ザ・シネマ なかざわひでゆき
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COLUMN/コラム2018.11.06
‘80年代青春映画ブームの代表作は元祖「ブラット・パック」映画でもあった!〜『セント・エルモス・ファイアー』〜
‘80年代を代表する青春映画の金字塔である。『アウトサイダー』(’83)や『フラッシュダンス』(’83)、『フットルース』(’84)、『すてきな片思い』(’84)の相次ぐ成功によって、徐々に盛り上がっていった’80年代の青春映画ブーム。特に’85~’87年にかけてはその絶頂期で、本作のほかにも『ブレックファスト・クラブ』(’85)や『プリティ・イン・ピンク』(’86)、『フェリスはある朝突然に』(’86)、『ダーティ・ダンシング』(’87)などの青春映画が次々と大ヒットして社会現象となり、それらの作品の多くに出演した若手俳優たちが「ブラット・パック」と呼ばれて持てはやされた。’80年代はまさに青春映画の黄金時代だったのである。 しかし、なぜ’80年代に青春映画ブームが花開いたのか。その理由を考える前に、ハリウッドにおける青春映画の歩みを駆け足で振り返ってみよう。そもそも青春映画のルーツは、「アメリカの恋人」と呼ばれたサイレント映画の清純派スター、メアリー・ピックフォードの時代にまで遡ることが出来る。’30年代にはミッキー・ルーニーが明朗快活な中流階級の少年を演じた「アンディ・ハーディ」シリーズが人気を集めた。しかし、ハリウッドにおいて青春映画が一つのジャンルとして確立されるようになったのは、終戦後の’50年代に入ってからのことだと言えるだろう。 『乱暴者』(’53)でマーロン・ブランドが、『理由なき反抗』(’55)でジェームズ・ディーンが若い反抗世代のヒーローとなり、エルヴィス・プレスリーが主演する一連のロックンロール映画もヒット。中流階級の恵まれた若者たちの青春模様を描いた『避暑地の出来事』(’59)や『ボーイハント』(’60)などの群像ドラマ、フランキー・アヴァロンとアネット・ファニセロが主演した能天気な「ビーチ・パーティ」シリーズなども人気を集めた。その背景として、第二次世界大戦後の好景気によってアメリカ社会全体がかつてない繁栄を享受し、中でも中流階級が豊かになったことでアメリカ史上初めて、ティーンの若者が消費活動の主役に躍り出たことが深く関わっている。映画だけでなくロックンロールやファッションなど、当時はアメリカの若者文化全体が大きく花開いた時代だったのだ。 その後も『卒業』(’67)や『ラスト・ショー』(’71)、『アメリカン・グラフィティ』(’73)、『アニマル・ハウス』(’78)などの青春映画がヒットしたものの、ジャンルとして大きなムーブメントとなることは’80年代までなかった。ではなぜ当時、青春映画がブームと呼ばれるほどの人気を集めたのか。まずは映画業界の仕掛けた戦略効果が理由として挙げられるだろう。若年層の観客開拓に試行錯誤していた彼らは、折から社会現象となっていたMTVに目を付けたのである。レコード会社と提携した各映画スタジオは、若者に人気のポップ・スターの最新ナンバーを主題歌や挿入歌として起用。映画の広告を兼ねたミュージックビデオを大量に流すことで、予告編以上の絶大な宣伝効果を得ることが出来た。もちろん、映画とのタイアップという話題性はアーティスト側にもメリットがある。そのきっかけを作ったのが『フラッシュダンス』だったわけだが、若年層をターゲットにした青春映画とポップ・ミュージックの親和性が高いのは当然だと言えよう。おのずと、各映画スタジオは青春映画の制作に力を入れるようになり、『フットルース』や『ベスト・キッド』(’84)などなど、次々と映画と音楽の相乗効果を狙った青春ものが作られて大ヒットしたわけだ。 さらに、時の大統領ロナルド・レーガンによる経済政策「レーガノミックス」の影響も、少なからずあったように思われる。結果的にアメリカの財政赤字を増大させ国民の経済格差を拡大させた「レーガノミックス」だが、一方で減税や金融緩和によって景気そのものは’83年頃から回復(実態は貧困層がより貧しく、富裕層がより豊かになっただけだが)へと転じた。その中から、高学歴高収入のエリート層「ヤッピー」や、高級ブランドを身に着けてパーティ三昧に興じる西海岸の女性層「ヴァレー・ガール」といった、物質主義・拝金主義的な新人類の若者たちが台頭。もちろん、そんな恵まれた若者は全体の一部に過ぎないわけだが、しかし’80年代アメリカのキラキラと輝く若者文化を牽引した彼らの存在も、当時の青春映画ブームを語るうえで無視することは出来ないだろう。 また、「ブラット・パック」と呼ばれた青春映画スターの存在も大きかったと言えよう。その原点は『アウトサイダー』とされており、同作に出演したマット・ディロンやC・トーマス・ハウエル、ラルフ・マッチオ、ロブ・ロウ、トム・クルーズ、エミリオ・エステベス、ダイアン・レインらが「ブラット・パック」の第一世代として活躍し、そこへさらにアンドリュー・マッカーシーやモリー・リングウォルド、ジャド・ネルソンにデミ・ムーア、ロバート・ダウニー・ジュニア、アンソニー・マイケル・ホールらが加わって勢力(?)を拡大。人気者の彼らを共演させることは観客動員数の伸びにも繋がった。 ちなみに、「ブラット・パック」という呼称が使われたのは『セント・エルモス・ファイアー』が最初。雑誌「ニューヨーク」で本作の特集記事が組まれた際、担当記者のデヴィッド・ブラムが当時の人気若手俳優たちを「ブラット・パック」と総称したのである。ただし、もともとそれは蔑称だった。というのも、ブラム記者から取材を受けたエミリオ・エステベスは、インタビュー後に共演のロブ・ロウらと共に彼を誘って夜遊びに繰り出したらしいのだが、その豪遊ぶりを目の当たりにしたブラム記者は、分不相応の高額ギャラを貰って遊びほうける不埒な若造どもという侮蔑の意味を込めて、記事中で彼らを含む売れっ子青春スターたち全般のことを「ブラット・パック(小僧集団)」と呼んだのだ。ジョエル・シューマカー監督曰く、「明らかに、地味でモテないブラム記者による若者たちへの嫉妬心があった」とのことだが、おかげで彼らはメディアから「ブラット・パック」と呼ばれることを嫌い、やがてお互いにつるんで遊ぶことも避けるようになった。本来とは違うポジティブな意味で「ブラット・パック」の呼称が使われるようになったのは、後々になってからのことである。 そんな「ブラット・パック」映画の本家とも言うべき『セント・エルモス・ファイアー』。主人公はワシントンD.C.近郊の名門ジョージタウン大学(撮影で使用されているのはメリーランド大学のキャンパス)を卒業したばかりの男女7人の若者たちである。アルバイトをしながら弁護士を目指して勉強するカービー(エミリオ・エステベス)、無職で女癖が悪くブラブラしている学生時代の人気者ビリー(ロブ・ロウ)、グループ内で唯一恋人がいない新聞記者ケヴィン(アンドリュー・マッカーシー)、国際銀行に就職したものの金遣いが荒く放蕩三昧のジュールズ(デミ・ムーア)、政治の世界で立身出世を狙う野心家アレック(ジャド・ネルソン)、建築家としてのキャリアのためアレックとの結婚を躊躇するレズリー(アリー・シーディ)、そして福祉局で真面目に働く金持ちのお嬢様ウェンディ(メア・ウィニンガム)。まだまだ学生気分の抜けない彼らが、仕事や恋愛の悩みに直面し、社会の厳しい現実に揉まれながらも、やがて大人としての責任に目覚めていく姿を描く。 タイトルは主人公たちが学生時代からたまり場にしているバー「セントエルモの店」と、船乗りの守護聖人セントエルモの名を冠した「セントエルモの火」に由来する。「セントエルモの火」とは、嵐の時などに船や飛行機の突端で起こる放電現象のこと。古くから船乗りたちが悪天候の際に「セントエルモの火」の光を頼りに前へ進んだという伝承を踏まえ、困難な状況に直面した人間がすがる神頼み的なものの象徴として劇中では説明されている。つまりこれは、新社会人として道に迷ってしまった若者たちが、かすかな希望の光を頼りに手探りで前へ進んでいく物語なのだ。 エリート街道を歩むもキャリアと恋愛や友情の板挟みとなる「ヤッピー」のアレックとレズリー、学生時代の栄光が忘れられず自堕落な日々を送るビリー、東海岸版「ヴァレー・ガール」として消費社会の落とし穴にはまっていくジュールズ、弱者の救済に情熱を捧げつつも富裕層である家族の無理解に苦しむウェンディなどなど、’80年代的な若者のトレンドを全編に散りばめつつ、主人公たちの成長ドラマにアメリカの光と影を映し出していくストーリーは非常に巧みだ。また、長所と短所を併せ持つ人間臭い登場人物たちの描写にも説得力があり、それぞれの迷いと苦悩、そこから導き出される決断にも心動かされるものがある。 中でも個人的に一番好きなキャラクターがウェンディだ。地味で大人しくて控えめだが、グループの中では誰よりも芯が強くてしっかりした女の子。いまだ処女であることを気にしているが、かといってセックスを神聖視しているわけでも嫌悪しているわけでもない。むしろ性に対する価値観は進歩的。ただ、彼女なりに譲れない理由があるのだ。その強い信念は仕事でも一貫しており、恵まれない貧困層を救うため献身的に働くが、それゆえに早く結婚して娘婿に家業を継がせたい父親(マーティン・バルサム)と対立し、性格が優しすぎて親子のすれ違いに胸を痛めてしまう。演じるメア・ウィニンガムの、いかにも純朴そうな個性がまたいいんだよね。完成版本編からカットされてしまったものの、口論の末に父親と和解する未公開シーンは本当に感動的。今回の放送を見て気に入った方には、是非ともブルーレイの特典として収録されている未公開シーン集もチェックして頂きたい。涙なしでは見れませんから。 また、恋愛感情に振り回されて右往左往するカービーの迷走ぶりもムチャクチャ共感できる。たまたま病院で再会した大学の先輩デイル(アンディ・マクドウェル)に片想いを炸裂させるカービー。しかし、相手はモデル級の美女でドクターという高根の花。こちらは法律学校に通う弁護士志望とはいえ、まだ何者でもない一介のアルバイト学生。募る恋心と劣等感が強迫観念をどんどんと増大させていく。彼女の気を引くためにあの手この手を使い、将来の進路までコロコロと変えてしまうのだが、やっていることはまるっきりストーカー。若さゆえに盲目となってしまう恋愛感情の暴走。バカだなあ…と苦笑いするしかないんだけど、その一途な気持ちは痛いほどよく分かる。当初、このカービーのエピソードが「あまりにも情けない」ということで、コロンビア映画の重役から丸ごとカットするよう指示されたらしいのだが、若者ばかりのモニターを集めた試写会で圧倒的に受けたことから指示が撤回されたという。そう、リアルな若者の恋愛は美しいだけじゃない。むしろ情けないことの方が多いんですよ。 劇場公開当時、批評家の大人たちから散々酷評されたものの、主人公たちと同世代の若者からは熱狂的に支持されたというのも、恐らく同じような理由からなのだろう。ジョエル・シューマカー監督と共同で脚本を書いているカール・カーランダーは、当時大学を卒業したばかりのインターンだった。ストーリーの土台そのものはジョージタウン滞在中に監督が思いついたものだが、しかし当事者世代のカーランダーの協力がなければ、これほど等身大に共感できる青春群像劇は成立しなかったはずだ。その感動は今の若者にもきっと伝わると思うし、なにより青春時代の未熟で青臭かった自分をちゃんと覚えている大人世代だって、年齢を問わず感じるものがあるのではないだろうか。 ’80年代青春映画の御多分に漏れず、ロック歌手ジョン・パーの歌うテーマ曲「セント・エルモス・ファイアー」がビルボード・チャートで全米1位を記録する大ヒットとなった本作。主要キャストが出演するミュージックビデオも当時はヘヴィーローテーションされた。また、デヴィッド・フォスターによる「愛のテーマ」も、インストゥルメンタル曲にも関わらず全米チャートで最高15位をマークしたことも印象深い。今だったら考えられない現象だと思うが、当時はそれほど映画音楽の影響力が強かったのだ。 もちろん、「ブラット・パック」の代表的なスターを中心に構成されたキャスト陣のネームバリューも映画のヒットに大きく貢献している。エミリオ・エステベスとロブ・ロウは、『アウトサイダー』から飛び出した「ブラット・パック」第一世代。といっても、本作の撮影時19歳のロブは出演者で最年少だった。現在エミリオは映画監督を本業とし、ロブは『ザ・ホワイトハウス』以降テレビで活躍している。そのエミリオの前作『ブレックファスト・クラブ』で共演していたのがアリー・シーディとジャド・ネルソン。大ヒット作『ウォー・ゲーム』(’83)の実績もあった人気女優アリーが先に決まり、彼女の推薦で起用されたジャドは本作をステップにトップスターとなった。最近では『ビリオネア・ボーイズ・クラブ』(’18)の父親役などで地道に活動しているジャドだが、一方のアリーは『X-MEN: アポカリプス』(’16)の端役を最後に出演作がない。 アンドリュー・マッカーシーもジャドと同様、本作を機に『プリティ・イン・ピンク』や『マネキン』(’87)などで超売れっ子スターに。しかし長続きせず、最近では『ブラックリスト』などテレビドラマの監督として活躍している。メインキャストで唯一「ブラット・パック」とは無縁なのがメア・ウィニンガム。そりゃそうだろう。なにしろ当時の彼女はメンバー最高齢の26歳で、既に2人の子供がいるお母さんだった。女優としてのキャリアも10年近くあり、特にテレビの世界では有名な演技派だった。現在も数々のテレビドラマに出ている。『アメリカン・ホラー・ストーリー:ホテル』の不気味な怪演には驚かされた。そして、本作最大の出世頭はデミ・ムーア。『ゴースト/ニューヨークの幻』(’90)でハリウッドの頂点に上り詰めるのは5年後だ。主人公たちがそれぞれの人生を歩み始めるのと同様、演じるスターたちのその後も様々である。◼️ © 1985 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2018.12.01
違いの分かる大人のための上質なアクション映画『メカニック』
‘70年代のアメリカで吹き荒れたチャールズ・ブロンソン旋風。もともと『荒野の七人』(’60)や『大脱走』(’63)で個性的な脇役として頭角を現し、巨匠セルジオ・レオーネのマカロニ西部劇『ウエスタン』(’68)やアラン・ドロンと共演したフレンチ・ノワール『さらば友よ』(’68)などの国際的な大ヒットで、一足先に日本やヨーロッパでスターダムを駆け上がったブロンソンだったが、しかし肝心の本国アメリカでの人気はいまひとつ盛り上がらなかった。なにしろ、この時期の出演作はどれもヨーロッパ映画ばかり。アメリカ公開までに1~2年のブランクがある作品も多かった。『夜の訪問者』(’70)なんか、全米公開は4年後の’74年。日本で大ヒットした『狼の挽歌』(’70)だって、アメリカの映画館でかかったのは’73年である。それゆえに、外国でブロンソンが受けているとの情報は入っても、そのブーム自体が本国へ逆輸入されるまで少々時間がかかったのだ。 しかし、ニューヨークでロケされたイタリア産マフィア映画『バラキ』(’72)を最後に、ブロンソンはハリウッドへ本格復帰することに。そして、チンピラに愛する家族を殺された中年男の壮絶なリベンジを描いた、マイケル・ウィナー監督の『狼よさらば』(’74)が空前の大ヒットを記録したことで、ようやくアメリカでもブロンソン旋風が頂点に達したというわけだ。そのマイケル・ウィナー監督とは、ハリウッド復帰作『チャトズ・ランド』(’72)以来、通算6本の作品で組んでいるブロンソン。中でも筆者が個人的に最もお気に入りなのが、ブロンソン=ウィナーのコンビ2作目にあたるハードボイルド・アクション『メカニック』(’72)である。 主人公アーサー・ビショップ(チャールズ・ブロンソン)は、とある組織のもとで秘かに働くメカニック。普通、メカニック(Mechanic)といえば「機械工」や「修理工」を意味するが、しかし裏社会においては「プロの殺し屋」を指すらしい。組織から送られてきた資料をもとにターゲットの詳細な個人情報を把握し、その身辺をくまなく調べることで入念な暗殺計画を練り、偶発的な事故に見せかけて相手を確実に仕留めるビショップ。足のつくような証拠は決して残さない。仕事が仕事なだけに、普段から人付き合いはほとんどなし。広々とした大豪邸にたった一人で暮らし、趣味の美術品コレクションを眺め、クラシック音楽のレコードに耳を傾けて余暇を過ごす。決して感情を表には出さず、淡々と殺しの仕事をこなしているが、しかし内面では心的ストレスを募らせているのだろう。精神安定剤と思しき処方薬は欠かせない。それでも心が休まらぬ時は、馴染みの娼婦(ジル・アイアランド)のもとを訪れては恋人を演じさせ、つかの間だけでも偽りの温もりに孤独を紛らわせる。 そんな一匹狼ビショップのもとへ、新たな殺しの依頼が舞い込む。ターゲットはハリー・マッケンナ(キーナン・ウィン)。組織の大物だった亡き父親の部下であり、ビショップがまだ子供だった頃からの付き合いだ。しかし、ビジネスに私情を一切持ち込まない彼は、普段通りに淡々と任務を遂行。何事もなかったかのようにハリーの葬儀にも出席し、そこで彼の一人息子スティーヴ(ジャン=マイケル・ヴィンセント)と知り合う。謎めいたビショップに好奇心を抱き、なにかと口実をもうけて彼に接触して素性を探ろうとするスティーヴ。一方のビショップも、父親の死に動揺する素振りすら見せず、冷酷なまでに合理的で客観的なスティーヴの言動に暗殺者としての素質を見抜き、いつしか自分の弟子として殺しのテクニックと哲学を伝授するようになる。2人はお互いに似た者同士だったのだ。 そこへ次なる仕事の指示があり、ビショップは組織に断りなくスティーヴを同伴させるのだが、弟子の判断ミスで危うく失敗しかけたことから、これを問題視した組織のボス(フランコ・デ・コヴァ)から口頭で注意を受ける。その場で新たな任務を依頼されるビショップ。すぐにターゲットがいるイタリアのナポリへ向かうよう急かされ、怪訝そうな顔をしつつも渋々引き受けた彼は、計画を相談しようとスティーヴの留守宅へ上がりこみ、そこでたまたま自分の暗殺資料を発見してしまう。要するに、組織はビショップの後釜にスティーヴを据え、もはや用済みとなった彼を始末しようとしていたのだ…。 孤独な老練の暗殺者が、育てた若い弟子に命を狙われるという皮肉な筋書きは、同じくマイケル・ウィナー監督がバート・ランカスターとアラン・ドロンの主演で、生き馬の目を抜く国際スパイの非情な世界を描いた次作『スコルピオ』(’73)へと引き継がれる。また、ストイックで寡黙な殺し屋ビショップのキャラクターは、ブロンソンの友人でもあるドロンが『サムライ』(’67)で演じた殺し屋ジェフ・コステロを彷彿とさせるだろう。そういえば、あちらも数少ない他者との接点が美しき娼婦(しかも演じるのは主演スターの妻)だった。なんか、いろいろ繋がっているな。ビショップの仕事ぶりを克明に描いたオープニングは、アメリカでも高い評価を得た加山雄三主演の東宝ニューアクション『狙撃』(’68)と似ている。安ホテルの一室からターゲットの住むアパートの室内を望遠レンズ付きカメラで何枚も撮影し、その写真を並べながら暗殺工作の段取りを計画。ターゲットが留守中に部屋へ忍び込み、予めマークしていた数か所に細工を仕込む。あとは向かいのホテルに潜んでターゲットを監視し、ここぞというタイミングで一気に仕留める。『狙撃』は冒頭7分間でセリフが一言だけだったが、こちらはここまでの15分間で一言のセリフもなし。それでいて、主人公ビショップが何者なのかをきっちりと描いている。実に見事なプロローグだ。 そのビショップと若き後継者スティーヴの奇妙な師弟関係が、本作における最大の見どころであり面白さだと言えよう。組織からの指示があれば、たとえ少年時代から良く知る恩人であろうと、顔色一つ変えず冷静沈着に殺すことの出来るビショップ。別に個人的な恨みなどない。確かに一瞬ギョッとはするものの、しかしあとはプロとして与えられた仕事をこなすだけだ。一方のスティーヴも同様だ。父親が突然死んだって何の感慨もなく、そればかりか葬儀を途中で抜け出し、自分のものになった豪邸に大勢の友達を呼んでパーティを開く。といっても、バカ騒ぎしている友達を眺めているだけ。表面上は知的で社交的で魅力的な人物だが、しかし主観的な良心や感情というものに決して流されず、常に物事を客観的かつ論理的に捉えて合理的に行動する。ある種のサイコパスと言えるかもしれない。それを強く印象付けるのは、恋人ルイーズ(リンダ・リッジウェイ)が自殺未遂を図るシーンだ。恋人とは言え、そう思っているのはルイーズの方だけ。スティーヴにとっては数いる遊び相手の一人に過ぎない。その冷たい扱いに腹を立てた彼女は、呼び出したスティーヴの前で両手首をカミソリで切って見せるのだが、彼はまるで意に介さないばかりか高みの見物を決め込む。死にたいと思って死ぬ人間になぜ同情しなくちゃいけない、君が望みを叶える様子を最後までちゃんと見届けてあげるよ、と言わんばかりに。その場に居合わせたビショップも、ルイーズの体重が110ポンドと聞いて、「だったら3時間以内に死ねるな。まずは悪寒がして、それからだんだんと眠くなるんだ」なんて平然とした顔で解説をはじめ、ルイーズに「あんたも彼と同じで人でなしね」と言われる始末(笑)。ここでビショップは、自分とスティーヴが同類の人間であるとの確信を抱き、やがて彼を自分の後継者として育てることを考え始めるわけだ。 脚本家のルイス・ジョン・カリーノによると、当初の設定ではビショップとスティーヴの関係性に同性愛的なニュアンスがあったという。要するに、恋愛とセックスの駆け引きを絡めた新旧殺し屋同士のパワーゲームが描かれるはずだったようなのだ。だが、やはり時期尚早だったのだろう。主演俳優のキャスティングが二転三転する過程で、同性愛要素がたびたび出演交渉のネックとなり、いつしか脚本から削り取られて行ったらしい。なるほど、それはそれで刺激的かつ興味深い作品に仕上がっていたかもしれない。一方の完成版では、ビショップとスティーヴは疑似親子的な関係性を築いていく。年齢を重ねることで徐々に丸くなり、長年のストレスから肉体的にも精神的にも限界を感じ始めたビショップは、若い頃の自分を連想させるスティーヴに対し、つい親心にも似た感情を抱いたのだろう。その気の緩みが結果的に仇となってしまい、自らを危険な状況へと追い詰めていくことになるわけだ。 余計な説明を極力排したハードボイルドな語り口は、ともすると表層的で分かりづらい作品との印象を与えるかもしれないが、しかし登場人物の何気ない反応や仕草、一見したところ見過ごしてしまいそうなシーンの一つ一つにちゃんと意味があり、自分以外の誰も信用することが出来ない非情な世界に生きる主人公の誇りと美学、孤独と哀しみが浮かび上がる。フレンチ・ノワール…とまでは言わないものの、しかし多分にヨーロッパ的な洗練をまとったマイケル・ウィナー監督の演出が冴える。ナポリへ舞台を移してからの終盤も、いまや師匠と弟子からライバルとなった2人の、抜き差しならぬ共犯関係をスリリングに描いて見事だ。カーチェイスや銃撃戦も見応えあり。呆気なく決着がついたと思いきや…という捻りの効いたラストのオチにもニンマリさせられる。まさに違いの分かる大人のための上質なアクション映画だ。 ちなみに、ご存知の通りジェイソン・ステイサム主演で’11年にリメイクされた本作だが、しかし両者は似て非なる作品だと言えよう。リメイク版では主人公ビショップを観客が「共感」できる親しみやすいキャラクターへと変えたばかりか、あえてオリジナル版では曖昧にされていた背景や設定に説明を加え、スティーヴがビショップに弟子入りする明確な理由を与えてしまったせいで、その他大勢のジェイソン・ステイサム映画と見分けがつかなくなったことは否めないだろう。続編『メカニック:ワールドミッション』(’16)に至っては、まるでジェームズ・ボンド映画のような荒唐無稽ぶり(笑)。それはそれで別にいいのだけれど、あえて『メカニック』を名乗る必要もなかったのではないかとも思えてしまう。まあ、それもある意味、スター映画の宿命みたいなものか。 なお、ビショップの自宅として撮影に使われた豪邸は、ロサンゼルスのウェストハリウッドに実在するが、本作の数年後に全面改修されているため、当時の面影を残しているのは門から玄関までの急な坂道だけだそうだ。また、組織のボスが暮らしている広々とした大豪邸は、サム・ペキンパー監督の『バイオレント・サタデー』(’83)のロケ地にもなった場所で、もともとはハリウッドの大スター、ロバート・テイラーが所有していた。さらに、スティーヴがチキンのデリバリーを装って押し入る邸宅も、ロサンゼルスに隣接するパサデナ市に実在しており、こちらはテレビ版『バットマン』(‘66~’68)のブルース・ウェイン邸の外観として使用されている。▪︎ © 1972 METRO-GOLDWYN-MAYER STUDIOS INC. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2018.12.05
成長著しいハンガリー映画界を象徴するホロコースト映画の傑作『サウルの息子』
ここ数年、ヨーロッパではハンガリー映画が熱い。『サウルの息子』(’15)がカンヌ国際映画祭で審査員特別グランプリに輝き、米アカデミー賞ではハンガリー映画として27年ぶりで外国語映画賞にノミネート、しかも34年ぶりに2度目の受賞という快挙を達成。ハンガリー映画史上最高額の製作費を投じた歴史大作『キンチェム 奇跡の競走馬』(’16)は、国内外で大ヒットを記録して話題になった。また、名匠イニェディ・イルディコー監督が18年ぶりに発表した長編映画『心と体と』(’17)はベルリン国際映画祭の金熊賞を獲得し、米アカデミー賞でも外国語映画賞の候補に。さらに、『ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲』(’14)と『ジュピターズ・ムーン』(’17)で立て続けに各国の映画祭を席巻した鬼才コーネル・ムンドルッツォ監督は、ブラッドリー・クーパーとガル・ガドット主演の『Deeper』(公開未定)でハリウッド進出が予定されている。 そんなハンガリー映画の躍進を象徴する『サウルの息子』。1944年のアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所を舞台に、ゾンダーコマンドと呼ばれたユダヤ人労務部隊の実話を基にしたホロコースト映画の傑作だ。日本ではあまり目にする機会のないハンガリー映画ではあるが、それだけに本作の圧倒的なリアリズムと斬新なカメラワークに驚かされる映画ファンも少なくないことだろう。そういえば、先述した『ジュピターズ・ムーン』で話題となった空中浮遊シーンも、今まで見たことのない画期的な映像体験だった。まさにハリウッドも顔負けのハイレベルな技術力と成熟した表現力。ハンガリー映画、なんだか知らんけど凄くね!?…ということで、まずは現在までに至るハンガリー映画の歩みと背景事情を駆け足で振り返ってみたい。 かつて、ポーランドやチェコと並んで東欧随一の映画大国だったハンガリー。’56年にハンガリー社会主義労働者党書記長に就任したカーダール・ヤーノシュのもと、欧米先進国寄りの比較的自由な政策が採られた同国では、他の東欧諸国に比べて当局の検閲も緩やかだったことや、映画制作システムの大胆な改革のおかげもあって映像産業が急成長。サボー・イシュトバーンやタル・ベーラ、ヤンチョー・ミクローシュ、ゾルタン・ファーブリ、カーロイ・マックといった巨匠たちの作品が世界中の映画祭で高く評価された(残念ながら、その大半が日本では劇場未公開ないし特殊上映のみ)。しかし、’89年の民主化以降は多くの旧社会主義国と同様、資金不足や外国映画との競争にさらされ、往時の勢いと輝きを失ってしまう。 そんなハンガリー映画界にとって大きな転機となったのが、ヨーロッパにおける同国映像産業の競争力を高める目的で’04年に施行された映画法案Ⅱである。これによって、ハンガリー国内でローカルの制作会社と提携して撮影される全ての外国映画およびテレビドラマは、直接的な製作費に対して25%の税制優遇措置を受けられることとなったのだ。おかげで近年は『ダイ・ハード/ラスト・デイ』(’13)や『ワールド・ウォーZ』(’13)、『ヘラクレス』(’14)、『オデッセイ』(’15)、『インフェルノ』(’16)、『ブレードランナー2049』(’17)、『アトミック・ブロンド』(’17)、『レッド・スパロー』(’17)、『ロビン・フッド』(’18・日本公開未定)などなど、数多くのハリウッド映画や英米ドラマがハンガリーで撮影されることに。来年全米公開予定のウィル・スミス主演作『Gemini Man』や『ターミネーター』最新作のロケもブダペストで行われており、今やハンガリーはイギリスに次いでヨーロッパで最も人気のある映画ロケ地となっているのだ。今年の7月には優遇税率が30%へと引き上げられ、法律の有効期間も当初の’19年から’24年へと延ばされることが決定。それだけ成果が出ているということなのだろう。 こうした政府主導による外国映画の撮影誘致が功を奏し、ハンガリーの映像産業全体も経済的に潤っている。なにしろ、昨年だけで4000万ドルもの外貨が落とされて行ったのだから。’07年には同国最大規模の撮影所コルダ・スタジオ(ハンガリー出身の世界的映画製作者アレクサンダー・コルダに因んでいる)がオープン。’12年にはたったの5本だった国産長編映画の年間製作本数も、’17年には22本にまで増えている。だが、外国映画誘致のもたらす恩恵は、なにも経済効果だけに止まらない。 筆者は今年の1月にブダペスト郊外のコルダ・スタジオを訪問し、『アトミック・ブロンド』や『レッド・スパロー』の製作に携わった現地プロダクション、パイオニア・スティルキング・フィルムズの女性プロデューサー、イルディコ・ケメニー氏にインタビューしたのだが、彼女によれば若い人材育成という面でも非常に助かっているという。なにしろ、先述したように国産映画の本数がもともと少ないハンガリー。以前は映画学校を卒業しても、未経験の若者はなかなか仕事にありつけなかったが、外国資本の映画やテレビドラマの企画が大量に流入することで雇用機会も格段に増え、インターンから徐々に経験を積んでいく人材育成システムも確立された。しかも、ハリウッドの最先端技術も実地で学ぶことが出来る。「おかげで、ハンガリー映画のクオリティも全体的に高くなった」とケメニー氏は語っていたが、ここ数年3~5%の割合で増え続けている国産映画の国内観客動員数(昨年は130万人)などは、まさにその証拠と言えるのかもしれない。 ちなみに、ハリウッドの大物撮影監督ヴィルモス・スィグモンドとラズロ・コヴァックスがハンガリー出身(しかも一緒にアメリカへ亡命している)であることは有名だろう。しかし、ハリウッドとハンガリーの繋がりはさらにずっと古く、サイレント時代にまで遡ることが出来る。例えば、20世紀フォックスの前身フォックス・フィルム・コーポレーションの創業者ウィリアム・フォックス(本名ヴィルモス・フックス)、パラマウント映画の創業者アドルフ・ズーカーは共にハンガリー系移民。ほかにも『カサブランカ』(’42)で有名なマーケル・カーティス監督(本名ケルテース・ミハーイ)や『スタア誕生』(’54)のジョージ・キューカー監督、『巴里のアメリカ人』(’51)の撮影監督ジョン・オルトン(本名ヨハン・ヤコブ・アルトマン)、特撮映画の神様ジョージ・パル、作曲家のミクロス・ローザにマックス・スタイナーと、多くのハンガリー系移民がハリウッド黄金期を支えたのである。そして、その大半がユダヤ人であったことも忘れてはなるまい。 ヨーロッパ最大のシナゴーグがブダペストに存在することからも分かるように、古くから大勢のユダヤ人が暮らしていたハンガリー。第二次世界大戦ではナチス・ドイツの同盟国として少なからぬ戦争犯罪に加担したわけだが、とりわけ’44年3月に悪名高きナチス親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンがブダペストへ派遣されると、それまで積極的ではなかったハンガリー国内のユダヤ人迫害も本格化。最も多い時期には一日12000人ものユダヤ人がアウシュビッツへ送り込まれ、ジェノサイド(大量虐殺)の犠牲になったという。次から次へと列車で運ばれて来るユダヤ人をガス室送りにするわけだが、しかしナチス兵士だけでは現場の手が足りない。そこで死体処理や掃除などの雑務を任されたのが、ナチスによって強制的に選ばれた同胞ユダヤ人の労務部隊ゾンダーコマンドだったのである。 当時のナチスはユダヤ人の大量虐殺を秘密にしていたため、事実を知るゾンダーコマンドは他の労務に就く囚人たちとは隔離されて生活し、3~4か月ごとにメンバーの入れ替えがなされていた。つまり、古い囚人をガス室送りにして、新しく到着した囚人を補填したのだ。そうした中、アウシュビッツのゾンダーコマンドの数名が筆記用具やカメラを手に入れ、命がけで自分たちの仕事や収容所内の日常を書き記し、数枚の証拠写真も撮影していた。後世の人々へ真実を伝えるためだ。それを彼らは地中に埋めて隠し、戦後になって掘り起こされたことから、ゾンダーコマンドの実態が明らかとなった。ナチスはホロコーストの証拠を徹底的に隠滅したし、僅かに生存した元ゾンダーコマンドのメンバーも、強要されたとはいえ己の行いを恥じて証言しようとしなかったのだ。 そんな、ヨーロッパおよびハンガリーの歴史の恥部に肉迫する『サウルの息子』。アウシュビッツで実際に起きたゾンダーコマンドの反乱が登場することから推測するに、映画の設定は1944年10月6日から7日にかけてと思われる。ただし、ストーリーはあくまでも史実を背景にしたフィクションだ。主人公はゾンダーコマンドの一人であるユダヤ系ハンガリー人サウル(ルーリグ・ゲーザ)。反乱計画の準備が秘密裏に着々と進む中、彼はガス室で生き残った少年を発見するものの、すぐナチスによって息の根を止められてしまう。ところが、その少年を自分の息子だと主張するサウルは、解剖に回された死体をこっそり盗みだし、なんとかしてユダヤ教の正式な教義に則って埋葬しようと奔走する。 自分ばかりか仲間の命まで危険に晒し、狂気に取り憑かれたかのごとく、少年の死体を埋葬しようと猪突猛進するサウル。反乱計画なんてほとんど上の空だし、必要とあれば嘘や脅迫だって厭わない。その身勝手な行動にイラつく観客も少なくないだろう。何がそこまで彼を突き動かすのか。一つのヒントとなるのは、彼がユダヤ式の埋葬にこだわる点だ。収容所では骨が灰になるまで焼き尽くされ、川へと投げ捨てられてしまう。だが、キリスト教と同様にユダヤ教も、審判の日に死者が復活すると考えられており、その際に必要となる元の体を残すために土葬される。つまり、焼却炉で焼かれてしまったら復活できないのだ。 もしかすると、この世の地獄とも呼ぶべき状況で絶望の淵へ追いやられていたサウルは、毒ガス・シャワーを生き延びた少年の生命力に希望を見出し、根絶やしにされようとしているユダヤ民族の未来を少年の復活に賭けようとしたのかもしれない。そうすれば、この収容所で起きた悲劇も人類の記憶に残ることだろう。ある意味、手記や写真で記録を残した仲間たちと、手段こそ違えども同じことをしようとしていたのではないか。サウルにとって息子とは、すなわち未来へと繋がれる希望。そう考えると、少年が本当に彼の息子なのかどうか分からないという曖昧な設定も、ラストに彼が見せる晴れやかな笑顔の意味も、わりとすんなり納得できるように思える。 有名な映画監督アンドラース・イェレシュを父親に持ち、ニューヨーク大学で映画演出を学んだネメシュ・ラースロー監督は、本作が長編映画デビュー。4×3の狭いフレームサイズでカメラが終始主人公に密着して移動し、一か所にピントを合わせることでサウルの主観的視点を客観的に再現する。つまり、彼があえて目を背けているもの(殺戮風景や死体の山など)はハッキリと映らない。この斬新な演出のアイディアは目から鱗だし、細部まで徹底して計算されたカメラワークにも息を呑む。まるでアウシュビッツを疑似体験するようなリアリズムが圧巻だ。忌まわしい過去のホロコーストの歴史を、ハンガリーを含めた世界中で民族問題が噴出する今、最先端の映像テクニックを駆使して描く。復興著しい21世紀のハンガリー映画を代表するに相応しい作品と言えるだろう。◾︎ ©2015 Laokoon Filmgroup
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COLUMN/コラム2018.12.29
反ナチスに身を捧げた女性闘士ジュリアは本当に存在したのか、それとも…!?『ジュリア』
「反骨の劇作家」とも呼ばれたアメリカの女流劇作家リリアン・ヘルマン。’30年代に『子供の時間』や『子狐たち』といったブロードウェイの舞台戯曲を大ヒットさせて有名人となり、『ラインの監視』(’40)や『逃亡地帯』(’66)など映画の脚本家としても活躍。『子供の時間』は『噂の二人』(’61)として、『子狐たち』は『偽りの花園』(’42)として映画化もされた。そんな彼女の名声を一層のこと高めたのが、1952年5月21日に開かれた下院非米活動委員会の公聴会で読み上げた声明文だ。 第二次世界大戦前の一時期アメリカ共産党に加入し、ソビエトのスターリン政権を強く支持していたリリアン。長年のパートナーであるミステリ作家ダシール・ハメットも共産党員で、労働者運動や公民権運動の熱心な活動家だった。なので、おのずと赤狩りの時代になると反米的な要注意人物としてマークされ、下院非米活動委員会の公聴会へ呼び出されることとなる。友人・知人の共産主義者を告発しろというのだ。しかし、リリアンはこれを断固として拒否。「たとえ自分を守るためでも友人を売り渡すことは出来ない」「社会の風潮に迎合して良心を捨てることは出来ない」との声明文を読み上げたのだ。その結果、ハリウッドのブラックリスト入りし、しばらく映画界での仕事を出来なかったリリアンだが、一方でその高潔で勇気ある行動により、多くの人々から尊敬を集めることとなった。まあ、そもそも彼女の主戦場はブロードウェイの演劇界であるため、ハリウッド映画界のブラックリスト入りはさほど大きなダメージでもなかったのだが。 そんな女傑リリアンは、生涯で3冊の自伝本を出版している。『未完の女』(‘69年刊)、『ペンティメント(邦題:ジュリア)』(‘73年刊)、そして『眠れない時代』(’76年刊)だ。その中の『ペンティメント』は、リリアンが自らの人生で出会った様々な人々についての想い出を綴った短編集。そこに登場したリリアンの幼馴染とされる女性ジュリアのエピソードを映画化したのが、巨匠フレッド・ジネマン監督のアカデミー賞3部門受賞作『ジュリア』(‘77)だった。ここであえて「とされる」と表現したことの意味は、後ほど詳しく説明させて頂こう。 物語の舞台は1930年代。同居する恋人ハメット(ジェイソン・ロバーズ)の勧めで戯曲を書き始めたリリアン(ジェーン・フォンダ)だが、スランプに陥って執筆がなかなか進まなかった(当時のリリアンは映画会社MGMで、映画化候補の小説や文学のあらすじを要約する仕事をしていた)。そんな彼女が思い出すのは、幼なじみの大親友ジュリア(ヴァネッサ・レッドグレーヴ)のこと。大富豪の令嬢として生まれ育ったジュリアは、少女時代から聡明で知的で意志が強く、引っ込み思案なリリアンにとって憧れの女性像そのものだった。 長じてイギリスのオックスフォード大学で医学生となったジュリアは、労働者の人権や貧困などの社会問題に強い関心を持つようになり、やがてフロイトに学ぶためウィーンの医大へ転入すると反ナチスの地下運動に傾倒していく。一方、ハメットの勧めで作品を仕上げるためパリへ赴いたリリアンは、そこでジュリアの医大がナチスに襲撃されて多数の死傷者が出たとの報道を知り、急いでウィーンへと駆け付ける。そこで彼女が見たのは、大怪我をして病院のベッドに横たわるジュリアの姿。ところが、すぐにジュリアは手術のため病院から移送され、そのままプッツリと消息を絶ってしまった。 その後、戯曲『子供の時間』の大ヒットで一躍有名人となったリリアンは、モスクワで開催される演劇祭へ招待され、パリからウィーン経由でソビエト入りすることとなる。ところが、パリのホテルでジュリアの同志ヨハン(マクシミリアン・シェル)がリリアンに接触し、経由地をウィーンではなくベルリンに変更して欲しいと申し出る。反ナチ組織の活動資金5万ドルをベルリンにいるジュリアへ届けるためだ。ユダヤ人であるリリアンにとって必ずしも安全とは言えないが、しかし彼女は最愛の親友のため、意を決して運び屋役を引き受けることにする。かくして、厳しい監視体制の敷かれたナチス支配下のベルリンへと夜行列車で向かうリリアンだったが…。 年老いたリリアンの回想形式で描かれる、リリアンとジュリアの瑞々しくも切なく哀しい友情ドラマ、そして激動する戦前ヨーロッパを舞台にした緊迫のサスペンス。リリアン役のジェーン・フォンダは、最初の夫ロジェ・ヴァディムとの間に出来た長女にヴァネッサと名付けるほど、ジュリア役のヴァネッサ・レッドグレーヴに憧れて崇拝していたらしく、それがそのまま劇中のリリアンとジュリアの関係に重ね合わせることが出来て興味深い。ハメット役ジェイソン・ロバーズの渋い枯れた味わいも素晴らしいし、フレッド・ジンマン監督の折り目正しい演出にも風格がある。リリアンの軽薄な友人アン・マリー役のメリル・ストリープ、少女時代のジュリア役リサ・ペリカンと、これが映画デビューだった女優2人も印象深い。しかし何よりも、マッカーシズムに対抗した女性闘士リリアン・ヘルマンが、活動家の友人のためとはいえ、実は反ナチ活動にも貢献していたというエピソードは少なからぬ驚きであろう。
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COLUMN/コラム2019.01.01
フロイト的解釈で、良心とセックスを描く『昼顔』。ブニュエル監督曰く、その難解なオチの意味とは!?
スペインを代表する巨匠ルイス・ブニュエル。盟友サルヴァドール・ダリと組んだシュールリアリズム映画の傑作『アンダルシアの犬』(’29)で監督デビューし、社会リアリズム的な『忘れられた人々』(’50)から文芸ドラマ『嵐が丘』(’53)、冒険活劇『ロビンソン漂流記』(’54)、そして『皆殺しの天使』(’62)や『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(’72)のような不条理劇に至るまで、幅広いジャンルの映画を世に送り出したが、その中でも最も興行的な成功を収めたのが、第28回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を獲得した『昼顔』(’67)である。 原作はフランスの作家ジョゼフ・ケッセルが1928年に発表した同名小説。当時、長年住み慣れたメキシコを離れ、『小間使いの日記』(’63)を機にフランスへ拠点を移していたブニュエルは、『太陽がいっぱい』(’60)や『エヴァの匂い』(’62)で知られる製作者コンビ、アキム兄弟から本作の映画化を打診される。既に何人もの監督に断られた企画だったらしく、ブニュエル自身も全く気に入らなかったらしいのだが、むしろそれゆえ「自分の苦手な作品を好みの作品に仕上げる」ことに興味を惹かれて引き受けることにしたのだそうだ。 そこで、ブニュエルは『小間使いの日記』で既に組んでいた新進気鋭の脚本家ジャン=クロード・カリエールに共同脚本を依頼する。当時、ルイ・マル監督作『パリの大泥棒』(’66)の撮影でサントロペに滞在していたカリエールは、ブニュエルから「『昼顔』の映画化に興味はないか」との電話連絡を受けて、「あんな下らない凡作を映画にするんですか?」と違う意味で驚いたらしい(笑)。しかし、「原作にフロイト的な解釈を加えて、良心とセックスの関係性を描く」というブニュエルのコンセプトに関心を持ち、協力することを承諾したという。 主人公はパリに住むブルジョワ階級の人妻セヴリーヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ)。医者である夫ピエール(ジャン・ソレル)を心から愛している彼女だが、この仲睦まじい夫婦は重大な問題を抱えていた。セヴリーヌがいわゆる不感症で、夜の性生活が皆無に等しかったのである。そんなある日、女友達ルネ(マーシャ・メリル)から共通の知人が陰で売春をしているとの噂を耳にして関心を持ったセヴリーヌは、夫の親友ユッソン(ミシェル・ピッコリ)に場所を教えてもらった売春宿を訪れる。そして、マダムのアナイス(ジュヌヴィエーヴ・パージェ)から「昼顔」という源氏名を与えられ、午後の2時から5時までという条件で働くことになるのだった。 舞台を制作当時の現代へ移しているものの、基本的なプロットは原作とほぼ同じ。しかし、ブニュエルはそこへフロイト的な精神分析学の要素を加える。どういうことかというと、主人公セヴリーヌの深層心理を表すドリーム・シークエンスを随所に挿入しているのだ。それはいきなりストーリーの冒頭から描かれる。馬車に乗ったセヴリーヌとピエール。妻の不感症を責めるピエールは、2人の御者に命じてセヴリーヌを馬車から引きずり降ろし、激しく鞭で打ったうえにレイプさせる。夫の許しを請い抵抗しつつも、しまいには恍惚の表情を浮かべるセヴリーヌ。次の瞬間、シーンは寝室で語らう夫婦の様子へと切り替わり、以上がセヴリーヌの妄想であったことに観客は気付く。ここでハッキリと示されるのは、夫の性的な期待に応えられないことに対するセヴリーヌの罪悪感と、本当は強引に組み伏せられて凌辱されたいというマゾヒスティックな彼女の性的願望だ。 これはある意味、セックスの不条理を描いた作品といえるだろう。心では紳士的で優しい夫ピエールを愛するセヴリーヌだが、しかし彼女の体は暴力的で屈辱的な快楽を求めており、それゆえに温厚なピエールが相手では決して満たされることがない。しかも、彼女は自分のそうした淫らな欲望(ひいてはセックスそのもの)を「汚らわしい」ものと恥じており、こんな私はピエールの妻として失格だと考えているふしがある。彼を受け入れたら私の本性がバレてしまうかもしれない。だからこそ、夜の営みを拒絶してしまうのだ。 でも他の女性はどうなのだろう?みんなはどんなセックスをしているのか?そんな折、自分と身近なブルジョワ女性が売春をしているとの噂を耳にして、彼女はいてもたってもいられなくなる。しばしば、セヴリーヌがアナイスの売春宿で働き始めたのは、不感症を克服して夫の期待に応えるためと解釈されるが、それはちょっと違うのではないだろうか。まあ、結果的にそうなることは確かなのだが、むしろ己の不条理な性的欲望の正体を確かめるための探求心が原動力だったのではないかと思うのだ。 と同時に、本作は「女性の性」にまつわる「神話」を破壊するものでもある。ピエールはセヴリーヌに決してセックスを強要しない。拒絶されるたびに我慢して受け入れる。それはそれで良識的な行動であることは間違いないのだが、恐らくその根底には自分の愛する女性は純粋であって欲しい、貞淑な良妻賢母であって欲しいという願望があることは間違いないだろう。彼女に秘めたる欲望があるとは想像もしていない。つまり、セヴリーヌを勝手に美化しているのである。これは多かれ少なかれ男性が陥る罠みたいなものだ。彼が本来すべきは、何が問題なのかを彼女と話し合って解決していく姿勢なのだが、「男性と同じく女性にも性的欲求がある」という認識が欠如しているため、なかなかそこまで至らない。そういう意味では、セヴリーヌ自身も道徳的な「女性神話」に縛られている。だから自分の願望を口にすることが出来ず、愛しあいながらも夫婦の溝が深まってしまうのだ。 かくして、昼間は不特定多数の男を相手にする売春婦、夜は貞淑なブルジョワ妻という二重生活を送ることになるセヴリーヌ。最初のうちこそ強い抵抗感を覚えていたものの、様々な変わった性癖を持つ男性客や自由奔放な同僚女性たちと接するうち、次第に淫らな性の快楽を受け入れていく。女性に凌辱されて悶える中年男を見て「おぞましい」と言っていたくせに、大柄な東洋人男性から乱暴に扱われて恍惚の表情を浮かべるセヴリーヌ。それはさながら「女性神話」の呪縛からの解放であり、「私は決しておかしいわけじゃない」と彼女が己のマゾヒスティックな性欲を肯定した瞬間だ。そうやって徐々に自信を強めるに従って、それまでどこか他者に対して冷たかった彼女の態度は明らかに柔和となり、ピエールとの夫婦関係も格段に改善していく。ある意味、ようやく自分の人生を取り戻したのだ。 面白いのは、セヴリーヌがそうやって自信を付けていく過程で、現実と妄想の境界線もどんどんと曖昧になっていく点だ。例えば、カフェでお茶をしていたセヴリーヌが謎めいた貴族男性(ジョルジュ・マルシャル)に誘われ、彼の豪邸で喪服(といっても全裸にシースルー)に着替えて死んだ娘を演じるというシーンなどは、現実に起きたことともセヴリーヌの白日夢とも受け取れる。これはブニュエル自身があえて狙った演出だ。そもそも、セヴリーヌにとって貞淑な妻でいなくてはならない現実は悪夢みたいなもの。むしろ、己の性的願望を投影した妄想の世界こそが彼女にとってのリアルだ。なので、自己肯定を強めていくに従い、その境界線が曖昧になっていくのは必然とも言えるだろう。 ところが、やがてセヴリーヌにとって想定外の事態が起きる。横柄で乱暴なチンピラ、マルセル(ピエール・クレマンティ)との出会いだ。兄貴分のイポリート(フランシスコ・ラバル)に誘われ売春宿を訪れたマルセルは一目でセヴリーヌを気に入り、彼女もまた激しく暴力的に抱いてくれるマルセルの肉体に溺れる。といっても、もちろん愛しているわけじゃない。セックスの相性が抜群なのだ。しかし、単細胞なマルセルは勘違いしてしまう。次第にストーカーと化し、足を洗ったセヴリーヌの自宅を突き止めて押し入るマルセル。その結果、夫ピエールはマルセルに銃撃され、その後遺症で全身が麻痺してしまう。 この終盤のベタベタにメロドラマチックな展開も原作とほぼ同様。恐らく、原作を読んだブニュエルが「まるでソープオペラだ」と揶揄していた部分と思われる。だからなのだろう、最後の最後に彼は冗談なのか真面目なのか分からないオチを用意し、観客を大いに戸惑わせる。これもまたセヴリーヌの妄想なのか?それとも、ここへたどり着くまでの全てが彼女の思い描いた夢物語だったのか?見る人によって様々な解釈の出来るラストだが、ある種の爽快感すら覚えるシュールな幕引きは、本作が女性の魂の解放をテーマにした不条理劇であることを伺わせる。シュールリアリストたるブニュエルの面目躍如といったところだろう。 ちなみに、劇中で東洋人男性(日本人とも受け取れる描写があるものの、脚本家カリエールは中国人だと言っている)が、売春婦たちに見せて回るブンブンと音が鳴る箱。あの中身が何なのか?と疑問に思う観客も多いことだろう。中身を見たマチルダ(マリア・ラトゥール)は嫌な顔をして目を背けるが、しかしセヴリーヌは興味深げにのぞき込む。観客には一切見せてくれない。実はブニュエルもカリエールも、あの中身については全く考えていなかったらしく、見る者の想像に任せるとのこと。そういえば、ブニュエルは本作のラストについても「自分でもよく意味が分からない」と言っていたそうだ。なんとも人を食っている(笑)。 また、本作は主演のカトリーヌ・ドヌーヴとブニュエルの折り合いが悪かったとも伝えられているが、カリエールによると実際に険悪なムードになったことはあったそうだ。そもそもの発端は、撮影が始まって2~3日目に、ドヌーヴと夫役ジャン・ソレルが脚本のセリフに異議を唱えたこと。ちょっとセリフが陳腐じゃないか?と感じた2人は、自分たちで書き直したセリフを現場に持ち込んでブニュエルに変更を申し出たのだ。それを読んだブニュエルは、その場でにべもなく提案を却下。ドヌーヴとソレルは納得がいかない様子だったらしい。だからなのか、ドヌーヴは全裸でベッドに座って振り返るシーンの撮影で脱ぐことを断固として拒否。これにはブニュエルも激しく怒り、ドヌーヴがショックで気を失うほど怒鳴り散らしたという。結局、その日の撮影はそのまま中止に。しかし、翌日ドヌーヴはちゃんとセットに現れ、言い過ぎたことを反省したブニュエルがさりげなく声をかけると、それ以降は監督の指示に素直に従うようになり、撮影が終わる頃には強い信頼関係で結ばれていたそうだ。 なお、本作はドヌーヴをはじめとする女優陣がとにかく魅力的だ。セヴリーヌの女友達ルネには、『サスペリアPART2』(’75)の霊媒師ヘルガ・ウルマン役でもお馴染みのマーシャ・メリル、売春宿の女将アナイスには『エル・シド』(’61)などハリウッド映画でも活躍した名女優ジュヌヴィエーヴ・パージェ、気の強い売春婦シャルロット役には『マダム・クロード』(’77)で高級売春組織の元締マダム・クロードを演じたフランソワーズ・ファビアン。豪華な美女たちを眺めているだけでも楽しい。■ © Investing Establishment/Plaza Production International/Comstock Group
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COLUMN/コラム2019.02.03
ハリウッド版ヒロイック・ファンタジーの金字塔が映画界に与えた影響とは!? 『コナン・ザ・グレート』
ボディビル界の伝説的スーパースター、アーノルド・シュワルツェネッガーを、一躍ハリウッド映画界のトップスターへと押し上げたジョン・ミリアス監督のアクション映画『コナン・ザ・グレート』(’82)。欧米では古くから「Sword and Sorcery(剣と魔術)」と呼ばれて親しまれたヒロイック・ファンタジーのジャンルを復活させ、超人的なマッスル・ボディを持つ新たなアクション俳優像を打ち立てた本作の制作秘話と、当時の映画界に与えた知られざる影響を振り返ってみたい。 ご存知の方も多いとは思うが、『コナン・ザ・グレート』の原作は、アメリカのパルプ・フィクション作家ロバート・E・ハワードが書いたヒロイック・ファンタジー小説『英雄コナン』シリーズである。そもそも、「Sword and Sorcery」という言葉自体が、『英雄コナン』シリーズに代表されるハワード作品群を形容するために生まれたものだ。魔法や怪物が存在した古代ハイボリア時代を舞台に、筋骨隆々の大男コナンが世界を股にかけた大冒険を繰り広げる。’32年に有名なパルプ雑誌「ウィアード・テールズ」に掲載された1作目が大評判となり、以降『英雄コナン』シリーズは全18作を数える人気小説となった。 ’36年に30歳の若さでハワードは死去したものの、その後に出版された未発表作や番外編、ハワードの遺したシノプシスを基に他者が仕上げた作品などを含めると、オフィシャルなシリーズは合計で28作に及ぶ。また、H・P・ラヴクラフトの「クトゥフル神話」よろしく、ハワードに影響を受けた他の作家による非公式シリーズ作も多数存在する。それらをひっくるめて、これまでに数多くのコナン作品集が編纂されてきたが、中でも’60年代末から’70年代にかけて出版されたランサー社およびエース社のペーパーバック版では、人気ファンタジー画家フランク・フラゼッタの描いた表紙イラストが話題を呼び、超人的に筋肉の発達した屈強なバーバリアン(野蛮人)、コナンのイメージを決定づけた。そして、このフラゼッタによるイラストこそが、映画『コナン・ザ・グレート』の原点となったのだ。 ‘76年のある日、友人エドワード・サマーと一緒に映画『鋼鉄の男(パンピング・アイアン)』(’77)のラフカット版試写へ招かれたプロデューサーのエドワード・R・プレスマンは、スクリーンに映ったボディビルダー、アーノルド・シュワルツェネッガーの存在感にスターの可能性を直感し、「彼で映画を撮るならどんな役がいいだろう?」とサマーに訊ねたところ、すぐさま「そりゃもちろんコナンだよ」との答えが返ってきた。当時『英雄コナン』シリーズを知らなかったプレスマンは、サマーから作品の説明を受けながらフラゼッタのイラストを見せてもらい、なるほど、確かにイメージにピッタリ合うと納得。これをきっかけにプレスマンは『英雄コナン』の映画化権を購入し、シュワルツェネッガーにも出演依頼を打診したものの、実際に撮影へ漕ぎ着けるまでには長い時間がかかってしまった。 当初の脚本を書いたのは、企画の立役者サマーとマーベル・コミックのライターだったロイ・トーマス。マーベルは『英雄コナン』シリーズのコミック版を出していたからだ。しかし、大作映画に相応しい有名脚本家を求めるスタジオの要請を汲んで、当時『ミッドナイト・エクスプレス』(’78)でオスカーに輝いたオリヴァー・ストーンが加わり、最終的にストーンの書いた脚本が採用される。しかし、4~5万ものミュータントの大群が戦う彼の脚本は、そのまま映画化することは現実的に不可能だった。さらに、肝心の監督探しも難航。アラン・パーカーやリドリー・スコットに次々と断られて途方に暮れていたところ、プレスマンと共同製作することになったイタリアの大物製作者ディノ・デ・ラウレンティスがジョン・ミリアスに白羽の矢を立てる。当時、ミリアスはラウレンティスと監督契約を結んでいたのだが、なによりも脚本家出身のミリアスなら演出だけでなく脚本のリライトも任せられることが決め手だった。まさに一石二鳥ですな(笑)。 『ダーティ・ハリー』(’71)シリーズの脚本で名を成し、「映画監督よりも将軍になりたかった」と公言する映画界の武闘派ミリアスと、ボディビルやボクシングにのめり込んだマッチョな小説家ロバート・E・ハワードによるヒロイック・ファンタジーは、ある意味で理想の組み合わせだったとも言えよう。ただし、ミリアスは原作者ハワードとはちょっと違ったアプローチを試みる。ストーリーからファンタジーの要素をなるべく排除し、セットや衣装のデザインに正確な時代考証に基づいた古代文明の要素を盛り込むことで、あたかもコナンが太古の世界に実在した人物であるかのような、歴史絵巻的なアクション大作として仕上げたのである。 舞台はアトランティス大陸が沈んでからアーリア人が勃興するまでの間の時代。ということは、少なくとも紀元前2千年紀(日本で言うと縄文時代後期)よりも以前の話ということか。幼少期に両親を殺され奴隷となったキンメリア人コナン(アーノルド・シュワルツェネッガー)は、長じて筋骨隆々の最強グラディエーターへと成長し、冒険の旅の途中で知り合った仲間と共に、親の仇である邪教の王タルサ(ジェームズ・アール・ジョーンズ)に立ち向かう。 この邪教というのが蛇を崇拝する古代宗教で、その神殿ではモンスターのように巨大な蛇に生贄を捧げ、タルサ大王自身も蛇に変身することが出来る。旅の途中では美しくも妖艶な魔女とも遭遇。『狼男アメリカン』(’81)の特殊メイクを模倣したタルサ大王の変身シーンや、実物大のメカニカルモデルを使用した大蛇との格闘シーンなど、ファンタジー的な見せ場も用意されているが、しかしあくまでもメインは、ミリアス監督が大好きな黒澤明監督作品などの日本映画に影響を受けた(「耳なし芳一」にインスパイアされたシーンもある)チャンバラ合戦的な肉弾アクションだ。1500人のエキストラを動員した巨大寺院シーンのスペクタクルも壮観である。 かくして、1982年2月にヒューストンで行われたスニーク・プレビューを皮切りに、世界中で封切られて興行収入7000万ドル近くの爆発的な大ヒットを記録した『コナン・ザ・グレート』。その半年後にはドン・コスカレリ監督の『ミラクルマスター/7つの大冒険』が公開されてヒットし、にわかにヒロイック・ファンタジー映画のブームが到来する。このトレンドを見逃さなかったのが、B級映画の帝王として名高い製作者ロジャー・コーマンである。 スニーク・プレビューの翌日に、新聞で『コナン・ザ・グレート』の批評記事を読んだコーマンはヒットを確信し、すぐさま便乗するべく当時宣伝部スタッフだったジム・ウィノスキーに1週間で脚本を執筆するよう指示。ジャック・ヒルに監督を任せ、3月にはメキシコで撮影を行い、なんと5月には全米公開してしまう。それが、両親を殺された古代の双子美女が宿敵である邪教の魔術師に復讐する映画『Sorceress』(’82・日本未公開)だ。空飛ぶライオンとお岩さんみたいな顔した邪教女神の生首が空中バトルを繰り広げるという、世にもけったいだが最高にいかしたB級映画で、こちらもまたスマッシュヒットを記録。これに味をしめたコーマンは、『勇者ストーカー』(’84)や『野獣女戦士アマゾネス・クイーン』(’85)を矢継ぎ早にヒットさせ、それぞれシリーズ化してガッツリと稼ぎまくる。 ほかにもアルバート・ピュン監督の『マジック・クエスト/魔法の剣』(’82)や、黒澤明の『用心棒』を下敷きにしたデヴィッド・キャラダイン主演の『SFカインの剣』(’84)などが登場。本家『コナン』シリーズも続編『キング・オブ・デストロイヤー/コナンPART2』(’84)や番外編『レッドソニア』(’85)が公開された。面白いのは、ブームに便乗した類似作品が、いずれも本家シリーズとは違って史劇要素よりファンタジー要素が強いこと。フランク・フラゼッタのイラストをパクったウルトラマッチョなヒーロー&ヒロインや巨大モンスターを描いたポスターデザイン、実際に蓋を開けてみると似ても似つかぬ体形の俳優やチンケな怪物が出てくるところなんかも一緒だ(笑)。そりゃそうだろう、シュワちゃん並みの筋肉俳優なんかそうそういるわけもないし、低予算のB級映画で本家『コナン』クラスの特殊効果は不可能である。 しかし、さらに興味深いのは、この『コナン・ザ・グレート』の時ならぬ大ヒットが、当時既に途絶えて久しかったイタリア産ヒロイック・ファンタジー映画のジャンルを復活させたことだろう。もともと、ハリウッドにおける「Sword and Sorcery」映画とは、どちらかというと中世ヨーロッパの「アーサー王伝説」をルーツにした剣劇アクションの色合いが強く、『コナン』シリーズのような古代世界を舞台に、半裸のマッチョヒーローが暴れまわるような作品は皆無に等しかった。最も近いのは『類人猿ターザン』シリーズだが、ご存知の通りターザンは剣とも魔術とも全く関係がない。むしろ、このジャンルの映画的な先駆者は、『ヘラクレス』(’58)を筆頭とするイタリア産ヒロイック・ファンタジーだったと言えよう。 もともとサイレント映画の時代から古代ローマを舞台にしたスペクタクル史劇がお家芸だったイタリア映画界では、当時から筋骨隆々の英雄マチステが大活躍する映画シリーズが大人気だった。やがて戦後の’50年代、スタジオシステムの崩壊に伴う人件費の削減で、ハリウッドの映画会社が『聖衣』(’53)や『トロイのヘレン』(’56)、『スパルタカス』(’60)などの史劇大作をローマのチネチッタ・スタジオで撮影するようになる。これで活気づいたイタリア映画界は、本家本元の意地を見せるかの如く『ユリシーズ』(’54)や『ロード島の要塞』(’61)といった国産スペクタクル史劇を次々と量産。そうしたブームの中から誕生したのが、神と人間との間に生まれた古代神話の英雄ヘラクレスを主人公にしたヒロイック・ファンタジー映画『ヘラクレス』だったのだ。 翌年公開されたアメリカでは、あのハリウッド超大作『ベン・ハー』(’59)にも匹敵する興行収入を記録した『ヘラクレス』。たちまち、イタリア映画界は古代のマッチョヒーローが大暴れするファンタジー映画で溢れかえる。旧約聖書の英雄ゴライアスがドラゴンや巨大コウモリと戦う『豪勇ゴライアス』(’60)、ヘラクレスが美しき姫を救い出すため魔界の妖怪やゾンビと戦うマリオ・バーヴァ監督の『ヘラクレス 魔界の死闘』(’62)、カルロ・ランバルディが実物大のドラゴンや妖怪メドゥーサの特殊効果を手掛けた『豪勇ペルシウス大反撃』(’63)などなど、’60年代半ばにマカロニ西部劇に人気を奪われるまで、数えきれないほどのヒロイック・ファンタジー映画がイタリアで作られたのである。 また、『ヘラクレス』で特筆すべきは主演のアメリカ人俳優スティーヴ・リーヴスだ。もともと、ミスター・アメリカやミスター・ユニバースなどのタイトルに輝く伝説的なボディビル・チャンピオンだったリーヴス。そう、彼こそがシュワルツェネッガーの大先輩に当たる、ボディビルダー出身映画スターの元祖なのだ。ハリウッド俳優としては鳴かず飛ばずだったリーヴスだが、イタリアへ招かれた『ヘラクレス』でたちまち国際的なトップスターに。すぐさま第二のスティーヴ・リーヴスを狙って、レグ・パークやマーク・フォレスト、ゴードン・ミッチェル、ミッキー・ハージティなどのアメリカ人ボディビルダーがイタリア映画界へ殺到したのである。ただ、リーヴスとミッチェル以外は筋肉だけが取り柄の大根役者だったため、マカロニ西部劇ブームが到来すると一斉にスクリーンから消え去ってしまった。 そして’80年代。『コナン・ザ・グレート』が世界中で大ヒットすると、イタリア産ヒロイック・ファンタジーの元祖ヘラクレスも華麗なる復活を遂げる。それが、ルー・フェリグノ主演の『超人ヘラクレス』(’83)だ。MGMの配給で世界公開されたこの作品は、批評家から大酷評されつつも興行的にはスマッシュヒットを記録して続編も登場。さらに、ヒロイック・ファンタジーにSFを融合させたジョー・ダマート監督の『世紀末戦士アトー/炎の聖剣』(’83)も、シリーズ通算4本が作られるほどのヒットとなった。そのほか、スペインとの合作『ハンドラ』(’83)やルチオ・フルチ監督の『SFコンクエスト/魔界の制圧』(’83)、アメリカの有名なボディビルダー兄弟バーバリアン・ブラザーズを主演に迎えた『グレート・バーバリアン』(’87)などなど、イタリア産のなんちゃって『コナン』映画が雨後の筍のごとく作られたというわけだ。 そんなわけで、ハリウッド映画における古代文明系ヒロイック・ファンタジーのジャンルを本格的に確立させ、とことんまでパンプアップした筋肉美が求められる現在のアクション映画スターの素地を作り、ついでにイタリア産マッチョ史劇映画の伝統まで一時的にせよ復活させた『コナン・ザ・グレート』。これがなければ、もしかすると『スコーピオン・キング』(’02)シリーズも作られなかったかもしれない…!?■ © 1981 Dino DeLaurentiis Corp. 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COLUMN/コラム2019.02.07
長い黒髪に白い乳房!名もなき美女の全裸死体に隠された忌まわしい秘密とは?今宵、想像を絶する恐怖があなたを襲う!〜『ジェーン・ドウの解剖』〜
バージニア州の小さな町。とある平凡な一軒家で、住人全員が無残な遺体で発見される。警察が現場を検証したところ、外から誰かが侵入したような形跡はなく、むしろ被害者たちは家からの脱出を試みていたようだ。困惑する保安官。すると、家の地下室から土に半分埋まった美しい女性の死体が見つかる。女性の身元も住人との関係も不明だが、なぜか彼女だけ目立った外傷がない。事件の謎を解明するためにも、この女性の死因を特定することが急務だ。そこで保安官は、20年来の付き合いがある「ティルデン遺体安置&火葬場」へ女性の死体を持ち込み、明日の朝までに検死結果を報告するよう依頼する…。 ジェーン・ドウとは女性の身元不明死体のこと。英語圏では古くから、身元の分からない男性の死体を「ジョン・ドウ」と呼ぶ習慣がある。これはなにも死体だけに限らず、身元不明男性全般や実名を明かしたくない場合の匿名、もしくは「どこにでもいる平凡な男」の意味としても使われるので、さしずめ日本で言う「名無しの権兵衛」みたいなものだろうか。その女性版がジェーン・ドウというわけだ。最近では、’16年にアメリカで「13歳の時ドナルド・トランプ大統領にレイプされた」と訴え出た女性が、身バレを恐れてジェーン・ドウの匿名を使用していたことも記憶に新しいだろう。 さて、一家全員が謎の死を遂げた不可解な殺人事件。その家の地下室から無傷で発見された身元不明の女性「ジェーン・ドウ」の死体。運び込まれた民間の古い遺体安置所で、ベテラン検死官トミー・ティルトン(ブライアン・コックス)とその息子で助手のオースティン(エミール・ハーシュ)による死因の究明が始まる。 一見したところ目立った外傷はなし。年齢は20代半ばから後半といったところか。眼球はグレーに濁っている。ということは、死後数日は経っているはずだが、しかし死後硬直はまだ見られない。しかも、骨格の大きさに対してヒップが細すぎる。手首や足首が折れているのもおかしい。爪から採取された土は、この近辺にはない泥灰だ。なによりも2人が衝撃を受けたのは、口を開けてみると舌がちぎり取られていたこと。外見上から判断すると人身売買の被害者と似ているが、それにしてもおかしなことが多すぎる。この死体はいったい「何」なのか?その疑問を解明するべく、2人はさらにジェーン・ドウの体にメスを入れ、その中身を調べ始めるのだが、謎はより一層のこと深まっていく。 と、ここまで予備知識のないまま見てきた観客は、もしかするとテレビドラマ『BONES』のような科学捜査をテーマにした犯罪ミステリーを期待するかもしれない。だとすると、この後の展開にはいろいろな意味で驚かされることだろう。科学的に説明のつかない臓器の状態、そこから発見される思いがけないもの、そして、まるで解剖の邪魔をするかのように次々と起きていく不気味な怪現象。そう、これは身元不明の美しき女性の死体を巡って、予想だにしなかった超自然の恐怖が頭をもたげる、紛れもないオカルト・ホラーなのだ。 ユニークなのは、ほぼ全編を通して物語が遺体安置所の中だけで進行することだ。これはなかなか珍しい。確かに、遺体安置所というセッティングはホラー映画に欠かせない要素のひとつであり、例えばホルヘ・グラウ監督のスパニッシュ・ホラー『悪魔の墓場』(’74)やルチオ・フルチ監督の怪作『ビヨンド』(’81)などでも効果的な使われ方をしていた。女性検死官が主人公の『炎のいけにえ』(’74)なんていう隠れた名作もあるし、病院の遺体安置室が重要な役割を果たした『ZOMBIO/死霊のしたたり』(’85)を想起するホラー映画ファンも多いことだろう。 また、マイナーなところでは、遺体安置所がカルト教団の巣窟だったビル・パクストン出演の『モーチュアリー』(’83)も印象的だ。そうそう、病院の研修生たちが解剖実験用の死体に呪われるという『屍体』(’06)なんて映画もあった。これなどは設定的に本作と近いものがある。とはいえ、遺体安置所という限定された空間内でほぼ展開する作品となると、病院の遺体安置室で3人の若者が人気女優の死体をレイプしたところ蘇生してしまう『レイプ・オブ・アナ・フリッツ』(’15)と本作ぐらいしかパッとは思い浮かばない。しかも、『レイプ・オブ・アナ・フリッツ』はホラーではなく犯罪スリラーだ。 監督を手掛けたのは、ドキュメンタリー映画を撮影中の学生たちが北欧伝説の巨大な妖精トロールに遭遇するという、モキュメンタリー形式のダークファンタジー映画『トロール・ハンター』(’10)で話題を呼んだノルウェー出身のアンドレ・ウーヴレダル。『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(’99)から『死霊高校』(’15)まで、はたまた『チュパカブラ・プロジェクト』(’00)から『クローバーフィールド/HAKAISHA』(’08)に至るまで、散々やり尽くされてきた感のあるモキュメンタリーのジャンルに「モンスター・ハント」という要素を持ち込んだアイディア、低予算ながらもユーモアを交えて工夫を凝らした演出は特筆すべきものだったが、しかしウーヴレダル監督本人にとってこの作品で注目されたことは、多少なりとも不本意な部分があったようだ。 というのも、モキュメンタリーというのは単なるギミックに過ぎないという面も否定できない。本来の自分のスタイルではない、との思いが強かったみたいだ。とりあえず『トロール・ハンター』の商業的成功で、世間的に名前は認知された。次の作品では真っ当な映像作家としての腕前を実証したい。しかし、ハリウッドに招かれたのは良かったが、声をかけられたプロジェクトはひとつも実を結ばず。そんな折、ジェームズ・ワン監督の『死霊館』(’15)を見て感銘を受けたウーヴレダル監督は、「自分もこういう映画を撮りたい!」とエージェントに働きかけたところ、しばらくしてから本作の脚本が送られてきたのだという。 ハリウッドでは「ブラック・リスト」(未映画化脚本の人気投票ランキング)の上位にも名前が挙がっていたという本作。映画の前半と後半でジャンルがガラリと変わるという意外性の面白さもさることながら、描き込まれた登場人物の背景や性格が、ストーリーの上でちゃんと意味を成している点がとてもいい。 主人公は100年近く続くティルデン遺体安置&火葬場の3代目経営者トミーと、その息子オースティン。トミーは自殺した亡き妻の死に強い責任を感じており、普段は表に出さずとも罪悪感に今なお苦しんでいる。そんな重い空気に耐えかねてか、家を出て恋人と暮らすことを考えているオースティンだが、しかし父親への深い愛情ゆえになかなか決心がつかない。複雑でありながらも強く結ばれた親子の絆。どこからどう見ても共感しか生まれないこの2人に、理不尽な恐怖が襲い掛かることとなる。 さらに、2人の性格の違いが明確に描かれているところも要注目だ。「目と手で確認できること以外は気にするな」という徹底した合理主義的な立場で、ジェーン・ドウの死因を解明しようとする父親トミーと、死因だけではなくその理由にも思いを馳せることで、その正体に迫ろうとする息子オースティン。このまるで対照的な彼らの分析や推論を通して、はじめはただの「物体」に過ぎなかった死体に少しずつ人間としての個性が宿り、いつしか観客が感情移入できる「キャラクター」へと変化していくのだ。 そればかりか、やがてこの死体が持つ明らかな「意志」や「目的」までもが見えてくる。ネタバレになるので詳しくは延べないが、ジェーン・ドウには歴史の闇に埋もれた恐ろしくも哀しい由来があったのだ。おのずと少なからぬ同情を寄せていくトミーとオースティン。しかし、この心優しい親子に対する容赦のない攻撃はエスカレートし、ジェーン・ドウが疑いようもなく邪悪な存在であることが明確になっていく。相手が善人だろうが悪人だろうが、もはや復讐の塊となった彼女には関係がないのだ。これはある意味、日本の怪談にも通じる「怨念」の怖さだと言えるだろう。 不器用で口数の少ないトミー役にはシェイクスピア俳優としても評価の高いイギリス出身の名優ブライアン・コックス、繊細で感受性豊かな青年オースティン役には『イントゥ・ザ・ワイルド』(’07)と『ミルク』(’08)の演技が絶賛されたエミール・ハーシュ。ホラー映画とは馴染みの薄い正統派俳優を主演に得たことで、複雑でありながらも深くて固い親子の絆のドラマにも厚みが加わる。そんな2人の些細な感情の機微までをも汲み取り、丹念な筆致で恐怖を盛り上げていくウーヴレダル監督の演出は、まさしく古典的ホラー映画の王道だ。一歩間違えると悪趣味になりかねない解剖シーンも、医療ドキュメンタリーさながらの正確な表現を貫くことで、機能美的な芸術性すら備えている。 その功績は、ジェーン・ドウ役の女優オルウェン・ケリーに負う部分も大きいだろう。本業はファッション・モデルであるオルウェン。その訓練で培ったヨガの呼吸法を駆使して、美しき死体を完璧なまでに演じている。もともとプロデューサー陣は人間そっくりのダミーボディを使おうと考えていたらしいが、ウーヴレダル監督は絶対に生身の女優を起用すべきだとの意見を押し通したという。もちろん、メスを入れて解剖されるシーンはダミーだが、それ以外は全てオルウェン本人。監督は照明の角度やカメラの位置を工夫することで、微動だにしない死体の顔に表情を与えていく。あたかも、何かを考え意図しているかのように。これはやはり、生身の人間でなくては説得力が生まれなかったであろう。 初の英語作品となった本作で、シッチェス=カタロニア国際映画祭の審査員特別賞をはじめ、数々の映画賞に輝いたウーヴレダル監督。次回作は作家アルヴィン・シュワルツのベストセラー児童文学「Scary Stories to Tell in the Dark(真夜中に語る怖い話)」の映画化で、ギレルモ・デル・トロが製作と共同脚本を手掛けている。原作は古い伝承や都市伝説を基にした怪奇譚を集めた短編集だが、映画化版では小さな田舎町で起きる様々な怪事件の謎にティーンエイジャーたちが迫っていくことになるという。全米公開は’19年8月の予定。これを機にハリウッド・メジャーへの進出と相成るか、今から楽しみである。■ ©2016 AUTOPSY DISTRIBUTION,LLC ALL RIGHTS RESERVED
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COLUMN/コラム2019.03.05
〜『ファンタズム』シリーズ〜 ザ・シネマでの全シリーズ連日放送は、熱心なファンにしか許されない40年の時を超えた恐怖と冒険と感動を味わえるチャンス!
『エルム街の悪夢』シリーズや『13日の金曜日』シリーズに比べるといささか地味だが、それでもなおカルト映画として世界中で根強い人気を誇る『ファンタズム』シリーズ。30万ドルの低予算で製作された記念すべき第1弾『ファンタズム』(’79)は、『悪魔のいけにえ』(’74)や『ハロウィン』(’78)といったインディペンデント系ホラーがメジャー級の大ヒットを飛ばす’70年代の時流に乗って、興行収入1100万ドルを超える大成功を収めた。とはいえ、その後40年近くの長きに渡って続編が作られることになろうとは、監督のドン・コスカレリ自身も想像していなかったに違いない。 もともと地元カリフォルニアのロングビーチで学生映画を撮っていたコスカレリ監督は、映画仲間クレイグ・ミッチェルとのコンビで、平凡な若者とその弟の悩み多きままならぬ青春を描いた『誰よりも素敵なジム』(’75)で劇場用映画デビューを果たす。撮影当時のコスカレリはまだ18歳。製作費はミッチェルとそれぞれの両親から借金した。なかなか買い手が見つからなかったものの、コスカレリの父親の知人だったロサンゼルス・タイムズの映画批評家チャールズ・チャンプリンがラフカット版を見てユニバーサルに推薦し、素人が撮った自主製作映画にも関わらずメジャー公開されるという幸運に恵まれる。 続いて、12歳の少年たちの平凡だがキラキラとした日常を鮮やかに切り取った青春映画の佳作『ボーイズ・ボーイズ/ケニーと仲間たち』(’76)を20世紀フォックスの配給で発表したコスカレリ監督は、少年時代から大好きだったというホラー映画の製作に着手する。前2作が高い評価のわりに興行成績が奮わず、ホラー映画ならば当たりが狙えるという目算もあったという。それが父親や知人からの借金で自主制作した低予算映画『ファンタズム』だった。 舞台はアメリカのどこにでもある風光明媚な田舎町。異次元からやって来た邪悪な葬儀屋トールマン(アンガス・スクリム)が、町の住民を次々と殺してはドワーフ型のゾンビに変えていく。いちはやく異変に気付いた13歳の少年マイク(マイケル・ボールドウィン)は、年の離れた兄ジョディ(ビル・ソーンベリー)やその親友レジー(レジー・バニスター)と共に、トールマンを倒すべく果敢に立ち向かっていくこととなる。 コスカレリ監督自身が見た悪夢を映像化したという本作。夢と現実が錯綜する摩訶不思議なストーリーに明確な説明はない。そのシュールリアリスティックな語り口はルイス・ブニュエルやジャン・コクトーを彷彿とさせ、ショッキングでスタイリッシュなイメージの羅列はダリオ・アルジェントの影響も如実に伺わせるが、しかし作品全体を覆うジューヴァナイルなセンチメンタリズムは、それまでのコスカレリ監督作品の確かな延長線上にあるものと言えよう。 『ボーイズ・ボーイズ/ケニーと仲間たち』と同じく10代前半の少年の目を通して世界を見つめる本作では、『誰よりも素敵なジム』の大学生ジムが父親の虐待から幼い弟ケリーを守ろうとしたように、ミュージシャン志望の若者ジョディが邪悪な大人トールマンの魔手から年の離れた弟マイクを守ろうとする。ジョディとマイクは両親を交通事故で失ったばかりだが、両親からネグレクトされたジムとケリーもまた親がいないも同然の孤独な兄弟だった。ある意味、『誰よりも素敵なジム』と『ボーイズ・ボーイズ~』、そしてこの『ファンタズム』は、精神的な部分で連なる三部作の様相を呈しているとも考えられるだろう。 そのうえで本作は、ストーリーなきストーリーに主人公マイクの揺れ動く複雑な心情を投影する。愛する両親を一度に失い、唯一の肉親である兄ジョディもまた、町を出てひとり立ちしようとしている。思春期の多感な少年が人生で初めて直面する喪失感、このまま一人ぼっちになってしまうのではないかという不安感、そしてまだ子供であるがゆえの無力感。それらをひとまとめにした象徴が、得体の知れない悪魔トールマンなのである。 誰もが少なからず身に覚えのある、成長期の漠然とした不安や恐怖を想起させる。それこそが、どちらかというと難解な内容でありながらも、多くのファンが『ファンタズム』に魅了される最大の理由であろう。しかし、その後の続編はちょっとばかり違った方向へと舵を切る。 大手ユニバーサルの出資で製作された第2弾『ファンタズムⅡ』(’88)は、’80年代当時のホラー映画ブームを意識した純然たるエンターテインメント作品に仕上がった。なぜなら、ユニバーサルがそれを求めたからである。 ストーリーは逞しい青年に成長したマイク(ジェームズ・レグロス)と相棒レジー(レジー・バニスター)が宿敵トールマン(アンガス・スクリム)を倒さんと各地を巡るロードムービーへと変貌し、『エルム街の悪夢』のフレディばりに神出鬼没なトールマンや前作でも強烈な印象を残した空飛ぶ殺人銀球「シルバー・スフィア」のパワーアップした恐怖が強調され、大量の火薬を使った爆破シーンやガン・アクションがふんだんに盛り込まれた。マーク・ショストロムがデザインし、弟子のロバート・カーツマンやグレッグ・ニコテロが造形した派手な特殊メイクの数々も見どころだ。 まあ、確かに続編とはいえ半ば別物のような作品だが、しかしここではヒロイック・ファンタジー『ミラクルマスター/七つの大冒険』(’82)でも披露した、コスカレリ監督の娯楽映画職人としての実力が遺憾なく発揮されている。もちろん賛否はあるだろう。ユニバーサルの要求で、マイク役を当時売り出し中の若手イケメン俳優ジェームズ・レグロスに変更させられたことも残念だ。それ以外にもスタジオからの横やりは多く、コスカレリ監督としては少なからず不満も残ったという。しかしそれでもなお、シリーズ中では最も単純明快なB級ホラー映画として十分に楽しめる。 続く『ファンタズムⅢ』(’94)でもそのエンタメ路線は引き継がれるが、製作元がメジャーからインディペンデントへと戻ったこともあり、コスカレリ監督の好きなように作られているという印象だ。なによりも、マイク役に1作目のマイケル・ボールドウィンが復活したこと、ビル・ソーンベリー演じる兄ジョディも再登板したことの効果は大きい。本作からシリーズ随一の愛されキャラ、レジー(レジー・バニスター)が実質的な主人公となり、旅の途中で出会った女戦士ロッキー(グロリア・リン・ヘンリー)や「ホームアローン」少年ティム、そして今やシルバー・スフィアと化したジョディがタッグを組み、トールマン(アンガス・スクリム)に狙われるマイクを救おうとする。 過去作で散りばめられた謎の真相を本作で明かすことを試みたというコスカレリ監督。その言葉通り、トールマンの目的やドワーフたちの正体、シルバー・スフィアの仕組みなどが解明され、いわば「ファンタズム・ワールド」の全体像がおぼろげながらも見えてくる。といっても、みなまでを詳細に語らず観客に想像の余地を残すところはコスカレリ監督ならではと言えよう。夢と現実の交錯するシュールな語り口も、原点回帰を如実に実感させて嬉しい。 しかしながら、真の意味で『ファンタズム』の原点に戻ったのは、次の『ファンタズムⅣ』(’98)である。トールマン(アンガス・スクリム)にさらわれたマイク(マイケル・ボールドウィン)を救うべく、レジー(レジー・バニスター)とスフィア化した兄ジョディ(ビル・ソーンベリー)が行方を追うわけだが、ここでは第1作目の未公開フィルムをフラッシュバクとして効果的に多用することで、失われた時間や過ぎ去った思い出に対する深い郷愁と万感の想いが浮き彫りにされていく。さらに、かつては善人だったトールマンの意外な過去を描くことで、必ずしも思い通りにはならない人生や運命の悲哀が強調されるのだ。 かつて13歳の美少年だったマイクもすっかり大人。レジーやジョディに至っては立派な中年だ。みんなもはや決して若くはない。静かに忍び寄る老いを前にした彼らの後悔と不安、そして来るべき苦難の道など想像もしなかった平和な過去へのノスタルジーが、トールマンとの終わりなき戦いの日々を通して描かれていく。30年前の幼きマイクと若きレジーの、まるで波乱の未来を予感したような複雑な表情で幕を閉じるクライマックスは、1作目から追いかけてきたファンならば涙なしに見ることは出来ないだろう。これは、『ファンタズム』と共に大人へと成長してきた大勢のファンへ対する、コスカレリ監督からの真心のこもったラブレターである。 そして、それから18年の歳月が経ち、老境にさしかかったコスカレリ監督が自らの「死生観」を投影した作品が『ファンタズムⅤ ザ・ファイナル』(’15)である。ここで彼は初めてレジー(レジー・バニスター)を単独の主人公に据える。もちろんマイク(マイケル・ボールドウィン)やジョディ(ビル・ソーンベリー)、トールマン(アンガス・スクリム)も登場するし、1作目のラヴェンダーの女(キャシー・レスターの美魔女ぶりに驚嘆!)や3作目のロッキー(グロリア・リン・ヘンリー)も再登板。しかし、物語はあくまでも年老いたレジーの視点から語られていく。 相変わらずトールマンを倒してマイクを救うための旅を続けていたレジー。しかし、ハッと目を覚ますとそこは病院で、自分が痴呆症と診断されて入院していることをマイクに告げられる。トールマンとの戦いも何もかも、彼がマイクに語って聞かせた妄想だという。しかし再び目を閉じると、トールマンによって崩壊した世界の真っただ中で、レジーはマイクと共に武器を手にして戦っている。どれが夢でどれが現実なのか全くわからない。その混沌を通して、限りある人間の生命と肉体の儚さ、それでもなお前へ進むことを諦めない精神の不滅が描かれるのだ。 病床に臥したレジーをマイクとジョディが囲むシーンはまさに胸アツ。1作目と同じキャストが演じているからこその、人生と時間の重みをまざまざと感じさせる。ここまで来ると熱心なファン以外は完全に置いてけぼりなのだが、もちろんそれで全く構わない。むしろこの感動を味わえるのは、1作目から熱心に追いかけてきたファンのみに許された特権であり、そういう自己完結したガラパゴス的な映画があってもいいと思うのだ。 この『ファンタズムⅤ ザ・ファイナル』を最後に、トールマン役のアンガス・スクリムが急逝。正真正銘のファイナルとなった。振り返れば、アンガスはコスカレリ監督のデビュー作『誰よりも素敵なジム』(ロリー・ガイ名義で出演)以来の付き合い。レジー役のレジナルド・バニスターもそうだ。マイク役のマイケル・ボールドウィンは『ボーイズ・ボーイズ/ケニーと仲間たち』からの常連。ジョディ役のビル・ソーンベリーだけは『ファンタズム』1作目が初参加だったが、それでもなお40年近く付き合ってきたことになる。『ファンタズム』シリーズはドン・コスカレル監督のみならず、その仲間たちにとってもライフワークだった。その時を超えた恐怖と冒険と感動を、ザ・シネマの全シリーズ連日放送で味わえるのは誠に贅沢だと言えよう。◼︎ © 1988 Starway International, Inc.
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COLUMN/コラム2019.03.08
麻薬ではなく資金の流れを追え!米法執行史上最も成功した潜入捜査「Cチェイス作戦」を描く『潜入者』
2019年現在、アメリカにおける麻薬戦争とは主に対メキシコのそれを意味するが、しかしかつてのアメリカにとって麻薬戦争の最大の敵はコロンビアにあった。もともと中南米からアメリカへの麻薬供給源はメキシコだったものの、現地政府の麻薬撲滅作戦が功を奏して生産量が激減したことから、’70年代にコロンビアの麻薬組織が台頭。その中でも圧倒的な勢力を誇ったのが、一時は世界7番目の大富豪にまで上りつめた帝王パブロ・エスコバルが君臨する中南米最大の麻薬組織メデジン・カルテルだった。 そのメデジン・カルテルの資金洗浄網の実態を暴き出し、麻薬帝国崩壊のきっかけを作った潜入捜査の実話を描いた映画『潜入者』。冒頭のテロップで、同カルテルが’80年代にアメリカへ密輸した麻薬が1週間あたり4億ドルに相当する15トンもあったこと、その大半がフロリダ南部から持ち込まれたことが記されているが、実際に当時のフロリダは麻薬の大量流入で治安が著しく悪化し、マイアミはニューヨークやロサンゼルスと並ぶ全米最大(というより最悪)の犯罪都市となっていた。まさしく、ドラマ『特捜刑事マイアミ・バイス』や映画『スカーフェイス』の世界だ。 主人公は実在のアメリカ関税局捜査官ロバート・メイザー(ブライアン・クランストン)。舞台は1985年のフロリダ州タンパ。日本人にはピンと来ない人も多いかもしれないが、タンパにはフロリダ州最大規模の貿易港があり、対南米の輸出入において重要な窓口となる。おのずと麻薬カルテルの活動拠点ともなるわけで、地元関税局に勤めるメイザーはメデジン・カルテルの壊滅を目指して日夜奮闘していたわけだ。 しかし、潜入捜査で捕まえるのは末端の密売人など小物ばかり。とてもじゃないが、今のやり方ではパブロ・エスコバルやドン・チェピのような組織のトップを狙うことは出来ない。そこで彼が考えついた作戦は、麻薬そのものを追うのではなく資金の流れを追うこと。なぜなら、組織が麻薬取引で得た違法な現金は、必ずどこかで洗浄するはずだからである。 名付けて「Cチェイス作戦」。Cは現金=キャッシュ(Cash)のC。「現金を追う」からCチェイスというわけだ。後に「アメリカの法執行史上最も成功した潜入捜査のひとつ」と呼ばれることになる作戦だが、そのあらましは意外とシンプル。資金洗浄の闇商売を請け負う悪徳ビジネスマンに扮したメイザーが、おたくの仕事も引き受けまっせ!と組織に接触してその輪の中へと深く潜入し、幹部との信頼関係を築いて違法な資金の流れを掴むのである。 とはいえ、もちろん作戦計画のディテールには細心の注意が必要。少しでも矛盾が生じれば相手に正体がバレてしまい、自分はおろか同僚や家族の命まで危険にさらすことになる。劇中では触れられていないものの、もともとメイザーは大学時代に連邦税の執行・徴収を担当する内国歳入庁(IRS)の情報局でアルバイトをしていた経験があり、その頃から潜入捜査のノウハウを学んできたという筋金入りのプロだ。しかしそんな彼でも、この「Cチェイス作戦」は長年のキャリアで最も困難な捜査のひとつだったという。 なにしろ、相手は全米はおろか世界中に情報網を持つ巨大な麻薬カルテル。潜入捜査に当局の影がチラついてはいけない。例えば、偽りの身分で銀行口座ひとつ作るにしても、関税局に任せず自分自身で直接銀行へ出向いて手続きをすることが肝心。なぜなら、あらゆるところに組織のスパイや協力者がいるため、その気になれば簡単に調べがついてしまうからだ。もちろん、当局の監視が付けばすぐに見破られる。なので、少なくとも相手と接触している間は味方のバックアップは期待できない。まさに、孤立無援の状態で臨まねばならないのである。 さらに言えば、潜入捜査官は俳優ではない。要するに完全な別人を演じることは出来ないのだ。あくまでも捜査官本人のプロフィールを土台とし、そこに脚色を加えることで他人のふりをするのが潜入捜査の基本だと、メイザーはインタビューで語っている。この「Cチェイス作戦」の場合だと、彼は自分と同じイタリア系で年齢も近く、イニシャルが同じなのでサインを間違えずに済むボブ(=ロバート)・ムセラという実在した故人のアイデンティティを拝借し、同僚のエミール・アブレウ(ジョン・レグイザモ)や元囚人の協力者ドミニク(ジョセフ・ギルガン)の助言を得ながら、裏ビジネスを含む多角経営で巨万の富を得た成金ビジネスマンという架空のキャラクターを作り上げていったのだ。 裏社会の人間らしい仕草や言葉遣いを駆使してボブ・ムセラになりきるメイザー。しかし根本的な人間性までは変えられない。それゆえ、カルテル関係者との接待の場で女性をあてがわれるという想定外の事態に直面した彼は、つい「自分には婚約者がいるから浮気は出来ない」とキャラ設定にない発言をしてしまう。愛妻家の良き家庭人である彼は、たとえ職務とはいえ妻を裏切ることは出来なかったからだ。結果的に、婚約者役の女性捜査官キャシー(ダイアン・クルーガー)をミッションの心強いパートナーとして得ることが出来たのは幸いだったのだが。 ちなみに、ボブ・ムセラという架空のキャラを演出するために、メイザーは巨大なオフィスや豪華な邸宅、ロールス・ロイスやジャガーなどの高級車にプライベート・ジェットなどを用意した。ただ、その全てを関税局の予算でまかなうことは不可能だったため、劇中で描かれているように裕福な知人からオフィスなどは借り受けたそうだ。また、映画ではあっという間に潜入捜査が始まったような印象を受けるが、実際は半年以上をかけて綿密に下準備を行ったという。そもそも、この「Cチェイス作戦」自体が5年の歳月をかけて遂行されたものだった。 このように、潜入捜査の巧妙な作戦テクニックと駆け引きのスリルに目を奪われる本作。世界78か国に支店を持つ大手銀行BCCI(国際商業信用銀行)が思いがけず餌に食いつき、彼らが裏社会の資金洗浄に大きく関わっていたことが明るみになっていく過程なども実に面白い。「私たちの言っている意味、お分かりですよね?」などと、遠回しに取引を持ち掛けてくる辺りのやり取りはなんとも絶妙で、メイザーならずとも「うおっ!棚ボタで大物が引っ掛かりやがった!」と内心小躍りしてしまうこと必至だ。しかし、それに輪をかけて引き込まれるのは、犯罪の世界に身を沈めていかねばならない当事者の心理描写である。 潜入捜査のプロとはいっても一介の国家公務員。普段の平凡で平和な日常とはまるで異質な、暴力とドラッグとセックスにまみれた裏社会に身を置かねばならなくなるわけだから、その精神的なストレスは我々素人の想像を絶するものがある。任務の合間に妻子の待つ我が家へ戻ったメイザーが感じる、二重生活者ならではの虚無感や焦燥感は生々しい。しかも、演じているのがブライアン・クランストン。おのずと、平凡なダメ亭主と麻薬王の二つの仮面を持つドラマ『ブレイキング・バッド』の主人公ウォルターとイメージが重なって説得力が増す。これぞキャスティングの妙である。 そして、麻薬カルテルの輪の中に深く潜入することで、メイザーやキャシーはターゲットである犯罪者たちに感情移入していくことになる。これこそが本作最大のハイライトと言えるだろう。ある一面では確かに彼ら(カルテル幹部)は非道な悪人だが、しかし同時に良き夫や良き父親など善人の側面も持ち合わせている。仕事が麻薬密売や殺人などの犯罪行為ということを除けば、ある意味で普通のビジネスマンとあまり変わりないのだ。そんな彼らを巧みに騙して心を開かせ、その信頼と友情を利用して罠にはめ、最終的には逮捕しようというのだから、少なからず良心の呵責を覚えてしまうのは致し方ないだろう。 それもまた仕事の一部だというメイザーは、潜入捜査官には「白と黒」、「イエスとノー」の区別がハッキリとしたメンタリティの持ち主が向いているとインタビューで語っている。つまり、グレーゾーン的な思考にとらわれることなく、目的を成し遂げるために何が正しくて何が間違っているのかを明確かつ瞬時に判断できる「割り切り力」が必要とされるわけだ。なにしろ、金や女の誘惑も多い世界に身を投じるのだから、ブレることなく職務を全うするためには割り切るしかないのだろう。それだけに、クライマックスの一斉検挙は痛快であると同時に一抹のほろ苦さも漂うのだ。 なお、劇中ではメイザーがメデジン・カルテルの運び屋だったバリー・シール(マイケル・パレ)と接触するが、これは映画化に際して加えられたドラマチックなフィクション。また、冒頭で潜入捜査中のメイザーの胸に仕掛けられた盗聴器が焼けてしまうシーンも、原作本では言及されていない。 かくして、メデジン・カルテルの資金洗浄網を暴いて大物幹部を検挙し、大手銀行BCCIの悪事をも白日のもとにさらした「Cチェイス作戦」。その後、コロンビアの麻薬カルテルは衰退の道をたどることになるわけだが、しかし現在も麻薬戦争は場所や形を変えて継続しており、あえてどことは言わないが、たびたびニュースで報じられている通り犯罪組織の資金洗浄に加担する銀行も後を絶たない。それはまるで、終わりなき戦いのようだ。■ ©2016 Infiltrator Films Limited
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COLUMN/コラム2019.03.27
さながらアントニオーニかゴダールか、ハリウッドスターの監督作という色眼鏡を外して見て欲しい佳作
舞台は’70年代初頭の南フランス、地中海に面した入江の高級ホテル。シボレーのコンバーチブルに乗ったアメリカ人の中年夫婦が到着する。夫ローランド(ブラッド・ピット)は創作に行き詰まったアル中の流行作家、妻ヴァネッサ(アンジェリーナ・ジョリー)は情緒不安定で不愛想な元ダンサー。会話の節々に愛情の片鱗が垣間見える2人だが、しかし夫婦仲は冷え切っているも同然だ。不器用ながらも関係の修復を試みるローランド。一方のヴァネッサは、彼が自分の体に指一本触れることも許さない。 かくして、夫は午前中からバーに入り浸って酒をあおり、妻はホテルの部屋に閉じこもってバルコニーから入江を眺めて過ごす。だが、そんなある日、隣の部屋にハネムーンの若い新婚夫婦フランソワ(メルヴィル・プポー)とリア(メラニー・ロラン)がチェックインしたことから、ローランドとヴァネッサの関係に奇妙な変化が生じる…。 当時、交際9年目で正式に結婚したばかりだったハリウッド最強のパワーカップル、ブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーが、2人の出会いとなった大ヒット作『Mr. & Mrs.スミス』(’05)以来2度目の共演ということで話題を呼んだ『白い帽子の女』(’15)。しかも、妻アンジーが監督と脚本を手掛け、夫婦揃ってプロデュースにも名を連ねるという夢のブランジェリーナ・プロジェクトだ。当然、配給会社ユニバーサルは興行的な成功を期待したはずだが、しかし結果はまさかの大赤字。批評家からもこき下ろされてしまった。さらに追い打ちをかけるかの如く、本作の公開から約1年後にブラピとアンジーは離婚。ある意味、呪われた一本となってしまったのである。 オープニングとエンディングでカーラジオから流れてくる、ショパンをモチーフにしたジェーン・バーキンの名曲「ジェーンB.~わたしという女」の気だるい歌声とメロディが、ミケランジェロ・アントニオーニさながらの退廃的なアンニュイ・ムードを漂わせる本作。それはまるで、’60~’70年代初頭のヨーロッパ映画のような趣きだ。ビジュアルのイメージはジャン=リュック・ゴダールの『軽蔑』(’63)、作家とその妻のすれ違いを描くストーリーはアントニオーニの『夜』(’61)を彷彿とさせる。 さらに、ある理由で精神を病んでしまった妻が次第に壊れていく様子は、アメリカン・インディーズ映画の父ジョン・カサヴェネテスの『こわれゆく女』(’74)をも連想させるだろう。実際、カサヴェテスを崇拝するブラピとアンジーは、夫婦二人三脚で映画を作り続けたカサヴェテスとジーナ・ローランズを、自分たち夫婦関係のロールモデルとしていた。いずれにせよ、これは完全にアートシアター向きの小ぢんまりとした芸術映画。なるほど、ブランジェリーナ夫婦を目当てに映画館へ足を運んだミーハーな観客が、なんじゃこりゃ!?と戸惑ってそっぽを向いてしまったとしても全く不思議ではない。初めから需要と供給が噛み合っていないのだ。 そもそも映画監督としてのアンジェリーナ・ジョリーは、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を題材にした長編処女作『最愛の大地』(’11)から、一貫して「非ハリウッド」の姿勢を貫いてきたと言えよう。太平洋戦争で日本軍捕虜となった米兵の実話を描いた『不屈の男 アンブロークン』(’14)は、そのストーリーこそ米国大衆好みの戦争英雄譚だったが、しかしあえてハリウッド映画的なヒロイズムを排除することによって、熱心な人権活動家という側面を持つアンジーらしい人道主義的な視点を備えた反戦映画として仕上がった。 クメール・ルージュ時代のカンボジアの混沌と恐怖を、家族とともに集団農場送りとなった少女の視点から見つめた最新作『最初に父が殺された』(’17)に至っては、もちろんカンボジアとの合作だからという理由もあるが、全編に渡ってカンボジア人キャストがカンボジア語で演じるという徹底ぶり。日常の延長線上にあるジェノサイドの不条理を丹念に描くリアリズムにも説得力がある。この一般受けをものともしないアンジーの映画作りへの取り組みは、ハリウッド屈指の高額ギャラを稼ぐ大女優なればこその余裕かもしれないが、それでもなおその我が道を行く作家性には強く関心を寄せずにはいられない。 振り返って、この『白い帽子の女』で描かれるのは、人間誰しもが人生で一度は向き合うことになるであろう「喪失感」だ。’07年に最愛の母親を卵巣腫瘍で亡くしたアンジーは、どうしようもなく深い喪失感から抜け出ることの出来ない時期が続いたという。彼女の母親は元女優ミシェリーヌ・ベルトラン。夫ジョン・ヴォイトの浮気が原因で離婚したミシェリーヌは、女優としての夢を諦めて息子ジェームズと娘アンジーの子育てに人生を捧げた。10代の頃にイジメが原因で鬱状態に陥り、自傷行為やドラッグに溺れた経験を持つアンジーは、そんなどん底の時期を支えてくれた母親に対して、人一倍の強い愛情と絆を感じていたのである。苦労の連続だった母親がなぜ56歳という若さで逝かねばならなかったのか。そのやり場のない悲しみと憤りが、ある出来事が原因で深い喪失感を抱えた主人公ローランドとヴァネッサの夫婦関係に、さらに言えば妻ヴァネッサの不安定な心理状態に投影されていると言えるだろう。 そんな2人がホテルの隣室に宿泊する若い新婚夫婦と親しくなるわけだが、ここからストーリーは思いがけない方向へと展開していく。幸せの絶頂にある若夫婦の寝室を、ローランドとヴァネッサは壁の穴からこっそりと覗き見するのだ。かつては私たちもあんな風に愛し合っていた。いけないことだと重々承知しつつ、壁穴の向こうの光景から目を逸らすことの出来ないヴァネッサ。その行為を当初は咎めたローランドだが、しかしやがて共犯関係へと転じる。あらゆることに無関心・無気力だった妻が、久しぶりに見せる強い好奇心。そこに、彼は夫婦関係改善の手がかりを感じ取ったのだ。 実際、この「共通の趣味」をきっかけにローランドとヴァネッサは、お互いにかつての愛情を取り戻していくかのように見える。しかし、ことはそれほど単純ではなかった。やがてヴァネッサの若夫婦に寄せる関心は度を越えた執着へと変わり、やがて彼女の心に潜む深い喪失感が詳らかになっていく。明るい兆しのように思えたヴァネッサの変化は、実のところギリギリで持ちこたえていた彼女の精神がバランスを失った瞬間、つまり崩壊の序曲のようなものだったのだ。 監督アンジェリーナ・ジョリーの視線は、まるで作り手である彼女自身が主人公たちと一緒になって手探りで答えを見つけ出そうとするかの如く、壊れかけた夫婦の苦悩と葛藤、そして再生までの道程をどこまでも丹念に見つめていく。これは、彼女のほかの作品でも同様だ。『最愛の大地』にしろ、『不屈の男 アンブロークン』にしろ、『最初に父が殺された』にしろ、戦争や内乱といったドラマチックなシチュエーションよりも、その渦中に置かれた人々の心理や感情の変化と成長を細やかにくみ取ろうとする。それゆえに、どうしても彼女の作品は長尺になってしまうのだが、しかし同時にそれが醍醐味でもあるのだ。 一方で、ほかの作品では空撮によるロングショットを多用することで、被写体と一定の距離感を保とうとするアンジーだが、ここではいつもと違って全体的に寄りの画が多く、本作が彼女にとって極めてパーソナルなテーマを扱った映画であることがよく分かる。よくよく考えれば、恋愛映画というジャンル自体が映像作家アンジェリーナ・ジョリーにとっては異質。そういう意味でも、とても興味深い作品だと思う。 もちろん、古いヨーロッパ映画の雰囲気をどこまでもリアルに再現した映像の美しさも素晴らしい。母ミシェリーヌがこの時代のヨーロッパ映画が大好きで、アンジー自身も少なからぬ影響を受けたらしい。撮影監督はミヒャエル・ハネケとのコラボレーションンで有名なクリスティアン・ベルガー。照明の代わりに自然光を反射鏡で使った独特の風合いが、時代の空気を見事なくらいに蘇らせている。タイプライターやルイヴィトンの旅行鞄など、ヴィンテージな小道具の使い方も洒落ている。 オープニングとエンディングを飾るジェーン・バーキンを筆頭に、フランス・ギャルやシャンタル・ゴヤのようなイエイエアイドルから、シャルル・トレネやシャルル・アズナヴールのような王道シャンソンまで、全編に散りばめられた懐メロ・フレンチポップスの数々もレトロな情緒を演出する。まるで、あの時代に本当に迷い込んでしまったような感覚が心地いい。『ベティ・ブルー』(’86)や『カミーユ・クローデル』(’88)の作曲家ガブリエル・ヤレドによる音楽スコアも甘美でノスタルジックだ。ちなみに、劇中で使用される楽曲の大半は’60年代のものだが、しかしイエイエを卒業したシェイラの’74年のヒット曲「Tu Es Le Soleil」や、やはり元イエイエアイドルのジャクリーヌ・タイエブが’79年にリリースした「Petite Fille Amour」が含まれているので、選曲の時代考証はわりとざっくりしているようだ。 とりあえず、ハリウッドのメガスター、アンジェリーナ・ジョリーの監督作という色眼鏡を外して見て頂きたい佳作。当時アメリカの批評で、「所詮は意識高い系セレブの自己満足映画」という論調が多かったのもそのせいだろう。結局、我々は人生の光も影もありのままに受け入れるしかない、痛みも悲しみも人生の一部として付き合っていくしかない。そんな風に感じさせる穏やかで静かな幕引きがとても好きだ。■ 参考資料:「『白い帽子の女』メイキング」(‘15年制作・ビデオ作品)/『偉大なるミューズ:ジーナ・ローランズ』(‘15年制作・ビデオ作品)/「Angelina Jolie on 'By the Sea', Her Wedding and the Sony Hack」(‘15年インタビュー記事・Harper’s Bazaar掲載)/「By the Sea DGA Q&A with Angelina Jolie Pitt and Marc Levin」(‘15年全米監督協会制作・ビデオ作品)