ザ・シネマ 松崎まこと
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COLUMN/コラム2024.12.05
ティム・バートンとジョニー・デップ アメリカ映画史に残る、パートナーシップの始まり『シザーハンズ』
幼き日から、古いホラー映画が大好き。漫画を描き、ゴジラの着ぐるみを纏う俳優になることを夢見る少年だった。元マイナーリーグの野球選手だった父は、そんな内向的な息子のことが、理解できなかった。 ティーンエージャーの頃、誰とも心を通い合わせることができず、長続きする関係が持てなかった。それはもちろん、家族を含めて。彼は孤独だった。 20代。ディズニー・スタジオのアニメーターになった彼は、ストップモーションアニメや、モノクロ実写のダークファンタジーの短編作品を監督。それがきっかけとなって、26歳の時、実写の長編作品の監督デビューを果す。 その作品『ピーウィーの大冒険』(1985/日本では劇場未公開)は、製作費700万㌦の低予算ながら、4,000万㌦以上の興収を稼ぎ出した。彼=ティム・バートンは、一躍注目の存在となった。 2歳年上の作家、キャラロイン・トンプソンに出会ったのは、次作『ビートルジュース』(88)に取り掛かる、少し前。トンプソンは、『ピーウィーの大冒険』がお気に入りだった。そしてバートンは、彼女が書いた、中絶された胎児が甦る内容のホラー小説に、魅了された。 バートンは、自分の考えていることを他者に伝えることが、至極苦手だった。しかしトンプソンは、そんなバートンが発する曖昧な言葉から、彼の想いを易々と汲み取ってみせた。波長がぴったり合う2人は、姉と弟のような関係になった。 ある時バートンは、バーでトンプソンに、自分が10代の頃に描いた、「手の代わりにハサミを持つ若者」の話をした。骸骨のように痩せた身体で、くしゃくしゃの髪。全身を黒い革で包み、指の代わりに付いた長く鋭いハサミの刃で、近づく者を皆、傷つけてしまう。その目に深い悲しみをたたえた、孤独な若者の話を…。 明らかに、バートン本人が投影されたキャラクターだった。そう感じると同時に、これは映画になると考えたトンプソンは、帰宅するとすぐに、70頁に及ぶ準備稿を書き上げた。 それが本作『シザーハンズ』(90)のベースとなった。 ***** 寒い冬の夜、ベッドに眠る孫娘を、寝かしつける老女。「雪はなぜ降るの?」と孫に聞かれた老女は、「昔々…」と、ある“おとぎ話”を始めた…。 郊外の住宅地に住む主婦ペグは、化粧品のセールスレディ。ある日思い立った彼女は、町はずれの山の上に在る、古城のような屋敷へとセールスを掛ける。 そこに居たのは、両手がハサミの若者エドワード。彼は、以前この屋敷に住んでいた発明家が生み出した、人造人間だった。年老いた発明家は、エドワードの手の完成直前に急逝。それ以来彼は、ひとりぼっちだったのだ。 ペグはエドワードを、不憫に思った。そして我が家へと、連れ帰る。 手がハサミの彼は、食事も思い通りにいかない。しかしそのハサミで、植木を美しく整えたり、ペットのトリミングを行ったり、主婦たちの髪を独創的にカットするなどしている内に、町の人気者となっていく。 エドワードは、ある女性に恋心を抱くようになる。それはペグの娘で、高校ではチアリーダーを務めるキムだった。 アメフト部のスターであるジムと付き合っていたキムは、当初はエドワードのことを疎ましく思う。しかしその優しさに触れる内に、段々と心惹かれていく。 ある時エドワードは、ジムに泥棒の濡れ衣を着せられる。逮捕されても、キムに累が及ばないよう、彼は真実を語らなかった。 それをきっかけに、町の人々はエドワードを避けるようになる。やがて事態はエスカレート。誤解も重なって“怪物”扱いされた彼は、逃亡を余儀なくされ、古城へと帰る。 後を追ったのは、今や彼を愛するキム。そして嫉妬に狂い、銃を携えたジムだった…。 ***** トンプソンは、バートンが青春時代に味わった苦しみを、寓話へとアレンジ。その際には、一応は現代を舞台としながらも、“おとぎ話”の手法を用いた。 “おとぎ話”であるならば、本来は「あり得ない」と突っ込まれたり批判されかねない描写も、問題なく盛り込める。 例えば、郊外の住宅地のすぐそばに、なぜ大きな古城が在るのか?人造人間は一体、どんな仕組みで動いているのか?そしてエドワードは、彫刻に使う氷を一体どこから調達したのか? バートン曰く、「おとぎ話は不条理を許容する。だが、ある面では現実より現実的だ」 先にも記した通りエドワードは、バートン自身が投影されたキャラクター。トンプソンに言わせれば、「現実の世の中にフィットしないアーティストのメタファー」である。 そしてバートンはこのキャラクターに、フランケンシュタインやオペラ座の怪人、ノートルダムのせむし男にキング・コング、大アマゾンの半魚人等々といった、彼が少年時代から愛して止まなかった、モンスターたちを重ね合わせた。彼らは愛を乞うているだけなのに、“怪物”として駆逐されてしまう…。 物語の舞台は、バートンが幼い頃に暮らした、郊外の町バーバンクがモデル。バートン曰く「芸術をたしなむ文化が欠落している」ような場所だ。 トンプソンは脚本執筆のため、バーバンクの住宅地の片隅に住み込み、そこで経験したことを、脚本へと盛り込んだ。例えば、ちょっとした事件が起きると、みんながいちいち家から出てきては見物する描写などが、それである。 バートンは本作を当初、ミュージカル仕立てにしようと考えた。脚本も準備稿の段階では、劇中歌まで書き込まれていたという。結局そのアイディアは放棄されたが、本作は15年後=2005年に、イギリスのコンテンポラリーダンス演出家で振付師のマシュー・ボーンによって、ミュージカルとして舞台化されている。『ビートルジュース』が大ヒットとなり、その後の『バットマン』(99)のクランクインが近づく頃、バートンは本作を製作する映画会社探しを、本格化。トンプソンの脚本のギャラを数千㌦に抑えれば、800~900万㌦ほどの製作費でイケると見込んだ。 バートンは、候補に決めた映画会社に、オファー。その際には、『バットマン』の製作過程での様々な苦闘を教訓に、映画製作に関する決定権が、すべてバートンにあるという条件を付けた。返答の期限は、2週間後。『ビートルジュース』『バットマン』を製作したワーナーは、先買権を持ちながらも、本作の映画化を拒否した。結局この話に乗ったのは、20世紀フォックス。 しかし『バットマン』製作中に、フォックスの経営陣が一新され、本作の製作を決めた者が居なくなってしまうというハプニングが起こる。ところがこれが、幸いする。 新たにフォックスのTOPとなったジョー・ロスが、この企画に前経営陣以上の熱意を示したのだ。彼曰く、「エドワードはフレディ・クルーガー(『エルム街の悪夢』シリーズに登場する殺人鬼)の手をしたピノキオであり、『スプラッシュ』や『E.T.』のように新しい世界に合わせようとして苦しむ人間のかたちをした訪問者だ」 そして本作の製作費は、当初の800万㌦からその2.5倍にアップ。2,000万㌦が用意された。 最初に決まったキャストは、キム役のウィノナ・ライダー。『ビートルジュース』でバートンのお気に入りとなった彼女だが、ブロンドのカツラを付けてのチアリーダーのキムは、学生時代にそうした華やかな存在のクラスメートに悩まされた、オタク気質のウィノナにとっては、非常に演じにくい役であった。 このことが象徴するように、キャスティングは、すべてが意図的にズラされている。キムと付き合うアメフト部員のジム役には、アンソニー・マイケル・ホール。『すてきな片想い』(84)『ときめきサイエンス』(85)など、80年代中盤からハリウッドを席捲した、ジョン・ヒューズ監督の青春もので売り出した俳優である。本作での彼はいつもと真逆で、飲んだくれのろくでなし。凶暴性も秘めた役どころだった。 エドワードを我が家に連れ帰るペグには、ダイアン・ウィースト、その夫にはアラン・アーキンと、名脇役をキャスティングした。 エドワードの生みの親である老発明家役には、ロジャー・コーマン監督によるエドガー・アラン・ポー原作ものをはじめ、数多のホラー作品に出演し、バートンが少年時代から憧れの人だった、ヴィンセント・プライス。 バートンは初監督作で6分の短編『ヴィンセント』(82)で、プライスにナレーションを務めてもらって以来、彼との友情を温めてきた。本作の後には、プライスの一生を綴った伝記映画を準備していたが、彼は93年に他界。結果的に本作が、遺作となった。 一向に決まらなかったのが、肝心の主演。エドワード・シザーハンズ役だった。 フォックスが推したのは、トム・クルーズ。バートンのイメージには合わなかったが、人気絶頂の若手スターを起用して大ヒットを狙うフォックス側の気持ちも理解できたので、何度かミーティングを行った。しかし回を重ねる毎に、クルーズの方も違和感を抱くようになって、この話はポシャった。 他には、ウィリアム・ハートやトム・ハンクス、ロバート・ダウニー・Jr、更にはマイケル・ジャクソンの名まで挙がった。しかしいずれも、バートンにはしっくり来なかった。 候補のリストには名前が載っていなかった、TVドラマの人気シリーズに主演する若手俳優から、バートンに「会いたい」という連絡があった。バートンはそのドラマ「21ジャンプストリート」(87~90)を観たことがなかったし、その俳優ジョニー・デップに関しても、ティーンのアイドルで、気難し屋という噂ぐらいしか知らなかった。 そんなこともあって気乗りしなかったが、まだエドワード役のメドが立っていなかったので、とりあえず会うことにした。 エージェントから渡された『シザーハンズ』の脚本を読んで、「赤ん坊のように泣いた」というデップ。この役を絶対手に入れたいと思い、バートンとコンタクトを取った。そして面会が決まると、バートンの過去作をすべて鑑賞。本作出演への思いを益々強くして、その日に臨んだ。 デップはバートンの顔などまったく知らなかったが、面会の場に赴くと、テーブルに並んだ中に、「色白でひょろっとした、悲しい目の男」を見つけて、すべてを理解した。エドワード・シザーハンズは、「バートン自身なんだ!」と。 初対面だったにも拘わらず、バートンとデップは、まるで旧知の友のようだった。2人は“はみだし者”談義で大いに盛り上がり、意気投合した。 バートンはデップが、大いに気に入った。しかし踏ん切りがつかず、デップの直前の主演作『クライ・ベイビー』(90)の編集室に、その監督のジョン・ウォーターズを訪ねた。そこでデップが映るフィルムを何時間も見つめて、遂に心を決めた。 面会から数週間後、デップに電話が掛かる。バートンの声だった。「ジョニー、君がエドワード・シザーハンズだ」 これが『エド・ウッド』(94)『チャーリーとチョコレート工場』(2005)等々に続いていく、現代アメリカ映画を代表する、監督と俳優のパートナーシップの始まりだった。 エドワード役は主演ながら、主要出演者の中で、最もセリフが少ない。デップは、バートンが起用する決め手になったという“目の演技”や“身体を使った演技”を駆使。そのために、サイレント映画時代からの代表的な喜劇王チャールズ・チャップリンの演技を研究したという。 また演技をしている間は、「昔飼っていた犬の顔を思い浮かべていた……」。家に帰るとルーティンにしたのが、25㌢のハサミの刃を手に付けて、ぎこちなく日々の雑事をこなすことだった。 先にも紹介した通り、バートンは自分の考えを他者に伝えることが至極苦手で、撮影現場での指示も、尻切れトンボのようになってしまう。俳優陣は、激しく腕を振り回すバートンの、支離滅裂な思い付きによる、ほぼ直感的な演出に対応しなければならない。デップはそんなバートンの言を、まるで第六感でもあるかのように、あっさりと読み解いた。 因みにデップも、ヴィンセント・プライスに対して、バートンのようなリスペクトの念を抱いた。デップはプライスから、この世界の厳しさを聞き、「型にはまった役者にはなるな」と諭された。ホラー俳優のイメージがあまりにも強く、それが悩みの種だったプライスからの、自分を反面教師にしろというアドバイスだった。 その当時、デップはウィノナ・ライダーと熱愛中だった。ウィノナは本作の直前に、『ゴッドファーザーPARTⅢ』(90)を、体調不良で降板したのだが、実はジョニー・デップと共演するためだったというゴシップ記事が流れた。先にも記した通り、本作ではウィノナの方が先に出演が決まっていたので、これは根も葉もないデタラメだったが。 バートン曰く、「スペンサー・トレイシーとキャサリン・ヘプバーンを不良にしたようなカップル」だったデップとウィノナは、悲しいラブストーリーを演じ切った。 ゴシック様式の古城のような屋敷は、20世紀フォックスの撮影所敷地内に建てられたが、メインのロケは、町のモデルとなったバーバンクからは遠く離れた、フロリダ州パスコ郡デイドシティの郊外に在る50世帯の協力を得て、行われた。 実際の住人には3カ月間、近くのモーテルに仮住まいしてもらい、借り受けた家々には、様々なパステル調の彩色や、窓を小さくするなどの加工を行った。そしてそれらの庭には、エドワードが刈ってデザインしたという設定の、恐竜、象、バレリーナ、馬、人間などを象った、風変わりな植木を搬入した。こうして、どの時代のどの場所にも属さないような、郊外の町が創り出された。 日中の気温が43度まで上がり、酷い湿気がまるで糊のようにまとわりつくこの地で、スタッフやキャストが悲鳴を上げたのは、虫の大量発生だった。時には空を黒く埋め尽くし、撮影ができなくなるほどだったという。虫が嫌いではないバートンは、まったく平気の平左だったというが。 ギレルモ・デル・トロ監督が、『シェイプ・オブ・ウォーター』(2017)で人間と半魚人の恋を描き、アカデミー賞の作品賞や監督賞を獲った時に、遂にこんな時代がやって来たと感銘を受けた。思えばその先鞭をつけたのが本作、ティム・バートンの『シザーハンズ』だった。 バートンのキャリアの中では、『バットマン』ほどの大ヒットを記録したわけではない。しかし彼の代表作と言えば、必ずこの作品の名が挙がる。製作から30数年経って、その輝きは年々増すばかりの傑作である。■ 『シザーハンズ』© 1990 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2024.12.17
フィンチャー&ブラピ3度目の組合せは、超大作にして“人生讃歌”の異色作『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』
本作『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』(2008)の原作となったのは、いわゆる「失われた世代」の代表的作家の1人、F・スコット・フィッツジェラルドの著作。代表作「グレート・ギャツビー」(1925)に遡ること3年、1922年に出版された短編小説集に所収されている。 南北戦争さなかの1860年。ボルチモアで、バトン夫妻の子どもとして誕生したベンジャミンは、生まれながらにして、70歳の老人の姿だった。普通の人間と違って、彼は老人から青年に、そして子どもへと年々若返っていく。身近な人たち、両親をはじめ妻や我が子までが歳を取っていくのとは、真逆に…。 この小説を執筆するに当たって、フィッツジェラルドにインスピレーションを与えたのは、アメリカの文豪マーク・トウェインの格言だという。「もし人が80歳で生まれ、ゆっくりと18歳に近づけていけたなら、人生は限りなく幸せなものになるだろう」「残念なことに、人生の最良の部分は最初に現れ、最悪の部分は最後に来る」「ベンジャミン・バトン」を映画化しようという試みは、度々持ち上がっては消えた。1980年代、『ファニー・ガール』(68)『追憶』(73)『グッバイガール』(77)などを手掛けたプロデューサーのレイ・スタークが、ロビン・スウィコードの脚本で企画を進めるも、頓挫。 90年代はじめに名乗りを上げたのは、キャサリン・ケネディとフランク・マーシャルのコンビ。2人は、盟友のスティーヴン・スピルバーグを監督に、主演はトム・クルーズで映画化を企てる、しかし途中で、スピルバーグが降板。その後ロン・ハワードをはじめ、何人かの監督が候補となったが、いずれもうまく進まず、企画はペンディングとなった。 因みに『エイリアン3』(92)で長編監督デビューしたばかりのデヴィッド・フィンチャーに最初に声が掛かったのも、この時点。フィンチャーはこの題材に惹かれながらも、断っている。 2000年になると、ケネディ&マーシャル製作、スパイク・リー監督で話が進む。しかし2003年、ロビン・スウィコードの脚本を、エリック・ロスがリライトしたものを、リーが気に入らず、結局彼もこの企画から去る。 以上のような紆余曲折を経て、『セブン』(95)や『ファイト・クラブ』(99)などで評価が高まっていたフィンチャーに、再びお鉢が回ってきたのである。 ***** 2005年ニュー・オリンズの病院で、86歳の老女デイジーが、死の床にいた。彼女は娘のキャロラインに、ベンジャミン・バトンという男性の日記を読んでくれと、頼む…。 1918年、ニュー・オリンズで1人の男児が生を受ける。彼は生まれながらにして、80歳の肉体の持ち主。妻を亡くしたこともあり、ショックを受けた父親は、赤ん坊を老人施設の前に置いて去る。 ベンジャミンと名付けられたその子は、施設で働く黒人女性のクイニーに育てられる。彼はやがて歩き出し、皺が減り、髪が増えていく。 1930年、ベンジャミンは、施設に住む祖母を訪ねてきた、6歳のデイジーと仲良しに。彼は自分の秘密を明かす。 やがてベンジャミンは、マイク船長の船で働くようになり、海、労働、女性、酒などを“初体験”。そんな中で彼に声を掛けてきた中年男性トーマス・バトンこそが、自分を捨てた実の父親とは、まだ知る由もなかった。 クイニーやデイジーに別れを告げ、マイク船長と外洋に出たベンジャミン。様々な国を回り、人妻のエリザベスと恋に落ちる。 しかし太平洋戦争が勃発。恋は終わり、ベンジャミンは、戦いの海に向かう。船長や仲間たちは戦死するも、彼はひとり帰還する。 美しく成長し、ニューヨークでモダンバレエのダンサーとして活躍するデイジーとの再会。彼女に誘惑されたベンジャミンだったが、男女の仲になることを拒む。その後も再会を重ねる2人。お互いが大切な存在でありながらも、それぞれ人生で直面していることが異なり、想いはすれ違い続ける…。 一方でベンジャミンは、重病で死期を目前にしたトーマス・バトンから、実の父だと明かされる。一旦は拒絶するも、父の最期の瞬間には、優しく寄り添うのだった。 1962年のベンジャミンとデイジー、お互いが人生の中間地点を迎えた頃の再会。機が熟したように2人は結ばれ、デイジーは女児を産む。しかし、ベンジャミンは悩む。この後も若返りが進むであろう自分に、“父親”になる資格などあるのか!? そして彼は、愛するデイジーと1歳になった娘の前から、姿を消す…。 ***** フィッツジェラルドの原作からは、主役と骨子だけを頂戴した形となった本作。ほぼオリジナルの設定とストーリーで構成される。 映画の冒頭に盛り込まれるのは、第一次世界大戦で息子を失った、盲目の時計職人のエピソード。彼はニュー・オリンズの駅向けに、針が逆回転する仕様の巨大時計を作り上げるのだが、これには時間を戻し、息子を甦らせたいという、切なる願いが籠められていた…。そんな創作寓話でわかる通り、エリック・ロスは、原作を意欲的に改変している。 ロスはアカデミー賞脚色賞を受賞した自らの代表作、『フォレスト・ガンプ/一期一会』(94)で成功した、主人公の語りによるフラッシュバックで物語を構成していく手法を、本作で援用。ガンプのモノローグの代わりに、ベンジャミンの日記を用いた。 フィンチャーはこの手法に、いたく惹きつけられた。と同時に、2003年に父をがんで亡くした経験と、母デイジーを看取る娘の描写が、シンクロしたという。 90年代の最初のオファーの時、ロビン・スウィコードの脚本を読んだフィンチャーは、「これはラブ・ストーリーだ」と受け止めた。しかし改めてオファーを受け、エリック・ロスの脚本に対峙すると、考えが改まった。「これはラブ・ストーリーだが、実際は死についての物語であり、人生のはかなさをテーマにしている…」と。 原作の舞台はボルチモアだったが、工事のラッシュだったり、フィンチャーの望むような海岸線がなかったりで、ロケ地の変更を余儀なくされた。そこでニュー・オリンズが提案された際、フィンチャーのリアクションは、「そんなのダメだ!ばからしい」というものだった。 しかし現地の写真を見ていく内に、この街が持つ「美しさと、少し恐ろしい雰囲気」に、魅了される自分に気付く。こうしてロケ地が、決まった。 ところが撮影開始前の2005年8月、超巨大ハリケーンのカトリーナがニュー・オリンズを襲い、甚大な被害が生じる。果して予定通りに撮影できるのか?プロデューサーたちは危ぶんだが、ハリケーンの2日後、ニュー・オリンズ市から電話が入った。それは、計画通りに撮影を進めて欲しいとのリクエストだった。 ベンジャミン・バトン役に決まったのは、“ブラピ”ことブラッド・ピット。フィンチャーとは、『セブン』(95)『ファイト・クラブ』(99)に続く、3度目の組合せである。 ピットとフィンチャーは随時、複数のプロジェクトについて話し合いを行う仲。話題に上る中では、「ベンジャミン・バトン」は、最も実現性が薄い企画だと、ピットは考えていた。 しかしフィンチャーに加えて、エリック・ロスらと濃い話し合いをしていく内に、「この人たちと一緒にいるという目的のためだけでも」、この企画をやる価値があると思うようになっていった。トドメは、フィンチャーのこんな言い回し。「この映画を、お互いに頼り合う話にしてはならない。そうではなく、人が成長していく物語なんだ」。ピットは「とても美しい」表現だと感じ入った。 80歳で生まれてくるベンジャミンの、老年期の撮影はどうするか?老いているベンジャミンを演じた何人もの俳優の顔に、特殊メイクをしたブラピの顔を貼り付けるという手法を採った。ピットの顔の動きをスキャンしてコンピューター上に再現。それから、口や表情の動きとピットの台詞をシンクロさせてから、実写のシークエンスに移植したのである。 因みに撮影中のピットは、大体午前3時頃に起床。コーヒーを飲みつつ特殊メイクを行った後、丸1日撮影。それが終わると、また1時間掛けてメイクを落とすという繰り返しだった。眠たくても、椅子で寝るしかなかったという。 ベンジャミンの生涯を通じてのソウルメイトであり、恋人にもなる女性デイジー。その名は、同じ作者の「グレート・ギャツビー」のヒロインから取られている。このアイディアは、エリック・ロスがリライトする前の。ロビン・スウィコード脚本からあったものだ。 演じるは、ブラピとの共演は、『バベル』(2006)での夫婦役以来2度目となる、ケイト・ブランシェット。実はフィンチャーは、『エリザベス』(98)で彼女の演技を見て以来、彼女のことが頭から離れず、念願のオファーであった。 10代から86歳まで演じるブランシェットの、特殊メイクに掛かる時間は、短くても4時間。長い時には、8時間ほども掛かったという。また6歳からの子ども時代に関しても、声はブランシェットが吹き替えているというから、驚きである。 ベンジャミンがデイジーと娘の元を去って20年ほど後、少年の姿で認知症となるも、所持品から身元がわかり、昔育った老人施設に引き取られる。連絡を貰ったデイジーも、施設に入居。彼の面倒を見ることにする。 こうして迎えるベンジャミンとデイジーの物語の終幕近く、かつての恋人が誰かもわからない、よちよち歩きの幼児となってしまったベンジャミンは、老いたデイジーと手をつなぎ、散歩をしている最中、突然立ち止まって彼女の手を引っ張る。彼はキスをせがみ、それが終わるとまた歩き始める。 この2人の仕草は、指示などしたわけではないが、まさにベンジャミンとデイジーの長きに渡る歴史を表しているかのようだった。それをカメラに収められたのは、まさに映画の神が微笑んだかにも思える、“偶然”だったという。 そして赤ん坊に戻ったベンジャミンは、デイジーに抱かれながら、息を引き取る…。 フィンチャーは準備から5年もの歳月を掛かった本作の完成が近づいた時、「これは自分でも、ブルーレイで所有したい映画だな」と思ったという。 パラマウント、ワーナー・ブラザースという2つのメジャースタジオの協力を得て、1億5,000万㌦以上に及ぶ、巨額の製作費を投じた本作。刺激的な事件やエキセントリックな人物を扱ってきた、それまでのフィンチャーのフィルモグラフィーを考えると、異色の作品となった。 人生の考察を行うようなその内容には、賛否両論が沸き起こったが、その年度のアカデミー賞では、最多の13部門にノミネート。フィンチャーは初めて“監督賞”の候補となった。 しかしこの年は、ダニー・ボイル監督の『スラムドッグ$ミリオネア』が、作品賞、監督賞を含む8部門を搔っ攫う。また本作の演技で“主演男優賞”候補だったブラッド・ピットも、『ミルク』で実在のゲイの運動家で政治家のハーヴェイ・ミルクを演じたショーン・ペンに敗れる 最終的には、美術賞、メイクアップ賞、視覚効果賞という、コレが獲らなきゃさすがに嘘だという受賞だけに止まった。しかし、限られた人生に於ける“一期一会”を描いた本作の普遍的な感動は、いま尚色褪せないように思える。■ 『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』© Paramount Pictures Corporation and Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2025.01.10
『クイック&デッド』西部劇とシャロン・ストーンの組合せで、生まれ出たものとは!?
「彼女には何度も感謝した。実際に何か贈り物を送ったかどうかは覚えてないけど、とにかく、いくら感謝しても仕切れない」 一昨年=2023年の11月、アメリカの芸能番組に出演したレオナルド・ディカプリオが、語った言葉である。ディカプリオが深い感謝を捧げた“彼女”とは、シャロン・ストーン。 1958年生まれ、60代も半ばとなったストーンに、ディカプリオはどんな恩義があるのか?話は30年ほど前に遡る…。 1990年代前半のハリウッドには、時ならぬ“西部劇”のブームが起こっていた。 口火を切ったのは、『ダンス・ウィズ・ウルブス』(90)。製作・監督・主演を務めたケヴィン・コスナーには、アカデミー賞の作品賞と監督賞がもたらされた。 その2年後には、クリント・イーストウッドの“最後の西部劇”『許されざる者』(92)が登場。コスナーと同様、イーストウッドも、作品賞と監督賞のオスカーを掌中に収めた。 いずれも大ヒットを記録した、この2本に触発され、続々とウエスタンが製作・公開された。『ラスト・オブ・モヒカン』(92)『ジェロニモ』(93)『黒豹のバラード』(93)『トゥームストーン』(93)『マーヴェリック』(94)『バッド・ガールズ』(94)『ワイアット・アープ』(94)…。『クイック&デッド』(95)も、そんな流れの中で企画され、リリースされた1本である。その製作陣は、ブームに乗るに当たってもう一つ、“旬”の要素を付け加えた。 それは主演に、シャロン・ストーンを迎えることだった! 1980年にデビューしたストーンの20代は、B級アクションの添え物的な役柄ばかり。キャリア的には、燻っていた。しかし90年代を迎え、30代前半となった彼女に、ブレイクの時が訪れる。 アーノルド・シュワルツェネッガー主演のSF超大作『トータル・リコール』(90)に出演後、同作のポール・ヴァーホーヴェン監督に再び起用されたサイコサスペンス、『氷の微笑』(92)である。この作品で彼女が演じたのは、ヒロインにして猟奇殺人の容疑者キャサリン・トラメル。 世間の耳目を攫ったのは、キャサリンが警察の取り調べを受けるシーン。タイトスカートでノーパンという装いで椅子に座る彼女が、足を組み替える際に、「ヘアが映る」「股間が見える」と、センセーションを巻き起こしたのである。『氷の微笑』は、こうしたシーンに代表される、扇情的な性描写が大きな話題となって、メガヒットを記録。以降のストーンは主演作が相次ぎ、客が呼べる存在となっていった。『クイック&デッド』の製作陣は、そんな彼女に主演をオファーするに当たって、 “共同プロデューサー”という地位も与えた。 ***** 19世紀後半の西部の街。カウボーイハットにロングコートの女ガンマン、エレン(演;シャロン・ストーン)が馬に乗って現れる。 彼女の目的は、 “早撃ちトーナメント”に出場すること。主宰するのはこの街の支配者で、悪名高きへロッド(演;ジーン・ハックマン)だった。一癖も二癖もあるガンマンたちが集結する中、へロッドは自らもトーナメントに出場することを、宣言。彼の狙いは、自分の命を狙う者たちを、この機会に一掃することだった。 かつてはへロッドの仲間だったが、改心して牧師になったコート(演;ラッセル・クロウ)も、教会を焼き打ちされ、トーナメントに無理矢理参加させられることになる。 酔いに任せ、やはりトーナメントに出る若者キッド(演;レオナルド・ディカプリオ)とベッドを共にしたエレン。彼がへロッドの息子だと聞いて、愕然とする。 エレンの真の目的は、“復讐”。そのターゲットは、彼女の幼き日に、眼前で父を惨殺した、へロッドだった。 トーナメントが、遂にスタートする。次々と行われるガンファイトを順当に勝ち進んでいくのは、エレン、コート、キッド、そしてへロッドの4人。 最後まで生き残るのは!?果してエレンは、積年の恨みを晴らすことができるのか!? ***** 『クイック&デッド』は直訳すれば、「早撃ちと死体」。即ち「早撃ちだけが生き残る」といった意味合いである。 そのタイトルロールとも言うべき、女ガンマンを演じることとなったストーンは、撮影前、早撃ちの世界チャンピオンから銃のコーチを、マン・ツー・マンで受けた。泥にまみれた衣装に身を包んだ彼女が、どんなガン裁きを見せるかは、実際にその目で確かめて欲しい。 先に記した通り、本作のストーンは、主演であると同時に、共同プロデューサー。こうしたケースでは、プロデューサーとは「名ばかり」の、お飾りであるケースが少なくない。 しかし、ストーンは違っていた。まずは、本作のキャスティング。共演者選びには、彼女の意向が強く反映されている。 キッド役は、数人の若手俳優がオーディションを受けた。その中でストーンが選んだのが、レオナルド・ディカプリオだった。『ギルバート・グレイブ』(93)で、二十歳を前にしてアカデミー賞助演男優賞の候補になったディカプリオは、“若き天才”と謳われた。しかし本作のキャスティング作業が行われたのは、そうした評価がされる前。映画会社は彼のことを、「無名の存在」と切って捨てようとした。 ストーンはディカプリオの起用にこだわった。そして遂には自腹を切って、彼へのギャラを払うことに決めた。冒頭で紹介した、ディカプリオが「いくら感謝しても仕切れない」という発言は、この時の経緯に対してである。 コート役に、ラッセル・クロウを当てたのも、ストーンだった。当時のクロウは、オーストラリアを代表する演技派スターではあったが、アメリカではまったく知られていなかった。 ストーンはそんな彼のスケジュールを鑑みて、オーストラリアから移動して来られる時間を稼ぐために、映画の撮影を2週間ほど遅らせるように、映画会社と折衝した。後にはオスカー俳優となる、クロウのハリウッドデビューは、こうして実現したのである。 共演者だけではない。実は監督のサム・ライミも、ストーンの指名だった。当時のライミは、『死霊のはらわた』シリーズなど、B級ならぬZ級ホラーの作り手というイメージがまだまだ強く、映画会社の拒否反応が強かった。 しかし『死霊の…』シリーズ第3弾にして、彼の前作である『キャプテン・スーパーマーケット』(93)の大ファンだったストーンが、必死に交渉。ライミを監督に据えることにも、成功した。 ライミと言えば、残酷描写と時には悪ふざけにも映るユーモアをあわせ持った演出が、特徴。変幻自在で、トリッキーなカメラワークを駆使することでも知られる。 そんな彼は本作に関して、「ジョン・フォードよりもセルジオ・レオーネに負うところが多い」と発言。つまり、ハリウッド流の正統派ウエスタンよりも、60年代半ばから70年代初頭に掛けて、イタリアをベースに数百本が製作された、“マカロニ・ウエスタン”のタッチを目指したことを、明らかにしている。 歴史観やストーリーの整合性などは無視あるいは軽視し、主人公が必ずしも正義の味方などではなく、悪党であることも少なくない…。とにかく娯楽優先で、残虐描写なども厭わない。そんな“マカロニ・ウエスタン”を、西部劇の本国アメリカで再現しようとしたわけだ。 舞台となる西部の街に存在するのは、“マカロニ・ウエスタン”に必携な、酒場、賭博場、売春宿に鉄砲店、そして棺桶屋。本来なければおかしい、学校、銀行、金物屋などは、ストーリーと無関係のため、敢えてセットを組まなかった。 衣裳は、わざわざローマのスタジオから取り寄せられた。それらは“マカロニ・ウエスタン”全盛期に、スクリーンを彩ったアイテム。 アラン・シルヴェストリの音楽は、ギターにトランペットを重ね、もろに“マカロニ”風味に仕上げられた。 そうした環境を整えた中でのライミ演出は、銃を抜く寸前に、ガンマンたちの極端なまでのアップを何度も入れたり、銃弾が頭部や身体に当たると、“風穴”をぶち開けたりといった、“マカロニ”風味を、正しく自分のものにしている。クライマックスのガンファイトで、ダイナマイトが街の至る所で炸裂するに至っては、拍手喝采である。 映画マニアで知られるサム・ライミのことだから、さぞかし“マカロニ・ウエスタン”の大ファンで、そうした嗜好をスクリーンに反映させたのだろう。…と思いきや、実はそうではなかった。 1993年に“マカロニ・ウエスタン研究家”のセルジオ石黒氏が、ある取材のためにアメリカのユニヴァーサル撮影所に行ったところ、偶然ライミ監督に会ったという。 彼が西部劇、つまり本作を準備中と聞いたセルジオ氏が、「もちろんマカロニ・ウエスタンは好きなんですよね?」と問うたところ、「あまり詳しくはないんだ。クリント・イーストウッドが出てるセルジオ・レオーネの映画は観たけど」との返答。ライミはレオーネ監督作でも、『ウエスタン』(68)などは未見だった。 そこでセルジオ氏は帰国後、面白い“マカロニ・ウエスタン”のビデオを適宜見つくろって、ライミ監督宛に送付。至極感謝されたという。 このエピソードは、ライミ監督が元々は「ホラーは苦手」だったという逸話を思い出させる。仲間から「世に出るなら、低予算のホラーだ」と説き伏せられたことから、苦手を克服して、様々なホラー作品を研究。遂には“エポック・メーキング”と言える、『死霊のはらわた』(81)を生み出したのは、あまりにも有名である。 本作『クイック&デッド』を撮るに当たっても恐らく、その時と同様の研究を行ったのであろう。その上で、93年後半から94年はじめに掛けて、アリゾナ州のオールド・ツーソン・スタジオで行われた、本作の撮影に臨んだのだ。 本作は残念ながら、ストーンのキャラクターが、“マカロニ”にしては、善良且つ生真面目すぎるという、欠点がある。ストーンは『氷の微笑』での当たり役“悪女”キャラから、少しでも離れようとしたのかも知れない。しかし、かつてクリント・イーストウッドがレオーネの“ドル箱3部作”で演じた“名無しの男”のように、もっと正体不明の冷淡なキャラにした方が、よりストーンの個性にマッチした上、“マカロニ”っぽくなったのは、間違いない。 そんなことも災いしてか?『クイック&デッド』は、製作費3,500万㌦に対して、アメリカ本国では、1,800万㌦の興行収入に止まった。つまり製作費を、ペイできなかったのである。 ただそんな数字以上に、本作はディカプリオにラッセル・クロウ、そしてサム・ライミという、この後にハリウッドをリードしていく“才能”を、シャロン・ストーンが推したという事実が、素晴らしく光る作品である。 特にライミの場合、本作=西部劇を監督したことがきっかけで、クライム・サスペンスの『シンプル・プラン』(98)、スポーツ映画の『ラブ・オブ・ザ・ゲーム』(99)、スリラーの『ギフト』(2000)と、様々なジャンルの作品を手掛けるようになった。そして、ただのホラー監督ではない、クライアントのオファーに応えられる職人監督と、高く評価されるようになっていく。 このことが後には、ライミ長年の念願だった、巨額の製作費を投じたアメコミ映画、トビー・マグワイア版の『スパイダーマン』シリーズ(2002~07)の実現へと、繋がっていくのである。 そんなことを考えながら、シャロン・ストーンに見出された、これからステップアップしていく、若き映画人たちの跳梁を愛でるのも、製作・公開からちょうど30年経った、本作の楽しみ方の一つと言えるかも知れない。■ 『クイック&デッド』© 1995 TriStar / JSB Productions, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2025.01.14
天才スピルバーグが、念願の“恐竜映画”で起こした映画史の“革命”!『ジュラシック・パーク』
幼い頃からの“恐竜”ファンで、最初に覚えた長い言葉は、“ティラノサウルス”や“トリケラトプス”等々、様々な恐竜の名前だった。長じては、ずっと“恐竜映画”を撮ることが夢だったという、スティーヴン・スピルバーグ。 しかし“映画の天才”の名を恣にした彼でも、そのプロジェクトには、なかなか踏み切れなかった。大きな理由は、2つ。 ひとつは、恐竜が実際に居た時代を題材にする気はなく、かと言って現代を舞台にすると、太古の昔に絶滅した恐竜が存在する理由が見つからない。もうひとつは、技術的な問題。スクリーンを闊歩する姿が“本物”に見えないような、“恐竜映画”を作りたくはなかったのだ。 機を得るのも、また“天才”の為せるワザなのだろうか?それらの課題をクリアーして“恐竜映画”を撮る、絶好の機会が巡ってきた。 1990年5月。その年の秋に出版される予定の長編小説のゲラが、ハリウッドの各映画会社に送りつけられた。その小説は、ベストセラー作家マイケル・クライトンの筆による「ジュラシック・パーク」。映画化権を150万㌦からのオークションに掛けるという告知だった。 1㌦でも多くの金額を入札した者が、映画化権を得るという、単純な取引ではなかった。落札を望む映画会社は、配給収入からの歩合、商品化権の扱い等に加えて、監督には誰を据えるかといった、映画の製作体制まで、提示しなければならなかったのである。 このオークションには、コロンビア、フォックス、ワーナー、ユニヴァーサルの4社が参加。コロンビアがリチャード・ドナー、フォックスがジョー・ダンテ、ワーナーがティム・バートンを監督候補に立てる中で、オークションを勝ち抜いたのは、ユニヴァーサルだった。 150万㌦に50万㌦を上乗せした200万㌦を提示したのは、他社も同様だった。決め手となったのは、監督にスピルバーグを掲げたことだったと言われる。 スピルバーグも、ノリノリだった。小説「ジュラシック・パーク」には、彼が長く待ち望んだ、現代に恐竜を甦らせる“説得力”があったからだ。またその頃になると、技術面をクリアーする目算も、立ってきた。 その年の夏に、映画化のプロジェクトは、スタート。スピルバーグは、『ウエストワールド』(73)『大列車強盗』(79)等で監督・脚本を手掛けた経験もあるクライトンに、シナリオの草稿を依頼。8カ月掛かって書き上げられたクライトンの原稿のブラッシュアップは、スピルバーグの弟子ロバート・ゼメキス監督の『永遠に美しく…』(92)の脚本などで注目された、デヴィッド・コープに任された。 ***** アメリカの砂漠で、恐竜の化石の発掘調査を行う、古生物学者のグラント博士(演:サム・ニール)と、彼の恋人で古植物学者のエリー・サトラー博士(演:ローラ・ダーン)。 2人の元を、発掘のスポンサーである財団の創設者ジョン・ハモンド(演:リチャード・アッテンボロー)が、訪れる。彼の依頼は、コスタリカ沖に買った島の視察。資金援助の増額を約束され、グラントとエリーは、ハモンドに同行することを決める。 島には彼ら以外に、数学者のイアン・マルコム博士(ジェフ・ゴールドブラム)、財団の顧問弁護士ジェナーロ、ハモンドの孫アレックスとティムも招かれていた。到着した一行は、そこで信じられないものを、目撃する。それは、生きている恐竜たちだった。 ハモンドが「ジュラシック・パーク」と名付けたこの島の施設は、ジュラ紀から白亜紀を再現した、驚異の世界だった。恐竜たちは、その血を吸った状態で琥珀に閉じ込められた古代の蚊の体内から取り出されたDNAを利用し、最新のバイオテクノロジーを駆使して、甦らされたものだった。 自信満々のハモンドを、マルコムは「人類の驕り」と批判。グラントたちも、不安を感じる。 折しも島に嵐が近づく中、人為的なトラブルによって、恐竜たちの行動を制御していた高圧電流などの保守システムが、作動しなくなる。ちょうど「パーク」内のツアー中だった、グラントやマルコム、子どもらは、ティラノサウルスなど、凶暴な恐竜が牙を剥く真っ只中に、取り残されてしまう…。 ***** 90年9月。スクリーン上に恐竜たちを息づかせるためのメンバー集めが始まった。 スピルバーグはこの時点では、CG=コンピューター・グラフィックをメインの技術に使う気は、毛頭なかった。最先端の技術が投入された『アビス』(89)や『ターミネーター2』(91)などを見ても、リアルな生物をスクリーンに再現するところまでは、まだ到達していなかったからだ。 彼が採用を決めた技術の2本柱は、“ロボティクス”と“ゴーモーション”。 当初スピルバーグは、前者の技術を以て、体長6㍍のティラノサウルスの実物大のロボットを制作し、自足歩行させることを考えた。しかし莫大な金銭が掛かることが判明して、断念。 スタン・ウィンストン率いるチームは、恐竜の表情や上体、体の一部が稼働するロボットを作ることになった。 チームはリサーチに1年を掛け、詳細なスケッチ画と完成見取り図を準備。これを元に細かな工程を経て、耐久性と繊細さを兼ね揃えたラテックスを用いた皮膚を持つ、ティラノサウルスが制作された。豊かな色調で着色して、外見は完成。これを液圧テクノロジーと飛行シュミレーターを基にした“恐竜シュミレーター”の上に乗せ、コンピューターのコントロール・ボードを通じて、自由自在に作動できるようにしたのである。 “ロボティクス”技術を以ては、他にヴェラキラプトル、ブラキオザウルスに、ガリスミス、ディロフォサウルス、病気で横たわるトリケラトプスに、卵から孵るラプトルの赤ん坊などが、制作された。 スピルバーグが、もう1本の柱として考えた“ゴーモーション”は、ミニチュアのパペットを使ってコマ撮りを行う技術。その第一人者である、フィル・ティペットが担当することとなった。『ジュラシック・パーク』には、スピルバーグの盟友ジョージ・ルーカスが率いる特撮工房「ILM=インダストリアル・ライト&マジック」も参加。しかし腕利きのCG技術者デニス・ミューレンのチームも、本作に於いては、恐竜が遠くで動いている「パーク」の風景を作る等の、地味な役割を担うのに止まる予定だった。 ところが1年後、CG制作に於いて画期的なソフトが開発されて、事態は大きく変わる。ミューレンのチームが作った、ティラノサウルスが太陽の光の中を歩く姿を見て、スピルバーグは仰天!“ゴーモーション”の使用は急遽取りやめとなり、恐竜たちはCGで制作されることになったのだ。 これは“映画史”に於ける、大いなる“事件”だった。VFXに於いて長年主流を占めていた、“オプティカル=フィルムの光学合成”が“エレクトロニクス”に、“アナログ”が“デジタル”に、劇的に置き換えられる瞬間が訪れたのだ。 “ゴーモーション”の匠フィル・ティペットも、“失業”を覚悟せざるを得なかった。しかしCGで作った恐竜の動きは、正確ながらも、まだロボットのような感じが残っていた。 そこでティペットは、“恐竜スーパーヴァイザー”として、本作の特撮スタッフに残留となった。具体的には、恐竜の動きを“ゴーモーション”さながらに、1コマずつコンピュータに入力するシステムを開発。恐竜全体の監修と同時に、CGスタッフたちにその動きを教えるという、大きな役割を果した。 こうした“恐竜”の制作が佳境に入っていく中、スピルバーグを訪ねてきた男が居た。レイ・ハリー・ハウゼン、“ゴーモーション”に先駆ける技術“ストップ・モーション”を駆使して、スクリーン上の恐竜やモンスターに命を吹き込んだ天才。フィル・ティペットも“師”と仰ぐ、偉大な存在だった。 スピルバーグにとってもハウゼンは、憧れの人。彼が“恐竜映画”を撮りたいと考えたのも、『シンドバッド』シリーズ(58~77)や『アルゴ探検隊の大冒険』(63)、『恐竜百万年』(66)などの作品で、ハウゼンの特撮に触れたことが、大きなきっかけだった。 スピルバーグは、CGで作った恐竜の試作映像をハウゼンに見せた。ハウゼンは驚嘆し、そして言った。「なんと。君の未来があるじゃないか。これが映画の未来なんだな」 実際に『ジュラシック・パーク』に登場するCGショットは7分足らず。しかしミューレン以下50人のスタッフが、1,500万㌦に相当する機材を駆使しても、18カ月を要した。 俳優が演じる実写パートは、本作の準備が始まってから2年以上が経った、92年8月24日にクランク・イン。ハワイのカウアイ島を、コスタリカの孤島に見立て、3週間のロケ撮影が行われた。 ロケの最終盤でハリケーンに直撃されるというトラブルはあったものの、その後アメリカ本土でのロケや、ユニヴァーサルやワーナーのスタジオを使っての撮影など順調に進み、予定した4カ月よりも、12日間も早く撮影を終えた。 撮影中に、“天才の強運”を感じさせる“新発見”もあった。ユタでヴェロキラプトルの新たな化石が発掘されたのだ。 それまでラプトルは、人間よりは小さなサイズと考えられていた。しかしスピルバーグは、『ジュラシック・パーク』に1.8㍍のラプトルの登場を構想していた。 そんなタイミングで見つかった化石は、まるでスピルバーグの願いが届いたかのような代物。それまでの通説の倍の大きさで、僅かながらだが、人間よりも大きかったのだ。 スピルバーグは自信を持って、スクリーンに望んだサイズのラプトルを躍らせることが可能になった。 ポスト・プロダクションに入って、実写部分だけで、まだ特殊撮影が合成されていない状態のラフな編集の段階で、スピルバーグは一旦、『ジュラシック・パーク』から離脱せざるを得なくなった。ユダヤ系アメリカ人のスピルバーグにとっては、『ジュラシック・パーク』とは違った意味で、撮らなければならなかった作品、ナチドイツのホロコーストから1,100人のユダヤ人を救った実在の人物を描く、『シンドラーのリスト』の撮影のため、ポーランドへ向かわねばならなくなったからである。 しかしスピルバーグのチェックを経ずに、『ジュラシック・パーク』は完成しない。特殊効果とCGが加工された段階で、映像は通信衛星を使って、ポーランドへと送信。スピルバーグは、日中は『シンドラーのリスト』を撮影し、夜は『ジュラシック・パーク』の編集を行うという“荒業”で、両作を完成させたのである。『ジュラシック・パーク』は、当初5,600万㌦だった予算が、6,500万㌦にまで膨らんだ。しかし93年6月に公開されると、大ヒットを記録。全世界での興行収入は9億1,200万ドルを超え、当時の最高記録を更新した。 私は今でも鮮明に覚えている。その夏、今はなき新宿プラザ劇場の大スクリーンに出現した、“本物”の恐竜の動きと咆哮に、心底吃驚させられたことを。そして“天才”スピルバーグが起こした“革命”を目の当たりにした、幸せを嚙み締めたのである。「第66回アカデミー賞」で本作は、音響編集賞、録音賞、そして視覚効果賞の3部門を受賞。視覚効果賞は、スタン・ウィンストン、デニス・ミューレンらと共に、フィル・ティペットにも贈られた。 同じ回のアカデミー賞で、作品賞をはじめ7部門を受賞したのは、『シンドラーのリスト』。長年アカデミー賞と縁がなかったスピルバーグの手に、初めて監督賞のオスカー像が渡された。 まったくベクトルが違う、『ジュラシック・パーク』『シンドラーのリスト』の両作を同じ年に公開し、合わせて10個のアカデミー賞を獲得。紛れもない、“世界一の大監督”の偉業であった。■ 『ジュラシック・パーク』© 1993 UNIVERSAL CITY STUDIOS, INC. AND AMBLIN ENTERTAINMENT, INC. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2025.01.31
ミシェル・ゴンドリー&チャーリー・カウフマン 超くせ者コンビが放つ、愛の記憶にまつわる物語『エターナル・サンシャイン』
フランス・ベルサイユ生まれの、ミシェル・ゴンドリー。美術学校の仲間と結成したロックバンドのPVを自ら手掛けたのを、アイスランドが生んだ歌姫ビョークに見初められたのが、世に出るきっかけとなった。 ビョークとのコラボに続き、ローリング・ストーンズ、ベック、ケミカル・ブラザース、カイリー・ミノーグ、レディオヘッド等々の有名アーティストのPVを次々と手掛けた。やがてCMディレクターとしても、名を馳せるようになる。 1998年、30代中盤となったゴンドリーは、当時付き合っていた女性に対し、ほとほと嫌気がさしていた。そしてボヤいた。「もし彼女の記憶を消せたらなぁ~」 本作『エターナル・サンシャイン』(2004)は、ゴンドリーのそんな愚痴が元となって,スタートした企画だった。 このアイディアを脚本にしてくれる書き手を探すと、面白がってくれる者は多かったが、皆が皆“SFサスペンス”にしようと持ち掛けてくる。思考回路が「ずっと12才のまま」と自称するゴンドリーは、そのようなありきたりのアイディアには、ノレなかった。 そんな折りに出会ったのが、チャーリー・カウフマン。実在の俳優ジョン・マルコヴィッチの頭の中に入れる不思議な穴を巡って展開する奇想天外な物語、スパイク・ジョーンズ監督の『マルコヴィッチの穴』(99)でブレイクした脚本家である。 カウフマンの提案は、「男女の関係についての話にしたい」というもの。ゴンドリーは、「それだ!」と思った。そして、2人の共同作業が始まった。 本作で長編映画監督としてのキャリアをスタートするつもりだったゴンドリーだが、それは一旦お預けになる。先に撮ってデビュー作となったのは、『ヒューマンネイチュア』(2001)。カウフマンが、本作から一旦逃亡した際に、手打ちとして差し出した脚本だったという。 紆余曲折がありながらも、ゴンドリーとカウフマンの協同は続いた。2人は、人間の脳や記憶について研究を重ねた。 記憶はどんどん変質し、しかも時間通りに整然と連続したものではなくなっていく。ある記憶の断片が、全然関係ない時の記憶とつながったり、混ざったりする。記憶は事実の記録などではなく、事実に対するその人の解釈の記録と言える。 恋愛がうまくいかなくなった時や失敗に終わった時、こんな辛いことは忘れてしまいたいと、多くの者が思う。しかし後になってから思い返すと、その恋の記憶は、「大切な宝物」になっている。 そうしたことを、どうやって映像化するか? 因みに本作の原題は、『Eternal Sunshine of the Spotless Mind』。「一点の汚れもなき心の永遠の陽光」という意味である。本編にも登場する、18世紀のイギリス詩人アレクサンダー・ポーブの恋愛書簡詩「エロイーズからアベラールへ」からの引用ということだが、カウフマン曰く、「…一発で覚えにくいから面白い…」と思って、このタイトルにしたという。 こうして作られた脚本は、キャスティングが始まる前から、オフィシャルではない草稿が出回ってしまい、多くの業界関係者が目にすることとなった。そんな中の1人に、ジム・キャリーが居た。 当時のキャリーは、主演作は大ヒットが確約されているような存在で、1本の出演料が20億円にも上るようなスーパースター。そんな彼から、本作のプロデューサーに電話が掛かってきた。低予算の本作に、ただ同然のギャラでも「出たい」ということだった。 ミシェル・ゴンドリーはこの知らせに、興奮してから、すぐ心配になった。本作の主人公であるジョエルは、恋人に「退屈」と言われてしまうほど、地味な性格。『マスク』(94)や『ジム・キャリーはMr.ダマー』(94)、『グリンチ』(2000)等々、スクリーン上でエキセントリックに躍るキャリーとは、どう考えても正反対のキャラクターだったのだ。 ゴンドリーらは、キャリーの主演作『ブルース・オールマイティ』(03)の撮影現場を訪ねた。いつものように、オーバーな演技をしていたキャリーだったが、本番の合間に素に戻ると。ごく普通の男だった。カウフマンは、「…彼の中にもジョエル的なものがあった」と感じたという…。 ***** 恋人たちの日“バレンタインデー”直前、ジョエル(演:ジム・キャリー)は、喧嘩別れしてしまったクレメンタイン(演:ケイト・ウィンスレット)と仲直りしようと思い、彼女の勤務先の書店に出向く。しかし彼女は、ジョエルをまるで会ったことなどない者のように対応し、現れた若い男とイチャつく。 ショックを受けた彼に、友人が手紙を見せる。その文面は、「クレメンタインはジョエルの記憶をすべて消し去りました。今後、彼女の過去について絶対触れないようにお願いします」というもの。 ジョエルは、クレメンタインが記憶消去の施術を受けたラクーナ社を訪ねてみる。そして彼も、ハワード・ミュージワック博士(演:トム・ウィルキンソン)が開発した、記憶消去の手術を受けることを決める。 ジョエルが自宅で一晩寝ている間に、訪れたラクーナ社のスタッフたち(マーク・ラファロ、イライジャ・ウッド、キルスティン・ダンスト)が、現在から過去へと記憶を消していく。 しかし逆回転で、クレメンタインとの交際期間を振り返っていく内に、ジョエルは忘れたくない、楽しかった時間の存在に気付き、眠りながらも手術を止めたいと、夢の中で必死に逃げ回る。 抵抗虚しく、結局手術は無事に終了。目覚めたバレンタインデーの朝、ジョエルはクレメンタインの記憶を、すべて失っていたのだが…。 ***** ほとんどの映画は、主人公の男女が愛し合っていることを確認したら、そこで終わってしまう。しかし実際は、「長く付き合えば、相手の嫌な面も色々見えてくる」。ジム・キャリーが本作の脚本に惹かれたのは、まさにそこだった。本作は他の映画が見せない、「そこから先を」描いているというわけだ。 本作の脚本を書く際に、カウフマンは時間軸に沿ったジョエルの記憶の地図を作って、居場所を確認しながら書いていった。この記憶の地図は、ゴンドリーがジム・キャリーに、いま演じているのは、ジョエルの記憶のどの部分なのかを説明する際にも、役立った。 相手役のクレメンタインは、ケイト・ウィンスレット。イギリス生まれで古風な顔立ちの彼女は、『タイタニック』(97)のヒロインをはじめ、“コルセット・クイーン”的な、古風な英国女性を多く演じてきた。 ところが本作では、エキセントリックさを持ったニューヨーク娘。いつもはジム・キャリーがやっているような役とも言える。 ウィンスレットがゴンドリーに、どの作品を観て、自分にオファーしたのかを問うた。ゴンドリーは、「うーん、わからないけど、君はラブリーでクレイジーだから、君に出来ると感じたんだよね」と答えたという。 因みにクレメンタインは、気分によって髪の色を変えてしまうという設定。撮影は、時制的に順撮りというわけにはいかなかったので、ウィンスレットは、午前は赤い髪、午後は青い髪といった風に、カツラを変えて演じることとなった。 脇を固めたのは、ベテランのトム・ウィルキンソンに、若手のイライジャ・ウッド、キルスティン・ダンスト、マーク・ラファロといった面々。プロデューサーのスティーヴ・ゴリンによると、「金のためにこの仕事を引き受けた者はいなかった…」という。 いよいよ撮影本番が近づいてくると、ミシェル・ゴンドリーが感じるプレッシャーやストレスは、ただならぬものになっていた。「この映画に集まってくれたキャスト、スタッフの興味が、僕という人間よりもチャーリー・カウフマンの脚本の方に向けられていたのは痛いほどわかっていた…」からだ。実際にケイト・ウィンスレットも、「チャーリー・カウフマンが書いた脚本だ、なんて言われたら、誰だって読む前に出演を決めるんじゃないかしら」などとコメントしている。 ゴンドリーが「ちょっとした屈辱」を覚えながらも、2003年1月に、本作はクランク・イン。4月までの3ヶ月間、主にニューヨーク市で撮影が行われた。いざカメラが回り始めると、ゴンドリーへの皆のリクアションは、早々に変化が見られるようになった。 キャリーやウィンスレットが、友人や家族などに電話して、すごいシーンを撮ってるから見に来いよと誘っている姿を目の当たりにして、ゴンドリーはホッと胸を撫で下ろした。ラファロやダンスト、イライジャ・ウッドも、「キャンプに集う悪ガキ」のように、大はしゃぎで撮影に臨んでいたという。 ゴンドリーの演出法は、独特だった。他の監督たちのように、「スタート」でカメラを回し、「カット」で止めるというわけではない。本番もリハーサルもなく、ずっとカメラを回し続けるのである。 トム・ウィルキンソンはカメラの動きがまったく掴めないことに当初戸惑いながらも、この演出法が気に入った。彼の経験上、最上の演技は、「…リハーサルの間に起こることが多い」からである。ゴンドリー式ならば、これまでは往々にしてあった、「何で今カメラが回っていなかったんだ」と、悔やむことが避けられる。 ジム・キャリーは撮影が始まると、どんどんアドリブを加えて面白くしようとする、いつもの癖が出てしまい、ゴンドリーを困らせた。そうした演技をやめさせるために、芝居をしている時には撮影をせず、逆に変な演出をして、キャリーが「それは違うだろう」と素に戻った時にカメラを回した。キャリーはそれを嫌がったが、撮ったフィルムを見せて、ゴンドリーが「この自然さがほしい…」と伝えると、納得したという。 ゴンドリーがキャリーに求めたのは、ジョエルを演じることではなく、素のジム・キャリー自身になることだった。キャリーは、過去の恋愛の失敗を告白させられ、それらがセリフに取り入れられた。 キャリーはその時点で2回の離婚を経験し、直近ではレニー・ゼルウィガーとの破局を経験している。そんな彼にとって本作の撮影は、「カサブタをはがすようなもの…」となった。 ゴンドリーはこうした形で、「いつものジム・キャリー」が出てこないような演出を行った。逆にウィンスレットに対しては、「もっとガンガンやっていいよ」と、煽ったという。 ゴンドリー演出のもう一つの特徴は、極力VFXを避けて、手作りにこだわること。ジョエルが幼児期の記憶に退行していく中で、子どものジム・キャリーと大人の大きさのケイト・ウィンスレットが話すシーンがある。ここでは合成は一切使わず、遠くに行くほど物を大きくしたセットを作って、遠近感を狂わせるというローテクを駆使している。 ジョエルがラクーナ社で、診察室に座ったもうひとりの自分を見るシーン。これはカメラがパンしている間に、ジム・キャリーが全速力でカメラの後ろを回って、その間に衣装を変えて椅子に座るという手法で、撮影した。 ジョエルが、キッチンのシンクでママに身体を洗ってもらった記憶に逃げ込むシーンでも、CGや合成は一切使っていない。大きなシンクを作り、巨大なジョエルのママの腕の作り物を入れて、カメラを回した。 臨機応変なのも、ゴンドリー流。撮影中、街に偶然サーカスのパレードがやって来た時は、その場で主演の2人を連れて、撮りに行くことを決めた。 そのパレードを2人で見ている間に、クレメンタインが姿を消して、ジョエルが探し回るくだりがある。これはゴンドリーがその場でこっそり、ウィンスレットに耳打ち。キャリーが見てない隙に、姿を消させた。我々は本作で、ジム・キャリーがガチでウィンスレットを探してる様を、目の当たりにするのである。 撮影は時期的に、極寒のニューヨークで行われ、夜間シーンも多かった。スタッフ、キャストは大変な思いをしたが、ゴンドリーにとっては、ただただラッキーだった。 元々の脚本には、雪が沢山出てくるのだが、その作り物をするとお金がかかり過ぎる上、不自然に見えるので、泣く泣くカットしていた。ところが撮影を始めると、ずっと雪が続いた。ゴンドリーはそれを、最大限に活用。チャールズ川でのシーンなど、キャストが話す度に白い息が出るのが、映画をリアルにする手助けとなった。 このようにして撮影された本作は、2004年3月にアメリカで公開。2,000万㌦の製作費に対して、7,000万㌦以上の興行収入を上げるクリーンヒットとなった。またアカデミー賞では、カウフマンやゴンドリーらに、脚本賞の栄誉をもたらした。 ジム・キャリーにとってこの作品は、「かつて僕が愛した人たちへのラブレター」となった。 これからご覧になる方々へ、“ラストシーン”に関して、本作の作り手たちの言葉を以て〆としたい。 チャーリー・カウフマン曰く、「この映画がハッピーエンドなのかどうか、それを決めるのは観客だ。映画館を出た後、話し合って欲しいんだ」 一方ミシェル・ゴンドリーは、「…男と女の別れや出会いを決定付けるのは、運命よりも、取るに足りないほんの小さな些細な出来事だったりする。なんでもない瞬間の数々が、男と女の未来に影響を与えていく…」それが見せたかったのだという…。■ 『エターナル・サンシャイン』TM & © 2004 Focus Features. 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COLUMN/コラム2025.02.21
オバノン、ギーガー、リドリー・スコット…“SFホラー”の原点『エイリアン』を生み出した者たち
本作『エイリアン』(1979)の起源は、71年12月に遡る。当時USC=南カリフォルニア大学に在学していたダン・オバノン(1946~2009)が、ジョン・カーペンターと共に製作していた『ダーク・スター』(74)の作業中に、新たなSF作品のアイディアを思いついたのだ。 採掘用の小型宇宙船が、謎めいた異星語のメッセージを傍受し、小惑星に着陸する。地表に降りてから、船内のコンピューターが、メッセージの解読に成功すると、それは「着陸するな」という警告だった…。 タイトルは、『Memory』。その後ワケあって、脚本化はストップしてしまう。 時は流れて、『ダーク・スター』劇場公開後の75年。『ダーク・スター』は後にカルト的人気を博すことになるが、オバノンは、十分な果実を得られなかった。しかし彼にとって、重要な出会いをもたらす。『ダーク・スター』を観て感心した、脚本家のロナルド・シャセットがコンタクトを取ってきた。やがて2人は、新規プロジェクトのための、ブレイン・ストーミングを行うようになる。 そこで進められたのが、ホラー映画の企画。タイトルは、『They Bite(奴らは噛みつく)』。 遺跡の発掘によって、微少な寄生生物が、数千年の眠りから目覚める。生物は、不気味な虫や犬など様々な形態を取り、大混乱が生じる中で、次々と異様な姿に形を変えていく…。 この企画に、興味を持った映画会社はあった。しかしオバノンが、「自分で監督する」と主張したため、どことも話はまとまらなかった。 オバノンは仕方なく、『Memory』を『Star Beast』に改題。そちらの企画を進めることを考えた。 そんな折り、チリ出身の映画監督で、『エル・トポ』(70)『ホーリー・マウンテン』(73)などのカルト作品で知られる、アレハンドロ・ホドロフスキーから連絡が来る。彼は、フランク・ハーバートのSF大河小説『デューン』の映画化に取り組んでいた。キャストとして予定されていたのは、シュール・レアリズムの画家サルバトール・ダリやオーソン・ウェルズ、ミック・ジャガー、アラン・ドロン、グロリア・スワンソンといった豪華な布陣。オバノンには、その特撮部門を担当して欲しいという依頼だった。 勇躍パリに渡って『デューン』に取り組むも、製作費などの問題で、企画は頓挫。骨折り損となる。 経済的な困窮もあって、起死回生を図るオバノンとシャセットは、『They Bite』のアイディアを、『Star Beast』に回せないかを考え始めた。SFとホラーを融合させるのだ。 そしてある時、登場人物のセリフを書いている際に、オバノンの頭に、突然新たなタイトルが降ってきた。それが、『エイリアン』だった。 元々は広く“外国人”“異邦人”という意味で使われていた、“ALIEN”という英単語。今では日本でも、“宇宙人”や“異星人”“地球外生命体”を指すのが一般的になってしまった。この時オバノンがこのタイトルを思いつかなければ、そうはならなかったであろう。 オバノンとシャセットは、1976年初夏以降『エイリアン』の企画売込みを始める。はじめに狙ったのは、“B級映画の帝王”ロジャー・コーマンのニューワールド・ピクチャーズ。 オバノンが監督したければしても良いという、コーマン側からの返答に、一瞬小躍りするも、製作費の話になると、ガッカリ。希望する製作費が75万㌦なのに対し、10万㌦しか出せないというのだ。ニューワールドでの製作は、断念せざるを得なくなった。『エイリアン』の企画に、前のめりで喰いついてきたのは、ウォルター・ヒル、デヴィッド・ガイラー、ゴードン・キャロルの3人で設立したばかりの、ブランディワイン・プロダクション。ウォルター・ヒルは、脚本家出身の監督で、“男性アクション”の担い手として、80年代には日本の映画ファンの間でも高い人気を誇った。当時は監督第2作『ザ・ドライバー』(78)の準備中だった。 3人は、オバノンとシャセットに連絡を取って、契約交渉がまとまる。そしてヒルとガイラーは、シナリオのリライトを始めた。 登場人物たちは元々、男女どちらでも良いように書かれていたというが、ヒルによって、宇宙船の乗組員7名中の2名は女性に。主人公はその内の1人で、リプリーと名付けられた。 1977年春、ブランディワインが交渉していた、20世紀フォックスの製作主任アラン・ラッド・Jrの判断で、映画化の話が大きく前進する。その年フォックスは、『スター・ウォーズ』第1作の公開を5月に控えており、同じSFというジャンルということもあって、その動向を見極めることとなった。『スター・ウォーズ』空前の大ヒットを受けて、『エイリアン』の製作に正式なGOサインが出たのは、10月末のことだった。 ***** 西暦2122年、宇宙貨物船ノストロモ号のクルー7名は、地球への帰還の途中、ハイパースリープから目覚める。 船を制御するコンピューター「マザー」が、知的生命体が発したと思しき信号をキャッチ。発信源である天体に、航路を変更していたのである。 社命により、やむなくその天体に着陸。クルーの内、船長ダラス、副長ケイン、操縦士ランバートが船外調査に向かった。 船に残った通信士のリプリーは、信号を解析。何らかの警告であることが、判明する。 船外の3人は、謎の宇宙船と化石となった宇宙人を見つける。船の底には、巨大な卵のような物体が無数に乱立。ケインがその一つに近づくと、小さな生物が飛び出し、彼の宇宙服のマスクを覆ってしまう。 生物はマスクを溶かし、直接ケインの顔面に付着。リプリーは防疫を理由に、3人が船内に戻ることを拒むも、科学主任のアッシュによって、エアロックが開けられた。 蜘蛛やサソリのような生物は、意識不明のケインの顔面から剥がせない。しかし手術台に載せて隔離しておくと、生物は姿を消し、やがて死体となって発見された。 意識を回復して食事を取るケインだったが、突然痙攣を起こして倒れてしまう。彼のシャツに血が溢れだしたかと思うと、ヘビのような生物が、胸部を食い破って出現。呆然とする乗組員の間を駆け抜け、逃走する。ケインは体内に幼体を産み付けられ、その成長によって死に至ったのだ。 非常態勢を敷き、生物の捕殺を決めるが、対峙する“エイリアン”は、驚くべき成長を遂げていく。クルーたちは次々と、血祭りにあげられていくのだった…。 ***** フォックスは、ウォルター・ヒルが『エイリアン』の監督を兼ねることを想定していたが、彼は「畑違い」を理由に辞退。代わりに『ブリット』(68)のピーター・イェーツ、『華麗なるギャッツビー』(74)のジャック・クレイトンなどが候補となるが、いずれも断られる。 スティーヴン・スピルバーグは、脚本を大いに気に入るも、スケジュール的にNG。 そしてお鉢が回ってきたのが、リドリー・スコット(1939~ )だった。 イギリスで数多くのCMを手掛け、国際的な賞も受賞してきたスコットは、ジョゼフ・コンラッドの短編小説を原作とした、『デュエリスト/決闘者』(77)で、長編監督デビュー。この作品が「カンヌ国際映画祭」で、審査員賞を受賞し、業界では注目の存在になっていた。『エイリアン』のオファーがあった77年11月頃は、監督第2作の準備中。ケルト伝説を題材とした、「トリスタンとイゾルデ」に取り掛かっていた。 若い頃は“SF”というジャンルには興味がなく、むしろバカにするような部分もあったというスコットだが、そんな彼の認識を変えたのは、68年5月。スタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』との邂逅だった。 この作品がスコットに、SFに対する偏見を捨てさせ、「捨てたもんじゃないな」と思わせたのである。 更には77年の初夏。「トリスタンとイゾルデ」の打合せの後、公開直後で大きな話題になっていた、『スター・ウォーズ』第1作を鑑賞。ジョージ・ルーカスがクリエイトした作品世界とそのヴィジュアルに、「…完膚なきまでに打ちのめされた…」という。 そうした経験から、「SF映画の未来は明るい…」という確信に至ったタイミングでの、オファー。それが、『エイリアン』の監督だった。 脚本を一読して、率直に「素晴らしかった」ものの、次回作の準備中である、本来ならば、それどころではない。 スコットが迷っている間に、監督候補として、ロバート・アルトマンやロバート・アルドリッジにも、声が掛けられた。結局は、77年暮れから78年頭に掛け、「トリスタンとイゾルデ」の製作が暗礁に乗り上げたスコットが、『エイリアン』の監督を引き受けることとなったのである。 初めてハリウッドにやって来て、製作準備に日々追われるようになる中で、大きな課題となったのが、作品の肝と言える、“エイリアン”の姿形。“エイリアン”は、ケインの顔に付着する“フェイスハガー”、胸部を突き破って登場する“チェストバスター”、そして最後の成体となった状態の3段階に渡って変化し続ける。 スコットは、その姿形をなかなか具体的に思い描けず、不安を募らせていった。しかし、そんなある日、『エイリアン』の生みの親であるオバノンによって、衝撃的且つ決定的な出会いが訪れる。 オバノンが以前に参加していた、ホドロフスキーの『デューン』に、ダリの推薦によって、1人のアーティストが、一部セットのデザイン担当として起用されていた。スペイン出身のH・R・ギーガーである。 ギーガーは、“バイオメカニクス”をコンセプトに、有機的な生物と無機的な機械を融合。性を連想させる彫像や建造物に、本物の人間の骨や髑髏を組み込むという、幻想的且つ悪夢的な作風の持ち主だった。 先に記した通り、『デューン』は製作中止となったため、ギーガーが腕を振るう機会は失われたのだが、オバノンとの交流は続いていた。ギーガーがオバノンに送った、手綴じの作品集「ネクロノミコン」を見せられたスコットは、まるで雷に打たれたかのような驚きを覚えた。「なんて絵だ!信じられない。これだよ!」 ギーガーには、“エイリアン”のデザインに加えて、惑星表面や異界の光景、遺棄された宇宙船のデザインなども発注されることとなった。彼はそうした様々な品々に、いつもと同様、本物の人骨や動物の骨を、塗り込んだ。もちろん医療用などで、正規なルートで入手できる素材ではあったが、これによって、常軌を逸した禍々しさが、表現されたのだ。 この時ギーガーが起用されてなかったら、男性器を想起させるような、強烈な“エイリアン”のデザインは存在しなかった。本作から45年以上経った今もシリーズが続き、“エイリアン”がスクリーンを跳梁跋扈する様が見られるのは、このデザインに負うところも大きいだろう。 「ホラーについて何もわからない」ことを自覚していたスコットは、オバノンとシャセットに、研究のために、観るべき作品のセレクトをお願いした。2人がスコットに見せたのは、『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』(56)『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(68)『サイコ』(60)等々。スコットはフォックスの試写室で鑑賞し、じっくり研究した。 これらに加えてオバノンは、チェンソーを振り回す殺人鬼“レザーフェイス”が、若者たちを犠牲にしていく、『悪魔のいけにえ』(74)を観てくれと、しつこく言い続けた。渋々その作品を観たスコットだったが、「完全にぶちのめされた」と、後に語っている。 因みに、数多のホラーに触れて、インスピレーションを掻き立てられたスコットだったが、「最も知的で最高の作品」と感じたのは、ウィリアム・フリードキン監督の『エクソシスト』(73)だったという。 『エイリアン』の撮影は、税務上の優遇措置などもあって、シェパードン・スタジオを軸に、イギリスで行われることが決まった。そのためノストロモ号のクルーのキャスティングも、アメリカとイギリスの混成軍に。そのほとんどが、監督のスコット主導で進められた。 男性キャストとして、アメリカからは、トム・スケリット、ヤフェット・コットー、ハリー・ディーン・スタントン。イギリスからは、イアン・ホルム、ジョン・フィンチが決まる。 難航したのは、女性キャスト。特に主役のリプリーを、誰に演じさせるか? 製作陣は当初、有名スターに声を掛けていた。まずは、キャンディス・バーゲンやジェーン・フォンダ。更には、キャサリン・ロスやジュヌヴィエーヴ・ビジョルドの起用も考えられた。しかし当時は今と違って、“SFホラー”といったジャンルに、好きこのんで出演しようという人気女優は、皆無。 そこでキャスティングの対象が、まだスターとは言い難い、若手の有望株へと移った。後のオスカー女優であるヘレン・ミレンも、『エイリアン』のオーディションを受けたという。 最有力候補となったのが、メリル・ストリープ。しかしストリープは、長年の恋人だったジョン・カザールが癌との闘病の末、この世を去った直後というタイミング。交渉を断念せざるを得なかった。 続いて浮上したのが、ストリープとはイェール大学演劇大学院でクラスメートだった、シガニー・ウィーヴァー。舞台女優として有望視されていたが、映画の仕事は、まともにやったことがなかった。 78年4月に、ウィーヴァーの面接とセリフの読み合わせが行われることに。彼女は場所を間違えて、30分も遅刻してしまった。 今かと待ち構えていた、監督やプロデューサーの前に現れたのは、180㌢を超える長身の女性。しかも威厳があって、美しさも際立っていた。 スコットは直感的に、「これこそ『彼女だ』」と、思ったという。最終的には、スクリーンテストを経て、ウィーヴァーは正式にリプリー役に決まった。 収まらなかったのは、もう1人の女性キャストのヴェロニカ・カートライト。ウィリアム・ワイラーの『噂の2人』(61)、ヒッチコックの『鳥』(63)などで名子役として活躍した彼女は、本作ではスコットと面接をした後に、リプリー役に決まったと、一旦は連絡を受けていたのだ。 ところが蓋を開けると役が変わっていて、ランバートになっている。彼女は激怒したが、最終的にはその変更を受け入れた。 エイリアンの中に入る役者は、ロンドンのパブで見つかった。身長186㌢のナイジェリア人学生、ボラジ・バデジョー。 7月3日撮影開始。クランクインの段階でセットが完成してなかったり、“エイリアン”の仕上がりがギリギリまでズレ込んだりといったトラブルが、次々と起こる現場だった。 胸部を食い破られるケイン役だったジョン・フィンチは撮影数日で、急病のため降板となった。代役としてスコットが連絡を取ったのは、ジョン・ハート。 実はハートは、ケイン役の第一候補だったが、別の作品の撮影が重なったため、出演が不可能に。しかしその作品への出演が流れたため、スケジュールが空いていたのである。 本作の現場については関係者から、“厳しくて”さらに“不愉快だった”という感想が、多く残されている。後々には名声を恣にするスコットも、監督第2作にして初めてのハリウッド作品ということで、まったく余裕はなかった。現場で、しばしば“感情的”になってしまったという。 ヒロインに抜擢されたシガニー・ウィーヴァーだったが、撮影中はひどい“孤独感”に苛まれた。その背景には、スコットが共演者のヤフェット・コットーに指示して、彼女を圧迫するように差し向けたことなどもあったようだ。もちろん嫌がらせなどではなく、リプリーという役どころを効果的に表現させるための“演出”だったが。 7月に始まった撮影は、追加撮影や撮り直しなどを含めて、12月頃まで掛かった。完全主義者のスコットは、多くのシーンで自らカメラを回した。ポストプロダクションの最中には、ミニチュアモデルを使った特撮で気に入らなかった部分を、自らの演出で撮り直したりもしたという。 製作費は当初予定していた420万㌦から、最終的には1,000万㌦ほどまで引き上げられた。当初ロジャー・コーマンが提示した製作費の、100倍にまで膨れ上がったのだ。 1979年5月25日公開。全米の映画館で悲鳴が上がり、6,000万㌦の興収を上げる大ヒットとなった。 当時の批評的には、賛否両論であった。しかし、“SFホラー”というジャンルを確立する大きな役割を果した1本であるのは、紛れもない事実。その後いわゆる“エイリアンもの”とも言える、夥しい数のエピゴーネンを生み出した。 2002年にはアメリカ国立フィルム登録簿のリスト入り。映画史にその名を刻む作品となっている。 リドリー・スコットが本作に続いて撮ったのは、『ブレードランナー』(82)。そのため彼が、「SF映画の旗手」と言われたのも、今や懐かしい。まさかあれほどまでに、様々なジャンルを縦横無尽に撮り上げる“巨匠”になるなど、想像もつかなかった時代の話である。■ © 1979 Twentieth Century Fox Film Corporation. 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COLUMN/コラム2025.03.03
ニコラス・ケイジの自己BESTな1本は、憧れのマーティン・スコセッシ監督作『救命士』
患者を救急車で病院などに搬送する間、症状が悪化するのを防いだり、生命の危険を避けるために、医療措置を行う。それが“救急救命士”の仕事である。 ニューヨークで生まれ育ったジョー・コネリーは、救命士の養成学校で5週間の訓練を経た後、地元の病院に勤務。その後9年間に渡って、経験を積んだ。 その仕事の中では、救えない者の数は救える者よりもはるかに多く、数多の人間が死んでいく姿を見続けることになった。数え切れないほどの、悲劇の目撃者となってしまったのである。 コネリーは言う。「救命士は世界一すばらしい仕事だ。しかし、最悪の仕事とも言える」。そんな彼が著したのが、「Bringing Out the Dead」。「本を書くことによって救えなかった人を弔いたかった」。そうした想いが籠められたこの一冊は、1998年に出版。すぐに映画化が決まった。 マーティン・スコセッシ監督が主演にニコラス・ケイジを迎えて撮った、本作『救命士』(1999)である。 ***** 1990年代前半のニューヨーク。フランク・ピアース(演:ニコラス・ケイジ)は、“救急救命士”として、自らの職務に誇りを持ち、自信を持っていた。 ところが1年前、ホームレスの少女ローズを救えなかったことから、“亡霊”に取り憑かれる。行く先々に彼女が現れ、「何で助けてくれなかったの?」と、恨み言を囁かれるようになったのだ。不眠症となったフランクは、日に日に疲弊の色を深めていく。 ある木曜の夜フランクは、突然倒れた男のアパートに向かった。その男バークは、救命措置によって心臓が再び動きはじめる。フランクは相棒ラリー(演:ジョン・グッドマン)と共に、戦場のように混乱を極める深夜の病院へと、バークを運び込むのだった。 その最中にフランクは、バークの娘メアリー(演:パトリシア・アークエット)と知り合う。父の回復を祈る彼女を励ましながらも、フランクは夜の街へと戻っていく。 常連のアル中患者、自殺癖のある若者、銃で撃たれた麻薬の売人。次々と搬送するが、今夜も救えない命を目の辺りにする。フランクは勤務も終わらぬ内から、酒を煽る…。 金曜日はマーカス(演: ヴィング・レイムス)、土曜日はトム(演:トム・サイズモア)と、パートナーを変えて、出動は続く。メアリーと度々顔を合わせる内に、彼女との会話に、心安らぐものを感じるようになるが、それと同時に、昏睡が続く彼女の父バークが、語り掛けてくる。「俺を死なせてくれ」と。 フランクのストレスは頂点に達し、今にも爆発しそうになるが…。 ***** 原作については、「救急車版の『タクシー・ドライバー』」と評するマスコミもあった。荒廃したニューヨークを舞台に、救急車で夜の巷を巡り、その腐りきった実態に触れていく、不眠症の救命士フランク。そんな設定が、『タクシー・ドライバー』(76)でロバート・デ・ニーロが演じた、やはり不眠症で、深夜のニューヨークを流すタクシー運転手、トラヴィス・ビックルと重なるところが多かったからである。 その『タクシー・ドライバー』が出世作だったマーティン・スコセッシ監督が、ゲラ刷りの段階で、本作の原作を読んで魅了されたのは、必然だったと言えるかも知れない。 スコセッシは脚本を、ポール・シュレーダーに依頼した。スコセッシとは4回目のコンビとなったシュレーダーだったが、その始まりこそが、『タクシー・ドライバー』だった。 シュレーダー曰く本作『救命士』は、「マーティーと私にとっては自然な題材…」。そして、本作と『タクシー・ドライバー』との関連については、次のように語っている。「トラヴィスはひとりでいることを望み、フランクは誰かと一緒にいたいと願う。この感情はマーティーと私が25年前に抱いた、心を乱すような激しい感情の成長版だ」 トラヴィスそしてフランクのような、“感情的タイプ”の人間には、相変らず「強い愛着」を覚えながらも、『タクシー・ドライバー』からは、20数年が経っている。「今は中年の視点からそれを眺めている」ということだった。 トラヴィスは、偏った使命感を抱いて、大統領候補暗殺を試みて失敗すると、街のダニをぶっ殺して、少女娼婦を救うという挙に出て、自己の解放を行った。では多大なストレスを抱えながらも、救命士を続けているフランクは、どうするのか!? その答は、実際に本作で目撃していただきたい。 スコセッシにとって『救命士』は、『グッドフェローズ』(90)や『ケープ・フィアー』(91)『カジノ』(95)など、秀作・話題作を次々と放ってきた、90年代最後の作品となった。50代後半だったその頃の彼は、まだアカデミー賞監督賞こそ手にしていなかったが、「アメリカの真の巨匠」などと呼ばれる存在になっていた。 そんなスコセッシが、本作の原作を読んだ際に真っ先に浮かんだのが、ニコラス・ケイジの顔と目だったという。スコセッシはこの数年前、フランシス・フォード・コッポラ監督のススメで、その甥であるケイジと食事をしたことがあった。また『スネーク・アイズ』(98)でケイジと組んだ、ブライアン・デ・パルマ監督が、彼のことを絶賛していたのも、大きかったという。 スコセッシは、「ケイジと仕事をするために、この映画を選んだ…」とまで言っている。 オファーを受けたケイジは、即OK。俳優になる過程で、大きな影響を受けたスコセッシと仕事をするのが、彼の夢だったのである。 ケイジ曰く『救命士』は、「近年にないぐらい役作りに力を入れた」作品だった。アカデミー賞主演男優賞を獲った『リービング・ラスベガス』(95)以降は、『ザ・ロック』(96)『コン・エアー』(97)『フェイス/オフ』(97)等々、アクション映画が主戦場になっていたこともあったのだろうが。 ケイジは、ニューヨークとロサンゼルスで、救命士の夜間出動に同行した。しかしニューヨークは、本作の舞台となった90年代前半の、麻薬と暴力に支配されていた頃と違って、治安が劇的に改善。救急医療のシステムも、整備が進んでいた。 そうしたわけで役に立ったのは、むしろロサンゼルスでの経験。銃撃戦のあった場所に、救命士が防弾チョッキを着て、平然と乗り込んでいく現場だったという。 因みにスコセッシも、準備のために、本物の救急車に乗ってみた。そして、「真夜中に救急車が呼び出しを受けると、サイレンがうなり、光がフラッシュし、ロックが鳴り響く」様を経験したのだという。 やはり、役作りの一環だったのだろう。ケイジは、原作者で本作のアドバイザーを務めたジョー・コネリーに、「フランクを動物に例えたら何?」と尋ねてみたことがあった。コネリーの答は、「キリン」。長い首に頭をのせて、日常のたわごとをできるだけ上から見下ろそうとしている。ところがその両脚は、泥沼にしっかりとはまり込んでいる…。 ヒロインのメアリー役にキャスティングされたのは、パトリシア・アークエット。95年から2001年まで、ケイジと結婚生活を送っていた。即ち本作の頃は、現役の夫婦だった。 フランクの同僚役には、ジョン・グッドマン、ヴィング・レイムス、トム・サイズモアという、個性的な芸達者たち。ケイジにとって、グッドマンは2度目、レイムスは3度目となる共演だった。 撮影は、ニューヨークの街角で、主に夜間行われた。本作は、救急車の中のやり取りが多い。通常こうしたシーンは、自動車をトレーラーで牽引して、そこに照明やカメラを固定して撮影を行う。しかしスコセッシは、カメラを動かして、車中でフランクの精神が追い詰められていく様を狙いたかった。 そこで運転席を、カメラの移動レールでぐるりと囲んだ、特製トレーラーを作った。更にトレーラーには、明るさと色が違うライトが沢山取り付けられた。 これを点けたり消したりすると、運転席のフランクの顔は、通りのネオンや街灯で照らされたように、瞬間瞬間で変化して映る。リアルであると同時に、フランクの神経がすり減っていくことも、このライティングで表現された。 当時のマンハッタンの道路は、舗装が凸凹。トレーラーが揺れて、撮影は大変だった。 しかしながら、救急車のシーンの最大の障害は、別にあった。それは、“信号”。赤信号になると、車を止めなければならない。そのため俳優は、信号が赤に変わる前にシーンを演じ、セリフを言い切らなければならなかった。救急車だったら、赤も青も変わらず車を飛ばせそうな気もするが、実は本物の救命士も、“赤信号”は尊重しているのだという。 アパートや病院などのシーンも、スタジオのセットなどではなく、実は本物を使っている。美術スタッフのダンテ・フェレッティとそのチームは、いかがわしき時代のニューヨークを彷彿とさせるロケ地を探し回った。 因みに撮影に使った病院は、今は使われてない救急車の停車口と連続して、大きな未使用スペースがあった。そこにセットを組んで、撮影が進められた。 因みに監督のスコセッシは、救急車に指令を出す無線の男役で、本作に出演している。声だけではあったが。 本作のカメラは、忙しなく動き続ける。そこに次々と既製の楽曲が掛かり、アップテンポな編集で見せていく。スコセッシはこうした撮り方を、『グッドフェローズ』でスタートさせ、90年代のフィルモグラフィーで発展させていった。即ち『救命士』は、その時点での集大成とも言えた。 しかし『救命士』は、公開されてみると、興行的には失敗に終わった。評価的にも、90年代にスコセッシが撮った劇映画の中では唯一、オスカーのどの部門にも、ノミネートさえされなかった。 しかし念願の、スコセッシ監督作出演だったケイジにとっては、特別な1本となった。2022年4月に開催されたイベントで、「自身が出演した作品で、3つだけ後世に残せるとしたら、どれを選びますか?」という質問に対して彼は、『リービング・ラスベガス』などと並んで、本作を挙げている。 また翌2023年4月、人気トーク番組「ザ・レイト・ショー・ウィズ・スティーヴン・コルベア」に出演した際にも、お気に入りの出演作として5本挙げるよう言われて答えた中に、本作は入っていた。 2010年代の低迷を経て、近年キャリアが復活してきた感が強い、ニコラス・ケイジ。この機会に、彼が自己BESTの1本に挙げる本作に、是非触れて欲しいと思う。■ 『救命士』© 1999 Touchstone Pictures Corporation and Touchstone Pictures. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2025.03.06
現代の巨匠イーストウッドが、実在の英雄を通して捉えた“イラク戦争”『アメリカン・スナイパー』
クリス・カイル、1974年生まれのテキサス州出身。8歳の時に、初めての銃を父親からプレゼントされて、ハンティングを行った。 カウボーイに憧れて育ち、ロデオに勤しんだが、やがて軍入りを希望。ケニアとタンザニアのアメリカ大使館が、国際テロ組織アルカーイダが関与する自爆テロで攻撃されるなど、祖国が外敵から攻撃されていることに触発されて、アメリカ海軍の特殊部隊“ネイビー・シールズ”を志願した。 2003年にイラク戦争が始まると、09年に除隊するまで4回、イラクへ派遣された。そこでは主に“スナイパ-”として活躍し、166人の敵を射殺。これは米軍の公式記録として、最多と言われる。 味方からは「レジェンド〜伝説の狙撃手」と賞賛されたカイルは、イラクの反政府武装勢力からは、「ラマディの悪魔」と恐れられ憎悪された。そしてその首には、賞金が掛けられた。 4度ものイラク行きは、カイルの心身を蝕み、精神科医からPTSDの診断を受けた。カイルは民間軍事支援会社を起こし、それと同時に、自分と同じような境遇に居る帰還兵たちのサポートに取り組んだ。彼らを救うことが、自分自身の癒やしにもなると考えたのである。 兵士は銃に愛着があるため、それがセラピーになる場合がある。カイルは帰還兵に同行して牧場に行き、射撃を行ったり、話を聞いたりした…。 こうした歩みをカイル本人が、スコット・マクイーウェン、ジム・デフェリスと共に著した“自伝”は、2012年に出版。100万部を超えるベストセラーとなった。 脚本家のジェイソン・ホールは、カイルの人生に注目。2010年にテキサス州へと訪ねた。 その後カイルと話し合いながら、脚本の執筆を進めた。彼が自伝を書いているのも、そのプロセスで知ったが、結果的にそれが原作にもなった。 ホールは、俳優のブラッドリー・クーパーに、映画化話を持ち込む。クーパーは、『ハングオーバー』シリーズ(2009〜13)でブレイク。『世界にひとつのプレイブック』(12)でアカデミー賞主演男優賞にノミネートされ、まさに“旬“を迎えていた。 クーパーはこの企画の権利を、ワーナー・ブラザースと共に購入。映画化のプロジェクトがスタートした。 当初はクーパーの初監督作として検討されたが、いきなりこの題材では、荷が重い。続いて『世界にひとつのプレイブック』や『アメリカン・ハッスル』(13)でクーパーと組んだデヴィッド・O・ラッセルが候補になるが、これも実現しなかった。 その後、スティーブン・スピルバーグが監督することとなった。当初積極的にこの企画に取り組んだスピルバーグだったが、シナリオ作りが難航すると、降板。 そこで登場するのが、現代ハリウッドの巨匠クリント・イーストウッド!一説には、スピルバーグが後任を依頼するため連絡を取ったという話があるが、イーストウッド本人は、「おれはスピルバーグの後始末屋と思われているけど、それは偶然だ」などと発言しているので、真偽のほどは不明である。 イーストウッドによると、依頼が来た時は他の映画の撮影中。仕事とは関係なく、本作の原作を読んでいるところだった。 カイルは父親から、「人間には三種類ある。羊と狼と番犬だ。お前は番犬になれ」と言われて、育った。そのため、羊のような人々を狼から守ることこそ、自分の使命だと考えていた。 それが延いては、家族と一緒にいたいという気持ちと、戦友を助けたいという気持ちの板挟みになっていく。この葛藤はドラマチックで、映画になると、イーストウッドは思った。 まずは「脚本を読ませてくれ」と返答。その際依頼者から、プロデューサーと主演を兼ねるクーパーが、「ぜひクリントに監督をお願いしたい」と言ってると聞いて、話が決まったという。 クーパーは幼少の頃から、いつか仕事をしてみたいと思っていた俳優が、2人いた。それは、ロバート・デ・ニーロとクリント・イーストウッドだった。 デ・ニーロとの共演は、『世界にひとつのプレイブック』で実現した。イーストウッドについては、『父親たちの星条旗』(06)以降、いつも彼の監督作のオーディションに応募してきた。本作で遂に、夢が叶うこととなったのである。 こうして、本作にとってはクーパー曰く、「完璧な監督」を得ることとなった。実は、この物語の主人公であるクリス・カイル自身も、もし映画化するなら、「イーストウッドに監督してもらいたい」と、希望していたという。 イーストウッドが監督に決まった頃、ジェイソン・ホールは脚本を一旦完成。クーパーら製作陣に、渡した。 その翌日=2013年2月2日、クリス・カイルが、殺害された。犯人は、イラク派遣でPTSDとなった、元兵士の男。カイルは男の母親から頼まれて、救いの手を差し伸べた。ところが、セラピーとして連れ出した射撃練習場で、その男に銃撃され、命を落としてしまったのである。 クーパーもイーストウッドも、まだカイルと、会っていなかった。対面する機会は、永遠に失われた。 脚本に加え、製作総指揮も務めることになっていたジェイソン・ホールは、葬儀後にカイルの妻タヤと、何時間も電話で話をした。タヤは言った。「もし映画を作るなら、正しく作ってほしい」 イーストウッドが監督に就いたことと、この衝撃的な事件が重なって、映画化の方向性は決まり、脚本は変更となった。焦点となるのは、PTSD。戦場で次々と人を殺している内に、カイルが壊れていく姿が、描かれることとなった。 イラクへの派遣で、カイルの最初の標的となるのは、自爆テロをしようとした、母親とその幼い息子。原作のカイルは、母親の方だけを射殺するが、実際は母子ともに、撃っていた。 原作に書かなかったのは、子どもを殺すのは、読者に理解されないだろうと、カイルが考えたからだった。しかしイーストウッドは、それではダメだと、本作で子どもを狙撃する描写を入れた。 後にカイルには、再び子どもに照準を合わさなければならない局面が訪れる。その際、イラク人たちを「野蛮人」と呼び、狙撃を繰り返してきたような男にも、激しい内的葛藤が起こる。そして彼が、実はトラウマを抱えていたことが、詳らかになる。 もう一つ、原作との大きな相違点として挙げられるのが、敵方の凄腕スナイパー、ムスタファ。原作では一行程度しか出てこない存在だったが、イーストウッドは彼を、カイルのライバルに設定。その上で、その妻子まで登場させる。 即ち、ムスタファもカイルと同様に、「仲間を守るために戦う父親」ということである。この辺り、太平洋戦争に於ける激戦“硫黄島の戦い”を題材に、アメリカ兵たちの物語『父親たちの星条旗』(06)と、それを迎え撃つ日本兵たちを描いた『硫黄島からの手紙』(06)を続けて監督した、イーストウッドならではの演出と言えるだろう。 ブラッドリー・クーパーは、カイルになり切るために、肉体改造を行った。クーパーとカイルは、ほぼ同じ身長・年齢で、靴のサイズまで同じだったが、クーパーが84㌔ほどだったのに対し、筋肉質のクリスは105㌔と、体重が大きく違ったのである。 そのためクーパーは、成人男性が1日に必要なカロリーの約4倍である、8,000キロカロリーを毎日摂取。1日5食に加え、エネルギー補給のために、パワーバーやサプリメント飲料などを取り入れる生活を送った。 筋肉質に仕上げるため、数か月の間は、朝5時に起床して、約4時間のトレーニングを実施。それで20㌔近くの増量に成功した。 撮影に入っても、体重を落とさないための努力が続く。いつも手にチョコバーを握り、食べ物を口に押し込んだり、シェイクを飲んだり。撮影最終日にクーパーが、「助かった、これでもう食べなくて済む!」と呟くのを、イーストウッドは耳にしたという。 役作りは、もちろん増量だけではない。“ネイビー・シールズ”と共に、本物さながらの家宅捜査や、実弾での訓練などを行った。細かい部分では、クリス・カイルが実際に聴いていた音楽のプレイリストをかけ、常時リスニングしていたという。 こうした粉骨砕身の努力が実り、クーパーのカイルは、その家族や友人らが驚くほど、“激似”に仕上がった。 カイルの妻タヤ役に決まったのは、シエラ・ミラー。イーストウッド作品は、撮影前の練習期間がほとんどなくて、リハーサルもしない。クーパーは撮影までに、タヤ役のシエナ・ミラーとスカイプで何度か話して、夕食を1度一緒に食べた。その時彼女は妊娠していたが、それが2人の絆を深めることにも繋がったという。 クーパーとミラーはタヤ本人から、夫が戦地に居た時に2人の間で交わしたEメールをすべて見せてもらった。ミラーは目を通すと思わず、口に出してしまった。「すごい、あなたは彼のことを本当に愛していたのね」 これにより、カイル夫妻のリアルな夫婦関係を演じるためのベースができた。そのため撮影が終わって数週間、ミラーは役から抜け出すのに、本当に悲しい気持ちになってしまったという。 撮影は、2014年3月から初夏に掛けて行われた。戦争で荒廃したイラクでの撮影は難しかったため、代わりのロケ地となったのは、モロッコ。クーパーはじめ“ネイビー・シールズ”を演じる面々は、アメリカ国内で撮影して毎日自宅に帰るよりも、共に過ごす時間がずっと長くなったため、本物の“戦友”のようになったという。 その他のシーンは、カリフォルニアのオープンセットやスタジオを利用して、撮影された。 イラクの戦場に居るカイルと、テキサスに居るタヤが電話で会話するシーン。クーパーとミラーはお互いの演技のために、電話を通じて本当に喋っていた。 妊娠しているタヤが病院から出て来て、携帯電話でカイルに、「男の子よ」と言った後のシーンは、ミラーにとっては、それまでの俳優人生の中で、最も「大変だった」。喜びを伝える電話の向こう側から、銃声が響き渡る。それは愛する夫が、死の危険に曝されているということ…。 脚本のジェイソン・ホールの言う、「兵士の妻や家族たちにとって、戦争とは、リビングルームでの体験だった」ということが、最も象徴的に表わされたシーンだった。 因みにミラーが、演技する時に複雑に考えすぎていると、イーストウッドは、「ただ言ってみればいい」とだけ、彼女に囁いた。ミラーにとっては、「最高のレッスン」になったという。 脚本には、カイルが運命の日に、銃弾に倒れてしまうシーンも存在した。しかし遺族にとってはあまりにもショッキングな出来事であるため、最終的にカットされることになった。 完成した本作を観て、カイルの妻タヤは、「…私の夫を生き返らせてくれた。私は、夫と2時間半を過ごした」と、泣きながら感想を述べた。 本作はアメリカでは、賞レースに参加するため、2014年12月25日に限定公開。明けて15年1月16日に拡大公開となった。 世界興収で5億4,742万ドルを超えるメガヒットとなり、イーストウッド監督作品史上、最大の興行収入を上げた。 その内容を巡っては、保守派とリベラル派との間で「戦争賛美か否か」の大論争が起こった。イラク戦争を正当化しようとする映画だという批判に対してイーストウッドは、「個人的に私はイラク戦争には賛成できなかった」と、以前からの主張を繰り返した。 そして「これは戦争を賛美する映画ではない。むしろ終わりのない戦争に多くの人が従事しいのちすら失う姿を描いているという意味では、反戦映画とも言える」と発言している。 この作品のエンドクレジットでは、クリス・カイルの実際の葬儀の模様を映し出した後、後半部分はまったくの“無音”になる。そこにイーストウッドの、“イラク戦争”そして出征した“兵士たち”への想いが、滲み出ている。■ 『アメリカン・スナイパー』© 2014 Warner Bros. Entertainment Inc., Village Roadshow Films (BVI) Limited and Ratpac-Dune Entertainment LLC
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COLUMN/コラム2025.04.18
陰鬱な物語が、ジュリア・ロバーツの出世作、リチャード・ギアの代表作『プリティ・ウーマン』に変身した経緯
1980年代の終わり頃、J・F・ロートンという名の、当時まだ20代だった脚本家が書いた、その作品のタイトルは、『3000』。 リッチなビジネスマンが、コカイン中毒の娼婦を、ロサンゼルスはハリウッド・ブルバードの街角で拾うのが、物語の発端となる。ビジネスマンは娼婦と、1週間の契約を結ぶ。その間は高級品を買い与えるなど贅沢三昧をさせるが、最後には同じ街角で、彼女のことを棄ててしまう…。 タイトルは、1週間の契約金として、ビジネスマンが娼婦に払う、“3,000㌦”に由来。何とも暗いお話で、リライトが重ねられたこの脚本の、何稿目であるかは定かでないが、娼婦が薬物の過剰摂取で死んでしまうという、救いのないラストを迎えるバージョンもあったという。 この脚本を、ある映画会社が買い取り、製作を進めることとなった。ところがその会社が潰れてしまったため、冷徹なビジネスマンと哀れなジャンキー娼婦の陰鬱な物語は、雲散霧消…と思いきや、何とディズニー・スタジオの手に渡り、その子会社であるタッチストーン・ピクチャーズで映画化されることとなる。 『3000』の主役である、娼婦のヴィヴィアンと、ビジネスマンのエドワード。誰が演じるか?共に数多くのスターの名前が、取り沙汰された。 ミシェル・ファイファー、サンドラ・ブロック、メグ・ライアン、マドンナ、クリスティン・デイヴィス、サラ・ジェシカ・パーカー、ドリュー・バリモア、カレン・アレン、ダイアン・レイン、モリー・リングウォルド、ウィノナ・ライダー、ジェニファー・コネリー…。単に名前が挙がっただけの者から、実際にオーディションを受けた者、オファーされながらもセックス・ワーカー役を演じることに難色を示した者まで、当時のハリウッド若手女優ほぼすべてが、ヴィヴィアンの候補だったとも言える。 そんな中で、ディズニーに企画が渡る前から有力候補としてピックアップされ、本人も強い意欲を示していたのが、ジュリア・ロバーツ。とはいえ67年生まれのジュリアは、87年に映画デビューしたばかり。サリー・フィールドやドリー・パートン、シャーリー・マクレーンといったベテラン勢と共演して、ゴールデングローブの助演女優賞を獲得し、初めてオスカーの候補にもなった、『マグノリアの花たち』(89)も、まだ世に出る前。即ち、「駆け出し」だった。 当然製作陣からは、もっと著名なスター女優を求める声が出た。そのためジュリアのヴィヴィアン役にGOサインが出るまでには、短くない時を要したという。 ヴィヴィアンより年上であるエドワード役には、多くの中堅俳優が擬せられた。クリストファー・リーヴやダニエル・デイ=ルイス、ケヴィン・クライン、バート・レイノルズ、シルヴェスター・スタローン、アルバート・ブルックス、ジョン・トラヴォルタ、ショーン・コネリー、トム・セレック、スティング…。アル・パチーノは、ジュリア・ロバーツとセリフの読み合わせまで行い、サム・ニール、トム・コンティ、チャールズ・グローディンといった辺りも、ジュリアとスクリーンテストを行っているが、決定に至らなかった。 そんな中で監督を引き受けたのは、ゲイリー・マーシャル。ヴィヴィアン役にジュリア・ロバーツが正式に決まった辺りで、彼はこう考えたという。~100%「ビューティフル」な人たちを起用したい~。 そこで白羽の矢が立ったのが、リチャード・ギアだった。『ミスター・グッドバーを探して』(77)『天国の日々』(78)といった作品で注目を集め、『アメリカン・ジゴロ』(80)そして『愛と青春の旅立ち』(82)で決定的な人気を得たギアだったが、80年代後半、アラフォーを迎えた頃には、ダライ・ラマ14世によるチベット仏教の教えに傾倒。そんなこともあって、出演作が少なくなっていた。 ギアの元に届けられた脚本は、企画のスタート時よりは、暗さを軽減。ジェントルマンが、貧しく教養のない女性を拾って、淑女に育て上げるという、「マイ・フェア・レディ」「ピグマリオン」風味が、強くなっていたと言われる。しかしながらギアにとってこの時点でのエドワードのキャラは、コミュ障の上、セクシャルな快楽だけ求めるような、冷酷で自分本位な男と映った。そんな役だったら、やりたくはない。 監督のゲイリー・マーシャルとは、初対面から意気投合。ダライ・ラマやドストエフスキーの話で盛り上がったというギアは、自分が脚本に感じた不満を、マーシャルにぶつけたという。またギアは、相手役が「ほぼ新人」のジュリアだったことにも、不安を抱いていた。 そこでマーシャルは、ジュリアの初主演作『ミスティック・ピザ』(88)のビデオをギアに見せて、彼女の演技が「素晴らしい」ことを、認識させた。その上でジュリアを引き連れ、ニューヨークに住む、ギアの元へと向かった。 まだまだ出演を断る意向の方が勝っていたというギアだったが、ジュリアとの初対面の際に、彼の心変わりを誘うアクションがあった。後年ギアの語ったところによると、テーブルの向かいに座ったジュリアが、手に取ったポストイットを裏返して、彼に渡してきたのだという。そこには「『お願い、イエスと言って』と書いてあった」。18歳年下のジュリアのこの哀願を、とても可愛らしく思ったギアは、出演をOKし、数週間後に正式な契約書を交わすこととなったのである。 ギアとジュリア、マーシャルの3人はミーティングを行い、様々なアイディアを出し合った。そして打合せの後の脚本の手直しでは、ギアの意見が全面的に取り入れられることになった。 ヴィヴィアンからは、ジャンキーの設定をカット。もっと知的で、やむにやまれず娼婦の仕事をしている女性となった。因みに、ヴィヴィアンが「生まれ落ちた時と場所が悪かった」というのは、ジュリアの考えを監督が採用したものである。またジョージア州出身のジュリアに訛りが残っていたことから、ヴィヴィアンを同じ地の出身としたのも、監督の気遣いだった。 エドワードは、クールさを保ち続けるキャラだったのを変更。偶然拾ったヴィヴィアンを本物のレディに仕立てようとする中で、やがて彼女に夢中になっていく。お互いがそれぞれが属する世界から飛び出し、その世界を広げていくのである。 ヴィヴィアンに感化されたエドワードは、企業を乗っ取っては解体する、情け容赦のない実業家から変身。思いやりのある経営者へと、成長を遂げる。 作品タイトルが『3000』から、劇中に流れるロイ・オービソンの楽曲に因んだ『プリティ・ウーマン』に正式に変わったのが、いつの時点かは判然としない。しかし内容的にも、登場人物と大まかな筋書きだけ残して、この改題に沿ったような、変更が行われたわけである。 因みに、3人のミーティングが行われた時点でのエンディングは、エドワードに棄てられたヴィヴィアンが、娼婦仲間の親友とバスでディズニーランドに向かうというもの。親友がはしゃぐ横で、ヴィヴィアンは虚ろな瞳で窓の外を見て、「The End」となる…。 これがどのような形の“ハッピーエンド”に変わったかは、未見の方には、観てのお楽しみとしておく。 2人の主役が固まった後、ジュリアは役作りとして、実際に身体を売っている女性たちに、リサーチを行うことにした。マーシャル監督の妻バーバラは看護師で、ロスの無料クリニックでボランティアを行っていた関係で、そこによく来るセックスワーカーの若い女性たちと知り合いだった。彼女たちをバーバラに紹介されたジュリアは、一緒にドライヴに出掛けるなど時間を取って親しくなり、なぜその仕事を選んだのかや、どんな暮らしを送ってるかなどを、詳しく聞き込んだ。 そして本作『プリティ・ウーマン』は、1989年7月24日にクランク・インを迎えた。エドワードとヴィヴィアンが過ごすメインの舞台は、実在の超高級ホテル「リージェント・ビバリー・ウィルシャー」の1泊4,000㌦のスイートルーム。しかし娼婦が主人公の話ということもあってか、ロケの許可は下りず、ホテルは外景しか使えなかった。そのため実際は、すでに営業を停止しているホテルの中に作ったセットで、メインの撮影が行われた。 エドワードがヴィヴィアンと遭遇するシーンで運転している車は、イギリスの「ロータス・エスプリ」。これもまた、「フェラーリ」や「ポルシェ」に協力を断られたが故の、苦肉の策であったという。 撮影中も随時、セリフの書き換えなどが行われたというが、声を荒げたり等はしないマーシャル監督の演出の下、ギアとジュリアの関係も良好だった。 本作中で有名な、エドワードがダイアモンドとルビーの詰まった宝石箱をヴィヴィアンに見せるシーン。彼女の手が宝石箱に触れた瞬間、彼がふたを閉めるシーンは、ギアによるアドリブだった。吃驚したジュリアは、甲高い声で思わず笑い出してしまう。この“笑い”が、後々彼女のトレードマークとなっていったのは、ご存じの方も多いだろう。 ギアとのラブシーンには、「おじけづいて緊張した」というジュリア。ナーバスになり過ぎて、蕁麻疹が出たのに加え、額に血管が浮き出てしまった。それを監督とギアが、マッサージして沈めてくれた。 撮影で疲れ切って帰宅すると、留守番電話には、ギアからの伝言が入っている。「きょうはお疲れさま。じゃあ、またあす」 ジュリアはギアが、エドワード役を一歩下がって演じ、演技面での静の部分を受け持ってくれたことに対して。「…彼のおかげでヴィヴィアンが面白いキャラクターに仕上がった…」と、深く感謝。ギアがそうしてくれなかったら、「彼女はいかれた女の子で終わったかもしれない…」と、後に述懐している。 本作には、ホテルの支配人役で、マーシャル組の常連俳優、ギアとの共演経験もあるヘクター・エリゾンドが、出演している。劇中でヴィヴィアンのレディへの成長をサポートする役回りの彼の存在は、ジュリア本人の助けともなった。演技のことから詩のことまで、2人で色々なことを話したという。 やがてクランクアップを迎え、打上げパーティ。ドラムを叩ける監督と、本作劇中でも披露した通りのピアノの名手ギアに、ギターの弾けるスタッフ2人、そしてコントラバスが弾けるジュリアでクインテットを組んで、様々な曲を演奏した。大いにパーティが盛り上がる様は、今でもYouTubeでご覧いただける。 さて1990年3月。『プリティ・ウーマン』が全米で公開されると、この年の№1ヒットとなった。12月公開の日本でも、配給収入30億を突破!今で言えば50億興行となるなど、全世界での興行成績は、4億5,000万㌦にも達した。 ジュリア・ロバーツは、一躍スターの仲間入り。リチャード・ギアも、TOPスターに返り咲くこととなった。 これほどのメガヒットを記録したこともあり、本作の続編を望む声は絶えなかったが、結局製作されることはなかった。監督と主演2人の組合せが実現しない限り、PART2を作ることはないというのが、3人の間での共通認識であった。マーシャル監督が2016年に亡くなったことにより、その機会は永久に失われたのである。 その代わりというわけでもないが、99年には、同じ座組。ゲイリー・マーシャル監督にリチャード・ギア、ジュリア・ロバーツ、更に脇をヘクター・エリゾンドが固めるラブコメ『プリティ・ブライド』が製作され、スマッシュヒットを飛ばしている。 ジュリアは2019年のインタビューで本作について、こんな風に語っている。「今、あの映画を作ることができるとは思えない」。娼婦を主人公とした、男性優位のシンデレラストーリー。それは現代の基準で考えると、批判が避けられない。至極もっともなコメントである。 しかしその上でジュリアは、付け加えている。「だからと言って、みんなが楽しむことができなくなるとは思いません」 1990年の本作『プリティ・ウーマン』に於ける、ジュリア・ロバーツの清新な輝きと、リチャード・ギアの円熟味は、決して失われることはない。それがまた、映画の醍醐味とも言えるだろう。■ 『プリティ・ウーマン』© 1990 Touchstone Pictures. 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