ザ・シネマ 松崎まこと
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COLUMN/コラム2022.11.02
1人の男の情熱が、“インドへの道”を開いた!『ムトゥ 踊るマハラジャ』
あなたは“インド映画”と聞くと、どんなイメージが湧くだろうか? アクション、コメディ、ロマンス、そして歌って踊ってのミュージカル!3時間に迫る長尺の中に、こうしたエンタメのオールジャンル、ありとあらゆる娯楽の要素がぶち込まれて、これでもか!これでもか!!と迫ってくる。インド料理で使用する、複数のスパイスを混ぜ合わせたものを“マサラ”と言うが、それに因んで、「マサラ・ムービー」と呼ばれるような作品を、思い浮かべる方が、多いのではないだろうか? だが日本に於いて、“インド映画”がこのようなイメージで捉えられるようになったのは、1990年代も終わりに近づいてから。それ以前、日本でかの国の映画と言えば、ほぼイコールで、サダジット・レイ監督(1921~92)の作品を指していた。 レイは、フランスの巨匠ジャン・ルノワールとの出会いや、イタリアのヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』(48)を観た衝撃で、映画監督になることを決意した。『大地のうた』(1955)『大河のうた』(56)『大樹のうた』(59)の「オプー三部作」などで、カンヌ、ヴェネチア、ベルリンの3大映画祭を席捲。国際舞台で高く評価され、最晩年にはアメリカのアカデミー賞で、名誉賞まで贈られている。 そんなレイの諸作は、日本ではATG系や岩波ホールで上映された、いわゆる“アート・フィルム”。これが即ち、日本に於ける“インド映画”のパブリック・イメージとなっていたわけである。 それを一気に覆して、件の「エンタメてんこ盛り」の“マサラ・ムービー”のイメージを日本人に植え付け、“インド映画”ブームを巻き起こしたのが本作、K・S・ラヴィクマール監督による『ムトゥ 踊るマハラジャ』(95)!そしてその主演、“スーパースター”ラジニカーントである。 ***** 大地主のラージャに仕えるムトゥ(演:ラジニカーント)は、親の顔も知らない、天涯孤独の身の上ながら、いつも明るく頼りになる男。主人の信望が厚く、屋敷の使用人たちのリーダー的存在であり、また近隣住民からの人気も高かった。 ある日ラージャのお供で旅回りの一座の芝居を観に行ったムトゥは、退屈で居眠りをし、大きなくしゃみを何発もして、一座の看板女優ランガ(演:ミーナ)の怒りを買う。その一方でそんなランガの美貌に、ラージャが心を奪われる。 数日後、再びランガたちの芝居を観に行ったラージャとムトゥは、公演の邪魔をしに来た地元の顔役一味と、大乱闘。ラージャの指示で、ランガと馬車で脱出したムトゥは、激しい馬車チェイスの末、何とか逃げ切る。 しかしまったく知らない土地に迷い込んでしまい、言葉も通じないため、ムトゥは困惑。そんな時にランガのイタズラ心がきっかけで、2人は熱いキスを交わし、激しい恋に落ちる。もちろんご主人様のラージャの、ランガへの想いなど、つゆも知らず…。 ムトゥは屋敷にランガを連れ帰り、ラージャに彼女も雇ってくれと頼む。自分のプロポーズが受け入れられたと勘違いしたラージャは、大喜びでランガを受け入れる。 そんなこんなで、恋愛関係は混戦模様。その一方でラージャの悪辣な叔父が、甥の財産を乗っ取ろうと、恐ろしい計画を進める。 危険が、刻一刻と近づく。そんな中でムトゥ本人も知らなかった、彼の出生の秘密が明かされる…。 ***** 映画の開巻間もなく、「スーパースター・ラジニ」と文字が画面いっぱいに広がって仰天する。これは『007』シリーズのオープニングを意識して作成された“先付けタイトル”。本作ではタイトルロールのムトゥを演じた、ラジニカーント(1950~ )主演作の多くで、使用されているものだ。 日本ではとても主役になることはない濃さを感じるラジニカーントであるが、貧しい家の出でバスの車掌出身という親しみ易さもあって、“インド映画界”では、紛れもないスーパースター。いやもっと厳密に言えば、“タミル語映画界”で主演作が次々と大ヒットとなった、押しも押されぬスーパースターである。 広大で人口も多いインドでは、地域ごとに言語も違っている。本作でムトゥが知らない村に着いたら、言葉が通じないというのは、決して誇張された表現ではない。 公用語だけでも20前後あるインドでは、各地域ごとにその地域の言葉を使って、映画が製作されている。年間の製作本数は、多い年では長編だけで1,000本近くと、アメリカを楽々と上回るが、それはこうした各地域で作られているすべての作品をトータルした本数である。 “インド映画界”を表すのには、よくハリウッドをもじった、「ボリウッド」という言葉が言われる。これは正確には、インドで最も話者人口が多い、ヒンディー語で製作される映画の拠点である、ムンバイ(旧名ボンベイ)のことを指す。 ムンバイが、インド№1の映画都市であり、“インド映画”全般のトレンドリーダーなのは間違いないが、本作『ムトゥ』のような“タミル語映画”は、それに次ぐ規模で製作されている。その拠点は、南インドの都市マドラスに在る、コーダムバッカムという地区。そのためこちらは、「ボリウッド」ならぬ「コリウッド」などとも言われている。 ラジニカーントは、そんな“タミル語映画界=コリウッド”の大スターというわけである。 ラジニカーントのムトゥの相手役ランガを演じたのは、本作製作当時は19歳だった、ミーナ(1976~ )。目がパッチリした、ポッチャリめの美女である彼女は、子役出身で、本作の頃は、1年間に7~8本もの作品に出演する、超売れっ子だった。活動の中心は“タミル語映画”だが、他にもマラヤーラム語、テルグ語、カンナダ語が話せるため、それぞれの言語を使った作品からオファーされ、出演していた。 ラジニカーントとミーナの年齢差は、実に26歳であるが、『ムトゥ』以外にも、何度も共演している。 さて、そんな2人が軸で繰り広げられる、大娯楽絵巻!ムトゥは、首に巻いた手ぬぐいや馬車用のムチを、まるでブルース・リーのヌンチャクの如く使いこなす。彼に叩きのめされた敵は、空中を回転したり、壁をぶち抜いたりしながら、次々と倒されていく。追いつ追われつの激しい馬車チェイスでは、追っ手の人間、馬、馬車が、壮絶にコケては吹っ飛んでいく。一体何人のスタントマンが、怪我を負ったことか? この映画世界では、ガチのキスシーンは、御法度。その代わりに、川でずぶ濡れになりながら、ムトゥとランガの恋の炎は燃え上がる。 そして、ことあるごとに大々的に展開される、群舞のミュージカルシーン。大人数のダンサーを従えたムトゥとラーガは、目も鮮やかな衣装を取っ替え引っ替えしながら、歌い、そして踊りまくる。因みに“インド映画”の常で、2人の歌声は、“プレイバックシンガー”と呼ばれる、専門のプロ歌手によって吹き替えられているのであるが。 忘れてならないのは、音楽を担当した、A・R・ラフマーン。当時すでに海外からも注目される存在だったが、この後にダニー・ボイル監督の『スラムドッグ$ミリオネア』(2008)の音楽で、アカデミー賞の音楽賞に輝き、世界的な存在になっている。 こうした、典型的且つド派手な“マサラ・ムービー”である本作は、95年に本国でヒットを飛ばしてから3年後、98年6月に、東京・渋谷の今はなきシネマライズで、まずは単館公開。これが半年近くのロングランとなり、興行収入が2億円を突破した。 評判が評判を呼び、最終的に本作は全国で100以上の映画館で上映。先陣を切ったシネマライズを含めて、トータルの観客動員数は25万人、累計興行収入は、4億円にも達す、堂々たる大ヒットとなった。 その後発売された映像ソフト=VHS・レーザーディスク・DVDの販売本数は、6万枚を突破!これまた、異例の大当たりと言える。 それにしても、本国では絶大なる人気を博しながら。それまでまったく日本に紹介されることがなかった、“マサラ・ムービー”である。一体どういった経緯で、突然上映されることになったのか? それは、ひとりの“映画評論家”の家族旅行がきっかけだった。その男、江戸木純氏がプライベートでシンガポールを訪れたのは、1996年の6月。 散歩がてら、インド人街を歩いていた時に、何の気なしにビデオとCDを売るお店へと立ち寄った。そこに並ぶ、観たことのない“インド映画”のパッケージに興味を持った彼は、店員に「今一番人気のあるスターの映画は?」と尋ねた。その時に薦められて購入したのが、ラジニカーントであり、その主演作『ムトゥ』であった。 お店で一部を観ただけで大いに心惹かれた江戸木氏だったが、その際に購入した『ムトゥ』のソフトを、帰国してから全編観て、大いにハマってしまった。そして毎日のように、本作の歌と踊りのシーンを観る内に、「これを映画館の大画面で見たい」という想いを抱き、遂には日本での上映権の購入に至った。 その後江戸木氏は、公開に向かって手を挙げてくれた配給・宣伝会社と連携。公開の戦略を練った結果、まずは「東京国際ファンタスティック映画祭」で『ムトゥ』を上映し、爆笑と拍手の渦をかっ攫った。 この大評判から、多くの問い合わせを受け、新たな提携も得たことから、劇場公開に向かって、大いに前進。遂には『ムトゥ』と出会ってからちょうど2年後の98年6月に、シネマライズでの上映を実現させたわけである。 そして沸き起こった、“第1次インド映画ブーム”!続々と“インド映画”の輸入・公開が続いたが、こちらはかの地の映画会社との契約の難しさなどでトラブルが続出し、ブームは早々にしぼんでしまう。 しかしこの時に、“インドへの道”が開けたのは、確かであろう。『ムトゥ』が起こしたムーブメントがなければ、その後の“インド映画”の紹介は、ずっと難しかった可能性がある。『きっと、うまくいく』(09)や、『バーフバリ』シリーズ(15~17)などの成功も、『ムトゥ』あってこそと言って、差し支えないだろう。 因みにラジニカーントは、齢七十を超えた今も、“タミル語映画界=コリウッド”の輝けるスーパースターである。■ 『ムトゥ 踊るマハラジャ【デジタルリマスター版】』(C) 1995/2018 KAVITHALAYAA PRODUCTIONS PVT LTD. & EDEN ENTERTAINMENT INC.
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COLUMN/コラム2022.11.09
ジョン・マルコヴィッチしか考えられなかった…。“カルト映画”の傑作『マルコヴィッチの穴』
本作『マルコヴィッチの穴』(1999)の原題は、“Being John Malkovich”。当代の名優とも怪優とも評される、ジョン・マルコヴィッチがタイトルロールを…というか、マルコヴィッチ自身を演じる。 日本ではアメリカから遅れること、ちょうど1年。2000年9月の公開となった。私はその頃、TBSラジオで「伊集院光/日曜日の秘密基地」という番組の構成を担当していたが、パーソナリティの伊集院氏がこの作品のことを、生放送前後の打合せや雑談などで、よく話題にしていたことを思い出す。かなりのお気に入りで、翌10月から始まった新コーナーに、「ヒミツキッチの穴」というタイトルを付けたほどだった。「ジョン・マルコヴィッチってのが、良いんだよな~」と、伊集院氏は言っていた。そして、「日本の俳優でやるとしたら、誰なんだろう?“大地康雄の穴”とかになるのかな」とも。 この例え、当時個人的には「絶妙」だと思った。今となっては、まあわかりにくいかも知れないが…。 私的にはそんな思い出がある『マルコヴィッチの穴』とは、どんな作品か?まずはストーリーを紹介しよう。 ***** 才能がありながらも認められない、人形使いのグレイグ(演:ジョン・キューザック)は、妻のロッテ(演:キャメロン・ディアス)から言われ、やむなく定職を求める。 新聞の求人欄から彼が見付けたのは、小さな会社の文書整理係。そのオフィスは、ビルのエレベーターの緊急停止ボタンを押してから、ドアをバールでこじ開けないと降りられない、7と1/2階に在った。そしてそこは、かがまないと歩けないほど天井が低い、奇妙なフロアーだった。 書類の整理に勤しむグレイグは、ある日書類棚の裏側に、小さなドアがあるのを見付ける。興味本位でドアを開け、その中の穴に潜り込むと、突然奥へと吸い込まれる。 気付くとグレイグは、著名な俳優ジョン・マルコヴィッチの脳内へと入り、彼になっていった。しかし15分経つとグレッグに戻って、近くの高速道路の脇の草っ原へと放り出される。 興奮した彼は、同じフロアーの別の会社のOLで、一目惚れしながらも相手にされなかったマキシン(演:キャスリーン・キーナー)に、この秘密を話す。マルコヴィッチ自体を知らなかった彼女だが、この体験=穴に入ってマルコヴィッチに15分間なる=を、1回200㌦でセールスすることを提案。グレイグと共にビジネスを始めると、深夜の7と1/2階には、行列が出来るようになる。 しかしこれはまだ、グレイグ&ロッテ夫妻とマキシーン、そして俳優ジョン・マルコヴィッチを巡る、不可思議な物語の入口に過ぎなかった…。 ****** ジョン・マルコヴィッチ。1953年12月、アメリカ・イリノイ州生まれで、間もなく69歳になる。『マルコヴィッチの穴』の頃は、40代半ばといったところ。 若き日に、仲間のゲイリー・シニーズらと立ち上げた劇団で評判を取り、やがてブロードウェイに進出。『True West』や『セールスマンの死』などに出演し、オビー賞など数々の賞を手にした。 映画初出演は、ロバート・ベントン監督の『プレイス・イン・ザ・ハート』(84)。主演のサリー・フィールドに2度目のオスカーをもたらしたこの作品で、盲目の下宿人を演じたマルコヴィッチは、いきなりアカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。 以降は、主役から脇役まで幅広い役柄で、数多くの作品に出演。悪役やサイコパス役に定評があり、またヨーロッパのアート作品にも、度々出演している。 演技も風貌も、いわゆる「クセの強い」俳優であるが、プライベートでの言動や行動も、そのイメージを裏付ける。今ではその発言自体を否定しているが、「一般大衆に認識されているものはクソだ。彼らの考えにも吐き気がする。映画は金のためだけにやっている」などと、言い放ったことがある。 また、ニューヨークの街角で絡んできたホームレスに激怒し、大型のボウイナイフで脅したり、オーダーメードのシャツの出来上がりが遅れたテーラーに怒鳴り込んだり、バスが停車しなかったことに腹を立て、窓を叩き割る等々の、暴力的な振舞いが度々伝えられた。 その一方で、映画デビュー作の共演者サリー・フィールドが、「ただただ彼を敬愛している」と言うのをはじめ、共演者たちの多くからは称賛されている。初めてブロードウェイの舞台に立った『セールスマンの死』の共演者である名優ダスティン・ホフマンは、「彼との仕事は、私のキャリアの中でも貴重な経験だった」としている。 そんなマルコヴィッチをネタにした、摩訶不思議な本作のストーリーを書いたのは、チャーリー・カウフマンという男。それまでTVのシットコムの脚本を生業としていた彼にとっては、映画化に至った、初の長編脚本である。 本作の脚本は、「特に戦略を持たずに書き始めた」ということで、最初は「既婚者の男が恋をする」というアイディアだけだった。そこに後から、「穴を通って別人の脳内に入る」という発想が加わって、他者になりすまして名声を得たり、生き長らえようとする者たちや、逆にそうした者たちに自由を奪われて、己を失っていく者が登場する物語になったのである。『マルコヴィッチの穴』は、誰が観ても、「アイデンティティがテーマ」の作品だと、理解される。しかしカウフマンが書き始めた当初は、そんなことは考えてもいなかったわけである。 脳内に入られる人物に関しては、「マルコヴィッチ以外に考えられなかった…」という。マルコヴィッチがブロードウェイの舞台に立った時のビデオを観て衝撃を受けたというカウフマン。曰く、「彼がステージに立つと目が離せない」ようになった。そして本作の物語を編んでいくに際して、「彼は不可知な存在で、作品にフィットすると思った」と語っている。「マルコヴィッチ以外に考えられなかった…」のは、その「微妙な知名度」も、ポイントだったように思われる。映画・演劇業界の周辺では、誰も知る実力の持ち主であるが、万人にとってのスーパースターというわけではない。本作の中でマキシンが、マルコヴィッチと聞いても、誰かわからなかったり、タクシーの運転手が、マルコヴィッチ本人がやってもいない役柄で「見た」と話しかけてきたりするシーンがわざわざ設けられていることからも、作り手のそうした意図が、読み取れる。 因みにマルコヴィッチ自身は8歳の頃、“トニー”という名のもうひとりの自分を作り出していたという。その“トニー”とは、クロアチア系の父親とスコットランド及びドイツ系の母親から生まれたマルコヴィッチとは違って、スリムなイタリア人。至極人当たりがよく、首にスカーフを巻くなど、おしゃれで粋なキャラだった。 マルコヴィッチが“トニー”になっている時は、大抵ひとりぼっちだった。しかしある時はなりきったまま、野球の試合でピッチャーマウンドに上がったこともあったという。 そのことに関してマルコヴィッチは、「…たぶん多くの人が今とは別の人生を送りたいと願っているだろう…」と語っている。カウフマンが執筆当時、そんなことまで知っていたとは思えないが、そうした意味でも、本作の題材にマルコヴィッチをフィーチャーしたのは、正解だったかも知れない。役柄的には、逆の立場であるが…。 しかし、カウフマンの書いた『マルコヴィッチの穴』の脚本は、業界内で非常に評判になりながらも、なかなか映画化には至らなかった。内容が特殊且つ、エッジが立ち過ぎていたからだろう。 ジョン・マルコヴィッチ本人も、その脚本の完成度には唸ったものの、こんな形で俎上に載せられるのには臆したか、「自分を題材にしないことを条件に監督やプロデューサーを引き受ける」とカウフマンに提案。話がまとまらなかった。 もはや映画化は、不可能か?カウフマンも諦めかかった頃に、本作の監督に名乗りを上げる者が現れる。それが他ならぬ、スパイク・ジョーンズだった。 当時ジョーンズは、ビースティ・ボーイズやビョーク、ダフト・パンクなど数多の人気ミュージシャンのMVを演出した他、CMでも国際的な賞を受賞。写真家としても成功を収め、まさに時代の寵児だった。映画監督としては、短編を何本か手掛けて、やはり好評を博しており、長編デビューの機会を窺っていた。 そんな彼が「…とにかく、脚本が本当に良かった」という理由で、『マルコヴィッチの穴』に挑むことになったのである。当時の彼の妻ソフィア・コッポラの父、『ゴッドファーザー』シリーズなどのフランシス・フォード・コッポラ監督の後押しもあったと言われる。 その後ジョーンズとカウフマンで、映画化に向けての作業が進められる中で、件の経緯もあったせいか、ホントに“ジョン・マルコヴィッチ”が適切であるかどうか、2人の間で迷いが生じることもあった。このタイミングだったかどうか定かではないが、トム・クルーズの名が挙がったりもしたという。 しかし結局は、他の人物では満足できず、マルコヴィッチで行きたいということになった。マルコヴィッチの方も、スパイク・ジョーンズという希有な才能に惹かれたということか、「…あまりに途方もなくとんでもないストーリーだから、自分の目で見届けたくなった…」と、出演がOKになったのである。 完成した『マルコヴィッチの穴』は、「ヴェネツィア国際映画祭」で国際批評家連盟賞を受賞したのをはじめ、内外の映画祭や映画賞を席捲。一般公開と共に“カルトムービー”として人気を博し、アカデミー賞でも、監督賞、脚本賞、助演女優賞の3部門でノミネートされた。 この時はオスカーを逃したカウフマンとジョーンズだったが、2人とも本作が高く評価されたことから、監督、脚本家、プロデューサーとして地位を築いていくことになる。後にカウフマンは『エターナル・サンシャイン』(04)で、ジョーンズは『her/世界でひとつの彼女』(13)で、それぞれアカデミー賞脚本賞を受賞している。 因みにジョン・マルコヴィッチに関しては2010年、その軌跡を振り返る試みを、映画批評サイトの「Rotten Tomatoes」が実施。「ジョン・マルコヴィッチの傑作映画」という、ベスト10を発表した。 その際、第1位に輝いたのは、デビュー作の『プレイス・イン・ザ・ハート』。そこに、ポルトガルの巨匠マノエル・ド・オリヴェイラ監督の『家路』(01)、盟友ゲイニー・シニーズの監督・主演作『二十日鼠と人間』(92)等々が続く。そんな中で本作『マルコヴィッチの穴』(99)は、堂々(!?)第6位にランクインしている。 しかしこのベスト10以上に、本作のインパクトが、大きく残っていることを感じさせる出来事が、2012年にあった。それはマルコヴィッチが出演した、iPhone 4SのCM。この中で「マルコヴィッチ、マルコヴィッチ、マルコヴィッチ…」というセリフが繰り返されるのだが、これは『マルコヴィッチの穴』に登場する、最もヴィジュアルイメージが強烈なシーンを、明らかに模したもの。 ではその元ネタとなったのは、果してどんな場面なのか?それはこれから観る方のために、この稿では伏せておこう。 「マルコヴィッチ、マルコヴィッチ、マルコヴィッチ…」■ 『マルコヴィッチの穴』© 1999 Universal City Studios Productions LLLP. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.12.09
1980年代韓国の“闇”を斬り裂いた!№1監督ポン・ジュノの出世作!!『殺人の追憶』
1960年代生まれで、80年代に大学で民主化運動の担い手となり、90年代に30代を迎えた者たちを、韓国では“683世代”と呼んだ。そしてこの世代は、政治経済から文化まで、その後の韓国社会をリードしていく存在となる。『パラサイト 半地下の家族』(2019)で、「カンヌ国際映画祭」のパルム・ドールと「アカデミー賞」の作品賞・監督賞などを受賞するという快挙を成し遂げた、韓国№1監督ポン・ジュノも、まさにこの世代。本人は69年生まれで、88年に大学に入ったので、あまり実感がなく、その分け方自体が「好きではない」というが。 確かに90年代、“韓国映画ルネッサンス”と言われる潮流が起こった時、彼はまだ長編監督作品を、ものしてなかった。そして2000年になって完成した第1作『ほえる犬は噛まない』は、一部で高い評価を得ながらも、興行的には振るわない結果に終わっている。 しかしプロデューサーのチャ・スンジェは、『ほえる…』の失敗をものともせず、ポン・ジュノに続けてチャンスを与えた。彼が取り掛かった長編第2作が、本作『殺人の追憶』(2003)である。 題材は、“華城(ファソン)連続殺人事件”。86年から91年に掛け、ソウルから南に50㌔ほど離れた華城郡台安村の半径2㌔以内で起こった、10件に及ぶ連続強姦殺人事件である。180万人の警察官が動員され、3,000人の容疑者が取り調べを受けたが、犯人は捕まらないまま、10年余の歳月が流れていた。 この事件はすでに演劇の題材となっており、「私に会いに来て」というタイトルで、1996年に上演されていた。ポン・ジュノはこの演劇を原作としながら、事件を担当した刑事や取材した記者、現場近隣の住民に会って話を聞き、関連資料を読み込んだ。 そして自分なりに事件を整理してみたところ、「…自然と事件を時代背景と共に考えるようになった」という。この作業に半年掛けた後、脚本の執筆は、1人で行った。 因みに63年生まれで、ポン・ジュノよりは6歳ほど年長ながら、同じ“386世代”で、すでに『JSA』(00)でヒットを飛ばしていたパク・チャヌク監督も、「私に会いに来て」の映画化を考えていた。しかしポン・ジュノが取り組んでいることを知って、あきらめたという。 “華城連続殺人事件”には、“386”の代表的な監督たちの興味を強く引く、“何か”があったのだ。 未解決の連続殺人事件を映画化するということで、スタッフとキャスト全員で追悼式を行ってからクランクインした本作。事件から10数年経って、華城は当時の農村風景が残る環境とはかなり様相が変わっており、また住民の感情も考慮して、事件現場よりも更に南部の全羅道でロケが行われた。 製作費は、30億ウォン=3億円。通常の韓国映画より、少し高い程度のバジェットであった。 ***** 1986年、華城の農村で連続猟奇殺人が発生する。被害者の若い女性は、手足を拘束され、頭部にガードルを被せられたまま、用水路などに放置されていた。 担当のパク・トゥマン刑事(演:ソン・ガンホ)は、「俺は人を見る目がある」と豪語するが、捜査は進まない。そんなある日、頭の弱い男クァンホが、被害者の1人に付きまとっていたという情報を得る。トゥマンは相棒のヨング刑事と共に、拷問や証拠の捏造まで行って、クァンホを犯人にしようとするが、うまくいかない。 そんな時にソウルから、ソ・テユン刑事(演:キム・サンギュン)が派遣されてくる。テユンは、「書類は嘘をつかない」と言い、各事件の共通性として「雨の日に発生した」こと、「被害者は赤い服を着ていた」ことを見つけ出す。更に彼の指摘通り、失踪していた女性が、死体となって発見される。 やり方が正反対のトゥマンとテユンは、対立しながら、捜査を進める。しかし有力な手掛かりは見つからず、犠牲者は増えていく。 雨で犯行の起こる日、必ずラジオ番組に「憂鬱な手紙」という曲をリクエストしてくる男がいることがわかる。その男ヒョンギュ(演:パク・ヘイル)は、連続殺人が起こり始めた頃から、村で働き始めていた。 有力な容疑者と目星を付け、現場に残された精液とヒョンギュのDNAが一致するか検査を行うことになる。しかし当時の韓国には装備がなく、アメリカに送って鑑定が返ってくるまで、数週間待たねばならない。 一日千秋の思いで結果を待つ刑事たちだったが、その間にまた犯行が起きて…。 ***** 本作の内容は、事件の実際と、それを基にした演劇と、更にはポン・ジュノの想像を合わせたものだという。例えば、被害者の陰部から、切り分けた桃のかけらが幾つも見付かったことや、捜査に行き詰まった刑事たちが霊媒師を訪ねたこと、頭の弱い容疑者が、尋問後に列車に飛び込み自殺したことなどは、“事実”を採り入れている。 有力な容疑者のDNA鑑定は、実際には、日本に検体を送って行われた。これをアメリカに変更したのは、当時の米韓の対比を描きたかったからだという。 容疑者がラジオ番組に歌をリクエストするというのは、まったくのフィクション。この設定は、原作の演劇にもあったが、その曲はモーツァルトの「レクイエム」であった。ポン・ジュノはそれを、「1980年代の雰囲気が重要」と、当時の歌謡曲である「憂鬱な手紙」に変えたのである。 因みに原作の「私に会いに来て」で、主人公の相棒の暴力刑事を演じたキム・レハと、頭の弱い容疑者役だったパク・レシクは、そのまま本作で、同じ役どころを与えられている。 本作を、典型的な“連続殺人事件もの”として作ったり、最初はいがみ合っている刑事たちが、やがて力を合わして捜査に取り組んでいく、“バディもの”として描くことも可能であった。しかし先に記した通り、「…自然と事件を時代背景と共に考えるようになった」というポン・ジュノは、韓国社会が通ってきた80年代の暗部を描くのを、メインテーマとした。 事件当時の新聞には、88年に開催が迫った「ソウルオリンピック」が大見出しとなっている下に、「華城でまた死体発見」という小さな記事が載っている。ポン・ジュノはそれを見て、妙な気がした。そして「…これは不条理ではないかと思った」という。「華城事件」で10人の女性が殺された86年から91年は、ちょうど全斗煥大統領による軍事政権に対する民主化要求運動が、全国的な広がりを見せた時代である。そしてこの頃の警察は、ド田舎の村の人々を守ることよりも、政権を守るためにデモを鎮圧することの方を、重視していた。 本作の中では、機動隊がデモ隊を取り締まるために出動している間に、事件が起こる描写がある。また夜道を歩いていた女子学生が犯人に襲われる場面は、政府の灯火管制により、村のあちこちで消灯したり、シャッターが下ろされたりして、人為的に暗闇が訪れていくのと、執拗にカットバックされる。政府が作り出した暗闇が、罪のない女子学生の命を奪う犯人を、サポートしてしまうのだ。 これぞポン・ジュノ言うところの「不条理」。「時代の暗黒が殺人事件の暗黒を覆う…」わけである。 高度成長期でもあるこの時期、稲田や畑ばかりだった農村に、工場が建てられる。それまでは村全体が一つの大家族のような繋がりだったのに、縁もゆかりもない、見も知らぬ労働者が大挙して移り住んでくることによって、“事件”が起こるという構図も、まさに時代が生んだ殺人事件と言える。 因みに我が国でも、64年の東京オリンピック前年には、5人連続殺人の“西口彰事件”や、4歳の子どもを営利誘拐目的で殺害した“吉展ちゃん事件”などが起きている。奇しくも日韓共に、五輪が象徴する時代の転換期には、猟奇的な事件が発生しているわけだ。 “西口彰事件”については、それをモデルにした、今村昌平監督の『復讐するは我にあり』(79)という有名な邦画がある。本作の演出に当たってポン・ジュノは、この作品を非常に参考にしたという。 本作の邦題『殺人の追憶』は、原題の直訳だ。これはデビュー作『ほえる犬は噛まない』で、「フランダースの犬」(原題)という意に沿わぬタイトルを映画会社に付けられてしまい、結果的に内容と合わないことも、興行の失敗に繋がったという反省から、ポン・ジュノ自らが付けたもの。「殺人」の「追憶」という連なりには、組合せの妙を感じる。「追憶」という言葉を使ったのは、80年代の韓国、その“暗黒”を、積極的に振り返るという、ポン・ジュノの想いが籠められているのである。 そうした想いを、具現化していくための演出も、半端なことはしない。この規模の作品では、通常3~4ヶ月の撮影期間となるが、本作は半年間。これは「冒頭とラストだけ晴で、後は曇りでなくてはダメ」という、監督のこだわりによって掛かった。特に件の女子学生が犠牲になるシーンでは、理想的な曇天を待つために、1か月を要したという。 本作は先に挙げたように、“連続殺人事件もの”“バディもの”といった、ジャンル映画に括られることから逃れているのも、特徴だ。ポン・ジュノは毎作品、「ジャンルの解体」を目指しているという。 これに関しては、『岬の兄弟』(2019)『さがす』(22)などの作品で注目を集めた片山晋三監督が、興味深い証言をしている。片山は『TOKYO!/シェイキング東京』(08)『母なる証明』(09)という2作で、日本人ながら、ポン・ジュノ監督作品の助監督を務めている。「…ジャンルを意識しないで一カット、一カットごとに映画の見え方がホラーだったりコメディだったりサスペンスだったりに変わっても成立すること、むしろその方が面白いと気づいたのが僕にとっての収穫です」 この言から、片山の『さがす』も、確かに「ジャンルの解体」を目指した作風になっていることに思い当たる。 さてここで、ポン・ジュノの期待に応えた、本作の出演者についても、触れねばなるまい。本作に続いて、『グエムル‐漢江の怪物‐』(06)『スノーピアサー』(13)そして『パラサイト 半地下の家族』(19)といったポン・ジュノ作品に主演。「最も偉大な俳優であり、同伴者」と、ポン・ジュノが称賛を惜しまない存在となっている、ソン・ガンホも、本作のトゥマン刑事役が、初顔合わせ。『反則王』(00)『JSA』(00)といった主演作で大ヒットを飛ばし、すでにスター俳優だった彼が、駆け出しの監督の作品に主演したのは、『ほえる犬は噛まない』を観て、笑い転げたことに始まる。「ポン監督に自分から電話をかけて関心を示した情熱が買われ、キャスティングされた」のだという。いち早く監督の才能を、見抜いていたわけだ。またガンホが無名時代にオーディションに落ちた際、その作品の助監督だった、ポン・ジュノに励まされたというエピソードもある。 いざクランクインし、序盤の数シーンを撮ってみると、アドリブも多いガンホに対して監督は、「野生の馬」という印象を抱く。そして彼をコントロールする方法としては、「ただ垣根を広く張り巡らしておいて、思いっきり駆け回れるようにしたうえで、放しておこう」という考えに至った。「…優れた感性と創造力、作品に対する理解力を持ち合わせている」芸術家と、認めてのことだった。 キム・サンギョンを起用したのは、ホン・サンス監督の『気まぐれな唇』(02)を観てのこと。サンギョンは本作の脚本を読んで、テユン刑事に感情移入。「同じ気持ちになって猛烈に腹が立った」という。 有力な容疑者として追及されるヒョンギュ役は、パク・ヘイル。ポン・ジュノは脚本の段階から、彼の特徴的な顔を、思い浮かべていた。 ラスト、未解決に終わった事件から歳月が経ち、今や刑事を辞めて営業マンになったトゥマンが、殺人のあった現場を訪れ、自分の少し前に犯人らしき男が、同じ場所を訪れていたことを、その場に居た女の子から聞いて愕然とする。そして観客を睨みつけるような彼の顔のアップとなって、終幕となる。 これは「俺は人を見る目がある」「目を見れば、わかる」などと、本作の中で容疑者の肩を摑んでは、その顔を見つめる行為を続けてきた、トゥマンの最後の睨みである。ポン・ジュノの、「観客として映画を見るかもしれない真犯人の顔を俳優の目でにらみつけたかった」という想いから、こうしたラストになった。 実はこのシーンは、クランクインから間もなく撮られたもので、監督はガンホに、「射精の直前で我慢しているような表情でやってほしい」と演出を行った。監督曰く、ガンホは本当にあきれた顔を向けたというが、実際は何度も耳打ちで注文してはリテイクする監督を見て、「この人はこのシーンに勝負をかけているんだな」と理解。渾身の力を、注ぎ込んだという。 さて本作は公開されると、韓国内で560万人を動員。2003年の№1ヒット作となり、数多の賞も受賞した。紛れもなくポン・ジュノの出世作であり、国際的な評価も高い。20年近く経った今でも、彼の「最高傑作」であると、主張する向きが少なくない。 ここで“華城事件”の終幕についても、触れたい。2019年になって、真犯人が浮上した。その時56歳になっていた、イ・チュンジェという男。 94年に、妻の妹を強姦殺害した罪で、無期懲役が確定し、24年もの間服役中だった。改めてのDNA鑑定の結果、彼が真犯人であることが確定したが、一連の事件はすべて「時効」が成立していた。 ここで改めて注目されたのが、警察の杜撰な捜査。容疑者の中には自殺者が居たことも記したが、特に酷かったのは、10件の殺人の内、1件の犯人として逮捕され、20年もの間収監されていた男性が居たことである。 本作『殺人の追憶』が、事件の解決には役立ったのかどうかは、明言できない。しかし、あの時代の“闇”を、紛れもなく斬り裂いていたのだ。■ 『殺人の追憶』© 2003 CJ E&M CORPORATION, ALL RIGHTS RESERVED
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COLUMN/コラム2022.12.14
こだわりの“色彩”に映える、グリーナウェイの反骨と諧謔精神『コックと泥棒、その妻と愛人』
1942年イギリスのウェールズに生まれた、ピーター・グリーナウェイ。「最初に恋した芸術は絵画だった」という彼は、画家になりたくて美術学校に通うが、その在学中、スウェーデンの巨匠イングマル・ベルイマン監督の『第七の封印』(1957)を観て、「人生が変わった」。それはグリーナウェイ、17歳の時だった。 強く映画に惹かれながらも、卒業後は絵を描いて暮らそうと考えた。しかし生活が成り立たなかったため、映画の編集の仕事をすることに。そこで様々な、カメラテクニックを学んだという。 66年に、5分の実験映画を製作。それ以降は、数字やアルファベットをコラージュした幾何学的な実験映画を次々と製作し、次第に評判となっていく。 初めての劇映画は、『英国式庭園殺人事件』。この作品は82年、グリーナウェイ40歳の時に公開され、ヨーロッパでは、カルト映画として熱狂的に支持される。 因みに日本では、続く『ZOO』(86)『建築家の腹』(87)『数に溺れて』(88)等々の作品を、先に公開。『英国式…』は、91年まで待たなければならなかった。 グリーナウェイはかつて撮った実験映画をバージョンアップするかのように、『ZOO』ではアルファベット、『数に溺れて』では数字に過剰にこだわった演出を見せた。その作風や様式美は、日本でも熱烈なシンパを生み出したが、その時点ではまだ、“カルト映画”の範疇に過ぎなかった。 そうした作家性を損なうことなく、それでいて、ストーリー自体はわかり易く展開。知的なエンタメとして楽しめることを実現し、多くの映画ファンの支持を集めたと言えるのが、本作『コックと泥棒、その妻と愛人』(89)である。 ***** 高級フランス料理店「ル・オランデーズ」。一流シェフであるリチャード(演:リシャール・ポーランジェ)を擁するこの店に、毎夜オーナー気取りで訪れるのは、泥棒のアルバート(演:マイケル・ガンボン)と、その妻ジョージーナ(演:ヘレン・ミレン)。そしてアルバートの手下ミッチェル(演:ティム・ロス)ら。 盗んだ金で贅沢三昧。傍若無人な態度で、他の客にも迷惑を掛けまくるアルバートに、リチャードはうんざりしながらも、追い出すことはできない。ジョージーナも夫の卑しさに辟易しながら、彼の凶暴さをよく知ってるため、逃げ出せなかった。 そんなある時ジョージーナは、常連客の紳士マイケル(演:アラン・ハワード)と目が合い、何かを感じた。示し合わせたようにトイレの個室に向かい、愛し合おうとする2人。 その日は妻の戻りが遅いと、アルバートが追ってきて、未遂に終わる。しかしそれからは毎夜店を訪れる度、ジョージーナとマイケルはリチャードの計らいで、厨房の奥や食材庫などで、情事に耽るようになる。 アルバートが妻の不貞に、遂に気付く。愛し合う2人は、マイケル宅へと逃げのびた。 誰に憚ることなく抱き合い、リチャードの差し入れを食しながら、幸せに震える2人。しかし至福の時は、あっという間に終わる。 隠れ家を、アルバートが発見。マイケルは、残忍な方法で殺害された。 涙を流すジョージーナは、夫への復讐を誓い、リチャードの協力を求める。彼女が実行した、世にもおぞましいその方法とは? ***** 映画が製作された80年代終わりは、飽食の時代と盛んに言われた頃。グリーナウェイは、消費社会のメタファーとして、“レストラン”という舞台を選んだ。 彼曰く、「人はそこで、豪華なものを食べ、食べているところを見られ、見られるから着飾り、マナーに従い、スノッブな会話を楽しむ。自己PRの場としてのレストランは、突き詰めれば悪の根源でもあるのだ」 グリーナウェイは本作を、自分のフィルモグラフィーで、唯一の政治的な映画かも知れないとも語っている。そもそも本作の企画をスタートさせたのは、時のイギリス首相マーガレット・サッチャーによる、新自由主義に基づいた政策“サッチャリズム”への非難からだった。 凶悪な泥棒のアルバートは、富裕層と貧困層の格差を広げる、“サッチャリズム”を信奉する者を表している。その傲慢さや無神経さ、貪欲ぶりを、「絶対的な悪」として描くのが、本作のモチーフのひとつであった。 ではグリーナウェイはそうしたことを、どんな手法を用いて描いたのだろうか? 元は画家志望だった彼は、「カメラを使って絵を描いている」と言われるように、画作りに於いて、“シンメトリー=左右対称”にこだわる。そしてこのシンメトリーは、キャラ設定などにも及ぶ。 本作の場合は、1人の女を巡る、2人の男というシンメトリー。その1人は、野卑な泥棒であり、もう1人は、学者で教養人という、対照的な2人である。 グリーナウェイは、文学にも惹かれ、言語そのものにも大いなる興味を持っている。結果的に絵画や文学など、西欧文化の古典からの引用が、頻繁に為されることとなる。そもそも『コックと泥棒、その妻と愛人』というタイトル自体、イギリスの伝承童謡である、「マザー・グース」からの引用だという。 グリーナウェイは自らを、フィルムメーカーとは思っていない。「映画という媒体に身をおいた画家であり、また、小説家」だと、自負しているのだ。 「映画という媒体に身をおいた画家」としては、“オランダ・バロック美術”への傾倒がよく知られる。本作ではレストランと店外に、17世紀の画家ハルスによる、「聖ゲオルギウス射手組合の士官たちの会食」が飾られている。まさに“オランダ・バロック”の特徴のひとつである、写実的な「集団の肖像画」だ。12人もの士官たちが、各々くつろぎ、生き生きとした表情で描かれている。 そしてこの絵画で士官たちが着る服が、レストランに集う、泥棒たちの衣装のモデルとなっているのである。本作は、世界的なデザイナーである、ジャン=ポール・ゴルチエが、初めて映画の衣裳を担当した作品でもある。 絵画的という意味では、本作で最も特徴的なのが、“色彩”である。登場する部屋ごとに、象徴的な色で統一を行っているのだ。レストランは“赤”、厨房は“緑”、トイレは“白”等々といった具合に。ジョージーナがレストランからトイレに入る時には、ドレスの色が赤から白に変わったりする。 こうした色にはそれぞれ意味合いがあり、例えばレストランの“赤”は、暴力の場であることを表す。厨房の“緑”は、神聖な場という意味。そこでは食べ物が生み出され、また、人が逃げて潜むことができる。そしてトイレの“白”は、天国を表現。ジョージーナとその愛人マイケルにとっては、初めての逢瀬の場であった。 本作では他にも、“青”“白”“黄”“金”といった色が使われている。かのピカソは、「色は物から離れて、自由になることができる」と考えて、自らの作品で実践した。グリーナウェイは、それと同じ野心的なチャレンジを行い、色は非常に装飾的な上、そこに感情を盛り込めることを、示そうとしたのだ。 こうした、グリーナウェイの用意したステージの上で踊った俳優陣も、見事である。特に「悪の化身」とでも言うべき、泥棒アルバート役のマイケル・ガンボン。グリーナウェイ言うところの、「どんな魅力もない絶対的な悪人」に対して、観客は不快感を募らせつつも、その存在感が圧倒的で、目が離せない。 妻のジョージーナ役は、今や名優の名を恣にしているヘレン・ミレン。当時40代半ばに差し掛かろうという頃だが、愛人役のアラン・ハワードと共に、全裸で画面内を右往左往し続ける。 本作は公開時から、典型的な「ポスト・モダン」だと言われた。「ポスト・モダン」を簡単に説明すると、芸術・文化の諸分野で、モダニズム=近代主義の行き詰まりを打ち破ろうとする動きである。建築やデザインに於いては、装飾の比重が高まり、過去の様式が自由に取り入れられるところに特色がある。 先にも記したことだが、グリーナウェイ作品は、西欧文化の古典からの引用が頻繁に成されるのが、特徴のひとつ。“色彩”で装飾的な試みを行ったことも含めて、まさに「ポスト・モダン」と合致している。 それ故に本作は、鑑賞しただけですべてがわかるような映画ではない。多岐に亙るサブテキストを学習しなくては、理解を深めることが困難な代物とも言える。 そんな作品が、日本でも大きな注目を集めた。それはまさに、“時代”の賜物と言える。 1980年代中盤から2000年代はじめ頃まで、日本の映画興行には、「ミニシアターの時代」があった。単館興行でロングランし、1億から2億もの興行収入を叩き出すような作品も珍しくなかった。 そんな中で「シネマライズ」という映画館は、86年にオープン。渋谷のミニシアター文化の中核を担った。 デヴィッド・リンチの『ブルーベルベット』(86製作/87日本公開)、レオス・カラックスの『ポンヌフの恋人』(91製作/92日本公開)、ダニー・ボイルの『トレインスポッティング』(96製作/同年日本公開)や、テーマ曲「コーリング・ユー」が印象的な『バグダッド・カフェ』(87製作/89日本公開)、マサラ映画人気に火を点けた『ムトゥ 踊るマハラジャ』(95製作/98日本公開)等々、「シネマライズ」は数々のヒット作をリリースした。『コックと泥棒、その妻と愛人』は、興行に於いて、それらに連なる存在感を放った作品なのである。 1990年の8月4日に公開し、11月30日まで、ほぼ4カ月のロングラン。流行の最先端を発信する街に集う、いわゆる“渋谷系”の若者たちも、多く集客した。 若者の映画離れが懸念されて久しい今となっては、まさに隔世の感である。その舞台となった「シネマライズ」も、2016年に閉館。30年の歴史に、ピリオドを打った。「ポスト・モダン」に関して、「ただの流行りものだった」と、後に辛辣な批評も行われている。では『コックと泥棒…』やグリーナウェイの集めた注目も、その時期の「流行りもの」に過ぎなかったのか? そんなことは、ないだろう。些か古びた部分はあれど、グリーナウェイの試みは、いま観ても十分に刺激的で、鮮烈な魅力が溢れている。『コックと泥棒、その妻と愛人』は、“サッチャリズム”から30~40年も遅れて、今更新自由主義に傾倒。深刻な格差を生み出している我が国に於いては、シャレにならない作品とも言える。 泥棒アルバートのような輩が横行しているのを、我々の多くは今まさに、目の当たりにしている筈だ。■ 『コックと泥棒、その妻と愛人』© NBC Universal All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2023.01.10
1990年!“カルトの帝王”は“トレンド・リーダー”だった‼『ワイルド・アット・ハート』
そのフィルモグラフィーから、「カルトの帝王」と異名を取る、デヴィッド・リンチ監督。 1946年生まれの彼の初長編は、『イレイザーヘッド』(1977)。リンチが20代後半から1人で、製作・監督・脚本・編集・美術・特殊効果を務め、5年掛かりで完成させた。 見るもおぞましい、奇形の嬰児が登場するこの作品は、シュールで理解不能な内容のために、悪評が先行した。しかし、独立系映画館で深夜上映されると、一部で熱狂的な支持を集めるようになり、やがて“カルト映画”の代名詞的な作品となった。 続いてリンチが手掛けたのが、『エレファント・マン』(80)。生まれつきの奇形のために“象男”と呼ばれた、実在の青年の数奇な人生を描いた作品である。『エレファント・マン』はアカデミー賞で、作品賞をはじめ8部門にノミネート。リンチ自身も監督賞候補となり、大きな注目を集めた。因みに81年に公開された日本では、その年の№1ヒット作となっている。『エレファント・マン』は、感動作の衣を纏っていたため、多くの誤読を招いたことも手伝っての高評価だったのは、今となっては否めまい。この作品のプロデューサーだったメル・ブルックスは、リンチの特性をもちろん見抜いており、彼のことをこんな風に評している。「火星から来たジェームズ・スチュアート」と。 健康的なアメリカ人そのものの出で立ちで、いつも白いソックスを履き、シャツのボタンは、必ず一番上まで留めて着る。そんな折り目正しい外見のリンチが、実は他に類を見ないような“変態”であることを表した、ブルックスの至言と言えよう。 ・『ワイルド・アット・ハート』撮影中のデヴィッド・リンチ監督 その後リンチは、ディノ・デ・ラウレンティスによって、当時としては破格の4,000万㌦という製作費を投じたSF超大作『デューン/砂の惑星』(84)の監督に抜擢される。しかしこの作品は、興行的にも批評的にも散々な結果となり、リンチのキャリアにとっては、大きな蹉跌となる。『デューン』に関しても、リンチ一流の悪趣味な演出を、カルト的に愛するファンは存在する。しかし、いかんせんバジェットが大きすぎた。因みに、この作品の出演者の1人、ミュージシャンのスティングはリンチについて、「物静かな狂人」とコメントしている。 深刻なダメージを受けたリンチだったが、その後の製作姿勢を決定づける、大いなる学びもあった。それは今後の作品製作に於いては、“ファイナル・カット権”即ち最終的な編集権を己が持てないものは、作らないということ。粗編集の段階で4時間以上あった『デューン』を、無理矢理半分ほどの尺に詰められて公開されたことに、リンチは強い憤りを覚えていたのである。 そんなことがあって次の作品では、大幅な製作費削減と引き換えに、“ファイナル・カット権”を得て、思う存分腕を振るった。それが、『ブルー・ベルベット』(86)である。この作品でリンチは、ジャンルを問わず様々な題材を多く盛り込むという、独特の作風を確立。『ブルーベルベット』は、興行的にも批評的にも成功。後に「カルトの帝王」と呼ばれるようになる、足掛かりとなった。 そんなリンチであるが、まさかの“トレンド・リーダー”的存在として、崇められた時期がある。ピンポイントで言えば、それは1990年のこと。 この年、彼が製作総指揮・監督・脚本を務めたTVシリーズ「ツイン・ピークス」が大ヒット!それと同時に、マンガ、ライヴの演出やジュリー・クルーズのアルバムのプロデュース、CMの制作等々、八面六臂の大活躍を見せ、時代の寵児となったのである。 リンチの劇場用長編新作だった本作『ワイルド・アット・ハート』も、この年のリリース。そして、「カンヌ国際映画祭」で見事、最高賞=パルム・ドールを勝ち取ったのだ。 この作品の企画がスタートしたのは、89年の4月。プロデューサーのモンティ・モンゴメリーが、自分が監督するつもりで、バリー・ギフォードが書いた小説の映画化権を獲得したことにはじまる。 モンゴメリーはリンチに、製作総指揮などやってもらえないかと依頼した。ところが、リンチがその小説を読むと、自分が監督をやりたくなってしまったのである。その希望を、モンゴメリーは快諾。リンチは早速脚本化に取り掛かり、僅か8日間で第1稿を書き上げる。 撮影開始は、その4ヶ月後の8月。ロス市内や郊外の砂漠を含む周辺の町で8週間。 加えてニューオリンズ、フレンチクォーターでロケを行った。 ***** セイラー(演:ニコラス・ケイジ)は、恋人のルーラ(演:ローラ・ダーン)の目の前で、黒人の男にナイフで襲われる。それは明らかに、ルーラに偏執狂的な愛情を注ぐ、その母親マリエッタ(演:ダイアン・ラッド)の差し金。セイラーは返り討ちで、男を殺してしまう。 22ヶ月と18日後、刑務所を仮釈放となったセイラーは、ルーラを連れて、車でカリフォルニアへの旅に出る。情熱的な歓喜に満ちた2人の道行きだったが、マリエッタにより、追っ手が掛かる。 まずはマリエッタの現在の恋人で、私立探偵のジョニーが、2人を追跡する。しかしなかなか足取りを追えないことに苛立ったマリエッタは、かつての恋人で暗黒街の住人サントスにも相談。2人を見つけ出し、セイラーを殺害することを依頼するが、サントスはその条件として、追っ手のジョニーも殺すことになると、告げる。 セイラー殺し、ジョニー殺しのため、危険な殺し屋たちが、集められる。そして、彼らの手でジョニーは、無残に殺されてしまう。 旅の最中、セイラーはルーラに、今まで秘密にしていたことを明かす。火事で亡くなったルーラの父を、セイラーは生前から知っていた。そして、自分はかつてサントスの運転手を務めており、ルーラの父が焼け死ぬ現場の見張りを命じられていたのだ。ルーラの父は、マリエッタとサントスが共謀して、殺害したのであった。 次第に手持ちの金がなくなっていく中、ルーラの妊娠が発覚する。セイラーとルーラ、激しく愛し合う2人の行く手には、何が待ち受けているのか!? ***** リンチは脚色の際、原作にかなり手を入れた。そして、彼の言葉を借りれば、「…ロードムーヴィーだし、ラヴストーリーでもあり、また心理ドラマで、かつ暴力的なコメディ…」に仕立て上げた。 最も顕著な改変は、『オズの魔法使い』(39)の要素を入れたこと。竜巻に襲われて魔法の国オズに運ばれてしまった少女ドロシーの冒険を描くこの作品の、恐怖と夢が混在するところに、リンチは初めて観た時から心を打たれていたという。 具体的には、ルーラに執着する母親のマリエッタを、『オズの…』に登場する“悪い魔女”に擬して描いたり、ドロシーが赤い靴のヒールをカチッと合わせる有名なシーンを、ルーラに再現させたり。 挙げ句はラスト近く、ルーラの元を去ろうとするセイラーの前に“良い魔女”が現れて、物語を大団円へと導く。 実は脚本の第1稿では、セイラーがルーラを棄ててしまうという、原作通りの暗い結末を迎えることになっていた。ところがリンチの前作『ブルーベルベット』でヒロインを演じ、その後リンチと交際していたイザベラ・ロッセリーニが脚本を読んで、こんな悲惨な映画には絶対出演しないと言い出した。 そこでリンチは再考した結果、『オズの…』に行き着く。そして本作を、現代のおとぎ話としてのラヴ・ストーリーという形で展開することに決めたのである。その甲斐あってか、ロッセリーニも無事、キャストの1人に加えることができた。 こうした改変を、原作者のギフォードは称賛。映画版の『ワイルド・アット・ハート』を、「…ブラックユーモアのよく利いた、ミュージカル仕立てのコメディ…」と、高く評価した。 そんな本作の、キャスティング。リンチは原作を読んだ瞬間から、ルーラはローラ・ダーン、セイラーにはニコラス・ケイジといったイメージが浮かんだという。『ブルーベルベット』ではウブな少女役だったダーンを、それとは対照的にホットなルーラに当てることを、意外に受け止める向きも少なくなかった。しかしリンチに言わせれば、原作のルーラの台詞から、ダーンの声が聞こえてきたのだという 本作のクライマックス近く、場を浚うのが、“殺し屋”ボビー・ペルー役のウィレム・デフォーだ。黒ずくめで細いヒゲを生やし、歯は歯茎まですり減っているという、異様な外見。レイプ紛いの言葉責めで、ルーラを追い詰める等々、とにかく強烈な印象を残す。 リンチは彼をキャスティングした理由を尋ねられた際、「だってクラーク・ゲーブルは死んでしまったからね」と、彼一流の物言いで返答。それはさて置き、デフォーにとって本作の撮影は、本当に楽しいものだったようだ。 曰く、「…監督にいろんな提案をすると、必ず『じゃあ、やってみよう』と言ってくれたからね」 そんなことからもわかる通り、リンチの演出は、即興的なインスピレーションに支えられている。スラムのような場所でロケした際は、実際のホームレスを急遽エキストラとして集めたりもした。 因みにマリエッタ役には、ルーラ役のローラ・ダーンの実の母親、ダイアン・ラッドがキャスティングされた。リンチはラッドと、夕食を一緒に取った際のインスピレーションで、彼女に決めたという。 奇しくも『ブルーベルベット』の時、ローラ・ダーンをキャスティングしたのも、レストランでの出会いがきっかけだった。 リンチはスタッフに、ラッドとダーンが実の母娘だと知らせてなかった。そのため、撮影が始まってしばらく経った時に、「君たち二人は顔までそっくりになってきたね。怖いぐらいだ」と、ラッドに言いに来たスタッフが居たという。 さて本作のラスト、セイラーは愛するルーラと我が子に向かって、『ラヴ・ミー・テンダー』を歌い上げる。このシーンは、演じるニコラス・ケイジの趣味嗜好を押さえておくと、より楽しめる。 ケイジはエルビス・プレスリーの熱烈なファンで、その関連グッズのコレクター。本作から12年後=2002年に、プレスリーの遺児であるリサ・マリーと結婚した際などは、ケイジのプレスリーコレクションとして、「最大の得物をゲットした」と揶揄されたほどである。まあこの結婚は、すぐに破綻したのだが…。 そんなケイジが演じるセイラーが、「俺の女房になる女にしか歌わない」と劇中で宣言していた、プレスリーの代表的なラヴソングをド直球に歌い上げて、本作はエンドとなる。ケイジはさぞかし、気持ち良かったであろう。 当時リンチのミューズであった、イザベラ・ロッセリーニは、撮影現場でのリンチのことを、こんな風に語っている。「…俳優たちと付き合うのが大好きで、撮影で一緒に遊んでる感じ…」「…まるでオーケストラの指揮者がバイオリン奏者を指揮するように演出する…」 そんな監督だからこそ、『ワイルド・アット・ハート』の、感動的且つ爆笑もののラストが生まれたのかも知れない。■ 『ワイルド・アット・ハート』© 1990 Polygram Filmproduktion GmbH. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2023.01.17
映画史に刻まれた、セルジオ・レオーネのモニュメント!『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ【完全版】』
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』日本でのお披露目は、1984年10月6日。旧日劇跡地に建設された、有楽町マリオン内の東宝メイン館「日本劇場」こけら落しの作品として、華々しくロードショー公開された。 ~世界映画史に刻み込む空前の映像モニュメント~ ~アメリカ・激動の世紀―愛する者の涙さえ埋めて男たちは心まで血に染めて生きた~ ~「モッブス」――それは誰も語らなかった男たちの巨大な結社!~ これらは配給の東宝東和が、仰々しく打ち出した惹句の数々だが、本編を観ると、アメリカを動かすほどの“巨大な結社”である筈の「モッブス」とは一体!?…となる。俗に「東宝東和マジック」などと言われる、ゼロから100を生み出す、大嘘宣伝、もとい、十八番とした誇大広告である。 インターネット普及後は、あり得ない手法と言える。しかし当時の東宝東和は、ホラー映画を中心に、この手のプロモーションで、次々と成果を上げていたのだ。 そんなムード作りもあって、大学受験に失敗して二浪の秋を迎えていた私も、「これだけは見逃すまい」という気持ちになっていた。“マカロニ・ウエスタン”の伝説的な巨匠セルジオ・レオーネ監督と、我らがロバート・デ・ニーロの“最新作”というのも、当時の映画少年にとっては、大いなる引きだった。 期待が膨らむ一方で、私は映画雑誌などから得た情報で、不安も大きくなっていた。『ワンス・アポン…』は、4時間近い長尺の作品として完成。「カンヌ国際映画祭」で絶賛を浴びたのに、製作国であるアメリカでは90分近くカットされた、2時間半足らずの再編集版で公開。評判が芳しくなかったという。 では日本では、一体どちらのバージョンが公開されるのか?受験勉強も手に付かなくなるほど心配になった私は、思いあまって、東宝東和に電話で問い合わせてみた。「日本では、3時間を超える長い方をやりますよ」 それが、受話器の向こう側の宣伝部の男性の答だった。気付くと私は、「ありがとうございます!」と、礼を伝えていた。 実際の“日本公開版”は、3時間25分。それまでにヨーロッパなどで公開し、今日では一般的に【完全版】と言われるバージョン=3時間49分からは、細かく削って、20分強短縮している。完全に日本独自の、再編集版であった。 しかし、構成は【完全版】に準じたこのバージョンが観られたことは、当時の日本の観客たちにとっては、幸運なことと言えた。実際問題として“アメリカ公開版”=2時間19分が日本でも採用されていたら、『ワンス・アポン…』が、この年の「キネマ旬報」ベスト10で、洋画の第1位に輝くことはなかったであろう。 ***** 1933年、ニューヨーク。ユダヤ系ギャングの一員だったヌードルス(演:ロバート・デ・ニーロ)は、仲間を警察に密告した。それはリーダー的存在のマックス(演:ジェームズ・ウッズ)の無謀な企てを諦めさせて、彼の命を救うためだった。だがその思惑は、裏目に。マックスはじめ、少年時代からの仲間たち3人は、警察隊に射殺される。 裏切り者として追っ手が掛かったヌードルスは、ニューヨークから逃げ延びる…。 ユダヤ人街で生まれ育ったヌードルスが、マックスと出会ったのは、1923年、17歳の時。目端の利く者同士、仲間たちの力も借りて、裏の仕事で稼げるようになる。しかし、出し抜かれた街の顔役が、ヌードルスたちを襲撃。仲間の1人を殺されたヌードルスは、無我夢中で顔役を刺し殺す。 6年の刑期を経て、ヌードルスがシャバに戻ってきたのは、1931年。禁酒法の時代、マックスたちはもぐり酒場を経営すると共に、強盗や殺しなども請け負っていた。 少年時代から憧れだったデボラ(演:エリザベス・マクガバン)のために海辺のホテルを借り切り、2人きりの時を過ごそうとする、ヌードルス。しかしデボラは、ハリウッドに発って女優になるという。 凶暴な欲望に襲われたヌードルスは、デボラを車中で、無理矢理犯してしまう…。 デボラに去られたヌードルスは、次第にマックスのやり方についていけないものを、感じ始める。そして、「彼のため」と思って行ったタレ込みが、最悪の結果を招く…。 それから、長い月日が流れた。1968年、老境に差し掛かったヌードルスは、何者かにニューヨークへと呼び戻される。 マックスたち殺された仲間は、ヌードルスが建てたことになっているが、彼にはまったく身に覚えがない立派な墓所に葬られていた。そしてそこに置かれた1本の鍵が、ヌードルスを、35年前の“真相”へと導く…。 ***** 冒頭以外ほぼ時の流れの順に、ストーリーを記したが、実際は1968年を基軸にしながら、ヌードルスの回想が巧みに織り交ぜられ、それが謎解きミステリーでもある構成となっている。 セルジオ・レオーネ監督曰く、「私が描きたいのはノスタルジーだ」 老いたヌードルスのあいまいな記憶そのままに、幾つかの時代のシーンを、イメージの連鎖で繋いでいく。それはノスタルジーに縛られた、ヌードルスの彷徨そのものである。 先に記した通り、“アメリカ公開版”は、90分近くの大幅カットが為された。しかもそれは、レオーネが考えに考えた構成を無視して、物語を時系列に並べてしまったという代物だった。 本作は、デボラとのシーンに流れる「アマポーラ」、68年のシーンに流れる「イエスタデイ」など、名曲の使い方が印象的であるが、それと同時にノスタルジックで詩情豊かな、エンニオ・モリコーネの楽曲も、素晴らしい。ところが“アメリカ公開版”は、モリコーネの音楽も響いてこないと言われる。 はっきり言って、「台無し」だ。だがこんな酷いことが起こり、しかも上映時間に幾つものバージョンが存在することになったのには、本作の製作過程も、大いに関係している。 原作は、ハリー・グレイの自伝的作品である、「THE HOODS=ヤクザたち」。1953年アメリカで出版。レオーネ監督の母国イタリアでは、60年代半ばにペーパーブック版がリリースされたという。 64~66年に掛けて、クリント・イーストウッド主演の“ドル箱3部作”を手掛けて、世界的な“マカロニ・ウエスタン”のムーブメントを巻き起こしたレオーネが、この原作と出会ったのは、67年頃。終生アメリカという国に魅了され続けた彼にとって、ユダヤ系ギャングたちが躍動するこの物語を読んで、憧れの国を舞台に、矛盾とパラドックス、更にはバイタリティに溢れた、大人の寓話が描けると踏んだのであろう。 レオーネは、ヘンリー・フォンダらの主演で撮った『ウエスタン』(68)のプロモーションについて話し合いのため渡米した際、ハリー・グレイとの接触に成功。以降折りあるごとに面会を重ね、友人関係になったという。 しかし「THE HOODS」の映画権は、すでに売られてしまっていたことが、判明。その権利を得るための、悪戦苦闘が始まる。 70年前後、レオーネはフランス人のプロデューサーたちと、原作権を獲得するための算段を立てた。この頃想定されたのは、マックスの若き日をジェラール・ドパルデュー、その50~60代はジャン・ギャバンというキャスティングだった。 結局原作権が入手できない内は、動くに動けず、この話はお流れとなる。 75~76年、再び話が動いた。この時はドパルデューが、ヌードルス役の有力候補に。マックス役は、リチャード・ドレイファスだった。 そして77年頃。ようやく映画化権が、レオーネの元に、巡ってきた。レオーネはプロデューサーとして別の監督を立てることも考えたようで、ミロス・フォアマンやジョン・ミリアスと接触している。 そんな中で脚本を、アメリカのノンフィクション小説の革新者と呼ばれた、ノーマン・メイラーに依頼することとなる。しかし彼が書き上げたものは「満足のゆくものではなかった」ため、結局イタリアで「最も才能ある」脚本家たちに書いてもらうこととなった。 その中心となったのが、『ラスト・タンゴ・イン・パリ』(72)などのフランコ・アルカッリ、『地獄に堕ちた勇者ども』(69)などのエンリコ・メディオーリ。レオーネを含めて、6名の脚本家チームによって、82年に300頁近い脚本が完成した。 プロデューサーも、紆余曲折の末、レオーネが80年に出会った、イスラエル出身のアーノン・ミルチャンに決まる。 一方、その頃のキャスティングは、迷走を極めていた。ヌードルス役は、トム・ベレンジャーに若い頃を演じさせ、年老いたらポール・ニューマンになるというアイディアがあった。マックス役の候補に挙がったのは、ダスティン・ホフマン、ジョン・ヴォイト、ハーヴェイ・カイテル、ジョン・マルコヴィッチ等々。 ヒロインのデボラ役には、ライザ・ミネリが有力だったこともある。 そんな中でミルチャンは、ラッド・カンパニー及びワーナー・ブラザーズに話を付け、配給の契約を結ぶ。この時ワーナーは、160分の作品を作る契約をしたと思い込んでいた。しかしレオーネが考えていたのは、4時間を超える作品であった。 82年1月クランクインの予定が延びて、6月のスタートとなる。そしてミルチャンの仲立ちで、レオーネはロバート・デ・ニーロと“再会”する。レオーネは以前、『ゴッドファーザーPARTⅡ』(74)撮影中のデ・ニーロと会って、本作の説明をしたことがあったのだった。 デ・ニーロの出演が決まって、同じ人物の青年期と老年期を、違う俳優が演じるというアイディアを、レオーネは棄てた。そしてデ・ニーロに、ヌードルスとマックス、どちらを演じたいかの、選択権を与えた。 熟考の末、ヌードルス役を選んだデ・ニーロ。早速“デ・ニーロアプローチ”による、役作りへと入る。この役に関しては、ユダヤ系の家族と生活を共にするなどの、アプローチを行った。 老齢期の役作りも、バッチリ。その撮影中は、夜中の3時に起きて、6時間のメイクに取り組んだ。レオーネはそうしたデ・ニーロを見て、「…歳をとる薬でも飲んだのか?」とつぶやいた。 さてヌードルスにデ・ニーロが決まったことによって、彼と共通のアクセントを持った、ニューヨーク出身の俳優を選ぶ必要が生じた。デ・ニーロは友人の俳優たちを、次々とレオーネに紹介したという… そんな中では、例えば宝石店商の妻から、マックスの愛人に転身するキャロル役には、チューズデイ・ウェルドが決まった。この役は、レオーネの『ウエスタン』主演だった、クラウディア・カルディナーレが熱望していたのを抑えての、決定だった。 デ・ニーロは本作に、ジョン・ベルーシに出てもらうことも考えていた。そのため会いに行った翌日、ベルーシはドラッグの過剰摂取で急死。デ・ニーロは、スキャンダルに巻き込まれる結果となった。『レイジング・ブル』でデ・ニーロの弟役をやったジョー・ペシには、プロデューサーのミルチャンが、マックス役を約束してしまった。レオーネは、ペシにはこの役には合わないという理由で、別の役を与えることとなる。 結局マックス役には、200人がオーディションを受けた中から、レオーネが、「成功の一歩手前の性格俳優」であるジェームズ・ウッズを抜擢する。 ウッズは、「世界一の俳優」であるデ・ニーロと相対するのに、覚悟を決めた!「よし、どのシーンでもデ・ニーロと向き合っていこう。そうすれば、彼と同じぐらい骨のある俳優だという証明になるのだから」と、自分に言い聞かせたという。 それが結果として、レオーネ言うところの「同じコインの表と裏」、愛情と壮絶な競争意識を抱いている、マックスとヌードルスの関係を醸し出すことに繋がった。デ・ニーロとウッズは、2人の間に流れる緊張感を獲得するために、アフレコでなく同時録音を提案し、レオーネを説得した。 デ・ニーロが最後まで不満だったと言われるのが、デボラ役のエリザベス・マクガバン。彼女はイリノイ州出身だったため、ニューヨークのアクセントが出せないというわけだ。しかしその少女時代を演じたジェニファー・コネリーと合わせて、ヌードルスが思慕して諦めきれない女性を、見事に演じきっている。 さてこうしたキャストを擁して行われた撮影では、ニューヨーク市のロウアー・イーストサイドの3区画を借りる契約を市側と結び、1920年代の街並みを再現した。店の一軒一軒から消火栓、ポスト、階段まで細かい作り込みを行ったため、そこに住む者たちは数か月の間、通り沿いの窓を塞がれたまま生活することとなった。 しかしその契約期間だけでは、到底撮影が終わりそうもない。そのためそっくり同じセットを、ローマ郊外にも建設したという。他にも、過去のアメリカに映る場所を求めて、ロケはモントリオール、パリ、ロンドン、ヴェネチアなどでも行われた。 当初は20週の撮影で、製作費は1,800万㌦の見積もりだった。しかしスケジュールがどんどん伸びるのに伴って、製作費も3,000万㌦以上まで膨らむ。 そうして上がったフィルムのOKカットを繋ぐと、はじめは10時間にも及んだという。当然それでは公開出来ないので、どんどんハサミを入れていき、最終的には、“3時間49分”の【完全版】にまで辿り着く。 しかしこの「最終的には」は、あくまでもレオーネにとってでしかなく、先に記した通り、その長さを嫌ったアメリカの配給元の主導で、2時間19分のダイジェスト紛いのバージョンまで行き着いてしまったわけである。『ワンス・アポン…』のバージョン違いとして知られるのは、主に5つ。レオーネが最初に完成させたという、“オリジナル版”4時間29分。そして【完全版】、それに準じた“日本公開版”、そして“アメリカ公開版”。更に2012年「カンヌ国際映画祭」で初めて上映され、日本では19年「午前十時の映画祭」で公開された、“ディレクターズ・カット版”4時間11分。 この最新版とでも言うべき、“ディレクターズ・カット版”は、現存しない“オリジナル版”を修復する試みで、レオーネの遺族とマーティン・スコセッシのフィルム・ファウンデーションが、カットされたシーンの復元を、可能な限り行ったものである。 84年公開以来、私が観たことがあるのは、3バージョン。順に挙げれば、「日本劇場」で鑑賞した“日本公開版”、日本ではDVDや放送、配信などでしか観られなかった【完全版】、そして“ディレクターズ・カット版”である。 私見としては、レオーネが望んだ形に最も近い筈の“ディレクターズ・カット版”は、ほぼ全ての辻褄が合うように出来てはいるが、やはり長すぎるし、そこまで説明は要らないという印象が残る。 そういった意味では、今回「ザ・シネマ」で放送される【完全版】が、やはり最高と言えるのではないだろうか? この作品に精力を注ぎ込んだレオーネは、撮影中の82年冬に心臓病を発症。その後ストレスを避けろと医者に忠告されるも、本作の公開を巡って訴訟沙汰となる中、病状は悪化していく。 そして本作公開から5年後の89年、新作の準備中だったにも拘わらず、60歳の若さでこの世を去った。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』が、遺作となってしまったのである。 東宝東和発の本作惹句の中で~世界映画史に刻み込む空前の映像モニュメント~というのは、結果的に誇大広告ではなくなったんだなぁと、しみじみ思ったりもする。■ 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ【完全版】』Motion Picture © 2002 Monarchy Enterprises S.a.r.l. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2023.02.24
70年代“ポルノ・スター”とその主演作が辿った、数奇な運命。『ラヴレース』
“洋ピン”という言葉の響きに、ある種の郷愁を覚えるのは、50代中盤以上の、ほぼ男性に限られるのだろうか? “洋ピン”を一言で説明すれば、洋ものピンク映画の略。即ち、アメリカやヨーロッパなどで製作された、外国産のポルノ映画を指す。 “洋ピン”は、日本の洋画興行に於いて、1970年代に全盛期を迎えた。往時は、億単位の配給収入を上げる作品も、少なくなかったという。 その頃は世界的に、性の解放やフリー・セックスが、トレンドとなった時代。日本にもその波が押し寄せて…と言っても、実は欧米とは、かなり事情が違っていた。 アメリカや北欧などではいち早く、ヘアや性器を明け透けに見せながら、セックスの本番行為を映し出す、いわゆる“ハードコア”のポルノ映画が解禁された。しかし、ピンク映画やにっかつロマンポルノなど、我が国で製作される成人向け作品は、実際には性行為は行わずに、それらしく演じてみせる、いわゆる“ソフトコア”止まり。 そんなことからもわかる通り、当時の日本では、もろ出しの欧米産“ハードコア”をそのまま公開することなど、もっての外。許される筈がなかった。 しかし実際は、そうしたハードコア”のポルノ作品が数多く輸入されて、次々に公開されたのである。日本独自の加工を施して…。 オリジナル版で映し出される、性器や性行為は、ある時はカットされ、またある時はボカシやトリミングが掛けられた。花瓶などを写した他のフィルムを焼き付けて秘所を隠す、“マスクがけ”といった高等テクニック(!?)まで生み出され、とにかくヤバい部分は、いくら目を凝らしても見えないようにされたのだ。 欧米産ポルノ映画は、そのようなプロセスを経て、日本のみのバージョンである“洋ピン”と化して、ようやく公開へと辿り着く。そんな代物であっても、繁華街から場末まで、そうした作品を上映する専門館には、多くの観客が集まったのである(現存する映画館で言えば、銀座の東映本社地下に在る「丸の内TOEI②」も、40数年前には「丸の内東映パラス」という名で、“洋ピン”専門館だったことがある)。 欧米では“ハードコア”、転じて日本では“洋ピン”。そんな70年代のポルノ映画事情を象徴するのが、『ディープ・スロート』(1972)という作品である。そしてその40年後に、『ディープ…』の主演女優であったリンダ・ラヴレースの人生の一局面を描いたのが、本作『ラヴレース』(2013)だ。 ***** 1970年、フロリダの田舎町で暮らす、リンダ・ボアマン(演:アマンダ・セイフライド)。両親(演:ロバート・パトリック、シャロン・ストーン)は厳格なカトリック教徒で、特に母は、リンダの生活に容赦なく介入した。 窮屈な生活を強いられるリンダの前に、バーの経営者だという、チャック・トレーナー(演:ピーター・サースガード)が現れる。ヒッピー風で当世のカルチャーに詳しく、しかも優しく接してくれる年上の男性チャックに惹かれたリンダは、早々に親元を飛び出して、彼と結婚する。 それから半年。チャックはバーでの売春あっせん容疑で逮捕され、その保釈金やあちこちへの借金で、首が回らなくなっていた。起死回生の一手として彼が仕掛けたのが、妻リンダのポルノ映画出演。 演技はずぶの素人である、リンダを起用することに懐疑的な製作陣に、チャックは8㎜フィルムで撮った、彼女の“秘技”を見せる。どんな巨大な男性器でも喉の奥深くまで咥えてみせるその様に、製作陣は驚愕。そして、リンダが喉にクリトリスがある女性という設定の“ハードコア”、『ディープ・スロート』(直訳すれば、喉の奥深くという意)が製作されたのである。『ディープ・スロート』は、最終的な売り上げが5億㌦とも6億㌦とも言われる、驚異的な大ヒットとなり、社会現象を引き起こす。リンダはこの作品出演を機に、“リンダ・ラヴレース”という芸名を与えられ、「性の解放」を象徴するヒロインとして、全米注目の存在に。 しかしそれは、リンダの望んだことではなかった。実は結婚当初から彼女を暴力で支配していたチャックが作り上げた、“虚像”だったのである…。 ***** アマンダ・セイフライドは、SF作品『TIME/タイム』(11)のヒロインや、ミュージカル『レ・ミゼラブル』(12)のコゼット役などで、若手女優として人気も評価もピークに近かった頃に、本作に主演。ヌードや濡れ場にも臆することなく、実在の“ポルノ・スター”という難役に挑んだ。 1985年生まれの彼女は、リンダ・ラヴレースも『ディープ・スロート』も、それまでまったく知らなかった。自分の両親に当時の反響を聞いたり、監督たちが集めた、リンダに関する膨大な写真やフッテージ、本などの資料に触れ、更にはリンダの出演作のほとんどを観るなどして、役作りを行ったという。 それまでも、悪役やクズ男を演じてきたピーター・サースガードだが、本作はまさに適役!アマンダ曰く、「ピーターがすごいのは、カリスマ的な魅力を持っている男から、一瞬にしてひどく暴力的な男に豹変してしまえる…」ことで、そんな多重人格的なチャック・トレーナー役を、見事に演じてみせた。 本作の前半は、田舎出の女の子が、愛する男性のサポートによって、時代の寵児となっていく展開。リンダの歩みが、まるで“サクセスストーリー”のように描かれる。 しかし後半は、一転。ドキュメンタリー畑出身の監督コンビである、ロブ・エプスタインとジェフリー・フリードマンは、成功の裏にあった、おぞましくも醜い現実を抉り出す。 見せかけの栄光の日々から、6年。新たな夫との間に我が子を授かっていたリンダは“うそ発見器”に掛かるまでして、ある出版物をリリースする。それは彼女が、成功の裏に隠された真実を綴った、己の“自伝”である(日本では「ディープ・スロートの日々」なるタイトルで出版された)。 本作を構成するに当たっての重要な資料にも当然なったと思われる、この“自伝”。実は本作以上に、強烈で衝撃的な描写が満載である。 結婚直後からチャックのDVの餌食となったリンダは、やがて“売春”を強要されるようになる。時には複数の男にレイプされ、更には獣姦まで強いられる。『ディープ・スロート』以前には、8㍉フィルムで性行為を撮影した、いわゆる“ブルーフィルム”にも多数出演させられている。『ラヴレース』ではさらりと触れられる程度だが、実在の有名人との関わりも、“自伝”では詳細に描写される。成人向け娯楽雑誌『PLAYBOY』で、一大帝国を築き上げた男、ヒュー・ヘフナー。本作ではジェームズ・フランコが演じたヘフナーの館では、毎夜のように酒池肉林のパーティが開かれ、そこでは多数の男女が、乱交に興じる。その中でリンダは、ヘフナーと関係を持つのである。 “自伝”の中で、印象的な登場人物の1人となるのが、“ラット・パック”=フランク・シナトラ一家の一員として、多数のショーや映画に出演し、人気を博した一流のエンターティナー、サミー・デイヴィスJr.。“洋ピン”世代(!?)の中には、彼が70年代前半に出演した、ウィスキーの「サントリーホワイト」CMが、印象に残っている方が多いであろう。 本作ではヘフナー邸で、リンダに一言挨拶する出番に止まったサミーだが、“自伝”では、チャック&リンダ夫妻とスワッピング=夫婦交換を頻繁に行っていたことが、詳らかにされる。やがてサミーは、リンダに対して、プロポーズするほどに入れあげる。また彼はイタズラ心から、スワッピングの最中チャックに対して、自ら“ディープ・スロート”を仕掛けたりする。 とはいえ、ヘフナーやサミーの痴態を描くのは、リンダにとっての本旨ではない。DVの告発及び、彼女を搾取したポルノ映画産業への批判こそが、“自伝”を著わした、真の動機であり目的だったのだ。 この“自伝”がベストセラーになった後のリンダは、「アンチ・ポルノ」の運動家に。そして2002年に、車の事故によって53歳の若さでこの世を去るまで、先鋭的な活動を続けたという。 因みにチャックは、リンダとの離別後、新たなるポルノ・スター、マリリン・チェンバースと結婚。こちらの夫婦生活も、10年ほどで終わりを迎える。そして彼は、奇しくもリンダが亡くなった3ヶ月後に、心臓発作でこの世を去る。 さてここで、日本での“洋ピン”としての『ディープ・スロート』公開の顛末を、付記しておこう。72年の本国公開時から、その評判だけは本邦にも伝わっていた『ディープ…』を買い付けたのは、東映傘下の配給会社「東映洋画」。しかしながら掛け値無しの“ハードコア”である『ディープ…』は、日本公開しようにも、まともに上映できるのは、61分の上映時間の中の、15分から20分程度に過ぎなかった。 そこで浮かび上がった窮余の策が、『ディープ…』のジェラルド・ダミアーノ監督が、その後に撮った作品を加えて、2部構成にでっち上げること。更には『ディープ…』でカットせざるを得なかった分を、規制に触れないレベルで撮り足して、補填するという荒技だった。 この作業を依頼されたのが、長年ピンク映画を撮り続けてきた、向井寛監督。向井は横顔、頭髪、耳、乳房、足、手、背中などのパーツがリンダに似ている、外国人女性を7人集め、追加撮影を行った。 そうして完成した、“洋ピン”としての『ディープ…』が、日本で公開されたのは、本国より3年遅れの、75年。その興行成績は、配収にして1億5,000万円から1億7,000円ほどだったと言われる。 この作品に施された改変は、極端な例ではある。しかし、“ハードコア”が“洋ピン”と化す時点で、ある意味別物となってしまうことを表す、極めて象徴的なエピソードとも言えるだろう。それでも日本の観客は、“洋ピン”専門館へと押し寄せたのだ。 しかし1980年代後半、画面にモザイクは掛かれど、本番行為有りのAV=アダルトビデオがブームとなると、長年日本のスクリーンを飾ってきた“洋ピン”も、遂には衰退に向かわざるを得なくなる。その命脈が完全に絶たれたのは、今からちょうど30年前。1993年のことであった。■ 『ラヴレース』© 2012 LOVELACE PRODUCTIONS, INC.
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COLUMN/コラム2023.02.24
1973年の大事件を描いた『ゲティ家の身代金』が、2017年を象徴する映画となった経緯
1973年7月、イタリアのローマで起こった、ある少年の誘拐事件は、遠く離れた日本でも、大きなニュースとなった。当時小学3年生だった私も、鮮明に覚えているほどに。 人々の関心を引いたのは、要求された身代金が、1,700万㌦(約50億円)と桁違いだったから?そして、誘拐された少年の祖父が、資産5億㌦(約1,400億円)を誇る石油王だったから? いやいや、それだけではない。この事件が多くの人々を驚かせたのは、「大金持ち」である祖父の、異常としか言いようがない、振舞いだった。 それから44年。その事件を題材に書かれたノンフィクションを映画化したのが、本作『ゲティ家の身代金』(2017)である。 監督を務めたのは、現代の巨匠の1人、リドリー・スコット。クランクイン時の主なキャストは、ミシェル・ウィリアムズにマーク・ウォールバーグ。そして、ケヴィン・スペイシーという、布陣だった…。 ***** ローマの街角で突然拉致された、16歳のジャン・ポール・ゲティ三世。彼を誘拐した者たちの狙いは、三世の祖父で、フォーチュン誌によって「世界初」の億万長者に認定されたアメリカ人石油王、ジャン・ポール・ゲティの資産だった。 三世の母ゲイルは、今は三世の父=ゲティの息子とは離婚している身であったが、身代金は義父だったゲティに頼る他ない。しかしゲティは、莫大な額の要求を、にべもなくはねつける。「応じれば、他の孫も誘拐の標的になる」 シレッと言ってのけるゲティに対して、ゲイルは呆然とする他なかった。 ゲティはその一方で、自分の下で働く元CIAのチェイスを召喚し、誘拐犯との交渉を指示。彼をゲイルの元へと、向かわせた。 調査によって、三世本人による偽装誘拐の疑いも浮上。そんなこともあって、交渉は遅々として進まない。ゲイルの苛立ちは、日々募っていく。 誘拐犯たちにも、焦りが生じる。このままでは埒が明かないと見た彼らは、他の犯罪グループに、三世の身柄を売り渡す。 美術品に大枚を投じても、身代金の要求には一切応じないゲティに、ゲイルの精神は追い詰められていく。そんな彼女に同情したチェイスは、自分の雇い主であるゲティに、反発心を抱くようになる。 犯罪グループは、ゲティらに揺さぶりを掛けるため、遂に非情な手段に乗り出す。ある日彼らから届いた郵便を開けると、そこには切り落とされた、人間の耳が入っていた…。 ***** 屋敷を訪れた者が電話を掛けたいというと、邸内に設けた公衆電話へと案内し、その料金を負担させる。高級ホテルに宿泊中も、ルームサービスは「高い」と忌避。滞在中の洗濯物は自分で洗って、室内に吊るして乾かす…。 映画の中で描かれる、億万長者とはとても思えないような、こうしたゲティの吝嗇ぶり。そのすべてが事実に基づいたものと聞くと、ただただ驚き呆れてしまう。 当初は1,700万㌦を要求されていた、孫の身代金も、その5分の1以下の320万㌦まで値切る。それでも全額を払うことはなく、支払ったのは所得から控除できる最大限度額の220万㌦まで。身代金を、“節税”に使ったわけである。 その上で足りない額は、誘拐された三世の父である、自分の息子に貸し付ける形を取る。4%の利子を付けて…。 ゲティは生涯で5回結婚し、5人の息子を儲けた。愛人も多数いたというが、こんな男である。まともな愛情表現は望むべくもなく、息子たちをはじめその係累には、不幸な人生を歩んだ者が、少なくない。 一体どうして、こうした人物が出来上がってしまったのか?それだけで1本の映画が作れそうな気もするが、監督のリドリー・スコットの関心は、そこにはあまりない。息子の誘拐犯とだけではなく、このモンスターのような義父と対峙せざるを得なかった、ゲイルの“気丈さ”にこそ、スコットは注目する。 出世作『エイリアン』(79)で、シガニ―・ウィーヴァ―演じるリプリーという、強い女性キャラを生み出した。『テルマ&ルイーズ』(91)では、女性2人を主人公にした「90年代のアメリカン・ニューシネマ」を、世に放っている。本作でのゲイルの描き方は、そんなスコットの、面目躍如と言うべきだろう。 ゲイルを演じたミシェル・ウィリアムズは、スコットの期待によく応えてみせた。それに比すれば、元CIAのエージェントを演じたマーク・ウォールバーグは、些か精彩に欠ける。 さて先に本作に関して、クランクイン時のメインキャストは、ウィリアムズにウォールバーグ。そして、ケヴィン・スペイシーだったことを、記した。しかしご覧になればわかる通り、本作にスペイシーの姿は、影も形もない。 2017年5月にスタートした撮影で、当時50代後半だったスペイシーは、特殊メイクを施して、80代のゲティを演じた。撮影は順調に進み、8月末にはすべて終了。あとは12月末の公開に向けて、仕上げを急ぐだけだった。 ところが10月末に、大問題が発生する。かつてケヴィン・スペイシーが、14歳の子役にセクハラを行っていたことが、報道されたのである。これは氷山の一角で、スペイシーに対してはこの後、多くの男性から同様の告発が行われた。 折からハリウッドでは、プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインによる、数多の女優、女性スタッフへの長年の性暴力が発覚。「#MeToo運動」に火が点いたタイミングであった。 11月8日、スコットはスペイシーの出演シーンを、すべてカットすることを決断。同時に、作品の完成を延期や中止することなく、12月末の公開を予定通りに行うことも、決めた。 そこでスペイシーの代役として、クリストファー・プラマーを起用。撮り直しを行うこととなった。 再撮影は11月下旬、僅か10日足らずのスケジュールで行われた。ミシェル・ウィリアムズやマーク・ウォールバーグは、1度スペイシーと共に演じたシーンを、プラマーとやり直すこととなった。一部ロケ映像に関しては、セットで撮影したプラマーの演技を、スペイシー版の映像と合成するという処理を行っている。 プラマーは、役作りに掛ける時間はほとんどなく、また先に撮影したスペイシーの演技を参考にすることもなしに、ゲティを演じた。見事にハマったのは、当時88歳の老名優の実力という他ない。さすが、長いキャリアの中でアカデミー賞、エミー賞、トニー賞の演技三冠を受賞している、数少ない俳優の1人である。 付記すれば本作でプラマーは、アカデミー賞の助演男優賞の候補に選ばれた。受賞は逸したものの、演技部門でのノミネートでは、史上最年長の記録となった。 さてこれで本作に関するトラブルは、無事収拾…と思いきや、公開後に更なる火種が燃え上がった。新たに浮上したのは、ハリウッドに於ける「男女格差」である。 再撮影のため、本作には1,000万㌦の追加経費を投入。しかしプラマー以外の俳優は“再撮影”に関しては、「ただ同然」のギャラで協力したと言われていた。 実際にミシェル・ウィリアムズに支払われたのは、1,000㌦以下。しかしマーク・ウォールバーグに関しては、“再撮影”で新たに150万㌦ものギャラが支払われていたことが、2018年の1月になって判明したのである。 1,500倍もの賃金格差が生じたのは、まさに「差別」に相違なく、「#MeToo」の流れにも連なる。契約を盾に高額ギャラを要求したと言われるウォールバーグには、非難が集中した。 結果的にウォールバーグは、150万㌦全額を、「#MeToo」運動の基金に寄付。後に「自分の配慮が足らなかった」と、反省の弁を述べている。『ゲティ家の身代金』は、総製作費5,000万㌦に対し、全世界での売り上げは5,700万㌦ほどに止まった。興行的には「不発」という他ない成績だが、製作者の意図とは無関係なところで、2017年からのハリウッド=アメリカ映画界の流れを、象徴する作品となってしまったのである。 誘拐を奇貨にして、さらわれた孫の親権まで奪おうと企てる、怪物的な男性ゲティに、一歩も退くことなく立ち向かった、勇敢な女性ゲイル。そうした物語の構図が、本作に襲いかかったアクシデントと、期せずしてダブる部分も、大いにあるようには感じるが。■ 『ゲティ家の身代金』© 2017 ALL THE MONEY US, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2023.03.01
『ゴースト/ニューヨークの幻』を名作にした奇跡のコラボと、日本での歪な愛され方
最も美しい瞬間、眩しいほどの輝きを放っているタイミングを、スクリーンに映し出すことが出来たら、その俳優は幸せだと思う。その上で、その作品がいつまでも人々の間で語り続けられるようなものになったら、まさに役者冥利に尽きるだろう。 本作『ゴースト/ニューヨークの幻』(1990)のヒロインを演じた、デミ・ムーア。彼女にとってこの作品は、正にそんな位置にあるのではないか? 1962年生まれのデミは、『セント・エルモス・ファイア』(85)出演を機に、80年代ハリウッドの青春映画に出演した若手俳優の一団、いわゆる“ブラット・パック”の1人として、注目を集めるようになった。 プライベートでは、『セント…』の共演者エミリオ・エステベスとの婚約破棄を経て、87年にブルース・ウィリスと結婚。翌年には一子をもうけた。 本作の撮影が行われたのは、89年の夏から秋に掛けて。デミが27歳になる前後であるが、私生活の充実も反映してか、最高にキュートに映える。今や40年以上に及ぶ彼女のキャリアを振り返っても、「一生の1本」と言えるだろう。 こうした“タイミング”のデミを得たことも含めて、『ゴースト/ニューヨークの幻』には、「奇跡的」とも言っても良い、幾つかのマッチングが作用。アメリカ映画史、恋愛映画史で語り続けられる作品となったのである。 ***** 舞台はニューヨーク。銀行員のサム(演:パトリック・スウェイジ)と、新進の陶芸家モリー(演:デミ・ムーア)は、同棲を始める。 サムの同僚カールの手伝いで、引っ越しを終え、幸せいっぱいの2人。「愛してる」という言葉に、「同じく」としか返さないサムに、モリーはちょっとした不満を抱くが…。 そんなある日サムは、口座の金の流れに不審な点を見付ける。カールの手助けを断わり、サムはひとりで洗い出しを進める…。 観劇に出掛けたサムとモリー。その帰路で、「結婚したい」とモリーが告げた時に、暴漢が2人に襲いかかる。モリーを守ろうと、サムは抵抗。一発の銃声が響く。 逃げていく暴漢を追うのを諦め、振り返ったサムが目の当たりにしたのは、血まみれになった自分を抱きかかえ、「死なないで」と叫ぶモリーの姿だった。 幽霊になったサム。悲嘆に暮れるモリーには彼の姿は見えず、声も届かない。カールの慰めで、モリーが気晴らしの外出をした際、幽霊のサムしか居ない部屋に、彼を襲った暴漢が忍び込み、家捜しを始める。 怒り狂うサムが、暴漢に殴りかかっても、拳は空を切るばかり。しかし何とか、目的のものが見付からなかったらしい暴漢の後を追って、その居場所を突き止めた。 その近所で、“霊能力者”の看板を見付けたサムは、思わず吸い込まれる。そこの主オダ・メイ(演:ウーピー・ゴールドバーグ)は、インチキ霊媒師。霊の声が聞こえるフリをして、客から金を巻き上げていた。 そんな彼女だったが、なぜかサムの声は本当に聞こえた。嫌がるオダ・メイを脅しながらも、何とか説き伏せ、モリーに危機を伝えるように、協力してもらうことになる。 死して尚モリーを想うサムの気持ちは、彼女に伝わるのか?そして、サムを死に追いやった者の正体とは? ***** パトリック・スウェイジは、87年の全米大ヒット作『ダーティ・ダンシング』で人気を博して以来、主演スターの地位を固めつつあった頃に、本作に主演。タイトルロールである“ゴースト”として、深い悲しみを抱えた、ロマンティックな役どころもイケることを、知らしめた。 “インチキ霊媒”だったのに突如本物の霊能力に目覚めてしまった、オダ・メイ役のウーピー・ゴールドバーグは、稀代のコメディエンヌの実力を発揮。大いに笑わせながらも、幽霊のサムとモリーの“再会”に力を貸すシーンでは、観客の涙を絞るきっかけを作る。彼女にこの年度のアカデミー賞助演女優賞が贈られたのは、至極納得である。 デミ・ムーアを含めた、こうした演じ手たちのアンサンブルも素晴らしかったが、本作に於いて最高の“化学反応”を起こしたのは、脚本家と監督の組み合わせ。脚本家は、ブルース・ジョエル・ルービン、そして監督は、ジェリー・ザッカーである。 ルービンは本作脚本の執筆について、こんなことを語っている。「ある人が自分の感情や感覚が現世から霊の世界へ、つまり新しい別の世界へと移動できることを知り、なんとかそれを脚本の中に活かそうとアイディアをしぼった」 つまりルービンの“死後の世界”への想いは、ガチなのである。彼のフィルモグラフィーを鑑みれば、本作以前に手掛けた『ブレインストーム』(83)『デッドリー・フレンド』(86)から、本作以降の『ジェイコブス・ラダー』(90)『幸せの向う側』(91)『マイ・ライフ』(93)まで、ズラッと“死”にまつわる物語が並ぶ。 そんな「死に取り憑かれた」ルービンの脚本を映画化するに当たって、プロデューサーが起用した監督が、ジェリー・ザッカーだった。その名を聞いたルービンは、驚きと困惑、そして落胆を隠せなかったと言われる。 ザッカーはそれまで、ハリウッドでは「ZAZ(ザッズ)」の一員として知られていた。「ZAZ」とは、兄のデヴィッド・ザッカー、友人のジム・エイブラハムス、そしてジェリーの3人の名字の頭文字を並べての呼称。彼らのチームが作ってきた作品と言えば、『ケンタッキー・フライド・ムービー』(77)『フライング・ハイ』(80)『トップシークレット』(84)『殺したい女』(86)『裸の銃を持つ男』(88)と、コメディばかり。それもそのほとんどがおバカ満載、全編に渡ってパロディギャグを釣瓶打ちする内容の作品だった。 自分の渾身の脚本が、一体どうされてしまうのか?ルービンが不安に襲われたのも、無理はない。しかしこのコラボが、映画を大成功へと導く。 本作は開巻間もなくは、若い男女のラブロマンスが展開する。ところがサムが殺されて幽霊になってからは、サスペンスの色を帯びる。更にその先には、コメディリリーフのようにオダ・メイが登場。ところどころ笑いを交えながらの展開となる。クライマックスに近づくに従って、再びサスペンスの色が濃くなるが、大団円は、純愛ラブストーリーとして昇華する。 こうしたジャンルの横断は、ジェリー・ザッカーが、それまでに培ってきたテクニックを、大いに生かしたものと考えられる。とにかく観客を笑わそうと、シーン毎にギャグを詰め込むのが、「ZAZ」の作風。ザッカーはこの手法を応用し、ルービンの脚本の展開を、一つのジャンルに捉われることなく、ブラッシュアップしていったわけである。 もしも、“シリアス系”の監督が起用されていたら?恐らく本作は、もっと陰々滅々とした、ダークなタッチの作品になっていたであろう。 実はデミ・ムーアが演じるモリーは、当初は彫刻家という設定であった。それを陶芸家へと変えたのも、ザッカーのアイディア。この変更はどう考えても、ストーリー上の必然性とかではない。ずばり、サムとモリーのラブシーンを、効果的に演出するためだったのだろう。 同棲を始めたばかり。眠れない夜に、モリーがろくろを回していると、それに気付いたサムが、上半身裸のまま彼女の後ろに座る。バックに哀切な響きの、ライチャス・ブラザーズの「アンチェインド・メロディー」が流れる中で、2人は手を重ねながらろくろの上の粘土を触っているが、やがて………。 実に、情熱的且つロマンティック。映画関連の雑誌やサイトなどが選ぶ、「映画史に残るキスシーン」で、『地上より永遠に』(53)や『タイタニック』(97)などと共に、度々上位に選ばれているのも、むべなるかな(本作の翌年、ジェリーが脚本で参加している「ZAZ」作品、『裸の銃を持つ男 PART2 1/2』で、早々にこのシーンのパロディをやっているのには、「さすが!」という他なかったが…) 何はともかく、ある意味正反対の資質を持つ脚本家と監督が組んだことによって、奇跡のバランスが生まれ、そこに“旬”のキャストが加わった。こうして本作は、語り継がれる“名作”となったのである。 『ゴースト』は興行的にも、映画史上に残る“スリーパー・ヒット”=予想外の大ヒットとなった。アメリカ公開は、1990年の7月13日。実はこの7月の興行は、本作に先んじて4日に公開されたアクション大作、『ダイ・ハード2』が暫し独走するものと思われていた。ところが『ゴースト』は、公開初週で『ダイ・ハード2』を上回る成績を上げ、TOPに躍り出たのだ。 ブルース・ウィリスの代表的な人気シリーズ第2弾を、その妻であるデミ・ムーアの主演作が抜き去った形である。トータルで見れば、『ダイ・ハード2』も、北米での総興収が1億1,700万㌦、全世界では2億4,000万㌦と、当時としては十分“メガヒット”と言って差し支えない成績だった。しかしながら『ゴースト』は軽くこれを上回り、北米だけで2億1,700万㌦、全世界では5億㌦以上を売り上げたのである。『ダイ・ハード2』の製作費は7,000万㌦だったのに対して、『ゴースト』はその3分の1以下の、2,200万㌦。2011年4月にアメリカの経済ニュース専門局「CNBC」が発表した「利益率の高い映画トップ15」では、堂々の第10位にランクイン!製作費に対するその利益率は、何と1,146%というものだった。 『ゴースト』は、日本でも大ヒットした。配給収入は、37億5,000万円。細かいことは抜きに、これは興行収入ベースだと、60~70億円に達す。 本邦でも、いかに愛される作品となったか、その証左として挙げられるのが、本作の設定をパクった恋愛ドラマが、数多く製作されたこと。例えばフジテレビの「月9」枠で92年に放送された、「君のためにできること」。吉田栄作演じる主人公が自動車事故で死ぬが、自分を轢いた加害者の身体を借りて、恋人の石田ゆり子の前に現れる。ちょっと『天国から来たチャンピオン』(78)風味も入っているが、紛れもなく、本作のエピゴーネンであった。 本作から30年以上経った現在も、こうした流れはまだまだ残っている。今年1月から放送されている、井上真央と佐藤健主演のTBSドラマ「100万回 言えばよかった」。スタート早々からSNSなどで、「これ『ゴースト』じゃん」などと、突っ込みが入りまくっている。『ゴースト』は“ミュージカル化”されて、2011年からロンドン、12年にはブロードウェイでも上演された。実は日本ではそれに先駆けて、2002年に「世界初」の『ゴースト』舞台化が行われている。主演は宝塚出身の愛華みれと沢村一樹。こちらはミュージカルではなく、ストレートプレイであった。『ゴースト』関連で、今年に入って伝わってきたのが、現在チャニング・テイタムが、自らの主演で本作のリメイク企画を進めているとのニュース。それを聞いて思い出したが、実はリメイクも、日本が先行して行っていたという事実だった。 もう覚えている方も少ないと思うが、2010年11月に公開された『ゴースト もういちど抱きしめたい』が、その作品。 こちらは松嶋菜々子と、ソン・スンホンが主演。オリジナルとは男女の役割を逆転し、松嶋が女性実業家で、韓国人の陶芸家スンホンと恋に落ちるも、事件に巻き込まれて命を落としてしまう…。 そんな設定でわかる通り、ろくろを2人で回すラブシーンも、もちろん再現されている。詳細は省くが、色々と無理のある展開からこのシーンになだれ込むのだが、バックには何と、「アンチェインド・メロディー」が…。そしてそのヴォーカルは、…平井堅。マスコミ試写では、“失笑”が起こった。 この日本版リメイク、興収9億円という記録が残っているので、観客はそこそこ集まったわけである。しかしオリジナルと違って、現在ではわざわざ、口の端に上げる者も居まい。 チャニング・テイタムはリメイクに臨むに当たって、わざわざ“陶芸レッスン”を受けながら、雑誌のインタビューに応じたという。ということはやはり、「映画史に残るラブシーン」の再現に。敢えて挑戦することになるのだろうか? テイタムが鑑賞しているとは思えないが、日本版リメイクを「他山の石」として、くれぐれも同じ失敗を繰り返さないことを、願ってやまない。■ 『ゴースト/ニューヨークの幻』™ & Copyright © 2023 Paramount Pictures. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2023.03.13
スコセッシ&デ・ニーロ!コンビの第5作『キング・オブ・コメディ』は、“現代”を予見していた!?
脚本家のポール・D・ジマーマンが、本作『キング・オブ・コメディ』(1983)の着想を得たのは、1970年代のはじめ、あるTV番組からだった。それは、スターやアイドルに殺到するサイン・マニアの恐怖を取り上げたもので、そこに登場したバーブラ・ストライサンドの男性ファンの言動に、ジマーマンはひどくショックを受けたという。 バーブラは、その男に付き纏われることを非常に迷惑がっているのに、彼に言わせれば、「バーブラと仕事をするのは難しい」となる。自分勝手な解釈をして、事実を大きく歪曲してしまうのだ。 前後して、雑誌「エスクワイア」の記事も、ジマーマンを触発した。そこに掲載されたのは、TVのトークショーのホストのセリフを一言一句メモしては、毎回査定を続けている熱狂的ファン。 本来は手が届かない筈の大スターや、TV画面の向こうの存在が、その者たちにとっては、いつの間にか生来の友達のようになってしまっている…。「ニューズウィーク」誌のコラムニストからスタートし、映画評論家を経て脚本家となったジマーマンは、そこに「現代」を見た。そして本作のあらすじを書き、『ある愛の詩』(70)『ゴッドファーザー』(72)などのプロデューサー、ロバート・エヴァンスの元に持ち込んだのである。 このシノプシスを気に入ったエヴァンスは、ミロス・フォアマン監督に声を掛けた。フォアマンはジマーマンの家に寝泊まり。10週間を掛け、2人で脚本を仕上げることとなった。 しかし両者の意見は、途中から嚙み合わなくなる。結局フォアマン主導のものと、ジマーマン好みのものと、2バージョンのシナリオが出来てしまった。 当初はフォアマン版の映画化企画が動いたが、実現に至らず。フォアマンはやがて、このプロジェクトから去った。 そこでジマーマンは、自らの脚本をマーティン・スコセッシへと売り込んだ。スコセッシは一読した際、「内容がもうひとつ理解できなかった」というが、何はともかく、盟友のロバート・デ・ニーロへと転送する。 デ・ニーロはこの脚本を大いに気に入り、すぐに映画化権を買った。そして後に『キング・オブ・コメディ』は、スコセッシ&デ・ニーロのコンビ5作目として、世に放たれることとなる。 ***** ニューヨークに住む30代の男ルパート・パプキン(演:ロバート・デ・ニーロ)は、今日もTV局で出待ちをしていた。彼が憧れるのは、人気司会者でコメディアンのジェリー・ラングフォード(演:ジェリー・ルイス)。 ひょんなことからジェリーの車に同乗することに成功したパプキンは、まるで長年の知己のように、ジェリーに話しかける。そして彼のようなスターになりたいという夢を、とうとうと語った。 そんなパプキンをあしらうため、ジェリーは自分の事務所に電話するよう告げて、居宅へ消えた。パプキンは、スターの座が約束されたように受取り、天にも上る心地となる。 ジェリーに言われた通り、電話を掛け続けるも、梨の礫。そこでパプキンは、アポイントも取らず、事務所へと乗り込む。 しかし、ジェリーには一向に会えない。自分のトークを吹き込んだテープを持参しても、秘書にダメ出しをされ、挙げ句はガードマンに排除されてしまう。 それでもメゲないパプキンは、ジェリーの別荘に、勝手に押しかける。もちろんジェリーは、怒り心頭。パプキンを追い出す。 そこでパプキンは、やはりジェリーの熱狂的な追っかけである女性マーシャ(演:サンドラ・バーンハード)と共謀。白昼堂々、ジェリーを誘拐してマーシャ宅に監禁し、彼を脅迫するのだった。 その要求とは、「俺を“キング・オブ・コメディ”として、TVショーに出せ!」 命の危険を感じたジェリーは、やむなく番組スタッフへと連絡。意気揚々とTV局へ向かうパプキンだが、誇大妄想が昂じた彼の夢は、果して現実のものとなるのか? ***** スコセッシとデ・ニーロのコンビ前作である『レイジング・ブル』(80)は、絶賛を受け、アカデミー賞では8部門にノミネート。作品賞や監督賞こそ逃したものの、実在のボクサーを演じたデ・ニーロは、いわゆる“デ・ニーロ アプローチ”の完成形を見せ、主演男優賞のオスカーを手にした。 それを受けての、本作である。先に記した通り、スコセッシがピンとこなかった脚本を、デ・ニーロが買って、改めてスコセッシの所に持ち込んだ。 デ・ニーロは何よりも、パプキンのキャラを気に入った。その大胆さや厚かましさ、行動理念の単純さを理解し、「この男が愚直なまでに目的に向かって突進するところがいい」と、ジマーマンに語ったという。 そしてデ・ニーロは、スコセッシを説得。遂には、本作の監督を務めることを、決断させた。そして2人で、ジマーマンが書いた脚本のリライトへと臨んだ。 ジマーマンは当初、パプキンには、『虹を掴む男』(47)のダニー・ケイのようなタイプをあてはめ、ファンタジー色が強い映画を作ることを、イメージしていた。ところがスコセッシとデ・ニーロが仕上げてきた脚本では、パプキンの“異常性”が強調され、よりリアルな肌触りを持つ作品となった。 デ・ニーロもスコセッシも、実際に狂信的なファンの被害に遭った経験がある。それが脚本にも、反映されたのだろう。 また80年代はじめは、スターへの関心が、爆発的に高まった頃である。それを最悪の形で象徴する衝撃的な事件が起こったのが、80年12月。ジョン・レノンが、彼の熱狂的ファンであるマーク・チャップマンによって、殺害されてしまう。 本作が本格的に製作に入った81年3月には、スコセッシ&デ・ニーロを直撃するような事件も発生する。彼らの存在を世に知らしめた『タクシードライバー』(76)で、少女娼婦を演じたジョディ・フォスターに恋した、ジョン・ヒンクリーという男が居た。彼は、『タクシー…』のストーリーに影響を受け、時のアメリカ大統領レーガンを狙撃。全世界を震撼とさせる、暗殺未遂事件を起こしたのである。 本作『キング・オブ・コメディ』のような作品が製作されることには、ある意味社会的な必然性があったと言えるだろう。パプキンやマーシャのような“ストーカー”(そんな言葉はこの当時はまだ存在しなかったが…)は、スターたちにとってのみならず、現実社会にとっても、明らかに脅威となる存在だったのだ。 そんな連中のターゲットとなってしまう、ジェリー・ラングフォード役のキャスティング。ジマーマンの当初のイメージは、構想がスタートした70年代初頭にTVやラジオで大活躍だった司会者、ディック・カヴェットだったが、それから10年ほどが経った時点では、誰もがジョニー・カースンを思い浮かべた。 NBCの「ザ・トゥナイト・ショー」の顔であり、アカデミー賞授賞式の司会を何度も務めたジョニーには、実際に出演交渉が行われた。しかし、誘拐事件を実際に引き起こしかねないという恐怖と、TVのトークショーなら1回で撮り終えてしまうのに、1シーンを40回も撮り直さなければならないようなことには耐えられないという理由から、あっさりと断られてしまう。 次なる候補としてスコセッシが思い浮かべたのが、フランク・シナトラやオーソン・ウェルズなどの大物。いわゆる“シナトラ一家=ラット・パック”のメンバーからは、サミー・デイヴィス・Jrやジョーイ・ビショップも候補となった。 そして、“シナトラ一家”には、ディーン・マーティンも居るな~と思った流れから、最終的に絞り込まれたのが、マーティンが“ラット・パック”の一員になる前に、『底抜け』シリーズ(49~56)でコンビを組んでいた、往年の人気コメディアン、ジェリー・ルイスだった。 ジェリーは「この映画では自分はナンバー2だと承知している。君に面倒はかけないし、指示どおりにやってみせよう…」と言って、スコセッシを感激させた。 ジェリーの“ストーカー”マーシャは、当初の脚本では、もっとめそめそしたセンチメンタルな女性だったという。それをスコセッシが、攻撃的で危険な性格へと書き換えた。 デ・ニーロはこの役を、お互いの実力をリスペクトし合っている友人のメリル・ストリープに演じて欲しいと、考えていた。しかしストリープは、脚本を読みスコセッシと話した後で、このオファーを辞退。 オーディションなどを経てマーシャ役は、20代中盤の個性的な顔立ちのスタンダップ・コメディエンヌ、サンドラ・バーンハードのものとなった。サンドラ曰く、当時の自分は「完全にイッちゃってた」とのことで、その生活ぶりは「最低で、デタラメ」で、マーシャに「そっくりだった」という。 スコセッシは本作では、「即興はほとんどやってない」としている。そんな中でも即興の部分を担わせたのが、バーンハードだった。監禁して身動きを取れなくしたジェリーに、色仕掛けで迫るシーンなどで、コメディエンヌとしての芸を、たっぷり披露してもらったという。 パプキンの幼馴染みで、彼が思いを寄せる、現在はバー勤めの女性リタ役には、ダイアン・アボット。アボットは、デ・ニーロの最初の妻で、撮影当時は別居中。オーディションにわざわざ呼ばれて、この役に決まったというが、その裏に作り手側のどんな思惑があったかは、定かではない。 デ・ニーロの役作りは、例によって完璧だった。彼は、コメディアンの独演を何週間も見学。また、ジョン・ベルーシやロビン・ウィリアムズとの友情も、助けになったという。 デ・ニーロは撮影中、ジェリー・ルイスの“完璧な演技”に畏敬の念を抱いた。ルイスも同様で、デ・ニーロの仕事ぶりを評して、「一ショット目で気分が入ってきて、十ショット目になると魔法を見ているようになる。十五ショット目まで来ると、目の前にいるのは天才なんだ…」と語っている。 スコセッシはデ・ニーロと共に、「…主人公をどこまで極端な人物に描くことができるか」に挑戦した。パプキンのような人物を演じて、デ・ニーロが俳優としてどこまで限界を超えられるか、やってみようとしたのだという。その結果についてはスコセッシ曰く、「私の見る限り、あれはデ・ニーロの最高の演技だ…」 脚本のジマーマンは、出来上がった作品について、次のように語っている。「僕はこの映画を生んだのは自分だと思っている。ただ、たしかにこの映画は僕の赤ん坊だが、顔がマーティ(※スコセッシのこと)にそっくりなんだ」。 作り手たちにとっては、満足いく作品に仕上がった。「カンヌ国際映画祭」のオープニング作品にも選ばれ、一部評論家からも、絶賛の声が届けられた。 しかし、『タクシードライバー』でデ・ニーロが演じたトラヴィスの自意識を、更に肥大化させたようなパプキンのキャラは、観客たちには戸惑いを多く与えることとなった。 私が『キング・オブ・コメディ』を初めて鑑賞したのは、日本公開の半年ほど前、1983年の晩秋だった。本作は配給会社によって「芸術祭」にエントリーされており、その特別上映で、いち早く目の当たりにすることができたのだ。 その際、パプキンそしてマーシャの、独りよがりで執拗な振舞いに、まずは圧倒された。それと同時にそのしつこさに、観ている内に、かなり辟易とした記憶がある。 悪夢再び。スコセッシ&デ・ニーロにとっては、コンビ第3作だった『ニューヨーク・ニューヨーク』(77)の如く、2,000万㌦の製作費を掛けた『キング・オブ・コメディ』は、興行的に大コケに終わる。 しかし、それでこの作品の命運が尽きたわけではない。デミアン・チャゼル監督の『ラ・ラ・ランド』(2016)が公開された際、大きな影響を与えた作品として、先に挙げた『ニューヨーク・ニューヨーク』が再注目されたように、本作も製作から36年の歳月を経て、新たにスポットライトが当てられる事態となった。 トッド・フィリップスの『ジョーカー』(19)とホアキン・フェニックスが演じたその主人公の造型が、本作及びルパート・パプキンのキャラクターにインスパイアされたものであることは、一目瞭然。フィリップス監督はご丁寧にも、TVトークショーの司会役にロバート・デ・ニーロを起用して、その影響を敢えて誇示した。 ネット時代、有名スターに対するファンの距離感とそれにまつわるトラブルが、頻繁に問題化するようになった。現代に於いてこの作品は、そうした“加害性”を、いち早く俎上に載せた作品としても、評価できる。 そんな流れもあって、初公開時の大コケぶりを覆すかのように、『キング・オブ・コメディ』は、アメリカ映画の歴史を語る上で、今や無視できない作品となった。 スコセッシ&デ・ニーロ。そうした辺りは、「さすが」としか言いようがない。■ 『キング・オブ・コメディ』© 1982 Embassy International Pictures, N.V. 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