ザ・シネマ 松崎まこと
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COLUMN/コラム2019.05.26
巨匠コッポラの“救い”から“地獄”への道程 『ワン・フロム・ザ・ハート』
1939年生まれのフランシス・フォード・コッポラは、UCLAに学んだ後、60年代に“B級映画の帝王”ロジャー・コーマンの下で、低予算映画の監督としてキャリアをスタートさせた。その頃のコッポラは、時に才能の片鱗は見せながらも、ヒット作もなく、数多いる若手監督、若手脚本家の1人に過ぎなかった。 そして70年代、三十路を迎えた頃から、「コッポラの時代」が始まった。フランクリン・J・シャフナー監督、ジョージ・C・スコット主演の『パットン大戦車軍団』(70)の脚本で、初めてアカデミー賞を受賞。それと前後して、イタリア系マフィアのファミリーを描く、『ゴッドファーザー』(72)の監督に抜擢された。 『ゴッドファーザー』は、コッポラの提案で起用に至った、主演のマーロン・ブランドの名演などもあって大評判となり、当時の興行記録を塗り替える興行成績を残した。アカデミー賞では、作品賞、主演男優賞、脚色賞を受賞。原作者と共同で脚本も担当したコッポラは、早くも2個目のオスカーを手にした。 盟友のジョージ・ルーカスが監督する。『アメリカン・グラフィティ』(73)でプロデューサーを務め、“大ヒット”の成果を得た後、コッポラは74年に、『カンバセーション…盗聴…』『ゴッドファーザー PARTⅡ』という2本の作品の製作・監督・脚本を手掛けた。前者では、「カンヌ映画祭」の当時の最高賞である“グランプリ”を獲得。後者は1作目の興収には及ばなかったものの、批評的にはより高い評価を得て、アカデミー賞では6部門を受賞。コッポラの元には、作品賞、監督賞、脚色賞と、3個のオスカーが渡った。 正に向かうところ敵なしの勢いだったコッポラが、次なる作品として取り組んだのが、あの『地獄の黙示録』(79)である。原案は、ジョン・コンラッドの小説「闇の奥」(1902)だが、舞台をベトナム戦争に移して、アメリカの侵略を批判的に描くという、当時としては野心的な試みであった。 しかしロケ地のフィリピンで、ハリケーンによりセットが打ち壊されたのをはじめ、様々なトラブルに襲われたことによって、スケジュールが大幅に遅延。76年3月にクランクインして、当初17週を予定していた撮影期間が、何とほぼ1年間オーバー。67週も掛かってしまった。 編集も、コッポラの完璧主義などにより、2年余りの歳月が掛けられた。そのため、同じベトナム戦争を題材にした、マイケル・チミノ監督の『ディア・ハンター』(78)が、製作が始まったのは『地獄の…』の後だったにも拘らず、先に完成してしまった。 公開された『ディア…』は、絶賛を集め、79年4月に開催されたアカデミー賞で、作品賞をはじめ5部門を受賞した。そしてその際には、監督賞のプレゼンターとして、未だ完成していなかった、『地獄の…』の監督であるコッポラが登場。チミノ監督にオスカーを贈呈するという、皮肉な巡り合わせとなった。 映画の完成が遅れれば遅れるほど、嵩むのが、製作費である。当初の予算は1,200万ドル、当時の日本円にして約35億円だったが、最終的には3,100万ドル=約90億円まで膨らむこととなった。 コッポラは『地獄の…』のあまりにも難産ぶりに、“大失敗”そして“財政破綻”を覚悟するようになった。そして、次のような考えかたをするようになっていった。 「…甚大な大失敗の次に作る作品は、急いで手早くまとめよう。手堅く、成功が保証された、エンターテインメント色が強く、一般の人々の興味を引くものにしよう…」と。 具体的に思い浮かんだのが、ミュージカル・ロマンス。これが本作『ワン・フロム・ザ・ハート』のプロジェクトへと繋がっていく。 そしてコッポラは、いつしかそのプロジェクトが、やがて振りかかってくる筈の『地獄の…』の負債という、避けられぬ災厄から自分を救ってくれるに違いないという思い込みに捉われるようになる。後にコッポラはその時のことを、次のように述懐している。 「間違いなく私は狂っていたのである」 ここで、諸々の結果から先に記そう。『地獄の…』は、79年の「カンヌ映画祭」に未完成のまま出品され、コッポラに2度目の最高賞=パルム・ドールをもたらした。そしてその年の8月に公開されると、大方の予想を裏切って、最終的には莫大な製作費の回収に至ったのである。 コッポラに真の“地獄”をもたらしたのは、彼が“救い”になると考えた、『ワン・フロム・ザ・ハート』の方であった。 80年3月にクランクインし、81年の暮れに完成。82年2月にアメリカ公開に至った『ワン・フロム・ザ・ハート』の舞台は、現代のラスベガス。7月4日の独立記念日を翌日に控え、街は観光客でごった返している。 物語の主人公は、旅行会社に勤めるフラニー(演;テリー・ガー)と、郊外の小さな自動車解体工場を友人と共同で経営するハンク(演;フレデリック・フォレスト)の、もう若くはないカップル。同棲生活が5年目を迎えた2人は、倦怠期へと突入。お互いの想いがすれ違ったことから、大喧嘩となった。 そんなタイミングで、フラニーは伊達男のレイ(演;ラウル・ジュリア)と、ハンクは美しい踊り子のライラ(演;ナスターシャ・キンスキー)と出会う。そして共に、熱い一夜を過ごし、己のパートナーを裏切ってしまう。 先に我に返ったのは、ハンクの方だった。何とかフラニーを捜し出すが、その時彼女は、レイと旅に出ようとしていた。 果して2人の仲は、元の鞘に収まるのか…。 男心はトム・ウェイツ、女心はクリスタル・ゲイルという2人のシンガーのヴォーカルによって説明されながら、こうしたシンプルなストーリーが展開する。登場人物が歌って踊るのが一般的なミュージカルだとすれば、本作は“かげ歌ミュージカル”とでも言うべきか。 当初予定していた通り、低予算の軽いミュージカル・ロマンスとして仕上げれば、何も問題はなかった筈である。ではなぜ本作は、コッポラに大きな災厄をもたらしてしまったのだろうか? 間違いの第一歩は、前作『地獄の…』で、ロケ撮影の様々なトラブルを経験したことから、本作を完全にスタジオ内で撮ろうと考えたことだった。そこでコッポラは、撮影開始直前の1980年初頭に、670万ドル=約19億円を投じて、ハリウッドのスタジオを買収した。 4万4,000平方メートルの敷地内に、ステージが9つ。このステージにどんなセットを組んだかは、日本公開時に劇場で販売されたプログラムから引用する。 「ドラマの舞台になるラスベガスの街は、はじめにビデオカメラで撮影され、それをもとに、コッポラをオーナーとするゾエトロープ撮影所内に作られたセットで鮮やかに復元されている。建物も道路も樹木も、そして郊外の砂漠さえ復元されているのだが、この砂漠に女体の曲線を求めるあまり、本物の女性を砂に求めて撮影したというのだから、巨人コッポラの面目躍如である」 9つのステージに、巨大なラスベガスの街を作り上げたわけだが、よくよく考えてみれば、ハリケーンが襲ってくる、フィリピンの密林とは違う。実際のラスベガスに、ロケに行けば済む話なのである…。 何はともあれ、こうしたセットを舞台に、コッポラがどのような製作方法を取ろうとしたかを、ざっと紹介しよう。 まずは“エレクトリック・ストーリーボード”と称する、シナリオのビデオ映像化を行う。具体的には、全ショットを1枚ずつ、合計で数百枚の絵コンテを作成し、舞台となるラスベガスの実景スチール写真と合わせて、ビデオで撮影・編集を行う。 ここに効果音と全セリフを入れた、ラジオドラマのようなサウンド・テープをダビング。“エレクトリック・ストーリーボード”が出来上がる。 このビデオに収められたコンテに合わせて、俳優たちはアテレコの要領でリハーサルを行い、大体の動きを決めていく。 そして本番。ラスベガスのセットの中で、俳優たちはあらかじめ決められた通りの動きをし、これをフィルムで撮影する。同時に同じ映像をビデオで収録する。 コッポラは現場には姿を見せず、トラックを改造したビデオ調整室、通称“ウォー・ルーム=戦争部屋”に居て、TVモニターと睨めっこ。本番が終わると、次々とビデオ編集を行っていく。そしてフィルムの現像が上がったら、ビデオ編集したものを基に、ネガ編集を行っていくという算段であった…。 しかし実際は、実用段階になっていない新技術をそのまま使おうとしたことから、失敗続きになってしまった。ラスベガスを再現したセットに掛かった巨費と合わせて、コッポラ監督作品の製作費は、又もや嵩んでいった。 当初1,200万ドル=約35億円の予算だったのが、2,700万ドル=約78億円にまで跳ね上がった。ある意味『地獄の…』の二の舞であったが、前作と違ったのは、『ワン・フロム・ザ・ハート』は、劇場にまったくお客を呼ぶことが出来ず、コッポラはそのまま“破産”に至ってしまったことだ。 本作の劇場用プログラムには、次のような一節が書かれている。 「ゾエトロープ・スタジオある限り、映像魔術師フランシス・コッポラの活躍は続く。 逆もまた、真なり」 しかしゾエトロープ・スタジオは、本作によって瓦解。コッポラはこの後暫し、“雇われ仕事”で莫大な借金の返済に追われることとなったのである。■
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COLUMN/コラム2019.06.24
ハリウッド・レジェンドたちのターニング・ポイント 『栄光への脱出』
今から60年近く前に、70㎜超大作映画として華々しく製作・公開された、『栄光への脱出』。その物語は、第2次世界大戦終結から2年経った1947年、当時はイギリスの直轄統治領だった、東地中海に浮かぶキプロス島から始まる。 この島には難民キャンプが設けられており、3万人を超えるユダヤ人が収容されていた。彼ら彼女らは、ヨーロッパでナチス・ドイツのホロコーストを生き延びた後、戦後に聖地の復興を目指し、パレスチナへと移住しようとした人々。しかし周辺のアラブ諸国を刺激したくないイギリスに捕まり、キャンプへと送り込まれたのであった。 そんなキプロス島に、ユダヤ人地下組織のリーダー、アリ・ベン・カナン(演;ポール・ニューマン)が、潜入した。彼の計画は、キャンプの同胞2,800人を、エクソダス(脱出)号と名付けた貨物船で、パレスチナの地へと送り込もうというもの。 イギリス軍による出港阻止など紆余曲折を経ながらも、アリの作戦は国際世論も味方に付けて、見事に成功。そして2,800人は、パレスチナへと辿り着く。 しかしイギリス、そしてアラブを敵に回して、祖国の建国を目指すアリらの苦難の戦いは、この後更に激しさを増していくのであった…。 1958年に発表されたレオン・ユリスの小説を映画化し、その2年後=1960年に公開(日本では翌61年)された本作『栄光への脱出』。“イスラエル建国”という、20世紀の歴史的事件をヒロイックに描いて、世界的な大ヒットとなった。 ご存知の通り“イスラエル”という国家は、建国を巡る経緯やその後の歩みが、国際社会で常に物議を醸し続けている。それによって引き起こされた“パレスチナ問題”など、「親イスラエル」を強く打ち出した、アメリカのトランプ大統領の強硬な外交姿勢もあって、悪化の一途を辿っている感が強い。 そうした点から、間違っても「公平な描写とは言えない」本作の今日的意味を探るのも大変意義深いことではある。しかし本稿では、後にハリウッドのレジェンドとなる偉大な2人の映画人にとって、本作がどんな役割を果たしたかを紹介したいと思う。 レジェンドの1人目は、脚本を担当したダルトン・トランボ(1905~76)。1930年代後半より脚本家として活躍していたトランボだったが、戦後のハリウッドに吹き荒れた“赤狩り=マッカーシズム”の直撃を受ける。 47年にトランボは、ハリウッドの労働組合への共産主義の影響を調査していた「非米活動委員会」の聴聞会に呼び出された際に、証言を拒否。そのため実刑判決を受けて、禁固刑に服す。同時にハリウッドの“ブラックリスト”に載せられ、映画界から長らく追放されることとなった。 その後彼が書いた脚本を、友人のイアン・マクラレン・ハンター名義でクレジットした『ローマの休日』(53)、ロバート・リッチという偽名を用いて執筆した『黒い牡牛』(56)の2作が、アカデミー賞原案賞を受賞したものの、トランボの名は秘せられたまま。しかし彼が偽名で仕事しているという噂は徐々に広まり、カーク・ダグラスの依頼で59年に『スパルタカス』(60)の脚本を担当する頃には、「公然の秘密」となっていた。 そのタイミングで、トランボとは旧知の仲だった、オットー・プレミンジャー監督が59年の12月に、脚本のリライトを依頼してきた。それが本作、『栄光への脱出』である。本作の脚本はそれ以前に、原作者のレオン・ユリスともう1人の脚本家によって、何度も書き直しが行われていたのだが、映画化に適した仕上がりにならなかったのである。 翌60年の4月には製作に入る予定で、主要キャストとの契約も済ませていたため、プロデューサーも兼任するプレミンジャーは焦った。そこで以前から、切迫した状況での素早い仕事ぶりを高く評価していたトランボに、白羽の矢を立てたわけである。 本作の原作小説は、旧約聖書の時代に遡り、そこからホロコーストに至るまで、何世紀にも渡るユダヤ人の苦難の歴史を描く。そして最後にパレスチナへ戻って、イスラエルという近代国家の誕生に至るという筋立てであった。前任の2人は、この小説全体をスクリーンに移そうとして、失敗したのである。 トランボは原作にはあまりにも多くの物語が盛り込まれているため、このまま映画化するのは不可能であると判断。プレミンジャーにどの物語を映画にしたいのかと尋ねた。ウィーン出身のユダヤ人であるプレミンジャーから、「イスラエルの建国を描きたい」という答を得ると、その後は彼と密に連携しながら執筆を進め、明けて60年の1月半ばには、脚本を完成させた。 プレミンジャーは、こうしたトランボの功績に報いる意味も籠めて、サプライズを用意した。1月20日の「ニューヨーク・タイムズ」の一面で、『栄光への脱出』の脚本家に、ダルトン・トランボを起用した旨を公表したのである。同年秋に『スパルタカス』が公開された際に、トランボの名がクレジットされたのも、こうした流れを受けてのことである。 『スパルタカス』そして『栄光への脱出』は、腕利きの脚本家だったトランボを、正式に表舞台へとカムバックさせた記念碑的な作品と言える。そして“赤狩り”によってハリウッドにもたらされた“ブラックリスト”の時代も、遂に終わりを告げた。 本作が記念碑的な作品となった、ハリウッド・レジェンドの2人目。それは、主役のアリ・ベン・カナンを演じた、ポール・ニューマン(1925~2008)である。 アクターズ・スタジオ出身という出自もあって、銀幕デビュー時は「マーロン・ブランドの亜流」扱いされ、燻ぶっていたニューマン。しかし三十歳を過ぎて出演した、ロバート・ワイズ監督の『傷だらけの栄光』(56)で、実在のプロボクシング元世界チャンピオン、ロッキー・グラジアノを演じて高い評価を受け、一躍スターダムにのし上がった。 その後1950年代後半に、着実にキャリアを積み上げたニューマンが、60年代を迎えて、遂に“スーパースター”の地位を築く第一歩となったのが、架空の存在ではあるが、イスラエル建国のヒーローを演じた、『栄光への脱出』である。この作品は記録的な大ヒットとなって、ニューマンの出演作の中では長らく、TOPに位置する興収を稼ぎ出した。因みにこの記録を塗り替えたのは、アメリカン・ニューシネマの代表的な作品で、ロバート・レッドフォードと共演した、『明日に向って撃て!』(69)である。 父がハンガリー系ユダヤ人であるニューマンは、本作ロケ地のイスラエルに、クランク・イン数週間前に入って、その風土や国民の生い立ちを身をもって感じ取ろうとした。本作は、父方のユダヤの血のルーツを探るという意味でも、彼にとっては意義深い仕事となる筈だった。 そうした記念碑的作品であるにも拘らず、実は本作についてニューマンが後年語ることは、ほとんどなかった。あるインタビューで一言だけ、「寒々としたものだった」と素っ気なく述べたのみである。 なぜそうなったかと言えば、偏にオットー・プレミンジャー監督との“相性”。それまでに『帰らざる河』(54)『悲しみよこんにちは』(57)など数々のヒット作や秀作を手掛けてきたプレミンジャーだが、撮影現場では俳優に対する専制的な態度を取ることで知られ、「ろくでなしのファシスト」呼ばわりされるほど、悪名が高い監督であった。 そしてプロデューサーを兼ねた本作では、スケジュール通りに撮り上げるために、膨大な技術スタッフのチームを組織し、パノラマ的群衆シーンを動かすことばかりに集中。それまでにも増して、俳優の役作りに気を配ろうとはしなかった。 それに対しニューマンの演技は、アクターズ・スタジオ仕込み。演技の細部にまで深い関心を示してくれたり、準備に掛ける時間と空間を十分に提供してくれるような監督以外とは、なかなか良好な関係を築きにくい。 例を挙げるならば、ニューマンが最も敬愛した監督は、『ロイ・ビーン』(72)『マッキントッシュの男』(73)で組んだジョン・ヒューストン。それらの現場でのニューマンは、頻繁にヒューストンに話しかけに行って、様々な提案を行ったという。ニューマン曰く「とにかく彼(ヒューストン)はどんなときでも引き金を捜してるよ。名案を撃ち出す引き金だな。それを誰が引くかは関係ない。彼自身でもいいし、役者か、スクリプト・ガールだっていいわけだ。そこに連帯感というものが生まれてくるだろう」 本作撮影に当たって、ニューマンはロケ地到着後、プレミンジャーとの打合せで数頁に渡る提案を差し出した。するとプレミンジャーは、こう言ったという。 「非常に興味深い提案だ。君が監督する作品ならぜひ使いたまえ。しかし、この作品の監督を務める私がこれを使うことはないね」 本作関係者の証言では、このやり取りがあった後、ニューマンは要求されたことだけをするようになり、それ以上の努力をやめてしまったという…。 そんなこともあってだろう。本作の主人公アリ・ベン・カナンは、預言者モーゼに準えられるヒーローでありながらも、陰影に乏しく、その葛藤や煩悶が真に迫ってこないキャラクターになってしまっている。超大作として製作年度が近い『アラビアのロレンス』(62)などと比べると、人物描写が浅いことが、一目瞭然である。 そうした点も含めて、初公開当時は業界受けも評論家受けも決して良くはなかった本作だが、繰り返し記すように、大ヒットを記録した。プレミンジャーが個々の俳優の演技を蔑ろにしてまでこだわったスペクタクル感の強調や、ハリウッドを長年追われていたダルトン・トランボが脚本を手掛けたこともあってか、ユダヤ人たちの「自由への希求」が、ロマンスも交えてドラマチックに打ち出される仕上がりとなったことが、大衆の心を捉えたのであろうか。ニューマン演じる主人公も、薄っぺらさは否めないながら、実に格好良く描かれていることは、紛れもない事実である。 この作品の大ヒットは、“イスラエル”という国家の存在を、アメリカの世論が好意的に捉えるきっかけになったとも言われる。そうした意味でも、“映画史”的な語りしろが、意外に多い作品なのである。■ 『栄光への脱出』EXODUS © 1960 METRO-GOLDWYN-MAYER STUDIOS INC.. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2019.06.30
1999年のデヴィッド・クローネンバーグ。『イグジステンズ』
かつて“プリンス・オブ・ホラー”と異名を取った、デヴィッド・クローネンバーグ監督(1943年生まれ)。彼が本作『イグジステンズ』の着想を得たのは、イギリスの作家サルマン・ラシュディとの出会いであった。 ラシュディと言えば、1988年に発表した小説「悪魔の詩」が、イスラム教を冒涜しているとして、当時のイランの最高指導者ホメイニから“死刑宣告≒暗殺指令”を受けた人物。そのため彼は、イギリス警察の厳重なる保護下に置かれ、長きに渡って隠遁生活を送ることとなった。 この“死刑宣告”はラシュディ本人に対してだけでなく、「悪魔の詩」の発行に関わった者なども対象とされたため、イギリスやアメリカでは多くの書店が爆破され、「悪魔の詩」のイタリア語版やトルコ語版の翻訳者は襲撃を受けることとなった。また、この“宣告”に異議を唱えた、サウジアラビアとチュニジアの聖職者が銃殺されるという事件も起こっている。 遠く異国の話ばかりではなく、日本でも大事件が起こった。1991年7月、「悪魔の詩」の日本語訳を行った「筑波大学」助教授の中東・イスラム学者が、キャンパス内で刺殺体で発見されたのである。この衝撃的な殺人事件は犯人が逮捕されることなく、迷宮入りに至った。 クローネンバーグは95年に、そんな「悪魔の詩」の著者であるラシュディと、雑誌で対談。芸術家がその芸術ゆえに“死刑宣告”を受けるという状況に強い衝撃を受け、本作の構想を練り始めたという。 己の作品が、特定の社会的・政治的解釈の餌食になることを好まないクローネンバーグだが、実際は新作発表の度に様々な事象と紐づけられては、物議を醸してきた過去がある。ラシュディとの邂逅にインスパイアされ、物語を編み出すなど、「いかにもクローネンバーグらしい」エピソードである。 そしてその後、紆余曲折を経て完成に至った本作も、「いかにもクローネンバーグらしい」作品と言える。 近未来の世界の人々の娯楽。それは、脊髄にバイオポートという穴を開け、生体ケーブルを挿し込み、両生類の有精卵で作った“ゲームポッド”に直接つないでプレイする、ヴァーチャル・リアリティーゲームだった。 新作ゲーム“イグジステンズ”の発表イベントにも、多くのファンが集結。開発者である、天才ゲームデザイナーの女性アレグラ・ゲラー(演:ジェニファー・ジェイソン・リー)を、拍手をもって迎えた。 しかしその会場に、“反イグジステンズ主義者”を名乗るテロリストが闖入。「“イグジステンズ”に死を!魔女アレグラ・ゲラーに死を!」と唱えると、隠し持っていた奇妙な銃でゲラーを撃ち、彼女の肩に重傷を負わせる。 その場に居合わせたのが、警備員見習いの青年テッド・パイクル(演:ジュード・ロウ)。彼はアレグラを保護するべく、彼女を連れて会場から脱出し、逃走する。 アレグラは、襲撃された時に傷ついたオリジナルの“ゲームポッド”が正常かどうかを、確かめるようとする。そこで、脊髄に穴を開けることを怖れてゲームを毛嫌いしていたテッドを強引に巻き込み、“イグジステンズ”のプレイをスタートする。 ルールもゴールも分からないまま、ゲーム世界のキャラクターになったテッドは、自意識はあるものの、進行に必要なセリフは勝手に口をついて出てくる状態になる。その中で、同行するアレグラとセックスを欲し合ったり、殺人を犯したりしながらステージをクリアして行く。 やがて“イグジステンズ”をプレイし続ける2人の、現実と非現実の境界は、大きく揺らいでいくのだった…。 本作『イグジステンズ』は公開当時、「クローネンバーグの“原点回帰”」ということが、まず指摘された。本作が製作・公開された1999年(日本公開は翌2000年)の時点での、クローネンバーグのフィルモグラフィーを振り返れば、誰もが『ヴィデオドローム』(83)を想起する内容だったからである。 ここで日本に於けるクローネンバーグの初期監督作品の紹介のされ方をまとめる。劇場公開された初めての作品は、『ラビッド』(77)。ハードコアポルノ『グリーンドア』(72)のマリリン・チェンバースが主演ということもあって、78年の日本公開当時は、一部好事家以外には届かなかった印象が強い。 続いての日本公開作は、超能力者同士の対決を描いた、『スキャナーズ』(81)。特殊効果による“人体頭部爆発”シーンを、配給会社が売りとして押し出したのが功を奏し、大きな話題となった。 そして、『ヴィデオドローム』(83)である。この作品の日本公開は、アメリカやクローネンバーグの母国カナダから2年遅れての、85年。しかし熱心な映画ファンの間では、そのタイムラグの間、劇場のスクリーンに届くより前に、かなりの話題となっていた。 ちょうどビデオテープに収録された映画ソフトを家庭で楽しむことが、ようやく一般化し始めた頃だった。私の『ヴィデオドローム』初体験にして、即ちクローネンバーグ作品初体験も、友人宅でのビデオ鑑賞。確か、字幕もない輸入ビデオだった。 本物の拷問・殺人が映し出された謎の海賊番組「ヴィデオドローム」に、恋人の女性と共に強く惹かれてしまった、ケーブルTV局の社長マックス。その秘密を知ろうと動く内、恋人は行方知れずになり、陰謀に巻き込まれたマックスの現実と幻覚の境界は、大きく崩れていく…。 英語を解せたわけでもないので、こうした筋立てが当時完全にわかっていたとも思えない。仮に言語の壁をクリアしても、「難解」と評する声が高かった作品である。「この映画監督は、狂っているのではないか?」と言う向きさえあった。 しかし、わけがわからないながらも、生き物のように蠢くビデオテープ、男の腹に出来る女性器、肉体とTV画面の融合等々、クローネンバーグの“変態ぶり”が炸裂するギミックや特殊効果に、まずは圧倒された。男ばかり数人で酒を飲みながらの鑑賞で、自らもブラウン管に呑み込まれていく思いがしたものである。 作品の性格上、これはむしろスクリーンより、TV画面で体感するのに適した作品かも知れないと感じた。その頃映画ファンの口の端に上り始めた“カルト映画”が、正にそこにあった。 『ヴィデオドローム』に関してはクローネンバーグ本人が、カナダの文明評論家マーシャル・マクルーハン(1911~1980)のメディア論を下敷きにしていることを語っている。その言説は至極簡単に言えば、「メディアは身体の拡張である」ということ。つまりテレビやビデオも、人間の機能の拡張したものになりうるという主張だ。 クローネンバーグは『ヴィデオドローム』でそれを、グチャドロを織り交ぜて、彼なりに端的に(!?)描いたわけだが、マクルーハンの言説は今どきなら、テレビやビデオをネットに置き換えるとわかり易いだろう。例えばネット検索さえ出来れば、その個人にとって未知の物事や事象であっても、知識を取り繕うことが可能になるという次第だ。 そしてヴァーチャル・リアリティーゲームの世界を舞台にした本作『イグジステンズ』は、『ヴィデオドローム』の16年後に製作された、正にそのアップデート版と言えた。両生類の有精卵を培養したバイオテクノロジー製品である“メタフレッシュ・ゲームポッド”、小動物の骨と軟骨から作られた銃で、銃弾には人間の歯を利用する“グリッスル・ガン”等々、登場するギミックの“変態ぶり”も含めて、「いかにもクローネンバーグらしい」作品だったわけである。 しかしながら『ヴィデオ…』よりは、だいぶわかり易く作られた本作は、実は公開当時、少なからぬ“失望感”をもって迎えられた。『ヴィデオ…』の時は「時代の先を行っていた」ように思われたクローネンバーグが、「時代に追いつかれた」いや「追い抜かれた」ように映ったのである。 電脳社会を描いた、押井守監督の『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(95)が、96年にはアメリカではビルボード誌のビデオ週間売上げ1位となった。そしてその多大な影響を受けた、ウォシャウスキー兄弟(当時)の『マトリックス』が、「革新的なSF映画」として世界的な大ヒットを飛ばしたのは、本作『イグジステンズ』と同じ1999年だった。 本作の日本公開は、翌2000年のゴールデンウィーク。その直前には最新鋭のゲーム機として、「プレイステーション2」がリリースされている。 そうしたタイミング的な問題がまずある上、本作はわかり易く作られた分、『ヴィデオ…』の尖った感じも失われてしまっている。そんなこんなで当時のクローネンバーグの、「時代に追い抜かれた」感は半端なかったのである。 しかし本作の製作・公開から20年経った今となって、クローネンバーグの作品史を俯瞰してみると、見えてくることがある。『ヴィデオ…』で“カルト人気”を勝ち得たクローネンバーグは、その後ファンの多い『デッドゾーン』(83)や大ヒット作『ザ・フライ』(86)で、ポピュラーな人気をも得ることになる。続く作品群は、『戦慄の絆』(88)『裸のランチ』(91)『エム・バタフライ』(93)『クラッシュ』(96)と、ある意味“変態街道”まっしぐら。 そして21世紀を迎える直前に本作を手掛けるわけだが、映画作家としての自分がこれからどこに向かうのかを確認し、新たな道を切り開いていくためには、出世作とも言える『ヴィデオ…』の焼き直しという、「原点回帰」の必要があったのではないだろうか? 本作後、『スパイダー/少年は蜘蛛にキスをする』(02)の興行的失敗で破産寸前に追い込まれたクローネンバーグは、続いてヴィゴ・モーテンセン主演で、ギミックに頼らない生身の暴力を描いた『ヒストリー・オブ・バイオレンス』(05)『イースタン・プロミス』(07)を連続して放ち、絶賛をもって迎えられる。 私はこの2作に触れた際、「クローネンバーグみたいな監督でも、円熟するんだ~」と驚愕。そして彼が、「2人といない」映画監督であることを、再認識することに至った。 そうした意味でも本作『イグジステンズ』は、クローネンバーグが撮るべくして撮った作品であると、今は評価できる。製作・公開から20年を経たことで、製作当時の「追い抜かれた」感が逆に薄まっていることも、また事実である。■ 『イグジシテンズ』(C)1999 Screenventures XXIV Productions Ltd., an Alliance Atlantis company. And Existence Productions Limited.
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COLUMN/コラム2019.08.02
アルトマンとニューマンの共謀 『ビッグ・アメリカン』に於ける企て
本作『ビッグ・アメリカン』で、主演のポール・ニューマンが演じているのは、“バッファロー・ビル”。西部開拓史にその名を残す実在の人物で、セシル・B・デミル監督の『平原児』(1936)、ジョエル・マクリー主演の『西部の王者』(44)、ブロードウェイ・ミュージカルの映画化『アニーよ銃をとれ』(50)等々、黄金期のハリウッド製西部劇映画にも、度々登場してきた有名キャラクターである。 しかしながら世代によっては、その名を聞くと、『羊たちの沈黙』(1991)でテッド・レヴィンが演じた、猟奇連続殺人犯の方を先に思い浮かべてしまう向きも、決して少なくないであろう。この猟奇連続殺人犯は、「獲物の女性を捕らえて殺し、皮を剥ぐ」というその手口によって、“バッファロー・ビル”と名付けられた。 実在の“バッファロー・ビル”は、「バッファロー狩りの名手」として鳴らしたことからから、そう呼ばれるようになった男である。それが後々、「獲物の女性の皮を剥ぐ」殺人鬼のニックネームに冠せられるとは、まさか本人は、夢にも思わなかったに違いない。 それほどまでに高名な、“バッファロー・ビル”の本名は、ウィリアム・フレデリック・コーディ。アメリカ・メキシコ戦争が勃発した1846年生まれで、子どもの頃から乗馬と射撃が巧みであり、10代中盤には、馬を利用した速達便である、“ポニー・エクスプレス”の騎手として活躍したと言われる。 その後金鉱開発やインディアン討伐に関わり、南北戦争(1861~65)時には、北軍のスカウト=斥候に。 南北戦争が終結すると、ビルは先に挙げたように、バッファロー狩りの猟師となった。当時バッファローは、鉄道建設の邪魔ものであると同時に、労働者たちの貴重な食料。ビルは1年半の間に、何と4,000頭以上ものバッファローを仕留めたという。 そんな彼の勇名を高めたのは、本作ではバート・ランカスターが演じている、小説家ネッド・バントラインとの出会いだった。バントラインは、ビルの様々な経験談を盛り込んだ小説を書き、大ヒットとなる。 そしてビルは、「バッファロー狩りの名手」をはじめ、「ポニー・エクスプレスの花形」「インディアン討伐の勇者」などと謳われ、一躍「西部のヒーロー」となった。そんな経緯からわかる通り、ビルの前半生の「ヒーロー譚」については、バントラインによって盛られたところが多いのは、想像に難くない。 何はともかく、若くして名声を得た“バッファロー・ビル”。そんな彼の後半生=30代後半以降は、本作『ビッグ・アメリカン』で描かれる、「ワイルド・ウエスト・ショー」と共にあった。 「西部の荒野のリアルを見せる」という触れ込みの「ワイルド・ウエスト・ショー」をビルが思い付いたのは、バントラインの次の言葉だったという。 「東部へ、大平原やインディアンを運びたまえ」 1882年にネブラスカ州ノース・プラットで試演。翌83年にオマハで、正式に幕開けとなった。 内容的には、アニー・オークリーと、フランク・バトラーの夫婦(本作ではジェラルディン・チャップリンとジョン・コンシダインが演じる)による曲撃ちで幕を開け、続いて開拓者の生活、駅馬車の襲撃、第7騎兵隊の全滅、ロープの妙技などを披露していく。 座長の“バッファロー・ビル”の出番は、インディアンによる駅馬車襲撃のパート。ビルはそこに助けに駆けつける役として、颯爽と登場したという。 この「ワイルド・ウエスト・ショー」には、往年のガンマンであるワイルド・ビル・ヒコックやカラミティ・ジェーン、強盗団で西部を荒らした、元無法者のフランク・ジェームズやコール・ヤンガー、更には本作にも登場する通り、リトルビッグホーンの戦いで、カスター将軍率いる第7騎兵隊を全滅させた、スー族インディアンのシッティング・ブル等々、「西部の有名人」が出演。84年のシカゴ公演では1日4万人の観客を動員するなど、大いに人気を集めた。 86年には、ビルは240名のメンバーを率いてイギリスに渡り、ヴィクトリア女王の即位50年を記念する御前公演を実施。クライマックスの駅馬車襲撃では、ギリシャ、ベルギー、デンマークの各国王が乗客に扮し、イギリス皇太子が駅馬車台に座って、西部ムードを満喫したという。 更に89年には、フランス、スペイン、イタリアを巡演し、ローマ法王に拝謁。93年のシカゴ・ワールド・フェアでは、半年で600万人を動員。「ショー」は、全盛期を迎えた。 20世紀に入ると、その勢いは徐々に下火となっていったが、1913年に解散するまで、「ワイルド・ウエスト・ショー」は、30年の歴史を刻んだ。 「ショー」の解散に際しては、「私の胸は張り裂けるようだった」と記した、“バッファロー・ビル”。その4年後の1917年、70歳で生涯の幕を下ろした。 先に記した通り、相当に盛られていたことは間違いないが、“バッファロー・ビル”は、これだけドラマチックな人生を送ったことになっている。このような「西部のヒーロー」を取り上げて“映画化”する場合、かつてはアクションやロマンスを軸にした“娯楽映画”にするのが、王道であった。 しかし本作が製作・公開されたのは、1970年代中盤。アメリカ社会の欺瞞や虚飾を痛烈に暴く、“ニューシネマ”の潮流がギリギリ命脈を保っていた頃である。 そして監督はロバート・アルトマン、主演はポール・ニューマン。この時代にこの題材で、この監督にこの主演俳優である。真っ当な“英雄譚”などが、製作される筈がない。 ここに至るまでのアルトマンのキャリアで、ヒット作と言えば、『M★A★S★H マッシュ』(70)と『ナッシュビル』(75)。前者は朝鮮戦争を舞台にしながら、製作・公開時にアメリカが行っていた“大義なき戦い”=ベトナム戦争を、徹頭徹尾おちょくった内容である。後者も、カントリー&ウエスタンを扱った音楽映画を装いながら、アメリカという国家を批評的に描いた、野心作であった。 その他興行的には成功を収めたとは言えない、『BIRD★SHT バード★シット』(70)『ギャンブラー』(71)『ロング・グッドバイ』(73)といった、アルトマンの諸作を眺めれば、実在の「西部のヒーロー」などは、アメリカ開拓史のウラを暴くための道具立てに過ぎないに、決まっている。アルトマンはビルを、「捏造されたアメリカの英雄第1号」として描いた。 本作以前に、『ハスラー』(61)『動く標的』『暴力脱獄』(67) など、様々な“アンチ・ヒーロー”を十八番としてきたのが、主演のポール・ニューマン。彼が西部に実在した人物を演じるのは、『左きゝの拳銃』(58)のビリー・ザ・キッド、『明日に向って撃て!』(69)のブッチ・キャシディ、『ロイ・ビーン』(72)のタイトル・ロールに続いて、本作の“バッファロー・ビル”が4本目。それまでの3本と同様、いやそれまで以上に、本作では「西部」のレジェンドを、打ち壊しに掛かっている。 『ビッグ・アメリカン』に登場する“バッファロー・ビル”は、中身のないすぼらな嘘つきで、「作られた」神話に見合うようにと、背伸びをして生きているように描かれている。現実に“スーパースター”でありながら、虚飾に満ちたハリウッドから距離を置いたライフスタイルを取っていたニューマンにとっては、「願ったり叶ったり」と言える役どころであった。スターとしての存在感を意図的にへこませるようなこの役に関しては自分自身で、「ポール・ニューマンという映画スターを演じている」と、アルトマンに伝えたという。 そんなわけでアルトマン監督と主演のニューマンの想いは合致し、現場での息もぴったりに撮影は進んでいった。本作が公開される1976年は、アメリカが建国200年を迎える年。アルトマンとニューマンはその年の7月4日、正に200周年の記念日に本作を公開し、愛国的なお祭り騒ぎに、皮肉な一撃を加えることを目論んだ。 しかし彼らとは、想いをまったく異にする男が居た。プロデューサーのディノ・デ・ラウレンティスである。この頃のラウンレンティスは、見栄えばかりが仰々しい、『キングコング』(76)や『オルカ』(77)などの大作路線に走っていた頃。アルトマンの前作『ナッシュビル』(75)の大ヒットがきっかけとなり、本作に参加することになったのだが、撮影に当たっては、次のような注文を付けたという。 「心してアクションを満載にしてくださいよ。脚本を読んでもアクションがあまりない」 アルトマンはそれを受け入れるふりをして、もちろんやり過ごした。結局完成した映画を観て、ラウンレンティスは心底失望したという。 こうして、アルトマンとニューマンの思い通りの作品となった、『ビッグ・アメリカン』。世界三大映画祭のひとつ「第26回ベルリン国際映画祭」では金熊賞(グランプリ)を受賞するなど、高い評価を受けた。しかしアメリカ本国での批評家受けは芳しくなく、興行も「ポール・ニューマン史上最低」と、当時は言われるほどの不発に終わった。 因みに相性が抜群だったアルトマンとニューマンは、この3年後『クインテット』(79)という、近未来の氷河期を舞台にした作品で再びタッグを組む。『クインテット』は『ビッグ・アメリカン』以上に総スカンを食い、日本では遂に、劇場未公開に終わってしまった。 叛逆の映画人2人の、その性懲りのなさも、今となってはただただ素晴らしく思える。■
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COLUMN/コラム2019.08.13
傑作冒険小説の“映画化” 『鷲は舞いおりた』は、見てから読め!
「読んでから見るか 見てから読むか」 50代以上ならば、ほとんどの方が記憶しているであろう、有名なキャッチコピーである。 1970年代後半より、日本映画界に旋風を巻き起こした、「角川映画」の第2弾である、『人間の証明』(1977)公開に当たって、原作(森村誠一の長編推理小説)と映画両方を強力にプッシュする惹句として、テレビやラジオのCMなどで、当時大々的に流された。出版界から映画界に殴り込みを掛けた、プロデューサーの角川春樹お得意の“メディアミックス”戦略の一環だが、結果的に『人間の証明』は、小説も映画も大当たり!このキャッチコピー自体、流行語として巷を大いに席捲した。 このコピーが生み出される以前から、原作のある映画を鑑賞する場合に、「読んでから見るか 見てから読むか」は、映画ファンにとって、常に悩みのタネになってきたことだと言える。原作がベストセラーだったり文学賞を受賞しているなど、大きな評判になっている場合は、特にそうであろう。 第2次世界大戦下を舞台に、ドイツ空挺部隊によるイギリスのチャーチル首相誘拐作戦を描いた、本作『鷲は舞いおりた』の原作(日本での出版タイトルは、『鷲は舞い降りた』)は、イギリスを代表する冒険小説家ジャック・ヒギンズの代表作。1975年7月に英米で出版されるや、半年以上に渡ってベストセラー入りを続けた。 日本でも翌76年、翻訳されて出版。「日本冒険小説協会」のあの内藤陳会長が激賞したのをはじめ、後に専門誌の読者投票でも上位に食い込むなど、長年に渡って非常に人気の高い作品となっている。 これほど話題になり、尚且つ評価の高い作品故に、出版前のゲラ段階から“映画化”の申込みが殺到したというのも、頷ける。結局イギリスのプロダクション「ITC」の製作により、『荒野の七人』(60)『大脱走』(63)などでお馴染みの、アクション映画の名匠ジョン・スタージェスがメガフォンを取っての“映画化”となった。主要キャストは、マイケル・ケイン、ドナルド・サザーランド、ロバート・デュバルといった、当時脂ののった40代の男優たちで、渋いながらも豪華な顔触れ。製作も早々に進み、原作刊行から2年足らずの77年春、英米で公開されて、ヒットを記録している。 そして本作の日本公開は、同年の8月。件の『人間の証明』の公開には2カ月ほど先立つが、当時まさに、「読んでから見るか 見てから読むか」のホットな案件だったと言って、差し支えないだろう。 それから42年の歳月が流れた2019年の夏、これから「ザ・シネマ」で本作を初めて鑑賞しようという方には、私は躊躇なく言いたい。「『鷲は舞いおりた』は、読んでから見るな!見てから読め!!」である。原作本である「鷲は舞い降りた」が、「早川書房」による“文庫版”か“電子書籍版”で今でも入手が容易な状態であるからこそ、敢えて「見てから読む」ことを強く推奨する。 ではその理由を書き連ねるためにも、ここで映画のストーリーを紹介しよう。 1943年9月、ドイツ軍は、イタリアの山中に監禁されていたムッソリーニの救出作戦を決行!見事に成功し、気を良くしたヒトラー総統は、新たなミッションを下した。 それはナチスドイツにとって最大の敵の1人である、イギリスのチャーチル首相の誘拐作戦。実現不可能と思われたが、軍情報局のラードル大佐(演;ロバート・デュバル)の元にスパイから、イギリスの地方であるスタドリ―村で、チャーチルが極秘に静養するとの情報がもたらされ、作戦が現実味を帯び始める。 ラードルは、IRA=アイルランド共和国軍の活動家として反イギリス闘争を行い、現在はベルリンの大学で教鞭を取るリーアム・デブリン(演;ドナルド・サザーランド)を、現地に先乗り潜入する工作員にスカウト。しかしこの作戦に乗り気でない、上官のカナリス提督によって、作戦は中止の憂き目となる。 ところが、捨てる神あれば拾う神あり。と言うよりは、拾う“悪魔”が居た。チャーチル誘拐作戦は、ゲシュタポ=国家秘密警察のヒムラー長官によって、極秘裡に復活!ヒムラーは、ヒトラー総統の署名が入った作戦実行命令書をラードルに渡し、全権を委任した。 ラードルが作戦の実行部隊として白羽の矢を立てたのは、数々の武勲を持つシュタイナー中佐(演;マイケル・ケイン)が率いる空挺部隊。英雄として尊敬を集めていたシュタイナーだったが、ゲシュタポの残虐行為からユダヤ人の少女を救おうとしたことが“反逆行為”と見なされ、部下たちと共に自殺的な特攻任務に就かされていた。 ラードルが持ち掛けた誘拐作戦に対して当初懐疑的だったシュタイナー。しかし説得を受け入れて、部下たちと共に懲罰を解かれ、全員が元の階級に戻される。そしてシュタイナーの部隊は、勇躍作戦に挑むこととなった。 チャーチルがスタドリ―村に静養に訪れる日、シュタイナーたちは落下傘にてその近くの海岸に上陸。連合国の一員であるポーランド義勇軍を装い、先乗りしたデブリンらの手引きによって、スタドリ―村への潜入を果すのだが…。 映画『鷲は舞いおりた』は、今は失われてしまったジャンルとも言える “戦争娯楽アクション”“男性アクション”という範疇に於いて、上々の出来栄えの作品と言える。ナチスが現実に成功させた、ムッソリーニの救出作戦をドキュメンタリー映像で紹介するオープニングから、チャーチルの誘拐作戦という虚構へと踏み込んでいくまでのテンポの良さには、一気に引き込まれる。 俳優陣では、やはりマイケル・ケインのシュタイナー中佐が、格好良い。そしてロバート・デュバルが演じる、隻眼隻腕のラードル大佐の風格が、素晴らしい。冷酷無比なゲシュタポの長ヒムラーを、まるで『007』の“ブロフェルド”のように無表情で演じたドナルド・プレゼンスにも、唸らされる。 ミスキャストとの指摘も散見されるドナルド・サザーランドのデブリンに関しては、IRAの戦士という役どころからも、先にオファーされていたと言われる、リチャード・ハリスに演じて欲しかった気がしなくもないが…。 監督のジョン・スタージェスが特に得意としてきたジャンルは、先に挙げた『荒野の七人』をはじめ、『OK牧場の決斗』(57)『ガンヒルの決斗』(59)『墓石と決闘』(67)などの“西部劇”。本作はドイツ軍人を主人公にした“戦争映画”ながら、登場人物たちの心意気や振舞いに、“西部劇”的な興趣を多分に盛り込んでいる。デブリンが酒場でシュタイナーの部下たちに絡んだ際、窓ガラスを破って表に放り出されるシーンなど、正に端的なそれと言える。 1960年代末より長らく、「スランプ」と言われ続けたスタージェス。結果的に“遺作”となった本作で、「これが最後」と得意技を生かして本領を発揮したように、今となっては思えてくる。 物語の後半、村人たちに正体がバレたシュタイナーたちは、駐留していたアメリカ軍の部隊と一戦を交えることとなる。死を覚悟した部下たちによって脱出させられたシュタイナーは、チャーチルの命を狙って、独り敵陣深くに忍び込んでいくが…。 公開当時「戦争映画の快作」「巨匠スタージェス復活!」などという声も上がった本作だが、それは主に、原作を読まぬまま映画を鑑賞した者たちからの賞賛であった。実は原作を高く評価していた識者たちからは、本作は概して評判が悪い。「箸にも棒にもかからない駄作」などと、これ以上にない酷評までされている。 作戦の発端からシュタイナーがチャーチルに対峙するクライマックスまで、ほぼ原作に忠実な展開である“映画版”なのに、なぜこんな評価となったのであろうか?一つは、数百ページに及ぶ長編小説を、2時間強の映画にするに当たって、どうしても生じてしまうダイジェスト感であろうか。これは如何ともし難いことにも思えるが、スタドリ―村に先に潜入したデブリンが、村の娘と恋に落ちたことが原因となって、ある村人にその正体を見破られるくだりなど、「かなり雑」に省略されている部分も、少なくない。 また各登場人物に関して、原作との相違で大きく気に掛かる部分もある。父はドイツ陸軍少将だが、母はアメリカ人という出自のシュタイナー、戦闘が原因で隻眼隻腕となり、自らの余命が幾ばくも無いことを知るラードルをはじめ、主役から脇役まで、その人物の行動原理になっている設定が、きれいさっぱり取り払われているのである。結果的に主人公たちが、ヒトラーやヒムラーをまるで信用していないにも拘わらず、チャーチル誘拐作戦にのめり込んでいく背景が、些かボヤけてしまっている。 先に「ほぼ原作に忠実な展開」と書いたが、実は物語の幕開けは、全く違っている。原作冒頭は現代に始まり、作者のジャック・ヒギンズ本人が登場。彼は別件の調査に訪れたスタドリ村の教会墓地にて、隠匿されていた墓石を発見する。そこには、「1943年11月6日に戦死せるクルト・シュタイナ中佐とドイツ落下傘部隊員13名、ここに眠る」と刻まれていた。このことがきっかけとなって、ヒギンズが秘められた歴史を掘り起こして執筆したのが、「鷲は舞い降りた」という設定なのである。 このオープニングがあってこそ、「鷲は舞い降りた」は、伝奇ロマンの香りさえ漂わせる、冒険小説の傑作になったとも言える。 作者のヒギンズにとっても、「鷲は舞い降りた」は特別に思い入れのある作品なのであろう。後に登場人物たちのその後を詳しく補完した「鷲は舞い降りた〔完全版〕」が刊行され、更には91年、シュタイナーとデブリンが再び登場して新たなミッションに挑む続編、「鷲は飛び立った」をリリースしている。 このような原作の“映画化”であるが故に、もしも原作を先に読んでから映画を観ると、興を削がれる部分や物足りない部分が、否が応にも目に付くこととなる。しかしその逆に、映画を観た後に原作を読むと、チャーチル誘拐作戦のオペレーションや登場人物の心理や行動原理など、映画では省略されてしまって、語り切れていない部分を、良い意味で補完できるわけである。 だからこそ、私は断言する!『鷲は舞いおりた』は、「見てから読む」べき作品であると。■ © ITC Entertainment Group Limited 1976
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COLUMN/コラム2019.08.30
シーゲルとイーストウッド 伝説の師弟、最後のコンビ作は… 『アルカトラズからの脱出』
今や押しも押されぬ、アメリカ映画界の巨匠クリント・イーストウッドが、初めてオスカーを手にしたのは、『許されざる者』(1992)。主演男優賞、監督賞、そしてプロデューサーとして作品賞にノミネートされ、見事に監督賞と作品賞を勝ち取った。それまでも、彼の監督としての力量を高く評価する声はあったが、これが決定打になったと言える。 「最後の西部劇」と銘打たれた、『許されざる者』。この作品が2人の映画監督、セルジオ・レオーネ(1929~89)とドン・シーゲル(1912~91)に捧げられているのは、あまりにも有名な話である。 イーストウッドが主演としてレオーネと組んだのは、『荒野の用心棒』(64)『夕陽のガンマン』(65)『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』(66)の3作。シーゲルとは、『マンハッタン無宿』(68)『真昼の死闘』(70)『白い肌の異常な夜』(71)『ダーティハリー』(71)、そして本作『アルカトラズからの脱出』(79)の5作で、コンビを組んでいる。 もちろん、単に本数の問題ではない。レオーネは、それまでTVスターだっあたイーストウッドを、イタリア製西部劇=マカロニ・ウエスタンへと招いた。そして“ドル箱3部作”と呼ばれる件の作品群で演じさせた“名無しの男”役で、彼の“映画俳優”としての背骨を作ったと言える。イーストウッドにとってレオーネは、いわば「俳優としての師」といったところか。 それに対してシーゲルは、イーストウッドにとっては、「監督としての師」。 2人が出会ったのは、イーストウッドがアメリカ凱旋後、『奴らを高く吊るせ!』(68)に続いて主演した、『マンハッタン無宿』。ニューヨークで逮捕された逃亡犯を護送するために、アリゾナから出張した保安官補が主人公の、アクション映画である。この主人公像は後に、“ダーティハリー”=ハリー・キャラハン刑事の原型になったとも言われるが、当初の監督はシーゲルではなかった。予定されていた別の監督の都合が悪くなって、彼にバトンが渡されたのである。 イーストウッドは、監督がよほどの確信がない限り、あれこれ注文をつけてくるのを嫌うタイプの俳優。一方シーゲルは、監督である自分の言った通りに、俳優は演じろというスタイル。そんなわけで『マンハッタン無宿』の撮影現場でも、ちょっとした衝突があったと言われるが、イーストウッド曰く、「…最初は角を突き合わせた部分もあったが、最後には素晴らしい関係を築けたと思う」。シーゲルも、「われわれはひじょうにうまくやっていたと思う」と語っている。 兎にも角にも、お互いが“リスペクト”の念を抱ける相手だったということ。イーストウッドは、出世作となったTV西部劇シリーズ「ローハイド」(59~65)出演時から、“監督”業に興味を持っていた。そしてシーゲルこそ、その“導師”となる人物だったのである。シーゲルも喜んで、その役割を果たしたという。 イーストウッドは言う。「演出については、ほかの誰からよりもドン・シーゲルから多くを学んだと思う……彼は少ない予算で自分の思うものを撮ることができた。求めるものが撮れたときには、そうとわかった。何回も異なるアングルで撮ってみる必要などまったくなかったのだ」 シーゲルはそのキャリアで、短期間に低予算で作品を完成させるためのノウハウを確立していた。一旦照明を組んだら、そのまま撮れるショットは、全て1度に撮影してしまったり、リハーサルを十分にして、実際にカメラを回すのはほとんど1テイクで終わらせる。その演出術はイーストウッドを、これこそ確固たるコンセプトを持った監督による、真の映画撮影であると感動させた。 固い絆で結ばれたシーゲルとイーストウッドのコンビは、1968年から71年までの僅か3年ほどの間に、『マンハッタン無宿』を皮切りに、4本もの作品を次々と世に放った。その4本目こそ、イーストウッド最大の当たり役にして、シーゲルの生涯で50本に及びフィルモグラフィーに於いても、「最高」の1本と言える『ダーティハリー』である。 そしてその直前にイーストウッドは、監督デビューも果たしている。 イーストウッド自らが演じる、プレイボーイのローカル局ディスクジョッキーが、ストーカーの女性ファンに追い詰められていくサスペンス作品『恐怖のメロディ』(71)である。この作品の撮影現場のほとんどには、“導師”シーゲルの姿があった。彼は酒場のバーテンダー役で出演すると同時に、イーストウッド演出のバックアップが必要になった際に備えて、スタンバイしていたのである。 切っても切り離せない関係に思われた、イーストウッドとシーゲルだが、『ダーティハリー』以降、本作『アルカトラズからの脱出』で5度目のタッグを組むまでには、8年間のブランクが生じた。これには、幾つかの理由が考えられる。『ダーティハリー』の成功があまりにも大きすぎたため、その興奮が冷めやらぬ内に再び組むには、リスクが伴うと考えられたこと。また、イーストウッドとシーゲルの関係が濃密になり過ぎて、もうやるべきことは「やり尽くした」感が否めなかったのも、事実である。特に自らが“監督”をするようになり、自分の思うままに作品作りを進められるようになった、イーストウッドにとっては…。 『アルカトラズ…』はそのタイトル通り、サンフランシスコ湾に浮かぶ、悪名高き“アルカトラズ刑務所”が舞台。1962年に、鉄壁と言われたこの刑務所から脱獄を果した、フランク・モリスら3人の実話をベースにした物語である。 リチャード・タッグルが書いた脚本を、シーゲルが気に入って買い取り、イーストウッドの元へと持ち込んだ。イーストウッドも乗り気で、自らが主演してシーゲルが監督することを望んだ。しかしその後、8年間のブランクが、本作製作の経緯に影を落とす。 イーストウッドが、ラストシーンのカットを誰が撮るかという問題にこだわったことなどから、交渉が難航。話は一旦、白紙に戻ってしまったのである。 その頃=70年代後半のイーストウッドは、アクションスターとして円熟期。世界的な人気を誇り、日本を見ても、毎年その主演作が、“正月映画”として公開されるほどだった。更に監督作品も6本を数え、その手腕は自他ともに認めるものとなっていた。イーストウッドとシーゲルの力関係は、『ダーティハリー』の頃とは、逆転していたとも言える。 結局本作は、シーゲルがイーストウッドに頭を下げてオファーすることによって、企画が成立。しかしいざ撮影が始まってみると、2人は事あるごとに、撮影の主導権を巡って対立を繰り返すこととなった。そしてシーゲルは、ラストシーンを撮らずに、現場から去ったという。本作はイーストウッドとそのスタッフの手によって、完成に至ったのである。 シーゲルの構想では本作のラストは、刑務所の内部を映し、脱出不可能な牢獄の現実を示して終わるというもの。だがイーストウッドが選んだのは、主人公たちの勝利を描きながらも、その後の過酷な運命を示唆するという〆であった。 どちらがよりふさわしいラストだったのかは、もはや検証しようがない。しかしそうした意味で『アルカトラズからの脱出』は、シーゲル監督作と言うよりも、明らかにイーストウッドの色が濃い作品となっているのである。 本作は公開されると、批評家の絶賛を浴びながらも、アメリカでの興行は不満が残る結果となった。そんなこともあってイーストウッドは、今後もシーゲルと共同で映画製作を行っていくという契約を反故にした。 結果的に『アルカトラズからの脱出』は、伝説の師弟コンビの、最後の作品となった。シーゲルはその後、思ったように作品は撮れなくなり、80年代中盤以降は映画界から距離を置いた。一方イーストウッドは、出演作のほとんどで監督を兼ねるようになった。他者に任せる場合でも、『ダーティハリー5』(88)『ピンク・キャデラック』(89)のように、長年イーストウッド組のスタントマンだったバディ・ヴァン・ホーンを起用。間違っても、現場の主導権を奪われることがないような布陣を組んだ。 “師匠”であったシーゲルにとっては、正にキャリアの終わり近くに関わった、『アルカトラズからの脱出』。“弟子”であるイーストウッドのその後の歩みを見ると、最後のコンビ作は、正に“分かれ道”だったのである。■
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COLUMN/コラム2019.08.30
50歳のオードリー主演作は、 “妖精”への鎮魂歌⁉︎ 『華麗なる相続人』
「永遠の妖精」と呼ばれ、世界中の映画ファンを魅了した女優、オードリー・ヘップバーン(1929~93)。日本での人気も非常に高く、彼女のフルネームをもじった、「驚きコッペパン」などというダジャレを、多くの人々が日常的に口にしていたほどだ。 彼女が絶大なる人気を集めていたのは、『ローマの休日』(53)から『暗くなるまで待って』(67)まで、次々と名作・話題作に出演していた50~60年代に限った話ではない。『暗くなるまで…』以降は映画出演が途切れ、70年代には2本の作品にしか出演していないにも拘わらず、洋画雑誌の人気投票では、その時どきの旬の若手女優などと、常にTOPの座を競っていた。 この頃が、TVの「洋画劇場」の全盛時だったことも、大きかったと思われる。70年代後半に中坊だった我々は、『ローマの休日』『尼僧物語』(59)『マイフェアレディ』(64)『おしゃれ泥棒』(66)等々、池田昌子さんの吹替えで、ゴールデンタイムに頻繁にオンエアされるオードリー主演作にブラウン管で触れ、彼女の可憐な容姿と立ち居振る舞いに釘付けとなったものだ。 新作の製作・公開がなくとも…、いや失礼な言い方になるが、逆に新作のリリースがない分、“妖精”の魅力全開の頃の若い彼女こそが、我々にとって「リアルタイム」のオードリーであった。これこそ正に、一旦フィルムに焼き付けられた姿は年を取らない、“映画女優”のアドバンテージとも言える。 とはいえ、もちろん現実のオードリーは、齢を重ねる。彼女が40代後半になって、9年振りに銀幕復帰した『ロビンとマリアン』(76)が公開された際は、「オードリーも老けた」という声が上がると同時に、「年齢相応の輝きを放っている」という評価もされた。題材が、かの義賊ロビン・フッドと恋人マリアンの、「その後」の物語であったことや、相手役が、ジェームズ・ボンドを降りて老け役に挑むようになったショーン・コネリーだったことなども、プラスに作用したのであろう。人気投票の順位も、相変わらず高止まりであった。 そしてそれから更に3年、オードリーが50歳の時に公開されたのが、本作『華麗なる相続人』である。1979年という製作年を鑑みると、彼女の主演作として、正に万全の布陣で製作された作品だった。 原作は、シドニー・シェルダンが77年に発表した小説「血族」。シェルダンは70年代中盤から90年代まで、発表する作品のほとんどが“ベストセラー”となった、当代の流行作家であった。 多彩な人物が登場する彼の小説世界は、話の展開が早く先が読めないことが、人気を呼んでいた。ハリウッドで映画化された作品は、本作と『真夜中の向う側』(77)ぐらいだったが、TVドラマとしてシリーズ化された作品は、数多い。余談になるが、吉田栄作主演の「もう誰も愛さない」(91)など、90年代初頭に日本でブームになった、フジテレビの“ジェットコースタードラマ”は、明らかにシェルダンの小説及びアメリカでのそのドラマ化作品から、影響を受けていたものと思われる。 本作の監督を務めたのは、テレンス・ヤング。初期『007』シリーズの立役者として知られるヤングだが、オードリーとは浅からぬ縁がある。 第2次世界大戦中の大半を、オードリーはオランダのアルンヘルムで過ごし、終戦後はその郊外に在る傷病兵や退役軍人のための施設「王立廃兵院」で、ボランティアとして働いた。一方ヤングは、イギリス軍戦車部隊長として、アルンヘルム近郊で砲撃の指揮を執っており、その「廃兵院」で手当てをしてもらったこともあったという。 同じ場所で戦争を生き延びたという事実が、2人を結び付けて友情を育てたと言われる。それに加えて大きかったのは、ヤングが監督し、オードリーが長いブランクに入る直前に主演した、『暗くなるまで待って』という作品の成果であろう。 ブロードウェイでヒットした戯曲を映画化したこの作品で、オードリーは、悪漢に狙われる盲目の人妻を演じた。その役作りは高く評価され、アカデミー賞主演女優賞にノミネートされた。 ヤングも70年代前半に受けたインタビューで、「(自作の中で好きなのは)いま作っている仕事をのぞいては『暗くなるまで待って』でしょうか。あれは、大衆的に大ヒットした映画であると同時に、世界中の映画人たちから、ほめてもらえた作品でした…」と語っている。ウィリアム・ワイラー、アルフレッド・ヒッチコック、ジョン・フォード、デヴィッド・リーン、ジョン・フランケンハイマー、ジャン=ピエール・メルヴィル、フェデリコ・フェリーニ等々、錚々たる面々から絶賛され、ヤングにとっては、『007』の監督というイメージから脱け出すきっかけとなった作品だった。 そもそもオードリーが、そのフィルモグラフィーで複数の作品で組んだ監督は、4人しか居ない。ウィリアム・ワイラー、スタンリー・ドーネン、ビリー・ワイルダー、そしてテレンス・ヤング。彼女からヤングへの信頼が厚かったことが、『暗くなるまで…』から12年の歳月を経ての、『華麗なる相続人』での再タッグに繋がったわけである。 本作は実に国際色豊かな、オールスターキャストとなっている。イギリスからジェームズ・メイスン、フランスからモーリス・ロネとロミー・シュナイダー、ドイツからゲルト・フレーベ、ギリシャからイレーネ・パパス、エジプトからオマー・シャリフといった具合に。ある者はヤングのかつての監督作に出演した縁から、またある者は、オードリーと共演出来ることが決め手となって、この作品に参集した。 『華麗なる相続人』の物語は、大製薬会社の社長が登山中に、事故を装って殺害されたことから幕開けとなる。その巨額の財産を相続した、社長の一人娘エリザベスを演じるのが、オードリーである。 彼女にも殺人者の手が迫るわけだが、容疑者となるのが、件の国際的キャストが演じる、ヒロインの血縁者たち。それぞれが犯行の動機を持ち、そしてその内の誰かが、真犯人であるという趣向だ。 こうした物語が、まるで欧米デラックス・ツアーのようなロケ地を巡りながら展開する。アメリカ・ニューヨークから、ロンドン、パリ、ローマ、地中海のサルジニア島、スイスアルプスまで、世界各地で撮影が行われた。 加えて見ものなのが、オードリーが身に纏う、華麗なるジバンシィ・ファッション。『麗しのサブリナ』(54)『パリの恋人』(57)『ティファニーで朝食を』(61)などの作品で、オードリーとは切っても切り離せない関係であったファッションデザイナーのユベール・ド・ジバンシィが、この作品でも彼女のために8点のドレスを提供している。 さてこれだけお膳立てを揃えた、“妖精”オードリー待望の、3年振りの最新主演作。いざ公開の段になってみると、批評家、一般観客双方から、見事にそっぽを向かれる結果となった。 はっきり言えば、色々と“無理”があったのだ…。 先にも記したが、シドニー・シェルダンの小説は、そのほとんどが映画化はされていない。膨大なキャラクターが登場し入り組んだ人間関係を展開する、その作品世界は、TVの連続ドラマには適しても、2時間前後でまとめ上げなければならない映画には、基本的に不向きなのである。 それ故映画化に当たっては、脚本の段階で換骨奪胎を目指すぐらい、相当な割愛と整理、再構成が必要になる。しかし本作の場合、良く言えばシェルダン原作持ち前の“ジェットコースター”のような展開で見せるが、悪く言えば、かなり粗雑なダイジェストとなってしまっている。この辺りテレンス・ヤングの腕をもってしても、如何ともし難い脚本だったのだろうか? 何よりも一番の“無理”は、オードリー主演に合わせて改変された、ヒロインの年齢設定。劇中で、殺された父親の歳が、64歳だったことが示されるが、誰もがその時点で「!?」となる。実年齢50歳のオードリー演じるエリザベスは、一体何歳という設定なのか?そもそも原作では、ヒロインは20代半ばだったのに…。 当初はジャクリーン・ビセットなど、当時30代の人気女優を主演に想定して、進められていた企画だった。しかしオードリーの起用によって、ヒロインは「年齢不詳」になってしまったのだ。この辺り資料によっては、オードリーの主演を喜んだ原作者のシェルダンが、主人公の年齢を「35歳」に変えたとも記述されている。 「年齢不詳」にしても「35歳」にしても、何だかな~という思いは、否めない。今回本作を再見してみて、近年の吉永小百合主演作品を鑑賞する際に抱くものと、同じような感慨を抱いた。前作の『ロビンとマリアン』では、せっかく年齢相応の役どころで評価されたのに、このあたり“女優”の性(さが)とでも言うべきなのか? 因みに本作は、製作当時2度目の結婚生活が暗礁に乗り上げていたオードリーには、新たなロマンスをもたらしたとも言われている。劇中でオードリーの相手役を務めるベン・ギャザラとは、“不倫”の関係だったという。オードリーとギャザラは本作の後すぐに、ピーター・ボグダノヴィッチ監督の『ニューヨークの恋人たち』(81/日本未公開)で再共演している。 …というわけで、オードリーを主演に、当時の大ベストセラーを国際的オールスターキャストで映画化した、『華麗なる相続人』。その楽しみ方を最後に提示して、〆とした。 有名ロケ地や豪華キャストを捉えた、名手フレディ・フランシスの美しい撮影、ジバンシィがデザインした艶やかな衣装などを、エンニオ・モリコーネの流麗な音楽をBGMに、まずは堪能する。その上で作品の展開に関しては、家族や友人などと“ツッコミ”を入れながら観るのが、モアベターな鑑賞法と言えるだろう。 また何だかんだ言っても、世界の映画史に燦然と輝く、“妖精”の1979年の姿を目の当たりにするだけでも、上映時間の116分を割く価値は十分にあると、私は考える。■
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COLUMN/コラム2019.09.27
名優ダスティン・ホフマンを引き立てた、“美青年”。 トム・クルーズ20代の軌跡 『レインマン』
26歳のチャーリー・バビットは、ロサンゼルスに住む、中古車のディーラー。車を安く買い付けては、詐欺師顔負けの巧みなトークで、顧客に高く売り付けている。 そんな彼の元にある日、不仲で没交渉だった父の訃報が届いた。チャーリーは恋人のスザンナを連れ、シンシナティの実家を訪れるが、遺言により、父の財産300万㌦が「匿名の」人物に贈られたことを知り、ショックを受ける。 納得がいかないチャーリーは、亡父の友人で財産の管財人となった医師の病院を訪問。そこで、今までその存在を知らなかった、実の兄レイモンドと出会う。 他者との意思疎通が難しい“自閉症”のため、この病院に長らく預けられていたレイモンド。そしてチャーリーは、この兄こそが、父の遺産が贈られた当人だと知る。 チャーリーは遺産を手に入れようと、レイモンドを強引に連れ出す。“自閉症”だが、天才的な記憶力を持つ兄との旅は、トラブル続き。しかし当初は金目当てだったチャーリーに、忘れていた“大切なこと”を思い出させていく。 そして長く離れ離れだった兄弟の絆も、徐々に深まっていくかのように思われたが…。 1988年12月のアメリカ公開(日本公開は翌89年2月)と同時に、観客からも批評家からも圧倒的な支持をもって迎えられた、本作『レインマン』。「第61回アカデミー賞」では、作品、監督、脚本、そして主演男優の主要4部門を制した。 その結果からもわかる通り、“タイトルロール”である“レインマン”=兄のレイモンド役のダスティン・ホフマンの演技が、とにかく素晴らしい。アカデミー賞の演技部門は、伝統的に“障害者”を演じた俳優が有利というセオリーはあるものの、そのリアルな“自閉症”演技は、製作から30年余経った今日見ても、色褪せない「名演」である。 一方で今回初見の方などは、弟のチャーリーを演じた、20代中盤のトム・クルーズの「美青年」ぶりに、驚きを覚えるかも知れない。その演技も、賞賛に値する。父との確執が起因して、傲慢且つ偽悪的に振舞いながら、兄との旅の中で、持ち前の繊細さや優しさが滲み出てくる様など、確実に、ホフマンの演技を引き立てる役割を果たしている。 1962年生まれ、50代後半となった現在は、すっかりスタント要らずの“アクションスター”のイメージが強いトム。しかしこの頃の彼には、そんなイメージは、微塵もなかった…。 元々トムが注目されるようになったのは、『タップス』(81)『アウトサイダー』(83)など、青春映画での脇役。この頃は、80年代前半のハリウッドを席捲した、若手俳優の一団“ブラット・パック”末端の構成員のような見られ方もしていた。 しかし、初主演作『卒業白書』(83)がヒット。続いて『トップガン』(86)が、世界的なメガヒットとなったことで、若手の中では頭ひとつ抜けた存在になっていく。 更に高みを目指すトムが挑んだのは、今どきの言い方で言えば、“ハリウッド・レジェンド”たちとの共演だった。年上の大先輩の演技を間近で見ることによって、彼らの仕事っぷりを吸収しようというわけだ。 その最初の機会となったのは、1925年生まれ、トムより37歳年長であるスーパースター、ポール・ニューマンが主演する『ハスラー2』(86)。ニューマンが若き日に『ハスラー』(61)で演じたビリヤードの名手エディを、再び演じるという企画だった。 ニューマンと、監督を務めるマーティン・スコセッシの熱望を受けて、トムが演じることになったのは、才能はあるが傲慢なハスラーで、エディの弟子となる若者の役。若き日のエディ≒ニューマンを彷彿させるような役どころだが、当初は偉大なニューマンの邪魔になることを恐れ、トムは出演を躊躇したという。 しかしいざ撮影を控えてのミーティングに入ると、ニューマンとトムとの相性は、最高だった。役に必要なビリヤードの腕を磨きながら、リハーサルそして撮影を通じて、交流を深めていった2人。私生活で12歳の時に実父に去られているトムは、ニューマンを父親のように慕った。数年前に28歳だった長男を、麻薬の過剰摂取で亡くしているニューマンにとっても、トムは息子のように思える存在になっていった。 因みにスピード狂で、プロのレーサーとしても実績を残しているニューマンの影響を受けて、その後トムも、カーレースに夢中になる。これはカーチェイスシーンでもノー・スタントを通す、今日のトムの在り方に、繋がっているとも言える。 『ハスラー2』は、大ヒットを記録すると同時に、それまでに6度もアカデミー賞主演男優賞の候補になりながら賞を逃し続けてきたニューマンが、7度目の候補にして、初のオスカー像を手にする結果をもたらした。ニューマンはアカデミー賞の候補になった時点で、トムに電報を送ったという。 「もし、私が受賞したら、オスカー像は私のものでなく、我々のものだ。きみは、それだけの働きをした」 自らは助演男優賞の候補にもならなかったトムだが、その電報には感動の涙を流し、大切に額に入れ、ニューヨークのアパートの壁に飾ったという。 そしてニューマンに続き、トムが共演することになった“ハリウッド・レジェンド”が、1937年生まれでトムより25歳年長の、ダスティン・ホフマンだった。 『レインマン』でホフマンには、当初弟のチャーリー役が想定されていたという。しかし脚本を読んだホフマンが、兄のレイモンドを演じることを熱望したと言われる。 その上でホフマンがチャーリー役の候補として挙げたのは、当初はジャック・ニコルソンやビル・マーレー。こちらのキャストが実現していたら、かなり毛色の違った作品になったであろうが、最終的にはトムにオファーすることとなった。 実は映画界に入りたての頃、トムは友人のショーン・ペンと共に、ビバリーヒルズのホフマン邸の前に車を乗りつけて、呼び鈴を押してみろと、お互いをけしかけ合ったことがあった。結局2人とも怖気づいて、呼び鈴を鳴らすことはなかった。それから数年が経ち、トムは憧れていた大スターのお眼鏡にかない、その弟を演じることが決まったわけである。 しかし『レインマン』の製作は、様々な局面で難航した。まず“自閉症”の男が主役という題材に、製作費を出そうという映画会社がなかなか見つからなかった。 更には、監督交代劇が相次いだ。『ビバリーヒルズ・コップ』(84)や『ミッドナイト・ラン』(88)などのマーティン・ブレストや、あのスティーヴン・スピルバーグ、ホフマンとは『トッツィー』(82)で組んでいるシドニー・ポラックなどが、製作準備に入っては、様々な事情で去っていった。 このような局面にありながらも、ホフマンとトムは、精力的に本作のための取材を進めた。サンディエゴと東海岸の医療専門家に話を聞き、数十人の“自閉症”患者やその家族と面会。患者たちと一緒に、食事やボウリングをしたりなどの交流を行った。 因みにホフマンが、“自閉症”ながら天才的能力を持つ、レイモンド役のモデルとして参考にしたと言われるのが、キム・ピーク氏(1951~2009)。本作の中でレイモンドが、宿泊したホテルの電話帳を読み、そこに載った電話番号を全部記憶してしまったり、床にばら撒かれた楊枝の数を咄嗟に言い当てるエピソードなどが登場するが、そのモチーフとなったのは、キム氏が実際に持つ能力だった。 何はともかく、監督が決まらない中でも、この企画が頓挫しなかったのは、熱心なリサーチを続けた、主演2人の情熱があったからこそだと言われる。トムにとっては、「演技の虫」とも言えるホフマンの役作りを間近に見たことは、大いに刺激となった。 そうこうしている内にようやく、それまでに『ナチュラル』(84)や『グッドモーニング,ベトナム』(87)といったヒット作を手掛けてきたバリー・レヴィンソンが、『レインマン』のメガフォンを取ることが決まった。レヴィンソンは本作に関して、チャーリーとレイモンド以外のキャラクターの葛藤を排した、兄と弟の“ロードムービー”という要素を、より強めるという方針を打ち出した。 いざ撮影が始まると、「朝早く起きてエクササイズをして、撮影が終わってからはセリフの練習。寝る前にもう一度エクササイズ。そしてその合間にはとにかくリハーサルをやりたがる」というトムの姿勢に、ホフマンからの称賛がやまなかった。トムは撮影が終わった夜も、ひっきりなしにホフマンの部屋を訪れては、相談を持ち掛けたという。 本作ではホフマンは、基本的には“自閉症”患者として、喜怒哀楽を表すことがほとんどない。一方でそれを受けるトムは、様々な演技のバリエーションを見せないと、そのシーンがもたなくなる。先にも記したが、結果的にホフマンの「名演」も、トムの頑張りがあってこそ、引き立ったわけである。 ホフマンは『レインマン』で、『クレイマー、クレイマー』(79)以来、8年振り2度目のオスカーを手にすることになった。一方で今回もトムは、アカデミー賞の候補になることはなかった。 しかしニューマンに続く、ホフマンとの共演によって、トムのこの時点での“映画スター”としての方向性は、固まった。当然偉大な先輩たちのように、いずれ“アカデミー賞俳優”になることを、視野に入れていたと思われる。 『レインマン』に続いての出演作は、オリバー・ストーン監督の反戦映画『7月4日に生まれて』(89)。ベトナム戦争の戦傷で、車椅子生活を余儀なくされる、実在の帰還兵ロン・コーヴィックを演じたトムは、初めてアカデミー賞主演男優賞の候補となった。 “障害者”を演じると、アカデミー賞が近づくセオリー…。しかしこの年のオスカーは、『マイ・レフト・フット』で、脳性麻痺の青年を演じた、ダニエル・デイ=ルイスへと贈られた。 その後トムは、『ア・フュー・グッドメン』(92)で、ジャック・ニコルソンと共演。アカデミー賞の作品賞、助演男優賞、編集賞、音響賞にノミネートされたこの作品では、自らのノミネートは逃したが、キャメロン・クロウ監督の『ザ・エージェント』(96)では主演男優賞、ポール・トーマス・アンダーソン監督の『マグノリア』(99)では助演男優賞の、それぞれ候補となった。受賞はならずとも、いずれはオスカーを手にする俳優という評価は、この頃までは揺るがなかったように思う。 そんな中で、自ら製作・主演する『ミッション;インポッシブル』シリーズが、96年にスタート。その時はまだ、「へえ、トム・クルーズって、“アクション映画”にも出るんだ」という印象が強かった。 しかしそれから20数年経って、今や『ミッション…』は、トムの代名詞のようなシリーズに。と同時に彼は、すっかりオスカー像からは遠ざかった、“アクション馬鹿一代”的な存在のスターになっていた。 ここで比較したいのが、初のノミネート時のライバルで、トムを破ったダニエル・デイ=ルイス。彼はその後、靴職人になるための修行で2000年前後に俳優を休業するも、『ハスラー2』のスコセッシ監督に乞われて、『ギャング・オブ・ニューヨーク』(02)で復帰と同時に、いきなりオスカー候補に。 その後『マグノリア』のポール・トーマス・アンダーソン監督の『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』 (07)、スピルバーグ監督の『リンカーン』(12)で、2度目・3度目の主演男優賞を獲得。アカデミー賞史上で唯一人、主演男優賞を3度受賞するという偉業を成し遂げた。 アカデミー賞を度々獲るような俳優の方が、高級なキャリアというわけでは、決してない。しかしポール・ニューマンやダスティン・ホフマンといった名優に実地で学びながら、明らかにそちらの方向を目指していたであろうトムの歩みは、どこから大きく違っていったのであろうか? 世界各国でカルト宗教と目される「サイエントロジー」を、トムが熱心に信仰するようになったことと、無関係とは言えまい。一流の“映画スター”でありながらも、いつしかスキャンダラスな印象が拭えなくなっていったのが、こうした歩みを選ばせたのか? しかしそれはまた、別の話。稿を改めないと、とても語り尽くせないことである。■ 『レインマン』© 1988 METRO-GOLDWYN-MAYER STUDIOS INC.. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2019.10.01
その存在自体が、スキャンダラス…。 「アラン・ドロンの時代」の問題作 『ショック療法』
今年の8月、齢83となったアラン・ドロンが、脳卒中のため入院中というニュースが流れた。2年前=2017年にすでに引退を表明していたドロンだが、今年5月には「カンヌ国際映画祭」で、映画への長年の貢献を称えられて“名誉パルムドール”が贈られ、元気な姿を見せたばかり。 子どもの頃から親しんできたスターの老齢化やリタイアといった話題は、そのまま自分自身の、寄る年波を実感させられる。長く映画を観続けるというのは、そういうことでもある。 さて改めて、1964年生まれの筆者の少年期に、“二枚目”“美男子”と言えば、イコールでアラン・ドロンだった。「アラン・ドロン=二枚目」という認識が、その頃どれほど一般的だったかを説明するには、私が中1の時=1977年のヒットCMと歌謡曲を、例に挙げるのがわかり易い。 当時若手俳優として、人気上昇中だった水谷豊が出演した、「S&Bポテトチップ」のコメディ仕立てのCM。インタビュアーに「ライバルは?」と問われた水谷が、スター気取りで「アラン・ドロンかなぁ~?」と答えながら、コケてみせる。 その年にアイドル歌手としてデビューした榊原郁恵が、「日本レコード大賞」の新人賞を獲った際に披露したのは、「アル・パシーノ+(たす)アラン・ドロン<(より)あなた」。森雪之丞作詞・作曲によるこの楽曲、「アル・パシーノのまねなんかして ちょっとニヒルに 笑うけど…」と始まる。ハリウッドスターとして全盛期で、女性人気も高かったアル・パチーノ(当時はパシーノ表記が一般的だった)に続き、歌詞に登場するのが、フランスの大スターであったアラン・ドロン。 「アラン・ドロンのふりなんかして甘い言葉 ささやくけど…」 こんな風にアイドル歌謡に登場して、聴く者がすぐにイメージできるほど、「アラン・ドロン=二枚目」だったわけである。 因みに当時は、各民放が毎週ゴールデンタイムに劇場用映画を放送していた、TVの洋画劇場の全盛期。その頃確実に視聴率を取れる“四天王”と言われたのが、スティーブ・マックイーン、チャールズ・ブロンソン、ジュリアーノ・ジェンマ、そしてアラン・ドロンであった。 “四天王”と言いつつ、中には出演作がそれほど多くない者も居るし、放送権料の問題もある。つまるところ、最もコンスタントにオンエア出来て「数字が取れる」のが、アラン・ドロンの主演作品だった。 ドロンの出世作と言えば、もちろんルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』(1960)。この作品をはじめ、1960年代から70年代はじめまで、ドロンの主演作には、数多の名作・人気作が並ぶ。 イタリアの巨匠ルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』(60) 『山猫』(63)、フランスのスターとして大先輩の、ジャン・ギャバンと共演した、『地下室のメロディー』(63) 『シシリアン』(69)、ロベール・アンリコ監督による青春映画の金字塔『冒険者たち』(67)、フランス製フィルム・ノワールの最高峰『サムライ』(67)、未だに高いカルト人気を誇る『あの胸にもう一度』(68)、現代の視点からは、チャールズ・ブロンソンとのBL映画とも言える『さらば友よ』(68)、ドロンと共にフランスが誇る二大スターと称されたジャン=ポール・ベルモンドが共演の『ボルサリーノ』(70)等々。1964~66年に掛け、ハリウッド進出を試みて失敗に終わるという“蹉跌”はありながらも、豪勢なラインアップと言えよう。 しかし実は70年前後から、ドロン主演作には、ちょっと微妙な作品が増えてくる。プレイボーイとしても知られるドロンだが、かつての婚約者ロミー・シュナイダーと共演した、『太陽が知っている』(68)、当時の愛人ミレーユ・ダルクとの同棲生活を再現したような、『栗色のマッドレー』(70)、5年間の結婚生活の末69年に離婚した元妻ナタリー・ドロンと意味深に共演した、『もういちど愛して』(71)等々。ドロンの私生活を彷彿させる、スキャンダラスな作品群である。 これにはドロンが巻き込まれた、「マルコヴィッチ事件」の影響があるとも言われる。68年10月、ドロンのボディガードで近しい存在だった、ステファン・マルコヴィッチという男が、射殺体で発見された。ドロンと当時の妻ナタリーは、重要参考人として捜査当局に召喚され、特にドロンは52時間もの尋問を受けることとなった。 その最中に、様々な醜聞が噴出。ドロンとマフィアの癒着、ドロン夫妻とマルコヴィッチの“三角関係”、マルコヴィッチが経営していた上流階級相手の“社交場”に、大統領夫妻が常連客として出入りしていた等々である。結局真犯人は不明のまま、事件は迷宮入りとなったが、ドロンへの疑惑は残った。スターとして、致命的なダメージを負ってもおかしくなかったのである。 そこでドロンが打った手は、疑惑の渦中にあった自らを晒すかのように、本人を想起させるスキャンダラスな舞台設定の作品に、次々と出演することだった。そして事件に巻き込まれる以前の作品よりも、多くの観客動員を得ることに、成功したという。 ドロンの70年代前半、その他の出演作をざっと眺めれば、三船敏郎、ブロンソンと共演した『レッド・サン』(71)をはじめ、『暗殺者のメロディ』(72)『高校教師』(72)『リスボン特急』(72)『スコルピオ』(73)『燃えつきた納屋』(73)ビッグ・ガン』(73)『暗黒街のふたり』(73)『個人生活』(74)『愛人関係』(74)『ボルサリーノ2』(74)…。個々の作品の評価はさて置き、やはり粒揃いの60年代と比べると、見劣りするラインアップと言えよう。 そんな中に位置して、しかも飛び切りのスキャンダラスな内容と言えたのが、72年に製作されて本国フランスで公開、日本では73年夏の封切となった本作、『ショック療法』である。 この作品の実質的な主役は、かつて名作『若者のすべて』でドロンの相手役を務めた、アニー・ジラルド。それから12年経って本作では、日々の生活に疲れてしまったアラフォーのキャリアウーマン、エレーヌを演じている。 エレーヌは男友だちの薦めで、リフレッシュのため、海辺のサナトリウムに滞在することになった。そこの主な患者は、社会的な地位が高く、金銭的に余裕がある中高年の男女。そしてサナトリウムの医院長ドクター・デビレを演じるのが、アラン・ドロンである。 海遊びやサウナ、海藻療法などで十分リラックスした後、患者たちが受けるのが、デビレの処方による、“奇跡の注射”。正体不明の注射によって、患者たちは若さと生気を取り戻す。エレーヌもその例外ではなかった。 しかしサナトリウムの職員である、ポルトガルの青年たちが次々と倒れ、中には失踪する者も居て、エレーヌの疑念が募る。更にはここを彼女に紹介したゲイの男友だちが謎の死を遂げるに至って、エレーヌは真実の究明に乗り出す。 世にも魅力的なデビレとベッドを共にし、その隙を見て真相を探る彼女は、やがてサナトリウムの恐ろしい秘密を知る。そんな彼女に、デビレの魔の手が…。 「弱い者を、強い者が喰う」そんな“弱肉強食”思想が描かれているこの作品だが、実は最大のセールスポイントとなったのは、天下の二枚目ドロンのオールヌードであった。製作された72年は、「コスモポリタン」誌に、かのバート・レイノルズが、熊の毛皮に全裸で横たわったヌード写真が掲載されて、センセーショナルな話題になった年。それに負けじと…だったかはわからないが、時流に乗って本作では、患者たちの全裸での海遊びに誘われたドロンが、すべてを脱ぎ捨てて、フルチンで走るシーンがある。 筋肉質で均整の取れたドロンの裸体は、とても美しい。しかし当時の日本では、男性器をそのままスクリーンに映し出すことは、不可能。肝心の部分は、ボカしが掛かった状態でのお披露目となった。 そして劇場公開から4年経ち、水谷豊のCMや榊原郁恵の歌謡曲が話題になった77年の秋に、『ショック療法』はフジテレビの「ゴールデン洋画劇場」で初オンエア。その際も「売り」として押し出されたのは、ドロンのフルチン姿。もちろんボカし入りの…。 77年は、春先に最新主演作『友よ静かに死ね』(77)の公開キャンペーンで、ドロンが久々に来日したことも、大きな話題となっていた。日本のお茶の間的には、ドロン人気が相当に盛り上がった年であった。 しかし実のところで言えば、本国フランスでは、長年ライバルと目されたジャン=ポール・ベルモンドに、人気面で大きく水を開けられるようになっていた。また日本では70年代前半、「東宝東和」や「日本ヘラルド」などの洋画配給会社間で、ドロン主演作の争奪戦が繰り広げられて、上映権料が高騰。それに見合うほどの配給収入が上がらなくなってきていた。 トドメを刺したのが、札束で「東宝東和」「ヘラルド」を出し抜いた、「東映洋画」が配給した、『ル・ジタン』(75)『ブーメランのように』(76)2作の不振。続く「東宝東和」配給の『友よ静かに死ね』公開時のドロン来日は、そんな状況に危機感を抱いてのことだったと思われる。しかしお茶の間の盛り上がりの一方で、やはり興行の方は、思わしい成績を上げられなかった。 ちょうどドロン作品の主な買い手だった「東宝東和」は『キングコング』(76)など、「ヘラルド」は『カサンドラ・クロス』(76)といった“大作路線”に、買い付けの舵を切り始めた頃。「ヘラルド」配給の『チェイサー』(78)を最後に、日本ではドロン主演作が、鳴り物入りで公開される時代は終わったのである。 それから40年以上、いま80代のドロンの近況を耳にしながら、「アラン・ドロンの時代」に想いを馳せてみる。『ショック療法』のような作品は、その内容とはそぐわないが、私のように映画館とTVの洋画劇場の薫陶を受けて育った世代には、もはや甘酸っぱい思い出とも言える。■ 『ショック療法』© 1973 STUDIOCANAL - A.J. Films - Medusa Distribuzione S.r.l.
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COLUMN/コラム2019.11.01
『ジャッカルの日』と『ジャッカル』 24年の歳月を超えた隔たりとは…
ジュリアス・シーザーの昔より、人の世で、数多実行されてきた“暗殺劇”。映画の世界でも古くより、“暗殺”を題材とした作品は枚挙に暇がない。 そんな中でも1970年代前半の映画界は、暗い世情と相まってか、“暗殺映画ブーム”とでも言うべき様相を呈していた。 リチャード・バートン演じるトロツキーを、アラン・ドロン扮するソ連の刺客が狙う、『暗殺者のメロディ』(72)、ケネディ大統領暗殺の裏にある陰謀劇を描いた、『ダラスの熱い日』(73)、大統領候補暗殺の陰に暗躍する秘密組織の存在を、ウォーレン・ベイティのジャーナリストが暴こうとする、『パララックス・ビュー』(74)、ロッド・スタイガー演じる元IRAの闘士が、エリザベス女王らイギリスの要人を爆弾テロで狙う、『怒りの日』(75)等々。虚実を織り交ぜた、様々な“暗殺映画”が製作・公開され、それぞれに話題となった。 そんな70年代前半の“暗殺映画”群の中でも、映画史に燦然と輝く存在。それが、『ジャッカルの日』(73)である。 本作の原作は、イギリス人作家のフレデリック・フォーサイスが執筆。71年に出版された。 フォーサイスは「ロイター通信」の特派員として、62年から3年間パリに駐在し、当時のフランス大統領、シャルル・ドゴールの担当記者を務めた経歴を持つ。そして『ジャッカルの日』は、正にその駐在期間中の63年を舞台に、ドゴール大統領の暗殺計画を描く。 ナチス・ドイツからフランスを取り戻した英雄的軍人であるドゴールだが、59年の大統領就任後に打ち出した、植民地のアルジェリア独立を認める方針が、軍部の極右勢力などの不興を買う。そのため暗殺計画のターゲットとなり、合わせて6回も、その命を狙われることとなった。 原作及び映画の冒頭で描かれるのは、実際に起こった、ドゴールの車列を狙った“暗殺未遂事件”の顛末。その失敗によって追い詰められた極右勢力の幹部が、正体不明の暗殺者“ジャッカル”を雇い入れ、新たな“暗殺計画”を発動する運びとなる。 “ジャッカル”の登場からは、“フィクション”の世界へと突入するわけだが、現実と地続きになっている。そんなアクチュアルな題材を映画化するに当たっては、どんな描き方が最適なのか? そこで白羽の矢が立てられたのが、フレッド・ジンネマン監督だった。『地上より永遠に』(53)『わが命つきるとも』(67)で2度アカデミー賞監督賞を受賞している他に、『真昼の決闘』(52)『尼僧物語』(59)『ジュリア』(77)などを手掛けた巨匠である。 ジンネマンは若き日、『極北のナヌーク』(1922)『モアナ』(26)などで「ドキュメンタリーの父」と謳われた、ロバート・フラハティの下で修業を積んだ。そんな彼の映画作家としての特性は、師匠フラハティ譲りと言える、ドキュメンタリー風なリアリズム描写にあった。 『ジャッカルの日』に於けるジンネマン演出の狙いは、「観客を目撃者にする」というもの。“ジャッカル”による“暗殺計画”の進行と、それを追う者たちの動きを、客観的なドキュメンタリータッチで追っていき、それを“目撃”させるわけである。 例えば本作のクライマックスには、パリの凱旋門の下での「解放記念日」の式典が登場する。これは、街を交通止めして撮影したものに、実際の式典の際の記録フィルムを加えて、構成したという。 こうした手法で映画を撮るに当たって、キャストから排除したのが、“スター”である。観客が「スティーブ・マックイーンだ」「アラン・ドロンだ」などと認識してしまうような、ネームバリューのある俳優は、本作には至極邪魔な存在というわけだ。 凄腕の暗殺者“ジャッカル”役に抜擢されたのは、当時はほとんど無名の存在だった、イギリス人俳優のエドワード・フォックス。そして彼を追うパリ警察のルベル警視役には、フランス映画の脇役俳優だった、マイケル・ロンズデールが起用された。 付記すれば、クライマックスに登場するドゴール大統領のそっくりさんも、アドリアン・ケイラ=ルグランという、無名の俳優。一言もセリフを喋らせずに、ドゴールの仕草を正確に再現させている。 もちろん本作の世界的ヒットの後には、フォックスもロンズデールも、有名俳優の仲間入りとなった。フォックスは、戦争映画大作『遠すぎた橋』(77)日本公開の際には、ロバート・レッドフォードやダーク・ボガートらと共に、14大スターの1人に数えられ、ショーン・コネリーがジェームズ・ボンド役に復帰した、「007番外編」の『ネバーセイ・ネバーアゲイン』(83)では、M役を演じた。またロンズデールは、正調「OO7」の第11作『ムーンレイカー』(79)で、ロジャー・ムーアのボンドと戦う、メイン悪役を務めている。 さて“暗殺映画”のマスターピースとなった『ジャッカルの日』を、24年後の1997年に復活させようとした試みが、今回フィーチャーするもう1本の、『ジャッカル』である。とは言っても97年になって、その34年前=63年のフランス大統領暗殺計画を再び描くのは、観客へのアピールが足りないと、『ジャッカル』のプロデューサー兼監督である、マイケル・ケイトン=ジョーンズは考えたのであろう。 『ジャッカルの日』の成功には、フォーサイスの原作の展開に忠実でありながらも、映画的なまとめや省略を大胆に行った、ケネス・ロスの脚本の功績も大きい。新版の『ジャッカル』の原作としてクレジットされるのは、フォーサイスの小説ではなく、ケネス・ロスの脚本である。ジョーンズ監督は、オリジナル版の脚本から活かせるシチュエーションだけ抽出して、97年的な“暗殺映画”を作るという選択を行ったのである。 97年という時勢は、まずはオープニングタイトルで表現される。これはピアース・ブロスナンが5代目ジェームズ・ボンドに就いた「007」シリーズ第17作の『ゴールデンアイ』(95)でも取られていた手法だが、ソ連と東側陣営の崩壊によって、“冷戦”が終結したことがまずは説明され、新たなる“混乱”の時代に突入したことが、物語られる。 そして97年のモスクワ。闇の世界で台頭する、チェチェン・マフィアの根城に、「MVD=ロシア内務省」と「FBI=アメリカ連邦捜査局」の合同捜査チームが強制捜査を掛ける。その際に、マフィアのボスであるテレクの弟が、捜査員に射殺される。激高したデレクは復讐を誓い、正体不明の暗殺者“ジャッカル”を雇う。 “暗殺”のターゲットが、「FBI」の長官だと判明したことから、合同捜査チームは“ジャッカル”の追跡に乗り出す。しかし彼の顔を見たことがある者は、ほとんど存在しなかった。 “ジャッカル”を知る1人として、地下組織「IRA=アイルランド共和国軍」のスナイパーで、現在はアメリカ国内の刑務所に収監されている、デクランという男の存在が浮かび上がる。捜査チームは特別措置として、デクランをチームに加えるが、実は彼は、“ジャッカル”に個人的な恨みを抱いていた…。 オリジナルの『ジャッカルの日』に於ける“暗殺作戦”の発動と、それを阻止せんとする捜査陣の追跡は、「“大義”vs“大義”」の対決であった。それが新版の『ジャッカル』では、「“私怨”vs“私怨”」となってしまっている。 新旧両作とも、“ジャッカル”自体には、政治的な主義主張はなく、金目当ての“暗殺者”であることに変わりはない。“ジャッカル”の成功報酬は、オリジナル版が50万㌦だったのに対し、新版は7,000万㌦!それぞれに、このミッションを成功させた後は「2度と仕事が出来ない」ため、引退するに足る金額と説明されるが、製作年度で24年間、物語の設定的に34年間離れた『ジャッカル』両作の大きな違いは、この金額の差だけではない。 「“無名”vs“無名”」であったオリジナルのキャストに対して、新版の最大の売りとされたのは、「ブルース・ウィリス vs リチャード・ギア」! “ジャッカル”役のブルース・ウィリスは、お馴染みの『ダイ・ハード』シリーズ(88~ )でスターダムにのし上がった。『ジャッカル』の前後の主演作も、『パルプ・フィクション』(94)『12モンキーズ』(96)『フィフス・エレメント』(97)『アルマゲドン』(98)『シックス・センス』(99)等々、メガヒット作が目白押し。 対抗するは、デクラン役のリチャード・ギア。『愛と青春の旅立ち』(82)『プリティ・ウーマン』(90)という、そのキャリアでの2大ヒット作を軸に、日本でも高い人気を誇るスター俳優であった。 脇役にも、スターを配している。捜査チームのリーダーである、「FBI」の副長官役を演じたのは、黒人俳優として初めてアカデミー賞主演男優賞を受賞した、シドニー・ポワチエ。 こんなキャスティングからもわかる通り、とにかく新版『ジャッカル』は、オリジナルの逆張りに、敢えて走った感が強い。この姿勢は、謎の暗殺者である筈の“ジャッカル”の行動にも表れる。 オリジナル同様、「変装の名人」という設定である“ジャッカル”。しかしエドワード・フォックスの“ジャッカル”が、空港でわざわざ自分と背格好が似た外国人を見付けて、パスポートを掏り取るという手間を掛けたのに対し、ウィリスの“ジャッカル”は、空港でたまたま居合わせた、自分とは似ても似つかない体型の者のパスポートを盗み出す。そしていざその者に成りすましても、我々観客からは、「ブルース・ウィリスが変装している」ようにしか見えないのである。 偽造パスポートや暗殺用の銃は、外注して用意する。その際に、“プロ”の仕事を誠実にこなす者に対しては敬意を見せ、逆に強請りたかりを働こうとした輩はあの世に送る。その姿勢は、新旧“ジャッカル”とも同じであるが、ケリの付け方が、ウィリスの“ジャッカル”は派手過ぎる。捜査チームにわざわざ、暗殺の手口や追跡のためのヒントを残しているかのようである。 捜査チーム内から“暗殺者”側に情報を漏らしている内通者が居ることが暴かれるのも、“ジャッカル”の取った態度が引き金となる。全般的にウィリスの“ジャッカル”は、自信満々な態度に反比例するかのように、かなり迂闊なのである。 その迂闊さは、“暗殺計画”実行直前にも、見受けられる。自分の顔を知る女性の居所を知ると、わざわざ殺しに馳せ参じる。しかもその女性は逃がしてしまって、代わりに(?)待ち伏せていた捜査員3名を惨殺する。“暗殺”本番直前に、こんな危険を冒す必要がどこにあるのか?何度観ても、まったく理解できない(笑)。 しかもその際に、“暗殺”の的が、実は「FBI」の長官ではないことを仄めかしたため、追っ手のデクランに、真のターゲットを気付かれてしまう。はっきり言って超一流の“プロ”と言うには、あるまじき軽率な所業の連続なのである。 オリジナル版では、お互いにプロの“仕事人”同士としてのライバル関係にある、暗殺者“ジャッカル”と追跡者のルベル警視。2人が顔を合わすのは、最後の最後に訪れる、直接対決の1度だけ。 新版の“ジャッカル”とデクランは、途中で1回ご対面があり、その際は“ジャッカル”の銃撃から、デクランが逃れる。そしてクライマックスでは逆に、デクランが“ジャッカル”を追跡。駅の構内で銃撃戦が繰り広げられる。 …と記したが、実は新版の『ジャッカル』は、“ジャッカル”とデクラン…と言うよりも、ブルース・ウィリスとリチャード・ギアの2大スターが、最後の最後まで撮影現場で顔を合わせてないのでは?…という疑惑が拭えない。 その辺りどうなのかは、皆さんに実際ご覧いただいた後の判断にお任せしたい。■ 『ジャッカルの日』© 1973 Universal City Studios, Inc. All Rights Reserved. 『ジャッカル』©TOHO-TOWA