ザ・シネマ 松崎まこと
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COLUMN/コラム2023.09.12
宇宙を舞台に、映画史に新たなジャンルを興した!フィリップ・カウフマン監督生涯の傑作『ライトスタッフ』
“ライトスタッフ”を日本語に訳すと、「正しい資質」「適性」。元々は、アメリカの著名なジャーナリストで作家のトム・ウルフによる造語である。 トム・ウルフは、1960年代後半から勢いを持った、”ニュー・ジャーナリズム”の旗手的な存在。書き手が敢えて客観性を捨て、取材対象に積極的に関わることで、対象をより濃密に、まるで小説のように描くというその手法によって、数多のノンフィクションをものしている。 その内の1冊が、「正しい資質」を持った宇宙飛行士たちが、アメリカの国家プロジェクト「マーキュリー計画」に挑む姿を描いた、「ザ・ライト・スタッフ」だった。そしてこれが本作、『ライトスタッフ』(1983)の原作となった 原作が1979年に出版されると、その映画化権の争奪戦が起こる。勝ち取ったのは、『ロッキー』シリーズ(76〜 )で知られる、ロバート・チャートフとアーウィン・ウィンクラーのプロデューサー・コンビだった。 彼らは、『明日に向って撃て!』(69)『大統領の陰謀』(76)で2度アカデミー賞を受賞している、ウィリアム・ゴールドマンに脚本を依頼。製作会社は、79年に設立された新興のラッド・カンパニーに決まり、1,700万ドルの予算が組まれた。 監督候補として名が挙がったのは、『がんばれ!ベアーズ』(76)のマイケル・リッチーや『ロッキー』(76)のジョン・G・アヴィルドセン。2人との交渉が不調に終わった後、フィリップ・カウフマンにお鉢が回ってきた。 カウフマンは、1936年イリノイ州シカゴ生まれ。シカゴ大学に学んだ後、紆余曲折あって、妻子を連れてヨーロッパへと渡った。そしてアメリカン・スクールの教師を務めている頃、フランスで興った映画運動“ヌーヴェルヴァーグ”と出会い、映画作りに目覚めた。 本作の前には、エイリアンの地球侵略もの『SF/ボディ・スナッチャー』(78)や、60年代を舞台とした青春映画『ワンダラーズ』(79)の監督として、或いは『レイダース/失われた聖櫃(アーク)』(81)の原案を担当したことで知られていた。綿密な時代考証に基づいたジャーナリスティックな視点と娯楽性を両立できる作り手として、評価され始めた頃だった。 カウフマンは、監督を引き受けるに当たって、脚本も自分に任せることを、条件とした。ゴールドマンが書いたものが、まったく気に入らなかったからだ。 時は80年代前半。ソ連を「悪の帝国」と名指しした、ロナルド・レーガン大統領の下、「強いアメリカ」の復活が標榜されていた。ゴールドマンの脚本は国策に沿ったのか、カウフマンにとって、「あまりにもナショナリズムが全面に出ていて辟易する…」内容だったという。 更にゴールドマン脚本では、カウフマンが原作に見出した重要な要素が、すっかり落とされていたのである。 ***** 1947年、カリフォルニア州モハーヴェ砂漠に在るエドワーズ空軍基地のテスト・パイロット、チャック・イェーガーが、新記録を作った。X-1ロケットに乗って、人類史上初めて、「音速の壁」を破ったのである。これ以降次々と、記録が更新されていく。 第2次大戦後の米ソ冷戦。両陣営の緊張が高まる中で、57年にソ連がスプートニク・ロケットの打ち上げに成功。アメリカは、宇宙開発で後れをとった。そこでアイゼンハワー大統領とジョンソン上院議員が中心となって、「マーキュリー計画」が始動した。 宇宙飛行士にふさわしい人材として、白羽の矢が立てられたのは、空軍などのテスト・パイロットたち。ジョンソンらが、「彼らは手に負えない」と、その我の強さを危惧する中での決定だった。 しかし現役最高のパイロットだったイェーガーは、宇宙飛行士を「実験室のモルモット」と揶揄。また彼は大学卒ではなかったため、その候補から外される。 508人の応募者を集め、過酷な身体検査と適性試験が繰り返される。そうして絞られた59人から、最終的にアラン・シェパード、ガス・グリソム、ジョン・グレン、ドナルド・スレイトン、スコット・カーペンター、ウォルター・シラー、ゴードン・クーパーの7人が選ばれた。 彼らは厳しい訓練を経て、次々と宇宙に飛び立ち、国民的英雄に祭り上げられていく。 一方で、孤高の闘いを続けてきたイェーガーは、最後の挑戦に臨もうとしていた…。 ****** ゴールドマン脚本は、「マーキュリー計画」に挑む宇宙飛行士たちに話を絞って、イェーガーのエピソードは、丸々削除していた。それに対しカウフマンは、物語の冒頭とクライマックスに、イエーガーのエピソードを配置したのである。 その上で、宇宙飛行士7人すべてに詳しく触れると、いかに3時間超えの長尺でも、とても描き切れない。そこで、シェパード、グリソム、グレン、クーパーの4人のエピソードをクローズアップして描くことにした。彼らは国家や政治家の思惑に時には反発しながら、“個”としての誇りを守ろうとする。「…現在の宇宙計画はすべて地球の必要性に奉仕することに重点をおいていて、人々が外宇宙を求める心理には重きをおいていない」と指摘するカウフマン。彼にとっては、逆にそうした心理こそが、興味の的だった。 カウフマンは、孤高の存在であるイェーガーと、チームでプロジェクトに対峙していく宇宙飛行士たちを対比しながら、いずれとも、「現代のカウボーイ」として描いた。そして、アメリカの精神風土である、インディペンデント・スピリットへの強い賛同を示したのである。 カウフマンははじめ、「未来が始まったとき、ライトスタッフが存在した」と考えていた。しかしその後、「いかに未来が始まったのか、それはライトスタッフを持った男たちがいたからだ」という結論に到達したという。「…時代を描くだけではなく、その時代に生きた人間たちを描こうと試みた…」カウフマンは、宇宙飛行士だけでなく、その妻たちの不安や恐怖、功名心なども、丁寧に描出している。 製作に際して、カウフマンはスタッフに指示し、揃えられる限りの資料を揃えさせた。記録映画フィルムの買い物リストを渡され、国中を歩き回ることとなったのは、編集担当のグレン・ファーら。彼らは、NASAや空軍、ベル航空機保管庫などで膨大なフィルムに目を通し、30年間人目に触れていなかった、ソ連のフィルムの発見に至った。こうして収集された映像類の一部は、編集や映像加工のテクを駆使して、本編で効果的に使用されている。 集められた大量のビデオテープは、“宇宙飛行士"たちの役作りにも、大きく寄与した。スコット・グレンは、自分が演じるアラン・シェパードの「外側をつかまえるために」それらを利用したという。しかしシェパードの内面に関しては、「ぼくが自分自身を演じる方がいい」という判断に至った。 グレンの判断の裏付けになったのは、カウフマンの姿勢。彼は俳優たちに、自分が演じる実在の飛行士に会えという指示を行わなかったのである。 自らの考えでただ1人、演じるゴードン・クーパーを訪ねたのは、デニス・クエイド。そんな彼曰く、本作の撮影は「ぼくの人生最高の恋愛」だったという。クーパーの妻を演じたパメラ・リードも“夫”と同様に、「わたしの人生で最も幸せな時間だった」とコメントしている。 カウフマンの演出は、“宇宙飛行士"たちが信頼を寄せるに足るものだった。ジョン・グレンを演じたエド・ハリスは、「何ごとにおいても決して妥協しなかった。あの人は8人目の宇宙飛行士だ」と、カウフマンを称賛。ガス・グリソム役のフレッド・ウォードはシンプルに、「彼はすばらしい人だ」と、賛辞を寄せている。 本作の評価を高めた要因に、孤高のパイロット、チャック・イェーガーの存在があることを、否定する者はいまい。彼を演じたサム・シェパードは、まさに生涯のベストアクトを見せた。 1943年生まれのシェパードは、劇作家として、20代はじめからオフ・ブロードウェイを中心に、華々しく活躍。その後演出も、手掛けるようになる。 映画に初めて出演したのは、テレンス・マリック監督の『天国の日々』(78)。この作品で彼は、若くして死病に侵された、農場主の役を印象的に演じて、主演のリチャード・ギアを完全に喰った。 映画出演5作目に当たる、本作の日本公開は、アメリカの翌年=84年の9月。その年の春には、彼が原作・脚本を手掛けたヴィム・ヴェンダース監督作『パリ、テキサス』(84)が、「カンヌ国際映画祭」で最高賞のパルム・ドールを獲ったことも、話題となっていた。 本作でのシェパードの演技について「ニューズ・ウィーク」誌は、「…あたかもゲーリー・クーパーを想わせる…」「サム・シェパードはこの映画で二枚目としての地位を永遠のものにした…」と絶賛。「…この反体制的な芸術家が、伝説の空軍のエースと合い通じるものを持っていると見抜いた」監督のカウフマンに対しても、「慧眼である」と高く評価している。 因みに本作では、当時59歳だったチャック・イェガーを、テクニカル・コンサルタントとして招き入れた。パイロットたち行きつけの店のバーテンダー役として出演もしているイェーガーと、演じるシェパードの初対面は、ある中華料理店だったという。 カウフマンによると2人は、「最初は用心深く見つめ合うという感じ」だった。しかし店を出る時にお互いの小型トラックを見て話し始めると、突然2人の間にあった垣根がとれたかのようになり、その後はまるで、“親子”のような関係を築いたという。 サンフランシスコ在住のカウフマンは、ハリウッドを嫌って、本作の大半を自分の地元で撮影した。波止場の倉庫をスタジオに改造した上、「互いに刺激を与え合える人々と組む必要がある…」と、地元の熱心な才能を数多く起用している。 CG時代到来の前、宇宙船や戦闘機などの特撮に関しては、コンピューター制御による“モーション・コントロール・カメラ”が全盛を極めていた。カウフマンは、『スター・ウォーズ』シリーズ(77~ )や『ファイヤーフォックス』(82)などで成果を上げていた、この最新技術への依存を、敢えて避けるように指示を行った。 そこでVFX担当のゲイリー・グティエレツは、特殊効果の原則に立ち返ることにした。ある時は、サンフランシスコの丘に登って、ワイヤーで吊り下げた模型飛行機と雲を作る機械を駆使して、飛行シーンを撮影。またある時は、大きな弓を作って、超音速ジェット戦闘機の模型を矢のように飛ばして、カメラで追った。このように、当時としても「アナログ」な手法にこだわったことが、いかに効果的であったかは、各々が本作を観て、確認していただきたい。 本作で描かれた「マーキュリー計画」が幕を閉じるのは、63年5月。奇しくもその年の11月、ケネディ大統領暗殺事件が起こる。後継の大統領となったのは、宇宙開発の仕掛人の1人だったジョンソンだったが、彼の政権下、アメリカはベトナム戦争の泥沼に陥っていく。 その前夜のアメリカの栄光と矛盾を描き出した本作は、アカデミー賞に於いては、作品賞やサム・シェパードの助演男優賞など、9部門でノミネート。主要部門の受賞は逃すも、編集賞、作曲賞、録音賞、音響効果賞の4部門のウィナーとなっている。 しかし興行的には、不発。当初の予算1,700万ドルを遥かにオーバーしての製作費2,700万ドルは、まったく回収できない成績に終わってしまった。 だが本作なしでは、後の『アポロ13』(95)や『ドリーム』(16)などの作品の存在は考えにくい。「実話をベースにした宇宙映画」という、それまではなかったジャンルの先駆けとなった本作は、紛れもなくエポック・メーキングを果したのである。 製作から40年経った今でも、語り継がれる作品を作り上げたフィリップ・カウフマンも、まさに“ライトスタッフ”の持ち主だったと言えよう。■ 『ライトスタッフ』© Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2023.09.22
『Mr.Boo!ミスター・ブー』香港映画の歴史を変えた、「天王」マイケル・ホイ
『Mr.Boo!』というタイトルの映画シリーズは、日本にしか存在しない。これはマイケル、リッキー、サミュエルのホイ3兄弟、或いはその内の長兄であるマイケル・ホイが主演した、複数の香港製コメディ映画の、日本での総称なのである。 アメリカの人気コメディアン、ジェリー・ルイス主演作の日本でのタイトルには、必ず「底抜け」という枕詞が付けられ、スティーヴン・セガール主演のアクション映画のほとんどが、『沈黙の…』という邦題でリリースされた。『Mr.Boo!』も、それらと同じようなことと言えるだろう。 そんな『Mr.Boo!』シリーズの日本公開第1弾として、79年に封切られたのが本作、その名も『Mr.Boo!ミスター・ブー』(1976)。マイケル・ホイが監督し、ホイ3兄弟が出演している。 香港映画と言えば、ブルース・リーの『燃えよドラゴン』(73)が大ブームを起こして以来、日本では誰もが、カンフー映画を思い浮かべるようになっていた。本作は、日本に於けるそんな香港映画のイメージを、決定的に変えることとなった1本である。 ※※※※※ ウォン(演:マイケル・ホイ)は、香港の街を舞台に活動する、私立探偵。 と言っても、彼の元に持ち込まれるのは、浮気の調査や万引き検挙のための見張りなど、ケチな仕事ばかり。助手のチョンボ(演:リッキー・ホイ)と、秘書の女性ジャッキーと3人で、細々と事務所を営んでいた。 そんな探偵事務所に、勤務先の工場をクビになった、お調子者の若者キット(演:サミュエル・ホイ)が現れ、雇ってくれという。最初は相手にしなかったウォンだが、キットのカンフーの腕前を見て、新たな助手に加える。 キットとチョンボをこき使い、給料もろくに払わないウォン。3人は様々な依頼に応える中で、次々と騒動に巻き込まれていく。 ある映画館に、爆弾を仕掛けるという内容の、脅迫が届いた。館主の依頼で、警備に入ったウォンたち。実はこの爆弾騒ぎは、兇悪な強盗団の仕掛けで、彼らは映画館へと押し入り、観客全員の財布や貴重品などを身ぐるみ剥ぎ取る計画を立てていた。 そんな強盗団とガチで対峙することになった、ヘッポコ探偵たちの運命は⁉︎ ※※※※※ 先に、香港映画≒カンフー映画のイメージを変えたと記したが、実は本作は、当のカンフー映画の添え物として輸入された作品。配給会社の東宝東和が、早世したブルース・リーの「最後の作品」であった、『死亡遊戯』(78)を買い付けた際に、おまけに付いてきた1本だったのである。 そんな経緯から、お蔵入りしてもおかしくなかったのだが、『死亡遊戯』公開直前に放送された、TV特番がきっかけで日の目を見ることになった。番組内で、本作で展開される、マイケル・ホイ扮する探偵と、スリに間違えられた男が、厨房で対決するシーンが紹介されたのである。 マイケルが、ぶら下がっていた腸詰を、ヌンチャクのように振り回して、男を追い詰める。すると男は、やはりぶら下がっていたサメの顎骨を使って逆襲する。この「ドラゴンvsジョーズ」のギャグが、日本のお茶の間で評判となったことから、公開に至ったというわけだ。 東京では有楽町に在った、丸の内東宝を軸とする劇場チェーンで、79年2月にロードショーされることが決定。とはいえ、そんなに期待されての興行ではなかった。 このチェーンでは、78年の暮れに公開された、アニメの『ルパン三世』劇場版第1作がヒットし、ロングランとなった。そのため、新春第2弾として1月中旬より公開予定だった『ブルース・リー 電光石火』(76)の公開が、2月までズレ込んだ。 この『電光石火』という作品は、アメリカ時代のブルース・リーが出演したTVシリーズ、「グリーン・ホーネット」(66~67)を再編集したもので、本作『Mr.Boo!』と同じ東宝東和の配給だった。そのために『Mr.Boo!』は急遽、『電光石火』と2本立てでの公開となってしまったのである。 その程度の扱いだった本作だが、蓋を開けてみれば、予想外の大ヒットを記録!サミュエル・ホイが広東語で歌う主題歌も、ラジオ番組などで頻繁に掛けられた。 東宝東和は早速、本作の後に製作された『Mr.Boo!インベーダー作戦』(78)を、シリーズ第2弾とすることを決めた。そして1作目の公開から僅か3ヶ月後、その年の5月には、大々的に公開したのである。 その際には、ホイ3兄弟を日本へと招聘。兄弟は、イベントや人気TV番組に次々と出演するなど、プロモーションを賑々しく展開した。 日本ではこんな流れで、『Mr.Boo!』シリーズが成立し、ホイ3兄弟も、すっかり人気者となった。ではホームグラウンドである香港では、彼らはどんな存在だったのか?そしてその作品群は、どんな評価を受けたのか? 俗に“ホイ3兄弟”というが、実は6人兄弟だった。ホントの長男は、幼い頃に亡くなっており、長男格のマイケルは、実際には次男。次男扱いのリッキーは、ホントは四男。末っ子扱いのサミュエルは五男で、彼の下には、妹が居る。 マイケルとリッキーの間の三男スタンレーは、助監督など主に裏方を務めて、“ホイ3兄弟”をサポート。…と言っても、俳優としてもちょいちょい顔を出しており、本作では、ラブホテルの支配人を演じている。 3兄弟の“長男”、1942年生まれのマイケル・ホイは、中国の広東省生まれ。7歳の時に、家族で香港へと移住した。 エリートが進む高校、大学を経て、普通に就職。教職を務めていた時に、6歳下=48年生まれの“末っ子”サミュエルの誘いで、芸能界入りを決めた。 サミュエルは大学在学中から学生バンドとして活動し、TV番組の司会など務めていたのだ。因みにサミュエルは、ミュージシャンとしても大成功を収め、後に“歌神”と呼ばれるほどの存在となる。 マイケルがTV司会者としてデビューしたのは、26歳の時。トークショー、ヴァラエティで活躍し、サミュエルとコンビを組んだ「ホイ・ブラザーズ・ショー」で更に人気を高めた後、映画界に進出となった。 何本かに出演した後、やがて自作・自演のコメディを手掛けるようになる。映画製作会社ホイ・プロダクションを設立。監督・脚本・主演を務めた第1作が、日本では『Mr.Boo!』 シリーズ第3弾として、79年12月に公開された、『Mr.Boo!ギャンブル大将』(74)だった。 実は“ホイ3兄弟”の“次男”リッキー・ホイは、『ギャンブル大将』の時点では、まだマイケルたちと合流していなかった。日本公開版には出演シーンがあるが、これは“シリーズ第3弾”としてリリースされることが決まってから、追加撮影されたものである。 リッキーは、46年生まれ。俳優になる前は、フランス領事館内に在るAFPの新聞記者を務め、ケネディ大統領暗殺などの記事を書いていたという。 仕事がキツかったので辞めて、大手映画会社の俳優養成所に進み、スタントマンへと転じた。ところがこちらの仕事もキツく、契約が切れてから、マイケルの元へと身を寄せた。 リッキーもサミュエルと同様、歌い手として「一流」と評価される、アーティストでもあった。 さて、先に本作『Mr.Boo!ミスター・ブー』が、日本に於ける香港映画のイメージを、決定的に変えた作品であることを記した。香港の映画史に於いてマイケル・ホイの存在は、更に大きなものと言える。 香港映画は、60年代から70年代はじめまでは、“北京語映画”の天下であった。そこで隆盛を極めたジャンルは、豪華絢爛たる宮廷もの、武侠活劇、甘いメロドラマ等々。 ところがこれらの作品が飽きられ始めたタイミングで、TVタレントが一挙に映画へと進出する。彼らは普段使いの“広東語”をセリフとした、香港の現実を反映した作品を製作する。その動きをリードした1人が、マイケル・ホイだったわけである。 チャーリー・チャップリンとハロルド・ロイド、そして初期のウッディ・アレンのファンだったという、マイケル・ホイ。アレンがニューヨークを舞台にしたように、マイケルは、香港をテリトリーに、香港人を主役にした映画作りを行った。『ジョーズ』や『007』、『ピンク・パンサー』等々のパロディを織り交ぜるなど、随所に外国映画の手法と動向を採り入れながら、香港の現実を色濃く反映させた作品を、作り出したわけである。こうしたマイケル・ホイのような映画作家が主流となることで、伝統的な中国映画の技法を継承していた“北京語映画”は、香港から姿を消すこととなったのである。 現代香港映画は、コメディと共に勃興し、70年代後半以降、いわゆる“香港ニューウェイヴ”に繋がっていく。その流れを作ったマイケル・ホイは、香港映画界に於いては、「天王」と呼ばれる存在となった。 さてここでまた、日本の話に戻す。 79年2月の『Mr.Boo!』大当たりによって、香港映画のコメディに飛びつく配給会社が、続々と現れた。前年=78年に香港で大ヒットとなった『ドランクモンキー 酔拳』(78)に、東映の洋画部が注目し、買い付けに至ったのも、そうした流れと言われる。 ご存じの方が多いとは思うが、この『酔拳』こそが、かのジャッキー・チェンの主演作としての、日本初お目見えだった。後に世界的大スターとなるジャッキーの、日本での人気に火を点けるきっかけとなったのも、実は『Mr.Boo!』だったのだ! 偉大なる「天王」マイケル・ホイは、少年時代に広東省から香港に渡ってきた。それはホイ一家が、「中国共産党から逃れるため」だったという。 そんなマイケルだが、香港が中国に返還される4年前=93年のインタビューでは、「返還」に対して、前向きな姿勢を示している。「…私は自分を中国人だと思っています。香港は私にとっては単なる小さな島で、たまたま父が私を島に連れて来て、40年もそこに住んでるというだけです」「お茶を一杯飲むために中国へ行って、また夜には香港に戻ってみたいな生活ができるし、しています」「…97年以降は、こんどは中国全体のために、中国に対して自分はどう思っていて、どういう方向性に向かうべきなのかということを自分なりに表現したものをつくりたいですね」 ところが返還から10年余経った、2008年のコメントを見ると、だいぶ雲行きが怪しくなってくる。「今の香港映画界は中国大陸の市場を考えなければならない。だから中国政府に脚本を見せなければならないんだけど制約が多くてね。簡単には進まない」 それから更に15年経ち、ご存じの情勢である。かつて香港ならではの“広東語映画”の隆盛を招き、“北京語映画”を葬る原動力となったマイケル・ホイ。“重鎮”として映画出演を続ける彼であるが、今の香港の姿、そして香港映画の在り方に対しては、何を思うのであろうか?■ 『Mr.BOO!ミスター・ブー』© 2010 Fortune Star Media Limited. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2023.10.10
ブラピとベネット・ミラー。野球好きでない製作者と監督が生み出した、21世紀型野球映画『マネーボール』
“ブラピ”ことブラッド・ピット(1963~ )が、『リバー・ランズ・スルー・イット』(1992)で、一躍注目の存在となった時、その作品を監督した稀代の二枚目スターに因んで、「第2のロバート・レッドフォード」と謳われた。それからもう、30年余。 ブラピはその間、ハリウッドのTOPランナーの1人として、主演・助演交えて数多くのヒット作・話題作に出演してきた。アカデミー賞は、4度目のノミネートとなった『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019)で、助演男優賞を遂に掌中に収めた。 俳優として以上に評価が高く、辣腕振りを見せているのは、プロデューサー業である。2001年に映画製作会社「プランBエンターテインメント」を設立すると、製作を務めた『ディパーテッド』(06)と『それでも夜は明ける』(14)、製作総指揮とクレジットされている『ムーンライト』(16)の3作品で、アカデミー賞作品賞を受賞。また、製作・主演を務めた、テレンス・マリック監督作『ツリー・オブ・ライフ』(11)は、カンヌ国際映画祭の最高賞=パルム・ドールに輝いている。 そんな彼が2000年代後半、“映画化”に執心。4年の準備期間で幾多もの障害を乗り越え、2011年にリリースしたのが、実在の人物ビリー・ビーンを自ら演じた、本作『マネーボール』である。 ***** 2001年のメジャーリーグベースボール。アメリカン・リーグのオークランド・アスレティックスは、地区シリーズ優勝目前で、ニューヨーク・ヤンキースに敗退。そのシーズンオフには、チームの主力選手3人が、フリーエージェントにより、大金を積んだ他チームへ移籍することが決まった。 チームの編成を担当するのは、GM=ジェネラル・マネージャーのビリー・ビーン。選手の年棒総額が1億~2億にも達する、ヤンキースのような金満球団と違って、アスレチックスが割けるのは、4,000万㌦程度。抜けた選手たちの穴を、金ずくで埋めるなど、不可能だった。 補強に当たってビリーは、球団の古参スカウトらが上げてくる、「主観的」な選手情報に、不信を感じていた。彼自身が高校卒業と同時に、スカウトの「主観的」な高評価と、多額の契約金に目が眩んで、大学進学を取りやめ、メジャーリーグへと進んだ。その結果として、プロの“適性”がなく、惨憺たる現役生活を送った経験があったのである。 ビリーは、トレード交渉でインディアンス球団を訪ねた際、イエール大卒の若きフロントスタッフ、ピーター・ブランドに出会う。ビリーはピーターが、データに基づいて選手たちを「客観的」に評価する「セイバーメトリクス」理論を駆使していることを知り、自分のアシスタントに引き抜く。 二人三脚で、データ分析に基づいたチームの補強に乗り出した、ビリーとピーター。彼らが欲した選手の多くは、元の所属球団からの評価が低いため、「安く」入手できた。 ビリーたちのそんな常識外れのやり方に、監督も含む周囲との軋轢が生まれていく。そのままシーズンへと突入するも、勝利にはなかなか、結びつかない。 それまでのメジャーの常識を打ち破らんとする、ビリーたちの挑戦の行方は果して!? ***** 原作は、マイケル・ルイスが2003年に出版した、ノンフィクションのベストセラー。ここで紹介される「セイバーメトリクス」とは、1970年代にビル・ジェイムズなる人物が生み出した、データを駆使した野球理論である。 その内容から、主なものをごく簡単に紹介する。打者を評価するに当たっては、つい目が惹かれてしまう、ホームランの本数や打点、打率などよりも、四球なども含んだ出塁率や長打率を重視する。実はその方が、「相手チームより多く得点を記録する」ことに結びつく。即ち“勝利”のためには、有効であるというのだ。 投手の評価に関しては、「ホームラン以外のフェア打球は、それが安打になろうとなるまいと投手の力量とは関係ない」と、割り切る。 送りバントや盗塁といった伝統的な戦略については、「アウト数を増やす可能性が高い攻撃はどれも、賢明ではない」と酷評し、斬って捨てている。このように、「セイバーメトリクス」は、それまでの球界の常識をことごとく覆すものだった。 この理論は、野球ファンの一部から注目されながらも、メジャー球団の関係者からは、長らく無視された。そして、ドラフトやトレードでの補強や、実際の試合に於ける選手起用などでは、データに基づいた「客観」よりも、スカウトや監督などの「主観」が優先され続けたのである。 そうした旧弊を打ち破ったのが、アスレチックス球団だった。映画ではその辺りの流れは割愛・改変されているが、まずは90年代前半、当時のGMだったサンディ・アルダーソンが、「セイバーメトリクス」をチーム作りに応用し始めた。そしてその後任となったビリー・ビーンが、本格的な実践に踏み切ったのである。 その絶大な成果、「セイバーメトリクス」がいかに球界を変えたかについては、本編で是非ご覧いただくとして、実はプロデューサー兼主演俳優のブラピは、野球自体は「あまり観ない」上、本作に関わるまでは、知識もそれほどなかったという。それは彼が子どもの頃に出場した、野球の試合での経験に起因する。 フライを捕ろうとしたら、太陽に目が眩んで、ボールが顔を直撃。病院送りとなって、18針も縫ったのである。 それ以来野球に関わらなかったブラピが、本作の原作に惹かれたのは、「負け犬が返り咲いて自分の持ってるすべてを、あるいはそれ以上のものを発揮する部分」だったという。更に主人公であるビリー・ビーンの、「長いものにまかれない…」「人がノーマルだと思うことに疑問を持つ…」「何年も継続されているからとそれを受け入れてしまわない…」そういった“精神”に魅了されたのである。 しかしながら先にも記した通り、“映画化”が実現するまでの道のりは平坦ではなかった。とりわけ大きかったのは、2度に渡る監督の交代劇。 最初に決まっていたデイヴィッド・フランケルが降板すると、スティーヴン・ソダーバーグが後任の監督に。ところが、準備が進んで、いよいよ撮影開始数日前というタイミングで、スタジオ側から製作中止を申し渡される。 それでもブラピの心は、「このストーリーに取り憑かれてしまっていて」、本作の企画を「手放すなんてとてもできなかった」のだという。何としてでも、ビリー・ビーンを演じたかったのだ。 最終的に監督は、前作『カポーティ』(05)でアカデミー賞監督賞にノミネートされた、ベネット・ミラーに決まる。実はミラーも、野球自体はまったく好きではなかった。原作本に関しても、「スポーツビジネスの専門書みたいな本で、はじめはあまり読むのに気が進まなかった…」という。 ところが読み進む内に、「この物語にとって、野球はとっかかりでしかない」と気付く。そしてブラピと同様に、ビリー・ビーンの生き様に心惹かれ、「ぜひ掘り下げてみたい」という気持ちになったのだ。 脚本は、監督がソダーバーグだった時点では、スティーヴン・ザイリアンが執筆。その後ミラーが監督になってから、アーロン・ソーキンによるリライトが行われた。 ザイリアンは『レナードの朝』(90) 『シンドラーのリスト』(93)など、ソーキンは『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』(07)『ソーシャル・ネットワーク』(10)など、それぞれ実話をベースとした脚色に定評があり、そうした作品でオスカー受賞経験のある2人。それをドキュメンタリー出身のミラー監督が演出することで、ビリー・ビーンの裏舞台での戦いが、リアルに浮き彫りになる。 同時に、チームが勝利に向かって邁進するという、ある意味王道が描かれる。こうして本作は、それまでの“野球映画”では見たことがなかったような、何とも絶妙なバランスの作品に仕上がったのである。 原作者のマイケル・ルイスは、「一本の筋あるいはドラマチックな展開があるとは必ずしも言えない」自作を、「きちんと映画化するのは非常に困難」と認識。「本と全然違う映画にするのか、あるいは本のとおり映画にしてひどい映画になるのか」どちらかだろうと考えていた。しかし完成作を観てミラー監督に、「この映画は(とても良いのに)本のとおりでした」と、大満足の評価を伝えている。 実在のビリー・ビーンは、ブラピが自分の役を演じると聞いて、少し意外な気がしたという。しかし実際に彼と接して、その役作りへの努力を目の当たりにする中で、ブラピが明確なヴィジョンを持ち、この上なく礼儀正しい人物だったことに、感銘を受けた。 一方で、この映画化に最も不満を覚えたのは、本作でのビリー・ビーンの片腕、ピーターのモデルとなった、ポール・デポデスタであった。デポデスタは己の役を、自分とは似てもにつかない太っちょのコメディアン、ジョナ・ヒルが演じることに、納得がいかなかった。またそのキャラが、オタクのように描かれることにも、我慢ならなかったようだ。 結果としてデポデスタは、実名を使うことの許可を出さなかった。そのため彼に当たるキャラは、ピーター・ブランドと、改名されたのである。 そのピーターを演じたジョナ・ヒルは、シリアスな演技が出来ることも披露した本作で、アカデミー賞助演男優賞にノミネート。高評価を得て、その後役の幅を広げていく。 因みに“野球映画”としてのクオリティを高めるのに効果的だったのは、メジャーリーグやマイナーリーグなどの元プロや大学野球の経験者などを、選手役にキャスティングしたこと。そんな本物の元野球選手たちの中で、一塁手スコット・ハッテバーグを演じたクリス・プラットは、唯一人野球経験のない俳優だった。 そのためプラットは、かなりハードなトレーニングに積んだ上で、実在のハッテバーグの特徴をよく捉えた役作りを行った。結果として本作のベースボール・コーディネーターからは、「野球選手としての成長ぶりには目覚ましいものがあった」と、高評価を勝ち取った。 この時のプラットは、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズ(14~ )や『ジュラシック・ワールド』シリーズ(15~ )で、主演スターにのし上がる前夜。そんなプラットの野球選手ぶりをウォッチするのも、本作を今日観る上での、楽しみ方の一つと言えるだろう。 ブラッド・ピットは本作で、「21世紀型」とも言える、それまでになかった、新たな“野球映画”をクリエイトした。アカデミー賞では作品賞や主演男優賞など6部門にノミネートされながら、残念ながら受賞は逃したものの、ブラピにとって『マネーボール』が、俳優としてもプロデューサーとしても、代表作の1本となったことは、間違いあるまい。■ 『マネーボール』© 2011 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2023.10.11
イーストウッドに俳優業引退を翻意させた、 新人脚本家との出会い 『グラン・トリノ』
クリント・イーストウッドは、1930年5月生まれ。齢70を越えた2000年代に、9本もの劇映画を監督している。 引退を考えてもおかしくない年頃になって、この驚異的なペース。しかも、自身2度目のアカデミー賞作品賞・監督賞を獲得した『ミリオンダラー・ベイビー』(04)をはじめ、その多くが高評価を勝ち取っている。 しかしながら、『荒野の用心棒』(1964)や『ダーティハリー』(71)等々で、“大スター”のイーストウッドに親しんできたファンたちは、2000年代中盤以降、些か淋しい気持ちにも襲われていた。かつては自らの監督作の多くに主演していたイーストウッドだったが、『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』(共に06)、『チェンジリング』(08)と、この頃に製作・監督した3作品では、スクリーン上に姿を見せなかったのだ。 イーストウッド自身、『ミリオンダラー・ベイビー』を演じ終えた際には、「…もう十分だ。再び演技はしたくない…」と考えるようになっていたという。それから4年、演じる役柄を特に探すこともなく、監督業に専念していた彼は、ある脚本との出会いによって、翻意する。 イーストウッドが主宰する製作会社マルパソ・プロダクションに届けられたその脚本は、無名の新人脚本家が執筆したもの。まずはプロデューサーのロバート・ロレンツが目を通してから、イーストウッドに手渡した。「これが君の監督作になるか出演作になるかはわからないけれど、とにかくおもしろいよ」と言い添えて。 一読したイーストウッドも、すぐに気に入った。その物語の主人公ウォルト・コワルスキーは、それまでイーストウッドが演じてきたキャラクターが、老境を迎えたかのような人物で、まるで“当て書き”と見紛うばかりだった。 そして本作『グラン・トリノ』(08)の映画化が、動き始めた。 ***** ミシガン州デトロイトに住む、ポーランド系アメリカ人のウォルトは、頑固で偏狭な老人。亡き妻が頼った神父にも、「頭でっかちの童貞」と毒づく始末で、2人の息子やその家族ともうまくいっていない。 若き日に従軍した朝鮮戦争で、敵を殺したトラウマを長年抱えてきたウォルト。近隣には、かつて勤務した自動車工場の仲間たちの姿は消え、今やアジア系の移民ばかりが暮らすように。人種的な偏見の持ち主である彼は、そのことにも腹を立てていた。 ある時、隣に住むモン族の少年タオが、不良の従兄弟に強要されて、ウォルトの愛車“グラン・トリノ”を盗みに入る。タオはウォルトにライフルを突きつけられて、這々の体で逃げ出す。 その後行きがかりから、タオやその姉スーが、不良に絡まれているところを救ったウォルト。はじめは嫌っていた彼らと交流を深めていく中で、孤独が癒やされるのを感じる。 折しも自分が死病に侵されているのを知ったウォルトだが、近隣の家の修繕を手伝わせたり、建設現場の仕事を紹介するなどして、タオを“一人前の男”にすることに生きがいを感じるようになる。それに応えるタオも、ウォルトを“師”と慕うように。 そんな時に、タオの従兄弟ら不良たちからの嫌がらせが、再び始まる。ウォルトが彼らの1人に制裁を加えたことから、事態は悪化。タオとスーの一家は危機に立たされる。 復讐心に燃えるタオを制して、ウォルトは言う。「人を殺す気持ちを知りたいのか?最悪だ」 そしてウォルトは、タオたちを守るために、ある決断をする…。 ***** 本作『グラン・トリノ』の脚本は、それまでローカルケーブルTVのコメディ用台本を手掛けてきたというニック・シェンクが、初めて映画用に書いたもの。主人公のモデルになったのは、シェンクが育ったアメリカ中西部のミネソタ州で、たくさん見てきた男たちだという。 曰く、彼らは「感情を全く見せず、何に対しても喜んだりはしない」「多くはベテラン(帰還兵)で、惨たらしいものをたくさん見てきて、自分の感情を奥に深くしまい込むようになってしまった…」 その結果として、「他人にはいつもタフできつく当たり、特に自分の子供に対しめちゃくちゃ厳しい」。そんな男たちの特徴を組み合わせて練り上げたのが、ウォルト・コワルスキーだった。 因みにウォルトと、馴染みの散髪屋のイタリア系店主が、お互い差別語を交えながら会話するシーンも、シェンクの実体験をベースに書かれたもの。長い間工事現場でトラック運転手として働いていたというシェンクは、その外見からいつも、「ハゲチンポ」と呼ばれていたのだという。 朝鮮戦争で凄惨な体験をして、人殺しをしたことに深い悔恨の念を抱く老人ウォルトの隣人となるのは、“モン族”の少年とその家族。これも、シェンクが工場勤務の頃の同僚に、“モン族”が多くいたことがベースになっている。 “モン族”は元々、中国に居た民族。しかし19世紀に清朝に追われて、ラオスやベトナムなど東南アジアに分布するようになった。 1970年代のベトナム戦争時、山岳地の戦いに強い“モン族”の一派を、アメリカ軍がゲリラとして活用。しかし75年、アメリカが戦争に敗れて撤退すると、ラオスでは“モン族”は敵と見なされて、迫害されるようになる。そのため難民として、アメリカまで逃げる者が多数に上った。 2015年時点で、アメリカに暮らす“モン族”は、二世も含めて26万人余りという。『グラン・トリノ』は、ベトナム戦争でアメリカの犠牲となって、アジアの地から移り住んできた“モン族”が、朝鮮戦争で心の傷を負い、長年罪の意識に囚われてきた男ウォルトの、“救い”となり“贖罪”の対象となる物語だ。 本作を監督し、ウォルトを演じたイーストウッドは、それまで“モン族”のことをほとんど知らなかった。そのため文献に目を通すなど、様々なことを学んだ上で、キャストには本物の“モン族”の人々を起用することに、こだわった。 タオ役のビー・バンやスー役のアーニー・ハーは、演技は学校の演劇部や地元の劇団で経験した程度だったが、非常に勘が良く、イーストウッド曰く「作品に確かなリアリティを出してくれた」。英語が全く話せない“モン族”の老人などもキャスティングする中で、イーストウッドは、彼らのことに詳しいエキスパートを招聘。全ての表現が適切かどうかをチェックしながら、撮影を進めたという。 ウォルトは、何かにつけてはライフルを持ち出し、不良たちを相手に一歩も退かない姿勢を見せる。そのキャラに、イーストウッド最大の当たり役『ダーティハリー』シリーズのハリー・キャラハン刑事を重ね合わせ、その老後のように捉える向きも、少なくないだろう。 イーストウッド自身は、「自分ではハリーだとは思わなかった」と笑いながらも、『ミリオンダラー・ベイビー』や『ハートブレイク・リッジ/勝利の戦場』(86)などで、自分が演じてきた主人公たちと重なるところがあることを認めている。「社会や今の世の中から外れた男」で、「人との接し方がわからないし、あらゆることが昔と変わってしまったことにもすねている」のだ。 そんなウォルトである。不良たちのエスカレートする暴力に対しては、ハリー・キャラハンのように銃をぶっ放して、一人残らず殲滅する選択をしても、不思議ではない。いやむしろ、イーストウッド映画のファンとしては、それを期待してしまうだろう。 しかし、“モン族”の若者との交流で、“寛容さ”を学んだ彼は、暴力の連鎖をいかに断つかに腐心。タオたちが、後顧の憂いなく生きていける道を、見つけ出そうとするのだ。 詳しくは本作を、実際に観ていただく他はないが、初公開時にウォルトが採った道を目の当たりにした多くの観客は、まさかの展開に唖然。それでいて、胸を熱くする他はなかったのである。 それにしても、元はイーストウッド主演を前提に書かれたものではない、本作の脚本。実際に映画化権を手にしたイーストウッドが、どれだけ自分自身や己が演じてきたキャラに寄せて、書き直させたのだろうか? ニック・シェンクによると、「脚本から一つか二つシーンをカットして、ロケ地をミネソタ州ミネアポリスからミシガン州デトロイトに移した以外は、ほぼ脚本、一字一句違わずそのまま」イーストウッドは撮り上げたのだという。特にウォルトのセリフは、シェンクが「書いたとおり」に、イーストウッドは演じたのである。 最初に記した通り、1930年生まれのイーストウッドは、ウォルトとほぼ同年代。朝鮮戦争時には、実際に兵役に就いている。幸いにして戦場に出ることはなかったというが。 また本作に取り掛かる直前は折しも、イーストウッドが日本兵を主人公にした『硫黄島からの手紙』を監督して、アジアへの視点が開けたと思しき頃。そんなタイミングで、自分の年代で演じるにはベストと言える、『グラン・トリノ』の脚本と出会ったわけである。 イーストウッドのそうした強運さは、彼が長命にして頑健な肉体を誇ることと合わせて、「天からのプレゼント」という他はない。それは。彼の映画を見続けてきた我々にとってもである。 かくして世に送り出された『グラン・トリノ』は、当時としてはイーストウッド映画史上、最大のヒットを記録した。■ 『グラン・トリノ』© Matten Productions GmbH & Co. KG
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COLUMN/コラム2023.11.08
ここからキャメロン・ディアスの快進撃が始まる!ファレリー兄弟“おバカ映画”の最高傑作!!『メリーに首ったけ』
2018年度のアメリカ映画賞レース。その頂点とも言うべき「アカデミー賞」で、アルフォンソ・キュアロン監督の『ROMA/ローマ』やスパイク・リーの『ブラック・クランズマン』等々、強力なライバルを打ち破って“最優秀作品賞”に輝いたのは、『グリーンブック』だった。 この作品は、人種差別が激しかった1962年のアメリカを舞台に、実話をベースとした内容。ツアーに出た、黒人ピアニストのドン・シャーリーと、その運転手兼ボディガードに雇われた、粗野な白人トニー・ヴァレロンガの間に生まれる、友情と絆を描いた、感動的な物語である。 作品のクオリティとしては、賞レースを制したことに、何の不思議もない。トニー役のヴィゴ・モーテンセン、トニー役のマハーシャラ・アリがそれぞれアカデミー賞にノミネートされ、後者が助演男優賞に輝いたのも、納得でしかない。 しかし少なくない数の映画ファンが、大きな驚きと違和感を禁じ得なかった。この作品の製作・監督・脚本を務め、作品賞と監督賞のオスカーを手にしたのが、ピーター・ファレリーであったことに。 ピーターは、1990年代中盤から、アメリカン・コメディ・ムービーのTOPランナーとして、数々の“バカ映画”を手掛けてきた、“ファレリー兄弟”の兄の方。そんな彼が、まさか“オスカー監督”になってしまうなんて! 私の場合、アカデミー賞でのピーター・ファレリーの歓喜の表情を見ながら、彼と弟のフィルモグラフィーの中でも、特に笑い転げた傑作コメディを思い出していた。『グリーンブック』のちょうど20年前に製作・公開された、本作『メリーに首ったけ』(1998)である。 ***** 高校生のテッド(演:ベン・スティラー)は、同級生のメリー(演:キャメロン・ディアス)に恋している。しかしキュートで人気者の彼女に、冴えない自分が相手にされるなど、想像もつかないことだった ところが、知的障害のある男の子をイジメから救ったことで、幸運が訪れる。何と彼は、メリーの弟。テッドに大感謝のメリーは、彼をプロム・パーティーへと誘った。 しかしプロム当日、メリーを迎えに行ったテッドを悲劇が襲う。トイレでジッパーに、大事なイチモツを挟み、救急車で搬送されるハメに。すべては台無しとなった…。 それから13年。テッドはメリーのことが、忘れられない。そこで親友のドムから紹介された、ヒーリー(演:マット・ディロン)という胡散臭い男を、調査に雇うことに。 ヒーリーは、今はマイアミで整形外科医となったメリーを見つけ出す。彼女は眩しいほどに美しく、ヒーリーは一目惚れ。テッドには現在の彼女のことを、「体重120㌔で車椅子生活」「父親の違う4人の子の母親」などと虚偽報告を行う。その上で自らは、マイアミへと引っ越し。メリーに近づこうと、様々な策を講じる。 報告が嘘であることを知ったテッドも、マイアミへ向かう。そして再会を喜ぶメリーから、首尾良くデートの約束を取り付ける。 しかしメリーに首ったけなのは、テッドやヒーリーだけではなかった。それも皆、ストーカー行為を辞さない、一癖も二癖もある男ばかり。テッドの13年に渡る片想いの行方は!? ステキなメリーは一体、誰を選ぶのか!? ***** ロードアイランド州出身で、1956年生まれのピーター・ファレリーと、58年生まれのボビー・ファレリーの兄弟。90年代に全米で大人気だったシットコム、「となりのサインフェルド」に、2人の書いた脚本が売れたことから、業界でのキャリアが始まる。 クレジット上は、ピーターが監督、ボビーが共同製作になっている、『ジム・キャリーはMr.ダマー』(94)が、映画界に於ける2人の共同監督のはじまり。邦題通りにジム・キャリーと、ジェフ・ダニエルズが大バカコンビを演じるこの作品は、全米で製作費の10倍以上、2億5,000万㌦もの興収を上げる大ヒットとなった。 続いての作品は、ウッディ・ハレルソンとランディ・クエイド主演のボウリング・コメディ『キングピン/ストライクへの道』(96)。今度はちゃんと、ファレリー兄弟共同監督名義の作品となった。 そして第3作が、本作『メリーに首ったけ』である。元は89年に、TVのベテラン作家だった、エド・デクターとジョン・J・ストラウスが書いたオリジナルストーリー。それを、新作企画を探していたファレリー兄弟が、友人のエドから貰ったのが、はじまりだった。 本作のストーリーだけを追うと、ある意味「普遍的なラブストーリー」にも見える。それをオリジナルの作者であるエドとジョン、そしてファレリー兄弟の4人で、少しずつ書き変えた。その際に、物語の序盤でテッドを襲う“悲劇”をはじめ、ファレリー兄弟お得意の、「低俗なユーモア」を次々と盛り込んでいったのである。 因みにこの“悲劇”の元ネタとなったのは、ファレリー家で実際に起こったアクシデント。兄弟の姉がパーティを開いた際、客のひとりが同じようにジッパーにイチモツを挟んでしまい、兄弟の母がそれを助けたのだという。 そんなリライトを経て、出来上がったのは、ボビー・ファレリー曰く、「『恋人たちの予感』と『ブレージング・サドル』を足して2で割ったような…」内容。『恋人たちの予感』(89)は、“ロマコメの女王”メグ・ライアンとビリー・クリスタルが共演した、恋愛コメディの名作である。それに対して『ブレージング・サドル』(74)は、“アメリカン・コメディの巨匠”メル・ブルックスによる、西部劇をパロディにした、大バカなスラップスティックコメディだ。 因みにボビーは本作について、『恋人たちの予感』の原題“When Harry Met Sally(ハリーがサリーに出会った時)”をもじって、『ハリーがサリーをストーキングした時』と呼んでもいいとも、語っている。 配役に関しては、テッド役のベン・スティラーは、ファレリー兄弟の第一希望が通ったもの。しかし当初、製作会社側はベンでは弱いと考えたのか、他にオーウェン・ウィルソンやジム・キャリーの名前も上がったという。 結果的にベンは適役だったが、本作を成功に導いたのは、何と言っても、メリー役にキャメロン・ディアスを得たことが大きい。 十代からモデルとして活動していたキャメロンの俳優デビューは、21才の時。『マスク』(94)で、主演のジム・キャリーの相手役を務めたのが、ほぼ初めての演技だった。 この作品は大ヒット。キャメロンの知名度も上がったが、『マスク』での役どころは、あくまでも、ジム・キャリーの付属物。そこで彼女は、演技の経験を積む意味もあって、暫しの間、低予算のインディペンデント映画への出演を続けた。 そして97年、ジュリア・ロバーツ主演の『ベスト・フレンズ・ウェディング』、ダニー・ボイル監督の『普通じゃない』と、話題作に立て続けに出演。評価が高まったところでの“主演”が、本作だった。 しかしキャメロンのエージェントは、本作の脚本を一目見て、これには関わらないように、彼女に忠告したという。下ネタが目白押しで、障害者をネタにしたり、動物虐待ギャグもふんだんに入った作品に出るなど、「正気の沙汰じゃない」「キャリアが終わる」と、考えたからだ。 一方でファレリー兄弟は、キャメロンの出演を熱望。メリーのキャラには、実在のモデルが居たという。それは、ファレリー兄弟の近くにいた魅力的な女の子。ところがその子は、若くして事故で亡くなってしまった。兄弟は彼女への想いをたっぷりと籠めて、美しくも心優しいメリーのキャラを造型した。そしてキャメロンは、その役にピッタリだったのだ! 彼女のスケジュールに合わせて、撮影開始を遅らせるなどの配慮も、心に響いたのか?キャメロンは周囲の反対を押し切って、本作のオファーを受けることとなった。 実は当時のキャメロンは、ヒーリー役のマット・ディロンと交際中で、恋人同士での共演となった。しかし共演は、これが最初で最後となる。本作公開後、2人に別離が訪れたのは、キャメロンのキャリアが本作で急上昇し、ディロンと逆転してしまったことが、無関係とは言えまい。 そうした以外でも、キャメロンにとって『メリーに首ったけ』は、至極大切な作品となった。本作から10年後、キャメロンの父エミリオが、58歳の若さでこの世を去った際、彼女は本作の場面を使って、父の追悼映像を作ったのである。『メリーに首ったけ』の撮影現場で娘に同行していたエミリオは、マイアミに向かうテッドが、誤って逮捕された後の警察でのシーンにカメオ出演している。その役どころは、テッドが釈放される際に囃し立てて見送る、赤い服を着た囚人達の内の1人。長髪で髭をはやしたエミリオが、スクリーン上にはっきりと確認できる。 エキストラに友人・知人を多く起用するなど、ファレリー兄弟の撮影現場は、非常に楽しく和やかな雰囲気だったという。そんな中で、キャメロンが「懐疑的」になったのは、本作で最も有名だと言っても良い、“ヘアジェル”のギャグ。未見の方のために詳細は伏せるが、テッドとのデートに出掛ける前、メリーがある体液を、ヘアジェルと間違えて髪に付けて…というシーンである。 キャメロン曰く、これはさすがに「…行き過ぎかも」と思ったそうで、ファレリー兄弟に、「女の子がデート時に自分の髪の異変に気付かないはずがない」と異を唱えた。しかしそれに対する兄弟の答は、「…これは誰も見たことがないようなサイコーに笑えるシーンになるんだから、やってくれなくちゃダメだ!」だった。 他のやり方も試しながら、最終的にはキャメロンも納得して、このシーンを演じた。そして、「映画史に残る」…と言っても過言ではない、観てのお楽しみの、あのヴィジュアルが生まれたのである。 本作で少なくない者から不興を買ったのは、メリーの弟が知的障害であったり、メリーに惚れている男の1人が、脚が悪いのを装っているシーンなど。「障害者をバカにしている」というわけだ。 しかしながら、障害はあくまでも個性の一部であり、健常者であろうと障害者であろうと、良い奴もいれば悪い奴もいる…というのが、ファレリー兄弟のスタンス。本当に障害のある者をキャスティングすることも多い彼らによると、こうした描写にクレームを付ける者のほとんどは健常者で、障害者の側からは、むしろ強く支持されることが多いという。 『メリーに首ったけ』は公開されるや大ヒットとなり、3億7,000万㌦もの興収を上げた。自信を深めたファレリー兄弟は本作以降、“解離性同一性障害”の男をジム・キャリーが演じる、『ふたりの男とひとりの女』(2000)、美しい心を持った100㌔超の女性がヒロインである、『愛しのローズマリー』(01)、結合双生児の恋模様を描く『ふたりにクギづけ』(03)等々、“おバカコメディ”の体裁の中で、常に人々の“差別意識”を問い続けていく そして2019年2月24日、アカデミー賞の授賞式。『グリーンブック』で作品賞に輝いたピーター・ファレリーは、次のようなスピーチを行った。「…この映画は愛についての物語です。お互いに違いがありながらも愛すること。そして自分を知り、我々は同じ人間なんだと知ることです…」『メリーに首ったけ』など、弟のボビーと共に“おバカ映画”の数々で扱ってきたテーマを、ピーターがより普遍的にブラッシュアップさせたのが、『グリーンブック』だったのである。■ ◆『メリーに首ったけ』撮影中のキャメロン・ディアス(左)と、ボビー・ファレリー(中央)&ピーター・ファレリー監督(右) 『メリーに首ったけ』© 1998 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2023.11.10
“カルト王”リンチのメジャーへの道を開いたのは、名を伏せた、“コメディ王”だった。『エレファント・マン』
30代中盤に迫った、デヴィッド・リンチは、次のステップを模索していた。 彼が1人で、製作・監督・脚本・編集・美術・特殊効果を務め、20代後半から5年掛かりで完成させた初めての長編映画は、『イレイザーヘッド』(1977)。見るもおぞましい奇形の嬰児が登場する、シュールで理解不能な内容のため、悪評が先行したが、やがて独立系映画館の深夜上映で熱狂的な支持を集めるようになる。いわゆる“カルト映画”の代名詞的な作品となったが、リンチはその次の段階へは、なかなか歩を進められなかった。 作品の評判を聞いて、コンタクトを取ってきたメジャー映画スタジオもあった。しかし、やりたい企画について尋ねられたリンチが、「基本的に三本足で赤毛の男と電気の話だ」などと答えると、その後2度と電話は掛かってこなかったという。 この不思議な企画が進むようにと、色々と力添えしてくれる男が現れた。その名は、スチュアート・コーンフェルド。ロスでの深夜上映で『イレイザーヘッド』を観て、「…100%、ぶっ飛ばされた…」のだという。 しかし、リンチが発案したその企画は、どうにもうまく進まなかった。そこでリンチは、コーンフェルドに頼む。「…何か僕が監督できるような脚本を知っていたら、力になってくれないか?」 コーンフェルドは、4本の企画を持参した。その1本目のタイトルだけを聞くと、リンチの頭の中で何かが弾けた。そしてコーンフェルドに、「それだ!」と叫んだ。 それは19世紀後半、産業革命の時代のイギリスに実在した、異形の青年の哀しい物語。そうした内容をまったく知らないままに、リンチが惹かれたそのタイトルは、『エレファント・マン』だった。 ***** 「妊娠中の女性が、象の行進に巻き込まれ、恐怖を味わったため、お腹の子どもに畸形が生じ、世にも恐ろしい“象男”が生まれた」 こんな口上の見世物小屋を訪れた、ロンドン病院の外科医トリーヴス(演:アンソニー・ホプキンス)。彼が目の当たりにした“象男=エレファント・マン”は、肥大した頭蓋骨が額から突き出て、体の至るところに腫瘍があり、歪んだ唇からは明瞭な発音はされず、歩行も杖が無ければ困難という状態だった。 トリーヴスは、“象男”ジョン・メリック(演:ジョン・ハート)を、彼を虐待していた見世物小屋の主人から引き離す。そして医学的な興味と野心から、病院の一室に収容して、様子を見ることにした。 メリックは知能に遅れがあり、まともに会話もできないと思われたが、実際は聖書を暗唱し、本や芸術を愛する美しい心の持ち主だった。知的な障害など、なかったのだ。 ロンドン病院の院長(演:ジョン・ギールグッド)が、メリックについて新聞に寄稿したことから、著名な舞台俳優のケンドール夫人(演:アン・バンクロフト)が、見舞いに訪れた。それを機に上流階級の間で、メリックに会いに来るのが、ブームになる。 それに対して、メリックとの間に友情が生まれたトリーヴスは、自分も見世物小屋の主人と変わらないのではと思い悩む。 メリック本人は、そんな暮らしを楽しんでいた。しかしある時、病院の夜警の手引きで、彼を“見物”に来た外部からの闖入者たちに蹂躙されて、心身共に深く傷つく。 そんな彼を、更に残酷な悲劇が襲うのだった…。 ***** ジョン・メリック(1862年生まれ。実際の名前はジョゼフ・メリックだが、本稿では映画に合わせてジョン・メリックとする)の症状は、現在では特定の遺伝的疾患群=プロテウス症候群だったと見られる。 彼を診察し、交流を続けたトリーヴス医師は、後に回顧録をまとめている。それをベースに、まずは1977年、舞台版の『エレファント・マン』が制作された。 この舞台はロンドンでの初演後、ブロードウェイにも進出し、トニー賞を受賞するなど高評価を得た。こちらは幕開けに、実際のメリックの写真を提示。メリック役の俳優は、特殊メイクなどはせずに、生身で彼を演じる。 観客の想像に委ねる形でのこの演出の下で、ブルース・デイヴィソン、デヴィッド・ボウイ、マーク・ハミルなどがメリック役に挑んだ。日本で上演された際は、市村正親、藤原竜也などが、主役を務めている。 トリーヴスの著書を元にしているのは同じだが、舞台版とはまったく無関係に、映画化を目論む者たちが現れた。クリストファー・デヴォア、エリック・バーグレンという2人の脚本家である。そして彼らが書いたシナリオを、プロデューサーのジョナサン・サンガーが買い取る。 スチュアート・コーンフェルドは、サンガーがこの作品の監督を探しているのを知って、リンチを紹介。リンチは脚本家2人とサンガー、コーンフェルドと共に、製作してくれる映画会社を探すことにした。しかし彼らが回った6つのスタジオの答は、すべて「No!」。相手にされず、お先真っ暗な状態となった。 そんな時、コーンフェルドが渡していたシナリオを、『奇跡の人』(62)『卒業』(67)などで知られる大物女優のアン・バンクロフトが読んで、いたく気に入ってくれた。実はコーンフェルドは、アンの夫であるメル・ブルックスの下で働いていたのである。 メルは『プロデューサーズ』(1968) 『ヤング・フランケンシュタイン』(74)『メル・ブルックス/新サイコ』(77)等々の大ヒットコメディ映画の監督として知られる、いわばハリウッドの大物。ちょうどその頃、新しく興した「ブルックス・フィルムズ」でのプロデュース作を探していた。そしてアンから回された『エレファント・マン』のシナリオを読んで、彼も気に入ったため、その映画化を決断したのである。 メルはコーンフェルドに、このシナリオを描いた2人の脚本家と、プロデューサーのサンガーの採用を伝えた。すぐには決まらなかったのが、監督だった。メルは、『ミッドナイト・エクスプレス』(78)が評判となった、アラン・パーカーを据えたいと考えていたのだ。 しかしコーンフェルドが、「デヴィッド・リンチじゃなきゃだめなんだ」と、繰り返し強硬に主張。メルは未見だった、『イレイザーヘッド』を観てから、判断することにした。 運命の日、『イレイザーヘッド』をメルが鑑賞している劇場の外で、リンチは生きた心地がしないまま、上映が終わるのを待ち受けた。ドアがさっと開くと、メルが足早にリンチの方に向かってきて、そのまま抱きしめてこう言った。「君は狂ってるぞ。大いに気に入った!」 こうして『エレファント・マン』の監督に、リンチが正式に決まったのだった。 決定の瞬間の言でもわかる通り、メル・ブルックスは、リンチの特性を見抜いており、後に彼のことをこんな風に評している。「火星から来たジェームズ・スチュアート」と。折り目正しい外見のリンチが、実は他に類を見ないような“変態”であることを表す、ブルックスの至言である。 そして『エレファント・マン』は、メルの指揮の下、パラマウント映画として製作されることとなった。シナリオは、脚本家2人とリンチで再構成し、新しいシーンを多く書き加えた。そこにメルからの指摘も反映して、決定稿となった。 キャストは、アンソニー・ホプキンス、ジョン・ハート、そして“サー”の称号を持つジョン・ギールグッド、“デーム”と冠せられるウェンディ・ヒラーなど、イギリスを代表する大物俳優たちが揃った。 リンチは撮影中、朝起きては「さぁて、今日は、ジョン・ギールグッド卿を監督する日だぞ」などと自分に言い聞かせ、気後れしないようにしてから、撮影現場に出掛けたという。撮影終了後には、ギールグッドからリンチに手紙が届いた。そこには「貴殿は、私に、演技に関する指示を、一度もなさいませんでした」と書いてあり、リンチはその謙虚な書き方に、とても感動したという。 製作期間を通じて、メル・ブルックスはリンチに対し、ほとんど口を出さなかった。例外的に意見したのは、ジョン・メリックの顔と身体を観客に見せるタイミング。最初の編集では、トリーヴスが見世物小屋で彼を見た時から、メリックの姿をかなりはっきりと見せていた。 それをメルのサジェスチョンによって、暫しの間隠す方向にシフトした。この再編集で、観客の「彼を見たい」という気持ちが、どんどん高められることとなった。 リンチは、ジョン・ハートを“象男”に変身させる特殊メイクを、自分で担当するつもりで、撮影前に準備を進めた。ところが彼が作った“スーツ”は、素材に柔軟性がなく、ハートの顔や身体と“融合”させることができなかったのである。 この大失態は、メルやサンガーが手を尽くして、専門のスタッフを呼び寄せることで、事なきを得た。とはいえリンチは、クビを覚悟した。 しかしメルは、リンチを叱責しなかった。彼が言ったのは、「二度とこういうことに手を出しちゃだめだ。君は監督の仕事だけでも十分大変なんだから」だけだったという。 メルは自分の名をプロデューサーとしてクレジットすると、観客からコメディだと勘違いされることを危惧して、敢えて名前を外した。それなのに、誰よりも頼もしいプロデューサーとして、製作会社や出資者からの圧力や口出しを、監督に届く前に、ほぼねじ伏せた。 最終的にパラマウントに作品を見せた際も、「出だしの象と、ラストの母親はカットすべき」との意見には、断固無視を決め込んだ。実際に公開後も、象の行進にメリックの母親らしい女性が蹂躙される、冒頭のイメージと、昇天するメリックの視覚らしい、ラストの母親のアップは、「不要では?」という声が、評論家や観客からも相次いだ。 しかしそれから40数年経ってみると、これらのシーンは、絶対的に必要だ。なぜなら、後年のリンチ作品と比べると、至極真っ当に作られている『エレファント・マン』の中で、これらほど、“リンチらしさ”が横溢しているシーンはないからだ。 リンチを監督させることにこだわったスチュアート・コーンフェルドと、リンチの本質を見極めて、それを受け入れたメル・ブルックス。この2人は後年似たような経緯で、デヴィッド・クローネンバーグに『ザ・フライ』(86)を撮らせている。2大カルト監督にメジャーへの道を切り開いた功績は、至極大きい。『エレファント・マン』は、1980年度のアカデミー賞で、作品賞、監督賞、主演男優賞など8部門にノミネート。しかしこの年は、ロバート・レッドフォード初監督の『普通の人々』や、マーティン・スコセッシ×ロバート・デ・ニーロのコンビ作『レイジング・ブル』など強力なライバルがあったため、オスカー像を1本たりとも勝ち取ることはできなかった。 それに対してメル・ブルックスは、こう言い放ったという。「今から10年経てば『普通の人々』は雑学クイズの解答だが、『エレファント・マン』は相変わらずみんなが見ているさ」 さて日本では本作『エレファント・マン』は、「東宝東和マジック」などと言われる、ゼロから100を生み出す、配給会社のプロモーションの大成功例としても、名高い。 メインの惹句は、~「真実」は―語りつくせないドラマを生んだ~。こうして“感動大作”であることをグッと押し出すと同時に、ジョン・メリックの顔や身体のヴィジュアルを、とにかく隠した。公開前のプロモーションでは徹底して、彼が一つ目のマスクを被った姿しか見せなかったのだ。 “エレファント・マン”が、一体どんな顔をしているのか?観客の関心を、とことん煽る、まさに“見世物小屋”のような仕掛け。これが功を奏して、本作は配給収入23億円超と、この年の日本での、№1ヒットとなった。 ある意味本作に、これほど相応しいプロモーションは、なかったかも知れない。今はもう考えられない、遠い遠い昔…の話である。■ 『エレファント・マン』© 1980 Brooksfilms Ltd
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COLUMN/コラム2023.12.07
デヴィッド・フィンチャーが再生!大都市の鬱屈から生まれた“サイコスリラー”『セブン』
本作『セブン』(1995)のはじまりは、地方出身で、ニューヨーク在住の男が抱いた、鬱屈した思いだった。「地下鉄に乗ると、不快な強盗やホームレスの実態が日常茶飯事のように目に飛び込んでくる。街を歩けば罪悪なんてものはどこでも目にできる…」「ありとあらゆる不快なものがすべて集中している」 そんなニューヨークでの暮らしは、「毎日毎日、惨めでしかたがなかった」という、その男の名は、アンドリュー・ケヴィン・ウォーカー。安物の映画専門の製作会社に勤め、ホラー作品の脚本を何本か手掛けた。 そんな彼が、1991年に半年以上掛けて、1本のオリジナル脚本を書き上げた。しかし、それを映画化しようという映画会社はなかなか現れず、結果的に4年もの間、たらい回しにされてしまう。 事が動き出したのは、脚本が、プロデューサーのアーノルド・コベルソンの手に渡ってから。ブルックリン育ちのコベルソンは、「これだけのものを書ける脚本家は何人もいない」と、感銘を受けたという。 映画化に手を挙げる製作会社も、ようやく現れる。ホラーシリーズ『エルム街の悪夢』(84~)を大ヒットさせたことから、「フレディが建てた家」と呼ばれた、「ニュー・ライン・シネマ」である。流行を見るに敏な「ニュー・ライン」は、『羊たちの沈黙』(91)の成功をきっかけに起こった、“サイコホラー”人気に乗ろうと、ウォーカーの脚本に、3,000万㌦を投じることを決めた。 そしてコベルソンが監督にと、白羽の矢を立てたのが、デヴィッド・フィンチャーだった。フィンチャーは20代にして、マドンナやローリング・ストーンズなどのMVや数多くのCMを手掛けた後、『エイリアン3』(92)で、劇場用映画の監督としてデビュー。 リドリー・スコットやジェームズ・キャメロンの後を受けての、人気シリーズ第3作だったが、製作中から数多のトラブルに見舞われた上、批評的にも興行的にも失敗。そのため当時のフィンチャーは、「新たに映画を撮るぐらいなら、大腸がんで死んだ方がマシだ」と、映画界とは距離を置いていたのである。 フィンチャーはウォーカーの脚本の、「凡庸な警察映画」の側面には、退屈を感じた。しかし、「とても残酷な作品」であることを至極気に入り、どんどんハマっていったという。 その一方で、疑問を感じた。こんな救いようがない“ラスト”が訪れる脚本を、そのまま映画化なんてできるのだろうか? 結局は「ニュー・ライン」の責任者に直談判。そのままの脚本でGOサインの言質を取り、劇場用映画復帰を決めたのである。 ***** 常に雨の降りしきる大都市で、刑事を続けることに疲れ果てた、サマセット(演:モーガン・フリーマン)。定年まであと1週間、赴任したての若手刑事ミルズ(演:ブラッド・ピット)とコンビで、想像を絶する“連続殺人”の捜査を担当することになった。 はじまりは、極度に肥満した男が、絶命するまで無理矢理食物を食べさせられたという事件。現場には「大食」と書かれた紙が、残されていた。 その翌日には、金次第で犯罪者の無罪を勝ち取ってきた大物弁護士が殺される。自ら腹の肉を抉ることを強要された遺体のそばには、血で書かれた「強欲」という文字が。 博学のサマセットはこれらの文字から、キリスト教に於ける、「七つの大罪」をモチーフにした“連続殺人”と看破。「大食」「強欲」に続いて、「怠惰」「肉欲」「高慢」「嫉妬」「憤怒」に則った、“猟奇殺人”が企てられることを予想する。 そんなサマセットを、ミルズの妻トレーシー(演:グウィネス・パルトロー)が、ディナーに招く。サマセットは改めて、定年までの数日間、ミルズと共に事件の解明に挑むことを決意する。 そんな彼にトレーシーは、悩みを打ち明ける。この街が嫌いなこと、そして、妊娠したのを夫のミルズにまだ告げられないこと…。 懸命の捜査にも拘わらず、犯人は“連続殺人”を着実に遂行していく。やがて残された「大罪」が、「嫉妬」と「憤怒」の2つになった時、事件は思いがけない展開となり、2人の刑事は、真の地獄を見ることとなる…。 ***** モーガン・フリーマンの起用は比較的簡単に決まったが、ミルズ役にはこれという候補がいなかった。演者としての実力を持ち合わせた上で、決して大作とは言えない総予算から出演料を捻出する必要があったからだ。 そうした理由から、フィンチャーの第一候補は、ブラピことブラッド・ピットではなかった。しかし彼が本作の脚本に関心を抱いていることを知らされると、フィンチャーは喜び勇んで、紹介してもらうことにしたという。 ロバート・レッドフォード監督の『リバー・ランズ・スルー・イット』(92)で注目の若手俳優となったブラピは、『レジェンド・オブ・フォール/果てしなき想い』(94)『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』(94)の2本で大ヒットを飛ばして、まさに絶好調。1995年1月には、「ピープル」誌で「最高にセクシーな男性」に選ばれ、スターとしての価値が、ぐんぐんと高まっている最中だった。 そんなブラピが、『アポロ13』(95)でのトム・ハンクスとの共演を蹴って、正式にミルズ刑事を演じることが決まると、次に待っていたのは、その妻トレーシーのキャスティング。フィンチャーは『フレッシュ・アンド・ボーン 〜渇いた愛のゆくえ〜』(93/日本では劇場未公開)で見たグウィネス・パルトローを考えた。 ブラピも数ヶ月前に偶然知り合ったパルトローを推しており、わざわざ彼女に電話を掛けて、プロデューサーのコベルソンに会いに来るように誘った。コベルソンも一目でパルトローを気に入ったため、起用はすんなり決まったという(撮影中、ブラピとパルトローは当然のように恋に落ち、結果的には映画の良い宣伝となった)。 こうしてコマが揃い、いよいよ撮影開始。本作は青空の広がる西海岸のイメージが強い、ロサンゼルスでロケしているのに、人工降雨機まで使って、ほとんどのシーンで雨が降っている。 これは売れっ子のブラピのスケジュールにも関連してのこと。次回作にテリー・ギリアム監督の『12モンキーズ』(95)が待っていた彼が、撮影に参加できるのは55日間と決まっていた。当時のロスの天気は雨が多かったため、常に雨降りの設定にしたのである。 またこれにより、ロサンゼルスで撮影しながらも、それとは別の、特定できない都市のように見えるという効果もあった。 こんなことをはじめ、撮影や編集などで、デジタル技術なども交えて、技巧を凝らすのが、フィンチャー作品。本作でも様々なテクニックが用いられている。 今回特徴的な例として挙げられるのが、“銀残し”というフィルム現像の際の特殊技法。画面に深みのある黒さと、より明るい白さを創り出して、明暗のコントラストを高めているのだが、撮影監督のダリウス・コンディ曰く、「まるで白黒映画を撮影しているよう」だったという。 よくヴィジュアル派の代表のように言われるフィンチャーだが、実際は、あくまでもストーリーを盛り立てるために、テクニックを使っているという。本人曰く、「…映画の本質と遊離した、ただただヴィジュアル命のものには絶対にしていない」とまで言い切っている。 さて本作はいわゆる「衝撃のラスト」が訪れる作品なのだが、それについても、触れなければなるまい。 ***** 「嫉妬」と「憤怒」を残して、“連続殺人”の犯人ジョン・ドゥー(演:ケヴィン・スペイシー)が、突然警察に自首。残る2つの遺体の隠し場所を、ミルズとサマセットだけに明かすという。 厳重な警備態勢の中、ジョンに導かれて、ある荒野へと車で向かった2人の刑事。その場に降り立つと、猛スピードで宅配便の車が訪れる。 運転手はジョンに託されていた小さな荷物を、指定の時間と場所に届けただけだった。中身を確認して、サマセットは唸る。 それはミルズの妻、トレイシーの生首だった。幸せな家庭を築く夫婦に対して、「嫉妬」の気持ちを以て殺害に及んだというジョン。 それに対して、「憤怒」の感情を引き出されたミルズは…。 ***** 先にも記したがフィンチャーは、この「救いようがない“ラスト”」をそのままやることを条件に、本作の監督を引き受けた。実はそれが決まった「ニュー・ライン」への直談判の前に、もうワンクッションがあった。 フィンチャーはまずは自分のエージェントに、「会社は本当にこの映画を作るつもりなのか?つまり、君はこれを読んだのか?」と問うた。ところがこの時点で、エージェントの読んだ脚本は、フィンチャーが読んだものを改稿したものだと判明。 それには、“生首”が届く描写などなかった。最後の場面は、トレーシーがシャワーを浴びていると、窓に連続殺人犯が忍び寄るという展開になっていたという。 これは自分の作りたい映画ではない!そう考えたフィンチャーが、直談判に及んで、元の脚本で映画化することが決まったわけだが、実はその後も、もっと穏当なヴァージョンを模索する動きは、止まなかった。 実際に製作に入ったところで用意されたのは、3つのパターン。“生首”が到着するところまでは同じだが、その後が違う。 映画はご覧の通り、ミルズが「憤怒」のままにジョンの頭を撃ち、最後はパトカーで連行されるのを、サマセットが見送るところで終わる。 これと別バージョンで用意されたのが、サマセットがジョンを撃ち殺すパターンと、ミルズがジョンを撃ち殺したところで、そのままジ・エンドとなるパターン。 前者は、犯人がミルズの「憤怒」を引き出して目的を果すことに失敗するという、後味の悪さを少しでも緩和するために用意されたものである。しかしフィンチャーもブラピも、当然同意しなかった。 後者の、より衝撃的なパターンは、フィンチャーの望んだ形。しかし覆面試写の結果、こちらだと、観客が混乱したまま映画が終わってしまうということが明らかになり、却下となった。 筆者は個人的には、フィンチャー案で最高級の「後味の悪さ」を体感したかった気もするが、それだとさすがに、観客の間で口コミなどが広がらなかった可能性もある。本作『セブン』は、現行のバージョンだからこそ、1995年9月22日、全米2,500館で公開と同時に大きな話題となり、4週連続興収TOPを記録する大ヒットとなったのかも知れない。 かくして本作で『エイリアン3』の後遺症から抜け出したデヴィッド・フィンチャーは、その後30年近く、アメリカ映画の第一線級監督として、活躍を続けている。ブラピとのコンビ作も、『ファイトクラブ』(99)『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』(2008)と続き、いずれも高評価を得ている。 フィンチャーはブラピについて、『ファイトクラブ』時のインタビューで、「…自分が変わることを恐れない人間との仕事は、いつだって刺激になるよ」と語っている。■ 『セブン』© New Line Productions, Inc.
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COLUMN/コラム2023.12.11
ロン・ハワードとトム・ハンクスのコンビ第1作は、それぞれの記念碑的作品『スプラッシュ』
本作『スプラッシュ』(1984)の発端は、ロサンゼルスに住むプロデューサー、ブライアン・グレイザーが、自らの不幸な恋愛経験を反芻しながら、車を走らせている時のインスピレーションだったという。恋をする相手として、美しい容姿と心を兼ね揃えた女性が、“人間”ではなく、“人魚”だったら…。 これは良いコメディになる!そう考えたグレイザーは原案を書き、小説家でシナリオライターのブルース・ジェイ・フリードマンに、脚本を発注。出来上がると、ロン・ハワードに渡し、「興味があれば監督してみないか?」と誘った。ハワードはちょうどその時、グレイザーと組んだ初の作品にして、自らの監督第2作にあたるコメディ映画、『ラブ IN ニューヨーク』(82)を完成させたばかりだった。 1954年生まれ、両親とも俳優という芸能一家育ちのハワードは、60年代から子役として有名だった。70年代に入ると、映画『アメリカン・グラフィティ』(73)、TVシリーズ「ハッピーデイズ」(74~84/ハワードは80年までレギュラー)などに主演。青春スターとして活躍した。 しかし、演じる以上に、作ることに興味があったため、南カリフォルニア大学の映画学科へと進学。俳優としての人気絶頂期だった23歳の時には、初監督作『バニシングIN TURBO』(77)を公開している。 この作品のプロデューサーは、“B級映画の帝王”として名高い、ロジャー・コーマン。“スター”であるハワードが主演も兼ねることを条件に、製作費の60万㌦を提供した。 ハワードがコーマンから学んだのは、映画作りの実際。製作費を予算内に収めるためには、準備をしっかりしなければいけないということを叩き込まれた。 その後ハワードは、「ハッピーデイズ」への出演を続けながら、3本のTVムービーを監督。80年代を迎えると、俳優活動には区切りをつけ、本格的に映画監督の道を歩み始める。『バニシングIN TURBO』に続く第2作『ラブ IN ニューヨーク』は、「ハッピーデイズ」の共演者で、プライベートでも親友だった、ヘンリー・ウィンクラーを主演に迎えた作品。死体置場に勤める気弱な青年と売春婦の恋を描くコメディである。 先に記した通り、ハワードに『スプラッシュ』の脚本が持ち込まれたのは、『ラブ IN ニューヨーク』が完成したばかりで、まだ公開前。ハワードは、2作続けてコメディを手掛けることに、躊躇した。また、最初の脚本は水中シーンが多かったため、それだけで“赤字”が出そうなことも、コーマンの薫陶を受けた彼をためらわせた。 しかし考えを切り替え、「この作品をロマンチックなものにできないか」模索を始める。そして、会話やジョークが水中の王国で展開する流れを改めて、観客が登場人物に感情移入できるようにリライトして欲しいと、『ラブ IN ニューヨーク』の脚本家コンビ、ローウェル・ガンツとバーバルー・マンデルに依頼した。 その一方、当初はこの作品の製作を請け負っていた「ユナイテッド・アーティスツ」との契約が、キャンセルとなる。ちょうど同じ時期に他社で、ウォーレン・ベイティとジェシカ・ラング共演の『Mermaid』という“人魚映画”の準備が進められていたからである。そちらは当時としては破格の製作費3,000万㌦が注ぎ込まれる予定で、「ユナイト」は、競合を避けたのである。『スプラッシュ』の救いの神となったのは、「ディズニー」。しかし子役出身のロン・ハワードは、それに懸念を抱いた。「ロンが大人になって、ディズニー作品を作るようになった」などと揶揄されるのではないかと。「ディズニー」が、大人向けの映画を専門とする「タッチストーン・ピクチャーズ」を新設し、そこの看板作品として『スプラッシュ』を考えていることを知って、ハワードの危惧は解消する(余談となるが、“人魚”の裸体がチラチラ見え隠れする『スプラッシュ』は、「ディズニー」史上初のR指定作品となる)。 そうこうしている内に、強大な“敵”となる筈だった『Mermaid』は、俳優組合のストライキを受けて、あっけなく製作中止に。一方製作費900万㌦の『スプラッシュ』は、ストの影響を避けるように、急ピッチで製作が進められた。 ***** 幼少期に観覧船から落ちたアレン少年は、海中で美しい少女に出会い、助けられる…。 それから20年。アレン(演:トム・ハンクス)は、兄フレディ(演:ジョン・キャンディ)と共に、ニューヨークで青果物市場を経営。遊び人の兄に対してアレンは恋愛ベタで、同棲相手から一方的に別れを告げられる。 酔いに任せ、遠く離れた岬へタクシーで向かうアレン。この岬は20年前に溺れかかったところで、彼はそれ以来カナヅチとなった。それなのになぜか、心安まる場所であった。 チャーターしたボートから、またも海に落ちてしまうアレン。気を失った彼が目を覚ますと、砂浜の上。目の前には、美しいブロンドで全裸の美女がいた。 アレンは一目惚れするも、彼女は名前も告げずに海中へと消える。実は彼女は“人魚”。20年前アレンを救ったのも、彼女だった。 アレンが海中に落とした財布から住所を知った“人魚”は、ニューヨークに現れる。全裸の彼女を保護した警察から、アレンに連絡が入り、2人は再会する。 人間の言葉と生活を、TVを見ながら学ぶ彼女のことを、アレンは外国人と思い込み、“マディソン”と名付ける。2人は愛し合うようになるが、彼女は“人魚”の掟から、あと6日間しか地上に居られない。 しかしアレンにプロポーズされたことで、マディソンはもう海には戻らず、“人間”として生きていくことを決意。ところが、長年“人魚”の存在を追い続けてきた海洋学者(演:ユージン・レヴィ)によって、公衆の面前でその正体を暴かれてしまう。 海洋博物館の研究室に隔離されてしまったマディソンと、彼女の正体にショックを受けたアレン。2人の恋の行方は!? ***** アレン役をオファーされて断わったのは、ジョン・トラボルタ、マイケル・キートン、ビル・マーレー、チェビー・チェイス、ダドリー・ムーアといった、当時の売れ線俳優たち。アレン役を得たトム・ハンクスが後に、「…役をもらえた唯一の理由は、他に誰も引き受けなかったから…」と発言しているのは、ただのジョークとは言い切れない。 監督のロン・ハワードと、ハンクスの接点は、「ハッピー・デイズ」。ハワードは、まだ駆け出しの頃のハンクスがゲスト出演した際の演技が、「…めちゃくちゃ面白くて、ずっと忘れなかった…」という。 その後主演したTVのコメディシリーズで人気が出たハンクスに、ハワードもプロデューサーのグレイザーも、当初は遊び人の兄の方を、演じてもらおうと考えていた。しかしハワードは、幅広い感情表現を必要とするアレン役でも、ハンクスならやれるだろうと気付く。まあ先に記した通り、多くのスターに断わられた後の、窮余の策だったのは否めないが。 TV育ちのハワードは、ハンクスの抜擢に見られる通り、TVでの人気者を積極的に起用した。兄役のジョン・キャンディも、海洋学者役のユージン・レヴィも、人気コント番組「セカンドシティTV」の出身である。 さてハンクスの出演が決まったが、より難題だったのが、“人魚”のマディソン役。イノセント且つチャーミングなこの役を、説得力を持って演じるのは、並大抵のことではない。またこの役は、巨大な尾びれを身に着けて、水中で長い時間を過ごす必要があった。 ハワードは、オーディションに現れたダリル・ハンナを見た瞬間、「見つけた」と直感したという。とりあえず水に飛び込んで泳いでもらったところ、その姿が「夢のように」美しく、決定打となった。 実はハンナの少女時代の夢は、“人魚”になることだった。それが転じて、いつかアンデルセンの「人魚姫」を映画化したいという願望を持っていた。そのため、それが実現する前に“人魚”役を演じることには、ためらいがあったという。 ハンナは当初、『スプラッシュ』の脚本を読むことさえ拒もうとした。しかしエージェントの強い説得によって、脚本を読むと、すぐに“マディソン”役に恋してしまった。そしてオーディションに、臨むことにしたのである。 リハーサルが始まらない内から、ハワードはハンクスに、強い口調でこんな指示を行った。「これは、君の映画じゃない。ダリルの映画なんだ。君の役目は、映画で起こることすべての“触媒”になることだ。君が本当に彼女をぞっこん惚れていると観客が信じない限り……この作品の意味がなくなるんだよ」 相手役を愛する演技をする時には、本当に愛さなければならない。ハワードの指示から、ハンクスはそう学んだという。そして、どこにでも居そうな普通の青年が、理想の女性とハッピーエンドを迎えるという、この後にハンクスが得意とする役柄が、ここで決まったのである。 撮影は、メインの舞台となるニューヨークで、まず17日間。続いてロスでの撮影を 29日間行った後、16日間の海中撮影へと進んだ。 ロケ地は、バハマ沖。その海面にボートを浮かべ、水深12㍍の地点で撮影が行われた。 ダリル・ハンナは、毎日3時間掛けて14㌔近くあるヒレを装着。そのまま水中マスクも付けずに、海中に居なければならなかった。 トイレにも行けないため食事は抜き、陸に上がる際には、クレーンで引き上げた。その日の撮影が終わると、今度は1時間半掛けてヒレを取り外した。 この撮影でハンナは1日平均9時間、45分のダイビングを4~5回行った計算になる。時には40㍍近く、息を止めたまま泳いでみせた。 また“人魚”が海面に飛び上がるシーンは、水面下に大砲を設置して、その爆発の水圧によって、ハンナの身体を打ち上げるという、危険な方法で撮影。彼女は海面から、見事に3㍍もジャンプしてみせた。 因みに「大人向け」とはいえ、そこはさすがに「ディズニー」作品。水中シーンでは、ハンナの裸体の露出を、最小限に止める必要があった。デジタル処理でどうとでもなる、今の時代とは違う。この時は頭髪用のテープで、ハンナの髪の毛を胸に貼り付けるという、アナログな方法が採られた。またハンナの乳首には、バンドエイドを貼ったという。 『スプラッシュ』は84年3月に公開されると、大ヒットを記録。監督のロン・ハワードが“子役”出身のイメージを払拭すると同時に、トム・ハンクスが“映画スター”として、初めて認められる作品となった。 その後の2人の活躍は、説明するまでもないだろう。ハワードとハンクスはお互いにキャリアを積み重ねる中で、『アポロ13』(95)や、『ダ・ヴィンチ・コード』(2006)に始まる“ロバート・ラングトンシリーズ”で、随時組み続けている。 ダリル・ハンナはその後、俳優として大成したとは言い難い。しかし最も美しい時の姿を、結果的には念願の“人魚”役でフィルムに焼き付けた。それを今でも多くの人々に観続けられるのは、幸せなことではないだろうか?『スプラッシュ』の彼女は、本当に輝いている。そしてその輝きを最大限に引き出す役目を果たしたからこそ、トム・ハンクスの“映画スター”としての歩みも始まったのだ。『スプラッシュ』は現在、「ディズニー」と、ロン・ハワードとブライアン・グレーザーが設立した「イマジン・エンターテインメント」の共同製作で、リメイクが進められている。果して本作のように、“スター誕生”の場となるのであろうか?■ 『スプラッシュ』© 1984 Buena Vista Distribution Co., Inc. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2024.01.18
フリードキン流ドキュメンタリーの手法が、アクチュアルなド迫力を生んだ!『フレンチ・コネクション』
昨年87歳でこの世を去った、ウィリアム・フリードキン。1935年生まれの彼が、映画監督として最高のスポットライトを浴びたのは、『フレンチ・コネクション』(71)『エクソシスト』(73)の2本をものした、30代後半の頃であったのは、間違いない。 近年には、長らく“失敗作”扱いされ、キャリアの転換点とされた、『恐怖の報酬』(77)の再評価などがあった。しかし、『フレンチ…』『エクソシスト』を連発した際の、リアルタイムでのインパクトはあまりにも凄まじく、それ故に、以降は“失墜”した印象が、強くなったとも言える。 そんなフリードキンのキャリアのスタートは、TV業界。10代後半、父親が早逝し、大学に進む気がなかった彼が、必要に駆られて職に就いたのが、生まれ育った地元シカゴのローカルテレビ局の郵便仕分け係だった。 ところがこの局では、異動の度に様々な職種を経験していくシステムになっており、やがて彼は、番組の“演出”を担当するようになる。元はディレクター志望だったわけではないが、水が合ったらしく、その後幾つか局を移りながら、20代後半までに、ヴァラエティ、クイズ、クラシック音楽、野球など2,000本以上の生番組を手掛け、10数本のドキュメンタリーを世に送り出した。 フリードキンが映画界へと進んだのは、30代を迎えた60年代後半。舞台の映画化作品である『真夜中のパーティー』(70)などが評判にはなったが、決定打が出ないまま、70年代へと突入した。 思い悩む彼がアドバイスを求めたのが、ハワード・ホークス監督。スクリュー・ボール・コメディからミュージカル、メロドラマ、ギャング映画、航空映画、西部劇等々、様々なジャンルでヒットを放ってきた巨匠ホークスがフリードキンに言ったのは、次の通り。「誰かの抱えている問題や精神的な厄介ごとについての話なんて誰も聞きたかねぇんだよ。みんなが観たいのはアクションだ。俺がその手の映画をイイ奴らと悪もんをたくさん使って作ると必ずヒットするのさ」 そしてちょうどそのタイミングで、スティーヴ・マックィーン主演の刑事アクション『ブリット』 (68)で大ヒットを飛ばした、プロデューサーのフィリップ・ダントニから、出版前のゲラ刷りが、フリードキンへと持ち込まれた。それが、ロビン・ムーアの筆によるノンフィクション「フレンチ・コネクション」だった。 ニューヨーク警察が、フランスから持ち込まれた大量のヘロインの押収に成功した、61年に実際に起こった大捕物を記したこの原作に、フリードキンは心惹かれた。更にはニューヨークに行って、この捜査の中心だった、麻薬捜査課の2人の刑事、エドワード・イーガン、サリヴァトーレ・グロッソの実物と会ってからは、本当に夢中になって映画化に取り組んだ。 そこから納得のいく脚本づくりに時間を掛けて、本作『フレンチ・コネクション』がクランクインしたのは、1970年の11月30日。翌71年の3月に入るまで、65日間の撮影では、セットは一切使わなかった。ニューヨーク、それも実際の事件の舞台となった場所を使用した、オールロケーションを敢行したのである。 ***** ニューヨーク・ブルックリンで、麻薬の摘発に勤しむ2人の刑事、ジミー・ドイルとバディー・ルソー。“ポパイ”と呼ばれるドイルの強引なやり口を、ルソーがフォローする形で捜査を含める、名コンビだった。 ある時2人で出掛けたナイトクラブで、豪遊する男サル・ボカを見て、ドイルの“猟犬”の勘が働く。妻と共に軽食堂を営むサルを張り込み、店の盗聴を行った結果、彼の仲介で、フランス・マルセイユから届くヘロインの大きな取引が行われることがわかった。 取引の中心に居るのは、フランス人実業家のシャルニエ。殺し屋の二コリを従えて、ニューヨークのホテルに滞在していた。 財務省麻薬取締部の捜査官も交えて、シャルニエらの尾行が始まる。ある日ドイルの尾行に気付いたシャルニエは、地下鉄を利用。狡猾なやり口で、まんまとドイルを撒いた。 証拠不十分でドイルが捜査から外されたタイミングで、二コリがライフルでドイルを狙撃する。弾を逃れたドイルは、高架を走る地下鉄へと逃げ込んだ二コリを追うため、通りがかりの車を徴発。高架下を猛スピードでぶっ飛ばす。 地下鉄をジャックして、ノンストップで走らせたニコリだが、終着駅で停車していた車両に衝突。何とか逃げおおせようと、地下鉄を脱出するものの、追いついたドイルによって、射殺される。 ドイルは捜査へと復帰。いよいよシャルニエたちの麻薬取引が迫る中、繰り広げられる虚々実々の闘いは、終着点へと向かう…。 ***** 主役のドイル刑事に選ばれたのは、ジーン・ハックマン。40歳になったばかりの「ハックマンは、それまでに『俺たちに明日はない』(67)などで、2度アカデミー賞助演男優賞にノミネートされるなど、知名度はそこそこにあったが、本格的な主演作は初めて。 無名俳優を使いたかったフリードキンと、スターを主演にしたかった製作会社。その妥協によって、中間的な位置にいたハックマンが起用されたという。 ハックマンは、相棒のルソー刑事に選ばれたロイ・シャイダーと共に、自分たちの役のモデルとなった、イーガン、グロッソ両刑事の捜査などに、2週間密着。麻薬常習者の溜まり場に踏み込んだり、その連行を手伝ったりまでして、役作りを行った。 刑事たちが追うシャルニエ役に、フェルナンド・レイが選ばれたのは、実は手違いからだった。フリードキンは当初、ルイス・ブニュエル監督、カトリーヌ・ドヌーヴ主演の『昼顔』(67)に出演していた、フランシスコ・ラバルをキャスティングしようと考えていたのである。 ところがキャスティング・ディレクターが、勘違い。同じブニュエル監督のドヌーヴ主演作、『哀しみのトリスターナ』(70)の共演者だったレイが、ニューヨークの撮影へと招かれた。フリードキンはその時会って初めて、自分が考えていた俳優とは、別人だと気付いたという。 実はこれが、瓢箪から駒となった。役のモデルとなった犯罪者は、粗野なコルシカ人だったが、フェルナンド・レイは、見るからに洗練された紳士。粗野なドイル刑事とのコントラストが、効果的に映えた。因みに当初想定されていたラバルは、英語がまったく話せなかったので、そうした意味でも、大成功のキャスティングとなった。
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COLUMN/コラム2024.01.23
リアリズム西部劇などクソ喰らえ!“巨匠”ハワード・ホークス起死回生の一作!!『リオ・ブラボー』
古代エジプトを舞台に、大々的なエジプトロケを敢行した製作・監督作『ピラミッド』(1955)が失敗に終わった後、ハワード・ホークスは、ヨーロッパへと逃れた。そして映画ビジネスに対する情熱を取り戻すまで、4年近くの歳月を要した。 それまでの彼のキャリアでは最も長かったブランクを経て、帰国してハリウッドへと戻ったホークスは、「自分が最もよく知っているものをやってやろう…」と考えた。それは、既に落ち目のジャンルのように思われていた、“西部劇”。 彼は思った。以前に観て、「あまりにも不愉快」と感じた作品の裏返しをやってみようと。その作品とは、『真昼の決闘』(52)。 ゲイリー・クーパー演じる保安官が、自分が刑務所送りにした無法者の一味の報復に脅え、町の人々の協力を得ようとするも、ソッポを向かれてしまう…。“赤狩り”の時代、体制による思想弾圧を黙認するアメリカ人を、寓意的に表した作品とも言われる。いわゆる“リアリズム西部劇”として、傑作の誉れ高い作品である。 しかしホークスに掛かれば、一刀両断。「本物の保安官とは、町を走り回って人々に助けを乞う者ではない」。プロは素人に助けを求めたりしないし、素人にヘタに出しゃばられては、かえって足手まといになるというのだ。 また別に、『決断の3時10分』(57)という作品も、ホークスの癇に触っていた。この作品では、捕らえられている悪人のボスが主人公に対し、「手下たちがやって来るまで待っていろよ」と凄んで、冷や汗を掻かせる。これもホークスからしてみれば、「ナンセンスもはなはだしい」。主人公がこう言い返せば、良い。「手下どもが追いついてこないことを祈った方がいいぞ。何故なら、そうなったら死ぬのはお前さんが真っ先だからな」 ホークスが新作の主演に想定したのは、ジョン・ウェイン。“デューク(公爵)”の愛称で、長くハリウッドTOPスターの座に君臨した彼は、特に“西部劇”というジャンルで、数多の名作・ヒット作の主演を務め、絶大なる人気を誇っていた。 そしてホークス&ウェインは、かつて『赤い河』(48)で組み、赫々たる戦果を挙げたコンビである。お誂え向きに、ウェインもホークスと同様、『真昼の決闘』に嫌悪感を抱いていた。 その頃のウェインは、ちょっとしたスランプ状態。西部劇には『捜索者』(56)以来出演しておらず、近作の数本は、ウェイン主演作としては、ヒットとは言えない興行成績に終わっていた。 こうして監督ハワード・ホークス、主演ジョン・ウェイン11年振りの組合せとなる、本作『リオ・ブラボー』(59)の企画がスタートした。 ***** テキサスの街リオ・ブラボーで、保安官のジョン・T・チャンス(演:ジョン・ウェイン)は、殺人犯のジョーを逮捕した。 しかしジョーの兄で大牧場主の有力者ネイサン(演:ジョン・ラッセル)が、弟の引き渡しを求めて、街を封鎖。殺し屋を差し向ける。チャンスの仲間は、アルコール依存に苦しむデュード(演:ディーン・マーティン)と足が不自由な老人スタンピー(演:ウォルター・ブレナン)の2人だけ。 友人のパット(演:ワード・ボンド)が加勢を申し出るが、チャンスは断わる。しかしパットは、ネイサンの一味に殺害されてしまう。 ネイサンの放つ刺客に、幾度もピンチを迎えながら、パットの護衛を務めていた早撃ちの若者コロラド(演:リッキー・ネルソン)や、流れ者の美女(演:アンジー・ディキンソン)の協力も得て、切り抜けていくチャンスたち。 そんな中でデュードを人質に取ったネイサンが、牢に居るジョーとの交換を申し入れてきた。ネイサン一味が立て籠もる納屋に向かう、チャンスとコロラド、そしてスタンピー。 いよいよ、最終決戦の時がやって来た…。 ***** 脚本はホークスお気に入りの2人、ジェールズ・ファースマンとリー・ブラケットに依頼した。基本的には、ホークスとファースマンが喋ったシーンを、ブラケットが書き留めて、形を整える。必要とあらば更に整え直して、つなぎ合わせを行い、その間にブラケット自身のアイディアを少々付け足していく。このやり方で、何度も改稿。脚本が、完成に至った。 しかしながら、これで終わりというわけではない。クランクイン前から撮影中まで、細かい変更が随時行われていった。 ジョン・ウェイン以外のキャスティングで、ホークスがデュード役に、最初に考えたのは、『赤い河』に出演していた、モンゴメリー・クリフト。しかし、最初は候補のリストに入ってなかった、歌手でコメディアンのディーン・マーティンが浮上した。 マーティンはジェリー・ルイスとの「底抜けコンビ」で人気を博したが、56年にコンビを解消。フランク・シナトラ率いる、“ラットパック(シナトラ一家)”入りした頃だった。ホークスはマーティンに会ってみて、その人柄が気に入り、彼の起用を決めた。 早撃ちの拳銃使いコロラド役には、当初年輩の俳優を当てることが考えられていた。しかしホークスに、妙案が浮かんだ。 彼が白羽の矢を立てたのは、18歳のリッキー・ネルソン。子どもの頃から、父オジー、母ハリエット、兄デヴィッドとホームコメディ「陽気なネルソン」に出演していたリッキーは、16歳で歌手デビューし、アイドル歌手として、絶大な人気を誇っていた。 当時は、エルヴィス・プレスリーが絶大なる興行力を持っており、その主演映画に観客が殺到していた。ホークスはネルソンも、似たような力を持っているに違いないと考えたのである。 実際に本作の撮影中は、数百人ものファンが、リッキーが滞在するホテルへと押しかけた。リッキーは4度もホテルを変えた挙げ句、人里離れた牧場へと避難するハメとなった。 スタンピー役は、『赤い河』などにも出演し、まるで当て書きのようなウォルター・ブレナン。当時はTVシリーズ「マッコイじいさん」で、お茶の間の人気者にもなっていた。 リッキーやブレナンがそうであるように、本作には、TVの出演俳優が多々起用されている。パット役のワード・ボンド、敵の親玉ネイサン役のジョン・ラッセル、チャンスをサポートするメキシコ人のホテル経営者役のペドロ・ゴンザレス=ゴンザレス等々。TV時代が到来している折りに、観客の間口を広げる、機を見るに敏な、ホークス流キャスティングと言えるだろう。 因みに本作は、“大男”映画でもある。ウェインとラッセルが、193㌢。監督のホークスとワード・ボンドが、190㌢。ウェインと並ぶと小さく見えるが、リッキー・ネルソンが185㌢、ディーン・マーティンも183㌢あった。 ウェイン演じる保安官とのロマンスが展開する、流れ者の美女役には、新進女優だった、アンジー・ディキンソン。これまでに自作に出演した中でも、アンジーが最高にセクシーと見て取ったホークスは、彼女が身に付ける衣裳を、細部の細部まで自ら目を通した。そして、当時の女性が着ていた型通りのものにしないことを望んで、ソフトですべすべした「女っぽい衣裳」をリクエストした。 当時はスタッフでも、女性は衣裳係とヘアの係ぐらいしか居なかった。ロケ地入りしたディキンソンは、男たちから「仲間入り」の洗礼を受けた。それは、彼らに招かれた夕食の場で出された、“牛の睾丸料理”。彼女はペロリと平らげて、無事に「仲間入り」を果した。 アリゾナ州ツーソン谷でのロケ撮影は、厳しい炎暑との戦いだった。厩のまぐさが発火しないように、4時間おきに耐火液を振りかけ、撮影中以外は、馬に大きなフードを被せて、強烈な日差しから守った。砂嵐で咳き込む馬には、人間用の咳止めを飲ませたという。 夜間撮影では、イナゴの大群が照明へと押し寄せた。仕方ないので、別に強烈なライトを焚き、そちらにおびき寄せて、撮影を進めた。 クライマックスの対決シーンで、炸裂するダイナマイト。その爆発をより派手に演出するために、美術監督は色紙を大量に、爆破される納屋の中に仕込んだ。その結果、空に舞う色紙は、「まるで爆竹のでかいやつ」のようになってしまい、その場に居合わせた一同が大笑いで、NG。再撮で、納屋を丸々イチから建て直すハメになったという。 ウェインやブレナンなどから、しっくりしないからセリフを変えて欲しいというリクエストがあると、ホークスは、その願いを受け入れた。またリハーサルの時などに、俳優が偶然思いついたことも、どんどん採用していった。 アルコール依存症のデュードを演じるディーン・マーティンが紙巻タバコを作る際に、「もし俺の指のふるえがとまらないとしたら、どうやってタバコを巻いたらいいんだ?」とジョン・ウェインに尋ねた。彼は答えた。「俺が代わりに巻いてやるさ」。 これがデュードがうまくタバコを巻けないでイライラしていると、保安官が黙ってタバコを差し出すというシーンとなった。このような形で2人のキャラクター間の友情が、巧みに表現されたのである。 音楽も、うまくハマった。ディーン・マーティンとリッキー・ネルソンが、『赤い河』の挿入歌だった、「ライフルと愛馬」をデュエットする。殺し屋たちの魔の手が迫っている中で、随分と悠長なシーンではあるが、「…ふたりのすばらしい歌手がいて、うたわせないという手はない」という、ホークスの考えによる。 悪党のネイサンが保安官たちを脅かすために、酒場の楽団にリクエストする「皆殺しの歌」は、1836年3月にメキシコ軍が、テキサス分離独立派が立て籠もるアラモの砦を攻撃する前に流したと言われる曲。しかし実際の曲は、「恐ろしく陳腐で使えない」と、ホークスが判断。音楽のディミトリ・ティオムキンに、新たに作曲させた。 余談になるが、ウェインはこの曲が、非常に気に入った。そして本作の翌年、アラモの戦いを、自らの製作・監督・主演で映画化した作品『アラモ』(60)に流用したのである。 本作の撮影は、ほとんどのシーンで何テイクも回さずに、1発OKも多かったという。そして58年の5月から7月に掛けての、61日間の全日程を終えた。 本国アメリカ公開は、翌59年の3月。大ヒットとなり、日本その他海外でも、膨大な興行収入を上げた。 そんな本作も公開当時の評価は、単なる無難な“職人監督”であるホークスが手掛けた、“大衆娯楽作品”扱いに止まった。しかし後年、ホークスが“巨匠”として再評価されていく中で『リオ・ブラボー』は、彼の多彩なフィルモグラフィーの中でも、重要な1本と目されるようになっていく。 後年“西部劇”に引導を渡した1本とも言われた、サム・ペキンパー監督の『ワイルド・バンチ』(69)を、「…私なら一人がスローモーションで地上にたおれる前に、四人殺し、死体公示所につれていき、葬送する」と揶揄してみせた、ホークス。そんな彼が作った「本物の“西部劇”」が、『リオ・ブラボー』なのである。■ 『リオ・ブラボー』© David Hawks