ザ・シネマ なかざわひでゆき
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COLUMN/コラム2021.09.08
非暴力主義と平和主義を謳った巨匠ウィリアム・ワイラーの西部劇大作『大いなる西部』
西部劇はワイラー監督の原点 巨匠ウィリアム・ワイラーが手掛けた壮大な西部劇叙事詩である。およそ45年のキャリアでアカデミー賞の監督賞に輝くこと3回。『嵐が丘』(’39)や『女相続人』(’49)のような文芸映画から『我等の生涯の最良の年』(’46)のような社会派ドラマ、『ローマの休日』(’53)のようなラブロマンスから『ベン・ハー』(’59)のようなスペクタクル史劇まで、特定のジャンルやスタイルに縛られることなく多種多彩な映画を撮り続けたワイラーは、それゆえにDirector with No Signature=署名サインがない監督、つまり「ひと目で彼の映画と分かるような特徴のない監督」と揶揄されることも少なくなかったのだが、しかしそんな彼のキャリアを語るうえで欠かすことの出来ないジャンルがある。それが西部劇だ。 1902年にユダヤ系スイス人の息子としてドイツに生を受けたワイラー。少年時代から人一倍反骨精神の旺盛な問題児だった彼は、家業の服飾品店を継ぐ気もなく職を転々としていたところ、母親の遠縁の従兄弟に当たる親戚カール・レムリからアメリカへ来ないかと誘われる。そう、あのユニバーサル映画の創業社長カール・レムリである。’20年に渡米したワイラーはユニバーサルのニューヨーク本社に勤務するものの、しかし映画監督を志して撮影所のあるハリウッドへと異動することに。現場の雑用係から徐々に経験を積んでゆき、’25年には当時のユニバーサルで最年少の映画監督へと昇進する。そんな新人監督ワイラーに与えられた仕事が、サイレント期のユニバーサルが最も力を入れていたジャンル「西部劇」だった。 ‘25年から’28年までのおよそ3年間で、実に30本近くもの西部劇映画を演出したワイラー。当時アメリカの映画館では、まずニュース映像に近日公開作品の予告編、5分以内の短編アニメに30分以内の短編映画、さらに1時間以内の中編映画を経てようやくメインの長編映画を上映するというパッケージ形式が一般的だった。まだ経験の浅い新人ワイラーの手掛けた西部劇も、そうした併映用の短編・中編映画だったのである。各作品の予算は上限2000ドル。金曜日に脚本を渡されて土曜日にキャスティングや打ち合わせを行い、翌週の月曜日から水曜日までの3日間で撮影完了。追加撮影などが必要な場合は予備の木曜日を使い、金曜日にはまた新たな脚本を渡される。当時の家内工業的なスタジオシステムだからこそ可能だったスケジュールだが、こうした時間にも予算にも厳しい制約がある中での西部劇製作は、ワイラーにとって映画監督としての技術を磨く格好の修行現場でもあった。要するに、西部劇は映画監督ウィリアム・ワイラーの礎を築いた重要なジャンルだったのである。そして、巨額の予算を投じた3時間近くにも及ぶ超大作『大いなる西部』(’58)は、まさしくその集大成的な映画だったと言えるだろう。 開拓時代と近代化の狭間で揺れ動く大西部の物語 舞台は西部開拓時代も終わりに差し掛かった19世紀末、南北戦争後のアメリカ。東海岸の大都会ニューヨークから、テキサスの田舎町へとひとりの青年紳士がやって来る。海運業を営む裕福な家系の御曹司ジム・マッケイ(グレゴリー・ペック)だ。そんな彼を出迎えたのは、地元の大地主ヘンリー・テリル少佐(チャールズ・ビックフォード)の愛娘パトリシア(キャロル・ベイカー)。数か月前にニューヨークで知り合い恋に落ちた2人は、パトリシアの実家で結婚式を挙げることになったのだ。いかにも都会的な洗練された身なりのジムに好奇の眼差しを向ける住民たち。ジムもまたジムで、西部開拓時代そのままの地元住民の好戦的な価値観に戸惑いを覚える。中でも、平和を愛する非暴力主義者のインテリ青年ジムにとって受け入れ難いのは、これから義父となるテリル少佐とその宿敵ルーファス・ヘネシー(バール・アイヴス)の血で血を洗うような激しい対立だった。 豊かな牧草地帯に大豪邸を構えるテリル家と、荒涼とした山岳地帯のあばら家に暮らすヘネシー家。どちらも広大な土地と大勢の牧童を擁する地元の2大勢力なのだが、それゆえ当主であるテリル少佐とルーファスは昔から犬猿の仲で、両家はなにかにつけていがみ合っていた。ジムも到着早々にヘネシー家の長男バック(チャック・コナーズ)とその子分たちから嫌がらせを受けるのだが、一切抵抗することなくやり過ごす。余計な争いごとは起こしたくなかったからだ。しかし、それを知ったテリル少佐はジムに忠告する。この土地では力を持つ男だけが尊敬され勝ち残ることが出来る。反対に優しさは弱さと受け取られ、弱みを見せた者は引きずりおろされるのだと。この嫌がらせ事件を機にテリル家とヘネシー家の争いは本格化。安易な暴力的手段に訴える両家を強く非難するジムだったが、そんな彼の主張を婚約者パトリシアは理解できず恥だと感じ、彼女を秘かに愛する牧童頭スティーヴ・リーチ(チャールトン・ヘストン)もジムのことを女々しい腰抜けだと蔑む。 この無益な争いを終わらせるにはどうすればいいのか。思い悩むジムが着目したのは、パトリシアの親友である女教師ジュリー(ジーン・シモンズ)が所有する土地だった。亡き祖父からジュリーが相続した土地には近隣で最大の水源ビッグ・マディがあり、これがテリル家とヘネシー家が対立する大きな理由のひとつだった。テリル少佐もルーファスもビッグ・マディを自分のものにしようと狙っていたのだ。そこでジムは、自分がビッグ・マディを買い取ることを思いつく。テリル少佐でもルーファスでもない第三者の自分が水源を所有し、テリル家だろうかヘネシー家だろうが分け隔てなく平等に開放することで、争いごとの根源を絶つことが出来るのではないかと考えたのだ。ジムと同じく平和主義者のジュリーも賛成し、彼に土地を売り渡すことにするのだが、しかしこれが思いがけない波乱を招くこととなってしまう…。 トラブル続きだった撮影の舞台裏 先住民の襲来や大自然の脅威などに武器を持って立ち向かい、障害を取り除いて自分の所有地を切り拓いていく。これは、そんな暴力と略奪に根差した西部開拓時代のフロンティア精神を真っ向から否定する野心的な西部劇だと言えよう。米陸軍航空隊中佐として第二次世界大戦のヨーロッパ戦線に参加したワイラーは、戦後になると復員兵の苦悩を通して平和な日常の尊さを描いた『我等の生涯の最良の年』や、独立戦争に巻き込まれたクエーカー教徒の葛藤を描く『友情ある説得』(’56)など、たびたび反戦や非暴力主義をテーマにするようになったのだが、本作などはまさにその真骨頂と言えるだろう。本当の強さとは腕力や勇気を誇示することでもなければ、ましてや喧嘩に勝つことでもない。どこまでも己の理想と信念を貫き通すことであり、自分だけではなくみんなの幸福のため、忍耐強く粘ってでも平和と共存を目指すことである。ジムが暴れ馬を根気よく手懐けて乗りこなすようになる様子を描いたシーンなどは、まさにその象徴と言えよう。そのうえで、ジムとスティーヴの殴り合いをロングショットのカメラで淡々と描くことによって、ワイラーは厳かな眼差しで暴力の無意味さを浮き彫りにしていく。 と同時に、本作は無益な争いの本質をも炙り出した映画でもある。敵対するテリル少佐もルーファスも、我の側にこそ正義があると思い込んでいるが、しかし彼らの考える正義とは単なる己の利益とか欲とかプライドに過ぎず、そもそも初めから正義などと呼べるような代物ではない。「正義の反対は別の正義」などというのはただの幼稚な詭弁だ。本当の正義とは立場や考え方の違いに関係なく他者の権利を尊重し、困っている者があれば手を差し伸べ、争うことなく利益や恵みを分かち合い、多様な人々が共存共生していくことなのではないか。現代にも通じるこのメッセージには、恐らく本作の直前にハリウッドを吹き荒れたマッカーシズムに対する強い批判が込められているのだろう。なにしろ、ワイラーはジョン・ヒューストン監督や女優マーナ・ロイと並んで、赤狩りに抗議するリベラル映画人組織「アメリカ合衆国憲法修正第1条委員会」を立ち上げた発起人のひとりである。しかも、本作の企画を彼のもとへ持ち込んだのは、ハリウッドきっての平和主義者で人道主義者でもあった主演俳優グレゴリー・ペック。マッカーシズム的な保守主義や利己主義に対するアンチテーゼが、ストーリーの根底に流れていても何ら不思議はない。むしろ、そう考えるのが自然だ。 いわば、ハリウッドを代表するリベラルの監督と俳優がタッグを組んだ本作。ペックはプロデューサーも兼任し、まさしく二人三脚の共同プロジェクトとなったのだが、しかしその舞台裏はトラブル続きだったという。最大の問題は脚本。ドナルド・ハミルトンの原作小説に惚れ込んだワイラーとペックだったが、しかし合計で5人の脚本家が携わった脚本は満足のいくものではなく、撮影に入ってからもワイラーとペックの2人が現場で書き直しを続けたため、俳優陣は大いに混乱することとなってしまう。なにしろ、せっかく覚えたセリフも撮影時に変えられてしまうのだから。しかも、納得がいくまで何度でもリテイクを重ね、俳優には一切演技指導をしないことで有名なワイラー監督。「撮影現場は演技学校じゃない」という考え方のワイラーは、俳優が自分の頭で考えて軌道修正することを求めていたのだが、それゆえにスターと軋轢が生じることも多かった。本作の場合も、度重なる脚本の変更とリテイクで女優ジーン・シモンズがノイローゼになってしまい、ベテラン俳優チャールズ・ビックフォードも強く反発したという。さらに、キャロル・ベイカーが妊娠を理由に終盤で撮影から降板するという事態まで起きてしまった。 しかし、それらの問題以上に深刻だったのがワイラー監督とペックの不和である。その最初のきっかけは、劇中で使用する牛をプロデューサーであるペックが4000頭オーダーしたのに対し、共同プロデューサーを兼ねるワイラーが「予算の無駄遣いだ」として400頭に減らしたこと。ここから2人の意見の違いが少しずつ表面化し、主人公ジムがヘネシー家の長男バックらに嫌がらせを受けるシーンを巡って決定的となってしまった。自分の演技に不満のあったペックは撮り直しを要求したのだが、ワイラーは理由も言わず無視を決め込んだため、怒ったペックは撮影を放棄してロスの自宅へ戻ってしまったのだ。結局、残りの出番をこなすため現場復帰したペックだったが、しかしワイラー監督とは一言も喋らず、『ローマの休日』で意気投合して大親友となった2人は、本作を最後に絶縁してしまう。その後、’76年にワイラー監督がアメリカ映画協会(AFI)から生涯功労賞を授与された際、その授賞式にペックが出席したことで、ようやく拗れた関係を修復することが出来たという。 それとは反対に、本作を機にワイラーと親交を深めたのがスティーヴ・リーチ役のチャールトン・ヘストン。ちょうど『十戒』(’56)でスターダムを駆け上がったばかりのヘストンは、キャストクレジットが4番目の脇役であることを不満に思い、当初は本作のオファーを断っていた。ところが、それでもワイラー監督が「この役は君じゃないとダメだ」と諦めないことから、言うなれば根負けしてスティーヴ役を引き受けたのだという。そんな監督の期待に応えて、フロンティア精神の塊だった好戦的な男スティーヴが、反発しながらもジムの平和主義に少しずつ感化され、やがて暴力の虚しさに気付いていく姿をパワフルに演じるヘストンが素晴らしい。この演技に強い感銘を受けたワイラーが、次作『ベン・ハー』の主演に彼を起用したのも大いに納得である。そういう点でも、本作はワイラーとヘストンのキャリアにおいて重要な位置を占める作品と言えるだろう。■ 『大いなる西部』© 1958 Estate of Gregory Peck and The Estate of William Wyler. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2021.10.11
本家シリーズとは一味違うスパイアクション系のバディ・ムービー『ワイルド・スピード/スーパーコンボ』
犬猿の仲のホブスとデッカードが迷コンビに!? 映画史上最も成功したフランチャイズのひとつとも呼ばれる『ワイルド・スピード』シリーズ。これはその初めてとなるスピンオフ映画だ。主人公は元DSS(アメリカ外交保安部)捜査官のルーク・ホブス(ドウェイン・ジョンソン)と、元MI6(イギリス秘密諜報部)エージェントのデッカード・ショウ(ジェイソン・ステイサム)。お互いに顔を合わせれば憎まれ口ばかり叩く犬猿の仲の2人が、人類の滅亡を招く危険なウィルスを巡って、謎の巨大ハイテク組織の陰謀を阻止するべくタッグを組む。当初はストリートレース物としてスタートしながらも、作品を重ねるごとに『ミッション:インポッシブル』化の進んでいる本家シリーズだが、本作などはまさにスパイ映画の王道とも呼ぶべき作品に仕上がっている。 もともとは本家5作目『ワイルド・スピード MEGA MAX』(’11)で、国際指名手配されたドミニク(ヴィン・ディーゼル)とブライアン(ポール・ウォーカー)を追いつめる捜査官として登場したホブス。一方のデッカードは、6作目『ワイルド・スピード EURO MISSION』(’13)のメイン・ヴィラン、オーウェン・ショウ(ルーク・エヴァンズ)の兄としてクライマックスに登場し、次作『ワイルド・スピード SKY MISSION』(’15)では大怪我をした弟の復讐のため主人公たちの前に立ちはだかった。それが、どちらも紆余曲折を経てドミニクらファミリーとタッグを組むことに。8作目『ワイルド・スピード ICE BREAK』(’17)では、ひょんなことから行動を共にするようになったホブスとデッカードのコミカルないがみ合いが大きな見どころのひとつとなった。 このホブスとデッカードの凸凹コンビの面白さにプロデューサー陣が着目したことから、兼ねてより計画されていたシリーズ初のスピンオフ映画を、ホブスとデッカードのコンビで作ることが決まったのだという。ただ、この2人を主人公とすることには本家シリーズのレギュラー・キャストから異論もあったらしく、ヴィン・ディーゼルとドウェイン・ジョンソンが仲違いする原因になったとも伝えられている。本家シリーズのプロデューサーでもあるディーゼルが本作には参加せず、最新作『ワイルド・スピード/ジェットブレイク』(’21)にジョンソンが出演しなかった理由もそこにあるのかもしれない。 殺人ウィルスの脅威から世界を守れ! 舞台はイギリスのロンドン。MI6の特殊部隊がハイテク・テロ組織「エティオン」のトラックを襲撃する。正体不明の黒幕「ディレクター」が率いるエティオンは、テクノロジーで人類の未来を救うという目標を掲げており、そのために邪魔な弱者を抹殺する殺人ウィルスを開発していた。特殊部隊の使命はその殺人ウィルスを奪うことだったが、しかしそこへエティオンによって肉体改造された無敵の暗殺者ブリクストン(イドリス・エルバ)が現れ、チームは皆殺しにされてしまう。唯一生き残ったMI6工作員ハッティ(ヴァネッサ・カービー)は、ウィルスを自らの体内に注入して逃走。ところが、エティオンの情報操作によって裏切り者に仕立てられ、指名手配されることとなってしまう。 一刻も早くウィルスを回収せねば人類は存亡の危機に瀕する。合同で捜査に当たることとなったCIAとMI6は、ハッティを生け捕りにするために2人の最強エージェントに協力を要請する。元DSSのルーク・ホブスと元MI6のデッカード・ショウだ。しかしこの2人、顔を合わせればお互いに悪態をつかずにはいられない犬猿の仲。たちまち罵り合いとなり、けんか別れしてしまう。だが、実は逃亡中のハッティはデッカードの妹。真相を探るべく妹の部屋へ忍び込んだ彼は、エティオンの一味に襲撃され、ハッティが罠にはめられたことに気付く。一方、ロンドン市内の監視カメラをチェックしたホブスは、ハッティの行動を先読みして捕らえることに成功する。 CIAのロンドン・オフィスでハッティを尋問するホブス。妹を助けようと乗り込んで来るデッカード。するとそこへ、ブリクストン率いるエティオンの特殊部隊が乱入し、ハッティを連れ去ろうとする。なんとか彼女を取り戻し、激しいカーチェイスの末に逃げおおせたホブスとデッカードだったが、しかしまたもやエティオンはメディア報道を操作し、彼らをテロ計画の主犯格に仕立ててしまう。今や揃ってお尋ね者となったホブスとデッカード、ハッティの3人。ウィルスを開発したロシア人科学者アンドレイコ(エディ・マーサン)から情報を得た彼らは、ハッティの体内からウィルスを抽出して保管するための装置を略奪すべく、ウクライナにあるエティオンの秘密研究所へ忍び込もうとするのだが…!? サモアの全面対決では日本映画へのオマージュも! 『ワイルド・スピード』シリーズらしい派手なカーチェイスを交えつつも、本家とは違ったスピンオフならではの路線を摸索し、スパイアクション系のバディ物に仕上げたのは『アトミック・ブロンド』(’17)や『デッドプール2』(’18)のデヴィッド・リーチ監督。ノークレジットで『ジョン・ウィック』(’14)の共同監督を務めたのはご存知の通り。『ファイト・クラブ』(’99)や『オーシャンズ11』(’01)などでブラッド・ピットのボディダブルを担当し、『300<スリーハンドレッド>』(’07)や『ボーン・アルティメイタム』(’07)にも参加した元スタントマンだけあって、特にファイト・シーンの演出が凝っている。中でも見ものは、スプリットスクリーンを交えながら同時進行する2つのアクションを交互に見せることで、登場人物たちの個性や特徴を際立たせていく手法であろう。 例えば、ロサンゼルスのホブスとロンドンのデッカードが、それぞれ犯罪組織のアジトを襲撃する冒頭シーン。腕力と勢いでアジア系ギャングをなぎ倒していくホブスと、華麗な格闘技でクールにロシアン・マフィアを一網打尽にするデッカードの対比は、2人がまるで正反対な個性の持ち主であることを如実に表している。前者が華やかな暖色系で後者がスタイリッシュなネオンカラーと、使用されるライティングも対照的だ。しかし、よく見るとその戦術には不思議と共通するものがあり、本質的には2人が似た者同士であるということも示唆される。だからこそ、お互いのことが疎ましく感じられるのだろう。また、ハッティの部屋でエティオンの一味と戦うデッカード、裏通りで待ち伏せしていたホブスと戦うハッティの対比も、そのよく似た格闘スタイルから2人が兄妹であることがよく分かる。さらにこのシーンでは、まるでペアダンスを踊るように息の合ったホブスとハッティの戦いっぷりを通して、いずれ2人の関係が親密になるであろうことも予想させる。どちらもスタントマン出身のデヴィッド・リーチ監督だからこその、アクションがただのアクションに終わらない名シーンと言えるだろう。 そのホブスとハッティの関係性を友達以上恋人未満のままに止め、あえて余計な恋愛要素を絡めなかったクリス・モーガンの脚本も賢明だ。あくまでも本作の主軸はホブスとデッカードのちょい捻くれたブロマンス。男女の色恋はそこに水を差すことになってしまう。そもそも、ハッティはホブスやデッカードに負けないほど強くて賢い女性。3人が対等な関係を築くうえでも、恋愛要素は邪魔になるだけだ。その代わりと言ってはなんだが、本作の裏テーマ(?)と呼ぶべきなのが「ファミリーの絆」であろう。これは本家シリーズから継承された大切な要素。デッカードとハッティの母親マグダレーン(ヘレン・ミレン)も登場し、過去の誤解が原因で断ち切られた息子と娘の関係修復を願う。だが、さらに大きくフォーカスされるのはホブスのファミリー。本作では初めて彼のルーツが明かされる。 実は南太平洋の島国サモアの出身だったホブス。終盤では数十年ぶりにサモアへ戻ったホブスが家族と和解し、デッカードやハッティとも協力して宿敵ブリクストン一味との全面対決に挑む。ご存じの通り、演じるドウェイン・ジョンソン自身も国籍・出身こそアメリカだが、しかし家族のルーツはサモア。父親のロッキー・ジョンソンはアフリカ系アメリカ人だったが、しかし母方の祖父ピーター・メイビアはサモア出身の移民一世で、サモア系プロレスの名門アノアイ・ファミリーの一員でもあった伝説的なプロレスラーだ。サモアでの対決シーンでは、ホブスが敵の顔面に噛みつく場面があるのだが、実はこれが祖父へのオマージュなのだという。かつて2度に渡って来日したことのあるメイビアは、東京の居酒屋で飲んでいた際に別のレスラーと喧嘩騒ぎを起こし、相手の顔面に噛みついたことがあったらしい。この武勇伝(?)をジョンソンは本作で再現したのである。さらに、アノアイ・ファミリーの仲間で遠縁の親戚でもあるプロレスラー、ジョー・アノアイ(別名ロマン・レインズ)がホブスの弟役で登場。ロケ撮影にはジョンソンの母親も見学に訪れたらしいが、これはホブスだけでなくドウェイン・ジョンソンにとっても、自らのルーツにリスペクトを捧げる重要なストーリーラインだったと言えよう。 なお、サモアのシーンはハワイでの撮影。ホブスたちが敵を迎え撃つため、島の砂糖工場跡に罠を仕掛けるという筋書きは、デヴィッド・リーチ監督が大好きだという日本映画『十三人の刺客』(恐らく三池崇史版)へのオマージュだ。また、前半のハイライトであるロンドン市街でのカーチェイスは主にグラスゴーで撮影され、さらにロサンゼルスのユニバーサル・スタジオに組んだオープンセットでの追加撮影映像を編集で混ぜ込んでいる。リーチ監督によると、オリジナルのディレクターズ・カットは2時間40分にも及んだらしい。 果たして、邪悪なテロ組織エティオンを操るディレクターとは一体何者なのか?という大きな謎を残して終わる本作。当然ながら続編となる第2弾も予定されており、既に企画も動き出しているという。脚本にはクリス・モーガンが再登板。撮影時期や公開時期は未定だが、そもそも本家シリーズでシャーリーズ・セロンが演じた悪女サイファーが主人公のスピンオフも控えているため、どちらが先になるのか気になるところだ。■ 『ワイルド・スピード/スーパーコンボ』© 2019 UNIVERSAL CITY STUDIOS PRODUCTIONS LLLP. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2021.10.11
ブルース・リーの遺志を継いで作られた最後の主演作(?)『ブルース・リー/死亡遊戯』
実は『燃えよドラゴン』の前に撮影されていたブルースの出演シーン ハリウッドでの初主演映画『燃えよドラゴン』(’73)の大ヒットによって国際的なトップスターとなり、世界中で時ならぬカンフー映画ブームを巻き起こした香港映画のカンフー・レジェンド、ブルース・リー。だが、本人はその直前の’73年7月20日に、病気のためこの世を去ってしまう。享年32。あまりにも突然の悲劇からおよそ5年後、生前のブルースの未公開フィルムを使った「最後の主演作」が公開される。それが、この『死亡遊戯』(’78)だ。 もともと「死亡的遊戯」と題されていたという本作は、実は『燃えよドラゴン』よりも前にブルースの監督・脚本・主演で企画されていたのだが、その撮影途中にワーナー・ブラザーズとゴールデン・ハーベストが合作する『燃えよドラゴン』のオファーを受けたことから中断していた。先述した未公開フィルムというのは、この時点で既に撮影されていた分の映像である。ブルースは『燃えよドラゴン』の撮影終了後に本作の製作を再開させるつもりだったそうだが、しかし本人が急逝したことによって一度は頓挫してしまう。言わばその遺志を受け継いだのが、『燃えよドラゴン』でブルースと組んだロバート・クローズ監督。さらにブルースの後輩であるサモ・ハン・キンポーが武術指導を担当し、遺されたフィルムを使用したブルース・リーの「最後の主演作」が作られることとなったのである。その際に、ブルースが手掛けたオリジナル・ストーリーも大幅に変更されている。 当初、ブルースが演じるキャラクターは格闘技の元世界チャンピオンという設定で、家族を拉致したマフィアに強要され、各地から集められた格闘家たちと共に、韓国にある五重塔でのデスゲームに挑むこととなる。この五重塔では各階にそれぞれ格闘技の達人がひとりずつ配置されており、彼らとのデスマッチに勝利すれば順番に上の階へと進むことが出来る。そして、ほかの格闘家たちが次々と敗れていく中、主人公だけが無事に勝ち進んでいき、いよいよ最上階で最強の敵(カリーム・アブドゥル=ジャバー)と対決することになる…というお話だったという。最上階にはなにかお宝のようなものが隠されているらしいのだが、残念ながら現存する資料ではその詳細は分かっていない。 そして、ブルースが存命中に撮影されていたのは、主にこの五重塔でのクライマックスシーンだった。しかも、3階から5階までのパートしか存在していない。およそ39分間に及ぶこのクライマックスだが、しかし最終的に『死亡遊戯』完成版では11分強しか使われなかった。というのも、このシーンではブルース以外にジェームズ・ティエンとチェン・ユアンが共に最上階を目指す格闘家として登場するのだが、この2人が78年版の撮影には参加できなかった(ユアンは既に死亡していた)ため、彼らの出番を削らねばならなくなったのだ。さらに、五重塔という設定もなかったことにされ、クライマックスの舞台はシンジケートの隠れ家である料理店(香港に実在する有名な四川料理店・南北樓)の上階ということになった。ただし、ジェームズ・ティエンがカリーム・アブドゥル=ジャバーに殺される場面だけは、過去にシンジケートの犠牲となったカンフー映画スターのフラッシュバック・シーンとして前半で使用されている。 ブルースに見立てられた代役たち 完成版でブルース・リー(実際は大半のシーンが代役)が演じるのは、彼自身をモデルにしたような世界的なカンフー映画スター、ビリー・ロー。恋人の人気歌手アン・モリス(コリーン・キャンプ)が白人というのも、ブルースの実生活の妻リンダを彷彿とさせる。このところ、ビリーが主演する映画の撮影現場では不可解な事故が相次いでいるのだが、実は彼は香港を根城とする国際的な巨大シンジケートから脅されていたのだ。というのも、ドクター・ランド(ディーン・ジャガー)がボスとして君臨するシンジケートは、有名な映画スターやスポーツ選手と終身専属契約を結ぶことで、彼らの収入から違法に手数料を搾取していたのだが、しかしビリーは頑なにシンジケートとの契約を拒んでいたのである。 やがて組織からの脅迫はエスカレート。それでもビリーが屈しなかったことから、ドクター・ランドの右腕スタイナー(ヒュー・オブライエン)は、組織の刺客スティック(メル・ノヴァク)を送り込み、撮影現場のどさくさに紛れてビリーを射殺する。だが、殺されたと思われたビリーは奇跡的に一命を取り留めていた。友人の新聞記者マーシャル(ギグ・ヤング)の協力で死を偽装した彼は、密かにシンジケートへの復讐を計画することに。その一方でドクター・ランドやスタイナーは、事情を知りすぎたビリーの恋人アンを始末しようとしていた…。 実際に使用できる未公開フィルムが僅かであることから、『燃えよドラゴン』以前にブルースが主演した香港映画の映像も多数流用。例えば、ビリーが撮影現場で銃弾を受ける場面は『ドラゴン怒りの鉄拳』(’72)のラストシーンだし、本編冒頭で撮影している格闘シーンは『ドラゴンへの道』(’72)のコロッセオにおけるチャック・ノリスとの対決シーンだ。チャック・ノリスの出演はこの流用シーンだけなのだが、しかし当時の宣伝ポスターやオープニング・クレジットでは名前が堂々と使われている。まあ、いろいろと大らかな時代だった(笑)。それ以外にも、ブルース主演作の細かい映像がそこかしこで切り貼りされている(ビリーの葬儀シーンはブルース本人の葬儀映像)のだが、当然ながらそれだけではストーリーが成り立たないため、大半のシーンは別人の代役をブルースに見立てて撮影している。 代役を主に演じたのは、韓国出身のアクション俳優タン・ロン(本名キム・テジョン)とされている。ほかにもユン・ピョウやアルバート・シャムが代役を担当したシーンもあり、ユン・ピョウによるとブルースのスタントマンだったユン・ワーも参加したそうだが、誰がどこのシーンをどれくらいやったのかは、いまひとつハッキリしていない。ただ、代役がブルースと別人であることは、フィルムの質感が異なることもあって一目瞭然。最初のうちこそサングラスで顔を隠そうとしているものの、クライマックスへ至る頃にはそれすらしなくなっている。そういえば、鏡にビリーのクロースアップが映るシーンで、代役の顔部分にブルース本人の顔写真の切り抜きを合成しているのは前代未聞の珍場面だ。これは鏡に直接、写真を張り付けたとも言われているのだが、いずれにしても実に大胆不敵である(笑)。 ブルース・リーの恋人役として「共演」するのは、『メイク・アップ』(’77)や『トラック29』(’88)などで知られるカルト女優コリーン・キャンプ。『ポリス・アカデミー2全員集合!』(’85)や『ダイ・ハード3』(’95)、『スピード2』(’97)など続編女優としてもお馴染みで、最近でも『ルイスと不思議の時計』(’18)や『メインストリーム』(’20)などで健在だ。本作では劇中の挿入歌も本人が歌っている。そのほか、オスカー俳優のギグ・ヤングにディーン・ジャガー、テレビ『保安官ワイアット・アープ』(‘55~’61)のヒュー・オブライエンといった往年の名優が出演。『燃えよドラゴン』でブルース・リーの師匠役を演じたロイ・チャオが、本作では京劇俳優のおじさんとして顔を出しているのも要注目だ。また、武術指導のサモ・ハン・キンポーも、格闘技の試合シーンでシンジケートの用心棒ミラー(ロバート・ウォール)の対戦相手として登場する。 ちなみに、今やブルース・リーのトレードマークとも言える、黄色に黒のラインが入ったジャンプスーツは本作で初めて着用したもの。また、五重塔の階を上がるごとにさらなる強敵が待ち受けているというオリジナル・コンセプトも、その後の様々なアクション映画や格闘ゲームなどに影響を与えることとなった。劇場公開時からファンの間でも賛否両論あることは確かだし、これをブルース・リー主演作と呼べるのかどうか疑問ではあるものの、少なくともカンフー映画史上において重要な位置を占める作品のひとつであることは間違いないだろう。■ 『ブルース・リー/死亡遊戯』© 2010 Fortune Star Media Limited. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2021.11.01
新生『ハロウィン』はシリーズ過去作へのオマージュも満載!
※注意:以下の作品解説コラムにはネタバレが含まれます。本編鑑賞後にお読みください。 ホラー映画の金字塔『ハロウィン』とは? 1978年のハロウィン・シーズン、一本のB級ホラー映画がアメリカで劇場公開された。アメリカのどこにでもある田舎町で、精神病院から脱走した殺人鬼マイケル・マイヤーズがティーンエージャーたちを次々と惨殺していく。そう、ジョン・カーペンター監督によるホラー映画の金字塔『ハロウィン』である。低予算のインディーズ映画に過ぎなかったこの作品は、予算30万ドルに対して世界興収7000万ドルという驚異的な大ヒットを記録。その後の『13日の金曜日』(’80)を筆頭とする’80年代スラッシャー映画ブームの先駆けとなったばかりか、リメイク版を含めて現時点までに通算12本が製作されるほどのロングラン・シリーズとなっている。 そもそもの始まりは1963年のハロウィン。イリノイ州の田舎町ハドンフィールドに住む6歳の少年マイケル・マイヤーズは、両親の留守中に高校生の姉ジュディスを包丁で殺害し、精神病院送りとなってしまう。時は移って1978年のハロウィン当日。スミスズ・グローヴ療養所に幽閉されていたマイケルが脱走。生まれ故郷のハドンフィールドへ向かった彼は、金物店でハロウィンマスクとロープとナイフを盗み、平凡な女子高生ローリー・ストロード(ジェイミー・リー・カーティス)をつけ回す。マイケルの主治医ルーミス(ドナルド・プレザンス)は地元のブラケット保安官(チャールズ・サイファーズ)に警戒を訴えるも、その間にブラケット保安官の娘アンを含む高校生男女3人がマイケルに殺され、幼い子供トミー・ドイル(ブライアン・アンドリュース)とリンジー・ウォレス(カイル・リチャーズ)の子守をしていたローリーも命を狙われるものの、間一髪のところで駆け付けたルーミス医師に救われる。だが、博士の銃弾を受けてバルコニーから転落したはずのマイケルは、跡形もなく忽然と姿を消してしまう。 以上が記念すべき元祖『ハロウィン』のあらましである。余計な説明を極力省いたシンプルなストーリーは、それゆえ本能のままに殺戮を繰り返していくマイケルの、まるで得体の知れない超自然的な怪物性を際立たせて秀逸。無感情にして無言で何を考えているか分からず、人並外れた怪力を持つ不死身の殺人マシン。『スタートレック』のカーク船長のお面を改造したという、どこか哀しげで不気味な白いマスクがまたインパクト強烈だ。このマイケル・マイヤーズという唯一無二のキャラクターこそ、『ハロウィン』が関係者の誰も予想しなかった大ヒットを記録し、長きに渡って愛されることとなった最大の理由であろう。もちろん、当時まだ無名の新人だったジェイミー・リー・カーティスのスター性、ジョン・カーペンター監督自身による不気味な音楽スコアの魅力も外せない。 そして、それから40年後、再びハドンフィールドへ舞い戻ったマイケルとローリーの宿命的な戦いを描いた作品が、リメイク版2本を挟んで16年ぶりにジェイミー・リー・カーティスがシリーズ復活した新生『ハロウィン』(’18)。ただしこれ、実は1作目の直接的な続編として作られており、2作目以降のストーリーはなかったことになっている。なので、ホラー映画ファンには常識である「マイケルとローリーは実の兄妹」という設定もなし。長年に渡って『ハロウィン』シリーズに親しんできたマニアほど戸惑うだろうし、同時に新鮮味も感じられることだろう。そこで、まずは本題に入る前に過去シリーズの変遷(リメイク版シリーズは除く)を駆け足で振り返ってみたい。 シリーズの変遷をたどる 第2弾『ブギーマン』(’81)物語は前作の続き。惨劇を生き延びたものの大怪我を負ったローリー(ジェイミー・リー・カーティス)は、ハドンフィールド総合病院に担ぎ込まれるものの、後をつけてきたマイケルによって再び殺戮が繰り返される。ローリーがマイケルの実の妹であることが初めて明かされるのは本作。ルーミス医師(ドナルド・プレザンス)の元部下である看護婦マリオン(前作にも同役で出演したナンシー・スティーブンス)が発見した機密ファイルによって、1963年の事件当時ローリーはまだ2歳で、その直後に両親が死亡したことからストロード家へ養子に出され、プライバシー保護のため出生の秘密が隠されてきたことが判明する。15年前に姉を殺したマイケルは、今度は妹の命も狙っていたというわけだ。また、劇中のフラッシュバックでは、幼少期のローリーが精神病院に幽閉されたマイケルを見舞っていたことも描かれる。 第3弾『ハロウィンⅢ』(’82)『ハロウィン』シリーズのタイトルを冠しただけで、ストーリー的には全く関係のない番外編的な作品。ハロウィンのルーツである古代ケルトのドルイド教を信仰するカルト集団が、ハロウィンマスクを使って子供たちを神への生贄にしようとする。もちろん、マイケル・マイヤーズもルーミス医師もローリーも出て来ず。案の定、興行的には大コケした。 第4弾『ハロウィン4/ブギーマン復活』(’88)舞台設定はハドンフィールドの惨劇から10年後。ローリーは夫と共に交通事故で亡くなったことになっており、本作ではその幼い娘ジェイミー(ダニエル・ハリス)が主人公となる。昏睡状態のまま病院に収容されていたマイケルは、自分に姪がいることを知って意識を取り戻し脱走。ハロウィンで賑わうハドンフィールドへ再び姿を現し、今は別の家庭の養女となったジェイミーの命を狙う。ジェイミーが恐怖体験の後遺症でマイケル化してしまい、その姿を見たルーミス医師(ドナルド・プレザンス)がショックのあまり絶叫するラストが印象的だ。 第5弾『ハロウィン5/ブギーマン逆襲』(’89)前作の1年後。PTSDでハドンフィールド児童病院に入院していたジェイミー(ダニエル・ハリス)が、意識を取り戻したマイケルとテレパシーで繋がってしまい、再び惨劇の幕が切って落とされる。ラストはフードを被った謎の人物がマイケルとジェイミーを連れ去るという衝撃の展開に。ジェイミーに「おじさん」と呼ばれたマイケルが、マスクを脱いで涙を流す場面もある。 第6弾『ハロウィン6/最後の戦い』(’95)前作から6年後の本作では、まずマイケルとジェイミーを連れ去った人物が、ドルイド教のカルト教祖であることが判明。さらに、マイケルが不死身なのはドルイド教の呪いが原因だと明かされる。まあ、確かに2作目『ブギーマン』でもマイケルとドルイド教の関連を匂わせるセリフはあったが、まさかそういうことだったとは(笑)。今回のマイケルが狙うのは、ジェイミーが出産した息子。スティーブンと名付けられたその赤ん坊を守るため、1作目でローリーが子守をしていたトミー・ドイル(ポール・ラッド)とルーミス医師(ドナルド・プレザンス)が、マイケルとカルト教団を相手に戦うこととなる。 第7弾『ハロウィンH20』(’98)ジェイミー・リー・カーティス演じるローリーが復活したシリーズ20周年記念作。こちらは2作目の直接的な続編となっており、それ以降の設定はなかったことにされている。全くもって、ややこしいですな(笑)。で、全米各地で殺人事件を繰り返す兄マイケルから身を守るために死を偽装したローリーは、名前を変えて全寮制高校の校長を務めながら一人息子ジョン(ジョシュ・ハートネット)を育てている。事情を知っているのは旧知の看護婦マリオン(ナンシー・スティーブンス)だけなのだが、そのマリオンがマイケルに殺されて書類が盗まれたことから、ついに居場所を突き止められてしまう。マイケルが自分を殺しに来るとの強迫観念にとらわれ、息子を守らんがため神経質になっているローリーは、まさしく新生『ハロウィン』のローリーそのものだ。 第8弾『ハロウィン レザレクション』(’02)前作に続いてジェイミー・リー・カーティスが登板した作品だが、しかしローリーが出てくるのは序盤だけ。PTSDを装って精神病院へ入院していたローリーは、来るべき兄マイケルの襲撃に備えて罠を仕掛けていたものの、なんとあえなく殺されてしまう!以降は、ウェブ番組の肝試し企画でマイヤーズ家の廃墟に潜入した若者たちが、次々とマイケルの餌食になっていくという凡庸なストーリーが展開。どうやら、ローリー役のジェイミーはこれを以て『ハロウィン』シリーズに終止符を打つつもりだったらしい。 全編に散りばめられたオマージュを探せ! かように、人物設定や相関関係が複雑怪奇になってしまった『ハロウィン』シリーズ。本作を1作目の直接的な続編にした理由のひとつは、それらのストーリーラインをカバーしきれなかったからだという。そもそも、1作目が大成功したのはストーリーも設定も極めてシンプルだったから。この機会に原点回帰を図るという意図もあったのだろう。なので、ローリーとマイケルが兄妹だという事実もなければ、娘ジェイミーや息子ジョンの存在もなし。そればかりか、実は1作目のあとでマイケルは警察に逮捕され、40年間に渡って精神病院に幽閉されてきたことになっているのだから驚かされる。 ハドンフィールドの惨劇から40年後の現在。ローリー(ジェイミー・リー・カーティス)は今なお深刻なPTSDを抱えており、いつか必ずマイケルが自分を殺しにやって来るという強迫観念に囚われていた。そのため、自宅を要塞のように改造して引きこもり、酒に溺れる毎日を送っている。そんな母親を娘カレン(ジュディ・グリア)は疎ましく思っているが、しかし高校生の孫娘アリソン(アンディ・マティチャック)は祖母を理解しようと努めていた。やがて訪れるハロウィン・シーズン。精神病院から刑務所へ移送中のバスからマイケルが脱走し、40年前の決着をつけるためにハドンフィードへと舞い戻ってくる…というわけだ。 終盤はローリーと娘カレン、孫娘アリソンが団結し、様々なトラップを仕掛けた自宅を舞台にマイケルとの死闘を演じる。故ルーミス医師が「純粋なる邪悪」と呼んだマイケルは、子供だろうが女性だろうが、はたまた善人だろうが悪人だろうが容赦なく襲いかかるという意味において、さながら地震や台風など自然災害の如し。そんな理屈の通用しない理不尽な暴力に対し、口ばかりで役に立たない男たちを差し置いて、愛と勇気で結ばれた三世代の聡明な女性たちが連帯して立ち向かうという筋書きは、女性のエンパワーメントとジェンダーロールの再定義を掲げる第4派フェミニズムの時代に相応しいとも言えよう。 既に述べたように、シリーズ2作目以降のストーリーや設定をリセットしてしまった本作だが、しかしその一方で「ファンのため、過去作の全てにオマージュと敬意を捧げている」と脚本家デニー・マクブライドが語っているように、全編に渡ってシリーズ各作品からの引用が見受けられる。どれだけオマージュを探し当てられるかも、ファンにとっては大きな楽しみだろう。 そこで最後に、筆者が気付いたオマージュ・ネタを幾つかご紹介してみたい。 「教室の窓から外を眺めるアリソン」 元ネタ:オリジナル版『ハロウィン』恐らくこれは最も分かりやすいオマージュであろう。1作目では授業中にローリーが教室の窓から外を眺めるとマイケル・マイヤーズが立っているが、今回の新生『ハロウィン』でアリソンの視線の先にいるのはローリー。ファンなら思わずニヤリとするはずだ。 「公衆トイレにマイケル襲来!」 元ネタ:『ハロウィンH20』ガソリンスタンドの公衆トイレでジャーナリストたちがマイケルに殺されるシーン。これとよく似ているのが、道路脇の公衆トイレに立ち寄った母親と幼い息子がマイケルと遭遇する『ハロウィンH20』のワンシーンだ。ただし、こちらの母子は殺されずに済むのだが。 「キッチンから包丁を奪うマイケル」 元ネタ:『ブギーマン』ハドンフィールドへ戻ったマイケルは、まずは凶器を調達!とばかりに民家のキッチンへ押し入り、赤いガウンを着たオバサンを殺して包丁を奪うのだが、2作目『ブギーマン』にも似たシーンがある。ただし、こちらのオバサンはピンクのガウン姿で、幸いにも殺されずに済む。 「電話で事件を知った主婦を背後から襲撃するマイケル」 元ネタ:『ブギーマン』こちらも2作目のオマージュ。本編に登場する順番まで一緒だ。『ブギーマン』では友達との電話で惨劇を知った女子高生が、「まじ?怖くね?」と言っている間に背後から忍び寄ったマイケルに殺されるのだが、本作ではマイケルの逃亡を電話で聞いて戸締りしようとした主婦が同様の目に遭う。 「白いお化けシーツを被ったヴィッキー」 元ネタ:オリジナル版『ハロウィン』マイケルに殺されたアリソンの親友ヴィッキー。まるでハロウィンの仮装のごとく、その死体には白いお化けシーツが被されているのだが、これは1作目で恋人ボブのふりをしたマイケルに、ローリーの親友リンダが殺されるシーンのオマージュと思われる。 「何も知らずに夜道を歩くアリソン」 元ネタ:『ハロウィン4/ブギーマン復活』マイケルがハドンフィールドに戻ったことも、警察が安否確認のため行方を探していることも知らず、パーティ会場を出て友達と夜道をとぼとぼ歩くアリソン。目の前で友達が殺されたことで、ようやく事態に気付いて周辺住民に助けを求めた彼女を、保安官とサルテイン医師がパトカーで迎えに来る。これと同様に、4作目でもマイケルが町に戻って、警察が自分を探していると知らないジェイミーは、トリック・オア・トリートのために夜道を歩いていたところ、やはりパトカーに乗った保安官とルーミス医師に助けられる。 「マイケルをトラップで迎え撃つローリー」 元ネタ:『ハロウィン レザレクション』いよいよマイケルと対峙することになったローリーは、家のあちこちに仕掛けたトラップでマイケルを迎え撃つわけだが、同様に『ハロウィン レザレクション』のローリーも、マイケルが自分を殺しに来た時のため、精神病院の屋上にトラップを仕掛けていた。 「2階から転落したローリーを見下ろすマイケル」 元ネタ:オリジナル版『ハロウィン』これは’78年版クライマックスへのオマージュ。1作目ではルーミス医師の銃弾を浴びたマイケルが2階から転落。ローリーが無事か確認したルーミス医師が再び下を見下ろすと、既にマイケルの姿は消えているのだが、本作ではローリーが2階から突き落とされ、マイケルが見下ろすこととなる。 「マイケルの背後の暗闇から浮かび上がるローリー」 元ネタ:オリジナル版『ハロウィン』犠牲者の背後の暗闇から白いマスクを被ったマイケルが浮かび上がる…というのはシリーズを通してのお約束だが、その原点はもちろん’78年のオリジナル版。しかし本作では、反対にローリーがマイケルの背後の暗闇から姿を現し、「ハッピー・ハロウィン」の決め台詞と共に一撃をお見舞いする。 「ガス大爆発」 元ネタ:『ブギーマン』本作のクライマックス、マイケルを地下室に閉じ込めたローリーたちが、家中にガスを充満させて火を点け大爆発させる。一方の『ブギーマン』では、病院の物置部屋に追い詰められたローリーとルーミス医師が、部屋中に置かれたガスボンベの栓を開いてガスを充満させ、先にローリーを逃がしたルーミス医師が火を点けてマイケルもろとも吹っ飛ぶ。 他にも様々なオマージュが散りばめられていると思うので、ぜひ探してみて欲しい。 なお、現在劇場公開中の『ハロウィンKILLS』(’21)は本作の直後から始まり、ハドンフィールドの町を舞台にマイケルが大量殺戮を繰り広げることになる。オリジナル版からはリンジー役のカイル・リチャーズにブラケット保安官役のチャールズ・サイファーズ、さらには7作目で殺された看護婦マリオン役のナンシー・スティーブンスが再登場。’22年のハロウィン・シーズンには、シリーズ完結編となる『Halloween Ends』(邦題未定)も公開される予定だ。■ 『ハロウィン(2018)』© 2018 Night Blade Holdings LLC. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2021.12.02
ハイテクな近未来を’80年代テイストで描いたSFサイバーパンク・アクション『アップグレード』
ホラー映画脚本家リー・ワネルが初挑戦した本格的なSF世界 ホラー映画『ソウ』シリーズや『インシディアス』シリーズで知られる脚本家リー・ワネルが、長年の盟友ジェームズ・ワンとのコラボではなく単独で監督・脚本を手掛けた近未来SFアクションである。もともとオーストラリアのメルボルン出身で、地元の名門RMIT大学メディア・コミュニケーション学科に入学したワネルは、周囲の学生がヨーロッパのアート映画を志向する中にあって、「ジェームズ・キャメロンが好き」と臆せず公言する同級生ジェームズ・ワンと意気投合。一緒にホラー映画の脚本を書くようになった2人のデビュー作が、世界規模のサプライズヒットとなった『ソウ』(’04)だった。 ジェームズ・ワンが監督を、リー・ワネルが脚本をという役割分担で、以降も『デッド・サイレンス』(’07)や『インシディアス』(’10)をヒットさせた2人。その傍らで、『ソウ』と『インシディアス』の続編シリーズなどの脚本も手掛けていたワネルだが、しかし学生時代から映画監督志望だった彼は、シリーズ3作目に当たる『インシディアス 序章』(’15)で念願の監督デビューを果たす。そして、盟友ワンが『ワイルド・スピード SKY MISSION』(‘15)でブロックバスター映画へと大きく飛躍したのを機に、インディペンデント志向の強いワネルは予てから温めていたSF映画の企画を低予算で実現することとなる。それがこの『アップグレード』(’18)だったというわけだ。 舞台はそう遠くない近未来。社会がますますテクノロジーに依存していく中、昔ながらのアナログ技術にこだわり続ける自動車整備士グレイ(ローガン・マーシャル=グリーン)は、大手のハイテク企業に勤める愛妻アイシャ(メラニー・バレイヨ)と満ち足りた生活を送っていた。そんなある日、ハイテク業界の風雲児エロン・キーン(ハリソン・ギルバートソン)に依頼されていた自動車の修理を終えたグレイは、納品のため妻を伴ってエロンのもとへ向かう。そこでエロンが開発した革命的なAIチップ「STEM」を紹介された2人。その帰り道、夫婦の乗った自動運転車が突然制御不能となり、暴走を繰り広げた挙句に横転してしまう。そこへ襲いかかる4人の男たち。彼らはグレイに暴行を加えたばかりか、冷酷にもアイシャを殺害して姿を消す。 それから3か月後、辛うじて一命を取り留めたものの四肢が麻痺してしまったグレイ。妻を失った悲しみに加え、車いす生活を余儀なくされて絶望した彼は、思い余って自殺を図るものの失敗する。そこへ現れたのがエロン。彼はグレイにある提案を持ちかける。例のAIチップ「STEM」を脊髄に埋め込む人体実験に協力してみないかというのだ。人間の脳に反応する「STEM」は、脳からの信号を切断された神経へ送り届ける役割を果たす。つまり、以前のように手足を自由に動かせるようになるのだ。結果的に手術は成功。守秘義務契約書にサインしたグレイは、すっかり体の機能が回復したものの、表向きは車いすの生活を続けることになる。 ところが、自宅へ戻ったグレイに何者かが突然語りかける。それは人格を持った「STEM」の声だった。脊髄から鼓膜を通して音声を送るため、その声はグレイにしか聞こえない。想定外の事態に困惑するグレイだったが、しかしそれは同時に天の恵みでもあった。高度な知能を持ち、様々なハイテクマシンにアクセス可能な「STEM」は、彼の‟ある目的“を叶えるために有効だったのだ。それは妻アイシャを殺した犯人グループを自らの手で探し出すこと。警察のコルテス刑事(ベティ・ガブリエル)による捜査はなかなか進展せず、グレイは苛立ちを募らせていたのである。 監視ドローンの記録映像を検証した「STEM」は、犯人グループのひとりブラントナーの居所を突き止めることに成功。ブラントナーの留守宅で、警察へ届け出るための証拠を探していたグレイだったが、そこへ運悪く本人が帰ってくる。しかも、ブラントナーは肉体改造されたサイボーグだった。襲いかかるブレントナーになす術もないグレイ。すると、にわかに「STEM」が彼の身体機能を制御し、超人的なパワーを発揮してブラントナーを殺してしまう。思いがけない強力な武器(=ハイテクな肉体と頭脳)を手に入れたグレイは、さらに残りの犯人グループを突き止めようとするものの、やがて襲撃事件の驚くべき真相を知ることになる…。 CGでは再現できないリアルな臨場感にこだわった撮影 テクノロジーの進化に疑問を抱いてアナログに強くこだわる昔気質な主人公が、人体実験によって最先端のAIテクノロジーを備えたスーパーヒーローに生まれ変わるという皮肉な話。はじめのうちこそ『ナイトライダー』のマイケル・ナイトと「K.I.T.T.」のごとく、お互いに持ちつ持たれつの関係で謎の犯人グループを追跡していくグレイと「STEM」だが、しかし次第にグレイは「STEM」なしでは何もできなくなってしまい、やがて科学技術を利用する立場だった人間が科学技術によって支配されていく。 『アイアンマン』や『ブラックパンサー』などのスーパーヒーロー映画において、高度なテクノロジーは諸刃の刃ではあれども人類に恩恵をもたらすものとして描かれるが、しかし本作はむしろ人間の生命や存在までをも脅かすものとして捉えられ、過度な技術革新がもたらす未来に強い警鐘が鳴らされる。冒頭の制御不能となる自動運転車などはまさに象徴的だ。そのダークでサイバーパンクな映像美を含め、『ターミネーター』(’84)や『ハードウェア』(’90)など、ハイテクの暴走を描いた古典的なSFアクション映画の延長線上にある作品と言えよう。この傾向はワネル監督の次回作『透明人間』(’20)にも相通じる。 ワネル監督が本作のアイディアを思いついたのは2010年前後のこと。そもそもは「車いすに座った四肢麻痺の男性がいきなり立ち上がり、よく見ると首の後ろに埋め込まれたコンピューターに操作されていた」という光景を思い浮かべたことがきっかけだったという。この漠然としたイメージを基にして脚本を書き上げたワネル監督は、作品自体もテクノロジーに頼り過ぎないオーガニックな世界観を目指した。CGで作り込まれた派手な特殊視覚効果よりも、昔ならではのプラクティカルな特撮や特殊メイクが好きだというワネル監督は、もしかすると主人公グレイと似たようなアナログ人間なのかもしれない。 その際に参考としたのが、まさしく『ターミネーター』に『ハードウェア』、そして『ロボコップ』(’86)といった、CG以前のアナログ技術を使ったSFアクション映画群だったという。サイボーグ同士の格闘を描く激しいスタント・シーンは、そのものズバリな『サイボーグ』(’86)や『ネメシス』(’92)などのアルバート・ピュン作品を彷彿とさせるものがある。撮影もグリーンバックではなくロケや実物セットが中心。もちろん、低予算映画ゆえの諸事情もあったとは思うが、しかし作品のテーマと傾向を考えれば正しいアプローチだったと思う。 ちなみに、徹底してリアルな臨場感にこだわったワネル監督は、主人公グレイと人工知能「STEM」の会話もアフレコではなく撮影現場で同時録音している。「STEM」の声を担当する俳優サイモン・メイデンがモニター画面を見ながらセリフを喋り、それをグレイ役のローガン・マーシャル=グリーンが耳に装着した超小型イアピースで聞き取ることで、まさしく劇中のグレイと「STEM」のようなコミュニケーションを成立させているだ。 また、アクション・シーンでは「STEM」に制御されたグレイの素早い動作を細かく捉えた独特なカメラワークが印象的で、後からデジタル加工を施したようにも見えるのだが、実はこれにも意外なトリックが隠されている。専用アプリを使ってiPhoneとデジカメ「Alexa Mini」を同期させ、そのiPhoneをローガン・マーシャル=グリーンの衣装に仕込むことで、ローガンの動きとカメラレンズの動きを完璧にシンクロさせているのだ。これによって、主人公グレイの動作に超人的な印象が与えられているのである。シンプルだが非常に効果的な演出だ。 300万ドルというハリウッド基準ではかなりの低予算映画ながら、興行収入1700万ドルのスマッシュヒットを記録した本作。続編の可能性を予感させるようなエンディングに対して、劇場公開時には「続編を撮る予定はなし」「これはこれで完結した作品」と断言していたワネル監督だが、しかし昨年になってテレビシリーズ化の企画が浮上。医療ドラマ『シカゴP.D.』の脚本家ティム・ウォルシュとワネル監督が共同でクリエイターを務め、本作から数年後のさらに進化した人工知能「STEM」を埋め込まれた新たなキャラクターを主人公に、アメリカ政府がハイテク技術を犯罪捜査のため利用する世界が描かれるという。現時点ではまだ脚本準備の段階だが、ひとまず平凡なSF犯罪ドラマになってしまったテレビ版『マイノリティ・リポート』の二の舞だけは避けて欲しいところだ。■ 『アップグレード』© 2018 Universal City Studios Productoins LLLP. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2021.12.03
ハマー・ホラーからの影響も濃厚なSFホラー超大作!『スペースバンパイア』
古典的な侵略型SF映画の進化版 ‘80年代を代表するSFホラー映画の傑作のひとつであり、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった映画会社キャノン・フィルムズが総力を挙げて製作したブロックバスター映画『スペースバンパイア』(’85)。監督は『悪魔のいけにえ』(’74)の鬼才トビー・フーパーである。『未知との遭遇』(’78)や『E.T.』(’82)の大成功によって、ハリウッド映画で地球を訪れるエイリアンが軒並み友好的だった時代、宇宙からやって来た全裸の美女エイリアンがロンドンを火の海にしてしまうというストーリーは、古典的な侵略型SF映画の進化版として温故知新的な魅力に溢れていた。スピルバーグ映画的なSFXやゾンビ映画的な特殊メイクも盛りだくさん。巨匠ヘンリー・マンシーニが手掛けた壮大なオーケストラ・スコアがまた素晴らしく、当時高校生だった筆者も映画館の暗がりでワクワクと胸を躍らせながらスクリーンを見上げたものだ。 76年ぶりに地球へ最接近するハレー彗星の話題で持ちきりの現代(実際にハレー彗星は翌’86年に地球へ接近)。米国人船長カールセン大佐(スティーヴ・レイルズバック)が率いる英国のスペースシャトル「チャーチル号」は、ハレー彗星のコマ(星雲状のガスやダスト)に紛れた謎の巨大宇宙船を発見する。捜索のために船内へと向かった飛行士たちが発見したのは、まるでコウモリのような姿をした不気味なクリーチャーの無数の死骸、そして透明カプセルに収められた人間そっくりの女性1名男性2名だった。その透明カプセルを回収して地球への帰路に就くチャーチル号。ところが、シャトル内で異常な事態が発生し、チャーチル号は地球との連絡を絶ってしまう。 それから1か月後。救助に向かった米国のスペースシャトル「コロンビア号」の乗組員は、火災によってシャトル内が焼き尽くされたチャーチル号を発見し、3名の男女が眠る無傷のカプセルを地球へと持ち帰る。この男女はいったい「何」なのか。ロンドンにある宇宙調査センターのケイン大佐(コリン・ファース)とファラーダ博士(フランク・フィンレイ)、ブコフスキー博士(マイケル・ゴザード)は、正体不明の男女を解剖することに決めるのだが、しかし突然起き上がった女性エイリアン(マチルダ・メイ)が警備員を襲って逃亡する。 駆けつけたファラーダ博士らが発見したのは、女性エイリアンに生命エネルギーを吸い尽くされてミイラ化した警備員の遺体。しかも、これがまた解剖しようとした執刀医の生命エネルギーを吸い取って人間の姿に戻る。どうやらエイリアンたちは人間の精気を吸収するヴァンパイアで、犠牲者もまたヴァンパイアとなって他人の生命エネルギーを奪い、さらなる犠牲者を増やしていくことになるらしい。ただし、2時間ごとにやって来る「飢え」を満たさないと、ヴァンパイア化した人間は炭化して死んでしまう。その頃、眠っていた2名の男性エイリアンも覚醒してセンターから脱走。この不測の事態にケイン大佐やファラーダ博士は頭を抱える。 一方、遠く離れたアメリカのテキサス州でチャーチル号の脱出ポッドが回収され、死んだと思われていたカールセン大佐が生還する。すぐにロンドンへと赴いたカールセン大佐は、スペースシャトル内で復活したエイリアンたちが乗組員を次々に殺し、このまま地球へ帰還すれば人類に危険が及ぶと考えてシャトルを破壊したと説明。彼が女性エイリアンとテレパシーで繋がっていると知ったケイン大佐は、カールセン大佐を伴って彼女の足取りを追うことに。その傍ら、エイリアンを倒す方法を探っていたファラーダ博士は、彼らこそがヴァンパイア伝説の起源であり、これまでにもハレー彗星と共に地球へ飛来していたことを突き止める。そうこうしているうちに、市中へ解き放たれたエイリアンたちが次々と犠牲者を増やし、ロンドンは未曽有の大パニックに陥ってしまう…。 超一流スタッフによるスペクタクルな特撮 原作はイギリスの作家コリン・ウィルソンが1976年に発表したSF小説「宇宙ヴァンパイアー」。しかし映画版ではそのストーリーを大幅に改変しており、むしろ英国ホラーの殿堂ハマー・プロによるSF映画「クォーターマス」シリーズ、中でも3作目『火星人地球大襲撃』(’67)に酷似している点が少なくない。例えば、本作ではハレー彗星と共にやって来たエイリアンがヴァンパイア伝説の原型とされているが、『火星人地球大襲撃』でも太古の昔に地球へ飛来した火星人が「悪魔」の原型だった。クライマックスでロンドンが大パニックに陥るという展開もそっくりである。 さらに言うと、人間の生命エネルギーを吸い取るエイリアンたちの設定も、映画版ではより古典的なヴァンパイア像に近づけられており、ゴシック的なムードを漂わせた美術デザインとも相まって、ハマー・プロが得意とした一連のヴァンパイア映画との類似性も見て取れるだろう。エイリアンが人間の性的な欲望を利用して精気を奪うというエロティックな要素は、「カルシュタイン三部作」を筆頭とする’70年代ハマーのセクシー・ヴァンパイア路線を想起させる。「自分のルーツであるハマー映画の大作版」とトビー・フーパー監督自身も述べているように、往年のハマー・ホラーから多大な影響を受けた作品であることは間違いないだろう。 そのトビー・フーパーがキャノン・フィルムズから本作の企画をオファーされたのは、スピルバーグ製作のホラー映画『ポルターガイスト』(’82)が完成した直後のこと。当時、キャノン・フィルムズで3本の映画を撮る契約を結んだフーパー監督は、その第1弾としてコリン・ウィルソンの原作本を社長メナハム・ゴーランから手渡されたという。ちょうど『バタリアン』の企画から降板したばかりだったフーパー監督は、同作の監督を引き継いだ友人ダン・オバノンに脚本を依頼。あの『エイリアン』の脚本を書いたオバノンはまさしく適任だったと言えよう。 製作準備だけで2年を要した本作は、’84年2月から約半年間に渡ってロンドンで撮影を敢行。チャック・ノリスやチャールズ・ブロンソンが主演する低予算のB級映画で知られていたキャノン・フィルムズは、当時の同社にとって史上最高額となる2500万ドル(現在の金額に換算すると約6500万ドル)もの莫大な予算を用意していた。フーパー監督によると、撮影にあたってゴーラン社長が要求したのは、女性エイリアンを全裸で登場させることだけ。それ以外は一切口出しすることがなかったそうだ。 やはり真っ先に目を引くのは、ミニチュアや実物大セットを駆使したスペクタクルな特撮シーン。オープニングに登場するエイリアンの宇宙船内部は、ロンドン近郊にあるエルストリー・スタジオの巨大なステージ6、通称「スター・ウォーズ・ステージ」に作られた本物のセットである。『戦争と冒険』(’72)や『ラグタイム』(’81)でオスカー候補になったジョン・グレイスマークの美術デザインは、どことなく古典的なゴシック・ホラーの雰囲気を漂わせていて秀逸。また、ロンドン市街が文字通り火の海と化すクライマックスのパニック・シーンも、『スター・ウォーズ』(’77)や『スタートレック』(’79)でお馴染みジョン・ダイクストラの特撮チームが良い仕事をしている。その圧倒的なスケール感は見応え十分だ。 さらに、『スター・ウォーズ』のヨーダを制作したことで知られ、当時は『銀河伝説クルール』(’83)や『ザ・キープ』(’83)などの特撮映画で引っ張りだこだった特殊メイクマン、ニック・メイリーによるミイラ化したヴァンパイアの造形も素晴らしい。今だったらCGで済ませてしまうところだろうが、やはり機械仕掛けのダミーボディを現場でスタッフが操作するアニマトロニクスのリアル感は格別。細やかな表情の変化など見事な仕上がりだ。 最大の見どころはフランス女優マチルダ・メイ しかし、そんな本作の最大の見どころは、実のところ巨額の予算を投じた特撮でも特殊メイクでもなく、一糸まとわぬ姿で女性エイリアンを演じた美女マチルダ・メイだ。フーパー監督自身も「マチルダ・メイがいなければ、この映画は成立しなかった」と断言しているように、その非の打ちどころのない美貌と完璧な肉体で表現される女性エイリアンの、まるでこの世のものとは思えない神秘性こそが、本作の原動力になっていると言えよう。撮影当時まだ19歳だったマチルダは、これが映画出演2作目となるフランス出身のバレリーナ。演劇を学んだこともなければ女優になるつもりもなかったというが、バレエで鍛えたしなやかな動きが女性エイリアンの超然とした存在感を醸し出している。 さらに、テレビ『ヘルター・スケルター』(’76)のチャールズ・マンソン役で有名なスティーヴ・レイルズバック、『エクウス』(’77)や『テス』(’79)で高く評価されたピーター・ファース、ローレンス・オリヴィエの『オセロ』(’65)でオスカー候補になったシェイクスピア俳優フランク・フィンレイなど、キャストに実力のある名優ばかりを揃えたことも、荒唐無稽なストーリーに説得力を与えるという意味で功を奏している。『悪魔のいけにえ』のマリリン・バーンズが『ヘルター・スケルター』にも出演していたことから、フーパー監督は同作の撮影現場を見学に訪れたことがあり、その当時からレイルズバックとは友人だったらしい。 さらに、ファラーダ博士に退治される男性エイリアン役は、あのミック・ジャガーの弟クリス・ジャガー。『ドラゴンVS.7人の吸血鬼』(’74)のドラキュラ役で知られるジョン・フォーブス・ロバートソンなど、ハマー・ホラーに縁の深い英国俳優たちも出演している。もちろん、ピカード艦長役やプロフェッサーX役でお馴染みのパトリック・スチュワートの登場も見逃せない。 ちなみに、当初はケイン大佐役にクラウス・キンスキー、ファラーダ博士役にジョン・ギールグッドがアナウンスされていたが、どちらも諸事情によって降板している。また、フーパー監督がビリー・アイドルのヒット曲「ダンシン・ウィズ・マイセルフ」のMV演出を手掛けたことから、2人目の男性エイリアン役にビリー・アイドルを起用するという話もあったが、スケジュールの都合が合わずに実現しなかった。ビリー・アイドルのエイリアン役は是非とも見てみたかった。 なお、アメリカではエイリアンの宇宙船を舞台にしたオープニングを大幅にカットした短縮版が劇場公開され、そのせいなのかどうかは定かでないものの、当時は興行的な惨敗を喫してしまった本作。エロティックな要素もブロックバスター映画向きではなかったと言われているが、しかしイギリスやフランスなどのヨーロッパでは反対に大ヒットを記録し、今ではカルト映画として日本を含む世界中で熱愛されている。マチルダ・メイはレナード・シュレイダー監督の『ネイキッド・タンゴ』(’91)やビガス・ルナ監督の『おっぱいとお月さま』(’94)で高く評価され、一時はフランスを代表する女優のひとりとなった。先述したようにキャノン・フィルムズと3本の契約を結んでいたフーパー監督は、本作に続いて『スペースインベーダー』(’86)と『悪魔のいけにえ2』(’86)を手掛けることとなる。■ 『スペースバンパイア』© 1985 Easedram Limited. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2021.12.31
ツイ・ハークやアン・リーにも多大な影響を与えた巨匠キン・フーによる武侠映画の決定版!『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』
武侠映画に革命をもたらしたキン・フー監督 武侠映画(中華時代劇)の神様とも呼ばれる香港・台湾映画の巨匠キン・フー監督の代表作である。1932年に中国本土の北京で生まれ、第二次世界大戦後の1949年に香港へと移住したキン・フー監督。もともと美術スタッフや俳優として映画に携わっていた彼は、同じく本土出身の名監督リー・ハンシャンに影響を受けて’58年に映画会社ショウ・ブラザーズと契約。リー・ハンシャン監督作で俳優や助監督を務めたのち、’64年に監督デビューを果たす。そんなキン・フー監督の出世作となったのが、武侠映画に新風を吹き込んだと言われる名作『大酔侠』(’66)。それまでの大時代的な古めかしい武侠映画から脱却し、アクションとバイオレンスと幻想美を融合した斬新な演出は「新派武侠片」とも呼ばれ、香港映画界に革命をもたらした。興行的にも香港だけでなく東南アジア各国でも大ヒットを記録。キン・フー監督も一躍注目の的となる。 ところが、その直後にキン・フー監督はショウ・ブラザーズを去ることになってしまう。社長ラン・ラン・ショウと衝突したためと言われているが、もともと俳優としてショウ・ブラザーズと契約をしていたというキン・フー監督には、当時まだ2本の出演契約が残されていたらしい。そのためラン・ラン・ショウはいたく憤慨したそうで、2人の間にはその後もわだかまりが残されることとなった。そんなキン・フー監督の向かった先が台湾。当時、まだ設立されたばかりだった映画会社・聨邦影業公司に招かれた彼は、そこで『大酔侠』をさらにスケールアップさせた武侠映画を撮ることとなる。それがこの『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』(’67)だった。 舞台は1457年、明朝・景泰帝の時代。朝廷では宦官ツァオ(バイ・イン)が特務機関・東廠(とうしょう)と秘密警察・錦衣衛(きんいえい)を配下において実権を握り、人望の厚い大臣ユー・チェンを罠にはめて処刑してしまう。大臣の3人の子供たちは流刑処分となったが、しかし彼らが大人になって復讐を企てるのではないかと危惧したツァオは、秘かに刺客を送り込んでユー一門を皆殺しにしようとする。 その任務に就いたのは東廠のピイ(ミャオ・ティエン)とその右腕マオ(ハン・インチェ)。大勢の手下を引き連れた彼らは、ユー一門が立ち寄る場所へと先回りする。そこは人里離れた荒野の真ん中にポツンと建つ古い宿屋「龍門客棧」。近くの国境警備隊を皆殺しにして店を強引に占拠した暗殺部隊は、宿泊客のふりをしてターゲットの到着を待ち構える。すると、そこへ宿屋の主人ウー(ツァオ・ジエン)の友人だという謎めいた風来坊シャオ(シー・チュン)がやって来る。さらに、旅の途中で立ち寄ったチュウ兄弟(シュエ・ハン、シャンカン・リンフォン)も到着。ピイ一味は彼らを宿屋から追い出そうとするが、しかしいずれも並外れた武術の達人であることから苦戦し、仕方なく彼らが宿泊することを許す。 実は、宿屋の主人ウーは処刑された大臣ユーの腹心で、その子供たちを守るために弟分シャオを呼び寄せていたのだ。しかも、チョウ兄弟(弟の正体は男装した女性なので実は兄妹)はウーの親友の子供で、彼らもまた大臣の子供たちを守るため「龍門客棧」へ先回りしていたのだ。ピイ一味の目的に気付いた彼らは、一致団結して暗殺計画を阻止することに。やがてユー一門が「龍門客棧」へと到着し、血で血を洗う壮絶な闘いが繰り広げられる。ツァオに恨みを持つ韃靼(だったん)人の兄弟も加わり、東廠の暗殺部隊を圧倒するシャオたち。業を煮やしたツァオが自ら軍隊を率いて現れ、ついに全面戦争の火蓋が切って落とされる…! 登場人物の個性を際立たせるシンプルなプロット 前作『大酔侠』でも宿屋を重要な舞台のひとつにしていたキン・フー監督だが、本作ではその宿屋がメインの舞台となり、悪徳宦官によって殺された大臣の子供たちを守らんとする忠義の剣士たちと、その宦官が差し向けた東廠の暗殺部隊が死闘を繰り広げる。刺客たちが待伏せする宿屋に予期せぬ客人が次々と現れ、お互いの腹を探りながらもやがて彼らの正体が明かされていくというスリリングな展開は、さながらクエンティン・タランティーノ監督の西部劇『ヘイトフル・エイト』(’15)。かつてタランティーノが『大酔侠』をリメイクするなんて企画もあったくらいなので、仮に『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』の影響を受けていたとしても不思議はないだろう。もちろん、本作自体がジョン・フォード監督の『駅馬車』(’39)やラオール・ウォルシュ監督の『リオ・ブラボー』(’59)といった西部劇に影響されているであろうことも否めない。映画にしろ音楽にしろ文学にしろ、芸術というのはお互いに影響を与え合いながら創造されていくものだ。 そもそもキン・フー監督が舞台設定に宿屋を好んで使うのは、本人曰く「『三國志』の時代から人々が行き交う宿屋は対立を起こすのに格好の場所」だから。さらに、吹き抜けの2階建てとしてデザインされた宿屋は、その垂直で奥行きがある構造のおかげで立体的なアクションを演出しやすい。ひとつのセットで多彩なシーンを撮れるという利点があるのだ。そのため、キン・フー監督は香港へ戻って作った『迎春閣之風波』(’73)では、ほとんどの舞台を宿屋に設定している。『大酔侠』と本作、そして『迎春閣之風波』が「宿屋三部作」と呼ばれる所以だ。 舞台設定もプロットも極めてシンプル。なおかつ余計な人間ドラマもバッサリと省いてスピーディに展開していく本作だが、その代わりに細かなディテールの描写に手間暇をかけ、登場人物それぞれのユニークな個性を際立たせていく。中でも、主人公である剣士シャオの超人的な達人ぶりにはビックリ。飛んできた弓矢を手元の徳利で受け止めたかと思えば、その矢を瞬時に素手で打ち返して暗殺者を仕留める。敵の投げつけた小刀だって箸の先で見事にキャッチ(笑)。どんぶりに入ったうどんを隣のテーブルに放り投げても汁一滴こぼれない。果たして、どんぶり投げが武術とどう関係あるのかは分からないが、とにかく常人離れしたスキルを持つ剣士であることはよく分かるだろう。また、『大酔侠』のヒロイン金燕子に続いて、本作でも男装の麗人キャラが登場。当時まだ17歳だったシャンカン・リンフォン演じるチョウ兄妹の妹である。ひと目で女性であることが分かってしまうのは玉に瑕だが、冷静沈着で颯爽とした美剣士ぶりはカッコいいし、短気で血の気の多い兄との凸凹コンビぶりもユーモラスだ。 もちろん、悪人だって負けないくらい魅力的だ。それぞれに個性的な敵キャラとの戦いが3段階に分かれており、ひとり倒すごとに対戦相手がレベルアップしていくというビデオゲーム的な構成も面白いのだが、この最後に登場するラスボスの宦官ツァオがまたインパクト強烈!なにしろ、『ドラゴンボール』の「かめはめ波」ではないが、剣を一振りしただけで敵を吹っ飛ばしてしまうような気功の達人にして、木々の間を軽やかに瞬間移動していくというスーパーパワー(?)の持ち主。まさしく相手にとって不足なし。やはり、こういう映画は敵役が強くないと面白くない。ただ、クライマックスでヒーローたちが寄って集ってツァオをボコボコにするのは如何なもんかとも思うのだが。しかも、下半身をネタにして嘲笑うというゲスっぷり(笑)。そう、ツァオは宦官なので男性器がないのだが、みんなでそれをバカにして挑発するのだ。さすがにこれはツァオがちょっと気の毒になる。 ダイナミックな剣劇アクションと映像美も見どころ 京劇の伝統的な舞踊スタイルを踏襲した優美なチャンバラも見どころだろう。武術指導を手掛けたのは、暗殺部隊の副官マオを演じているハン・インチェ。キン・フー作品に欠かせないスタント・コーディネーターである彼自身も、実は9歳から18歳まで北京の劇団に所属する京劇俳優だった。この舞うように戦う古典的なチャンバラにフレッシュな躍動感をもたらすのが、随所に盛り込まれる雑技団的な曲芸技である。当時はまだワイヤーワークの技術が確立されていないため、本作では主にトランポリンワークを多用。ここで披露される飛んだり跳ねたりの曲芸アクションが、その後の『侠女』(’71)では大胆なワイヤーワークによってさらなる発展を遂げ、武侠映画特有のファンタジックな剣劇アクションを完成させていくこととなる。 このように、基本的には『大酔侠』で打ち出した「新派武侠片」路線の延長線上にある本作だが、恐らく最大の違いはロケーション撮影の大幅な導入であろう。当時の香港映画は舞台が森だろうと山だろうと荒野だろうとスタジオにセットを組んで撮影するのが一般的で、キン・フー監督の『大酔侠』も御多分に漏れずだったが、しかし台湾で撮影された本作では屋内シーン以外の全てがスタジオの外へ出たロケ。台湾中部の雄大な自然を捉えたスケールの大きなビジュアルと、実際のロケーションだからこそのダイナミックなカメラワークに目を奪われる。このロケ撮影の利点を十二分に生かした映像美は『侠女』で芸術的なレベルにまで昇華され、カンヌ国際映画祭で高等技術委員会グランプリを獲得することになる。 ちなみに、キン・フー監督は本作と同様に『侠女』でも東廠を悪役として登場させているのだが、これは当時世界中で大流行していた『007』映画への反発だったという。権力の手先であるスパイを美化するとは何ごとか!というわけだ。もちろん、本作のストーリーに政治的な意図があるわけではないが、しかし劇中で描かれるユー大臣の処刑やその家族に対する残酷な処遇に、キン・フー監督が祖国・中国で当時吹き荒れていた文化大革命の弾圧と殺戮を投影していたであろうことは想像に難くない。 1967年に台湾で封切られるや映画館に長蛇の列ができ、10日間で10万通以上のファンレターが映画会社に届くほどの大ヒットを記録した本作。台湾のオスカーとも呼ぶべき金馬奨では最優秀脚本賞にも輝いた。ただ、香港や東南アジアでの配給を担当したショウ・ブラザーズは、社長ラン・ラン・ショウとキン・フー監督のイザコザもあったためか、『大酔侠』の続編『大女侠』(’68)の公開後まで本作の封切を延期。それでもなお、香港でも『007は二度死ぬ』に次いで年間興行成績ランキングの2位をマークするほどの大成功を収めた。これ以降のキン・フー作品のプロトタイプともなった映画であり、『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』(’87)や『グリーン・デスティニー』(’00)も本作がなければ生まれなかったかもしれない。■ 『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』© 1967 Union Film Co., Ltd. / © 2014 Taiwan Film Institute All rights reserved (for Dragon Inn)
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COLUMN/コラム2022.01.06
「シネラマ」方式の醍醐味を存分に味わえるスペクタクルなウエスタン巨編!『西部開拓史』
映画界に革命を起こした「シネラマ」とは? 激動する開拓時代のアメリカ西部を舞台に、フロンティア精神を胸に新天地を切り拓いた家族三代の50年間に渡る足跡を、当時「世界最高の劇場体験」とも謳われた上映システム「シネラマ」方式の超ワイドスクリーンで描いた壮大なウエスタン叙事詩である。全5章で構成されたストーリーを演出するのは、西部劇映画の神様ジョン・フォードに『悪の花園』(’54)や『アラスカ魂』(60)のヘンリー・ハサウェイ、喜劇『底抜け』シリーズのジョージ・マーシャルという顔ぶれ。役者陣はジェームズ・スチュワートにグレゴリー・ペック、デビー・レイノルズ、ヘンリー・フォンダ、キャロル・ベイカー、ジョージ・ペパード、そしてジョン・ウェインなどの豪華オールスター・キャストが勢揃いする。1963年(欧州では’62年に先行公開)の全米年間興行収入ランキングでは『クレオパトラ』(’63)に次いで堂々の第2位をマーク。アカデミー賞でも作品賞を筆頭に合計8部門でノミネートされ、脚本賞や編集賞など3部門を獲得した名作だ。 本稿ではまず「シネラマとは何ぞや?」というところから話をはじめたい。というのも、映画界の革命とまで呼ばれて一世を風靡した「シネラマ」方式だが、しかしその本来の規格に準じて作られた劇映画は本作および同時期に撮影された『不思議な世界の物語』(’62)の2本しか存在しないのだ。今ではほぼ忘れ去られた「シネラマ」方式とはどのようなものだったのか。なるべく分かりやすく振り返ってみたいと思う。 「シネラマ」とは3本に分割された70mmフィルムを同時に再生してひとつの映像として繋げ、アスペクト比2.88:1という超横長サイズのワイドスクリーンで上映する特殊規格のこと。撮影には3つのレンズとフィルム・カートリッジを備えた巨大な専用カメラを使用し、劇場で上映する際にも3カ所の映写室から別々のフィルムを同時に専用スクリーンへ投影する。その専用スクリーンも縦9m、横30mという巨大サイズ。しかも、観客席を包み込むようにして146度にカーブしていた。さらに、サウンドトラックは7チャンネルのステレオサラウンドを採用。各映画館には専門の音響エンジニアが配置され、劇場の広さや観客数などを考慮しながらサウンド調整をしていた。このような特殊技術によって、まるで観客自身が映画の中に迷い込んでしまったような臨場感を体験できる。いわば、現在のIMAXのご先祖様みたいなシステムだったのだ。 考案者はパラマウント映画の特殊効果マンだったフレッド・ウォーラー。人間の視覚を映像で忠実に再現しようと考えた彼は、実に14年以上もの歳月をかけて「シネラマ」方式のシステムを開発したのだ。その第一号が1952年9月30日にニューヨークで封切られた『これがシネラマだ!』(’52)。まだ長距離の旅行が一般的ではなかった当時、アメリカ各地の雄大な自然や観光名所を鮮やかに捉えたこの映画は、その画期的な上映システムと共に観光旅行を疑似体験できる内容も大きな反響を呼んだ。以降、シネラマ社は10年間で8本の紀行ドキュメンタリー映画を製作する。 この「シネラマ」方式の大成功に刺激を受けたのがハリウッドのスタジオ各社。当時のハリウッド映画はテレビの急速な普及に押され、全盛期に比べると観客動員数は半分近くにまで激減していた。映画館へ客足を戻すべく頭を悩ませていた各スタジオ関係者にとって、『これがシネラマだ!』の大ヒットは重要なヒントとなる。そうだ!テレビの小さな箱では体験できない巨大な横長画面で勝負すればいいんだ!というわけで、20世紀フォックスの「シネマスコープ」を皮切りに、パラマウントの「ヴィスタヴィジョン」にRKOの「スーパースコープ」、「シネラマ」の出資者でもあった映画製作者マイケル・トッドの「トッド=AO」など、ハリウッド各社が独自のワイドスクリーン方式を次々と開発。これを機にハリウッド映画はワイドスクリーンが主流となっていく。とはいえ、いずれもアナモルフィックレンズで左右を圧縮したり、通常の35mmフィルムの上下をマスキングしたりなど、カメラもフィルムも映写機もひとつだけという似て非なる代物で、映像と音声の臨場感においても迫力においても「シネラマ」方式には及ばなかった。 とはいえ、アトラクション的な傾向の強いシネラマ映画は鮮度が命で、なおかつ似たような紀行ドキュメンタリーばかり続いたことから、ほどなくして観客から飽きられてしまう。そこで、危機感を持ったシネラマ社はハリウッドのメジャースタジオMGMと組んで、史上初の「シネラマ」方式による劇映画を製作することに。その第1弾が『不思議な世界の物語』と『西部開拓史』だったのである。 西部開拓時代の苦難の歴史を描く壮大な叙事詩 ここからは、エピソードごとに順を追って『西部開拓史』の見どころを解説していこう。 第1章「河」 監督:ヘンリー・ハサウェイ 天下の名優スペンサー・トレイシーによるナレーションで幕を開ける第1章は、西部開拓時代の黎明期である1838年が舞台。オープニングのロッキー山脈の空撮映像は『これがシネラマだ!』からの流用だ。アメリカ東部から西部開拓地を目指して移動する農民のプレスコット一家。父親ゼブロン(カール・マルデン)に妻レベッカ(アグネス・ムーアヘッド)、娘のイヴ(キャロル・ベイカー)とリリス(デビー・レイノルズ)は、旅の途中で毛皮猟師ライナス・ローリングス(ジェームズ・スチュワート)と親しくなる。大自然と共に生きる逞しいライナスに惹かれるイヴだったが、しかし自由を愛するライナスは家庭を持って落ち着くつもりなどない。ところが、近隣の洞窟を根城にする盗賊ホーキンズ(ウォルター・ブレナン)の一味がプレスコット一家を襲撃。助けに駆け付けたライナスはイヴへの深い愛情を確信する。 アメリカン・ドリームを夢見て大西部を目指す農民一家を待ち受けるのは、美しくも厳しい雄大な自然と素朴な開拓民を餌食にする無法者たち。当時の西部開拓民がどれほどの危険に晒されていたのかがよく分かるだろう。オハイオ州立公園やガニソン川でロケをした圧倒的スケールの映像美に息を呑む。中でも見どころなのはイカダでの激流下り。臨場感満点の主観ショットはシネラマ映画の醍醐味であり、見ているだけで船酔いしそうなほどの迫力だ。ちなみに、盗賊一味が旅人を罠にかける洞窟酒場のロケ地となったオハイオ州のケイヴ・イン・ロックスでは、実際に19世紀初頭にジェームズ・ウィルソンという盗賊が酒場の看板を掲げ、仲間と共に誘拐や強盗、偽金作りを行っていたらしい。なお、盗賊ホーキンズの手下として、あのリー・ヴァン・クリーフが顔を出しているのでお見逃しなきよう。 第2章「平地」 監督:ヘンリー・ハサウェイ それから十数年後。農民の暮らしを嫌って東部へ舞い戻ったリリス(デビー・レイノルズ)は、セントルイスの酒場でショーガールとして働いていたところ、亡くなった祖父からカリフォルニアの金山を相続したと知らされる。これを立ち聞きしていたのが、借金で首が回らなくなった詐欺師クリーヴ(グレゴリー・ペック)。西へ向かう幌馬車隊があることを知り、気のいい中年女性アガタ(セルマ・リッター)の幌馬車に乗せてもらうリリス。そんな彼女に遺産目当てで近づいたクリーヴは、自分と似たような野心家のリリスに思いがけず惹かれていくのだが、しかし幌馬車隊のリーダー、ロジャー(ロバート・プレストン)もまたリリスに想いを寄せていた。 ロマンスありユーモアありミュージカルあり、そしてもちろんアクションもありの賑やかなエピソード。ここは『雨に唄えば』(’52)のミュージカル女優デビー・レイノルズの独壇場で、彼女のダイナミックな歌とダンス、チャーミングなツンデレぶりがストーリーを牽引する。イカサマ紳士を軽妙に演じるグレゴリー・ペックとの相性も抜群。そんな第2章のハイライトは、なんといっても『駅馬車』(’39)も真っ青な先住民の襲撃シーン。「シネラマ」方式の奥行きがあるワイド画面を生かした、大規模な集団騎馬アクションを堪能させてくれる。 第3章「南北戦争」 監督:ジョン・フォード 夫ライナスが南北戦争で北軍に加わり、女手ひとつで小さな農場を守るイヴ(キャロル・ベイカー)。血気盛んな若者へと成長した長男ゼブ(ジョージ・ペパード)は、自分も同じように戦場へ行って戦いたいと願っている。そんな折、旧知の北軍兵士ピーターソン(アンディ・ディヴァイン)が、ゼブをリクルートしにやって来る。はじめは頑なに拒否するイヴだったが、しかし本人の強い希望で息子を戦場へ送り出すことに。意気揚々と最前線へ向かうゼブだったが、しかし実際に目の当たりにする戦場は彼が想像していたものとは全く違っていた。 冒頭ではカナダの名優レイモンド・マッセイがリンカーン大統領として登場し、ジョン・ウェインがシャーマン将軍を、ハリー・モーガンがグラント将軍を演じる第2章。アメリカ史に名高い激戦「シャイローの戦い」を背景に、同じ国民同士が互いに血を流した南北戦争の悲劇を通じて、勝者にも敗者にも深い傷跡を残す戦争の虚しさを描く。全編を通して最も西部劇要素の薄いエピソードを、西部劇の神様たるジョン・フォードが担当。平和な農村地帯の牧歌的で美しい風景と、血まみれの死体が山積みになった戦場の悲惨な光景の対比が印象的だ。なお、砲弾飛び交う戦闘シーンの映像は『愛情の花咲く樹』からの流用だ。 第4章「鉄道」 監督:ジョージ・マーシャル 大陸横断鉄道の建設が急ピッチで進む1868年。西からはセントラル・パシフィック社が、東からはユニオン・パシフィック社が線路を敷設していたのだが、両者は少しでも長く線路を敷くためにしのぎを削っていた。なぜなら、担当した線路周辺の土地を政府が与えてくれるから。つまり、より早く敷設工事を進めた方が、より多くの土地を獲得できるのである。騎兵隊の隊長としてユニオン・パシフィック社の警備を担当するゼブ(ジョージ・ペパード)だったが、しかし先住民との土地契約を破ったり、作業員の生命を軽んじたりする現場責任者キング(リチャード・ウィドマーク)の強引なやり方に眉をひそめていた。亡き父ライナスの盟友ジェスロ(ヘンリー・フォンダ)の仲介で、先住民との良好な関係を維持しようとするゼブ。しかし、またもやキングが先住民を裏切ったことから最悪の事態が起きてしまう。 まだまだアメリカ先住民を野蛮な敵とみなす西部劇が多かった当時にあって、本作では彼らを白人から土地を奪われた被害者として描いているのだが、その傾向がハッキリと見て取れるのがこの第4章。ここでは、大西部にも近代化の波が徐々に押し寄せつつある時代を映し出しながら、その陰で犠牲になった者たちに焦点を当てる。最大の見せ場は、大量の野牛が一斉に押し寄せ、開通したばかりの鉄道を破壊し尽くす阿鼻叫喚のパニックシーン。牛のスタンピード(集団暴走)はハリウッド西部劇の伝統的な見せ場のひとつだが、本作は「シネラマ」方式のワイドスクリーン効果で格段にスペクタクルな仕上がりだ。 第5章「無法者」 監督:ヘンリー・ハサウェイ 西部開拓時代もそろそろ終焉を迎えつつあった1880年代末。亡き夫クリーヴと暮らした大都会サンフランシスコを離れることに決めたリリー(デビー・レイノルズ)は、屋敷や財産を全て売り払って現金に変え、懐かしき故郷アリゾナの牧場へ向かう。近隣の鉄道駅で彼女を出迎えたのは、保安官を引退したばかりの甥っ子ゼブ(ジョージ・ペパード)と妻ジュリー(キャロリン・ジョーンズ)、そして彼らの幼い息子たち。そこでゼブは、かつての宿敵チャーリー・ガント(イーライ・ウォラック)の一味と遭遇する。兄をゼブに殺された恨みを持つチャーリー。家族に危険が及ぶことを恐れたゼブは、チャーリーたちが列車強盗を企んでいることに気付くが、しかし後任の保安官ラムジー(リー・J・コッブ)は協力を拒む。たったひとりでチャーリー一味の強盗計画を阻止する覚悟を決めるゼブだったが…? 時速50キロで走行中の蒸気機関車で激しい銃撃戦を繰り広げる、圧巻の列車強盗シーンが素晴らしい最終章。手に汗握るとはまさにこのこと。サイレント時代のアクション映画スターで、ハリウッドにおけるスタントマンの草分け的存在でもあったリチャード・タルマッジのアクション演出は見事というほかない。ジョン・フォード映画でもお馴染みのモニュメント・ヴァレーでのロケも印象的。チャーリーの手下のひとりはハリー・ディーン・スタントンだ。ちなみに、ジョージ・ペパードのスタント代役を務めたボブ・モーガンが、列車から転落して大怪我を負うという悲劇に見舞われている。ほぼ全身を骨折した上に、顔の右半分が潰れて眼球まで飛び出していたそうだ。辛うじて一命は取りとめたものの、片脚を失ってしまったとのこと。第3章に出演しているジョン・ウェインはモーガンの友人で、この不幸な事故に胸を痛めたことから、翌年の主演作『マクリントック!』(’63)にモーガン夫人の女優イヴォンヌ・デ・カーロを起用している。 シネラマ映画はなぜ短命に終わったのか? まさしくハリウッド西部劇の集大成とも呼ぶべき2時間44分のスペクタクル映画。70mmフィルムを3本も同時に使って撮影されたスケールの大きな映像は、北米大陸の雄大な自然を余すところなく捉えて見応え十分だ。しかも、「シネラマ」方式はカメラの手前から数キロ先の背景まで焦点がブレず、解像度が高いので通常の35mm映画であれば潰れてしまうようなディテールまできめ細かく再現する。そのため、最初に用意した衣装はミシン目が肉眼で確認できてしまったことから、全て手縫いで作り直したのだそうだ。なにしろ、西部開拓時代にミシンなんて存在するはずないのだから。誤魔化しが利かないというのはスタッフにとって相当なプレッシャーだったはずだ。 また、アルフレッド・ニューマンとケン・ダービーの手掛けた音楽スコアも素晴らしい。テーマ曲は本作のために書き下ろされたオリジナルだが、その一方でアメリカの様々な古い民謡を映画の内容に合わせてアレンジし、パッチワークのように散りばめている。中でも特に印象的なのが、劇中でデビー・レイノルズ演じるリリスが繰り返し歌う「牧場の我が家(Home in the Meadow)」。これは16世紀のイングランド民謡「グリーンスリーヴス」の歌詞を本作用に書き直したもの。原曲はザ・ヴェンチャーズからジョン・コルトレーン、オリヴィア・ニュートン・ジョンから平原綾香まで様々なアーティストがカバーしている名曲なので、日本でも聞き覚えがあるという人も多いだろう。ちなみに、本作はもともとビング・クロスビーがMGMに持ち込んだ企画を、シネラマ社とのコラボ作品のひとつとしてピックアップしたもの。クロスビーは’59年にアメリカ民謡を集めた2枚組アルバム「西部開拓史」をリリースしている。 1962年11月1日にロンドンでプレミアが行われ、その後もパリ、東京、メルボルンなど世界各地で封切られた本作。アメリカでは1963年2月20日にロサンゼルスのワーナー劇場(現ハリウッド・パシフィック劇場)でプレミア上映され、シネラマ劇場の存在しない地方都市では35mmのシネスコサイズで公開された。同時期に製作されたシネラマ映画『不思議な世界の物語』と並んで、世界的な大ヒットを飛ばした本作。しかし、本来の「シネラマ」方式で撮影・上映された劇映画はこの2本だけで、以降の『おかしなおかしなおかしな世界』(’63)や『偉大な生涯の物語』(’65)、『2001年宇宙の旅』(’68)といったシネラマ映画は、どれも70mmプリントを映写機1台で専用スクリーンに投影するだけの疑似シネラマ映画となってしまった。その理由は、「シネラマ」方式が抱えた諸問題だ。 もともと3分割されたフィルムを3台の映写機で同時に投影するという構造上、どうしても繋ぎ目が目立ってしまうという問題があった「シネラマ」方式。本作ではシーンによって繋ぎ目部分に垂直の物体を配置するという対策が取られ、なおかつ現在のデジタル・リマスター版では目立たぬよう修復・補正作業が施されているのだが、それでも所々で繋ぎ目の跡が見受けられる。加えて、専用カメラに備わった3つのレンズがそれぞれ別の方角を向いてクロス(右レンズは左側、中央レンズは中央、左レンズは右側)しているため、例えば中央と右側に立つ2人の役者が向き合って芝居をする場合、撮影現場では相手役の立ち位置から微妙にズレた方角を向かねばならない。つまり、画面上は向き合っていても実際は向き合っていないのである。これではなかなか芝居に集中できない。男女の親密な会話など重要なシーンで、メインの役者が中央にしか映っていないケースが多いのはそのためだ。 また、シネラマ専用カメラはズームレンズに対応していないため、クロースアップを撮影するには被写体にカメラが接近するしか方法がなく、どれだけアップにしてもバストショットが限界だった。さらに、人間の視界範囲の再現を特色としていることから、被写界が広すぎることも悩みの種だった。要するに、映ってはいけないものまで映ってしまうのだ。そのため、撮影開始の合図とともにスタッフは物陰に隠れなくてはならず、音を拾うガンマイクも使えないのでセットの見えないところに複数の小型マイクを仕込まねばならないし、危険なスタントシーンで安全装置を使うことも出来ない。先述した列車強盗シーンでの転落事故もそれが原因だった。 こうした撮影上の様々な困難に加えて、配給の面でも制約があった。恐らくこれが最大の問題であろう。「シネラマ」方式に対応した劇場は全米でも大都市圏にしかなく、しかもその数は60館程度にしか過ぎなかった。新たに建設しようにも莫大なコストがかかる。そのうえ、運営費用だって普通の映画館より高い。初期の紀行ドキュメンタリー映画ならば採算も合っただろうが、スターのギャラやセットの建設費など予算のかかる劇映画では難しい。そのため、シネラマ社はこれ以降、3分割での撮影や上映を廃止してしまい、「シネラマ」方式は有名無実の宣伝文句と化すことになったのだ。■
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COLUMN/コラム2022.02.03
シリアルキラーの脳内世界をポップに描いたシュールなブラック・コメディ『ハッピーボイス・キラー』
監督は傑作『ペルセポリス』のマルジャン・サトラピ シリアルキラーの深層心理へと観客を誘い、その目から見える世界をポップ&ユーモラスに描いたシュールなブラック・コメディ。フリッツ・ラング監督の『M』(’31)を筆頭に、アルフレッド・ヒッチコック監督の『サイコ』(’60)からファティ・アキン監督の『屋根裏の殺人鬼フリッツ・ホンカ』(’19)に至るまで、シリアルキラーを主人公にした映画は古今東西少なくないものの、しかし精神を病んでしまった連続殺人鬼の人間的な内側にこれほど寄り添った作品はなかなか珍しいかもしれない。 演出を手掛けたのはイラン出身のマルジャン・サトラピ。そう、あの傑作アニメ『ペルセポリス』(’07)で有名な女性監督である。近代化と経済成長に沸く’70年代のイランに育ち、裕福でリベラルな両親から西欧的な教育を受けたサトラピだったが、しかし10歳の時にイスラム教の伝統的な価値観への回帰を目指すイラン革命が勃発。それまで比較的自由だった女性の権利も著しく抑圧されてしまう。娘の将来を案じた両親によってヨーロッパへ送り出された彼女は、フランスの美術学校でイラストレーションを学んだ後、パリを拠点にバンドデシネ(フランスの漫画)作家として活動するように。そんな彼女が、自らの少女時代をモデルに描いた漫画が『ペルセポリス』だった。アメリカをはじめ世界中でベストセラーとなった同作を、サトラピ自身が監督したアニメ版『ペルセポリス』もカンヌ国際映画祭で審査員賞を獲得し、アカデミー賞の長編アニメ部門にもノミネート。以降、バンドデシネ作家としてだけでなく映画監督としてもコンスタントに作品を発表した彼女にとって、初めてアメリカ資本で撮った英語作品がこの『ハッピーボイス・キラー』(’14)だった。 舞台はアメリカ北東部の寂れた田舎町ミルトン。地元のバスタブ工場で働く男性ジェリー(ライアン・レイノルズ)は、一見したところごく普通の明るくて爽やかな好青年なのだが、しかし実は少年時代の悲惨なトラウマが原因で長いこと心の病を患っていた。裁判所の命令によって精神科医ウォーレン博士(ジャッキー・ウィーヴァー)の監督下に置かれた彼は、廃墟となったボーリング場の2階に部屋を借り、社会人としての自立を目指していたのである。 そんな彼の同居人が愛犬ボスコと愛猫Mr.ウィスカーズ。仕事から帰ったジェリーを出迎えた彼らは、なんと人間の言葉でペラペラとしゃべり始める。というのも、ジェリーはウォーレン博士から処方された薬を飲まず、言ってみれば常にナチュラルハイの状態だったのだ。いつも妙に明るくて元気でテンションが高いのも、普段から薬を服用していないため。確かに薬を飲めば精神は安定するものの、しかし冷静になって見えてくる現実世界は孤独で殺伐としていて寂しい。それをどうしても受け入れがたいジェリーは、動物たちとおしゃべりできるパステルカラーに彩られたキラキラな自分だけの世界に居心地の良さを見出していたのだ。 ある日、職場で年に1度のパーティが開かれることとなり、その準備を手伝うことになったジェリーは、経理部に勤めるイギリス人女性フィオナ(ジェマ・アータートン)に一目惚れしてしまう。まるで初めて恋をした少年のように浮足立ち、困惑するフィオナに猛アタックするジェリー。はた目から見ればちょっとヤバい人だが、もちろん本人にその自覚は全くない。それどころか、遠回しに断ろうとするフィオナの言葉もまるで耳に入らず、一方的にデートの約束を取り付けてしまう。しかし、その日は経理部の女子会。悪い人じゃないかもしれないけど、あまり気乗りしないなあ…ということで、フィオナはジェリーとのデートをすっぽかしてしまう。 女子会を終えて帰ろうとしたフィオナだが、肝心の車が故障して動かない。困っていたところへ通りがかったのがジェリーの車だった。少々気まずいけれど仕方ない。ジェリーに家まで送ってもらうことにしたフィオナだったが、しかしその途中で飛び出してきた鹿と車が衝突。「この痛みから解放してくれ…」という鹿の声が聞こえたジェリーは、取り出したナイフで鹿の喉を掻っ切る。周囲に飛び散る鮮血。パニックを起こしたフィオナは近くの森へと逃げ、それを追いかけたジェリーはうっかり転倒して彼女を刺し殺してしまう。慌てて自宅へ戻ったジェリーに「警察へ通報するべきだ」と諭す愛犬ボスコ、反対に隠蔽しろと囁く愛猫Mr.ウィスカーズ。フィオナの遺体を回収してバラバラにしたジェリーは、生首だけを冷蔵庫の中に保存する。すると、今度はフィオナの生首がしゃべり出し、「ひとりじゃ寂しい」と懇願。かくして、ジェリーはフィオナの生首友達を集めるため、経理部のリサ(アナ・ケンドリック)やアリソン(エラ・スミス)を次々と手にかけていく…。 ライアン・レイノルズの起用も大正解! なんとも奇想天外かつブッ飛んだ映画である。’50年代風のレトロでカラフルでクリーンな田舎町、人間の言葉を喋るキュートな動物たち、思わず胸を躍らせる軽やかな音楽。まるでスタンリー・ドーネン監督のMGMミュージカル映画のようであり、はたまたヒュー・ロフティング原作の『ドリトル先生不思議な旅』(’67)のようでもある。だが、それはあくまでも精神病を患った主人公ジェリーの目から見える虚構の世界。ひとたび精神安定薬を服用して落ち着くと、明るくて整理整頓された小ぎれいな部屋は暗くて薄汚いゴミ屋敷へ、愛犬や愛猫は人間の言葉など理解しない普通のペットへ、おしゃべりな生首も腐敗臭が漂う腐乱死体へと戻ってしまう。この日常と非日常の極端な対比を、様々な映像スタイルを用いながら織り交ぜることで、現実と空想が複雑に交錯したジェリーの心象世界を鮮やかに再現していく。さすがはコミック作家出身のサトラピ監督らしい、的確で洗練されたビジュアルセンスだ。 脚本を書いたのは『LAW & ORDER:性犯罪特捜班』や『堕ちた弁護士-ニック・フォーリンー』、『オルタード・カーボン』など、テレビの犯罪ドラマやミステリードラマで知られる脚本家マイケル・R・ペリー。とある番組で監修を務めるFBI行動分析官と知り合ったペリーは、「連続殺人犯の行動が不明瞭だった場合はどうするのか?」と素朴な疑問を投げかけたところ、「犯人が見ている世界を映画のように想像する」との答えが帰って来たという。ぜひその映画を見てみたい!と思ったのが、この脚本を執筆するきっかけだったそうだ。 2009年には映画化されていない優れた脚本を評価する「ブラックリスト」の年次リストに選ばれた本作。同じ年には『ソーシャル・ネットワーク』(’10)や『英国王のスピーチ』(’10)、『ウォール・ストリート』(’10)などもランキングされたが、しかし本作はなかなか映画化が決まらなかった。その理由は、一歩間違えると不謹慎になりかねない題材にあったようだ。なにしろ、シリアルキラーや血生臭い殺人をポップなノリで軽妙洒脱に描くわけだから。実際、オファーを受けたサトラピ監督も最初に脚本を読んでビックリし、主人公ジェリーに観客が共感を抱くにはどうすればいいのか悩んだという。 そこで監督が撮った手段が、ジェリーを子供のまま成長が止まった青年として最後まで愛らしく描くこと。幼い頃に乱暴な父親から虐待を受け、母親の自殺を幇助したことで心に深い傷を負った彼は、そこから大人になることを拒否してしまったのだ。だからこそ厳しい現実世界に向き合うことが出来ず、キラキラとしたバラ色の空想世界に逃避している。いつまでも無邪気で無垢な少年なのだ。だが、そんな彼の中には善と悪が常に拮抗し、しゃべる動物や生首を通して自分自身に語りかける。ジェリー自身は善き人間として社会に溶け込みたい。だから滑稽なくらい一生懸命に明るく振る舞い、仕事に恋愛に前向きに取り組んでいくわけだが、しかし見えている世界が違うために現実とのズレが生じ、やがて苦悩と葛藤の中で内なる悪魔が囁きかけていく。可笑しくもやがて恐ろしく哀しきかな。シリアルキラーを単なる異常なサイコパスとしてではなく、あなたも私も人生の歯車が狂えばそう成り得る平凡な人間として描いているところは白眉だ。 『ブレアウィッチ・プロジェクト』が怖すぎて、冒頭6分で脱落したというくらいホラー映画が苦手だというサトラピ監督。まるでウェス・アンダーソンがサイコパスの頭の中を解析したような本作の演出には、むしろ適任だったかもしれない。それでも、人殺しは忌避すべき邪悪なものとして、決して美化することなく描いている。内臓や肉片を小分けにしたタッパーの山などはゾッとする光景だ。そこは映画自体の根幹的なモラル意識に関わるポイントだけあって、やはり有耶無耶にはできないだろう。あくまでも犯罪は犯罪として絶対的な悪としつつ、そのうえでシリアルキラーの脳内世界を不条理なファンタジーとして描くことで、狂気へと追い込まれていく人間の痛みと悲哀を浮き彫りにする。主要キャラが勢揃いするミュージカル仕立てのエンディングがまた妙に切ない。 また、ジェリー役にライアン・レイノルズを起用したことも大正解だった。どこか初心な少年の面影を残すチャーミングなオール・アメリカンボーイ。中でもコメディは最も得意とするジャンルだ。そんなイメージを逆手にとって、不器用で無邪気で愛らしい青年ジェリーがふとした瞬間に垣間見せるゾッとするような狂気までをも見事に演じている。これはキャスティングの勝利であろう。ライアン本人も本作に深い思い入れがあるようで、自身の最も好きな出演作のひとつに『ハッピーボイス・キラー』を挙げている。ちなみに、愛犬ボスコと愛猫Mr.ウィスカーズはもちろんのこと、蝶々や鹿、さらには靴下で作ったウサギのぬいぐるみの声も、実は全てライアンが吹き替えている。そりゃそうだ。いずれも主人公ジェリーの心の声だもの。ジェリー役を演じるライアンが声を当てるのは当然と言えば当然だろう。 ‘14年のサンダンス映画祭で初お披露目されたものの、配給会社ライオンズゲートが興行的に見込めないと判断したためなのか、アメリカでは大都市のみの限定公開、それ以外はビデオ・オン・デマンドで配信されるにとどまった作品。確かに取り扱い要注意な内容ゆえに賛否は分かれるかもしれないが、しかしシリアルキラー物の変化球として非常にユニークな切り口の映画であることは間違いない。■ 『ハッピーボイス・キラー』© 2014 SERIAL KILLER, LLC. ALL RIGHTS RESERVED
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COLUMN/コラム2022.02.03
大西部を舞台に復讐と贖罪を描くサム・ペキンパー監督の映画デビュー作『荒野のガンマン』
テレビ西部劇をステップに映画進出したペキンパー バイオレンス映画の巨匠サム・ペキンパー監督の処女作である。もともと’40年代末にテレビ業界でキャリアをスタートしたペキンパー。ロサンゼルスのローカル局で裏方スタッフとして働きながら映画界でのチャンスを狙っていた彼は、やがて『第十一号監房の暴動』(’54)や『地獄の掟』(’54)などドン・シーゲル監督作品のダイアログ・コーチに起用され、そのシーゲル監督の推薦で『ガンスモーク』や『西部のパラディン』などテレビ西部劇の脚本家となる。その『ガンスモーク』のために書いて却下された脚本が元となって、人気シリーズ『ライフルマン』(‘58~’63)が誕生。同作でエピソード監督も経験した彼は、自らクリエイターを務めた西部劇シリーズ『遥かなる西部』(‘59~’60)の脚本と監督を手掛ける。 だが、この『遥かなる西部』は高い評価を受けたわりに視聴率が伸びず、たったの13話でキャンセルされてしまった。その後、同作で主演を務めた俳優ブライアン・キースが低予算の西部劇映画に出演が決まり、『遥かなる西部』で組んだペキンパーを監督としてプロデューサーに推薦する。それが待望の映画監督デビュー作となった『荒野のガンマン』というわけだ。 舞台は19世紀後半のテキサス。元北軍将校の流れ者イエローレッグ(ブライアン・キース)は、かつて南軍兵士にナイフで頭の皮を剥がされそうになり、その際に出来た額の大きな傷跡を隠すため常に帽子を被っていた。必ずやあの男を探し出して復讐してやる。それだけを生き甲斐に西部を転々としてきた彼は、たまたま立ち寄った酒場でついに宿敵ターク(チル・ウィルス)と遭遇する。どうやら、向こうはこちらの顔を全く覚えていないようだ。タークにはビリー(スティーヴ・コクラン)という相棒がいた。「ヒーラの町に新しく銀行が出来た。保安官は老いぼれだから楽に稼げる」と言って、ビリーとタークを銀行強盗に誘うイエローレッグ。もちろん、憎きタークを陥れるための策略だ。 賑やかな町ヒーラへ到着し、銀行周辺の様子を探る3人。そんな彼らが見かけたのは、町の人々から後ろ指を指される美しい踊り子キット(モーリン・オハラ)とその幼い息子ミード(ビリー・ヴォーン)だった。結婚したばかりの夫を旅の途中でアパッチ族に殺され、ひとり辿り着いたヒーラで息子を出産したキット。だが、偏見にまみれた住民たちはキットが父親の分からない子供を産んだと決めつけ、普段から親子に冷たい眼差しを向けていたのだ。すると、突然銀行の周辺で銃声が鳴り響く。別のならず者たちが先に強盗を働いたのだ。逃げようとする犯人に拳銃を向けるイエローレッグ。ところが、手元が狂ってミードを射殺してしまう。実は戦争で受けた銃弾のせいで、イエローレッグは右肩を痛めていたのだ。 最愛の息子を失って悲嘆にくれるキット。町長や牧師たちはミードの葬儀と埋葬を申し出るが、しかし彼女は毅然とした態度で頑なに断る。これまで町の人々にどれだけ傷つけられてきたことか。今さら同情などされたくない。亡き夫が眠るシリンゴの町へ行き、息子を父親の墓の隣に埋葬しよう。そう決意したキットだったが、しかし廃墟と化したシリンゴはアパッチ族の領地にある。道中は非常に危険だ。それでも旅の支度を済ませて出かけようとするキットに、罪の意識を感じたイエローレッグが護衛として同行を申し出る。そんな彼にありったけの憎しみをぶつけて拒絶し、ひとりで出発してしまうキット。どうしても放っておけないイエローレッグは、反対するビリーやタークを連れて彼女の後を追いかける…。 実は脚本に手を加えることすら許されなかった…!? もともと主演女優モーリン・オハラのスター映画として企画された本作。『我が谷は緑なりき』(’41)や『リオ・グランデの砦』(’50)、『静かなる男』(’52)などジョン・フォード映画のヒロインとして活躍したオハラだが、中でも当時はジョン・ウェインと共演した西部劇の数々で世界中の映画ファンに愛されていた。意志が強くて誇り高い踊り子キット役は、鉄火肌の赤毛女優として気丈なヒロイン像を演じ続けたオハラにはうってつけ。ストーリーを牽引していくのは流れ者イエローレッグだが、しかし後述する作品のテーマを担うのは、間違いなくオハラの演じる女性キットだ。 そんな本作のプロデュースを手掛けたのが、オハラの実弟であるチャールズ・B・フィッツシモンズ。たまたま読んだ30ページほどの草稿を気に入り、すぐさま脚本エージェントに問い合わせたフィッツシモンズだったが、当時は既にマーロン・ブランドが映画化権を押さえていたらしい。しかしその1年後、ブランドが別の企画を選んだことからフィッツシモンズが権利を入手。姉モーリン・オハラの主演を念頭に置いて、プロジェクトの陣頭指揮を執ることになる。シド・フライシュマンの書いた脚本も、基本的にはフィッツシモンズの意向を汲んだもの。完成した脚本を基にしてフライシュマンに小説版を執筆させ、映画への出資金を集めやすくするため先に出版させたのもフィッツシモンズの指示だし、ジョン・ウェインに雰囲気が似ているという理由でブライアン・キースをイエローレッグ役に起用したのもフィッツシモンズの判断だった。要するに、本作は紛うごとなき「プロデューサーの映画」だったのである。 そう考えると、本作が「サム・ペキンパーらしからぬ映画」と呼ばれるのも無理はないだろう。実際、ロケハンの時点から自分のカラーを出そうという姿勢を見せるペキンパーに対し、フィッツシモンズは脚本の改変も独自の解釈も一切許さなかった。脚本に書かれた通り忠実に映像化すること。それがペキンパーに与えられた役割だったのである。しかも、これが初めての長編劇映画であるペキンパーは現場に不慣れだったため、撮影中はずっとフィッツシモンズが付きっきりで演出に口を挟んだらしい。なにしろ、製作費50万ドルと予算が少ないため、撮影スケジュールを伸ばすわけにはいかない。当然ながら、根っからの反逆児であるペキンパーとフィッツシモンズは対立し、現場では喧嘩が絶えなかったという。 それでもなお、どこかマカロニ・ウエスタンにも通じるドライな映像美や荒々しい暴力描写、憎悪や復讐という人間心理のダークサイドを掘り下げたストーリーには、もちろん当時の修正主義西部劇という大きな潮流の影響もあるだろうとはいえ、その後のサム・ペキンパー映画を予感させるものを見出すことは可能だろう。中でも、銀行から奪った金で黒人奴隷や先住民を買い揃えて軍隊を作り、南部連合の夢よ今一度とばかりに自分だけの共和国を建設するという妄想に取りつかれたタークは、いかにもペキンパーが好みそうな狂人キャラのように思える。そういう意味で、本作の監督にペキンパーを推したブライアン・キースは間違っていなかった。 ただ、映画そのもののテーマは非常に道徳的で、なおかつ宗教的でもある。復讐だけを心の拠り所にしてきたイエローレッグは、それゆえに子供殺しという取り返しのつかない罪を犯してしまう。キットを危険から守るためのシリンゴ行きは、彼にとっていわば贖罪の旅だ。その過程で我が身を振り返った彼は復讐の虚しさを噛みしめ、キットとの愛情に人生の新たな意味を見出していく。一方のキットもまた、世の中の理不尽に対して怒りや憎しみを抱き続けていたが、しかし己の罪と真摯に向き合おうとするイエローレッグの姿に心動かされ、やがて深い愛情と寛容の心で荒み切った彼の魂を救うことになる。新約聖書でいうところの「復讐するは我にあり」。つまり、復讐というのは神の役目であって人間のすべきことではない。悪に対して悪で報いるのではなく、善き行いによって悪を克服すべきである。それこそが本作の言わんとするところであろう。 結局、ペキンパー本人にとっては少なからず不本意な映画となった『荒野のガンマン』。インディペンデント映画であったため劇場公開時はあまり話題にならず、興行的にも制作陣が期待したような結果を残すことが出来なかった。これを教訓とした彼は、脚本に手を加えることが許されないような仕事は一切引き受けないと心に誓ったという。とはいえ、そこかしこに「バイオレンスの巨匠」の片鱗を垣間見ることが出来るのも確かであり、映画監督サム・ペキンパーの原点として見逃せない作品だ。■ 『荒野のガンマン』© 1996 LAKESHORE INTERNATIONAL CORP. ALL RIGHTS RESERVED