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COLUMN/コラム2016.03.08
白い世界に現れた、赤いコートの美少女! 若きロボット科学者と少女のミステリアスな関係を描いた〜『EVA<エヴァ>』〜
ロボットとひと口で言っても多彩である。漫画やアニメに登場する巨大ロボットを想起する人もいるだろうし、インダストリーのリアルな工業用ロボットを思い起こす人もいる。または今一番身近でポピュラーな、ロボット掃除機をあげる人もいるだろうか。でも『EVA』で描かれるのは、人工知能が備わった自律型で、人間社会と共存しうる高性能ロボットの開発と、それに伴う人間たちの感情である。ここに登場する精巧な“S・I”シリーズの最新型ロボットは、人間と見紛うほどリアル。 よく、人型の自律ロボットを描くにあたって思いだされるのが、アイザック・アシモフが提唱したロボット工学3原作。人間を守るための重要な規約で、「第1条/人間に危害を加えてはならない。第2条/第1条に反する場合を除き、人間に服従しなければならない。第3条/第1条及び第2条に反するおそれがない限り、自己を守らなければならない」……これらの規約は、人型ロボットの物語を構築していく際には、映画の作り手の意識・無意識を問わず、考えなければならない。 例えば、アシモフの原作小説「バイセンテニアル・マン」を基に、人間になりたいと願う家事用ロボットを描いた『アンドリューNDR114』(99年)をはじめ、感情を実験的にプログラムされた子供型ロボットがアイデンティティーを求めて彷徨う『A.I.』(01年)、アシモフの短編集「われは、ロボット」を原案にして、殺人事件の容疑がかけられたロボットと刑事が対峙する『アイ,ロボット』(04年)、法令違反の改造を施されたロボットが独自に進化を遂げてゆく『オートマタ』(14年)など、いずれも作品の底辺にアシモフのロボット工学3原則の匂いを感じ取ることができる。 ロボットが人間に近づこうとする、或いは、ロボットが進化するSFドラマを構築しようとする場合、ロボットを通じて人間の普遍的な姿を投影したり、科学の暴走に警鐘を鳴らすなどの表現を込めてきた。しかし『EVA』の舞台の近未来では、自律型の執事用ロボット“S・I・7”やペット型ロボット“グリス”などが、人間社会と密接に絡んで共存している。ここではロボットの進化や脅威を描くのではなく、人間とロボットの壁(境界)を超えた“普遍的な愛”を詩的に捉えている。 雪がしんしんと降り積もる郊外の静かな街を背景にして、ロボット製造から一度は逃げてしまった科学者が、再び自律型の高性能ロボットを作ろうとするドラマ。詩的でファンタジックなメルヘン要素を見せていく一方で、哀しみをおびた情緒的な愛の寓話とも受け取れる。例えば、ロボットが人間の指示に従わず、どうしようもない時にかける言葉がある。それはロボットに対する、最も神聖な言葉「目を閉じると、何が見える?」 するとロボットは、安らかに眠るように突然機能を停止!……それはロボットにとって、死を意味する。一度ショートした感情の記憶は修復不可能で、再起動しても同じロボットではなくなってしまう。そのあたりの表現が、ハリウッド映画とは異なるスペイン映画らしい芸術性か。 若くて優秀なロボット科学者アレックス・ガレル(『ラッシュ/プライドと友情』のダニエル・ブリュール)は、かつて高性能の自立型ロボット第1号“S・I・9”を研究・製造していたが、肝心の感情生成機能が欠けていて未完成のままだった。そして、突然どこかへ雲隠れしてしまってから10数年後、大学の女性ロボット科学者ジュリアに呼び戻され、完璧な自律型ロボットの製造を依頼される。彼は一緒にいたくなるようなロボットを造りたいと切望するが、そのためには外見や感情データを収集するための人間のモデルが必要だった。 そしてアレックスは、ロボット科学者で兄のダビッド、かつてのアレックスの恋人で兄の妻になっていたラナ・レヴィ(『スリーピングタイト 白肌の美女の異常な夜』のマルタ・エトゥラ)との久々の再会を果たした。 父亡きあと、空き家になった実家でロボット製造に取りかかるアレックスだったが、ある日、通りがかった小学校で赤いコートを着た美少女エヴァ(クラウディア・ヴェガ)を発見してから、喋ったり、何度も逢ううちに新たなロボット製造のモデルに相応しいと考えはじめる。 純白の世界の中、赤いコートを着て歩き回る10歳の美少女は、少々おませで、アレックスの心を無邪気に翻弄する。『ロリータ』(61年)のように、大人の男性と美少女の妖しげな匂いを仄かに放っているが、ある事実が判明する。それはエヴァが、兄ダビッドと元恋人ラナの娘だった。両親は、エヴァがアレックスと一緒に仕事をすることに反対していた。 エヴァ(EVA)の名は、旧約聖書の創世記に誕生した最初の女性イヴに由来し、ヘブライ語で“命”や“生きるもの”を意味する。ラナは、エヴァに何を託したかったのか? そしてアレックスが、エヴァがラナの娘と知らず、なぜエヴァに夢中になったのか? おそらく、ラナに対する秘かな想いを、知らず知らずの内にエヴァの中に見ていたためか。アレックスのエヴァへの気持ちは、ラナへの断ち切れぬ愛でもある。アレックスのラナへの強い愛情は、更に強い妄想を抱かせてしまい、意外な事実が明らかとなり、恐ろしい事態へと発展していく。 エヴァは母ラナに反対されながらも、好意を抱くアレックスに協力する。その結果、ロボットの感情記憶装置の設定データを採取され、“S・I・9”にプログラムされる。見たモノに反応し、人間のように経験が記憶を創りあげてゆくビジュアルは、まるで雪の結晶のようにファンタジックで美しいが、とても壊れやすいガラス細工のようにも見える。そして、アレックスのエヴァを通じて感じさせるラナへの愛も、雪の結晶のように美しくも儚い。 おそらく「街全体を白く染めあげている雪」と「“S・I・9”の心を創りあげる記憶」と「アレックスのラナに対する愛情の記憶」の3つを、結晶というシンボリックな形で関連づけているよう。 表向きはSF映画だが、その実、人間が愛に翻弄される詩的な寓話だった。アレックスの愛が新たな愛を生み、別の嫉妬や憎悪を生み、ある意味、結晶のようにつながっている。だから、ロボットらしい見せ場などのSF的醍醐味はほぼ皆無であるが、その代わりに詩的でファンタジック、それでいて哀切な世界観にしばらく浸っていたくなるほど。だから大人向けのSFダーク・メルヘンといった方が適切かもしれない。 それこそが『EVA』の最大の魅力だと思う。メルヘンのように雪の白い世界の中、赤いコートを着た美少女が現れ、大人たちにかつての愛を思い出させ、無邪気に翻弄してまわる。人間にとって、なかなか消せない愛、忘れられない愛は、記憶の中に生き続ける……そんな作り手の想いが伝わってくる。 ラナがエヴァによく読んであげた本が、「アラビアンナイト」だった。エヴァはその本について、こう言う。「眠りにつくお姫様を、王子様が殺さなきゃいけないの。だけどお姫様は、毎晩毎晩、王子様にステキなお話しをしていたの。王子様は、続きが気になって、お姫様を殺せなくなってしまうのよ。こうして一夜、一夜、過ぎていきました……」 美少女エヴァの寝顔は、安らかであって欲しい。■ ©Escándalo Films / Instituto Buñuel-Iberautor
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COLUMN/コラム2016.01.22
男たちのシネマ愛③愛すべき、ボロフチック監督作品(4)
飯森:そんなこんなで、ちょうど“猥褻と芸術”の問題がクロースアップされている時期に、この「インモラル物語」が鳴り物入りで日本へ入ってきたものの、ボロフチックさんはだんだんとそこまでの大きな扱いを受けなくなっていった。でもまだまだ注目はされていた、という時期に日本公開されたのが「夜明けのマルジュ」です。 なかざわ:これはシルヴィア・クリステル【注53】にジョー・ダレッサンドロ【注54】が主演。エマニエル夫人とアンディ・ウォーホル【注55】一派という、当時のまさに旬な顔合わせです。 飯森:特にシルヴィア・クリステルは全盛期でしたよね。 なかざわ:その後に「エアポート’80」【注56】でハリウッド進出もしていますし。ヨーロッパを代表する大物セクシー女優でした。 飯森:これがまた話しづらい映画でしてね。とんでもないネタバレがあるんですよ。ジョー・ダレッサンドロふんする主人公は、フランスの郊外にあるプールもあるような豪邸で、奥さんと可愛い息子と一緒に暮らしていて、お手伝いさんもいるかなり裕福な人物なんです。しかも、奥さんとはやりまくり(笑)。朝一番に花を摘んできてね、全裸でベッドに横たわっている奥さんの体に花びらを撒く。そこに大きな窓から注ぎ込む朝日が、胸の谷間や股間の谷間に花びらの散らばった奥さんの体を美しく照らし出すわけですよ。そんな状態でセックスをする。すごくロマンチックな感じで、いやらしい感じの全くしない、とても綺麗なラブシーンです。性的にも満たされていて、なおかつ小さな可愛い息子までいる。そんな主人公が出張でパリへ行く事になるわけですが、家族に見送られて大都会へやって来た彼が真っ先にすることというのが、赤線地帯で売春婦探しなんです。まあ、別腹ってことなんですかね(笑)。 なかざわ:当時は紳士の嗜みだったのかもしれませんしね。 ■ ■ ■この先ネタバレを含みます。■ ■ ■ 飯森:で、彼の買った売春婦というのがシルヴィア・クリステル。妻ではない女をお金で買って抱きました、ああスッキリした、と。その翌日、彼は手紙を取りに行くんです。もともと事前に家族と約束をしているんですよ。連絡をするならここへ手紙を送ってくれと。で、それをチェックしに行くわけです。すると、案の定手紙が届いている。中身を確認すると、家政婦からで、奥さんが亡くなったと書いているんです!ところが、それを読んだ彼は黙って懐に入れちゃう!そして、またもやシルヴィア・クリステルを探して夜の街をさまよい、そのあとも何度か寝ちゃう!このあたりの展開は、かなり難解かもしれません。なにしろ主人公が何を考えているんだか、さっぱり理解不能なので。 なかざわ:これは20年以上前にビデオで見たきりなので、記憶はかなり曖昧ですね。 飯森:で、ここからがネタバレ全開なんですが、ラストで例の手紙を取り出してもう一度読むんですよ。すると、息子も死んだってことが書いてある。あの可愛い息子が自宅のプールに落ちて死んじゃって、それで半狂乱になった奥さんが衝動的に自殺したというのが事の全貌だったわけなんですが、我々観客には奥さんが死んだ部分しか明かされていなかったわけです。それまで売春婦と何度もやった主人公は、夜が白々と明けていく中、車の中でその手紙を改めて読みながらさめざめと泣いて、次の瞬間にバーンと銃声がこだまして終わり。恐らく自殺したんでしょう。何を言いたいのか分かりづらい映画です。で、当時の監督のインタビューを読むと、実は奥さんとシルヴィア・クリステル演じる売春婦が似ているという設定らしいんですね。奥さんが死んじゃったことで気が動転した主人公は、瓜二つの売春婦を抱くことで現実逃避しようと思ったらしいんですよ。でも、映画に出てくる奥さん役の女優とシルヴィア・クリステルは全然似ていない。だから、インタビューを読んでビックリしました。 なかざわ:他人の空似じゃないですけれど、その人にしか分からない共通点みたいなものはあるんでしょうけれどね。 飯森:でもそれは映像として描かないとダメですよ!シルヴィア・クリステルに聖女と娼婦の一人二役やらせるとか。あと、時系列も本来は違ったみたいですね。原作だと出張へ向かっている最中に訃報が届くらしいんです。なので、家族がみんな死んじゃったと分かった状態で、それでもパリへ行って夜の街をさまようという話になっているようなんですね。でも、映画だと単に出張先でハメを外して女遊びしたところ、その翌日に奥さんの訃報が届いて、それでも遊びを続けた挙句、改めて手紙を読むと息子も死んでいたことが分かり、あの家にはもう誰もいないからということで自殺する。そういう、ちょっと理解しがたい作りになっています。どうやら原作では、手紙で奥さんが死んだという一文を見つけて、動転のあまり手紙を畳んで読まなかったらしいんですよ。 なかざわ:すると、そもそも手紙をちゃんと読んではいなかったわけですね。 飯森:ともかく、驚くくらい唐突な展開の映画なんですけれど、ボロフチックさんにとっては勝負作だったのではないかなという気もします。なにしろ、プロデューサーのレイモン・アキム【注57】も、キネマ旬報のインタビューで「第二の『ラスト・タンゴ・イン・パリ』【注58】以上のものです」と豪語しているし(笑)。少なくとも、「エマニエル夫人」を上回る!くらいの意気込みで作られたのではないかと思いますね。 なかざわ:確かに主演も美男美女の旬なスターを揃えているし、作品のテイストにしても薫り高き文芸映画という趣ですから、ここでひとつ評価を固めておきたいという野心はあったのかもしれないですね。なにしろ、「インモラル物語」や「邪淫の館・獣人」で好奇の目に晒された後ですし。 飯森:とはいえ、そこまでの評価は得られなかった。当時はベルトルッチやポランスキー【注59】に続く逸材として将来を嘱望されていたようですが、このあとは次第に「結局ポルノの人なんでしょ?」みたいな扱いをされてしまう。 なかざわ:キワモノ系の監督なんかと一緒にされてしまった感はありますね。 飯森:ただ、今お話したような裏話的な解釈を踏まえた上で見ると、いろいろな謎解きとかメタファーに満ちた映画のようにも思えるんですよ。深読みを楽しめる奥の深い作品だとも言えます。あとはシルヴィア・クリステルですよ。彼女がとんでもなく美しい!格調が高いというか。彼女の場合、服を着てる時より脱いだ時の美しさですよね。裸身が高貴! なかざわ:彼女は当時のポルノ女優の一般的なイメージとは一線を画す存在ですよね。儚げだし、体も華奢だし。グラマラスからは程遠い。竹久夢二【注60】のイラストに描かれてもおかしくない。 飯森:そういう意味では、日本人受けするタイプかもしれませんね。その究極の女体美を堪能するという一点においてもオススメです。 <注53>1952年生まれ。映画「エマニエル夫人」(’74)で世界中に大旋風を巻き起こした。2012年没。<注54>1948年生まれ。ヌード・モデルを経てアンディ・ウォーホルに見出され、彼のアングラ映画に次々と主演して’70年代サブカルチャーの申し子となる。<注55>1928年生まれ。アメリカの芸術家でポップ・アートの生みの親。絵画や音楽、映画にまでその才能を発揮し、彼の取り巻きグループからはモデルのイーディ・セジウィックやキャンディ・ダーリン、ジョー・ダレッサンドロなどのスターが生まれた。<注56>1979年製作。映画「エアポート」シリーズの第4弾。超音速旅客機コンコルドがミサイルに狙われる。アラン・ドロンとシルヴィア・クリステルが主演。<注57>1909年生まれ。フランスの映画製作者。兄のロベールと共同で、「望郷」(’36)や「太陽がいっぱい」(’60)、「昼顔」(’67)などの名作を手がける。1980年没。<注58>1972年製作。主演のマーロン・ブランドとマリア・シュナイダーの大胆な性描写が物議を醸した。ベルナルド・ベルトルッチ監督。<注59>ロマン・ポランスキー。1933年生まれ。ポーランドの映画監督。代表作は「反撥」(’65)、「ローズマリーの赤ちゃん」(’68)、「テス」(’80)、「戦場のピアニスト」(’02)など。<注60>1884年生まれ。日本の画家。アンニュイな美人画で知られる。1934年没。 次ページ >> 『罪物語』…俺には妻がいるがもう愛してない、離婚調停中で近々別れる予定、という、よくあるパターン 『インモラル物語』"CONTES IMMORAUX" by Walerian Borowczyk © 1974 Argos Films 『夜明けのマルジュ』©ROBERT ET RAYMOND HAKIM PRO.
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COLUMN/コラム2016.01.05
【未DVD化】英国ニュー・ウェイヴが革命の季節に放った反逆の映画『if もしも‥‥』
もし君が英国のパブリックスクールに憧れていたとしたら、『if もしも‥‥』はその幻想をコナゴナに打ち砕いてくれるはず。この映画で描かれるパブリックスクール、とにかく陰惨すぎる! それゆえに主人公の終盤の行動が説得力満点なわけだけど。 この終盤の展開を観た者ならば、本作が1969年にカンヌ映画祭でグランプリを獲っていたという事実に少なからず驚くはずだ。哲学的な作品が幅を利かすあの祭典で、こんな衝動的な映画が栄冠に輝くなんて! でも前年のグランプリ作を知ったなら納得するんじゃないだろうか。というのも、1968年のグランプリ作は該当作無し …ていうか、カンヌ映画祭自体が開かれなかったのだ。 映画祭中止の理由は、学生運動を発端にフランス全土のストライキへと発展した、五月革命にある。これに触発されたフランソワ・トリュフォーやジャン=リュック・ゴダール、ルイ・マルといったヌーヴェルヴァーグの映画作家たちが騒ぎだし、映画祭自体がストライキされたのだ。だからその翌年に学生の反乱を描いた『if もしも‥‥』が栄冠に輝いたのはある種の必然だったわけだ。 ヌーヴェルヴァーグ(新しい波)を英語では「ニュー・ウェイヴ」という。同時代の英国にもそう呼ばれた映画作家の集団が存在しており、『if もしも‥‥』はこの英国ニュー・ウェイヴ映画のひとつの到達点的な作品でもあった。 この集団の代表的な映画監督としては、トニー・リチャードソン、カレル・ライス、そして『if もしも‥‥』の監督リンゼイ・アンダーソンが挙げられる。ライスとアンダーソンは当初、映画評論誌『シークエンス』の同人であり、その点も『カイエ・デュ・シネマ』の同人だったヌーヴェルヴァーグの作家たちとよく似ていた。 彼らはフリー・シネマと呼ばれた社会派ドキュメンタリーの製作を経て、劇映画へと進出していった。リチャードソンは『怒りを込めて振り返れ』(59年)や『蜜の味』(61年)といった力作を発表。ライスも『土曜の夜と月曜の朝』(60年)で続いた。アンダーソンの長編劇映画デビュー作は、そのライスが製作した『孤独の報酬』(63年)である。労働者階級出身のラグビー選手を描いたこのシリアス・ドラマは、主演のリチャード・ハリスがカンヌ映画祭で主演男優賞を獲得するなど高く評価された。 だがこれに続く長編はなかなか製作されなかった。アンダーソンは自分の資質に合った脚本をじっと待っていたのかもしれない。そんなところに『十字軍』と題された脚本が持ち込まれてきた。これを読んだアンダーソンは即座にストーリーが『新学期・操行ゼロ 』(33年)をベースにしたものであることを見抜き、映像化を決断したのだった。 29歳で夭折したフランスの映画監督ジャン・ヴィゴが撮った『新学期・操行ゼロ』は、抑圧的な寄宿舎学校の生活とそれに反抗する生徒たちを描いたことが原因で、政権批判と見做され12年間も上映禁止されていたという呪われた作品だった。しかしこれをヌーヴェルヴァーグの作家たちは絶賛。フランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』(59年)にも絶大な影響を与えていた。 そんな『新学期・操行ゼロ』の現実版ともいえる五月革命が、ヌーヴェルヴァーグの作家たちが住むフランスでは巻き起こっていた。しかしアンダーソンの住む英国では、ロックがポップ・カルチャーを席巻してはいたものの、文化が政治そのものに影響を及ぼす度合いはいまひとつだったのである。 こうした状況に苛立ったアンダーソンが起こした<映画内英国五月革命>が『if もしも‥‥』だったのかもしれない。その証拠に、冒頭シーンで顔の下半分をマフラーで隠し続けるトラヴィスの姿からは『大人は判ってくれない』、寮の部屋に貼られたマシンガンを抱える黒人のポスターからはゴダール『ワン・プラス・ワン』(68年)といったヌーヴェルヴァーグ作品へのオマージュを感じる。 アンダーソンの母校チェルトナム・カレッジで行われた撮影は、資金不足との戦いだったという。しかしアンダーソンは一部のシーンを安いモノクロのフィルムで撮影することで、これを乗り切った。そのため本作は、シーンによって唐突にモノクロに変わってしまうのだが、それがかえって意味ありげな効果をあげている。 公開された『if …もしも』は英国内で絶賛と誹謗中傷の両方を呼び起こした。これほどの社会的なインパクトを与えたのは、これがデビュー作だった主演俳優マルコム・マクダウェルの存在感によるところが大きい。 実はアンダーソンを含めて「ニュー・ウェイヴ」の映画作家たちのほとんどが上流階級出身のインテリだった。彼らが社会派なのはそうした自分の出自にやましさを感じていたからで、それゆえ主張自体は正しいものの、どこか絵空事的な雰囲気が漂っていたのである。だが労働者階級出身のマクダウェルは、その主張を不敵な演技によってぐっと生々しいものに変えてくれたのだ。 本作一本で一躍スターになったマクダウェルは、『オー! ラッキーマン』(73年)や『ブリタニア・ホスピタル』(82年)でもアンダーソンと組んでいるが、その際の役名はいずれも『if もしも‥‥』と同じミック・トラヴィスである。決して同一人物ではないのだが、アンダーソンのもとでマクダウェルが反逆者を演じる 時、彼はトラヴィスという人格になるのだろう。 トラヴィスのまたの名をアレックスという。なぜなら『if もしも‥‥』を観たスタンリー・キューブリックが、「主人公のアレックス役を演じられるのは彼しかいない!」とマクダウェルを主演に招いたのが、『時計じかけのオレンジ』(72年)だったからだ。マクダウェル一世一代の当たり役のアレックスのプロトタイプは『if もしも‥‥』にあったのだ。 『時計じかけのオレンジ』は多くの人間の人生を変えた。五月革命を真似た学生運動を英国の大学で行って失敗して以来、冴えない人生を送っていたマルコム・マクラーレンは、映画の斬新なデザイン感覚に触発されてロンドンにブティック「SEX」をオープン。パートナーのヴィヴィアン・ウエストウッドとともに過激なファッションの服をデザインしてセンセーションを巻き起こした。店の常連はやがてロック・バンド、セックス・ピストルズを結成。彼らは政治にまで影響を及ぼすロンドン・パンク・ムーヴメントの牽引者となっていった。 アメリカでは、1972年にアーサー・ブレマーという21歳の男が、大統領選挙出馬を狙っていたアラバマ州知事ウォレスの暗殺を図って逮捕された。彼は『時計じかけのオレンジ』を見て以来、ずっとウォレス暗殺を夢想していたという。そんな彼が出版した日記をモチーフにポール・シュレイダーが書いたのが、あのマーティン・スコセッシ監督作『タクシードライバー』の脚本である。ロバート・デ・ニーロが演じた主人公の名はトラヴィスといった。 シュレーダーやスコセッシが『if もしも‥‥』を観ていたかは定かではない。だが人が社会への反抗を叫ぶとき、本人の自覚があろうがなかろうが、『if もしも‥‥』が潜在的に影響を及ぼしている可能性は結構高いのである。■ COPYRIGHT © 2015 PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2015.12.20
テロの時代を予見した作品とその監督を、単純に不運とは言わせない!!〜『ブラック・サンデー』〜
映画はアメリカ大統領を含む8万人の観衆がフットボール試合を観戦する巨大スタジアムで、パレスチナのテロ集団"黒い九月"が仕掛けた無差別テロ計画を、イスラエル諜報特務庁"ムサド"が阻止しようとするパニック・サスペンス。単なる娯楽映画の枠組みを超え、強烈なリアリズムが終始観客の心を掴み続ける力作である。だが、日本公開目前の1977年、配給元に「上映すれば映画館を爆破する」という脅迫が届いたため、用意されていたプリントは破棄され、公開中止が決定する。その3年前の1974年には、東アジア反日武装戦線"狼"による三菱重工ビル爆破事件が発生し、衝撃の余波が続いていたこともあった。しかし、たとえ公開中止になろうとも、1970年代のハリウッド映画を代表する話題作へのファンの評価と飢餓感は消えることなく、2006年にはソフト化され、2011年、"第2回 午前十時の映画祭"に於いて、遂に細々ではあるが劇場公開の運びとなる。製作時から実に34年後の公開だった。 この映画が長く語り継がれる所以は、人物や状況を手持ちカメラやロングショットで追い続けるドキュメンタリー・タッチにある。物語の幕開けはベイルート。"黒い九月"のメンバーが祖国アメリカへの復讐に燃えるベトナム帰還兵、ランダー(ブルース・ダーン)を操り、無差別テロを計画しているアジトに、"ムサド"の特殊部隊が乱入。しかし、リーダーのカバコフ(ロバート・ショー)はその時シャワーを浴びていたテロの首謀者、ダリア(マルト・ケラー)を見逃したため、計画はやがて実行へと移されることになる。映画監督デビュー前にアメリカ空軍の映画班で記録映画を数多く手がけ、その後、TVの生番組を152番組も演出した経験があるジョン・フランケンハイマーは、冒頭の数分で手持ちカメラを存分に駆使。その効果は絶大で、実際はモロッコのタンジールで撮影されたベイルートのざらざらとした画像とも相まって、観客を即座にテロ前夜の緊迫した世界へと取り込んでしまう。 フランケンハイマーのリアルなタッチは人物像にも及ぶ。 イスラエルとパレスチナの終わらない報復の連鎖の中で、家族を失い、必然的に孤高のテロリストとならざるを得なかったダリアを、気丈ではあるが不幸な戦争の被害者として、出征先のベトナムで捕虜となったばかりに、解放され、帰国後は母国民から裏切り者の烙印を押され、妻子にも去られ、精神に異常を来したランダーを、祖国から見放された狂気の人物として各々描写。さらに、"ムサド"を率いてきたカバコフにすら、劇中で「もう殺戮はたくさんだ」といみじくも独白させる。そんなテロ戦争の深い闇の中で、舞台となるアメリカとアメリカ国民はただ逃げ惑うしかないという矛盾が浮かび上がる。まるで、あの9.11を予言したかのような原作と脚色は、その後、『羊たちの沈黙』(91)で世に出るベストセラー作家、トマス・ハリスによるもの。これはハリスにとって最初に映画化された原作であり、『羊~』から続く『ハンニバル』シリーズ以外で唯一映画化された作品でもあるのだ。 気鋭の作家の筆力を得て、フランケンハイマー・タッチは後半、さらにヒートアップして行く。ダリアとランダーが武器として用意したプラスティック爆弾の密輸入に成功し、まずはその威力を試すため、カリフォルニアのモハベ砂漠の小屋で爆破させると、トタンに無数のライフルダーツが開くシーンの視覚的恐怖から、テロ一味が決行の日時と場所に設定したマイアミのスーパーボウル当日、ランダーが操縦する爆弾を搭載した飛行船がスタジアム上空に接近するのを、カバコフがヘンコプターから身を乗り出して追跡する空中戦へと転じるクライマックスのカタルシスは半端ない。リアルな犯罪サスペンスが娯楽アクションに俄然シフトする瞬間だ。 スーパーボウルのシーンはNFLの全面協力の下、マイアミのオレンジボウルで行われた第10回スーパーボウル、ダラス・カウボーイズVSピッツバーグ・スティーラーズの試合前日、10000人のエキストラを投入して撮影された。試合当日にパニックシーンの撮影は危険だったからだ。エキストラは全員ボランティアだったため、後日、フランケンハイマーは謝礼代わりに彼らの仕事ぶりを得意のドキュメンタリー映画に収めることで、その献身に応えている。タイヤメーカー、グッドイヤーが飛行船を提供したのもフランケンハイマーの尽力によるもの。彼とグッドイヤーはFIレースを描いた『グラン・プリ』(66)以来、信頼関係にあったからだ。 『ブラック・サンデー』を語る上で、改めてジョン・フランケンハイマーを取り上げないわけにはいかない。映画の公開直前、配給のバラマウントはかつてない量のモニター試写を行い、結果、かつてない程の好評を獲得し、自信を持って劇場公開に踏み切った。『ジョーズ』(75)に匹敵するブロックバスターになると信じて。ところが、映画は同じ1977年に公開された『スター・ウォーズ』の興収に遠く及ばなかった。そして、これを境にフランケンハイマーは映画作家としてのカリスマを失う。モンスター映画『プロフェシー/恐怖の予言』(79)、ドン・ジョンソン主演のディテクティブもの『サンタモニカ・ダンディ』(89)、H・G・ウェルズ原作『D.N.A./ドクターモローの島』(96)等を発表したものの、どれも『ブラック・サンデー』以前の代表作、アカデミー賞4部門に輝いた『終身犯』(62)以下、『グラン・プリ』『フィクサー』(68)『ホースメン』(71)『フレンチ・コネクション2』(75)等と比べて、質的に劣る作品ばかりだった。 そして、2002年、フランケンハイマーは脊髄手術の合併症により72歳で死去。1960~70年代のハリウッド映画に独自のダイナミズムとリアリズムを持ち込んだ巨匠は、惜しまれつつ、ファンの記憶の中に仕舞い込まれる。ハリウッドメジャーの期待を裏切った彼自身も、もしかして、映画と同じく不運な人だったのかも知れない。しかし、遊園地を舞台に爆弾魔と検査官を攻防を描いた『ジェット・ローラー・コースター』や、同じフットボール試合で発生する狙撃事件を追った『パニック・イン・スタジアム』等、'77年に起きたパニック映画ブームの一翼を担った他作品と比べると、『ブラック・サンデー』がいかに大人の鑑賞に耐え得る重層構造になっているかがよく分かる。単純な悪人も、ひたすら雄々しいヒーローも登場しないテロの時代の空虚を画面にとらえながら、同時に、娯楽的要素もたっぷりのバニック映画とその監督を、単純に不運と呼ぶのはいささか申し訳ない気がする。■ COPYRIGHT © 2015 PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2015.11.30
男たちのシネマ愛①愛すべき、未DVD・ブルーレイ化作品(2)
なかざわ:次にその6作品それぞれについてお話したいと思います。先ほど話題にも出た「スパニッシュ・アフェア」ですが、アクションが多いドン・シーゲル監督映画の中でもかなり異色ですよね。 飯森:まあ、アクションもあるといえばありますけれど(笑)。 なかざわ:でも、基本的には観光ロマンスですよね。そもそもドン・シーゲル監督といえばバイオレンスですから、こういう映画を撮るというイメージが映画ファンにはない。 飯森:主人公も、なかなかドン・シーゲルらしからぬヒーローでね。スペインにやって来たアメリカ人の建築家が、地元の会社の女性秘書に道案内をしてもらうんですけれど、彼女にほれているチンピラが突然飛び出してきて、俺の女に手を出すなってナイフで脅すわけですが、すると主人公は「ごめんなさーい!」って逃げ出しちゃうんですよね(笑)。 なかざわ:「お前とは“できてない”って説明しろ!」ってね。で、後からその秘書に「あの人は男じゃない」とか言われちゃう。とんでもないヒーローですよ。 飯森:あれは衝撃的でしたね。普通、映画でそれは言わないはずでしょ。ましてやドン・シーゲル映画ですから。 なかざわ:しかも1950年代の映画ですよ。まだまだ男は男らしくが社会通念だった時代に、こんな無責任な男ってアリかよという。この主人公を演じているリチャード・カイリー(注6)という俳優は、我々にとっては年を取ってからの名バイプレイヤーとしておなじみですが、若いころの主演作というのは初めて見ましたね。もともとブロードウェーのミュージカル俳優なので、若いころの映画出演作自体が少ないんですよ。そういう意味でも珍しい映画です。あとは、チンピラの片腕みたいなフェルナンドって男が出てきますけど、あれをやっているホセ・マヌエル・マルティンって役者は、後にマカロニ・ウエスタン(注7)の悪役を沢山やっています。他にも、ジェス・フランコ(注8)のフー・マンチュー映画(注9)とか、ポール・ナッシー(注10)のドラキュラ映画にも出ていたし。スペイン産B級映画ではお馴染みの顔で、この人がアメリカ映画に出ていたというのも新鮮な驚きでした。 飯森:あと、これは劇中で言及されていませんが、フランコ政権の時代に作られた映画なんですよね。スペインは’70年代に民主化されましたが、この映画がロケされたころのスペインはゴリゴリの独裁政権下ですよ。 なかざわ:とはいえ、あの国はダブルスタンダードというか、フランコ政権下でも輸出用に結構エログロな映画も作っているんですよね。そういった作品には、スペイン国内向けバージョンとインターナショナル・バージョンがあった。服を着ているとか着ていないとか、残酷なシーンがあるとかないとかの違いなんですけれど。それと、殺人やセックスが絡む映画は必ず舞台をイギリスとかフランスに設定していて、たとえスペイン国内で撮影していても外国の出来事にしちゃう。スペインには人殺しや変質者はいませんからと(笑)。そんな中で、ジェス・フランコやポール・ナッシーが出てきたわけです。 飯森:スペイン映画というのも研究すると面白いかもしれませんね。最近のスパニッシュ・ホラーの質的な素晴らしさとか。個人的には、ドイツ映画がそうしたことをやっていてもおかしくないと思うんですけど。 なかざわ:そうなんですよ。でも、ドイツはナチスのトラウマに戦後ずっととらわれてきちゃったところがあって、そもそもエログロ映画が作れないし、上映できなかった。 飯森:「ネクロマンティック」(注11)がフィルムを没収されて焼却処分されましたもんね。ゲッベルスがやったことと同じことしてんじゃないか!みたいな。って、かなり脱線してしまいましたが(笑)。 なかざわ:だいぶ遠くに行っちゃいましたね(笑)。 注6:1922年生まれ。俳優。代表作は「星の王子さま」(’75)や「エンドレス・ラブ」(’81)など。1999年死去。注7:1960年代に世界中で大ブームを巻き起こしたイタリア産西部劇の総称。欧米ではスパゲッティ・ウエスタンという。注8:1930年生まれ。監督。代表作は「美女の皮をはぐ男」(’61)や「ヴァンピロス・レスボス」(’70)など。2013年死去。注9:クリストファー・リーが中国人の犯罪王フー・マンチューを演じるシリーズ。全5作中、最後の「女奴隷の復讐」(’68)と「The Castle of Fu Manchu」(’69)をフランコが監督。注10:1934年生まれ。俳優。代表作は「吸血鬼ドラキュラ対狼男」(’68)など。ハシント・モリーナ名義で脚本や監督も。2009年死去。注11:1987年製作。死体愛好家カップルの狂気と快楽を描き、本国ドイツはもとより世界各国で上映禁止に。ユルグ・ブットゲライト監督。 次ページ >> 怪人の造形も’80年代的にはイケていたんだろうと思います(飯森) 「スパニッシュ・アフェア」COPYRIGHT © 2015 BY PARAMOUNT PICTURES CORPORATION. ALL RIGHTS RESERVED. 「ザ・キープ」TM, ® & © 2015 by Paramount Pictures. All Rights Reserved. 「世界殺人公社」TM, ® & © 2015 by Paramount Pictures. All Rights Reserved. 「黄金の眼」COPYRIGHT © 2015 PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED. 「くちづけ」TM, ® & © 2015 by Paramount Pictures. All Rights Reserved. 「ウォーキング・トール」© 2015 by Paramount Pictures Corporation. All rights reserved.
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NEWS/ニュース2015.11.10
甘酸っぱく清々しい感動作『マルガリータで乾杯を』。 公開記念して行われたトークショーイベントの様子を(ほぼ)全文レポート!!します!!
ゲストには、裸も辞さない体当たり演技が高い評価を獲得している女優の安藤玉恵さん、自らの経験を活かし、障がい者の性活動を支援するNPO法人ノアールの理事長を務めるくましのよしひこさん、そしてくましのさんの10年来の友人であり、ノアールの活動に共鳴するリリー・フランキーさんという豪華布陣が登場。その模様を、(ほぼ)全文レポートします!! ※ネタバレ有。映画の内容、結末についての記載があります。 司会:岩田和明(「映画秘宝」編集長/以降、司会)登壇者:安藤玉恵(以降、安藤)、くましのよしひこ(以降、くましの)、リリー・フランキー(以降、リリー) 司会:早速ですが、映画の感想からお聞かせください! リリー:本当に良い映画だから、「映画秘宝」なんかが取り上げるべきじゃないですよ。「キネマ旬報」しかダメ。 司会:場違いですいません(笑)。安藤さんはいかがでした? 安藤:すごく元気になりました。笑顔になれますよね。 リリー:あれ、「私は主人公と歯茎が似てる」って言わないとダメじゃない? 安藤:主人公のライラは笑うとすごい歯茎が出るんですけど、それが私とソックリなんですよ。でもそのことは黙っていようと思ってたんですが、さっきからずーっとリリーさんが「言え言え」って(笑)。 リリー:でもさ、本当に良い映画なんだよね。インド映画できっちりタブーを描きつつ、役者の演技も素晴らしいし。しかもさ、まさか同性愛の展開になるなんて思わないよね。 安藤:本当にそう。まさかって思った! リリー:それでいて家族の物語でもあってさ、ちょっと凄いよね。 司会:くましのさんはいかがでしたか。 くましの:実は僕、1年くらい前から本作の存在は知っていて、ずっと追いかけていたんです。それでようやく初めて観た時、自分が障がい者なんで、「どっかで気を抜いて主人公が障がい者じゃなくなる一瞬があるんじゃないか」と、アラを探す感じで観たんですよ。でもね、正直騙されましたね。 リリー:プロの障がい者が騙されたんだ。 くましの:そうなんですよ。主演の女優さんを調べたら、普通に健常者だったんですよ。 リリー:あの子、魅力あるよね。あとさ、主人公のように同じ脳性麻痺で車いすの人でも、くましのくんみたいにハッキリ喋れる人と、ライラみたいに滑舌が良くない人もいるよね。 くましの:脳性麻痺は2、3タイプあって、僕は体が固まっちゃうタイプなんです。ライラは上手く卵を割れないシーンがありましたけど、手が揺れちゃったり、言語障害が出たりするタイプなんでしょうね。 リリー:くましのくんの場合、卵は割れないけどTENGAのエッグは上手にできるでしょ。 くましの:封を開けるのがちょっと難しいんですけどね。 司会:TENGAといえばオナニーということで(笑)、ライラも冒頭でしてましたよね。安藤さんも劇団ポツドールの舞台でオナニーシーンを披露されていましたけど…。 安藤:いいんですよ、それは(笑)。 リリー:それでいえばさ、これまでのドラマや映画で描かれてきた障がい者像って、すごく聖人化されてたんだよね。あの人は性欲がない、あるはずがないみたいなさ、とても驕った見方の作品が作られてきた。くましのくんが「ノアール」って団体で活動しているのは、僕ら障がい者にだって性欲はあるしセックスだってしたいんだってことを訴えるために活動しているわけです。んで僕もそれに共鳴してお手伝いしているんですけど、彼らの基本的な欲求や尊厳を、ボランティアの人でさえ認めてないんですよ。性欲があるってことを知った途端、冷たくなったりするんです。だから障がい者の人たちは“天使”を演じなきゃいけないんです。そういう意味でこの映画は障がい者の性をしっかり描いていて、くましのくんの活動にすごく近いんだよね。…っていう話をしたかったんだけど、なぜか安藤玉恵のオナニー話になるというね。でもね、彼女のオナニーもすごいですよ。 安藤:あくまで舞台で、ですから(笑)。それにしても主演のカルキ・ケクランは体当たりの演技でしたね。男の人ともするし、同性の女の子ともしてますしね。 リリー:そうなんだよ!幼なじみの男の子とチューしたかと思えばバンドマンによろめいて、NYではかっこいい男ともしちゃうしさ。あの時なんてさ、全然ションベンしたくないのにわざとトイレ行って男にパンツ脱がさせてたもんね。 安藤: うそ~。ちゃんとおしっこしてたでしょ! リリー:いや、俺ずーっと耳すませて音聞いてたけど、まったくションベンの音しなかったもん。 安藤:じゃあトイレに行ったのは、誘ってたってこと? リリー:そうですよ。また良いパンツはいてましたもんね。 くましの:間違いなく勝負パンツでしたね、あれは。 安藤:じゃあ彼の家に勝負パンツで行ってたってこと? くましの:たぶん。 安藤:もうちょっとふたりとも純粋に観てくださいよ(笑)。まあでも、あの状況になったらしたくなりますよね。それはわかります。 ■全盲の人でも家族おぶって天ぷらバリバリ揚げてる人もいるし、そういう生活描写も本当のリアルに近いよね。(リリー) リリー:話は変わるけどさ、全盲のレズビアンの子もライラにしてもさ、いつもパキっとした色の洋服を着てるよね。やっぱ目立つ服着ていないと危ないってことなんだよね。くましのくんもいつも赤い服着てるもんね。 くましの:はい。車いすも赤です。 リリー:スティービー・ワンダーも目立つジャケット着てるもんね。あ、そういえばくましのくんは監督と主演の人と会ってるんだよね。 くましの:9月にあいち国際女性映画祭でお会いして。ご拶程度でしたけど、日本でこんな活動してますって伝えました。カルキさん、いい匂いでしたね~。 リリー:カルキさんって、フランス人だけどインド育ちなんでしょ。インドって今、世界で一番映画作ってる国ですよね。 安藤:最近のニュースだとあんまりいい話を聞きませんけど、そんな国がこういう映画を作るんだって、最初は信じられなかったです。 リリー:まあ、インド映画の9割が踊りまくってますもんね。この映画でも途中、いい感じのダンスミュージックがかかって、「あ、やっぱ踊るんだ」って思ったよね。踊りは外せないんだろうね。あとさ、劇中の曲もすごい良かったよね。 くましの:踊る場面が2つあるじゃないですか。家族で踊っているシーンと、全盲の女の子と踊るところと。で、その2回ともライラが膝かっくんってなるんですけど、あれは“脳性麻痺あるある”ですね。力がぐいぐいって抜けちゃうんですよ、ライラみたいなタイプの脳性麻痺って。見る人が見ると、ああいう描写で騙されちゃんうんです。 リリー:健常者は勝手に「障がいのある人は何にもできない」って思いがちだけど、意外とそんなことないんですよね。全盲の人でも家族おぶって天ぷらバリバリ揚げてる人もいるし、そういう生活描写も本当のリアルに近いよね。 くましの:僕個人のことで言えば、時間をかければ大体のことはできます。ただ時間がかかりすぎるってことがあって、自分で全部やろうとしたら1日が35時間くらいないと収まりきらなくなっちゃうんです。だからヘルパーさんを入れるんですね。ライラもNYにお母さんと一緒に行くじゃないですか。あれをもし彼女ひとりで全部やろうとしたら、きっと1日じゃ収まりきらなくなっちゃうと思います。 リリー:お母さんもお父さんも良い感じだよね。そして小太りの弟がまた効いているよね。あの小太りの弟がいるだけで、ものすごい家族感がでるもんね。 ■すごいなって思ったのは、嘘がないのと、足りないことがひとつもないことです。(安藤) 司会:安藤さんは女優としてライラをご覧になっていかがでしたか? 安藤:本当に感動しましたね。すごいなって思ったのは、嘘がないのと、足りないことがひとつもないことです。 司会:障がいのある役を演じられたことはありますか? 安藤:ありますね。山下敦弘監督の『松ヶ根乱射事件』です。 リリー:そういえばさ、くましのくんは編集前の違うバージョンも観てて、公開版とエンディングが違うんだよね。俺はさ、最初本編を観た後に『マルガリータで乾杯を!』って邦題見てさ。この邦題のつけ方、ふんわり感がハンパないですよね。まあでも、原題が『Margarita, With A Straw』だから、『ストローでマルガリータを』にはならないか。それにしても最近はウッディ・アレンの映画も全部『恋するバルセロナ』とかさ、観たいんだけどDVD取るのが恥ずかしいみたいなタイトルのつけ方じゃないですか。この映画のポスターにしたって、全然内容と違うしね。でもラストシーンを考えると、『マルガリータで乾杯を!』はしようがないか。 くましの:原題はトンチが効いてるっていうか、脳性麻痺で手が動かないからビールも何もストローじゃないと飲めないんですよ。しかも、ビールはストローで飲むとめちゃくちゃ酔いが回るんですよね。あとこれも“障がいあるある”なんですけど、アルコールが入ると言語障がいが軽くなるんですよ。普段ガチガチの言語障がいの子も、お酒を飲むとスラスラ喋れるんです。 リリー:飲むとションベン行きたくなるじゃない。でも、車いすで入れるトイレを併設してる飲み屋ってほぼないんだよね。だから、飲むとしたら便所チェックするよ。俺はラブドールのリリカっていうのが家にいて、車いすにリリカを乗せて友だちと会わせたりしてるからさ。リリカが来たことによって、くましのくんの生活がもっと分かるようになった。 安藤:真面目に聞いて良いのか分かんない(笑)。 リリー:あとラストシーンでさ、ライラが新しい髪型にして、「今日はデートなの」って言ってレストランでマルガリータを飲んでるんだけど、そこに誰が来たかは映してないじゃないですか。あれちょっとお客さんに誰が来ると思ったか、挙手で聞きたいです。考えられるのは幼なじみか、レズビアンの元恋人か、このふたりでもない誰かじゃないですか。で、そこに来るのが誰であって欲しいかって、お客さんそれぞれが考える一番のハッピーエンドなのかなって。 (会場のお客さんに手を上げてもらう) 司会:幼なじみだと思った人はおひとりですかね。意外と少ないですね。レズビアンのハヌムは3、4人…これも少ないですね。ではこのふたりでもない、第3の人だって方は…これもあんまりいないか。じゃあ、誰も来ないと思った人っています?あ、これが一番多いですね。実は、僕もそう思ったんですよね。でもたしかに、お客さんに委ねるようなラストになっていましたもんね。 くましの:可能性としていろいろあるよっていう感じでしたね。 リリー:あとさ、ライラは言い難いことを親に告白したり、自分が浮気したことを彼女に言ったりとかさ、一番人間が持ちにくい勇気を持ってたよね。 司会:安藤さんは、お母さんに女優になるって言った時はどうでしたか。 安藤:うちは映画のお母さんのように反対されることはなくて、逆に「裸になれないなら、女優になるのはやめなさい」って言われました。 リリー:そして、ポツドールでオナニーしたっていうね。 安藤:もういいよそれは!でも、映画のお母さんも結局は理解しようとしていたよね。最初はつっぱねてたけど。 リリー:あと、インドからNYに行く展開もいいよね。 安藤:NYに留学できるってことは、ライラは裕福なお家ですよね。 リリー:借金してでも留学させたいって感じじゃない?だって弟と相部屋だったよ。だからオナニーする時も背中向けてたもん。でも、ハヌムの方はお金持ちでしょうね。実家が金持ちの顔してる。それにしても、本当に良い映画だったな。今年観た中でベスト5に入りますよ。 司会:これまでのインド映画は歌と踊りばっかりでしたが、最近はこういったおしゃれな作品も数多く作られています。今、インド映画は本当に一番おもしろくて豊かだと思いますよ。 安藤:日本でもインド映画ってけっこう公開されてるんですか? 司会:やっていますね。東京国際映画祭でも公開しています。 リリー:でも日本で一番ヒットしたのは『ムトゥ 踊るマハラジャ』でしょ。江戸木純さんが2万円くらで買ってきて大ヒットした伝説の映画ですよね。俺もね、名古屋の街で踊りまくるっていうインド映画のポスター書いたことあるよ。インド人がドジャースに入団するっていう話。 司会:『ムトゥ〜』の後はたくさんのインド映画が日本に上陸しましたもんね。最近では『きっと、うまくいく』がヒットしました。 ■女性が主人公でストレートに障がい者の性を描いた作品って、おそらく本作が初めてではないでしょうか。(くましの) リリー:しかしさ、女性が観るような映画で、障がい者の当たり前の性欲求を作品にしてくれるっていうのはいいよね。くましのくんと俺がトークショーしてもさ、こんな香ばしい女子は来てくれないじゃないですか。だからこういう機会にさ、ポスターに騙されたとしてもですよ、障がい者の現実をこんな甘酸っぱい温かい映画にしてもらえるっていうことは、くましのくんの活動にも説得力をもたらしてくれることだと思います。 くましの:これまで男性の障がい者が主人公の映画はありましたけど、女性が主人公でストレートに障がい者の性を描いた作品って、おそらく本作が初めてではないでしょうか。 リリー:障がい者の人の苦労って感覚的に分かっても、知らないことがたくさんあるんですよね。最近だと『最強のふたり』とかもあって、障がいのある人をきちんと描いた作品はいいなって思いますよね。マイノリティの人が主人公になる映画はまだまだ続いていくだろうね。 司会:安藤さんはライラ役のオファーがきたら演じたいと思いますか? 安藤:いいんですか?歳がアレですけど(笑)。 リリー:『マルガリータで乾杯を!3』だったら年齢も間に合いますよ。晩年のライラとしてさ。 安藤:顔も似てるしね。歯茎がね。 リリー:あとさ、ライラがNYの大学で会った男の子とセックスするじゃない。あれ、初体験じゃなかったっぽいよね。 安藤:初体験じゃないでしょ。だって最初にデートしてたよね。あれ、でもその時はしてなかったのかな。 リリー:幼なじみの男性とはしてたのかな? くましの:うーん。どうすかね。 リリー:なんか初体験じゃないっぽい反応だったんだよね。 司会:ちょっと痛がってませんでした? 安藤:でもあの時はすでに女の子とは関係があるわけだから…。 リリー:ペニスバンドでしてたってこと?そうかな〜。別にアラを探しているわけじゃくて、「彼らの映ってない部分の生活はどんなんだろう」って想像させるのは、良い映画ってことですよね。 安藤:でも初めてとは思ってなかった。 司会:僕も初めてじゃないだろうなって思って観てました。 リリー:そうなのかなあ。俺は初めてだと思ってたからなあ。ショックだなあ。じゃああの幼なじみとやってたのかなあ。アイツと最初、濃厚なキスしてたしな。 くましの:その時も誘ったのはライラの方ですもんね。 リリー:でもあのふたりはしてないでしょう。なんかしてないと思う。だってあのふたりがするとしたら実家になるでしょ。 安藤:意外とできるんじゃない? リリー:まあ、誰がやったかやってないかなんて、本当に下衆の詮索ですけどね。 くましの:でもそれって、監督の術中にハマってるってことですね。 リリー:それにしてもこの映画って、ものすごいテンポで進んでいくじゃないですか。それなのに忙しく感じないっていうのは、出演者の濃密な存在感だと思うんですよ。だってさ、「え?レズ?」と思いきや「え?癌!?」ってなってさ、ジェットコースタームービーっていってもいいような展開なのに、本当に緩やかな空気が流れてる。やっぱり監督や出演者の濃度とか精度がすごいんだろうね。 安藤:ライラの表情がひとつひとつ、いちいちものすごいリアルなんですよね。ひとつ事件があると、彼女の心情ががすごい伝わってくるでしょ。だから話は忙しいけど、そう感じないのかなって思いました。 リリー:あとさ、最近エンドロールって延々長くて1曲じゃ終わらないじゃない。でもこの映画のエンドロールはさ、1曲目が終わって次の曲に移る時、ライラの声が入るじゃない。「1、2、3、4」ってさ。だから切り替わりがすごく自然なんだよね。とはいえね、あの「1、2、3、4」がピエール瀧の声じゃダメなんですよ。余韻がなくちゃ。本当に監督が隅々まで心を砕いている映画なんだなって気がしましたよ。 司会:2曲目の歌詞の内容も、映画とリンクしているんですよね。歌詞と映画の内容が全然合っていない、ただのタイアップ曲、みたいな映画も多いですからね。 リリー:あとさ、映画の中ではインドの母国語が一切なくて、英語しか喋らないんですよね、言語問題ってどうなってんだろうね。その時さ、ライラはもしかしてもらいっ子なのかなって思ったんですよ。肌の色も白いし。 司会:すいません…そろそろ終了のお時間になってしまいました…。 リリー:まだ良い話全然してないですよ。このまま帰ったら俺はバカだと思われますよ。せっかくバリアフリーじゃない会場にわざわざ登壇してくれたくましのくんの活動とも繋がりますからね、この映画は。 くましの:女性向けってことでは激オシです。 リリー:この映画を観た後、レズビアンのシーンが嫌だったって人は、何か偏見を持っているかもしれない。そして何より、障がいのある人をテーマに選んで、いろんな性のタブーを描いているってところが素晴らしいと思いますよ。くましのくんも今は人前だから真面目に喋ってますけど、本当はものすごいユーモアの持ち主なんですよ。知り合った時、くましのくんに「夢とかある?」って聞いたら「立ちバックですよね」って。そういうね、身を切ったギャグが言える人っていうのはおもしろい人ですよ。障がい者はギャグや下ネタを言わないって思うなんて、それこそ健常者の驕りだよね。よく乙武洋匡さんも「手も足も出ないや」とかって言うけど、それを素直に笑えない感覚こそ、一番の偏見ですよ。だってせっかくおもしろいこと言ってるのにさ。 くましの:でも最近、エロくなくなってきたって怒られたんですよ。 リリー:どういうこと? くましの:なんかエロオーラがないって。ショックでしたね。修行します。気合入れ直します。 リリー:それどうするの?気合入れるって言っても。 くましの:どうしますかね…。まずはTENGAのエッグあたりからならし運転します。 リリー:でもさ、こうやって基本的な、誰もが持っている欲求を、手が動かなくたって全盲の人だって持っているんだってことを、くましのくんやこの映画がちゃんと言っているっていうことですよ。しかもこの映画は障がい者に性欲があるってことを描いている上に、バイセクシャルだからね。 安藤:でも描かれ方がすごく自然だし、オシャレなんですよね。だから私、『アメリ』みたいだよって周りにすすめようと思って。 リリー:でも『アメリ』でグッとくる人って、もうけっこういい歳いっているでしょ。今だとなんて言えばいいんだろう。『好きっていいなよ。』とかかな。 司会:あ、でもこの映画は『アメリ』に携わっていた方が宣伝をしているんですよね。 リリー:これはでも「映画秘宝」が取り上げないのが一番良いですね。「映画秘宝」は映画界の“おくりびと”ですから。個人的には友だちがやっている活動に近いことだし、精神的な価値観のバリアフリーが同時多発的に起きていることが嬉しいですね。映画の中で出てくる、偏見を持ったコンテストの審査員みたいなヤツって、現実に本当にいるんだよね。すごくドラマ的に見えるけど、現実にいるんだよ。 安藤:私、あの人見て佐村河内さんを思い出しちゃった。ああいう胡散臭い感じ。 リリー:佐村河内さんが話題になった時は、みうらじゅんさんとこにすごい取材依頼がきたって。長髪サングラスだからさ。 安藤:あと私はトイレのシーンが大好きです。グッときました。あ、でも幼なじみとキスするところも良いですね。そう考えると体で感じちゃうシーンが多かったですね。全体的に性を描いているところは圧倒的に良かった。 リリー:障がいの有無に関係なく、女の人の性がかわいく描けてるよね。 安藤:そうなんですよ。本当にああいう反応するよねっていう感じで。 リリー:甘酸っぱいよね。だからやっぱり『アメリ』っぽいね。くましのくんはどんなシーンが良かった? くましの:この前ちょうどNYに行って来たこともあって、ライラがイエローキャブの行き交う横断歩道をサーッと疾走するシーンとかがいいなって思いました。 リリー:意外とくましのくんの電動車いすも早いんですよ。重いから安定感あって。 くましの:NYでもコレで疾走してきたんですけど、誰も振り向いてくれないんですよね。それくらいいろんな人がNYにはいて、障がい者なんてめずらしくもなんともない。だからちょっと寂しかったですね。チラ見すらされないんですよ。LEDとかチカチカさせても振り向いてもくれなかった。 リリー:次行くときは志茂田景樹みたいな、南国の鳥っぽい格好していけばいいんじゃない。逆に目立ってくれないと危ないしね。まあでも、障がい者であるかどうかってこともそうですけど、女性の性欲求が本当にチャーミングに描かれているんで、珍しいと思いますよ。本当に良い映画なんで観て欲しいなって思います。 安藤:ちゃんと性を描いているのに、すっごいすんなり入ってきました。 くましの:しかも途中から障がい者っぽくなくなるんですよ。自然な感じで。 リリー:圧倒的に人間ドラマなんですよね。親の反対があったり勉強との兼ね合いがあったりさ。映画の途中からは障がいがあるってことを忘れて人間ドラマとして観ちゃいますよね。俺もくましのくんと10年くらい知り合いだけど、障がいがあることを忘れてるっていうか。こんなにメールの返信が早い手の曲がった人はいませんよ。あとくましのくんて、屋外で撮影する時もちゃんと警察に撮影許可取るし、本当にちゃんとした友だちなんですよ。だから周りに紹介する時は“ちゃんとした友だち”って言ってますよ。 司会:それではそろそろお時間がきてしまいましたので…。 リリー:最後になんかお客さんとゲームでもしますか。まあ、もう話し足りないことはないんですけどね。終わり方がわかんないの。お客さん、なんか物をもらったら帰ってくれるかな。 くましの:あ、リリーさんにイラストを描いてもらった、僕がやっているNPO法人ノアールのシールがあるんで、それをプレゼントしますよ。 リリー:せっかくくましのんがくれるんですから皆さん、捨てるんだったら劇場からなるべく遠いところで捨ててくださいね。劇場の外で見るのが一番傷つくんで。こんな良い映画観てもあいつら何も心変わってないなって思うから。ちなみに俺が描いた絵は車いすに乗ったクマがちんこ勃ててるやつですから、財布に一番貼りやすいデザインですよ。<終了> 取材、文:小泉なつみ ■ ■ ■ ■ ■ いかがでしたでしょうか?作品の魅力を余すことなくお話し下さった安藤さん、くましのさん、リリーさんの作品への愛が伝わる1時間をご紹介させて頂きました!本作は現在劇場にて絶賛公開中です。一人でも多くの方に観て頂きたい素晴らしい一本です!(編成部) 10月24日よりシネスイッチ銀座ほか全国順次ロードショー■公式サイト:http://www.margarita.ayapro.ne.jp/■facebook:https://www.facebook.com/margaritadekanpaiwo/■twitter:https://twitter.com/margaritamovie (C) ALL RIGHTS RESERCED COPYRIGHT 2014 BY VIACOM 18 MEDIA PRIVATE LIMITED AND ISHAAN TALKES
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COLUMN/コラム2015.10.27
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2015年11月】うず潮
ジャン=リュック・ゴダールなど巨匠たちが監督した6話形式のちょいエロ・オムニバス。原始・中世・近代・未来の時代ごとに生きる娼婦たちの姿を、コミカルに描いたクスッと笑える1本。ジャンヌ・モローやラクエル・ウェルチなど豪華女優陣のキュートな演技にも引き込まれ、時代時代合わせて登場するオシャレな衣装や小物も見どころです!男女問わず、ぜひ見てほしい作品です。 オープニングを飾る第1話は、原始時代を舞台にブロンドのミシェール・メルシェがラムちゃんばりの衣装で男を誘惑。第2話は、ローマ時代。エルザ・マルティネリがセクシーで豪華なドレスで夫の皇帝シーザーを健気に誘惑。第3話は、フランス中世時代。ジャンヌ・モローが強気な娼婦役に。セクシーなドレスに加え、男女の騙し合いも見どころ。第4話は、産業革命時代。ラクエル・ウェルチがグラマラスな体と恋の駆け引きで玉の輿を狙う娼婦役で男を虜に。第5話は、1960年代。ナディア・グレイが車で流す娼婦役に。60年代のファッションや当時の車のデザインがキュート!第6話は、監督・脚本にジャン=リュック・ゴダール。当時妻だったアンナ・カリーナを起用し、近未来の不思議な愛のカタチを描く。 ザ・シネマでは、世界のアートフィルムやカルト・ムービーを紹介するレギュラー枠【シネマ・ソムリエ】で本作を放送中! © 1967 Gaumont (France, Rizzoli Film (Italie), Riato Film Preben Philipsen GmbH (Allemagne)
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COLUMN/コラム2015.10.06
【DVD/BD未発売】これが日本初登場! 犯罪活劇の名手ドン・シーゲルが意外にもスペインの地で観光メロドラマに挑んだ異色レア作〜『スパニッシュ・アフェア』〜
■ドン・シーゲル命のわが映画人生 今回筆者がここで紹介する映画は、これまでずっと本邦劇場未公開でソフト化もされず、海外においても未ソフト化のままという、ドン・シーゲル監督の1950年代の知られざる幻のレア作品『スパニッシュ・アフェア』(57)。したがって、今回のザ・シネマでの放送が日本初登場となる。まだ中学生の時分に、まずはテレビで『ダーティハリー』(71)を初めて目にして、その強烈なアクションと暴力の洗礼を受け、年を経てさらに彼の奥深い映画世界をもっと知りたいと個人的に掘り下げて探究するようになって以来、シーゲルは、数ある筆者のお気に入り監督たちの中でも、とりわけ偏愛する特別な映画作家のひとり。シーゲルの長年の熱狂的ファンを自認する筆者は、硬質で引き締まった彼の活劇映画の魅力をひとりでも多くの映画ファンにぜひ分かち合って頂きたいと、これまでにも、時たま訪れる幸運な機会を積極的に有効活用しては、こちらの意を汲んでくれる同志たちのありがたいご協力とご支援を得て、まだまだ知られざるシーゲルの貴重なお宝発掘と紹介に相努めてきた。 2005年、キングレコードで本邦劇場未公開の彼の呪われた遺作『ジンクス』(82)のDVDが発売された際にライナーの執筆を手がけたのをはじめ、2007年にやはり同社から発売された、『殺人者たち』(64)、『ガンファイターの最後』(69)、『突破口!』(73)、『ドラブル』(74)というシーゲル円熟期の4作品からなる<ドン・シーゲル・コレクション>のDVD-BOXが発売された際には、個々の作品解説以外に、シーゲルの長い映画キャリアの全体を鳥瞰した「ドン・シーゲル再入門」と題した小冊子を執筆。そして2008年にはWOWOWで、「ドン・シーゲル 知られざる傑作」特集と銘打って、これが日本初紹介となる激レアな『中国決死行』(53)、『殺人捜査線』(58)に加えて、これまた本邦では未ソフト化のままだった『第十一号監房の暴動』(54)、『グランド・キャニオンの対決』(59)という貴重な初期4作品の特集放映が奇跡的に実現した(その折に執筆した拙文が以下のサイトで読めるので、どうかぜひご参照ください[http://www.eiganokuni.com/column_kuwano.html])。 そして今回、また縁があって、「シネマ解放区」の番組ラインナップの作品選定のお仕事を筆者もお手伝いするという光栄な機会に恵まれ、2000本以上にも及ぶ膨大な映画作品リストの山の中からこちらが篩い分けて強力プッシュした推薦作のうち、今回この『スパニッシュ・アフェア』と、別稿のマリオ・バーヴァ監督の『黄金の眼』(67)という、なかなかこれまで日本では見られる機会がなかった2本の作品が、めでたく番組に初登場する運びとあいなった(こちらのリクエストに応えて下さった、Iさんをはじめ、ザ・シネマの関係者の皆さん、厚く御礼申し上げます!)。というわけで、今回はいつにも増して張り切って作品紹介に相努めることにしたい。 ■観光メロドラマ映画!? シーゲル屈指の異色作『スパニッシュ・アフェア』 では早速、『スパニッシュ・アフェア』の話に移ろう。ここでまず、シーゲル監督のこの時期のフィルモグラフィを繙いてみると、1956年に『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』、『暴力の季節』、そして翌57年には『殺し屋ネルソン』と、いわゆる“ハリウッド・フィフティーズ”の映画作家シーゲルの、まさに精髄と言うべき傑作群が集中的に生み出されている。それだけに、『暴力の季節』と『殺し屋ネルソン』の間の57年に生み落とされながら、日本の映画ファンには長いことブランクのままお預けを食っていたこの『スパニッシュ・アフェア』への期待が、ますます高まろうというものだ。 しかし先に勝手に皆さんの期待を煽っておいてから、いきなり水を差すようで恐縮だが、この『スパニッシュ・アフェア』は、正直なところ、知られざる傑作、埋もれた名作とはなかなか言い難く、また、先の他の3作品とは題材や趣向が大きく異なり、平和なはずの街でいつのまにか恐るべき陰謀がひそかに進行するさまや、非情で反社会的なアンチ・ヒーローたちの予測しがたい行動を緊迫したスリル満点に綴ったノワール映画でもない。 実はなんと、この『スパニッシュ・アフェア』は、シーゲルがヨーロッパのスペインに出向き、モノクロではなくカラーで撮り上げた作品。「セプテンバー・アフェア」という原題を持つ『旅愁』(50)をはじめ、『ローマの休日』(53)や『慕情』(55)、『間奏曲』(57)など、この時期、海外のさまざまな国を舞台に、かの地の異国情緒溢れる風景や文化風俗を随所に盛り込みながら、主役の男女の恋の行方を波瀾万丈に描いた、一連のハリウッド製観光メロドラマ映画の系譜に連なる、シーゲルの作品群の中でも一風変わった異色作なのだ。 映画はまず、スペインはマドリードにある歴代のスペイン王家の貴重な美術コレクションを数多く収蔵したプラド美術館の至宝、ゴヤやベラスケス、エル・グレコなどの傑作絵画の数々を、艶やかなテクニカラーの画面で順々に映し出すところから始まる。プラド美術館でそれらの名画の現物を実際に撮影するという、何とも贅沢で、映画ではおそらく初めての試みとなる光栄な機会に浴することができたのは、シーゲルの情熱と予期せぬ幸運のおかげ。当初、プロデューサーを通じて同美術館に撮影許可を願い出たものの却下され、それでもなお、その夢をぜひ実現させたいと、暇を見つけては美術館に足を運んでいたシーゲルは、彼の監督助手に就いていた現地の青年が偶然にも美術館の館長と知り合いと判り、彼の口利きによって意外にもすんなり撮影許可を得ることができたという。 ちなみに、上記の名画の数々をバックにしたクレジット紹介での本作の監督名義は、略称・愛称のドンではなく、ドナルド・シーゲル。ついでにここで明記しておくと、この『スパニッシュ・アフェア』のデータ資料に関して、本来頼るべきインターネット・ムービー・データベースでは、本作の共同監督として、シーゲルのほかにもう一人、スペイン人のベテラン映画監督ルイス・マルキーナの名前が挙げられていて、それに準拠する形で、本作を共同監督作品とする情報資料が一部で流通している。しかし、実際に本作の冒頭のクレジット画面で確認したところでは、マルキーナはスペイン側の製作スタッフの筆頭にテクニカル・アドバイザーとして記載されているのみで、シーゲルに関する文献資料を参照してみても、この人物に関する言及は一切ない。ことによると、スペイン本国では、この人物が後から部分的に監督を務めて、別バージョンという形で『スパニッシュ・アフェア』を公開している可能性もなきにしもあらずと思い、ネットの画像検索で本作に関する各国の映画ポスターを見比べてみたが、やはりこのマルキーナが監督としてクレジットされているものは見つからなかった。従って、この『スパニッシュ・アフェア』は(少なくとも今回の放映版に関する限り)、シーゲルの単独監督作とみてまず間違いないだろう。 さて、本作の物語の主人公となるのは、スペインのマドリードへとやって来たひとりのアメリカ人建築家。この地に建設すべく彼のデザインした現代的なホテルの設計案が、どうもこの国の景観や風土には馴染まないとして、スペインの首脳役員たちから難色を示されていることを知った主人公は、改めて役員たちのもとへ出向いて彼らを説得しようと、ロマの血を半分引く美しいスペイン人女性を通訳に伴って、セゴビアやバルセロナ、トレドなど、スペイン各地を回るドライブの旅へ出発する。次第に2人は心惹かれ合うようになるが、さらにここに、彼らのあとを執念深くつけ回すロマの青年が絡んで、嫉妬と愛憎に満ちた波乱の恋愛劇が3人の男女の間で展開していくこととなる。 アメリカ人建築家の主人公を演じるのは、先にサミュエル・フラー監督の『拾った女』(53)でアカのスパイを演じ、後にはブロードウェイ・ミュージカルの「ラ・マンチャの男」やTVドラマの世界でも活躍して多くの賞に輝いた実力性格俳優のリチャード・カイリー。一方、ロマの血を引く美しいヒロインを演じるのは、当時のスペイン映画界で数多くのヒット作に主演し、得意の歌や踊りもしばしば披露して高い人気を誇ったというカルメン・セビージャ。本作の劇中でも、見事な歌やフラメンコ・ダンスを披露して観客を楽しませてくれる。 ■次第に浮き彫りとなる、シーゲル映画お馴染みのテーマと世界観 異国の地スペインで、さまざまなカルチャー・ギャップに遭遇して戸惑いつつ、なお懸命に奔走する主人公の姿を、シーゲル監督は軽妙かつユーモラスに描き出していく。役員の一人が所有する広大な牧場で、アメリカのカウボーイとしての知られざる本性と自負を見せ、スペイン式闘牛に敢然と挑む主人公。あるいは、スポーツカーに乗って道を猛スピードで走る主人公と、そんな彼を通せんぼするかのように、道幅いっぱいに広がってのんびり悠然と進む山羊の群れ。そして、それらの体験を通じて、カイリー演じる主人公は、次第に挫折と自らの無力感をまざまざと味わうことになる。その一方で彼は、カタルーニャの伝統的な民族舞踊サルダーナを、セビージャ演じるヒロインや大勢の人々とひとつの輪になりながら楽しく踊ったり、あるいは、ヒロインがふと口ずさむロマの歌を一緒にデュエットしたりするうち、軽やかな自由と解放感に浸った新たな自己を見出すことにもなるのだ。 モダンな建築デザインの利便性と機能性を強調して翻意を促すアメリカ人建築家の主人公と、時代を超えて残る大聖堂を話の引き合いに出しながら、多少古めかしくても、それには固有の歴史と伝統があり、また人々の篤き信仰と愛と美があると、どこまでも悠然と構えて、主人公の懸命の訴えにもなかなか首を縦に振ろうとしないスペイン人の役員たち。その両者の姿は、今日におけるグローバル・スタンダードとローカル・アイデンティティとの対立の構図を先取りしていて、さらにこれを、自分たちの価値観を他にも無理やり押しつけようとする文化帝国主義と、それに対する抵抗の闘い、と言い換えることもできるだろう。 そして、いささか強引にこう整理してみると、一見ゆるい観光ロード・ムービーのような本作が、実は何を隠そう、あの『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』の戦慄的な世界をまさに裏返しにした、まぎれもないシーゲル映画の一本であることに、映画ファンならば次第に気づくはずだ。この映画では、人間が本来持つ感情をすっぽり欠落させたまま、外見だけはそっくりそのまま人体を乗っ取ってひそかに地球侵略を企む異星人たちに対し、ケヴィン・マッカーシー演じる主人公が必死に最後の抵抗を試みるわけだが、本作ではむしろ、本来の人間的な感情やゆとりを失って硬直した態度を見せているのは主人公のカイリーの方であり、スペインでさまざまな異文化の洗礼を受けるうち、ようやく彼も本来の人間らしさを取り戻していくようになるのである。 本作と『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』との興味深い符合を示す、一つの決定的に重要なモチーフがある。これは、後者では映画最大の山場において生じ、そしてこの『スパニッシュ・アフェア』においても、物語の終盤、主人公とヒロインとの関係が一つの大きな転機を迎える場面で生じる出来事なので、ここではあえて詳細は伏せ、ぜひ見てのお楽しみとしておこう(実はさらにもう一つ、本作のラストでは、セビージャ扮するヒロインが、これまたシーゲルの後年の有名作の最後で主人公が示すのとほぼ同じ身振りを、いち早く先取りして披露しているので、これもぜひお見逃しなく!)。 ちなみに、本作の脚本を手がけたのは、先にシーゲルとは『中国決死行』や『第十一号監房の暴動』でもコンビを組んでいたリチャード・コリンズ。彼の推薦によってシーゲルが本作の監督を務める運びとなったものの、シーゲルは、コリンズの脚本の出来には最初から不満で、まだまだ手直しが必要だと考えていた。しかし、本作のプロデューサーがコリンズの脚本をそのまま気に入って、手直しすることを一切許さなかったため、シーゲル自身は、本来ならもっとずっといい映画が作れたはずなのに、と悔いの残る作品になったという。 最初から作品のアラが見えていたのに、それでもシーゲルが、本作の監督の役を引き受けたのは、彼にとっては初めて6ケタに届いたギャラの支払いが良かったそうで、「俺はこれまで娼婦になったことはなかったのに…」とは、自伝でのシーゲルの自嘲気味の捨て台詞。それ以上の詳しい裏事情は、自伝ではよく分からないが、以前、本欄で『紅の翼』(54)のことを解説した際に拙文の中で紹介したように、その映画の中に出演している元モデルの女優ドウ・アヴェドンとシーゲルが結婚したのが、まさにこの映画が作られた1957年のこと。きっと、これが大きく関係しているに違いない。ちょっとした小遣い稼ぎにスペインまで遠出、といえば、1960年代半ば、この地で撮影されるマカロニ・ウェスタン3部作で一躍人気スターとなるクリント・イーストウッドの先導役を、ここでシーゲルが図らずも務めていたというのも面白い。 ストーリーに目をつぶった分、他の部分に心血を注いで映画作家としてのプライドを見せつけた、ということなのかどうかは知らないが、シーゲルは、彼お得意の高低差を活かしたスリリングなアクション・シーンを後半に配してドラマを存分に盛り上げるほか、中盤のある場面では、実に思い切った大胆不敵な演出とカメラワークを採用している。それは、バルセロナの夜の街路を、カイリーとセビージャの主役2人が連れだって歩きながら会話する場面。何気なく眺めていると、つい見落としてしまいそうになるが、ここでシーゲルは実に3分半近くにもわたって、彼らの姿を延々と長廻しの移動撮影により、ワンショットで撮り上げているのだ! うーん、さすがはシーゲル。これだから決して目が離せない。 かくして、シーゲル探究の楽しくも険しいわが映画修行の人生は、まだまだこれからも続くのであった…。■ COPYRIGHT © 2015 BY PARAMOUNT PICTURES CORPORATION. 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COLUMN/コラム2015.09.05
フェデリコという大いなる存在 ~スコーラの見たフェリーニ~
今年6月にエットレ・スコーラ監督の最新作『フェデリコという不思議な存在』(2013)がようやく劇場公開された。1931年北イタリアのトレヴィコ生まれのスコーラは、イタリア式喜劇の正統的な継承者として知られる名匠であり、本作完成時には既に82歳の高齢になる。フェデリコ・フェリーニ(1920年リミニ生まれ)に対する敬愛の情溢れるこの伝記映画でも触れられていたように、スコーラが11歳年長の先輩監督との知遇を得たのは、ユーモア誌『マルカウレリオ』の寄稿家時代だった。 1931年ローマで創刊された『マルカウレリオ』は、戦中の1943年に一時休刊に追い込まれたものの、戦後直ちに復刊され、1958年に廃刊されるまで<ユーモアの殿堂>として屹立した。1947年、まだ16歳の高校生だったスコーラが同誌の編集部に通い始めた時の先輩ライターの中には、フェリーニの他に、ステーファノ・ヴァンツィーナやフリオ・スカルペッリ、ヴィットリオ・メッツら、監督や脚本家として、50年代以降のイタリア式喜劇の中心的なメンバーとして活躍することになる錚々たる面子が揃っていた。ほとんど一回りという年齢差にも関わらず、『マルカウレリオ』誌におけるフェリーニとスコーラの共通点は、ギャグマンとしてのみならず、イラストレーターとして諷刺画(カリカチュア)も手がけ、類希なる造形力の片鱗を覗かせていたことだろう。 実はスコーラが自作の中でフェリーニを登場させたのは、今回が初めてではない。スコーラの代表作『あんなに愛しあったのに』(1974)は、第2次世界大戦中にレジスタンス(対独抵抗運動)の同志だった3人の男性を通して眺められた戦後イタリア史であり、ネオレアリズモの伝統を継承することを改めて宣言した映画である。 そもそもロベルト・ロッセリーニの『無防備都市』(1945)に端を発するネオレアリズモは、第2次世界大戦末期のレジスタンスから始まり、敗戦直後のイタリア社会の抱える諸問題(失業や戦災孤児)に向き合った作品群を指した。『マルカウレリオ』誌での活動と並行しながら、ラジオや映画へと仕事を広げたフェリーニは、『無防備都市』を始めとするロッセリーニ作品の脚本家を経て、ネオレアリズモの分化が顕著となった1950年代に監督デビューを果たしたのだった。 『あんなに愛しあったのに』の3人の登場人物、実業家として成功するジャンニ(ヴィットリオ・ガスマン)、救命士となるアントニオ(ニーノ・マンフレディ)、売れない映画評論家となるニコラ(ステーファノ・サッタ・フロレス)は、ブルジョアジーとプロレタリアート(労働者)、そしてインテリゲンツァ(知識人)の各階級を代表しながら、ネオレアリズモ以降の戦後史を背負って行く。こうした些か類型的な人物造形が、屡々<自伝的>と称されるフェリーニの諸作にも通じることは明らかだが、<ブーム>と呼ばれたイタリアの高度経済成長期を代表する映画として劇中で取り上げられたのが、フェリー二の『甘い生活』(1959)に他ならない。 故郷のリミニで過ごした自堕落な下積み時代に取材した『青春群像』(1953)、ジャーナリストとして目撃した現代ローマのデカダンスを活写した『甘い生活』、そして映画監督として掴んだ栄光とその失墜に対する恐れと慄きの告白である『81/2』(1963)の3作は、フェリーニの実人生の3つの局面に対応する<自伝的な>側面を備えたフィクションである。なかでも、<パパラッツィ>という言葉を世間に広めた『甘い生活』は、当初『青春群像』の主人公モラルド(フランコ・インテレンギ)の後日談として構想されながら、<ラテンの恋人>マルチェッロ・マストロヤンニが起用されることで、ストーリーの一貫性よりも場面ごとのスペクタクル性が前面に押し出される一方で、ネオレオリズモの方法をイタリア社会から個人の内奥へと転じた傑作となった。 <ブーム>に沸き立つローマを現代のバビロンに見立てた『甘い生活』は、ヘリコプターに吊り下げられたキリスト像という意味深長な開幕の後、魅惑的なスペクタクル・シーンの連続が観客を陶酔の渦に巻き込まずにはおかないだろう。とりわけ、主人公マルチェッロの同行取材の最中に、ハリウッド女優(アニタ・エクバーグ)が深夜の<トレヴィの泉>で水浴びをする件は、嘆息なしに見られない名場面として長く記憶されることとなった。 フェリーニ作品に登場する女性像としては、(私生活における細君でもある)小柄で愛くるしい聖女タイプのジュリエッタ・マシーナと、グラマラスで扇情的な娼婦タイプのエクバーグが双璧をなしているが、スウェーデン出身のセクシー女優に過ぎなかったエクバーグが、永遠のイコンとして映画史に刻まれた瞬間だった。フェリーニ晩年の『インテルビスタ』(1988)では、すっかり歳を召したエクバーグが再登場し、マストロヤン二と一緒に往年の美貌を懐かしがってみせたが、惜しむらくも本年1月に逝去している。 『甘い生活』の15年後に完成された『あんなに愛しあったのに』の中で、スコーラはこの<トレヴィの泉>の撮影現場を再現し、(幾分頭髪の寂しくなりつつあった)フェリーニ本人を登場させるという荒業をやってのけた。若き日のフェリーニは痩身の美男子で、ロッセリーニのエピソード映画『アモーレ』(1948)では、俳優として顔見せしたこともあったほどが、TV用映画『監督ノート』(1969)以降、すっかり恰幅の良くなった体躯をカメラに晒すようになる。<自伝的なフィクション>から、映画の中で映画についての考察を促す<自己反省的なメタ映画>へと、フェリーニの作風が変わりつつあった。 監督本人がスクリーンに登場し、映画製作について(虚実を織り交ぜつつ)あけすけに語り始める。こうしたメタ映画をひとつのジャンルとして定着させたのは、フェリーニの功績と言ってよいだろうし、監督がスター化すると同時に、脚光を浴びたのがチネチッタ撮影所だった。1937年、ムッソリーニ政権下に開設されたチネチッタ撮影所は、50年代から60年代にかけてはハリウッドの大作史劇の製作を支えたものの、映画産業の斜陽化が顕在化した70年代に入ると、経営的な苦境を迎えることとなる。そうした逆風の時代にあって、類まれなる造形力を発揮する工房として、チネチッタを愛用したのがフェリーニであり、フェリーニを敬愛するスコーラであった。 『フェデリコという不思議な存在』では、チネチッタ最大級の第5ステージに焦点が当てられ、背景であるべきスタジオが前景化されている。TV番組のスタジオと化したチネチッタを題材にした『インテルビスタ』は元より、『オーケストラ・リハーサル』、『カサノバ』、『そして船は行く』など、後期のフェリーニ作品は、殆ど撮影所の外に出ることを自ら禁じるかのように演出されている。港町のリミニに生まれたフェリーニの作品では、<海>が重要なモチーフとして繰り返し登場するが、ネオレアリズモの後継者としてロケーションを重用した初期から、巨匠としてチネチッタに君臨した後期まで、フェリーニの描く<海>がどのような変遷を辿るのかに着目してみるのも一興かも知れない。■ (西村安弘) © Rizzoli 1960
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COLUMN/コラム2015.08.28
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2015年9月】おふとん
映像の魔術師フェリーニの代表作。女の美しさ、街の美しさ、そして退廃的な生活の美しさ…まさにローマを見てから死ね状態です!ナポリなんかに負けません。この映画観ずして、映画語るべからず。 ヨーロッパ映画好きも、そうでない人も人生で一度は観ておきたい『甘い生活』。絶対に損はさせません。 9月ザ・シネマでは【特集:夜明けのフェリーニ】をお届け。代表作『甘い生活』から『魂のジュリエッタ』『女の都』、さらに『崖』『オーケストラ・リハーサル』といったマニア作までたっぷりとフェリーニの魅力をお送りします。お見逃しなく! © Rizzoli 1960