹介できる類いの代物ではないので、ここから先はぜひ各自でさらなる情報収集に努めて、より正確で幅広い問題の把握と判断をお願いしたいが、いずれにせよ、今回の新たな騒ぎで、「男と女」をめぐる、お国柄や宗教、歴史や文化・社会的背景の違いによる、その人それぞれの価値判断や道徳観念・倫理感の違いが改めて浮き彫りとなり、『ハッスル』のヒロインにドヌーヴを思い切って起用したアルドリッチの判断は、確かに的を射たものであったことが、はからずも今日改めて証明された、といえるかもしれない。 かくして実現したレイノルズとドヌーヴという米仏の男女の人気スター同士の顔合わせは、それなりに功を奏し、この『ハッスル』は、前作『ロンゲスト・ヤード』ほどの大ヒットには及ばなかったものの、それでも全米での興行収入が1000万ドルを突破し、商業的に充分な成功を収めることになった。 ■男と女、嘘つきな関係 アルドリッチ自身、この『ハッスル』は何よりもまず、警察官と高級娼婦との間で繰り広げられるユニークなラブ・ストーリーであると、インタビューの場ではことあるごとに語っていて、さらにはドヌーヴをヒロインにキャスティングできたことが、この映画にとっては大きかったと強調している。しかし、従来のアルドリッチ映画ファン、そしてまた、現代の観客がこの『ハッスル』の中におけるラブ・ストーリーのパートを目にする時、それでもなお、物語や人物の初期設定自体にどうも根本的な誤りがあるのではと、つい困惑と違和感を覚えざるを得ないだろう。 先にも軽く述べた通り、レイノルズがこの映画の中で演じるのは、ロス市警の警部補。彼は、なかなか正義が報われない今日の腐敗した社会にやるせない思いを抱きながら、日夜職務に励む一方で、ドヌーヴ扮するフランス人の美しい高級娼婦と目下同棲中。かつて妻がよその男と不貞を働き、裏切られた苦い経験を持つバツイチのレイノルズは、ドヌーヴをそれなりに愛してはいるものの、2人の繋がりはあくまで肉体関係のみと割り切って、お互いの仕事には不干渉でいることを取り決め、彼女から、あなたさえそれを望むなら自分の商売はやめても構わない、と結婚を迫られても、煮え切らない態度を示すばかり。 それでいて、古き良き時代の懐メロや映画をこよなく愛する昔気質のセンチメンタリストであるレイノルズは、いつかドヌーヴと2人で自らの思い出の地ローマへと旅立つのをたえず夢見ていて、またある時は、近くの映画館で上映中のフランス映画の人気作『男と女』(1966)を彼女と一緒に見に行って、甘美で切ない恋物語の世界に浸り込む。しかも、この『ハッスル』の中にレイノルズとドヌーヴが本格的に絡む濡れ場などは一切画面に登場せず、その代わりに、同じ一つ屋根の下でドヌーヴが目には見えない他の男性顧客たちを相手に長々とテレフォン・セックスの会話に励むのを、そのすぐ脇からひとり指を咥えて眺めて悶々とするレイノルズの姿を、ひたすらキャメラは追い続ける始末なのだ。 これでは、そのさまをじっと辛抱強く見守る我々観客もついモヤモヤイライラして、2人のどっちつかずの曖昧な恋愛関係がどうせ長続きしないことは、はじめから分かり切ったことだろう、それに第一、当人たちの感情はさておいて、本来、法の番人たる警部補が娼婦と同棲中であるという事態が外部に知れたら、それだけで即アウトだろうに、と、あれこれツッコミを入れたくなるのも、致し方ないではないか。 こうして見てくると、この『ハッスル』の中におけるラブ・ストーリーのパートは、うわべだけ綺麗事ばかりを並べ立てた、いかにも絵空事の世界にしか筆者には思えない。けれども、ここで翻ってよく考えてみると、そこにこれまた一見オシャレでファッショナブルだが中身は空疎な恋愛映画の代名詞である『男と女』をあえて引用して重ねて見せる、作者アルドリッチの自虐的で苦いアイロニーに満ちた演出意図も、次第につかめてくるはずだ。 おそらくアルドリッチ自身、映画の準備段階でこの『ハッスル』の説話上の弱点に気づき、商業的な要請と期待に沿って、表向きは男女の人気スター同士の共演によるソフトで甘美なラブ・ストーリーを紡ぎ出す一方で、そちらでは何かと障壁や制約があってなかなか発揮できなかった彼本来の演出手腕を、『ハッスル』の裏番組にして実はこちらこそがメイン・ディッシュたる刑事もののサスペンス・ドラマの方に、思うさまハードに叩きつけたのではないだろうか。 ■男と女 アナザー・ストーリー 実際、『ハッスル』の物語が刑事ドラマのパートへと移行すると、これまで紹介してきたレイノルズとドヌーヴとのセンチで生ぬるい恋愛劇とはうって変わって、日常的に殺人や暴力事件が頻発する犯罪都市ロスのどす黒い闇に包まれたダークサイドの実態が、本来のアルドリッチ映画らしい非情なタッチで容赦なく赤裸々に暴き立てられていくことになる。 ビーチサイドでひとりの若い女性の変死体が発見され、その体内に多量の薬物や精液が見つかったことから、ロス市警の警部補レイノルズは、何やらあやしい事件の匂いを嗅ぎあてる。しかし、ここでも彼の姿勢は腰が引け気味で、あえてそれを単なる自殺として片付け、手っ取り早く事件の幕引きを図ろうとする。けれども、身元の確認作業に立ち会って、自分の愛する娘が痛ましい姿に変わり果て、素っ裸のままゴロンと遺体安置所に寝かされているさまを目の当たりにして怒りを露わにした父親役のベン・ジョンソンが、レイノルズに猛然と食ってかかって真相の徹底究明を迫ったことから、ようやくレイノルズは、本格的な事件の捜査に乗り出すことになるのだ。 かくして、ロスの裏社会に巣食う麻薬や売春などの犯罪組織や、彼らを陰で操る悪の黒幕の存在が浮上し、亡くなった若い女性は、(『攻撃』や『ロンゲスト・ヤード』でもその卑劣な悪役ぶりが印象的だった)エディ・アルバート扮する大物の悪徳弁護士が経営するストリップクラブでダンサーとして働き、さらにはブルーフィルムに出演し、乱交パーティーにも出席していたという、文字通り剥き出しの裸の真実が次々と明らかになる。ここでジョンソンが、愛する我が娘の素っ裸の遺体のみならず、在りし日の彼女がブルーフィルムの中で披露するあられもない痴態をまのあたりにして、耐え難い苦悩と絶望に苛まれる姿ほど、衝撃的で重苦しい痛みを伴った気まずい場面も、他にそう多くはないだろう。 (おそらく『ハッスル』のこの場面に強くインスパイアされて、ポール・シュレイダー監督が『ハードコアの夜』(1979)を撮り上げたのであろうという推論を、筆者は以前、この「シネマ解放区」の『ハードコアの夜』の紹介文の中で述べたことがあるので、ぜひそちらもご参照あれ。それと、『ハッスル』の中には、ジョンソン本人はまだ知らない意外な衝撃的真実が、実はもう一つあるのだが、やはりそれはネタバレ厳禁として、ここでは一応伏せておこう。) ところで『ハッスル』は、映画の冒頭部でビーチサイドに横たわる若い女性の変死体が発見された直後に、海を見下ろす小高い丘の中腹に建てられた瀟洒なリゾートハウス風の家のバルコニーで静かに佇むドヌーヴの姿をキャメラが捉えるところから、本格的なドラマが幕を開ける。一見優雅で高尚なムード満点の高級娼婦ドヌーヴと、俗悪で薄汚いロスのアンダーグラウンドの世界をあちこち経巡った末、哀れな最期を遂げた若い娘(ここでその役に扮しているのは、知る人ぞ知る当時のアメリカの人気ポルノ女優、シャロン・ケリー。当然彼女は、この映画の中でも体当たりの裸演技を披露している)。 つまり、ドヌーヴとケリーは互いが互いを照らす鏡像=分身関係にあり、2人の人生における明暗、天国と地獄という一見対照的な構図が、既に最初に端的に明示されるわけだが、実のところ、ドヌーヴの商売も、一皮剥けばケリーのそれからそう遠く隔たったものではない。ドヌーヴ演じるヒロインの過去は、映画の中でそうはっきりとは語られないが、アルバート扮する大物の悪徳弁護士は、実は彼女の上得意の顧客の一人でもあり、あるいはドヌーヴも、ケリーのように若い時分、アングラ世界の底辺を這いずり回っていた可能性は充分考えられる。 そしてまた、実はレイノルズと、ケリーの父親に扮したジョンソンも、やはり互いに鏡像=分身関係にあることが、ドラマの進展を見守るうち、観客にも了解されることになる。先にレイノルズが、過去に妻に裏切られた苦い経験があることを記したが、朝鮮戦争の復員兵であるジョンソンの方もまた、戦争体験で不能となり、彼の妻が不貞を働いていた事実が彼女自身の告白を通して明かされ、物語の中盤には、各自、喧嘩が原因で、額にこぶを作ったレイノルズと、目の周囲に痛々しいアザと傷跡をつけたジョンソンが、まるで鏡のように向き合って対面する、両者の鏡像=分身関係を何よりも雄弁に物語る一場面も登場する。 悪徳権力者ばかりが栄え、社会の底辺にいる弱者は容赦なく見捨てられる現代の不平等で腐敗した体制に対して、共に憤懣やるかたない感情を抱きながらも、斜に構えて目の前にある現実からたえず目を逸らし、何かにつけ、自分の夢想の世界へと逃避していたレイノルズは、もう一人の自己たる、怒りに燃えるジョンソンに引きずられる形で、ようやく社会、そして自らを取り巻く現実と正面から向き合う決意を固めるのだ。 ■アルドリッチとアルトマン 言われてみれば、あるある!? 筆者ははじめに、『ハッスル』を紹介するにあたって、この映画は二重の物語構成となっていて、一見それがうまく一つに融合しないまま、全体的に真っ二つに分裂しているような印象を観る者に与える、云々、と述べたが、しかしこうして、刑事ドラマのパートをじっくり丹念に追って見てみると、これは、表看板たるソフトで甘いラブ・ストーリーに対する、強烈でハードなカウンターパンチとして機能していて、両者はやはり、それなりに有機的に組み立てられていることが分かってもらえたのではないだろうか。 そしてこちらの刑事ドラマのパートに注目するならば、この『ハッスル』は、かつてフィルム・ノワールの精髄というべき傑作『キッスで殺せ』(1955)を生み出していたアルドリッチが、久々にこの不可思議で魅力的なジャンルならざる映画ジャンルに立ち返って撮り上げた、ネオ・ノワールの1本と呼ぶことも充分可能だろう。この点において『ハッスル』は、いささか唐突ながら、今は亡きアメリカ映画界のもうひとりの鬼才、ロバート・アルトマンの傑作ネオ・ノワール『ロング・グッドバイ』(1973) と意外な接近遭遇をしていることに、今回久々に映画を見返してみてふと気が付いた。 この2人のロバートたる、アルドリッチとアルトマン。名前がよく似ているというのみならず、反権威主義を前面に押し出したその不撓不屈の反骨精神と、山あり谷あり起伏の激しい波瀾万丈の映画人生、そして、作品の中に痛烈な体制批判や諷刺を盛り込みつつ、遊び心とユーモアも決して忘れない快活な娯楽精神という点でも、大いに共通性がある。その一方で、こと2人の作風に関して言うなら、豪快、剛腕で鳴らす直球勝負のアルドリッチに対し、人一倍のひねくれ者で型にはまることを嫌うアルトマンは変化球勝負と、一見対照的で、案外両者はこれまであまり引き比べられることがなかったように思う。 はたして両者の間に直接的な影響関係があるかどうかは不明だが、現今の体制や時流にはどうしても馴染めないままロスの街を東奔西走する、『ハッスル』の昔気質で時代遅れの主人公のキャラ設定や、鏡像=分身を用いた対位法的なストーリーテリング、そして、『カサブランカ』(1942)や『白鯨』(1956)、『裸足の伯爵夫人』(1954)をはじめ、作品のここかしこにちりばめられた、さまざまな往年の映画や音楽の引用、目配せの仕方などは、『ロング・グッドバイ』のそれと結構よく似ている。あるいはまた、『ハッスル』でドヌーヴがすぐ脇にいるレイノルズを尻目に他の男たちとテレフォン・セックスに励む場面は、やはりアルトマンが同じくロスの街を舞台に、こちらはレイモンド・チャンドラーならぬカーヴァーの原作を彼独自の味付けで料理した大作群像劇『ショート・カッツ』(1993)の中で、人妻たるジェニファー・ジェイソン・リーが、家庭の中に場違いな仕事を持ち込んで、夫や赤ん坊を尻目にテレフォン・セックスに励む場面に、何がしかの影響を与えているのだろうか? いずれにせよ、冒頭でも述べた通り、今年はアルドリッチの生誕100周年。これを機に、『ハッスル』だけでなく、他のさまざまなアルドリッチ映画にもぜひ目を向けて、その強烈で無類に面白い映画世界を、ひとりでも多くの映画ファンに存分に楽しんでもらいたいところだ。■ TM, ® & © 2018 by Paramount Pictures. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2017.12.09
12月8日(金)公開『オリエント急行殺人事件』!なんでもできる人・ケネス・ブラナーがこのクラシックにどう挑むか!?
原作者の曽孫も賞賛する、ブラナー版『オリエント急行殺人事件』の独自性 ひとつの難事件を解き終え、イスタンブールからイギリスに向かうべく、オリエント急行に乗り込んだ名探偵エルキュール・ポアロ(ケネス・ブラナー)。そこで出会ったアメリカ人の富豪、ラチェット(ジョニー・デップ)に身辺警護を頼まれるが、ポアロはあっさりと断ってしまう。だがその夜、雪崩のために脱線し、立ち往生を食らったオリエント急行の客室で、刺殺体となったラチェットが発見される……。「マルチキャスト」「オールスター」「アンサンブル共演」etcー。呼び名は多様だが、主役から端役に至るまで、登場人物すべてをスター級の俳優で固める映画というのは、ハリウッド・クラシックの優雅なスタイルだ。時代の趨勢によってその数は縮小されていったが、それでも夏休みや正月興行の花形としてときおり顔を出すのは、それが今もなお高い集客要素を包含しているからに相違ない。 そんなマルチキャスト方式の代表作ともいえる『オリエント急行殺人事件』は、ミステリー小説の女王として名高いアガサ・クリスティの原作のなかで、最も有名なものだろう。これまでに何度も映像化がなされ、とりわけシドニー・ルメット監督(『十二人の怒れる男』(57)『狼たちの午後』(75))による1974年のバージョンが、この偉大な古典の映画翻案として多くの人に「衝撃の結末」に触れる機会を与えてきた。 今回、ケネス・ブラナーが監督主演を務めた新生『オリエント急行殺人事件』は、そんなルメット版を踏まえ、徹底した豪華スターの共演がなされている。しかしどちらの作品も、マルチキャストは単に集客性を高めるだけのものではない。劇中におけるサプライズを成立させるための重大な要素であり、必要不可欠なものなのだ。ありがたいことにミステリー愛好家たちの努力と紳士協定によって、作品の命といえるオチに関しては「ルークの父親はダース・ヴェイダー」よりかろうじて秘密が保たれている。なので幸運にして本作の結末を知らない人は、この機会にぜひ「なぜ豪華キャストでないとオチが成立しないのか?」という驚きに触れてみるといい。 とはいえ、モノが徹頭徹尾同じであれば、長年愛されてきたアガサの原作にあたるか、最良の映画化であるルメット版を観れば事足りるだろう。しかし今回の『オリエント急行殺人事件』は、過去のものとは一線を画する価値を有している。 そのひとつとして、ブラナー監督が同時に稀代の名探偵である主人公ポアロを演じている点が挙げられるだろう。『愛と死の間で』(91)や『フランケンシュタイン』(94)など、氏が主役と監督を兼ねるケースは少なくない。しかしアガサ・クリスティ社(ACL)の会長兼CEOであるジェームズ・プリチャードによると、このアプローチに関し、今回は極めて強い正当性があるという。いわく、「ポアロという人物はこの物語の中で、登場人物全員を指揮している立場であり、ある意味で監督のような仕事をしている存在です」とーー。 かつてさまざまな名優たちが、ポアロというエキセントリックな名探偵を演じてきた。しかしこの『オリエント急行殺人事件』におけるブラナーのポアロは、プリチャードが指摘する「物語を指揮する立場」としての役割が色濃い。列車内での殺人事件という、限定された空間に置かれたポアロは、乗客たちのアリバイを事件と重ね合わせて検証し、理論づけて全体像を構成し、犯人像を浮かび上がらせていく。確かにこのプロセスは、あらゆる要素を統括し、想像を具象化する映画監督のそれと共通している。だからこそ、役者であると同時に監督としてのスキルを持つ、ブラナーの必要性がそこにはあるのだ。 さらにはブラナーの鋭意な取り組みによって、この『オリエント急行〜』は原作やルメット版を越境していく。完全犯罪のアリバイを解くだけにとどまらず「なぜ容疑者は殺人を犯さなければならなかったのか?」という加害者側の意識へと踏み込むことで、この映画を犯罪ミステリーという立ち位置から、人が人を断罪することへの是非を問うヒューマニティなドラマへと一歩先を行かせているのだ。シェイクスピア俳優としてイギリス演劇界にその名を馳せ、また監督として、人間存在の悲劇に迫るシェイクスピアの代表作『ヘンリー五世』(89)や『ハムレット』(96)を映画化した、ブラナーならではの作家性を反映したのが今回の『オリエント急行殺人事件』最大の特徴だ。ブラナーが関与することで得られた成果に対し、プリチャードは賞賛を惜しまない。 「ケネスは兼任監督として、ものすごいリサーチと時間と労力をこの作品に注いでくれました。映画からは、そんな膨大なエネルギー量が画面を通して伝わってきます。『オリエント急行殺人事件』はアガサの小説の中でも、もっとも映像化が困難な作品です。しかしケネスの才能あってこそ、今回はそれをやり遂げることができたといえるでしょう」 ブラナー版の美点は、先に挙げた要素だけにとどまらない。密室劇に重きを置いたルメット版とは異なり、冬場の風景や優雅な客車の移動ショットなど、視覚的な攻めにも独自性がみられるし、『ハムレット』で実践した65mmフィルムによる撮影を敢行し、マルチキャスト同様にクラシカルな大作映画の優雅さを追求してもいる。 『忠臣蔵』や『ロミオとジュリエット』のような古典演目が演出家次第で表情を変えるように、ケネス・ブラナーの存在を大きく誇示する今回の『オリエント急行殺人事件』。そうしたリメイクのあり方に対する、原作ファンや観客の受け止め方はさまざまだ。だが殺人サスペンスという形式を用い、人の愚かさや素晴らしさを趣向を凝らし描いてきた、そんなアガサ・クリスティのマインドは誰しもが感じるだろう。 古典を今の規格に適合させることだけが、リメイクの意義ではない。古典が持つ普遍的なテーマやメッセージを現代に伝えることも、リメイクの切要な役割なのである。■ © 2015 BY EMI FILM DISTRIBUTORS LTD. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2017.11.30
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2017年12月】にしこ
監督自身、アイルランドからアメリカへ移住し、自らの夢を叶えた人物。作中の様に、奇跡の様な飛び道具キャラクターの存在は実際あったかわかりませんが、当時の自分と家族のもがきを懐かしく、そして同じ様な経験をしたであろう、多くの他国からアメリカへやって来た人たちへの暖かく愛しい目線で描かれる名作です。2人の娘、クリスティとアリエルを連れてカナダ経由でアメリカにやってきたジョニーとサラ夫妻。入国規制が緩いカナダ経由でNYに入ろうとした冒頭から緊迫感が漂います。なぜ彼等はアイルランドからニューヨークへやってきたのか。言葉では言い表せない喪失をなんとか心機一転に変えるためにやってきたその理由は、作中で明かされます。小学校高学年の長女クリスティは長女らしいしっかり者。いつもハンディカムを回して家族を撮影しています。それは彼女が家族を俯瞰で観察し、必要とあればその均衡あやうい絆のバランスを保つため。物語は彼女の目線で語られていきます。一方幼い妹のアリエルは、その天真爛漫さで、新天地であるニューヨークの生活を子供ならではの柔軟性で楽しみ、家族を和ませます。そんな2人と対照的に、両親であるジョニーとサラは、まだぬぐいきれない喪失感と日々の生活の苦しさに余裕のない毎日。サラはジョニーに言います。「幸せなフリをして。子供たちのために。お願い」と。どんなに愛し合っていても、それだけでは超えられない悲しみがある。人には人それぞれの悲しみがあり、それを肩代わりすることはできないから。そんな生活の中、ヤク中患者の巣窟の様なニューヨークの治安の悪い地域のマンションに住む家族は、ハロウィンをきっかけに、謎の隣人マテオと出会う事になります。アリエルが「トリック・オア・トリートをやってみたい!」と言い出した事がきっかけ。これは、アイルランドからやってきた家族、というところに重要な意味が有ります!なんとアイルランドはハロウィン発祥の地でありながら「トリック・オア・トリート」がありません!これは、アメリカで生まれた独自の風習。アイルランド本国ではハロウィンは精霊や妖精が集うお祭りなので、日本でいうとねぶた祭りみたいに、でっかい山車が街を凱旋する。みたいなお祝いの仕方をします。(アイルランド在住1年。ザ・シネマ編成部にしこ体験談。)謎の隣人マテオははたして何者なのか?何者かどうかはさておき、彼との出会いで家族の運命が変わっていきます。学校の課題でハロウィンのコスチュームを作る事になった姉妹。姉のクリスティが「秋」の仮装をしたことを指摘された時に、「autumだね!」という母に「fall」よ!といいます。アイルランドでは秋の事を「オータム」と、アメリカでは「フォール」と言う。こういった文化の違いに子供たちが日々学び、格闘している姿をさらっと描くところも名匠の手腕。そして、クリスティ、アリエル姉妹を演じた実際の姉妹であるボルジャー姉妹。彼女達の純度の高いあの日々しか撮りえなかった瞬間を収めたというだけで、この作品には価値があると思います。クリスティが学校の学芸会で「デスペラード」を独唱するシーンの尊さ。アリエルの底抜けな純真さ。あえていいたい。この作品の主役は彼女達です。この作品の脚本は、監督のジムと娘の共同で書かれたもの。苦しく、懐かしく、そして輝かしかった日々であったことが、この作品を観ればわかります。必見です。■ © 2003 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2017.11.10
イギリスの名監督がキャリアの初期に放った、“奇妙な魅惑”が息づく不完全な犯罪ロードムービー『殺し屋たちの挽歌』〜11月25日(土)ほか
スティーヴン・フリアーズはちょっとした映画マニアならば誰もがその名を知るイギリス・リーズ出身の映画監督だが、その個性をひと言で表現できる人は筆者も含めてほとんどいないだろう。若き日のダニエル・デイ=ルイスが主演した『マイ・ビューティフル・ランドレット』(85)で初めて日本に紹介されたこのフィルムメーカーは、それ以降、約20本が日本公開されているが、手がけるジャンルやテーマは多岐にわたり、どれが自分で企画を主導した作品で、どれが雇われ仕事なのかも区別しがたい。『マイ・ビューティフル~』と『プリック・アップ』(87)が立て続けに公開された1980年代半ばには“マイノリティーを描く社会派監督”のイメージで語られることがあったが、その後、ラクロの官能小説の映画化『危険な関係』(88)でハリウッドに進出すると、サスペンス、ヒューマン・ドラマ、コメディ、時代ものを次々と発表。近年は『あなたを抱きしめる日まで』(13)、『疑惑のチャンピオン』(15)、『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』(16)という“実話が元ネタ”以外の共通点がほとんど見つかりそうもない映画を世に送り出している。 フリアーズの凄いところは、こうした多様な作品群のほぼすべてで水準以上の結果を叩き出してきたことだ。強烈な作家性を前面に押し出すタイプではないが、ストーリーテラーとしてのバランス感覚や手際よさに優れ、どの作品を観ても退屈しない(というか、ほとんどが面白い!)。要するに、極めてアベレージの高い職人監督にしてヒットメーカーであり、プロデューサーからすればこれほど重宝する人材はいない。「さて、このややこしい企画をどうしたものか。まずフリアーズに話を持っていくか」。きっとハリウッドやイギリスにはそんな思考回路でフリアーズにオファーを出し、彼の卓越した手腕の恩恵に浴してきた製作者が何人もいるはずだ。 目立った受賞歴は『ハイロー・カントリー』(00)でのベルリン国際映画祭銀熊賞(監督賞)くらいなものだが、『グリフターズ/詐欺師たち』(90)、『クィーン』(06)でアカデミー賞監督賞に二度ノミネートされ、『プリック・アップ』と『ザ・ヴァン』(96・未)でカンヌ国際映画祭コンペティションに参加している実績は、堂々たる名匠と言ってもいい。加えて『靴をなくした天使』(92)、『スナッパー』(93)、『ハイ・フィデリティ』(00)、『堕天使のパスポート』(02)のような愛すべき秀作、佳作も多数発表しているのだから、新作が届くたびに「とりあえずフリアーズなら観ておくか」と考える筆者のような映画ファンは少なくないはずだ。 だいぶ前置きが長くなったが、今回のお題の『殺し屋たちの挽歌』(84)は、フリアーズが『マイ・ビューティフル・ランドレット』の前年に撮った日本未公開作品である。『Gumshoe』(71・未)に続く劇場映画第2作だが、この人はBBCのディレクターとして膨大な数のTVムービーを手がけているので、当時すでに40代半ばの中堅どころであった。邦題はまるで香港ノワールのようだが、濃厚でエモーショナルな人間模様や派手なドンパチで見せる暗黒街ものではなく、極めてクール&ドライなタッチの犯罪映画だ。 物語はギャングの一員であるウィリー・パーカー(テレンス・スタンプ)がイギリスでの裁判に出廷し、銀行強盗の仲間を裏切る証言を行うシーンから始まる。それから10年後、司法取引によって罪を軽減されたパーカーはスペインの田舎町でひっそりと暮らしているが、執念深い組織は現地にベテランの殺し屋ブラドック(ジョン・ハート)と若い助手のマイロン(ティム・ロス)を派遣。荒っぽく拘束されたパーカーは、組織のボスが待つパリまで車で運ばれることになる。ところが途中立ち寄ったマドリードで揉め事に遭い、マギー(ラウラ・デル・ソル)という若い娘を道連れにするはめになった一行の旅は、それをきっかけに迷走していく。 いわゆる“護送もの”のロードムービーなのだが、『ガントレット』(77)や『ミッドナイト・ラン』(88)のように登場人物が行く先々で危機一髪のアクションを繰り広げる映画ではない。パーカーは組織を裏切った後の10年間の隠遁生活であらゆる分野の書物を読破し、死をも恐れぬ悟りを開いたと言い放つ怪人物。1000キロ余り先のパリで待ち受けるボスに処刑されゆく運命にあるというのに、殺し屋コンビが走らせる車の後部座席でまったく動じることなく、薄気味悪い笑みさえ浮かべ続ける。このパーカーが発する得体の知れないカリスマ性が冷徹に任務を遂行しようとする殺し屋たちを動揺させ、さらには激しい気性と色気を兼ね備えたファムファタール、マギーの存在がいっそう状況をややこしくさせる。旅のスタート地点で主導権を握っているのは明らかに殺し屋コンビだが、ロードムービーに付きものの寄り道を繰り返すたびに4人の関係性はじわじわとねじ曲がり、当初はごくシンプルな設定に思えた犯罪劇がいつしか危うい心理サスペンスに変容してくのだ。 オフホワイトのスーツに黒いサングラスをまとったブラドック役のジョン・ハート、血気盛んなトラブルメーカーのチンピラ、マイロンを金髪で演じたティム・ロス(これが映画デビュー作!)、そして謎めいた言動を連発して彼らを翻弄するパーカーに扮したテレンス・スタンプ。それぞれのユニークなキャラクターになりきった俳優3人の緊張感みなぎるアンサンブル、そこからにじみ出す静かな狂気や人間的なおかしみが実に豊かで素晴らしい。彼らのささいな表情の変化や仕種を的確にすくい取るフリアーズの演出もまた、前述した円熟の“バランス感覚”や“手際のよさ”とはひと味もふた味も違う繊細さ、鋭さが随所にうかがえ、この緩やかに劇的な破滅へと突き進むロードムービーを魅惑的なものに仕上げている。何もかもが乾ききったスペインの広大なロケーションと、パコ・デ・ルシアのギター演奏をフィーチャーしたサウンドトラックも、本作の特異なムードの醸造にひと役買っている。冒頭のメロウな主題曲を手がけたのはエリック・クラプトンだ。 ただし、この映画には大きな難点がある。「人間は誰もが死に到達する。それは自然な出来事だ」。本作のテーマはそんなパーカーの哲学者のようなセリフに象徴される人間の生と死、その皮肉な行く末にあることは明白なのだが、クライマックスがあまりにも唐突で消化不良の感が否めない。それはそれで意外性はあるし、ジョン・ハートがラスト・シーンで披露する“ウインク”の演技は鳥肌ものなのだが、多くの観る者は不可解で腑に落ちない急展開に呆気にとられることだろう。殺し屋たちを追跡するスペイン警察の捜査責任者役にわざわざフェルナンド・レイを起用しておきながら、これといった見せ場がまったくないことも不自然である。ひょっとするとフリアーズ自身も、これらの点に不満を感じているのかもしれない。2011年にはフリアーズが本作をセルフリメイクするというニュースがネット上を駆けめぐったが、未だ実現しておらず続報を待ちたいところである。いずれにせよ、この“不完全な犯罪映画”はフリアーズの多彩なフィルモグラフィーの中でもとびきりの異彩を放ち、今なお一度観たら忘れられない奇妙な魅惑が息づいている。 ちなみに、今をときめくクリストファー・ノーランもこの映画の愛好者のひとり。2013年、Indie Wire誌のサイトに掲載された“10 Filmmakers’ Top 10 Films Lists”という記事において、ニコラス・ローグの『ジェラシー』(79)、大島渚の『戦場のメリークリスマス』(83)、シドニー・ルメットの『十二人の怒れる男』(57)などとともに、お気に入りの10本のひとつに本作を選出している。■ COPYRIGHT © MCMLXXXIV CENTRAL PRODUCTIONS LIMITED ALL RIGHTS RESERVED
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NEWS/ニュース2017.10.30
『ブレードランナー 2049』の公開にあわせ、ハリソン・フォードほかキャスト、監督が来日!都内でおこなわれた来日記者会見を完全レポート!
▼登壇ゲスト :ハリソン・フォード、アナ・デ・アルマス、シルヴィア・フークス、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督 日時:2017年10月23日(月) 場所:ザ・リッツ・カールトン東京 司会:伊藤さとり 通訳:戸田奈津子、鈴木小百合 沢山の報道陣の熱気と作品の世界観を現したパネルが印象的な記者会見会場。盛大な拍手と共に、和やかな雰囲気でハリソン・フォード、アナ・デ・アルマス、シルヴィア・フークス、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督が登壇。 司会:ようこそお越しいただきました。ひと言ずつご挨拶をいただければと思います。素晴らしい映像世界を作り上げてくださいました、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督からお願いします ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督:本当に、日本に来られて非常に光栄に思います。この作品を皆さんと一緒にシェアできるということ、とても今興奮しております。司会:どうもありがとうございます。最強の女性レプリカントのラブ役を演じましたシルヴィア・フークスさんです。シルヴィア・フークス:私は初来日なので、今とても幸せですし、本当にエキサイティングな気持ちです。東京に初めて来て、まさに『ブレードランナー』の世界に入り込んだような、そういう感覚にとらわれています。司会:ライアン・ゴズリング扮するKの恋人ジョイをチャーミングに演じられました、アナ・デ・アルマスさんです。アナ・デ・アルマス:皆さんこんにちは。東京は2回目です。19歳の時だったと思いますけれども、小さなスパニッシュ映画祭がございまして、その時に来ました(2009年「ラテンビート映画祭」で初来日)。また帰ってこられて、本当にうれしい。この映画のことをいろいろお話ししたいと思います。司会:最後に、再びデッカードを演じられました、9年ぶりの来日となるハリソン・フォードさんです。 ハリソン・フォード:私も、また日本に戻ってこられて大変うれしく思っております。台風も追い払ってくださいまして、本当にありがとうございました。昨日の台風は、大変興味深い経験でした。今回この『ブレードランナー』の続編を持ってこられたことを大変うれしく思っております。最初の『ブレードランナー』が、日本での反響がとてもよかったことを覚えており、非常に幸せに思っておりました。この続編を日本の皆さまが、楽しんでいただけることを願っております。 司会:どうもありがとうございました。代表質問をさせていただきます。ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督に質問です。『ブレードランナー2049』で描かれている世界観でこだわった部分を教えてください。ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督:オリジナルの『ブレードランナー』は2019年という設定でした。我々はその時代に近づいてきていて、最初の映画で描かれた世界とはかなり違う世界になっております。ですから、ある意味パラレルワールド的な別の世界観、最初の『ブレードランナー』の繋がりとして、30年後の世界を今回は描いています。そこにスティーブ・ジョブズは存在しません(笑) 実際の現代社会よりも遥かに厳しい気候や過酷な生活の中で、建築物や乗り物、テクノロジーが進歩した世界を描いています。私にとって一番興味深いのは、未来についてこの映画が語っていることではなく、現在について語っていることです。 司会:ハリソン・フォードさんに質問です。前作から35年ぶりにデッカードのオファーが届いた時の率直な気持ちを教えてください。 ハリソン・フォード:撮影が始まるたぶん4年前だったと思いますが、リドリー・スコットから「デッカードをもう一度やる気があるか?」という電話がありました。「ストーリー次第だけど、とてもやりたい」という気持ちを伝えました。その後、リドリー・スコットから、ハンプトン・ファンチャー(本作の原案を担当)のオリジナル短編を元に書いたシナリオが送られてきました。デッカードがエモーショナルな次元で非常によく書かれており、とても共感できるキャラクターであり、これならいけると思い出演しました。 司会:シルヴィアさんとアナさんにお伺いしたいと思います。『ブレードランナー』への出演オファーを受けた時の気持ちを教えてください。 シルヴィア・フークス:最初のリアクションはプロデューサーのオフィスで、本当に大きな声で叫んだ後、号泣しました(笑)。ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、ハリソン・フォード、ライアン・ゴズリング…こういう方々と仕事ができるという喜びがありました。そしてこの作品が、私にとって人間的にも女優としても大変重要な映画でした。この方々とこの映画の世界に入り込めるチャンスを掴んだということで圧倒されました。ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督:オファーを彼女に伝えた張本人なのですが、彼女の叫び声があまりにも大きくて、耳がちょっと痛かったなと。プロデューサーに「彼女、死んじゃったの?」と(笑) アナ・デ・アルマス:エモーショナルな部分で貴重な経験ができました。ナーバスにもなりましたし、この映画の世界の一部に自分がなるということで、非常にドキドキする部分もありました。皆さんが期待するような演技をできるようにというプレッシャーがありました。素晴らしいキャスト、クルーの方たちと一緒にお仕事をできるということも、非常に胸がワクワクする経験でした。私が演じた「ジョイ」というキャラクターも非常に興味深い女性ですし、一体どういう人間なのかという好奇心も駆られ、非常にやりがいのある役でした。この映画はオーディションからリハーサル、撮影の5か月間、そのすべての期間が私にとって本当に実りある時間でした。 記者1:ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督に質問です。日本のアニメーション監督にも影響を及ぼした前作『ブレードランナー』ですが、監督が35年前にご覧になった時のその衝撃をお聞かせ下さい。また、監督された作品にどんな影響がありましたか?ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督:ある意味『ブレードランナー』以前と以後で、だいぶ違うと思います。リドリー・スコット監督の照明の使い方、また雰囲気の作り方、まったく見たことのない世界観。私の映画にも非常に影響を与えていますし、私の友だちや、同世代の監督たちはこの『ブレードランナー』から非常に影響を受けていると思います。 記者2:ハリソン・フォードさんに質問です。昨日は丸一日オフだったということですが、どのように過ごしましたか?また、どこか行きたい場所はありますか? ハリソン・フォード:雨だったので、近くのショッピングモールを歩いたり(笑)。ホテルの部屋がとても高層だったので、この2日間、雲に閉じ込められて全然外が見えなくて、今朝になってやっと景色が見えました(笑) 東京と京都はもう何度も来ています。京都だけで5度くらい。もし機会があれば地方を自分で運転しながら、ドライブ旅行をしてみたいです。もっと日本のいろんなところに行きたいですね。 記者3(フジテレビ、軽部さん):『ブレードランナー』とハリソン・フォードさんに敬意を表して、こういう衣装(デッカードの衣装をハリソン・フォードに見せて)で来たのですが、いかがでしょう? ハリソン・フォード: (OKサインを出す) 記者3(フジテレビ、軽部さん):ありがとうございます。ハリソン・フォードさんは、『スター・ウォーズ』のハン・ソロも30年以上、『インディ・ジョーンズ』も随分時間を経て、また同じ役を演じていらっしゃいます。今回のデッカードも35年ぶりということですが、同じ役を長い時間を経てもう一度演じるというのは、どういう気持ちで、どんなことを感じますか? ハリソン・フォード:やっちゃいけないですか?(ニヤリ)各作品とも凄くファンがいる映画ですね。そういう機会を楽しみに待っている人がたくさんいる。それに応えて、自分が昔演じたキャラクターをもう一度繰り返して、ハン・ソロが30年後にはどうなっているか、デッカードが35年後にはどうなっているか、その時の流れがどういう影響を与えているか、人生をどう生きてきたかということを演じることは、俳優として非常に興味深いことでもあります。それでそういうことを繰り返しているということになるんだと思います。 記者4:前作公開当時、生まれていない若者もこの作品に触れると思います。彼らに対しての何かメッセージはありますか? ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督:『ブレードランナー2049』は、これだけ観ても十分わかるように意図して作られております。そうは言っても、本当にオリジナルを観てほしい。オリジナルは、本当に美しくパワフルな映画で、サイエンス・フィクションとしても金字塔的な作品ですから、両方観てほしいという思いです。最近SFは戦争ものが多い。そういう中で、『ブレードランナー』の世界観というのは、SFを啓示ものとして扱っていますし、謎を解いていくというミステリーなんです。ですから、すごくエモーショナルなものもあります。ハリソン・フォード:今の監督のコメントを聞いて、彼こそ続編を作る正しい監督だったということがおわかりになったと思います。彼はキャラクターからこの作品にアプローチして、感情というものに非常に注意深く描いている。それが作品に対する正しいあり方だと思います。最初の作品はやはり観てほしい。映画をひとつの織物としますと、前作を観るともっと大きな織物が観られる体験できると思います。本作だけでも非常に壮大なスケールですし、満足のいく経験ができます。それに加えて、もし前作を観ればちょっと違った経験も感じることができるんじゃないかと思います。記者5:シルヴィアさんとアナさん、ハリソン・フォードさんと初めてお会いした時の印象、教えてください。それを受けてハリソン・フォードさん、ひと言お願いします。 シルヴィア・フークス:この役の準備のために、ハードなトレーニングをしなくちゃいけなかった。とにかくお腹がすくので、丁度ケータリングのテーブルのところで、色んなモノに食らいついていたんです(笑)。そこにハリソン・フォードさんが素敵なイヤリングをしてクールな感じで来まして、「明日のシーンのことなんだけど…」と言われて、もうごはんを飲み込めなくなってすごく大変な思いだったのを覚えています(笑)。最初のシーンはすごく小さな空間だったのですが、彼を見ると「ハン・ソロだ! インディ・ジョーンズだ!」と思ってしまうので、なるべく彼を見ないように地面を見ていました(笑)。でも彼が、私が彼の方をチラッと見た時、急にジョークを言ったんです。「ある時、バーに犬がいてね」と始まって、それからずっと私を笑わせてくれました。その日はいろんなシーンの合間合間で、彼のジョークがあって。とても温かい人柄と、そしてクリエイティビティーを大事にされる方です。ですからとにかく笑って楽しい雰囲気でした。アナ・デ・アルマス:いつだったかしらと記憶が定かでなくて。ラスベガスにある彼のアパートのシーンだった気がします。ジョイという役の衣装がいつもミニスカートとセーター(笑)。とてもセクシーなので、ライアン・ゴズリングもとても気に入ってくれました。寒い衣装なので、ハリソンはそれを気遣ってくださって「寒くないかい?」とか「そのブーツ、大丈夫?」とか「これ、貸してあげよう」とか、非常にいつも気遣って心配してくれました。「覚えている?」と聞いたら、「全然覚えてない」と(笑)。ハリソン・フォード:とにかく楽しい現場でした。一日一日とても長い時間をかけての撮影ですし、シーンも複雑なので難しい映画なのですが、雰囲気はとても和気あいあいとしていて、私の記憶の中で、この映画の撮影中は楽しかったというものです。 記者6:全世界45か国以上で、初登場No.1を獲得した反響をどう思われているか教えてください。 ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督:私たち全員そうですが、この映画を制作するプレッシャーは凄く感じていました。もちろん最初のオリジナルの『ブレードランナー』というのが名作中の名作ということで、その続編を作るというのは、私たちにとってものすごく興奮することであり、そして同時に非常に緊張感、恐怖を覚えました。最高のものを作るべく、ベストを尽くしました。そして今、映画の神様に感謝をしたいと思います。これだけ世界中で反響を呼び、そして非常にヒットしているということで、本当に私は心から感謝をしていますし、誰も私の車の下に爆弾を置かないということは安心できます(笑)。この映画に関わったアーティストたちは、ほぼ全員が『ブレードランナー』ファンでしたし、ですから我々全員が非常に敬意を払って作品作りをしよう、我々の中のこの記憶とか思い出をリスペクトしようという気持ちでした。ハリソン・フォード:この映画は、確かに世界中でヒットしております。それも、いろんな文化が違うところで、ちゃんとヒットしているわけです。それは私にとっては興味深い。話自体はカリフォルニアとラスベガスが舞台ですが、やっぱりこの映画が伝えたいのは、場所じゃなくてキャラクターであり、キャラクターのストーリーなんです。人間とは何かとか、人間は運命をコントロールできるのかとか、そういうどんな文化も超えた人間の自然に抱く質問に答えようとする映画、人間のエモーションに関して答えようとする映画で、そういう意味でこの映画は文化圏を超えたインターナショナルな映画と言うことができると思います。この映画が成功したとすれば、成功の鍵はそこにあると。真の意味で「インターナショナル」ということだと思います。シルヴィア・フークス:この映画を撮っていた時には、まるで本当に小さい独立系の映画のある自由とか信頼を、監督が与えられてくれました。監督は本当に俳優を信頼してくださって、何でもやらせてくれる環境を作ってくれるんですね。ですから、これだけのクリエイティビティーと創造性を出すことができました。これだけアウトハウス的な制作をして公開されると、非常に大きな映画で、それでまた成功しているということはこれ以上ない幸せですし、私たちが一生懸命やったものがこれだけ多くの人たちに温かく迎えられている、そして世界中の人にこの作品が通じているというのがとてもうれしいことです。アナ・デ・アルマス:付け加えることはもうないのですが、とにかくあらゆるところでヒットしていることは本当にうれしいことです。人々の心にタッチしているという、そういう映画でございまして、それはとてもうれしいこと。それはクリエイティブな面でも、それからエモーショナルな面でも人々を動かしているということだと思います。素晴らしいことだし、本当にスペシャルな映画だと思います。そういう映画に携われたことに非常にハッピーに思っております。司会:どうもありがとうございました。 フォトセッション後、会見終了となりました。■ 『ブレードランナー 2049』原題:Blade Runner 2049上映時間:163分製作総指揮:リドリー・スコット監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ出演:ライアン・ゴズリング、ハリソン・フォード、ロビン・ライト、ジャレッド・レトー、アナ・デ・アルマス、シルヴィア・フークス、カーラ・ジュリ、マッケンジー・デイヴィス、バーカッド・アブディ、デイヴ・バウティスタ 2017年/アメリカ/2D・3D配給:ソニー・ピクチャーズエンタテインメント2017年10月27日(金)より丸の内ピカデリーほか全国ロードショー■公式サイト:http://www.bladerunner2049.jp/
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COLUMN/コラム2017.10.15
多重人格(?)ジョニー・トー監督の本領発揮作『MAD探偵 7人の容疑者』〜10月05日(木)ほか
香港。西九龍署のバン刑事は、人が内に秘めた人格を察知する特殊な能力を持つ刑事。さらに被害者や加害者の状況を疑似体験して事件の真相を知ることで、数々の難事件を解決してきた有名刑事である。しかしバン刑事の異常行動は、事件捜査の際だけでなく、署長退任時に自身の右耳を切り取ってプレゼントするなどエスカレート。バン刑事は、状態的に奇行を繰り返すようになっていき、ついには精神病と診断されて警察も追われてしまった。 『MAD探偵 7人の容疑者』は衝撃的かつ不可解な始まり方をする映画だ。説明が極力省略されていることで、バン刑事の周囲で起こる異常な状態と異常な行動を、観客はバン刑事の周囲の人物たちと同様に「一体何が起こっているのか?」という目線で見始めることになる。 5年後、バンのもとにホー刑事がやってくる。ホー刑事は新人刑事時代に、バンと共に殺人事件を担当し、その衝撃的な捜査スタイルが強く印象に残っており、今自身が担当している事件への協力を依頼したのだ。その事件とは“ウォン刑事失踪事件”。1年半前のある夜、同僚のコウ刑事と共に窃盗事件の捜査中だったウォン刑事は、犯人を追う中で山中で姿を消した。しかしウォン刑事の拳銃が複数の強盗事件で使用され、4人の死者も出る事態となっていたのだ。ウォン刑事の生死も不明な中で事件捜査は難航し、担当のホー刑事はバンに助けを求めたのだった。 バンはコウ刑事を見るなり、コウ刑事が内面に秘める7人の人格を察知。ウォン刑事失踪事件の犯人は、コウ刑事であることを断定する。突飛で不可解な行動を繰り返しながらも事件解決に向けて少しずつ前進するバンを理解しようと努力するホー刑事だったが、バンはホー刑事の警察手帳と拳銃を持ち去って勝手に捜査を開始してしまう事態になってしまい……。 バンの持つ能力は、サイコメトリー能力(残留思念を読み取る能力)であり、ビジュアライズされたテレパシー能力(相手の考えていることが分かる能力)。サイコメトリーと言えばデヴィッド・クローネンバーグの『デッドゾーン』(83年)を想起するが、『デッドゾーン』と違ってその能力の具体的な裏付けの説明が一切ないため、バンが超能力者なのか、実はただのサイコパスなのかは最後まで明確にされることは無いというのが特徴的な作品。 監督はジョニー・トーとワイ・カーファイのゴールデンコンビ。主役のバン役には目力が強力な野性味あふれるラウ・チンワン。バンに事件解決依頼をしたために本当にひどい目に遭うホー刑事役には、アクション映画で実力を発揮するアンディ・オン。事件の当事者であるコウ刑事役は、香港の蟹江敬三ことラム・カートン。ビジュアライズ化されたコウ刑事の7人の人格役にはラウ・カムリン、ラム・シュー、チョン・シウファイらが配役されている。 89分というタイトな映画であるが、中身がギュウギュウに詰まった映画で、ラウ・チンワンが同じ食べ物を何度も注文する食事シーンや、ラウ・カムリンの立ちションシーンなど印象的なシーンの目白押し。メキシカン・スタンドオフが炸裂するドラマティックなクライマックスと、唐突に終わる間抜けにもほどがあるラストのコントラストは衝撃的だ。 さて、本作の監督であるジョニー・トーは、もちろんご存じの通り香港を代表する世界的な監督であるのだが、筆者はトー監督もまた多重人格なのではないかと疑っている。 ジョニー・トーは1955年生まれの62歳。香港の九龍に生まれたトーは、17歳の時に香港最大のテレビ局TVBでアシスタントとしてキャリアをスタートする。翌年にはバラエティ番組のディレクターとして演出家デビュー。数々のテレビ番組やテレビドラマを演出した後、1980年には『碧水寒山奪命金』で映画監督デビュー。1989年にはチョウ・ユンファ主演の『過ぎゆく時の中で』を監督し、スマッシュヒットを飛ばす。アンディ・ラウの『raiders レイダース』(91年)やチャウ・シンチーの『チャウ・シンチーの熱血弁護士』(92年)など、若手の有望株の主演作を次々と監督し、その実力を認められたトー監督は、1993年に香港版『チャーリーズ・エンジェル』とも言うべき『ワンダー・ガールズ 東方三侠』を監督。アニタ・ムイ、ミシェル・ヨー、マギー・チャンという美女三人が大活躍するアクションコメディは大ヒットを記録し、同年中に続編も制作されている。また第二次世界大戦中の中国空軍兵のラブロマンス『戦火の絆』(96年)、ラウ・チンワンと初タッグを組んだ消防士アクション映画『ファイヤーライン』(96年)と、佳作を量産体制に入る。また1996年には、TVBでプロデューサーとして活躍していた同い年のワイ・カーファイと銀河映像を設立しており、トー監督作品はこの銀河映像で制作されることになる。 1998年、名曲『上を向いて歩こう』をバックに敵対する組織に属する殺し屋2人の絆を描く『ヒーロー・ネバー・ダイ』(98年)で、カルト的な人気が爆発。さらにヤクザの親分のボディガードたちの死闘と友情を描く『ザ・ミッション 非情の掟』(99年)で、香港電影金像奨の最優秀監督賞を受賞して完全に覚醒する。『ヒーロー~』と『ザ・ミッション』で新世代香港ノワールの旗手として完全に認識されたトー監督だったが、翌年には盟友ワイ・カーファイと共同監督した『Needing You』が香港で凄まじい大ヒットを記録する。本作はアンディ・ラウと歌手として大活躍するサミー・チェンがドタバタを繰り返しながら接近していく様子を描く胸キュンラブコメディで、トー監督が香港ノワールの監督とレッテルを貼っていたファンは度肝を抜かれることとなる。 さらにアンディ・ラウとサミー・チェンを続けて起用した、香港版『ナッティ・プロフェッサー/クランプ教授の場合』とも言うべき『ダイエット・ラブ』(01年)を発表。特殊メイクで激太りさせた主演2人のドタバタ喜劇は、またまた大ヒットしている。 香港ノワールの巨匠、ラブコメの帝王の名を欲しいままにしたトー監督だったが、その後は日本から反町隆史を招いて制作された『フルタイム・キラー』(01年)を発表。アンディ・ラウが謎日本語を駆使し、謎が謎を呼ぶ悪夢のような展開によって、ヘンテコ映画として認識されることになる。さらに2003年にはジョニー・トーのヘンテコ路線の究極系である『マッスルモンク』を発表。未見の読者には是非観て頂きたいのであるが、とにかく凄まじく変な映画で、前半のスチャラカコメディタッチのデタラメ展開から、後半のシリアス展開へのギャップも凄く、唖然とすることを請け合いの怪作である(しかし本作は香港電影金像奨で13部門にノミネートされ、最優秀作品賞を受賞するという快挙を成し遂げる……謎である)。 ここで「ジョニー・トーもすっかり変な監督になっちまったな……」と思わせておいて発表されたのが『PTU』(03年)。香港警察特殊機動部隊の一夜を描く『PTU』は、改めてトー監督の実力を満天下に知らしめる大傑作。香港電影金像奨で10部門にノミネートされ、トー監督は最優秀監督賞を受賞している。かと思えば同年には金城武主演の軽いテイストのラブコメディ『ターンレフト・ターンライト』(03年)を発表。2003年にはノワール、ラブコメ、ヘンテコの3作品を発表しているのだ(さらにSARSでパニックになった香港を励ますために『1:99 電影行動』も監督している)。 その後もヘンテコ路線として『柔道龍虎房』(04年)、『強奪のトライアングル』(07年)、『僕は君のために蝶になる』(08年)を、ノワール路線として『ブレイキング・ニュース』(04年)、『エレクション』シリーズ(04年~)、『エグザイル/絆』(06年)、『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』(09年)を、さらにラブコメ路線として『イエスタデイ、ワンスモア』(04年)、『単身男女』(11年)、『香港、華麗なるオフィス・ライフ』(15年)を監督している。 さらにこの3つのジャンルをそれぞれミックスしたようなハイブリッド作品として、『MAD探偵 7人の容疑者』(ノワール+ヘンテコ)のような作品も発表する。3つのジャンルを縦横無尽に行き来しながら年に3本も4本も映画を監督し、しかも次々と傑作・怪作・ヒット作を連発するという芸当は並みのことではない。こんな作品を発表し続けるトー監督は、やはり多重人格なのではないかと思うのだ。■ © 2007 One Hundred Years Of Film Company Limited All Rights Reserved