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COLUMN/コラム2023.04.13
不朽の名作は新たな才能の饗宴の場でもあった!『アラビアのロレンス』
第1次世界大戦の最中、中東を支配していたオスマン=トルコ帝国に対する、“アラブ反乱”が起こった。それを支援したイギリス軍人で「アラビアのロレンス」として名高い存在だったのが、トーマス・エドワード・ロレンス(1888~1935)。『アフリカの女王』(1951)『波止場』(54)などのプロデューサーであるサム・スピーゲルは、ロレンスが記した回想録「七つの知恵の柱」の映画化権を60年に獲得。インドに居たデヴィッド・リーンの元へと、向かった。 リーンはかの地で、マハトマ・ガンジーの生涯を映画化する企画に取り掛かっていたのだが、そちらは棚上げ。前作『戦場にかける橋』(57)で組み、赫赫たる成果を上げたパートナー、スピーゲルからのオファーを受けた。 これが映画史に残る、未曽有のスペクタクル大作にして不朽の名作、『アラビアのロレンス』(62)のスタートだった。 リーンは、ロレンスという人物が事を為した時に28歳という若さだったことを挙げ、「…大人物であったと思う」と評しながらも、彼が普通社会には受け容れられない、“異常人物”であると断じている。その上で、ロレンスが自伝の中で自らの欠点を告白している点に、いたく興味を持ち、そこに魅力を感じたという。 ***** 1935年のイギリス。ひとりの男が、運転していたバイクの事故で死ぬ。彼の名は、T・E・ロレンス。「アラビアのロレンス」として勇名を馳せながら、彼のことを真に理解する者は、ひとりとして居なかった…。 1916年、トルコに対してアラビア遊牧民のベドウィンが、反乱を起こそうとしていた。イギリスはそれを援助する方針を固め、その適任者として、カイロの英陸軍司令部に勤務し、前身は考古学者でアラビア情勢に詳しい、ロレンス(演:ピーター・オトゥール)を選んだ。 ロレンスは、反乱軍の指導者ファイサル王子(演:アレック・ギネス)の陣営に向かって旅立つ。目的地に辿り着く前には、後に盟友となる、ハリト族の族長アリ(演:オマー・シャリフ)との出会いがあった。 反乱軍と合流したロレンスは、トルコ軍が支配し、難攻不落と言われたアカバ要塞の攻略を目指す。だがそれは、灼熱の砂漠を越えなければ実施できない、無謀な作戦だった。 しかしロレンスと彼が引き連れた一行は、見事に砂漠を横断。蛮勇で名を轟かせていたハウェイタット族のアウダ・アブ・タイ(演:アンソニー・クイン)も仲間に引き入れ、遂にはアカバのトルコ軍を撃破する。 その後もゲリラ戦法で、次々と戦果を上げるロレンス。彼が夢見るアラブ民族独立も、いつか実現する日が来るように思えた。 しかしイギリスははじめから、独立など許す気はなく、己の権益の拡大のみが、目的だった。ロレンスはやがて、理想と現実のギャップに引き裂かれていく…。 ***** リーン曰く、本作の前半は、ロレンスが英雄にまつりあげられるまでの上昇のプロセス。そして後半では、英雄気取りになった彼が、「…神のような高さからついに地上へ落下する…」という、下降のプロセスを描く。 そんな中での、ロレンスの人物造形。これについては、映画評論家の淀川長治氏が、『アラビアのロレンス』について書いた一文を引用したい。 ~ロレンスの伝記。しかも複雑怪奇なロレンス像。その砂漠の第一夜からホモの影を匂わせてこのロレンスの男の世界をリーンは身震いするほどのせんさいで描いて見せた…~ こうした一筋縄ではいかない主人公の物語を構築するに当たって、大いなる戦力となったのは、脚色を担当した、ロバート・ボルト。劇作家として高い評価を受けていたボルトだが、映画の脚本を書くのは、これが初めてだった。 プロデューサーのスピーゲルは、台詞の一部を担当させるぐらいのつもりで、ボルトに声を掛けた。しかし執筆が始まると、スピーゲルもリーンも、その才能に脱帽。6週間拘束の約束が延びに延びて、結局18か月間、ボルトは『ロレンス』にかかり切りとなった。 付記すれば、ここに始まった、ボルトとリーンの縁。『ロレンス』の後、『ドクトル・ジバゴ』(65)『ライアンの娘』(70)まで続く。 ロレンスの複雑怪奇さを表現できたのは、演者にピーター・オトゥールを得たことも、大きかった。当初この役の候補には、マーロン・ブランドやアルバート・フィニーの名も挙がったという。しかしリーンは、シェークスピアものの舞台などで評価されていたオトゥールを、大抜擢。 オトゥールは4か月の準備期間に、ロレンスを知る人物を次々と訪ね、また彼に関する本と記録を片っ端から読破。原作である「七つの知恵の柱」に至っては、暗記してしまった。 因みにファイサル王子役のアレック・ギネスは、以前に舞台で、ロレンスの役を1年近く演じ続けた経験がある。オトゥールは自分の解釈が壊されるのを恐れ、ギネスとの接触を、可能な限り避けた。 ラクダ乗りの訓練とアラビア語のレッスンに関しても、オトゥールは誰よりも熱心に取り組んだという。 そうした努力の甲斐もあって、オトゥールにとってロレンスは、「生涯の当たり役」となり、後々には“名優”と言われる存在となっていった。しかし、好事魔多し。 本作でスピーゲルやリーンには、またもやオスカー像が贈られた。それに対してオトゥールは、この初めてにして最大の「当たり役」が、“アカデミー賞主演男優賞”のノミネート止まりで終わってしまったのである。 その後はどんな役をやっても、ロレンスの上を行くのが、難しかったからでもあろう。幾度候補となっても、オスカーを手にできないジレンマに陥った。 生涯で、結局8回も“主演男優賞”の候補になりながら、彼が手にしたオスカー像は、2003年のアカデミー賞名誉賞だけ。これはまあ、「残念賞」とも言える。 新しいスターという意味では、砂漠の蜃気楼の中から陽炎のように現れる、アリ役のオマー・シャリフの登場も、鮮烈だった。中東ではすでに人気俳優だったシャリフだが、この1作で世界の檜舞台へと駆け上がった。 このようにKEYとなる人材を得たとはいえ、1962年CGがない時代に、これだけのものを作ってしまったというのは、やはり驚きだ。 撮影は大部分、ヨルダンの砂漠で行われた。スタッフは砂漠にテントを張って、寝泊りしながら撮影を行ったというが、その拠点はアカバに置かれた。 70エーカーの土地を借りて、まるで新しい町が出現した。そこには、製作事務所、撮影部、衣装部、美術部、メーキャップ部、機械整備部、資材部、大道具・小道具の製作工場、大食堂、酒舗、郵便局等々の建物が立ち並び、ラクダの放牧場や大駐車場まで在った。600人に上る撮影隊のために、そこから少し離れた海岸部には、レクリエーション・センターまで設けられたという。 当時のヨルダン国王は、撮影隊に全面協力。3万人の砂漠パトロール隊員を提供した他、1万5千人のベドウィン族が、家族や家畜と共に参加し、アラブ兵やトルコ兵に扮した。 こうした大群衆を動かすため、リーンは、「撮影開始」の合図には、ロケット弾を打ち上げさせた。そして空撮のためにヘリコプターを飛ばし、空中から拡声器で指示を出すこともあった。 撮影隊は突然起きる砂嵐や蜃気楼、日陰でも50度前後に達する昼間の高温が、夜には氷点下となることもある寒暖の差、100%近い湿度等々、大自然の脅威に悩まされながらも、ヨルダンでの撮影を終えた。 続いて、モロッコ、南スペインなどでも、ロケが行われた。 ある石油採掘業者が、本作の撮影隊を指して、こんなことを言った。「白人がこの砂漠でひと夏過ごすのは不可能だ」と。しかしその予言は、見事に外れた。リーンは本作の撮影のため、合わせて3年ほども、砂漠の中で過ごしたと言われる。 もしも現在CGやVFXなしで撮影したら“300億円”以上掛かると言われる。世紀の超大作は、こうして完成に向かっていった。 スピーゲルとのコラボで、前作『戦場にかける橋』で、ビッグバジェットは経験済みとはいえ、本作は桁違いの超大作。改めて、ここに至るまでのリーンの歩みを振り返ってみたい。 若き日は撮影所でカメラマン助手や編集など技術スタッフを務めていたリーンの才能を発見したのは、ノエル・カワード。俳優・作家・脚本家・演出家・映画監督などなど、多方面にてマルチな才能を発揮し、イギリスで一時代を築いたアーティストだった。 カワードが製作・監督・脚本・主演を務めた『軍旗の下に』(42)で、リーンは共同監督として、デビューを飾った。カワードは、9歳下のリーンを大いに気に入り、その後自らのプロデュースで、自作の戯曲を映画化するに当たって、3本続けてリーンに監督を委ねた。その中にはイギリス映画史に残る、恋愛映画の名作『逢びき』(45)がある。 カワードとの蜜月後、『大いなる遺産』(46)『オリヴァ・ツイスト』(48)と、イギリスの国民的作家チャールズ・ディケンズの小説を2作続けて映画化。評判を取った。 この頃までのリーン作品は、すべてイギリス国内が舞台だった。 初めての海外ロケ作品は、『旅情』(55)。キャサリン・ヘップバーン演じるアメリカ人の独身中年女性が、イタリアのベネチアで、旅先の恋に身を震わすこの物語から、リーンは新たなステップに入っていく。「アフリカやアメリカの西部や、アジア各地など、映画は世界中をスクリーンの上に再現して見せてくれ、私の心を躍らせた。私が『幸福なる種族』(44)や『逢びき』のようなイギリスの狭い現実に閉じこもった作品から脱皮して、『旅情』以後、世界各地にロケして歩くようになったのは、映画青年時代からの私の映画を通しての夢の反映であるわけだ。私は冒険者になった気持で、一作ごとに知らない国を旅行して歩いているのである」 そしてリーンは、『戦場にかける橋』『アラビアのロレンス』という、異国の地を舞台にしたスペクタクル巨編へと進むわけだが、こうしたチャレンジを行うようになった下地としては、彼の恩人であるノエル・カワードから贈られた言葉もあったようだ。曰く、「いつも違う道を歩きなさい」。 これらの超大作は共通して、舞台は「脱イギリス」だが、イギリス人の冒険を求める心が描かれているのが、特徴だ。両作を手掛けた、デヴィッド・リーン本人の心持ちとも、重なっていたように思える。 さて話を『ロレンス』に戻せば、撮影が終わって仕上げに入る段階で、また1人得難い“才能”が参加する。フランス出身の作曲家、モーリス・ジャールである。 ジャールは映画音楽を書くためのインスピレーションは、脚本ではなく、スクリーンで映像を観た時に得るものが、最も大きいと語る。「脳とハートを働かせ、監督と一緒に仕事をして色々なアイディアを交換することで、インスピレーションが湧いてくる…」のだそうである。『ロレンス』は、曲を作る段階で、撮影はすべて終わっていた。そしてジャールは作品に参加後、最初の1週間は、40時間の未編集の映像を、ひたすら観ることとなった。 リーンから「これをカットして、4時間の映画にする」と言われたが、その内2時間分の音楽を、6週間で書き上げなければならないという過酷なスケジュール。昼も夜も書き続けて、レコーディングが終わる頃には、「ほとんど死んでいました(笑)」と、後にジャールは述懐している。 因みにサム・スピーゲルからは、「オペラのような感じを出したい」と、注文を出された。当時は本作のような大作の場合、映画の始まる前や休憩の時に、音楽を流すのが流行していた。まず序曲があって、それが終わるとカーテンが開いて、オペラが始まる。そんなイメージだったという。 ジャールは曲の出だしで、パーカッションを用いて、観客を「…一瞬でアラビアにいるような気持ちにさせる…」ように工夫した。そしてそれは、大成功を収める。 因みに先にも触れた、オマー・シャリフ演じるアリの登場シーン。ジャールはリーンに、観客に何かを語る音楽を作るかと提案したら、「そこに音楽は要らない」と返された。静寂の中、少しずつラクダの足音が近づいてくる方が、ずっとドラマティックというわけだ。風の音や自然の一部も、すべて音楽だというリーンの考えであった。 ジャールはリーンとは、最後の監督作品『インドへの道』(84)まで付き合うこととなる。 さて今回「ザ・シネマ」で放送されるバージョンは、全長227分もの[完全版]。実は1962年の本作初公開時は、諸般の事情でカットが重なり、リーン監督にとっては不本意な形になってしまった。 その後カットされたフィルムが見つかったのを機に、88年に本来の状態に構成し直してデジタル・リマスタリングされたものが、この[完全版]である。 再編集はリーン自らが行い、音声素材が残っていなかった未公開シーンではオトゥールをはじめオリジナルキャストが再結集。改めてアフレコを行った。 多額の資金が必要だったこのプロジェクトで、大きな役割を果たしたのが、マーティン・スコセッシとスティーブン・スピルバーグ。2人とも『アラビアのロレンス』及びデヴィッド・リーンから、ただならぬ影響を受けて育った映画監督である。 スピルバーグが最も尊敬する“巨匠”が、リーンであることは、つとに有名だ。そしてリーンの監督作品の中でも『アラビアのロレンス』(57)は、自作を撮影する前に必ず見直す作品の1本だと語っている。 [完全版]は、今や正規バージョンとなっている。劇中のロレンスの悲劇的な最期と対照的に、映画作品として「めでたしめでたし」の帰結である。 その一方で、忘れてはならないことがある。ロレンスが関わった“アラブ反乱”の、リアルなその後だ。 当時のイギリスが、アラブの独立など認める気がなかったのは、記した通り。内容が矛盾する様々な密約を、アラブ側やユダヤ勢力と結ぶ、いわゆる悪名高き「三枚舌外交」を展開していた。これが「パレスチナ問題」のような、今日でも解決の糸口が見えないような、大きな問題に繋がっている。 T・E・ロレンスは、映画を観た我々にとっては、「アラブ諸国の独立に尽力した人物」「アラブ人の英雄」のように映るが、実際はどうだったのか?実はイギリスの「三枚舌外交」の尖兵だったのでは?そんな指摘も為されている。 どうであれ、本作が紛れもない傑作であるのは、揺るぎはしまい。しかし鑑賞の際、アラブの現在やパレスチナの悲劇に思いを馳せるのは、忘れないようにしたい。 私にはそれが、砂漠とアラブの人々を愛した、本作に登場するキャラクターとしての、ロレンスの遺志に添うことのように思えるのである…。■ 『アラビアのロレンス』© 1962, renewed 1990, © 1988 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2024.12.17
フィンチャー&ブラピ3度目の組合せは、超大作にして“人生讃歌”の異色作『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』
本作『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』(2008)の原作となったのは、いわゆる「失われた世代」の代表的作家の1人、F・スコット・フィッツジェラルドの著作。代表作「グレート・ギャツビー」(1925)に遡ること3年、1922年に出版された短編小説集に所収されている。 南北戦争さなかの1860年。ボルチモアで、バトン夫妻の子どもとして誕生したベンジャミンは、生まれながらにして、70歳の老人の姿だった。普通の人間と違って、彼は老人から青年に、そして子どもへと年々若返っていく。身近な人たち、両親をはじめ妻や我が子までが歳を取っていくのとは、真逆に…。 この小説を執筆するに当たって、フィッツジェラルドにインスピレーションを与えたのは、アメリカの文豪マーク・トウェインの格言だという。「もし人が80歳で生まれ、ゆっくりと18歳に近づけていけたなら、人生は限りなく幸せなものになるだろう」「残念なことに、人生の最良の部分は最初に現れ、最悪の部分は最後に来る」「ベンジャミン・バトン」を映画化しようという試みは、度々持ち上がっては消えた。1980年代、『ファニー・ガール』(68)『追憶』(73)『グッバイガール』(77)などを手掛けたプロデューサーのレイ・スタークが、ロビン・スウィコードの脚本で企画を進めるも、頓挫。 90年代はじめに名乗りを上げたのは、キャサリン・ケネディとフランク・マーシャルのコンビ。2人は、盟友のスティーヴン・スピルバーグを監督に、主演はトム・クルーズで映画化を企てる、しかし途中で、スピルバーグが降板。その後ロン・ハワードをはじめ、何人かの監督が候補となったが、いずれもうまく進まず、企画はペンディングとなった。 因みに『エイリアン3』(92)で長編監督デビューしたばかりのデヴィッド・フィンチャーに最初に声が掛かったのも、この時点。フィンチャーはこの題材に惹かれながらも、断っている。 2000年になると、ケネディ&マーシャル製作、スパイク・リー監督で話が進む。しかし2003年、ロビン・スウィコードの脚本を、エリック・ロスがリライトしたものを、リーが気に入らず、結局彼もこの企画から去る。 以上のような紆余曲折を経て、『セブン』(95)や『ファイト・クラブ』(99)などで評価が高まっていたフィンチャーに、再びお鉢が回ってきたのである。 ***** 2005年ニュー・オリンズの病院で、86歳の老女デイジーが、死の床にいた。彼女は娘のキャロラインに、ベンジャミン・バトンという男性の日記を読んでくれと、頼む…。 1918年、ニュー・オリンズで1人の男児が生を受ける。彼は生まれながらにして、80歳の肉体の持ち主。妻を亡くしたこともあり、ショックを受けた父親は、赤ん坊を老人施設の前に置いて去る。 ベンジャミンと名付けられたその子は、施設で働く黒人女性のクイニーに育てられる。彼はやがて歩き出し、皺が減り、髪が増えていく。 1930年、ベンジャミンは、施設に住む祖母を訪ねてきた、6歳のデイジーと仲良しに。彼は自分の秘密を明かす。 やがてベンジャミンは、マイク船長の船で働くようになり、海、労働、女性、酒などを“初体験”。そんな中で彼に声を掛けてきた中年男性トーマス・バトンこそが、自分を捨てた実の父親とは、まだ知る由もなかった。 クイニーやデイジーに別れを告げ、マイク船長と外洋に出たベンジャミン。様々な国を回り、人妻のエリザベスと恋に落ちる。 しかし太平洋戦争が勃発。恋は終わり、ベンジャミンは、戦いの海に向かう。船長や仲間たちは戦死するも、彼はひとり帰還する。 美しく成長し、ニューヨークでモダンバレエのダンサーとして活躍するデイジーとの再会。彼女に誘惑されたベンジャミンだったが、男女の仲になることを拒む。その後も再会を重ねる2人。お互いが大切な存在でありながらも、それぞれ人生で直面していることが異なり、想いはすれ違い続ける…。 一方でベンジャミンは、重病で死期を目前にしたトーマス・バトンから、実の父だと明かされる。一旦は拒絶するも、父の最期の瞬間には、優しく寄り添うのだった。 1962年のベンジャミンとデイジー、お互いが人生の中間地点を迎えた頃の再会。機が熟したように2人は結ばれ、デイジーは女児を産む。しかし、ベンジャミンは悩む。この後も若返りが進むであろう自分に、“父親”になる資格などあるのか!? そして彼は、愛するデイジーと1歳になった娘の前から、姿を消す…。 ***** フィッツジェラルドの原作からは、主役と骨子だけを頂戴した形となった本作。ほぼオリジナルの設定とストーリーで構成される。 映画の冒頭に盛り込まれるのは、第一次世界大戦で息子を失った、盲目の時計職人のエピソード。彼はニュー・オリンズの駅向けに、針が逆回転する仕様の巨大時計を作り上げるのだが、これには時間を戻し、息子を甦らせたいという、切なる願いが籠められていた…。そんな創作寓話でわかる通り、エリック・ロスは、原作を意欲的に改変している。 ロスはアカデミー賞脚色賞を受賞した自らの代表作、『フォレスト・ガンプ/一期一会』(94)で成功した、主人公の語りによるフラッシュバックで物語を構成していく手法を、本作で援用。ガンプのモノローグの代わりに、ベンジャミンの日記を用いた。 フィンチャーはこの手法に、いたく惹きつけられた。と同時に、2003年に父をがんで亡くした経験と、母デイジーを看取る娘の描写が、シンクロしたという。 90年代の最初のオファーの時、ロビン・スウィコードの脚本を読んだフィンチャーは、「これはラブ・ストーリーだ」と受け止めた。しかし改めてオファーを受け、エリック・ロスの脚本に対峙すると、考えが改まった。「これはラブ・ストーリーだが、実際は死についての物語であり、人生のはかなさをテーマにしている…」と。 原作の舞台はボルチモアだったが、工事のラッシュだったり、フィンチャーの望むような海岸線がなかったりで、ロケ地の変更を余儀なくされた。そこでニュー・オリンズが提案された際、フィンチャーのリアクションは、「そんなのダメだ!ばからしい」というものだった。 しかし現地の写真を見ていく内に、この街が持つ「美しさと、少し恐ろしい雰囲気」に、魅了される自分に気付く。こうしてロケ地が、決まった。 ところが撮影開始前の2005年8月、超巨大ハリケーンのカトリーナがニュー・オリンズを襲い、甚大な被害が生じる。果して予定通りに撮影できるのか?プロデューサーたちは危ぶんだが、ハリケーンの2日後、ニュー・オリンズ市から電話が入った。それは、計画通りに撮影を進めて欲しいとのリクエストだった。 ベンジャミン・バトン役に決まったのは、“ブラピ”ことブラッド・ピット。フィンチャーとは、『セブン』(95)『ファイト・クラブ』(99)に続く、3度目の組合せである。 ピットとフィンチャーは随時、複数のプロジェクトについて話し合いを行う仲。話題に上る中では、「ベンジャミン・バトン」は、最も実現性が薄い企画だと、ピットは考えていた。 しかしフィンチャーに加えて、エリック・ロスらと濃い話し合いをしていく内に、「この人たちと一緒にいるという目的のためだけでも」、この企画をやる価値があると思うようになっていった。トドメは、フィンチャーのこんな言い回し。「この映画を、お互いに頼り合う話にしてはならない。そうではなく、人が成長していく物語なんだ」。ピットは「とても美しい」表現だと感じ入った。 80歳で生まれてくるベンジャミンの、老年期の撮影はどうするか?老いているベンジャミンを演じた何人もの俳優の顔に、特殊メイクをしたブラピの顔を貼り付けるという手法を採った。ピットの顔の動きをスキャンしてコンピューター上に再現。それから、口や表情の動きとピットの台詞をシンクロさせてから、実写のシークエンスに移植したのである。 因みに撮影中のピットは、大体午前3時頃に起床。コーヒーを飲みつつ特殊メイクを行った後、丸1日撮影。それが終わると、また1時間掛けてメイクを落とすという繰り返しだった。眠たくても、椅子で寝るしかなかったという。 ベンジャミンの生涯を通じてのソウルメイトであり、恋人にもなる女性デイジー。その名は、同じ作者の「グレート・ギャツビー」のヒロインから取られている。このアイディアは、エリック・ロスがリライトする前の。ロビン・スウィコード脚本からあったものだ。 演じるは、ブラピとの共演は、『バベル』(2006)での夫婦役以来2度目となる、ケイト・ブランシェット。実はフィンチャーは、『エリザベス』(98)で彼女の演技を見て以来、彼女のことが頭から離れず、念願のオファーであった。 10代から86歳まで演じるブランシェットの、特殊メイクに掛かる時間は、短くても4時間。長い時には、8時間ほども掛かったという。また6歳からの子ども時代に関しても、声はブランシェットが吹き替えているというから、驚きである。 ベンジャミンがデイジーと娘の元を去って20年ほど後、少年の姿で認知症となるも、所持品から身元がわかり、昔育った老人施設に引き取られる。連絡を貰ったデイジーも、施設に入居。彼の面倒を見ることにする。 こうして迎えるベンジャミンとデイジーの物語の終幕近く、かつての恋人が誰かもわからない、よちよち歩きの幼児となってしまったベンジャミンは、老いたデイジーと手をつなぎ、散歩をしている最中、突然立ち止まって彼女の手を引っ張る。彼はキスをせがみ、それが終わるとまた歩き始める。 この2人の仕草は、指示などしたわけではないが、まさにベンジャミンとデイジーの長きに渡る歴史を表しているかのようだった。それをカメラに収められたのは、まさに映画の神が微笑んだかにも思える、“偶然”だったという。 そして赤ん坊に戻ったベンジャミンは、デイジーに抱かれながら、息を引き取る…。 フィンチャーは準備から5年もの歳月を掛かった本作の完成が近づいた時、「これは自分でも、ブルーレイで所有したい映画だな」と思ったという。 パラマウント、ワーナー・ブラザースという2つのメジャースタジオの協力を得て、1億5,000万㌦以上に及ぶ、巨額の製作費を投じた本作。刺激的な事件やエキセントリックな人物を扱ってきた、それまでのフィンチャーのフィルモグラフィーを考えると、異色の作品となった。 人生の考察を行うようなその内容には、賛否両論が沸き起こったが、その年度のアカデミー賞では、最多の13部門にノミネート。フィンチャーは初めて“監督賞”の候補となった。 しかしこの年は、ダニー・ボイル監督の『スラムドッグ$ミリオネア』が、作品賞、監督賞を含む8部門を搔っ攫う。また本作の演技で“主演男優賞”候補だったブラッド・ピットも、『ミルク』で実在のゲイの運動家で政治家のハーヴェイ・ミルクを演じたショーン・ペンに敗れる 最終的には、美術賞、メイクアップ賞、視覚効果賞という、コレが獲らなきゃさすがに嘘だという受賞だけに止まった。しかし、限られた人生に於ける“一期一会”を描いた本作の普遍的な感動は、いま尚色褪せないように思える。■ 『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』© Paramount Pictures Corporation and Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2020.07.28
セックスと残酷描写満載で南部の醜い現実を叩きつけようとした“呪われた映画”
今回は『マンディンゴ』(75年)という凄まじい映画を紹介します。マンディンゴとは、南北戦争前のアメリカ南部で、白人たちが最高の黒人奴隷としていた種族というか“血統”です。 これはアメリカ映画史上最も強烈に奴隷制度を描いた映画です。公開当時には大ヒットしたんですが、映画評論家やマスコミから徹底的に叩かれ、DVDも長い間、発売されませんでした。それほど呪われた映画です。 映画は南部ルイジアナ州の“人間牧場”が舞台です。アメリカはずっと黒人奴隷を外国から輸入してたんですが、それが禁止されてから、奴隷をアメリカ国内で取引・売買するようになりました。そこでマクスウェル家の当主ウォーレン(ジェームズ・メイソン) は、黒人奴隷たちを交配して繁殖させ、出来た子供を売ることで莫大な利益を得ています。 また、奴隷の持ち主たちは黒人女性を愛人にしていましたが、彼らの奥さんには隠してませんでした。しかも、 奴隷との間に生まれた子も平気で奴隷 として売っていたんです。 なぜなら、南部の白人たちは、黒人制度を正当化するために“黒人には魂 がない”と信じていました。そうしないと、「すべての人は平等である」と書かれた聖書に反してしまうからです。南部の人は黒人を人間と思っていなかったので、普通の医者ではなく獣医にみせていました。 しかしマックスウェル家の息子ハモンド(ペリー・キング)はそれが間違っていることに気づいていきます。きっかけは 奴隷の黒人女性エレン(ブレンダ・サイクス)を愛したこと。それに、マ ンディンゴの若者、ミード(ケン・ノートン)と友情を結んだからなんです。しかし、白人の妻(スーザン・ジョージ) がミードの子を妊娠して......。 原作はベストセラーでした。でもハリウッドではだれも映画化しようとせず、イタリアの大プロデューサー、デ ィノ・デ・ラウレンティスが製作しま した。彼は製作するときに“仮想敵” を掲げていました。『風と共に去りぬ』(39年)です。南部の奴隷農園をロマンチックに美化した名作映画に、醜い現実を叩きつけようとしたのです。 この番組では巨匠たちの“黒歴史” 映画を積極的に紹介してるんですが、本作もその1本。監督はリチャード・ フライシャー。『海底二万哩』(54年)、『ドリトル先生不思議な旅』(67年)、『トラ・トラ・トラ!』(70年) などを作ってきた天才職人です。彼は、「今までの南部映画はヌルすぎる。俺はこの映画で真実を全部ぶちまける」と考え、セックスと残酷描写満載の『マンディンゴ』を撮り、世界中で大当たりしました。 でも、「アメリカの恥部をさらした」 と言われ、『マンディンゴ』は長い間、「なかったこと」にされてきましたが、 90年代、あのクエンティン・タラン ティーノが「『マンディンゴ』は傑作 だ!」と言ったことでDVDが発売され、再評価されました。 そしてタランティーノが『マンディンゴ』へのオマージュとして撮ったのが『ジャンゴ繋がれざる者』です。 というわけで南部の真実を描きすぎて呪われた傑作『マンディンゴ』、御覧ください! (談/町山智浩) MORE★INFO.●原作の『マンディンゴ』(1957年/河出書房)は、本国で450万部を超えるベストセラーで、1961年には舞台劇化もされている。農園から名前を取った原作の“ファルコンハースト”シリーズは全部で15作もある。●父ウォーレン役は最初チャールトン・ヘストンにオファーされたが断られ、英国人俳優ジェームズ・メイソンが演じた。彼は後年、「扶養手当を支払う ために映画に出ただけだ」とインタビューで語っている。●息子ハモンド役は、オファーされたボーとジェフのブリッジス兄弟、ティモシー・ボトムズ、ジャン・マイケル・ヴィンセントらに次々と断られ、ペリー・キングに。●シルヴェスター・スタローンがエキストラ出演している。●映画から15年後を描いた続編に『ドラム』(76年/監:スティーヴ・カーヴァー)がある。 (C) 1974 STUDIOCANAL
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COLUMN/コラム2021.10.01
悲壮にして喜劇。コーエン兄弟映画としての完成形『ファーゴ』
◆不器用な誘拐犯罪が誘引するユーモアと暴力 『ブラッド・シンプル』(84)『赤ちゃん泥棒』(87)『ミラーズ・クロッシング』(90)そして『未来は今』(94)など、異彩を放つノワールジャンルやオフビートコメディを監督してきた兄弟監督のジョエル&イーサン・コーエンは、本作『ファーゴ』(96)で会心の傑作をモノにした。この異様なバランス感覚のもとで調律された犯罪サスペンスは、通常の同ジャンルのものとは異なる映画体験を観る者に与える。 車のセールスマン、ジェリー・ランディガード(ウィリアム・H・メイシー)は多額の借金を抱えていた。そこで彼はふたりの誘拐犯(スティーブ・ブシェミ、ピーター・ストーメア)をやとって妻を誘拐し、裕福な義父ウェイド(ハーヴ・プレスネル)に身代金を要求することで問題を解決しようとしたのだ。 ところが彼らの不器用な計画は、すべてが裏目に出てしまう。特に二人が行きがかりでパトロール中の警官と目撃者を殺害したことから、事態は深刻な問題へと発展。それらの殺人事件が妊娠中の女性警察署長マージ・ガンダーソン(フランシス・マクドーマンド)の知るところとなり、優秀な彼女は冷静に解決へと導いていく。 映画は冒頭「本作は1987年にミネソタ州で起こった実話に基づいているが、生存者への希望から名前を変更しており、それ以外は起こったとおりに正確に語られている」というキャプションから始まる。本当はコーエン兄弟がオリジナルにまとめたストーリーで、それは地味に始まる作品にインパクトを与えるためだと二人は証言している。しかしこのハッタリの利いた冒頭文が、観る者の物語に対する構えをもたらし、特別な感情を増幅させるのだ。またクランクインからしばらくの間、キャストにも脚本が史実のアダプトだと思い込ませており、俳優の演技に真実味を持たせることに成功している。 なにより『ファーゴ』は劇中の事態が悪くなっていくにつれ、逆行して映画としての優秀性を放ち始める。派手ではないが、寒気をもよおす悲壮さと呆れるような滑稽さで充ち満ち、コーエン兄弟の演出的意匠や独自の視覚スタイルは、それらを合理的に引き立てていく。監督自身の出身地である北西部北部のノースダコタ州とミネソタ州に焦点を合わせ、独特の土地柄を活かした人間性や生活感をコントラストとし、それがユーモアのひとつとして機能する。特に現地民の発するミネソタ訛りは、映画に妙なリズムの狂いと調子のはずれた雰囲気を醸し出させ、本作独自の濃厚なカラーとなっている。 ◆名匠ロジャー・ディーキンスの撮影スタイル また『ファーゴ』の作品的特徴として、本作のシネマトグラファーであるロジャー・ディーキンス(『ブレードランナー 2049』(17)『1917 命をかけた伝令』(20)で2度の米アカデミー賞撮影賞を受賞)による撮影の取り組みが瞠目に値する。それまではコーエン兄弟のパートナー的存在として、バリー・ソネンフェルドが指導していたが、彼が『アダムス・ファミリー』(91)を機に監督業へと移行し、新たにディーキンスに白羽の矢が立ったのだ。 結果、キャリアの初期は機動性を重視したコーエン兄弟作品のカメラモーションは、スタイルをトーンダウンさせ、より観察的で定点的なアプローチを取る方向へと移行。雪と灰色の空に満ちたワイドショットやロングショットを多用し、長く拡がりが構成された白色のフレームを構築。その他あらゆる視覚テクニックをクリエイティブに使用し、劇中において特定の事象に注意を向けさせる画作りが徹底された。 『ファーゴ』はインデペンデント作品らしい限られた予算の中で、小さなバスルームのセットを除き、ミネソタとノースダコタ州で実際に使われている施設や場所を使って撮影されている。窓から射し込む外光を利用したり、既存の照明を増強するなど撮影は効率的におこなわれ、それが同作のリアルな外観へとつながっている。 ところが1995年の冬におこなわれた屋外撮影では、ここ100年間で2番目に気温の高い暖冬の影響を受け、雪を製造機で偽造する必要に迫られた。他にも氷点下におけるカメラ機材の問題など、ロケならではの困難とも格闘している。 だがその甲斐あって、コーエン兄弟は最初の『ブラッドシンプル』以来、ダークなユーモアと妥協のない凄惨な暴力とを融合させるスタイルに焦点を合わせ、それを本作において見事なまでに確立させた。この感覚は米アカデミー賞作品賞を筆頭に当時の賞レースを総ナメした『ノーカントリー』(07)で認められることとなる。 もちろん『ファーゴ』自体も商業的な成功と評論家の高い評価を得た。第69回米アカデミー賞では最優秀作品賞や最優秀監督賞を含む7つのノミネートを受け、コーエン兄弟はオリジナル脚本賞を、マージを演じたフランシス・マクドーマンドは最優秀女優賞を受賞。そして後年になり、米国の放送映画批評家協会(Broadcast Film Critics Association)が1990年代の最優秀映画を選出する投票をおこなったとき、同作は堂々の第6位に選ばれている。 1位 『シンドラーのリスト』(93 監督/スティーブン・スピルバーグ) 2位 『プライベート・ライアン』(98 監督/スティーブン・スピルバーグ) 3位 『L.A.コンフィデンシャル』(97 監督/カーティス・ハンソン) 4位 『フォレスト・ガンプ/一期一会』(94 監督/ロバート・ゼメキス) 5位 『グッドフェローズ』(90 監督/マーティン・スコセッシ) 6位 『ファーゴ』(96 監督/ジョエル・コーエン) 7位 『羊たちの沈黙』(91 監督/ジョナサン・デミ) 8位 『ショーシャンクの空に』(94 監督/フランク・ダラボン) 9位 『パルプ・フィクション』(94 監督/クエンティン・タランティーノ) 10位 『許されざる者』(92 監督/クリント・イーストウッド) ◆余波ーテレビドラマ版『ファーゴ』への発展 作品が初公開されてから、すでに25年の月日が経ち、この『ファーゴ』をテレビシリーズで認識している人も多いだろう。 シーズン5まで展開したこのテレビ版『FARGO/ファーゴ』は、68ページの企画用プロットがコーエン兄弟の目にとまり、すぐにエグゼクティブ・プロデューサーとして契約するといったミラクルな経緯を持つ。その出来はジョエルとイーサンが「読んでいて不気味な感じがした」というほど切実なものだったのだ。原案と脚本を手がけたノア・ホーリーは映画と同様、現実に思わせそれを越境した奇異なストーリーを開発したコーエン兄弟に賛辞を惜しまない。「コーエン兄弟は映画のルールにこだわらなかった。だから私たちはテレビ番組のルールにこだわる必要はなかったんだ」(*) 映画版を主旨よく拡張させたバージョンとして、接する機会があれば観てほしい副産物だ。■ 『ファーゴ』© 1996 ORION PICTURES CORPORATION. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2022.11.09
ジョン・マルコヴィッチしか考えられなかった…。“カルト映画”の傑作『マルコヴィッチの穴』
本作『マルコヴィッチの穴』(1999)の原題は、“Being John Malkovich”。当代の名優とも怪優とも評される、ジョン・マルコヴィッチがタイトルロールを…というか、マルコヴィッチ自身を演じる。 日本ではアメリカから遅れること、ちょうど1年。2000年9月の公開となった。私はその頃、TBSラジオで「伊集院光/日曜日の秘密基地」という番組の構成を担当していたが、パーソナリティの伊集院氏がこの作品のことを、生放送前後の打合せや雑談などで、よく話題にしていたことを思い出す。かなりのお気に入りで、翌10月から始まった新コーナーに、「ヒミツキッチの穴」というタイトルを付けたほどだった。「ジョン・マルコヴィッチってのが、良いんだよな~」と、伊集院氏は言っていた。そして、「日本の俳優でやるとしたら、誰なんだろう?“大地康雄の穴”とかになるのかな」とも。 この例え、当時個人的には「絶妙」だと思った。今となっては、まあわかりにくいかも知れないが…。 私的にはそんな思い出がある『マルコヴィッチの穴』とは、どんな作品か?まずはストーリーを紹介しよう。 ***** 才能がありながらも認められない、人形使いのグレイグ(演:ジョン・キューザック)は、妻のロッテ(演:キャメロン・ディアス)から言われ、やむなく定職を求める。 新聞の求人欄から彼が見付けたのは、小さな会社の文書整理係。そのオフィスは、ビルのエレベーターの緊急停止ボタンを押してから、ドアをバールでこじ開けないと降りられない、7と1/2階に在った。そしてそこは、かがまないと歩けないほど天井が低い、奇妙なフロアーだった。 書類の整理に勤しむグレイグは、ある日書類棚の裏側に、小さなドアがあるのを見付ける。興味本位でドアを開け、その中の穴に潜り込むと、突然奥へと吸い込まれる。 気付くとグレイグは、著名な俳優ジョン・マルコヴィッチの脳内へと入り、彼になっていった。しかし15分経つとグレッグに戻って、近くの高速道路の脇の草っ原へと放り出される。 興奮した彼は、同じフロアーの別の会社のOLで、一目惚れしながらも相手にされなかったマキシン(演:キャスリーン・キーナー)に、この秘密を話す。マルコヴィッチ自体を知らなかった彼女だが、この体験=穴に入ってマルコヴィッチに15分間なる=を、1回200㌦でセールスすることを提案。グレイグと共にビジネスを始めると、深夜の7と1/2階には、行列が出来るようになる。 しかしこれはまだ、グレイグ&ロッテ夫妻とマキシーン、そして俳優ジョン・マルコヴィッチを巡る、不可思議な物語の入口に過ぎなかった…。 ****** ジョン・マルコヴィッチ。1953年12月、アメリカ・イリノイ州生まれで、間もなく69歳になる。『マルコヴィッチの穴』の頃は、40代半ばといったところ。 若き日に、仲間のゲイリー・シニーズらと立ち上げた劇団で評判を取り、やがてブロードウェイに進出。『True West』や『セールスマンの死』などに出演し、オビー賞など数々の賞を手にした。 映画初出演は、ロバート・ベントン監督の『プレイス・イン・ザ・ハート』(84)。主演のサリー・フィールドに2度目のオスカーをもたらしたこの作品で、盲目の下宿人を演じたマルコヴィッチは、いきなりアカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。 以降は、主役から脇役まで幅広い役柄で、数多くの作品に出演。悪役やサイコパス役に定評があり、またヨーロッパのアート作品にも、度々出演している。 演技も風貌も、いわゆる「クセの強い」俳優であるが、プライベートでの言動や行動も、そのイメージを裏付ける。今ではその発言自体を否定しているが、「一般大衆に認識されているものはクソだ。彼らの考えにも吐き気がする。映画は金のためだけにやっている」などと、言い放ったことがある。 また、ニューヨークの街角で絡んできたホームレスに激怒し、大型のボウイナイフで脅したり、オーダーメードのシャツの出来上がりが遅れたテーラーに怒鳴り込んだり、バスが停車しなかったことに腹を立て、窓を叩き割る等々の、暴力的な振舞いが度々伝えられた。 その一方で、映画デビュー作の共演者サリー・フィールドが、「ただただ彼を敬愛している」と言うのをはじめ、共演者たちの多くからは称賛されている。初めてブロードウェイの舞台に立った『セールスマンの死』の共演者である名優ダスティン・ホフマンは、「彼との仕事は、私のキャリアの中でも貴重な経験だった」としている。 そんなマルコヴィッチをネタにした、摩訶不思議な本作のストーリーを書いたのは、チャーリー・カウフマンという男。それまでTVのシットコムの脚本を生業としていた彼にとっては、映画化に至った、初の長編脚本である。 本作の脚本は、「特に戦略を持たずに書き始めた」ということで、最初は「既婚者の男が恋をする」というアイディアだけだった。そこに後から、「穴を通って別人の脳内に入る」という発想が加わって、他者になりすまして名声を得たり、生き長らえようとする者たちや、逆にそうした者たちに自由を奪われて、己を失っていく者が登場する物語になったのである。『マルコヴィッチの穴』は、誰が観ても、「アイデンティティがテーマ」の作品だと、理解される。しかしカウフマンが書き始めた当初は、そんなことは考えてもいなかったわけである。 脳内に入られる人物に関しては、「マルコヴィッチ以外に考えられなかった…」という。マルコヴィッチがブロードウェイの舞台に立った時のビデオを観て衝撃を受けたというカウフマン。曰く、「彼がステージに立つと目が離せない」ようになった。そして本作の物語を編んでいくに際して、「彼は不可知な存在で、作品にフィットすると思った」と語っている。「マルコヴィッチ以外に考えられなかった…」のは、その「微妙な知名度」も、ポイントだったように思われる。映画・演劇業界の周辺では、誰も知る実力の持ち主であるが、万人にとってのスーパースターというわけではない。本作の中でマキシンが、マルコヴィッチと聞いても、誰かわからなかったり、タクシーの運転手が、マルコヴィッチ本人がやってもいない役柄で「見た」と話しかけてきたりするシーンがわざわざ設けられていることからも、作り手のそうした意図が、読み取れる。 因みにマルコヴィッチ自身は8歳の頃、“トニー”という名のもうひとりの自分を作り出していたという。その“トニー”とは、クロアチア系の父親とスコットランド及びドイツ系の母親から生まれたマルコヴィッチとは違って、スリムなイタリア人。至極人当たりがよく、首にスカーフを巻くなど、おしゃれで粋なキャラだった。 マルコヴィッチが“トニー”になっている時は、大抵ひとりぼっちだった。しかしある時はなりきったまま、野球の試合でピッチャーマウンドに上がったこともあったという。 そのことに関してマルコヴィッチは、「…たぶん多くの人が今とは別の人生を送りたいと願っているだろう…」と語っている。カウフマンが執筆当時、そんなことまで知っていたとは思えないが、そうした意味でも、本作の題材にマルコヴィッチをフィーチャーしたのは、正解だったかも知れない。役柄的には、逆の立場であるが…。 しかし、カウフマンの書いた『マルコヴィッチの穴』の脚本は、業界内で非常に評判になりながらも、なかなか映画化には至らなかった。内容が特殊且つ、エッジが立ち過ぎていたからだろう。 ジョン・マルコヴィッチ本人も、その脚本の完成度には唸ったものの、こんな形で俎上に載せられるのには臆したか、「自分を題材にしないことを条件に監督やプロデューサーを引き受ける」とカウフマンに提案。話がまとまらなかった。 もはや映画化は、不可能か?カウフマンも諦めかかった頃に、本作の監督に名乗りを上げる者が現れる。それが他ならぬ、スパイク・ジョーンズだった。 当時ジョーンズは、ビースティ・ボーイズやビョーク、ダフト・パンクなど数多の人気ミュージシャンのMVを演出した他、CMでも国際的な賞を受賞。写真家としても成功を収め、まさに時代の寵児だった。映画監督としては、短編を何本か手掛けて、やはり好評を博しており、長編デビューの機会を窺っていた。 そんな彼が「…とにかく、脚本が本当に良かった」という理由で、『マルコヴィッチの穴』に挑むことになったのである。当時の彼の妻ソフィア・コッポラの父、『ゴッドファーザー』シリーズなどのフランシス・フォード・コッポラ監督の後押しもあったと言われる。 その後ジョーンズとカウフマンで、映画化に向けての作業が進められる中で、件の経緯もあったせいか、ホントに“ジョン・マルコヴィッチ”が適切であるかどうか、2人の間で迷いが生じることもあった。このタイミングだったかどうか定かではないが、トム・クルーズの名が挙がったりもしたという。 しかし結局は、他の人物では満足できず、マルコヴィッチで行きたいということになった。マルコヴィッチの方も、スパイク・ジョーンズという希有な才能に惹かれたということか、「…あまりに途方もなくとんでもないストーリーだから、自分の目で見届けたくなった…」と、出演がOKになったのである。 完成した『マルコヴィッチの穴』は、「ヴェネツィア国際映画祭」で国際批評家連盟賞を受賞したのをはじめ、内外の映画祭や映画賞を席捲。一般公開と共に“カルトムービー”として人気を博し、アカデミー賞でも、監督賞、脚本賞、助演女優賞の3部門でノミネートされた。 この時はオスカーを逃したカウフマンとジョーンズだったが、2人とも本作が高く評価されたことから、監督、脚本家、プロデューサーとして地位を築いていくことになる。後にカウフマンは『エターナル・サンシャイン』(04)で、ジョーンズは『her/世界でひとつの彼女』(13)で、それぞれアカデミー賞脚本賞を受賞している。 因みにジョン・マルコヴィッチに関しては2010年、その軌跡を振り返る試みを、映画批評サイトの「Rotten Tomatoes」が実施。「ジョン・マルコヴィッチの傑作映画」という、ベスト10を発表した。 その際、第1位に輝いたのは、デビュー作の『プレイス・イン・ザ・ハート』。そこに、ポルトガルの巨匠マノエル・ド・オリヴェイラ監督の『家路』(01)、盟友ゲイニー・シニーズの監督・主演作『二十日鼠と人間』(92)等々が続く。そんな中で本作『マルコヴィッチの穴』(99)は、堂々(!?)第6位にランクインしている。 しかしこのベスト10以上に、本作のインパクトが、大きく残っていることを感じさせる出来事が、2012年にあった。それはマルコヴィッチが出演した、iPhone 4SのCM。この中で「マルコヴィッチ、マルコヴィッチ、マルコヴィッチ…」というセリフが繰り返されるのだが、これは『マルコヴィッチの穴』に登場する、最もヴィジュアルイメージが強烈なシーンを、明らかに模したもの。 ではその元ネタとなったのは、果してどんな場面なのか?それはこれから観る方のために、この稿では伏せておこう。 「マルコヴィッチ、マルコヴィッチ、マルコヴィッチ…」■ 『マルコヴィッチの穴』© 1999 Universal City Studios Productions LLLP. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2023.12.04
元祖『ミッドサマー』と呼ぶべきカルト映画の傑作『ウィッカーマン』
英国ホラーの衰退期に誕生した異色作 海外では「ホラー映画の『市民ケーン』」とも呼ばれている伝説的なカルト映画である。タイトルのウィッカーマンとは、古代ケルトの宗教・ドルイド教の生贄の儀式に使われた木製の檻のこと。それは巨大な人間の形をしており、中に生贄の動物や人間を入れたまま火をつけて燃やされたという。いわゆる人身御供というやつだ。ただし、本作の舞台は現代のイギリス。行方不明者の捜索のため田舎の警察官が小さな島を訪れたところ、島民たちはキリスト教でなくドルイド教を今なお信仰しており、やがて余所者である警察官は恐るべき伝統行事の渦中へと呑み込まれていく。 そう、これぞ元祖『ミッドサマー』(’19)!アリ・アスター監督が本作から影響を受けたのかどうかは定かでないものの、しかし『ホステル』(’05)シリーズのイーライ・ロスや『ウーマン・イン・ブラック 亡霊の館』(’12)のジェームズ・ワトキンス、『ハイ・ライズ』(’15)のベン・ホイートリーなど本作の熱烈なファンを公言する映画監督は少なくないし、結果としてオリジナルには遠く及ばなかったものの、ニコラス・ケイジ主演でハリウッド・リメイクされたこともある。恐らく、全く知らなかったということはなかろう。 本作の企画を発案したのは、ヒッチコック監督の『フレンジー』(’72)や自ら書いた舞台劇を映画化した『探偵スルース』(’72)、『オリエント急行殺人事件』(’74)に始まるアガサ・クリスティ・シリーズでも知られるイギリスの大物脚本家アンソニー・シェファー。実はもともと大のホラー映画ファンだったという彼は、ハマー・プロ作品のように吸血鬼やミイラ男やゾンビが出てくる古典的な怪奇映画ではなく、もっと知的で洗練されたモダン・ホラーを作ってみたいと考え、当時映画会社ブリティッシュ・ライオンの幹部だったピーター・スネルに相談したという。ちょうど当時は、『フランケンシュタインの逆襲』(’57)や『吸血鬼ドラキュラ』(’58)の大ヒットで火の付いた、英国ホラー映画ブームの勢いが急速に失われていった衰退期。ハマー・フィルムはエロス路線やサスペンス路線などを模索するが低迷し、アミカスやタイゴンもホラー映画からの脱却を試みるようになっていた。もはや古き良きゴシック・ホラーは通用しない。イギリスのホラー映画に新規路線が求められているのは明白だった。 そこでシェファーとスネルが辿り着いたのは古代宗教。イギリスではキリスト教が伝搬する以前にドルイド教が信仰されていた。しかし、ホラー映画に出てくる宗教といえばキリスト教ばかりである。これは題材として新しいだろう。そんな彼らが主演俳優として想定したのが、シェファーの友人でもあったホラー映画スター、クリストファー・リー。ハマー・プロの作品群によってホラー映画の帝王としての地位を確立したリーだが、しかしそれゆえにオファーされる仕事の幅も著しく狭められていた。いっそのこと長年に渡って培ってきたハマー・ホラーのイメージを返上し、もっとユニークな映画で興味深い役柄を演じてみたい。この切なる願いにはシェファーやスネルも大いに賛同し、リーをメインキャストに据えるという大前提で企画が進行することになったという。さらに、過去にシェファーとテレビ制作会社を共同経営していたこともあるロビン・ハーディ監督が加わり、およそ3年近くの歳月をかけて完成させたのが本作『ウィッカーマン』(’73)だったのである。 孤島に脈々と伝わる古代宗教と消えた少女の行方 スコットランド西岸のヘブリディーズ諸島。その中の小さな島サマーアイルに、本土からニール・ハウイ巡査部長(エドワード・ウッドワード)が訪れる。島に住む12歳の少女ローワン・モリソンが行方不明になったので探して欲しいと、ハウイ巡査部長宛てに匿名の捜索願が届いたのだ。サマーアイル島は領主であるサマーアイル卿(クリストファー・リー)が所有する私有地で、それを理由に島民たちはハウイ巡査部長の上陸を拒んだが、しかし彼は警察の捜査権を主張して強引に乗り込んでいく。ローワンの写真を見せても知らぬ存ぜぬを繰り返し、捜査に対して明らかに非協力的な島の人々。母親のメイ・モリソンも知らないのか?と詰め寄ると、渋々ながら島の住人であることを認めるが、しかし写真の少女はメイ・モリソンの娘じゃないと言い張る。 初っ端から島民たちの態度に不快感を覚えるハウイ巡査部長。島で唯一の郵便局を営むメイ・モリソンのもとを訪ね、娘ローワンの行方に心当たりがないのか問いただすが、しかし彼女もまた同じ答えを繰り返す。その子は私の娘なんかじゃないと。狐につままれたような心境で困惑を隠せないハウイ巡査部長。とりあえず島に留まって捜索を続けるため、地元の宿で小さな部屋を取るのだが、しかし1階のパブに集まる島民たちは酔っぱらって卑猥な歌を大合唱し、外へ散歩に出れば公園の暗がりで大勢の若い男女がセックスに興じ、部屋へ戻ると宿屋の主人マクレガー(リンゼイ・ケンプ)の娘ウィロー(ブリット・エクランド)が彼を誘惑する。敬虔なキリスト教徒で生真面目な禁欲主義者のハウイ巡査部長は、乱れ切った島民たちの倫理観に怒りを通り越して呆れてしまう。 翌朝、ローワンの通っていた学校へ聞き取り調査に向かうハウイ巡査部長。学校では五月祭の準備が進められていたのだが、祭りで使用されるメイポールを男根崇拝の象徴だと、女教師ローズ(ダイアン・シレント)が生徒たちに教える光景を見て憤慨する。そんな汚らわしいことを子供に教えるとは何事だ!というわけだ。しかも、生徒名簿にローワンの名前があるにも関わらず、教師も生徒もそんな子は知らないと白を切る。この島の住人は大人も子供も嘘つきばかりじゃないか!怒り心頭の巡査部長に対し、ようやく女教師ローズがローワンの存在を認めるも、しかしその行方については答えをはぐらかす。 こうなったら領主サマーアイル卿に問いただすしかなかろう。サマーアイル卿の邸宅に乗り込んでいったハウイ巡査部長。彼の到着を待ち受けていたサマーアイル卿は、島の住人たちが古代宗教を信仰していることを明かす。かつてこの島は食物の育たない不毛の地だったが、古代宗教の儀式を復活させたところ土地が豊かになり、リンゴの名産地として栄えるようになったのだという。現代のイギリスに異教徒の地が存在すると知って驚愕するハウイ巡査部長。やがて彼は、ローワンが昨年の五月祭で豊作を願う儀式の女王(メイクイーン)に選ばれていたこと、しかし結果的に昨年が過去に例のない凶作だったことを知り、彼女が神への生贄として殺されるのではないかと推測する。だから島民たちは終始一貫して嘘をついているのだろう。そう考えたハウイ巡査部長は、明日に控えた五月祭の儀式に潜入してローワンを救い出そうと考えるのだが…? 見る者の価値観や道徳観が問われるストーリーの本質 原作は作家デヴィッド・ピナーが’67年に発表したミステリー小説「Ritual」。ただし、そのまま映画化するには難しい内容だったため、警察官が捜査のため訪れた田舎で古代宗教の生贄の儀式が行われていた…という基本プロットを拝借しただけで、それ以外の設定やストーリーはほぼ本作のオリジナルだという。それゆえ、本編には原作クレジットがない。 アンソニー・シェファーの脚本が巧みなのは、同時代の社会トレンドや価値観の変化を物語の背景として随所に織り込みながら、見る者によって解釈や感想が大きく違ってくる作劇の妙であろう。当時は、’60年代末にアメリカで生まれた若者のカウンターカルチャーが世界へと広まった時代。ラブ&ピースにフリーセックス、反体制に反権力、自然への回帰にスピリチュアリズム。まさしくサマーアイル島の人々のライフスタイルそのものである。反対に主人公ハウイ巡査部長は、原理主義的なクリスチャンでガチガチに潔癖主義のモラリスト。そのうえ、警察権力を笠に着て島民のプライバシーを土足で踏み荒らす権威主義者だ。 なので、最初のうちは正義の味方である警察官が閉鎖的な島へ迷い込み、邪教信者の島民たちによって恐ろしい目に遭う話なのかと思っていると、だんだんとハウイ巡査部長の横柄な偽善者ぶりが鼻につくようになり、やがて気が付くと島民の方に肩入れしてしまうのだ。もちろん、そうじゃない観客もいることだろう。なので、見る者の価値観や道徳観によって受け止め方も大きく違ってくる。衝撃的なクライマックスも、人によっては恐怖よりもある種のカタルシスを強く覚えるはずだ。 また、本作の魅力を語るうえで外せないのが、ポール・ジョヴァンニによる劇中の挿入歌や伴奏スコア。なにしろ、もはや半ばミュージカル映画のようなものじゃないか?と思うくらい、本作では音楽が重要な役割を占めているのだ。ケルト音楽をベースにした牧歌的で美しいメロディは、それゆえにどこか不穏な空気を醸し出す。幾度となくCD化もされたサントラ盤アルバムはフォーク・ロック・ファンも必聴だ。 ちなみに、本作には大きく分けて3種類のバージョンが存在する。というのも、完成直後に製作会社のブリティッシュ・ライオンがEMIに買収され、プロデューサーのピーター・スネルがクビになってしまったのだ。解雇された映画会社重役の置き土産が、後継者によって杜撰な扱いを受けるのは業界アルアル。この手の映画に理解のあるアメリカのロジャー・コーマンに命運を託そうと、スネルはコーマンのもとへオリジナル編集版のフィルムを送付したが、しかし残念ながら配給契約は成立しなかった。結局、100分の本編はブリティッシュ・ライオンの指示で89分へと短縮。ハウイ巡査部長の人となりが分かる本土での仕事ぶりや生活ぶりを描いたシーンや、ブリット・エクランド扮する妖艶な美女ウィローが若者の筆おろしをするシーンなどが失われ、カットされたフィルムは廃棄されてしまったと言われる。 しかし、ロジャー・コーマンが保管していたオリジナル編集版フィルムを基に、ロビン・ハーディ監督自身が’79年に最も原型に近い99分バージョンを製作。これがディレクターズ・カット版として流通している。さらに、ハーヴァード大学のフィルム・アーカイブで本作の未公開バージョン・フィルムが発見され、それを基にした94分のファイナル・カット版も’13年に発表されている。今回、ザ・シネマで放送されるのは劇場公開時の89分バージョンだが、機会があれば是非、ディレクターズ・カット版やファイナル・カット版もチェックして頂きたい。本作が描かんとした文化対立的なテーマの本質を、より深く考察できるはずだ。■ 『ウィッカーマン』© 1973 STUDIOCANAL FILMS Ltd - All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2018.12.10
『コンタクト』と『コスモス(宇宙)』の間にあるもの(ネタバレあり)
■科学と信仰の融和をうながす高度なSF映画 1997年に公開された『コンタクト』は、我々が地球外知的生命体と接触したときに起こりうる事態に熟考を巡らせ、科学と信仰というテーマを尊重して扱ったハイブロウなSF映画だ(それはSFという言葉ですらも陳腐に感じさせる)。『2001年宇宙の旅』(1968)と同様、膨大な科学的根拠に基づく構築がなされ、このジャンルに知性を回復させている。その価値は公開から20年の間にスペースサイエンスが更新され、同テーマを受け継ぐ優れた後継作(『インターステラー』(2014)『メッセージ』(2016))があらわれようとも、まったく色褪せることはない。 ジョディ・フォスター演じるエリナー"エリー"・アロウェイは「我々は宇宙で一人ではない」という信念のもと、SETI(地球外知的生命体探査)計画を推進する電波天文学者。彼女は文明を持つエイリアンの存在に確信を抱いており、その実証を得るべく地球外からの信号をスキャンし、メッセージの受信を待機している。 そしてある日、ついに彼女は26万光年彼方のヴェガから発信される素数信号をキャッチし、信号は解読へと運び込まれていく。電波の中には惑星間航行を可能にするポッドの設計図が仕込まれており、それを建造してエイリアンとのコンタクトを図ることになるのだ。だがこうした行為が、世界における科学と信仰の議論を活性化させていくのである。 ■カール・セーガン博士の信念 物語の最後、エリーは子ども時代からのクセだった膝をかかえて座る姿勢をやめ、足を伸ばしてグランドキャニオンの岩場に座っていることに観る者は気づかされるだろう。彼女のこのクセは幼少時代、父親の葬儀のときから兆候を見せている。つまり父の死は神のみぞ知る運命ではなく、過失なのだというエリーの宗教的懐疑論者としての立場を体現するものだ。プロローグでその座りかたをしなくなったということは、彼女の心境の変化を暗示している。 ポッドに乗り込んだエリーは知的生命体の存在を示す驚異的な体験によって、科学者としての合理性だけでなく神秘主義を受け容れていく。そして「真理を求める」という点において科学と信仰は共通なのだと、映画は両者の融和を唱えて終わるのである。 『コンタクト』の物語が美しいのは、こうして映画が広大な宇宙への探求や、宗教科学の論議といった大きな物語を、主人公の「自己探求」というミニマルな主題ヘと換言していく点にある。物語の冒頭、無限に拡がる宇宙が幼少時代のエリーの瞳へとシームレスに重なるシーンで、物語は先述の要素を早い段階から示しているが、それを布石として最後を締める円環構造がきわめて美しく、そして洗練されている。 なによりもこの「自己探求」は、原作者であるカール・セーガンが強く唱えていた信念でもある。自身が構成し進行を務めた宇宙科学ドキュメンタリー『コスモス(宇宙)』(1980)を筆頭に、メディアを通じて地球外知的生命体の推測にあらんかぎりの可能性を感じさせてくれた稀代の天文学者は、自身の原作小説をもとにしたこの映画にアドバイザーとして関わっている(セーガン博士は本作公開前の1996年に死去)。 『コスモス』は氏の天体的な理想や理論を拡げ、それを観ている視聴者に宇宙に対する目を見開かせたテレビ番組だ。恥ずかしながら少年時代の筆者もそのひとりだが、そうした種の人間にとって『コンタクト』は、エリーの「自己探求」を、より感動的なものとして捉えさせてくれる。 というのも、この番組の最終章となる「地球の運命」の中で、セーガン博士は地球外知的生命体の可能性について、 「宇宙では化学元素や量子力学の法則も共通であり、生物はその同じ法則のもとに生息しているはずだ」 と仮定し、生物構造や言語が異なる宇宙人のメッセージを解読する方法として、そこには科学という共通の言語があると雄弁に語っている。そして知性を持つ生命体の誕生を探求することは、ひいては地球人の存在を紐解くことへとつながるとセーガン博士は結ぶ。 すなわち知的文明を探す旅は、私たち自身を探す旅でもあるのだ、と——。 『コンタクト』は、このようにセーガン博士の原作を元にしながら、同時に氏の信念に基づく製作がなされ、偉大な天文学者へのあらん限りの賛辞にあふれている。ちなみに映画の最後にエリーが砂を手にするが、これは「宇宙への探求は、広大な砂場のたった一粒を探すようなもの」という『コスモス』の作中で幾度となく繰り返されたメッセージの暗喩だ。 ただ本作について語るとき、劇中に出てくる奇異な日本描写などの瑣末に目を奪われ、我が国ではいまひとつ肯定的な意見に乏しい印象がある。また同時期の公開作に『ロストワールド/ジュラシック・パーク』や『タイタニック』(1997)といった話題作が目白押しだったことから、これらの間に埋もれたようにも感じられ、正当な掘り起こしも浅いまま現在に至っている。加えて後年、本作の映画化初期プロジェクトに関わっていたジョージ・ミラー(『マッドマックス』シリーズ)が「わたしのやろうとしていたものよりもワーナーは安全な製作をとった」とする発言などもあり、風向きもいまひとつ良好とは言えない。なので、自分こそが本作最大の理解者であると主張するつもりは毛頭ないものの、ゼメキス版『コンタクト』の復権に少しでも貢献できればさいわいである。 ■他作に散見される『コンタクト』の影響 そんな『コンタクト』だが、個人的には経年をへて、その価値を実感することがある。それは本作を構成する要素が、後続作品にエッセンスとして流用されているところだ。 実近だと2016年に公開され、怪獣ゴジラをハードに再定義した傑作『シン・ゴジラ』にそれを見いだすことができる。たとえば同作の劇中、ゴジラの擁護を唱えるデモ団体が官邸前で反対派と対立するシーンは、『コンタクト』でVLA(超大型干渉電波望遠鏡群)に押し寄せる運動団体の描写や、ひいては科学者と宗教家の対立を彷彿とさせるものだし、矢口(長谷川博己)に会いに来た米国特使のカヨコ・パターソン(石原さとみ)が着替えをせずに横田基地に来たのだと告げ「ZARAはどこ?」とファッションブランドを訊ねるシーンは、同作で政府と顧問団との懇親パーティに出るため、エリーがコンスタンティン調査委員(アンジェラ・バセット)に「素敵なドレスを売っているブティックを知らない?」と訊ねるシチュエーションからの影響が指摘できる。 なにより受信電波から抽出された装置の設計図が、平面ではなく立体で構成されるものだったという設定は、ゴジラの構造レイヤーの解析表が立体によって解読がなされたところと瓜二つだ。それらをもって『シン・ゴジラ』が『コンタクト』からエッセンスを拝借したと主張するのは短絡的だが、数多くのクラシック映画からの引用が見られる『シン・ゴジラ』だけに、『コンタクト』もそれらのひとつとしてあるのを否定することはできない。 しかし、こうしたアイディアの共有はとりもなおさず同作の価値を立証するもので、むしろ『コンタクト』が他者に影響を及ぼす優れた作品だという論を補強するうえで心強い。庵野秀明総監督は、とりわけ強力な支援者として賛辞を贈りたい気分だ。『コンタクト』の劇中「わたしたちは孤独ではない」と唱えたエリーのように。◾︎ © Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2024.02.07
“1969年”という時代が生んだ、“アメリカン・ニューシネマ”の傑作『イージー・ライダー』
俳優ヘンリー・フォンダの息子としてこの世に生を授かった、ピーター・フォンダ(1940~2019)。幼少期に母が自殺したことなどから、父に対して長くわだかまりがあったと言われる。しかし姉のジェーン・フォンダと共に、名優と謳われた父と同じ“演技”の道へと進んだ。 彼が人気を得たのは、“B級映画の帝王”ロジャー・コーマンが製作・監督した、『ワイルド・エンジェル』(1966)の主演による。実在するバイクの暴走グループ“ヘルズ・エンジェルス”を描いたこの作品で、若者のアイコンとなったのだ。 その翌年=67年に主演したのが、同じくコーマン作品の『白昼の幻想』。こちらは合成麻薬である、“LSD”によるトリップを描いた内容である。自身その愛好者で、「アイデンティティの危機がLSDによって救われた」と語っていたピーターは、この作品の脚本を初めて読んだ時、「こいつはアメリカでこれまでに作られたなかの最高の作品になる!」と、叫んだという。 その脚本を書いたのは、当時は「売れない」俳優だった、ジャック・二コルソン(1937~ )。いつまでも芽が出ない役者業に見切りをつけて、本格的に脚本家としての道を歩んでいくべきかと、悩んでいた頃だった。 ニコルソンが自らの豊富な“LSD”体験をベースに描いた脚本の出来に、ピーターは感激。それまでは特に親しくしていたわけではない、二コルソンの家へと車を飛ばし、感謝の気持ちを伝えたという。 しかし実際に撮影され完成した作品は、ピーターにとっても二コルソンにとっても、大きな不満が残るものとなった。いかに「安く」「早く」「儲かる」作品を作るかを優先するコーマンの製作・監督では、脚本に書かれた想像力溢れるトリップのシーンなどが、どうしてもチープな作りとなってしまう。その上配給元の「AIP」の手も入って、ピーターやニコルソンのイメージとは、まったくかけ離れたものとなってしまった。 ピーターにとって良かったのは、コーマンに頼み込んで、この作品に脇役で出演していた、親友のデニス・ホッパー(1936~2010)に、一部演出を任せられたことだ。絵画や写真にも通じていたホッパーが撮った映像は、コーマンとは明らかに異質な、美しく詩的なイメージに溢れていた。 ピーターは以前から、ホッパーと組んでの“映画作り”を目論んでおり、『白昼の幻想』が、その試金石となった。これなら彼に、“監督”を任せられる! そして67年9月。『白昼の幻想』プロモーションのために滞在した、カナダ・トロントのホテルで、運命の瞬間が訪れる。 酒を煽り、睡眠薬も飲んで、ひょっとしたらマリファナも吸っていたのかも知れない。そんな状態のピーターだったが、サインを頼まれていた、出世作『ワイルド・エンジェル』のスチール写真が目に入った。それは1台のバイクに、ピーターと共演者が跨っているものだった。 ピーターは、閃いた。1台のバイクに2人ではなく、2台のオートバイそれぞれに、1人の男が乗っていたら…。「はぐれ者ふたりが、バイクでアメリカを横断していく現代の西部劇」だ! 映画のアイディアが浮かんで、ピーターが電話を掛けた相手は、ホッパーだった。「それは凄いじゃないか!」と言ったホッパーは、続けて「それで一体どうしようっていうんだい?」と尋ねた。 ピーターは、自分がプロデューサーをやるから、ホッパーに監督をやって欲しいと伝えた。その方が、金の節約にもなる。 そこから2人は、随時集まってはとことん話し合った。そして決めたことをどんどんテープに吹き込んでいった。 アイディアを煮詰めていく最中、ピーターは1ヶ月ほど、『世にも怪奇な物語』(68)出演のため、ヨーロッパへと向かう。その間ホッパーとのやり取りは、手紙となった。 ある日ピーターの撮影現場に、脚本家のテリー・サザーン(1924~95)が、陣中見舞いに現れた。サザーンはピーターから、この企画の話を聞いて、協力を申し出た。 そしてサザーンの思い付きから、映画のタイトルが決まる。元は「売春婦とデキてて、ヒモじゃないけど女と一緒に暮らしてる奴」を意味するスラングだという。それが、『イージー・ライダー』だった。 ***** コカインの密輸で大金を得たワイアット(演:ピーター・フォンダ)とビリー(演:デニス・ホッパー)は、フル改造したハーレーダビッドソンを駆って、カリフォルニアから旅立つ。マリファナを吸いながら、向かう目的地は、“謝肉祭”の行われるルイジアナ州ニューオーリンズ…。 ***** トムとホッパーは、プロットを書いた8頁のメモしかない状態で、映画の資金を出してくれる、スポンサー探しを始める。ピーターが当初アテにした「AIP」は、これまでに撮影現場の内外で度々トラブルを起こしてきたホッパーに恐れをなして、出資を断わった。 結局スポンサーとなったのは、当時TVシリーズ「ザ・モンキーズ」(66~68)で大当たりを取っていたプロデューサーの、バート・シュナイダー。37万5,000㌦の資金を提供してくれることとなった。 そして『イージー・ライダー』は、68年2月23日にクランク・イン。この日は、ピーターの28歳の誕生日だった。 まだ脚本は完成しておらず、撮影機材も揃ってない状態だったが、まずは1週間のロケを敢行。“謝肉祭”で盛り上がるニューオーリンズの町中を、ピーターとホッパーが、娼婦2人を連れて練り歩くシーンと、その4人で墓地へと出掛けて、LSDによるバッドトリップを経験するシーンの撮影を行った。 撮影は初日から、“初監督”のプレッシャーを抱えたホッパーのドラッグ乱用によって、波乱含み。当初決まっていた撮影監督は、この1週間だけでホッパーとの仕事に嫌気が差して、現場を去った。 こうしたトラブルの一方でホッパーは、LSDトリップのシーンで、監督としての非凡な才を遺憾なく発揮。ピーター本人の内面に眠っていた、自殺した母への想いなどを、引き出してみせた。 最初の1週間を終えると、ピーターは脚本を仕上げるために、ニューヨークへ。ホッパーは、残りのシーンのロケハンへと向かった。ホッパーに言わせると、ピーターとテリー・サザーンが、結局1行たりとも脚本を書けなかったため、最終的に脚本は自分1人で仕上げたということなのだが、この辺りは証言者によって内容に食い違いがあるので、定かではない。 ***** ワイアットとビリーは、長髪に髭という風体もあって、安モーテルからも宿泊拒否され、行く先々で野宿を余儀なくされる。 旅先で心優しき人々と出会ったり、ヒッピーのコミューンで、安らぎの一時を送ることもあった。しかしちょっとしたことで、監獄にぶち込まれてしまう。 その監獄で、アル中の弁護士ジョージ・ハンセン(演:ジャック・ニコルソン)と出会う。彼の口利きで釈放された2人は、旅に同行したいというハンセンを乗せ、アメリカ南部の奥深い地域までやって来るが…。 ***** 最初の1週間で降りた撮影監督の代役には、当時B級映画の撮影を数多くこなしていた、ハンガリー出身のラズロ・コヴァックスが決まった。しかしもう1人、慌てて代役を見つけなければならない者がいた。 ジョージ・ハンセン役には、当初リップ・トーンが決まっていた。しかしギャラや脚本の手直しなどで折り合いがつかず、ホッパーと大喧嘩になって、降板。 その代役として、プロデューサーのバート・シュナイダーが推したのが、奇しくもピーター・フォンダと『白昼の幻想』で意気投合した、ジャック・ニコルソン。シュナイダーが製作総指揮を務めた、『ザ・モンキーズ 恋の合言葉HEAD!』(68)で、ニコルソンが脚本を書き、出演もしていた縁だった。『イージー・ライダー』の撮影中、ワイアットとビリーに遭遇する人々は、実際に各ロケ地で集めた人々を軸に、キャスティングされていた。その方が、おかしな出で立ちのよそ者に対する警戒心や嫌悪、敵意など、生の感情が引き出せるという、ホッパーの計算があった。 ジョージ・ハンセン役にしても、その流れなのか、ホッパーはトーンの代役には、テキサス訛りのできる田舎臭い人間を考えていたという。そのためニコルソンの起用には、猛反対。しかし渋々使ってみたところ、彼の演技はホッパーが、「最高」と認めざるを得ないものだった。 因みにワイアット、ビリー、ジョージの3人で焚き火を囲んで、マリファナを吸うシーンで、ニコルソン演じるジョージは、初体験のマリファナが、徐々にきいてくるという設定。ところが本物のマリファナを使っているこのシーンでは、何度もリテイクがあったため、ニコルソンは実際にはマリファナが相当きいていながら、しらふの状態を演じざるを得なくなったという。 ジョージは結局、3人で野営しているところを、彼らを敵視した近隣の住民に襲われて、いち早く命を落としてしまう。その直前に焚き火に当たりながら、彼がワイアットとビリーに話した内容は、本作の中で屈指の名セリフとなった。「連中はあんたが象徴する自由を怖がってるんだ」「自由について話すことと、自由であることは、まったく別のことだ。……みんなが個人の自由についてしゃべるけど、自由な個人を見ると、たちまち怖くなるのさ」 そして彼は、「怖くなった」者たちに、命を奪われてしまうわけである。残された2人も、ワイアットの「俺たちは負けたんだ」のセリフの後に、映画史に残る、衝撃的な最期を迎えることになるわけだが…。 2週間半の撮影が、終了。そして1年ほどの編集期間を経て、作品は完成に至った。 2台のバイクが疾走するシーンには、かの有名なステッペンウルフの「ワイルドでいこう!= Born to Be Wild」をはじめ、必ず既成のロック・ミュージックが掛かるが、これは当時としては斬新なスタイル。それぞれの曲の歌詞が、映画の中の主人公たちの行動と結びつけられており、またホッパーによって、音楽と画面が合うように編集されていた。 本作は69年5月、「カンヌ国際映画祭」に出品されると、「新人監督による作品賞」「国際エバンジェリ委員会映画賞」が贈られた。 そして7月14日。ニューヨークでの先行公開を皮切りに、大ヒットを記録。最終的に6,000万㌦以上の収益を上げた。これはそれまでのハリウッドの歴史上では、予算に対しての利益率が、他にないほど頭抜けた興行成績だった。 ヘンリー・フォンダはこの偉業に対して、「畏敬の念をおぼえる」と、プロデューサー兼主演を務めた、我が子を称賛。ピーター・フォンダは、長い間欲してやまなかったものを、遂に手にすることができたのだ。 デニス・ホッパーは、ハリウッド最注目の新人監督となって、本作以前に取り掛かろうとして頓挫していた、『ラストムービー』(71)の企画を本格的に動かすことに。これが彼のキャリアに長き低迷をもたらすことになるのだが、それはまた別の話。 一旦は俳優廃業も考えていたジャック・ニコルソンは、まさにこの作品を契機に、後にはアカデミー賞を3度受賞する、ハリウッド屈指の名優に育っていく。 作品自体は、いわゆる“アメリカン・ニューシネマ”の1本として、映画史にその名を刻み、1998年には、「アメリカ国立フィルム登録簿」に永久保存登録が決まった。 ピーターとホッパー、ニコルソンの3人が揃い踏みする“続編”的作品が、幾度か企画された。しかしその内2人が鬼籍に入り、1人が引退状態の今、もはやあり得ないお話である。 “リメイク”が進められているというニュースもあったが、1969年という時代にあの3人だったからこその“傑作”であった『イージー・ライダー』を、果してアップデートすることなど、可能なのだろうか?■ 『イージー・ライダー』© 1969, renewed 1997 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
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NEWS/ニュース2025.03.28
【高め※の血圧やコレステロールが気になる方へ】「レイデルポリコサノール10」プレゼントキャンペーン
ザ・シネマをご視聴の皆様へ、【コレステロール・高め※の血圧の方が気になる方へ】コレステロールと高め※の血圧を下げる機能性表示食品、「レイデルポリコサノール10」を抽選で730名様にプレゼント!奮ってご応募ください!当選は、発送をもって代えさせて頂きます。 ■ 賞品 レイデルポリコサノール10・ ・ ・730名様 ※ミステリーチャンネル/アクションチャンネル/ザ・シネマの3チャンネルの合計当選者数です ■ 応募期間 2025年3月28日(金)~2025年4月30日(水) ご応募はこちら> ■ 商品について 販売元:株式会社レイデルジャパン コレステロールと高め※の血圧を下げる機能性表示食品、「レイデルポリコサノール10」。キューバ産サトウキビ由来ポリコサノールは総コレステロール・悪玉コレステロールを下げるだけでなく、善玉と悪玉の比率を改善すること、高め※の血圧を下げることが報告されています。コレステロールと高め※の血圧が気になる方に喜ばれています。コレステロールが気になる方は1日1粒、血圧が気になる方は1日2粒を目安にお召し上がりください。 ※収縮期血圧130~139mmHg、拡張期血圧85~89mmHg 販売元URL:https://www.raydel.co.jp/ ■ 商品に関するお問い合わせ先 担当部署:レイデルジャパンお客様センター担当者:丹野純幸電話番号:0120-547-557受付時間:10~17時(土日祝日休み) ■ プレゼント応募URL https://form.run/@cnm-202504-raydel ご応募はこちら>
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COLUMN/コラム2021.06.04
夢は、悪夢のような現実から逃れるために…。『未来世紀ブラジル』
テリー・ギリアム監督が、本作『未来世紀ブラジル』(1985)の着想を得たのは、初の単独監督作品『ジャバ―ウォッキー』(77)を撮っていた頃、イギリスはサウス・ウェールズのある浜辺でのことだった。そこは大きな鉄工所に隣接し、砂浜は薄い膜のような煤に覆われていた。「誰かが石炭がらで真っ黒になった裸の浜辺に腰かけていると、コンベア・ベルトや醜い鉄の塔のむこうに緑あふれる素晴らしい世界がきっとどこかにあるって、現実から逃避するようなラジオからのロマンティックな歌がどこからともなく聞こえてくる―」 ギリアムの頭に浮かんだ、そんなイメージから、本作はスタートしたのだった。 *** 20世紀のどこかの国。個人のプライバシーはすべて政府のコンピューターに管理され、情報省が人々を支配していた。その一方で、反体制派による爆弾テロも相次ぐ。 クリスマスの日、情報省のコンピュータートラブルで、当局がテロリストと目すタトルと、一般人のバトルが取り違えられる。バトルは何の罪もないのに、情報剝奪局に急襲され、家族の前で連行されてしまう。 情報省の記録局に働くサム・ラウリーは、出世などには興味がない男。近頃は羽の生えた騎士の格好で空を舞い、囚われの身の美女を救い出す夢を、毎夜のように見ていた。 上司に頼まれ、バトルの件の責任回避に取り組むサムだったが、ある時夢に登場する美女と瓜二つの女性に出会う。サムは彼女を探し求めるが、その姿を見失う。 そんなある時、サムの部屋の暖房装置が故障。正規の修理サービスに連絡が取れないで困っていると、もぐりの鉛管修理工が現れる。その男こそ、当局がテロリストとして追っている、タトルだった。 夢の美女とそっくりの女性が、バトル家の階上に住む、トラック運転手のジルであることがわかる。サムはジルの情報を職場で詳しく調べようとするが、彼女は、バトルの誤認逮捕について抗議を行っていたことから、当局に“要注意人物”とマークされ、その情報は機密扱いとなっていた。 サムは彼女を見付けるため、断っていた栄転を受け入れることにする。異動先となる情報剥奪局ならば、ジルの情報にアクセス出来るからだ。 情報剥奪局で、逮捕者を尋問に掛ける役割を担っているのは、サムの親友であるジャック・リント。誤認逮捕されたバトルも、彼の拷問によって、すでに命を奪われていた。 そんなジャックから、ジルが逮捕される手筈となっていることを聞かされたサムは、彼女を救うために奔走。ジルもサムに、心を許すようになる。 しかし、そのために様々な規約を破ってしまったサムにも、魔の手が迫ってくる…。 *** 目の前の現実の方が悪夢のようで、そこから逃れるために、ひとは美しい夢を見る…。当初ギリアムがイメージした、煤に塗れた浜辺からはだいぶかけ離れたものになってしまったが、そんなコンセプトを発展させて、本作のストーリーは編まれた。 当初構想した美しい音楽は、ライ・クーダーの「マリー・エレナ」。それはやがて、アリ・バローソによる「Aquarela do Brasil=ブラジルの水彩画」という、1939年に生まれたラブソングへと変わる。 心はずむ六月を過ごしこはく色の月の下ふたりで「きっといつか」とささやいたブラジルぼくたちはここでキスしからみあったでもそれは一晩のこと朝がくると君は何マイルも離れぼくに言いたいことが山ほどいっぱい今、空は暮れなずみふたりの愛のときめきが甦るたしかなことは一つだけ…戻るよ、ぼくは想い出のブラジルに…(「Aquarela do Brasil」訳詞 『未来世紀ブラジル』劇場用プログラムより) 1940年にアメリカで生まれたギリアムにとって、南米のブラジルに逃げるというのは、最もロマンティックなことという感覚があった。そのためこの歌に惹かれ、遂には映画のタイトルまで、『Brazil』(原題)にしてしまった。舞台はブラジルとは、まったく関係ないのに。 本作が、全体主義国家によって統治された近未来世界の恐怖を描いた、ジョージ・オーウェルの「1984年」の影響を受けているのは、明らかと言える。しかしギリアムは、「1984年」を読んではいないという。未読でもわかってしまう、それぐらい自明なイメージに惹かれたと述懐している。 その上で、本作についてギリアムは、当初こんな表現をしていた。“虹を摑む男ウォルター・ミティがカフカと出会った映画”。 ダニー・ケイ主演の『虹を摑む男』(47)と、その原作「ウォルター・ミティの秘密の生活」で、主人公のウォルター・ミティは、空想に耽って自分を英雄に仕立てる。そんなミティのような男≒サムが、フランツ・カフカが書くような不条理の世界に紛れ込んでしまったというわけだ。 そうした本作のイメージが形作られた背景には、ギリアム自身の体験もある。20代後半、アメリカで雑誌編集者やアニメーターとして活動していたギリアムだったが、1967年にロサンゼルスで、警官隊の暴行事件に遭遇。アメリカ政府のベトナム政策に抗議して集まった群衆が、警官隊によって滅多打ちにされるのを、目の当たりにしたのだ。 これはギリアムにとって、「現実で初めて経験した悪夢」。罪なき人々が無差別に、官憲から残忍な仕打ちを受けるという、正に「カフカ的イメージ」が具現化されたものだった。 付記すればギリアムは、この体験がきっかけで母国に見切りをつけて、イギリスへと渡る。そしてコメディグループ「モンティ・パイソン」の唯一のアメリカ人メンバーとなり、やがて世界的な人気を得ることとなる。 因みに「モンティ・パイソン」の仲間である、テリー・ジョーンズから借りた、魔女狩り関係の書物も、本作を構成する重要な要素となった。例えば本作で情報剥奪局は、逮捕者を連行し処罰する費用を、逮捕された本人に請求する。これは中世の魔女狩りに於いて、実際に行われていたことである。魔女として告発された者は、裁判や留置場の費用、拷問、そして焼き殺されるための薪代まで、負担しなければならなかったという。 さて1970年代後半からギリアムが構想していた本作が、実際に製作に向かって大きく動き出したのは、彼の前作『バンデッドQ』(81)が、製作費500万ドルに対し、アメリカだけで4,200万ドルを売り上げるという、大ヒットを記録してから。 82年3月、ギリアムは知人の紹介で出会った、イスラエル出身のプロデューサー、アーノン・ミルチャンと意気投合。彼が本作の製作を行うこととなる。 脚本は、元々はギリアムが、『ジャバ―ウォッキー』の共同脚本を手掛けた友人チャールズ・アルヴァーソンと書いていたが、まとまりに欠けるものだった。そこでギリアムは、「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」などの戯曲で知られる、世界的な劇作家トム・ストッパードに、脚本化を依頼することにした。 ストッパードはいつでも、「ひとりで書く」という仕事の仕方だったため、共同作業を望むギリアムにとっては、不満が募る結果となった。しかし第4稿まで書いたストッパードの脚本で、本作の骨組みは固まった。 例えば開巻間もなく、低級官僚が書類を丸めて、ピシャリと叩いたハエが、コンピューターの中に落ちたことで、TUTTLEの文字がBUTTLEとミスプリントされてしまうシーンがある。すべての発端であるこのくだりは、正にストッパードのアイディアだった。 最終的にギリアムは、チャールズ・マッキオンとの共同作業で、脚本を仕上げた。 一方ミルチャンは、1,500万ドルという製作費を捻出するため、各映画会社と交渉。ユニヴァーサルと20世紀フォックスの競り合いになり、最終的には、フォックスが600万ドルの出資で海外市場、ユニヴァーサルが900万ドルでアメリカ、カナダの北米市場の公開を展開するという契約で、まとまる。 ここでキャスティングについて、触れよう。主演のジョナサン・プライスは、本作の構想が始まって間もない頃に、ギリアムと邂逅。ギリアムはプライスのことが気に入り、サム・ラウリーの役を、彼への当て書きのようにして、原案を書いたという。 しかしいざ製作が本格化した段階では、サムの設定は、22~23歳の青年に。当時の若手スターだった、アイダン・クイン、ピーター・スコラーリ、ルパート・エヴァレットなどが候補になった。特にサム役を熱望したのは、あのトム・クルーズだったという。 その頃プライスは、すでに30代後半。しかし脚本を読んでみると、サムの役は33歳という設定にしても無理がないと感じて、そのままギリアムに提案した。それを受けてスクリーンテストを行った結果、彼が本決まりとなったのである。 サムの夢の美女≒ジル役の候補となったのは、ケリー・マクギリス、ジャミ―・リー・カーティス、レベッカ・デモーネイ、ロザンナ・アークエット、そしてまだメジャーになる以前のマドンナなど。一旦はエレン・バーキンに決まったものの、最後の最後で、キム・グライストがジル役となった。 ギリアム曰く、「スクリーン・テストの彼女は最高だった。でも撮影が始まるとそうはいかなかった」。元々の脚本では、ジルの役割はもっと大きいものだったが、撮影が進行する内に、どんどん削られていった。 ミルチャンの提案で作品の箔付けとして、大スターのロバート・デ・ニーロの出演が決まった。ミルチャンが本作の前に製作した、マーティン・スコセッシ監督の『キング・オブ・コメディ』(82)、セルジオ・レオーネ監督の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(84)の2作の主演を務めた縁である。 デ・ニーロは当初、サムの親友で拷問者であるジャック・リントの役を希望した。しかしその役はすでに、「モンティ・パイソン」の仲間マイケル・ペリンに決まっていた。 デ・ニーロはギリアムの説得により、配管工にして当局にテロリストとして追われるタトルの役を演じることとなった。当時のデ・ニーロが、このような脇役で出演するなど、異例中の異例。彼は、脇役であっても手を抜くことはなく、いわゆる“デ・ニーロアプローチ”で、完璧な役作りをやってのけた。 本作は1983年11月にクランク・イン。パリの巨大なポスト・モダン様式のアパート地区マルヌ・ラ・ヴァレで、サムのアパートなどのシーン、当時再開発前だったイギリス・ロンドン港湾地区の廃棄された発電所の冷却塔で、ジャックの拷問室のシーンといったように、ギリアムのセンスが遺憾なく発揮されたロケ撮影を行った。 因みに『未来世紀ブラジル』という邦題は、作品の雰囲気を表すのに悪くはないと思うが、実はミスリード。先にも記したが、これは「未来」の話ではない。“20世紀のどこか”が舞台なのである。登場人物の服装は1940~50年代。サムが運転している車も、ドイツのメッサーシュミットのその頃のモデルである。ギリアムの言を借りれば、“過去に根ざしたありうべき未来の様相”あるいは“現在のB面”を描いているのである。 さて本作は撮影途中で、このままでは撮り切れないとの判断から、2週間休止して、脚本を切り詰める作業を行ったり、ギリアムがストレスから1週間近く起き上がれなくなるというアクシデントが発生。サムの飛翔シーンの特撮に時間が掛かったこともあって、84年2月のクランクアップ予定は、半年延びて、8月になってしまった。 しかし1,500万ドルの予算を超過することはなく、作品は完成。85年2月には、20世紀フォックスの配給で、ヨーロッパで142分のバージョンが無事公開された。 ところがアメリカでは、製作スタート時にはそのポストには居なかった、ユニヴァーサルの責任者シドニー・J・シャインバーグが、ギリアムの前に立ちはだかることとなる。その顛末は、有名な「バトル・オブ・ブラジル」という1冊の書籍にまとめられたほどのボリュームなので、本稿では細かくは言及はしない。 何はともかくシャインバーグは、ギリアムによって11分のカットを行った、アメリカ公開用の131分版に同意せず。別に編集チームを編成。映画の3分の1をカットした上で、ロマンス要素を増強し、ハッピーエンドに終わらせるという、“暴挙”に出たのである。 結果的にはギリアムvsシャインバーグのバトルは、マスコミや批評家などを巻き込んだギリアムの勝利と言える形に終わった。85年12月のアメリカ公開はギリアムの131分版となり、シャインバーグのハッピーエンド版は、後にTV放送されるに止まった。 しかしながらこのゴタゴタの結果、きちんとプロモーションが行き届かず、アメリカ公開ではヒットという果実を得ることはできなかった…。 因みに日本初公開は、86年10月。インターネットなき時代、そのようなトラブルがあったことなど、ほとんどの観客が知らなかった。日本ではユニヴァーサルではなく、20世紀フォックスの配給だったこともあって、ヨーロッパで公開された142分版が観られた。また劇場用プログラムの内容にも、トラブルのトの字もない。 皮肉なものだと思う。テリー・ギリアムの前作『バンデッドQ』が83年に日本公開された際は、子ども向けの作品として売りたかった配給会社の東宝東和によって、悪名高き改竄が行われたからだ。 オリジナルから残酷な要素を取り除いて13分もカットし、ラストまで改変してしまった。ビデオソフトでオリジナル版を観て、劇場で観たのと全く違っているのに、吃驚した映画ファンが続出したものだ。 さて余談はここまでにして、ギリアムはこの後「ほら吹き男爵の冒険」の映画化『バロン』(88)に取り組む。そこでは本作を超えた災厄が待ち受けているのだが、それはまた別の話…。■ 『未来世紀ブラジル』© 1984 Embassy International Pictures, N.V. © 2002 Monarchy Enterprises S.a.r.l. 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