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プレイバック80'sキョンシー大ブーム、それを踏まえた上で作られた、“本当に怖い”2013年版『キョンシー』

高橋ターヤン

中国では、労働者が出稼ぎ先で死んだ場合、故郷で埋葬しないと家族が不運に見舞われると言われていた。そこで故郷まで死体を運搬するために、道教の道士が呪術で死体を歩かせたという伝承がある。また、強い恨みや妬みを持ったまま死んだ者は、死んでも死にきれずに生ける屍としてこの世をさまようことになる。中国では、こうした死してなお動き回る者をキョンシーと呼んだ。そしてキョンシーは人の生き血を求めて夜な夜な徘徊して人々に危害を加えるため(キョンシーに噛まれた者もまたキョンシーとなる)、法術を極めた道士たちはキョンシーハンターとして全国を旅していたという。  1978年、ジョージ・A・ロメロ監督の『ゾンビ』が公開された。死者が甦った世界で繰り広げられる壮絶なサバイバル映画である本作は、低予算ホラー映画でありながら世界を席巻。世界で一大ゾンビブームを巻き起こした。その頃、香港で一人の映画人がアジア版『ゾンビ』の制作に着手している。武術指導家として名を成し、映画製作者としても俳優としても成功したサモ・ハン・キンポーである。  サモ・ハンは自身の得意とするカンフー映画とホラー映画、さらに当時香港で流行していた『Mr.BOO!』などのコメディ映画の融合を試みた作品『妖術秘伝 鬼打鬼』(80年)を世に送り出し、1980年の香港興行収入第3位となる爆発的な大ヒット作とした。香港映画史上初めて本格的にキョンシーが登場した本作は、香港でホラーアクション映画が大流行する嚆矢となったのだった。  続く『霊幻師弟/人嚇人』(83年)では、サモ・ハンの盟友で、ブルース・リーのスタントダブルを務めていたラム・チェンインを道士役として起用。前作『鬼打鬼』の倍以上の興行収入を上げる、大ヒット作となっている。さらに次の『霊幻百鬼 人嚇鬼』(84年)もスマッシュヒットを記録しており、後のキョンシー映画大ブームの礎として位置づけられるこの3作品が、後に“サモハン・ホラー3部作”とされている。  “サモハン・ホラー3部作”の成功を受けて、サモ・ハンはさらにパワーアップした作品の制作に着手。それがキョンシーを全世界に認知させることになる『霊幻道士』(85年)である。  それまで監督・主演を務めてきたサモ・ハンが、プロデューサーに退いたこの作品。3部作では多く登場する幽鬼の一部でしかなかったキョンシーを本格的にフィーチャーし、これまで以上の激しいアクション、洗練されたコメディ要素、ラブロマンス、ホラーと、映画に必要なあらゆる要素ぶち込んで融合させることに成功した本作は、香港で2,000万ドル以上を稼ぎ出すメガヒットとなり、さらに日本や台湾でも大ヒットを記録した。  『霊幻道士』のメガヒットによって、黄色い道袍に身を包んだ道士と、暖帽と補褂という清朝の官服を身に付けたキョンシーというセットは映画界に完全に定着。もち米、雌鶏の血を混ぜた墨汁、銭剣や桃の剣、まじない符といった対キョンシー兵器や、息を止めることでキョンシーから身を隠す方法など、キョンシー映画の“お約束”も本作で確立。これによって無数の亜流作品が登場するだけでなく、劇中のコメディリリーフとして多くの作品にキョンシーは頻繁に登場するようになっていく。  そして亜流キョンシー作品の決定版ともいうべき作品が、台湾で制作された『幽幻道士』シリーズ(86年~)である。『幽幻道士』シリーズは、『霊幻道士』で確立したキョンシー映画に“美少女道士”という萌え要素をプラス。美少女道士テンテンを演じたリュウ・ツーイー(現在はシャドウ・リュウという名で活動)の可憐な魅力も相まって、月曜ロードショーで放映されるや高視聴率を記録し、以降シリーズ化されていくことになる。また映画だけでなく、1988年には日本のTBSが出資してテレビシリーズとして『来来!キョンシーズ』も制作され、月刊コロコロコミックでは『ニイハオ!キョンシーくん』『霊幻キョンべえ』といったコミカライズもされるなど、キョンシーは各国以上に日本で定着していった(街中ではキョンシーのマネをする子供で溢れかえっていた)。  その頃本家『霊幻道士』では、キョンシー家族が現代社会で大暴れする『霊幻道士2 キョンシーの息子たち!』(86年)、スプラッター映画ブームに乗った『霊幻道士3 キョンシーの七不思議』(88年)、特に何も完結していない『霊幻道士 完結篇 最後の霊戦』(88年)と連続ヒットを記録。しかし『完結篇』をもってサモ・ハンは制作から退き、第5作である『霊幻道士5 ベビーキョンシー対空飛ぶドラキュラ!』(89年)以降はブームの終焉もあって失速。ラム・チェンイン演じる道士がアフリカで『ブッシュマン』(81年)のニカウさんと共にキョンシーと戦う『コイサンマン、キョンシーアフリカへ行く』(91年)といったインパクト抜群なエクスプロイテーション作品が登場するなど、1990年代前半にはキョンシー映画は完全に消費され尽していた。  キョンシー映画というジャンルの最大の弱点は、あまりにも完璧なオリジナル作品『霊幻道士』があったせいかもしれない。キョンシー映画というジャンルは、日本のバブル時代の終焉とほぼ時を同じくして消滅していったのだった(2012年に突然変異的に登場した川島海荷主演のテレビドラマ『好好!キョンシーガール~東京電視台戦記~』(12年)はあったが)。  しかし2013年、世のリブートブームに乗って、名作『霊幻道士』もついにリブートされる時がきた。『キョンシー』(13年)である。  落ち目となってしまった元スター俳優のチン・シュウホウは、幽霊が出現すると噂されるマンションに入居した。シュウホウの部屋には強力な幽魔が住み着いており、シュウホウはここで自殺を試みるが、マンションに住むの引退した道士ヤンによって助けられる。ある日、マンションの住人である老女ムイは、マンションに住む別の道士ガウに階段で事故死した夫を蘇らせるよう依頼し…。  本作のプロデュースは『呪怨』シリーズ(99年~)の監督・清水崇。本作の監督はミュージシャンのジュノ・マックで、初監督とは思えないスタイリッシュな演出を見せる。オリジナルの『霊幻道士』の大ファンであるマックは、本作制作にあたってあえてオリジナル成功の要因の一つであったコメディ要素を完全に排除。さらに清水の参画によってJホラーテイストが多く含まれ、“本当に怖いキョンシー映画”を実現している。  また本作には、オリジナルシリーズのメインキャストを多数起用。残念ながら『霊幻道士』でガオ道士役だったラム・チェンインと、二番弟子モン役だったリッキー・ホイは亡くなってしまったために出演は叶わなかったが、それでもなお『霊幻道士』ファンを歓喜させるキャスティングとなっている。  主人公のチン・シュウホウ役には、『霊幻道士』で道士の一番弟子サンコー役だったチン・シュウホウ。『霊幻道士4』の主人公ゴクウ道士役のアンソニー・チェンは道士ヤン役で、ツル道士役だったチャット・ファンは道士ガウ役で出演。中盤でアンソニー・チェンとチャット・ファンが共闘するシーンは、オールドファンにとっては感涙モノだ。さらに『霊幻道士3』のミン道士役だったリチャード・ンは、今回はアッと驚く役回りを演じているので注視してほしい(他にも旧作の出演者が出ているので要チェック)。  『キョンシー』は、不穏な空気がひたすら流れる序盤、これまでの作品とはレベルの違う禍々しいキョンシーが誕生する中盤、そしてマック監督のオリジナルへの愛情が炸裂する怒涛のクライマックスまで、一気に見せる新感覚ホラー映画なのである。■ © 2013 Kudos Films Limited. All Right Reserved.

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ジャン・マレーの"陰"とルイ・ド・フュネスの"陽"がガチで渡り合う魅惑の「ファントマ」シリーズ

清藤秀人

怪盗とドシな警視が端から勝敗が分かった出来レースを展開する。とても映画ファンフレンドリーなプロットだ。そこから、「ピンク・パンサー」の怪盗VSクルーゾー警部を思い浮かべる人もいるだろうし、一方で、スパイ・アクションとして切り取れば、ジェームズ・ボンドが世界制覇を狙うスペクターを追撃する「007」シリーズも想定内だろう。でも、ピーター・セラーズがシリーズ第1作『ピンクの豹』(64)でその天才的な"間の演技"で一世一代の当たり役、クルーゾーを世に送り出した同じ年、そして、『007 ドクター・ノオ』(63)でボンドが特命を受けてジャマイカに飛んだ翌年、フランスから発射された大ヒット怪盗シリーズがあった。それが「ファントマ」だ。   基の原作はピエール・スーヴェストルとマルセル・アラン共著による大衆小説で、後に母国フランスでサイレントやモノクロ映画にもなっているが、映画史的にはフランスのGaumont製作で20世紀フォックスによって世界配給されたシリーズが最も有名。でも、同じ時代のヒットシリーズ「ピンク・パンサー」や「007」に比べるとも知名度で劣る気がする。実際、映画マニアの中でも未見の人が多いと聞く。しかし、改めて観てみるとこれが楽しいことこの上ない。「007」と比較するのは申し訳ないような緩いアクションと俳優の個人芸、笑いの中に漂う不気味さと癒やし、それらが、シリーズの肝でもあるフランスのエスプリの皿に乗せられ、大衆食堂のテーブルにサーブされるかの如く。  神出鬼没の怪盗、ファントマが街を賑わせる中、パリ警視庁のジューヴ警部と新聞記者のファンドールが怪盗の素顔を暴き、逮捕に漕ぎ着けようとするが、ファントマは頭脳戦でこれに抵抗。両者の攻防はシリーズ第1作『ファントマ 危機脱出』のパリから、第2作『ファントマ 電光石火』のローマへ、さらに第3作『ファントマ ミサイル作戦』のスコットランドへと舞台を移して行く。そんなヒット映画のルーティンに則ったロケーション・ムービーとしての視覚効果はさておき、このシリーズ最大の楽しさは変装術にある。     ファントマの特技は野望達成のために生来の鉄仮面(設定上)の上に他人の顔をコピーして被り、相手を巧みに欺くこと。『危機脱出』の冒頭でヴァンドーム広場の宝石店からハイジュエリーを強奪するシェルドン卿と、物語の後半では刑務所の看守に化けて現れるファントマだが、『電光石火』では、ファントマによって拉致される科学者、ルフューヴル教授自身と、教授に化けたファントマ、さらに、ファントマを欺くために教授になりすましたファンドールが三つ巴で絡み合う。それらのキャラクターは、全員、主演のジャン・マレーが特殊メイクで1人2役、3役、またはそれ以上を演じているのを見逃す人はいないだろう。(勿論、ファントマは誰か?という秘密も)この種のシーンで当時常識とされていたのはスタンドイン。マレー演じる人物が同じ画面で対峙する時、片方はマレーが、もう片方は顔を隠して似た体型の他人が演じるお馴染みの手法だ。映画史に於いて、同じ人物同士が合成によって画面で対面した最初の作品は,恐らくケヴィン・クラインがアメリカ大統領とそのそっくりさんを1人2役で演じた『デーヴ』(93)ではなかったかと思う。いずれにせよ、「ファントマ」ほどスタンドインが堂々と、むしろ意図的に活躍する映画は少ないので、是非、その際の確信犯的カメラアングルに注目して観て欲しい。  変装するのはファントマやファンドールだけじゃない。『電光石火』では孤児院の子供がファントマのマスクを被って仲間を驚かせ、劇中のハイライトである仮装舞踏会では、ファントマが鉄仮面の上にアラブ王子のメイクを施して登場。『ミサイル作戦』では犬がキツネの着ぐるみを着てハイランドを疾走する。それを見てジューヴは『犬までが!?』と嘆くが、変装、仮装、仮面というアイテムは『オペラ座の怪人』『ジゴマ』『アルセーヌ・ルパン』を例に挙げるまでもなく、フランス大衆文学の必須要素。その脈々たる伝統を『ファントマ』も受け継いでいる。  出世作『美女と野獣』(46)で恩師、ジャン・コクトーから獣のメイクを施されたジャン・マレーが、20年後に巡ってきたヒットシリーズで、再びメイクを駆使した役で脚光を浴びるという宿命も感じないわけにはいかない。マレーが『危機脱出』で老紳士、シェルドン卿に扮して画面に現れた時、マレーの美貌にクラクラだった日本の女性ファンは、そのリアルな老けメイクを見て、彼が本当に老け込んでしまっと勘違いしてショックを受けたという逸話も。もし、それが本当なら、本人はさそがし愉快だったことだろう。  変装で魅せるマレーに対して、変幻自在の顔芸と、まるでコマ送りしたような俊敏な動きで笑いを取るのは、フレンチコメディ界のレジェンド、ルイ・ド・フュネスだ。ジューヴ警部に扮したフュネスは、画面にいる時は常時、喋りのスピードに合わせて顔の筋肉を躍動させ、体もそれに連動してまるで瞬間移動を繰り返しているかのよう。深夜、ベッドの上で奇怪な音に反応して飛び起きたり、防音のため耳栓をしていたのを忘れて、朝、寝室に音もなく現れた部下のベルトラン(『グリーンフィンガース』(00)等で知られるフランスのバイプレーヤー、ジャック・ディナムがフュネスと絶妙な掛け合いを見せる)に悲鳴を上げたり等々、人として普通の行動がフュネスの肉体を通すと問答無用で爆笑に繫がるシーンが、不気味なファントマとの対比で絶好のスパイスになっている。  スペイン、カスティーリャ地方の没落貴族の末裔から叩き上げ、フランス屈指のコメディアンになったフュネスの、これは『大混戦』(64)で始まる"サントロペ・シリーズと並ぶヒット作。様々な職業人の特徴を演じ分け、その人物独特の動きをパントマイムで表現する彼の演技手法は、俳優を正業にするまであらゆる仕事をこなしたというフュネスの実地体験から派生しているものだろう。  人気役者に美貌は決して求めず、人間味こそがエスプリの源と信じるフランス人にとって、フュネスがいかに偉大なアイコンだったかは、1964年の年間フランス国内興収の1位に『大混戦』、4位に『ファントマ 危機脱出』が、明けて1965年の1位に人気コメティアン、ブールヴィル共演の『大追跡』、4位にサントロペ・シリーズ第2弾『ニューヨーク大混戦』、6位に『ファントマ 電光石火』が同時ランクインしていることでも明らかだ。因みに、1966年に興収トップとなったフュネス&ブールヴィルの『大進撃』は、1997年に『タイタニック』に抜かれるまでフランス歴代興収最高位を維持し続けた。  そう考えると『ファントマ』シリーズは詩人、ジャン・コクトーに見出された美男俳優、ジャン・マレーの"陰"と、大衆に愛され続けたコメディアン、ルイ・ド・フュネスの"陽"がガチで渡り合った、別の意味での対決映画と取れなくもない。一説によると、撮影中マレーとフュネスの関係は良好ではなかったとか。それはもしかして本当かも知れない、と思ってみたりして。■ © 1964 Gaumont

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Don’t play it again, Steven.(おイタをするのはもうやめて、スティーヴン)ソダーバーグがハリウッドの古典的映画作りと倒錯的に戯れた実験作『さらば、ベルリン』

桑野仁

「基本的にソダーバーグはコンセプト先行型の監督で、作品ごとの狙いがヴィジュアルにも反映されている」と、先の記事の中で村山氏が指摘しているが、この『さらば、ベルリン』(2006)は、まさにその言葉がよく当てはまる、ソダーバーグならではの野心的な実験作と言えるだろう。ここでのソダーバーグの狙いは、第2次世界大戦終戦直後の1945年、ドイツのベルリンを舞台に、それぞれワケありの複数の男女が繰り広げる愛憎と犯罪劇の行く末を、1940年代当時のハリウッド映画の視覚的スタイルに則って作り上げるというもの。  ソダーバーグはかつて『蒼い記憶』(1995)で、フィルム・ノワールの名作『裏切りの街角』(1949 ロバート・シオドマク)を、ブルーを基調とした照明やフィルターを多用してスタイリッシュかつ現代風にリメイクするという試みに挑んでいたが、ピーター・アンドリュース名義で撮影監督、さらにはメアリー・アン・バーナード名義で編集も自ら兼ねたこの『さらば、ベルリン』では、全編をシックでレトロなモノクロ画面で統一(ただし、実際にはカラーフィルムを使用して撮影を行い、ポスト・プロダクションの段階でデジタル処理をして色彩を抜く手法が採用された。同様の手法を用いたモノクロ映画の前例として、コーエン兄弟による現代版ノワール『バーバー』(2001)や、ソダーバーグ自身が共同製作総指揮を務めたジョージ・クルーニーの監督第2作『グッドナイト&グッドラック』(2005)などがある)。  また、スタジオ内のセット撮影を主体にした本作の製作現場では、複数のキャメラを同時に回して多彩なアングルのショットをいちどきに得る現代的な撮影スタイルを排して、基本的にキャメラを1台のみ使用してマスター・ショットを撮り、必要に応じて切り返しやクロースアップを活用するという、古典的な撮影スタイルを遵守。キャメラのレンズもかつて用いられていた標準的なサイズのものだけを使用し、照明も蛍光灯などは使わずに白熱光だけを用いるなど、あくまで往年のハリウッド映画の伝統的な視覚的スタイルにこだわった映画作りが推し進められた。  かくして、2006年に製作・発表されたものの、軽く一瞥しただけでは1945年に作られたハリウッド映画とつい見まがうような擬古調のモノクロ映画、『さらば、ベルリン』がここに誕生することになった。  さらに、製作・配給元のワーナーは、この『さらば、ベルリン』の売り出しにあたって、念の入ったことに、映画ファンならずとも誰もがよく知るあのお馴染みの名作、『カサブランカ』(1942 マイケル・カーティス)の劇場公開用ポスターのデザインや題名の字体をほぼそのまま踏襲した本作のポスターを作って、両者の類似を強く匂わせるイメージ戦略を取り、懸命の宣伝キャンペーンを展開した。  これでは、現代の観客が、本作の主役の男女に起用されたジョージ・クルーニー&ケイト・ブランシェットに、ハリウッドの黄金期を代表する神話的スター、ハンフリー・ボガート&イングリッド・バーグマンのロマンチックなオーラと輝きを期待しない方が、おかしいというものだろう。しかしその甘美な期待は、いざ映画を見始めるや、すぐさま手ひどく裏切られることになる…。  映画『さらば、ベルリン』は、まず冒頭、昔懐かしいワーナー映画のロゴマークが登場するのに続いて、第2次世界大戦における欧州戦線終戦直後、戦争による破壊の爪痕が何とも痛々しく、すっかり荒廃して至るところが瓦礫の山と化したベルリンの光景と街角に佇む人々の姿を、終戦直後に連合軍の撮影部隊が実際に同地で撮影した記録映像を通じて赤裸々に映し出すところから始まる。そして1945年7月、米英ソという連合国の3大国の首脳陣が、戦後処理のための会談を開くべくベルリン郊外のポツダムに集結し、その取材のためにベルリンを再訪した記者役のクルーニーが、かつての愛人ブランシェットと意外な形で再会を果たしたことから、本作のドラマはいよいよ本格的に動き出す。やがて物語が進むにつれ、次々と意外な事実が浮かび上がることになるわけだが、そのあたりの展開を追っていくとあれこれネタバレになってしまうので、ここではあえて詳述を避けることにしよう。  しかし、それにしても、主役2人の宿命の再会に先立って、ブランシェットが初めて劇中に本格的に姿を現す場面での、我々観客にいきなり冷水を浴びせかけるような、ソダーバーグの何ともシニカルで挑発的な演出ぶりは一体どうだろう。部屋の奥から不意に黒い人影が姿を見せ、緩やかに歩を前に進めるにつれ、ようやくその顔に光が射し、人物の正体がほかならぬブランシェットと判明するさまを、同軸のキャメラポジションからショットを2つに割って、寄りの画面で的確に描き出すところは、なるほど、ハリウッドの古典的な演出作法のお手本ともいえるもので、それ自体は見事なものだ。しかし実は何を隠そう、これには話の続き、というより前段階があって、この場面の直前に、クルーニーから財布をちょろまかした運転手の青年が、すっかり自分だけ悦に入りながら、ある女性と後背位で性交するさまをあけすけに描く場面があり、そこではベッドにうつ伏せとなって顔や表情が一切見えない彼女こそが、生活苦のために今では米兵相手の娼婦に身を落とした哀れなヒロインたるブランシェットだったと、先述の場面で初めて分かるというショッキングな仕掛け。  以前、筆者が本サイトで『白いドレスの女』(1981 ローレンス・カスダン)の紹介記事を書いた際、ノワール今昔比較と題してそこでも述べた通り、かつてハリウッドの黄金期には、〈映画製作倫理規定〉なる映画表現上のさまざまな自主規制ルールが設けられていて、性や暴力の赤裸々で直截的な描写は厳しく制限されていた。古典的なハリウッド映画において性交場面が画面に登場することなど一切ありえず、ましてや主役級の人気スターがそこに絡むことなど、もってのほか。  ソダーバーグが、古典的なハリウッド映画の視覚的スタイルを模して作ったと称する『さらば、ベルリン』は、この時点で早くも当時の制約を大きく食み出し、禁断の領域に土足で踏み込む不敬を働いていることになる(ただし、無論これは、1945年製のハリウッド映画なら完全にアウトだが、2006年のハリウッド映画ならば一応OK、という話ではあるが)。それにしても、ここで、ブランシェットの登場のさせ方のみならず、モラルや節操を一切欠いた無神経なゲス野郎の運転手の役に、当時『スパイダーマン』シリーズ3部作(2002-2007 サム・ライミ)で好感度抜群の青年主人公を演じていた人気者のトビー・マグワイアをわざわざ起用するあたり、ソダーバーグの底意地の悪さもここに極まれり、といった感がある。  ちなみに、本作のブランシェットのキャラ設定に関しては、第2次世界大戦の終結後間もなく、やはりベルリンの荒廃した地を舞台に撮られた映画、『異国の出来事』(1948 ビリー・ワイルダー)でマレーネ・ディートリッヒが演じたヒロインの影響も色濃く感じられる。ただし、この諷刺喜劇において、ワイルダー監督がディートリッヒ扮するしたたかなヒロインを軽妙に描き出しているのに引き換え、この『さらば、ベルリン』でのブランシェットは、いかにも演技派女優らしく、深い絶望と諦念を滲ませながらどこまでも暗くシリアスに役を演じていて、往年のスター女優のように、我々観客を決して甘い陶酔や忘我の世界へ誘うことはない。  結局、この『さらば、ベルリン』は、古典的なハリウッド映画を彷彿とさせるスタイリッシュな視覚的表現の達成という点においてはそこそこ評価されたものの、ソダーバーグやワーナーの意気込みとは裏腹に、世間一般からは芳しい評判を得ることが出来ず、興行的に惨敗を喫することとなった。ソダーバーグは、下手に『カサブランカ』の名前なんかを持ち出したから、誰もがそれと引き比べることになって失敗した、と後にインタビューで告白しているが、ジョゼフ・キャノンの原作小説を大きく改変し、映画のクライマックスに、『カサブランカ』をつい想起させずにはおかない空港での一場面を自ら付け加えておいて、いまさらその言い草はないだろう。やはり、自業自得というほかない。そして哀しいかな、「君の瞳に乾杯!」という賞賛の言葉が、皮肉抜きで『さらば、ベルリン』に投げかけられることはなかった。You must remember this.■ © Warner Bros. Entertainment Inc. & Virtual Studios, LLC

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小さな巨人ルイ・ド・フィネスの大げさな身ぶりを観るがいい。イヴ・モンタンとのくされ縁的主従関係で笑わてくれる。〜『大乱戦』〜

サトウムツオ

フランスの喜劇俳優ルイ・ド・フィネス(1914-1983) は、1960年代から1980年代初頭まで、フランス国内の興行収入ナンバーワンの俳優だった。ジャン=ポール・ベルモンドでもなく、アラン・ドロンでもなく、ジャン・ギャバンでもなく、みんな彼を観に行ったのだ。  実際に、1966年のジェラール・ウーリー監督の、ルイ・ド・フィネスとプールヴァル(1917-1970) 主演作品『大進撃』(原題La Grand Vadrouille〔大ブラブラ歩き〕) が1,700万人を動員。これは、1997年にジェームズ・キャメロン監督のアメリカ映画『タイタニック』(およそ2,075万人) に抜かれるまで、30年以上もフランスにおける興行収入の最高位だった。フランス映画では、2008年にダニー・ムーン監督の『Bienvenue chez les Ch'tis』(およそ2,048万人) に抜かれるまで、42年間も最高位を保ち続けた。いまだに(2015年現在)、本作はフランスでは興行収入第5位なのだ。  ルイ・ド・フィネスのユーモアの原動力は「パントマイムとしかめっ面」にあった。何を演じるにしても大げさにジェスチャーした。彼は164センチという低身長ながら、そうした大げさな身ぶりでスクリーンを所狭しと動きまわり、目上にはへつらいながら目下には厳しく叱るというキャラクターで大人気だった。彼はまた、「役者泥棒」として有名だった。彼がスクリーンに出てきたらおしまいで、人々は彼しか見なくなるのだ。  1971年のジェラール・ウーリー監督・脚本、マルセル・ジュリアンとダニエル・トンプソン脚本によるフランス映画『大乱戦』(原題La Folie des Grandeurs〔誇大妄想〕)は、企画当初はこのルイ・ド・フィネスと、『大追跡』(原題Le Corniaud〔馬鹿者〕) や『大進撃』の迷コンビだったプールヴィルの再会として注目されたが、後者の死によってこの撮影計画は中止になった。フランスの女優シモーヌ・シニョレが、夫である俳優・歌手イヴ・モンタン(1921-1991) に新たなコンビの可能性を見いだし、モンタンを監督のジェラール・ウーリーに推薦した。  監督のジェラール・ウーリーによると、「私はプールヴィルにスナガレルの召使役を構想していた。モンタンにはスカバンのほうが適役だった」  「スナガレル」と「スカバン」はともに17世紀の劇作家モリエールが創り出した喜劇のキャラクターで、スナガレルは『スナガレル: 疑りぶかい亭主』(1661年初演) の主人公でパリの商人。スカバンは『スカバンの悪だくみ』(1671年初演) のレアンドルの従僕で、悪だくみの名人。恐るべきことに、フランス映画は実に奥が深い。すべてのキャラクターがモリエールの傑作喜劇を下敷きにしているのだ。  おもしろさの証といえる、タイトルに「大」が付いている。だから1974年1月の日本公開時、かすかな記憶だが、ルイ・ド・フィネスに笑わせてもらいたくて、観たと思う。実際に観たら、従者役イヴ・モンタンのほうが主役だった‼︎ たしかに、ミシェル・ポルナレフのフランス盤サウンドトラックを本作を観た10年後くらいに買ったが、イヴ・モンタンの名前が左に書いてあり、ルイ・ド・フィネスの名前は右だった。  映画はスペインの宮廷劇のようで、中学1年生の僕には少々退屈だったが、フランスのシンガーソングライター、ミシェル・ポルナレフによる音楽のシンセサイザーの音が胸に刺さり(何てメロウなんだ!)、ものすごく良かった。ポルナレフの父レイブ・ポルナレフもユダヤ系ウクライナ人の音楽家で(1923年フランスに移住) 、なんと、この映画の主演であるシャンソン歌手イヴ・モンタンに親子二代で楽曲を提供したことになる。  『大乱戦』は、中世スペインを舞台にした抱腹絶倒コメディである。強欲な大蔵大臣サリュスト(ルイ・ド・フィネス) は、その悪評ゆえに王妃から爵位も剥奪され追放される。彼は自分の従者(イヴ・モンタン) をイケメン伯爵に仕立てて、彼に王妃を誘惑させて、宮廷への復帰を図るが‥‥‥。  僕のかすかな記憶によると、ルイ・ド・フィネスがいつものように大げさなジェスチャーとパントマイムで笑わせてくれた。威張り屋の大臣ルイ・ド・フィネスに、従者イヴ・モンタンという顔ぶれのスラップスティック(ドタバタ) コメディだった。他の共演は、アルベルト・デ・メンドーサ、ガブリエル・ティンティ、カリン・シューベルト、アリス・サプリッチ、ポール・プレボワ、ドン・ハイメ・デ・モラなど。中世スペインが舞台で、ほとんどの登場人物が「えりまき」(正しくは、襞襟) をしている。  イヴ・モンタンといえば、ジョン・フランケンハイマー監督のカーレースアクション『グラン・プリ』(1966)や、コンスタンタン・コスタ=ガヴラス監督のサスペンス『Z』(1969) や同監督のサスペンス『告白』(1969) や、ジャン=ピエール・メルヴィル監督のフィルムノワール『仁義』(1970) や、クロード・ベリ監督のドラマ『愛と宿命の泉』(1986) に代表される「シリアスな顔」が有名だがそれはここにはなく(シブさがあり、アメリカのスティーヴ・マックィーン並にカッコいい)、彼はコメディ路線で大いに笑わせてくれた。たとえば風呂で鼻歌を歌いながら、タオルを左耳に入れ、右耳に通して、左右ゴシゴシするギャグは40年経っても忘れられない。  撮影監督は、ルイ・マル監督の『死刑台のエレベーター』(1958) 、フランソワ・トリュフォー監督の『大人は判ってくれない』(1959) 、クロード・シャブロル監督の『いとこ同士』(1959) 、ルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』(1960) や『危険がいっぱい』(1964)、ルイ・マル監督の『ビバ!マリア』(1965) 、ジャン=ピエール・メルヴィル監督の『サムライ』(1967) の名手アンリ・ドカエだった。■ © 1971 Gaumont (France) / Coral Producciones (Espagne) / Mars Film Produzione (Italie) / Orion Film (Allemagne)

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【ネタバレ】若き名探偵ホームズの冒険アクションがもたらした、三つの映画革命〜『ヤング・シャーロック/ピラミッドの謎』〜

尾崎一男

 いまシャーロック・ホームズといえば、舞台を現代に置き換え、ベネディクト・カンバーバッチがホームズを演じて人気を得た英国ドラマ『SHERLOCK(シャーロック)』(10~)を思い出す人が圧倒的に多いだろう。あるいは映画だと、名優イアン・マッケランが93歳の老ホームズに扮し、過去に解決できなかった難事件に挑む『Mr.ホームズ 名探偵最後の事件』(15)が記憶に新しい。他にも『アイアンマン』シリーズが好調のロバート・ダウニー・Jr.が、その追い風に乗ってワイルドな看板ヒーローになりきった『シャーロック・ホームズ』(09)と続編『シャーロック・ホームズシャドウ ゲーム』(11)も、観る者に強烈な印象を与えている。  これらの作品に共通するのは、原作者アーサー・コナン・ドイルが生んだホームズ像を忠実になぞるのではなく、稀代の名探偵をフレキシブルに捉え、そのキャラクターや設定を独自にアレンジしている点だ。  そんなホームズ作品の、いわゆる「新解釈モノ」の先鞭といえるのが、1985年公開の本作『ヤング・シャーロック/ピラミッドの謎』である。贋作でもパロディでもない、正伝に迫らんとする創意のもと、ドイルが手がけることのなかった「シャーロック・ホームズのティーン時代」を描いたのだ。  このオリジナルストーリーを執筆したのは、製作当時まだ26歳だったクリス・コロンバス。90年代、マコーレー・カルキン主演の留守番ドタバタコメディ『ホーム・アローン』(90)そして『ホーム・アローン2』(92)で大ヒットを飛ばし、2000年代には人気シリーズ『ハリー・ポッターと賢者の石』(01)と二作目の『ハリー・ポッターと秘密の部屋』(02)を手がけた、時代を象徴する監督だ。最近でも、天才ゲーム少年だった中年男が人類の存亡を賭け、8ビットエイリアンと戦う『ピクセル』(15)を演出し、健在ぶりを示している。  こうした諸作から明らかなように、コロンバスが得意とするのは、少年が日常から未知の冒険へと踏み出すジュブナイル・アクションだ。『ヤング・シャーロック』は、そんな彼の作風を顕著にあらわす、キャリア初期の脚本作である。  なにより製作のアンブリン・エンターテイメントにとって、コロンバスの作風は値千金に等しかった。同社は名匠スティーブン・スピルバーグが設立した製作会社で、スピルバーグは『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(81)によってアクション密度の高い作品スタイルを確立させ、多くの観客を劇場へと呼び寄せていた。  そのためアンブリンは、『レイダース』タイプの映画を自社の看板商品とするべく、傘下のクリエイターたちにアイディアを求めたのである。  ジョー・ダンテ監督のクリーチャーコメディ『グレムリン』(84)に脚本で参加し、アンブリンにいち早く貢献していたコロンバスは、先の要求に応えて二本のジュブナイル・アクション映画の脚本を完成させる。そのひとつが、海賊の財宝を探して少年たちが冒険を繰り広げる『グーニーズ』(85)で、もうひとつが『ヤング・シャーロック』だったのだ。  ところが、企画から撮影までが順調に進んだ『グーニーズ』とは対照的に、本作は脚本の執筆だけで9ヶ月もの期間を要している。理由はふたつあり、ひとつは『グレムリン』があまりにも悪趣味な内容だったために改稿を余儀なくされ、その作業とかぶってしまったこと。そしてもうひとつ、ホームズには「シャーロキアン」と呼ばれる熱狂的なマニアがおり、彼らの厳しい鑑識眼に堪えねばならなかったからだ。  古典的なヒーローを現代のアクション映画向きにアレンジしつつ、原作のイメージを損ねることは許されない……。コロンバスは右にも左にも偏ることのできない直立の状態で、新しいホームズ像を作らねばならなかったのである。  しかし、そんな困難に揉まれたおかげで『ヤング・シャーロック』は、大胆なアレンジの中にもオリジナルへの目配りが隅々にまで行き届いている。  例えば本作の、1870年という時代設定。これはシャーロキアンの研究に基づくホームズの誕生年(1854年生まれ)から、16歳を想定して割り出されたものだ。またホームズ役に大スターを起用せず、駆け出しの新人だったニコラス・ロウを抜擢したのも、「高身長」そして「ワシ鼻」という、ホームズの外見的特徴を重視したうえでのチョイスである。  さらにはホームズが得意とするフェンシングをアクションの大きな見せ場に用いたり、彼や盟友ワトスン(アラン・コックス)を苦しめる邪教集団ラメ・タップを、シリーズ短編「マスグレーヴ家の儀式」(『シャーロック・ホームズの思い出』に収録)をヒントに膨らませるなど、原作を巧みに活かした脚本づくりが展開されている。  他にもクールで女性に懐疑的なホームズの性格や、ロングコートやパイプの愛用など、誰もが知っている彼のキャラクター像に、本作では思わず膝を打つような由来が与えられている。加えて、鋭い分析能力がまだ精度100パーセントでないところなど「若さゆえの未完成」といった解釈が利いており、まさしく“ヤング・シャーロック”を体現している。  かくのごとき水も漏らさぬ徹底した作りによって、コロンバスは映画ファンのみならず、口うるさいシャーロキアンたちにも好感触を抱かせたのだ。  産業革命下のイギリスを舞台に、古代エジプト期からの呪術を受け継ぐ殺人教団の陰謀を、明晰な頭脳で阻止しようとする若き探偵ーー。知的好奇心をくすぐる、ヴィンテージ感覚と謎解きの興奮に満ちたこの冒険物語を、監督であるバリー・レヴィンソンが緻密な演出で視覚化している。  ヴォルチモアを舞台にした青春劇『ダイナー』(82)や、ロバート・レッドフォード主演の野球ファンタジー『ナチュラル』(84)で一躍注目を浴びたレヴィンソンだが、これほど手の込んだ大作を手がけるのは初めてだった。しかしそんな懸念をものともせず、ブルース・ブロートンの高揚感満載なテーマ曲に呼応した、胸のすくようなジュブナイル・アクションを世に送り出したのだ。  本作でレヴィンソンはスピルバーグの信用を勝ち得、スピルバーグは『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』(89)の撮影と重なって監督を降りた『レインマン』(88)を彼に委ねた。スピルバーグの見込みは、同作が米アカデミー作品賞、監督賞を含む5部門を制覇したことからも、間違いのないものだったといえよう。 ■映画史上初のデジタルCGキャラクター  また本作は、ホームズのアレンジに成功したというソフト面だけではなく、ハードな側面からも大きな成果をもたらしている。それはハリウッドの劇場長編映画に、初めてフルデジタルのCGキャラクターを登場させたことだ。  そのキャラクターとは、毒矢を射られた司祭の幻覚に登場し、彼を死へと追いやるステンドグラスの騎士だ。  本作のスペシャルエフェクト・スーパーバイザーを担当した視覚効果スタジオ、ILM(インダストリアル・ライト&マジック)のデニス・ミューレンは、『スター・ウォーズ』(77)で成功を得たルーカスフィルムのコンピュータ・アニメーション部門に協力を求め、この幻想上の怪物を既存の特撮技術ではない、コンピュータ描画による新たな創造を試みたのである。  パペット操作やモデルアニメーションとは一線を画すこの手法、まずは騎士をかたどった立体模型から、デジタイザ(デジタル画像変換装置)を用いて形状をキーポイント入力し、フルカラーモデルを描き出すことのできるレンダリング・プログラム「レイズ」で、コンピュータ上に騎士の3Dイメージを作成する。そして俳優から得たライブアクション(本作では騎士の模型を作った技師が担当)を参考に、ロトスコープ技法で動作をつけるというものだ(使用したCGドローイングシステムはエバンス&サザーランド社の「ピクチャー・システム2」)。こうして生み出されたCGキャラクターを、フィルム上で実景と合成させるのである。  問題点としては、創り出した騎士の動きが、モデルアニメーションのようにカクカクすることだった。それを解決するために、モーションブラー(動きをスムーズに見せるためのブレ)のアルゴリズムを用いるなど、フォトリアルなCGキャラクター作りの基本が本作によって確立されている。  デジタルによる映画製作が主流となった現在、先述した技法の革新性や難しさは、もはや実感しにくいかもしれない。しかし30年前は画像処理ひとつをとっても、解像度や処理速度などのパフォーマンスが充分ではなく、コスト上の制約も厳しかったのだ。また完成したCGをフィルム内に取り込むのも、旧来はCRT(高解像度ブラウン管)に映し出された映像を再撮するやり方でおこなわれていたのだが、それではフィルム内合成のマッチングが図れず、画質の面でクオリティを保てない。  そこで同部門が開発した、レーザーで直接CGをフィルムネガに焼き込める画期的なシステムを用い、CGで作り出したイメージを違和感なく本編に取り込むことに成功したのだ。こうした経緯から、当時わずか6ショット、計30秒に満たないこのシーンを生み出すのに、6ヶ月という途方もない制作期間が費やされている。  だがその甲斐あって、ガラス窓から抜け出し、平面のまま意志を持ったように人を襲う、悪夢のようなキャラクターが見事に生み出されたのだ。そして本作を機にデニス・ミューレンは『アビス』(89)『ターミネーター2』(91)そして『ジュラシック・パーク』(93)など、ハリウッド映画の視覚効果にCGの革命をもたらし、VFXの第一人者として業界を牽引していく。  ちなみに、このデジタル騎士の誕生に協力したコンピュータ・アニメーション部門の名は「ピクサー・コンピュータ・アニメーション・グループ」。そしてデジタル騎士のパートをミューレンと共に手がけたのが、誰であろうジョン・ラセターである。そう、前者は本作から10年後の1995年、世界初のフル3DCG長編アニメ『トイ・ストーリー』を世に送り、今や世界の頂点に立つアニメーションスタジオ「ピクサー」の前身だ。そして後者は『トイ・ストーリー』を監督し、現在はピクサーとディズニースタジオのクリエイティブ・アドバイザーを務める、ハリウッドを代表するトップクリエイターである。 『ヤング・シャーロック』は、映画にデジタル・メイキングの礎を築き、その映像表現飛躍的な進化と無限の可能性をもたらしたのだ。 ■クレジット終了後のサプライズも……  最後に『ヤング・シャーロック』は、「ポスト・クレジット・シーン」という、いわゆるエンドロール後のサプライズ演出を用いた作品としても知られている。今や『アベンジャーズ』(12)を筆頭とするマーベル・シネマティック・ユニバース映画などでおなじみのこのスタイルを、ハリウッド映画に定着させたのは本作なのだ。  ラメ・タップ教団の黒幕として暗躍し、ホームズとの対決に敗れて氷の河に沈んだレイス教授(アンソニー・ヒギンズ)。その彼がクレジット後に何食わぬ顔で姿を見せ、馬車で到着した、とあるホテルの受付で名を記帳する。 「モリアーティ」とーー。  邪力のなせるワザか、それとも天才的な悪の頭脳プレイかーー? 死んだはずの人物が生存し、あまつさえその男が、ホームズの終生のライバル、モリアーティ教授だったとは! 衝撃が二段仕込みの、じつに気の利いた演出である。 『スター・ウォーズ』以降、ハリウッド映画は視覚効果やポスト・プロダクションが大きく比重を占め、参加スタッフの増加と共にエンドロールが長くなる傾向にあった。そのため観客が本編終了直後、すぐに席を立ってしまうことが懸念され、こうした作案が客を帰らせないための一助となったのである。また、コロンバスの書いた脚本には、このポスト・クレジット・シーンは設定されておらず、続編への布石として追加されたものとも言われている。しかし残念ながら本作は大ヒットには至らなかったため、続編は現在においても果たされていない。  ちなみにこのサプライズ演出、筆者が初公開時にこれを観たとき、隣席の男性が傍らのカノジョに向かってこう言い放った。 「モリアーティって、誰?」  シャーロック・ホームズに関する基礎教養を欠いては、せっかくの映画革命も台無しである。こればかりはさすがにホームズの天才的な頭脳をもってしても、どうすることもできないだろう。■ ® & © 2016 Paramount Pictures. 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