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プレップファッションとギャル語が満載!!みんながノーテンキでいられた時代のカルト映画『クルーレス』。
2015.07.20
清藤秀人
1995年に全米公開され、"ハイスクール・ロリータ"とも言われたファンシーなファッションとメイク、連発されるギャル用語、そして、主人公のブルジョワ女子高生、シェールの一見ノーテンキに見えて実は知的でイノセントなキャラクターが受けて、今でも少女たちの間でカルトムービーとして君臨する『クルーレス』。その根強い人気は、日本公開後にVHSが発売された後も、繰り返しDVDがリリースされ、公開後10年が経った2005年には"コレクターズエディション"と題する特典付きDVDが再度発売されたことでも明らかだ。何がそんなに受けるのか?
まずは、ファッション。ビバリーヒルズの高校に通うシェールと親友のディオンヌが通学服として愛用している必須アイテムは、トラッドをガーリーにアレンジした'90's風プレップスタイル。冒頭で登場するタータンチェックのミニスカスーツを始め、女子高生たちが劇中で着るチェックの柄はシェールの7種類を始めトータルで実に53種類。また、シェールが散らかったワードローブの中から探し出そうとするお気に入りのシャツは、1961年にアメリカ西海岸で開業以来、複合セレクトショップとして人気の"フレッド・シーガル"でゲットしたもの。その日本一号店が、ようやく今年4月、東京の代官山にオープンしたのは記憶に新しい。また、男友達とドライブ中に喧嘩して、危険エリアのサン・バレーに置き去りにされる時にシェールが着ているのは、ボディコンシャスの権化、アズディン・アライアの赤いミニドレスだったり、狙いを定めたイケメン男子と初デートに出かける時に彼女が選ぶのは、カルバン・クラインの白いボディコンミニだったりと、表情はまだ子供なのに服は男の視線を刺激しまくり。そんな娘を見たパパが、「下着みたいだ」と怒るのも無理はない。この映画に"ロリータ"と形容詞が付く理由は、そんなところに起因するのだ。因みに、衣装デザインを担当しているのは、25歳のヒロインが17歳の女子高生に化けて高校に潜入する『25年目のキス』(99)や、同じ高校の同窓生たちが13年ぶりに再会する『アメリカン・パイパイパイ!完結編 俺たちの同騒会』(12)等、キャンパスルックのパイオニア、モナ・メイ。服好きで映画好きの女子たちの間ではレジェンドなデザイナーだ。
連発されるギャル語にも耳をそばだてよう。言葉は生きもの。時代の空気を映す鏡だ。今でもハリウッド映画やドラマでよく耳にする「whatever(どうでもいいじゃん)」や、「totally~(超なになに)」、「as if(サイテー~)」等々は、日本の女子高生用語としても転用できそうなフレーズだ。その場合は、シェールのように少しダレ気味に、相手を小馬鹿にする感じが必要だろう。また、お互いのパパとママが再婚し、2人が離婚した今も交流を続けている血が繋がらない兄のようなジョシュのことを、シェールが「ex-stepbrother(元・義兄)」なんて表現しているのも、アメリカの離婚事情の現れ。重ねて、言葉は生きもの。社会情勢の変化に伴い形を変えて当たり前なのだ。
シェールたちが学校で義務付けられているカリキュラムの中に、堂々と"ディベート"が組み込まれているのも、討論を重んじるアメリカならでは。ある日、国の移民政策に対して反対か賛成かを議論し合う授業で、シェールが賛成する理由を「パパが開くパーティにもっとたくさん人が呼べると楽しい。故に、移民も大歓迎」と発表してどん引きされるのだが、ロジックはどうであれ、反対意見と対決する姿勢こそが大事なわけだ。
監督と脚本を担当しているエイミー・ヘッカリングは、南カリフォルニアにある高校を舞台に、ロスト・ヴァージンを目指す女子高生の奮戦ぶりを描いた出世作『初体験 リッジモント・ハイ』(82)以来、不倫の末に産まれた赤ちゃん目線で母親や大人たちの騒動を眺める『ベイビー・トーク』(89)と、その赤ちゃんに妹ができる続編『リトルダイナマイツ★ベイビー・トークTOO』(90)、そして、年上の大学教授と不倫する女子大生に恋してしまう一途な男子学生の苦闘を綴る『恋は負けない』(00)等、愚かだけれど憎めない人々のささやかな物語を紡ぎ続け、今に至っている。ヘッカリング作品が時代や国境を超えて愛され続ける理由は、ファッションやカルチャーだけではない。難しい事は抜きにして楽しみ、時に懐かしみ、思い入れられるテーマが各々の作品のベースにあるからだ。それは、映画の公開後、『初体験 リッジモント・ハイ』『クルーレス』『ベイビー・トーク』の3作が次々とTVシリーズ化され、アメリカ国内のみならず全世界に拡散されていったことでも証明されている。
そして、『クルーレス』の世界観は、その後、シェールに負けず劣らずノーテンキなハイスクールギャルがハーバード大学に乗り込む大ヒット作『キューティ・ブロンド』(01)や、シェールたちの立ち位置をニューヨークのキャリアガールに置き換えた『セックス・アンド・ザ・シティ』(08)、さらに、ヘッカリング自身がエピソードの一部を監督したTVシリーズ『ゴシップガール』(12)にも引き継がれている。
偶然だが、シェール役の候補者の1人には、後に『キューティ・ブロンド』でブレイクするリース・ウィザースプーンがいたし、ライバルにはやはりブレイク前のアンジェリーナ・ジョリーやグウィネス・パルトロウ等、未来の大器がひしめいていた。そんな強者たちを押し退け、シェール役をゲットしたのがアリシア・シルバーストーンだ。15歳で映画デビュー後、18歳の時に出演した『クルーレス』でティーンエイジスターのトップに躍り出た彼女の、大人びたルックスと甘えた声のギャップは男女を問わず虜にし、一躍時代のアイコンにジャンプアップ。業界人としてもクレバーだったアリシアは直後、自ら製作プロ"ファースト・キス"を成立し、当時個性派俳優として注目され始めていたベネチオ・デル・トロを共演者に迎えた『エクセス・バケッジ シュガーに気持ち』(97)をプロデュースする等、活動の場を広げる。
しかし、9.11後、テーマ選びもバジェットに於いても守勢に回ったハリウッドに、アリシア等女優プロデューサーの出番は減り、かつて、エイミー・ヘッカリングが監督した、あのノーテンキなコメディ自体の需要が減ってしまったのは、実に嘆かわしいことだ。かつて、メディアの取材に応えて、「心が澱むから暗い話には興味がない」と明言したヘッカリングと、彼女の意図を汲み取ってお馬鹿だけど憎めない女子高生を好演したアリシアが、久々にコラボする機会を待ち焦がれているのは、何もファッションチェックに忙しい女子高生ばかりじゃない。夢見る男子だったオジサンたちだって、あの頃の自分に戻って泣き笑いしたいに違いないのだ。■
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ある検閲官の懺悔〜『インモラル物語』〜
2015.07.11
飯森盛良
ワタクシ、ザ・シネマ中の人です。どうしてもこの作品については自分で書きたかったため、プロのライターさんに執筆をお願いしているこの神聖な場にまで、しゃしゃり出てきてしまいました。
こんな商売やってる人間ではありますがワタクシ、家に映画のポスター類はたったの1枚しか貼ってません。映画のスチール写真がいっぱい手に入る立場なので、役得で、そういうのを安いIKEAのフォトフレームに入れて壁中に飾りまくる、という、ちょっと一般の方には真似のできないインテリア・コーディネイトができちゃいますんで(イヤらしい自慢話でスイヤセンねぇ)、市販のポスターは要らんのです。ただ1枚の例外、それが『インモラル物語』のものでして、それぐらい心酔しとる作品なのであります。
この映画を作ったのは、Walerian Borowczykというポーランド人の監督です。Wikiによると「ワレリアン・ボロズウィック」、過去に出たDVDでは「ワレリアン・ボロウズウィック」、「ヴァレリアン・ボロヴツィク」などと不統一にカタカナ表記されてきましたが、我がザ・シネマでは、原音に近い「ヴァレリアン・ボロフチック」と表記することにしました。今後これで定着させていきたいです。よろしくお願いします。
ザックリ言ってエロ映画の人です。ラス・メイヤーとか、ティント・ブラスとか、カトリーヌ・ブレイヤとか、ポルノと映画の境界線上にいるような映像監督っていますよね。そっち系の人です(我ながら乱暴なレッテル貼り…)。
もちろん、上記の銘々がそれぞれ確固たる作家性とか個性とかを持ってる。ではこのヴァレリアン・ボロフチック監督ならではの味とは何か?それが一番効率よくわかるのが今回放送する代表作『インモラル物語』なんですな。なんとなれば本作、オムニバスだからです。ショーケース的に全部が詰まってるんで。
まずオープニング・クレジット。黒背景に白のセリフ体フォントで文字が書かれ、それが細い罫線で囲まれているデザイン。シンプルだけどカッコいい!絵画を学んできた人だけにセンスある!この洗練されたデザインは各話のタイトルとしても出てきます(他作でも)。そしてオープニング・クレジット最後=本編直前に、「いかに愛が心地よくとも、愛の多様な形の方がはるかに心地よいーーラ・ロシュフーコー」という箴言の引用が入って、いよいよ4つの“愛の多様な形”を描いていく本編の幕が上がるのであります。
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第1話は「満潮」。20歳の男子が、16歳の従姉妹を連れてチャリで海へと出かけます。男子は命令調で支配的なタイプ。女子はとことん従順タイプ。2人とも線が細くて色白な、似ている従兄妹同士。その日、空は曇天、波は荒れ模様。男の方はM-37デニムハット風の帽子に、パーカーにジーンズにHUNTER風ゴム長という出で立ちで、女子の方は黒ビキニの水着の上から透け感のあるリネンのチュニックを羽織って、チャリで出かけていきます。2人ともオシャレですなぁ。可愛らしいカップル。
あえて衣装について詳述したのは、まったく時代を感じさせないベーシックなスタイルだから。いま見てもちっとも色褪せてなくて、流行を超越してる。女子は髪型・眉型ナチュラルだしスッピンなので時代を感じさせる手がかりはほとんど無く、今年の映画だと言っても通用するぐらいですが、実は1974年製作なのです。幼さを残すヌードが忘れがたい、ソバカスも可愛い16歳従姉妹役のこの若い女優さんも、今は50を軽く超すオバチャンのはずですが、その2015年現在の姿をまるで想像できない。不思議な不朽感を持った映画です。劣化してない。
この従兄妹同士2人が海辺に着きまして、断崖絶壁がそそり立つひと気の無い岩陰で2人きりになり、何をするのかと言えば、「いとこ同士は鴨の味」なぞと申しますけれど、まぁ、その手のことですわ。満潮になるその一瞬のタイミングに合わせて、男子が従姉妹に“お口でイカせてもらおう”という、しょうもないことを試みるのです。年の近い若い親戚男女2人による、秘めやかなセクシャル・チャレンジであります。
お話の中身は、以上です。話は有って無きようなもの。あとは、チャリのペダルを漕ぐほどに増す海の気配、やがて目の前に一気に開ける海岸、草がなびく砂丘を駆け下り、海藻の付着した岩場を踏み越え、コケて足を切って血を流したりしながらも、断崖絶壁の真下までたどり着き、そこで男子はジーンズのポケットから潮汐表を取り出して時間を調べ、満潮時の波打ち際MAXギリギリに2人して寝転んで、男子はジーンズのチャックを下ろし、そしてついに、従姉妹は、横たえた全身に波をかぶって口内に塩味を感じながら、従兄弟に“お口でご奉仕”を始める、という、ただそれだけのエピソードなのです。
そこにはドラマも何もないんですけど、これを、とことん美しく描き上げようというのが、ヴァレリアン・ボロフチックという監督の味。監督・脚本だけでなく、編集も手がけているんですけど、ドン引きのロングショットや、身体のセクシーな部位に寄った極端なクローズアップが頻繁に差し挟まれるのが、この監督の特徴です。第1話の場合ですと、従姉妹の唇の異常なまでのアップが何度も何度も入ってきます。唇の縦ジワ、薄い色のホクロやソバカス、薄っすら生える可愛らしい産毛=女子ヒゲ、舌のザラザラ感や舌裏のなんとも卑猥な構造までも、監督は執拗に撮り続け、デカデカと全画面に映し出します。
ワタクシが唯一の例外として部屋に飾っているポスターは、この、従姉妹の唇のどアップという絵柄でして、これは本作を象徴するメイン・ヴィジュアルでもあるのです。
美しい。美しすぎるエロであります。時は90年代。VHSでの初見時、ワタクシは大学生。AVは山ほど見ておりました。自慢じゃないが童貞でもありませんでした。しかし、エロとは、性とは、これほどまでに美しい営みだったのか!ということを知らずに二十歳過ぎまで生きてきちゃってたのです。なんたる無知!エロは美しかったのであります!なんたる衝撃!
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第2話は「哲学者テレーズ」。舞台は19世紀末。宗教的に厳格な家庭の子女テレーズは、厳しい母親に外出を咎められ、物置部屋=お仕置き部屋に閉じ込められますが、そこで見つけてしまったカビ臭い古書が、フランス革命期(劇中の時点からさらに100年以上前)に流行った作者不明の有名なエロ小説『女哲学者テレーズ』。ページを繰るごとにあらわれる100年前の猥褻な挿絵に興奮した彼女は、密室なのをいいことに、ひとりHに夢中になる、という、これまたストーリーなど有って無きがごときエピソードであります。でも、いいんです。それ求めてないし。
この第2話は、とりわけヴァレリアン・ボロフチックらしさ全開のエピソードになっています。「宗教的に禁圧しても抑えきれない女性の自然な性欲」ということが割とよくテーマとして取り上げられるボロフチック作品。代表作『罪物語』(1975年)とか『修道女の悶え』(1977年)なんかはまさにそのテーマを膨らませドラマ性を持たせた作品と言えます。テーマ的に、いかにも“らしい”のが本エピソードなのです。
それと、ボロフチックさんは監督・脚本・編集だけに飽き足らず、さらに美術まで手がけているワンマンぶりなのですが、ヴィジュアル面の趣味こだわりもハッキリしてる人でして、特にこのエピソードにはボロフチック流プロダクション・デザインが横溢していて趣味性全開。お仕置き物置にある、薄っすらチリの積もったような、19世紀末ヴィクトリアン調の古道具の数々の、なんとも味のあるレトロ趣味に、見ている方も思わずウットリです。
第1話で見られた極端なクローズアップも健在で、本エピソードでは、部屋にかけられた古いエッチングの肖像画(万札の諭吉みたいな絵)が、どアップのインサートカットで時折映し出されます。プライバシーで守られるべき個人の性的な秘め事をジッと見つめる他者視線、という禁忌感を出そうとしてるのでしょうか?それとも、取り澄ました顔したこの肖像画の人物たちも、生前は性的な営みに励んでいたんだ、人間みんな同じだ、と言いたいのか? とにかくこの「肖像画や彫像がインサートでアップで入ってくる」という演出も、ボロフチック映画の顕著な特徴です。
さて、古道具や古い肖像画のアップを短切に切り返しながら、キャメラはやがて、この物置部屋に漂っている、かすかなホコリ臭さカビ臭さまでをも撮らえていきます。これなんかもボロフチック映画の持つたまらない魅力ですな。先にもあげた代表作『罪物語』(1975年)や、『邪淫の館・獣人』(1975年)などでも見ることができますが、「ホコリ美」とでも造語を作って呼びたくなるような独特の空気感。枯れ感。それは、ハリウッド映画ではもちろん、イギリス、フランスあたりのヨーロッパ映画でさえお目にかかったことのない、本物のヨーロッパ感です。強いて言えばヴィスコンティやベルトルッチといったイタリア勢の描く“西洋の没落”感にはちょっとは近いかもしれませんが、あれらはゴージャスすぎて「ホコリ美」じゃありませんからやっぱり別モノです。もっと蒼枯としていてホコリの漂う、そして、そのホコリさえも美しいと思わせるような、本物のヨーロッパの枯れ感なのです。
同じ中欧ということで強引に十把一絡げに扱うつもりは毛頭ないのですが、たとえば、チェコの、シュヴァンクマイエルやカレル・ゼマンのアニメーションにある、あるいは『闇のバイブル 聖少女の詩』や『カルパテ城の謎』といったチェコ怪奇ファンタジー映画にある、あの独特のレトロな美。あれに近いものがあって、あの感じから幻想風味を抜いてヒストリカル&リアリスティック風味を足したような感じの映像表現なのです。
そんな空気感に包まれて、ひとり息を弾ませ指遊びに耽るいけないテレーズ嬢。テレーズを演じるシャルロット・アレクサンドラは、女流エロ監督カトリーヌ・ブレイヤの『本当に若い娘』(1976年)でもヒロインを演じているポチャリ姫。彼女の豊満な真っ白いプニョンプニョンな肌が、カビ臭い、ホコリ臭い、乾いた室内で次第にピンク色に上気していき、汗ばんでいきます。ホコリ臭さに体臭がまじったにおいを確かに嗅いだような錯覚を、映画を見ていて禁じえません。
美しい。美しすぎるエロであります。ただ女のオナニーを描いただけの、物語性のまったくないお話なんですが、いいんです。それを求めてはいけない。美を求めてください。
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第3話以降をこの調子で紹介していくには紙幅が尽きてしまいましたので、最後にイヤらしい自慢話をもう一発。前述の、性的な身体部位に寄ったクローズアップの頻繁な挿入、というボロフチック流演出ですが、この演出において監督がいちばんアップにしたがるのは、実は女性のヘアなんです。この映画、ヘアがどアップで映る映る!で、ここからが自慢話なんですが、立場上、ワタクシ、ノーモザイクで字幕も入っていない、業界用語で言う“白素材”という状態でこの映画を見る立場なワケです。そこからモザイクをかけたり字幕を入れたりするのが仕事ですからね。ということでノーモザイクで見ちゃいました!いいのでしょうか?良い仕事に就いたもんだ。
美しい。美しすぎるヘアなのであります。モザイクから解き放たれた陰毛は、モジャモジャと萌えいづる生のたくましさを感じさせます。性=生の営みを描く映画として、この、萌えるようなヘアをアップで映すということには、ちゃんとした意味がある。
そのヘアにモザイクをかけないと、いちおうテレビですので、現在の日本国ではそのまま放送はできませんから、強烈な冒涜感と罪悪感に苛まれながらも、泣く泣く仕事としてモザイクをかけたのであります。検閲官の苦悩であります。
この映画、美しすぎるエロだと評しました。つまり、それっていうのはとりもなおさずアートということに他なりません。かつて、16世紀、ミケランジェロの作品の股間を葉っぱで隠そうという“イチジクの葉運動”という馬鹿げたムーブメントがありました。19世紀、マネの裸婦画「オランピア」がサロン・ド・パリでナンセンスな批判の対象になりました。攻撃する側はいつの世も「有害だ」と言って叩くワケですが、叩く側と叩かれる側と、どちらの側が人類の文明にとって有害な/有益な存在か、歴史の出すファイナル・アンサーはたいがいの場合、決まっとるのです。検閲官は常に歴史の敗者です。
ヴァレリアン・ボロフチック監督の作品は歴史ものが多い。本作も第1話は現代ですが、第2話は1890年、第3話1610年、第4話1498年と、様々な時代を舞台にしています。いつの時代も人間存在は性的欲望に悶えている、ということがボロフチック監督の一大テーマであり、さらに作品によっては、「それを抑圧しようとするヒステリックな勢力と、抑圧されまいとする人間の自由な性欲」といういつの世にも通じる対立構造を描いてもいます(本作なら第2話と4話)。
…抑圧したくてしてるんじゃないんですけどねぇ。仕事なんです勘弁してください。ボロフチック監督、スンマセン!いつかワタクシの方が間違っていたと、歴史の審判が下ると覚悟しとります。■
"CONTES IMMORAUX" by Walerian Borowczyk © 1974 Argos Films
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フランスの気鋭監督が創出した“立てこもり活劇”の醍醐味~『スズメバチ』
2015.07.06
高橋諭治
本作が2002年の秋に日本公開された際に、ポスターやチラシに添えられたキャッチコピーは今でもよく覚えている。「12000発喰らえ」。しかし謳い文句通りの“ド派手なドンパチ”を期待して劇場に足を運んだ観客は、実際に本編を目の当たりにして面食らったのではないか。何せ序盤の約30分、これといった見せ場がほとんどない。観客を退屈させないための“方程式”に則った昨今のハリウッド・アクションや、本家のハリウッド以上にハリウッド的な娯楽性に富んだヨーロッパ・コープ製のフレンチ・アクションに慣れ親しんだ映画ファンは、本作のいささか冗長で無愛想にも映る導入部に焦れったさを感じるかもしれない。
正直なところ決して洗練されたタッチの導入部ではないが、作り手の狙いははっきりしている。「荒野の七人」のテーマ曲を口笛とアカペラで奏でながら、練りに練った犯罪計画を実行に移そうとしている若い窃盗犯グループ。人身売買、武器密輸などの凶悪犯罪を繰り返してきたアルバニア・マフィアのボスを、物々しい装甲車で護送しているフランス警察の特殊部隊。そして職場に向かおうとしている元消防士のしがない中年警備員。7月14日のパリ祭を背景に、そんな見ず知らずの登場人物たちが偶然にも“ある場所”に集結していく過程が描かれる。そう、この映画は冒頭30分を長々と費やして、アクション映画を形成する重要な要素のひとつであるシチュエーション=状況設定を組み立てているのだ。その30分を乗りきった観客には、ご褒美として中盤以降に怒濤のシークエンスが待っている。
その“ある場所”とは、ストラスブールの工業地帯にたたずむ黒い外壁の巨大な倉庫だ。ここに忍び込んだ窃盗犯グループは、前述の中年男ともうひとりの若い警備員を拘束し、大量のノートパソコンを強奪してトンズラしようともくろんでいる。ところが時同じくしてストラスブール近郊の別地点で、ボスを奪還しようとするマフィアの武装軍団が特殊部隊の護送車を襲撃。からくも生き延びた女性中尉リボリと数名の部下は、まだ窃盗犯グループがとどまっている倉庫に一時避難する。倉庫はあれよあれよという間に武装マフィアに包囲され、外界への連絡手段を断たれたリボリに残された道はただひとつ。その倉庫に身を潜めたまま窃盗犯や警備員たちと力を合わせ、軍隊並みの重装備を誇るマフィアを迎え撃つことだ。
言わば、これは倉庫を“砦”に見立てた伝統的な“立てこもり型”のアクション映画である。逃げるという選択肢を奪われた登場人物が、閉塞した限定空間に籠城して必死の抵抗を試みる。孤立無援にして、圧倒的な多勢に無勢。まともに闘ったら絶対に勝ち目はない。ゆえに登場人物がすべきことは敵の侵入を“防ぐ”ことであり、そこにヒリヒリするような極限状況のスリルが生まれる。スカッとした爽快さ&豪快さを売りにしたアクション大作とは真逆の、首を真綿で締められるがごときマゾヒスティックな緊張感。生き抜くためには命知らずの度胸や腕っぷしの強さよりも、ひたすら忍耐力と臨機応変の対応力が求められる。そこに立てこもり活劇の醍醐味がある。
このジャンルの代表作というと、ジョン・カーペンター監督の『要塞警察』(76)とその原点であるハワード・ホークス監督の西部劇『リオ・ブラボー』(59)がすぐさま思い浮かぶ。とりわけこの映画と『要塞警察』の類似性は誰の目にも明らかだ。しかしながら本作には「このシチュエーションの活劇が撮りたかった!」という作り手の並々ならぬ意欲が全編にみなぎっており、パクリや二番煎じと誹る向きはどこにもいないだろう。浮ついたギャグや、二丁拳銃などのアクロバティックな描写は一切ない。その代わりに戦闘中の登場人物が残りの弾薬数を確認したり、状況がじわじわと切羽詰まっていくプロセスをリアルに見せる工夫が随所に盛り込まれ、本格的な立てこもり活劇に仕上がっている。
『スズメバチ』というタイトルも言い得て妙だ(原題は『Nid de guêpes(スズメバチの巣)』)。目の部分が不気味に赤く光る暗視ゴーグルを装着した武装マフィアが、暗闇の中からうようよと無数にわき出ては、容赦なく倉庫に群がってくるイメージは、まさしくスズメバチを想起させる。生憎、筆者はその筋には詳しくないが、銃器の演出にもそうとうこだわりがあるのだろう。立てこもる側の登場人物にはそれぞれのキャラクターの個性に合わせてショットガン、カービン銃、自動小銃といった新旧織り交ぜた武器を持たせ、武装マフィアはサイレンサー付きの銃でひたひたと攻め入ってくる。撃ち抜かれた壁の銃痕の穴から光が差し込むというガン・アクション映画には定番のショットにも、“スズメバチの巣”のヴィジュアル化を意識した美学が宿っている。ちなみに監督は本作の成功がきっかけでハリウッドに招かれ、ブルース・ウィリス主演の『ホステージ』(05)を発表し、最近では「マイウェイ」の共作者として名高いポップスター、クロード・フランソワの伝記映画『最後のマイ・ウェイ』(12)を手がけたフローラン・エミリオ・シリ。『スズメバチ』は彼の長編第2作であり、本邦初登場作品である。
「ここを突破されたらヤバい!」というギリギリの切迫感が少々物足りず、クライマックスへのなだれ込み方が大味になってしまったことなど難点はいくつか見受けられるが、『TAXi』(97~07)シリーズで名を馳せた某俳優が演じるキャラクターが早々に戦闘不能に陥ったり、誰が最後まで生き残るのかは予測不可能。「12000発喰らえ」のキャッチコピーに引かれた観客の期待にも応えるであろう“フレンチ立てこもりアクション”のカタルシスを、ぜひ堪能してほしい。■
© 2002 - CINEMANE FILMS - CARRERE GROUP - PATHE IMAGE PRODUCTION - FRANCE 2 CINEMA
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『チャッピー』の監督、南アが輩出した若き天才ニール・ブロムカンプが20代で放った衝撃作〜『第9地区』〜
2015.06.20
高橋ターヤン
1982年、南アフリカのヨハネスブルグ上空に、巨大な宇宙船が出現した。宇宙船の中にいたのは、難民化した大量のエイリアンたちであった。エイリアンたちはその外見から「エビ」という蔑称を付けられ、人間との反発による衝突を防ぐため、地上にある隔離地区「第9地区」へと移住させられる。そして「第9地区」の管理は、半官半民の巨大企業MNU(Multi-Nation United)に委託されることとなった。
それから28年後、エビたちが「第9地区」で増殖し続け、またナイジェリアン・ギャングが跋扈する治安の悪化に危機感を感じたMNUは、エビたちをさらに劣悪な環境である「第10地区」に移住させることを計画。そのためには「第9地区」に住むエイリアンたちから移住に合意する契約書にサインをもらう必要が生じた。その担当には、MNUのエイリアン対策課の職員で、MNU幹部の娘を妻としながらも凡庸な能力のために出世できないヴィカスが選ばれた。
ヴィカスはMNUの特殊部隊と共に「第9地区」に向かい、半ば強制的にエイリアンたちから移住合意書にサインをさせていく。その際、エビのクリストファーの家で見付けた液体を、不注意から浴びてしまったヴィカス。直後からヴィカスの身体に変化が現れ、MNUはヴィカスを研究の対象として扱い、様々な人体実験に強制的に参加させられることになる……。
『第9地区』は、前述の南アフリカのパブリックイメージを全部ぶち込んで、さらに我々があまり知らない南アフリカの現実と塩分濃度高めの男気で味付けし、極上のアクションで煮込んだ超絶傑作映画だ。
本作は、監督のニール・ブロムカンプの長編デビュー作。ブロムカンプは南アフリカのヨハネスブルグ生まれの現在35歳(『第9地区』撮影時は29歳)。高校生の時に、後に本作の主人公ヴィカスを演じることになるシャールト・コプリーと出会う。ブロムカンプの才能に惚れこんだコプリーは、高校を卒業したブロムカンプとともに制作会社を立ち上げ、ブロムカンプは3Dアニメーターとして映画業界で働き始めた。『ダークエンジェル』などのテレビシリーズでCGを担当するなどしてキャリアを積み上げたブロムカンプは、同時に自社で複数の短編映画を制作。中でも『アライブ・イン・ヨハネスブルグ』は、まさに『第9地区』の原点と言える作品であり、巨大宇宙船、エイリアン、特殊部隊、パワーローダーといった『第9地区』の重要要素が登場するだけでなく、モキュメンタリースタイルの撮影・編集方法もすでにここで確立している(『第9地区』でヴィカスを演じたコプリーが、『アライブ・イン・ヨハネスブルグ』では特殊部隊側として出演している)。そもそもこの『アライブ・イン・ヨハネスブルグ』のコンセプトは、1966年に6万人以上の黒人が住んでいたケープタウン近郊の「第6地区」において、アパルトヘイト政策による強制移住させられた事件にヒントを作られている。
そんなブロムカンプの才能に気付いたのはコプリーだけでなく、『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズのピーター・ジャクソンもブロムカンプの溢れる才能に惚れこんだ。ピージャクは長編映画を一本も撮ったことのないこの20代の若者を、総製作費100億円以上の大作SF映画の監督に抜擢する。マイクロソフトがXbox用ゲームとして発売し、全世界で3,000万本以上のセールスを記録している大ヒットゲーム『HALO』の実写映画化である。
2006年に発表され、ピージャクが製作総指揮をつとめるビッグプロジェクトだったが、予算、利益の分配だけでなく、まったくの新人監督であるブロムカンプをこのような大作の監督に起用するという人事についてもマイクロソフト側との交渉が難航。2009年1月には、このプロジェクト自体が消滅することが発表された。
しかしピージャクとブロムガンプは『HALO』のために準備したリソースやチーム体制を、そのまま解散するようなことはしなかった。ブロムガンプがかねてから構想していた『アライブ・イン・ヨハネスブルグ』の長編映画化、『第9地区』の実現に向けて、企画をスタートさせたのだった(ブロムガンプ自身は『HALO』の映画化には今でも前向きなコメントを出している)。
完成した『第9地区』は、実に恐るべき映画となっている。主人公ヴィカスの身に何かが起こったことだけが分かるインタビューで構成される序盤、人間とエイリアンが共存する異常な世界観、エイリアンと共生するナイジェリア人ギャング団など、オープニングからグイグイと物語に引き込まれていく。そしてヴィカスの身体に変化が起きてからは、政府、MNU、警察、市民、ギャングという南アフリカのすべてが自分を付けねらう中で、最後の選択として「第9地区」に逃れたヴィカスの孤独。そしてエイリアンの武器を手に入れてからはジェットコースターのような超展開で怒涛のクライマックスに向けて突き進む。
本作にはブロムガンプとコプリーが、南アフリカ出身ではあるが本質的にはよそ者であるアングロ・アフリカン(アフリカ中南部に住む、英語を第一言語とする白人系民族)である影響が大きい。国家の主権を黒人に戻したことにより、出身地が自身の国家でないというアイデンティティ喪失と、それでいながら抗らい難い故郷アフリカへの望郷の念が映画の所々に強く感じられるのだ。これは舞台は違えど、ブロムカンプの長編2作目『エリジウム』でも顕著に表れていたし、ローデシア(現ジンバブエ)出身の傭兵が主人公であるレオナルド・ディカプリオ主演作『ブラッド・ダイヤモンド』なども同じ流れで語れる作品だ。
またブロムガンプの作品に共通するのが、本人の意思とは無関係に悪意ある行動を取っていた人間が、否応なく巻き込まれた状況の中で、土壇場で男気溢れる正しい選択をしてカタルシスを最高潮に高める点。これもやはり前述の『ブラッド・ダイヤモンド』や、デンゼル・ワシントン主演の『デンジャラス・ラン』、古典傭兵映画『ワイルド・ギース』といったアフリカを舞台にした秀作群に共通するし、ブロムガンプ最新作の『チャッピー』では、南アフリカ人ラッパーのNINJAが演じたチンピラのニンジャが、最後の最後で見せる行動にもはっきりとにみられる。ブロムガンプの映画からは、環境が悪人を作り、状況で悪人は変わることが出来るという性善説的な思いが多分に伝わってくる。
そしてブロムガンプ映画には、共通して激しい銃撃アクションが見所となっている点も注目。南アフリカはアパルトヘイト体制維持のために発展したアフリカで最も進んだ軍事組織を持つ国家であり、アフリカ各地での非正規戦を多く戦った経験豊富な軍人を多く抱える国だ。さらにアパルトヘイト終了後の軍縮によって失業した特殊部隊員らによって、「エグゼクティブ・アウトカムズ」のような世界最大級の民間軍事会社(傭兵会社)が設立されたり、6,000社以上の警備会社に元軍人を中心に4万人以上が勤務するなど、独自の発展を遂げた民間の軍事組織を持つ国だ(「エグゼクティブ・アウトカムズ」社は国家を転覆させるほどの力を持ったため、後に南アフリカ政府によって強制的に解体させられた)。また本作には南アフリカの銃器メーカーデネル社ヴェクター小火器事業部が開発した銃器が大量に登場。マニアを唸らせている。
ブロムガンプ渾身の『第9地区』は30億円の制作費で作られ、最終的に世界で210億円の興行収入を獲得する常識外れのメガヒット作となった。知名度のある俳優も出ておらず、登場人物はクセがあり、残酷描写や文化の違いから違和感を感じる点もあるという、少々取っつきづらい作品ではある。しかし観始めてしまえば、110分が一瞬で過ぎ去っていくこと請け合い。そして観たら語らずにはいられない作品である。■
© District 9 Ltd.
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COME ON BABY, LIGHT MY FIRE ― ウィリアム・ハートに火をつけた『白いドレスの女』
2015.06.10
桑野仁
映画の冒頭、黒地の背景に白抜きの文字で、BODY HEATと本作の原題が浮き上がり、キャスト・スタッフのクレジット紹介が続くその合間を縫って、まるで炎が揺らめくかのように、あるいは女性の体の曲線美を喚起するかのように、シルクの布地が黄金色の光沢を照り映えながら静かになびくイメージ・ショットが、『007』シリーズでお馴染みの映画音楽界の大御所ジョン・バリーのけだるい官能的なテーマ音楽をバックに、一瞬浮かび上がってはまた闇へと消えていく。
そして、観客の期待と好奇心をゆるやかに煽りたてるこの印象的なクレジット・タイトルが終わると共に、遠くで噴煙を上げながら燃え盛る火事の光景を、部屋の窓から静かに眺める本作の男性主人公ウィリアム・ハートの後ろ姿を、キャメラは捉える。上半身をはだけた彼は、いましがた部屋で一人の若い女性と情事を終えたばかり。シャワーを浴びてもすぐ汗が噴き出してしまうと、うだるような夏の暑さに、つい愚痴をこぼす彼女を尻目に、ハートの方は外の火事の様子を子細ありげに見守り、彼の心をなお一層熱く燃えさせてくれる何かの到来を待ち望んでいるような態度を見せるのだ。こうして、実は弁護士でありながらもどこか正体がいかがわしく、危険な火遊びを好むハートのキャラ設定が、いち早く観客にも了解されることとなる。
その願望に応えるかのように、やがてハートの目の前に“宿命の女”が出現する。ある晩、夏の夜風に誘われて野外コンサートの会場を訪れた彼の目の前を、白いドレスに身を包み、スカートのスリットから太腿を大胆にのぞかせたセクシーな美女のキャスリーン・ターナーが飄然と通り過ぎていくのだ。たちまちその美しさに目を奪われ、早速彼女を口説きにかかったものの、いったんは取り逃がしてしまったハートは、その後必死にあとを追い求めた末、ようやくターナーと再会。そこで初めて互いに名を名乗り、握手を交わしたところで、ハートはターナーの肌の異様な熱っぽさに気づく。
「大丈夫。私、平熱が37度以上あるの。きっとエンジンが不調なのね」「どうやら修理が必要のようだな」「それにぴったりの道具を持っているなんて、言わないで」
こうしてターナーの官能的で火照った肉体の秘密の一端に触れたハートは、以後、人妻たる彼女との愛欲と汗にまみれた危険な情事へと突き進み、二人の恋路の邪魔となるターナーの裕福な夫を殺害し、その遺産を分捕ろうと、周到な犯罪計画を立案実行していく。しかし、ハートが運命の主導権を握っているかに思えたその筋書きは、次第に視界に深い霧がかかって先行きが見通せなくなり、実は何を隠そう、彼はターナーがはじめから巧みに仕組んだ罠の恰好のいいカモで、その歯車の一齣としてまんまと利用されていたに過ぎなかったことが、ドラマが進むにつれ、徐々に明らかになっていく…。
『白いドレスの女』(81)は、かつて1940~50年代のハリウッドで生み出されたスタイリッシュで独特のムードあふれる一連の暗黒犯罪映画、すなわちフィルム・ノワールの映画世界を、これが監督デビュー作となるローレンス・カスダンが現代に鮮やかに蘇らせた秀作だ。当時、『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』(80)、『レイダース 失われたアーク《聖櫃》』(81)などで新進気鋭の脚本家として売り出し中だった彼は、本作で初監督に挑むにあたって、下手をするとこれが唯一の機会になりかねないと、背水の陣で現場に臨み、映画にフィルム・ノワールという枠組みを使うことで、会話やキャメラワークに贅沢な仕掛けを凝らす特別許可証を手に入れることができたと、後年この時の体験を自ら振り返って語っている。筆者が以前本欄で紹介した、ロバート・アルトマン監督の『ロング・グッドバイ』(73)や、ポール・シュレイダー脚本&マーティン・スコセッシ監督の『タクシードライバー』(76)とは、歴史的伝統に対する作者のアプローチの仕方に個々の違いが見られるものの、本作もやはりフィルム・ノワールの映画的遺産を巧みに現代に有効活用して生み出された、ネオ・ノワールの最良の成果の1つと言っていいだろう。
■何が彼女をそうさせたか ノワール今昔比較
ところで、40~50年代のハリウッドの古典的フィルム・ノワールと、第2次世界大戦直後のフランスで独自に“発見”されたフィルム・ノワールなる新たな概念が逆輸入される形で英米圏に普及・浸透し、70年代以降、アメリカでもその独特の意匠が現代の映画作りに採り入れられて次第に活性化するネオ・ノワールの作品群を、大きく分かつ決定的なポイントとは何か。それは、かつてのハリウッドにおいては、自主検閲の形で各種の映画製作倫理規定が設けられ、映画の内容や表現上のさまざまな制約があったのに対し、それがついに撤廃され、映画のレイティング制度が導入された68年以降、ハリウッドのメジャー製作映画においても、それまで固く禁じられ、あくまで画面外で暗示するのみに留められてきた、性や暴力の赤裸々で直截的な描写が可能になったことだ(さらにここで付け加えておくと、犯罪者を英雄視したり正当化したりしてはならず、必ず最後には罰せられる運命とする、という従来の作劇上の縛りからも解放されることとなった)。
『白いドレスの女』が、数々のフィルム・ノワールの作品群の中でも、とりわけジェームズ・M・ケイン原作のハードボイルド小説『倍額保険』(邦訳題『殺人保険』)をビリー・ワイルダー監督が映画化した古典的名作、『深夜の告白』(44)を主要な元ネタに利用しているのは、よく知られている。この『深夜の告白』においては、バーバラ・スタンウィックが、保険外交員のフレッド・マクマレーの運命を破滅へと導く冷酷非情な人妻に扮して、映画における強烈な悪女像の一つの典型を打ち立てたわけだが、無論この時代、主役の2人が劇中で裸になるなど到底ありえず、彼らが実際に性的関係を結んだかどうかも慎重に伏せられている。その代わりに、ワイルダー監督は、バスローブを身体にまとっただけの状態で劇中に初登場するスタンウィックの姿を、階下から眩しそうに仰ぎ見るマクマレーの視線を借りて映し出し、さらには、階段を降りるスタンウィックの足首にアンクレットという効果的な装飾品をまとわせて、男を狂わせる“宿命の女”の官能的魅力を強烈に印象づけている。
それに対し、ネオ・ノワール時代のカスダン監督は、『白いドレスの女』において、主役のハートとターナーが共に全裸ですっかり汗だくになりながら不義密通に励む姿を、堂々と描くことが可能になったわけだが、そうした大胆であけすけな官能描写を披露する一方、2人がそこへと至る前段階で、同監督がさまざまな創意工夫を凝らしてお互いの性的感情の昂ぶりを盛り上げ、ついにはハートとターナーが初めて肉体的に結ばれるまでを、仰角のショットをここぞとばかりに差し挟み、風鈴やガラス窓などの小道具を総動員して描くあたりの心憎い演出は、実に芸が細かく効果的で、つい惚れ惚れさせられる。
■もうひとりのターナー 元祖「白いドレスの女」
ところで、先に名前を挙げたジェームズ・M・ケインと言えば、やはり人妻が行きずりの男と不義密通の関係に陥り、彼と共謀して夫の殺害を企むという、『倍額保険』と同工異曲の筋立てを持つ彼の代表作『郵便配達は二度ベルを鳴らす』が、46年、ハリウッドで映画化されている。実のところ、34年に原作が発表され、ベストセラーとなった時点で、MGMは同作の映画化権をいち早く取得したものの、例の映画製作倫理規定が重い足かせとなって、きわどい内容の物語を持つ同作を映画化するのにすっかり手こずっている間に、39年にまずフランスで、そして43年にはイタリアで、それぞれ独自の翻案映画化がなされていた(後者は、あの名匠ルキノ・ヴィスコンティの監督デビュー作)。
『深夜の告白』の登場と成功を受けて、46年、MGMはあらためて『郵便配達は二度ベルを鳴らす』の映画化に取りかかるが、ここでテイ・ガーネット監督が映画製作倫理規定の厳しい検閲の目を欺くために編み出した何とも意表を衝く戦術とは、奇しくもキャスリーン・ターナーとは同じ姓を持つ当時のハリウッドの人気女優、ラナ・ターナー演じる人妻のヒロインに、映画のほぼ全編を通じて、まぶしいくらいに小綺麗で純白の衣裳をたえず身にまとわせる、というものだった! 官能的な魅力の奥にどす黒い心を秘め、男を破滅へと導く悪女でありながら、見た目はどこまでも天使のように清らかで汚れのない“白いドレスの女”の誕生である。とりわけ彼女が最初に劇中に登場する場面は、映画史上のポピュラーな名場面の1つとしてそれなりに世評は高いが、まるで避暑地で優雅にバカンスを楽しむどこぞの若奥様か、ファッション・ショーの会場からそのまま抜け出てきたようなモデル然とした彼女の姿は、フィルム・ノワールのうす汚れた暗黒世界とはまるで釣り合いがとれず、とんだ場違いもいいところで、筆者にはどうしても噴飯もののギャグとしか思えない。
その一方で、この映画は、流れ者のジョン・ガーフィールドが、人妻のラナ・ターナーのいる街道沿いの安食堂に足を踏み入れるところから物語が始まり、その店の外に掲げられた「MAN WANTED」という人手募集の広告が、「男求む」という意味合いにも取れる仕掛けとなっているのが絶妙のミソとなっていて、ラナ・ターナー自身、私生活においては、まさにそれを地で行くように、華麗で奔放な男性遍歴に彩られた恋多き実人生を歩んだ。
彼女はその生涯において、8回もの結婚・離婚を繰り返し、それ以外にも数々の有名スターたちと浮名を流してゴシップ記事を賑わせた。さらに58年には、彼女と当時の愛人だったギャングの男が派手な痴話喧嘩を繰り広げている最中、14歳の彼女の娘が母親を守ろうと、男を刺殺するというスキャンダラスな事件も発生する。事件後、ラナ・ターナーの女優生命はすっかり断たれたかに思われたが、むしろその逆境をバネに彼女は、母と娘の絆を主題にしたダグラス・サーク監督の母ものの傑作メロドラマ『悲しみは空の彼方に』(59)に主演して劇的なカムバックを果たし、ラストでは黒の喪服に身を包んで感動的な演技を披露。続いて彼女は『黒の肖像』(60)に出演し、白ならぬ“黒いドレスの女”としてさらなる転生を遂げることになる。ちなみに、実はリメイク映画である『悲しみは空の彼方に』の原題は、そのオリジナル版にあたる『模倣の人生』(34)と同様、「IMITATION OF LIFE」という。
そういえば、ジェームズ・エルロイの原作をカーティス・ハンソン監督が映画化した、50年代のロスを舞台にした、これまたネオ・ノワールの傑作の1本『L.A.コンフィデンシャル』(97)の中には、当時のハリウッドの人気女優たちにそっくりの娼婦たちを集めた会員制の高級娼館が人気を博す一方で、主人公の刑事たちが、とあるレストランで偶然目に留めた女優のラナ・ターナーを、本人ではなく、彼女に似せた娼婦とうっかり取り違えるという、何とも痛烈でキツいブラック・ジョークがあって、すっかり爆笑させられたものだった。
■そしてさらにまた別のターナーが… 模倣の人生、模倣の映画
かつての古典的な映画世界が装いも新たに現代映画の中に甦える。そしてまた、映画の中の虚構の人生と実人生が、それぞれの道を歩みつつも、まるで合わせ鏡のように双方が向き合い、互いが互いを模倣し影響し合いながら、幾重にも交錯した新たな映画的人生を形作る。『白いドレスの女』という映画、そして、バーバラ・スタンウィックやラナ・ターナーの生まれ変わりともいうべきキャスリーン・ターナーが劇中で演じる“宿命の女”は、そうした古今のさまざまな映画や、往年のハリウッドの神話的スター女優の虚飾と退廃に満ち満ちた映画的人生の記憶が幾重にも塗り重ねられて生み出された、多面的でハイブリッドなイメージの集積体であり、視点や角度によって微妙に相貌を変えるその正体や内実を探り当てるのは、なかなか至難の業だ。心の内に抱いていた夢と願望がそのまま叶ったかのごとく、ウィリアム・ハートの目の前に出現したキャスリーン・ターナー演じる“宿命の女”は、しかし途中から徐々に、なぜか彼の手の届かない遠くの存在へと変貌していってしまう。
物語のまだ序盤、ターナーに会いに彼女の屋敷へ出かけたハートが、中庭に一人佇む白いドレスの女の後ろ姿を見つけて、てっきりターナーと思い込み、「抱いてやろうか」と声をかけたら、実は相手は彼女によく似た別人の女性で、ハートがすっかり赤面するというエピソードが出てくる。一見、先に話題に挙げた『L.A.コンフィデンシャル』の例と同様、その場限りの軽い冗談話にも思えるが、実はこれが、後半の物語の急旋回の伏線となっていることが、やがて理解されるはずだ。このあたり、カスダン監督は、アルフレッド・ヒッチコック監督の傑作『めまい』(58)を巧みに下敷きにしていて、他にもラストのオチに向けて、さまざまな物語上の布石がさりげなく各所に仕込まれているのだが、これ以上、筆者があれこれ言葉を差し挟むのは控えることにして、そろそろ映画を始めることにしよう。
さあ、ベイビー、俺のハートに火をつけてくれ。■
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