ザ・シネマ なかざわひでゆき
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COLUMN/コラム2018.04.13
【男たちのシネマ愛ZZ⑧】『ソルジャー・ボーイ』
飯森:〆は『ソルジャー・ボーイ』です。これって、アメリカでDVD出てるんですかね? なかざわ:日本では最近ようやく出ましたよね。 飯森:というのも、これも画面サイズが4:3で、もし本国でちゃんとしたDVDが出ていればワイドなニューマスターを作り直しているはずで、ウチもそれを取り寄せて放送できたと思うんですが。 なかざわ:どうやらアメリカでは、少なくとも現時点でビデオ・オン・デマンドのDVDしか出てないみたいですね。注文するとDVD-Rに焼いて郵送してくれるというサービス。しかし、そちらもやはり画面サイズは4:3。先ごろ発売された日本盤DVDも同じ。でも、IMDbのデータベースを調べてみると、1.85:1のビスタサイズが本来の画面サイズだったらしいですね。 なかざわひでゆき…映画&海外ドラマ・ライター。雑誌「スカパー!TVガイド BS+CS」で15年近くに渡ってコラム「映画女優LOVE」を連載するほか、数多くの雑誌やウェブ情報サイトなどでコラムや批評、ニュース記事を執筆。主な著作は。「ホラー映画クロニクル」(扶桑社刊)、「アメリカンTVドラマ50年」(共同通信社刊)など。ハリウッドをはじめとする海外の撮影現場へも頻繁に足を運んでいる。 飯森:いまだにトリミング版しか出回っていないということか。残念ですね。しかし、その理由も分からなくはない。それについては後で述べるとして、いずれにせよ、これはアメリカでも長らく見れなかった幻の作品で、ようやく最近になって徐々に陽の目を見ることになったわけですから、激レアか激レアじゃないかで言えばやはり激レアと言っていいだろうと。これが、ズバリ、『ランボー』の元ネタなんですよね! なかざわ:まさに!一目瞭然ですよね。 飯森:ここでちょっと『ランボー』をおさらいしておきましょう。アメリカの田舎町に流れ着いたベトナム帰還兵のランボーが、保安官から「おい、そこの長髪のアンチャン、お前みたいな薄汚い連中にはこの町に来て欲しくないんだよ、町外れまで送ってくからさ、出て行ってくれないかな、戻ってくんじゃねえぞ!」という、まるで先月ご紹介した『おたずね者キッド・ブルー』みたいな酷いレッテルを貼られて追っ払われる。で、そんなのに従う義務はないからランボーが再び町に戻っていくと、今度は保安官に不当逮捕されて拷問まがいの取り調べを受ける。ブチ切れたランボーは保安官どもを殴り倒して脱獄し、山中に逃げ込む。山狩りで追いかけてきた保安官たちやハンターや州兵と、元陸軍特殊部隊グリーンベレー出身でゲリラ戦のプロであるランボーによる、数百対1ぐらいの“戦争”が、2時間にわたって描かれる。…と、いきなりのネタバレで恐縮ですが、それが『ソルジャー・ボーイ』のラスト15分間クライマックスと完全に重なるんです。保安官による不当逮捕にキレて、アメリカの田舎町で戦争おっぱじめる構図が。 なかざわ:そのラスト15分までは、わりとノンビリしたロードムービーなんですよね。 飯森:ベトナムからアメリカに帰還して復員したばかりの軍人4人組が、あれは恩給なのか除隊一時金なのか、お金を引き出すんですよね。それを皆で出し合ってアメリカの象徴キャデラックを中古で買い、西部を目指してロードトリップするわけです。 なかざわ:まさしくアメリカの原風景みたいな景色が広がっていく。 飯森:西部を目指すのもアメリカを象徴してますが、これは、カリフォルニアで牧場の共同経営をしようと計画してるからなんです。でもこいつらが、タチ悪いんだ。中古車の買い叩き方なんか、あれではカツアゲですよね。お店の人が値段を決めれないという。「俺の言い値で売ってくれるよね?じゃないとどういう目に遭うか分かってる?」みたいな。道中で女も回してヤリ捨てるし。 なかざわ:要するに、彼らは戦場の荒くれ者なんですよ。もともとどのような若者だったのかは分からないけど、少なくともベトナムの戦場では荒くれ者でないと生き残れなかったはず。そのメンタリティから抜けきらないまま、アメリカ本国に戻ってきてしまった。 飯森:当時のアメリカ版ポスターの惹句には、「Danny, Shooter, Fatback and the Kid are carrying a deadly disease. War」とあります。4人の若者ダニーとシューター、ファットバック、キッドが、戦争という死の病を抱えている、つまりベトナムで感染してアメリカに菌を持ち帰ってきてしまったと。 なかざわ:それって、戦場で地獄を見てしまった人間の「心の病」みたいなものなんでしょうね。 飯森:当時は「ポスト・ベトナム症候群」と呼ばれるメンタルの病気があって、今で言うPTSDのようなものなんですけれど、単に心が折れて鬱になるばかりか、攻撃的な性格になることもあったみたいですね。ポスト・ベトナム症候群を描いた映画としてはこれが元祖かもしれません。その後『ローリング・サンダー』が出ましたけど、『ソルジャー・ボーイ』が1971年で、『ローリング・サンダー』はいつでしたっけ? なかざわ:’77年です。だいぶ後になりますね。 飯森:あれは「ホームカミング作戦」という、国務省による捕虜返還交渉の成果でせっかく帰国できた男がしでかす話でしたが、その’77年の時点ではベトナム戦争はもう終わってます。’75年がサイゴン陥落ですから。アメリカが手を引いて「俺もう付き合いきれねえ、カネもあんま出せねえから、これからはお前らで勝手にやんな」とトンズラこくのが’73年。それをニクソンはカッコ良く「ベトナマイゼーション」なんて呼んで誤魔化してましたけど、最悪のハシゴ外し外交ですよ。さんざん引っ掻き回しといて酷い話なんですが、とにかく、『ローリング・サンダー』の’77年のベトナムは、北が南を飲み込んで赤化統一されてから数年がたっている。でも『ソルジャー・ボーイ』の頃はまだバリバリ戦争中だったんですよ。そこが凄い!この描き方アリなのかよ!?と。 なかざわ:そういう時代背景を踏まえたうえで見ると、いろいろな発見や驚きがあるかもしれませんね。 飯森:そう!ぜひ踏まえて見ていただきたい。これ、冷静に考えると酷い話なんです。ベトナム戦争に行った人間は、要するに、おかしくなって帰ってきましたと。さっきの惹句にもありましたけど、戦争菌に感染してきちゃいましたと。もうバイ菌扱いなんですよ。酷い!これって、戦後40年以上経った今になってみれば、ベトナムへ行かされた人に対して失礼だろ!とも思えてしまいますよね。先ほど申した、アメリカでもきちんとソフト化されていない理由ってのは、これじゃないのかな。帰還兵の在郷軍人団体がクレーム入れてきてもおかしくない。 「近えよ」 でもあの頃、反戦運動をしていた人たちのうち一部は、確かにそういうレッテル貼りをしていたんですよね。例えば、当時はベトナム帰還兵のことを「ベイビー・キラー」とか「レイピスト」とか呼んで戦争犯罪人扱いする人たちもいたわけです。でも、兵隊がみんながみんな向こうで戦争犯罪をやってたわけじゃないでしょ?まして当時は徴兵制ですよ! なかざわ:そうなんですよね。意外と忘れがちなんですけど。僕も昔、高校生の頃かな、『イエスタディ』というカナダ映画を五反田の名画座で見て、そのことを初めて知りました。『ある愛の詩』と『シェルブールの雨傘』を足して2で割ったような甘い恋愛メロドラマなんですけど、主人公の若者が徴兵で無理やりベトナム戦争へ行かされて、恋人と離れ離れになるんです。アメリカ人男子とカナダ人女子のカップルなんですけどね。 飯森:切ないですねえ…同じ北米にいて、英語も通じて、なのに男子の方は祖国が東南アジアで戦争してるってだけで、そっちで死ぬかもしれない。カナダ人男子だったらそんな心配は無用なわけですからね。この差は、このリスクはどういうことだと。誰のせいの何リスクなんだと。カナダ政府はベトナム戦争に反対でジョンソン政権と険悪になったぐらいですからね。ちなみに僕の世代になると、ベトナム徴兵映画と言ったら『1969』なんですよね。ロバート・ダウニー・Jr.とキーファー・サザーランドとウィノナ・ライダーの。徴兵逃れをして逃げる若者たちのロードムービーでしたが。まあ、とにかくですねえ、はっきり言って、当時のアメリカ男子はほとんど赤紙に近かったんですよ。いや、赤紙というか商店街の福引に近い。 なかざわ:はぁ?…どういうことです!? 飯森:全米各地に徴兵委員会という行政があって、そこで福引のガラガラみたいなやつを回すんです。コロンと出てきた玉には誕生日が書いてある。それを365回繰り返す。出ちゃった順番が早いほど兵役に持ってかれる可能性が高くなる。まさに、ベトナム行く行かないは運次第だったんです。そんなので運悪くベトナムへ行かされた人が、命からがら帰ってきたら「このベイビー・キラー野郎め!」と罵倒され、唾かけられたりウンチ投げられたりする。 なかざわ:理不尽も甚だしい!! 飯森:戦犯みたいな野郎に唾かけたりウンチ投げたりするならともかく、戦争へ行かされた人たちをみんな一括りにして非難するのはどうなのかと。 なかざわ:でも、今だってすぐ極論に走る人たちっているじゃないですか。右とか左とかいった政治的スタンスの違いに関係なく。そのどちらにも極端な人たちはいる。もう少し理性をもって、バランスを考えながら振る舞えないのかと。 飯森:この『ソルジャー・ボーイ』という作品は、そうした反戦側の極論的なスタンスにわりかし乗っちゃっているように思うんですよね。帰還兵は人殺しと暴力に慣れきっている危険な奴らだから気をつけろ!というレッテル。『ローリング・サンダー』も同じ問題点がある。それ繋がりで言えば『タクシードライバー』にも。 なかざわ:なるほど。ただ、彼らの暴力的な言動の源を遡っていくと、やはり戦争がそもそもの原因で、もともと彼らが悪かったわけじゃ決してない、と思えるような気もするんですが。 飯森:でも、そうは劇中では描いていませんよね?なんで彼らがこうなってしまったのか、この映画では一切触れられていない。まるで「帰還兵=ベイビー・キラー」みたいな描き方がされているし、実際そうとしか見えない。しかも、まだベトナム戦争の真っ最中で、帰還兵や廃兵がどんどんアメリカへ戻ってきているような時期にですよ!? なかざわ:そう言われると確かにそうですね。そうか!もしかすると僕なんかは先に『ランボー』だとか『地獄の黙示録』みたいな、後のベトナム戦争映画を色々と見てしまっていて、予め情報が刷り込まれているから、勝手に深読みをしてしまったのかもしれませんね。 飯森:確かに我々は後続の作品群から客観的な視点を得ているので、それをもとに印象がおのずと補正されてしまうことはあるかもしれません。でも、例えば僕自身がベトナムから帰ってきて、戦死せずに祖国に生還できてよかったとホッと一息つきながら最初に地元の映画館でこの映画を見たら、わりと傷つくと思うんですよ(笑)。 この、不当な偏見と差別の修正を図っていったのが、僕は’80年代とスタローンという漢だったと思うんです。キレる理由を’82年の『ランボー』で初めてちゃんと描いた。なんで俺がアメリカを敵に回して、一人だけの軍隊で同胞を相手に戦争しなきゃいけないんだ!という理由をスタローンは言語化したんです。俺たちが国のためにベトナムでどれだけ酷い目に遭わされてきたか!それなのに祖国に帰ってきて受けるのがこんな扱いなのか!アメリカ社会は俺たちを何だと思ってるんだ!と最後にトラウトマン大佐に泣きじゃくりながら物凄い長ゼリフで訴えるじゃないですか。あそこはゴッソリ原作に無い展開、映画のシナリオ用に書かれたセリフです。スタローンは共同脚本にも名を連ねてますが、誰の手で盛り込まれたものなのか…なんにしても「俺たちに代わってよく言ってくれた!」と、当時の帰還兵ならスタローンに泣いて拍手喝采したと思いますよ。 飯森盛良…ザ・シネマ開局準備段階から異動もなくずっと居座り続けている唯一のスタッフでヌシ的存在。「シネマ解放区」および「厳選!吹き替えシネマ」の黒幕。また「プラチナ・シネマ」の解説番組と、「ふきカエ ゴールデン・エイジ」「町山智浩のVIDEO SHOP UFO」『(吹)プロメテウス[ザ・シネマ新録版]』『(吹)ブレードランナー[ザ・シネマ新録版]』プロデューサー。 なかざわ:確かにその通りですね。 飯森:あれでバッシングの潮目が変わった。’85年の『ランボーII』のラストでもまた言うんですよ。「俺たちの望みは、俺たちが国を愛したように、国も俺たちを愛して欲しいんだ」と、今度は手短に。短いながらこれも帰還兵たちの声なき声をスタローンが代弁したんだと思うんです。映画で世論の流れを変えた。どんだけ偉大な漢なんだと僕は声を大にして言いたい! あと’87年になると『ハンバーガー・ヒル』という映画も出ましたよね。「アパッチ・スノー作戦」という激戦を描いた作品ですけど、あの中でいったん兵役が終わって除隊したのに再志願してベトナムに戻ってくる兵士が一人いるんですよ。その彼がなぜ舞い戻って来たのか訊かれて、空港では誰も歓迎してくれないし「ご苦労様」と言うかわりにウンチを投げつけてきて、祖国はとんでもないことなっていたと。あんな所にはいたくないから、仲間がまだ戦っているベトナムに戻ってきたんだ、としみじみ言うんです。ランボーのセリフとこのセリフで、だいぶベトナム帰還兵の名誉回復がはかられて、ようやく我々はニュートラルにこの戦争のことを歴史として見ることが出来るようになった。『プラトーン』と『カジュアリティーズ』でも、レイピストもいたかもしれないけど正義感を失わない兵士も当然いたんだと描かれた。とにかく、政治の季節が終わった’80年代、まず『ランボー』がやりすぎカウンターカルチャーとしての帰還兵差別を終わらせたことは意義深いですな。もちろんベトナム人民の苦難はもっとずっと筆舌に尽くしがたいわけですが。 そういえば、この『ソルジャー・ボーイ』の若者たちがグリーンベレーだって、劇中で言及していましたっけ? なかざわ:いや、覚えていませんね。ごめんなさい。 飯森:実は彼らもグリーンベレーなんですよ。軍服を見れば分かる。一目瞭然ですけど、冒頭、帰国した時にグリーンベレーを被っていて、その左オデコの部分に黄色い盾型の布が付いているんですが、あれは「ベレーフラッシュ」といって土台となる布で、その土台の上から米陸軍は金属の階級章か紋章をさらに付ける決まりなんです。で、その黄色のベレーフラッシュが「第1特殊部隊グループ」というグリーンベレー部隊のものなんですよ(下写真左)。あと着ている「グリーン・サービス・ユニフォーム」という緑色の制服の左肩に「特殊部隊群章」と呼ばれる水色のワッペンが付いている(下写真右)。そこから、彼らは100%確実に元グリーンベレーだと断言できるんです。ランボーと同じだったんですよ。これは、グリーンベレーの男たち4人組が復員して、人殺しに慣れきってしまったせいで大殺戮を犯すという話だったんですね。先ほど、この映画は原因を描かずにベトナム帰還兵は全員ヤバいと描いてる点が問題だと述べましたが、強いて理由を探るなら「グリーンベレーってのは悪い奴らだ!」ってことなのかもしれません。 (Wikipediaからのパブリックドメイン画像) なかざわ:なるほど!そうか(笑)。 飯森:グリーンベレーって一時期、人殺し集団のように言われていたことがありましたよね。その元凶になった人物っていると思うんですよ。 なかざわ:…ジョン・ウェインだって言いたいんでしょ? 飯森:そう(笑)!あの人の『グリーン・ベレー』ってのはまあ、とんでもない映画でしたから。まるで西部劇。 なかざわ:彼の映画は全部西部劇のフォーマットになっちゃいますよね。晩年の刑事アクション『ブラニガン』でロンドンに行っても、結局はロンドンで西部劇をやってますから。 飯森:こっちの作品ではベトナム戦争で西部劇やってる。グリーンベレーは助けに来た騎兵隊、ベトナム人がインディアン。南は良いインディアンで北は悪いインディアンだと。そういう旧態依然とした現状把握で物事を単純化しようとした。これが、プロパガンダ目的のタチの悪い戦意高揚国策映画なのかと思いきや、ジョン・ウェインが作りたくて好きで自分で作っていたという(笑)。 なかざわ:なにしろ、インディアンに対する虐殺の歴史にしたって、「土地を必要としている白人がいるというのに、それを独り占めしようとしたあいつらが悪いんだ!」なんて平気で言っちゃう人でしたからね。 飯森:…笑っちゃいかんのですが、もはや酷すぎて笑うしかない!『グリーン・ベレー』は’68年でしたけど、’68年に反戦運動とか学生運動やっていたような人たちは、ジョン・ウェインがその手の人だってことはとっくに分かりきっていたから驚かなかったかも。もう、あきらめてた。でも、そのとばっちりを受けたのがグリーンベレーですよ。変な人から変に褒められちゃって。こういうのを「贔屓の引き倒し」と言う(笑)。そのせいでグリーンベレーってのは何をするか分からない危険な連中だというイメージが付いちゃった。その頂点がカーツ大佐。 そういえば、『ランボー』って、映画は’82年ですけど、原作が出版されたのは実は’72年なんですよ。 なかざわ:なるほど、『ソルジャー・ボーイ』とほぼ同時期ですか。 飯森:これって偶然なのか何なのか、ビックリしちゃいますよね。 なかざわ:でも、同じ時代の空気を吸った人たちが、たまたま同じような着想を得てそっくりな物を作るということは、ままあることだと思うんですよ。 飯森:同感です。実際、『ソルジャー・ボーイ』の劇場公開と、『ランボー』原作の出版時期って、ほとんどタイムラグありませんから。パクることすらできないぐらい時期が被っている。 映画版『ランボー』では描かれていなかったと思うんですけど、ブライアン・デネヒーの演じた保安官って、原作では実は朝鮮戦争の退役軍人で英雄なんですよ。で、『ソルジャー・ボーイ』にも同じく朝鮮戦争の退役軍人が出てきましたよね?主人公たちのことを軟弱者呼ばわりする。「戦争が終わってもいないのに尻尾巻いて逃げ帰って来やがって、この腰抜けどもめ」と、わざと聞こえよがしに飲み屋で大声で言って喧嘩を売る。同じように従軍経験があっても、朝鮮戦争世代とベトナム戦争世代では何故かジェネレーションギャップがあるみたいなんですが、原作版『ランボー』の方にも全く同じ要素が存在するんですよ。 なかざわ:その感覚って、戦争を知らない我々にはよく分かりませんよね。もしかすると、「俺たちの若い頃は凄かった!それに比べて今時の若いもんは…」という、よくあるオヤジの戯言なのかもしれませんが。 飯森:そもそも朝鮮戦争とベトナム戦争って似てるじゃないですか。一つの国が北と南に分裂して、北を共産圏が支援して南をアメリカが支援すると。構造が似ているので比較がしやすいってこともあるのかも。で、原作版『ランボー』における保安官って、実はランボーとほぼ同格の主人公として描かれていて、なぜ彼があんな人になってしまったのかということも掘り下げられているんです。ずばり『グラン・トリノ』なんですよ。朝鮮戦争から帰った若いイーストウッドが、フォードの工場で働かずに田舎町で保安官になってドーナツ食ってるうちにブクブク太って中年のブライアン・デネヒーになっちゃった(笑)。確かに頑固者で問題のあるオヤジだけど、決して根っからの悪人ではない、正義感もあるという描かれ方をしていて、映画版とは全くの別物です。また、ランボーの方も、ベトナムでの捕虜体験と拷問のトラウマが暴力を爆発させてしまう彼個人の特殊な事情なのだとして、’72年という早い時点でちゃんと描写している。 でも一方の同時期の『ソルジャー・ボーイ』の主人公たちは、地元住民や保安官が持つ銃の影を見ただけで、あるいはカチャっというコッキング音を聞いただけで、いきなりスイッチが入っちゃって、冷静沈着な殺人マシンと化し女子供まで殺しまくる。アメリカ版ソンミ村虐殺事件みたいなことをヤラかしちゃう。「しまった!カッとなってヤッちまった!」という後悔さえなく、皆殺しにした後で溜飲が下がったようなスッキリ顔までする始末。あのヤバさはほとんど『影なき狙撃者』です。 なかざわ:あちらは、最近話題になったスリーパー・セルみたいなもんですけどね。 飯森:朝鮮戦争で捕虜になって敵に洗脳され、暗示をかけられていて、帰国後ある条件でスイッチが入ると無感情な殺人マシーンに変身するんですよね。ソルジャーボーイズたちも、戦場で暴力に慣れきったというよりも、そっちに近い。要は、ちょっとマトモじゃないヤバい奴という、酷い扱われようですよ。まあ、『ローリングサンダー』の方は捕虜体験が原因だとは描いてるんですが、とにかく、どっかおかしくなっちゃってる危険人物、という酷いスタンスは変わりないですからね。そこがランボーと違う。あっ!今気づきましたけど、さっき名前をあげた『タクシードライバー』もそう考えると『影なき狙撃者』に通じるものがありますね。あっちでおかしな人になって帰って来た帰還兵が大統領候補の暗殺を企てる。なぜならマトモじゃないから、という映画ですもんね。 なかざわ:にしても、主演のジョー・ドン・ベイカーってそういうヤバい役が似合いますよね(笑)。 飯森:なかざわさんと初めて対談した際のお題も、ジョー・ドン・ベイカー主演『ウォーキング・トール』でしたね。我々にとっては縁の深い役者ですな。あれでもキレて手が付けられないヤバい人の役だった。町の治安悪化が気に入らないからと保安官になって、なぜかブッとい丸太ン棒でチンピラの脳天を次々とカチ割って回るという。 なかざわ:ヤバいアメリカ人を演じさせたら彼の右に出る者はいませんよ。顔がそうだもん。 飯森:ただ、ジョー・ドン・ベイカーにしてもジョン・ウェインにしても、あの時代のアクション俳優のカッコ良さと言ったらね!手に持った拳銃が小さく見えてしまうくらいデカいんですよね。アサルトライフルがサブマシンガンぐらいに見えちゃうし。あと、今のアクション俳優って鍛えすぎちゃってて、無駄な贅肉を落としているから逆に強そうに見えないんですよ。見せびらかすための自意識過剰な筋肉で。それに比べてジョー・ドン・ベイカーやジョン・ウェインは、人目なんて一切気にしてない。欲望のままに厚切りのステーキを何枚も貪り食って、毎晩のようにバーボンをガンガン飲まないと、あんな体型になりませんからね。見せびらかすという感覚すら理解しない獰猛なだけの野獣みたいな、あれはカッコ良い! なかざわ:全身から醸し出すオーラがマッチョなんですよね。いくら一所懸命に筋肉を鍛えたって、あのオーラを出すことは絶対に出来ない。晩年の『ブラニガン』だって、よく考えるとお爺ちゃんが拳銃持ってノソノソ歩いてるだけなんですけど(笑)、ものすごくマッチョに見える。 飯森:ちょうど『ペンタゴン・ペーパーズ』も劇場公開されたばかりですが、ベトナム戦争というのはとてもタイムリーなテーマだと思うんですよね。当時は政治の季節でしたけど、今もまた、すっかりそうなってしまった。しばらくはあの時代について考えていきたい。『ソルジャー・ボーイ』もその材料となる一本で、今回ぜひとも見ていただきたいと思います。 と、いうことで、前後編に分けた今回の対談もこれでおしまいですが、おそらくまた遠からぬうちにやるでしょうから、その時はまたよろしくお願いします! なかざわ:こちらこそ、次回を楽しみにしています!■ 写真撮影/中島繁樹 © 1971 Twentieth Century Fox Film Corporation. Renewed 1999 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved. 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存
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COLUMN/コラム2018.07.03
グラインドハウスなき時代の正統派グラインドハウス・ムービー。エロ・グロ・ナンセンスの三拍子揃ったシリーズ最高傑作!?『スピーシーズ2』
映画ファンであれば必ず1つや2つ、世間的な評価が低いにも関わらず愛してやまない映画というものがあるだろう。いわゆるGuilty Pleasure(罪悪感のある歓び)というやつだ。そもそも、人間の好みなんて千差万別。当たり前のことだが、不朽の名作と呼ばれる映画にしたって、必ずしも観客の100人中100人が満足するわけじゃない。反対に、10人しか満足しなかった映画が駄作だとも限らないだろう。たとえ一般受けはせずとも、一部観客層の琴線にはビシバシ触れる!という作品は少なくない。それが巡り巡ってカルト映画と呼ばれるようになるわけだが、筆者にとってはこの『スピーシーズ2』(’98)もその一つだ。 とりあえず、天下のimdbにおける評価は10点満点中半分以下の4.3点、映画批評サイト、ロッテン・トマトの評価に至っては100%中たったの9%である。世間の評価はかなり厳しいようだ。まあ、正直なところ低評価の理由も分からなくはない。なにしろ、基本はエログロ満載のB級SFホラー映画。全編に渡って血飛沫と内臓とオッパイがいっぱい(笑)。しまいにゃ、エイリアン同士の発情&交尾という、映画史上稀に見る珍シーンまで登場するナンセンスぶり。ハリウッドの老舗メジャー・スタジオMGMが製作したとは思えないようなえげつなさだ。しかし、それでもあえて声を大にして叫ぼう。エログロのいったい何が悪い!ゲテモノ上等!ナンセンス最高!エイリアンが交尾したって別にいいじゃないか!と。 ご存知の通り、’95年に劇場公開された1作目『スピーシーズ/種の起源』は、批評家から酷評されながらも興行収入1億1300万ドル以上の大ヒットを記録。おのずと続編が作られることになったわけだが、その2作目『スピーシーズ2』は、劇場の売り上げだけでは製作費を回収できないほど大コケしてしまった。しかし、である。その後シリーズが4作目まで継続されたことからも想像できるように、一部の観客層からは確実に支持されたのである。察するに、いろいろな意味でやり過ぎたのかもしれない。エロもグロもほどほどだった前作は、この種のカルト性の高い映画に免疫のないライトな映画ファンでも楽しめたと思うが、本作の場合は「さすがにここまで遠慮がないとぶっちゃけドン引くわ~」という反応が多くても不思議ではない。それほどまでに、今回は性描写も残酷描写も過激で露骨。逆に言うと、それが筆者のような好事家にとってたまらないポイントであり、本作が桁違いに大ヒットした1作目よりも遥かに愛おしい理由なのである。 まずは前作を簡単に振り返ってみよう。アメリカ政府の秘密研究機関から一人の少女(無名時代のミシェル・ウィリアムズ!)が脱走。その正体は、宇宙から届けられたメッセージに含まれた情報を基に、人間とエイリアンのDNAを融合させて作られたハイブリッド生命体「シル」だった。政府は早速、各方面の専門家を集めたチームを編成して追跡を開始。しかし、驚異的な速さで成人女性へと成長したシルは、やがて種を残すという生存本能のままに、生殖相手を求めて男たちを次々と襲っていく。先述したようにエロもグロもわりと控えめではあったものの、トップモデル出身で女優初挑戦のシル役ナターシャ・ヘンストリッジは魅力的だし、なによりも『エイリアン』(’79)で有名な芸術家H・R・ギーガーの手掛けた、艶めかしくもスタイリッシュな女性エイリアンのクリーチャー・デザインが素晴らしかった。このデザインはそのまま続編にも引き継がれている。 で、それから数年後の出来事を描く本作。アメリカは人類史上初の火星探査を成功させ、帰還した3人の宇宙飛行士たちは国民の英雄として歓迎されたのだが、実は彼らは知らぬ間にエイリアンに寄生されていた。一方、米軍施設ではシルのクローン、イヴ(ナターシャ・ヘンストリッジ再登板)を厳重な監視下に置き、エイリアン対策のためにその生態を徹底研究していた。そんな折、殺人事件の犠牲者の死体からエイリアンのDNAが発見され、宇宙飛行士たちの感染が発覚。イヴがテレパシーで彼らと繋がっていることを知った軍は、それを利用して再びエイリアン狩りに乗り出すこととなる…。 とまあ、ネタバレを避けるための大雑把なストーリー解説となったが、話の本筋としては前作の焼き直しに近いことがご理解いただけるだろう。つまり、生殖のため人間の異性を求めて殺人を繰り返すエイリアンと、その行方を捜して最悪の事態を食い止めようとする追跡チームの戦いだ。ただし、今回の追われる側は男性エイリアン。上院議員の息子であり、将来の大統領候補と目される宇宙飛行士パトリックだ。前作のシルと瓜二つの女性エイリアン、イヴは基本的に追う方の側。従って、前作では男たちが次々とシルの毒牙にかかったが、今回の犠牲者は大半が女性となる。死因は「妊娠」。どういうことかというと、エイリアンに寄生されたパトリックとセックスすることで「種付け」された女性たちが、その場でエイリアンの子供を妊娠。見る見るうちに腹が膨れ上がり、『エイリアン』のチェストバスターのごとく、赤ん坊が腹を破って飛び出してくるのだ。 なので、おのずと大胆なセックス・シーン&血みどろシーンのオンパレードとなる。もちろん、1作目でも同様のエログロ要素はあったものの、さすがにここまで露骨ではなかった(笑)。ある意味、R指定の限界に挑戦といった感じか。前作よりもっと過激に、もっとショッキングにというのは、この種の娯楽映画シリーズの鉄則みたいなものだが、それにしてもなかなか思い切っている。文字通り酒池肉林の3Pシーンなどは本作の白眉。そもそも本来、こうした下世話なキワモノ映画というのは、インディペンデント系の弱小スタジオがグラインドハウスと呼ばれる場末の映画館向けに低予算で製作・配給するものだったが、それをMGMのような大手スタジオが多額の予算をかけて作ったのだから、よくよく考えればまことに贅沢な話だ。ホームビデオの普及と大都市の再開発によって、グラインドハウスが消滅してしまった’90年代ならではの副産物と言えなくもないだろう。まあ、それゆえに一般受けの厳しいカルト映画になってしまったことも否めないのだけど。 また、特殊効果におけるCGの使用を最小限に抑えたことも良かった。例えばH・R・ギーガーのデザインしたエイリアン。1作目ではスティーヴ・ジョンソン率いる特殊効果チームが見事なまでにフェティッシュ感溢れるクリーチャー・スーツを作り上げたが、しかしアクション・シークエンスでは当時まだ発展途上にあったCGで再現してしまったため、その部分が明らかに見劣りしてしまうことは否めなかった。そこで、続編を作るにあたってプロデューサーのフランク・マンキューソ・ジュニア(『13日の金曜日』の製作者フランク・マンキューソの息子)から、特殊効果用の予算を「好きなように使って構わない」と別枠で丸ごと与えられたジョンソンは、CGを含むVFXよりも従来のSFXにこだわることを決めたという。これが結果的には大正解だったと言えるだろう。 実際に本編をご覧になれば分かると思うが、どの特殊効果シーンも仕上がりは非常にリアルだ。例えば、セックスの最中に興奮したパトリックがエイリアンへと変身しかけるシーン。実は、正常位で腰を振っているパトリックはシリコン製のダミーボディだ。体のあちこちから飛び出す触覚もCGではなく本物。スティーヴ・ジョンソンとスタッフの仕事ぶりは完璧で、そう言われなければ全く気付かない。後半で全身から触覚が飛び出すエイリアンのハイブリッド少年も同様にダミーボディ。鼻から触覚がニョロッと見えるシーンは、少年の顔を実物より大きめにシリコン素材で製作して使っている。当然、メインとなるエイリアンも人間が中に入ったクリーチャー・スーツと機械仕掛けのアニマトロニクス※を併用しており、おかげでクライマックスの交尾シーンも妙に生々しいものとなった。まあ、ヒューマノイド型の女性エイリアンと違って、四つ足動物型の男性エイリアンはさすがに作り物感が否めないものの、それでも当時の安っぽいCGで処理するよりは全然マシだ。もちろん、部分的にはCGも使用されているが、あくまでも補足的な加工手段に徹している。 ※アニマトロニクスとは生体を模したロボットを操作して撮影する特殊効果技術のこと 単純明快で分かりやすいストーリー展開も悪くない。変に高尚なメッセージ性を込めたりなどせず、どこまでも見世物映画に徹している潔さはむしろ評価すべきだろう。もったいぶった説明や前置きなども殆どなし。それは前作から一貫している。なので、ストーリーの進行はとても速い。監督は『チェンジリング』(’80)や『蜘蛛女』(’93)のピーター・メダック。あの職人肌の名匠がこんなトンデモ映画を!?と意外に思う向きもあるかもしれないが、しかしパワフルでタフな女と破滅へ向かって突き進む男の物語として、『蜘蛛女』と相通じるものも見出せるだろう。それに、そもそも何でもこなせるからこその職人監督。むしろ作り手としての懐の深さすら感じさせられるのではないか。 ちなみに、脚本家クリス・ブランカトーによると、当初の脚本では追う側のエイリアンも追われる側のエイリアンも女性という設定で、追われる側のエイリアン役にはナターシャ・ヘンストリッジと同じくモデル出身のシンディ・クロフォードを想定していたらしい。結局は製作者マンキューソ・ジュニアの要望で性別を変えることとなったわけだが、そちらのシンディ・クロフォード・バージョンも実現していたら面白かったように思う。なお、続く『スピーシーズ3 禁断の種』(’04)と『スピーシーズ4 新種覚醒』(’07)は、どちらもケーブル局Syfyで放送のテレビ・ムービーとして製作されている。 © 1998 METRO-GOLDWYN-MAYER PICTURES INC.. All Rights Reserved 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存
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COLUMN/コラム2018.07.10
民主主義と愛国精神の原点とあり方を問う、2018年の今だからこそ見直すべき傑作『スミス都へ行く』
1929年10月24日に起きた株価の大暴落、いわゆる「暗黒の木曜日」が引き金となり、アメリカのみならず世界中を未曽有の経済不況が襲った1930年代。この歴史的な「世界大恐慌」によってアメリカ経済はどん底に突き落とされ、全米中に失業者や浮浪者が溢れかえった。そんな先行きの見えない暗闇の時代、アメリカの庶民にとって数少ない安価な娯楽の一つが映画だった。大勢の人々が限られた僅かな時間だけでも辛い日常を忘れようと映画館に押し寄せ、皮肉にもそのおかげでハリウッド映画界は空前絶後の黄金期を迎える。そうした中、どこまでも貧しい庶民の心に寄り添うような映画を作り続け、西部劇の巨匠ジョン・フォードと並んでアメリカの一般大衆に最も愛された映画監督がフランク・キャプラだ。 貧しいイタリア系移民の息子として育ち、アメリカ社会の底辺で様々な職を転々とした後、1920年代当時まだ新興産業だった映画界にチャンスを見出したキャプラ。マック・セネットが製作する一連のスラップスティック・コメディで映画監督となり、1928年コロムビア映画(現ソニー・ピクチャーズ)へと入社する。とはいえ、当時のコロムビア映画はMGMやパラマウントなど大手5社の「ビッグ5」に対し、ユニバーサルおよびユナイテッド・アーティスツと共に「リトル3」と呼ばれた弱小の零細スタジオ。キャプラも当初は低予算のコメディばかりを撮っていた。そんな彼の名前を一躍高めたのが、貧しいリンゴ売りの老女が街のギャングの助けで貴婦人に化け、自分を社交界の淑女だと信じる修道院育ちの我が娘と再会するという人情喜劇『一日だけの淑女』(’33)。これでアカデミー賞の作品賞以下4部門の候補に挙がったキャプラは、さらにMGMからクラーク・ゲイブル、パラマウントからクローデット・コルベールと、他社のトップスターをレンタルして撮ったロマンティック・コメディの金字塔『或る夜の出来事』(’34)でアカデミー賞主要5部門制覇という史上初の快挙を達成。いよいよコロムビア映画は大手スタジオの仲間入りを果たし、キャプラは同社の看板監督として、その名前だけで観客を呼べる「スター」となったのである。 しかし、キャプラが真の意味で巨匠と呼ばれるようになったのは、アメリカの腐敗した権力を痛烈に批判し、人間の善意と良識に真の価値を見出す『オペラハット』(’36)と『我が家の楽園』(’38)、そして『スミス都へ行く』(’39)の3本の成功によってであろう。大富豪の遺産相続人となった田舎者の純朴な青年(ゲイリー・クーパー)が、あり余った大金を困窮した失業者たちのために分配しようとしたところ、強欲な資本家たちの激しい妨害に遭ってしまう『オペラハット』。弱肉強食の経済界を勝ち抜いてきた冷酷非情な実業家(エドワード・アーノルド)が、息子と貧しい庶民の娘の恋愛を全力で阻止しようとするも、やがて金と権力に憑りつかれた我が人生の虚しさに気付いていく『我が家の楽園』。そして、ある日突然、上院議員に抜擢された理想家の純粋な愛国青年が、政治家と資本家が結託した巨大な汚職を暴くために孤独な戦いを強いられる『スミス都へ行く』。いずれも行き過ぎた資本主義の弊害と過ちを糾弾し、それによって生じたアメリカ社会の歪みを指摘しつつ、だからこそ今一度アメリカの失われた大義、すなわち自由と平等と博愛の精神に立ち返るべきだと強く説く。キャプラが「アメリカの理想と良心を体現する映画監督」と呼ばれる所以だが、中でもその真骨頂が『スミス都へ行く』だ。 主人公は少年警備隊の隊長ジェフ・スミス(ジェームズ・スチュワート)。山火事を消したことで全米の青少年たちの英雄となった彼は、初代大統領ジョージ・ワシントンの辞任挨拶を暗唱できるほどの熱烈な愛国者だ。亡くなった上院議員の後任として、尊敬する大物政治家ペイン議員(クロード・レインズ)から指名されたスミスは、愛する祖国のために貢献するという大志を抱いて首都ワシントンへ到着するも、そこで彼が目の当たりにしたのは、アメリカ建国の崇高な精神とは程遠い腐り切った政治の実態だった。 政界の黒幕である大物実業家テイラー(エドワード・アーノルド)が裏で実権を握り、表向きの大義名分とは裏腹に一部の権力者が利益を貪る政治の世界。スミスが上院議員に担ぎ上げられたのも、テイラーが推し進めるダム建設計画の法案を上院で通すための数合わせが理由だった。というのも、テイラーはペイン議員や州知事ら「お友達」の政治家と結託し、ダム建設を口実にした大規模な土地転がしを企んでいたのだ。彼らは政治経験がない上に純粋でナイーブなスミスなら簡単に騙して利用できると考えたのだが、やがてそれが大きな誤算であったことに気付かされる。アメリカ建国以来の民主主義の基本理念を心から信じるスミスは、私利私欲にまみれたテイラーたちには到底理解し難いほど筋金入りの愛国者だったのだ…! 「小さな親切がなければ憲法など意味がない」「我々には思いやりの心が必要だ」と力説するスミス。彼にとって愛国とは、一人でも多くの国民が幸福に暮らせる平和で平等な社会を実現すること。そして、そのためには国民の権利を脅かす国家権力の不正に真っ向から立ち向かうことも厭わない。その博愛精神に根差した愛国心は、トランプ政権下のアメリカや世界各地で不気味に増殖する盲目的で偏狭な人々とは、ある意味で対極にあると言えるだろう。その根底には、自らがイタリア系移民の子として言われなき差別を受け、長いこと貧困のどん底であえぎ苦しみながらも、その一方で機会均等の社会システムと庶民の間に根強いキリスト教的な隣人愛に支えられ、無一文からハリウッドの巨匠へと立身出世したキャプラの、いわばアメリカの光と影の両方を目の当たりにしてきた苦労人だからこその強い信念が貫かれている。「あらゆる人種と階層の子供たちを集め、お互いが同じ人間であることを学ばせたい」というスミスの言葉にも、キャプラの思い描く理想的な社会への想いが込められていると言えよう。監督自身もまた、紛うことなき愛国者だったのだ。 その一方で、本作を含むキャプラの作品群は「理想主義的なファンタジー」と揶揄されることも多い。現実はそんなに甘くない、というわけだ。確かに現実の社会は善悪の境界線など曖昧で、道徳の教科書に出てくるような正論が通用するほど単純ではない。どこかで折り合いをつけて賢く立ち回る方が得策だし、長い目で見れば理想の1つや2つくらいは実現できるかもしれない。だが、そうしたニヒリズムや安易な妥協こそが権力を腐敗させる原因になるのではないかと、キャプラは本作で警鐘を鳴らす。 もともとは清廉潔白な理想主義者だったものの、それでは政策を実現できないからとテイラーに魂を売ったペイン議員は、我が州の失業率が最低なのも、国からの補助金が最高額なのも、私が妥協したおかげだと自らを正当化する。そんな彼の秘書サンダース(ジーン・アーサー)も、生活のためだと自分に言い聞かせて上司の不正を見て見ぬ振りし、政治を皮肉ることで自らの罪悪感をごまかしている。マスコミだって国会が茶番であることを重々知りながら、資本力にものを言わせたテイラーの圧力を恐れて黙り込み、右も左も分からない新人議員スミスのように叩いても安全なターゲットを茶化して留飲を下げている。なんだか、近頃どっかで見たような光景だが、それでは権力の不正を野放しにするばかりであろう。おかげで、大物政治家がお友達のために法案を通そうとする、それに協力すればおこぼれに与れるけど反対すれば潰される。もはや既視感しか覚えない腐敗政治の一丁出来上がりだ。どこまでも愚直でバカ正直なスミスに共感したサンダースが、劇中でこう言う。「信念を持つバカが世の中を良くしてきた。あなたの常識的な正義感こそ、この国には必要、いえ歪んだ世界の全てに必要なのよ」と。 そんなサンダースの言葉に突き動かされ、たった一人で強大な権力に立ち向かうことを決意するスミスだが、しかし敵はどこまでも姑息で邪悪だ。それ以前に公文書を捏造してスミスの汚職事件をでっち上げた彼らは、さらにマスコミへの圧力や支持者による草の根活動を総動員して世論をミスリードし、議会でテイラーたちの不正を暴こうと孤軍奮闘するスミスを「大衆の敵」に仕立てることで、彼の信念を粉々に打ち砕こうとする。それはちょうど、『オペラハット』の主人公ディーズ氏が精神病のレッテルを貼られ財産を奪われそうになったように、そして『我が家の楽園』の庶民一家が土地買収計画に呑み込まれざるを得なくなったように。善良な人々はその善良さゆえ、理不尽な困難に直面せざるを得ない。そう、キャプラの映画は確かにハリウッド的な夢物語かもしれないが、しかし決して楽天主義にばかり終始するわけではない。あくまでも、不正がまかり通る世界で正義を貫くことの難しさを大前提としている。そこを見誤ってはいけないだろう。 ストーリーの基本的な構造そのものは『オペラハット』の焼き直しだが、しかし民主主義や愛国精神の原点とそのあり方を問うメッセージは、劇場公開から80年を経た現代でも全く古さを感じさせない。むしろ、2018年の今だからこそ見直すべき映画と言えるだろう。その後、彼自身が愛国者ゆえに第二次世界大戦の国家プロパガンダに利用されてしまったキャプラは、その反省を踏まえて戦後の傑作『素晴らしき哉、人生!』(’46)でさらに強く深く、人間が本来持つべき善意と愛情の尊さを描き、ベトナム戦争の際にはアメリカ政府の姿勢を強く非難した。果たして、もし彼が今生きていたら21世紀のアメリカを、そして日本を含む世界をどのように見ていただろうか。 © 1939, renewed 1967 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved. 保存保存 保存保存
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COLUMN/コラム2018.09.05
ロジャー・コーマン製作の『ジョーズ』亜流映画はバカの連鎖によって大惨事が引き起こされる痛快(?)ブラック・コメディ『ピラニア』
B級映画の帝王ロジャー・コーマンが弟ジーンと共に、'70年に設立したインディペンデント系映画会社ニューワールド・ピクチャーズ。'83年にコーマンがハリウッドの大物弁護士3人の合弁会社へ売却するまでの間、実に100本以上の低予算エンターテインメント映画を製作・配給した同社だが、その中でも興行的に最大のヒットを記録した作品がジョー・ダンテ監督の『ピラニア』('78)だった。 ニューワールド・ピクチャーズの基本方針といえば、言うまでもなく徹底したコストの削減である。人件費を浮かせるため撮影期間は最小限に抑えられ、キャストもギャラの安い無名の若手新人か落ちぶれたベテラン勢で固め、セットや衣装、大道具・小道具などは別の映画でも使い回しされた。時にはフィルムそのものを使い回すことも。さらに、リスクを取ることなく確実に当てるため、映画界のトレンドやブームには積極的に便乗。最初期の代表作『危ない看護婦』('72)シリーズは折からのソフトポルノ人気に着目しての企画だったし、ヨーロッパ産の女囚映画が当たり始めるとすかさず『残酷女刑務所』('71)や『残虐全裸女収容所』('72)などの女囚物をバンバン連発した。さらに、『バニシングIN 60”』('74)が大ヒットすれば『デスレース2000年』('75)や『バニシングIN TURBO』('76)を、『スター・ウォーズ』('77)がブームになれば『宇宙の七人』('80)や『スペース・レイダース』('83)を、『エイリアン』('79)が当たれば『ギャラクシー・オブ・テラー/恐怖の惑星』('81)や『禁断の惑星エグザビア』('82)をといった具合に、時流のジャンルや大ヒット映画を臆面もなくパクるのがコーマン流の成功術だったわけだ。 なので、当時のロジャー・コーマンが折からの『ジョーズ』ブームに目を付けたのも当然と言えよう。'75年の6月に全米公開されたスティーブン・スピルバーグ監督の『ジョーズ』('75)は、900万ドルの予算に対して4億7000万ドル以上を売り上げ、各映画会社が夏休みシーズンに目玉映画を公開するサマー・ブロックバスターの恒例行事を初めて確立し、自然界の生き物が人間を襲うという動物パニック映画のブームを巻き起こした。自然公園に出現したクマが人間を襲う『グリズリー』('76)、可愛い犬たちが集団で人間を襲撃する『ドッグ』('76)、さらにはオゾン層の破壊の影響で様々な動物が凶暴化する『アニマル大戦争』('77)などなど。ただ、『シャークジョーズ/人喰い鮫の逆襲』('76・旧テレビタイトル)と『オルカ』('77)、そしてイタリア産の巨大タコ映画『テンタクルズ』('78)の例外を除くと、『ジョーズ』の直接的な亜流に当たる水中生物系のパニック映画が量産されるようになるまでには少し時間がかかった。 そもそも、この『ピラニア』だって『ジョーズ』のヒットから3年も経って劇場公開されている。そのほか、鮫だけでなくワニやカマスや海洋モンスターなど、手を変え品を変えた一連の『ジョーズ』パクり映画群も、だいたい'78~'81年頃に集中して作られている。その理由の一つとして考えられるのは、陸上に比べると水中撮影は時間もコストもかかることであろう。また、『ジョーズ』のように撮影用の巨大な生物メカを製作するとなると、さらに費用がかかってしまう。懐に余裕のない独立系映画会社にとっては負担が大きい。しかし、多くのプロデューサーが『ジョーズ』の亜流映画製作に慎重となった最大の理由は、本家製作元のユニバーサルから訴えられることを恐れたためではないかと思われる。実際、あまりにもストーリーが『ジョーズ』と酷似したイタリア産の『ジョーズ・リターンズ』('81)は、案の定ユニバーサルから訴訟を起こされ、全米公開からたったの1か月で上映を差し止められている。それでも1800万ドルの興行収入を稼いだというのだから立派なものなのだが。 そういうわけで、巨大な鮫に対して小さいピラニアだったら、仮に訴えられても言い訳できるだろうと考えたロジャー・コーマン。ところが、当時『ジョーズ2』('78)を劇場公開したばかりだったユニバーサルは、著作権侵害を理由に『ピラニア』の公開差し止めを求めようと動いていた。うちの客を奪われちゃかなわん!ってことなのだろう。それを思いとどまらせたのが、なんとほかでもない本家『ジョーズ』の生みの親スピルバーグ監督だったと言われている。事前に『ピラニア』本編の完成版を見て気に入ったスピルバーグは、ジョー・ダンテ監督の腕前を高く評価していたらしいのだ。そのことをダンテ監督自身は、後にオムニバス映画『トワイライトゾーン/異次元の体験』('83)の監督の一人として、スピルバーグから声がかかるまで全く知らなかったらしい。その後、『グレムリン』('84)や『インナースペース』('87)などでもダンテと組むことになるスピルバーグだが、この頃から既に彼の才能に着目していたのである。 そんなスピルバーグをも認めさせた映画『ピラニア』の面白さとは、一言で言うなら「開き直りのパワー」であろうか。どうせ低予算のパクり映画なんだから、思い切って好きなことやって楽しんじゃおうぜ!という若いスタッフの情熱と意気込みが、スクリーンから溢れ出ているのである。先述したように、ロジャー・コーマンは徹底して予算を抑えた映画作りをしていたわけだが、その一方で経験が豊富とは言えない若いスタッフたちに積極的にチャンスを与え、クリエイティブ面でも彼らの意見を最大限に尊重し、その才能を後押しすることを惜しまなかった。まあ、それもまたコーマン流の人件費削減術(経験の浅いスタッフはギャラも安い)なのだが、結果的に多くの優秀な映画人が彼のもとから育ったわけだから全然オッケーでしょう。実際、ニューワールド作品からも、ロン・ハワードやジョナサン・デミ、ジョナサン・カプラン、ポール・バーテルなどの監督が巣立っていった。もちろん、『ピラニア』のジョー・ダンテもその一人だ。 もともと、ニューワールド作品の予告編編集マンとして腕を磨いてきたダンテ監督。『ハリウッド・ブルバード』('76)での共同監督を経て、初めて単独で演出を任されたのが『ピラニア』だった。当時のダンテ監督は31歳。脚本のジョン・セイルズは26歳だし、そのほか編集のマーク・ゴールドブラットやクリーチャー・デザインのフィル・ティペット、特殊効果担当のクリス・ウェイラスなど、後にオスカーを賑わせる豪華なスタッフたちも、みんな当時は20~30代のチャレンジ精神旺盛な若者だった。当初オファーされていたリック・ベイカーの推薦で、特殊メイク担当の代役に起用されたロブ・ボッティンなどは、まだ18歳の少年だったというのだから驚きだ。そんな彼らの、お金も経験もないけれどアイディアでは負けないぜ!という向上心と貪欲さが、本作の屋台骨をしっかり支えていると言えよう。 オープニングはテキサスの山奥の怪しげな施設。そこへ迷い込んだ10代男女のバックパッカーが、「あ!プールあるじゃん!まじラッキー!」とばかりに素っ裸になって飛び込み、案の定というかなんというか、水中に潜む正体不明の何かに殺されてしまう。で、そんな2人の行方を捜しにやって来た家出捜索人マギー(ヘザー・メンジーズ)は、飲んだくれの自然ガイド、ポール(ブラッドフォード・ディルマン)の案内で若者たちが足を延ばしたであろう例の施設へ。プールの水を抜けば何か分かるかもしれないと考えた2人は、彼らの様子を陰でうかがっていた科学者ホーク博士(ケヴィン・マッカーシー)が必死になって止めるのも聞かず…というか、なんかヤバいオッサンが出てきた!こんな××××は問答無用で倒すべし!とばかりに、博士を殴って気絶させてプールの排水蛇口をひねってしまう。近くの川へと流れ出るプールの水。しかし、そこには米軍がベトナム戦争の生物兵器として開発した獰猛なピラニアの大群が潜んでいたのだ…! というわけで、この映画、基本的に愚かでバカな連中が愚かでバカなことをやらかし続けた挙句、そのバカの連鎖によって大惨事が引き起こされるという痛快(?)なブラック・コメディなのである。冒頭のティーン男女然り、主人公のマギーとポール然り、ピラニアを遺伝子操作したホーク博士然り、さらには隠蔽工作をする米軍大佐(ブルース・ゴードン)やその片腕のメンジャーズ博士(バーバラ・スティール)、リゾート施設の悪徳経営者ガードナー(ディック・ミラー)といった憎まれ役に至るまで、みーんな後先のことなど深く考えずに間違った選択をしてしまう。しかも、誰一人として反省しない(笑)。その究極がクライマックスの無謀としか思えないピラニア撃退作戦ですよ。結局、人類にとって最大の害悪は人類そのもの。そんな大いなる皮肉をシニカルなユーモアで描いたジョン・セイルズの脚本は実に秀逸だ。 とはいえ、やはり最大の見どころはピラニアの大群が人間を襲う阿鼻叫喚のパニック・シーン。しかも、子供たちが楽しげに水遊びをするサマー・キャンプ、大勢の観光客で賑わう川べりのリゾート施設と、2か所でピラニアたちが派手に大暴れしてくれる。ここで才能を大いに発揮するのが、フィル・ティペットやクリス・ウェイラス、ロブ・ボッティンといった、'80年代以降のハリウッド映画を引っ張っていくことになる若き天才特撮マン&天才特殊メイクマンたちだ。人間を食い殺すピラニアたちは、いずれもゴム製のパペットに長い棒を通して、手元の引き金で口をパクパクさせるだけの単純な代物だが、絶妙なカメラアングルと細かな操作によってリアルに見せているし、後に『ターミネーター』シリーズで名を上げる編集者マーク・ゴールドプラットのスピーディで細かいカット割りがアナログ技術の粗を上手いこと隠している。子供だろうが女性だろうが容赦なく血祭りにあげていく大胆さも小気味いい。まさにやりたい放題。しかも、毎日上がってくる未編集フィルムをチェックしていたロジャー・コーマンが、唯一現場に要求したのは「もっと血糊を」だったというのだから、御大もよく分かっていらっしゃる(笑)。 水面に生首が浮かぶシーンには少々ギョッとさせられるが、実はこれ、ロブ・ボッティンが自分の頭部をモデルに製作したダミーヘッドだ。そういえば、前半の軍施設に登場するストップモーション・アニメのミニ・クリーチャーは、特撮映画の神様レイ・ハリーハウゼンの『地球へ2千万マイル』('57)に出てくる怪物イーマへのオマージュだし、劇中のテレビには『大怪獣出現』('57)のワンシーンも映し出される。そうした、ダンテ監督やスタッフの映画マニアっぷりを感じさせる小ネタを含め、そこかしこにお茶目な遊びが散りばめられているところも本作の大きな魅力だ。もしかすると、スピルバーグはそういったところに感じるものがあったのかもしれない。低予算のB級エンターテインメントとして良く出来ているのは勿論のこと、とにかく全編を通してすこぶる楽しいのだ。 かくして、興行収入1600万ドルのスマッシュ・ヒットを記録した『ピラニア』。3年後にはジェームズ・キャメロン監督による続編『殺人魚フライングキラー』('81)が作られ、さらにはオリジナルの特撮シーンを流用したテレビ版リメイク『ザ・ピラニア/殺戮生命体』('95)、フランスの鬼才アレクサンドル・アジャによる新たなリメイク『ピラニア3D』('10)とその続編『ピラニア リターンズ』('12)まで生まれるという、本家『ジョーズ』も顔負けのフランチャイズと化したことは、恐らくロジャー・コーマンもジョー・ダンテも想像していなかっただろう。これに関しては、もともとコーマンのもとへ企画を持ち込んだ元日活女優・筑波久子こと、チャコ・ヴァン・リューウェンの尽力によるものと言える。しかしそれにしても、本来『ジョーズ』のパクりである本作が、さらにイタリアで『キラーフィッシュ』('79)としてパクられたのだから、映画ビジネスの世界というのは面白い。 なお、本作を足掛かりにダンテ監督は人狼映画の傑作『ハウリング』('81)を成功させ、さらに先述した通りスピルバーグとのコラボレーションを経てハリウッドの売れっ子監督に。一方のコーマン御大率いるニューワールド・ピクチャーズは、太古の巨大魚が人間を襲う『ジュラシック・ジョーズ』('79)に海洋モンスター軍団が海辺の町を襲う『モンスター・パニック』('80)を製作。さらに、ニューワールド売却後にコーマンが新設した映画会社ニューホライズンズでも、トカゲ人間がハワイのリゾート地に現れる『彼女がトカゲに喰われたら』('87)なるポンコツ映画を作っている。◾️ © 1978 THE PACIFIC TRUST D.B.A. PIRANHA PRODUCTIONS. 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COLUMN/コラム2018.09.16
出てくるのは悪党だらけ!『ダーティハリー』に続くドン・シーゲル監督の痛快B級犯罪アクション!
‘70年代のハリウッドを代表するアクション映画といえば、『フレンチ・コネクション』(’71)と『ダーティハリー』(’71)。奇しくも同じ年に公開されたこの2本は、アメリカのみならず世界中のアクション映画に多大な影響を及ぼしたわけだが、中でも手段を選ばず問答無用で犯罪者を始末していく刑事ハリー・キャラハンの活躍を過激なバイオレンス描写満載で描いた『ダーティハリー』は、一部の良識派インテリ層から眉をひそめられつつ、折からの凶悪犯罪の増加や治安の悪化に不満を募らせていた大勢の庶民からは拍手喝采で迎えられた。おかげで、映画界では「なんちゃってダーティハリー」なアウトロー刑事がにわかに急増。一般市民が法で裁くことのできない犯罪者を成敗するという、『狼よさらば』(’74)に代表される一連のヴィジランテ(自警団員)映画ブームも、『ダーティハリー』の影響によるものと考えていいだろう。そんなアクション映画の金字塔『ダーティハリー』の生みの親が当時59歳のベテラン、ドン・シーゲル監督。それまでB級映画専門の職人監督としてコツコツとキャリアを築いてきたシーゲルは、これ1作でアクション映画の巨匠へと祭り上げられたわけだが、その彼が次回作として選んだ映画がこの『突破口!』だった。 主人公は農薬散布業者のチャーリー・ヴァリック(ウォルター・マッソー)。もともと曲技飛行のパイロットだったチャーリーだが、同僚だった妻ナディーン(ジャクリーン・スコット)との結婚を機に、ニューメキシコの片田舎で小さな農薬散布会社を立ち上げる。しかし、大手の業者に押されて経営は火の車。そこで彼は、妻や2人の従業員を従えて銀行強盗に乗り出す。といっても、狙うのは田舎町の小さな支店ばかり。一度に奪う金額はたかだか知れたものだが、しかしその方が銀行の警備が手薄で捕まるリスクも少ないからだ。そんなある日、いつもの手順通りに田舎町トレス・クルーセスの銀行を襲ったチャーリーたち。ところが、今度ばかりはちょっと勝手が違っていた。警備員の反撃で仲間のアルが殺され、運転手役のナディーンまで警官の銃弾に倒れてしまう。しかも、家に戻って奪った現金袋を開けてみたところ、中には76万ドルもの札束が入っていた。田舎の銀行にこれだけの大金があるのは明らかにおかしい。それがマフィアの違法資金だと気付いたチャーリーは、残った仲間ハーマン(アンディ・ロビンソン)と共にメキシコへの高飛びを画策するのだが、そんな彼らに警察やFBIの捜査網、さらにはマフィアの放った殺し屋モリー(ジョー・ドン・ベイカー)の魔手が迫る…というわけだ。 『ダーティハリー』という超特大級のヒットを放っておきながら、その直後に作った本作が紛うことなき筋金入りのB級アクションというのも、なるほど、娯楽職人ドン・シーゲルならではと言えるだろう。といっても『ダーティハリー』自体、当時ユニバーサルと専属契約を結んでいたシーゲルが、愛弟子クリント・イーストウッドの希望でワーナーへ貸し出されて撮った作品なので、もしかすると彼としては通常営業に戻りましたというだけのことだったのかもしれないが。いずれにせよ、決して多額の予算を注ぎ込んだ作品ではないし、撮影だって2か月弱程度という速さで済ませている。ロケ地もネバダ州周辺のみ。規模的にはかなりコンパクト・サイズだが、しかし最初から最後まで全く目が離せない痛快な犯罪アクション映画に仕上がっている。 だいたいオープニングからして素晴らしい。朝靄がたちこめるアメリカのありふれた田舎町。郵便局では老人が軒先に星条旗を掲げ、牧場ではカウボーイが牛の群れを世話する。民家の庭先では少女が芝刈り機でせっせと草を刈り、空き地ではフットボールに興じる少年たちが賑やかに駆け回っている。そんなのどかで平和な日常風景から一転、田舎町は銀行強盗の阿鼻叫喚に包まれるわけだが、そこへ至るまでに不穏な空気を高めながらジワジワと緊張感を煽っていく「溜め」の演出、そしていざ銃撃戦が起きてからは急転直下のスピーディな展開。この日常から非日常へのドラマチックな転換、大胆な緩急のさじ加減は実に見事だ。まさに掴みはバッチリ。『殺人者たち』(’64)にしろ『ダーティハリー』にしろそうだが、ドン・シーゲル監督は映画の冒頭で観客に強烈なパンチを食らわせることで、作品の世界へ一気に引き込んしまうのがとても上手い。これぞ職人技だ。 続くカーチェイスも迫力満点。銀行から飛び出してきたチャーリーとハーマンを乗せて走り出す黄色いリンカーン・コンチネンタル。しかし、傍に停めてあったパトカーにぶつかり、その衝撃でボンネットがパッカリと開いてしまう。視界が遮られたままハンドルを握る運転席のナディーン。そこへ駆けつけた別のパトカーが激突。パトカーは目の前の雑貨店の軒先を破壊して軽トラックに突っ込み、リンカーン・コンチネンタルはボンネットを振り落としてハイウェイへと逃げ去る。実はこの一連のカースタント、事前の計画通りには行かなかった。まずボンネットが開いたのは全くの計算外。激突したパトカーも本当は雑貨店に突っ込んで停車するはずだった。しかし撮り直しをしている余裕などないため、そのままオッケー・テイクとせざるを得なかった。低予算映画ゆえの妥協ではあるが、しかしそれがかえってアクションにリアルなライブ感をもたらしている。最大の見どころであるクライマックスの、複葉機VSクライスラー車の世にもイカレたカーチェイス(?)もほぼ一発撮り。これまた臨場感がハンパない。 中盤からは警察やマフィアの追手を上手いこと出し抜きつつ、高飛び計画の準備を着々と進めていくチャーリーの姿が描かれるわけだが、余計な説明の一切を省いた語り口が功を奏する。なぜ今その行動を取るのか、その行為に何の意味があるのか。一見しただけでは分からない描写も多いのだが、それらの巧妙に仕掛けられた伏線が最後の最後になって見事に結実し、どんでん返しという大きな答えとなって提示される。この、いわゆる「アハ体験」の気持ち良さときたら!なるほど、そういうことだったのね!と誰もが思わず膝を打ってしまうはずだ。出てくるのが悪党だらけというのも、「善人よりも悪人に感情移入してしまう」と公言していたシーゲル監督らしい設定。そういう意味では『殺人者たち』と双璧であろう。 主人公チャーリーを演じるのはウォルター・マッソー。この冷静沈着で抜け目のない犯罪者役に、喜劇俳優としてのイメージの強いマッソーを起用したことは、恐らく当時は意外なキャスティングだったに違いない。もっとも、本作以降立て続けてアクション映画に出演することになるのだが。それに、映画ファンならご存知の通り、マッソーはそのキャリアの初期において、『シャレード』(’73)や『蜃気楼』(’65)といったサスペンス映画で悪役を演じている。ただの面白いオジサンではないのだ。実際、本作では善とも悪ともつかないアンチヒーローを、人間味たっぷりに演じて魅力的だ。最愛の妻を目の前で亡くしながらも涙ひとつ見せず、淡々と銀行強盗の証拠隠滅作業を進めながらも、これが今生の別れとさりげなく妻の亡骸に口づけをする姿に、チャーリーという人間の複雑な本質が垣間見える。ちなみに、このキスシーンは脚本にはなく、マッソーの完全なアドリブだったそうだ。 そんなチャーリーの足を引っ張る愚かで軽率な若者ハーマンを演じるのが、『ダーティハリー』の殺人鬼スコーピオンで強烈な印象を残したアンディ・ロビンソン。もともと彼はドン・シーゲルの長男で当時人気俳優だったクリストファー・タボリの友人だった。スコーピオン役を探していたシーゲルが息子に「ニューヨークで一番才能のある若い舞台俳優は誰だ?」と尋ねたところ、クリストファーがアンディの名前を挙げたのだそうだ。実際に彼の芝居を見るためニューヨークへ足を運ぶ予定だったシーゲル監督だが、急な所用で断念することに。その代理としてクリント・イーストウッドがアンディの出演する舞台を観劇し、太鼓判を押したことからスコーピオン役に決まったのである。監督自身も彼のことをいたく気に入ったらしく、それゆえスコーピオン役でタイプキャストされることを心配したのか、『ダーティハリー』完成直後に「もしかすると君のキャリアを潰してしまったかもしれない」と漏らしていたという。前作のサイコパスとは全く違うハーマン役に起用したのは、もしかすると監督なりの気遣いだったのかもしれない。 マフィアの殺し屋モリー役には、ヴィジランテ映画の名作『ウォーキング・トール』(’73)でもお馴染み、’70年代を代表する強面タフガイ俳優の一人ジョー・ドン・ベイカー。そのほか、『ダーティハリー』の市長役でも有名なジョン・ヴァーノン、『刑事マディガン』や『テレフォン』(’77)にも出演したシェリー・ノース、『殺人者たち』の小悪党ミッキー・ファーマー役も印象深いノーマン・フェルなど、ドン・シーゲル・ファンには馴染みのある顔が揃う。銀行の警備員役として’30年代のB級西部劇スター、ボブ・スティールが顔を出しているのも興味深い。ちなみに、チャーリーとベッドインする銀行頭取秘書役のフェリシア・ファーは、ビリー・ワイルダーの『ねえ!キスしてよ』(’64)で嫉妬深い夫を狂わせる美人過ぎる奥さんを演じた女優だが、実はウォルター・マッソーの親友ジャック・レモンの妻でもある。 最後に小ネタ的なトリビアをまとめて。本作の撮影監督を務めるマイケル・C・バトラーは、ブルースクリーン合成を開発した伝説的な特撮マン、ラリー・バトラーの息子で、実はその父親の親友だったドン・シーゲル監督が名付け親だった。また、冒頭で警察無線のオペレーターをやっている女性は、若い頃シーゲル監督の恋人だった’40年代のコロンビア専属女優キャスリーン・オマーリー。さらに、オープニングではシーゲル監督の子供たちも出演している。スプリンクラーを跨いでいく幼い少女は当時7歳の娘キット、芝刈り機で庭の草を刈っている少女は13歳の長女アン、道行く女の子をひやかす少年3人組のうち真ん中が14歳の息子ノウェル。なお、ロバの背中にサドルを乗せようと悪戦苦闘する少年はウォルター・マッソーの息子チャールズである。彼は銀行強盗シーンにも登場。銀行前のブランコに乗っている手前の男の子がそうだ。というのも、当初は地元の少年がキャスティングされていたのだが、生々しい銃撃戦の撮影にビビッて逃げ出してしまったらしい。その代役としてチャールズが再登板することとなり、保安官に車のナンバーを教えるシーンではセリフもこなしている。▪️ © 1973 Universal City Studios, Inc. Copyright Renewed. All Rights Reserved. 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存
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COLUMN/コラム2018.10.10
男たちのシネマ愛『空飛ぶ戦闘艦』
映画ライターなかざわひでゆき×ザ・シネマ飯森盛良の対談シリーズ「男たちのシネマ愛」が今、初の音声ファイルとなって帰ってきた!今回熱く語るのは、名物特集「激レア映画、買い付けてきました」として調達してきた2018年11月の3作品。まずはブロンソン主演スチーム・パンクAIP映画『空飛ぶ戦闘艦』だ!! 未DVD/BD化、VHSとビデオディスクにしかなっていない(はずの)激レア映画。いま見れるのはザ・シネマのみ!!! ※23分頃に「幕府側」と言っているのは「明治新政府側」の大まちがいです。お詫びして訂正いたします。by 飯森
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COLUMN/コラム2018.10.11
舞台裏ではスターと監督の軋轢が?有象無象のならず者がメキシコ革命で暴れまわる痛快マカロニウエスタン!『ガンマン大連合』
マカロニウエスタンの巨匠と言えばセルジオ・レオーネだが、もう一人忘れてはならない同名の大御所がいる。それがセルジオ・コルブッチだ。スタイルとリアリズムを追求して独自のバイオレンス美学を打ち立てた芸術家肌のレオーネに対し、シリアスからコメディまでなんでもござれ、荒唐無稽もデタラメも上等!な根っからの娯楽職人だったコルブッチ。多作ゆえに映画の出来不出来もバラつきはあったが、しかし時として『続・荒野の用心棒』(’66)や『殺しが静かにやって来る』(’68)のような、とんでもない傑作・怪作を生み出すこともあった。そんなコルブッチには、メキシコ革命を舞台にした「メキシコ三部作」と一部のマカロニファンから呼ばれる作品群がある。それが『豹/ジャガー』(’68)と『進撃0号作戦』(’73)、そして『ガンマン大連合』(’70)だ。 主人公はスウェーデンからメキシコへ武器を売りにやって来たキザな武器商人ヨドラフ(フランコ・ネロ)と、靴みがきから革命軍のモンゴ将軍(ホセ・ボダーロ)の副官に抜擢されたポンコツのならず者バスコ(トーマス・ミリアン)。国境近くの町サン・ベルナルディーノでは、庶民を苦しめる独裁者ディアス大統領の政府軍と、実は革命に乗じて金儲けがしたいだけだったモンゴ将軍の一味、そして非暴力を掲げて合法的に革命を遂行しようとする理想主義者サントス教授(フェルナンド・レイ)に心酔する若者グループが、3つの勢力に分かれて攻防を繰り広げていた。 モンゴ将軍に呼ばれてサン・ベルナルディーノに到着したヨドラフ。その理由は、町の銀行から押収したスウェーデン製の金庫だった。鍵の暗証番号を知る銀行員を殺してしまったため、スウェーデン人のヨドラフなら開け方が分かるだろうとモンゴ将軍は考えたのだ。成功したら中身の大金は2人でこっそり山分けするという算段。ところが、頑丈な金庫はヨドラフでも手に負えない代物だった。唯一、暗証番号を知っているのはアメリカに身柄を拘束されたサントス教授だけ。そこでモンゴ将軍は、万が一の裏切りを用心してバスコを監視役に付け、アメリカの軍事要塞に捕らわれているサントス教授をメキシコへ連れ戻す使命をヨドラフに託すこととなる。 …ということで、道すがら女革命戦士ローラ(イリス・ベルベン)率いるサントス派の若者たちの妨害工作に遭ったり、ヨドラフに恨みを持つアメリカ人ジョン(ジャック・パランス)の一味に命を狙われつつ、過酷なミッションを遂行しようとするヨドラフとバスコの隠密道中が描かれることとなるわけだ。 ド派手なガンアクションをメインに据えた痛快&豪快なマカロニエンターテインメント。荒々しいリズムに乗ってゴスペル風のコーラスが「殺っちまおう、殺っちまおう、同志たちよ!」と高らかに歌い上げる、エンニオ・モリコーネ作曲の勇壮なテーマ曲がオープニングからテンションを高める。革命の動乱に揺れるメキシコで、有象無象の怪しげな連中が繰り広げる三つ巴、いや四つ巴の仁義なき壮絶バトル。コルブッチのスピード感あふれる演出はまさに絶好調だ。終盤の壮大なバトルシーンでは、『続・荒野の用心棒』を彷彿とさせる強烈なマシンガン乱射で血沸き肉踊り、フランコ・ネロの見事なガンプレイも冴えわたる。コルブッチのフィルモグラフィーの中でも、抜きんでて勢いのある作品だと言えよう。 もともとマカロニウエスタンはロケ地であるスペインの土地や文化が似ている(元宗主国だから文化が似ているのは当たり前だけど)ことから、メキシコを舞台にした映画はとても多いのだが、その中でもメキシコ革命を題材にした作品と言えば、左翼革命世代の申し子ダミアーノ・ダミアーニ監督による社会派西部劇『群盗荒野を裂く』(’66)を思い浮かべるマカロニファンも多いだろう。しかし、コルブッチはダミアーニではない。確かに『豹/ジャガー』は左翼的メッセージがかなり強く出た作品だったが、あれはもともと『アルジェの戦い』(’66)で有名な左翼系社会派の巨匠ジッロ・ポンテコルヴォが監督するはずだった企画で、コルブッチは降板したポンテコルヴォのピンチヒッターだった。政治色が濃くなるのも当然だ。その点、コルブッチ自身が原案を手掛けて脚本にも参加した本作は、基本的に荒唐無稽なエンタメ作品に徹している。世界史に精通していたと言われる博識なコルブッチが、あえてメキシコ革命の史実を無視するような描写を散りばめているのも、その決意表明みたいなものかもしれない。 ただ、脚本の中に政治的な要素が全くないかと言えばそうでもない。金儲けのためなら政府軍にも革命軍にも武器を売る現実主義者ヨドラフ、革命の理想など特に持たず軍隊で威張り散らしたいだけのお調子者バスコ。この火事場泥棒みたいな2人が隠密道中を通じて、市民革命の強い理念に従って行動するサントス教授と若者たちに、少しずつ感化されていく過程が見どころだ。特に、マカロニウエスタンで野卑なメキシコ人を演じさせたら右に出る者のない名優トーマス・ミリアンが演じるバスコのキャラは興味深い。 棚ぼた式にモンゴ将軍の副官となり、虎の威を借る狐のごとくヒーロー気取りで振る舞う、もともと革命の精神とは全く縁のなかった貧しく無教養な男バスコ。「メキシコ人をバカにするな」「外国人と通じている女は罰してやる」「インテリは本と一緒に焼かれろ」。こういう偏った主張をする人間が、政治的混乱に乗じてマウントを取っていい気になるのは、古今東西どこにでもある光景だろう。しかし、そもそもがコンプレックスをこじらせただけのバカであって、根っからの悪人というわけではない。そんな単細胞な男が教養豊かなサントス教授から、本来の革命精神とは相容れない国粋主義の矛盾と欺瞞を説かれ、あれ?俺って実は悪人の側だったわけ?と気づき始め、純粋に自由と正義を信じて革命に殉じていく若者たちに感情移入していく。この視点はなかなか鋭い。 なお、マカロニブームを牽引した2大スターのフランコ・ネロとトーマス・ミリアンだが、映画で共演したのはこれが初めて。ミリアンにとっては意外にも初のコルブッチ作品だった。一方のネロはコルブッチ映画の常連組。監督が彼のアップばかり撮ることに嫉妬したミリアンは、電話でコルブッチに泣きながら抗議したと伝えられている。ただし、イタリア映画の英語版吹替翻訳で有名なアメリカ人ミッキー・ノックスによると、逆にコルブッチがミリアンにばかり気を遣うもんだから、不満に思ったネロがへそを曲げてしまったそうだ。ん~、どっちが本当か分からないが、しかしどっちも本当だという可能性もある。ミリアンがごねる→コルブッチが気を遣う→ネロがへそを曲げる、という流れならあり得るかもしれない。いずれにせよ、コルブッチとネロのコラボレーションはこれが最後となり、当初コルブッチが手掛ける予定だった『新・脱獄の用心棒』(’71)の出演もネロは渋ったという。結局、ドゥッチオ・テッサリが監督に決まったことで引き受けたのだが。いやはや、スターって面倒くさいですね(笑)。 なお、本場ハリウッドの西部劇でもお馴染みのジャック・パランスは、コルブッチの『豹/ジャガー』に続いてマカロニへの出演はこれが2本目。フェルナンド・レイも『さすらいのガンマン』(’66)以来のコルブッチ作品だ。また、ローラ役のイリス・ベルベンはドイツのテレビ女優。『続・荒野の用心棒』以降のコルブッチ作品に欠かせないスペインの悪役俳優エドゥアルド・ファヤルドが冒頭で政府軍の司令官を、ドイツの有名なソフトポルノ女優カリン・シューベルト(後にハードコアへも進出した)がヨドラフと昔なじみの売春婦ザイラを演じている。◾️
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COLUMN/コラム2018.10.15
フェリーニ初のカラー映画は、自身の夫婦生活を投影したセクシュアルでサイケデリックなダーク・ファンタジー『魂のジュリエッタ』
イタリア映画の巨匠フェデリコ・フェリーニ。彼の映画に出てくる主人公たちは、しばしば異空間のような世界をひたすら彷徨(さまよ)う。高度経済成長に浮かれる現代ローマを舞台にした『甘い生活』(’60)然り、退廃的で享楽的な古代ローマの混沌としたデカダンを再現した『サテリコン』(’69)然り、そして旧世代のプレイボーイがウーマンリブ的な女性だらけの世界に足を踏み入れる『女の都』(’80)然り。これらの作品では、狂言回しとしての主人公をある種の象徴的な世界へと放り込み、放浪の過程で多種多様な人物と交わらせることによって、映画が作られた時代の空気や精神を鮮やかに浮き彫りにしていく。あえて明確なストーリー性を薄め、映像にも寓話的なシンボリズムを多用するのが特徴だ。この手法をさらに個人の内面へと推し進め、主人公のパラノイア的な心象世界にフェリーニ自身の映画監督としての苦悩や迷いを投影したのが『81/2』(’63)であり、その姉妹編に当たるのが本作『魂のジュリエッタ』(’65)である。 主人公はブルジョワ階級の人妻ジュリエッタ(ジュリエッタ・マッシーナ)。結婚15周年のお祝いを準備していた彼女だが、大勢の友達を引き連れて帰ってきた夫ジョルジョ(マリオ・ピスー)は、すっかりそのことを忘れていたようだ。釈然としないままパーティの夜は更け、やがて余興の降霊会が始まる。幽霊オラフに「あなたは不幸な人間だ」と言われて気を失うジュリエッタ。それ以来、彼女の脳裏で何者かが囁くようになり、忘れかけていた過去の記憶が次々とフラッシュバックし、あらゆるところで悪夢の断片を見るようになる。 そんなある晩、寝言で知らない女性の名前を2度もつぶやく夫。不安に駆られたジュリエッタは、親友ヴァレンティナ(ヴァレンティナ・コルテーゼ)に誘われ両性具有の預言者ビシュマ(ヴァレスカ・ゲルト)の助言を仰ぐ。男を悦ばせる術を学べと言われて抵抗感を覚えるジュリエッタ。しかし、家に戻るとスペインからやって来た夫の友人ホセ(ホセ・ルイス・デ・ヴェラロンガ)を紹介され、夫にはない繊細で知的な魅力を持つ彼に惹かれる。さらに、自由奔放な隣人スージー(サンドラ・ミーロ)と親しくなった彼女は、知らずに招かれた乱交パーティで出会った若い美青年にベッドへ誘われるものの、すんでのところでハッと我に返って逃げ出す。 なお一層のこと心をかき乱され、現実と妄想の境界線がどんどん曖昧になっていくジュリエッタ。興信所の調査で夫の浮気も決定的になった。アメリカ人の精神分析医から「本当は夫と別れることを望んでいるのじゃないか、自由になることを恐れているだけじゃないか」と指摘され戸惑う彼女は、夫の不倫相手と直接会おうと意を決するのだったが…。 『カビリアの夜』(’57)以来、久々に愛妻ジュリエッタ・マッシーナを自作に起用したフェリーニ。『81/2』の主人公である映画監督グイドがフェリーニの分身であったように、本作のジュリエッタはジュリエッタ・マッシーナ本人の分身とも考えられるだろう。事実、『魂のジュリエッタ』には、フェリーニ夫妻の私生活を投影したであろうと思われる部分が少なからずある。おしどり夫婦と呼ばれて50年近くの結婚生活を添い遂げた2人だが、その一方で日常生活は家庭内別居にも等しく、同じ家の中でもお互いの居住空間は別々だったという。しかも、夫フェリーニの女性関係は半ば公然の事実。本作に出演している女優サンドラ・ミーロとも不倫の噂があった。必ずしも順風満帆な結婚ではなかったのだ。 一説によると、あまりにも現実の夫婦生活に近い要素がストーリーに盛り込まれていることから、当初は脚本を読んだジュリエッタが強く憤慨していたとも伝えられている。このままだと2人は離婚してしまうのではないか?と周囲の友人が心配したほど、一時は険悪な仲になってしまったそうだ。『81/2』では映画監督として創作に行き詰まった自身の苦悩と葛藤を描いたフェリーニだが、本作では妻ジュリエッタを介して自身の複雑な結婚生活の実態を、ある種のフェミニズム的な幻想譚へと昇華させた。そういう意味でも、本作は『81/2』に続くフェリーニの私小説的な映画として見るべきなのだろう。 目を引くのは全編に散りばめられた鮮烈な色彩と、シュールでシンボリックな幻想的ビジュアルの数々だ。本作はフェリーニにとって初めてのカラー映画。色とりどりの衣装からセット、照明に至るまで、まるで色を得た歓びが弾けるかのように、ありとあらゆる色彩が所せましとスクリーンを埋め尽くす。ヒロインの秘めたる性的願望と罪悪感を具現化したような悪夢的なイメージショット、前衛的かつ実験的な演出や画面構図もワクワクするくらい刺激的だ。今見ても全く古さを感じさせない。さながらセクシュアルでサイケデリックなダーク・ファンタジー。そのクセになるトリップ感は、以降の『サテリコン』や『カサノバ』(’76)、『女の都』にも相通ずるものがあると言えよう。 製作費は当時のイタリア映画としては破格の300万ドル。それゆえ、プロデューサーのアンジェロ・リッツォーリは、主演がジュリエッタ・マッシーナでは興行的に弱いのではないか?と心配し、代わりにキャサリン・ヘプバーンを推薦してきたがフェリーニは頑として折れなかったという。その代わりということなのかもしれないが、両性具有の預言者ビシュマ役にハリウッド・スターを起用しようと考えたフェリーニは、渡米した際に往年の大女優メエ・ウェストにオファーを持ちかけたが断られた。結果的に選ばれたのは、パンク・カルチャーの源流になったとも言われるドイツ出身の前衛舞踊家ヴァレスカ・ゲルトだ。 本作はジュリエッタ・マッシーナ以下の華やかな女優陣も見どころだ。ジュリエッタの隣人スージー、祖父と駆け落ちしたサーカスの踊り子ファニー、そして幻覚に出てくる幽霊アイリスの3役を演じるサンドラ・ミーロは、ロベルト・ロッセリーニ監督の『ロベレ将軍』(’59)などで一世を風靡した小悪魔的な女優で、結婚を機に芸能界を引退していたが、フェリーニのラブコールに応えて『81/2』の映画監督グイドの愛人カルラ役でカムバックした経緯があった。本作では決してセクシーとは言えない主演女優ジュリエッタに代わって、妖艶な魅力を存分に振りまいている。85歳になった今もバリバリの現役だ。 ジュリエッタの親友ヴァレンティナには、ハリウッドでも活躍したイタリアの知性派女優で、フランソワ・トリュフォーの『アメリカの夜』(’73)でアカデミー助演女優賞に輝いたヴァレンティナ・コルテーゼ。ジュリエッタの妹でテレビ女優のシルヴァには、『鉄道員』(’56)の清純な娘役から国際的な人気セクシー女優へ成長したシルヴァ・コシナ、もう一人の妹アデーレには同じく『鉄道員』の母親役で有名なルイーザ・デッラ・ノーチェが扮している。また、若いメイドのエリザベッタ役を演じているミレーナ・ヴコティッチは、『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(’72)に『自由の幻想』(’74)、『欲望のあいまいな対象』(’76)など晩年のルイス・ブニュエル作品に欠かせない常連で、アンドレイ・タルコフスキーの『ノスタルジア』(’83)や大島渚の『マックス・モン・アムール』(’86)にも出ていた知る人ぞ知る名脇役女優だ。 そして、ジュリエッタの潜在的なコンプレックスの元凶である威圧的な母親として強烈なインパクトを残すのが、ファシスト時代のイタリア映画界を代表するスター女優カテリーナ・ボラット。彼女もまたサンドラ・ミーロと同様に、引退していたところをフェリーニに熱望され『81/2』で女優復帰し、フェリーニの弟子でもあったピエル・パオロ・パゾリーニの『ソドムの市』(’75)では少年少女に背徳的な物語を語って聞かせる老貴婦人を演じていた。 なお、ジュリエッタがメイドたちと一緒に見ているテレビの美容番組で、顔面美容法のお手本を披露しているモデルは、実際に当時のヨーロッパで活躍していたアメリカ人トップモデルで、マリオ・バーヴァ監督の『モデル連続殺人!』(’64)で演じた顔面を焼かれて殺される犠牲者役が印象深いメアリー・アーデン。同じ番組の最後を締める女性司会者役には、ヴィットリオ・デ・シーカの『あゝ結婚』(’64)やダミアーノ・ダミアーニの『警視の告白』(’71)などで知られる美人女優で、’60年代お洒落系ガーリー映画の名作『キャンディ』(’68)ではリンゴ・スターの童貞を奪ったキャンディに復讐しようとする凶悪バイカー姉妹のリーダーを演じていたマリルー・トロがカメオ出演している。 また、友人や知人を自作に出演させることの多いフェリーニ。本作でも彼が普段から助言を得ていた自称ローマ警察の公認霊媒師ジーニアスことエウジェニオ・マストロピエトロが降霊会の霊媒師役で登場し、イタリアの文豪サルヴァトーレ・クァジモド夫人で元プリマドンナのマリア・クマーニ・クァジモドが預言者ビシュマの講演会で観衆の一人(ピンクの花飾りのついた帽子を被った白いドレスの御婦人)として顔を見せている。 ゴールデン・グローブ賞をはじめ、ニューヨーク批評家協会賞やナショナル・ボード・オブ・レビュー賞の外国語映画賞を獲得し、本国イタリアでもシルバー・リボン賞(イタリア版ゴールデン・グローブ)の助演女優賞(サンドロ・ミーロ)と美術賞(ピエロ・ゲラルディ)に輝いた『魂のジュリエッタ』。恐らく一般の観客にとっては斬新すぎたのだろう。当時は興行的に失敗してしまい、オムニバス映画『世にも怪奇な物語』(’68)を挟んだ次回作『サテリコン』まで4年のブランクが空く結果となってしまったが、サイケデリック・ムーブメントとポップ・アートの時代を敏感に捉えたフェリーニの先鋭的な映像センスは今なお刺激的だし、なによりもその自由奔放で豊かなイマジネーションには感動と興奮を禁じ得ない。◾︎ ©1965 RIZZOLI
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COLUMN/コラム2018.10.16
男たちのシネマ愛『スモール・タウン・イン・テキサス』
映画ライターなかざわひでゆき×ザ・シネマ飯森盛良の対談シリーズ「男たちのシネマ愛」が今、初の音声ファイルとなって帰ってきた!今回熱く語るのは、名物特集「激レア映画、買い付けてきました」として調達してきた2018年11月の3作品の2本目、ニューシネマ風味の効いた香ばしい70'sアクション、本邦初公開『スモール・タウン・イン・テキサス』!にしても何この展開!!?? 見れるのはザ・シネマのみ!!!
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COLUMN/コラム2018.10.19
男たちのシネマ愛『モリー』2018年11月放送
映画ライターなかざわひでゆき×ザ・シネマ飯森盛良の対談シリーズ「男たちのシネマ愛」が今、初の音声ファイルとなって帰ってきた!今回熱く語るのは、名物特集「激レア映画、買い付けてきました」として調達してきた2018年11月の3作品。3本目は、ハートウォーミングな兄妹のドラマを、90年代末の美しすぎるLAを舞台に綴る感動作『モリー』。90'sリバイバルの今、このキラっキラ感にヤラれろ!うおっまぶしっ!!