ザ・シネマ 松崎まこと
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COLUMN/コラム2021.08.04
“ジェネレーションX”の金字塔が、いまも輝き続けるワケ『ファイト・クラブ』
今年6月、モダンホラーの帝王こと、作家のスティーヴン・キングが、本作『ファイト・クラブ』(1999)を初めて観たことを、twitterで明かした。初公開時に彼は交通事故による大怪我などで観ることが叶わず、長きに渡って未見だったという。それが遂に、邂逅を果したというわけだ。 これにすぐフォロワーから、突っ込みのツイートが入った。「ルールその1に違反してますよ」と。 映画の中で紹介される、あまりにも有名な「ルールその1」は、「ファイト・クラブのことを決して口外するな」。因みに「ルールその2」も、同じ文言である。 これに対して助け舟を出したのは、本作主演のエドワード・ノートン。「ファイト・クラブのルールには、次のような注事項があります。『物語のトピックについて、それがどんな形であれ、スティーヴン・キングは好きに話していい』というものです」 このやり取りに遡ること2年前には、アメリカのある大学で、過去に見たことのある映画のレポートを書けというレポートが課された際の、ある大学生の対応が大きな話題となった。彼女が記したのは、たった1行だけ。「ファイト・クラブ ルールその1、ファイト・クラブのことを決して口外するな」 結果として彼女は、ユーモアを解する教授から、「100点満点」の評価を貰った。そしてこの一件をSNSで披露したところ、拡散に次ぐ拡散となったわけだ。 初公開から20年余の月日が経っても、有名無名問わず、人々の口の端に上り続ける、『ファイト・クラブ』。その魅力とは、一体どんなところにあるのだろう? ***** 大手自動車会社勤務の“僕”は、高級なコンドミニアムに住み、北欧家具や高級ブランド衣類などを買い揃えるヤング・エグゼクティヴ。しかし、“不眠症”に悩まされる日々を送っていた。 そんな“僕”は、睾丸ガン患者の集いに、患者のふりをして参加。治療の副作用で胸が大きくなった男の胸に抱かれて涙を流すと、その夜はぐっすりと眠れた。 ヤミツキとなり、“僕”は重症患者の自助グループを、幾つも渡り歩くようになる。しかしそうして得た心の平穏は、マーラという女性によって、打ち砕かれる。 マーラも病気ではないのに、様々な病名のグループに参加していた。“僕”はマーラを排除しようとするが、失敗。お互いに参加するグループを分け合うことで、手を打つ。 そんな時に“僕”は、タイラー・バーデンという男に出会う。タイラーは、「本気になれば家にある物でどんな爆弾も作れる」などと語り、そんな彼に“僕”は好感を抱く。 “僕”の自宅がガス爆発で、すべての家財と共に焼失した。唖然とした“僕”は、知り合ったばかりのタイラーに電話を掛ける。 バーで飲み意気投合した“僕”にタイラーは、「力いっぱい俺を殴ってくれ」と依頼。“僕”はそれに応え、2人は殴り合いとなる。 廃墟のようなタイラーの屋敷に住み始めた“僕”にとって、殴り合い=ファイトは心の癒しとなる。やがて彼らの元に、モヤモヤを抱えた男たちが集まるように。それは“ファイト・クラブ”という、殴り合いのグループへと発展する。 タイラーは“ファイト・クラブ”のカリスマ的なリーダーとなり、やがて“僕”が忌み嫌うマーラと男女の関係になる。“僕”と彼とは、段々ズレが生じるようになっていく。 タイラーは、“ファイト・クラブ”の中から“スペースモンキー”というメンバーを抽出。文明社会に対して、無政府主義的な攻撃を仕掛け始める。 タイラーのテロ計画に怖れを抱いた“僕”は、それを阻止すべく奔走するが…。 ***** “ブラピ”ことブラッド・ピットが演じるタイラーや、ヘレナ・ボナム=カーターのマーラとは違って、エドワード・ノートン演じる“僕”には、役名がない。“ナレーター=語り手”とクレジットされる。 クレジットにもその意が籠められていると思うが、本作の主役は正に一人称の、「信頼できない語り手」。彼が知覚し表現していることは、どこまで真実なのか? 例えばミステリー小説だと、アガサ・クリスティーの「アクロイド殺し」や横溝正史の「夜歩く」で、物語の語り手が殺人犯だったというオチがつく。本作に於いては、果してどういう意味で「信頼できない」のか?ネタバレになるので、これ以上は控えておく。 本作には、原作がある。キャラ配置やエピソードなどは、ほぼ原作に忠実な映画化と言って良いだろう。 著者は、チャック・パラニューク。1962年生まれの彼は、ワシントン州バーバンクのトレーラーハウスで育った後、オレゴン大学でジャーナリズムを専攻。卒業後は、大型トラックの製造会社で、整備工などを務めた。 その頃彼は、ホスピスでボランティアを務めていた。その経験が小説「ファイト・クラブ」、延いては映画版に活かされていく。「…看護も料理もなにもできなかったから、付き添いと呼ばれる役目につきました。僕は患者たちを毎晩互助グループに連れて行き、会が終ると彼らを連れて帰れるように、隅で坐ってなきゃならないんです。何グループも坐って見ていると、こんな健康なやつがわきで坐って見てるってことに、本当に罪の意識を感じ始めました。これじゃまるで観光客ですよ。だから僕はこう考え始めたんです。もし誰かが病気のふりをしているだけだったら、って。他の患者たちが与えてくれる親密さや正直さがほしい、それから、感情をぶちまけてすっきりしたい…」 この頃のパラニュークはまた、クリスマスなどの機会に突発的に集まって、イタズラを仕掛ける団体にも参加していた。そこにも“ファイト・クラブ”の元ネタになった部分があると思われる。彼は実際に、自分や周囲の友人や仲間たちが体験したことのあるエピソードを聞き集め、それを作品に折り込んでいったと、後に語っている。 アメリカに於いて主に1960年代中盤から70年代終盤に生まれた、いわゆる“ジェネレーションX”に属し、その世代を代表する作家と言われることが多い、パラニューク。自らの世代について、「我々は良い人間になるように育てられてきました…」と語る。 子ども時代から両親や教師などの期待に応えることばかり要求され、社会に出ても上司の求めるがままに働く。「…我々はどうして生きていくかを知るために、自分の外側ばかり見ているんです」というわけだ。 そしてある時に、パラニュークは思い至った。「人生のある一点を過ぎて、ルールに従うんじゃなく、自分でルールを作れるようになったとき、そしてまた、他のみんなの期待に応えるんじゃなく、自分がどうなりたいかを自分で決めるようになれれば、すごく楽しくなるはずです」 彼は経験から得たアイディアや想いを、コインランドリーやジム、時にはトラックの車体の下でクリップボードに挟んだ紙に書きながら、小説「ファイト・クラブ」を3カ月で完成させた。「執筆というよりも口述筆記に近かった」と言うように、感情のほとばしるままに、書き上げたという。 この小説に目をつけたのが、ハリウッドメジャーの20世紀フォックス。新人脚本家であるジム・ウールスが、小説に於ける反社会的姿勢の生々しさをどう表現するかに腐心して書き上げたシナリオを持って、当時の旬の監督たちに交渉した。 ピーター・ジャクソン、ダニー・ボイル、ブライアン・シンガーらが、それぞれの事情で次々と断った後、名前が挙がったのが、デヴィッド・フィンチャー。サイコサスペンス『セブン』(95)で大ヒットを飛ばして、一躍注目の新鋭となっていた。 実はフィンチャーは、原作の熱狂的ファンで、自分で映画化権を買い取ろうとしていた。彼は言う。「ナレーターがどんな人間か判っていた。この自分のことだったから」 ◆『ファイト・クラブ』撮影中のデヴィッド・フィンチャー監督(右)とヘレナ・ボナム=カーター 1962年生まれ。やはり“ジェネレーションX”である彼は、現代の消費社会における虚無感の描写に、強く共感を覚えていたのである。 主演の“僕”には当初、マット・デイモンかショーン・ペンが想定されていた。しかしフィンチャーは、『ラリー・フリント』(96)での演技を高く評価して、エドワード・ノートンを起用。 1969年生まれのノートンは本作に、~戦闘体勢に入った“ジェネレーションX”~を見出した。「僕自身が心の底から共感できるものが『ファイト・クラブ』にはいくつかあった。45歳以上の人にこの作品が理解できないとは言わないけれども、多くの人が『はぁ?』という反応を示しても不思議ではない」 タイラー・バーデン役は、やはりショーン・ペンが有力候補の1人だった。しかしフィンチャーの出世作『セブン』で主演だった、ブラッド・ピットに決まる。 1963年生まれのビットは、ハンサムな色男や金髪のロマンチック・ヒーローのイメージには、敢えて抗した役柄を好んで演じる。「…『ファイト・クラブ』は我々の文化への愚弄と虫ずが走るほど嫌いなのにむりやり押し付けられたものへの応答なんだ…」こちらもノリノリで、役に挑んだ。「もし他の誰かになれるとしたら僕はブラッド・ピットになりたい」フィンチャーのこんな発言は、本作に於いて極めて示唆的と言える。 ノートンとブラピは撮影前、ボクシング、テコンドー、総合格闘技などを特訓。また石鹸で爆弾を作るシーンのために、石鹸を手作りするレッスンも受けたという。 クレジットされていないが、フィンチャーの僚友だった、1964年生まれの脚本家アンドリュー・ケヴィン・ウォーカーによるシナリオのリライトなどを経て、『ファイト・クラブ』は、クランクイン。撮影は132日間、72のセットが組まれ、300を超えるシーンが撮られた。 フィンチャーは、時には100を越えるテイクを回すことで知られる監督だが、本作には通常の3倍以上のフィルムが使われたという。 これは余談になるが、ほぼ紅一点の主要キャスト、1966年生まれのヘレナ・ボナム=カーターは、本作でハリウッドに於ける方向性が決まったかのように思える。それまで「イングリッシュ・ローズ」とも「コルセット・クィーン」とも呼ばれた彼女は、イギリス情緒の溢れるクラシックな作品でのヒロインのイメージが強かった。 しかし、薬物中毒や病に苦しんでいた時期のジュディ・ガーランドの人生を参考に役作りを行ったという本作で、そのイメージを打破。一躍「ゴスの人」の印象が、強烈に打ち出された。直接は関係ない話だが、2000年代に入って、公私ともにティム・バートン監督のミューズになっていったことが、本作を振り返ると、至極納得がいく。 些か脱線したが、このように“ジェネレーションX”の中でも、エッジが利いた作り手・演者が集結して、「現状打破」を過激に叫ぶような本作が、20世紀終わりに登場。劇場公開時の興行成績こそ成功とは言えなかったが、後にリリースされたDVDは大ヒットとなるなど、当時の若者たちの心を捉えたのは、至極当たり前のことだったと言える。 そして今、21世紀に入って20年が過ぎ、全世界を閉塞感が覆っている。本作の人気は、再燃して然るべしと言えるだろう。「ファイト・クラブのことを決して口外するな」 映画史に残るこの「ルール」は、もはや日々破られるためにあるのだ!■ 『ファイト・クラブ』© 1999 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2021.08.11
2021年の今だからこそ観るべき“戦争巨篇”『遠すぎた橋』
1977年の夏休み、中1の私が公開を待ち望んでいた作品があった。それが本作『遠すぎた橋』である。 その年の春頃から、配給元が大々的にプロモーションを展開。ジョン・アディスンによる、いかにも戦争大作のテーマといった風情の勇壮なマーチも、ラジオ番組などで頻繁に耳にしていた。「史上空前の製作費90億円」「世界の14大スーパースターが結集」「すべてが超弩級。壮大な歴史を舞台にした戦争巨篇」 数々のきらびやかな惹句に、映画少年になりたての私の心はワシづかみにされた。また当時としては珍しく、B5判のチラシが3種類も作られて映画館などで配布されていたのも、本作の“超大作”感を際立たせた。 そうしたチラシなどに記された、本作で取り上げられるオペレーションの説明も、興奮を高めた。 ~〔マーケット・ガーデン作戦〕それは、連合軍、最大の、空陸大作戦。規模において、壮絶さにおいて、[ノルマンディ作戦]を遥かに凌ぐという。その厖大な史実が、いま白日のもとに~ [ノルマンディ作戦]と言えば、映画ファン的には、『史上最大の作戦』(62)である。あれを凌ぐとは、どれほどのものなのだろうか? 日本版のチラシやポスターでは、「14大スター」の中でも強く押し出されていたのが、ロバート・レッドフォード。『明日に向って撃て!』(69)でスターダムにのし上がって以降、70年代は『追憶』(73)『スティング』(73)『大統領の陰謀』(76)等々の話題作に次々と出演し、押しも押されぬ大スターとして、日本でも絶大な人気を誇っていた。 さて7月に公開されると、本作はその夏の映画興行では本命作品だった、『エクソシスト2』や『ザ・ディープ』などを上回る成績を上げた。配給収入にして、19億9000万円。興収に直せば40億円前後という辺りで、文句なしの大ヒットであった。 しかし私を含め、当時実際にスクリーンで本作に対峙した者たちは、一様に同じような違和感を抱いた。何か、思っていた戦争映画とは、違う…。 *** 第2次世界大戦のヨーロッパ戦線。ノルマンディ上陸作戦の成功で、連合軍の優勢へと、戦況は大きく傾いた。その3か月後の1944年9月、イギリスの最高司令官モントゴメリー元帥が中心になって、ドイツが占領するオランダを舞台にした、「マーケット・ガーデン作戦」の実行を決定する。 それは5,000機の戦闘機、爆撃機、輸送機、2,500機のグライダー、戦車はじめ2万の車輛、30個の部隊、12万の兵士を動員するという、史上空前の大作戦。ネーデル・ライン川にかかるアーンエム橋を突破して、一気にヒトラー率いるドイツの首都ベルリンまでの進撃路を切り開こうという目的だった。 モントゴメリーの命を受けた、イギリスのブラウニング中将から作戦の説明を受けた、連合軍の司令官たちは、戸惑いの表情を見せる。歴戦の勇士である彼らには、その作戦が無謀で危険なものであることが、わかったのである。 レジスタンスと連携して得た情報から、この作戦に疑義を示す声などももたらされた。しかしそれは無視され、作戦は決行される。 9月17日の日曜日、巨大な編成の輸送機が空を埋め尽くし、夥しい数の落下傘が、アーンエム近郊に降下。ベルギーからは無数の戦車が列をなして、アーンエムへと北上していく。「マーケット・ガーデン作戦」が、遂に始まったが…。 *** 先に記した通り本作は間違いなく、第2次世界大戦のヨーロッパ戦線での、連合軍最大の空陸大作戦を描き、その厖大な史実を白日のもとに晒す内容であった。しかしそれは失敗した作戦、即ち連合軍の“負け戦”を描いたものだったのだ。 原題「A BRIDGE TOO FAR」をほぼ直訳した邦題である、『遠すぎた橋』。これは作戦が目標としたアーンエム橋が、連合軍にとっては「遠すぎた」という、かなりストレートに、本作の内容を表している。 勇猛果敢な兵士たちの活躍を描くような、スポーティなノリの戦争映画を期待していると、もろにハズされる。プロモーションにある意味騙されて映画館に足を運んだ我々は、完全にそんな感じだった 大々的に“主演”と謳われていた、レッドフォードにも吃驚させられた。175分という上映時間の中で、作戦を決行する見せ場ではあったものの、彼が実際に登場するのは、たった十数分間だけだったのだ。 レッドフォードのギャラが「6億円」であるのをはじめ、14大スターの高額ギャラも話題だった本作。製作費90億円で3時間近い長尺であることが、「高すぎた橋」「長すぎた橋」などと、やがて揶揄の対象にもなっていった。 中1の自分にとっては、「期待はずれの戦争大作」だった『遠すぎた橋』。しかしそれから44年経った今年=2021年の夏に、久々に鑑賞すると、別の感慨が湧き上がってきた。その詳しい内容は後に回して、先に本作の成り立ちについて、記したい。 「90億円」を調達して本作を実現したプロデューサーは、ジョゼフ・E・レヴィン。映画業界に於いて大々的な宣伝手法を確立した人物であり、『卒業』(67)や『冬のライオン』(68)などで知られる、アメリカ人プロデューサーである。 本作の監督リチャード・アッテンボローによると、彼の初監督作である『素晴らしき戦争』(69)を、レヴィンがわざわざロンドンまで観に来て激賞したことから、縁が出来た。そしてレヴィンは、「史上最大の作戦」の原作や「ヒトラー最後の戦闘」など、第2次世界大戦の戦史に関する作品で知られるジャーナリスト、コーネリアス・ライアンが1974年に上梓した「遥かなる橋」を映画化するに当たって、アッテンボローに白羽の矢を立てる。「マーケット・ガーデン作戦」について行った膨大な取材をまとめ、邦訳にして上下巻合わせて600頁近くに上る「遥かなる橋」を読んだアッテンボローは、そのスケールが大きすぎるため、まずこんな疑問を抱いたという。本当に映画化できるのか? 作戦の詳細が複雑すぎるのも、悩ましかった。上空から地上、東から西へと、作戦の舞台が頻繁に変わっていく。観客にわかるように作るには、どうすれば良いのか? そこで思い付いたのは、シーンと登場人物を結び付けることだった。例えば橋を陥落するための決死の渡河作戦のシーンの主人公は、レッドフォードが演じるクック少佐、敵弾に倒れた上官の命を救うために、ジープで敵陣を突破するシーンは、ジェームズ・カーンのドーハン軍曹といった具合に。そうすることで観客は、登場人物と共にその場面を即座に思い出すことが可能になり、話の展開を理解できるようになるというわけだ。 因みに本作の脚本は、ウィリアム・ゴールドマン。『明日に向って撃て!』と『大統領の陰謀』で、2度アカデミー賞を受賞している彼は、本作執筆に当たって、まずは原作のエピソードを、アメリカ、イギリス、ドイツと国別に分類して整理。小さな紙きれを用意して、関係各国の状況や出来事を、事細かに書き込んでいった。 そうした上で、ここはジーン・ハックマン演じる、ポーランドのソサボフスキー中将の出番だなとなったら、ポーランドの欄に目をやり、使う話を選ぶ。そうやって、史実に基づいた内容を盛り込んでいった。 ゴールドマンはこの作業を繰り返して、膨大な原作を解体・再構成。脚本を書き上げたのである。 因みにシーンと登場人物を結び付けて観客に理解させるためにも不可欠だった、大スターたちの出演交渉は、主にアッテンボローの担当だったという。大金を持って、何人ものスターの元を訪れた。脚本家のゴールドマン言うところの「爆撃」を以て、ショーン・コネリーやマイケル・ケイン、ダーク・ボガート等々を、次々と陥落した。 しかしアッテンボローは、俳優として『大脱走』(63)『砲艦サンパブロ』(66)で共演し、親しくしていたスティーヴ・マックィーンの出演交渉には、失敗。彼がギャラを「9億円」要求したため、折り合いがつかなかったと言われる。結局マックィーンの代わりに出演が決まったのは、「6億円」のレッドフォードだった…。 撮影現場にリアリティーをもたらすためには、アッテンボローは、演技ではない“本物”が必要と考えた。そこで彼は、100名のイギリス人若手俳優たちに、クランクイン前の数週間、訓練を施すことにした。 それは、お茶の飲み方から銃器の取り扱いまで、兵士らしい立ち居振る舞いができるようにする特訓。「アッテンボローの私有軍隊」と謳われた、この若手俳優たちが撮影現場に居ることで、スタッフから大スターたちまで、「ヘタなマネはできない」という、良い緊張感が生み出されたという。 実際に「マーケット・ガーデン作戦」に参加して、本作にも実名で登場する英米の司令官や指揮官を、テクニカル・アドバイザーとして現場に招いた。これもまた、戦場や軍のリアリティーを強めるのに、寄与した。 戦場を再現するための、CGなき時代の大物量作戦も凄まじい。ヨーロッパ各国の軍隊や博物館、美術館からコレクターまで協力を得て、大量の戦車や軍用機を調達。使用した火薬量は、19,250㎏にも及んだという。 圧巻なのは、オランダ陸軍空挺部隊の協力を得て撮影された、大規模な空挺降下のシーン。風の影響などもあって、想定通りには進まないこのシーンを撮るためには、19台のカメラが用意された。その際に活躍したのは、ドキュメンタリーのカメラマンたち。何が起こっても即応し、フィルムに収められる者を集めたのである。 光学合成などの後処理が行われた部分はあるものの、スピルバーグの『プライベート・ライアン』(98)で、戦争映画の描写が決定的に変わってしまうよりも、21年も前の作品。当時としては、考え得る限りのリアリティーを求める試みが、為されたと言える。 それだけの巨額と物量を投じて、アッテンボローは自覚的に「反戦映画」として、『遠すぎた橋』を作っている。ヒトラーの殲滅という大義はあろうとも、「戦争は、最低の最終手段」であり、「いかなる理由や目的があっても、武力行使は人間としての良識を欠いた、自尊心を否定する行為」という主張なのである。 そして本作はまた、アッテンボロー版の「失敗の本質」とも言える。本作に於いては、作戦の実行者であり責任者として描かれるのは、ダーク・ボガート演じるフレデリック・ブラウニング中将。彼は作戦を決行する上で、都合の悪いデータは見なかったことにして、その報告者は左遷してしまう。作戦の明らかな失敗を受けても、「われわれは遠すぎた橋に行っただけだ」と嘯くのみだ。 この辺りのブラウニング中将の描き方は、その家族や関係者から、抗議を受けたり、不快感を示されたりもしたという。しかしアッテンボローは、徹底したリサーチの上で、自分たちの判断を示したと、揺るがなかった。 実際のところで言えば、「マーケット・ガーデン作戦」の発案者且つ最高責任者は、先に記した通り、イギリスのモントゴメリー元帥。映画の製作中はまだ存命であったために、このような描写になったとも言われる。本作には俳優が演じるモントゴメリーは、登場しない。 因みにモントゴメリーはその著書で、「マーケット・ガーデン作戦」を次のように回顧している。「…オランダの大部分を開放し、それにつづくラインランドの戦闘で成功を収める飛び石の役割を果たしたのである。これらの戦果を収めることができなかったら、一九四五年三月に強力な軍をライン河を越えて進めることはできなかったであろう…」 その上で彼は作戦を、「90%は成功」と強弁したとされる。 中1で『遠すぎた橋』を鑑賞した時は、後に非暴力主義の偉人を描いた『ガンジー』(82)や、南アフリカでのアパルトヘイトを告発する『遠い夜明け』(87)を製作・監督することになるアッテンボローの本意を、読み取ることが出来なかった。しかし時を経て次第に、彼が描きたかったものに思いを致せるようになっていくと、本作を観る目も変わっていった。 そしてこの夏、新型コロナ禍の中で「TOKYO2020」なるイベントの強行を、私は目にすることとなった。『遠すぎた橋』に於ける、「都合の悪い情報は無視」「部下たちに忖度させる」「責任は決して取ろうとしない」指揮官の姿は、更に趣深く映るようになったのである。■
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COLUMN/コラム2021.08.30
ワイルダー&レモン 黄金コンビの最高傑作『アパートの鍵貸します』
アメリカ映画史に燦然と輝く、名匠ビリー・ワイルダー。彼が1940年代、パラマウント・ピクチャーズを拠点としていた頃から、温めていた企画が2つあったという。50年に映画化を実現した、『サンセット大通り』と、本作『アパートの鍵貸します』(60)だ。 ワイルダーが『アパート…』の着想を得たのは、ノエル・カワードの原作・脚本を、デヴィッド・リーンが監督したイギリス映画『逢びき』(45)を観てのことだった。元祖“不倫映画”の名作と言われるこの作品では、お互い家庭を持つ男女が、逢瀬の場として、男の友人のアパートを利用しようとする。 ワイルダーはそこから、アパートを使われてしまった、友人の男性のことに思いを馳せた。帰宅して、恋人たちが帰ったばかりで、生温かいベッドへと潜り込む。自分には恋人もいないのに…。 しかし当時のアメリカ映画の基準だと、内容が些か「不道徳」に過ぎる。いずれ舞台劇にでもと考えて、この着想は、しばしワイルダーの脳内に寝かされることになる。 そしてやって来た50年代、ワイルダーは黄金時代を迎える。先に挙げた『サンセット大通り』を皮切りに、『地獄の英雄』(51)『第十七捕虜収容所』(53)『麗しのサブリナ』(54)『七年目の浮気』(55)『翼よ! あれが巴里の灯だ』(57)『昼下りの情事』(57)『情婦』(58)『お熱いのがお好き』(59)と、ほぼ1年に1本ペースで、新作を発表。社会派作品から、サスペンス、ラブストーリー、実話もの、そしてコメディまで、ジャンルは幅広く、しかもそのいずれもが、今日では「クラシック」として讃えられる作品ばかり。 1906年生まれ。50代中盤を迎えようとしていた頃のワイルダーは、まさに円熟期と言えた。 『お熱いのがお好き』(59)を撮り終えた後、ワイルダーは、『お熱い…』で初めて起用したジャック・レモンの主演で、もう1本撮りたいと考えた。そして、『昼下りの情事』以降コンビを組むようになった、脚本家のI.A.L.ダイアモンドと頭をひねっていると、件の不倫カップルにアパートを貸す男のことを思い起こした。 かつては、映画にするには「不道徳」と思われた内容だったが、60年代に入る頃には、検閲も緩和されていた。時を経て、製作できる状況になっていたのである。 主人公の役柄と状況は、ワイルダーが温めていた通りでイケる。ではストーリーは、どうするか? ヒントになったのは、1951年にハリウッドで起こった、スキャンダラスな事件だった。後に『エアポート』シリーズなどのプロデューサーとして活躍するが、当時は俳優のエージェントだったジェイニングス・ラングが、依頼主である女優のジョーン・ベネットと浮気。それを知った、ベネットの夫で著名なプロデューサーのウォルター・ウェンジャーが、ラングを銃で撃ったのである。 この時ラングは、部下のアパートを利用して浮気をしていた。ここから、映画の中の人間関係が決まった。大会社に勤める平社員が、上司にアパートを利用されるという構図だ。 このようにして話がまとまると、ワイルダーは、ジャック・レモン、プロデューサーのウォルター・ミリッシュ、製作会社のユナイテッド・アーティスツに提案。映画化の運びとなった。 *** ニューヨークの保険会社に勤めるバド(演:ジャック・レモン)は、4人の部長が愛人と密会するための場として、自分のアパートを提供していた。そして彼らの口添えで、昇進を手にする目前となった。 ところが、人事を握るシェルドレイクに呼び出され、そのカラクリがバレてしまう。ピンチと思いきや、シェルドレイクも、バドのアパートを使いたいという。それと引き換えに、遂にバドは課長補佐へと昇進する。 出世したバドは、以前から思いを寄せていたエレベーター係のフラン(演:シャーリー・マクレーン)にモーションをかける。しかし彼女こそが、シェルドレイクの密会の相手であった。 クリスマス・イブ、それに気付いてやけ酒を煽ったバドがアパートへと帰ると、睡眠薬で自殺を図ったフランが、倒れていた。シェルドレイクが、一向に妻と別れようとしない上に、今までに数多の女性と関係を持っていたことを知って、絶望してしまったのだ。 隣室の医師の助けで、バドはフランの命を救い、懸命に介抱する。そしてシェルドレイクに、フランは自分が引き受けると、宣言することを決意するが…。 *** 先に言及した通り、ジャック・レモンありきで、ワイルダーは本作の企画を進めた。レモンのことは、そのキャリアのはじめの頃から注目しており、『ミスタア・ロバーツ』(55)で彼がアカデミー賞助演男優賞を得た演技に関しては、「腹の皮がよじれるほど滑稽だった」などと評している。 念願叶って、『お熱いのがお好き』(59)に起用。この作品でレモンは、マフィアによる虐殺事件を目撃してしまったため、女装して逃避行する楽団員を演じた。それ以降レモンは、ワイルダーのお気に入り俳優No.1となり、2人のコンビ作は、トータルで7本にも及んだ。「彼のやることには何事によらず才能のきらめきが見られた」というワイルダー。例えば午前9時に撮影開始なら、8時15分にはスタジオ入りするような、レモンの振舞いも、高く評価した。 レモンはよく、ワイルダーのオフィスに「ねえ、すばらしいアイディアがあるんだ」と訪ねてきた。そしてしばらく話をした後、ワイルダーがからかうような目つきを返すと、「…わたしも気に入ってたわけじゃないんだ」と言って帰っていったという。 フランを演じたシャーリー・マクレーンは、本作と『あなただけ今晩は』(63)で、ワイルダー&レモンとトリオを組んでいるが、本作に関しては、当初不安を抱えていた。セットにワイルダーの妻が訪問した時、「ビリーはこれがいい映画になるってほんとうに思っているの?」などと尋ねたという。 結果的に彼女のキャリアの中でも、代表作と言える2本をプレゼントしてくれたワイルダーのことを、「…わたしの人生でとても重要な人物…」と言うが、同時にジャック・レモンに対して、強い羨望の念を抱かざるを得なかった。ワイルダーが「…ジャックに注目するのとおなじようには、わたしに注目してくれなかった」からである。「…仕事の面ではビリーは、ジャック・レモンに首っ丈。惚れこんでいたわ。わたしがセリフや演技についてアイディアを出しても、あまり聞きたがらなかったの。彼の注意を引くことができなかったー…」「ジャックといっしょのシーンでは、いつもいい演技をしなければならないとわかっていた。ビリーは、ジャックの出来がいちばんいいテイクを選ぶんですもの…」 シェルドレイク役には、当初ポール・ダグラスが決まっていた。しかし撮影開始2日前に、心臓発作で急逝。そこで白羽の矢を立てたのが、フレッド・マクマレーだった。 しかしマクマレーは、二の足を踏んだ。ディズニーと契約中で、ファミリー・ピクチャーに出演することになっていたからだ。それなのに、浮気者の中年男の役なんて…。 マクマレーはワイルダー作品では、『深夜の告白』(44)の出演をオファーされた際にも、躊躇したことがある。その頃の彼は、コメディに数多く出演。サスペンス映画で“殺人者”の役などは、荷が重いと感じたのである。 結局『深夜の…』の時と同様、マクマレーは『アパート…』にも出演することを決めた。こうして彼のキャリアの中では、ワイルダー監督作は、異色の2本となった。 巧みなストーリーテリングやキャラクターの造形に、舌を巻く本作。同時に、美術や小道具の使い方にも、注目していただきたい。 まずはバドが勤める、見るも巨大で奥行きのあるオフィス。美術監督アレクサンドル・トロ―ネルが、遠近法を駆使して作り上げたものである。 こちらのオフィスのセットは、実は奥へ行くにつれて、机や椅子が小さくなっていく。そして配置されたエキストラも、どんどん小柄になっていく。更にその奥では、小さな子どもに、大人の服装をさせた。更に更に奥には、最小限のサイズの机と、紙に描いて切り抜いた人形を用意した。 本作の小道具として、あまりにも有名なのは、コンパクト。開けると、ひび割れた鏡が出てくる。このコンパクトによって、主人公はそれまで気付かなかった事実を知る。セリフによる説明を省略する役割を果たすわけだが、具体的にどのように機能しているかは、本編を見てのお楽しみとしたい。 コメディ・リリーフ的な役割を果たすのは、バドのキッチンに置かれたテニスラケット。バドがスパゲッティをゆでる際、ざるの代わりに湯を切るのに使う。このテニスラケットが、独身男であるバドのキャラを表すと同時に、演じるレモンの軽妙な振舞いを引き出す。 テニスラケットのアイディアは自分が出したと、ワイルダーは主張している。しかし相方のダイアモンド曰く、「…ビリーはグルメだから、あのジョークが好きじゃないんだ。彼がいやな顔をしたのを憶えているよ…」 さてダイアモンドの回想から、もう一点印象深い話を引用する。本作を撮り終えて、4カ月ほど経った頃の話である。バーで飲んでいた時に、ワイルダーが突然叫んだ。「あの映画をどうすべきだったかわかったぞ!レモンをなんらかの障害者にすべきだったんだ。そうすれば、もっと同情できる登場人物になっていただろう」 しかし後年になると、ワイルダーは本作のことを、「もう一度やり直したいと思わない数少ない映画の一本…」と言うようになる。 本作は初公開時に、興行的にも批評的にも、大成功を収めた。ジャック・レモンの演技を、「チャップリンの再来!」と絶賛した新聞評も出た。 アカデミー賞では10部門にノミネートされて、5部門で受賞。プロデューサーも兼ねていたワイルダーは、作品賞、監督賞、脚本賞と、1本の作品で3本ものオスカーを得た、史上初の映画人となった。 その時プレゼンターだった劇作家のモス・ハートは、ワイルダーにオスカーを授与する際、こんな耳打ちをしたという。「ここらがやめどきだよ」。 確かに『アパート…』のような傑作を放ってしまうと、同じレベルを維持していくのは、困難である。この後60~70年代に掛けても、水準以上の作品を送り出し続けたワイルダーだったが、振り返ってみれば、確かに本作がピークであった。 それ故に、「もう一度やり直したいと思わない数少ない映画の一本…」と、後に語るようになったのかも知れない。 さて最後に、この作品の有名なラストシーンに関わることに触れたい。本作未見の方は、この後の文は、読むのを後回しにしてもらった方が良いかも知れない。 シェルドレイクの元を去り、バドのアパートへと向かうフラン。部屋のそばまで来ると、銃声のような音が鳴り響く。バドが以前にピストル自殺を図ったことがあると聞いていたフランは、大慌てで部屋のドアをノック。バドがシャンパンの蓋を開けただけとわかって、ホッとする。 フランは部屋に入ると、以前にケリがつかなかったトランプのゲームをやろうと誘う。愛の告白をしようとするバドを遮って、「黙って札を配ってよ」で、“THE END”である。 さてこのラストシーンについて、「めでたしめでたし」なのかと、よく問われたワイルダーは、そうではないと考えていた。2人は似合いのカップルではない上、バドは失業中で、フランもこの後に職を失うのは、必至。金がなくなれば、人間関係がギスギスするし、どちらもそんなに器用なタイプではない。 ラストで2人が居るアパートにはやがて、「…“貸し室”の札がかけられるようになるんじゃないかな」というのが、“皮肉屋”のワイルダーの見解だった。 ところがそんなワイルダーが、最晩年になると、考えが変わる。「…いまではあのふたりがうまくいったと思っているよ。結婚生活は長つづきして、ふたりはもっといいアパートに入っただろう」 ワイルダーは1949年に、女優のオードリー・ヤングと結婚をする。彼にとっては2回目の結婚だったが、2002年に95歳でこの世を去るまで、彼女と連れ添った。 ワイルダーはバドとフランのその後について考えが変わった理由として、「…もしかしたらオードリーとの結婚生活のせいで、ロマンティックになったのかもしれない…」と、説明していた。■ 『アパートの鍵貸します』© 1960 Metro-Goldwyn-Mayer Studios Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2021.08.31
ジャームッシュの日本御目見え『ストレンジャー・ザン・パラダイス』は、“事件”だった!
「『ザンパラ』観た?」 1986年、大学2年の春。所属していた大学映研の部室で、合言葉のようになっていた。『ザンパラ』とは、本作『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(84)の略称。もう35年も前の話だが、現在文芸や映画評論の世界で活躍する諸先輩が、そうした熱をリードしていた記憶がある。 確かに本作は、“事件”だった。今や吉本興業のコヤと化した、有楽町のスバル座で単館公開されるや、社会現象となり、若者たちが話題にする作品となった。 その年の「キネマ旬報」ベストテンを見ても、ウディ・アレンの『カイロの紫のバラ』(85)や、『蜘蛛女のキス』(85)を抑えて、“第1位”に。これは批評家など専門家が選んだものだが、読者選出、即ち映画ファンが選んだベストテンでも、ジェームズ・キャメロンの『エイリアン2』(86)やスピルバーグの『カラーパープル』(85)など、拡大公開されたヒット作に続いて、“第4位”にランクインしている。 さて私は『ザンパラ』にどう相対したかと言うと、その年の春は諸々事情があって、ろくに映画館に足を運べない状況。夏が近くなってスバル座での公開が終わり、国電有楽町駅を挟んで反対側の、有楽シネマという、やはり今はなき映画館へとムーブオーバーした頃、ようやく観るタイミングが訪れた。 ところがまさにその時、愛知に住む母方の祖父が重篤との報。急遽その入院先に向ったため、初公開時は遂に見逃してしまった。 結局『ザンパラ』との邂逅は、かなり後年になってから。その時私が思ったのは、『ザンパラ』は、製作時に30代はじめだった監督の、まさに「若さの勝利」だったということ。そしてやっぱり、自分が学生だったあの頃に、「時代の空気」と共に観ることこそ、「最高」だったに違いないと、口惜しい気持ちにもなった。 個人的な想い出は、このぐらいにしよう。『ザンパラ』の、3部構成から成る内容を紹介する。 *** <The New World> ハンガリー出身で、ニューヨークに住んで10年のウィリー。16歳の従妹エヴァが、ブダペストからやって来るのを、10日間ほど預かることになる。 エディという友人と、競馬やバクチで生活を立てているウィリー。エヴァが色々尋ねても、迷惑そうに受け答えする。しかし日が経ち、2人は段々と打ち解けてくる。 そしてエヴァが、クリーブランドに住むおばの元へと、出発する日が来た…。 <One Year Later> 1年後、ウィリーとエディは、いかさまバクチで儲けた金で、旅に出る。行き先は、エヴァの住むクリーブランド。 予告なしに、エヴァが暮らす、ロッテおばさんの家を訪れてから、エヴァの勤めるホットドッグスタンドへと迎えに行く。 エヴァとそのボーイフレンドと一緒にカンフー映画を観たり、ロッテおばさんとトランプをしたり、雪が降る日に何も見えない湖に行ったり。 数日間を過ごした2人は、ニューヨークに帰ることにしたが…。 <Paradise> 金がまだ残っていることに気付いたウィリーとエディは、エヴァを誘って、常夏のフロリダに向かう。 安モーテルに3人で泊まったが、男2人はいきなり、ドッグレースで有り金ほとんどを失う。しかし懲りずに、競馬で取り返すため、出掛けていく。 放っておかれたエヴァは、土産物屋で買ったストローハットをかぶり海辺へ。そこで麻薬の売人と勘違いされ、大金を渡される。 競馬に勝って帰ってきた男2人は、エヴァの置手紙を見て、空港に急ぐ。ハンガリーに帰ってしまおうかと考えたエヴァを、ウィリーは引き留めようとするが…。 *** 『ストレンジャー・ザン・パラダイス』というタイトルには、「これが本当にパラダイス?」という皮肉がこめられている。初公開時の劇場用プログラムで、そう指摘しているのは、川本三郎氏。 同じプログラムには、「みなさまからハガキをいただきました」という形で、感想や推薦コメントが掲載されている。今のような“大作家”になる以前の村上春樹のコメントは、~とても面白い映画で、知人にも勧めております。ゴダールをもっとポップにした感じだけど、嫌み・臭みがないのが良かったです~というもの。 他に坂本龍一や評論家の浅田彰などのコメントが並ぶ中で、最も的を射ているように思えるのが、コラムニストの中野翠のコメント。~好意のかみ合わない3人。めぐり会わない3人。性の匂いのない3人。あらゆる否定形の中をさすらうところに「青春」をみつけ、描き出してしまったこの監督のセンスに驚く。「ない」ということをドラマにしてしまうとは!~ 本作監督のジム・ジャームッシュは、1953年生まれ。オハイオ州出身で、71年にニューヨークのコロンビア大学文学部へ入学し、作家を目指した。 大学の最終学年にパリに留学し、そこで映画にハマる。シネマテークへと通い、古今東西の作品を浴びるように観る半年間を送ったのである。 帰国後も執筆活動を続けた彼だが、書くものが、視覚的・映画的になっていることに気付く。75年には、ニューヨーク大学の映画学科に入学。本格的に映画を学び始める。 しかし課程の途中で、授業料を払う金がなくなった。ジャームッシュは中退して、学外で映画を作ろうと決心。講師の元に報告しに行くと、そこにたまたま映画監督のニコラス・レイが居た。 レイは、『大砂塵』(54)や『理由なき反抗』(55)などで知られ、ヌーヴェルヴァーグの監督たちからもリスペクトされる存在で、ニューヨーク大学では教壇に立っていた。ジャームッシュとはその時が初対面だったが、すぐに意気投合。レイの教務アシタントを務めることになったジャームッシュは、大学をやめずにすんだ。 やがてジャームッシュは、最晩年のレイの姿を捉えたドキュメンタリー映画『ニックス・ムービー/水上の稲妻』(80)の手伝いをすることになる。そしてその監督を務めた“ニュージャーマンシネマ”の雄、ヴィム・ヴェンダースと出会う。 79年に恩師のレイが亡くなると、ジャームッシュは監督第1作となる、『パーマネント・ヴァケーション』(80)を撮る。この作品はヴェンダースの会社などがヨーロッパで配給し、アート系作品として話題になるも、本国では注目されることなく終わった。『ザンパラ』を撮り始めたきっかけも、やはりヴェンダース。監督作品『ことの次第』(82)で余ったフィルム、いわゆる端尺を提供し、短編映画を撮るよう促したのである。 ヴェンダースがジャームッシュに贈ったのは、高感度のモノクロフィルムで、尺は40分程度。これで10分弱ぐらいの短編が出来れば良いと、ヴェンダースは考えていたが、ジャームッシュは何と30分の作品を完成させる。それが3部構成の本作第1部に当たる、<The New World>である。 まずは友人のミュージシャンであるジョン・ルーリーと共に、ストーリーを作る。当初は男2人が、登場する物語だった。 その後ジャームッシュは、移民のアヴァンギャルド劇団のメンバーで、ハンガリーから来たエスター・バリントに出会う。そして彼女にも、自作に出演してもらいたいと考えた。 ジャームッシュは、ルーリーと作ったキャラは、そのまま彼に演じてもらうウィリーに生かし、その従妹のエヴァが登場する話に書き直した。そしてバリントに、この役を演じてもらった。 ウィリーの友人エディ―役には、ミュージシャンのリチャード・エドソンを当てた。エドソンは、ルーリーの友人だった。 即ち本作は、ストーリーを書いた時点で、誰がどの役を演じるのかが、決まっていた。キャストの3人は皆、ジャームッシュがよく知っている者たち。長い時間を一緒に過ごしており、どうコミュニケーションすれば良いか、延いてはどう演出すれば良いかも、わかっていた。 ジャームッシュ曰く、~もし俳優がひとりでも変われば、ストーリーもちがってくる~。本作以降の作品でも彼は、自分の知っている人物を当てはめないと、役柄を書くことが出来ないという。またリハーサルまでは、脚本は単なるスケッチ。出発点はあくまでも登場人物で、ストーリーはその後に来るとも語っている。 例えば監督第3作の『ダウン・バイ・ロー』(86)でも、ジョン・ルーリーはもちろん、トム・ウェイツにも、それまでに築いた関係を通じて、作り上げたキャラを演じてもらっている。『ミステリー・トレイン』(89)の日本人カップルが登場するパートも、日本映画の『逆噴射家族』(84)などを観て、工藤夕貴を念頭に置いて脚本を書いた。 フォレスト・ウィテカーのためには、『ゴースト・ドッグ』(99)、ビル・マーレイを想定しては、『ブロークン・フラワーズ』(05)と、それぞれ俳優ありきで、作品を作る。 11の作品からなるオムニバス映画『コーヒー&シガレッツ』(03)では、各エピソードに出てもらいたい俳優の組み合わせを考えて、オファー。OKが出たら、スクリプトを書くという作業を繰り返した。 話を<The New World>に戻すと、ヴェンダースの端尺をベースに、製作費8,000ドルで撮ったこの作品は、新人監督の登龍門として名高い、「ロッテルダム国際映画祭」などで評判になった。 そこで、この作品を第1部として、3部構成の1本の作品に仕立てる構想が発動。しかし無名のインディーズ監督の作品に、そう簡単に製作費は集まらない。 助け舟を出したのは、ロジャー・コーマン門下で、『デス・レース2000年』(75)などを監督した、ポール・バーテル。ジャームッシュの脚本に惚れ込み、資金提供を申し出た。 製作費12万ドルで完成した本作は、84年の「第37回カンヌ国際映画祭」で、カメラ・ドール=新人監督賞を受賞。それに止まらず、「全米映画批評家協会賞」をも手にする。 そうした欧米での高い評価を以ての、日本上陸であった。先に紹介した、劇場用プログラム掲載の、感想や推薦コメントの中には、件の中野翠氏の的確な指摘とはまた違った意味で、興味深いコメントが並んでいるので、引用する。 ~この映画は、時間の流れに従って場面を素朴に継いでいる。しかし、映画というものの本質を実に単純明快に摑んでいて、サイレント映画の手法を活用した場面と場面の黒コマの長さも適確だし、一つ一つの場面にはチャップリンを思わせる驚く程行き届いた眼が光っている。一見、プリミティーブに見えるが、大変熟練した腕前だ…~(黒澤明) ~ブラック・アンド・ホワイトの荒涼たる風景に血の色がにじみだす。一人の作家が一生に一度しか撮れない「青春映画」に特有の、あの限りなく優しく悲しい血の色が。~(大島渚) ~とても感心しました。三人の貧しい若者たちに熱い熱情のまなざしをなげかけながら、自由への憧れをせつせつと謳った作品。…~(山田洋次) 黒澤、大島、山田と、日本映画界をリードしてきた面々のコメントは、作り手達がジャームッシュの登場を、当時どう見たかという証言として見逃せない。その上で各々のコメントに、それぞれの“作家性”まで滲み出ている点が、趣深くもある。 さて『ザンパラ』で、赫赫たる成果を上げたジャームッシュには、青春映画からTVの刑事ドラマまで、監督のオファーが届くようになった。しかし本人が、「キャスティングと編集をコントロールできない映画は作らない」「雇われ監督になることに興味はない」という強い意志で、それらを退けた。 処女作から40余年。ヨーロッパや日本などからも製作資金を得ながら、ほぼインディーズ一筋で撮り続けたジャームッシュ。監督作は10数本とはいえ、そのすべてが日本公開されているというのは、なかなかスゴいことである。 しかも現在のところの最新作『デッド・ドント・ダイ』(19)に、ビル・マーレイ、アダム・ドライバー、ティルダ・スウィントンから、イギー・ポップ、セレーナ・ゴメス等々のキャストが集まったことでもわかるように、ジャームッシュ作品は低予算ながらも、結構なスター俳優が喜んで出演するようになっている。 35年前、33歳時の鮮烈な日本デビューから歳月が流れ、ジャームッシュも、68歳。しかしある世代にとっては、彼は“青春”の象徴のままと言える…。■ 『ストレンジャー・ザン・パラダイス』© 1984 Cinesthesia Productions Inc.
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COLUMN/コラム2021.10.01
スコセッシ&デ・ニーロ。名コンビが『レイジング・ブル』でなし遂げたこと。
30代中盤を迎えたマーティン・スコセッシは、心身ともに疲弊の極みにいた。『ミーン・ストリート』(1973)『アリスの恋』(74)、そして『タクシー・ドライバー』(76)の輝かしき成功を受けて、意気揚々と取り組んだ『ニューヨーク・ニューヨーク』(77)が、興行的にも批評的にも、惨憺たる結果に終わってしまったのである。私生活で2番目の妻と離婚に至ったのも、大きなダメージとなった。 どん底から這い出すきっかけとなったのは、78年9月。入院していたスコセッシを、ロバート・デ・ニーロが見舞った時のことだった。「よく聞いてくれ、君と俺とでこれをすばらしい映画にすることができる。やってみる気はないか?」 デ・ニーロが言った「これ」とは、本作『レイジング・ブル』(80)のこと。盟友の誘いにスコセッシも、「やろう」と答えたのだった。 と言っても本作の準備は、その時にスタートしたわけではない。それよりだいぶ以前から、進められていたのである。 本作の原作は、元ボクシング世界チャンピオンで、現役時代に“レイジング・ブル=怒れる牡牛”と仇名された、ジェイク・ラモッタの自伝である。それがデ・ニーロに届いたのは、『ゴッドファーザーPARTⅡ』(74)撮影のため、73年にイタリアのシチリア島に滞在していた時。その暴力的なエネルギーとラモッタの特異なキャラクターに惹かれたデ・ニーロは、『アリスの恋』に取り組んでいたスコセッシに、この題材を持ち込んだ。 脚本は、『ミーン・ストリート』『ニューヨーク・ニューヨーク』などで2人と組んだ、マーディク・マーティンに託された。スコセッシが当初は、デ・ニーロほどは本作に乗り気でなかったこともあって、その後しばらくはマーティンに任せっぱなしとなり、何年かが過ぎた。 77年になってから、2人はマーティンの脚本を読んで、不満を覚える。そのため執筆は、『タクシードライバー』のポール・シュレーダーへと引き継がれた。 しかし、シュレーダーが書き上げた脚本には、大きな問題があった。ラモッタの性格が暗すぎる上に、シュレーダー本人が「僕が書いた中で最高の台詞」というそれは、刑務所の独房に入れられたラモッタが、自慰をしながらするモノローグだった…。 この作品に本格的に取り組むことを決めたスコセッシと、それを促したデ・ニーロの2人で、脚本に手を加えることとなった。カリブ海に浮かぶセント・マーティン島に3週間ほど缶詰めになって、シュレーダーの書いた各シーンを再検討。必要ならばセリフを書き加えて、最終稿とした。 撮影に関してのスコセッシの申し入れに、製作するユナイテッド・アーティスツは、目を白黒させた。彼の希望は、「モノクロで撮りたい」というもの。70年代も終わりに近づいたこの時期に、正気の沙汰ではない。 この頃は『ロッキー』(76)の大ヒットに端を発した、ボクシング映画ブームの真っ最中。『ロッキー』シリーズ、『チャンプ』(79)『メーン・イベント』(79)、挙げ句はカンガルーのボクサーが世界チャンピオンと闘う『マチルダ』(78)などという作品まで製作され、続々と公開されていた。 スコセッシの希望は、当然のようにカラー作品である、それらのボクシング映画とは一線を画したいという、強い思いから生じたもの。そして同時に、当時浮上していた、カラーフィルムの褪色という、喫緊の課題に対するアピールの意味もあった。 その頃に撮影の主流を占めていた、イーストマンのカラーフィルムは、プリントは5年、ネガは12年で色がなくなってしまうという、衝撃的な調査結果が出ていた。撮影から上映まで、ほぼすべてがデジタル化した、現在の映画事情からは想像がつかないかも知れないが、映画の作り手にとっては、至極深刻な問題だったのである。「…僕はこれを特別な映画にしたいんだ。それになによりも黒白は時代の雰囲気を映画に与えてくれる」そんなスコセッシの思いは届き、ユナイトはモノクロ撮影に、OKを出した。 一時期は「これが最後の監督作」とまで思っていたスコセッシの元に、79年4月のクランク・インの日、1通の電報が届いた。差出人はシュレーダー。その文面は、“僕は僕の道を行った。ジェイクは彼の道を行った。君は君の道を行け”というものだった。 *** 1964年、ニューヨークに在るシアターの楽屋。1人のコメディアンが、セリフの暗唱を行っている。その男は、42才になるジェイク・ラモッタ(演:ロバート・デ・ニーロ)。でっぷりと肥え太ったその身体には、かつての世界ミドル級チャンピオンの面影はなかった…。 時は遡り、41年。19歳のジェイクは、デビュー以来無敗を誇っていたが、初めての屈辱を味わう。ダウンを7回奪ったにも拘わらず、判定負けを喫したのだ。 妻やセコンドを務める弟のジョーイ(演:ジョー・ペシ)に当たり散らすジェイクだったが、そんな時に市営プールで、15歳の少女ヴィッキー(演:キャシー・モリアーティ)に、一目で心を奪われる。妻がいるにも拘わらず、ジェイクはヴィッキーを口説いて交際を開始。やがて2人は、家庭を持つこととなる。 43年、無敵と謳われたシュガー・レイ・ロビンソンをマットに沈めるも、その後行われたリターンマッチでは、ダウンを奪いながらも判定負けとなったジェイク。これからのことを考えると、それまで手を組むことを拒んできた裏社会の大物トミーを、後ろ盾にする他はなかった。そして、タイトルマッチを組んでもらう見返りに、ジェイクは格下の相手に、八百長で敗れるのだった。 49年、フランスの英雄マルセル・セルダンに挑戦。TKOで、ジェイクは遂に世界チャンピオンのベルトを手に入れた。しかし栄光の座を得ると共に、異常なまでの嫉妬心と猜疑心が昂じて、ジェイクは妻ヴィッキーの浮気を執拗に疑うようになる。そしてあろうことか、公私共にジェイクを支え続けてきた弟ジョーイを妻の相手と思い込み、彼に苛烈な暴力を振るってしまう。 この一件でジョーイから見放され、やがてチャンピオンの座から滑り落ちることになるジェイク。54年には引退し、フロリダでナイトクラブの経営者となるが、ヴィッキーも彼の元を去る。 遂にひとりぼっちになってしまったジェイク。その行く手には、更なる破滅が待ち受けていた…。 *** スコセッシは言う。~『レイジング・ブル』はすべてを失った男が、精神的な意味で、すべてを取り戻す物語だ~と。 その原作者であるジェイク・ラモッタは、本作のボクシングシーンの撮影中、デ・ニーロに付きっきりで、喋り方からパンチのコンビネーションまで、自分のすべてを伝授したという。中でも口を酸っぱくして指導したのが、己のファイトスタイル。それは「絶対にホールドするな」というものだった。 本作ではデ・ニーロの共演者として、ジョーイ役のジョー・ペシとヴィッキー役のキャシー・モリアーティが、一躍注目の存在となった。ペシはデ・ニーロと同じ歳だが、それまではほとんど無名の存在。ペシの過去の出演作のビデオをたまたま目にしたデ・ニーロが、スコセッシにも観ることを勧めた。スコセッシも彼の演技に興味を引かれ、会ってみることにしたのである。 ところがその時、ペシは俳優の仕事に疲れ果てて、辞めようと決意したばかり。スコセッシのオファーを、真剣に取り合おうとしなかった。 スコセッシはペシを、何とかなだめすかして、セリフ読みをしてもらうと、その喋り方が非常に気に入ったという。更に即興演技をしてもらうと、やはり素晴らしかったため、ジョーイ役を彼に頼むことに決めた。 ジョー・ペシの起用によって、呼び込まれたのが、キャシー・モリアーティだった。1960年生まれで当時18歳だったキャシーは、高校卒業後にモデルをしながら、女優を目指していた。 ペシはキャシーの近所に住んでおり、彼女がヴィッキー・ラモッタに似ていることに気が付いた。キャシーは、ペシに頼まれて自分の写真を渡し、それをスコセッシが見たことから、本作のスクリーンテストを受けることとなったのである。そして次の日には、合格の電話を受け、見事ヴィッキーの役を射止めたのだった。 役作りに際しては、ジェイク・ラモッタ本人がベッタリ付きだったデ・ニーロとは真逆に、キャシーは自分が演じるヴィッキーと会うことを、スコセッシに禁じられたという。ヴィッキー本人がセットを訪れた際も、キャシーは顔を合わせないように、仕向けられた。演技はほぼ素人で、すべて直感で演じたというキャシーが、ヴィッキーの影響をヘタに受けないようにするための配慮であったと思われる。 さて主演のデ・ニーロ。本作での役作りこそ、彼の真骨頂と言って差し支えなかろう。チャンピオンを演じるために、タイトルマッチに挑むプロボクサー以上のトレーニングを積んだのは、まだ序の口。引退後のでっぷりと太ったラモッタを演じるため、4カ月で25㌔増量という荒技に挑んだ。 フランスやイタリアまで出掛け、お腹が減らなくとも1日3回、高カロリー食を詰め込むという苦行を繰り返す。それによってデ・ニーロは、体重を72.5㌔から97.5㌔まで増やすのに、成功したのである。 役に合わせて、顔かたちや体型まで変化させる。当時はまだそんな言われ方はしてなかったが、本作ではいわゆる“デ・ニーロ・アプローチ”の究極の形が見られる。逆に『レイジング・ブル』があったからこそ、“デ・ニーロ・アプローチ”という言葉が生まれ、一般化したとも言える。 では、そんなデ・ニーロが挑むボクシング試合。スコセッシはどんな手法で作り上げたのか? 通常のボクシング映画では、リングの外に数台のカメラを置き、様々なアングルから捉えたものを、編集するというやり方が一般的である。ところが本作撮影のマイケル・チャップマンが回したカメラは、1台だけ。しかもその1台をリングの中に持ち込み、常にボクサーの動きに焦点を合わせた。 この撮影は、スコセッシが描いた絵コンテを、忠実になぞって行われた。それはパンチ1発から、マウスピースが飛んでいくようなところまで、各ショットごとに細かく描き込まれたものだった。 スコセッシは、リング上では観客がボクサーの眼を持つようにしたかったという。観客自身が、殴られているのは自分だという意識を持続するように。それもあって、試合のシーンでは、絶対に観衆を映さなかった。 サウンドも、リングで戦うジェイクの立場から作ることを決めていた。パンチがどんな風に聞こえるか? 観衆の声は、どんな風に届くのか? ライフルの発射音やメロンの潰れる音などを駆使して、結局ミキシングには、当初予定していた7週間の倍の時間が掛かったという。 本作で初めてスコセッシ作品に参加し、後々彼の作品には欠かせない存在になっていく、編集のセルマ・スクーンメイカー。彼女はこう語っている。「…監督があらかじめとことん考え抜いておかなければ、『レイジング・ブル』のような映画の編集は生まれてこないわ。あの映画を偉大にしているのは背後にある考え方であって、それはもちろん私のでなくてスコセッシのものなのよ」『レイジング・ブル』は、アカデミー賞で8部門にノミネートされ、デ・ニーロに主演男優賞、スクーンメイカーに編集賞が贈られた。この年はロバート・レッドフォードの初監督作『普通の人々』があったため、作品賞や監督賞は逃したものの、スコセッシの見事な復活劇となった。 ~『レイジング・ブル』はすべてを失った男が、精神的な意味で、すべてを取り戻す物語だ~ それはこの作品に全力を投じた、スコセッシにも当てはまることだった。■ 『レイジング・ブル』© 1980 Metro-Goldwyn-Mayer Studios Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2021.10.12
エドワード・ズウィック積年の夢の実現と、それに応えて羽ばたいた日本人キャストたち『ラスト サムライ』
エドワード・ズウィックにとって、本作『ラスト サムライ』(2003)の製作は、長年抱いてきた夢だった。 1952年生まれの彼は、17歳の時に黒澤明監督の『七人の侍』(54)を観て、黒澤映画を1本残らず研究しようと決意。それが、フィルムメイカーへの道に繋がった。 ハーヴァード大学に進むと、彼を指導したのは、エドウィン・O・ライシャワー。日本で生まれ育ったライシャワーは、61年から5年間、駐日アメリカ大使を務め、ハーヴァードでは、日本研究所所長の任に就いていた。 その門下で歴史を学ぶようになったズウィックが、特に興味を持ったのが、日本の“明治維新”。ズウィック曰く、「どの文化においても、古代から近代への移行期というのはとりわけ感動的でドラマティックです…」「周りを取り巻く文化全体も混乱を極めている時代に、個人的な変容を経験していく登場人物を観察するということには、感動する何か、我を忘れるほどの魅力があるのです」 ズウィックは、『グローリー』(89)や『レジェンド・オブ・フォール/果てしなき想い』(94)といった監督作、アカデミー賞作品賞を獲った『恋に落ちたシェイクスピア』(98)といったプロデュース作などで評価を得ながら、本作の構想を固めていく。そして『グラディエーター』(00)などの脚本家ジョン・ローガンと組んで、シナリオ執筆を進めた。 出来上がったシナリオを、トム・クルーズに送ると、日本人の“サムライ魂”に関心があったというトムはすぐに気に入り、主演及びプロデューサーとして、本作に参加することが決定。スーパースターを得たことで、本作の製作は、本格的に進められることとなった。 アクションには、ノースタントで挑むことで知られるトム・クルーズが、本作で演じるのは、元アメリカ軍人で日本へと渡るネイサン・オールグレン。二刀流の剣術や格闘術、乗馬をこなす必要があったため、撮影までの約1年間、毎日数時間掛けて厳しいトレーニングを行ったという。 *** 時は1870年代。かつては南北戦争の英雄と讃えられたネイサンだったが、ネイティブ・アメリカン虐殺に加担して受けた心の疵が癒えないまま、酒浸りの日々を送っていた。 そんな彼が、大金を積まれてのオファーを受けて、軍事教官として日本に赴くことに。雇い主は、誕生して日も浅い明治新政府の要人・大村(演;映画監督の原田眞人)だった。 新兵たちの訓練が行き届かない内に、政府への反乱を討伐するための、出動命令が下る。ネイサンの「まだ戦える状態ではない」との主張は退けられ、彼もやむなく同行することとなる。 反乱を率いるのは、明治維新の立役者の一人だった、勝元盛次(演:渡辺謙)。大村らを軸に近代化政策が進められる中で、かつてのサムライたちがないがしろにされていく流れに抗して、野に下っていた。 ネイサンの危惧通り、出動した部隊は、サムライたちの猛攻にひとたまりもなかった。ネイサンは孤軍奮闘するも、瀕死の重傷を負い、囚われの身となる。 山中の農村へと運ばれたネイサンは、勝元の妹たか(演:小雪)の看病を受け、次第に回復。村人たちの素朴な生活に癒され、やがてサムライたちの精神世界に魅せられていく。 剣術の鍛錬を始めたネイサンは、サムライたちのリーダー格である氏尾(演:真田広之)と手合わせを行う。はじめは歯が立たなかったが、遂には引き分けるまでに腕を上げる。 ネイサンは、勝元とも固い絆で結ばれていく。そして、信念に敢えて殉じようとする勝元たちと、最後まで行動を共にすることを決意するのだったが…。 *** ズウィックが影響を受けたことを認めているのが、日本文学研究者のアイヴァン・モリスの著書「高貴なる敗北―日本史の悲劇の英雄たち」。この中で取り上げられた、新政府の樹立に加担するも、やがて叛旗を翻す西郷隆盛の物語に強く惹かれたという。 本作に於ける勝元盛次が、不平士族の反乱を起こした、西郷や江藤新平をモデルにしているのは、明らかだ。舞台設定である1877年は、実際に西郷が“西南戦争”を戦い、命を落とした年である。 また敵役となる大村の名は、明治政府で兵制の近代化と日本陸軍の創設に尽力した大村益次郎から取ったものと思われる。但しキャラ設定的には、当時政商として暗躍した岩崎彌太郎と、西郷を失脚に追い込んだ大久保利通を、足して2で割ったようなイメージだが。 さてトム・クルーズ主演作であるが、本作の場合、日本人俳優のキャスティングが肝要だった。その役割を担ったのは、日本では作詞家・演出家としても著名な、奈良橋陽子。日本やアジア圏の俳優をハリウッド映画などに紹介する、キャスティング・ディレクターとしての歩みを、本格化させていった頃の仕事である。 奈良橋はズウィックに、様々な映像資料等を送付して、やり取り。彼が来日するまでにある程度の人数に絞り込んでは、オーディションのセッティングを行った。 日本でのキャスティングは、トムの参加が決まる前、即ち本作製作に正式なGOサインが出る前から、秘かに進められていた。ある時はズウィックの来日に合わせて体育館を借り切り、真田広之をはじめ殺陣ができる俳優たちを集め、ショーを見せたという。 カメラマンも一緒に来日して撮影したというこの殺陣ショーに、監督は大喜びで、「この映画を絶対に撮るんだ」と決意も新たに帰国。トムの主演が決まったのは、それから数か月後のことだった。 その後真田をはじめ、小雪や明治天皇役の中村七之助等々、キャストが次々と決まっていく。そんな中で難航したのが、最も重要な勝元役だった。 実は奈良橋は、NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」(87)をはじめ、時代劇俳優の印象が強い渡辺を、ズウィックに最初に紹介して、京都のホテルでインタビューを受けてもらっている。しかしこの時は渡辺の印象が、なぜか監督の頭に残ることがなかった。 勝元役が決まらない中で、奈良橋はズウィックに、もう1回渡辺と会ってもらえないかと頼み、帝国ホテルのスイートルームでのオーディションをセッティングした。渡辺の英語力はまだそれほどではなかったというが、気負うことなく楽に役を演じたのが良かったか、ズウィックの目はオーディションの最中から輝き、終了して渡辺が部屋を出た瞬間には、「彼こそ勝元だ!」とガッツポーズを取ったという。 そんなズウィックが、クランクインが近づいた頃、新しい役を作ったと奈良橋に連絡してきた。その役名は“サイレント・サムライ”。農村に囚われの身となったネイサンを常に見張り、話しかけられても一切返事をしない、名前を名乗ることもない、“沈黙の侍”である。 奈良橋の著書によると、その時ふと思い浮かんだのが、福本清三だったという。東映の大部屋俳優で、その当時にして40年以上映画やTVドラマに出ては、2万回以上斬られてきたという、「日本一の斬られ役」である。 この辺り、福本にインタビューした書籍によると、彼のファンクラブのメンバーが、『ラスト サムライ』が製作されることを報じたスポーツ紙の記事を読んで、奈良橋に連絡を取り資料を送ったのが、きっかけだったという。福本本人は、そんなこととはつゆ知らず、ある時突然奈良橋から携帯に電話が掛かってきて、吃驚した。 福本は東京に呼ばれ、奈良橋の事務所で、半袖シャツにチノパンという出で立ちで、立ち回りや、彼の十八番である、斬られて海老反りで倒れるところなどを撮影。また“サイレント・サムライ”役ということで、「無表情の演技」も撮った。 そのビデオを監督に見せると、すぐに出演が決まった。東映太秦撮影所で旧知だった真田広之も、福本出演を聞いて、大喜びだったという。 さて『ラスト サムライ』は、日本でクランク・イン。姫路の圓教寺でのロケ後は、京都の知恩院で撮影を行った。 悲しいことに、日本のロケ事情の問題で、後は海外に19世紀の日本を再現しての撮影となる。ロサンゼルスのワーナー・ブラザースがスタジオ近くに持つ野外撮影用地は、普段はニューヨーク通りと言われ、西洋風の建造物が建ち並んでいる。ここを木材やファイバーグラスのタイルなど使って外観を飾り替えることで、文明開化の頃の東京、通称“エド村”を作り上げた。 “エド村”での撮影を終えると、ニュージーランドへ移動。田舎町に10億円を投じて借り切り、キャストやスタッフのための住宅を用意した。その近くの山の中には、畑、家屋、畦道まで精緻な仕上がりの、日本の農村が完成。クライマックスの戦闘シーンも、ニュージーランドでの撮影であるが、そのために日本から500人のエキストラを参加させ、本番のために数カ月間、本物の軍隊と同じ訓練を施した。 ズウィックの本作への思い入れもあってか、時代考証などは内外の専門家の意見を受けて慎重に進められた。ハリウッド映画に度々登場するような「おかしな日本」にならないように、最大限の努力を行っている。 またこの点では、真田広之の尽力も大きい。彼は出番のない日でも、セットを訪れて、衣装、小道具、美術などをチェックし、資料ではわからない着こなしや道具の使い方などのアドバイスを行ったという。 それでも「おかしな」ところは、見受けられる。例えば勝元の村に、暗殺部隊である“忍者”集団が現れたり、戦闘シーンではサムライたちが、明治時代にもなって甲冑を身に纏っていたり…。 この辺りは、監督はじめ主要スタッフも「あり得ない」ことは、理解していた。全世界で公開される“サムライムービー”として、観客のニーズに応えたと言うべきか?或いは黒澤映画の大ファンであるズウィックが、“時代劇”を撮る以上は、絶対やりたかった要素だったのかも知れない。 それから逆に考えて、なぜ日本の観客が「おかしい」と思うのかにも、思いを至らせた方が良い場合もある。当たり前のことだが、明治の日本や侍の時代を、実際に体験したことがある者は既に居ない。我々の基準は、日本のテレビや映画で観た“時代劇”から生まれている可能性が大いにある。 衣装デザイナーのナイラ・ディクソンは、素材の豊富な在り処を日本で見付け、衣装の多くをそこで作った。甲冑なども彼女の担当だったが、ある時に兜のデザインを、渡辺と真田に見せたことがある。すると2人とも、「日本にこんなものはない」という反応。そこで彼女は、分厚い写真集を持ち出して、2人に見せた。それは確かに、日本の兜だったのである。 さてご存知の方が多いと思うが、世界的に大ヒットとなったこの作品で、渡辺謙は見事アカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。その後は頻繁にハリウッド映画に出演する他、ブロードウェイの舞台「王様と私」に主演し、トニー賞にもノミネートされている。 真田広之もこの作品がきっかけとなって、拠点をロサンゼルスに移し、国際的な活躍を続けている。近作はジョニー・デップ主演の『MINAMATA―ミナマター』(21)だが、この作品でも舞台である1970年代の日本に見えるよう、少し早めに現場に入っては、小道具を選別したり、旗やゼッケンの日本語をチェックして自分で書いたりなどしたという。 さて本稿は、ニュージーランドでのロケ中は、他の侍役の俳優たちを呼んでは、よくカレーを作って振舞っていたという、福本清三の話で〆たい。彼が本作で演じた「サイレント・サムライ」は、先にも記した通り、とにかく無言を通す男。そんな男が、たった一言だけセリフを放つシーンがある。ここは結構な泣かせどころにして、福本の最大の見せ場である。 今年の元旦、77歳で亡くなった「日本一の斬られ役」に哀悼の意を捧げながら、皆さん心して観て下さい。■ 『ラスト サムライ』© Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2021.11.01
ジョン・ウーの名声を決定づけた『男たちの挽歌』までの道
ジョン・ウーは、1990年代に香港からアメリカに移り住み、ハリウッドに進出。『ブロークン・アロー』(96)『ファイス/オフ』(97)『M:I-2 ミッション:インポッシブル2』(2000)といった監督作が、続けてボックスオフィスのTOPを飾った。 2000年代後半になると、アジアに拠点を移し、“三国志”ものの『レッドクリフ partⅠ』(08)『レッドクリフ partⅡ -未来への最終決戦-』(09)を製作・監督。中国本土で当時の興収新記録を打ち立てた。 ウーは、1946年生まれ。生誕地は中国の広州だが、49年に中華人民共和国が成立すると、一家で香港へと移住した。そこでは、時には路上で生活することもあったほどの、赤貧洗うが如しの幼少期を送ったという。 キリスト教会を通じてアメリカの篤志家の援助を受け、10歳を前に、やっと学校に通えるようになったウーが、母親の影響もあって映画に夢中になったのは、中学生の頃から。彼が青春時代を送った60年代の香港では、黒澤明や溝口健二など巨匠の作品に続いて、日活や東映の作品が、大量に上映されるようになった。日本映画専門の映画館チェーンまであったという。 そんな中でウーは、アメリカやヨーロッパの映画に親しむのと同時に、黒澤明を崇め、石井輝男や深作欣二の監督作品を熱烈に愛した。彼のヒーローは、高倉健や小林旭であった。 17の歳に学校をやめたウーは、働きながら映画を学ぶ。そして19歳の時には、8mmや16mmフィルムで実験映画を撮り始める。映画会社に職を得たのは、23歳の時だった。 71年、25歳の時に大手のショウ・ブラザースに籍を移したウーは、武侠映画の巨匠チャン・チェーの下で助監督を務めた。1年半という短い間であったが、ここで多くのことを学んだという。 そして73年に、初監督作の『カラテ愚連隊』を撮る。諸事情から香港では、2年後の75年まで公開されなかったが、我が国では、地元より一足先の74年に公開されている。これは、73年暮れにブルース・リー主演の『燃えよドラゴン』が日本公開されるや沸き起こった、空前の“クンフー映画ブーム”に乗ってのことだった。 そんな処女作を評価したレイモンド・チョウに誘われ、彼が率いるゴールデン・ハーベストへと移ると、当時ただ1人の社員監督として重用され、コメディや広東オペラのヒット作を放つようになる。マイケル、リッキー、サミュエルの“ホイ3兄弟”主演で、監督はその長兄マイケル・ホイ名義のコメディ『Mr.Boo!ミスター・ブー ギャンブル大将』(74)なども、実際の監督を務めたのは、ウーだったと言われる。 このように会社に多大な貢献をしながらも、自分が本当に撮りたいと思ったものは、なかなか撮らせてもらえなかった。それに対して不満を募らせるようになったウーは、83年の戦争映画『ソルジャー・ドッグス』の製作中に、ゴールデン・ハーベストとトラブり、退社に至る。 そして新興のシネマ・シティへと移籍するが、大手であるゴールデン・ハーベストへの体面などもあって、84年から85年に掛けては、台湾の支社へと出向せざるを得なくなる。いわば、“島流し”の憂き目に遭ったのである。 2年間の辛酸の後、86年に香港に帰ったウーが、当時気鋭のプロデューサーであり監督だった、ツイ・ハークの製作により取り掛かったのが、本当に撮りたかった企画である『英雄本色』。即ち本作、『男たちの挽歌』だった。 ***** 極道の世界に身を置くホーは、偽札作りのシンジゲートの幹部。相棒のマークとは、固い絆で結ばれていた。 ホーには病を抱えた父と、弟のキットという家族がいた。キットは兄の正体を知らないまま警察学校に通っており、ホーはそんな弟のために、次の仕事を済ませたら、足を洗うことを決めていた。 その仕事で台湾に飛んだホーだが、取引相手から裏切りに遭い、逮捕されてしまう。そのためシンジケートは、ホーが口を割らないようにと、彼の家族を急襲。キットの目の前で、兄弟の父は殺されてしまう。 一方ホーの復讐のために、マークが台湾に飛ぶ。ターゲットは討ち果すも、右足を撃たれたたマークは、不自由な身体になってしまう。 それから3年が経ち、台湾での刑期を終えたホーが、香港へ帰って来る。刑事になったキットは、父の死を招いた兄を、決して許そうとはしない。更には兄の属していたシンジケートの捜査から、「関係者の身内」という理由で外されたため、怒りを膨らませる。 ホーは更生のため、タクシー会社で働き始めるが、そんな時にうらぶれた姿になったマークと再会する。今やシンジケートは、ホーとマークの舎弟だったシンが実質的なTOPとなり、右足を引きずるマークは、雑用係となっていた。 シンはホーを呼び出し、弟のキットを警察からの情報提供者として抱き込んで欲しいと持ち掛ける。ホーが拒否すると、相棒のマークがリンチに掛けられ、勤務先のタクシー会社も、嫌がらせを受けるようになる。 キットを守るためにもホーは、シンが率いるシンジケートと対決する決意を固める。そして相棒のマーク、更にはキットと共に、命を賭けた大銃撃戦へと臨んでいく…。 ***** 1967年に製作された、ロン・コン監督の『英雄本色』をベースにしたリメイク作品である、『男たちの挽歌』。ジョン・ウーがそれまで培ってきた、キャリアと知識、テクニックのすべてを注いだ作品と言える。「チャン・チェーの映画の登場人物が、刀を銃に持ちかえたような作品だ」という評論があったように、中国時代劇の世界を暗黒街に置き換えて、アクションの撮り方から、男の情熱、騎士道といった、師匠から学んだ技術や精神をブチ込んだ。 また映画を撮ることのモチベーションは“仁義”であると、ウー本人が公言するように、日本のヤクザ映画や、ジャン=ピエール・メルヴィル監督の『サムライ』(67)といった、フレンチ・ノワールからの影響も大。もちろん銃撃戦で多用される“スローモーション”は、「死の舞踏」と謳われた、ヴァイオレンスの巨匠サム・ペキンパー作品にインスパイアされ、ウーが発展させたものである。 キャストやその演じるキャラクターに関しても、ウーの思い入れがたっぷりである。主役のホーを演じるティ・ロンは、チャン・チェー門下。70年代は武侠映画の大スターとして鳴らしたが、80年代に入って、本作に出る頃までは、「過去の人」扱いだったという。 マーク役のチョウ・ユンファは、TVドラマから映画へと、軸足を移した頃に本作に出演。役作りに於いては、その容貌が似ている、日活アクションの大スター・小林旭の動きや所作を、積極的に取り入れたという。もちろんこの役作りは、来日して本人に会えた時には、足下に跪いたほどの熱烈な旭ファンである、ウーの意向もあってのことだろう。 ホーが逮捕された後、足を負傷したマークは、洗車や掃き掃除などの雑用を命じられる。そんなところまで落ちぶれながら、友の出獄を待ち、巻き返しを図る日を心待ちにしている。これは台湾に“島流し”になっていた時のジョン・ウー自身が投影されている。実際に彼を持て余した現地スタッフから、箒を渡されて事務所の掃除をさせられたこともあったそうだ。 そしてホーとマークの間に結ばれる熱い絆は、正に当時のウーとツイ・ハークの関係をモデルにしたものだという。そもそもは、5歳年下のハークがまだ売れない頃、ウーがゴールデン・ハーベストに紹介して、ハークの道を開いた。そして台湾から香港に戻ったウーが、かねてから温めていた本作の構想を語ると、ハークは強く映画化を勧め、プロデューサーを買って出た。 もっともこの2人は後に、『男たちの挽歌』の続編や契約問題を巡って、衝突。友情は、瓦解してしまうのだが…。 因みにホーの弟のキットを演じたレスリー・チャンは、それまではアイドル歌手として、主に青春映画に出演していたのだが、本作出演以降、本格的に映画スターの道を歩み始める。 後に“ウー印”とも言われる彼の作品のトレードマーク、“白い鳩”も、2人の男が銃を至近距離で突きつけ合う“メキシカン・スタンドオフ”も、本作ではまだ登場しない。しかし間違いなく、ここからすべてが始まったのである。 本作は86年8月に香港で公開されると、記録破りの大ヒット! 長いコートにサングラス、くわえマッチというチョウ・ユンファの出で立ちを、若者がこぞってマネをするような社会現象となった。 日本では、翌87年4月に公開。ある程度話題にはなったが、それほど多くの観客を集めることはなかった。火が点いたのは、ビデオソフト化されて、当時急増していたレンタルビデオ店に出回るようになってからであった。 何はともかく本作によって、“英雄片”日本で言うところの“香港ノワール”というジャンルが確立し、香港映画界を席巻する。この大波はやがて海を越え、クエンティン・タランティーノ監督作品を筆頭に、世界のアクション映画シーンにも大きな影響を及ぼすようになる。 当時40代で、このムーブメントをリードし、その後ハリウッドのTOPランナーの1人にまで上り詰めたジョン・ウーも、今や70代中盤となった。近作である『The Crossing ザ・クロッシング Part I / PartⅡ』(14/15) や『マンハント』(17)などには、かつての輝きが見られないのは、偏に加齢のせいなのだろうか? それと同時に、ご存知のような国際情勢である。“香港ノワール”を生み出した頃の熱い香港の風土は、完全に過去のものとなってしまった。 35年前に常軌を逸した激しいドンパチが、とにかく衝撃的だった『男たちの挽歌』を、今このタイミングで鑑賞する。後には“亜州影帝=アジア映画界の帝王”と呼ばれるほどのスーパースターになる、若き日のチョウ・ユンファが、超スローモーションでロングコートを翻しながら二丁拳銃をぶっ放す姿に改めて痺れながらも、過ぎ去った日々の、その取り返しのつかなさに、愕然ともしてしまう。■ 『男たちの挽歌』© 2010 Fortune Star Media Limited. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2021.11.10
“ロマコメ女王”2人を生んだ、未だ色褪せないおとなの恋愛映画『恋人たちの予感』
恋愛をテーマにしたコメディ映画“ロマンティック・コメディ”、略して“ロマコメ”。『或る夜の出来事』(1934)『ローマの休日』(53)『アパートの鍵貸します』(60)等々、ハリウッドでは古より、このジャンルから数多くの名作が生み出されている。 1989年に製作された本作『恋人たちの予感』も、そんな系譜に連なる、“ロマコメ”マスターピースの1本。この後90年代を席捲する、2人の“ロマコメ女王”を生み出したという意味でも、記念すべき作品である。 2人の“ロマコメ女王”の1人目は、もちろんメグ・ライアン(1961~ )。『トップガン』(86)『インナースペース』(87)などで若手女優として売り出し中だった折りに、本作の主演で、その人気が決定的なものとなった。 以降、『キスへのプレリュード』(92)『めぐり逢えたら』(93)『フレンチ・キス』(95)『恋におぼれて』(97)『ユー・ガット・メール』(98)『ニューヨークの恋人』(2001)といった、同ジャンルの作品に次々と主演。齢四十に至る頃まで10年強に渡って、キュートな魅力を全開に、“ロマコメの女王”の名を恣にした。 “ロマコメ女王”のもう一人は、本作の脚本を担当したノーラ・エフロン(1941~2012)である。脚本家になる前には、ホワイトハウスのインターン、「ニューヨーク・ポスト」紙の記者、コラムニストなどの多彩な職歴がある彼女だが、実は両親のヘンリー&フィービー・エフロンが、名作『ショウほどすてきな商売はない』(54)などのシナリオをコンビで書いた、有名脚本家夫婦。蛙の子は蛙と言うべきか、転身後には、アリス・アーレンと共同で脚本を書いた社会派の秀作『シルクウッド』(83)が、アカデミー賞の候補になるなど、気鋭の脚本家として注目の存在となった。 本作以降、90年代は監督としても活躍。特にメグ・ライアン主演で、エフロンが脚本・監督を担当した『めぐり逢えたら』『ユー・ガット・メール』は、本作と合わせて、エフロン&メグの“ロマコメ3部作”などと謳われる。 この2人の“女王”の誕生のきっかけを作ったのは、本作のプロデューサーであり、監督のロブ・ライナー(1945~ )。『スタンド・バイ・ミー』(86)『ミザリー』(90)といった、スティーヴン・キング原作の映画化作品などで知られるライナーのフィルモグラフィーを覗くと、本作のような“ロマコメ”の監督の印象は、ほとんどない。 ではなぜ、『恋人たちの予感』を手掛けるに至ったのか?実は本作は、彼の実体験をベースにして作られたものなのである。 ***** 1977年、シカゴ大学を卒業したサリー(演:メグ・ライアン)は、同じく卒業したてで、親友の彼氏であるハリー(演:ビリー・クリスタル)を車に同乗させて、ニューヨークへと移る旅に出る。2人の初対面は、ほぼ「最悪の部類」。18時間もの道中で会話を交わすも、何かにつけて意見が合わない。 しかしその時にハリーがサリーに言った、「男と女はセックスが邪魔をして、友達になれない」という言葉が、その後の人生に大きな影響をもたらすとは、2人とも思ってもみなかった。 5年後ニューヨークの空港で、サリーは付き合い始めたばかりの恋人の男性に見送られて出張先に向かおうとしている時に、偶然ハリーと再会。搭乗する飛行機まで同じだった2人は、5年前と同じように、機内で口論になってしまう。ハリーから近々結婚するという話を聞きながら、サリーはまたも彼と、喧嘩別れのような形となる。 更に5年後。ハリーは妻に浮気されて、やむなく離婚し、サリーも5年前から付き合っていた彼氏と、破局に至った。お互いにそんな傷心の状態にあるタイミングで、3度目の出会いが訪れた。 ようやく友達同士になれて、頻繁にデートするようになる2人だったが、話題になるのは、お互いの恋愛の悩みばかり。時にはロマンティックなムードになりかかることもあったが、“友情”を守るのが第一と、その度にお互いのそうした気持ちは振り払っていた。 そんな付き合いをずっと続けていこうと、ハリーはジェス(演:ブルーノ・カービィ)、サリーはマリー(演:キャリー・フィッシャー)という、お互いの同性の親友を紹介し合って、交際させようとする。しかし目論見は見事に外れて、ジェスとマリーが意気投合。ハリーとサリーは、お互いの親友同士が結婚することになってしまう。 そんな予想外の出来事もありながら、「セックスはしない」ことで、あくまでもお互いの友人関係を守り続けていこうとする2人。しかし遂に、一線を越えてしまう局面が訪れて…。 ***** 監督のロブ・ライナーは、自分のことを“ピーターパン・シンドローム”であると自己分析していた。即ち、彼の心の中にはいつまでも子どもでいたいという気持ちが潜んでいて、己が年をとったことをなかなか受け入れられない…。 12歳の少年が姿かたちだけ大人になってしまう、『ビッグ』(88)という作品がある。当時30代だったトム・ハンクスが演じたこの主人公のモデルとなったのが、実はライナー。そしてこの作品を作ったのは、ライナーの元妻である、女性監督のペニー・マーシャルだった。 ライナーとマーシャルの10年続いた結婚生活は、81年に終わりを告げる。“ピーターパン”である彼にとって、自分の結婚がうまくいかなかったという現実を受け入れるのは、非常に困難なことであった。 そしてそんなタイミングで、本作『恋人たちの予感』の構想が浮かび上がる。「男女の友情は成立するのか?」「そのときセックスはどうなるのか?」といったモチーフが、ライナーの中に湧き出てきたのである。 そうしたアイディアが、具体的に動き出すのは、84年。ノーラ・エフロンがライナーのチームに呼び出され、新しい映画のプロジェクトについて話し合いを持つようになってから。 幾つかの企画が挙がったが、決め手に欠けた。そんな中で、ライナーたち男性陣とエフロンの雑談中に、盛り上がった話題があった。 ライナーたちは、「女性とは絶対に友人関係になれない」と主張。その理由は、「セックスの問題が必ず入り込んで、友情関係の邪魔をする」というものだった。それに対してエフロンは、そんなはずはないと反論。両者の間で応酬が繰り広げられた。 ライナーはこの雑談の内容を受けて、「友情を育む男女の物語」を映画化しようと提案。物語を具体的に編む上で、主人公たちは親友であり続けるために、「決してセックスをしない」のを決め事にした。 その提案にエフロンが乗って、脚本作りがスタート。主人公の男の方に関しては、エフロンはライナーのキャラクターをベースにした。こうして、ひょうきんな半面、陰気で内省的な部分の持ち主でもある“ハリー”が生まれた。 一方で女性の方の“サリー”には、エフロン自身が投影されているところが多い。ライナーによればエフロンは、陽気で楽観的で、ある種の完璧主義者だった。サリーがレストランで、パンやベーコンの焼き方やマヨネーズの添え方などについて細々と注文を付けるのは、完全にエフロン本人の流儀であることを、彼女自身が認めている。 さてこのようにしてシナリオが出来上がり、キャスティングの段階になって、ライナーは必然的に、自分の身近な人間から俳優を選ぶこととなった。彼にとって、自身がモデルとなったハリー役のビリー・クリスタル(1948~ )は、長年の親友。ハリーとサリーが、それぞれのベッドから電話して慰め合うシーンがあるが、あれはライナーとクリスタルが、お互いの離婚後にやっていたことそのままだという。 ハリーの同性の親友ジェスを演じたブルーノ・カービィ(1949~2006)も、そうだ。彼はライナーが離婚で打ちのめされている時に、ジェスがハリーにしたように、優しく接してくれた人物だった。 一方でメグ・ライアンに関しては、それまでにライナーの過去作のオーディションを受けていたことが、きっかけになった。ライナーが“サリー”役に彼女はどうかと思い付き、先に決まっていたクリスタルに会わせたところ、2人の雰囲気がぴったりだったので、ヒロインに決めたという。 サリーの同性の親友マリー役に、キャリー・フィッシャー(1956~2016)を決めたのも、ライナー。こうして主要なキャスティングが、固まった。 因みに映画の冒頭から何組も出てくるのが、長年連れ添った老夫婦のインタビュー。リアルな装いなので、この部分はドキュメンタリーかと思うが、実は違う。エピソードだけを集めて、俳優たちをキャスティングして撮影した。その方が、実話の面白さをより伝えられるという判断だった。 余談はさて置き、このようにして決まった俳優陣、特にハリーとサリー役の2人が、いかに奇跡のような組み合わせであったか! エフロンの脚本、ライナーの演出を大きく広げる役割を果たした。 例えばメグ・ライアンが演じるに当たっての解釈は、「ハリーもサリーも、初めて会った瞬間からお互いに激しい恋心を抱いていたと思う。ただそのことに気づくまで11年もかかってしまっている」というもの。この考えをベースにした役作りが、長年に渡る2人の関係性の変化を描く上で、見事に機能している。 本作で最も有名だと言っても良いのが、ニューヨークのマンハッタンにあるカッツ・デリカテッセンで繰り広げられる「フェイクオーガズム」のシーンである。これは元々、脚本の打合せの際に、「女性の多くは(セックスの際に)オーガズムの“フリ”をした経験があるはず」と、エフロンが語ったことに衝撃を受けたライナーたちが、是非脚本に盛り込んでくれとオーダーしたことから生まれたもの。 しかしエフロンの脚本だと、自分とセックスした女性はすべてオーガズムに達していると自信満々に語るハリーと、それを否定するサリーという、食事中の会話止まりだった。ところが実際に撮影されたのは、店内が満席なのにも拘わらず、堂々とオーガズムでイッテるふりを演じて見せ、女性がセックス中に演技していても、男性には見分けがつかないことを、サリーがハリーに見せつけるというシーンだった。 これはメグ・ライアンが脚本を読んで、サリーが会話の最後に、その“フリ”を実演するようにしたいと提案したのを受けて、アレンジしたものだった。更にはこのシーンのオチとして、隣席の女性が「あの女性と同じものを」と注文する絶妙なギャグが入るが、これはコメディアンであるビリー・クリスタルのアイディア。因みにその女性を演じているのは、ロブ・ライナーの実の母親である。 こんなエピソードからも本作では、脚本の作成段階から撮影現場まで、今で言うジェンダー間のギャップを乗り越えようとする努力が行われていた様が窺える。80年代末という時代を考えれば、かなり先進的な試みだったと言える。そしてそれ故に本作は、「男女が出会って喧嘩して、しかし時の経過と共に離れられない間柄になっていく」という、“ロマコメ”の王道のような、ある意味古くさい構成でありながら、製作から32年経った今でも、色褪せない作品になったのである。 さて先に記した通り、ライナーの実体験を基にスタートした本作。ラストに訪れるハリーとサリーの“結末”も、撮影中にライナーの身に訪れた僥倖によって決まった。 当初ライナーは、離婚によって深く傷ついたハリーが、もう一度結婚してみようという気になるのには、あれだけの時間では無理なのではないかと考えていた。ところがライナー本人が、本作の撮影中に知り合った女性と、再婚することになったのだ。 そこで彼は、自分に出来ることならば、ハリーにも出来ないわけはないという気持ちになった。そして“ラスト”が、今の形に決まったのだという。 エフロンが書いた脚本には、こうした奇跡のような出来事を呼び起こす、魔法のような力があったのかも知れない。■ 『恋人たちの予感』© 1989 CASTLE ROCK ENTERTAINMENT. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2021.12.10
時代ごとにアップデートされる“A STAR IS BORN”の物語。『アリー/スター誕生』
1932年に製作された、ジョージ・キューカー監督の『栄光のハリウッド』を下敷きにして生まれた、“スター誕生=A STAR IS BORN”の物語。 最初の映画化作品は、ウィリアム・A・ウェルマン監督、ジャネット・ゲイナー、フレドリック・マーチ主演の『スタア誕生』(1937)。 続いてはジュディ・ガーランドとジェームズ・メイスン主演で、邦題も同じ『スタア誕生』(54)。こちらは、“オリジナル”である『栄光のハリウッド』のジョージ・キューカーが、メガフォンを取った。 この2作の『スタア誕生』は、舞台が映画界だった。それを音楽界に変えた3度目の映画化が、『スター誕生』(76)。監督はフランク・ピアソン、主演はミュージシャンとしても一流の、バーブラ・ストライサンドとクリス・クリストファーソンだった。 そして4度目となったのが、現代の歌姫レディー・ガガをヒロインに迎え、その相手役と監督を、ブラッドリー・クーパーが務めた、本作『アリー/スター誕生』(2018)である。こちらの舞台もまた、音楽の世界となっている。 ここで、物語の基本的なフォーマットを紹介する。才能がありながら、埋もれている女性アーティストが居る。一方で、TOPスターでありながらも、アルコールに溺れるなどで札付きとなっている、男性アーティストが居る。 偶然の出会いから、男性が女性の才能を見出して、引き上げる役割を果たす。女性がTOPスターの座に就くと同時に、愛し合うようになっていた2人は、ゴールイン!結婚生活をスタートする。 しかし女性が輝かしいスター街道を驀進するのと反比例するかのように、男性のキャリアは、下降の一途を辿る。やがて、女性が最高の栄誉を授与されるステージ(映画界→アカデミー賞/音楽界→グラミー賞)に、泥酔して現れた男性は、最悪の失態を犯してしまう。 アルコールなどへの依存から、何とか立ち直ろうとする男性だが、このままでは最愛の女性の輝かしき未来をも傷つけてしまうことを自覚。遂には、自ら命を絶つ。 悲しみの底に沈む女性だったが、やがて深く愛した男性のためにもと、再びステージに立つ…。 原題は同じ「A STAR IS BORN」4回の映画化に於いて、紹介したような物語の流れは、大きくは変わらない。しかし邦題が時代の移り変わりと共に変遷していったように、1937年、54年、76年、そして2018年と、その時代やキャストに応じてのアレンジが為されている。「37年版」と「54年版」の『スタア誕生』は、先に記した通り、映画界=ハリウッドが舞台。両作共にヒロインの名は、エスター・ブロジェットで、彼女を引き上げる男性スターの名は、ノーマン・メインである。 37年版で初代ヒロインとなったジャネット・ゲイナー(1906~1984)は、清楚で健気な印象と確かな演技力で、1920年代後半から30年代に掛けて絶大な人気を誇った、TOPスター。10代の頃に映画界に入るも、2年間は鳴かず飛ばず。しかし二十歳の時に主演作を得て、それから間もなくアカデミー賞主演女優賞を獲得している。 そんなゲイナーは、田舎からスターを夢見て、ハリウッド入りし、やがて銀幕のヒロインの座を掴むエスターの役には、ぴったりであった。逆に言えばこの作品では、ゲイナーの魅力と演技力とに頼ってしまってか、フレドリック・マーチ(1897~1975)が演じるノーマンが、エスターの俳優としての“才能”を見出すシーンが、存在しない。ただ彼女に惹かれて、情実でハリウッドに導いたようにしか見えないのが、難点と言える。 とはいえ、オープニングとエンディングで、「これこそ映画の夢の物語だ!」と明示する「37年版」は、ハリウッドというステージを舞台にした、寓話とも言える作りとなっている。そんなお固いことは、指摘するだけ野暮なのかも知れない。 2本目の『スタア誕生』=「54年版」も、ハリウッドを舞台にしたエスターとノーマンの物語である。こちらでエスターを演じたのは、ジュディ・ガーランド(1922~69)。 10代の頃に『オズの魔法使い』(39)で、少女スターとして人気を博したジュディだったが、早くから神経症と薬物中毒に悩まされるようになる。20代の頃の彼女は、撮影現場では遅刻やすっぽかしの常習犯として、トラブルメーカーとなっていた。 そのため映画出演も途絶えた彼女にとって、「54年版」は、実に4年振りの映画出演。当時の夫であるシドニー・ラフトがプロデューサーを務め、ジュディにとってはまさにカムバックを賭けた、起死回生の1作だった。 そんな背景もあって「54年版」は、エンターテイナーとしてのジュディの実力が、遺憾なく発揮される仕掛けとなっている。ヒロインのエスターは、全国を巡演するバンドの歌い手。彼女が歌と踊りを披露するステージに、ジェームズ・メイスン(1909~84)が扮する泥酔したノーマンが乱入するのが、2人の出会いとなる。 これがきっかけで、やがてノーマンは、エスターの歌声に触れることになる。「37年版」と違って、ノーマンがエスターの才能を発見する描写が、きちんとされているのだ。 やがてスターダムにのし上がった彼女が主演するミュージカル映画のシーンが、本編のストーリーと直接関係ないにも拘わらず、ふんだんに盛り込まれる。そんなこともあって、「37年版」が2時間足らずの上映時間だったのに対して、「54年版」の現行観られるバージョンは、3時間近い長尺となっている。 さて「37年版」「54年版」共に、ラストは有名な、エスターのスピーチ。亡き夫に最大限の哀悼を示す言葉として、「私はノーマン・メイン夫人です」と名乗ったところで終幕となる。これは長らく、感動的な名ラストと謳われ続けた。 邦題で“スタア”が“スター”へと変わる、「76年版」の『スター誕生』。バーブラ・ストライサンド(1942~ )とクリス・クリストファーソン(1936~ )という、当時人気・実力ともTOPクラスのミュージシャンを擁した“音楽版”としての魅力としては、コンサートなどステージでのパフォーマンスや、主人公2人が楽曲を作り上げていくシーンなどが挙げられる。前2作の“映画版”にはなかった、2人の才能のコラボを堪能できるわけだ。 それに加えて、バーブラという時代のスター、“70年代の顔”が自ら製作総指揮に乗り出し、ヒロインを演じたことによって生じた、改変が散見される。 バーブラの役名は、エスター・ホフマン。「37年版」「54年版」のヒロインから、エスターの名は残しながらも、“ホフマン”というユダヤ系に多い姓に変えている。しかも前作までのエスターが、撮影所の所長や広報マンの意見で、芸名をヴィッキー・レスターに変えられるくだりは、カット。エスターが本名のままで芸能活動を続けていくのは、バーブラ本人の“ユダヤ系アメリカ人”という、アイデンティティへのこだわりであろう。 相手役であるクリストファーソンが演じる、ノーマン・メインならぬジョン・ノーマン・ハワードの取る行動は、まさに70年代のロッカー。酒とドラッグに塗れる日々を送り、バイクでステージに乗り入れて音響装置を大破させるような無茶苦茶をやらかしてしまう。 前2作では、ジャネットとジュディのエスターは、ノーマンのやらかすことを、心配こそすれ、彼に声を荒げるようなマネは、決してしなかった。それに対しバーブラのエスターは、パートナーのジョンの無茶な行動に対し、時には怒りを爆発させ、別れを告げようとさえする。 最も大きな違いは、ラストシーン。ステージに立ったエスターは、「私はノーマン・メイン夫人です」などと名乗らない。そして2人の想い出の曲を熱唱して、〆となる。このラストが、77年の日本公開時には、かなりの論議を呼んだことを、鮮明に憶えている。ジュディの『スタア誕生』を懐かしむ者が多かった頃、バーブラの『スター誕生』を、彼女の自己主張が強く出過ぎと批判したり嫌悪する声は、決して小さくなかったのである。 いま観るとさほどのことはなく、このラストは、続く「2018年版」でも踏襲されている。しかし「76年版」が作られたのは、まだまだそんなことが論議になる、時代だったのである。 そして本作=「2018年版」の『アリー/スター誕生』。前作から実に42年の歳月を経てのリメイクとなる。これほどの間が空いたのは、“ボーイ・ミーツ・ガール”且つ、地位のある男性が年下の女性を引き立てるような古臭い物語が、もはや有効ではないと、見限られたからではなかったのか? しかしそこに、新たな息吹をもたらす者が、現れた。本作の監督であり、ミュージシャンのジャクソン(ジャック)・メインを演じた、ブラッドリー・クーパー(1975~ )である。 2010年代はじめの頃は、クリント・イーストウッド監督がビヨンセとレオナルド・ディカプリオ主演で、『スター誕生』を映画化というニュースが、大々的に流されたこともあった。結局は、『アメリカン・スナイパー』(2014)でイーストウッドの薫陶を受けたクーパーが、その企画を引き継いで、初監督に挑戦することとなった。 ヒロインのアリーに決まったのが、レディー・ガガ(1986~ )。この起用はクーパーの熱望によるものだが、その期待に応えた彼女は、歌唱やパフォーマンスのみならず、本格的な主演は初めてとは思えないほどの、見事な演技を見せる。「76年版」と同じく、“音楽版”として、主人公2人が、楽曲を作り上げていくシーンが見せ場のひとつとなる。演じるのが、プロのミュージシャン同士だった前作と違って、今作のためにブラッドリー・クーパーは、ギターとピアノ、ヴォーカルを猛レッスン。特にヴォイストレーニングには、1日4時間・週5日というペースで、半年間を費やしたという。 そのかいもあって、クーパーがレディー・ガガと共に作り上げたサウンドトラックは、多くの国で第1位を獲得するに至った。主題歌の「シャロウ 〜『アリー/ スター誕生』 愛のうた」は、アカデミー賞で歌曲賞を受賞。グラミー賞ではガガとクーパーは、“最優秀ポップ・デュオ/グループ・パフォーマンス”に輝いた。 そんな「2018年版」に於いて、前3作との大きな違いとして挙げられるのが、男性像が実に細やかに描かれていることである。「37年版」「54年版」のノーマン、「76年版」のジョンも、ヒロインに対しては優しい男だったが、「2018年版」のジャックは、彼ら以上に“男性的優位性”や“マッチョイムズ”とは縁遠い。それだけにヒロインに対しては、「対等」の意識を以て、より優しく振舞う。 ジャックが壊れていく背景も、明確に描かれる。まずはアルコール依存症の父に育てられたという、家庭環境。それに加えて“難聴”という、ミュージシャンにとっては致命的な疾患の進行がある。 ジャックはそうした苦悩を抱えている故に、アルコール漬けとなっていくわけだが、それははっきりと、心身を脅かす“病”として描かれている。愛するアリーの支えだけでは、どうにもならないのだ。 クーパー監督によって行われた、こうした男性側の描き方のアップデート。これこそが、古臭い物語と一蹴されかねない“A STAR IS BORN”を、現代に通じる物語に再構築する肝だったとも言える。 因みにヒロインがはっきりと、自分の才能を披露するシーンがあるのは、これまでに書いてきた通り、「54年版」「76年版」「2018年版」の3作。そのヒロインである、ジュディ・ガーランド、バーブラ・ストライサンド、レディー・ガガの3人が、それぞれの時代を代表する“ゲイ・アイコン”として、セクシャル・マイノリティの者たちから、圧倒的な支持を得る存在であったことは、単なる偶然とは思えない。 3人ともいわゆる、見目麗しい美女などではなく、その中身と才能で眩い輝きを放つタイプである。ハリウッドの歴史の中で、“A STAR IS BORN”の物語が永らえてきたのには、その時代ごとにそうしたヒロインを得てきたことも、必要不可欠な要素だったと言えよう。■ 『アリー/スター誕生』© Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2021.12.13
ゴダール「アンナ・カリーナ時代」のクライマックス!『気狂いピエロ』
1950年代末にフランスで興った映画運動、“ヌーヴェル・ヴァーグ”。撮影所における助監督等の下積み経験のない若い監督たちが、ロケ撮影中心、同時録音、即興演出などの手法で撮り上げた諸作は、世界の映画史に革命的な影響を及ぼした。 その中でも、1930年生まれのジャン=リュック・ゴダールの長編第1作『勝手にしやがれ』(1959)は、センセーショナルな話題を巻き起こした。以降ゴダールは、フランソワ・トリュフォーやクロード・シャブロルらと共に、“ヌーヴェル・ヴァーグ”の中心的な存在となる。 60年代後半に“ヌーヴェル・ヴァーグ”が終焉した後も、精力的に続けられた彼の映画活動を、その変貌に於いて大別すると、次のように分けられるという。「カイエ・デュ・シネマ時代」(1950~59)「アンナ・カリーナ時代」(60~67)「毛沢東時代」(68~73)「ビデオ時代」(74~80)「1980年代」(80~85)「天と地の間の時代」(80~88)「回想の時代」(88~98)。 この時代分けは、一部時期が重なるところもあるし、ゴダールが“ヌーヴェル・ヴァーグ”の母体となる同人誌に関わるようになった二十歳の頃から、20世紀の終わり頃までのほぼ半世紀の間の区分けに限られる。ゴダールは、21世紀になって齢70を越え80代を迎えても映画を撮り続けたわけだから、その時期は何と言うのかといった疑問は残れど、今回はそういったことを掘り下げるのが、本旨ではない。 この時代分けを記した理由、それは“アンナ・カリーナ”である。何はともかくゴダール本人が―なぜアンナ・カリーナなのか? なぜならアンナ・カリーナなのだから!-などと言うほどに、女優のアンナ・カリーナとのコラボ抜きでは語れない、映画活動の時期「アンナ・カリーナ時代」があった。 ゴダールより10歳下の、1940年生まれのデンマーク人女性、ハンネ・カリン・バイヤーがパリに出てきたのは、18歳の時。フランス語が全然喋れず、飲まず食わずの生活が続いたが、ある時カフェの椅子に座っていると、モデルにスカウトされた。 モデルとしての活動が段々と評判になって、高級ファッション誌の「エル」からも声が掛かるように。その撮影現場で出会い、ハンネに“アンナ・カリーナ”の名を与えたのは、かのココ・シャネルであったという。 ゴダールとの出会いは、彼の処女長編『勝手にしやがれ』への出演交渉をされた時。出番が僅かながら、乳房を見せることを要求される役をオファーされたため、にべもなく断っている。 その後『勝手にしやがれ』を撮り終えたゴダールは改めて、長編第2作となる『小さな兵隊』(61)の主演をオファー。その撮影中にゴダールはカリーナに求愛し、間もなくして結婚に至った。 60~67年の8年間に渡る「アンナ・カリーナ時代」に、ゴダールは長編を15本監督しているが、カリーナはその内の7本、更に短編1本に主演している。その中で本作『気狂いピエロ』(65)は、最高傑作と評される。「アンナ・カリーナ時代」、延いてはゴダールの60年以上に及ぶ映画監督としてのキャリア、更には“ヌーヴェル・ヴァーグ”という映画運動全般を俯瞰しても、最高峰に位置するとの声が高い作品なのである。 『気狂いピエロ』に、カリーナと共に主演するのは、ジャン=ポール・ベルモンド。ゴダールとは、1958年の短篇『シャルロットと彼女のジュール』に出演したことから付き合いが始まり、『勝手にしやがれ』の主演で、スターダムへとのし上がった。 ゴダール作品への出演は、『女は女である』(61)、そしてこの『気狂いピエロ』まで続くが、ベルモンドはその後、ゴダール作品及びゴダール本人とも訣別。60年代後半以降はアクション映画を中心に出演し、フランスの国民的大スターになっていったのは、多くの方がご存知の通りである。 そんなベルモンドは、1975年の山田宏一氏によるインタビューで、本作『気狂いピエロ』を大好きな作品としつつも、「…いまのゴダールは別人になったようで、お手上げだけどね(笑)。『気狂いピエロ』のロマンチックなゴダールはどこかへ行っちまった」などと語っている。 ***** 金持ちのイタリア人女性と結婚したフェルディナン(演: ジャン=ポール・ベルモンド)は、失業中で怠惰な日々を送っている。そんな時に、かつての恋人マリアンヌ(演:アンナ・カリーナ)と、5年半振りに再会する。 マリアンヌはフェルディナンのことを、“ピエロ”と呼ぶ。そんな彼女と一夜を共にすると、朝になってその部屋の一角に、頸にハサミを突き立てられた見知らぬ男の死体が転がっていた。事情がわからぬまま、フェルディナンはマリアンヌと、逃避行を始める。 フェルディナンは活劇マンガ「ピエ・ニクレ」を持ち、マリアンヌは銃を持って、彼女の兄がいるという南仏へと向かう。強盗を行ったり、警察の追跡を躱すために死んだと見せかける偽装工作を行ったり、車を乗り捨てたり…。逃亡の旅が続く内に、やがて2人は、ロビンソン・クルーソーのような生活を送るようになっていった。 ところがある時、またもや頸にハサミを突き立てた男の死体を残して、マリアンヌは消える。フェルディナンは、死んだ男の仲間と思われるギャングたちに捕まり、拷問を受ける。マリアンヌは殺人を犯して、5万㌦を持ち逃げしていたのだ。彼女が“兄”と言っていたのは、ギャングたちと敵対する組織のボスで、彼女の情夫であった。 フェルディナンがマリアンヌを見つけると、彼女は再び彼を犯罪に巻き込んでから、またも行方をくらます。フェルディナンは銃とダイナマイトを持って、マリアンヌが逃げた島へと追っていくのだったが…。 ***** 元はゴダールが映画化権を買った、アメリカの犯罪小説を、シルヴィー・ヴァルタン主演で映画化しようとしたところから、本作の企画は始まった。しかしヴァルタンには出演を断られ、その後アンナ・カリーナとリチャード・バートン主演で撮ろうと試みる。この組み合わせは、バートンが「あまりにハリウッド化されてしまっていた」ために流れ、結局カリーナとベルモンドという組み合わせでの製作となった。 実はゴダールとカリーナの結婚生活は、1964年の終わり頃には破綻していた。『気狂いピエロ』は2人が離婚後にも組んで撮った3本の長編の2本目であった。 筋立てとしては、ファム・ファタール~運命の女、魔性の女~を愛してしまったが故に、自滅していく男の物語で、典型的な“フィルム・ノアール”。しかしゴダールの作品だけに、そんな一筋縄にはいかない。物語は逸脱に逸脱を重ね、あらゆる場面が、多彩な映画的・文学的・芸術的引用に彩られている。 “ヌーヴァル・ヴァーグ”に於いてゴダールの盟友だったフランソワ・トリュフォーは、まだお互い10代で出会った頃に驚きを覚えた思い出として、ゴダールの読書の仕方や映画の鑑賞方法を挙げている。曰く、本棚から40冊もの本を引っ張り出して、一冊一冊、最初と最後のページだけを読んでいく。午後から夜までに5本の映画を、それぞれ15分ずつ見ていく。大好きな映画でも、20分ずつちょん切って見ては、何度も映画館に足を運ぶ…。 ゴダールはそんな風にして得た膨大な知識を、映画の中に次々と引用していく。それがゴダール作品の、独特な文体のベースとなっていったわけだ。『気狂いピエロ』で、サードの助監督に就いていた俳優のジャン=ピエール・レオによると、本作の台本は、27のシーンから成るストーリーを大雑把に要約した30頁ほどのものしかなかったとのこと。その台本には、カメラの位置やアングルの指定どころか、セリフも全く書かれていなかった。 セリフは撮影の前の晩か当日の朝、ゴダールが即興で書き、俳優にはカットごとに口伝てで教えられるだけ。ちょっと長いセリフの場合だけ、撮影の1~2時間前に、ゴダールが学生ノートに青のボールペンで書いたものが、俳優に渡されたという。 そして本番では、カメラの位置が決まると、リハーサルは簡単に行われ、ほとんどすぐに撮影になった。同じセリフを何度も言うのが嫌いだったというベルモンドは、1回か2回のテイクで、演技を見事に決めたという。 因みにスタッフに配られる台本にも、余計なことは全く書かれていなかった。しかし、本作のストーリーは「敬愛するジャン・ルノワール監督の『牝犬』(1931)にヒントを得ている」とか「フェルディナンとマリアンヌの道中はチャップリンの『モダンタイムス』(36)のラストで恋人たちが仲よく道を歩き去っていくように」など、引用の出典は具体的に書き込まれていたという。 さてこうして作り上げられた『気狂いピエロ』は、1965年8月に世界三大映画祭のひとつ、イタリアの「ヴェネチア国際映画祭」に出品。しかし会場ではブーイングの嵐が沸き起こり、賞の対象にはならなかった。 これに対し、擁護の論陣を張って、逆にゴダールの芸術的な評価を決定づけたのが、フランスの小説家であり、文芸評論家でもあった、ルイ・アラゴンだった。ダダイズムやシュールレアリズムを牽引し、ナチス・ドイツの占領下では、文筆活動によって抵抗を行った、レジスタンスの詩人として知られるアラゴンは、「今日の芸術とはジャン=リュック・ゴダールにほかならない」とまで書いて、『気狂いピエロ』を激賞した。 アラゴンはゴダール作品の特徴である「引用」を、絵画の「コラージュ」と比較した。「コラージュ」とは、画面に印刷物、布、針金、木片、砂、木の葉などさまざまなものを貼り付けて構成する絵画技法を指す。ピカソやブラックなどのキュビストが用い、ダダイストやシュールレアリストの芸術家によって発展を遂げた。こうした技法を映画に持ち込んだゴダール作品は、「最も現代的な」芸術だと、アラゴンは、擁護と共に褒め称えたのである。 このような経緯があって、本作でゴダールの“芸術家”としての声価は決定的となる。そしてそれから暫しの時を経て、「アンナ・カリーナ時代」は終わりを告げる。 1967年8月、ゴダールは商業映画との決別宣言文を発表。その作品や発言などが、政治性を強めていく。その翌年=68年5月、フランスでは学生の反乱がゼネストへと発展し、時のドゴール政権を揺るがす“5月革命”が起こった。その最中に開かれた「カンヌ国際映画祭」に、ゴダールはトリュフォーやクロード・ルルーシュ、ルイ・マルらと共に乗り込んで、中止へと追いこむ。 いわゆる「毛沢東時代」(68~73)へと突入していったわけだが、この時代のゴダール作品のミューズは、アンナ・カリーナからアンヌ・ヴィアゼムスキーへと変わるのであった…。 さて、『気狂いピエロ』の公開から56年。ヒロインのアンナ・カリーナに続いて、今年はベルモンドまでが、鬼籍に入ってしまった。 既存の映画文法を破壊した『気狂いピエロ』を観て、今から56年前=1965年に映画史に放たれた閃光を追体験し、カリーナとベルモンドを悼んで欲しい。これもまた映画を観続けていく、醍醐味なのかも知れない。■ 『気狂いピエロ』© 1962 STUDIOCANAL / SOCIETE NOUVELLE DE CINEMATOGRAPHIE / DINO DE LAURENTIS CINEMATOGRAPHICA, S.P.A. (ROME). ALL RIGHTS RESERVED.