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COLUMN/コラム2018.11.03
悪魔が作らせたのか?97年の予言的映画『ディアボロス/悪魔の扉』が的中させた、21世紀のモラルハザード③(完)
(前回の②はコチラ) 「トランプ氏も来るはずだったのよ」 97年のこんな内容の映画に突然「トランプ」の名前が出てきたら、それはギクリとするではないか!だが、妙なショックはこれだけでは終わらない。 中盤、主人公は“NYいちの不動産王”というカレン氏の弁護をミルトン代表から任される。「カレンタワー」を開発中のこの“NYいちの不動産王”には、妻を惨殺した容疑がかかっている。世間が注目するセンセーショナルな世紀の刑事裁判、転職後はじめての大役だ。その“NYいちの不動産王”とキアヌは打ち合せに行く。その自宅も、やはり高級マンションのペントハウスだという。そして、そのシーンになる…。 ここは、トランプタワーではないか!! ギクリとするどころではない!ニュースで確かに見覚えがある、見まごうはずがない!あの、大理石と金箔でまがい物のヴェルサイユ宮殿風インテリアにしつらえられた、トランプタワー最上階のトランプ氏の私宅そのものだ!間違いなく本物だ!!「虚栄の極み」と前回も書いたが、撤回する。こちらこそが、極みと言うなら本当の極みだろう! テイラー・ハックフォード監督によると、制作前の打ち合わせで「このシーンはトランプ氏の邸宅みたいなイメージで撮りたい」とあくまでイメージとしてスタッフに伝えたところ、悪魔の配剤か、そのスタッフがたまたま以前にもトランプ氏と映画の仕事をしたことがあり、ロケの許可が下りたそうだ。キアヌ・リーヴスらはトランプ氏の自宅を借りて、このシーンを1日で撮影したという。トランプ氏の快い協力のおかげで「“NYいちの不動産王”の巨大なエゴ」が描けたと監督は満足げに語っている。 なお、この“NYいちの不動産王”は愛娘のことを異常なまでに溺愛していて、後半のシーンではおよそ父親のやり方ではない触り方で娘の体に触れる様が映し出されたりもするのだが、それは余談である。 今となってはこの映画のどこより驚くべき、悪魔的禍々しささえ帯びてしまっているのが、このトランプタワーでのロケシーンだ。もちろん97年時点での作り手たちの狙いを超えている。特段の見せ場に当時したかったわけでもないだろう。だが、この悪い冗談のような唯一無二のロケーションが、現代文明批判としてのこの作品の価値を大いに高めている。成功者になりたい、カネが欲しい、しかも、使い切れないほど不必要な大金を手にして貴族のような暮らしがしたい、格差社会で上位1%の側に身を置き、99%の一般大衆を踏み台にして贅沢をしたい、そのためにはモラルなんかに構ってはいられない、という、職業倫理の欠落した悪魔の手先どもを描いている、この文明批判映画の価値を。 本作で、それは高給取りのトップ弁護士たちだが、貧しい庶民にマイホームを押し売りして怪しげなデリバティブを売りさばき、11年後にリーマンショックを引き起こしたウォール街の連中や、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』的な人種も同類である。彼らこそが「21世紀型モラルハザード」の犯人、強欲の大罪にまみれた者たちだ。 我々はすでに1997年に、この映画のパーティーのシーンで、偽ヴェルサイユ宮殿のシーンで、21世紀型モラルハザードをフラッシュフォワードで目撃していたのである。そして今、2018年、それをニュースで、現実の光景として日々見せられている。未来の恐ろしい出来事を幻視してしまう、この映画は、あらゆる意味において文字通りそんな映画なのだ。 この、単なる偶然の産物である(もしくは悪魔の悪戯による)ショッキングな2つのシーンがあるために、本作最大の見せ場であるアル・パチーノの大演説シーンも、作り手の狙い以上の凄まじい説得力を帯びてくる。そこが本作のクライマックスだ。 原作とまったく異なる終局へと徐々に向かっていく、この映画版。複数の脚本家が携わっているが、どうやらトニー・ギルロイ(“ジェイソン・ボーン”シリーズ脚本。『ボーン・レガシー』では監督も)の影響が決定稿には色濃く残ったようだ。ミルトン役のアル・パチーノは出演オファーを5度にわたって断り続けたそうだが、ギルロイ稿を読んでようやく出演を決めたという。そこで盛り込まれたのは、本作終盤のミルトンの大演説、15分以上にわたるほとんど一人芝居に近いクライマックス・シーンである。そこは原作には無い。 ミルトンの正体がやはり悪魔そのものなのか、否、悪魔的な生身の人間なのか、本稿ではそのネタバレにまで踏み込もうとは思わない。ただ、悪魔を題材にしたこの映画は当然の帰結として、終局において宗教論にたどり着く。ミルトンはそれを饒舌に語る。鬼気迫るアル・パチーノのほとんど一人芝居の大演説。数日にわたってごく少人数でのリハーサルが行われ、撮影も数日をかけたという。それまでの珍しく抑制的な演技プランから一変し、アル・パチーノはギョロリと目を剥き、映画的というよりも舞台演劇的に(監督が意図してそうしている)長ゼリフを主人公に向かって浴びせかけ続ける。まさに圧巻のクライマックス! 「神の素顔を教えてやろう。神は意地悪だ!ドタバタを見て喜ぶ。まず人間に本能を与えた。それを与えてどうしたか?自らの楽しみのため、自分専用の壮大な喜劇を楽しむために、逆の掟を人間に押しつけた!! “見ろ、だが触るな”、“触れ、だが食うな”、“食え、だが飲み込むな”!人間が右往左往するのを見て神は腹を抱えて笑っている。実に嫌な奴だ!サディストだ!高見の見物のいい気な奴を崇拝できるか!?」 これが、ジョン・ミルトンが抱く神の認識だ。 それと対峙するキアヌ演じる主人公が問いかける。 「“天の奴隷より地獄の王”?」 「そうとも!」 「天の奴隷より地獄の王」とはジョン・ミルトンの著作からの引用だ。が、ジョン・ミルトンといっても17世紀イングランドの詩人で革命家の方のジョン・ミルトンである。そう、ジョン・ミルトンはかつて実在した。代表作はかの『失楽園』だ。その叙事詩に描かれた悪魔たち(かつては天使だった。堕天使である)は、神のしもべの地位に甘んじ天で奴隷であり続けるよりも、いっそ地獄で自主独立しそこの王となった方が、よほど誇り高い生き方だと独立宣言を叫ぶ。ジョン・ミルトン自身、清教徒革命では国王を処刑する革命勢力に与していた。王の権力を否定し、その奴隷である現状を覆し、自ら主権者になろうと企てた。 本作のミルトンもミルトンである以上は当然、革命を焚きつける。好きに触ればいいだろう、食らえばいいだろう、飲み込めばいいだろうというわけだ。強欲の何が悪い?虚栄の大罪こそ私の最も好きな罪だ、と彼は言い放つ。 「私は(中略)望みをかなえ裁かない。ありのままの人間を受け入れる。欠点だらけの人間のファンなのだ。最後のヒューマニストだ!」 カトリックが生活の隅々まで宗教支配し、下は農奴から上は王・皇帝まで、人々が神を畏れ畏縮して生きていた長い「暗黒時代」が中世だ。その闇を照らして近代の幕を開け、人間性の回復を高らかに宣言したのが15世紀ルネサンスの「人文主義者」たち、すなわち「ヒューマニスト」たちだった。神への“忖度”から自由になって、近代人として好きなように触れ、食い、飲み込み、その自由の素晴らしさを伸び伸びと味わって、人生の歓びを謳おう。それがヒューマニストの本分である。 ミルトンの大演説もいよいよ最高潮に達してくる。 「まともな頭で考えりゃ否定できない、20世紀は私の時代だった!完全にだ!すべてが私のものだ!絶頂を極めた!(中略)次の千年が来る!タイトル戦、ラウンド20!腕が鳴るよ!」 1997年、欲望と消費の20世紀は今や極に達した。プロテスタンティズムの倫理がその精神だったはずの資本主義の、すでに倫理などとっくに喪失した悪魔化は、とどまるところを知らない。それを退治しようと立ち上がった無神論者たちによる100年以上にわたる科学的社会主義の闘いは、この1997年の時点ですでに完全に敗退していた。東側共産圏の崩壊。強欲が完勝したのだ。目前に迫った20番目の世紀、新千年紀に勝ちのぼれるのはただ一人、強欲の悪魔だけだ。その21世紀=ミレニアムにおいては、欲望は幾何級数的に増大し続けるだろう。 キアヌ演じる主人公はミルトン代表から、こちら側、強欲と虚栄の側につくよう誘われる。まるでベイダー卿に暗黒面に誘われるルークのように(そういえばルークは姉妹をそちら側から守ろうとしてベイダー卿に斬りかかったのだった)。共に欲望のおもむくまま、触れ、食い、飲み込もう。共に21世紀に君臨し、共に世界を支配しようではないか、と。この法律事務所でならそれができる。法曹界の上層部に食い込んでいればたやすいことよ。今の世は法がコントロールしているのだから。 その“悪魔の誘い”に、主人公は「自由意志」という哲学用語を持ち出してきて、それを武器に立ち向かおうとする。欲望を満たしたいだろう?こちら側に来れば何でも思い通りにできるぞ?とミルトンに誘われ、キアヌは、もし満たしたくないと言ったら?と不敵に切り返す。ミルトンは、キアヌが自由意志で“悪魔の誘惑”に逆らおうとしているのだと悟る。 西洋哲学は、この自由意志をめぐる知的格闘の歴史だった。特に近代以降それは中心的争点であり続けた。15世紀、イタリア・ルネサンスの「ヒューマニスト」の一人ピコ・デラ・ミランドラによって「自由意志」は新定義された。人は神によって自由意志を授けられている。人以外は自由意志を持たない。どこまでいっても植物は植物、動物は動物にすぎぬ。人だけが自由意志によって、じっと何も為さぬ草花のようにも、本能のまま浅ましく動く畜生のようにも、あるいは神のようにもなれるのだ、と説いた。 今となっては言っていることが当たり前すぎて空疎にすら聞こえるが、直前の中世までは(アウグスティヌス等)、仮に完全に自由意志に委ねたら、御神に背きしアダムの末なる人間は悪に傾く、というのがキリスト教的な常識だったのだ。そもそも自由意志のせいでアダムとイヴは神に背き、悪魔に誘惑されたのだ。あの失楽園以来、子孫である人間は原罪を負う存在となり、それを善方向に補正するには神の恩寵が必要とされた。ゆえに自由意志など許してはならぬ、ひたすら教会に服従せよ。だが15世紀、このピコ・デラ・ミランドラによる自由意志の肯定が、中世を打ち破り近代の扉を開いた。 さらに後世、18世紀のカントに至って、人は自由意志、彼の用語に言う「善意志」によって義務的に善を為さねばならぬとの実践哲学に達した。義務だから善を為そうという動機こそが、逆に人間が自由である証拠なのだ(為さないことも選択できるのだから)。「困っている人を助けよう。人類が皆そうすれば、いつか自分が困っている時に誰かが助けてくれるかもしれないから」という類いの“ええ話”をカントは否定する。それは見返りが欲しいだけだ。自分も助けてもらえるかどうかは問わずに、ただただ無条件に義務感から相手を助けるべきなのだ。損得(功利主義)を超えて自律的に為すべき善とは何か、その道徳法則を、我々は自己立法せねばならない。何故ならば、我々には自由意志があるのだから。いま、キアヌは自由意志という近代武器で、おのれの利益を超克し、強欲と虚栄をはねのけ、明らかに彼にとっては究極的な損となる、最後の抵抗を試みるのである。もっとも、その方法がカント先生のお気に召すかは微妙なところだが…。 以上で、この映画について書くべきことはあらかた書き終えた。以下、エピローグ的に幾つかのトピックスについて落ち穂拾い的に書き続けていく。 ・「自由意志」は今も哲学の争点であり続けており、いまだ人類は究極の答えに到達していない。そんなものは幻想だという主張もある。あらゆる出来事は確率や因果律といったものによってあらかじめ決定されており、人間の意志など介在する余地は無いとする「決定論」の立場がそれだ。確かに、困っている人を助けるかどうかの例えで言うなら、たまたま親の道徳教育がしっかりしていたとか、たまたま遺伝的に哲学など人文科学系の思惟に秀でた資質を親から受け継いだとか、たまたま高校で倫社の先生とウマが合って真面目に倫理を勉強したとかetc。自由意志だと思い込んでいたものが外的条件によって他律的に決定されている可能性は有る。さらには、実存哲学のパイオニアである19世紀のニーチェは、自由意志もキリスト教も神も否定し、「俺には自由意志がある」なんぞというのは弱者の現実逃避であると説いた。もっとも以上のことは、この映画とは関係のない余談。 ・ミルトンの代表室の執務デスク背後の壁には、肉欲の大罪をモチーフにした地獄の風景風の巨大な白いレリーフが掲げられている。これとそっくりな既存の芸術作品が存在しており、著作権侵害で裁判沙汰になるという皮肉な運命をこの映画はたどった。映画会社側の弁護士は、そんな作品の存在など制作陣は事前には知らなかったと主張し、テイラー・ハックフォード監督が語るそのレリーフのVFX撮影プロセスを聞いても、パクったとは私には思えないのだが、法的には大きなペナルティを課されてしまった。だが私がこの映画を初見した時、その劇中のレリーフからまず想起したのは、オーギュスト・ロダンの「地獄の門」だった。ダンテの『神曲』に出てきた文字通り地獄へと通じる門を彫刻化したもので、「汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ」の碑文が掲げられている。これは『エイリアン:コヴェナント』のポスターのモチーフにもなっているのではないだろうか。『エイリアン:コヴェナント』もまた、ミルトンの『失楽園』をモチーフの一つにしている映画だ。 ・この映画が予言した21世紀型モラルハザードとは、2008年リーマンショック前、21世紀初頭の、大淫婦バビロン的“堕落と退廃”の光景であって、それから10年を経た2018年のこんにちの有り様は、この映画が予言したよりもはるかに狂った、黙示録的な、差し迫った“混沌と憎悪”の様相すら呈している。ご存知の通り2017年新春、トランプ氏は大統領に就任し、トランプタワーのえせヴェルサイユからホワイトハウスの本物のオーヴァルルームに居を移した。そこには、18世紀のブルボン絶対王政など足下にも及ばない、強大な権力と武力が集中する玉座が置かれている。偽ヴェルサイユ宮を出てそこに遷御した偽王が、貧者の味方として振る舞っているという、ねじれた現実を、こんにちの我々は日々見せつけられているのである。2016年大統領選でトランプ氏はウォール街やヘッジファンドを批判し、にも関わらず政権発足後はその出身者を政権内に多く取り込み、空前の大型減税で大企業と富裕層を潤わせた。とはいえ信徒である白人貧困層を見限ったわけでもなく、彼らには、移民労働者と貿易相手国という“富の盗っ人”としての敵を与えてやり、自ら“率先垂範”してその二つを攻撃し続けることで、国富を取り戻すために戦う救国の英雄、キリスト教の闘う庇護者として、国の半分から崇められ、今や“ミニ・トランプ”なる追蹤者たちが共和党から続々中間選挙に立候補しているという。 ・悪魔は、人間を欺く。『エクソシスト』でも『哭声/コクソン』でもそれは描かれた。それはアンチキリスト、偽預言者として我々の前に現れ、善を為すごとく巧妙に見せかけ、大衆の支持を得る。マタイ福音書によると、「世の終りには、どんな前兆がありますか」と弟子から問われたイエスは、こう言ったとされる。「人に惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。(中略)民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。(中略)多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう」(マタイによる福音書第24章より)…筆者は無信仰者なので、この意味するところを解釈できないでいる。この節もまた、余談。■ © Warner Bros. Productions Limited, Monarchy Enterprises B.V., Regency Entertainment (USA), Inc. 保存保存
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COLUMN/コラム2018.11.02
悪魔が作らせたのか?97年の予言的映画『ディアボロス/悪魔の扉』が的中させた、21世紀のモラルハザード②
(前回の①はコチラ) この映画『ディアボロス/悪魔の扉』の原題であり原作小説の題名でもある「悪魔の弁護人(Devil's Advocate)」とは、本来は慣用表現である。ラテン語の「アドヴォカートゥス・ディアボリ」がそのまま英語に入ってきたもので、元はカトリックの宗教用語だ。 会議などにおいて、ただの一つの異論も出ずに議論がスムーズにまとまるということは、決して好ましくない。反対意見を言い出しづらかっただけということはないか?そうでないにせよ、思わぬ矛盾や欠点がその満場一致の結論に潜んでいる危険性は絶対に無いと言い切れるのか? そのリスクのヘッジを期待して、あえて反論だけを専門に述べる担当を設ける。本人が本音でどう考えているかはこの際関係ない。とにかく主流意見に論理的に反証していくことが組織における彼の担務なのだ。そのポストがアドヴォカートゥス・ディアボリ、「悪魔の弁護人」もしくは「悪魔の代弁者」である。カトリック教会における「これを奇跡だと認定する」「この人を聖人・福者に列する」といったお墨付きを与える会議にその反論係は置かれた。 こんにち、専門の係でなくとも、会議等でそうした役割を果たしている人のことを、英語でDevil's Advocateという。そして、同じ機能を社会的に担っているのが、近代の司法制度における弁護士なのだ(ついでながら、議会政治における野党も同様。“議論のための議論”、“反対のための反対”にも意義はある)。 「犯人め!」「一番重い刑罰を課せ!」「死刑だ!!」などと大勢が形成されつつある中でも、法律を盾に被告人利益の最大化に努める専門家が必要であることは明らかだ。「盗っ人にも三分の理」という言葉もある。やむにやまれぬ酌量すべき情状もあったかもしれないし、正当防衛や緊急避難的な動機があったかもしれない。それどころか、まったくの濡れ衣や冤罪かもしれないのだ。そうした主張を素人である被告人に代わって法的に代言してくれるプロは、近代法治社会においては不可欠に決まっている。それが無い裁判は「魔女裁判」と呼ぶのだ。 一方でこの賢明なシステムには、ワイドショーの“コメンテイター”なる連中が床屋政談調でよく放言する「殺された被害者より被告の人権ばかりが守られているのは如何なものか」という嫌いがあることもまた、否定のしようもない。原作小説『悪魔の弁護人』のモチーフは、まさにこの近代的ジレンマだ。 主人公はミルトン代表から、妻を殺めた夫を無罪に持ち込む弁護を任される。原作でのミルトン法律事務所はこの手の訴訟を専門に引き受けていて、殺人者を次々に無罪放免にして世間に野放しにしている。まさに、悪魔の手先という文字通りの意味での「悪魔の弁護人」なのである(邦題『ディアボロス/悪魔の扉』はこのWミーニングを活かせていない)。さらにそこから原作の主人公は一歩進んで、悪を世に解き放つこと自体がミルトンの究極目的ではないのか?ミルトンこそ実は本物のサタンそのものではないのか!?という妄想もしくは疑念にとらわれていくことになる。 原作小説は、1990年に出版された。これもまた、予言の書ではなかったのかと思えてくる。 例えばその翌年に、LAでロドニー・キング事件が起こる。仮釈放中の黒人青年ロドニー・キングが車で逃走、パトカーとのカーチェイスになったが観念して車から降りたところ、白人警官たちに組み伏せられ、警棒で滅多打ちにされ、リンチ(私刑のこと。刑法による刑事罰ではなく、個人が私的に好き勝手な罰を加える行為)によって半殺しにされた。彼は無抵抗で武器も帯びていなかったにもかかわらず。その一部始終は近隣住民によってハンディーカムで撮影されていた。全米も、全世界も、私も、その粗いビデオ映像をTVで目撃した。 当然ながら暴力警官たちは告発され、翌年、裁判が始まる。くだんのビデオも証拠として提出されたが、警官側の“悪魔の弁護人”がとった法廷戦術は、裁判をLA郊外の、住民の98%が白人というエリアで開廷させることだった。その人口比率を反映して選任された12人中10人が白人の陪審員は、1992年4月29日、容疑者である白人警官全員を正当防衛で無罪とする評決を下したのである。 直後「人種差別だ!」と怒り狂った一部の黒人住民が暴徒化し、LAは三日三晩の無法状態に突入する。これが92年の「ロス暴動」だ。無関係の白人が引き出されて黒人暴徒に撲殺されるなど合計50人以上の死者が出、放火でいたるところ火災も発生。商店への襲撃と略奪が横行し、住民は銃で武装し自衛と籠城を始め、ついには軍隊が投入される事態となる。州内治安維持を任務とする州兵だけでなく連邦の実戦部隊までもが投入された。BDU迷彩服にPASGT防弾ベスト&ヘルメットにM16A2アサルトライフルという、前年の湾岸戦争と寸分たがわぬ格好の兵士たちがLAの街角に出動し、誰がどう見ても“市街戦”と見えるこの光景はTV中継された。私も当時、食い入るようにニュースを見、見ながらも目を疑った覚えがある。これが、『ビバリーヒルズ・コップ』や『リーサル・ウエポン』で子供の頃から憧れてきたあの街で今、実際に起きているのか!? 第三世界の紛争地帯とかではなく? 次は95年、OJシンプソン裁判だ。黒人でアメフトの元スター選手、引退後に芸能人に転身してからも成功を収めていたOJ(映画俳優としては74年『タワーリング・インフェルノ』、78年『カプリコン・1』等に出演)が、その前の年、白人で美人の元妻とその若い恋人を惨殺した嫌疑を持たれる。逮捕される予定日に、OJは自殺をほのめかし取り乱してハイウェイを逃走。パトカー軍団による一大追跡劇が演じられたりもした。 そして翌年、世紀の裁判が始まる。あらゆる物証、DNAまでもが、犯人がOJであることを物語っていた。DNA鑑定で、犯行現場に遺された血痕とそこにいなかったはずのOJ(手にどこかで怪我を負っていた)から採血したサンプル血液は、570億分の1の確率で一致した。地球上に人間は70億しかいない。 成功者OJは大金を積み、一流どころの有名弁護士を雇い入れていく。当時は“ドリームチーム”などと持てはやされたものだが、本稿では“悪魔の弁護団”と呼ぶとしよう。彼らは、①犯人が犯行時にはめた遺留品の革手袋がOJのものにしてはキツかったこと、を突き、OJが証拠現物の手袋をはめようとしてもキツくてはめにくい、という小芝居まで本人に演じさせて(キツくても最終的にはめられるのだが…)、そのパフォーマンスを鮮烈に陪審員の網膜に焼き付けさせ、他のDNA以下の科学的証拠群の印象をすべて吹き飛ばしてしまうことに成功した。次いで、②現場検証にあたり手袋など重要証拠を発見した白人刑事が差別主義者であった事実、を証明してみせ、この訴訟が人種問題であるかのような争点ズラしをすることにも成功したのである。OJは“悪魔の弁護団”の活躍で無罪評決を勝ちとった。 …何かが、間違っている気がしないか?「疑わしきは被告人の利益に」の大原則は解る。近代法治社会が拠って立つ原理原則だ。これがなければ中世の魔女裁判になってしまう。だがしかし、絶対に、何かが腐敗していないか? 原作小説『悪魔の弁護人』は、このジレンマがモチーフとなっているに違いない。道徳を失くした司法制度、ソフィストとしての弁護士を、厳しく断罪する。 原作におけるミルトン法律事務所は、殺人者など“黒”を“白”と言いくるめる訴訟を専らとしており、そして人殺しを無罪放免にして次々と世間に解き放っている。文字通りに悪魔の手先という意味での「悪魔の弁護人」だと前に記した。その究極の目的は“邪悪を為すこと”だと主人公は疑い始める。 だが一方の映画のミルトン法律事務所の方は、性格が異なる。映画版のそれにとって、主人公は事務所初となる刑事弁護士で、むしろ異色の経歴だ。彼以外は証券取引法や海事法、国際公法、知的財産権法など様々な法律分野の専門弁護士たちで、彼らエリートが結集した“ドリームチーム”がミルトン法律事務所であり、大口クライアントを企業訴訟で勝訴に導いては巨額の弁護報酬を得ている、拝金主義の権化のような組織として描かれている。はっきり言って、カネが目的なのだ。邪悪を為すことではない。 だからこの映画は、道徳を失くした司法、という原作のモチーフも確かに主要なものとして残っているが、それ以上に、強欲を批判すること、虚栄を断罪することの方に力点が置かれている。モチーフが違う、テーマが違うのだ。そして強欲の大罪こそが、21世紀型の悪、完全に行き詰まった2010年代の資本主義が直面することになった最大の巨悪であるということを、我々は現実の差し迫った問題として知っている。1997年のこの映画は、21世紀型モラルハザードを予言してしまっているのである。それどころか、作り手の思惑さえ超えて、2018年の我々が見ると戦慄を禁じえない、いくつもの予知夢的記号に満ちてすらいるのだ。一体どうやって97年の作り手たちがその要素を入れようなどと考えつけたのか?悪魔に導かれたとしか説明がつかない。 深い考えが作り手にあったわけではないだろう。だが序盤に出てくるパーティーのシーンで、我々はまず一度、ギクリとさせられる。思わず体がビクッと反応する、とある予想もしない言葉が飛び出してくるからだ。それはミルトン法律事務所の盛大なパーティー。会場は、主人公が転居してきたマンションの上層階。NYの夜景を一望できる摩天楼のエセ天上界だ。まさに、虚栄の極み。政財界の大物や著名人も顔を見せて、密談と言うにはあまりに大っぴらに蓄財の法的相談が交わされている。そこで、出席した女性陣がこんなことを言って、2018年の我々をギクリとさせるのだ。 (つづき③(完)序盤のパーティーのシーンで突如飛び出す2018年の我々には衝撃的な言葉とは!?) © Warner Bros. Productions Limited, Monarchy Enterprises B.V., Regency Entertainment (USA), Inc. 保存保存
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COLUMN/コラム2018.10.30
悪魔が作らせたのか?97年の予言的映画『ディアボロス/悪魔の扉』が的中させた、21世紀のモラルハザード①
当チャンネルでの放映予定は当面ないが、ジョニー・デップの『フロム・ヘル』をご記憶だろうか?“切り裂きジャック”の真犯人探しモノで、19世紀末ヴィクトリア朝ロンドンの深い闇と、酸鼻きわめる猟奇描写と、あっと驚く“切り裂きジャック”の正体が見どころの、出来の良いスリラーだった。 クライマックスでついに正体を現したその人物は、傲然とこう言い放つ。「後世の人々は語るだろう、20世紀を生んだのは私だと」 まさしくそうだ。 あれは「猟奇殺人」であり、「快楽殺人」でもあったかもしれず(映画では別の犯行動機があるという話になっていたが)、そして何よりも、犯人がマスメディア(当時は新聞)に犯行声明文を送り付け、そのメディアが発信するどぎついタブロイド的・ワイドショー的情報を大量消費した資本主義社会の都市住民が、恐怖しながらも興奮した「劇場型犯罪」だった。 マスメディアを通じてそうした類いの犯罪に触れた20世紀の大衆は、それを、生理的に恐怖し嫌悪しつつ、道徳的には怒り悲しみつつも、同時にまた、それを旺盛に消費もした。猟奇事件や未解決事件を扱うドキュメンタリーやノンフィクションに恐いもの見たさの好奇心から触れて、深淵を覗き込んでしまった覚えは、誰にだってあるはずだ。20世紀、それは大衆に消費されるコンテンツの一つになった。 『フロム・ヘル』は、19世紀末のロンドンにおいて“先行配信”された20世紀型モラルハザード※のコンテンツが、悪魔の扉を開いた、という物語なのだ。 ※「モラルハザード」という言葉の本来の意味は違う。誤用が広まっている。ここでは誤用と承知で使うが正確な国語的語義は各自でおググりあれ。 そして、本稿で取り上げる1997年の映画『ディアボロス/悪魔の扉』。こちらは、90年代末のNYに存在する社会の歪みが、21世紀型モラルハザードを先取りしており、それが悪魔の扉を開くだろう、と予言した物語で、そして、実際その通りになってしまったのである。そのことを、本稿では恨み節調に書いていきたい。 まず、あらすじから始めよう。冒頭の舞台はフロリダの田舎町だ。主人公(キアヌ・リーヴス扮演)は負け知らずの若手弁護士。いま抱えているのは、被告の男性教諭が原告の女子中学生に強制猥褻をしたという裁判だ。依頼人の教師が“黒”である真相が、我々観客とキアヌの二者にだけ明かされる。女生徒が検察の質問に答えて被害の詳細を勇敢に証言している最中、依頼人は、じっとりと汗ばんだ左手で犯行時と同じ動作を、なでるような、もむような、挿入するような指の動きを、無意識のうちに再現しており、あまつさえ、反対の右手を膨らんできた己の股間にまでこっそり持っていく始末なのだ、デスクの下で。そこは誰の目からも死角。唯一、隣に座っている弁護士キアヌ・リーヴスからのみ、そこは死角ではない。その卑猥な指の動きに気づいてしまった彼は、自分の依頼人が“黒”だと悟る。たちまち生理的嫌悪が湧き上がる。が、弁護士が被告の弁護を放り出すわけにもいかない。周到に練り上げてきた法廷戦術にのっとり、彼は、女生徒が教諭の陰口を叩いていた事実、教諭を嫌い、教諭も彼女をしばしば叱っていた事実、さらには、女生徒が同級生たちと少々エッチな秘密の遊びをしていた事実を、原告の少女本人に向かい声を荒げて突きつけ、動揺させ、泣かせ、被害者であるこの女子中学生が、問題児であり、色ガキであり、先生を逆恨みしているかのように陪審員の印象を操作することに成功する。今回も彼の勝ちだった。無罪評決だ。 この裁判を傍聴していた男から、祝勝会で声をかけられる。彼はNYの法律事務所の人間で、ぜひヘッドハントしたいと言う。条件は破格だ。詳しい話を聞きにNYまで行ってみると、職場環境も社宅も申し分ない。人生の成功者の暮らしだ。事務所はワールドトレードセンターのほど近く(倒壊4年前のツインタワーが映し出される)。オフィスビルの最上階で、モダンインテリアで統一された最先端のデザイナーズオフィスだ。住環境の方は、『ローズマリーの赤ちゃん』のダコタハウスや『ゴーストバスターズ』の高層マンションを思い出させる、19世紀末築のクラシカル&クラッシーな歴史的建築物。法律事務所の代表がその不動産を丸ごと一棟所有していてスタッフを各階に住まわせているのだ。無論本人はペントハウスに君臨し、上層階から下層階へと事務所でのヒエラルキー順にフロアが割り当てられているのである。 この初老の代表がジョン・ミルトン(すごい名前だ!アル・パチーノ扮演)。家父長的なカリスマ性を発散し、確固たる成功哲学を持ち、時にそれを雄弁に語り、夜ごとパーティーを催し、若い美女たちをはべらせ、部下にもそのオコボレを与え、事務所スタッフを完全に支配しているのである。主人公は、このミルトンにまず感謝し、次いで心酔し、その下で働けることを光栄に思う。 …が、しかし。 この『ディアボロス/悪魔の扉』には原作が存在する。1990年に書かれた小説『悪魔の弁護人』がそれで、映画化時に邦訳も出たことがある。主人公がフロリダではなく元々NY郊外に暮らしていたり、ペドフィリア教員がキモでぶハゲおやじではなくレズ女教師だったりと、多少の違いはあるが、ここまではおおむね映画版も原作も同じ展開をたどる。途中から違いが広がっていき、最後には全く別の結末にそれぞれたどり着くのだが、最大の相違は何かと言えば、まず端的に、主人公の妻のキャラクター造形であり、より根本的には、そもそものモチーフとなっているもの、テーマが違うのである。 映画版で奥さんを演じるのはシャーリーズ・セロンだ。中学教諭の強制猥褻裁判でも夫を応援し、勝訴が決まれば誰より喜ぶ。野心も強く、NYでのセレブ新生活に大興奮する。気っ風の良い田舎の元ヤン若妻みたいな辣腕カーディーラーの女性だった。しかし、そんな彼女がNYで次第に精神に変調をきたし、泣きじゃくりながら被害妄想と神経衰弱の症状に陥っていく。 一方、原作小説の方では真逆のキャラクターとして描かれている。NY郊外の弁護士家庭という中の上クラスの生活に満足している専業主婦で、その地域社会に愛着も抱いており、上を目指して別の生活に飛び込もうという気はさらさら無い。夫が強制猥褻容疑の被告の弁護を担当し原告の女子中学生を人格攻撃したことも恥じている。そんな彼女が、マンハッタンに移って豪華な暮らしを始めると、カネと消費の亡者に豹変するのだ。 要は、どちらも中盤で奥さんのキャラクターがガラリと一変してしまうのである。そのトリガーとなるのが「悪魔」という本作のキーワードだ。 映画版では、奥さんシャーリーズ・セロンが、この、人も羨む勝ち組ライフのふとした瞬間に、何か禍々しい、悪魔的な存在をチラチラ垣間見るようになり、フロリダではあれほど明朗快活だった彼女が、オカルト的な影に怯えて田舎に戻りたいと泣いて懇願しだす。主人公キアヌには悪魔の影など見えないのだが、妻の方は妄想なのか何なのか、不吉な気配を繰り返し感じるようになる。 「妄想なのか何なのか」と書いたが、これはつまり、いわゆる「ニューロティック・スリラー」的展開だ。この映画は、慣れない贅沢暮らしでノイローゼになり追い詰められていく心を病んだ庶民女性の物語なのか?それとも、本当に悪魔は実在するのに、それを旦那を含む誰からも信じてもらえない孤立した女性の物語なのか?どちらなのか!? それでクライマックスまで興味を持続させるのがニューロティック・スリラーというジャンルである。 一方、原作の方もニューロティックなのだが、悪魔が実在するのか妄想なのか、どちらなのかで読者を翻弄するのは、こちらでは主人公である旦那の方だ。ミルトン代表から殺人者の弁護を任され、良心の呵責に苦しむのみならず、ミルトンこそ実は本物の悪魔ではないのか!?と疑いだす。疑うほどに、逆に妻の方は、夫のことを精神異常あつかいしつつ、自身は浪費に明け暮れていく。悪魔に取り込まれつつあるのか? ヒロインである奥さんが、このように原作と映画化版とで正反対に描かれるのだが、より重要なのは、そもそもモチーフが違う、テーマが違う、ということの方だ。次回はそこに触れていきたい。 (つづき② 原題「悪魔の弁護人(Devil's Advocate)」は慣用句。その意味を知っているか?) © Warner Bros. Productions Limited, Monarchy Enterprises B.V., Regency Entertainment (USA), Inc. 保存保存 保存保存
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COLUMN/コラム2017.08.29
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2017年9月】飯森盛良
『エイリアン:コヴェナント』一足お先に見たが、「人間はどこから来たのか?人は何のため生まれてくるのか?」について語りたいシリーズであることがますます鮮明に。またリドスコ映画の同窓会の趣も。タイレル社長とロイバッティの関係、人体の腑分けに熱中するレクター博士の貴族趣味などが映画中に散りばめられ、さらに文学や音楽からの引用といい、「どんだけ深えんだ!」という豊潤な作品になった。しかーし!完全に『プロメテウス』の続編。『エイリアン』シリーズは見てなくても『プロメテウス』だけは見ておかないと話についていけない。ま、公開前にウチでは『エイリアン』シリーズも『プロメテウス』も全部やるんだけどな!■ © 2012 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.
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NEWS/ニュース2012.06.01
映画『スノーホワイト』シャーリーズ・セロン来日イベントレポート
すでにテレビやWEBやらでご覧になっている方も多いかと思いますが、僕も行ってきました、映画『スノーホワイト』シャーリーズ・セロン来日イベント。 計120媒体以上が集まったという会場は大盛況! この日は、映画の中でも特に印象的な、主人公スノーホワイトが迷い込む"森"のオブジェを設置したレッドカーペットに、シャーリーズ・セロンと、日本語吹き替え版でシャーリーズ・セロン演じるラヴェンナ女王役のアフレコを担当した小雪さんが、"悪の女王"ラヴェンナを彷彿とさせる黒を基調にしたドレスで登場!白雪姫役かと思いきや、意外や意外、本作では悪の女王役。また、ルパート・サンダース監督と、これまた猟師エリック役で実写洋画のアフレコ初体験の椎名桔平さんも続いて、4人はファンサービスもしながらレッドカーペットを歩きます。 その後、場所を移して場奥のステージでは、あの名セリフ「鏡よ。鏡・・・」にちなんだ大きな鏡の中からシャーリーズ・セロン、小雪さん、椎名さん3人が登場するという大層凝った演出が行われました。 本作『スノーホワイト』は、グリム童話誕生から200年、子供から大人まで幅広く愛されている名作グリム童話の「白雪姫」を下敷きに、『アリス・イン・ワンダーランド』のスタッフらが斬新な映像と予想外の新展開を注ぎ込んだ、驚異のアクション・アドベンチャー超大作。悪の女王ラヴェンナ演じるシャーリーズ・セロン曰く、「私が惚れ込んだのは、誰もが知っている古典的な童話をまったく違う形で描いているところです。ビジュアルがとにかく素晴しいし、スケールも大きく、ストーリーも感動できます!」とのこと。また、本作品の監督であるルパート・サンダース(CMディレクター出身の映像作家)からは、「本作は日本のみなさんに魅力的に感じてもらえる作品になっているはずです!魔法やファンタジー、格闘シーンなど、文化的に受け入れてくれる土壌が日本にはあると思います。大作でありながら、感情面も豊かに描かれていてメッセージ性も高く、何百年も語り継がれるこの物語を、今の人たちに受け入れてもらえる作品に仕上げることができました。よろしくお願いいたします。」という、(なんとも丁寧な)日本のファンへ向けた熱いメッセージをいただいた。コンセプト、ビジュアル、ストーリー・・・すべてにおいて、これまでの白雪姫のイメージを一新させた本作。なんといっても、あの〈愛らしい白雪姫〉が、〈戦う白雪姫〉へ、大胆変身!するのである。とにもかくにも、観てみないことには伝わらないし分からない。でも6月15日(金)の劇場公開まで待てない!そんな人のために、6月のザ・シネマでは、『シャーリーズ・セロン出演4作品を特集放送!』あわせて特別番組『戦う白雪姫!「スノーホワイト」スペシャル―まったく新しい白雪姫を徹底解剖―』もオンエアいたします!こちらも是非!■ © 2012 Universal Studios. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2011.11.01
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2011年11月】山田
哀しい過去と空虚な現在が深く絡み合っていく─。因果な血で結ばれた女性たちの愛と葛藤に満ちた人生を描き出す人間ドラマ。『21グラム』の脚本を務めたギジェルモ・アリアガ監督作品だけあって、時系列を複雑に交錯させた構成や演出はさすがである。3世代にわたる女性たちの生き様を描いたこの作品。シャーリーズ・セロンとキム・ベイシンガーの新旧オスカー女優競演はもちろんのこと、注目すべきはハリウッド期待の新星のジェニファー・ローレンス。びっくりするほどかわいいわけではないのですが。妙にそそられます。 ©2008 2929 Productions LLC, All rights reserved.
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COLUMN/コラム2009.09.11
『1Q84』を読んだら『イーオン・フラックス』を観よう
“オーウェリアンSF”というジャンルがある。SF好きの人にとっては、何を今さら・・・という感があるかもしれないが、この“オーウェリアン”なる言葉はイギリスの作家、ジョージ・オーウェルが1948年に執筆したという著作『1984』から生まれた。(イギリスでの発売は1949年)『1984』は、思想や言語、結婚などあらゆる市民生活が「テレスクリーン」と呼ばれる双方向テレビによって政府当局に監視されている、恐るべき1984年の近未来社会を描いた小説である。そこから、極度な管理社会を舞台にしたSFのことを“オーウェリアン”と呼ぶようになり、映画、小説、漫画、舞台などでその世界観が描かれてきた。『イーオン・フラックス』は、ピーター・チョンによるアニメ作品を映画化したオーウェリアンSF。舞台は致死性のウィルスが発生して、人類のほとんどが死滅した2415年。生き残った人類は、トレバー8世による政府の下で厳密に管理され、汚染された外界と壁で隔てられた都市、ブレーニャで何不自由なく生活している。 しかしいつの時代にも、反政府分子は生まれるもの。今作ではそれが、“モニカン”という組織である。シャーリーズ・セロン演じるイーオンはモニカンの女戦死で、彼女は妊娠したばかりの妹が反政府分子として抹殺されたことをきっかけに、復讐のためにモニカンの一員となったのだ。そして政府の厳重なセキュリティを解除する方法を見つけたモニカンから、命令を受けたイーオンは要塞に乗り込み、意外にあっさりとトレバーを見つけ出す。しかし、彼を殺そうと銃を突きつけた瞬間、トレバーと自分が恋人同士のように一緒にいる場面が脳裏に浮かび、動揺した彼女は逆に捕らえられてしまうのである。この脳裏に浮かんだ場面、というのがこの映画のキモ。ここから映画は急展開して、なぜ脳裏にそんな場面が浮かんだのかを探るうちに、イーオンは、本当の自分は何者で、どこからやってきたのかを知ることになる。さて、今回当チャンネルがお送りする『イーオン・フラックス』は、編成部が先見の明で選んだのか、単なる偶然なのかはさておき、ここ日本でオーウェリアンSFは、今もっとも注目を集めているジャンルなのである。というのも、映画化で話題になった浦沢直樹氏のコミック『20世紀少年』も、絶対君主“ともだち”が統治するオーウェリアン的世界を描いた作品であるし、200万部を突破した村上春樹氏の大ベストセラー『1Q84』は、冒頭に書いたジョージ・オーウェルの小説『1984』をもじったものである。僕はまだ読んでいないので、詳しいところはわからないが、内容もその世界観を土台に構築したものであるらしい。また村上氏は過去の著作、『世界の終わりと、ハードボイルドワンダーランド』でもオーウェリアンの世界観を組み込んでいる。もちろん、日本の小説や漫画だけではなく、オーウェリアンものは『イーオン・フラックス』のほかにも多数映画化されており、SFジャンルの一つとして確立されている。ルーカスの記念すべきデビュー作『THX-1138』、トリュフォーによる『華氏451』、スピルバーグの『マイノリティ・リポート』、マイケル・ベイによる『アイランド』、そして、カート・ウィマーという、ここまであげてきた大物監督に比べれば1ランク落ちる監督が撮った、しかしオーウェリアンSFの最高傑作とのマニア評がある『リベリオン』、などなどなど。これらで描かれる高度管理社会を観ると、“空想上の世界”というよりは、われわれが生きている世界をほんの少し誇張、あるいは時計の針を進めた形に過ぎないと感じる人は、けっして少なくないはずである。オーウェリアンもののメッセージ性は、時代を追うごとに増していると言える。それゆえ、『イーオン・フラックス』をはじめとするオーウェリアン作品は妙なリアリティを持って観るものに迫ってくる。このオーウェリアン的世界を肯定するのか、あるいは否定するのかで、その人生はずいぶんと異なってくる。高度管理社会で何不自由なく平穏に暮らすことは、ひとつの幸せでもある。一見、それはユートピアのように見える。しかし、何不自由なく平穏に暮らせる世界は、一方で生きることに必要でない“無駄”をなくす世界であり、必要以上の感情の起伏や芸術は必要とされない世界である。トリュフォーが『華氏451』のなかで、書物を無駄なものとして描いたのはその良い例だろう。高度に管理された何不自由ない社会は本当にユートピアなのか? それはディストピアではないのか?人はそう考え、管理社会に危険を感じるからこそ、“オーウェリアン”はこれほど描かれるのである。それにしても、映画、漫画、そして小説の世界で活躍する超一流の作家達が、こぞって"オーウェリアン"ものを作るということは、世界はそういう方向に間違いなく進んでいるということなのだろうか?人類への警鐘というと大げさに聞こえるものの、けして人ごとでも、ずっと未来の話でもないのかもしれない。歴史的な政権交代が決まった今日この頃、『イーオン・フラックス』を観た僕は、ちゃんと政治に興味持たなきゃと思ったのでした。■(奥田高大) © 2005 Paramount Pictures. All Rights Reserved