ザ・シネマ 松崎まこと
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COLUMN/コラム2021.03.01
“ゾンビ”を発明した男ロメロの最後の挑戦!『サバイバル・オブ・ザ・デッド』
120余年に及ぶ映画の歴史の中で、偉大なる発明と言えるものは、数多ある。そんな中でも、現在日々世に送り出される映画やドラマ、TVゲーム他の創作物に、多大な影響を与えているひとつが、“ゾンビ”であろう。 連日連夜、世界のありとあらゆる所で、スクリーンやモニターを、“ゾンビ”が徘徊している。そして、そんな“ゾンビ”の発明者こそ、本作『サバイバル・オブ・ザ・デッド』(2009)の監督、ジョージ・A・ロメロ(1940~2017)であることに、異議を唱える者はまず居まい。 ロメロは弱冠28歳の時に発表した、モノクロ低予算の長編作品『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(1968)で、“リビングデッド≒ゾンビ”を初登場させた。この作品で彼が現出させたのは、理由が不明のまま死者たちが甦り、生きている人間を襲っては喰い殺す、生き地獄のような世界。噛みつかれた者は確実に、死に至る。そして蘇っては、生者を喰らうようになる…。『ナイト・オブ…』は、続く『ゾンビ』(78)『死霊のえじき』(85)と合わせて、「リビングデッド・トリロジー」と言われる。この3作品でロメロは、“ゾンビもの”というジャンルを映画の世界に創り出し、確立したのである。 ロメロ作品以前にも、“ゾンビ”という名のモンスターは、存在した。そしてスクリーンにも登場していた。 それは西インド諸島のハイチに伝わる民間伝承を元にしたもので、ブードゥー教の司祭によって蘇らされた、歩く死体を指す。こちらの元祖“ゾンビ”は、生者の奴隷として働かされ、人肉を喰らうことなどない。1960年代中盤生まれの筆者の世代が、幼少時に“世界のモンスター図鑑”のような書籍で目の当たりにした“ゾンビ”は、こちらの方である。 付記しておけば、ロメロが自ら創造した“リビングデッド”に、“ゾンビ”と言う名を冠した事実はない。それは他者によるネーミングであるが、“トリロジー”の第2作、原題『DAWN OF THE DEAD=死者たちの夜明け』が、ヨーロッパや日本で公開される際に、『ゾンビ』というタイトルが付けられたことで、決定的になったものと思われる。 いずれにしろ人を喰う“ゾンビ”が登場する作品で、ロメロの影響を受けていないものは、ジャンルを問わず、皆無と言っても良い。ロメロが居なければ、「バイオハザード」も、「ウォーキング・デッド」も、「アイアムアヒーロー」も、『カメラを止めるな!』(17)も存在しなかったのである。 それにしても、架空のモンスターに過ぎない“ゾンビ”が、なぜここまで市民権を得て、持て囃されるようになったのか?その一因として、社会のリアルな現実や世相を創作物に投影するのに、実に都合が良い存在であることが挙げられる。 元々オリジナルの『ナイト・オブ…』のモチーフは、“ベトナム戦争”である。続く『ゾンビ』では、死して尚巨大なショッピングモールに集まってくる“ゾンビ”たちが、消費社会でコマーシャリズムに踊らされる現代人へのアイロニーであることは、あまりにも有名だ。 ロメロに続く“ゾンビもの”の中で、例えば韓国製の『新感染 ファイナル・エクスプレス』(16)で起こるゾンビ禍には、“朝鮮戦争”が重ねられている。また多くの作品で、死者が“ゾンビ”化する原因に、生物兵器の流出や疫病によるパンデミックを紐づけるのは、市井の者が抱くリアルな不安が、反映された結果であろう。 さて、そんなすべての“祖”であるロメロだが、“トリロジー”最終作の『死霊のえじき』以降は、暫し“ゾンビもの”から離れる。その時点で、このジャンルでやれることは「やりつくした」のは事実だった。またクリエイターとして、“ゾンビもの”だけで終わりたくないという思いも、あったのだろう。 しかしロメロは、それまでの“ゾンビもの”とは勝手が違う、例えば『ダーク・ハーフ』(93)のような、製作費が高額でスターを起用したメジャー作品では、観客や批評家の支持を得ることが、出来なかった。また常に幾つかの企画を抱えながらも、クランクイン直前で頓挫というケースも、続いたのである。 しからば改めてということか、“ゾンビもの”を監督する企画が浮上したこともあった。こちらも結局は、製作サイドやスポンサーと折り合いがつかず、実現することはなかった。 結局『死霊のえじき』で“トリロジー”にピリオドを打った85年以降の20年間は、長編の監督作品は3本しかなかった、ロメロ。猛然とスパートを掛けたのは、2000年代後半のことだった。『ランド・オブ・ザ・デッド』(05)『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』(07)『サバイバル・オブ・ザ・デッド』(09)…。“ゾンビもの”を連発したのである。 この“新三部作”の口火を切った『ランド・オブ…』では、“ゾンビ”の侵入をフェンスで阻む街に於いて、人間界が富裕層と貧困層に大別されている。バリバリ社会批判を盛り込んだこの物語は、時系列的には、『ナイト・オブ…』にはじまる“リビングデッド・トリロジー”の流れを汲む。“トリロジー”の、いわば外伝的な内容と言える。 一方、それに続く『ダイアリー・オブ…』は、“トリロジー”から離れた新たなタイムライン、別次元での“ゾンビ”発生からスタートする物語。そしてそのアプローチも、挑戦的且つ大変ユニークなものとなっている。 卒業製作で作品を撮影中の映画学科の大学生が、“ゾンビ”発生という未知の事態に遭遇し、そのままカメラを回し続ける。即ち『ダイアリー・オブ…』は、主観映像によるフェイクドキュメンタリータッチの作品なのである。 そしてそれに続く『サバイバル・オブ…』は、時系列的には、『ダイアリー・オブ…』から連なる物語となっている。 死者がよみがえるようになった世界。アメリカのデラウェア州沖に浮かぶプラム島では、島を二分する、オフリン一族とマルドゥーン一族の対立が、激化していた。 オフリンは、死んで“ゾンビ”となった者は、頭を撃ち抜いて脳を破壊。永遠の眠りに就かせるべきだと主張し、次々と実行。一方マルドゥーン側は、死者が“ゾンビ”となっても、神の思し召しとして、そのまま生かしておくべきという考えだった。 一族の長パトリックをリーダーとするオフリン側は、マルドゥーンとの争いに敗れる。そして島外へと、追放されてしまう。 それから3週間後の、ペンシルベニア州フィラデルフィア。軍から脱走した元州兵のブルーベイカーたちは、強盗を続けて、糊口をしのいでいた。 そんな時に出会った少年から、ブルーベイカーたちは、ネットで見付けた「安全な島」の情報を知らされる。彼らはその情報を信じ、その島=プラム島へと向かうことを決める。 成り行きで、島から追放されたパトリック・オフリンも伴うことになった彼らは、半信半疑で島へと渡る。そこで見たものは、鎖につながれて生前の行動をなぞるように繰り返す“ゾンビ”たちだった。そしてそれは、“ゾンビ”を生かしておくべきと考える、マルドゥーンの仕業だった。 怒りの炎を燃やしたパトリックは、マルドゥーンに対する復讐を企てる。オフリン一族とマルドゥーン一族の戦いは、よそ者である元州兵たちを巻き込んで、再燃するのだった…。 『サバイバル・オブ…』に関しては一見した瞬間、ウィリアム・ワイラーが監督した、『大いなる西部』(58)のリメイク的な内容であることに気付く方が、少なくないであろう。テキサスが舞台の『大いなる西部』では、水源を巡って2つのファミリーが対立しているのだが、それを“ゾンビ”の処し方に置き換えた形だ。 一体なぜ、こういった内容の作品になったのか?実は前作『ダイアリー・オブ…』が、世界中にセールスされて黒字になったのを受けて、製作サイドからもう1本、何か“ゾンビもの”が撮れないかという提案が急遽あった。しかしロメロには、ちょうど手持ちのアイディアがなかったのである。 そこで思い付いたのが、ロメロ自身が大好きな西部劇の名作『大いなる西部』を、“ゾンビもの”として、現代に蘇らせるというプロジェクト。これならば、人間の愚かしさや不毛な対立劇という普遍的なテーマに、“ゾンビもの”に不可欠な、ガンアクションも盛り込めるというわけだ。 製作費は300万㌦で撮影期間は24日間という、前作『ダイアリー・オブ…』を下回る、過酷な撮影条件だったが、これはロメロにとっては、意義のある挑戦だった。成功すれば、“ゾンビもの”という枷さえ受け入れれば、ジャンルを横断した、意欲的な試みを行うことができるという証になる筈だった。 しかし残念なことに、『サバイバル・オブ…』は、アメリカでまともに劇場公開されることなくソフト化。世界中で製作費の10分の1である30万㌦しか稼ぎ出せず、ロメロの“ゾンビもの”6本の中で、唯一大コケした作品となってしまったのである。 2000年代後半、年齢的には60代後半に、一気呵成に3本の“ゾンビもの”を撮り上げたロメロ。しかし『サバイバル・オブ…』の興行的失敗が祟ったか、2010年代、70代に突入したその後は、沈黙を守ることとなる。 もうロメロの新作は、見られないのか?そんなことを人々が思うようになった頃、2017年6月、ロメロの新たな“ゾンビもの”の企画が明らかにされた。『ロード・オブ・ザ・デッド』!メガフォンは取らないものの、ロメロが共同脚本と製作手掛けるということだった。 ところがその1か月後の、7月17日。ロメロの訃報が、世界を駆け巡った。そして『ロード・オブ…』は、数多いロメロの幻の企画の中の1本となってしまったのである。 それから4年、“新型コロナ禍”で、全世界が恐怖と不安に包まれている今だからこそ、心して観よう!「映画史を変えた男」の最後の“ゾンビもの”にして、“遺作”となってしまった、『サバイバル・オブ・ザ・デッド』を!! 偉大なるジョージ・A・ロメロの魂と無念を、大いに感じ取って欲しい。■ 『サバイバル・オブ・ザ・デッド』© 2009 BLANK OF THE DEAD PRODUCTIONS INC. ALL RIGHTS RESERVED
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COLUMN/コラム2021.03.09
『サボテン・ブラザース』が愛される理由
日本の映画市場で長らく鬼門と言われ続けてきたジャンルの一つが、“アメリカン・コメディ”だ。たとえ本国でNo.1ヒットを飛ばした作品でも、日本公開では一部の例外を除いて、その多くが爆死を遂げてきた。公開されるのはまだマシな方で、日本のスクリーンには掛からずじまいだった作品も、少なくない。 その原因として繰り返し言及されたのが、文化的な差異による“笑い”の違い。その説明には、日本を代表する喜劇映画シリーズ『男はつらいよ』が、例として挙げられるパターンが多かった。いわく、日本的な人情風味が満載の寅さん映画を、仮に欧米で字幕付きで上映しても、ウケはしないだろうと。“アメリカン・コメディ”が日本でウケないのも、それと同じようなことだと。 何はともかく死屍累々の中、劇場公開時にヒットしたという話はきかないながらも、『¡Three Amigos!』を、「好きな作品」として挙げるケースには、よく遭遇してきた。邦題は、日本での“アメリカン・コメディ”の例外的なヒット作である『ブルース・ブラザース』(80)に因んで付けられたと思われる、『サボテン・ブラザース』(86)のことである。 監督が『ブルース…』と同じ、ジョン・ランディスなのはともかく、プロデューサーのローン・マイケルズと3人の主演陣は、アメリカのTV界を代表するコメディバラエティ番組「サタデー・ナイト・ライブ」ゆかりの面々。チェビー・チェイスとマーティン・ショートは、「サタデー…」にレギュラー出演して人気を博した時期があり、スティーヴ・マーティンは、ホストとして度々ゲスト出演して、評判になった。そうした意味で、正に“アメリカン・コメディ”の王道的なメンバーが集結している。 こうなると、これはホントに危うい。日本では、最もウケないパターンである。例えばランディス監督の前作で、チェビー・チェイスと、やはり「サタデー…」組のダン・アイクロイドが共演した『スパイ・ライク・アス』(85)のように。 ところが先に書いた通り、本作は日本でも「愛される」1本となった。それは劇場公開時よりも、むしろその後のレンタルビデオやTV放送を通じてとは思われるが。 本作の人気が高かった理由のまず一つは、物語の構造であろう。悪党に蹂躙される村人の声に応えて、勇者たちが心意気で助けに向かうというのは、『七人の侍』(54)や、そのリメイクである西部劇『荒野の七人』(60)などでお馴染みのパターンであるが、コメディとして、そこからの捻り方が絶妙である。 主人公たちが演じる勇者を見て、「本物」と“勘違い”した村人からの願い。それを「俳優の仕事」としての依頼と“勘違い”して受けた主人公たち。真実に気付いた時は、一旦逃げ出しかかるが、最終的には勇気を振り絞って、村人たちのために戦う。 この構図は後に、『スタートレック』シリーズへのオマージュが満載の『ギャラクシー・クエスト』(99)にも、転用される。こちらでは、宇宙船のクルー役を演じた俳優たちを、「本物」と宇宙人が勘違い。助けを求められた俳優たちは、“宇宙戦争”を戦うことになる。 他に、ピクサーのCGアニメ『バグズ・ライフ』(98)など、『サボテン・ブラザース』の影響下にあると思われる作品は、少なくない。 先に挙げた、本作の熱心なファンである三谷幸喜も、このパターンを自作に取り込んでいる。役所広司主演のTVドラマ「合い言葉は勇気」(00)は、本物の弁護士と勘違いされた俳優が、不法投棄を行う産廃業者を相手取った住民訴訟を戦う。また監督作である映画『ザ・マジックアワー』(08)も、ヤクザの組織が、佐藤浩市が演じる売れない俳優をプロの殺し屋と勘違いする話であり、このバリエーションと言える。三谷の作風として、登場人物たちの勘違いに勘違いが重なって、物語があらぬ方向に暴走していく展開があるのだが、本作の骨組みは正に、「ズバリ」だったのであろう。 こうした構成の下、繰り広げられるのが、本作の主演にして、製作総指揮・脚本も兼ねたスティーヴ・マーティンが言うところの、「セックスもドラッグも4文字言葉も出ていない」コメディである。日本の観客が一番お手上げになる、英語での言葉遊びのギャグなどよりも、体を張ったギャグの方が、際立つ仕掛けである。 『サボテン・ブラザース』© 1986 ORION PICTURES CORPORATION. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2021.03.26
“天国”で地獄を見た男が、起死回生を賭けた一作『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』
1979年4月9日に開催された、「第51回アカデミー賞」の主役となったのは、40歳になったばかりのマイケル・チミノ。この日に作品賞や監督賞をはじめ、最多5部門でオスカーに輝いた、『ディア・ハンター』(1978)の監督であり、プロデューサーの1人だった。 チミノは、広告業界を経て、映画界入り。まずは脚本家として、『サイレント・ランニング』(72)『ダーティハリー2』(73)の2本を共同執筆した。 監督デビュー作は、クリント・イーストウッド主演の、『サンダーボルト』(74)。ベトナム戦争に出征した、ロシア移民の若者たちの運命を描いた『ディア・ハンター』は、まだ監督2作目だった。 この日「アカデミー賞」監督賞のプレゼンターとして登場したのは、フランシス・フォード・コッポラ。チミノと同年の生まれだが、70年代前半には、『ゴッドファーザー』(72) 『カンバセーション…盗聴…』(74)、そして『ゴッドファーザー PARTⅡ』(74)の3本で、観客の支持を集めると同時に、「アカデミー賞」や「カンヌ国際映画祭」などを席捲。正に飛ぶ鳥を落とす勢いの、時代の寵児となっていた。 しかし70年代後半のコッポラは、ベトナム戦争を舞台に、アメリカの侵略を批判的に描くという、当時としては野心的な試みであった、『地獄の黙示録』(79)の製作が難航。同じく“ベトナム”を題材にした『ディア・ハンター』の方が、製作開始が後だったにも拘らず、先に公開されたのである。 そして迎えた、この日。『地獄の…』が未だ完成に至らないコッポラの手から、チミノにオスカーが渡されるというのは、極めて象徴的な出来事と言えた。 作品賞の授与は、更にドラマチックな展開となった。プレゼンターは、長きに渡ってハリウッドの帝王として君臨した、大スターのジョン・ウェイン。間もなく72才にならんとする彼は、末期がんに侵されており、瘦せ衰えた姿での登壇であった。 ウェインと言えば、“赤狩り”の積極的な旗振り役を務めたほどの、典型的なタカ派。“ベトナム”に関しては、“反戦運動”の高まりに抗し、アメリカ軍を正義の味方として描くプロバガンダ映画『グリーン・ベレー』(68)を、製作・監督・主演で発表している。 そんな彼が最後の晴れ舞台(ウェインはこの式典の2か月後に死去)で、『グリーン…』のちょうど10年後に製作された“ベトナム反戦映画”『ディア・ハンター』の名を読み上げ、オスカー像を手渡したわけである。歴史の皮肉であると同時に、その後の展開次第では、ハリウッド帝国の「王位の引継ぎ式」として、映画史に残る可能性さえあった そう。この時のマイケル・チミノは、新たに玉座に就いたかのような、輝かしい存在であった。そして、オスカーを手にした日からちょうど2週間後=4月16日には、監督第3作がクランクインしたのである。 その作品の名は、『天国の門』。オスカー戦線を再び目指す構えで、翌80年の10月19日に、ニューヨークでプレミア上映が行われた。しかし、まさかそのお披露目の瞬間に、チミノが『ディア・ハンター』で得た栄光が、灰燼に帰してしまうとは…。『天国の門』は、1890年前後のワイオミング州で起こった「ジョンソン郡戦争」をモチーフに、入植者である東欧系移民の悲劇を描いた西部劇である。1,100万ドルの予算でスタートしながらも、チミノの完全主義にオスカーの余勢もあって、製作費が当初の4倍=4,400万ドルという、当時としては前代未聞の規模にまで膨らんでしまった。 そして、3時間39分という長尺で完成した『天国の門』は、件のプレミア上映で、観客からも評論家からも総スカンを喰らう。公開から1週間後には、製作会社のユナイテッド・アーティスツが、フィルムを映画館から引き上げ、全米及び海外での公開は、延期となってしまった。 翌春には2時間29分まで尺を詰めた再編集版が公開されたものの、結局4,400万ドル掛かった製作費の10分の1も回収できず、大失敗に終わった。この災禍により、ユナイテッド・アーティスツは経営危機に陥り、60年以上に及ぶその歴史に、幕を下ろすこととなった。 ハリウッドの新たな帝王、少なくともその最有力候補であったチミノの名誉は、この歴史に残る「映画災害」で、地に堕ちた。そして彼は、長い沈黙を余儀なくされる。 80年代前半、『天国の門』以前からチミノが準備を進めていた幾つかの企画は、雲散霧消。捲土重来を期して新たに取り組んだ企画に関しても、『天国の門』の二の舞を避けたい各製作会社の判断で、製作中に解雇されるケースが相次いだ。 そんなチミノが、表舞台へと復帰したのが、本作『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』(85)である。 1981年に出版された、本作の原作小説の映画化権を獲得したのは、プロデューサーのディノ・デ・ラウレンティス。フェデリコ・フェリーニ監督の名作『道』(54)や、『キングコング』(76)などの製作で知られる。 ラウレンティスは映画化権を得るとすぐに、チミノに連絡。しかしチミノは当初、この企画に関心を示さなかったという。 他の人材を使って映画用の脚本を作成しようと試みたラウレンティスだったが、うまくいかず、再びチミノにお鉢が回る。他の企画が次々と頓挫していったこともあってか、チミノは一度は断ったこのオファーを、ストーリーや登場人物を、原作から自由に改変できることを条件に、受けることにした。『ミッドナイト・エクスプレス』(78)や『スカーフェイス』(83)などで、当時気鋭の脚本家として注目されていたオリヴァー・ストーンを共同脚本に引き入れたチミノは、メインの舞台となるチャイナタウンへと赴いて取材を重ね、脚本を完成。遂に5年振りとなる新作の、クランクインへと漕ぎつけた。 ニューヨークのチャイナタウン。小さな飲食店で仲間と会していた、“チャイニーズ・マフィア”TOPのワンが、突然刺殺された。犯人が捕まらぬまま、その壮大な葬儀を仕切ったのは、ワンの娘婿であるジョーイ・タイ(演:ジョン・ローン)。 そんな葬儀の様子を見やっていたのは、新しくこの地域の担当となった、市警の刑事スタンリー・ホワイト(演:ミッキー・ローク)だった。ホワイトは麻薬取引などで暗躍する、中国系犯罪組織の壊滅を狙って、動き出す。 マスコミの力を利用しようと考えたホワイトは、TV局の女性キャスターで、中国系のトレーシーに近づく。チャイナタウン内の高級中華料理店に彼女を招き、密議を持ち掛けていると、突然覆面をした2人の男が乱入し、機関銃を無差別に乱射。店内は、パニックに陥る。ホワイトはトレーシーを庇いながら、発砲。犯人たちに深傷を負わせながらも、取り逃がしてしまう。 観光客などに多数の死傷者を出した、この襲撃の黒幕は、ジョーイ・タイだった。彼は店の主人である組織の長老の面子を潰し、その影響力を削ぐために、虐殺劇を演出したのである。 一方、妻との不和を抱えていたホワイトは、この一件をきっかけに、トレイシーとの仲が深まり、やがて不倫の関係となる。それと同時にホワイトは、“チャイニーズ・マフィア”の若きリーダーとなったタイに、全面戦争を仕掛ける。 タイは麻薬の供給量を拡大するため、東南アジアの“黄金の三角地帯”に自ら出向いた際には、商売敵の生首を手土産とするような、残虐な振舞いを躊躇しない。遂には、敵対するホワイトだけでなく、その周辺の者たちにまで、刺客を差し向ける。 怒り心頭に達したホワイトは、タイにとって正念場となる、麻薬取引の現場を急襲!命を懸けた、2人の最後の対決が始まった…。 先に記した通り、ストーリーや登場人物を自由に改変できることを条件に、本作に取り組んだチミノ。主人公の刑事を、原作にはない、ポーランド系に設定にした上、ベトナム戦争帰りのため、アジア系に偏見を持つという要素を加えた。 彼と恋に陥る女性キャスターに関しても、原作とは変更。40代の白人女性だったのを、20代の中国系女性に変えている。 中国系であるタイに、偏見と共に強烈な敵愾心を燃やしながらも、同じ中国系のトレーシーにのめり込んでしまう、ポーランド系の刑事。チミノ曰く、「移民の国アメリカでは、―――系アメリカ人と系がつく人種が多いのが現実。だからアメリカの現実を描こうとしたらエスニックは避けて通れない」。 自身はイタリア系の三世である、チミノ。彼の中では、ロシア系移民が主人公だった『ディア・ハンター』、東欧系の『天国の門』と合わせて、本作はアメリカを描く三部作という位置付けだった。 こうしたチミノのこだわりによって誕生したホワイト刑事役には当初、クリント・イーストウッド、ポール・ニューマン、ニック・ノルティ、ジェフ・ブリッジスらが想定されていたという。しかし最終的に、チミノの前作『天国の門』にも出演していた、ミッキー・ロークに決まる。 当時のロークは、セックスシンボル的に、女性人気がグングンと高まっていった頃で、まだ30代前半。ベトナム帰りで40代後半のホワイトを演じるには、白髪に染めるなどの工夫を凝らしても、些か若すぎたように思える。 しかしチミノは、ロークの身体能力の高さを買って、激しいアクションシーンが多い本作の主役に、彼を据えたという。そうは言っても公開当時は、“チャイニーズ・マフィア”の若きドンを演じたジョン・ローンの、冷酷非情でありながらも貴公子然とした佇まいに対し、ミッキー・ロークより高く評価する声が多かった。それから35年以上の歳月が流れ、チミノの判断が正しかったか否かは、鑑賞者各自の判断に委ねたい。 因みにジョン・ローンは本作の後、ベルナルド・ベルトルッチ監督作で、アカデミー賞9部門を制した『ラスト・エンペラー』(87)に主演。皇帝溥儀を、見事に演じている。 さて本作は、『天国の門』の再現を恐れてか、ラウレンティスがチミノに最終的な編集権を渡さなかった。それが効を奏して(?)、スケジュールも予算をオーバーすることもなく、1985年8月に無事公開に至った。 ノースカロライナ州に在るラウレンティスのスタジオに建て込まれた、ニューヨークのチャイナタウンは、誰もがセットとは思えないほど、精緻な仕上がりであった。そこをメインの舞台として、強烈なヴァイオレンスシーンなど、見どころ満載で展開される“対決”の物語は、134分の上映時間を飽きさせことなく駆け抜ける。 アメリカより半年遅れて、日本では86年2月に公開となった。その際の劇場用プログラムには、~前作『天国の門』の失敗のツケを十二分にカバーする起死回生のホームランになった~などと記されている。 また本作のプロモーションで、チミノとジョン・ローンが来日。その際の記者会見が採録されているが、本作で中国系の俳優を起用して成功したことで、西部開拓時代に中国からの移民が多く従事した、鉄道建設の物語を映画化する、チミノの構想が、実現する可能性が大きくなったなどと、書かれている。 しかし実際のところは、これらはインターネットなき時代に、日本の映画会社がお得意とした、事実の塗り替えであった。本作『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』はアメリカ公開の際、スタート時こそまずまずの成績を上げたものの、アジア系アメリカ人や映画批評家などから、人種差別や性差別的な傾向を指摘され、批判や抗議を受けたことなどが一因となり、動員は下降の一途を辿った。 これに対しチミノは、「『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』は人種差別を描いた映画だけども、人種差別的な映画ではありません」と反論。実際に本編の中でも、偏見を抱き続けていた主人公が、己の過ちを認めるシーンなどが盛り込まれている。 しかし結局は、2,400万ドルの製作費に対して、興行収入は1,800万ドルに止まり、赤字に終わった。チミノの名誉挽回は、失敗に終わったのである。 本作以降のチミノは、『シシリアン』(87)『逃亡者』(90)『心の指紋』(96)といった作品を監督するも、いずれも興行は不発。最後の長編監督作となった『心の指紋』に至っては、ほとんど劇場公開されずに、いわゆる「ビデオスルー」となる始末だった。 その後は「カンヌ国際映画祭」の60回記念として製作された、世界の著名監督34組によるオムニバス映画『それぞれのシネマ』(2007)の中の上映時間3分の一篇を手掛けただけ。2016年、チミノは77才で、この世を去った。 死に至る4年前=2012年に、『天国の門』をチミノ自らが、3時間36分に再編集。ディレクターズ・カット版として、「ヴェネチア映画祭」でお披露目後にアメリカ公開された際、「初公開当時の評価が誤りであった」などと、再評価の声が高らかに上がった。 映画作家として、不遇な後半生を送ったチミノにとって、それはせめてもの慰めだったかも知れない。■
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COLUMN/コラム2021.04.07
血まみれサムとマックィーンの黄金時代『ゲッタウェイ』
本作『ゲッタウェイ』(1972)の監督は、サム・ペキンパー。その異名“血まみれサム”は、多くの方がご存知の通り、彼の作品の特徴である、血飛沫飛び散るヴァイオレンス描写に由来するものである。 しかし“血まみれ”なのは、撮影現場やスクリーン上だけの話ではなかった。ペキンパーは常に、製作会社やプロデューサーと、血で血を洗う戦いを繰り広げていた。その戦いについて、彼は本作が製作・公開された年のインタビューで、こんな風に語っている。「西部のガンマンの対決なんか、製作費の問題での対決にくらべれば屁みたいなものさ。俺はいつもケチなプロデューサーを相手に、嘘をつき、ゴマ化し、チョロマカす。でもこれまで大方、この闘いは負けだった。いつも、プロデューサーとケンカして、クビさ。じっさい、この世界には、寄生虫やハイエナがウヨウヨだ。殺されるなんてものじゃない。生きたまま食われちまうんだぜ」 そんな血みどろの戦いの中で、“血まみれサム”は自らのスタッフをも、次々と血祭りに上げたことでも、知られる…。 ドン・シーゲル門下ということでは、現代の巨匠クリント・イーストウッドの兄弟子に当たる、ペキンパー。1925年生まれの彼が、TVドラマの西部劇シリーズなどを経て、映画監督としてのスタートを切ったのは、齢にして30代中盤だった。 デビュー作は、『荒野のガンマン』(60)。それに続く『昼下がりの決斗』(61)では、興行的な成果こそ得られなかったものの、新しい時代の西部劇の担い手として、注目されるに至った。 そしてこの作品では、フィルムを大量に回し、膨大なそのすべてを把握して編集するという、彼一流の手法が、確立した。ペキンパー組の常連俳優だったL・Q・ジョーンズ曰く、「脚本を壊し、全てを断片にし、それから組み合わせる」やり方である。 続いて手掛けたのが、『ダンディー少佐』(65)。主演のチャールトン・ヘストンが、『昼下がりの決斗』に感銘を受けたのが、ペキンパー起用の決め手となった作品だ。 しかし『ダンディー少佐』は、ペキンパーに悪名を与える、決定打となった。いわく、「予算もスケジュールも守らない」「スタッフに過大な要求をし、出来なければ情け容赦なくクビにする」「大酒飲みのトラブルメーカー」といった具合に。 製作したコロムビアと大揉めに揉めたこの作品では、ペキンパーは最終的に編集権を奪われる。そして彼が編集したものより、大幅に短縮された作品が、公開されるに至った。 このパターンは、その後のペキンパー作品について回る。しかしそれ以前の段階としてペキンパーは、『ダンディー少佐』から4年以上の間、干されることとなった。 雌伏の時を経て、ペキンパーが69年に放ったのが、代表作『ワイルドバンチ』である。この作品でペキンパーは、彼の代名詞とも言える、銃撃戦などアクションを“スローモーション”で捉える手法を、初めて用いた。これが、「デス・バレエ=死の舞踏」などと評され、正にペキンパーの「血の美学」が、世界中にセンセーションを巻き起こしたのである。 後に続くフィルムメーカーたちに多大な影響を与え、映画史に残るマスターピースとなった『ワイルドバンチ』。しかしこの作品も、ペキンパー作品の辿る悪しきパターンから、逃れられなかった。 ペキンパーが当初完成させたバージョンは、2時間24分だったが、公開後興行成績が思ったほど伸びなかったため、製作元のワーナーはペキンパーに無断で、フラッシュバックなどをカット。2時間12分版を作って、全米の劇場に掛けたのである。 それはともかく、『ワイルドバンチ』で悪名以上の勇名を得たペキンパーは、続けて「恐らく私のベストフィルム」と胸を張る、『ケーブル・ホーグのバラード』(70)(日本初公開時のタイトルは『砂漠の流れ者』)を完成。更にダスティン・ホフマンを主演に迎え、イギリスで撮影した初の現代劇『わらの犬』(71)では、その暴力描写が、賛否両論の嵐となった。 キャリア的には正にピークを迎えんとするタイミングで、ペキンパーは、当時名実と共にNo.1アクションスターだった、スティーヴ・マックィーンと組むことになる。その作品は西部を舞台に、ロデオの選手を主人公にした現代劇、『ジュニア・ボナー 華麗なる挑戦』(72)。ペキンパーのフィルモグラフィーでは、銃撃と死体の登場しない、唯一の作品である。 実はペキンパーはこの作品以前に、マックィーンとの邂逅があった。それはマックィーンがポーカーの名手を演じた、『シンシナティ・キッド』(65)である。時期的には『ダンディー少佐』で、悪名を轟かせた直後。そしてペキンパーは、『シンシナティ・キッド』の撮影開始から1週間足らずで、監督をクビになったのである。 この時マックィーンは、ペキンパーの解雇に同意したという経緯があった。『ジュニア・ボナー』で、そんなペキンパーとの因縁の組み合わせが決まった時のことを、後にマックィーンはこう思い起こしている。「俺はいつも完璧主義者だから、多くの人の頭痛の種だったし、サムも悪評高かった。彼と俺で、大したコンビさ。スタジオ側は頭痛薬をたっぷり用意してたと思うよ」 いざ『ジュニア・ボナー』の撮影が始まると、2人の間には最初こそ緊張感が生じたものの、次第に解消していったという。マックィーンが頻繁に自分の登場シーンを書き換えることで、対立などもあったが、両者の関係は概ね良好だった。 ペキンパーはマックィーンについて、「…奴のことを好きな人間はあまりいないみたいだが、私は好きだね」と語っている。一方でマックィーンは、「サム・ペキンパーは傑出した映画作家だ…」と、リスペクトを表明している。『ジュニア・ボナー』は、評判の高さに比して、興行は期待外れに終わった。しかしマックィーン×ペキンパーの両雄は、続けて組むこととなる。 それが、本作『ゲッタウェイ』である。 ジム・トンプソンの犯罪小説を映画化するというこの企画は、『ローズマリーの赤ちゃん』(68)『ゴッドファーザー』(72)などのヒット作を手掛けた、パラマウントのプロデューサー、ロバート・エヴァンスがスタートさせた。ペキンパーに監督させるというプロジェクトだったのだが、不調に終わり、一旦ご破算になった。 続いてパラマウントの別のプロデューサーが、マックィーン主演作として企画を進めることとなったが、それも頓挫。マックィーンは、ポール・ニューマンやシドニー・ポワチエ、バーブラ・ストライサンドらと設立した製作会社ファースト・アーティストの第1回作品として、本作の製作を決める。 脚本は、原作者のトンプソン自らが手掛けたが、マックィーンがその内容を気に入らず、没に。当時新進の脚本家だった、ウォルター・ヒルが担当することとなった。 マックィーンが、監督の第一候補と考えていたのは、ピーター・ボグダノヴィッチ。当時『ラスト・ショー』(71)で高い評価を得ていた、新進気鋭の若手監督だった。しかしスケジュールの問題などで、実現せず。 そこで白羽の矢が立てられたのが、ペキンパーだった。彼にとっては、元より興味があった企画の上、次なる監督作として取り組んでいた『大いなる勇者』『北国の帝王』などが、諸事情によって、他の監督の手に渡ってしまったタイミング。そこで『ジュニア・ボナー』に続けて、マックィーンと組むこととなった。 テキサスの刑務所に、銀行強盗の罪で服役していた男が、10年の刑期を半分も務めることなく、4年で仮釈放となった。男の名は、ドク・マッコイ(演:スティーヴ・マックィーン)。迎えに来た妻キャロル(演:アリ・マッグロー)と、4年振りの熱い夜を過ごす。 ドクの早すぎる仮釈放は、地方政界の実力者ベニヨン(演:ベン・ジョンソン)との裏取引によるもの。出所と引き換えに、田舎町の小さな銀行を襲って、その分け前をベニヨンに納めるという約束だった。 ベニヨンはドクに、銀行強盗の仲間として、ルディ(演:アル・レッティエリ)、ジャクソン(演:ボー・ジャクソン)という2人を引き合わせる。綿密な計画が立てられ、キャロルを含めて4人での、決行の日がやってくる。 すべてがスムースにいくと思われたが、青二才のジャクソンが、銀行の守衛を射殺したことから、全ての歯車が狂い出す。ドクとキャロル、ルディとジャクソンの二手に分かれて逃走を図るも、ルディはジャクソンを突然射殺。集合場所でドクも撃ち殺して、金を独り占めしようと図るが、気配を察したドクに、逆に撃ち倒される。 ドクは黒幕のベニヨンの元に、取り引きに行く。ベニヨンは、今回の銀行強盗の裏事情を明かし、ドクを釈放させた背景に、キャロルとの情事があることを仄めかす。ショックを受けるドクの背後に、突然キャロルが現れた。そしてベニヨンに、銃弾をぶち込む。 互いに傷つき、その絆が揺らぎながらも、逃避行を続けるドクとキャロルの夫婦に、次々とアクシデントが襲い掛かる。更にはベニヨンの手下たち、そしてドクに撃たれながらも、生きながらえていたルディが、追っ手となって迫る。 ドクとキャロル、犯罪者の夫婦が大金を手にしたまま国境越えを目指す、“ゲッタウェイ”逃走劇は、果して成功するのか!? キャロル役のアリ・マッグローは、白血病のヒロインを演じて観客の涙を絞った『ある愛の詩』(70)が、大ヒットして間もない頃。私生活では、本作を当初プロデュースする予定だったロバート・エヴァンスと、結婚生活を送っていた。本作のヒロインにキャスティングされたのも、その流れからと思われる。 ところが『ゲッタウェイ』の撮影中、マッグローは、前妻と15年の結婚生活にピリオドを打ったばかりのマックィーンと、恋に落ちてしまう。結局マックィーンによる略奪婚という形で、マッグローはエヴァンスと別れ、撮影終了後に2人は夫婦となった。 72年2月にクランクインした本作は、そんなスキャンダラスな話題も交えながら、順撮り、即ち物語の進行の順番通りに、撮影を進めていった。そして5月には、クランクアップ。予算的にもスケジュール的にも、ペキンパー作品としては大過ない、進行と言えた。 しかしポストプロダクションで、トラブる。ペキンパーは、『ワイルドバンチ』『わらの犬』に続いて、音楽をジェリー・フィールディングに依頼するも、完成したスコアは、マックィーンの意向で、すべて差し替え。画面を彩ったのは、クインシー・ジョーンズのジャズっぽいスコアとなった。 更にマックィーンは、最終編集権をペキンパーには渡さずに、作品を完成させた。アクション映画の諷刺を目指して本作に挑んだというペキンパーは、完成版を目にした時に、「これは俺の映画じゃない!」と、叫んだと伝えられる。 本作の次に撮った『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』(73)では、MGMの判断で勝手に編集が行われた際、ペキンパーはその経営者に、メキシコから殺し屋を差し向けようとまで思い詰めたという。それでは本作のマックィーンに対しての怒りは、どんな形で発露されたのか? 意外や意外、2人の友情は、その後も続いたという。それは一体、なぜだろうか? 一見、いつもの悪しきパターンにはまり込んだかのような『ゲッタウェイ』だったが、興行の結果が他のペキンパー作品とは、大きく違った。彼のフィルモグラフィーに於いて、最大のヒット作となったのである。 ペキンパーは、興収から多額の歩合も貰える契約を、マックィーンと結んでいた。これでは、矛を収める他はなかったのかも知れない。 だが、そんな裏事情を敢えて無視して、本作を眺めてみよう!すると、ごく単純化されたストーリーラインの中で、至極楽しめる極上の娯楽作品となっていることが、わかる。 公開時は、42才。ノースタントのアクションスターとして、まさに脂が乗り切っていた、マックィーンの身のこなし。そして、銃器の扱いに関しては、右に出る者がないと言われた彼が魅せる、ガンアクション。 ペキンパーは、47才。お得意の“スローモーション”を駆使した、ヴァイオレンスシーンの演出に磨きがかかり、観る者の度肝を抜く。 本作では、そんな両者の技能が、まさに融合。“映画的瞬間”を、作り出しているのである。 そして2021年の我々は、知っている。1972年にピークを迎えた、2人のその後の運命を。 マックィーンはこの後、たった8年しか生きられず、50歳でこの世を去ってしまう。ペキンパーの余命も、あと12年。60才を迎える前に、彼の心臓は止まってしまう。 そんな彼らが全盛期に手を組んで、輝きを放つ、『ゲッタウェイ』。今こそ感慨を新たに、フィルムに焼き付けられた、2人の“黄金時代”を、凝視したい。■ 『ゲッタウェイ』© Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2021.04.30
世界のクロサワ作品が大いなる“西部劇”にアレンジされるまで。『荒野の七人』
村民たちが農作業で細々と生計を立てている、メキシコの寒村。ところが収穫期になると、山賊の頭目カルヴェラが、35人もの手下を引き連れて襲来し、農民たちの汗と涙の結晶を、「殺さぬ程度に」残して、奪っていってしまう。 毎年繰り返される傍若無人な振舞いに耐えかねて、反抗を企てる村民もいた。しかしそうした者を、カルヴェラは容赦なく、撃ち殺すのだった…。 困り果てた村民たちは、長老に相談する。そして、「銃を買って、戦うべし」との声に従い、ミゲルら3人は、村民たちから集めた金を持って、国境の街へと出掛けた。 そこで彼らは、目にした。先住民の埋葬を巡って起こった騒動を、度胸とガンさばきで見事に収めた、2人の拳銃使い、クリスとヴィンの姿を。 クリスを頼れる人物と見込んだミゲルたちは、「銃の買い方と撃ち方を教えてくれ」と、彼に懇願。それに対しクリスは、「銃を買うよりは、ガンマンを雇った方が良い」と教え、結果的に自ら助っ人となった。 そんなクリスに、ヴィンも合流。しかし40名近くの盗賊に対抗するには、2人では到底足りない。 1人僅か20㌦の報酬にも拘わらず、クリスの昔馴染みやお尋ね者など、腕利きのガンマンたちが、集まった。そして最後に、先住民の埋葬騒ぎに居合わせ、クリスとヴィンに憧れを抱いた青二才の若者チコが、仲間に加わる。これで助っ人は、“7人”となった。 ミゲルたちの寒村まで案内された“7人”と、カルヴェラ率いる山賊団の、命懸けの戦いが始まる…。 *** 本作『荒野の七人』(1960)は、多くの方がご存知の通り、本邦が誇る「世界のクロサワ」こと、黒澤明監督の不朽の名作『七人の侍』(54)の、“西部劇”版リメイクである。そしてここから、スティーヴ・マックィーンやチャールズ・ブロンソン、ジェームズ・コバーン、ロバート・ヴォーンなど、次々とスターが育ったことでも、広く知られる作品である。 オリジナルの『七人の侍』が、アメリカで公開されたのは、1956年の7月。「これは西部劇の傑作になる!」と最初に目を付け、僅か250㌦で、東宝からリメイク権を買ったのは、プロデューサーのルー・モーハイムだった。 その後本作に関わる多くの人物が、モーハイムと同じような思いを抱いたが、それは至極当然のこと。黒澤が最も尊敬し、その後を追ったのは、「西部劇の神様」ジョン・フォードだったからだ。 因みに東宝はリメイク権を売るに当たって、『七人の侍』の脚本を執筆した原作者たち=黒澤、橋本忍、小国英雄の3人には、何の断りもなかったという…。 リメイクが動き始めた当初の構想では、やはり『七人の侍』を観て大いに気に入った、オスカー俳優のアンソニー・クインが主演。そしてクインに薦められて『七人の侍』を鑑賞後、夢中になって、モーハイムからリメイク権を買い取るに至ったユル・ブリンナーが、監督を務める筈だった。 当時のブリンナーは、『王様と私』(56)でアカデミー賞主演男優賞を獲得した、スター俳優。その初めての監督作になるかも知れなかった本作だが、結局彼は監督デビューを断念する。そして、後に『ハッド』(63)や『ノーマ・レイ』(79)などの社会派作品を手掛けることになる、マーティン・リットに監督を依頼した。 リットは脚本に、ウォルター・バーンスタインを起用。実は『荒野の七人』の原型は、この時にバーンスタインが書いたものと言われる。彼の名は諸事情があって、作品にクレジットされてはいないのだが。 その後リットは、このプロジェクトから去る。余談ではあるが、彼と黒澤作品の縁はこの後も続き、『羅生門』(50)をポール・ニューマン主演で、やはり“西部劇”にリメイクした、『暴行』(64)の監督を務めている。 リットと入れ替わるように、独立系のプロデューサーである、ウォルター・ミリッシュが、本作に参画。そして彼が白羽の矢を立てたのが、『OK牧場の決斗』(57)などで、“西部劇”をはじめとする“男性アクション”の担い手として評価が高かった、ジョン・スタージェスだった。 スタージェスが監督に本決まりとなり、更には製作者としてもクレジットされることとなった。そんなプロセスの中で、キャスティング作業も本格化していく。 オリジナルの『七人の侍』で志村喬が演じた、リーダーの勘兵衛に当たるクリス役には、ユル・ブリンナー。そしてスタージェスの前作『戦雲』(59)の出演者から、スティーヴ・マックィーン、チャールズ・ブロンソンが抜擢された。 マックィーンの役名は、ヴィン。オリジナルでは、加東大介が演じた勘兵衛の腹心の部下・七郎次と、稲葉義男が演じた参謀的存在の五郎兵衛をミックスした存在である。ブロンソンのオライリーは、千秋実がやった平八に当たるが、オリジナル版のムードメーカー的な存在と違って、腕が立つキャラクターとなっている。 三船敏郎の菊千代と、木村功の勝四郎を合わせた若造キャラのチコ役には、1950年代に「ドイツのジェームス・ディーン」と呼ばれて人気を博した後、ハリウッドへと進出した、ホルスト・ブッフホルツが決まる。 カウントしてもらえばわかるが、ここまでの4人で、『七人の侍』の内の6人分のキャラが、消化されてしまっている。即ち、ブラッド・デクスターが演じたハリーと、ロバート・ヴォーンが演じたリーの2人は、オリジナルの『七人の侍』には存在しない。本作『荒野の七人』のために創造された、キャラクターなのである。 七面倒な書き方になってしまったが、これはオリジナル版とそのリメイク版である本作の違いを示す上で、避けて通ることができない部分である。 因みにデクスターは、スタージェスの『ガンヒルの決斗』(59)に出演していた縁からの出演。ヴォーンは、『都会のジャングル』(59)でアカデミー賞助演男優賞候補となったことが注目されての、起用だったと言われる。 ここでヴォーンの出演を決めたことが、ジェームズ・コバーンの起用にも繋がる。ヴォーンとコバーンは、大学時代からの友人同士。コバーンは『七人の侍』のリメイク企画が進められていることを、ヴォーンから聞いて、スタージェスに連絡を取ったのである。 実は本作の製作された1960年のハリウッドは、俳優たちのストライキが予定されていた。無事にクランクインするためには、スト突入の前に、主要キャストの契約を済ませねばならない。 そのため急ピッチでキャスティングを進めている最中に、コバーンがやって来た。彼に当てられたのは、宮口精二が演じた、『七人の侍』の中で最も腕利きの、剣の達人久蔵に相当するブリット役。オリジナル版のアメリカ公開時、連日劇場に足を運ぶほどの熱烈なファンだったというコバーンは、配役を聞いて、小躍りしたという。 こうして“7人”が、遂に決まった。本作が『七人の侍』の忠実なリメイクと言われることが多い割りには、“西部劇”に翻案するに当たっては、登場するキャラクターから、様々な点で知恵を巡らしてアレンジしたのである。 そもそも最初の脚本では“7人”は、南北戦争の敗残兵という設定。オリジナル版での、戦国時代の戦乱の中で主家を失った侍=浪人者に準拠していた。リーダーも老成した勘兵衛により近いキャラで、スペンサー・トレイシーが演じるイメージだったという。 黒澤は後に、南北戦争の敗残兵の方が良かったと語っている。しかしこれは、オリジナルに忠実であって欲しいという、原作者の欲目であろう。 結果的に『荒野の七人』は、南北戦争の敗残兵ではなく、“ならず者”のガンマンの集まりとなった。各々のガンマンは、これまで少なからぬ悪行を行ってきたことを窺わせる。それがきっかけを得て、弱者である農民たちの味方となる。 これはハリウッド製西部劇の伝統とも言える、“グッド・バッド・マン”のパターンに則っている。悪い奴ではあっても、心の底に人間味を持っており、最終的には善行を施すというわけだ。 因みに『荒野の七人』が、オリジナル版から離れた原因のひとつには、メキシコロケもあった。本作に先立ってメキシコで撮影された、ロバート・アルドリッチ監督、ゲイリー・クーパー×バート・ランカスターの2大スター共演作『ベラクルス』(54)に於ける、メキシコ人の描き方に問題があったため、「アメリカ映画は来るな!」という声が高まっていた中での、ロケだったのである。 撮影現場には、メキシコ政府から派遣された検閲官が同席。脚本がチェックされ、何度も手直しせざるを得なかった。 オリジナル版で農民たちは、野武士の襲来を撃退するのに、端から浪人者を用心棒として雇うことを目的に、町へと出る。しかし、先に記した通り本作では、「銃を買って、戦う」ために、農民は街に出る。クリスのアドバイスを受けて初めて、ガンマンたちを雇うことを決心するのである。 こうした回りくどい展開になったのは、正にメキシコ政府の横槍に応じた結果である。付け加えれば、農作業に勤しむ村民たちが、その割りには、汚れひとつないような真っ白なシャツを着ているのも、検閲官の指示によるものだったという。 随所に施した“西部劇”仕様に加えて、本作はこのような、当初は想定しなかった改変も加えられている。そして上映時間は、オリジナル版の207分という長尺に対して、その6割ほどの128分。 “7人”と野武士の対決に於いて、オリジナル版では、緻密な作戦計画が段階的に実行されていく。それに対して本作は、山賊との対決が、かなりシンプル且つ直線的に描かれる。 あまりに機能的に事を運び過ぎるため、ちょっと納得し難い展開もある。優勢に立ったカルヴェラが、“7人”の命を奪わずに、わざわざ逃がす際に、銃器まで返す。これは、ご愛嬌で済ますべきなのか? 今どきの言い方では、あからさまな「死亡フラグ」である。 戦いの顛末として、“7人”の内4人までが斃れるのは、オリジナル版と同じ。だが長丁場となった対決の中で、1人また1人と命を落としていくオリジナル版に対し、本作では最終決戦で、4人の命が一気に奪われる。とにかく、簡潔且つスピーディなのだ。 ここで、敢えて言いたい! だからこそ本作は、ワールドワイドに大衆的な人気を得たのではないだろうか? 私が本作を初めて観たのは、今から40年以上前の十代前半=中坊の頃。池袋文芸坐で、本作後にスタージェスが、マックィーン、ブロンソン、コバーンを再度起用した、『大脱走』(63)との2本立てだった。 そして『七人の侍』の何度目かのリバイバル上映を観たのは、それよりも後。正直に言えばその時は、オリジナル版の重さや暗さ、そして長さにノレず、「『荒野の七人』の方が面白い」と思ったのである。 その後何度も鑑賞を繰り返す内に、社会的なテーマや哲学的な深みまで持った『七人の侍』の素晴らしさを、「格別のもの」と感じるようになっていく。しかしながら両作初見の際に、当時の映画少年として感じたことは、必ずしも間違ってはいまい。 何はともあれ、『七人の侍』から本作『荒野の七人』が受け継いだ、野盗の略奪に苦しむ農民を救うために、プロフェッショナルが集結して力を尽くすというプロットは、ハリウッドの黄金期を支えたジャンルのひとつ“西部劇”に、新風を巻き起こすこととなる。 ガンマンに、「家族も、子どもも、帰る家もない」などと嘆かせ、そのキャラに陰影を持たせる。これもまた、それまでの“西部劇”とは一味違った、極めて斬新なアプローチだったと言われる。 そして本作は、ジョン・フォードらが作った、大いなる“西部劇”の時代の終末期の作品となった。4年後には、セルジオ・レオーネ監督による、イタリア製西部劇=マカロニ・ウエスタンの『荒野の用心棒』(64)が登場。“西部劇”の歴史は塗り替えられる。 『荒野の用心棒』は、やはり黒澤明監督の『用心棒』(61)のリメイク。…と言っても、無断でパクった作品であり、後に裁判を経て、公式なリメイクとなったのであるが。『荒野の用心棒』の主演は、クリント・イーストウッドに決まる前、有力候補だったのが、チャールズ・ブロンソン。レオーネが、本作のオライリー役を見ての、オファーだった。 そんなこんなも含めて、『荒野の用心棒』が本作の影響下にあったのは、多くが指摘するところである。付記すればレオーネは、『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』(66)に、本作でカルヴェラを演じたイーライ・ウォラックを起用。これもウォラックが、オリジナル版の野武士の頭目にはなかったユーモアや愛嬌を、カルヴェラ役に加えたのを、買ってのことだったと思われる。 『荒野の七人』は、ハリウッド製の大いなる“西部劇”と“マカロニ・ウエスタン”の、ミッシングリンク的な位置にある作品と言える。そして後々まで、多くのファンに愛され続ける作品となった。 続編が3本製作され、1990年代末にはTVシリーズ化。更にアントワン・フークア監督、デンゼル・ワシントン主演で、リメイク版『マグニフィセント・セブン』(2016)が製作されている。 それは偉大なる『七人の侍』に、“西部劇”としての創意工夫を加えて見事にアレンジした、本作『荒野の七人』の素晴らしさの証左と言えよう。■ 『荒野の七人』© 1960 METRO-GOLDWYN-MAYER STUDIOS INC.. 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COLUMN/コラム2021.05.07
ヴェンダース×サム・シェパードのコラボが生んだ、深すぎる愛の物語『パリ、テキサス』
本作『パリ、テキサス』(1984)の日本公開は、1985年9月。 大学1年だった私は、同級生の女の子とアルタ前で待ち合わせし、新宿文化シネマへと向かった。今はシネマート新宿かEJアニメシアター新宿に名を変えている、2スクリーンの内のどちらかの劇場での鑑賞だった。 当時日本の映画業界では、「カンヌ国際映画祭」の最高賞を、パルム・ドールという正確な呼称は使わず、“グランプリ”と謳っていた。その「カンヌでグランプリ」の触れ込みで、今はなきフランス映画社が配給だった。 監督のヴィム・ヴェンダースの名は、映画マニアの間では知られていたが、過去作の日本公開は、まだ数少なかった。そしてそれらを全く観ていない私の、彼に関しての知識は、「小津安二郎を敬愛する、ドイツ人監督」で、『ゴッドファーザー』(72)のフランシス・フォード・コッポラに招かれてハリウッドで作品を撮ったが、色々とトラブってうまくいかなかったというぐらいだった。 ヴェンダース作品が日本で、一般の口の端に上るようになったのは、それから3年近く後。『ベルリン・天使の詩』(87)が88年春に公開され、アート映画や単館系作品として、記録的なヒットを飛ばしてからだったと思う。 私はヴェンダースよりも、脚本のサム・シェパードの名に惹かれた。アメリカの劇作家であると同時に俳優だったシェパードに関しては、本作の前年=84年に日本公開された、フィリップ・カウフマン監督の『ライトスタッフ』(83)で演じた、孤高のテストパイロット、チャック・イェーガーがあまりに格好良く、強烈な印象が残っていたからである。彼はこの役で、アカデミー賞助演男優賞の候補になっている。 因みに目が早い映画ファンの間では、更にその前年=83年に公開した、テレンス・マリック監督の『天国の日々』(78)でのシェパードが話題になっていた。この作品での彼は、若くして死病に侵された、農場主の役だった。 5年もオクラになっていた『天国の日々』が突然公開に至ったのは、82年暮れに公開された、『愛と青春の旅立ち』(82)の大ヒットがきっかけ。リチャード・ギア人気に火が点き、その過去の主演作として掘り起こされたためだ。そして公開館に「ギア様目当て」で駆け付けた中に、結果としてサム・シェパードの方に熱を上げるようになった女性ファンが、少なからず居たのである。 些か余談が過ぎたが、『パリ、テキサス』が、私が当時はあまり好んでは観なかった「アート系」(そんな言葉は当時はなかったが…)であることは、フランス映画社が買った作品であることからも、察しがついた。しかしまあ「カンヌ」であるし、当時日本でも美人女優として人気があった、ナスターシャ・キンスキーも出てるし等々で、デートムービーとしてチョイスしたのであろう。 終わってみると、私より何倍も感受性が強かった連れの女の子は一言、「悲しいね」。色々と感じ入ってたようであったが、それに対して私は、正直ピンと来ていなかった。その理由は、後ほど記す。 *** テキサスの砂漠を、彷徨う男がひとり。水を求めて入った、ガソリンスタンドの売店で、氷を口にすると、気を失った…。 ロスアンゼルスで働くウォルトの元に、1本の電話が入る。4年前に失踪し、死んだと思っていた兄トラヴィスらしき男が、行倒れて入院していると。ウォルトは兄を迎えに、テキサスへと向かった。 トラヴィスは何を聞いても口を開かず、すぐに逃げ出そうとする。挙げ句は飛行機での移動を拒否したため、ウォルトはレンタカーで、ロスまでの遠路を連れ帰ることにする。 途切れ途切れに記憶を取り戻すトラヴィスは、通信販売で買ったという土地の写真を弟に見せる。それは=テキサス州のパリという、辺鄙な場所。かつて兄弟の両親が初めて愛を交わし、トラヴィスが生を受けた地だという。トラヴィスも愛する者たちと、その地に暮らすのを夢見たのだろうか? ロスで待っていたのは、ウォルトの妻アンヌと、トラヴィスの息子で間もなく8歳になる、ハンター。トラヴィスの失踪後に、その妻ジェーンが、ハンターをウォルト邸の前に置き去りにしたのだ。それ以降ハンターは、ウォルトとアンナを両親として育った。 トラヴィスを実の父親と知りながらも、なかなか心を開かないハンター。しかしウォルトとアンナが5年前、幸せだった頃のトラヴィス一家を訪れた際に撮った、8mmフィルムのホームムービーの映写を機に、2人の距離が縮まる。 アンナはハンターを失うことになるのではと恐れながらも、ジェーンから毎月息子宛に送金があることを、トラヴィスに伝える。彼女が金を振り込んでいる銀行は、テキサス州のヒューストンにあるという。 トラヴィスは中古のフォードを駆って、ジェーンを探しに行くことを決める。そしてその旅には、「ママに会いたい」という思いが募ったハンターも、同行する。 ヒューストンの銀行前で、車を運転するジェーンを遂に見付けた2人。彼女の後を追っていくと…。 *** 77年、ヴェンダースはコッポラ率いるゾーエトロープ社から依頼を受け、ハードボイルド小説の著名な書き手ダシール・ハメットを主人公にした小説「ハメット」の映画化に取り掛かる。サム・シェパードによると、まずは脚本を書いて欲しいと、ヴェンダースから依頼があったという。 60年代はじめに21歳で劇作家として、デビュー。映画でもミケランジェロ・アントニオーニ監督の『砂丘』(70)やボブ・ディランが監督・主演した『レナルド&クララ』(78)などの脚本を手掛けたシェパードだが、撮影所システムの中で脚本を書くことには気乗りせず、その依頼を断った。 そうすると今度は、「主演してくれ」との依頼。ヴェンダースは、『天国の日々』で観たシェパードの演技を、気に入っていたのだ。 ところが当時のシェパードは、「知名度不足」のため、製作会社からNGが出る。そのため彼が、映画『ハメット』(82)に参加することはなかった。 しかしここで、いずれは一緒に仕事をしようと、2人の間で約束が交わされた。具体的な一歩を踏み出したのは81年、シェパードの初めての本「モーテル・クロニクルズ」の草稿を、ヴェンダースが読んだ時点からだった。 モーテルからモーテルへと旅をしながら綴った詩と散文が収められたこの書物のイメージを膨らませて映画にしたいと考えたヴェンダースは、ラフに脚色したものを書き上げる。しかしシェパードが内容を気に入らず。そのシナリオは流れた。 その後2人で過ごす内に、「砂漠にいきなり現れた記憶喪失の男」というアイディアが浮かんだ。そしてそれを基に、共同で脚本を書き進めていくことになる。 はじめは兄弟を軸とした話で、妻を探し求めるエピソードはあったものの、妻が見付かるかどうかは、決まっていなかった。子どもを登場させることになって、大体のアウトラインが固まったという。 トラヴィスが失踪する原因として、第1稿では妻が師事する“教戒師”が登場した。それが転じて、トラヴィスが古いアルバムを頼りに、自分の謎めいた家系を辿るために、あらゆる人を至る所に訪ねていくという話になっていく。 更にそこから変わって、ジェーンの父親がテキサスの大地主で、彼女を閉じ込めているという設定が、考え出された。シェパードは父親役として、ジョン・ヒューストンにオファーすることを考えていた。 「この映画は、アメリカについて私がずっと語りたいと思ってきたことを入りくんだ形で語っています…」 ヴェンダースが完成後にそう述懐する本作の物語の出発の地として、シェパードはテキサス州を挙げる。そこにアメリカを凝縮して、描こうという提案だった。ヴェンダースは3カ月掛けてテキサスを旅し、ロケハンを行った。 主演のトラヴィスには、ハリー・ディーン・スタントン。ヴェンダースにとっては意中のキャスティングだったが、50年代後半から脇役として活動してきたスタントンのことを、シェパードはまったく知らなかった。 しかしたまたま、コッポラ主催の映画祭で邂逅。スタントンと飲み明かして意気投合したシェパードは、「…トラヴィスについてぼくが思い描いたことをすべてもちあわせている…」と、ヴェンダースに電話を掛けてきたという。 トラヴィスの妻のジェーン役には、ナスターシャ・キンスキー。13歳の時のデビュー作が、ヴェンダースの『まわり道』(74)だった彼女は、その後トーマス・ハーディの原作をロマン・ポランスキー監督が映画化した文芸作品『テス』(79)などに主演。先に記した通り日本でも人気が出て、「ナタキン」などという略称で呼ばれた。 彼女とスタントンでは、随分と歳が離れた夫婦という印象になる。スタントンは1926年生まれ。ナタキンは61年生まれで、歳の差は実に35。まさに「親子ほど歳が離れた」2人だが、その歳の差が、結果的には本作の展開には効果的であった…。 ジェーンの父親が夫婦間の最大の障害になるというシナリオには、ヴェンダースは納得がいかず、後半部が未完のまま、本作は83年9月29日に、クランクイン。現場にはシェパードが居着きの予定だったため、ほぼ物語の進行通りに順撮りで撮影を進めながら、未完の部分を考えていこうというプランだった。 ところがフランスやドイツなど、主にヨーロッパから製作費を得た本作は、急激なドル高の影響などを受け、何度か撮影の中断を余儀なくされる。そのためシェパードが、時間切れ。彼は出演作の撮影に参加するため、本作の現場から去らねばならなくなった。 それ以降のヴェンダースは、脚本家のL・M・キット・カーソンと作業を進めることになる。カーソンは、トラヴィス夫妻の息子を演じた子役のハンター・カーソンの、実際の父親であった。そして2人で、次のようなクライマックスへと、辿り着く。 ヒューストンでジェーンを見つけたトラヴィスが、その後を追うと、彼女がのぞき部屋で働いていることがわかる。客はマジックミラー越しに彼女の姿が見えるが、彼女の方からは客が見えない。電話越しに問いかける客に、彼女が応えるというシステムだ。 客になりすましたトラヴィスは、ジェーンに相対して会話することになる。その中でトラヴィスは、自らの気持ちにも対峙し、やがて思いの丈を語ることになる。そしてジェーンも、客が失踪した自分の夫だと、気付く…。 カーソンと共に思い付いたこの展開を、ヴェンダースがシェパードに送った。すると、「ようやく、ぼくたちが延々と語り合ったことがやっと見つかったね」と、シェパードは言い、そのシーンのためのセリフを書いて、電話で伝えてきたという。 こうして本作は完成へと向かい、「カンヌ」での最高賞をはじめ、世界的に高く評価されることになる。トラヴィスの失踪の原因が明らかになり、夫婦の、そして家族のこれからが提示される、覗き部屋でのくだりは、特に高く評価されていたと思う。 ここでいきなり話を戻すが、新宿で本作を観た際に、私がピンと来なかったのも、このくだりに集約されている。これからご覧の方のために詳細は省くが、まだお互いに愛があるのを確認したのに、なぜトラヴィスは去らねばならないのか?よくわからなかったのだ。 撮影現場でも、私と同じような感情を抱いた者が居たという。主演のハリー・ディーン・スタントンだ。彼は、~せっかくジェーンとハンターという家族と再会できたのにまたひとりで去ってゆくなんて嫌だ~と本気で怒ったのだという まあスタントンの場合は、トラヴィスになり切ったが故の反発であろう。二十歳そこそこの未熟な鑑賞者であった私と一緒のわけは、もちろんないのだが。 そんな私でも、初鑑賞から36年近く経って本作を見返すと、今ならわかる気がする。「こんなに想っているのに」「こんなに愛しているのに」という気持ちが高ぶり過ぎると、自分も相手も深く傷つけることになる。トラヴィスは、年が離れた美しいジェーンを愛しすぎて、失踪せざるを得なくなった。そして残されたジェーンは、我が子を手放す他はなかった。 覗き部屋で何人もの男に応じてきたジェーンは、トラヴィスに言う。「どの男の声も…あなただった」 トラヴィスは、わかった。まだジェーンのことを愛している。それも狂おしいほどに。だから一緒に居るわけには、いかないのだ。 サム・シェパードは本作の結末に関して、次のように語っている。 「私なりに言うなら、すでに壊れたものをくっつけなおしただけでは不十分だということですね。本当に壊れたものは彼自身のなかにある。それを満たすためには、壊れたものの正体を見るためには、彼は自分ひとりで見つめるべきなのです。彼は母親と子供を一緒にした。今度は彼自身も一緒にできるように旅立つのです」 最後にもう一つ。今回再見して、私の記憶が改竄されていたことに気が付いた。 ラストでトラヴィスが、ジェーンとハンターを再会させるのは砂漠で、それを見届けたトラヴィスは再び、荒野に去っていくのだと思い込んでいた。観ていただければわかる通り、そんなシーンはない。 因みに作者たちの構想の中のひとつとしては、ラストでトラヴィスとハンターの父子が、一家の愛の原点とも言うべきに向かって、砂漠に消えていくといったアイディアもあったという…。■ 『パリ、テキサス』© 1984 REVERSE ANGLE LIBRARY GMBH ARGOS FILMS S.A. and CHRIS SIEVERNICH PRO-JECT FILMPRODUKTION IM FILMVERLAG DER AUTOREN GMBH & CO. KG LOGO REVERSE ANGLE
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COLUMN/コラム2021.06.04
夢は、悪夢のような現実から逃れるために…。『未来世紀ブラジル』
テリー・ギリアム監督が、本作『未来世紀ブラジル』(1985)の着想を得たのは、初の単独監督作品『ジャバ―ウォッキー』(77)を撮っていた頃、イギリスはサウス・ウェールズのある浜辺でのことだった。そこは大きな鉄工所に隣接し、砂浜は薄い膜のような煤に覆われていた。「誰かが石炭がらで真っ黒になった裸の浜辺に腰かけていると、コンベア・ベルトや醜い鉄の塔のむこうに緑あふれる素晴らしい世界がきっとどこかにあるって、現実から逃避するようなラジオからのロマンティックな歌がどこからともなく聞こえてくる―」 ギリアムの頭に浮かんだ、そんなイメージから、本作はスタートしたのだった。 *** 20世紀のどこかの国。個人のプライバシーはすべて政府のコンピューターに管理され、情報省が人々を支配していた。その一方で、反体制派による爆弾テロも相次ぐ。 クリスマスの日、情報省のコンピュータートラブルで、当局がテロリストと目すタトルと、一般人のバトルが取り違えられる。バトルは何の罪もないのに、情報剝奪局に急襲され、家族の前で連行されてしまう。 情報省の記録局に働くサム・ラウリーは、出世などには興味がない男。近頃は羽の生えた騎士の格好で空を舞い、囚われの身の美女を救い出す夢を、毎夜のように見ていた。 上司に頼まれ、バトルの件の責任回避に取り組むサムだったが、ある時夢に登場する美女と瓜二つの女性に出会う。サムは彼女を探し求めるが、その姿を見失う。 そんなある時、サムの部屋の暖房装置が故障。正規の修理サービスに連絡が取れないで困っていると、もぐりの鉛管修理工が現れる。その男こそ、当局がテロリストとして追っている、タトルだった。 夢の美女とそっくりの女性が、バトル家の階上に住む、トラック運転手のジルであることがわかる。サムはジルの情報を職場で詳しく調べようとするが、彼女は、バトルの誤認逮捕について抗議を行っていたことから、当局に“要注意人物”とマークされ、その情報は機密扱いとなっていた。 サムは彼女を見付けるため、断っていた栄転を受け入れることにする。異動先となる情報剥奪局ならば、ジルの情報にアクセス出来るからだ。 情報剥奪局で、逮捕者を尋問に掛ける役割を担っているのは、サムの親友であるジャック・リント。誤認逮捕されたバトルも、彼の拷問によって、すでに命を奪われていた。 そんなジャックから、ジルが逮捕される手筈となっていることを聞かされたサムは、彼女を救うために奔走。ジルもサムに、心を許すようになる。 しかし、そのために様々な規約を破ってしまったサムにも、魔の手が迫ってくる…。 *** 目の前の現実の方が悪夢のようで、そこから逃れるために、ひとは美しい夢を見る…。当初ギリアムがイメージした、煤に塗れた浜辺からはだいぶかけ離れたものになってしまったが、そんなコンセプトを発展させて、本作のストーリーは編まれた。 当初構想した美しい音楽は、ライ・クーダーの「マリー・エレナ」。それはやがて、アリ・バローソによる「Aquarela do Brasil=ブラジルの水彩画」という、1939年に生まれたラブソングへと変わる。 心はずむ六月を過ごしこはく色の月の下ふたりで「きっといつか」とささやいたブラジルぼくたちはここでキスしからみあったでもそれは一晩のこと朝がくると君は何マイルも離れぼくに言いたいことが山ほどいっぱい今、空は暮れなずみふたりの愛のときめきが甦るたしかなことは一つだけ…戻るよ、ぼくは想い出のブラジルに…(「Aquarela do Brasil」訳詞 『未来世紀ブラジル』劇場用プログラムより) 1940年にアメリカで生まれたギリアムにとって、南米のブラジルに逃げるというのは、最もロマンティックなことという感覚があった。そのためこの歌に惹かれ、遂には映画のタイトルまで、『Brazil』(原題)にしてしまった。舞台はブラジルとは、まったく関係ないのに。 本作が、全体主義国家によって統治された近未来世界の恐怖を描いた、ジョージ・オーウェルの「1984年」の影響を受けているのは、明らかと言える。しかしギリアムは、「1984年」を読んではいないという。未読でもわかってしまう、それぐらい自明なイメージに惹かれたと述懐している。 その上で、本作についてギリアムは、当初こんな表現をしていた。“虹を摑む男ウォルター・ミティがカフカと出会った映画”。 ダニー・ケイ主演の『虹を摑む男』(47)と、その原作「ウォルター・ミティの秘密の生活」で、主人公のウォルター・ミティは、空想に耽って自分を英雄に仕立てる。そんなミティのような男≒サムが、フランツ・カフカが書くような不条理の世界に紛れ込んでしまったというわけだ。 そうした本作のイメージが形作られた背景には、ギリアム自身の体験もある。20代後半、アメリカで雑誌編集者やアニメーターとして活動していたギリアムだったが、1967年にロサンゼルスで、警官隊の暴行事件に遭遇。アメリカ政府のベトナム政策に抗議して集まった群衆が、警官隊によって滅多打ちにされるのを、目の当たりにしたのだ。 これはギリアムにとって、「現実で初めて経験した悪夢」。罪なき人々が無差別に、官憲から残忍な仕打ちを受けるという、正に「カフカ的イメージ」が具現化されたものだった。 付記すればギリアムは、この体験がきっかけで母国に見切りをつけて、イギリスへと渡る。そしてコメディグループ「モンティ・パイソン」の唯一のアメリカ人メンバーとなり、やがて世界的な人気を得ることとなる。 因みに「モンティ・パイソン」の仲間である、テリー・ジョーンズから借りた、魔女狩り関係の書物も、本作を構成する重要な要素となった。例えば本作で情報剥奪局は、逮捕者を連行し処罰する費用を、逮捕された本人に請求する。これは中世の魔女狩りに於いて、実際に行われていたことである。魔女として告発された者は、裁判や留置場の費用、拷問、そして焼き殺されるための薪代まで、負担しなければならなかったという。 さて1970年代後半からギリアムが構想していた本作が、実際に製作に向かって大きく動き出したのは、彼の前作『バンデッドQ』(81)が、製作費500万ドルに対し、アメリカだけで4,200万ドルを売り上げるという、大ヒットを記録してから。 82年3月、ギリアムは知人の紹介で出会った、イスラエル出身のプロデューサー、アーノン・ミルチャンと意気投合。彼が本作の製作を行うこととなる。 脚本は、元々はギリアムが、『ジャバ―ウォッキー』の共同脚本を手掛けた友人チャールズ・アルヴァーソンと書いていたが、まとまりに欠けるものだった。そこでギリアムは、「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」などの戯曲で知られる、世界的な劇作家トム・ストッパードに、脚本化を依頼することにした。 ストッパードはいつでも、「ひとりで書く」という仕事の仕方だったため、共同作業を望むギリアムにとっては、不満が募る結果となった。しかし第4稿まで書いたストッパードの脚本で、本作の骨組みは固まった。 例えば開巻間もなく、低級官僚が書類を丸めて、ピシャリと叩いたハエが、コンピューターの中に落ちたことで、TUTTLEの文字がBUTTLEとミスプリントされてしまうシーンがある。すべての発端であるこのくだりは、正にストッパードのアイディアだった。 最終的にギリアムは、チャールズ・マッキオンとの共同作業で、脚本を仕上げた。 一方ミルチャンは、1,500万ドルという製作費を捻出するため、各映画会社と交渉。ユニヴァーサルと20世紀フォックスの競り合いになり、最終的には、フォックスが600万ドルの出資で海外市場、ユニヴァーサルが900万ドルでアメリカ、カナダの北米市場の公開を展開するという契約で、まとまる。 ここでキャスティングについて、触れよう。主演のジョナサン・プライスは、本作の構想が始まって間もない頃に、ギリアムと邂逅。ギリアムはプライスのことが気に入り、サム・ラウリーの役を、彼への当て書きのようにして、原案を書いたという。 しかしいざ製作が本格化した段階では、サムの設定は、22~23歳の青年に。当時の若手スターだった、アイダン・クイン、ピーター・スコラーリ、ルパート・エヴァレットなどが候補になった。特にサム役を熱望したのは、あのトム・クルーズだったという。 その頃プライスは、すでに30代後半。しかし脚本を読んでみると、サムの役は33歳という設定にしても無理がないと感じて、そのままギリアムに提案した。それを受けてスクリーンテストを行った結果、彼が本決まりとなったのである。 サムの夢の美女≒ジル役の候補となったのは、ケリー・マクギリス、ジャミ―・リー・カーティス、レベッカ・デモーネイ、ロザンナ・アークエット、そしてまだメジャーになる以前のマドンナなど。一旦はエレン・バーキンに決まったものの、最後の最後で、キム・グライストがジル役となった。 ギリアム曰く、「スクリーン・テストの彼女は最高だった。でも撮影が始まるとそうはいかなかった」。元々の脚本では、ジルの役割はもっと大きいものだったが、撮影が進行する内に、どんどん削られていった。 ミルチャンの提案で作品の箔付けとして、大スターのロバート・デ・ニーロの出演が決まった。ミルチャンが本作の前に製作した、マーティン・スコセッシ監督の『キング・オブ・コメディ』(82)、セルジオ・レオーネ監督の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(84)の2作の主演を務めた縁である。 デ・ニーロは当初、サムの親友で拷問者であるジャック・リントの役を希望した。しかしその役はすでに、「モンティ・パイソン」の仲間マイケル・ペリンに決まっていた。 デ・ニーロはギリアムの説得により、配管工にして当局にテロリストとして追われるタトルの役を演じることとなった。当時のデ・ニーロが、このような脇役で出演するなど、異例中の異例。彼は、脇役であっても手を抜くことはなく、いわゆる“デ・ニーロアプローチ”で、完璧な役作りをやってのけた。 本作は1983年11月にクランク・イン。パリの巨大なポスト・モダン様式のアパート地区マルヌ・ラ・ヴァレで、サムのアパートなどのシーン、当時再開発前だったイギリス・ロンドン港湾地区の廃棄された発電所の冷却塔で、ジャックの拷問室のシーンといったように、ギリアムのセンスが遺憾なく発揮されたロケ撮影を行った。 因みに『未来世紀ブラジル』という邦題は、作品の雰囲気を表すのに悪くはないと思うが、実はミスリード。先にも記したが、これは「未来」の話ではない。“20世紀のどこか”が舞台なのである。登場人物の服装は1940~50年代。サムが運転している車も、ドイツのメッサーシュミットのその頃のモデルである。ギリアムの言を借りれば、“過去に根ざしたありうべき未来の様相”あるいは“現在のB面”を描いているのである。 さて本作は撮影途中で、このままでは撮り切れないとの判断から、2週間休止して、脚本を切り詰める作業を行ったり、ギリアムがストレスから1週間近く起き上がれなくなるというアクシデントが発生。サムの飛翔シーンの特撮に時間が掛かったこともあって、84年2月のクランクアップ予定は、半年延びて、8月になってしまった。 しかし1,500万ドルの予算を超過することはなく、作品は完成。85年2月には、20世紀フォックスの配給で、ヨーロッパで142分のバージョンが無事公開された。 ところがアメリカでは、製作スタート時にはそのポストには居なかった、ユニヴァーサルの責任者シドニー・J・シャインバーグが、ギリアムの前に立ちはだかることとなる。その顛末は、有名な「バトル・オブ・ブラジル」という1冊の書籍にまとめられたほどのボリュームなので、本稿では細かくは言及はしない。 何はともかくシャインバーグは、ギリアムによって11分のカットを行った、アメリカ公開用の131分版に同意せず。別に編集チームを編成。映画の3分の1をカットした上で、ロマンス要素を増強し、ハッピーエンドに終わらせるという、“暴挙”に出たのである。 結果的にはギリアムvsシャインバーグのバトルは、マスコミや批評家などを巻き込んだギリアムの勝利と言える形に終わった。85年12月のアメリカ公開はギリアムの131分版となり、シャインバーグのハッピーエンド版は、後にTV放送されるに止まった。 しかしながらこのゴタゴタの結果、きちんとプロモーションが行き届かず、アメリカ公開ではヒットという果実を得ることはできなかった…。 因みに日本初公開は、86年10月。インターネットなき時代、そのようなトラブルがあったことなど、ほとんどの観客が知らなかった。日本ではユニヴァーサルではなく、20世紀フォックスの配給だったこともあって、ヨーロッパで公開された142分版が観られた。また劇場用プログラムの内容にも、トラブルのトの字もない。 皮肉なものだと思う。テリー・ギリアムの前作『バンデッドQ』が83年に日本公開された際は、子ども向けの作品として売りたかった配給会社の東宝東和によって、悪名高き改竄が行われたからだ。 オリジナルから残酷な要素を取り除いて13分もカットし、ラストまで改変してしまった。ビデオソフトでオリジナル版を観て、劇場で観たのと全く違っているのに、吃驚した映画ファンが続出したものだ。 さて余談はここまでにして、ギリアムはこの後「ほら吹き男爵の冒険」の映画化『バロン』(88)に取り組む。そこでは本作を超えた災厄が待ち受けているのだが、それはまた別の話…。■ 『未来世紀ブラジル』© 1984 Embassy International Pictures, N.V. © 2002 Monarchy Enterprises S.a.r.l. 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COLUMN/コラム2021.06.17
原作者も唸らせた、換骨奪胎の極み!『L.A.コンフィデンシャル』
本作『L.A.コンフィデンシャル』(1997)は、ジェームズ・エルロイ(1948~ )が1990年に著し日本でも95年に翻訳出版された、長編ノワール小説の映画化である。 エルロイは両親の離婚によって、母親と暮らしていたが、10歳の時にその母が殺害される。多くの男と肉体関係を持っていたという母を殺した犯人は見付からず、事件は迷宮入り。そしてその後彼を引き取った父も、17歳の時に亡くなる。 エルロイは10代の頃から酒と麻薬に溺れ、窃盗や強盗で金を稼いだ。27歳の時には精神に変調を来し、病院の隔離室に収容されている。 文学に目覚めて小説を書き始めた頃には、30代を迎えていた。彼の著作には、その過去や思い入れが、強く反映されている。 本作の原作は、後にブライアン・デ・パルマ監督によって映画化された「ブラック・ダリア」(87年出版)を皮切りとする、「暗黒のL.A.」4部作の3作目に当たる。原作は翻訳版にして、上下巻合わせて700ページに及ぶ長大なもので、1950年のプロローグから58年までの、8年にわたる物語となっている。 その間に起こった幾つもの大事件が、複雑に絡み合う。更には1934年に起こった、猟奇的な連続児童誘拐殺害事件も、ストーリーに大きく関わってくる。読み進む内に「?」と思う部分に行き当たったら、丹念にページを繰って読み返さないと、展開についていけなくなる可能性が、大いにある。 50年代のハリウッドを象徴するかのように、テーマパークを建設中の、ウォルト・ディズニーを彷彿とさせる映画製作者なども、原作の主な登場人物の1人。膨大な数のキャラクターがストーリーに関わってくるため、原作の巻頭に用意されている人物表の助けが、折々必要となるであろう。 当時の人気女優だったラナ・ターナーの愛人で、ギャングの用心棒だった実在の人物、ジョニー・ストンパナートは、実名で登場。映画化作品では、彼とターナーの愛人関係は、ギャグのように使われていたが、原作では、彼がターナーの実娘に刺殺される、実際に起こった事件まで、物語に巧みに組み込まれている。 さて原作のこのヴォリュームを、そのまま映画化することは、まず不可能と言える。そんな中で、原作を読んで直ぐに映画にしたいと思った男が居た。それが、カーティス・ハンソンである。 彼は、すでに映画化権を取得していたワーナーブラザースに申し入れをして、結果的に本作の製作、脚本、そして監督を務めることになった。監督前作であるメリル・ストリープ主演の『激流』(94)ロケ中には、撮影を進めながらも、頭の中は本作のことでいっぱいだったとも、語っている。 映画化に於いてハンソンは、原作の主人公でもある3人の警察官を軸に、その性格や位置付けは生かしつつも、「換骨奪胎の極み」とでも言うべき、見事な脚色、そして演出を行っている。本作を、90年代アメリカ映画を代表する屈指の1本と評する者は数多いが、一見すればわかる。 映画『L.A.コンフィデンシャル』は、そんな評価が至極納得の完成度なのである。 *** 1950年代のロサンゼルス。ギャングのボスであるミッキー・コーエンの逮捕をきっかけに、裏社会の利権を巡って血みどろの抗争が勃発。コーエンの腹心の部下たちが、正体不明の刺客により、次々と消されていった。 53年のクリスマス、ロス市警のセントラル署。警官が重傷を負った事件の容疑者として、メキシコ人数人が連行された。署内でパーティを行っていた警官たちが、酔いも手伝って彼らをリンチ。血祭りにあげたこの一件が、「血のクリスマス」事件として、大々的に報道されるに至る。 そこに居合わせた、バド・ホワイト巡査(演;ラッセル・クロウ)、ジャック・ヴィンセンス巡査部長(演;ケヴィン・スペイシー)、エド・エクスリー警部補(演;ガイ・ピアース)は、警官としての各々のスタンスによって、この一件に対処。それは対立こそすれ、決して交わらない、それぞれの“正義”に思われた…。「血のクリスマス」の処分で、何人かの警官のクビが飛んだ頃、ダウンタウンに在る「ナイト・アウル・カフェ」で、従業員や客の男女6人が惨殺される事件が起こる。被害者の中には、「血のクリスマス」で懲戒免職になった、元刑事でバドの相棒だった、ステンスランドも混ざっていた。 この「ナイト・アウルの虐殺」の容疑者として、3人の黒人の若者が逮捕される。エドの巧みな取り調べなどで、容疑が固められていったが、3人は警備の不備をついて逃走する。 エドは潜伏先を急襲して、3人を射殺。「ナイト・アウルの虐殺」事件は一件落着かに思われた。 しかしこの事件には、ハリウッド女優そっくりに整形した娼婦たちを抱えた売春組織、スキャンダル報道が売りのタブロイド誌、そしてロス市警に巣喰う腐敗警官たちが複雑に絡んだ、信じ難いほどの“闇”があった。 相容れることは決してないと思われた、3人の警官たち。エド、バド、ジャックは、それぞれの“正義”を以て、この底が知れない“闇”へと立ち向かっていく…。 *** ハンソンは、ブライアン・ヘルゲランドと共に行った脚色に際して、「ナイト・アウルの虐殺」の真相解明に絡むように発生する、連続娼婦殺害事件や、それと関連する20年前の連続児童誘拐殺害事件等々、原作では重要なファクターとなっている複数の事件のエピソードをカット。物語のスパンはぐっと短期に凝縮して、登場人物の大幅な整理・削減も断行している。 エドとバド、終盤近くまで睨み合いを続ける、この2人の警官の対立を深める色恋沙汰の相手として、原作では2人の女性が登場する。しかし映画ではその役割は、キム・ベイシンガー演じる、ハリウッド女優のベロニカ・レイク似の娼婦リン1人に絞られる。 3人の主人公のキャラクター設定も、巧妙なアレンジが施されている。その中では、幼少期に眼前で父が母を殴り殺す光景を目撃したことから、女性に暴力を振るう男は絶対許せないというバドのキャラは、比較的原作に忠実と言える。しかしジャックに関しては、TVの刑事ドラマ「名誉のバッジ」のテクニカル・アドバイザーを務めながら、タブロイド誌の記者と通じているという点は原作を踏襲しながらも、過去に罪なき民間人を射殺したトラウマがあるというキャラ付けは,バッサリとカット。 そしてエド。彼が警官としての真っ当な“正義”を求めながら、出世にこだわるのは、原作通りである。しかし父親がかつてエリート警察官であり、退職後は土木建築業で成功を収めている実業家となっていることや、兄もやはり警官で、若くして殉職を遂げたなどの、彼にコンプレックスを抱かせるような家族の設定は改変。映画化作品のエドは、36歳で殉職して伝説的な警察官となった父を目標としており、兄の存在はなくなっている。 また原作のエドは、第2次世界大戦での日本軍との戦闘で、自らの武勲をデッチ上げて英雄として凱旋するなど、より複雑な心理状態の持ち主となっている。しかしハンソンとヘルゲランドは、この辺りも作劇上で邪魔と判断したのであろう。映画化に当たっては、その設定を消し去っている。 エドのキャラクターのある意味単純化と同時に、原作には登場しない、映画オリジナルで尚且つ物語の鍵を握る最重要人物が生み出されている。その名は、“ロロ・トマシ”。本作未見の方々のためにネタバレになる詳述は避けるが、奇妙な響きを持つこの“ロロ・トマシ”こそ、正に本作の脚色の見事さを象徴している。 キャスティングの妙も、言及せねばなるまい。主役の3人に関して、すでに『ユージュアル・サスペクツ』(95)でオスカー俳優となっていたケヴィン・スペイシーはともかく、ラッセル・クロウとガイ・ピアースという2人のオーストラリア人俳優は、当時はまだまだこれからの存在だった。 ラッセルの演技には以前から注目していたというハンソンだったが、ガイに関しては、全くのノーマーク。しかし本読みをさせてみると、素晴らしく、ガイ以外の候補が頭から消えてしまったという。またこの2人は観客にとっては未知の人であったため、「…どちらが死ぬのか、生きるのか見当もつかない」。そこが良かったともいう。 とはいえ無名のオーストラリア人俳優を2人も起用するとなると、一苦労である。まずプロデューサーのアーノン・ミルチャンを説得。映画会社に対しては、先に決まっていたラッセルに続いて、ガイまでもオーストラリア人であるということを、黙っていたという。 ラッセルとガイには、撮影がスタートする7週間前にロス入りしてもらい、当地の英語を身につけさせた。またラッセルには、近年のステロイド系ではない、50年代の鍛えられてはいない身体作りをしてもらったという。 さて配信が大きな力を持ってきた昨今は、ベストセラーなどの映像化に際しては、潤沢な予算と時間を掛けて、原作の忠実な再現を、評価が高い映画監督が手掛ける流れが出てきている。例えば今年、コルソン・ホワイトヘッドのベストセラー小説「地下鉄道」が、『ムーンライト』(16)などのバリー・ジェンキンスの製作・監督によって、全10話のドラマシリーズとなり、Netflixから配信された。 こうした作品について、従来の映画化のパターンと比して、「もはや2時間のダイジェストを作る意味はあるのか?」などという物言いを、目の当たりにするようにもなった。なるほど、一見キャッチ―且つ刺激的な物言いである。確かに長大な原作をただただ2時間の枠に押し込めることに終始した、「ダイジェスト」のような映画化作品も、これまでに多々存在してきた。 しかし『L.A.コンフィデンシャル』のような作品に触れると、「ちょっと待った」という他はない。展開に少なからずの混乱が見られ、遺体損壊などがグロテスクに描写されるエルロイ作品をそのままに、例えば全10話で忠実に映像化した作品などは、観る者を極めて限定するであろう。その上で、それが果して全10話付き合えるほどに魅力的なものになるかどうかは、想像もつかない。 因みにハンソンは、混乱を避けるために、エルロイには1度も相談せず、脚本を書き上げた。その時点になって初めて脚本を送ると、エルロイから夕食の誘いがあった。恐る恐る出掛けていくと、エルロイは~彼自身の考えていることがキャラクターを通して映画のなかによく出ている~と激賞したという。 まさに「換骨奪胎の極み」を2時間強の上映時間で見せつけ、映画の醍醐味が堪能できる作品として完成した、『L.A.コンフィデンシャル』。97年9月に公開されると、興行的にも批評的にも大好評を得て、その年の賞レースの先頭を走った。 アカデミー賞でも9部門にノミネートされ、作品賞の最有力候補と目されたが、巡り合わせが悪かった。同じ年の暮れに公開された『タイタニック』が、作品賞、監督賞をはじめ11部門をかっさらっていったのである。 本作はハンソンとヘルゲランドへの脚色賞、キム・ベイシンガーへの助演女優賞の2部門の受賞に止まった。しかしその事実によって、価値を貶められることは決してない。『L.A.コンフィデンシャル』は、監督のカーティス・ハンソンが2016年に71歳で鬼籍に入った後も、語り継がれる伝説的な作品となっている。■ 『L.A.コンフィデンシャル』© 1997 Regency Entertainment (USA), Inc. in the U.S. only.
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COLUMN/コラム2021.07.01
“アーミッシュ”そしてピーター・ウィアーとの出会いによる、ハリソン・フォード“キャリア最高”作『刑事ジョン・ブック/目撃者』
本作『刑事ジョン・ブック/目撃者』(1985)が公開された頃、主演のハリソン・フォードは、TOPクラスの人気スター。『スター・ウォーズ』シリーズ(77~)のハン・ソロ役、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(81)に始まる「インディ・ジョーンズ」シリーズで、アクションスターとして確固たる地位を築いていた。 そんなフォードが刑事役と聞けば、当時の映画ファンは皆、もちろんアクション映画だろうと思い込む。原題の「WITNESS=目撃者」に、「刑事ジョン・ブック」とカブせた邦題も、『ブリット』(68)や『ダーティハリー』(71)といった、主人公の名前をタイトルにした、代表的な“刑事アクション”を連想させた。 しかし、そんなつもりで本作に臨んだ者は、何とも驚くべき肩透かしを喰らった。しかしそれは、期待外れだったという意味では、決してない…。 *** アメリカ・ペンシルバニア州の田舎の村落から、夫を亡くして間もない未亡人のレイチェルが、8歳のひとり息子サミュエルを連れ、旅に出る。目的地は、姉の住むボストン。 質素を旨とした2人の服装は、乗り継ぎで降りたフィラデルフィアの駅では、明らかに周囲から浮いていた。そしてすれ違う者から、囁かれる。「あの人たち、アーミッシュよ」 母子は、俗世との接触を断ち、独自のコミュニティで古の生活様式を守る、キリスト教の一派アーミッシュに属する者だった。 サミュエルは、公衆電話やエスカレーターなど、初めて見る文明の利器に驚きを覚える。しかし彼を最も驚かせたのは、トイレで偶然目撃した、殺人事件の顛末。殺されたのは、私服警官だった。 捜査の担当になったジョン・ブック刑事は、母子を強引に引き留め、協力させる。そしてサミュエルが目撃した殺人犯が、麻薬課のマクフィー刑事であることが判明する。 ブックは上司のシェイファーにその旨を報告し、極秘に捜査を進めることに。しかしその直後、マクフィーから銃撃を受ける。 上司もグルだと気付いたブックは、アーミッシュの母子も危険であると察知。重傷の身を押して、車で2人の住む村落まで送り届ける。 そこでブックは意識を失い、レイチェルの介抱を受ける。そしてそのまま、素朴なアーミッシュの生活の中に、身を潜める。 穏やかな日々が続き、ブックとレイチェルは、惹かれ合うものを感じ始める。しかし、一線は越えられない。それはこれまで培ってきた日常を、すべて捨てねばならなくなるからだ。 その一方で、シェイファーとマクフィー一味の執拗な追跡の手が、ブックたちに迫ってくる…。 *** 実在の宗派ながら、それまで多くの者にとっては未知の存在だった“アーミッシュ”が、本作の展開の肝となる。観客はハリソン・フォードが演じるジョン・ブックと共に、知られざる世界へと導かれる。 銃と暴力が蔓延る大都市で、刑事を務めてきたブック。“アーミッシュ”の社会は、彼が身を置いてきた場所とは、まさに正反対の異文化である。 厳しい戒律によって、18世紀以降の文明を拒否。農耕と牧畜による自給自足を旨として、車もテレビも電話も、ひとを傷つける武器もない。酒や煙草、更には快楽を目的としたセックスも禁忌である。そんな「絶対禁欲主義」の共同体で生まれ育ってきたレイチェルとブックの恋模様は、暫しプラトニックで、切ないものとなる。 本作はクライマックスでの悪徳警官グループとの対決など、アクションシーンが皆無というわけではない。しかしそれまでのフォード主演作とは、明らかに趣を異にした。 当時のフォードが、『スター・ウォーズ』『インディ・ジョーンズ』の2大シリーズで、TOPクラスの人気スターだったことは、先に記した。しかし逆に言ってしまえば、ルーカス印・スピルバーグ印限定。それ以外のヒットを持たないスターでもあった。 他の主演作は軒並み、興行的にも批評的にも、成功と言えるものはなかった。今ではSF映画史に残る名作の誉れ高い『ブレードランナー』(82)も、例外ではない。その頃の評価は、マニアックな人気がある、1本の“カルト映画”に過ぎなかったのである。 そんなフォードにとって本作は、2大シリーズ以外で、初の大ヒットとなった。また彼の現在に至る長いキャリアの中で、ただ一回だけアカデミー賞(主演男優賞)にノミネートされる作品となったのである。 プロデューサーのエドワード・S・フェルドマンが、本作の主演として、フォードに白羽の矢を立てたのは、脚本を読んだ際に、ゲイリー・クーパーがクエーカー教徒を演じる、南北戦争映画『友情ある説得』(56)を思い出したのが、きっかけだった。 クエーカー風の服装をしたクーパーを想起して、~現代俳優の中で、この手の服を着るとクーパーと同じくらい似合わなくて、滑稽に見えるのは誰だろう?~と考えた。即座に頭に浮かんだのが、フォードだったという。 オファーを受けたフォードは、脚本を読んですぐに気に入り、出演を決めた。後に脚本家に対して、フォードはその時のことをこんな風に語っている。「この作品には、90点くらいつけてもいいと思った。私が初めて読んだ時に90点もつける脚本というのは滅多にない…」 製作会社もパラマウントに決まり、次は監督探し。いわゆるハリウッド的な監督に委ねてしまえば、“アーミッシュ”が、よくある“刑事アクション”の単なる舞台装置になりかねない。 未知の異文化と関わっていく中で、主人公が変わっていく様を、きちんと捉えることが出来る。そんな監督としてフェルドマンが第一候補に考えたのが、『ピクニックatハンギング・ロック』(75)や『誓い』(81)『危険な年』(82)などで、オーストラリアの俊英と評判を取っていた、ピーター・ウィアーだった。 しかしその時のウィアーは、初のアメリカ映画として、ポール・セローの小説「モスキート・コースト」映画化の準備中。そのためフェルドマンは彼の起用を、一旦断念せざるを得なかった。 その後半年かけて監督探しを行うも、いずれも不調に終わったタイミングで、僥倖が訪れる。「モスキート・コースト」が資金難のため製作中止になり、ウィアーのスケジュールが空いたのだ。 オーストラリアに戻っていたウィアーは、届いた本作の脚本を読むと、フェルドマンのオファーにOKを出した。通常2年ほどを作品の準備期間に当てるウィアーだが、その時点で撮影までには、僅か10週ほどの時間しかなかった。それでも本作を引き受けたのは、“アーミッシュ”の存在に惹かれるものを感じたからだ。 その時点ではまだ暴力過多だった脚本を、ブラッシュアップ。ラブストーリーであり倫理観を扱うドラマという要素を、より強く打ち出すことにした。 フォードとウィアーは、準備期間の初対面からウマが合い、信頼関係が築けたという。ヒロインにケリー・マクギリスが候補に上がった際、「ほぼ新人」だった彼女の起用に難色を示したフォードだったが、「僕を信用できないなら、君はこの映画をやるべきじゃない」と断固とした態度を示すウィアーに、あっさりと翻意するほどだった。 フォードは本物の警官と共に夜のパトロールに出るなどの役作りを行い、“アーミッシュ”に関するリサーチは、ウィアーとマクギリスに任せた。自分は“アーミッシュ”については役柄同様、「…無知なままでいるよう…」細心の注意を払ったのだという。 それに対してマクギリスは、女優ということは隠して、“アーミッシュ”の家族と共に暮らすなどしたという いざ撮影に入っても、フォードとウィアーは、良好な関係を保った。ウィアーはフォードに、その時々で最高の演技、即ち“即興”を望み、フォードはそれに応えた。 本作の中で特に有名なのは、村落の“アーミッシュ”が総出で、新婚夫婦のための納屋を建てるシーン。実際に大工として生計を立てていた時代がある、フォードが見事な腕を披露する。 一方で、最もロマンティックなシーンと言えるのが、カーラジオから流れるポップスで、フォードとマクギリスがスローなダンスを踊るところ。ここで流れる、サム・クックの「ワンダフル・ワールド」を選曲したのも、フォードである。「ピーターは、私に、生理的な解釈ではなく、知的に解釈できるようにしてくれた。…それまでの監督との関係よりも、もっと私に対して影響力を持っていた」「彼(フォード)は好きにならずにいられない男だ。…強くて無口な、ハリウッド映画の伝統的なヒーローのような気がするよ」 こう語り合う2人は、まさに名コンビであった。この信頼関係があったからこそ、本作が世評も高い大ヒット作となったのは、疑うべくもない。 とはいえ、好事魔多しである。 ウィアーはアメリカで初めて取り組んだ本作で大成功を収めた後、念願の『モスキート・コースト』に改めて取り組む。主演は本作に引き続き、ハリソン・フォード。 この現場でも、互いへのリスペクトは失われなかった。しかし86年に完成し公開された作品が、本作のように観客と批評家から好意を以て迎えられることは、残念ながらなかったのである。 フォードは、ウィアーと組んだ2作品を、俳優生活で最高の体験だったと、後々まで語っている。しかし『モスキート・コースト』の失敗(!?)が災いしてか、その後2人のコンビ作は作られていない。これは至極、残念ことのように思える。 さて話を『…目撃者』に戻せば、本作の成功は“アーミッシュ”の文化に対する大衆の興味を喚起して、そのコミュニティ周辺には観光ブームが押し寄せた。本作内にも登場するが、それ以上に“アーミッシュ”に傍若無人な振舞いやからかうようなマネをする観光客が後を絶たなくなって、問題化したという。 個人的な想い出を言えば、本作を観た時に不思議に思ったことがある。先にも挙げたシーンであるが、「絶対禁欲主義」で踊ることも禁じられている筈のコミュニティなのに、レイチェルが、ジョン・ブックのダンスの誘いに、軽やかに応じられたこと。 実はその疑問は、本作初見から四半世紀近く経って、「松嶋×町山/未公開映画を観るTV」というテレビ番組に、構成として関わることによって氷解した。2009年から11年に掛けてTOKYO MXなどで放送されたこの番組は、アメリカの知られざる一面を伝える日本未公開のドキュメンタリー映画を、映画評論家の町山智浩氏のガイドによって紹介するというもの。 その中の『DEVIL'S PLAYGROUND』(02)という作品で、“アーミッシュ”が16歳になった時から1年間の“ルムシュプリンガ”という期間が、題材として取り上げられていた。この期間は何と、「絶対禁欲主義」とは真逆に、酒、煙草、ドラッグ、セックス等々、彼ら彼女らにとってすべての禁忌が、やり放題なのである。 これは、洗礼を受けて一生戒律に従って生きるか、それとも、教会を離れて俗世に入るかを決めるための準備期間。フリーな世界で奔放な1年間を過ごした上で、自分の一生を決めるというわけだ。 俗世に入ると、家族との縁は一生断ち切られて、二度と会えなくなる。加えて、遊び放題と言っても、所詮はアメリカの田舎町での枠内。1年も経つと、やりたいこともやり尽くす。結局は、進学や就職などに希望を見出した者など以外の9割は、“アーミッシュ”の世界へと戻っていくという。 この作品には相当な驚きを感じ、同時に、『…目撃者』のことを、思い出した。そうか、あのレイチェルも、ダンスはおろか、酒、煙草、ドラッグ、セックス漬けの奔放な1年間を過ごしたのか。なるほど~と。 本作から受けた感慨を台無しにしかねないエピソードだが、ご容赦を戴き、この稿の〆としたい。■ 『刑事ジョン・ブック/目撃者』TM & Copyright © 2021 by Paramount Pictures Corporation. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2021.07.08
アル・パチーノvsロバート・デ・ニーロ ライバルにして友人同士の、初の本格共演作 『ヒート』
2005年10月21日、ビバリーヒルズのホテルで、アル・パチーノを顕彰する催しがあった。その席には彼と共演経験がある者を中心に、綺羅星のようなスター達が出席。「アメリカン・シネマテーク賞」が贈られたパチーノに、次々と賞賛の声を浴びせた。 会場には姿を見せなかったものの、メッセージビデオを寄せた中には、ロバート・デ・ニーロが居た。彼はパチーノに呼び掛けるような、こんな祝いの言葉を贈った。「アル、何年にもわたり、おれたちは役を取り合った。世間のひとたちはおれたちをたがいに比較し、たがいに競わせ、心のなかでばらばらに引き裂いた。正直に言って、おれはそんな比較をしてみたことはない。たしかにおれのほうが背が高い。おれのほうが主役タイプだ。しかし正直に言おう。きみはおれたちの世代で最高の俳優であるかもしれない……ただし、おれをべつにしてだ」 1940年生まれのパチーノと、43年生まれのデ・ニーロ。まさに同世代の中で、長年ライバル同士と目されると同時に、親しい友人関係にあった。そんな2人の仲を、端的に表したメッセージと言えよう。 共に、イタリア系アメリカ人。俳優を志した若き日、ニューヨークでスタニスラフスキー・システムを基にした「メソッド演技法」を学んだのも、同じだ。但し、パチーノの師がアクターズ・スタジオのリー・ストラスバーグであるのに対し、デ・ニーロが学んだのは、かつてストラスバーグと衝突して袂を分かった、ステラ・アドラーであった。 俳優としてのキャリア初期、デ・ニーロは『The Gang That Couldn't Shoot Straight』(71/日本未公開)という作品に出演した。彼が演じたのは、パチーノが『ゴッドファーザー』(72)に出演が決まったため、断った役である。 その『ゴッドファーザー』でパチーノが演じたマイケル・コルレオーネの役は、デ・ニーロも候補として、名が挙がった1人だった。結果的にこの役を得たパチーノは、作品が記録破りの大ヒットになると同時に、スターダムにのし上がり、アカデミー賞助演男優賞の候補にもなった。 2人の初の共演作は、『ゴッドファーザーPARTⅡ』(74)。とはいえこの作品の中で、2人が顔を合わすシーンはない。パチーノが引き続きマイケル・コルレオーネを演じたのに対し、デ・ニーロの役は、マイケルの父であるヴィト―・コルレオーネの若き日であったからだ。 パチーノは今度は、アカデミー賞の主演男優賞候補になる。一方この作品で一躍大きな注目を集めたデ・ニーロは、候補となった助演男優賞のオスカー像を勝ち取った。 これは余談になるが、デ・ニーロが演じたヴィト―の生まれ故郷は、イタリア・シチリア島のコルレオーネ村。実はこの地は、パチーノの祖父の出身地であった。 さて、『ゴッドファーザーPARTⅡ』時には30代前半だった、パチーノとデ・ニーロ。そんな2人が初の本格共演を果たすのには、それから20年以上の歳月、共に50代となるまで、待たなければならなかった。 それが、マイケル・マン製作・監督による本作『ヒート』(95)。パチーノが演じる、ロサンゼルス市警の警部ヴィンセント・ハナと、デ・ニーロが演じる、プロの犯罪者ニール・マッコリ―の対決が描かれる、2時間50分である。 *** ニール・マッコリ―をリーダーに、クリス、チェリト、タウナーらがメンバーの強盗グループの今回のターゲットは、多額の有価証券を積んだ装甲輸送車。大胆不敵な襲撃で輸送車を横転させ、警察の追っ手が掛かる前に証券を手に入れて、現場から立ち去る計画だった。 ところが新顔のメンバーが、ガードマンの1人を無意味に射殺。そのため、目撃者である他のガードマンたちも、葬らざるを得なくなる。 急報を受けてロス市警から、強盗・殺人課のヴィンセント・ハナ警部が駆けつけた、彼は犯行の手口から、強盗のリーダーが、相当に頭が切れるタイプであることを見抜く。 グループの仲間たちが家族持ちなのに対し、ニールは情の部分を断ち切った独り者。しかしある時に出会った、グラフィック・デザイナーのイーディと恋に落ちる。 一方ニールたちを追うヴィンセントは、捜査にのめり込む余り、過去に2度の離婚歴がある。現在は3番目の妻とその連れ子の娘と暮らしているが、またもや関係がギクシャクし始めていた…。 ちょっとした糸口から、ニールたちの正体を割り出したヴィンセントの捜査チームは、強盗グループが犯行に及んだところを、一網打尽にする計画を実行する。ところが犯行途中、捜査チームのちょっとしたミスから、ニールは警察の罠に気付き、企てを中止して引き上げる。 ニールは意趣返しのように、逆に罠を張る。そして、ヴィンセントはじめ捜査チームのメンバーを突き止める。 虚々実々の駆け引きを経て、ヴィンセントとニールが、直接対決する日が近づく。それが2人のどちらかにとっては、最期の日になる。そんな予感を孕んでいた…。 *** デ・ニーロと同年の、1943年生まれのマイケル・マンは、70年代から「刑事スタスキー&ハッチ」「ポリスストーリー」など、TVの有名刑事ドラマの脚本や監督を担当。80年代にはエグゼクティブ・プロデューサーを務めた、「特捜刑事マイアミ・バイス」で大当たりを取った。 映画監督としては、『ザ・クラッカー/真夜中のアウトロー』(81)でデビュー。本作に至るまでに、『ザ・キープ』(83)『刑事グラハム/凍りついた欲望』(86)『ラスト・オブ・モヒカン』(92)といった作品を手掛けていた。 本作でパチーノが演じた刑事と、デ・ニーロが演じた犯罪者には、実在のモデルが居る。刑事のモデルは、元シカゴ市警の警察官で、退職後に脚本家となったチャック・アダムソン。マンの映画監督デビュー作『ザ・クラッカー』で、脚本及び犯罪に関する専門的なアドバイザーを担当したことがきっかけで、マンの親友となり、「マイアミ・バイス」他のマン作品に深く関わるようになった。 犯罪者のモデルは、アダムソンが警察時代に追っていた、その名もニール・マッコリ―。60年代のシカゴで仲間と共に、深夜の金庫襲撃などを繰り返していた。最終的には食料品チェーン店に強盗に入った際、監視していた警察に追い詰められ、アダムソンとその同僚によって、射殺された。 マンはアダムソンからマッコリ―の話を聞いて、2人の関係をベースにした、刑事と犯罪者の対決の物語を映像化しようと構想を練る。そしてまずは89年に、TVムービーとして、『メイド・イン・L.A.』を完成させる。 この作品は日本の場合、『ヒート』公開後に、VHSやDVDなどのソフトで観た方がほとんどと思われる。そうした順番で鑑賞すると、『メイド・イン・L.A.』は、『ヒート』をスケールダウンして、ノースターで製作した93分のダイジェスト版のように感じられる。 もちろん実際は、その逆。予算のスケールアップはもちろん、パチーノ、デ・ニーロ以外に、脇役にもヴァル・キルマーやジョン・ボイトなどのスターを配し、尺も2倍近くにしたのが、『ヒート』なのである。先に映像化したものが“ダイジェスト”のように感じられるのは、展開がほとんど変わらず、主要な登場人物の数も、ほぼ同じだからであろう。『ヒート』は長尺にした分、各キャラクターの描写が厚くなっている。正直、未消化に終わって、余計に感じられるところも散見するが。 さてアクション以外の見せ場として、両作にあるのが、クライマックスの対決に至る前に、ヴィンセントがニール(『メイド・イン・L.A.』では役名はパトリック)に声を掛け、宿敵同士である刑事と犯罪者が、コーヒーショップで会話をするシーン。これはモデルとなった2人の間に、実際にあった出来事を脚色したエピソードだという。 アダムソンがマッコーリーを尾行していた時に、期せずしてショッピングモールで、顔を合わせてしまった。その時アダムソンは、犯罪者であるマッコーリーの行動を深く理解したいと考え、コーヒーに誘ったのである。そして2人で、多くのことを語り合ったという。 この“実話”を基に、マンはヴィンセントとニールが、「…コインの裏と表のような関係…」であり、「似たもの同士…」であることを表現するシーンを作った。共にワーカホリックで、平穏な家庭生活などは望めない、孤高のプロフェッショナル。それ故に2人は、激しく戦わざるを得ないというわけだ。 作品の本質を表す、屈指の名シーンと言えるが、一方で『ヒート』初公開時にはこのシーンがあるが故に、観客らが「あらぬ疑惑」を抱く事態となった。それについては、後ほど詳述する。 本作でマンが大いにこだわったのが、“リアリティー”。俳優陣には準備段階で、犯罪者の行動原理を学ばせた。 例えば犯罪チームの一員チェリトを演じたトム・サイズモアの場合、刑務所で受刑者の話を聞いたり、営業中の銀行を訪れ、自分が強盗だったらどう狙うかをシミュレーションした。更には実在のギャング団行きつけの店のテーブルで、わざわざ食事までした。 撮影前には3カ月に及ぶ、コンバット・シューティング=実践的射撃術の訓練を実施。犯罪者チームと警官チームは、それぞれ銃の撃ち方や扱いに微妙な違いがあることから、別々のトレーナーを付けて行った。これは、劇中で対立する2つのチームに、馴れ合いの空気を作らせないための工夫でもあったという。 マンは、ロサンゼルスでのオールロケにもこだわった。ロケ場所は実に85箇所にも及んだが、ハイライトはやはり、12分間に渡る白昼の市街戦の舞台。週末にロスのオフィス街の大通りを丸ごと借り切って、映画史に残るような壮大なドンパチを繰り広げた。 主演を務めた2大スター、アル・パチーノとロバート・デ・ニーロについては、マンはその演技を、次のように語っている。「デ・ニーロは役を建築物のように構築する。細部をすこしずつ、信じられないほどこまかく研究する。…一方、アルの役への入りかたはちがう。ピカソが何も描いてないキャンヴァスを何時間もみつめて集中するようにだ。集中したあとで何刷毛か絵筆をふるう。それだけで人物が生きて立ち上がる」 そんな2人が対峙する最大の見せ場が、先に挙げた、コーヒーショップのシーンだった。しかし初公開時は、私も含めて多くの観客の中に、「?」を残す結果となった。具体的には、「パチーノとデ・ニーロ、共演してないのでは?」という疑念が、猛然と沸き上がったのである。 2人の会話シーンは、各々のバストショットの切り返しばかり。同一画面に2人が存在する、そんな2ショットのシーンが、全く存在しなかったのである。 パチーノとデ・ニーロが、いくら親しい友人同士といっても、撮影現場ではお互いTOPスターのプライドなどもあって、そうはいかなかった。だから別々に撮ったのである。そんなもっともらしい解説も、当時耳にした記憶がある。 でも実際は、そんなことはなかった。現場のスチールやメイキングなどから明らかだが、2人はちゃんと共演していたのである。しかもリハーサルなしで撮影したこのシーンは、2人のアドリブも満載に、11テイクも回していた。 では、実際にはカメラに収めた2ショットなどは、なぜ使わなかったのか?「共演してないのでは?」という疑惑を生み出すような編集に、どうしてなったのか? パチーノとデ・ニーロは、視線を合わせたり逸らしたりしながら、セリフの応酬をする。そうした中でお互いが、「似ている人間」であることを理解していく。 それを見せるためには、それぞれの表情がはっきりと映る、バストショットの切り返しが最も有効。交互に見せることで、2人の演技が融合していく。マンと編集者は、そう考えたのである。 初見から25年経って、そのシーンを観返してみて私が思ったのは、「似た者同士」である2人だが、同じ世界での共存は許されない。2ショットを省いたのには、そんなことを表す意図があったようにも思えてきた。この編集だからこそ、刑事と犯罪者、それぞれの“孤高さ”が際立ってくる。『ヒート』で初めて、本格共演を果たしたパチーノとデ・ニーロ。2人はその後、『ボーダー』(2008)『アイリッシュマン』(19)と、ほぼ10年に1度ほどのペースで共演を重ねている。 一方、その後様々な犯罪映画を手掛けたマイケル・マンは、現在ヴィンセントやニールらの、本作以前のストーリーを描く前日譚の小説化や脚本化に取り組んでいると伝えられる。この映像化が実現しても、齢80前後となったパチーノとデ・ニーロが同じ役で再登板することは、ちょっと考えにくいが…。■ 『ヒート』© 1995 Monarchy Enterprises S.a.r.l. in all other territories. 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