ザ・シネマ 松崎まこと
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COLUMN/コラム2020.04.26
『小悪魔はなぜモテる?!』 モチーフとなったアメリカ文学の古典「緋文字」とその映画化作品に関するアレコレ
本作『小悪魔はなぜモテる?!』(2010)のモチーフになっているのは、19世紀アメリカの小説家ナサニエル・ホーソンが、1850年に著した「緋文字」(The Scarlet Letter)である。 本作内では、エマ・ストーン演じる主人公が通うハイスクールの授業で、この小説が取り上げられる。「緋文字」は実際に、アメリカ人の多くが学校教育の中で、課題図書として読むことになる小説だという。 「緋文字」の舞台は17世紀、植民地時代のアメリカはボストン。ヒロインはヨーロッパから渡ってきた、イギリス人の若き女性、ヘスター・プリン。 彼女は年長の夫に命じられるまま、新天地であるこの町へと先行して渡ってきたが、夫を待つ内に別の男と情を交わし、子どもを産んでしまう。周囲から責め立てられても、彼女は頑として子どもの父親の名を明かさない。当時の厳格な清教徒=ピューリタンの社会では、死刑になってもやむなしであった。 しかし、彼女の後に海を渡った筈の夫は、何年も行方不明となっており、恐らく船が難破して、「海の底」に沈んだと思われる状況。そのためにヘスターの処罰は、「晒し台に3時間だけ立つ」という刑に軽減される。その上で身に着ける衣服の胸元には、“姦通=adultery”の意味である、緋色の「A」の文字を、未来永劫付けさせられることとなる。 赤子を抱きながら晒し台に立つヘスターを、その時初めて町に現れた、チリングワースという男が凝視する。ネイティブアメリカンの部族に捕まり、長く囚われの身となっていたというその男は、海の底に沈んだ筈のヘスターの夫だった。 チリングワースは、ヘスターの不倫相手を突き止めるために、町に身を置くことにする。そしてヘスターに、自分の正体を他の者に明かさぬよう強要する。愛する男の身や我が子のことを考えると、ヘスターはその要求を呑まざるを得なかった。 それから、7年の歳月が流れる。町の者たちに蔑まれながらも、針仕事で生計を立て、女手一つで娘のパールを育てるヘスター。一方でチリングワースは、医師として町で一目置かれる存在となっていた。 そんな中で、独り苦悩を深める男が居た。町の人々からの信頼も厚い、ディムズデール牧師。彼こそヘスターの密通の相手であり、パールの父親であった…。 筋書的には、“背徳不倫ロマンス”とも言える「緋文字」だが、植民地時代のピューリタン社会を描いた歴史小説として、高く評価されている。私が幾つかの書評を眺めて、しっくりいったのが、編集者の松岡正剛氏による、次の一文。 ~初期ピューリタニズムには、そもそも栄光と残酷とが、神権と抑圧とが、ユートピアニズムとテロリズムとが表裏一体になっていた~ ヒロインのヘスターはそんなピューリタン社会の中で、自らの信仰と良心に恥じることなく、真実の愛を求めた女性ということである。 明治36年=1903年に初めて日本語に訳された、「緋文字」。これまでに少なくとも、十数人が翻訳を手掛けている。今のところ最新の日本語版である、2013年出版の「光文社古典新訳文庫」の訳者である小川高義氏は、「訳者あとがき」に次のように記す。 ~古典音楽の場合には、時代とともに演奏スタイルの変遷があることに誰もが納得しているだろう。古典文学の翻訳にも同様の現象はあるのだと考えていただければありがたい~ ホーソンや「緋文字」を取り上げた論文や研究書は、近年になっても枚挙に暇がない。そんなことも考え合わせると、「緋文字」は、アメリカ文学を学び研究する者が必ず触れることになる“古典”であると同時に、オリジナルの出版から150年余、最初の日本語訳から120年近く経っても、新たな解釈が求められ続ける、決して古びない小説とも言える。 「緋文字」が、最初に映画化されたのは、サイレント映画の昔。かのリリアン・ギッシュが主演した、『深紅の文字』(1926)という作品である。以降幾度も映像化もされており、TVのミニシリーズなどもある。 現在の日本で比較的容易に観ることが出来るのは、1973年製作のヴィム・ヴェンダース監督作品『緋文字』。そして、『キリング・フィールド』(84)や『ミッション』(86)などのローランド・ジョフィが監督した、デミ・ムーアの主演作『スカーレット・レター』(95)といったところか。 先に翻訳者の文を引用したが、~時代とともに演奏スタイルの変遷がある~のは、映画化に於いても同様と言える。こちらの場合、作り手の個性や特性によって、更に明確な違いが表れる場合が多い。 ヴェンダースにとって、「ロードムービーの巨匠」という声価を得る以前の作品である、『緋文字』。植民地時代のアメリカを舞台にした“古典”を、ヨーロッパ資本が西ドイツ(当時)の監督とオーストリア出身の女優(センター・バーガー)を起用して映画化したわけだが、意外なことに歴代の映画化作品の中では、最も「原作に忠実」という声がある。 しかし「原作に忠実」であれば、良いというわけではもちろんない。ヴェンダース自身が、彼のフィルモグラフィーで唯一の時代劇であるこの作品を「失敗作」と認め、「ピンボールマシンもガソリンスタンドも出てこない映画は2度と作らない」と、後に語っている。 この作品で興味深いのは、映画の冒頭から強調して描かれているのが、チリングワースの視点であるということ。先住民に囚われた後の漂泊の果てに、彼はやっと妻と再会するも、その愛が、自分以外の誰かに向けられているのを発見する。以降は復讐の機会を窺うように、牧師やヘスターの周辺に纏わりつく。しかし最終的には、再び漂泊の身を選ばざるを得ない。「いかにもヴェンダース」と言えば、ヴェンダース的なキャラクターとなっている。 ローランド・ジョフィが監督したことよりも、デミ・ムーアがヘスターを演じたということで記憶されているであろう『スカーレット・レター』は、かの「ゴールデンラズベリー賞」で“最低作品賞”“最低主演女優賞”をはじめ6部門にノミネート。同年にポール・バーホーベン監督の『ショーガール』があったため、受賞は“最低リメイク・続編賞”1部門に止まったが…。 無理もない。デミが演じるヘスターは開明的過ぎて、原作では重要なポイントである、“信心深さ”がほとんど感じられない。またこちらの作品では、原作では描かれない、ディムズデール牧師との馴れ初めのシーンがあるのだが、それが泉で泳ぐ全裸の牧師を覗き見て、ヘスターがときめく…というか欲情してしまうというもの。牧師を演じるのが、男臭さ溢れる若き日のゲイリー・オールドマンということもあって、ヘスターも牧師も、最初から「やる気満々」にしか見えないのである。 こうした“現代的アプローチ”に加えて、更に作品の混迷を深めるのが、ロバート・デュバルが演じるチリングワース。囚われの身の時に、先住民の霊性にすっかりハマった彼は、ヘスターに偏執狂的な脅迫を繰り返す。更には、シリアルキラーのような凶悪さを見せる。 クライマックスの展開は、原作から更に大きく離れる。何と、牧師が町に先住民の襲撃を呼び込んで、血生臭い殺戮シーンが繰り広げられるのだ。そしてラストは、ヘスターが我が子と牧師を伴って、更なる新天地へ旅立つのである。こんな形で“ハッピーエンド”を迎えて、開いた口が塞がらない観客が続出したというのも、むべなるかな。 この『スカーレット・レター』は、「緋文字」という“古典”に迂闊な“現代的アプローチ”を行って、惨事を招いた例と言える。それに対して、「緋文字」を“原作”としたわけではないが、“モチーフ”として“現代的アプローチ”を行い、大成功したのが、本作『小悪魔はなぜモテる?!』である。 ハイスクールを舞台とする本作の主人公、エマ・ストーンが演じるオリーヴは、非モテで目立たない女子高生。ある時ちょっとした弾みで、大学生と寝たと嘘をついたことから、噂に尾ひれが付いて、注目の的となってしまう。 そんな中で彼女は、ゲイでいじめられている同級生に同情して、「セックスした」フリをしてあげることに。それがきっかけとなって、続々とモテない男子たちから“偽装H”をリクエストされ、現金やクーポン券と引き換えに、彼らの願いを叶えていくこととなる。実際は処女のままなのに、親友からもアバズレ扱いされるようになったオリーヴは、開き直る。ちょうど授業で学んだばかりの、「緋文字」のヘスターに倣い、私服の胸元に「A」の赤い刺繍を縫い付け、ハイスクールを颯爽と歩くのだったが…。 ジャンル的には“青春コメディ”に分類される本作。17世紀を舞台にした「緋文字」の厳格且つ欺瞞的なピューリタン社会を、21世紀のハイスクールに、巧みに置き換えている。 オリーヴに表立って敵対するのは、「純潔こそ至高」とする、キリスト教原理主義の信徒の学生たち。しかしもっと手酷く彼女を傷つけるのは、無責任な噂からレッテル張りを行い、彼女の本当の姿を見ようとはしない、他の者たちなのである。また彼女の“嘘”に救われた者たちも、四面楚歌となって窮地に陥ったオリーヴを、助けようとはしない。その手前勝手さに、オリーヴは更に打ちのめされる。本作の原題は、『Easy A』。この「A」はもちろん、オリーヴの振舞いからもわかる通り、「緋文字」と同じく“姦通=adultery”の意味であるが、この原題は多重的な意味を持つ。「A」の前に、「性的に安易」という意味の「Easy」を付けることで、「オサセの女の子」を指す。それと同時に『Easy A』は、「楽々とAを取る」即ち「学校などの成績が優秀」という意味も持つのである。さて小説「緋文字」では、ディムズデール牧師がすべての真実を、町の人々の前で明らかにすることによって、物語が大団円へと向かう。本作『小悪魔…』では、冒頭から随時挿入されるオリーヴの一人語りが、実はこのディムズデールの告白に当たることが、クライマックスで明らかになる。牧師はすべてを語った後に、愛するヘスターの胸で最期を迎えたが、オリーヴがどんな結末を迎えるかは、皆さまがその目でお確かめいただきたい。 脚本のバート・V・ロイヤルの、ハイスクールを舞台に、「緋文字」をモチーフにした作品を作るというアイディアを、監督のウィル・グラックが、見事な“青春コメディ”に仕上げた、本作『小悪魔はなぜモテる?!』。製作費800万ドルという低予算の作品だったが、全世界で7,500万ドルの興行収入を上げるヒットとなった。本作が初めての単独主演だった、当時21歳のエマ・ストーンは、その魅力と芸達者ぶりを大いにアピール!この作品によって、スター街道を行くことが決定的となった。興味深いことに、先に挙げた『緋文字』と『スカーレット・レター』という、2本の映画化作品も、各々の主軸を為した関係者の、ターニングポイントとなっている。『緋文字』を「失敗作」と捉えたヴェンダースは、時代劇や歴史映画が不得手であることを自覚し、2度と手を出さなくなる。その代わり…というわけではないが、この作品の現場で、ヘスターの娘パールを演じたイェラ・ロットレンダーと、水夫役だったリュディガー・フォーグラーが仲良くなったのを見て、次作『都会のアリス』(73)の企画を思い付き、2人の主演で撮ることになる。そしてこの作品が、“ニュー・ジャーマン・シネマ”のムーブメントの中でも、ヴェンダースを「ロードムービーの巨匠」という位置に押し上げる第一歩となった。一方でデミ・ムーアは、『スカーレット・レター』の失敗を、ヴェンダースのようにプラスの方向には転じられなかった。1980年代中盤から『セント・エルモス・ファイアー』(85)などの作品で、“ブラット・パック”の青春スターとして人気を得た後、『ゴースト/ニューヨークの幻』(90)のメガヒットで、TOPスターの座に就いたデミ。90年代中盤、『スカーレット…』の前後から、“強い女性”を演じることへの執着が、見られるようになる。しかし『スカーレット…』に続く、『素顔のままで』(96)『G.I.ジェーン』(96)といった主演作も、期待されたような成果を上げられなかった。そんなことが重なって90年代末には、TOPスターからの陥落を余儀なくされてしまう。誰もが知ってるような“古典”の“映画化”には、やはりリスクが伴う。本作『小悪魔はなぜモテる?!』のような、聡明な翻案ならば、もちろん大歓迎であるが。■ 『小悪魔はなぜモテる?!』© 2010 Screen Gems, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2020.05.07
映画監督イーストウッドの評価を決定づけた、「最後の西部劇」。『許されざる者』
本作『許されざる者』は、1992年に本国アメリカで公開されるや、大ヒットになると同時に、高い評価を受けて、数々の映画賞を受賞。「第65回アカデミー賞」では9部門にノミネートされ、作品賞、監督賞、助演男優賞、編集賞の4部門を獲得した。 製作・監督・主演を務めたのは、クリント・イーストウッド。主演男優賞こそ、『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』(92)のアル・パチーノに譲ったが、作品賞と監督賞の2つのオスカー像を掌中にしたのである。 今やハリウッドを代表する“巨匠”と誰もが認めるイーストウッドの作品が賞レースに絡むことは、近年では当たり前となっている。しかし本作を撮る頃までは、だいぶ事情が違っていた。アメリカ国内に於いて彼の作品への評価は、不当なまでに低かったのだ。 マカロニ・ウエスタンでの“名無しの男”や『ダーティハリー』シリーズでのハリー・キャラハン刑事に代表されるような、“アクションスター”というイメージが強かったせいもあるだろう。彼の監督作や出演作に、“マッチョイズム”“性差別”“タカ派”的な部分を見出し、それを忌み嫌う映画評論家などが少なからず存在したことも、マイナスに作用したと思われる。 むしろ評価されたのは、国外の方が早かった。映画評論家の蓮實重彦氏はその様を、『許されざる者』の劇場用プログラムで、次のように記している。 ~時代はようやくイーストウッドに追いつこうとしている。あと数年で映画百年を迎える二〇世紀も暮れ方になってから、アメリカのジャーナリズムも、この偉大な映画作家の存在を遅まきながら認知し始めたようだ…~ ~…『許されざる者』の監督がまぎれもなく日本で発見された作家であり、ヨーロッパは十年遅れで、アメリカでは二〇年遅れでその偉大さに気づいたにすぎないとだけはいっておきたい気がする…~ 日本の映画ジャーナリズムに於いて、蓮實氏や山田宏一氏のような重鎮が、イーストウッドの監督作品を早くから評価していたことは、紛れもない事実である。それは実在のジャズサックス奏者チャーリー・パーカーの音楽と生涯を、フォレスト・ウィテカー主演で描いた、イーストウッドの製作・監督作『バード』(88)が、フランスの「カンヌ国際映画祭」などで高く評価されるよりも、「早かった」という主張でもある。 何はともかく、イーストウッドの初監督作『恐怖のメロディ』(71)から二十年余。16本目の監督作にして、4本目の“西部劇”である『許されざる者』は、彼の作品としては初めて「アカデミー賞」の主要部門の対象となり、見事な“大勝利”を収めたわけである。 『許されざる者』の舞台となるのは、1880年のワイオミング。イーストウッド演じる主人公ウィリアム・マニーは、かつて列車強盗や冷酷な殺人で悪名高き男だったが、善良なる妻の愛によって改心し、足を洗った。 そんな妻を3年前に天然痘で亡くなり、マニーはまだ幼い2人の子どもを育てながら、豚の肥育や耕作を行っていた。しかしいずれも順調とは言えず、老齢期に差し掛かったマニーには、厳しい日々が続いていた。 ある日“スコフィールド・キッド”と名乗る、若いガンマンが訪ねてきた。町で娼婦の顔をナイフでメッタ切りにした牧童2人の首に、仲間の娼婦たちが1,000㌦の賞金を懸けた。その賞金を稼ぎに行こうという、誘いだった。キッドは人伝に、かつてのマニーの悪逆非道な凄腕ぶりを耳にして、協力を求めに来たのである。 一旦はその誘いを断ったマニーだったが、生活の苦しさから、11年振りに銃を手に取ることを決意する。老いて馬に乗ることさえやっとだった彼は、かつての相棒ローガン(演;モーガン・フリーマン)も誘い、キッドの後を追う。 2人の牧童を狙って町には、伝説的殺し屋であるイングリッシュ・ボブ(演;リチャード・ハリス)なども現れる。しかしそんな彼らの前に、手荒なやり方で町を牛耳る保安官(演;ジーン・ハックマン)が、立ち塞がるのだった…。 劇場公開時以来何度も観ているが、陰惨な印象がいつも強く残る。まずは、物語の発端となる事件を起こした2人の牧童。娼婦の顔を切り刻んだ“実行犯”の方はともかく、もう1人は、仲間のご乱行に巻き込まれただけ。なぜ命を奪われるのか?本人もわかっていない感が強い。 そして“殺し”の旅に出向きながらも、「過去の自分と違う」「真人間になった」ことを幾度も強調する、マニー。しかしいざとなったら、誰よりも躊躇なく、人を撃ち殺すことが出来た。 その時、昔のように人を撃つことは出来なくなっていた仲間のローガンは、改めて理解する。マニーが運命的なまでに根っからの“殺し屋”であることを。だからこそいち早く、その場から立ち去ろうとする。そして保安官の仲間に捕まり拷問を受けると、マニーが保安官たちを殺しに来ることを、予言する。 実際にマニーは、それを耳にすると、“復讐”を果しに町に戻る以外、取る道はないのである。 『許されざる者』は、「勧善懲悪」などとは程遠い世界観で綴られる。保安官は、己の町を守るという「正義」のために、“暴力”を行使していた。しかしそれは、娼婦たちの人間としての尊厳を踏みにじり、マニーの相棒の命を奪うこととなる。 保安官にとっては「正義」だが、マニーにとっては、「悪党め」と吐き捨てるしかない行為である。「正義」と「悪」の境界線など、あくまでも主観的で、曖昧なものなのだ。 そして“暴力”は、どこまでも連鎖していく…。 思えばイーストウッドは、ずっとずっとそうであった。『荒野の用心棒』に始まる、イタリアでセルジオ・レオーネ監督と組んだ“ドル箱三部作”(64~66)に於ける“名無しの男”。その“原作”となった黒澤明監督の『用心棒』(61)と一線を画すのは、黒澤作品の主人公が持ち合わせていた“正義感”のようなものが、“名無しの男”には極めて乏しいことである。 またアメリカに戻ってからの決定打となった、『ダーティハリー』シリーズ(71~88)。イーストウッドにとって、“師”であるドン・シーゲルのメガフォンによる第1作からして、主人公のキャラハン刑事は、彼が対峙する殺人者と、「紙一重」なのである。シリーズを通じても、ハリーの持つ「正義」は常に揺らぎ続ける。自らメガフォンを取った83年の第4作では、レイプ犯に復讐を果たした連続殺人犯を、己の裁量で見逃すに至る。 そんなイーストウッドが、『許されざる者』の物語に惹かれたのは、無理もない。陰惨で居心地の悪い佇まいの作品ではあるが、長年イーストウッド作品に触れてきた観客にとっても、彼が“殺し屋”であったことは、説明されるまでもなく、「知っている」わけであるし。 この作品が、製作される直前の89年に亡くなったセルジオ、91年に亡くなったドンに捧げられているのも、至極納得がいく話だ。 さて、自らには物語を作り出す資質はないことを認めるイーストウッド。では彼はいかにして、『許されざる者』の物語を手に入れ、“映画化”に至ったのか? 元となった脚本は、あの『ブレードランナー』(82)を手掛けたことで知られる、デヴィッド・ウェッブ・ピープルズが、1976年に書き上げた「切り裂かれた娼婦の殺し」。後に「ウィリアム・マニーの殺し」と改題され、80年代初頭には、フランシス・フォード・コッポラ監督が、“映画化権”を持っていた。 それはその後イーストウッドの手に渡り、80年代半ばには映画化の企画を立ち上げた。しかし先に、同じ“西部劇”である『ペイルライダー』(85)を製作することとなり、『許されざる者』は、一旦ペンディングとなったのである。 実際に『許されざる者』の撮影に着手したのは、『ペイルライダー』の公開から6年後の91年秋。公開はその翌年となったわけだが、結果的にこのチョイスは、大正解だった。1930年生まれのイーストウッドが、足を洗った老齢のガンマンを演じるに当たっては、60歳を超えるのを待ったからこそ、説得力のある風貌とイメージを得ることが出来た。 また、時勢も彼に味方した。1970年代以降は何度も「終わった」ジャンル扱いされた“西部劇”だったが、1990年に公開されたケヴィン・コスナー製作・監督・主演の『ダンス・ウィズ・ウルブズ』が、大ヒット!「アカデミー賞」でも作品賞、監督賞をはじめ7部門を受賞した直後で、“西部劇”を見直す動きが強まっていたのである。 イーストウッドは『許されざる者』の製作について、次のように語っている・ 「…わたしはただ、ぜひともこの物語を伝えたいと思っただけだ。ウエスタンという神話に、わたしなりの落とし前をつけるためにね。最後のウエスタンをつくるとしたら、これほどうってつけの作品はないだろう…」 彼が言うところの「最後の西部劇」を作るには、正に絶好のタイミングだったのである。彼が心の底から渇望したアメリカでの評価=アカデミー賞を得るためにも、これ以上にない時機であった。 それにしても、それから30年近く。齢90にならんとする現在まで、イーストウッドが精力的に作品を発表し続けるとは、さすがにその時は想像もつかなかったが…。■ 『許されざる者(1992)』© Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2020.05.30
日本映画の革命児・大島渚が、『マックス、モン・アムール』で挑戦したこと
多分クランクインした、1985年の秋だったと思う。大島渚監督が新作『マックス、モン・アムール』を、パリで製作していることが、報じられた。監督の前作『戦メリ』こと『戦場のメリークリスマス』(83)大ヒットの記憶が、まだ新しい頃である。 ヒロインが、あのシャーロット・ランプリングであること。そして彼女が演じるのが、チンパンジーと愛し合う人妻であることが、かなりセンセーショナルに受け止められた。 出演する俳優が実際に性行為を行った、日本初の“ハードコアポルノ”『愛のコリーダ』(76)を撮った大島渚が、『愛の嵐』(74)で「ナチス帽に裸サスペンダー」のデカダンな衝撃をもたらした、シャーロット・ランプリング主演で、人間と猿の“愛”を描く!しかも舞台は、花の都にして“アムール”の本場、フランスはパリ!! 今度は一体、どんな刺激的な作品になるのか?そして、どんなスゴい“性描写”を行うのか?世間的には、そんな下世話な関心も高かったと言える。 しかし翌86年、「カンヌ国際映画祭」のコンペに出品後、フランス公開を経て、87年5月に日本でも『マックス、…』が公開される段になると、識者などの間から、困惑の声が広がっていった。 私は初公開時にこの作品を観ることはなく、後に大島渚が監督した映画作品の全貌を追う必要が生じた際に、初見となった。以前に観賞済みの作品も含め、大島渚作品の初期から時系列で観ていったのだが、なるほど、大島23本目の劇場用長編である本作に、戸惑いを覚えた者が少なからず居た理由が、理解できる気がした。 その理由を紐解くためにも、とりあえずは、本作のストーリーを紹介する。 パリ駐在の、イギリス大使館員ピーター(演;アンソニー・ヒギンズ)。美しい妻と小学生のひとり息子に恵まれ、職場には愛人関係にある同僚もいる。そんな優雅な生活を送っていたが、ある日、妻のマーガレット(演;シャーロット・ランプリング)の様子がおかしいことに気が付く。 探偵を雇うと、妻が秘かにアパートを借りていることがわかる。そこに足を踏み込んだピーターが目撃したのは、何と、妻が雄のチンパンジーと、ベッドを共にしている姿だった。 マーガレットは、マックスと呼ぶそのチンパンジーと、動物園で出会った。そして、一目で惹かれ合ったという。 ただならぬ驚きと嫉妬を覚えたピーターだったが、自宅の一室に檻を付けて、マックスを住まわすことを提案。奇妙な共同生活が始まる。 マックスの部屋に入り浸るマーガレットに対し、ピーターは室内で何をしているのか、気になって仕方がない。そんな彼にマーガレットは、「鍵穴から覗けば」と、部屋のキーを渡すのだった。 ホームパーティを開いた際には、参加者の友人たちにも、マックスの存在が知られてしまう。マックスが見せる、マーガレットへの鮮烈な愛情表現に、その場は気まずい空気が漂った。 マーガレットとマックスの間には、“性的関係”はあるのか?ピーターは煩悶し、日々苛立ちを増していく。やがて仕事にも支障を来たすようになった彼の日常は、大きく軋んでいくのだった…。 本作は、製作の報が伝わった時に期待されたような、「刺激的な作品」では、まったくなかった。“性描写”と言えるようなものも存在せず、その仕上がりは、エスプリの利いた、チャーミングな“艶笑譚”とでも言うべきものだった。 しかし多くの者が戸惑いを覚えたのは、それだけが理由ではない。本作『マックス、…』が、従前の大島作品とは、あまりにも様相を異にしていたからである。 1932年生まれの大島は、京都大学で学生運動に身を投じた後に、「松竹」に入社。「大船撮影所」での助監督を経て、59年に『愛と希望の街』で監督デビューした。 続く『青春残酷物語』(60)『太陽の墓場』(60)の2作が評判となり、“松竹ヌーヴェルヴァーグ”の旗手として、注目される存在になる。しかし安保闘争をテーマにした『日本の夜と霧』(60)が、上映4日で公開中止となったことから、「松竹」に叛旗を翻して、翌61年に退社。 独立プロである「創造社」を興し、以降は、次々と意欲的な作品を作り上げ、60年代から70年代初頭までを、一気呵成に駆け抜けていく。特に評判となったのが、「ATG=日本アート・シアター・ギルド」とのコラボ。製作費を500万円ずつ折半して作る、「1,000万円映画」などで、『絞死刑』(68)『新宿泥棒日記』(69)『少年』(70)『儀式』(71)といった傑作・話題作を世に送り出し、当時の若者たちから、強く支持された。 この頃の大島作品の特徴は、彼の盟友とも言うべき、映画評論家の佐藤忠男氏の言を借りれば、「きっぱりとした反体制的なテーマ」が打ち出されていることである。大島は、貧富の階級差や民族差別、家族制度や沖縄問題等々の、社会的な抑圧を次々と俎上に上げて、闘いを挑んでいった。また、既成の映画文法の破壊にも、極めて自覚的に取り組んでいた。 しかし「1,000万円」という“低予算”故に、得られた自由闊達さにも、やがて限界が訪れる。72年には齢40代に突入し、正に円熟期を迎えんという大島にとっては、その製作規模では、描き切れないものが次第に多くなっていった。 72年に最後の「1,000万円映画」である『夏の妹』を公開。翌73年には、「創造社」を解散した。 そこから大島は、国際舞台へと飛躍する。かつて『絞死刑』が、「カンヌ国際映画祭」の“監督週間”で評判となったのがきっかけとなり、フランスでの評価が高かった大島に、かの国のプロデューサー、アナトール・ドーマンから、作品製作の申し入れがあったのだ。 ここで大島が作ったのが、1936=昭和11年に起こった、「阿部定事件」を題材にした、『愛のコリーダ』。軍国主義が台頭する時代の日本で、ただひたすら性愛に興じる男女の姿を、“ハードコアポルノ”としてリリースし、世を騒然とさせたのである。 『愛のコリーダ』は、フランス側の出資を受けながら、日本を舞台に日本人俳優が出演する作品であったが、大島は続いても、ドーマンプロデューサーと組み、同じ製作スタイルで、『愛の亡霊』(78)を完成させる。この作品は「カンヌ」のコンペに出品され、“監督賞”の栄誉に輝いた。 その5年後に完成させたのが、イギリスのジェレミー・トーマスがプロデューサーを務め、製作費が15~16億円と謳われた、『戦場のメリークリスマス』。日本軍の捕虜収容所を舞台にしたこの作品では、大島が監督した劇映画では初めて、大々的な海外ロケを敢行。坂本龍一やビートたけしが演じる日本軍の兵士と、デヴィッド・ボウイやトム・コンティの連合軍兵士たちの“邂逅”と“衝突”が描かれた。 このように、「1,000万円映画」から国際的な合作へとスケールアップを遂げながらも、大島作品では一貫して変わらなかったことがある。それは 、“日本”という国家、そして“日本人”の在り方を追究し、撃ち続けたことである。 ところが本作『マックス、…』には、“日本”の影も形もない。人と猿の“愛”というアバンギャルドな題材に、無理矢理「大島らしさ」を見出したとしても、やはり、純然たる“フランス映画”に映る。それが、大島作品を追ってきた者たちに困惑をもたらした、最大の理由であったように思われる。 ルイス・ブニュエルの監督作を長く製作してきた、プロデューサーのセルジュ・シルベルマンの提案によってスタートした、この企画。ブニュエル作品の脚本家だったジャン=クロード・カリエールのオリジナル・アイディアが、ベースとなっている。パリに赴いた大島は、カリエールと机を挟んで、脚本作成の作業を進めた。 撮影は、ゴダール作品など、ヌーヴェルヴァーグの映画作家たちを支えてきた、ラウール・クタールを起用。マックスの特殊メイクのスーパーバイザーとして、リック・ベイカーが参加し、タイトルデザインは、『007』シリーズで知られる、モーリス・ビンダーが担当した。 スタッフ、キャスト共、すべて外国人といった座組に、大島は単身乗り込んだ。通訳も付けずに、英語とフランス語を駆使して、演出を行ったという。前作『戦メリ』の際に、日本人スタッフと外国人スタッフが揉めて、ウンザリしたという経緯もあったようだが、これは相当な覚悟を以って、本作の現場に臨んだものと考える他ない。 ここで再び、大島の盟友佐藤忠男氏の言を借りたい。大島は、「自分の仕事が日本的特殊性に頼らず、どこまでインターナショナルな普遍性を持ち得るかの実験として単独でフランスに行くということにした…」のであろう。 己の国際性を高めようという意思は、キャスティングからも顕著だ。ここで大島が、自作の出演者選びに関して、よく述べていた過激な言葉を紹介する。 ~一に素人、二に歌うたい、三四がなくて、五に映画スター。六七八九となくて十に新劇~ 映画には、役を超えてその演じ手の実質を映し出すドキュメンタリー的な側面がある。そしてそれが作品の強みにもなるというのが、大島の考え方であった。実際に、大島の「1,000万円映画」の主役には、現役のフーテン娘や著名なグラフィックデザイナーなど、“素人”が起用されることが、往々にしてあった。また、前作『戦メリ』のメインキャストも、当時は演技の“素人”であった坂本龍一やビートたけし、そして“歌うたい”のデヴィッド・ボウイであった。 しかし本作『マックス、…』では、そうした大島キャスティングの“大原則”さえ外している。主役は、“映画スター”のランプリング、そして脇を固めるのは、ヨーロッパ映画界に於ける、いわば“新劇”俳優たちとなっている。逆説的にはなるが、大島にとってはこれもまた、“挑戦”だったのだと思う。 前述したように、「カンヌ」のコンペにも出品された本作であるが、日仏両国で「絶賛」や「大ヒット」の果実を得たという話は、寡聞にして聞かない。しかし大島の意図から考えれば、“フランス映画”のエスプリが感じられる本作は、十分に「成功」を収めたと言えるのではないだろうか? 本作の後に大島は、『戦メリ』のジェレミー・トーマスと再タッグを組み、『ハリウッド・ゼン』の企画を進める。創成期のハリウッドでTOPスターとなった日本人俳優・早川雪洲と、イタリア系で、同時代の美男スターだったルドルフ・ヴァレンティノの、相克の物語である。 雪洲に坂本龍一、ヴァレンティノにアントニオ・バンデラス、雪洲の妻・青木鶴子にジョアン・チェンと、国際的な顔触れのキャストが決まった。あとは1991年11月に予定された、クランクインを待つばかりとなった。 ところが、セットの建て込みも進み、あと数週間で撮影が開始するというタイミングで、70億円という巨額の製作費の調達にメドが立たなくなり、撮影は半年間延期に。しかしこれも再延期となり、『ハリウッド・ゼン』は、結局製作中止へと追い込まれてしまう。 『マックス、…』に於ける、己の国際性を高める“挑戦”が、必ずや生きたであろう、大島畢生の超大作『ハリウッド・ゼン』。この企画が日の目を見なかったことには、今はただ、残念以外の言葉がない。 結局大島は、『マックス、…』の後の長編監督作は、『御法度』(99)1本のみ。その後は長い闘病生活へと入り、2013年に80歳で彼岸へと旅立った。■ 『マックス、モン・アムール』(C) 1986 STUDIOCANAL - France 2 Cinema
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COLUMN/コラム2020.06.04
2020年、アメリカの大混乱を憂慮しながら、1967年製作の『招かれざる客』を想う
つい先日(2020年5月25日)、ミネソタ州ミネアポリスで、黒人男性のジョージ・フロイドさんが、白人警察官の不当な制圧によって死亡するという事件が発生した。これがきっかけとなって、アメリカ各地へと抗議運動が広がる中、それを敵視するトランプ大統領の差別的な言動もあって、深刻な事態へと発展していった。 「ブラック・ライブズ・マター(黒人の命だって大切だ)」 このフレーズを噛み締めながら、半世紀以上前の1967年、当時の“理想主義者たち”によって作られた、本作『招かれざる客』へと、思いを致してみたい。 サンフランシスコの空港に降り立った、ジョン・プレンティス(演;シドニー・ポワチエ)とジョーイ・ドレイトン(演;キャサリン・ホートン)。30代後半と20歳そこそこ、ちょっと歳が離れたこのカップルが人目を引き、通りすがりに眉をしかめる者さえ見受けられたのは、ジョンが黒人男性で、ジョーイが白人女性だったからである…。 ハワイで出会い、恋に落ちた2人は、結婚を決意。ジョーイの両親に報告するため、サンフランシスコへとやって来た。 ジョーイの父マット(演;スペンサー・トレイシー)は、新聞社を経営。人種差別反対のキャンペーンなどを行ってきた、筋金入りのリベラル派である。そんな彼を支えてきたのが、妻のクリスティナ(演;キャサリン・ヘップバーン)。 進歩的な考え方の両親に育てられてきたからこそ、ジョーイの前には人種の壁がなかった。そして彼女は、この結婚を親が反対するなど、微塵も考えなかったのである。 ジョーイにジョンを紹介され、クリスティナは一瞬驚きの色を見せる。しかし娘のことを誰よりも愛し理解する彼女は、すぐにジョーイたちの味方となった。 一方父のマットは、優秀な医師で聡明なジョンに対して、好感を抱くものの、ひとり娘のパートナーとなると、話が違った。黒人との結婚など、世間の目も厳しく、ジョーイが苦労するに決まっている。簡単に賛成など、出来なかった。 ジョンもジョーイとは違って、手放しで祝福してもらえるなどとは、思っていなかった。そして、マットの賛成が得られなければ、「結婚はできない」と考えている旨を、彼へと伝える。 しかしジョーイは、幸せいっぱい。父が苦悩しているなど、思いもよらない。 そんな中ジョンの両親も、息子のフィアンセにいち早く会いたいと、サンフランシスコへとやって来た。しかし息子の相手が、「白人の若い女性」などと思ってもいなかったため、ジョーイの顔を見て、大いに困惑するのであった。 ジョーイはその夜遅くには、ジョンの赴任先であるスイスのジュネーヴへと、共に旅立つつもりになっていた。白人のドレイトン家と黒人のプレンティス家が、一堂に会する晩餐の席までには、マットはこの結婚への態度を決めなければならない。 ジョンとジョーイ、真剣に愛し合い、慈しみ合っている2人の“結婚”の行方は!? 本作『招かれざる客』は、多くのシーンがドレイトン家を舞台にした“会話劇”として進行する。天真爛漫なジョーイを別として、ほとんどの登場人物たちは、大いに悩み、時には感情を高ぶらせながらも、至極理知的に意見を交換し合う。議論を通じてコミュニケーションすることこそが、偏見を乗り越え、理解し合うための最大の武器である。そう主張しているかのようである。 黒人であるジョンに対し、あからさまに「差別的」で「興味本位」に接してくる者は、早々に物語の外へと追いやられる。それは、“コミュニケーション”以前の問題だからであろう。 ジャーナリストのマットが、“リベラル”であるが故に悩むというのが、物語の肝になっている。彼の親友で、やはり進歩的な考え方を持つ神父が、「自分の主義に復讐された」「リベラルの化けの皮が剥がれたな」などと、マットをからかう。だがマットは、“理想”を掲げて長年戦ってきたからこそ、己の内部にもある“差別心”に、真摯に対峙せざるを得ないわけである。 ジョンがジョーイを「大切に思う」が故に、まだ男女の関係になっていない点などは、この時代ならではの描写という気もする。しかしそんな点も含めて、とにかくほとんどの登場人物が、理性的で「話せばわかる」人たちなのである。ちょっと、あり得ないぐらいに。そのため本作には、登場人物たちも物語の展開も、ちょっと「優等生」すぎるという指摘もある。 ここで、本作が製作された1967年頃の、アメリカの情勢を眺めてみたい。実はこの年の6月までは、17の州で異人種間の結婚が禁じられていた。1964年7月2日に、人種差別を禁じる「公民権法」が制定されてから3年ほど経っていたが、この映画の撮影中はまだ、白人と黒人が結婚することが罪になる州が、存在したのである。 そして翌68年、「非暴力」を唱えていた、公民権運動のリーダー、キング牧師が暗殺される。以降の黒人解放運動は、過激化の一途を辿ることとなる。 “映画史”的に鑑みれば、本作製作の1967年に、“アメリカ映画”には大変革が起こった。『俺たちに明日はない』『卒業』の2作が公開され、“ニューシネマ”の時代が始まったのだ。“ベトナム戦争”に対する“反戦運動”が盛り上がる世相と呼応するかのように、映画界的にも、反体制・反権力的のムーブメントが、主流となっていく。 そしてこの4年後には、映画界でも黒人のパワーが爆発!『黒いジャガー』(71)などの“ブラックスプロイテーション”が、旋風を巻き起こす。 こうした流れの中では、『招かれざる客』に、「優等生すぎる」というレッテルが貼られがちになったのも、むべなるかな。ディスカッションによって、人種偏見が乗り越えられるなど、「夢物語」に過ぎないというわけだ。 しかし、この映画のスタッフ・キャストは、そんなことは十分にわかっている。わかっていながらも、世の中は「こうあるべきだ」という、理想主義的な「夢物語」を作ったのである。 製作・監督のスタンリー・クレイマー(1913~2001)は、ハリウッドでは筋金入りの“社会派”であった。プロデューサーとして、アメリカの影の部分を抉ったアーサー・ミラーの戯曲を映画化した『セールスマンの死』(51)や、“赤狩り”の時代を批判したとも言われる西部劇『真昼の決闘』(52)を手掛けた後に、監督デビュー。脱獄囚の白人と黒人が、人種偏見を乗り越えていく『手錠のまゝの脱獄』(58)、核戦争後の世界を描いた『渚にて』(59)、ナチス・ドイツの戦犯裁判を題材にした『ニュールンベルグ裁判』(61)等々の社会派作品を、世に問うてきた。 マット・ドレイトンを演じたスペンサー・トレイシー(1900~67)は、『我は海の子』(37)『少年の町』(38)で、史上初めて2年連続でアカデミー賞主演男優賞を得た名優。クレイマー作品には、『ニュールンベルグ裁判』や『おかしなおかしなおかしな世界』(63)に続いての出演となった。 マットの妻クリスティナ役は、トレイシーとは公私ともにパートナーだった、キャサリン・ヘップバーン(1907~2003)。その生涯に於いて、アカデミー賞では史上最多の4度、主演女優賞に輝いているが、トレイシーと9本目にして最後の共演作となった本作で、2度目の獲得となった。 ヘップバーンは、婦人参政権運動にも積極的に関わった社会活動家の両親の下に育ち、ハリウッドの女優としては、自らの出演作にプロデューサーとして関わるようになった、先駆け的な存在。1940年代後半、ハリウッドに“赤狩り”の嵐が吹き荒れた頃には、その反対集会に参加し、政府の“ブラックリスト”に載せられることも厭わず、演説まで行っている。 そして、シドニー・ポワチエ(1927~ )である。その人品には、誰もが感銘を受けざるを得ない、黒人医師ジョン・プレンティス役は、この時代にポワチエの存在がなければ、成り立たなかったであろう。 ポワチエは、『暴力教室』(55)の高校生役で注目を浴びた後、クレイマー監督の『手錠のまゝの脱獄』で、黒人俳優として初めてアカデミー賞主演男優賞にノミネート。そして『野のユリ』で、黒人初の主演男優賞受賞に至った。 人気も絶大で、本作が公開された67年には、「マネー・メイキング・スター」の第7位にランクイン。翌68年には、堂々第1位に輝いている。 しかしその一方で、インテリ層の役を演じることが多かった彼に対しては、多くの批判も寄せられた。現実にアメリカに住む黒人たちの多くが、貧困層に属し、まともな教育も受けられない中で、ポワチエの役柄は、「白人にとっての、黒人の理想像に過ぎない」というわけである。「白人化した黒人」更には「白人のペット」などという、心ない罵声を浴びせられたりもした。 しかし彼が、クレイマー監督の諸作や『夜の大捜査線』(67)など、人種差別に物申す数々の作品に出演。更には“公民権運動”にも積極的に参加して、黒人の地位向上に大きな役割を果たしたのは、紛れもない事実である。 2002年開催のアカデミー賞、デンゼル・ワシントンが『トレーニング・デイ』(01)で、『野のユリ』のポワチエ以来38年振りに、主演男優賞を受賞した黒人俳優となった。その際に会場に居たポワチエに対して、「ずっと貴方を目標にしている」とスピーチを行ったが、確かにポワチエが居なければ、この日が来るのは、もっと遠かったかも知れない。 ポワチエは、「白人受け」する黒人俳優として人気を得て、黒人のイメージを向上させながら、“公民権運動”などに積極的に関わった。仲間たちのためにも、実は至極したたかに、立ち回っていたのである。 “1967年”に於いては、“人種差別”の問題を取り上げ、しかも商業映画としての評価や人気を勝ち取るためには、時には「優等生すぎる」ようにも映る、『招かれざる客』のやり方が「ベター」だったのである。観客や評論家からの信頼も厚い、この監督この出演者たちによって、ディスカッションを通じて、白人と黒人が人種の壁を乗り越えていく「夢物語」を紡いだからこそ、本作は広く支持を集めて、世間に一石を投じることにも、成功したわけである。 しかし、それから半世紀以上が過ぎた今、現実を見ると、絶望的な気分に襲われる。本作の中のセリフが実現したが如く、“黒人大統領”まで誕生した後に、まさか“差別主義者”の大統領が君臨する日が来るとは…。 今日のアメリカ、そして世界にとっては、彼こそが“招かれざる客”と言えるだろう。■ 『招かれざる客(1967)』(C) 1967, renewed 1995 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2020.06.29
ノエル・カワードとデヴィッド・リーン ~イギリスの偉大な才能のコラボが生んだ、 不朽の名作 『逢びき』
ミレニアムを目前にした、1999年。「イギリス映画協会」が、「20世紀のイギリス映画ベスト100」を発表した。 第1位に輝いたのは、キャロル・リード監督の『第三の男』(1949)。続く第2位が、本作『逢びき』(45)であった。 『逢びき』は、「第1回カンヌ国際映画祭」で“グランプリ”に輝いた他、アメリカの「アカデミー賞」で3部門にノミネートされるなど、製作・公開の時点で高く評価された。そして劇場にも、多くの観客を集めている。 しかし、「カンヌ」や「アカデミー賞」で話題になったり、大ヒットを飛ばした作品であっても、後の世に語り継がれることはなく、忘れ去られてしまう作品は、枚挙に暇がない。そんな中で本作は、イギリス映画史、いや世界の映画史に於いて、今でも燦然と輝く古典的な名作となっている。 本作の主人公は、30代の主婦ローラ(演:セリア・ジョンソン)。サラリーマンの夫と子どもたちと、平凡ながら幸せな家庭を築いていた。 彼女は毎週木曜日に、ロンドン郊外のミルフォードの町へ汽車で向かい、ショッピングや映画などを楽しんでいた。週に1度の、主婦の息抜きである。 ある時ミルフォードの駅で、汽車の煤がローラの目に入った。プラットフォーム横の喫茶室で困っていると、ちょうど居合わせた医師のアレック(演:トレヴァー・ハワード)が、親切に煤を除いてくれた。 1週間後の木曜、ローラとアレックは、ミルフォードの街角でばったりと再会。更にその翌週、ローラがレストランで独り昼食を食べていると、またも偶然にアレックが入店し、同席することとなった。 別の町で開業しているアレックは、毎週木曜だけ、友人の代診でこの町の病院に来ていた。その日の仕事を早上がりにした彼は、ローラと共に、映画を観に行く。 それ以来、週に1度、会う毎に親しくなり、会話も弾むようになった2人は、お互いに恋心を抱いている自分に気が付く。しかしアレックも、妻子ある身。2人の関係を進めることは、即ちお互いの家庭を壊すことになってしまう…。 思いが募ったアレックは、友人が留守にしているアパートに、ローラを誘う。一度は拒んで帰路に就こうとしたローラも、己の気持ちに抗い切れず、アレックが待つ部屋へと、足を運ぶ。 遂に一線を越えることになりそうだった、正にその時、予定より早くアレックの友人が帰宅。ローラは慌てて、外へと飛び出すのだった。 プラトニックな関係のまま、お互いの気持ちが、抜き差しならないものとなっていく。そんな2人が出した、結論とは…。 「元祖不倫映画」とも言われる本作だが、1974年にリチャード・バートンとソフィア・ローレンの共演で、TVムービーとしてリメイク(日本では76年に、『逢いびき』のタイトルで劇場公開)された他にも、様々な作品に影響を与えている。 特に有名なのは、ロバート・デ・ニーロとメリル・ストリープが、ニューヨークを舞台に、プラトニックな不倫劇を繰り広げる、『恋におちて』(84)。またソフィア・コッポラ監督は、自らの出世作となった『ロスト・イン・トランスレーション』(03)に関して、本作の影響が大きいことを、明言している。 『逢びき』と言えば、作品の随所に流れる、セルゲイ・ラフマニノフの「ピアノ協奏曲 第二番」の切ない調べを思い浮かべる方も、多いだろう。後に、やはり“不倫の恋”を扱った、『旅愁』(50)や『七年目の浮気』(55)などでも使用されたが、それも本作あってのことと言える。 本作の映画音楽としては、ラスマニノフの「第二番」1曲だけが使われた。このようにクラシックの楽曲を1曲だけ、映画音楽に用いるという試みは、本作が初めてだったと言われる。後にイタリアの巨匠ルキノ・ヴィスコンティが、『夏の嵐』(54)でブルックナーの「交響楽第七番」、『ベニスに死す』(71)でマーラーの「交響楽第五番」を同じように使ったが、『逢びき』はその先駆けであった。またこの手法は、フランスのヌーヴェルヴァーグの監督たちにも、影響を与えている。 『逢びき』の原作者にして、製作者だったのは、ノエル・カワード(1899~1973)。俳優・作家・脚本家・演出家・映画監督、更には作詞・作曲まで手掛ける、イギリスの生んだ才人である。 カワードは、一時期イギリスの“ファッション・リーダー”的な存在でもあった。スカーフを首に巻いたり、タートルネックセーターを着たりは、若かりし日の彼が舞台上で披露したのが、“元祖”と言われる。 そんな“洒落者”のカワードは、第2次世界大戦が始まると、「戦争は憎しみの舞台であり、私には向いていない」と発言。「非国民」扱いを受ける騒ぎとなった。それに対して、彼の友人の一人で、当時海軍大臣だったウィンストン・チャーチルが、「あんなヤツ、戦争に行っても何の役にもたたない。一人ぐらい、愛だ恋だって歌ってるヤツがいたっていい」と、庇ってみせたという。 『逢びき』のイギリス公開は1945年11月、第2次大戦が終結して間もない頃。世情はまだ落ち着かなかったにも拘わらず、チャーチルの言を借りれば、「愛だ恋だ」の「元祖不倫映画」を製作したのは、正にカワードの面目躍如とも言えた。 『逢びき』は、デヴィッド・リーン(1908~91)の監督作品という意味でも、映画史的に重要である。後に“巨匠”の名を恣にするリーンだが、本作を以って、一躍世に知られる存在になったと言っても良いだろう リーンは二十歳の時に、映画界入り。当初は監督助手としてカチンコを叩いていたが、やがて編集技師として働くようになる。30代半ば近くまでの10数年は、そのキャリアを積み重ね、ローレンス・オリビエ主演の 『お気に召すまま』(36)、レスリー・ハワード主演の『ピグマリオン』(38)、マイケル・パウエル監督の『潜水艦轟沈す』(41)等々の作品に、クレジットされている。 彼の監督への道を開いたのが、ノエル・カワードだった。カワードが「イギリス情報省」からの要請で、製作・監督・脚本・主演を務めた『軍旗の下に』(42)の共同監督に、リーンを抜擢したのである。 共同監督はこれ1本だけだったが、カワードは、9歳下のリーンを大いに気に入った。その後自らのプロデュースで、自作の戯曲を映画化するに当たって、3本続けてリーンに監督を委ねた。『幸福なる種族』 (44)『陽気な幽霊』 (45)、そして『逢びき』である。 こうした経緯を考えると、『逢びき』はリーンの監督作というよりも、「カワード作品」と言うのが相応しいようにも思える。しかし原作となったカワードの戯曲「静物画」は、ミルフォード駅の喫茶室だけを舞台とする、短い一幕劇。それを考えると、“映画作家”としてのリーンが、本作でいかに才能を発揮したかも、見えてくる。 “映画化”に当たっては、駅の喫茶室を軸にしながらも、ローラとアレックが出会う街角やレストラン、デートで訪れる映画館や公園、密会に使おうとした友人の家からローラの自宅まで、舞台を広げている。戯曲の脚色に当たっては、カワードの関与も当然大きかったと思われるが、リーンは当時「シネギルド・プロ」という映画会社を共に営んでいた仲間、アンソニー・ハヴェロック・アラン、ロナルド・ニームと3人で脚色を行った上で、監督を務めている。 リーンの持ち味が、特に強く発揮されたように感じられるのは、喫茶室でアレックが自分の仕事について熱く語る姿に、ローラがつい見取れてしまうシーン。彼女が自分の恋心に気付く、この決定的な瞬間の演出と編集の呼吸が、正に“デヴィッド・リーン”であった。 「女が恋に落ちる」 「男女がどうしようもなく惹かれ合ってしまう」 こういった瞬間を、リーンほど的確に描出できる監督は、そうはいない。ほとんど男性しか登場しない、『戦場にかける橋』(57)『アラビアのロレンス』(62)の両作を撮ってからは、スペクタクル超大作を手掛ける、完全主義者の“巨匠”のイメージが強くなるリーンだが、こうした演出こそが本領とも言える。 それは初めて海外ロケに挑んだ『旅情』(55)、超大作路線に走った以降の、『ドクトルジバゴ』(65)『ライアンの娘』(70)といった作品にも見受けられる。特に『ライアンの娘』で、ヒロインがやはり“不倫の恋”に落ちるシークエンスの鮮烈さなどは、さすが『逢びき』から、キャリアを重ねてきた監督だと、舌を巻いてしまう。 こうした“瞬間”を活写出来るのは、リーン自身が、6回もの結婚を重ねた、「恋する男」だったからかも知れない。以前このコラムで『ドクトルジバゴ』を取り上げた時、リーンの諸作の大テーマは、「愛こそすべて」だと書いたが、その原点は『逢びき』にあると言えるだろう。 リーンは映画表現にとって彼の取っている態度を、「一に簡潔、二に決断、三に集中」であると語ったことがある。「つまり、何を描くかをよく狙い、これで行こうかと思ったら、断固ハラをきめ、ありとあらゆるものをその狙いのために集中する。つまり、恋愛と同じ要領さ」と。自らの演出術を説明するのに、“恋愛”に例える辺りも、実に“デヴィッド・リーン”なのであった。 さて冒頭で紹介した、「20世紀のイギリス映画ベスト100」。その第2位が『逢びき』だったわけだが、リーン監督作品は、続いて第3位に『アラビアのロレンス』(62)、第5位に『大いなる遺産』(46)と、上位10本の中だけで3本がランクインしている。「ベスト100」全体を見ると、11位に『戦場にかける橋』(57)、27位に『ドクトル・ジバゴ』(65)、46位に『オリヴァ・ツイスト』(48)、そして92位には、ノエル・カワードと共同監督したデビュー作『軍旗の下に』(42)まで入っている。 監督としてデビュー以来、鬼籍に入るまでの半世紀近くの間に、監督作品が16本。特に超大作路線に走って以降は寡作だったリーンだが、その内の、実に7本がランクインしている。 そうしたキャリアは、ノエル・カワードがプロデュースした、『逢びき』があったからこそ、始まったと言えるだろう。■ 『逢びき』© Copyright ITV plc (ITV Global Entertainment Ltd)
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COLUMN/コラム2020.07.03
韓国発!テン年代“初恋映画”の決定版!! 『建築学概論』
2012年3月、韓国で1本の映画が公開され、“恋愛映画”としては当時の歴代№1ヒットとなった。410万人もの観客動員を記録した、それが本作『建築学概論』である。 日本では、翌13年5月に公開。韓国のような、特大ヒットとまではいかなかったが、数多の熱烈なファンを生み出した。 ソウルの建築事務所に勤める、30代中盤の建築士スンミン(演:オム・テウン)。そこにある日突然、大学で同級だったソヨン(演:ハン・ガイン)という女性が訪れる。15年ぶりの再会であった。 ソヨンは、「郷里の済州島に、家を建ててほしい」と、スンミンにオーダーした。彼女の父は病床にあり、余命いくばくもない。そんな父と暮らすための、家である。 スンミンは、設計図を引き建築を進めていく中で、1990年代前半=大学1年の時の記憶が甦っていく。それは甘酸っぱくもほろ苦い、“初恋”の想い出だった。 建築学科のスンミン(ダブルキャスト=イ・ジェフン)と音楽学科のソヨン(ダブルキャスト=スジ)の出会いは、「建築学概論」という講義。教室に飛び込んできたソヨンに、スンミンは一目で惹かれる。 スンミンの実家とソヨンの下宿先が、偶然近所だったことから、2人は仲良くなる。そして楽しい時を、共に過ごすようになっていく。 CDウォークマンのヘッドフォンを片チャンネルずつ分けて、ヒット曲を聴いたり、近所の廃屋を、2人だけの秘密の城に改装したり。ソヨンの誕生日、ピクニックに出掛けた帰り、スンミンは眠っているソヨンの唇に、そっと口づけをしてしまう。 「初雪の日に会おう」と、指切りまでして交わした約束。しかしそれは、果されることがなかった。不幸な行き違いと幼さ故の臆病から、ある時2人の距離は、決定的に遠ざかってしまうのだった…。 こうした、大学1年時の思い出の描写と、30代中盤に差し掛かってからの再会の物語が、交互に進んでいく。 ヨーロッパなどで上映された際は、大学時代のスンミンに対して、「彼は変態か!?」という疑問の声が上がったという。どう見たって、ソヨンの気持ちが自分にあるのはわかるだろうに、手出しできずにうじうじくよくよする姿が、理解不能だったらしい。 “恋愛”に関しての、彼我の差という他はないだろう。それに対して、韓国や日本の観客の多くにとっては、『建築学概論』の“初恋”の描写は、「あるある」「わかるわかる」というものだった。 私は本作を観た直後、自分が大学1年の時に好きだった女の子のことが、頭に浮かんだ。2人で映画を観に行ったり、公園を裸足で散歩したりといった、想い出と共に。 もう、35年も前のことである。それなのに、彼女の一挙手一投足にドギマギしたことを、今でも鮮明に想い出せる。そして私もこの恋に対しては、うじうじくよくよして、甚だふがいなかった。本作の公開時の惹句、「みんな 誰かの初恋だった―。」が、ただただ胸に染み入る…。 余談はさて置き、本作で描かれる“初恋”や“青春時代”が、かくもキラキラと輝いて映るのには、韓国という国の風土や歴史も、無視できない。本作の監督・脚本を手掛けたイ・ヨンジュ曰く、「韓国では大学1年生は最も輝いている瞬間」「大学1年生の頃の思い出は、いつも夏の日のよう。すべて美化される」。 監督は主人公と同じく、90年代前半に大学に通い、「建築学」を専攻している。自らの経験に基づく、実感が籠った言である。 日本以上に厳しい受験戦争を経て、勝ち取った解放感と共に、韓国では大学生になると、高校までは地元中心だった交友関係や活動範囲が、劇的に広がるという。またこの時期は、男性に義務付けられている徴兵まで、幾ばくかの猶予があることも、大きいのであろう。 「90年代前半」という時代背景も、ポイントである。韓国では、軍事独裁政権が長く続いた後、「ソウル五輪」の前年=87年になって漸く、「民主化宣言」が行われた。その後97年12月に、深刻な「IMF危機」に襲われるまでの10年ほどは、多くの若者たちにとって、“青空”が果てしなく広がっていた時代と言える。 もちろん、その時代に“青春”を過ごした者たちの中にも、個人差はある。しかし韓国と同様、長きに渡る“戒厳令”が終わった後、“民主化”された台湾の、90年代の高校生の姿を描いた、『あの頃、君を追いかけた』(11)や、バブル経済の頃の日本の大学生が主人公である、『横道世之介』(13)等々を思い浮かべてみよう。アジアのそれぞれの国で、多くの若者たちにとって“青空”が広がる、希望に満ち溢れた時代を舞台にした青春映画に「傑作」が多いのは、決して偶然ではあるまい。 本作『建築学概論』では、主人公2人がそれぞれ「二人一役」によって演じられる。これもまた、成功の要因となった。 大学時代のスンミンとソヨンを演じた、イ・ジェフンとスジのフレッシュさといったら!製作当時、K-POP女性グループの「miss A」メンバーとして人気を博していたスジだが、この作品の成功によって、「国民の初恋」と言われる存在にまでなった。 一方30代を演じるのは、オム・テウンとハン・ガイン。大学時代のスンミンとソヨンのキャラは引き継ぎつつも、「汚れちまった悲しみに」といったニュアンスも漂わせる、“オトナ”の2人である。 そんな30代の2人が新居の建築を進めていく中で、かつて実らなかった大学1年時の“初恋”を、どう完成させるのか?それが、物語の焦点となっていく。 監督言うところの、「未完の過去を復元する話」というわけだが、大学1年時と30代を演じる俳優同士は、容貌などは必ずしも似てはいない。しかし「二人一役」にしたことによって、結果的には主人公たちの15年という歳月の隔たりが、効果的に表現されたのである。 イ・ヨンジュ監督本人も、大学卒業後に建築士となった。そして10年間働いた後に、映画界入り。スタッフとして、ポン・ジュノ監督に就いた。 監督が、『殺人の追憶』(03)の現場スタッフを務めていた頃には、すでに本作の脚本は書き上がっていたという。本来はこれを初監督作としたかったのだが、様々な映画会社に企画を持ち込む度に、物語の結末を、はっきりとした「ハッピーエンド」に改変することや、内容をもっと「説明的」にすることを要求され続けた。 そのため、映画化の実現までは時間が掛かり、2009年には、別の企画で監督デビューとなった。最初に書いた通りのエンディングを支持してくれる会社に出会い、『建築学概論』が完成に至るまでには、実に10年もの歳月が流れたのである。 本作について監督が、「未完の過去を復元する話」と言っていることは、先に記した。監督のプロフィールや製作の紆余曲折を見ると、本作を作り上げることは、監督本人にとっても正に、「未完の過去を復元する話」だったのであろう。 念願かなって、望んだ形での映画化が実現し大成功を収めた後、暫しの沈黙が続いたイ・ヨンジュ監督。今年=2020年に、8年振りの新作として、パク・ボゴムとコン・ユが主演した『徐福』が、韓国で公開される予定となっている。 『徐福』は、人類初のクローン人間を追って、彼を掌中に収めようとする、幾つかの勢力が争う内容と伝えられている。きっと『建築学概論』とはまったく違った、新たなステージを見せてくれるであろう。 それはそれで大いに期待しながらも、いま改めて、『建築学概論』という作品を作ってくれたことに対して、イ・ヨンジュ監督に大きな感謝を示したい。過ぎ去った青春期の、燦然と輝く多幸感と、あの頃に残してきた、傷ましくも眩い、後悔の念。本作を観る度に、それらがセンチメンタルに蘇ってくる。 懐古主義と、笑うなかれ。ひとは振り返れる過去があるからこそ、前に向かって歩んでいけるのだ。■ 『建築学概論』(C) 2012 LOTTE ENTERTAINMENT All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2020.07.29
巨匠チャン・イーモウが、この時撮らなければならなかった、“武侠映画”第2弾!『LOVERS』
アメリカの西部劇や日本の時代劇と同じように、中華圏の映画には“武侠もの”という、伝統的なジャンルがある。それは、1920年代に中国で初めて製作され、60年代後半から70年代前半にかけては、イギリス統治下の香港で隆盛を極めた。 中国を舞台に、剣の達人たちが超能力のようなパワーを発揮し、宙を舞ってチャンバラを繰り広げる。伝統のワイヤー・アクションに、近年はCGやVFXも駆使されて、中国大陸では、“武侠もの”のTVドラマ大作シリーズの製作も、盛んに行われている。 そんな“武侠もの”を、中国映画界の巨匠チャン・イーモウ監督が初めて手掛けたのが、『HERO』(2002)。それに続く、イーモウの“武侠もの”第2弾が本作、2004年に公開された、『LOVERS』である。 本作が、『HERO』の興行的な成功を受けて成立した企画というのはもちろんだが、それだけではない。様々な側面から見て、イーモウにとっては、このタイミングに撮らなければならなかった。そしてこのタイミングでなければ、撮ることが出来なかった作品のように思える。 西暦859年。唐の大中13年― 凡庸な皇帝と、政治の腐敗で各地に反対勢力が台頭。 その最大勢力「飛刀門」は貧者救済で支持を集めた。 朝廷は飛刀門の撲滅を命じ、県の捕吏と飛刀門の死闘が続いていた…。 捕吏のリウ(演:アンディ・ラウ)とジン(演:金城武)が目を付けたのは、遊郭の踊り子である、シャオメイ(演:チャン・ツィイー)。生まれつき盲目ながら、見事な舞いを見せる彼女は、「飛刀門」の前頭目の娘と思われた。 「飛刀門」の本拠地を探るため、リウとジンは、シャオメイを罠に掛ける。リウが捕えたシャオメイを、無頼の徒を装ったジンが、救出。2人は、逃亡の道行きとなる。 リウは2人の後をつけて、道々でジンと連絡を取り合う。その際にリウは、「シャオメイに、本気になるなよ」と、ジンに何度も釘を刺すのであった。 しかしこの逃亡劇には、幾重もの謀が張り巡らされていた。ジンの正体を知らない、朝廷からの追っ手も掛かり、絶体絶命の窮地に陥る中で、ジンとリウ、そしてシャオメイ、2人の男と1人の女の運命は? 「北京電影学院」での学友チェン・カイコー監督の『黄色い大地』(84)『大閲兵』(85)などで撮影を担当したのが、中国映画界に於ける、チャン・イーモウのキャリアのスタートだった。その後、『古井戸』(86)に主演。俳優としての演技も経験してからの1987年、初監督作の『紅いコーリャン』を発表した。 この処女作から、自らが見出した女優コン・リーをヒロインに、中国の近代から現代までを舞台にした様々な“人間ドラマ”を手掛ける。そしてイーモウは、「ベルリン」「ヴェネチア」「カンヌ」などの、国際映画祭を席捲する存在となっていった。 妻子持ちのイーモウにとって、不倫の関係であった、コン・リーとの二人三脚は、『活きる』(94)で一旦解消となる。その後の作品も含めて、90年代までのイーモウ作品には、“アクション”のイメージはほとんどない。それ故に21世紀を迎えて、“武侠もの”である『HERO』を手掛けた際は、大きな驚きを持って迎えられた。 『HERO』は紀元前の中国、戦国時代を舞台に、英語タイトル通りに、ジェット・リーが演じる男性剣士を主人公とした物語。彼は、“義”に生きて“義”に死んでいく…。 一方『LOVERS』の主要登場人物3人は、“義”よりも“愛”に生きる。そして、“愛”に流されて“愛”に滅ぼされていく…。 『恋する惑星』(94)『天使の涙』(95)といったウォン・カーウァイ監督作品でスターになった金城武は、ちょうど30代に突入した頃。一方80年代後半より“四大天王(香港四天王)”と言われ、TOPスターとして走ってきたアンディ・ラウは、21世紀を迎えて、『インファナル・アフェア』シリーズ(02~03)が大ヒットとなった直後であった。それぞれにとって『LOVERS』は、キャリアのピークに近い頃の出演作と言える。 しかし本作の眼目は、やはりチャン・ツィイーにある!コン・リーがイーモウの元を去った後、『初恋の来た道』(99)のヒロインとして、イーモウに発掘された彼女にとって『LOVERS』は、『HERO』に続く、イーモウ作品3本目の出演。この頃のツィイーは、正にイーモウ監督のミューズと言える存在だった。 ここで注目すべきは、『初恋の来た道』の直後に、ツィイーが出演した作品である。それはアン・リーが監督した“武侠もの”『グリーン・ディスティニー』(00)。 この作品はアメリカをはじめ、各国で大ヒットとなった。そして中国語作品でありながら、本家「アカデミー賞」では、作品賞はじめ10部門でノミネート。その内、撮影賞、美術賞、作曲賞、そして外国語映画賞の4部門で、見事に受賞を果した。 台湾出身のアン・リーによる“武侠もの”が、世界的な大評判となったことが、イーモウのハートに火を付けたことは、想像に難くない。“武侠もの”を手掛けることはイーモウ本人が言う通りに、以前からの「念願」であったのかも知れない。しかしそれ以上に、中国を代表する監督として、アン・リーに後れを取ったままではいかないという、強烈な意識があったかと思われる。 イーモウの自負心の源は、氏育ちと関係あるだろう。彼の父親は、蒋介石率いる「国民党」の軍人だった。「国民党」は国共内戦に敗れ、台湾へと逃避したわけだが、イーモウの父は、中国に残った。そのため「中華人民共和国」成立後、「中国共産党」支配の下でイーモウの一家は、“最下層”の生活を余儀なくされた。 評論家の川本三郎氏のインタビューに応え、映画を志した理由を、イーモウは次のように語っている。 ~率直にいって映画が好きだったから北京電影学院に行ったわけではありません。私にとって、国民党の軍人の子どもという境遇から抜け出すことが大事だったんです。だから体育大学でもよかった…~ ~よくインタビューで「いつから映画に惹かれたか」と聞かれるんですが、答えようがないんですよ。映画でも体育でも美術でも、自分の境遇を変えられるものだったらなんでもよかったんですから。たまたま、それが映画になっただけなんです。~ ~映画が私の人生を変えたのではなく、私は生きのびるために人生を変えていったんです。それが最終的に映画監督という道につながったんです~ 一瞬、映画へのこだわりが、実は薄かったのかと、勘違いさせかねない物言いだ。いや、そんなことはないだろう。“映画”の才能こそを最大の武器にして、成功者となったわけである。“映画”こそ、イーモウの生きる術に他ならない! 近年のイーモウが、2008年の「北京オリンピック」開会式の演出を手掛けたり、“南京大虐殺”を取り上げた『金陵十三釵』(11/日本未公開)を撮ったことなどを指して、“国策監督”と揶揄する向きも少なくない。それを否定する気は毛頭ないが、彼が生半可な道を歩んで、ここまでのし上がってきたわけでないことは、覚えておいた方が良い。 建国の父・毛沢東の誤った政策であり、イーモウ自らも青春期に悲惨な目に遭った、「文革=文化大革命」の時代を取り上げた監督作品である『活きる』が、中国国内では「上映禁止」の憂き目に遭ったこともある。それにも拘わらず、「文革」の時代に振り回される庶民の物語を、『初恋のきた道』『サンザシの樹の下で』(10)『妻への家路』(14)と、折に触れては繰り返し映画化する辺り、たとえ“国策監督”であっても、凡庸ならざる存在である。 アン・リーの『グリーン・ディスティニー』は、「中国を代表する監督」という、イーモウの自負心を刺激しただけには、止まらなかったと、私は見る。自らが手塩に掛けたチャン・ツィイーの、“アクション女優”としての魅力を、先に引き出されてしまったことも、彼を“武侠もの”の実現へと、大きく動かすことになったのであろう。 イーモウとツィイーの関係は、とかく噂になっていたが、実際に「男女の仲」だったのかどうかは、寡聞にしてわからない。だが映画監督という立場からは、ツィイーがイーモウにとっては、「俺の女」という存在であったのは、間違いなかろう。 とにかくイーモウはツィイーで、“武侠もの”を!それも、『グリーン・ディスティニー』を超える作品を、どうしても撮らなければならなかったのではないか? とはいえ『HERO』は、先にも挙げたように、ジェット・リーが主演の“英雄”の物語である。脇を固める、トニー・レオン、マギー・チャン、ドニー・イェンら中華圏の大スター達と、ツィイーも同格の活躍を見せるものの、彼女がヒロインというわけではない。 この作品を経て、本作『LOVERS』へと行き着くわけだが、先に述べた通り、主要な登場人物たちの方向性は、『HERO』とは180度転換。“義”よりも“愛”を選ぶ者たちとしたのは、正にヒロインとしての“ツィイー”の魅力を、最大限に引き出すための仕掛けと言えるだろう。 またツィイー演じるシャオメイは、遊郭の踊り子として登場するわけだが、これもまさに、彼女のための設定。8歳から舞踏を始めたツィイーは、11歳から「北京舞踊大学附属中学」でダンスを学び、14歳の時には「全国桃李杯舞踏コンクール」で演技賞を受賞している。そんな彼女の実力と魅力を存分に見せる舞いが、本作序盤の大きな見せ場となっているのである。 それにしてもイーモウの、『グリーン・ディスティニー』への対抗意識の激しさたるや!ジンとシャオメイを狙って、朝廷の兵士たちが“竹林”の上方から攻撃を仕掛けるシーンがある。これはキン・フ―監督の『侠女』(71)という、伝説的な“武侠もの”へのオマージュであるのだが、『グリーン・ディスティニー』にも同様に、『侠女』へのオマージュとして、“竹林”での戦いのシーンがある。イーモウ監督は、「アン・リーよりも凄いシーンを見せてやる」とばかりに、敢えて“竹林”を舞台に、物量を以って驚くべき戦闘シーンを作り出している。 さて結果的に『LOVERS』は、『グリーン・ディスティニー』を超えることが出来たのか?本作でのツィイーは、アン・リー作品よりも魅力的に映っているのか?それに関しては、世評や興行の結果はさて置いて、観る者の判断に委ねたいと思う。 いすれにせよ最初に記した通り、イーモウにとって本作は、このタイミングに撮らなければならなかった。そしてこのタイミングでなければ、撮ることが出来なかった作品だったのである。 『LOVERS』は今のところ、イーモウがチャン・ツィイーと組んだ、最後の作品となっている。それから14年経って、イーモウが久々に手掛けた“武侠もの”第3弾『SHADOW/影武者』(18)の出演陣に、ツィイーの顔はない。 『LOVERS』は唯一無二のタイミングで、イーモウが渾身の力を振り絞って、自らのミューズの輝きを、最大限に引き出さんとした試みだったのだ。■ 『LOVERS』(C)2004 Elite Group(2003)Enterprises Inc.
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COLUMN/コラム2020.08.06
『戦争の犬たち』 フレデリック・フォーサイスの原作の背景と、クリストファー・ウォーケン主演によるアレンジについて
本作『戦争の犬たち』(1980)の原作は、イギリスの作家フレデリック・フォーサイスが著し、1974年に出版された同名の小説である。フォーサイスと言えば、現実の国際情勢に基づいた題材を取り上げ、アクチュアルに描いたベストセラーを、数多く世に放ってきたことで知られる。 ジャーナリスト出身の彼が書いた小説の第1作が、かの有名な「ジャッカルの日」。1962年から63年に掛けて、「ロイター通信」の特派員としてパリ駐在時に、当時のドゴール大統領の動きを、日々追った経験を基に書き上げた、サスペンススリラーの傑作である。 ドゴール大統領暗殺を狙う、正体不明のスナイパー“ジャッカル”と、それを阻止しようとする国家権力の虚々実々の戦いを描いた「ジャッカルの日」は、71年に出版されてベストセラーになった。巨匠フレッド・ジンネマン監督による、その映画化作品も、73年に公開されて世界的に大ヒット!今でも“暗殺映画”のマスターピースとして、高く評価されている。 「ジャッカルの日」の出版契約に当たって版元は、作家としては無名の新人であったフォーサイスに、「小説三作の契約」を結びたいと申し入れた。そこでフォーサイスが、ジャーナリストとして見聞きしたことを基に考え出したのが、「オデッサ・ファイル」と「戦争の犬たち」だった。 「ジャッカルの日」に続く第2作となったのは、「オデッサ・ファイル」。フォーサイスが冷戦時の東ベルリンに駐在していた時、耳にした噂が起点となっている。それは、元ナチスのメンバーが、戦後に司直の手から逃れるために作った、謎の組織が存在するというものだった。 この噂話をベースに、綿密な取材を行って執筆した「オデッサ・ファイル」は、72年に出版。74年にジョン・ヴォイトが主演した映画化作品が、公開された。 そしてフォーサイスの第3作となったのが、「戦争の犬たち」である。こちらは彼が、「ロイター」から「BBC=英国放送協会」に転職した後、アフリカに赴いた時の経験から、発想した内容。ナイジェリアの内戦=「ビアフラ戦争」の取材を通じて、自分が知ったアフリカのこと、そしてそこで戦う白人傭兵たちについて描くことを、思い付いたとしている。 小説「戦争の犬たち」に登場するのは、独裁者であるキンバ大統領が君臨する、アフリカの架空の国ザンガロ。ここにプラチナの有望な鉱脈があることを知った、イギリスの大企業が、クーデターでキンバを倒すことを企てる。その上で、自分たちが立てた傀儡を大統領に据え、プラチナを独占しようという算段であった。 そこで雇われたのが、イギリスの北アイルランド出身の傭兵シャノン。彼は観光客を装ってザンガロを訪れ、綿密な調査を行う。そして、外部からの急襲作戦によって、政権打倒が可能であるとのレポートを提出した。 そのまま、クーデターの計画立案から、武器や兵員の調達や輸送、戦闘まで任されたシャノンは、気心が知れた傭兵仲間を招集。ヨーロッパの各地で準備を進め、やがて計画は実行に移される。 シャノンが率いる傭兵部隊は、犠牲を出しながらも、独裁者を倒すことに成功。手筈通り、黒幕の大企業の使者と、傀儡政権のトップを出迎える。 しかし実はシャノンは、大国や一部の富者の思惑や謀略によって、アフリカの国家やその住民たちが蹂躙される様を、傭兵生活の中で幾度も目撃し、憤りを覚えるようになっていた。そして彼の雇い主たちには、思いもよらなかった行動に出る…。 さて、処女作「ジャッカルの日」から「戦争の犬たち」まで、いずれもフォーサイスの、ジャーナリスト時代の見聞から拡げた物語であることは、先に記した通りである。その辺りをフォーサイス本人が詳述しているのが、2015年に出版された自伝「アウトサイダー 陰謀の中の人生」。そしてその中でフォーサイスは、自分がイギリスの秘密情報部「MI6」の協力者であったことも、明かしている。 それによると、「MI6」のエージェントが、フォーサイスに初めて接触してきたのは、1968年。「BBC」を辞めてフリーランスの記者として、「ビアフラ戦争」の取材を続けている時だった。この戦争によって、多くの子どもたちが餓死している惨状を、フォーサイスはエージェントに伝え、イギリス政府がこの戦争に対して取っている政策を、揺り動かそうとしたという。 アフリカに関してはその後、70年代に過酷な人種差別政策で知られた「ローデシア」の政権の動向を探ったり、80年代、「南アフリカ」が密かに保有していた核兵器に関する情報を収集したりなどの、協力を行ったとしている。 また同書によれば、73年には東ドイツを訪問。そこで、イギリスの協力者となっているソ連軍の大佐から紙包みを受け取り、西側に持ち出すというミッションまで敢行している。 そんなこともあって、新作の小説を発表する際には、フォーサイスは機密を知る人間として、「書きすぎた部分」はないか、「MI6」のチェックを受けていたとする。しかしこの自伝に関しては、私は些か眉唾との思いを、抱かざるを得ない。 秘密情報部からの依頼のみに止まらず、ジャーナリストとしての戦場取材や、小説を書くための裏社会のリサーチなどに於いて、あまりにも命懸け、危機一髪で死地をくぐり抜けるエピソードが多いのである。しかも時によっては、彼にとっては敵方に当たる東側の女性工作員とのアバンチュールもあったりする。まさに、ジェームズ・ボンドさながらである。 また東ドイツ駐在時に、彼のスクープによって、危うく「第三次世界大戦」の引き金を引きかけるくだりがある。そんなこんなも含めて、元ネタになった経験は実際にあったとしても、「話を盛ってるなぁ~」という印象が、拭えない。 しかし、当代随一のスパイ小説の書き手が、自らの人生を綴る中でも、旺盛なサービス精神を発揮したと思えば、それほど大きな問題はないのかも知れない。元々国際情勢の現実に則りながらも、エンタメ要素を加える手法が、高く評価されてきた作家であるわけだし。 だがこの「アウトサイダー」では、フォーサイスの歩みを知る者としては、一体どんな風に記すのか興味津々だった部分が、書かれていなかったりする。それは1972年、アフリカの小国「赤道ギニア共和国」で、フォーサイスがクーデターを支援するために傭兵部隊を雇い、政権転覆を企てたという、かなり有名な逸話についてだ。 このクーデターの資金は、「ジャッカルの日」の印税で、主たる目的は、フォーサイスが「ビアフラ戦争」で肩入れしていた、反乱軍の兵士たちのため。「ナイジェリア」を追われた彼らに、国を与えようとしたと言われる。 しかしこの計画は、船に武器を積み込む予定だったスペインで、傭兵隊長が身柄を拘束されて失敗に終わった。そしてこれらの経験を盛り込んで書かれたのが、「戦争の犬たち」だという。小説の中ではクーデターは成功し、フォーサイスの所期の目的も果たされる。 このクーデター未遂事件は、6年後の78年に、イギリスの新聞「サンデー・タイムズ」に報じられ、大きなニュースとなった。但しフォーサイス自身はこの件に関しては、作戦会議を取材しただけで、傭兵達が自分を首謀者だと思い込んだのだと、関与を否定しているが…。 虚実は、はっきりしない。しかしいずれにせよ、アクチュアルながらも、フィクションである物語を数多紡いできた、フォーサイスらしい逸話と言っても、良いのではないか? さて、そんな小説を映画化した本作『戦争の犬たち』は、原作のエッセンスは残しながらも、ストーリーをかなり省略。更にオリジナルの設定も、多分に盛り込んだ作りとなっている。 シャノンが、ザンガロへの調査の旅で、逮捕されて拷問に遭ったり、原作には登場しない、別れた妻との愁嘆場があったり。なぜこうした作りになったかと言えば、シャノンを演じるのが、クリストファー・ウォーケンだったからではないだろうか。 ウォーケンが一躍注目を集めたのは、今から42年前=1978年、彼が30代半ばの時に公開された、マイケル・チミノ監督のベトナム戦争もの『ディア・ハンター』。戦場で心を病み、ロシアン・ルーレットで命を落とす青年ニック役で、繊細且つ凄絶な演技を見せ、アカデミー賞助演男優賞を受賞した。 それに続く出演作は、80年に公開された2本。チミノ監督作への連続出演となる、『天国の門』、そして本作『戦争の犬たち』である。当時のウォーケンは、大作の“主演級スター”として、猛売り出し中だった。 また近年は、“個性派”或いは“怪優”といった印象が強いウォーケンだが、当時は女性ファンも多い、“二枚目”俳優であった。『戦場の犬たち』に、出世作『ディア・ハンター』を想起させるような“拷問”シーンや、切なさを醸し出す“ラブシーン”が用意されたのは、当時のウォーケンならではだったと思える。 しかし『天国の門』は、空前の失敗作扱いをされ、製作の「ユナイテッド・アーティスツ」を破綻に追い込んだのは、多くの方がご存知の通り。『戦争の犬たち』も興行成績がパッとせず、ウォーケンが“A級作品”の主役を演じるのは、83年の『ブレインストーム』や『デッドゾーン』辺りで、打ち止めとなる。まあ今になって考えると、大作の“主演”も“二枚目”扱いも、柄じゃなかったという気がしてくるが。 そしてウォーケンは、『007 美しき獲物たち』(85)で、当初デヴィッド・ボウイにオファーされていた悪役を、彼の代わりに演じた辺りから、「クセが強い」役柄が多い俳優となっていく。 余談になるが、ダニエル・クレイグがボンドを演じる現在、『007』シリーズの悪役は、ハビエル・バルデム、クリストフ・ヴァルツ、ラミ・マレックと、いつの間にかオスカー男優の定席となってしまった。だが実は、それ以前にオスカー受賞者で『007』の悪役を演じたのは、ウォーケンただ一人である。 最後に話をまとめれば、原作者が実際に起こそうとしたクーデターをベースに書いたと言われる物語を、当時は“二枚目”で“主演級”だった現“怪優”向けにアレンジしたのが、本作『戦場の犬たち』である。そう思うとこれは、1980年というタイミングだからこそ、作り得た作品とも言えるだろう。■ 『戦争の犬たち』(C) 1981 JUNIPER FILMS. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2020.09.02
カロルコ!ヴァーホーヴェン!そしてシャロン・ストーン!! 90年代ハリウッドに咲いた仇花的作品『氷の微笑』
今年8月、女優のシャロン・ストーンが、「ザ・ビューティー・オブ・リビング・トゥワイス」なるタイトルの、自らの回想録を執筆し、来年3月に出版することを発表した。 そのニュースを伝える、日本での記事の見出しは、~「氷の微笑」シャロン・ストーン回想録執筆し出版へ~。本文中での彼女の紹介も、~米映画「氷の微笑」(92年)などで知られる元祖セクシー女優シャロン・ストーン(62)~というものであった。 本文では、マーティン・スコセッシ監督の『カジノ』(95)で、アカデミー賞主演女優賞にノミネートされたことなども記されてはいた。しかしシャロン・ストーンと言えば、やっぱり『氷の微笑』。彼女の女優としてのキャリアが、本作1本で語られがちなのは、否めない事実であろう。 逆に言えば彼女は、この1本で30年近く経った今でも、語られる存在になっているわけである。それほど、公開当時のインパクトは凄かった。 本作幕開けの舞台は、サンフランシスコに在る豪邸の一室。豪奢な真鍮のベッドの上で、激しくもつれ合う男女の姿があった。女の髪はブロンドだが、その顔の詳細は映し出されない。 女は男の上にまたがり、ベッドサイドから白いシルクのスカーフを取り出す。そして男の両腕を、ベッドの支柱へと結び付ける。 SMチックな趣向に益々高まった2人が、そのままオーガニズムに達するかと思った瞬間、女はシーツの下から、今度はアイスピックを取り出して、いきなり男の喉元へと振り下ろす。快楽の絶頂から、苦痛と恐怖のどん底に突き落とされた男に、女はあたり一面を血の海にしながら、何度も何度も、鋭利な刃を突き立てるのであった…。 この猟奇殺人の捜査に乗り出したのは、サンフランシスコ市警殺人課の刑事ニック・カラン(演:マイケル・ダグラス)。捜査線には、被害者のセフレで、ミステリー作家のキャサリン・トラメル(演:シャロン・ストーン)が、浮かび上がる。何と彼女は、事件の数カ月前、今回の殺人の手口がそっくりそのまま描かれた、ミステリー小説を発表していたのである。 事件の謎を追う中で、新たな殺人が起こる。更にはキャサリンの過去にも、様々な疑惑が生じていく。キャサリンを犯人と睨んだニックは、真相に迫っていく中で、やがて彼女の危険な魅力に吸い込まれ、溺れていくのであった…。 オープニングの、ショッキングなSEX殺人。そしてキャサリン・トラメル=シャロン・ストーンが、警察の取り調べを受ける際に、椅子に座って足を組みかえるシーンが、世間の耳目を攫った。そのシーンのシャロンが、タイトスカートでノーパンという装い故に、「ヘアが映る」「股間が見える」というのが、センセーショナルな話題となったのである。 本邦の場合、本作公開の前年=1991年から、宮沢りえの「サンタフェ」をはじめ、いわゆる“ヘアヌード写真集”のブームが巻き起こっていた。そのブームに、うまくリンクした部分もあったと思う。 至極、下世話な話ではある。だが本作の公開は当時紛れもなく、ちょっとした“事件”だったのだ。 そして『氷の微笑』は、全米での興行成績が1億2,000万ドルに迫り、全世界では3億5,000万ドルを稼ぎ出した。日本でも配給収入で19億円、興行収入に直せば40億円前後を売り上げた。 斯様に世界的な大ヒットとなった本作は、プリプロダクション=製作準備の段階から、何かと話題となっていた。まずは、脚本である。 手掛けたのは、『フラッシュダンス』(83)『白と黒のナイフ』(85)などのヒット作がある、ジョー・エスターハス。彼が書き上げた本作の脚本の獲得に、8人ものプロデューサーが名乗りを上げて、争奪戦が起こった。 値段はどんどん吊り上がり、買い手は一人また一人と脱落していく。そんな中で、最終的に300万ドルという、当時としては「史上最高」となる脚本料が付いて、落札となった。 本作脚本を詳細に検討した場合、ディティールの粗さなど、果して「史上最高」の価値があったのかどうかは、大いに議論となるところである。しかしその脚本料故に、ハリウッドでの本作への注目度が、端から並大抵のものでなかったことは、事実である。 「史上最高」の300万ドルを支払ったのは、独立系の映画製作会社「カロルコ・ピクチャーズ」であった。「カロルコ」は、マリオ・カサールとアンドリュー・G・ヴァイナによって76年に設立され、82年に、シルベスター・スタローン主演の『ランボー』第1作から製作活動を本格化。90年には『トータル・リコール』、91年には『ターミネーター2』と、絶頂期のアーノルド・シュワルツェネッガーを主演させた、メガヒット作を立て続けに放っていた。 本作の製作が本格化して、まずは殺人課の刑事ニック役に、マイケル・ダグラスが決まった。大スターであるカーク・ダグラスの長男であるマイケルは、アカデミー賞で作品賞を含む5部門に輝いた、『カッコーの巣の上で』(75)のプロデューサーとして注目された後、俳優としても、『ロマンシング・ストーン 秘宝の谷』(84)『危険な情事』(87)『ブラック・レイン』(89)などのヒット作に主演。オリバー・ストーン監督の『ウォール街』(87)では、父は生涯手にすることが叶わなかった、“アカデミー賞主演男優賞”を獲得している。 このように80年代、名実ともハリウッドのTOPスターの1人となったマイケル。年齢的には40代後半という円熟期を迎えて、90年代最初の主演作に選んだのが、本作であった。 続いては監督が、ポール・ヴァーホーヴェンに決まる。オランダで数々の問題作を発表後、80年代後半にアメリカ映画界へと渡ったヴァーホーヴェンは、『ロボコップ』(87)『トータル・リコール』(90)と、監督作が連続ヒットを記録。本作を手掛けた辺りが、ハリウッドに於ける絶頂期だった。 「カロルコ」!マイケル・ダグラス!ヴァーホーヴェン!90年代はじめのハリウッドに於いては、まさにブイブイ言わせている面々が集まって、いよいよ物語の“肝”となる、キャサリン・トラメル役を決める段となった。 ヴァーホーヴェンの意中の女性ははじめから、監督前作の『トータル・リコール』に出演していた、シャロン・ストーンだったという。『トータル…』でのシャロンは、シュワルツェネッガー演じる主人公の妻にして、実は敵の回し者という役どころ。アクションシーンでは、2カ月間の空手の特訓の成果を見せ、強い印象を残していた。 ところが「カロルコ」側からは、「もっと大スターを使いたい」との注文がついた。当時のシャロンは、デビュー以来10年以上もブレイクしないまま、三十路を迎えた、“B級ブロンド女優”に過ぎなかったのである。 また、シャロンが89年に主演したスペイン映画『血と砂』を観たマイケル・ダグラスも、「カロルコ」の主張に与した。「あんなひどい映画に出ている女優と共演すると自分の人気に傷がつく」というのが、その理由だった。 そのためヴァーホーヴェンは、100人もの女優と面接するハメになった。イザベル・アジャーニ、ジュリア・ロバーツ、キム・ベイシンガー、ミシェル・ファイファー、ニコール・キッドマン、ジーナ・デイヴィス等々、錚々たる顔触れが並んだが、裸のシーンが多く、悪女のイメージが強いキャサリン・トラメルを演じるのに、前向きになる者は少なかった。 そこでヴァーホーヴェンは、4カ月掛けてプロデューサーたちを説得。遂にはシャロンの起用に成功した。 この役がダメだったら、女優をやめようと考えていたというシャロンにとって本作は、まさに「最後の挑戦だった」。ヒッチコックの『裏窓』(54)のグレース・ケリーをイメージして役作りを行った彼女は、ヴァーホーヴェンやダグラスと撮影中に頻繁にディスカッション。時には衝突しながらも、撮影に1週間を要した、激しいセックスシーンなどで、迫真の演技を見せたのである。 さて先にも記したが、本作で特に話題になったのが、ノーパン&タイトスカートでの足の組み換えシーン。このシーンも、シャロンのアイディアによるものと、劇場用プログラムには記されている。ところが公開キャンペーンで来日した際の、ヴァーホーヴェンのインタビューでは、自分が大学生だった23歳の時の実体験に基づいて、生み出されたシーンだとしている。 友人の奥さんが、いつも座っている時に下着をつけていないので、「見えるというのが分かっているんですか?」と質問した。すると彼女は、「もちろん。目的があって、履いてないんだもん」と答えたのだという。ヴァーホーヴェンはそれをずっと覚えていたので、本作に使ったという説明である。 しかしこれも、リップサービスの可能性がある。シャロン説とヴァーホーヴェン説の、どちらが正しいのか?その謎は、公開から22年経った、2014年に解き明かされた。当時報じられた、シャロンの言をそのまま引用する。 「撮影した時、それはノーパンであることを暗示するシーンになるはずだったの。でも監督が『君の下着の白い色が見えてしまう。脱いでもらわなきゃいけない』と言うから、『見えるのはイヤです』と答えたの。すると監督は『いや、見えることはないから』と言うの。だから私は下着を脱いで彼に渡したわ。『じゃあ、モニターを見よう』と彼が言うから見たの。当時は、いまのようになんでもハイビジョンではなかったから、モニターを見た時には本当になにも見えなかったのよ。だから映画館で大勢の人に囲まれてあのシーンを見た時にはショックを受けたわ。上映が終わると監督の頬にビンタをお見舞いして、『私が1人の時にまず見せるべきだったんじゃないの』と言ってやったわ」 この監督の騙し討ちこそが、映画の世界的ヒットの原動力になったというわけだ。 さて冒頭に記した通りシャロン・ストーンは、本作1本で、長く語り継がれる存在になった。逆に、他に何の作品に出ていたのかは、ほとんど記憶に残らない女優人生でもある。 渡米後の監督作が、本作で3本続けてメガヒットとなった、ポール・ヴァーホーヴェンは、その後に手掛けた『ショーガール』(95)が大コケ。続く『スターシップ・トゥルーパーズ』(97)『インビジブル』(00)も期待した成績を上げられず、21世紀には母国オランダに帰って、活動を続けている。 そして「カロルコ・ピクチャーズ」。90年代初頭には毎年のようにメガヒット作を出しながらも、本作脚本に300万ドルの値付けを行ったことに代表されるような、放漫経営が祟って、95年には倒産の憂き目に遭っている。 さすれば本作は、1992年のハリウッドに咲いた仇花、一瞬の夢のような作品だったとも言える。 そして14年後、「カロルコ」崩壊後もプロデューサーを続けたマリオ・カサールらが、再びシャロン・ストーン=キャサリン・トラメルを引っ張り出して製作したのが、『氷の微笑2』(2006)である。しかし、そこにはマイケル・ダグラスの姿はなく、ヴァーホーヴェンも、メガフォンを取ることはなかった。 『2』製作に当たっては、前作時には30万ドルと言われたシャロンのギャラは、1,400万ドルまで膨張。1作目にマイケルが手にしたギャラとほぼ同額になっていた。 しかしその出来栄えも世間の注目度も、「兵どもが夢の跡」という他はなく、ただただ「世の無常」を感じさせられる作品であった。■『氷の微笑』(C) 1992 STUDIOCANAL
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COLUMN/コラム2020.09.02
「スピルバーグの時代」へのカウントダウン開始!『激突!』
製作費42万5,000ドル、撮影日数16日間…。本作『激突!』は、1970年代初頭にアメリカで製作されたTVムービーとしては、ごくごく普通の製作規模と言える作品だった。 しかしそれが、スティーヴン・スピルバーグ(1946~ )の巨匠への道を切り開く、伝説的な作品となったのだ。 以前『ジョーズ』(75)についてのコラムを書いた時にも触れたことだが、少年時代から父の8mmカメラを奪って映画を作っていたスピルバーグは、18歳の夏、ロサンゼルスの「ユニバーサル・スタジオ」の観光ツアーに参加。その最中に抜け出して、立ち入り禁止のサウンドステージや編集室などを見て回った。 その際にスピルバーグは、スタジオに出入り自由のパスを、ちゃっかりゲット。そのまま「ユニバーサル」へと、足繁く通うようになった。パスの期限が切れても、顔見知りとなったガードマンの黙認で、連日のスタジオ入り。そんなことを続けている内に、撮影所スタッフから、諸々雑用なども言いつかるようになった。 やがてスピルバーグは、自ら監督した24分のインディーズ作品『アンブリン』(68)で、スタジオのお偉方にアピール。「ユニバーサル」の親会社「MCA」の会長だった、シド・シャインバーグに気に入られ、TVドラマの監督として、7年契約を結ぶこととなった。それはスピルバーグ、二十歳の時だった。 その際シャインバーグは、スピルバーグに約束した。「私は、あなたが失敗したときでも、成功したときと同様に強力なサポートをする」と。この時点でスピルバーグの将来を見越したような、シャインバーグの慧眼には、驚く他はない。スピルバーグはこの「約束」があったからこそ、自信が持てたという。 そうして、TVシリーズの一編などを監督するようになった。その中でも、お馴染み「刑事コロンボ」の1エピソード「構想の死角」(71)などは、日本でも繰り返しオンエアされているので、ご覧になったことがある方も、多いであろう。 20代前半の若造としては、順風満帆に思える。しかしスピルバーグの胸中は、とにかく一刻も早く、「劇場用映画を撮りたい」という想いで、いっぱいだった。 そんなある日、スピルバーグの女性秘書が、雑誌「プレイボーイ」の1971年4月号に掲載された短編小説を読むように、彼に薦めた。それがリチャード・マシスンの筆による、「激突!」であった。 マシスンは、TVシリーズの「トワイライト・ゾーン」(1959~64)をはじめ、数多くのTVドラマや映画の脚本を手掛けていることで有名である。そして作家としても、SFホラーやファンタジー、更にはウエスタンやノンフィクションまで、ジャンルを横断する活躍を長年続けた。あのスティーヴン・キングをして、「私がいまここにいるのはマシスンのおかげだ」と語るような、偉大な存在である。 マシスンはハイウェイで車を運転中に、トラックの凶暴な運転に巻き込まれて、死ぬ思いをした経験がある。そこから着想したのが、「激突!」だった。 妻の尻に敷かれた平凡な中年セールスマンが、取引相手の元に急ぐ際、ごく軽い気持ちで大型トラックを追い越す。しかしそれが、恐怖の一日の始まりとなる。 トラックはセールスマンの車を執拗につけ狙い、やがて彼は相手が、自分の命を奪おうとしていることに気付く。警察や周囲に訴えても、その声は思うように届かず、あまつさえ異常者扱いさえされてしまう。 必死の逃走劇を繰り広げる中で、遂に覚悟を決めた彼は、真正面から、この異常者が操る巨大なトラックと対決することを、決意する…。 スピルバーグはこの短編小説を一読するや、「完全に参ってしまった」という。そしてこの作品を、自らの手で「映画化」するべく動き出す。その権利は幸いなことに、「ユニバーサル」が押さえていたので、スピルバーグは、先に挙げた「刑事コロンボ」のフィルムなども持参しながら、プロデューサーへのプレゼンを行った。そしてプロジェクトが動き始めた…ことになっている。 『激突!』は、“脚本化”もマシスン本人が行っているが、彼の話は、スピルバーグの話とは、些か食い違っている。マシスン曰く、スピルバーグと会うよりもずっと前に、脚本を書いていたというのだ。 また、「ユニバーサル」の郵便仕分け室に勤めていたスピルバーグの友人が、プロデューサー間で回覧されていた『激突!』の脚本の存在を、スピルバーグに伝えたのが、始まりだったとする説もある。この辺り諸説紛々なのは、『激突!』そしてスピルバーグが、後に伝説化した存在になったから故と、言う他はない。 さて実際に「映画化」に向けて動き出すと、やはりスターが必要だという話になった。そこでスピルバーグが脚本を送ったのが、『ローマの休日』(53)『アラバマ物語』(62)などで有名な、グレゴリー・ペック。 しかしペックは、この役に興味を示さなかった。実はこのことが、スピルバーグにとっては幸いだったとも言われる。もしもペックのような大スターの出演がOKになったら、企画全体が、それに見合った規模に修正される。そうなると、ペック主演作を手掛けるにふさわしい有名監督が呼ばれ、スピルバーグは、「お呼びでない」状態になる可能性が高かった。 結局『激突!』は、新人監督がメガフォンを取るには適正規模の、TVムービーとして製作されることになった。 主演に決まったのは、デニス・ウィーヴァー。日本では「警部マクロード」(70~77)の主役としてお馴染みだった、TVスターである。この起用もまた、スピルバーグがオーソン・ウェルズ監督の『黒い罠』(58)での彼の演技を思い出してオファーした説と、単にスタジオ側からあてがわれた説の両方がある。 いずれにせよ、ごく平凡で勇敢さのカケラもない男が、最後には勇気を振り絞って、命懸けで“怪物”に立ち向かっていくという物語である。ペックが演じるよりも、ウィーヴァ―の方が適役だったのは、間違いない。この辺り後年『ジョーズ』で、はじめに主演の警察署長役の候補になったスティーブ・マックイーンやチャールトン・ヘストンよりも、実際に演じたロイ・シャイダーの方が、明らかに適役だったパターンと酷似している。 こうして陣容が揃い、『激突!』は1971年秋にクランクイン。ロケ地は、カリフォルニア州のモハベ砂漠を貫くハイウェイとその近辺で、11日間の撮影予定だった。スケジュールがタイトだったため、ハイウェイ全体の地図にカメラを置く位置を書き込んだものを使って、撮影は進められた。 はじめに記した通り、撮影はトータルで16日間まで延びた。編集作業から放送までは3週間程度しか確保出来なかったため、4人の編集マンを使って、急ピッチで仕上げ作業が進められた。 そうして第1次の完成を見た『激突!』には、この4年後に全世界を席巻することとなる、『ジョーズ』と共通する要素が、多く見受けられる。 先にも挙げたように、それまで想像もしなかった“脅威”と期せずして対決することになるのは、ごく平凡で勇敢さには欠ける男。そして彼が助けを求めて訴えても、周囲には邪険にされる。 『激突!』に於けるトラック、『ジョーズ』に於ける人喰い鮫の描き方にも、大きな共通項がある。『激突!』の主人公が目にするトラック運転手の姿は、手や足元のみ。その容貌などは、一切見えない。一方『ジョーズ』の鮫は、クライマックス近くまで、背びれ以外を見せることがなく、恐怖を煽る。 そして終幕!トラックと鮫の断末魔の叫びは、共に『大アマゾンの半魚人』(54)のサウンドトラックから、怪物の鳴き声を持ってきているのである。 『ジョーズ』公開時に、「これは『激突!』のリメイクである」と、指摘する向きもあった。それは言い過ぎにしても、スピルバーグが『激突!』で成功した手法を、『ジョーズ』で大いに援用したことは、紛れもない事実だ。 『激突!』は製作費として30万ドルを予定していたものが、42万5,000ドルまで膨らんだ。しかしこのバジェットの超過分など、ものともしないような成果を上げることとなる。 まずは1971年11月13日に「ABC」で放送されると、高視聴率と高評価を勝ち取った。それまではスピルバーグと顔見知り程度だったジョージ・ルーカスは、その日フランシス・コッポラ宅のホームパーティに出ていた。その席を外して「十分か十五分くらい見てやろう」と、『激突!』を見はじめたら、やめられなくなった。そして「この男はすごく出来る…」「もっとよく知りたい…」と思ったという。後のライバルにして盟友関係は、ここから始まったとも言える。 大きな話題となったことに気を良くした「ユニバーサル」は、『激突!』を海外では、“劇場用映画”とすることを決定。そのためスピルバーグに追加撮影を行わせ、元は74分の作品を、90分まで伸ばすこととした。 そしてヨーロッパで、映画祭にエントリーしたり、劇場公開するなどの展開を行っていく。「第1回アボリアッツ国際ファンタスティック映画祭」でグランプリを受賞するなどの成果を上げると同時に、スピルバーグは、偉大なる先人たちと知己を得る、栄誉に俗した。 イタリアでは、巨匠フェデリコ・フェリーニと会食。イギリスでは、己が最も尊敬するデヴィッド・リーンから、「どうやらじつに才能あふれる新人監督があらわれたようだ」と絶賛されたのである。 こうして「スピルバーグの時代」の幕開けまで、秒読み態勢に入った。この後スピルバーグは、『続・激突!/カージャック』(74)で、正式に“劇場用映画”デビュー。それに続く『ジョーズ』で、全米そして全世界で№1ヒット監督となったのである。『激突!』(C) 1971 Universal City Studios, Inc. All Rights Reserved.