ザ・シネマ 松崎まこと
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COLUMN/コラム2019.02.08
“社会派”の名作『ノーマ・レイ』で覚醒したサリー・フィールド
この原稿を執筆してる時点では、2018年公開の作品を対象とする、「第91回アカデミー賞」は、ノミネートが発表されたばかり。私が今回特に注目するのは、主演・助演両部門合わせて7度目のノミネートになるグレン・クローズが、遂にオスカー像を手にする瞬間が来るのか?…である。 彼女をスクリーンで初めて観たのは、『ガープの世界』(1983)。1947年生まれのグレンは、30代中盤に出演したその作品で、初めて「アカデミー賞」にノミネート(助演女優賞候補)された。それ以来、実に35年以上の長きに渡って、第一線で活躍し続けていることになる。TVドラマでの演技に贈られる「エミー賞」、舞台の演技が対象の「トニー賞」は、それぞれ3回ずつ受賞している。そんな彼女が、銀幕での演技を対象とする「アカデミー賞」だけは、未だ掌中に収めていない。 この賞を得るには、もちろん演技の実力が必要だ。しかしそれだけでは、十分でない。時勢や対抗馬の巡り合わせなど、“運”も大きく作用するのである。 ではここで、クイズを一問。生存する女優(引退した者も含む)で、そんな「アカデミー賞」の、しかも「主演女優賞」を2回獲得した者の名を、すべて挙げよ。 昨年『スリー・ビルボード』(2017)で、『ファーゴ』(1996)以来のオスカーを獲得した、フランシス・マクドーマンド、主演賞2回に加え、助演賞も1回受賞しているメリル・ストリープ(ノミネートは主演・助演合わせて、何と21回!)あたりの名は、すぐに出てきそうだ。だがこの2人以外にも、主演部門を2回制した強者が、5人健在である。 それは、グレンダ・ジャクソン、ジェーン・フォンダ、ジョディ・フォスター、ヒラリー・スワンク、そして、本作『ノーマ・レイ』のヒロインを演じた、サリー・フィールドだ。 サリーが主演女優賞をゲットしたのは、1979年公開の本作、そして84年公開の『プレイス・イン・ザ・ハート』。1946年生まれということだから、47年生まれのグレン・クローズとは、ほぼ同年代。ところがグレンが、70代に至るまでオスカーを逃し続けてきたのに対し、サリーは30代の内に、2回獲得している。相当な“強運”の持ち主とも言える。 その後のサリーの歩みを追えば、『フォレスト・ガンプ/一期一会』(1994)で演じた、主人公の母役をご記憶の方も多いだろう。2000年代後半に主演したTVシリーズ「ブラザーズ&シスターズ」では、「エミー賞」も受賞。近年では、スピルバーグ監督の『リンカーン』(2012)で大統領夫人を演じて、「アカデミー賞」の助演女優賞候補になっている。 では“オスカー女優”になる前の、彼女のの歩みは、ご存じであろうか? ハイティーン時代、「ギジェットは15歳」「いたずら天使」といったTVシリーズで、大いに人気を博したというサリー。しかし私が、1970年代後半にスクリーンで彼女に邂逅した時の印象は、ただただ「バート・レイノルズの彼女」だった。 以前にも当コラムで取り上げたが、この頃のバート・レイノルズはTOPスターとして、アメリカで絶大なる人気を誇っていた。そんな彼と、カーアクションコメディの『トランザム7000』(1977)で、初共演したサリー。すでにバツイチで2人の子どもがいた彼女は、プレイボーイで鳴らしたバートと恋に落ちて、公私ともにパートナーとなった。そして『トランザム…』に続いて、『The End』(78 日本未公開)『グレート・スタントマン』(78)と、立て続けに彼の相手役を務めたのである。 当時はよく「美人とは決して言えない」などと書かれていた、童顔で小柄、ちんちくりんな印象のサリーは、毛むくじゃらのタフガイであるバートとの共演では、じゃじゃ馬的な魅力を発していた。とはいえ総体的には、「バートのペット」であり、「スーパースター主演作の付属品」的な印象もまた、免れ得なかった。 当時は、サリーの側からのバートへの依存心も、相当に強かったようだ。バートとの共演作が続いた後に出演した本作『ノーマ・レイ』では、「アカデミー賞」に先駆けて、「カンヌ映画祭」の主演女優賞も獲得しているのだが、その時の彼女のリアクションは、劇場公開時の本作プログラムによると、次のようなものであった。 「とてもうれしい。でも、バートと一緒の映画でなかったのは、淋しいわ。私にはバートと一緒に喜び合うことが、最高の幸せなの」 しかしサリーが『ノーマ・レイ』に単独で主演し、更にはオスカー女優になったことは、バートとの関係に、決して小さくはない変化を生じさせたのではないか?少なくとも『ノーマ・レイ』という作品には、そんなことを感じさせる“何か”がある。 本作でサリーが演じるのは、タイトルロールの“ノーマ・レイ”。アメリカ南部の田舎町に在る紡績工場で働く、貧しく無知で身持ちも悪い白人女性である。酒場の喧嘩で殺された元夫との間に生まれた男の子と、婚外子として生んだ女の子の、2人の子どもを持つ。 ろくな休憩所もないような、劣悪な環境の工場には、ノーマの父や母も勤めているが、2人とも長年の過酷な労働で、くたびれ果てている。それは同僚の工員たちも同じことだったが、労働者の権利を主張する術も知らず、工場側に搾取されるがままになっている。 そんな町に、ニューヨークからルーベン(演;ロン・リーブマン)という男がやって来る。彼はノーマらの勤める工場に、労働組合を作るために派遣されて来たのであった。 ふとしたことから、ルーベンと親しくなったノーマ。彼女は彼に触発されて、労働条件の改善を工場に求めるようになり、遂には組合を組織することを目指すようになる。 工場内で彼女が紡織機の上に乗り、厚紙に「UNION=組合」とクレヨンで書いて、頭上に掲げるシーンは、アメリカ映画史に残る名シーンとして、今でも度々紹介されている。また“ノーマ・レイ”は、“ヒーロー”という枠組みで、人気が高いキャラクターでもある。 労組オルグのルーベンと女工のノーマ。惹かれ合いながらも、決して男女の関係に陥らない2人の関係は、流れ者のガンマンと、その教えを受けて成長していく若者…といった構図の、例えば『シェーン』(1953)や『怒りの荒野』(1967)のような“西部劇”の、バリエーションにも見える。そこで“正義”に目覚めて貫くノーマは、なるほど確かに“ヒーロー”である。 1960年代から70年代に掛けて、アメリカ映画界に於ける“社会派”の代表的な存在だった、マーティン・リット監督の演出が素晴らしい。かつて“赤狩り”に巻き込まれ、やりたい仕事が出来ない状態に陥ったことがあるリット。本作では、労働者たちを押し潰そうとする経営側の姿勢を攻撃すると同時に、自らの権利を主張せずに自由を放棄する側の“罪”も、糾弾するかのようだ。 そんな作品『ノーマ・レイ』に主演したことで、女優サリー・フィールドは、大きな評価と勲章を得た。しかしそれこそが彼女が、バートから“自立”を図ることの、遠因になったのかも知れない。
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COLUMN/コラム2019.02.05
“デ・ニーロ・アプローチ”してない問題と、初監督作の関係『ブロンクス物語/愛につつまれた街』
ロバート・デ・ニーロ。 『ゴッドファーザーPARTⅡ』(1974)で、アカデミー賞助演男優賞、『レイジング・ブル』(80)で、同じく主演男優賞を受賞。他にも『タクシー・ドライバー』(76) 『ディア・ハンター』(78)『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(84)『恋に落ちて』(84)『アンタッチャブル』(87)『ミッドナイト・ラン』(88)等々、数々の名作・話題作に出演し、当代きっての“演技派”と謳われた。 彼の役作り、それは、演じる人物になり切るためには、体重の増減は当たり前。ある時はその人物が生まれ育ったと設定される土地に数か月暮らし、またある時はその人物の職業に就く等々、徹底したリサーチを行う。その手法は、“デ・ニーロ・アプローチ”と呼ばれ、世界中の俳優に影響を与えた。 我が国に於いては、かの松田優作が、“デ・ニーロ・アプローチ”に傾倒。代表作の1本『野獣死すべし』(80)では、減量の上に奥歯4本を抜いたのに飽きたらず、身長を低くするために足の切断まで考えたというエピソードがある。 現在のハリウッドで、“演技派”と呼ばれる存在の最右翼である、クリスチャン・ベール。アカデミー賞助演男優賞を受賞した『ザ・ファイター』(2010)はもちろん、『マシニスト』(04)から『バットマン』シリーズ(05~12)まで、その役作りの仕方は、正に典型的な“デ・ニーロ・アプローチ”と言えるだろう。 しかしある頃から、映画ファンの間では、こんな冗談というか軽口が、頻繁に飛び交うようになった。 「最近のデ・ニーロって、“デ・ニーロ・アプローチ”してないじゃん!」 ある頃…多分、1943年生まれのデ・ニーロが、アラフィフとなった1990年前後からだ。『ジャックナイフ』(89)『俺たちは天使じゃない』(89)『レナードの朝』(90)『アイリスへの手紙』(90)『グッドフェローズ』(90)『真実の瞬間』(91)『バックドラフト』(91)『ケープ・フィアー』(91)『ミストレス』(92)『ナイト・アンド・ザ・シティ』(92)『恋に落ちたら…』(93)『ボーイズ・ライフ』(93)と、70~80年代のデ・ニーロだったら考えられないようなペースで出演作が公開されていった。 こんなハイピッチで映画出演が続いたら、作品ごとに身を削って挑む必要がある筈の、“デ・ニーロ・アプローチ”など到底無理な話に思える。中には、『レナードの朝』や、名コンビであるマーティン・スコセッシ監督と久々に組んだ、『グッドフェローズ』などの秀作もあったが、その多くが凡庸な出来。デ・ニーロの起用自体が、「?」な作品も少なくなかった。 かつては、「五十年先になっても人々に語り継がれるような映画でなければ作りたいとは思わない」などと語った、デ・ニーロ。それなのに、なぜこんな事態が起こったかと言えば、この頃デ・ニーロには、「金を稼ぐ」必要が生じたからだと言われている。自らの映画製作プロダクションの実現に向けて、動いていたのである。 生粋のニューヨーカーである彼は、自宅近くに在る“トライベッカ”という地域に建物を購入。フィルム・センターと高級レストランを運営すると同時に、そこを拠点とした映画製作に乗り出した。 そしてデ・ニーロは、初めて監督作品を手掛けることとなる。それが本作『ブロンクス物語/愛につつまれた街』(93)である。 それでは、稀代の名優ロバート・デ・ニーロが、それまでに築いた評価を落としかねない振舞い=凡作への出演連発までして作り上げた本作は、一体どんな作品なのだろうか? 原作者は、俳優のチャズ・パルミンテリ。ニューヨークのブロンクスで生まれ育った、イタリア系アメリカ人の彼は、少年時代に目の前で男が撃たれるのを目撃しており、その経験をベースにして、ひとり芝居の戯曲を書き上げた。 主人公は、パルミンテリ本人が投影された、カロジェロという名の少年。彼は、実直で働き者のバス運転手の父ロレンツォと、カロジェロを我が子のように可愛がる、マフィアの幹部ソニーとの板挟みになって、悩みながら成長していく。 この戯曲は、パルミンテリ本人の主演で、1989年にロサンゼルスで初演。その後ニューヨークでも上演されて大評判となり、その映画化権の争奪戦が繰り広げられた。 結局パルミンテリ本人が、映画の脚本を書いて、マフィアのソニーを演じるなどの条件で、ユニヴァーサル・スタジオが契約。映画化に際してユニヴァーサルは、“スター”の出演が必要だと考えた。そこでアプローチを行った相手が、デ・ニーロだった。 デ・ニーロは、パルミンテリの舞台を見て、すぐに「映画にしたい」と考えて出演することを決めた。条件は、400万ドルの出演料に、歩合として興行収入から映画館への分け前を引いた後の額の10%。更には「報酬なし」で、監督まで引き受けることとなったのである。 主人公の父ロレンツォを演じながら、初監督に挑むことになったデ・ニーロ。「元々、監督業には興味があった。そしてこの話なら私には特別な事が出来ると思った。全ての意味で本作は、私の人生の集大成である」と語っている。 その意味は、本作を実際に鑑賞すると、すぐに理解できる。元々は原作者のパルミンテリ本人が投影されたキャラであったカロジェロに、ブロンクスではないが、やはりニューヨークで生まれ育ったデ・ニーロが、己の少年時代を見出していることが、あからさまにわかるからである。 カロジェロは、映画のオープニングは9歳、物語が進むと17歳の姿で登場する。それぞれ年齢に合わせた2人の少年が演じているが、その容貌がデ・ニーロ本人と重なる。特に17歳のカロジェロを演じたリロ・ブランカートは、驚くほどデ・ニーロにそっくりなのである。 リロは、「デ・ニーロに似た少年を探す」という命を受けたスタッフによって、海岸で遊んでいるところをスカウトされた。彼はスカウトの前で、デ・ニーロの物まねを演じてみせたという。父親役をデ・ニーロが演じているわけだから、似た少年をキャスティングするのは当たり前かもしれないが、それにしても…と思わせられる。 少年の成長譚に付き物というか、本作では、17歳のカロジェロの初恋も、キーポイントとなる。その相手となるのは、同じ高校に通うアフリカ系の少女。当時のニューヨークでは、イタリア系とアフリカ系はいがみ合っているように描かれており、それが悲劇を招く筋立てにもなるのだが、そこでつい思い起こしてしまうのが、デ・ニーロ本人の私生活。最初の結婚相手であるダイアン・アボットをはじめ、トゥーキー・スミス、ナオミ・キャンベルなど、デ・ニーロが浮き名を流したお相手は、軒並みブラック・ビューティなのである。 この作品は、完成直前に亡くなったロバート・デ・ニーロ・シニア、即ちデ・ニーロの父に捧げられている。画家だった父は、デ・ニーロが2歳の時に彼の母と別れ、ウチを出ている。 プライベートについて滅多に語ることがないデ・ニーロが、父についてどんな思いを抱いていたかは定かではない。しかし、父と子の物語の側面が強い本作で、息子に「才能を浪費することほど悲劇的なことはない」と語り、マフィアのソニーに憧れる息子に釘を刺す父ロレンツォを演じることによって、晩年は親密な仲だった実の父に対して、何かを訴えたかったのではないか?そんな推測も出来る。 デ・ニーロにとって、「人生の集大成」である本作は、製作過程でスケジュールに遅れが生じたことから、製作費が膨らんで、ユニヴァーサルが途中で手を引くこととなった。その原因となったのは、ロレンツォが運転する60年代型式のバスの故障など、撮影中に起こった幾つかのアクシデントにもあるが、やはり大きかったのが、デ・ニーロ演出。 原作者で本作の脚本とソニー役を担当したチャズ・パルミンテリ曰く、「監督する時も、演技をする時と同じやり方でアプローチするんだ。強迫観念と言えるほど細部にこだわった。決して満足しないんだ。完璧でなければならず、もし駄目だったら、何度も繰り返すことになるのさ」。そのためデ・ニーロは、本作のために新しいスポンサーを見付けた上で、自己資金も投入したという。 そして完成した『ブロンクス物語』は、手ぐすね引いて待ち構えていた批評家たちからの評判も上々で、監督ロバート・デ・ニーロの誕生は、多くの観客からも歓迎された。またギャングや殺人者が持ち役のように思われていた、演技者としてのデ・ニーロの新生面を開いたとも評価された。 当然監督としての次作も期待されたが、マット・デイモン主演で、CIAの秘史を暴いた監督第2作『グッド・シェパード』(2006)が完成するまでには、本作後13年の歳月を要した。これもまた、“完璧主義”のなせる業なのであろう。 そしてその間、出演作に関しては真逆に、「“デ・ニーロ・アプローチ”やってないじゃん」問題が、加速した感もある。 さて『グッド・シェパード』からも13年が経ち、70代も後半となった、我らがロバート・デ・ニーロ。そろそろ監督第3作を観たい気もする、昨今である。■ ©1993 Savoy Pictures, All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2019.02.26
アメリカ「唯一の敗戦」で生じた、“MIA問題”のリアルな顛末〜『地獄の7人』〜
本作『地獄の7人』には、映画の内容以上に強烈な思い出がある。 1983年に製作されたこの作品は、同年にアメリカで公開されて、日本公開は翌84年の6月だったから、多分その直前の話。ラジオ局のプレゼントでホール試写が当たった私は、友人と2人で出掛けた。 映画が終わった直後、ちょっと興奮した私たちがこの映画について語っていると、やはり客席に居た白人の男性から、こんな言葉を浴びせられた。 「ダガ、アナタタチハ、センソウノゲンジツヲ、シラナイ」 穏やかながら痛烈な口調に、私たちは吃驚して、暫し沈黙せざるを得なかった…。 ********** アメリカ合衆国の歴史上で、「最大級の汚点」とされる、“ベトナム戦争”。ソ連との冷戦時代、「ベトナムの共産化を阻止する」という名目で、アメリカは南ベトナム軍を支援し、1965年から本格的に軍事介入を行った。しかし、北ベトナム軍及び南ベトナム解放戦線との戦闘は長期化し、戦況は泥沼化の一途を辿っていく。 次第に劣勢に追い込まれたアメリカ軍は、73年に撤退を余儀なくされる。これを、アメリカの対外戦争に於ける、「唯一の敗戦」と見なす者も多い。 アメリカ兵の戦死者・行方不明者は、5万8,000人。国家の威信は大きく揺らぎ、若者たちは深く傷ついた…。 映画は「社会の鏡」である。アメリカ映画に於いて、“ベトナム戦争”がどのように描かれているかの変遷は、そのままアメリカ社会や世相の変化を表している。 西部劇の大スターにして、ハリウッドを代表するタカ派のジョン・ウェインが、1968年に監督・主演した『グリーン・ベレー』は、娯楽映画の衣を纏いながら、アメリカによるベトナムへの軍事介入の“大義”を高らかに謳い上げる、プロバガンダ作品だった。 しかしほぼ同時期、ベトナム戦争を一つのきっかけとして、それまでの権威が大きく崩れていく。そして、既成の権威に牙を向く、“アメリカン・ニューシネマ”の時代が訪れる。“ニューシネマ”の中では、例えば朝鮮戦争を舞台とする、ロバート・アルトマン監督の『M★A★S★H マッシュ』(70)や、ラルフ・ネルソン監督の西部劇『ソルジャー・ブルー』(70)のような作品の中で、“ベトナム戦争”を暗に批判した描写が見られるようになる。 “ニューシネマ”が終焉を迎えた後、1978年は、“ベトナム戦争”をテーマにした作品のエポックメーキングと言える年となった。アメリカの田舎町から戦場に向かった若者たちの運命を描く、マイケル・チミノ監督、ロバート・デ・ニーロ主演の『ディア・ハンター』、ジェーン・フォンダ扮する軍人の妻と、ジョン・ボイトが演じる半身不随となったベトナム帰還兵との愛を描く、ハル・アシュビー監督の『帰郷』。この2本が公開されたのだ。 『ディア・ハンター』はその年度のアカデミー賞で、作品賞、監督賞、助演男優賞、音響賞、編集賞の5部門、『帰郷』は、脚本賞、主演男優賞、主演女優賞の3部門を受賞した。1978年は、ベトナム戦争を題材とした“反戦映画”が、他を圧した年となったのである。 『ディア・ハンター』では、平穏な日常と戦場のギャップが強烈に描かれたが、ベトナムの戦場のリアルをスクリーンに映し出す試みは、その後も連綿と続いていく。『地獄の黙示録』(79)『プラトーン』(86)『フルメタル・ジャケット』(87)『カジュアリティーズ』(89)等々。 『帰郷』のように帰還兵を題材とした作品としては、オリバー・ストーン監督、トム・クルーズ主演の『7月4日に生まれて』(89)が、その後の代表的な作品として挙げられる。しかし一方で、そうした存在を主人公にした、B級テイストのアクション映画も、頻繁に製作されるようになる。 『ローリング・サンダー』(77)『ドッグ・ソルジャー』(78)『エクスタミネーター』(80)等々。その究極の形とも言えるのが、82年に公開された、シルベスター・スタローン主演の『ランボー』第1作である。 因みに、当初その先駆けのように言われたのが、76年公開の最後の“ニューシネマ”『タクシードライバー』。しかし、デ・ニーロが演じた主人公トラヴィスは、その誇大妄想狂ぶりや虚言癖から、彼が自称する「ベトナム帰りの元海兵隊員」というのは、「信じ難い」というのが、今日では有力な説になっている。 そして“戦争アクション”という形で、80年代の半ば近くから、次々と製作・公開されるようになるのが、いわゆる“MIAもの”である。「MIA」とは、Missing in Action=「戦闘後の行方不明兵士」を意味する言葉。 では“MIAもの”とは、一体どんな内容の作品なのか?それについては、『ランボー』に続いてのテッド・コチェフ監督作品であり、このジャンルの口火を切った本作、『地獄の7人』のストーリーを紹介するのが、手っ取り早いと思う。 主人公はジーン・ハックマン演じる、退役軍人のローズ大佐。10年前にベトナム戦線で行方不明=MIAとなったひとり息子の行方を捜し求めている。 アメリカ政府から何ら有力な情報がもたらされることがない中、独自の調査で、ベトナムの隣国ラオスに在る捕虜収容所の空中写真を入手。アメリカ兵の捕虜らしき影を、そこに見出す。 ローズは自分と同じく、息子がMIAとなっている富豪から資金援助を得て、自らがリーダーとなり、救出作戦を強行することを決意する。そのために彼は、息子の戦友たちを訪ね歩き、協力を求める。 ベトナムからの帰還後、実業家として成功を収めた者が居る一方で、戦場の悪夢にうなされ続ける者も居る。大佐を含めて、集まった者は、“七人”。実戦の勘を取り戻し、作戦を成功させるための猛訓練が数週間に渡って行われた後、チームは勇躍、タイのバンコクへと旅立つ。 ここからラオスを目指す算段だった“七人”だが、そこで思わぬ邪魔が入る。ベトナムやラオスとのトラブルを恐れ、密かに彼らの監視を続けていたCIAによって、用意した装備がすべて、没収されてしまったのである。 しかし彼らは諦めず、麻薬バイヤーの中国人の力を借りて、中古の銃火器を調達。陸路で目的地へと向かう。 ラオスとの国境で、まずは一戦を構えた一行。犠牲を出しながらも、国境警備の兵士を全滅させて、ラオスへの入国を果たした。 そして遂に、目的地の捕虜収容所に達し、アメリカ兵の捕虜4名の存在を確認。ラオスの大地を血に染める、地獄の救出作戦を開始する…。 本作の翌年以降に公開されて、むしろ本作よりも知名度が高い“MIAもの”『ランボー/怒りの脱出』(85)や、チャック・ノリス主演の『地獄のヒーロー』シリーズ(84~88)も、ベースとなる展開はほぼ同じ。主人公は正規の外交交渉を飛び越え、アメリカ兵捕虜が囚われている収容所に乗り込んで救出作戦を展開。殺戮と破壊の限りを尽くす。 では80年代、なぜこうした“MIAもの”が数多く製作・公開されたのか?大きな理由の一つに挙げられるのが、1981年にロナルド・レーガンが、アメリカ大統領に就任したことである。 俳優出身で、“グレート・コミュニケーター=偉大なる伝達者”の異名を取ったレーガン大統領。ソ連など共産陣営との対決姿勢を強め、2期8年の任期=即ち80年代のほとんどに渡って、「強いアメリカ」の復活を鼓舞した。まるで、ベトナム戦争の「敗戦」という、悪夢を吹き飛ばすかのように。 そこに呼応するかのように製作されたのが、“MIAもの”だった。アメリカ国内には以前から、ベトナム領内には戦争捕虜が残されているとの見方が根強くあったが、強硬なタカ派的な姿勢が強いレーガン政権の下では、自国民を取り戻すためには、「実力行使も辞すべきではない」という考え方が、自然と強まったわけである。 レーガン政権誕生直前、中東のイランでイスラム革命が起こり、1979年から81年に掛けて、在イラン・アメリカ大使館の外交官たちが人質に取られるという事件があったことも、“MIAもの”の製作を、後押しした。まるで、アメリカ国民の間に溜まった、大きなストレスを晴らすかのように。 では“MIA”の現実は、どのようなものだったのか?果してベトナムやその周辺に、囚われのアメリカ兵は居たのであろうか? ベトナム戦争はアメリカ軍撤退の2年後、1975年のサイゴン陥落で終結。その後アメリカとベトナムが、“国交正常化”を目指した交渉を始めるまで、10年以上の歳月を要した。 87年に両国は、“MIA”調査の進展とベトナムへの人道援助の開始で合意。91年には協力促進のため、アメリカ側の常設事務所が、ベトナムのハノイに設けられた。 その後、両国の国交は95年に正常化されるが、ベトナム側はその前後=91年から2019年までの28年間に、972体に及ぶアメリカ兵の遺骨を発見・発掘。アメリカへの返還を果たしている。更には、いまだ不明者として登録されているアメリカ兵1,597人の捜索に、毎年100億円以上の予算を注ぎ込んでいる。 この事実は即ち、少なくともベトナム国内には、ジーン・ハックマンやスタローン、チャック・ノリスが乗り込んで、武力で奪還するような捕虜は存在しなかったということを表す。“MIAもの”はその前提自体が、映画上での創作に過ぎなかったわけである。 そもそもアメリカ側の戦死者・行方不明者5万8,000人に対し、国土が泥沼の戦場と化したベトナム側は、民間人を含めて300万人が犠牲となっている。そしてその内の30万人が、いまだに行方不明のままだ。 遥か東南アジアの異国で行方不明になった者を案じて、肉親や友人がその身を救おうとするドラマに、アメリカの観客が快哉を叫んだ理由は理解できる。一概に戦死者や行方不明者の数を比較することにも、大きな意味があるとは思えない。 しかし焦土と化した地に、かつての“侵略者”側が再び乗り込んで来て、軍事作戦を慣行。数名の生存者を救うために、何十名・何百名という罪もない兵士を血祭りに上げる展開には、正直ついていけない部分を感じる。 84年の初夏、『地獄の7人』の試写に赴いた私は、同行の友人と共にその部分に大いに引っ掛かり、鑑賞直後には些かエキサイトして、この映画について批判を述べ合ったのである。そこに冷え水を浴びせるかのような、白人男性の一声。 「ダガ、アナタタチハ、センソウノゲンジツヲ、シラナイ」 彼がアメリカ人だったかどうかもわからないが、ベトナムからの帰還兵であってもおかしくない年代ではあった。しかし今となっては、日本人の少年2人に、何であんな声を掛けてきたのか、その心情は想像するより他にない。◼︎ TM, ® & © 2019 by Paramount Pictures. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2019.03.04
チリを舞台にした小説が、“伝説”のイタリア映画になるまで〜『イル・ポスティーノ』〜
「友である故マッシモに捧げる」 本作『イル・ポスティーノ』の終幕、エンドロール前にこのようなクレジットが挿入される。マイケル・ラドフォード監督が、本作の主演男優にして共同で脚色を手掛けた、マッシモ・トロイージに捧げた献辞である。 そしてこの簡潔な献辞こそが、本作を“伝説”へと、昇華させたとも言える…。 『イル・ポスティーノ』は、1994年に撮影され、その年の「ヴェネチア国際映画祭」オープニングを飾った後、製作国イタリアでヒット。翌95年にはアメリカでも公開となり、大きな話題となった。 その年度の「アカデミー賞」では、作品賞、監督賞、主演男優賞、脚色賞、オリジナル音楽賞の5部門にノミネートされるという、外国作品としては異例の高評価を獲得。結果的にルイス・バカロフのオリジナル音楽に、オスカーが贈られた。 そして96年5月に、日本公開。我が国でも、多くのファンを得た作品である。 イタリア南部ナポリの小さな島が舞台の本作の主人公は、30歳の青年マリオ。漁師の父親の後を継ぐ気もなく、今時で言えば“ニート”のような生活を送っている。 彼の暮らしを大きく変えたのは、高名な詩人パブロ・ネルーダとの出会い。ネルーダはその政治的な姿勢のために母国を追われたが、支援者の尽力で、妻マティルデと共に、この島に居を構えることとなったのだ。 ネルーダの元には、世界中から山のようなハガキや封書が届く。そのため、局長1人で運営されている島の郵便局では、人手が足りなくなり、彼の元に郵便物を運ぶ“配達員”を雇い入れる必要が生じた。 自前の自転車を使用するという条件も合って、マリオは首尾よく、その仕事を手に入れ、毎日ネルーダ邸に通うようになる。当初は郵便を届けては、幾ばくかのチップを受け取るだけの関係だったが、マリオがネルーダの著書を手に入れ、詩について質問をしたことがきっかけとなり、2人は徐々に親しい間柄になっていく。 そんな時マリオは、酒場に勤める美女ベアトリーチェに一目惚れ。恋の成就のため、詩人に協力を求めるのだが…。 アントニオ・スカルメタという、チリの小説家の作品を原作とする本作は、ベースとなる展開は原作に基づいているが、映画化に当たって大きく改変した箇所がある。一つは、原作では1960年代後半から70年代前半に掛けてのチリだった舞台を、1950年代初頭のイタリア・ナポリの小さな島に移したこと。そして原作では17歳の少年だったマリオを、30歳の青年に変えたこと。 映画化は、イタリアの監督・俳優であるマッシモ・トロイージが、原作に惚れ込んだことに始まる。彼は友人のイギリス人監督、マイケル・ラドフォードに協力を頼み、2人で映画化を進めることとなった。 1953年生まれのトロイージは、撮影時には40歳を過ぎており、さすがに17歳のマリオを演じるのは、無理。そのため、マリオの年齢は、30歳ということになった。 しかし、フランスの名優フィリップ・ノワレが演じたパブロ・ネルーダは、チリ出身の実在の人物。しかも“ノーベル文学賞”を受賞するなど、世界的に知られた存在である。 物語が展開する、時代背景や場所を移すことが可能だったのは、ネルーダが歩んだ軌跡にある。詩人であると同時に、外交官で共産党員の政治家であったネルーダは、時のチリ政府に睨まれたため、1949年2月に母国を脱出。以降、3年半に及ぶ亡命生活を余儀なくされる。 逮捕状が取り下げられ、彼がチリに帰るのは、52年8月のこと。実はその前の51年頃に、彼が仮の住まいとして身を寄せたのが、ナポリ湾に浮かぶカプリ島だったのである。 こうして、“チリ”の作家が書いた小説の舞台を“ナポリ”に移して、“イギリス人”が監督する“イタリア映画”が作られることになったわけである。 本作の魅力は、繊細ではあるが、無知な怠け者でもあったマリオが、ネルーダと出会い、“詩”の素晴らしさに目覚め、同時に“恋”を知り、成長していくところにある。共産主義者のネルーダの影響を受けて、“労働者”としての自覚が生まれたことが、彼に思わぬ悲劇をもたらしてもしまうのだが…。 そんなマリオを演じたのが、マッシモ・トロイージ。映画化に取り掛かった時、トロイージの身体は重大な疾患を抱えていた。医者からは即時の心臓移植を勧められていたが、彼は映画製作を優先した。 「映画は僕の生命。僕が新しい心臓を持つ前に、古い心臓をこの作品にあげるんだ」と語っていたというトロイージだったが、やはり無理は利かない。ほぼ出ずっぱりにもかかわらず、彼の身体は1日2時間しか撮影に耐えられなかった。 そうして、日々衰弱していくトロイージに接して、ラドフォード監督は1日の撮影が終わる度に、「明日はあるのだろうか?」と心配したという。そんなトロイージを支えたのは、『イル・ポスティーノ』に掛けた、こんな熱い想い。 「僕らは、息子たちが自慢できるような映画をつくろうとしているんだ」 そして、4か月に及ぶ撮影期間が終わる、クランクアップの瞬間、トロイージはラドフォードに言った。 「ごめんよ、僕は君に全部をあげられなかった。この次は全部あげるからね」 ラドフォードは、思わず涙したという。 …撮影が終わって12時間後、トロイージは、心臓発作を起こして、帰らぬ人となった。それ故の献辞が、「友である故マッシモに捧げる」なのである。 さてここで、原作及び実在のパブロ・ネルーダについて触れたい。原作の舞台は、1960年代後半から70年代前半のチリということは述べたが、それはそのまま現実のチリの時勢とネルーダの運命に重ね合わせられている。 原作でのネルーダは、マリオの恋を加勢する中で、チリ共産党から大統領候補へと指名され、選挙運動へと突入していく。これは実際に、1969年に起こった出来事である。 翌70年、「チリ人民連合」の統一候補にサルヴァトール・アジェンデが指名されると、ネルーダは立候補を取り下げて支援に回り、その年の9月にアジェンデ大統領が誕生。これは世界史上で初めて、合法的な選挙によって“無血”で誕生した、社会主義政権であった。 71年にノーベル文学賞とレーニン平和賞を受賞したネルーダは、72~73年にはチリのフランス大使としてパリに赴任。アジェンデ政権の外交を支える一員となる。 73年3月、アジェンデ政権は国会議員選挙でも国民の支持を得て、圧倒的な勝利を収めた。しかしその年の9月11日、中南米に社会主義政権が存在することを快く思わないアメリカが介在して、軍事クーデターが発生。アジェンデ大統領は自殺に追い込まれ、チリはクーデターの首謀者である、アウグスト・ピノチェト将軍による軍事独裁政権の時代へと、突入していく。 その時ネルーダは、癌を患いフランス大使を辞しており、チリに帰国して静養中。アジェンデ政権崩壊と共に、当局によって軟禁状態となる。そして9月24日、ネルーダは失意の中で心臓発作を起こし、69年の生涯の幕を閉じる。 チリではその後、ピノチェトによって“左派”が徹底的な弾圧を受け、数多くの者が拉致されては虐殺されたり、行方不明となった。原作では、ネルーダと親しくて共産党員となっていたマリオも権力側に連行されて、そのような運命を辿ることが暗示される…。 映画化を主導したトロイージは、映画版の舞台となったナポリの出身。この地はかねてからイタリア国内では失業率が高く、「イタリア共産党」への支持も強い地域であった。 もちろん映画版には、原作ほどの政治的エッセンスは感じられない。しかしトロイージが、常に「人民の側の詩人」であったネルーダが重要な役割を果たすこの原作に惹かれ、己の生命を賭してまで映画化を進めたのには、ある種の“共感”があったであろうことは、想像に難くない。 「僕らは、息子たちが自慢できるような映画をつくろうとしているんだ」 映画版のマリオが辿る運命、そしてトロイージ自身に訪れた“死”。かくて『イル・ポスティーノ』は、“伝説”の映画となった。■ ©1994 CECCHI GORI GROOUP. TUTTI I DIRITTI RISERVATI.
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COLUMN/コラム2019.03.28
「エンスラポイド作戦」映画化作品4本の全容~『ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦』~
1942年5月17日、ナチス・ドイツのSS=親衛隊大将ラインハルト・ハイドリヒが、チェコスロバキアのプラハで襲撃されて重傷を負い、8日後の6月4日に死亡した。レジスタンスの力を借りて、ハイドリヒの暗殺計画「エンスラポイド(類人猿)作戦」を実行したのは、亡命チェコスロバキア軍人たち。亡命先のイギリスから、母国に潜入しての決行だった。 この顛末は確認出来る限りで、今までに4回映画化されている。フリッツ・ラング監督の『死刑執行人もまた死す』(1943)、ルイス・ギルバート監督による『暁の七人』(75)、そして本作、ショーン・エリス監督の『ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦』(2016)、更に今年1月には、セドリック・ヒメネス監督の『ナチス第三の男』(17)が日本公開されている。 この“暗殺作戦”が、かくも欧米のフィルムメーカーたちを惹き付けるのは、なぜであろうか?まずは、ナチの中でハイドリヒが占めていた位置がポイントと思われる。 ドイツ近現代史研究者の増田好純氏が著すところによれば、ハイドリヒは「ナチズムの暗面を象徴する存在」だったという。親衛隊のTOPであるハインリヒ・ヒムラーの片腕として、ゲシュタポ=秘密国家警察を含む警察組織を掌中に収め、アドルフ・ヒトラー総統の“敵”を、徹底的に排除することに努めた。それは時には、ナチ内部の粛清にも及んだ。 そんな中で、人種的・社会的マイノリティの迫害やユダヤ人の大虐殺にも大きく関与。それが、「絞首人」や「死刑執行人」、「若き死神」「金髪の野獣」など、様々な異名を取る所以である。 1941年9月には、ハイドリヒは、ドイツの支配下だったチェコスロバキアの事実上の総督に就任。当時高まりを見せていた抵抗運動の撲滅を図って、全土に戒厳令を布告し、弾圧を強化していった。 そんな「ナチズムの暗面を象徴する存在」の暗殺が、成功したわけである。ナチが席捲していたヨーロッパでは無理でも、既にドイツと交戦状態にあったアメリカで、すぐにそれを題材にした作品が作られたのも、むべなるかな。反ナチ・レジスタンスのプロバガンダ作品として、正に打ってつけのネタであったのだ。 そうして、“暗殺”の翌年にアメリカで公開されたのが、『死刑執行人もまた死す』である。当時のハリウッドには、このニュースを映画化するのに、格好の人材が揃っていた。 監督のフリッツ・ラングは、戦前のドイツ映画界きっての巨匠。ナチスの台頭後にアメリカに渡って、活躍していた。 原案・脚本は、やはりドイツからアメリカに亡命中だった、ベルナルド・ブレヒト。20世紀最大の戯曲家のひとりで、「三文オペラ」や「肝っ玉お母とその子供たち」などを著した、あのブレヒトである。音楽はブレヒトと亡命仲間の同志である、ハンス・アイクラ―が担当した。 『死刑執行人も…』は、実際にあった“暗殺”の顛末を、事細かに描いた作品ではない。この作品で“死刑執行人”ハインリヒを暗殺するのは、レジスタンスの闘士フランツ。架空の人物である。フランツは逃走中に、マーシャという女性に救われ、匿われる。 暗殺犯の行方をつかめないゲシュタポは、犯人を密告するか自首させないと、事件とは無関係な市民たちを無差別に殺していくと宣言し、弾圧を強める。匿ってくれたマーシャの老父も連れ去られ、フランツは苦悩するが…。 連行された市民たちが、毅然とした態度で処刑されていく描写。ドイツ軍と通じている裏切り者の男を、市民たちが一丸となって罠には嵌め、暗殺犯に仕立て上げていくサスペンスなど、見事な出来栄えである。 エンディングでは、「The End」ならぬ「NOT……The End」」という文字が画面に映し出され、今は戦時中で、自由を得るためのナチスとの戦いが、これからも続いていくことが表される。普遍的にも、素晴らしい作品と言える。 とはいえこれはやはり、戦争中にハリウッドのセットで撮られた、プロバガンダ作品。戦後しばらくすると、同じ“ハイドリヒ暗殺”の映画化でも、現実の舞台だったプラハでのロケを敢行した、ぐっとリアルな描写が施されるようになる。 先にフィルムメーカー達が、この題材に惹かれる理由として、ナチの中でハイドリヒが占めていた位置を挙げたが、ここでもう一つのポイントが浮上する。実際に行われた「エンスラポイド作戦」が、あまりにも壮絶で、悲劇的な色彩を帯びている点である。 戦後30年経って映画化された『暁の七人』では、暗殺を実行するのは史実通りに、イギリスに亡命していたチェコスロバキア軍人のヤン軍曹(演:ティモシー・ボトムズ)とヨゼフ曹長(アンソニー・アンドリュース)ら。 彼らはパラシュートで母国に潜入すると、レジスタンスと合流。潜伏生活の中で暗殺計画を練り、試行錯誤の上で、ハイドリヒが車で司令部に向かう道中を待ち伏せて襲うという、大胆な作戦を決行する。 ハイドリヒの殺害は見事に成功したものの、ナチは厳重な捜査網を敷いて、レジスタンスを血祭りに上げていく。そして更に、一般のチェコスロバキア国民に対する報復行為に踏み切る。標的となったのは、リディスという田舎町。男という男は、すべて銃殺刑に処され、女性や子どもは強制収容所へと送還され、町は全滅に至った。 一方、暗殺に成功したヤンとヨゼフら7人は、協力者である教会に隠れ、脱出の日を待っていた。しかし裏切り者の密告などで、ナチに包囲されてしまう。700人もの親衛隊と、壮絶な銃撃戦を行う7人だったが、1人また1人と倒れていく。最後に地下室に逃げ込んだヤンとヨゼフは、ナチの水攻めの中で、覚悟の自決を遂げるのだった…。 『暁の七人』から30余年を経て、改めて「エンスラポイド作戦」の全容を描いたのはが、本作『ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦』である。史実に基づく以上大筋は変えようがないが、『暁の七人』にはまだあった、戦争映画特有の作戦遂行までのワクワク感や成功後のカタルシスが、本作では大幅に削ぎ落されている。 ハイドリヒ暗殺に成功してしまえば、ナチの追及が強まり、無関係な市民への虐殺が行われるのは、あらかじめわかっている。そのためレジスタンスのメンバーの中には、ヤンとヨゼフへの協力に躊躇する者も出てくる。 また本作では、暗殺実行後の部隊が国外脱出することの困難さが、はじめから強調されている。ハイドリヒ暗殺が“片道切符の特攻作戦”の色が強かったことが、示唆されているわけだ。 様々なリスクを想定し、それが現実のものになるのを目の当たりにした上で、それでも実行すべき作戦だったのか? 『ハイドリヒを撃て!』では、観る者も問われていく。
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COLUMN/コラム2019.03.30
『弁護人』で“韓国の至宝”ソン・ガンホが演じた元大統領の軌跡
“民主主義”を標榜するような国でも、時の政権によって“政府の敵”と見なされた者たちを標的に、“ブラックリスト”が作られることは、往々にしてある。 有名なのは、ウォーターゲート事件により辞任に追い込まれ、「史上最低の大統領」という評価もある、アメリカの第37代大統領リチャード・ニクソン(任期:1969~74)が作った、「政敵リスト」。そこには政治家やジャーナリストと並んで、ベトナム反戦や公民権運動などに熱心だったハリウッドスターたち、ポール・ニューマンやジェーン・フォンダなどの名前が挙げられていた。 ニクソンはこうした“リスト”に載せた人物たちを、「税務調査」などの手段で締め上げて、圧力を掛けることを目論んだとされる。結局は国税庁のTOPが拒んだため、調査が実施されることはなかったと言われるが。 こうした“映画人”をもターゲットにした“ブラックリスト”という意味で、近年大きなニュースが報じられたのは、韓国。2016年10月に全国紙「韓国日報」によって、その前年=15年5月に、当時朴槿恵(パク・クネ)大統領を頂く韓国政府が、“文化芸術界”の検閲すべき9,473人の名簿を作成し、関係省庁へと送ったことが明らかになった。「この“リスト”に載せたタレントや文化人は、干せ!」と、政府が暗に指示したわけである。 リストアップされたのは、大統領選挙やソウル市長選で、朴陣営に敵対する候補を支持した者や、2014年4月に発生した「セウォル号沈没事件」に関して、政府やその関係者を批判した者など。ご存知の方が多いと思うが、修学旅行中だった高校生250人を含む、300人以上の死者・行方不明者を出したこの大事故では、政府の対応の遅れや不手際が強く非難され、朴政権に大きな打撃を与えていた。 では具体的に、韓国政府の“ブラックリスト”に挙げられた“映画人”とは、どんな顔触れだったのか?『オールド・ボーイ』(03)『お嬢さん』(16)などのパク・チャヌク監督、『悪魔を見た』(10)『密偵』(16) などのキム・ジウン監督、『10人の泥棒たち』(13)などに出演する女優のキム・ヘスといった、一流どころの名前が並ぶ。そして、本作『弁護人』の主演俳優であるソン・ガンホの名も、その“リスト”に挙げられていた。 韓国映画界には、かつての“韓流四天王”=ヨン様やチャン・ドンゴンなどのイケメン系とは別に、エラが張った巨顔ですんぐりむっくりな体形の人気スター達が居る。私は“ジャガイモ系”と呼んでいるが、『哀しき獣』(10)のキム・ユンソクや『新感染 ファイナル・エクスプレス』(16)のマ・ドンソク、『容疑者X 天才数学者のアリバイ』(12)のチョ・ジヌン、本作にも“カタキ役”で出演しているクァク・ドウォンといった面々が、それである。 ソン・ガンホは、そんな“ジャガイモ系”の先駆け且つ代表的な存在として、『シュリ』(1999)『JSA』(2000)『殺人の追憶』(03)『グエムル 漢江の怪物』(06)といった、韓国映画史に残る数多のヒット作や名作に次々と出演。“国民俳優”“韓国の至宝”の名を恣にし、日本でも高い人気を誇る。名実ともに、韓国映画界きってのTOPスターである。 そんな“韓国の至宝”が、政府に睨まれる直接の原因となったのは、「セウォル号事件」の問題で署名活動に参加したこととされる。しかし2013年に製作された本作に主演したことも、その遠因になっていることは、容易に想像できる。ガンホが演じた本作の主人公=ソン・ウソクのモデルは、廬武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領だからである。 本作では、1978年から87年頃までの韓国・釜山を舞台に、ソン・ウソク≒政治の世界に進む前の廬武鉉の姿が描かれる。もちろん映画向けに創作された部分もあるが、大筋では事実をほぼ正確に描いているという。 では、廬武鉉の歩んだ道を、簡単にまとめてみたい。それは即ち、本作の内容の紹介になるし、主演俳優のガンホが、朴政権に目を付けられた理由の説明にも繋がる。 1946年、釜山の貧しい農家に生まれた廬武鉉。頭脳は優秀ながら、お金がなかったため大学に行けず、アルバイトをしながら司法試験の勉強を始めた。 途中3年間の徴兵期間を経て、75年=29歳の時に、司法試験に合格。裁判官を経て弁護士となる。本作ではこの辺りからが、描かれる。 廬武鉉は、弁護士事務所の開業からしばらくは、税務を専門とし、お金儲けに邁進した。本作の中で、豊かになった主人公が、苦学時代に食い逃げした食堂にお金を返しに行くエピソードが登場するが、これも実話が基になっているという。 転機が訪れたのは、81年。同僚弁護士に頼まれ、「釜林(プリム)事件」の被害者の弁護を担当したことだった。この事件では、釜山でマルクス主義などの本の読書会をしていた、学生や教師、サラリーマンなど22人が、令状もなく突然逮捕された。彼らは2カ月もの間不法監禁され、過酷な拷問を受けていた。 当時の全斗煥(チョン・ドファン)政権は、軍事クーデターと不正選挙で権力の座に就いたこともあって、“民主化”を目指す者たちを敵視していた。そのため思想的な背景が深いとは言えない、読書会のような集まりにも目を付けて、「国家保安法」の名の下で、“アカ=共産主義者”“北朝鮮のスパイ”扱いをして摘発。徹底的な弾圧を加えていた。 それまではノンポリで、“民主化運動”などにも関心がなかった廬武鉉だが、弁護をする若者の身体に拷問の痕を見付け、強い衝撃を受ける。それがきっかけとなって彼は、金儲けの得意な弁護士から、180度の変身を遂げる。 この事件の弁護を、まるで「家族のように」献身的な姿勢で行ったのをはじめ、貧しい人々のために、“無料”で法律相談に乗ったり弁護を引き受けるなど、いわゆる“人権派弁護士”となったのである。 このような活動を邪魔に思った政権側は、検察を使って彼を拘束したり、弁護士資格を停止したりした。映画『弁護人』で描かれるのは、この辺りまでである。
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COLUMN/コラム2019.04.24
【ロッキー一挙放送記念コラム:松崎まことさん】「もういいよ~」を乗り越えて… 『ロッキー』シリーズの40年余
「もういいよ~」を乗り越えて… 『ロッキー』シリーズの40年余 「もういいよ〜」 そのニュースを耳にして、思わず口に出してしまった。『ロッキー』シリーズの続編というかスピンオフとして、『クリード』という作品の製作が報じられた時だ。 主役が、アポロの息子!? ロッキーのライバルであり親友だった、あのアポロ・クリードの息子が主人公で、しかもロッキーも登場するって…。うわ、そんな蛇足みたいな話やっても、面白くなるわけないじゃん。やめてよ~と、心の底から思った。 思えば『ロッキー』(1976)と出会ったのは、シリーズ第1作が日本公開された、1977年の4月。私は中学に入学したばかりで、映画を猛然と見始めた頃だった。 主人公は、30代になっても芽が出ない、三流ボクサーのロッキー・バルボア。しかし偶然の成り行きから、偉大なるチャンピオンとして君臨する、アポロへの挑戦権を得る。 お馴染み「ロッキーのテーマ」に乗っての特訓やアポロとの壮絶なファイトなど、燃えるシーンも多々あるが、私が忘れられないのは戦いの前夜、ロッキーが恋人のエイドリアンに、訥々と語る“想い”。 「もし最終15ラウンドまでリングの上に立っていられたら、自分がただのゴロツキではないことが証明できる」 イジめに遭うなど暗い小学生時代を経て、中学という新しいステージに立ったばかりの自分に、このセリフはいたく響いた。自らシナリオを書いた『ロッキー』で、それまでの無名の存在から一気にスターダムを駆け上がった、シルベスター・スタローンのリアルストーリーも重なって、生きていく上で大切な何かを教えられた気がした。 それからの『ロッキー』シリーズは、『ロッキー2』(1979)『ロッキー3』(1982)…と、ほぼリアルタイムで追い続けたが、実は『クリード』以前にも、「もういいよ~」という思いを抱いたことがある。第1作から、ちょうど30年後の2007年4月に日本公開となった第6作、『ロッキー・ザ・ファイナル』(2006)のストーリーを聞いた時だ。既に60代に突入していたスタローンが演じる50代のロッキーが、カムバックを決意。現役の世界チャンピオンと戦う…。 現実世界では1990年代中盤に、ジョージ・フォアマンが45歳で世界チャンピオンの座を奪い、48歳まで現役を続けたというケースがある。しかしいくら何でも、“50代”のロッキーのファイトなんて…。 だが、観ねばなるまい。『ロッキー4/炎の友情』(1985)『ロッキー5/最後のドラマ』(1990)の2作に正直辟易する部分が多かったこともあって、そんな義務感込みの醒めた気持ちで、16年ぶりのシリーズ最新作『…ファイナル』を迎えた。ところが、この作品が素晴らしかった!シリーズのお約束を踏襲しながらも、最愛の妻エイドリアンを亡くし、ひとり息子とも疎遠になっているロッキーが、“50代”にして戦う意味を明確に打ち出している。 元世界チャンピオンの偉大な父親にコンプレックスを抱き続けている息子に、ロッキーが言う。 「人生ほど重いパンチはない。それでも、どんなに強く打たれてもずっと前に進み続けることだ。そうすれば勝てる」 鑑賞時40代前半になっていた私は、ちょうど“放送作家”という、長年の稼業の曲がり角に近づきつつあった頃。『…ファイナル』には、中坊の時に第1作を観た時と同じく、いやそれ以上に大きく感情を揺さぶられた。改めて、スタローンに打ちのめされてしまったのである。 さて、それから更に9年を経ての『クリード チャンプを継ぐ男』(2015)。アポロの血を継いで闘いの炎を燃やすアドニスと、そんなかつての親友の息子の師匠となったロッキーの物語。それぞれに孤独を抱えた同士が、力を合わせてファイトに望んでいく中で、徐々に“家族”のような絆で結ばれていく…。 嬉しいことに『クリード』は、『…ファイナル』に続いて、またこちらの予想を大きく裏切ってくれた!ほぼ無名の新人だったライアン・クーグラー監督が持ち込んだ企画を、スタローンが受け入れたことからスタートしたこの作品で、クーグラー監督と主演のマイケル・B・ジョーダンは、ハリウッドで大注目の存在になった。そんな展開も第1作を彷彿とさせ、10代から50代になるまで、このシリーズを観続けてきた私の心をギュッと掴んだ。 改めてスタローンのキャリアを振り返ると、『ロッキー』以外にも、『ランボー』や『エクスペンダブルズ』のようなヒット作はある。でも結局は、40年以上に渡って演じ続けている“ロッキー”なのである!『クリード 炎の宿敵』(2018)も大ヒットを収めた今、こうなったらいのちの炎を燃やし続ける限りは、スタローンにはロッキー・バルボアを演じ続けて欲しいと、熱烈に希望する! 特集の記事はコチラ番組を視聴するにはこちら © 2015 METRO-GOLDWYN-MAYER PICTURES INC. AND WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2019.04.30
“オーストラリアの伝説”をいま再び!? 『クロコダイル・ダンディー』
昨年=2018年1月、『クロコダイル・ダンディー』シリーズが、「17年ぶりの復活!?」と話題になったのを、ご記憶の方はどのくらいいるだろうか。新作のタイトルは、『ダンディー』。こちらがそのニュースの源となった、予告編第1弾である。 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ https://www.youtube.com/watch?time_continue=38&v=PCS657nOY8I 壮大な大自然が映し出され、荘厳なBGMに乗って、「この夏、“オーストラリアの伝説”の息子が帰ってくる」とスーパーが謳い上げる。崖の上には “クロコダイル・ダンディー”ルック=ワニ革のチョッキを纏いカウボーイハットをかぶった男が佇むわけだが…。 カメラが彼に迫ると、かつて一世を風靡した『クロコダイル・ダンディー』を知る者は漏れなく、「ん~!?」となった筈だ。 マッチョなオージーのポール・ホーガンが演じた元祖“ダンディー”に対し、こちらに登場するその“息子(!?)”は、中肉中背…というよりは、小太りの中年男。元祖とは似ても似つかない。演じるは、『トロピック・サンダー/史上最低の作戦』(2008)『エイリアン:コヴェナント』(17)などでおなじみの、アメリカ人俳優ダニー・マクブライドである。 予告編のリリースと共に、『ダンディー』のストーリーが紹介された。オーストラリア奥地で、元祖“ダンディー”のミックが行方不明となる。そこで捜索の適任者として、アメリカ育ちのうるさい息子、ブライアン・ダンディーに白羽の矢が立てられ、彼はオーストラリアへと上陸する。 その後続々とUPされていったティーザーやトレーラーを見ると、主役のキャスティングからはじまって、内容的には過去のシリーズのパロディの色彩が強い様子が窺える。しかしそれを超えて驚きを与えたのは、脇を固める豪華出演陣であった。 “ダンディー”Jr.の相棒となるガイド役が、『アベンジャーズ』の“ソー”ことクリス・ヘムズワースなのをはじめ、ヒュー・ジャックマン、マーゴット・ロビー、ルビィ・ローズ、ラッセル・クロウと、オーストラリア出身の人気スターが続々と登場するのだ!もちろんポール・ホーガンも、特別出演で元気な姿を見せる。 さて期待を膨らませるだけ膨らませたこの予告編については、早々に種明かしが行われた。実は『ダンディー』は“映画”ではなく、翌2月に開催される、全米最大のスポーツイベント「スーパーボウル」で放送されるCMだったのである。「オーストラリア政府観光局」がアメリカ市場向けに、約31億円を投じて行った、キャンペーンの一環という説明がされた。 「な~んだ」という話だが、それにしても1986年に第1作が公開されてから、30年余。『クロコダイル・ダンディー』は、息子キャラが主役のCM『ダンディー』で謳われるように、正に“オーストラリアの伝説”になっているのだな~と、再認識させられた。 ではここで改めて、“伝説”の第1作のストーリーを、紹介しよう。 アメリカの大新聞社の社主の娘で、花形女性記者のスー(演;リンダ・コズラウスキー)は、オーストラリアに出張中、“クロコダイル・ダンディー”の噂を耳にする。“ダンディー”は奥地で、クロコダイル=大ワニに襲われて足を食いちぎられたにも拘わらず生還した、奇跡の男であるという。 現地取材に乗り出したスーの前に、“クロコダイル・ダンディー”ことミック・ダンディー(演;ポール・ホーガン)が現れる。足を食いちぎられたというのは与太話だったが、クロコダイルと戦った証拠として、ミックは大きな傷痕を見せる。そんな彼は、野性的なセックスアピールに溢れ、一見粗野ながらもユーモアを解し、ハートがデカくて温かい、「男の中の男」であった。 スーはミックのガイドで、取材のための奥地探検へと出掛ける。車での移動中、行く手を阻む水牛に出会うが、先住民=アボリジニに育てられたというミックは、魔法のような催眠術で、それを眠らせてしまう。 歩きでのジャングル行になった後も、次々と驚きの行動を見せるミック。スーが水辺でワニに襲われた際には、俊敏な動きでワニに飛び乗り、ナイフの一撃でトドメを刺すのだった。 すっかりミックに魅了されたスーは、彼をニューヨークへと誘う。ミックも彼女に惹かれていたことから、誘いに乗って世界有数の大都市へと向かう。 カルチャーギャップもあって、ニューヨークで様々な珍騒動を巻き起こしていくミックと、その地にインテリの婚約者が待っていたスー。そんな2人の恋は、果してうまくゆくのか? 『クロコダイル・ダンディー』は、ハリウッドで幾度も映画化された、ジャングルの王者“ターザン”の現代版とも言うべき、単純な構図のストーリー。構成も演出も至極ゆる~い仕上がりのオーストラリア映画であったが、全米で公開されるや、興行成績が9週連続でTOPという、常識外れの超特大ヒットとなった。 原案・脚本を手掛け、主演を務めたポール・ホーガンは、1940年生まれで製作・公開時は40代半ば。マッチョと言っても、当時隆盛を極めていたスタローンやシュワルツェネッガーのような“ステロイド系”とは違い、もっとナチュラルな筋肉の持ち主で、その分派手さには欠ける。その風貌も、日焼けした「ただのおっさん」っぽい。 高校卒業後に建設作業員からバーテンまで、様々な職業を経験したというホーガンだが、1970年代後半からはオーストラリアのTV界では、スターとして人気を博していた。『クロコダイル…』製作以前にアメリカでも、「オーストラリア・ツーリスト協会」のCMがオンエア。「グッダイ(こんにちは)」と、オーストラリア訛りの英語で呼び掛ける、ホーガンのキャラが大受けしていたという。 そういった意味では、“ダンディー”のキャラが受け入れられる下地はあったと言える。とはいえ、なぜここまでのヒットになったのだろうか? 早速続編の話が持ち上がり、2年後=88年には『クロコダイル・ダンディー2』が公開された。こちらはそのままニューヨークに居着いたミックが、愛するスーと共に、南米コロンビアの麻薬組織に命を狙われることになる。 ニューヨークを脱出し、郷里のオーストラリアにスーを連れて戻ったミックは、そこでジャングルと荒野に罠を仕掛けながら、悪党どもを待ち受ける…。 前作と一味違う、サスペンス含みのハードな設定…と言いたいところだが、実際はそんなことはほぼ感じさせない。ミックvsマフィアのアクションシーンも展開されるが、前作とほとんど変わらず、ゆる~い構成と演出で進行していく。 因みに『2』は、第1作ほどではないが、全米興行で3週連続TOPを記録する大ヒット。同時期に公開された“ステロイド系”スタローンの『ランボー3/怒りのアフガン』を、見事に撃破した。『クロコダイル…』の世界興収は、第1作・第2作合わせて、実に700億円以上に上ったという。 今回再見して思ったのだが、『クロコダイル…』両作は正に、1980年代後半の観客が、求めていた作りだったのではないだろうか? 当時のハリウッドは、ドン・シンプソンとジェリー・ブラッカイマーのプロデューサーコンビが席捲していた。彼らが作るのは、『フラッシュダンス』(83)『ビバリーヒルズ・コップ』(84)『トップガン』(86)といった、時にはイマジナリーラインも無視して、細かいカットを積み重ねながら、BGMをガンガン掛けていくような、いわゆる「MTV感覚」の作品。 それに比べて『クロコダイル…』と来たら、MTV感覚のカケラもない(笑)。よく言えばのんびりとした、悪く言えば間延びした構成と演出で、アクションシーンになっても、ろくにBGMも掛からない始末である。 この素朴さや安心して観ていられる感じが、バチバチの「MTV感覚」に辟易としていた、映画観客にアピールしたのではないか?いくら流行りの大ヒット作だからといって、ノレない層は確実に存在する。そこにリーチしたことが、大ヒットに繋がる要因の一つになったのではと、想像する。 そして『クロコダイル…』の大ヒットは、オーストラリアという土地とそこに暮らす人々の、あくせくしない魅力を大いにアピール。世界中から観光客を呼び込むのにも、大いに寄与したのである。 さて『2』から13年後、21世紀に入ってからシリーズ第3作として、『クロコダイル・ダンディー in L.A.』(2001)が製作される。こちらではミックとスーのカップルは、2人の間に生まれた息子と、観光化されつつあるオーストラリア奥地で、3人暮らし。ところがスーの仕事の都合で、家族でロスアンゼルスに行くことになり、そこで騒動を巻き起こすといったストーリーが展開する。 さすがに80年代のままとはいかなかったようで、構成や演出、BGMも“いま風”になっている。改めてシリーズを観返すと、『in L.A.』のそんな部分に、逆に淋しさを感じたりもする。 ミックとスーのその後の顛末にも、一抹の淋しさを覚える。実際は、演じたポール・ホーガンとリンダ・コズラウスキーの話なのだが…。 『クロコダイル…』第1作の日本公開時=1987年、ポール・ホーガンはプロモーションで来日。その時は18歳の時に結婚したという妻ノエリーンと、5人の子どもを伴っていた。実はホーガンとノエリーンは81年に1度離婚するも、翌82年に復縁という経緯を辿っている。 ところがホーガンはその後、ノエリーンとは再び離婚。そして90年に、既に周知の仲だった、18歳下のコズラウスキーとゴールインに至った。 2人の間には映画同様、一粒種の男の子が生まれ、2001年にはシリーズ第3作『in L.A.』が製作された。その後も2人揃って公の場に姿を現すことが多く、『クロコダイル…』が生んだホーガン&コズラウスキーのカップルは、長らく“おしどり夫婦”で通っていた。 しかし2014年、24年間に及んだ2人の結婚生活は破綻。『クロコダイル…』シリーズスタート時は40代だったホーガンは70代、アラサーだったコズラウスキーは50代後半にして、独身へと戻ったのである。 そんな“現実”も乗り越えて(!?)、“オーストラリアの伝説”を現代に蘇らせた、「オーストラリア政府観光局」製作のCM『ダンディー』。「ザ・シネマ」で『クロコダイル・ダンディー』シリーズ本編を鑑賞した上でご覧になられると、ぐっと楽しさも増す。 そのティーザーとトレーラーをまとめたリンクを貼っておくので、『クロコダイル・ダンディー』を必ず観てから、下記をクリックして欲しい!■ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ https://www.youtube.com/watch?v=jvmcWPeQwIc
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COLUMN/コラム2019.04.30
「マクドナルド」“創業者”のホントのところ!? 『ファウンダー ハンバーガー帝国の秘密』
誰でも知ってる「マクドナルド」は、正確な英語読みで発音すると、「マクドナルド」とはならない。「マク・ダーナルズ」「マク・ダーヌルズ」或いは「マクナード」などになるらしい。 アメリカ発のこのハンバーガーチェーンを日本で展開するに当たり、アメリカ本社の反対を押し切って、「日本語的に馴染み易い3・3の韻になるように」と、「マクドナルド」という名称にしたのは、「日本マクドナルド」の創業者・藤田田(1926~2004)である。主に関東で使われる略称「マック」はともかく、関西方面での「マクド」という呼び方は、藤田の決断があったが故に生まれたと言える。 冗談はさて置き、「マクドナルド」と命名したエピソード一つからでも、藤田のイノベーターとしての優秀さや、ベンチャー事業者としての優れた勘を読み取ることが可能であろう。「ソフトバンク」の孫正義や「ユニクロ」の柳井正など、彼の薫陶を受けた経営者も、数多い。 「日本マクドナルド」が、アメリカ本社の反対を押し切ったという意味でもう一つ有名なのが、「第1号店」を東京・銀座のど真ん中に出店したこと。 藤田はこの戦略について、奈良時代・平安時代の昔より日本では外国文化が、まず国の中心に入ってきてから広がっていった歴史があると考え、出店先を決めたと語っている。実際は、アメリカ側が自動車での来店を想定して、神奈川県の茅ヶ崎に「第1号店」を開くことを主張したのに対し、日本ではアメリカほどモータリゼーションが発展していない現実に向き合った結果が、銀座出店だったと言われている。 藤田はそうした自分の経営哲学のようなものを、経営者やビジネスマンに響くような言葉で、数多く残している。そんな中で私が特に印象深く覚えているのは、次の言葉である。 「人間は12歳までに食べてきたものを一生食べ続ける」 子どもの時に食べたものは、絶対忘れない。年を取っても食べ続け、自分の子ども達にも食べさせるという算段である。藤田は実際に、12歳以下の子どもたちをターゲットにハンバーガーを売りまくって、いわば“味の刷り込み”に成功。外食産業の世界で、大きな地位を築いた。 この言葉とエピソードは、ビジネス的には名言であり大きな成功譚として捉えるべき内容なのかも知れない。しかし、素直に称賛などできない。大きく引っ掛かる部分がある。 藤田自身がハンバーガーについて、「あまり好きじゃない(笑)。ハンバーガー屋だからハンバーグ食べなきゃならんという理由はないんだよ。ハンドバッグ屋のオヤジがハンドバッグ持って歩きますか?」「ハンバーガーより、うどんが好物」などと、何の衒いもなく語るような人物であったから、余計に…。 そんな藤田に、日本での「マクドナルド」展開の権利を渡したのが。本作『ファウンダー ハンバーガー帝国の秘密』でマイケル・キートンが演じる主人公、レイ・クロックである。 さて、「マクドナルド」という、どう考えても人名由来のハンバーガーチェーンの“ファウンダー=創業者”を名乗る男が、なぜレイ・クロックなのであろうか?そうした疑問を抱いたプロデューサーの存在があって、本作はこの世に生み出された。 正確に言えばクロックは、「マクドナルド」自体の“創業者”ではない。「マクドナルド」のフランチャイズチェーン化を成功させた意味での“創業者”なのである。 では真の“創業者”は? “ファストフード”の命とも言える、“スピード・サービス・システム”やコストをカットしながらもクオリティを保つという革新的なコンセプトを生み出した者は、一体誰だったのか? そこまでの疑問は、レイ・クロックの有名な自伝「成功はゴミ箱の中に」を読むだけでも、すぐに解ける。それは、カリフォルニア州のサンバーナーディーノに、自分たちの姓を冠したハンバーガーショップを開いていた、マックとディックの“マクドナルド兄弟”なのである。 クロックとマクドナルド兄弟の出会いは、1954年。当時52歳のクロックは、ミルクシェイクを作る“マルチミキサー”のセールスマンだった。ある時兄弟の店から大量発注を受けたことがきっかけで、引きも切らず客が押し寄せる、彼らの店の驚くべきシステムを知る。 クロックは、大々的な出店には慎重だった兄弟を、口八丁手八丁で説得し、「マクドナルド」の“フランチャイズ権”を獲得。チェーン化による大量出店を進めていく。 さてそこまでの経緯は良いとして、クロックがフランチャイズ展開を始めて7年後の1961年に、兄弟は自分たちの姓を付けた「マクドナルド」を、完全に手放すこととなる。そこには一体何があったのか? クロックの自伝では、フランチャイズ各店ごとの事情に応じた変更を行なおうとすると、マクドナルド兄弟は契約を盾にして、まるで融通が利かなかったとされる。また契約上、文書を書き起こす必要があるような場合でも、口約束で済まそうとしたという。時には向上心が薄い彼らが、まるで「マクドナルド」の拡大・発展を阻んでいるかのように記された部分さえある。 ところが本作では、主役にはクロックを据えながらも、マクドナルド兄弟の視点が盛り込まれていることで、その辺りの事情がかなり違って描かれる。それは本作の製作チームが、「マクドナルド」から手を引いた後のディック・マクドナルドが小さなモーテルを所有していたという記事を発見し、そこからディックの孫とコンタクトを取ることが出来たからである。 製作チームは、その時は既に亡くなっていた兄弟が遺した、会話の録音テープやクロックとの間の書簡や記録写真、様々な設計図や模型など、貴重な資料の数々を入手。それによって、クロックの自伝だけでは窺い知ることが出来なかった物語を、紡ぐことが可能になった。 先に書いた通り、1961年に兄弟は「マクドナルド」の商権を、クロックへと譲渡した。その対価は、270万㌦。クロックの自伝によると、兄弟はこの大金を得たことで、旅行や不動産投資を楽しみにする老後に、「ハッピーリタイアした」とある。 しかし本作で描かれる「マクドナルド」売却を巡るやり取りは、そんな生易しいものではない。詳しくは本作をご覧いただくとして、兄弟が「ニワトリ小屋の中にオオカミを入れてしまった」と評したクロックの、「欲しいと思ったものは、絶対に手に入れる」やり口には、嫌悪感を抱く向きも少なくないであろう。 またクロックは、「マクドナルド」のやり口だけパクって、「クロックバーガー」を展開することも可能だったのに、「マクドナルド」という名前ごと、兄弟から奪い取ることにこだわった。本作で語られるその理由は、アメリカという移民国家や大量消費社会を考察する意味で、大変興味深い。 最後に、レイ・クロックの人物像に更に迫るため、「日本マクドナルド」の藤田田の話に戻る。藤田は自身の言で、日本出店の交渉のために、レイ・クロックを訪ねた際のやり取りを紹介している。 それによるとクロックは、名刺をトランプのように掴んで、「300枚あるよ。日本の商社の人やダイエーの中内さんも来た。でもサラリーマンには熱意はないし、ミスター中内さんは買ってやるという高姿勢だったから断った。キミは熱心だし、日本で成功できそうだからキミに売るよ」と、藤田に日本での展開を委ねたという。 素直に受け取ればクロックに、「人を見る目」「先見の明」があったというエピソードになる。しかし、本作『ファウンダー』で、レイ・クロックが自分が生んだわけではない「マクドナルド」を手に入れて“ファウンダー=創業者”を名乗り、拡大に次ぐ拡大をした軌跡を目の当たりにした後では、単に「先見の明」があったという話にはノレない。 己が好きでもない食べ物を拡販して、後に日本人の食の嗜好や習慣まで変えてしまうことになる藤田に対して、クロックは自分と同じような“何か”を感じたのではないだろうか? そんなことまで、考えさせられる。『ファウンダー』は、実に深い作品であった。■
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COLUMN/コラム2019.05.24
「サンダンス」からレッドフォードへの贈り物 『オール・イズ・ロスト ~最後の手紙~』
ロバート・レッドフォード、82歳。日本では今年7月公開となる、『さらば愛しきアウトロー』を以て、俳優業から引退することを、昨夏明らかにしている。更に今年1月、彼はもう一つの“引退”を発表した。 「第35回サンダンス・フィルム・フェスティバル」開幕に先駆けて行われた記者会見で、同映画祭の“顔”から退くことを宣言したのである。「僕は34年間ずっとこの開幕スピーチをやってきたけれど、新しい方向に進む時が来た」「…サンダンス映画祭はもう僕の説明が必要ないくらいに育っている…」 アメリカン・ニューシネマの代表的な一作『明日に向って撃て!』(1969)でサンダンス・キッドを演じたことから、一躍スターの座を手に入れた、レッドフォード。この映画の出演料でユタ州に居を構え、1978年には同州のスキーリゾート地“パークシティ”で、映画祭をスタートさせた。当初は「ユタ・US映画祭」という名で、クラシック作品の回顧展がメインだったという。 81年に映画人の養成、インディペンデント映画の製作・上映の支援を目的とした非営利機関として、自らの当たり役の名を冠した、「サンダンス・インスティチュート」を設立。85年からは映画祭の名も、「サンダンス・フィルム・フェスティバル」となり、“インディペンデント映画”とその作り手の発掘を軸とした映画祭へと、変貌を遂げていく。 そして「サンダンス」は、開始して日も浅い内に、コーエン兄弟の『ブラッド・シンプル』(84)、スティーブン・ソダーバーグの『セックスと嘘とビデオテープ』(89)といった、後の著名監督のデビュー作を高く評価し、世に送り出す役割を果たした。スタート以来30余年の間には、ジム・ジャームッシュ、クエンティン・タランティーノ、ロバート・ロドリゲス、ソフィア・コッポラ、ポール・トーマス・アンダーソン、ダーレン・アロノフスキー、リチャード・リンクレーター、ブライアン・シンガー、トム・マッカーシー、ライアン・クーグラー、デミアン・チャゼル等々、「サンダンス」きっかけでブレイクに至った映画作家は、枚挙に暇がない。 今では毎年1月の開催時期になると、プロデューサーから評論家まで、アメリカ中の映画関係者がこぞって、「サンダンス」詣を行う。次世代をリードする、若き“才能”との出会いを求めて。 そうした「サンダンス」の栄光の歴史と、その立役者であるレッドフォードのフィルモグラフィーを見比べると、妙なことに気付く。レッドフォード自ら言及するところによると、「皮肉なことにサンダンスを創設し、長年主催してきたが、そこでサポートしたフィルムメーカーは誰一人、私のことを起用しなかった」 「サンダンス」の押しも押されぬ“顔”であり、数多の映画人たちの恩人である、レッドフォード。しかし、「サンダンス」出身のフィルムメーカーから出演依頼が届くことはなかったというのだ。 これには、幾つかの理由が思い浮かぶ。まずレッドフォードは、新人監督が演出するには、「荷が重い」と思わせるほどの“スーパースター”であったこと。そしてまた、彼が“アカデミー賞監督賞”を手にしたことがあるほどの、一流の映画監督だったことも、若手がオファーを躊躇う原因になったのではないだろうか。 レッドフォード曰く、「彼らは誰一人、私に役をくれなかったんだ!J・Cがそうするまでは、誰一人としてね」 そう、たった1人、たった1人だけ例外がいた。その監督の名は、J・C・チャンダー。そして彼とレッドフォードがタッグを組んで作り上げたのが、2013年製作の本作『オール・イズ・ロスト ~最後の手紙~』なのである。 チャンダーが世に認められるきっかけとなった「サンダンス」上映作品は、監督デビュー作である、『マージン・コール』(11)。2007年の世界金融危機を題材にしたサスペンスであり、ケヴィン・スペイシー、ポール・ベタニー、ジェレミー・アイアンズ、デミ・ムーア、スタンリー・トゥッチといった、有名俳優たちが出演している。チャンダーは脚本も担当したこの作品で、見事“アカデミー賞脚本賞”にノミネートされた。 『マージン…』以前から、チャンダーがずっと撮りたいと思っていたのが、“海洋ドラマ”。子どもの頃からヨットでのセーリングに親しんでいたという彼が、『マージン…』の成功を機に、製作を実現した航海アドベンチャーが、『オール・イズ・ロスト』だった。そのストーリーを、紹介しよう。 ヨットでインド洋を単独航海中の老齢の男が、船室での睡眠中、水の音で目を覚ます。ヨットが、海上を漂う貨物用コンテナとぶつかって、船体に穴が空いてしまったのである。 応急措置を施して浸水を止めたが、このアクシデントで航法装置は故障。無線もパソコンも水浸しとなって使い物にならないため、「SOS」を発信することも出来ない。 やがて海上は暴風雨に襲われ、ヨットは致命的なダメージを受ける。もはや沈没を免れない状態となり、“男”は食料とサバイバルキットを持って、救命ボートへと移る。 六分儀と航海図を頼りに、何とか船の行き来が多い海上交通路に出ようとする“男”。しかし救命ボートも浸水が始まり、通り掛かった貨物船も彼の存在に気付かないなど、どんどん絶望的な状況へと追い込まれていく…。 この作品に登場するのは、レッドフォードが演じる、“Our Man=我らの男”と役名がクレジットされた、主人公1人だけ。この男がどんな名前でどんな背景を持っているのか、なぜ単独航海しているのかなどは一切説明されず、セリフもほとんどない。 公開当時本作は、「海の『ゼロ・グラビティ』」とも評された。思わぬアクシデントから、大自然の猛威と否応なく対峙することになった“男”が、強靭な意志と行動力で、何とか生き延びようとする様が描かれた、1時間46分なのである。 本作を撮影時には76歳だったレッドフォードだが、ほとんどスタントマンを使わずに演じ切ったという。もちろん、動きは往時と比べて、さすがに緩慢な感じが否めない。しかしそれがむしろ、セリフがほとんどないことと合わせて、リアルな迫力を生み出している。 チャンダーがこの作品の脚本を送って4日後には、レッドフォードから、「会いに来てほしい」という連絡があった。そして面会が実現して5分後には、「君がクレイジーな男ではないことを確認したかっただけだ。これを作ろう」と、出演を快諾したという。 「J・Cだから、この仕事を引き受けたんだ」「私は彼を気に入っている。彼は直感的で、ビジョンを持っている。私はそんな彼と、彼の表現力を信頼している」と語るレッドフォードは、撮影現場ではすべてチャンダーにお任せだった。そして、俳優としての能力を最大限に引き出してくれる監督と仕事することを、大いに楽しんだという。 一方チャンダーは、“名監督”であるレッドフォードに、「…僕が撮ったものを見てチェックしたくないですか?」と聞いたりもした。しかしレッドフォードは、撮影が終わって半年後にラフカットを見せるまでは、何も見なかったという。 こうして完成した『オール・イズ・ロスト』は期せずして、レッドフォードの俳優生活晩年の代表作となった。それはある意味、「サンダンス・フィルム・フェスティバル」が彼にもたらした、最大の恩恵であったと言えるかも知れない。 そして、彼が見込んだJ・C・チャンダー監督はその後、『アメリカン・ドリーマー 理想の代償』(2014)、『トリプル・フロンティア』(19/ Netflix)と、高い評価を受ける作品を世に放ち続けている。■ <参考文献> 「オール・イズ・ロスト~最後の手紙」劇場用プログラム発行日:2014年3月14日発行所:東宝(株)映像事業部発行権者:(株)ポニーキャニオン編集:(株)東宝ステラ Indie Tokyo[584]誰もが知っているようでいて知らないサンダンス映画祭のこと著者:小島ともみhttp://indietokyo.com/?p=7337 サンダンス映画祭開幕!ロバート・レッドフォードが映画祭の顔から引退を表明2019年1月28日 21:00取材・文/平井伊都子https://movie.walkerplus.com/news/article/177409/