COLUMN & NEWS
コラム・ニュース一覧
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NEWS/ニュース2014.08.01
現代の侍 藤岡弘、氏が語る本物のアクションスター道とは!?
ミーンミーン(セミ)ただでさえ暑い夏。もう勘弁してほしい…今日の最高気温は36度。アイスより自分のほうが早く溶けるのではないかと危惧しています。でもみんな思い出してほしい!死ぬほど暑いときに食べる死ぬほど熱いカレーを!!噴出す汗、しびれる舌…そして、食べ終わったあとの、あの爽快感!! ガチ・アクション祭りはもうね、カレーなんです!あっついときの、あっついカレー!CGなんかに頼らない俳優たちの体を張った熱演は、暑苦しいほど!暑い夏をさらにアツくするんです!! ザ・シネマでは劇場新作『オール・ユー・ニード・イズ・キル』や『エクスペンダブル3』、『バトルフロント』との公開記念連動特集、24時間アクション編成、アクションスター総選挙など、夏をアツく盛り上げてきました。あー、こんな強い男たちに守られたいわ…謎の組織に誘拐されればトム・クルーズ来てくれんじゃねえかなー。謎の組織落ちてねぇかなー。強くて、イケメンで、渋くて、男らしい…もう海外移住かな。。 いやいや、あれ、ちょっと待てよ?! 日本には、あの漢がいる!唯一無二の!そう、あの漢!! 藤岡 弘、!!! 藤岡氏といえば、俳優にして武道家であり、ハリウッド映画でも活躍し海外からも尊敬される、まさに現代の侍!スタントを使わず自らアクションをこなすアクション俳優として映画界を牽引してきた「ガチ」の漢であります。 今回は、特番『藤岡弘、ガチ・アクションスター道』収録後、藤岡氏にガチに取材。現代の侍だからこそ語れるアクションスター道とは!?ここに、そのアツき魂のメッセージを余すことなく紹介いたします。 「己の肉体と精神を磨き続け、絶えず備える」 Q:本日の収録を終えられた感想をお聞かせください。 A:僕も日本の俳優として今までスタントを使わずアクションをやってきましたから、今日、世界の本物のアクションスターたちについて番組で語り、非常に共鳴する部分が多いと改めて再確認しましたね。本物を体得した上で、実践で魅せる、すなわち演じるのではなく、成りきる!その緊張感や緊迫感の中でしか生まれない映像があるんです。おかげで僕自身、満身創痍でね、まるでサイボーグですよ。生死を彷徨ったこともあります。そう思うと、本物のアクションスターとして絶えず挑戦し続けているアメリカの俳優さんには、共感する部分があると強く感じました。本物の映像を見せようとしている向こうのアクションスターたちの生き様が、僕はすごく好きです。日本の若手の俳優さんたちも、ああいう影響を是非受けてほしいなあ。 Q:アクションスターにとって一番必要な条件とは? A:絶えず己の肉体と精神を磨き続け、絶えず備えることです。修行だと思って自分を極限まで鍛え、訓練し続ける。アメリカの俳優も日常生活の中で、ジムで鍛えたり、馬に乗ったり、実弾射撃をしたりしている。普段から遊びながら訓練しているんですよ。私も海外に行くとまず実弾射撃をしますし、海に潜ったり飛び込んだり、滝業をしたり、山の幸を求めて山に登って山菜を取ったりね。楽しみながら肉体を強化しているんです。それから人間的魅力も必要ですね。国際的視点も歴史的視点も兼ね備えた上で、五感をフル回転させながら、人間とは何ぞや!?と考えていかなければならない。精神や生き様、心のうちにある内面的なものまでも、肉体と同時に鍛えていく。その両面を兼ね備えることが、魅力のあるアクションスターになるためには必要だと思っています。だから私も、実践し身に着けたものを映像に表すという、そういう意識を絶えず持ち続けていますし、この歳でも日々訓練を重ね、自宅の道場でもいつも訓練しています。 「武の訓練によって身についた型が、身体の中に入っている」 Q:ガチアクション総選挙のスターの方たちと藤岡さんの共通点はどこでしょうか。 A:やはり普段の生活から訓練しているところでしょうか。実は本物の銃って、ものすごく重いんですよ。たとえ空砲でも、実弾と同じで反動がある。あれを受け止めるためには、腰の構えと中心がとれた足のつっぱりが必要不可欠なんです。無かったら簡単に吹っ飛ばされる。特に機関銃なんかは連射で反動がすさまじい。それを彼らはあの年で持ち応えられるということは、かなり訓練をしているんだろうということが、僕は分かるわけです。あの歳でもちゃんと備えているんだということを見せられると、日本にいて同じ様な歳になることを考えた時、ちょっと不安になりますよね。でも僕は十分耐えられます。それはやっぱり普段、訓練しているからです。たとえば日本刀振るのも、あれだけの重さを片手で長時間振ることができるかどうか。まさかりを振っている様なものですよ。それに耐えられるのは、やっぱり体の中心を取る訓練をしているからなんですよ。うちには何本も真剣がありますけど、それぞれに個性がありますから、斬るものによって刀を変えるわけです。だから、それらをいつも自分の身近にあるものとして、刀を自分の手足のごとく体の一部になるように絶えず触ったりして、訓練を重ねています。サッカー選手がいつもボールを遊びの様に触っているのと同じ感じですよ。体の中には武の訓練が、型が入っているから、いざ何者かに襲われて何かされても、すぐ体が回転して体が左右に動いて対応できるようになっている。普段の訓練、若い時に積んだものはずっと身についていて、いざとなった時に戦えるってことですね。 Q:ご自身が好きな海外のアクションスターは? A:いやー、みんな好きだけど、でもやっぱりシルヴェスター・スタローンだね。あの歳でもいろいろな挑戦をし続けて、気迫や気力がすごい!ミッキー・ロークにしても、あの歳の方たちががんばっていると、年齢じゃなくて、人生に立ち向かう姿勢が重要なんじゃないかなと思うんですよ。日本だとなんとなく「おさまっていこう」という感じになってしまう人が多いんじゃないかと思うけどね、それも分かる部分はあります。でも立ち向かう挑戦的な気力やパワー、エネルギーを感じさせてくれる俳優さんがどんどん増えるといいなと願っています。 「若者よ、もっと雄雄しくなれ!戦闘モードの危機感を持て! 」 Q:日本だとアクション俳優はいても、アクションスターが育っていない様に思うのですが? A:今の芸能界には、もっと面白くもっと視野広く楽しませる映画を提供しよう!という姿勢が足りないのではないかな。芸術作品にのみ集中しすぎているのではないかと思います。僕はもっと色々なものがあっていいと思うんですよ。そういう事に夢を持つ若い俳優さんがどんどん挑戦したくなるような、夢に向かいたくなるような、そういう現場を見せてもらえれば、もっと多く若者が映画界を目指すんじゃないですかね。僕としては、魅力ある映像界をもう一回再現してもらいたい。いろんな映像があっていいんだからさ。僕はそういうものを絶対に失ってほしくないと思っています。 Q:なぜ若手の俳優はアクションをしなくなったと思いますか? A:やっぱり時代のせいなのかなぁ。日本という国はあまりにも平和すぎて、甘えられる環境がありすぎて、危機感を感じられない気がします。世界はそんな甘くないですよ。現実は容赦がなく、本当に厳しい。だから若者には、もっと雄雄しくなってほしい。戦闘モードの危機感を持ってほしい。そして今の社会情勢をもっと意識してほしいと思いますね。さらには、人生に立ち向かう姿勢を持てるように、刺激的な場がもっと多くなってほしい。あれもダメ、これもダメと規制や押さえつけばかりではなくて、もっと楽しく、自由に己の個性を発揮できるような、そういう場を与えてあげたい。僕としても、のびのびと自己挑戦の旅を与えられるような、そういう魅力あるシチュエーションをもっともっと作ってあげたい。 「あの時の失敗は今日、活きている」 Q:今まで「こういうことが辛かった」「今の時代だったらできないだろうが、こんな危険なことがあった」というエピソードは? A:ビルからビルへと飛び移ったり、カースタントでジャンプしたりスピンしたり、バイク事故で30m吹っ飛んだり、馬が自分の上を全速力で飛び越えていったりとかね…。馬の事故のときは、自分が転がっている真上を、馬が越えて行った時、風を感じた。あとちょっとで死んでいたなと思うことは何度もありますよ。そういう危機を何度も越えてきたのだから、自分は相当運がいいなと思っています。でも、それらは次なる挑戦の時に必ず役に立ちます。その危機体験を体が覚えているんですよ。あの時の失敗は今日、活きている。 Q:恐怖を乗り越えるにはどうしたらいいんですか。 A:僕は、失敗して、怪我して、そういった苦渋を越えて、強くなりましたね。自分の心を強くするために、やっぱり武道というのは最強です。自分を追いつめて、追いつめて心が強化されていくんです。 Q:今後の藤岡さんのビジョンはありますか? A:同じ目的と共通の価値を共有する者同士が、俳優・スタッフ・監督、制作団体がすべての枠を超えて集まって、ものを作る。そういう現場が欲しい。そして、日本人としての誇りを持って海外にも立ち向かいたい。さらに日本映画も復興してもらいたい。それが私の願いですね。 ■ ■ ■ ■ ■ 見よ、この熱量!! これぞ本物の証!!!独特の視点で語る熱いアクション談義に、取材会中も常に圧倒されっぱなし。邪念ばかりの私、藤岡氏の言葉ひとつひとつに背筋が正される思いでした。特番『藤岡弘、ガチ・アクションスター道』でも、アクション俳優の体の張ったアクションの魅力を余すことなく紹介!番組でもハリウッド・スターについて語る藤岡氏の熱きメッセージは必見です! オンエア情報はこちら!ぜひぜひお見逃しなく!■
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COLUMN/コラム2014.07.19
“呪われた映画”から“映画史上必見の傑作”へと再評価された、あっと驚く奇想と深遠さに満ちたダーク・メルヘン『狩人の夜』
初公開当時にさんざんな不評を買い、全米各地で公開禁止にもなったというこの“呪われた映画”は、のちにフランソワ・トリュフォーらの一部の批評家、スティーヴン・キングらによって熱烈に再評価されたことで映画史の暗黒の彼方から引き戻され、1992年にはアメリカ議会図書館へのフィルムの永久保存を義務づけるアメリカ国立フィルム登録簿に選定された。すでに日本でもDVDがリリースされ、製作から半世紀以上が経った今も新たなファンを獲得し続けている。それでも、もし本作を未見の人に出くわしたら「観ないと人生の多大な損失ですよ!」などと幾分大げさに鑑賞を勧めずにいられない。 映画の前半は、ロバート・ミッチャム扮する稀代の悪役ハリー・パウエルの独壇場だ。このいかにもうさん臭いニセ宣教師はオープンカーに乗り、独り言を呟くように神と対話しながら獲物を物色している。行く先々で未亡人を手なずけ、金品をむしり取っては命を奪うシリアルキラー。良心の呵責など一切感じることなく平然と嘘をつき、猿芝居を連発する。しかも話術が巧みなうえに歌が得意で、他人に取り入るのが実にうまい。裏返せばこの映画は、そんな聖職者の仮面を被ったエゴイスティックな極悪犯罪者にあっさり騙される市井の人々の愚かさを、痛烈に風刺しているともとれる。やがてハリーが狙いを定めたのは、刑務所で同房になった死刑囚の男がどこかに隠した1万ドルの札束。ウェスト・ヴァージニア州の田舎町に暮らす男の未亡人を籠絡してマインドコントロールした揚げ句に殺害し、札束の隠し場所を知る幼い息子と娘の口を割ろうとする。 ハリーの悪役としてのユニークさは、その非情さや強欲さのみならず、さらなるふたつの特徴によって強烈に印象づけられる。まずこの怪人は、しょっちゅう牧歌的なメロディの賛美歌を口ずさんでいる。そしてもう一点は、右手の指に刻まれた“LOVE”と左手の“HATE”という刺青だ。ハリーが歌う「主の御手に頼る日は」という賛美歌は、コーエン兄弟の西部劇『トゥルー・グリット』にフィーチャーされていたし、両手の刺青はマーティン・スコセッシ監督の『ケープ・フィアー』などで繰り返し引用されてきた。ちなみに『狩人の夜』は賛美歌のほか民謡や子守歌が次々と挿入され、音楽映画かと錯覚するくらい“歌”が満ちあふれた作品でもある。 かくして前半、ブラックユーモアに満ちたエキセントリックな犯罪サスペンスのように展開していた映画は、中盤でがらっとトーンを一変させる。ついに命まで脅かされるようになった未亡人の子たち、幼い兄妹ジョンとパールが真夜中に逃亡し、ボートであてどない川下りを始めるや、神秘的なダーク・メルヘンに変貌していくのだ。オーソン・ウェルズの『偉大なるアンバーソン家の人々』やフリッツ・ラングの『扉の陰の秘密』などの撮影監督スタンリー・コルテスによるモノクロ映像は、川下りのシークエンスを影絵のように設計し、得も言われぬ悪夢的な幻想性を漂わせる。満天の星空。川辺で兄妹をそっと見つめるカエル、フクロウ、カメなどの動物たち。ディズニー映画のようにあからさまに作り物めいたこれらのギミックが、映画そのものをリアリズムとは遠くかけ離れたファンタジーへと変容させ、ドイツ表現主義からの影響を色濃く感じさせながら暗い魅惑を醸し出していく。しかもこの映画は、子供の目線に立った無垢な眼差しで撮られている。だからこそ観る者は、ベッドでなかなか寝つけなかったときに怖い絵本をめくった幼い頃の記憶を呼び覚まされ、否応なく魔術的な映像世界に引き込まれてしまう。実に大胆かつ奇抜で、不可思議な奥行きのある映画である。 そして終盤、いよいよ伝説の大女優リリアン・ギッシュの登場だ。大恐慌時代の不幸な孤児たちを引き取って世話しているギッシュ扮するクーパー婦人は、兄妹を追って現れたハリーに猟銃を突きつけ、敢然と対決姿勢を表明する。ハリーは死神や悪魔の化身というべき存在であり、それに立ち向かうクーパー婦人は子供たちの守護天使のようだ。しかしこの映画は、ありがちな勧善懲悪劇などでは決してない。庭先で隙をうかがうハリーがまたもや十八番の賛美歌を口ずさむと、猟銃を握り締めて警戒を怠らない婦人もなぜか一緒にそれを歌い出す。明らかに敵対関係にあるふたりのキャラクターが、何の説明もなく合唱を始めるこのシーンには、誰もが度肝を抜かれ、困惑せずにいられない。究極の善と究極の悪が場違いなハーモニーを奏でながら溶け合い、「この世は黒と白に色分けできるほど単純ではない」と言わんばかりに、世界の真理のようなものを唐突に突きつけてくるのだ。こんな映画がヒットするわけがない。その独創性があまりにも“早すぎた”ゆえに呪われてしまったフィルムなのだ。 昼と夜、光と影、善と悪、清純と邪悪、愛と憎しみ。こうしたさまざまなコントラストの表裏一体の対立と混濁を描き上げた本作には、そのほかにも必見の名場面がいくつもある。ハリーに殺される寸前、ベッドに横たわる未亡人(シェリー・ウィンタース!)の姿を聖母画のように捉えたショット。車とともに川底に沈められた未亡人の死体が、水流に揺らめく美しくもグロテスクなイメージ。馬に乗って子供たちを追跡するハリーが、悠然と丘の上を横切っていくシーンの奇跡的な構図の妙。一度脳裏に焼きつくと、何年かおきに観直したくなり、そのたびに新たな発見や驚きをもたらしてくれるこの映画は、まさに異形の怪作にして深遠なる傑作と呼ぶのがふさわしい。 前述したように、この半世紀前のモノクロ映画は今なお多くの映画人を魅了し、多大な影響を与え続けている。過去に筆者がインタビューした監督の中では、アメリカン・インディーズの鬼才トッド・ソロンズもそのひとりであった。「そう、君の指摘通り、『狩人の夜』を引用させてもらった。しかも、かなりあからさまにね」。ソロンズがそう語った2004年作品『おわらない物語 アビバの場合』には、『狩人の夜』を知る者ならば思わずニヤリとさせられるシークエンスが盛り込まれている。興味のある方は、ぜひご覧あれ。■ NIGHT OF THE HUNTER, THE © 1955 METRO-GOLDWYN-MAYER STUDIOS INC.. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2014.07.14
【未DVD化】スリットから覗くダナウェイの太股と、70年代ディスコサウンドが刺激的な、『目』がテーマのサイコスリラー『アイズ』
映画製作の裏側が映画みたいに面白いことはよくある。『アイズ』(78)も然り。まず、原案はジョン・カーペンターが『ダーク・スター』(74)で長編監督デビュー直後に、バーブラ・ストライサンドのために書いたもの。まだ、"モダンホラーの旗手"という形容詞が付く前のカーペンターが自分から映画会社に売り込んだストーリーに目を付けたのは、当時、バーブラ主演の『スター誕生』(76)を大ヒットさせて俄然若手プロデューサーとして勢いを増していたジョン・ピータース。映画界に進出する前(と言うか元は子役出身)、人気ヘアドレッサーとして数多くのセリブと親交があったピータースは、 L.A.のロデオ・ドライブに構えていたヘアサロンの上顧客だったバーブラとは恋人関係にあり、脚本と主演女優を同時にゲット、したかに見えた。。。 ところが、ピータースはやる気満々のバーブラを説き伏せ、フェイ・ダナウェイを主役に据えてしまう。確かに、自らに備わった予知能力に苦しむセクシーな女性フォトグラファー役は、『俺たちに明日はない』(67)で衝撃のメジャーデビューを飾って以来、演技派女優としてばかりか、ファッション・アイコンとしても認知されていたダナウェイの方が、断然適役。少なくてもワーストドレッサーの常連だったバーブラより。こうして、バーブラは映画の主題歌"Prisoner"(冒頭のタイトルバックとエンディングに流れる)のみを歌い、出演はナシ。結果、『アイズ』は彼女が主題歌を担当した映画の中で、唯一出演しなかった作品として映画史に名を刻むことになる。それはそれで凄いことなのだが。 さて、舞台裏はこれくらいにして、映画の中身に移ろう。物語は、マンハッタンの高級アパートに暮らすローラ・マース(ダナウェイ)が、深夜、突如殺人シーンの幻影に脅えまくるシーンから始まる。彼女が見てしまうのは、殺人者の視点で展開する犯行までのプロセスとその瞬間だ。そして、殺される相手はローラの写真集を担当した女性編集者ではないか!?ローラはおぞましい光景に視界を遮られつつも、何とか編集者の家に電話をかけるが、時すでに遅し。なぜ、ローラはそんな悪夢に苦しめられなければならないのか?犯人の正体は?殺人の動機は?一気に浮かぶ疑問を引き摺りつつ、さらに第2、第3の殺人がローラの視界に写し出されていく。 最大の見せ場は、映画が始まっておよそ20分後に訪れる。ローラがニューヨークのコロンバス・サークルに停車したトレーラーを訪れ、ヘアメイクに余念がないモデルたちと軽く挨拶を交わした後、やがてシューティングにGOサインを出すと、衝突し、炎上する車をバックに下着&毛皮のモデルたちがポージングを開始。すると、地面すれすれにしゃがみ込み、指示を出すローラの美しい太股がスカートの深いスリットを割って露わになる。フェイ・ダナウェイの脚線美がモノを言う瞬間だ。何しろ、彼女が穿いているスカートはしゃがむと左右の太股が自然に外に飛び出す2本スリット。カメラマン仕様とも言えるこのスカートに始まり、劇中でダナウェイが着る服全般を担当しているのは、『アメリカン・ジゴロ』(80)でローレン・ハットンの服を受け持った衣装デザイナーのBernadene C.Man。彼女の服選びが余程気に入ったのか、ダナウェイは後に『愛と憎しみの伝説』(81)でも再起用している。 ファッションだけではない。ローラが渾身のシャッターを切るフォトスタジオで気分を盛り上げるのは、K.C.&サンシャインバンドの"シェイク・ユア・ブーティ"や、マイケル・ゼーガー・バンドの"レッツ・オール・チャント(チャンタでいこう)"等の70年代ディスコ・サウンド。あの時代に毎週末イケイケだった世代は勿論、今、ファレル・ウィリアムズが巧みにスコアに織り込んでいるディスコテイストが分かる人にも、この映画のBGMはお薦めだ。 ダナウェイを囲む配役も70年代世代には堪らない顔ぶれ。ローラの運転手で犯罪歴があるトミーを演じるのは、『エクソシスト』(73)等の脇役を経て『カッコーの巣の上で』(75)でオスカー候補になったブラッド・ダリフ。『アイズ』では『カッコー~』で演じた繊細な精神病患者のイメージを踏襲したエキセントリックなキャラクターを好演し、推理好きの興味を惹きつける。また、ローラのマネージャー、ドナルド役は70年代から現在に至るまで第一線で活躍し続ける名バイブレーヤーのルネ・オーベルジョノワ。『スタスキー&ハッチ』(78)や『ザ・ホワイト・ハウス』(99~)等で海外ドラマファンにとってはお馴染みの顔だ。今は亡き名優、ロイド・ブリッジスとルックスがそっくりで、劇中で顔真似する場面があるのでお見逃しなく。 しかし、何と言ってもビックリなのは、事件の担当刑事、ネビルに扮して颯爽と登場するトミー・リー・ジョーンズではないだろうか!?横一線で繋がった濃い眉毛こそ今と同じだが、ロングヘアに筋肉質のボディでローラに接近し、いつしかベッドインしてしまうイケメン刑事ぶりは、今、主にCMで彼を見ている若い視聴者には意外に映るはず。断っておくけれど、1970年代のトミー・リーはれっきとしたセックスシンボルだったのだ!! カーペンターのオリジナル版をリライトした脚本は、特に、ラストで真犯人が告白するアイデンティティーと殺人の動機に関して大幅に変更されたとか。それは、観客が第1の殺人を受けて抱く疑問に答えるものだが、恐らく、事前に予知できる人は少ないと思う。もう1つの、なぜ、ローラに予知能力が備わったかという疑問は、結局、最後まで謎のまま。『アイズ』というタイトルが示すように、殺人をテーマに衝撃的な写真を撮り続けるローラの目が、同時に、本物の殺人まで垣間見てしまうという皮肉なギミック。それが、もしかしてこのサイコスリラーの隠れたテーマなのだと深読みできなくもない。 『アイズ』は推理そのものより、むしろ、音楽とファッション、そして、1970年代後半のハリウッドで最も光り輝いていた女優の1人であるフェイ・ダナウェイの、最後の美貌(その後、諸々の整形手術で別人に変貌)を楽しむべき作品。そして、世紀のディーバ、バーブラ・ストライサイドの歌声(2000年にライブ活動から引退)を堪能すべき、未DVDリリース作品の中でもレアな1本。因みに、当時、ショービズ界で最も扱いづらい女2人を手玉に取ったと業界中を驚嘆させたジョン・ピータースは、そんな2人を尻目に、その後、『レインマン』(88)、『バットマン』(89)、『マン・オブ・スティール』(13)とメガヒットを連発。ロデオ・ドライブのヘアドレッサーは、今や押しも押されぬヒットメーカーとして映画界に君臨している。■ © 1978 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2014.07.06
『13日の金曜日』シリーズ〜物質主義の権化、ジェイソンがまかり通る!
混迷のアメリカが、せめて物に執着することで、心に余裕と平穏を欲したのかもしれない。そんな1980年にスラッシャー映画の金字塔『13日の金曜日』が劇場公開された。その1作目は、ジョン・カーペンター監督の低予算のホラー映画『ハロウィン』(78)が製作費の数十倍もの興収を記録するほどの大ヒットによって、各社がホラー映画の企画を考えはじめる。厄介なスター俳優は不要で、恐怖と緊迫感こそが作品の命だと考えたショーン・S・カニンガムらは、70年代の殺人鬼ホラー映画……『呪われたジェシカ』(71)、『恐怖のメロディ』(71)、『悪魔のいけにえ』(74)、『ハロウィン』等を研究・解析し、イエス・キリストが磔にされた忌わしき“13日の金曜日”を題名にした映画を作り、大ヒットさせた。 クリスタル・レイクのキャンプ場で若者たちが次々惨殺されてゆく様を、いろいろな凶器を用いて、趣向を凝らした殺戮シーンとショック描写を展開して観客のド肝を抜いた。ただし犯人像には、70年代サイコ・キラーの残像を見ることができるし、特殊メイクを手がけたトム・サヴィーニが『ゾンビ』(78)でベトナム戦争での体験を生かした凄惨な残酷描写をクリエイトした実績があったことから、本作でも彼の才能はより洗練された形で表現されていた。でも少なからず、まだ70年代の陰はひきずっていた。サヴィーニは、現実味が伴った殺人シーンにより、80年代の特殊メイク映画ブームの一翼を担うことになる。 ホラー映画ファンなら御存知のように、1作目では、クリスタル・レイクのキャンプ場で不慮の事故で亡くなった醜い少年ジェイソンが回想シーンのみに登場する。まだ殺人鬼ジェイソンは存在しないのだ。その代わりに息子ジェイソンを溺愛していた母ヴォーヒーズ夫人が暗躍! 劇中のテーマ曲ともいえるような“キッキッキッ、マッマッマッ”と聞こえる効果音みたいな囁き声は、死んだジェイソンが“KILL MAM(殺して、ママ)”と母にお願いしている声をシンボリック化したもの。ちなみに殺される青年役で、無名時代のケヴィン・ベーコンが出演していた。 そして『~PART2』(81)でようやくジェイソンが登場するが、被っているのはホッケーマスクではなく、『エレファント・マン』(80)のように目出し穴が一つだけ開いた布袋だった。妙に人間臭い動作をし、森の奥にある家で密かに生きながらえ、ミイラ化した母の頭を隠し持ち、復讐のために殺戮していく。 『~PART3』(82)で、ようやくホッケーマスクをつけたジェイソンが現れ、ひたすら若者たちを殺しまくるキリング・マシーンというイメージが定着してくる。当時は3D映画として公開され、その立体感は当時作られた3D映画の中でも群を抜いていた。意味もなく画面手前に飛び出すショットが多いため、2Dで観ると、馬鹿っぽい映像がたくさんあって、これまた楽しい。 そして4作目の『~完結篇』(84)は前作の結末から始まり、前半ではジェイソンが様々な凶器で繰り広げるパワフルな殺戮テクニックが見もの(ジェイソンが走る姿が見られるのは本作まで!)。監督は『ローズマリー』(81)のジョゼフ・ジトーで、その映画で組んだサヴィーニが再び『13金』の特殊メイクに返り咲き、存分な手腕を発揮してシリーズ最高の見せ場をクリエイト。トミー少年(コリー・フェルドマン※子役時代は『グーニーズ』『スタンド・バイ・ミー』『ロストボーイ』等に出演)の意味深なラストが光っています。また脇役で出た個性派俳優クリスピン・グローヴァーにも注目(翌年の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で存在感を発揮していた)。 1~4作目までで一区切りで、『新~』(85)は成長したトミー少年の新機軸の物語。ジェイソン復活の妄想に悩まされるトミー少年は精神病院に入院していて、彼の周囲にホッケーマスクの殺人鬼が現れる……。スプラッタ色の強い、サイコ・ホラーとしての味わいもある。 6作目『~PART6/ジェイソンは生きていた!』(86)では、ジェイソン復活の妄想に苦しむトミーが、フォレスト・グリーンに名称を変えたクリスタル・レイクへ行き、ジェイソンの墓を掘り起して死体を灰にしようとする。ジェイソンに墓があること自体が驚きだし、そこに雷が落ちて高圧電流によって復活する様は、まるで“フランケンの怪物”ではないか! 実はこのあたりから、『13金』シリーズが、独特の物質主義で構成されるホラーだと感じるようになってきた。1、2作目では母親との歪んだ愛情関係がジェイソンの重要な構成要素になっていたが、それは徐々に希薄になり、4~6作目では完全にボディ・カウントする怪物に変貌した。ジェイソンは殺戮するための“マシーン=モノ”になって、あれこれ趣向を凝らした殺戮法を披露するとはいえ、人間たちを次々と殺し、異形の物質主義者のように“死体=モノ”を量産してゆく。不死身の肉体を持ったモノが、人間の肉体を損壊してモノに変えてゆくカタルシスは、ある意味フェティッシュであり、それまでのスラッシャー映画にはなかった感覚であった。まさにモノがモノを量産するという、80年代の物質主義と奇妙なリンクを果たしたような稀有なシリーズだと思う。 そして『~PART7/新しい恐怖』(88)では、湖に沈められたジェイソンが復活する理由が痛快(正直いい意味で笑えます)。マッチョな怪物ジェイソンと超能力少女との対決に思わずワクワクしたのは、完璧な“モノ=キリング・マシーン”に対抗するには、平凡な人間では敵うはずがないのだから。 次いで『~PART8/ジェイソンN.Y.へ』(89)では、再び高圧電流で復活したジェイソンが客船に乗り込んで修学旅行生を次々と惨殺しN.Y.へ。上陸してからのジェイソンの行動と、それを目撃する人間たちの反応が笑えて面白い。このあたりになると完全にスラプスティックな狙いが感じられてしまうが、これまた楽し。 その後、ジェイソンのエネルギー体(魂)がボディスナッチされた人間をジェイソン化するという奇っ怪な9作目『~ジェイソンの命日』(93)、400年後に覚醒したジェイソンが宇宙船内で暴れるSFホラーの10作目『ジェイソンX~』(01)が作られたが、今回放送されないのは、とても残念だ。 一応以上がオリジナルの『13金』シリーズで、番外編として人気ホラーの2大キャラが激突する『フレディVSジェイソン』(03)が作られている。実はこの作品がユニークなのは、実体あるジェイソンと悪夢の中で暗躍する非実体のフレディが対決するところにあった。巨躯を堅持するかのようなジェイソンと、細身なフレディがまともに戦ったら、最初から勝敗は分かりきったこと。だがフレディが非実体なので、ジェイソンにとっては捉えどころがなく苦戦を強いられる。とても残念だが、『フレディVSジェイソン』も今回の放映ラインナップには入っていないので、機会があれば、そのあたりを注意して観ると、また違った面白さが味わえると思う。 そして、マイケル・ベイが09年に製作したリメイク版は、オリジナル・シリーズの1~4作目の要素を詰め込んで一本の作品にしたような仕上がりだ。監督には、これまたベイが製作した『悪魔のいけにえ』のリメイク版『テキサス・チェーンソー』(03)を手がけたマーカス・ニスペルで、凄惨な描写も手加減なし。イケメンのジャレッド・パダレッキとヒロインのダニエル・パナベイカーが、よくぞ出てくれた(と思う)。 ジェイソンが、ホラー映画のアイコンになるほどの人気を得てきた魅力は、感情を配したホッケーマスクを装着し、モノと化した不死身の巨躯で、馬鹿な人間どもを次々と殺し続けてモノに変えてゆくインモラルな要素、とにかくそこに尽きるのだ。■ (c) 2014 BY PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2014.06.29
2014年7月のシネマ・ソムリエ
■7月6日『白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々』 第二次世界大戦中のドイツで反ナチ運動を行ったミュンヘンの学生組織バラそのメンバーが当局に逮捕され、国家反逆罪で処刑されるまでを描く実録ドラマだ。 主人公は唯一の女性メンバーだったゾフィー・ショル。現存する尋問記録に基づき、彼女とゲシュタポの取調官との対話を再現した緊迫感みなぎるシークエンスが圧巻。 ベルリン国際映画祭で監督賞、女優賞を受賞。とりわけ迫りくる死の恐怖に震えながら、自らの良心と信念を貫き通すゾフィー役、ユリア・イェンチの演技が感動的だ。 ■7月13日『永遠のマリア・カラス』 1977年に53歳の若さで死去したマリア・カラス。この20世紀を代表する伝説のオペラ歌手の生誕80周年を記念し、彼女の謎めいた晩年の生き様に迫った人間ドラマだ。 かつての美声を失い、パリのアパルトマンで隠遁生活を送るカラス。旧知のプロモーターから新作映画の企画を持ち込まれた彼女のアーティストしての葛藤を描き出す。 事実に創作を織り交ぜて本作を完成させたF・ゼフィレッリ監督は、生前のカラスと親交があったオペラ演出家でもある。仏の名女優F・アルダンの入魂演技も見ものだ。 ■7月20日『ダウト〜あるカトリック学校で〜』 トニー賞とピュリッツァー賞に輝いた傑作舞台劇の映画化。カトリック学校を舞台に、具体的証拠のない“罪”をめぐって疑う者と疑われる者の闘いを描く心理劇である。 進歩的な思想を持つ神父が、学校内で黒人生徒に性的虐待を加えたとの疑惑が浮上。新米のシスターからその報告を受けた女性校長は、神父を厳しく問い質していく。 校長役のM・ストリープを中心とする主要キャスト4人全員がアカデミー賞候補に。人間の信念や弱さなどを多面的に体現した迫真のアンサンブルから目が離せない。 ■7月27日『リトル・ダンサー』 労働者階級の家庭で育った11歳の少年がバレエの虜になり、本格的にダンサーをめざしていく。サッチャー政権下の1980年代、炭鉱町を舞台にしたサクセスストーリーだ。 主人公ビリーがチュチュ姿の女の子たちに囲まれてレッスンを受けるシーンの微笑ましさ! 頑固な父親との対立と和解のエピソードも涙を誘う良質なドラマである。 『めぐりあう時間たち』のS・ダルドリー監督のデビュー作。T・レックスやザ・ジャムの曲に乗せ、ビリーがストリートで身を躍らせるダンス・シーンがすばらしい。 『白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々』©Jürgen Olczyk 『永遠のマリア・カラス』©2002 Medusa Film ‐ Cattleya ‐ Film and General Productions ‐ Galfin ‐ Alquimia Cinema ‐ MediaPro Pictures ‐ 『ダウト ?あるカトリック学校で?』© 2008 Miramax 『リトル・ダンサー』© Tiger Aspect Pictures Ltd. 2000 © 2000 Universal Studios. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2014.06.28
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2014年7月】キャロル
久しぶりにこの映画を観直して印象に残ったのは、ヒュー・グラントを振り舞わすマーカス役の男の子。ヒューを完全に喰ってるこの少年は一体何者?と調べたところ『X-MEN: ファースト・ジェネレーション』『X-MEN: フューチャー&パスト』のミュータント、ビースト役のニコラス・ホルトでした。新進気鋭のオスカー女優ジェニファー・ローレンスを恋人に持つ彼の、今後の活躍にも注目ですね!ニコラスを一躍有名にした本作を是非チェックしてみてください! © 2002 Universal Studios. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2014.06.28
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2014年7月】うず潮
「バットマン」シリーズなどを手掛けたジョエル・シューマカー監督の目にとまり、本作でハリウッドデビューを果たしたコリン・ファレル。物語の舞台は、1971年、ルイジアナ州ポーク基地。この基地でベトナム戦争に向け、訓練に励む若きアメリカ兵士たち。彼らは戦地ベトナムさながらの最終訓練が行われる「タイガーランド」に送られていく。ひとり反戦を叫ぶ新兵が厳しい訓練を乗り越え、リーダーへと成長していく姿を演じたコリン・ファレルは必見です! © 2000 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2014.06.21
ハリウッド暗黒史に語り継がれるふたつの怪事件 ― その虚飾にまみれた倒錯と悲哀の世界
ブラック・ダリア事件は、20世紀のアメリカ犯罪史上最もセンセーショナルな未解決事件のひとつである。1947年1月15日の午前10時半、ロサンゼルスの空き地を通りかかった主婦が発見した女性の死体は、胴体がふたつに切断されていた。さらに血と内臓を抜かれたうえに性器が切除され、口が左右の耳元まで裂かれたその死体はさながらグロテスクなアートのようで、ネクロフィリアらの性的倒錯者による犯行が疑われた。被害者の名はエリザベス・ショート。ハリウッド女優としての成功を夢見て、マサチューセッツ州から上京してきた22歳の美しい白人女性だった。ロス市警は前例のない大がかりな捜査態勢を敷き、何人もの容疑者が捜査線上に浮かんだが、事件は迷宮入りしてしまう。 マスコミが熾烈な取材合戦を繰り広げ、被害者エリザベスを悪夢のようなメロドラマのヒロインに見立てて報じたこの事件は、ブラック・ダリアというネーミングもキャッチーだった。事件の前年に公開されたレイモンド・チャンドラー脚本のスリラー映画『青い戦慄』の原題が『The Blue Dahlia』であり、生前のエリザベスが黒い服を好んだことからブラック・ダリアと命名されたのだ。殺人の手口といい、被害者のプロフィールといい、そのあまりにも異様な残虐性と悲劇性を知れば知るほど、否応なく闇の中の真相への好奇心をかき立てられてしまう。そんな特別な魔力を秘めた怪事件である。 ブライアン・デ・パルマ監督が手がけた2006年作品『ブラック・ダリア』は、ジェームズ・エルロイの“暗黒のL.A.4部作”の一作目となった同名犯罪小説の映画化だ。エルロイとブラック・ダリア事件の間には数奇な因縁がある。エルロイは事件発生の翌年にあたる1948年にロサンゼルスに生まれたが、10歳の時に母親を何者かに惨殺されてしまう。しかもその事件は迷宮入りし、やがてどす黒い犯罪の世界に引きつけられたエルロイは、非業の死を遂げた自らの母親の残像をエリザベス・ショートにだぶらせていく。こうしてブラック・ダリア事件は“アメリカ文学の狂犬”と呼ばれる異端的作家の原点となった。そんなエルロイの個人的なトラウマや執着が反映された小説に基づく『ブラック・ダリア』は、事件の全貌を徹頭徹尾リアルに再現することを試みたノンフィクション的志向の作品ではなく、あくまで“事実を背景にしたフィクション”なのである。 かくして完成した『ブラック・ダリア』は、デ・パルマ監督のもとにヴィルモス・ジグモンド(撮影)、ダンテ・フェレッティ(美術)、マーク・アイシャム(音楽)らの一流スタッフと、ジョシュ・ハートネット、アーロン・エッカート、スカーレット・ヨハンソン、ヒラリー・スワンクらの豪華キャストが集った堂々たるハリウッド大作だというのに、興行的にも批評的にも失敗作と見なされた。その要因はいくつか考えられるが、筆者が思うにまず脚色のミスが挙げられる。エルロイの長大な原作小説から多くの要素を削ってプロットをスリム化したにもかかわらず、出来上がった映画は極めてストーリーが錯綜してのみ込みづらい。エルロイ流の濃密な心理描写&暴力描写が際立つ小説では、複数のエピソードがいつしか絡み合い、ひとつの真実へと到達する構成が圧倒的なカタルシスを生んだが、たかだが2時間の映画でそれを成し遂げるのは容易ではない。そもそもデ・パルマという監督は職人的なストーリーテラーではなく、根っからのヴィジュアリストである。大勢の登場人物の入り組んだ相関関係を描くには不向きなタイプで、ドラマの焦点がぼけてしまった感は否めない。 それ以上に大問題なのはマデリンというファムファタールを演じるヒラリー・スワンクが、どこからどう見てもミスキャストとしか思えないことだ。マデリンが惨殺されたエリザベス・ショートに“瓜ふたつの美女”という設定は、この物語において絶対に押さえておかねばならない重大ポイントだというのに、“男前”のスワンクはお世辞にも主人公の警官バッキー・ブライカート(ジョシュ・ハートネット)をひと目で魅了するほどの美貌の持ち主とは言いがたい。おまけにエリザベス役のミア・カーシュナーとは似ても似つかぬ貌立ちであり、二重の意味で不可解な配役となった。エリザベスの可憐さや愛に飢えた哀しみを表現したカーシュナーの好演が光るぶん、なぜカーシュナーにひとり2役でエリザベスとマデリンを演じさせなかったのかと惜しまれる。そうすれば“死んだはずの美女へのオブセッション”を主題にしたヒッチコックの『めまい』の信奉者であるデ・パルマの創作意欲も、大いに刺激されたであろうに。こうも観る者に困惑を強いるスワンクの役どころ、逆にぜひとも注目していただきたい。 とはいえフィルムノワールには“混乱”が付きものであり、それがいびつな魅惑にも転化しうるジャンルだけに、上記のネガティブなポイントも踏まえたうえで本作を楽しみたい。とりわけ“ミスター・ファイアー”の異名で鳴らす熱血警官リー・ブランチャード(アーロン・エッカート)と“ミスター・アイス”ことブライカートの出会いから、エリザベスの死体が発見されるまでのハイテンポな導入部がすばらしい。この警官コンビが犯罪者のアジトを張り込む姿を映し出すカメラが緩やかにビルの屋上を越え、エリザベスの死体発見者の主婦を捉えていくダイナミックなクレーンショット! その後もブランチャードが2人の殺し屋に襲撃されるシークエンスなど、デ・パルマ印の“影”や“階段”に彩られ、長回しとスローモーションを駆使したスリリングな場面が少なくない。『ファントム・オブ・パラダイス』の怪優ウィリアム・フィンレイと、『ハリー・ポッター』シリーズのレギュラー女優フィオナ・ショウが終盤に見せつける狂気の形相も圧巻のひと言。そしてデ・パルマといえば『キャリー』『殺しのドレス』から近作『パッション』に至るまで“衝撃のラスト”が十八番だが、本作のラストには“アメリカ犯罪史上最も有名な死体”たるエリザベスの切断死体を活用している。そのサプライズ演出にギョッとさせられるか、ニヤリとするか、ぜひお見逃しなく。 ブラック・ダリア事件から12年後の1959年6月16日、TVシリーズ「スーパーマン」の主演俳優としてお茶の間のヒーローとなったジョージ・リーヴスが自宅で突然の死を遂げた。拳銃による自殺説が有力とされているこの事件を題材にした『ハリウッドランド』は、架空のキャラクターである私立探偵ルイス・シモの調査を通して、リーヴスが死に至るまでの軌跡を忠実に再現したという触れ込みの実録ドラマだ。ハードボイルド・ミステリーの形をとっているが、知られざる“衝撃の真実”が見どころではない。カメラワークや色調共にクラシック・スタイルの端正な映像で語られるのは、スーパーマンのイメージが強すぎて映画界では大成せず、人知れず苦悩を深めていった男の悲劇。当時のハリウッドはテレビの普及などによってスタジオ・システムが揺らぎつつあったが、まだTVドラマは二流役者の仕事と見なされていた。 何より驚かされるのは、リーヴス役のベン・アフレックにまったくスター俳優らしいオーラのようなものが感じられないことだ。リーヴスはスタジオ重役の妻(ダイアン・レイン)との不倫に耽ったり、それなりに華やかな俳優人生を送ったようだが、アフレックの瞳や表情には生彩がなく、動きもやけに鈍い。白黒テレビの時代ゆえに、青と赤ならぬくすんだ灰色のタイツ&マントに身を包んで「スーパーマン」の撮影をこなすシーンなどは、目も当てられないほど痛々しい。本作が製作された2006年はアフレックのキャリアが停滞していた時期で、それがオーラの欠如となって表れたのか、それとも確固たる役作りによるものだったのか、今となっては不明である。いずれにせよアフレックの悲哀漂う演技は、破滅へと向かうリーヴスのキャラクターに見事にはまり、ヴェネチア国際映画祭男優賞受賞、ゴールデン・グローブ助演男優賞ノミネートという栄誉をたぐり寄せた。そしてこの翌年、アフレックはミステリーノワールの秀作『ゴーン・ベイビー・ゴーン』で監督デビューを果たし、のちに『アルゴ』でアカデミー作品賞を受賞。飛躍的な復活を遂げたのだった。 また本作は、エイドリアン・ブロディ演じる探偵シモのキャラクターの負け犬っぷりも強烈だ。妻子と別れ、どん詰まりの日々を送るシモは、金目当てで請け負ったリーヴスの死の調査に深入りするうちに、この孤独なスーパーマン俳優にシンパシーを抱くようになる。すなわちこれは一見対照的な世界に身を置きながらも、本質的に同じ悩みを持つ男たちの魂が共鳴する物語なのだ。この映画には『ブラック・ダリア』のような過激なヌードやバイオレンスもなく、本格的なスリラーや謎解きを期待する人は肩すかしを食らうだろう。しかしある程度の人生経験を積み、ふと“もうひとつの人生”を夢想したりする40代以上の視聴者の心には、ちょっぴり切なく響くドラマに仕上がっているのではあるまいか。 1940~1950年代の混沌としたムードや風俗を今に甦らせた『ブラック・ダリア』『ハリウッドランド』には、現代劇では醸し出せない優雅さと禍々しさがせめぎ合っている。夢という名の虚飾と欲望にまみれた奇々怪々なふたつの事件。それらを生み落としたハリウッドの得体の知れない闇には、まだまだ映画化の題材がいくつも転がっていそうである。■ ©2006 EQUITY PICTURES MEDIENFONDS GmbH & Co.KG? And NU IMAGE ENTERTAINMENT GMBH
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COLUMN/コラム2014.06.11
【ネタバレ】『ロング・グッドバイ』 グールドだって猫である ― 「不思議の国/鏡の国のマーロウ」
カンヌ国際映画祭のパルム・ドールに輝き、彼の一大出世作となった『M★A★S★H』(1970)を皮切りに、とりわけ1970年代、『BIRD★SHT』(1970)、『ギャンブラー』(1971)、『ボウイ&キーチ』(1974)、『ナッシュビル』(1975)、『ウエディング』(1978)、等々、既存のジャンル映画の枠組みやさまざまな神話を根底から問い直す、斬新で型破りな作品を次々に発表して破竹の快進撃を続け、現代映画界に変革と衝撃の波をもたらした、今は亡きアメリカの鬼才ロバート・アルトマン。 この『ロング・グッドバイ』(1973)も、そんな彼ならではの大胆不敵で奇抜な発想と遊び心に満ちた実験的手法が随所で観る者を挑発的に刺激する、異色の傑作群のうちの1本。初公開時にはこれに当惑する従来のミステリ・映画ファンたちの不平不満や非難の声が相次いで、商業的には失敗に終わったものの、今日では、世代や国籍を超えて、これを支持し、偏愛する者たちが後を絶たない、極上のカルト映画の逸品といえるだろう。 本作の原作にあたる『ロング・グッドバイ』といえば、1953年にアメリカで刊行され、ハードボイルド小説の古典として不動の人気を誇る、レイモンド・チャンドラーの代表作のひとつ。日本のミステリ・ファンの間では長らく、清水俊二の訳による『長いお別れ』の題で親しまれて、海外ミステリの名作を選出するさまざまなベストもののアンケート調査でも常に上位を占め、雑誌「ミステリマガジン」が2006年に行なった「オールタイム・ベスト」では堂々の第1位を獲得。その後、村上春樹による新訳の登場も話題を呼んだ。 そしてつい先頃、この原作をNHKが日本版に翻案して連続TVドラマ化し、巷でそれなりに好評を博したのも記憶に新しいところだ。レトロモダンな昭和の戦後日本を舞台に、シックでダンディな衣装に身を固めた浅野忠信扮する主人公が、おのれの信ずる友情のためにたえずタフで毅然とした態度で奔走する姿は、なかなか貫録十分で、チャンドラーが生み出した現代の孤高の騎士たるハードボイルド探偵、フィリップ・マーロウをこれまでスクリーン上で演じてきた歴代の名優たち―ハワード・ホークス監督の古典的名作『三つ数えろ』(1946)においてマーロウ像の決定版を打ち立てたハンフリー・ボガートや、人生の憂愁を色濃く滲ませた『さらば愛しき女よ』(1975)、『大いなる眠り』(1978)のいぶし銀の味わいのロバート・ミッチャムなど―に決してひけをとらない好演を披露していた。 しかし、アルトマン監督が本作で主役のマーロウに抜擢したのはなんと、先に『M★A★S★H』でも組んで独特の飄々とした持ち味と存在感を発揮した個性派俳優のエリオット・グールド。しかも映画を、原作をそのままなぞってレトロ趣味に満ちた時代ものとして作り上げるのとは反対に、物語の時代設定を映画製作当時の1970年代にアップ・トゥ・デイト化するという、意外で思い切ったアプローチを選択した。その一方でアルトマン監督は、本作でのマーロウを、“アメリカ版浦島太郎”というべきワシントン・アーヴィング原作の有名なお伽噺の主人公の名をもじって、リップ・ヴァン・ウィンクルならぬ“リップ・ヴァン・マーロウ”とひそかに名づけ、「20年の大いなる眠りから覚めて70年代初めのロスの景観の中をうろうろしているマーロウ、ただし心情的には過去のモラルを喚起しようとしている男」(「ロバート・アルトマン わが映画、わが人生」の中の本人の発言)という斬新なコンセプトのもと、まったく独自の解釈を施した。 ■「不思議の国マーロウ」 かくして、薄着や裸の恰好のまま、他人の目など一向に気にすることなく、向かいのバルコニーでヨガや自己瞑想に耽る、いかにも当世風の若い女性たちなどとは対照的に、グールド扮する本作のマーロウは、ただひとりダークスーツに白シャツ、ネクタイという古風な服装を頑なに貫き通し(ただし、いつもヨレヨレのだらしない恰好)、1948年型のリンカーン・コンチネンタルのクラシックカーを愛車として乗り回し、さらには健康志向の時代などどこ吹く風と言わんばかりに、ひっきりなしに煙草を吸い続ける。そして、他人や社会のことよりあくまで自己中心的な個人主義が幅を利かせる、“ミー・ディケイド”とも呼ばれた1970年代の時代風潮に戸惑いを覚えつつも、それをマーロウは、「It’s OK with me.[=ま、俺はいいけどね]」という、彼一流の韜晦とぼやきの入り混じった独り言をぶつぶつつぶやきながら、どうにか受け流していく。それでもなお友情と忠節を重んじる昔気質の彼は、妻殺しの容疑のかかった友人テリー・レノックスの身の潔白をどこまでも固く信じて、どこか奇妙でシュールな異世界の中を懸命に駆けずり回るのだ。過去から現代にタイムスリップし、不思議の国アメリカをさまよう、時代遅れで場違いな“リップ・ヴァン・マーロウ”…。 そう、本作もまた、あの『ナッシュビル』や『ウェディング』などと同様、さまざまな奇人・変人たちがお呼びでないのにあちこち出没してはとんだ場違いな珍騒動を繰り広げる、アルトマン独特の皮肉と諷刺に満ちた人間悲喜劇のまぎれもない一変種といえるだろう(その一例として、映画監督のマーク・ライデル演じるチンピラ一味のボスが、まるでお笑い芸人さながら、マーロウや手下の連中を交えて突拍子もない掛け合い漫才を繰り広げる爆笑場面があり、その一員に扮した当時はまだ無名の若きアーノルド・シュワルツェネッガーが、ボディビルで鍛えた自慢の肉体美をしれっとした表情で誇示するのも妙におかしい)。 ■「鏡の国のマーロウ」 いや、そればかりではない。アルトマン監督は、『ギャンブラー』以来3作たて続けにコンビを組むヴィルモス・ジグモンドという撮影の名手を得て、たえずキャメラがゆるやかなズームやパンを伴いながら動き回り、さらには鏡や窓ガラスの反映が幾重にも屈折して乱反射を起こす重層的な迷宮世界を構築し、その中へマーロウを閉じ込めようとするのだ。 少女のアリスを不思議な国へといざなう白兎に代わって、続編『鏡の国のアリス』でアリスを鏡の国へと導くのは子猫だが、本作の冒頭、自室で大いなる眠りに就いていたマーロウを深夜に叩き起こし、現代の異世界へと彼を連れ出す役割を果たすのも、やはり猫。腹を空かせた飼い猫にエサを与えようとして、猫お気に入りの銘柄のキャットフードが切れていたことに気づいたマーロウは、スーパーまで買い出しに行くが、あいにく店にも欲しい品は置いておらず、やむなく購入した別の銘柄のキャットフードをいつもの銘柄の空き缶に入れ替えてから皿によそって猫に差し出す。しかし彼の涙ぐましい偽装工作も空しく、猫はそれにそっぽを向いて、そのままいずこともなく去って行ってしまうのだ。それにしても、チャンドラーの原作にはない本作独自の創作で(ただし、チャンドラー本人も猫好きとして知られていた)、一見物語の本筋には関係ないようでいて、実はさまざまな伏線が張り廻らされたこのオープニング場面は、何度見てもやはりケッサクで素晴らしい。 そしてそれ以後、その猫は飼い主たるマーロウのもとへ戻ることはなく(その代わり、やがてマーロウは行く先々で犬と出くわしては、彼を敵視する犬から威嚇され続けることになる)、猫と入れ違うようにして彼の元へ姿を見せた親友のレノックスも、マーロウを自分の都合のいいように利用するだけ利用すると、思いも寄らぬトラブルだけを置土産に残して彼の前から去って行く。 その後、一体どういう事情かもさっぱり分からないまま、マーロウは刑事たちに連行され、警察署の取り調べ室で尋問されることになるが、ここで先に軽く紹介した、鏡や窓ガラスを巧みに利用したアルトマン監督ならではの特徴的な演出が凝縮した形で示されるので、少し詳しく見てみることにしよう。この秀逸な場面では、画面の中央に配置された透過性のガラスを介して(ただし、アルトマンはそこに無数のひっかき傷や、黒インクで汚れたマーロウの手型をつけさせて、ガラスの存在を強調してみせている)、奥にマーロウと彼に質問を浴びせる刑事、そしてその手前には、別室からその様子を見守る別の刑事たちの姿が、背中のシルエットとガラス窓に映る顔の反射像として示されるという、印象的な空間設定・人物配置が施されている。実は2つの部屋を繋ぐ/隔てる中央のガラスはマジックミラーで、奥の部屋で尋問されるマーロウの姿を、相手に見られることなく一方通行的に見守る手前の部屋の上官たち、というフーコー的な視線の権力装置が、ここには鮮やかに示されている。マーロウはそのマジックミラーの仕掛けにいち早く気づき、自分からは姿の見えない別室の窃視者たちの前で、滑稽な物真似の仕草をして虚勢を張ってみせるのだが、レノックスをめぐる一連の事件の流れをはじめからしっかり把握していたのは、やはり警察の連中の方で、マーロウはそれをよく見通せないまま、哀れなピエロよろしく右往左往していたにすぎなかったことが、その後明らかとなるのだ。 マーロウの視界の無効性を映画の観客により深く実感させるのが、スターリング・ヘイドン扮するアル中の老作家ウェイドが、海辺で入水自殺を遂げる場面。ここでもまたアルトマンは、技巧を凝らした卓抜な画面設計と演出の冴えを存分に発揮している。この場面でははじめ、マーロウとウェイド夫人が海辺にあるウェイド邸内の窓際で立ち話をする様子が映し出され、次第にキャメラの焦点が2人を逸れて画面奥の遠景へゆるやかにズームアップしていくと、ガラス窓越しに夜の浜辺を歩くウェイドの後ろ姿が浮かび上がり、やがて波の中へ身を躍らせる彼の姿をキャメラは捉えるのだが、マーロウは話に夢中になって一向に戸外のその様子が目に入らない。そして先にそれに気づいたウェイド夫人に一歩遅れて、マーロウも慌てて屋敷の外へ飛び出し、ウェイドの姿を波間で探すものの、時すでに遅く、彼の命を救い出すことはもはやできないのだ。 ■ちょっと待って プレイバック、プレイバック! そしてこれを見届けた後、観客はこの場面に先立って、ウェイド邸を訪れたマーロウが、いったんウェイド夫妻とあいさつを交わした後、深刻な夫婦喧嘩を始めた2人を家に残して、ひとり浜辺をぶらつくという、よく似たような場面があったことを即座に思い返すに違いない。こちらは先述の夜の場面と違って、陽光きらめく白昼の光景で、浜辺にいるのは、ウェイドではなくマーロウ。しかもマーロウは、波打ち際で波と戯れはしても、ウェイドのように海中に身を躍らせて自殺するわけではない。夜と昼、ウェイドとマーロウ、死と生、といった具合に、この2つの場面は、まるで鏡の像のようにお互いを反転させた形で対峙している。さらにそれを増幅させるかのように、白昼、浜辺をぶらつくマーロウの姿は、たえずウェイド邸のガラス窓に映る反射像として映し出され、その遠くてちっぽけなマーロウの反射像の上に、アルトマン監督は、今度はいわば合わせ鏡のようにして、家の中で妻と口論するウェイドのガラス窓越しの透視像を重ね合わせてみせるのだ。 ここで改めて思い起こすと、アーネスト・ヘミングウェイを戯画化したようなマッチョで大酒飲みの老作家ウェイドも、本作の中では既に時代遅れのお荷物的存在であり、なぜかマーロウとだけはウマが合う貴重な同志として描き出されていた。これらを考え合わせると、ウェイドとは、マーロウのもうひとりの自己=鏡像にほかならず、いわばその身代わりとなって自殺を遂げたウェイドの死をくぐり抜けて、マーロウは新しく生まれ変わることになるのだ。まるで、9つの命を持つとされる猫が、いくたびも死んでは生まれ変わるように。 主人公の転生という本作の隠れた主題は、物語の終盤でも再び繰り返される。夜道を車で走るウェイド夫人の姿を偶然見かけ、彼女を呼び止めようと必死で車のあとを走って追いかけたマーロウは、その最中に別の車に轢かれ、危うく命を落としかける。そして、病院のベッドで意識を取り戻した彼は、同じ病室にいる、全身を白い包帯でぐるぐる巻きにされた、見た目はミイラそっくりの不可思議な重傷患者と対面することになるのだ。勝手に病室を抜け出そうとして、看護婦から呼び止められたマーロウは、「マーロウは僕じゃなくて彼ですよ」とミイラの患者を指し示し、自らの古びた肉体と生命を彼に譲り渡す形でまたもや生まれ変わったマーロウは、ミイラの患者から交換で渡された生命の象徴たるハーモニカを手に活力を取り戻し、親友だとばかり思い込んでいたレノックスといよいよ最終的な決着をつけるべく、死んだと見せかけて実は隠れて生きていた彼のアジトへと乗り込んでいく。 ■さらば愛しきひとよ… そして、公開当時、原作を大きく変更して踏みにじったとして何かと論議の的となり、チャンドラーの信奉者たちを激怒させた、あの悪名高いラストのクライマックス場面が訪れる。ここはやはり、ぜひ見てのお楽しみということで詳細はいちおう伏せておくことにするが、実はこのラストの改変は、アルトマンが本作の監督として起用される以前に、既に脚本家のリー・ブラケットがシナリオの中に書き込んであったものであり、その大胆な案を知ってアルトマン監督もこの企画に大いに乗り気になったこと、そしてまた、このブラケットは名匠ホークス監督とのコンビで知られる女性脚本家であり、何よりも同監督が主演のボガートと組んで作り上げた、あのチャンドラー映画の決定版というべき『三つ数えろ』に共同脚本のひとりとして参加していたことは、ここで特記しておく必要があるだろう。 あるインタビューでの彼女の言い分によると、「マーロウは、親友として信頼していた相手に裏切られ、心のもっとも奥深くで傷ついているにも関わらず、原作の結末では、一向にさっぱり要領を得ない。我々ならどうするか、よし、堂々と問題に正面から立ち向かうことにしよう」となったのこと。さらには、「『三つ数えろ』を作った頃には、たとえそうしたいと望んでも、検閲があってそれは許されなかった。我々は、マーロウを負け犬(loser)とみなすチャンドラー自身の価値判断にどこまでも忠実に付き従って、彼を何もかも失った本物の負け犬として設定した」とも彼女は述べている。 かくして映画の中で、「俺が何をどうしようが、どうせ誰も構いやしないやしないさ」と開き直ってうそぶくレノックスに対し、「ああ、俺以外にはな」と切り返し、「You’re a born loser.[=お前は、生まれついての負け犬さ]」とせせら笑うレノックスに、「Yeah, I even lost my cat.[=ああ、俺は猫も失ってしまったしな]」とシニカルに言い放つマーロウの決め台詞が効いてくるのである。 さて、こうして映画『ロング・グッドバイ』を、幾つかの顕著なアルトマン的主題をざっと辿りながら見てきても分かるように、この作品は、アルトマン監督がチャンドラーの原作を単に適当にぶち壊して、勝手気ままに浮薄な現代の社会に物語の設定を移し替えただけというような、安易な諷刺やパロディ映画などでは決してない。それどころか、往年のハリウッド映画のスタイルを借用して、『三つ数えろ』のような古典的フィルム・ノワールを現代にそのまま再生産するのは、もはや不可能であり、失われた神話にすぎないことを充分に自覚したアルトマン監督が、過去と現在をたえず対比させて、その時代的距離を浮き彫りにしつつ、しかしそのどちらか一方にだけ加担して他方を断罪するのではなく、その両者のはざまで必死に自らの居場所を見つけようとしてあがくマーロウの姿を、彼独自の複眼的視線と実験的手法を駆使して描いた、まぎれもない野心的傑作の1本であると言えるだろう。 鏡や窓ガラスの反映を巧みに用いた空間設計と、卓抜なキャメラワークを緊密に連携させることで、さまざまな主題が幾重にも交錯して乱反射し、幾つもの鏡像・分身を生み出しながら、めくるめく重層的なアルトマンの映画世界が形作られるさまを、これまで見てきたが、これはなにも、映像だけの話に限らない。この『ロング・グッドバイ』では、音楽の使い方がまた何とも心憎いまでに粋でふるっていて、その後『JAWS/ジョーズ』(1975)や『スター・ウォーズ』(1977)でハリウッド随一の人気映画音楽家の座に上り詰める、あのジョン・ウィリムズの作曲した主題曲の印象的な同一のフレーズが、時には車のラジオから流れる男性ボーカルのバラード、時には深夜のスーパーにかかるミューザック、はたまたメキシコの楽団スタイルやゴスペル調、といった具合に、アレンジだけ変えながら、多彩なスタイルで次々と反復・変奏されていくさまには、思わず誰もがニヤリとさせられること間違いなしだろう。 その一方で、この主題曲の作詞を手がけた20世紀のアメリカを代表する名作詞・作曲家のひとり、ジョニー・マーサーが若き日にやはり作詞を担当した「ハリウッド万歳」というハリウッド讃歌の明るいナンバーが、この映画の冒頭と最後に本編を枠取る形で流されるが、そのなんともお気楽で能天気なメロディは、『ロング・グッドバイ』という作品の内容自体を効果的に彩る音楽というより、時と場所をわきまえずに不意に出現する場違いなアルトマンの作中人物たちにも似て、むしろその異質さと空虚さを際立たせるばかりで、ここでも、楽天的なハリウッド神話の夢が、もはや今日では成り立たずに終焉したことを、観客にはっきり告げ知らせる異化装置として機能している。 ことほどさように、アルトマンの映画は複雑で厄介で、とうてい一筋縄ではいかない不可思議な魅力と面白さに満ち溢れている。彼本人は残念ながら、もはやこの世に別れを告げてあの世へ旅立って行ってしまったが、見返すたびに新たな発見がある彼の多面的な映画世界に、我々はまだまだ、ロング・グッドバイをすることなどできはしない。■ LONG GOODBYE, THE © 1973 METRO-GOLDWYN-MAYER STUDIOS INC.. 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COLUMN/コラム2014.06.09
進め「パロディ映画道」! ジェイソン・フリードバーグ & アーロン・セルツァー
バックグラウンドが異なる人間が集まって住んでいるアメリカでは、以心伝心や阿吽の呼吸といった概念は存在しない。すべての意思疎通は会話で行われるのだ。だから映画においても会話の重要性は高く、ホンモノっぽさが求められる。そこで二人の脚本家が実際に会話するように共同で脚本を書くことが多くなるというわけだ。 もっともそうしたコンビが長続きするケースは少ない。特に個人の感覚に拠るところが大きい”笑い”を扱うコメディ映画の世界ではコンビ解散は日常茶飯事である。長続きしているのは、ジョエルとイーサンのコーエン兄弟やピーターとボビーのファレリー兄弟といった同じDNAを持つ肉親コンビばかりだ。そんな中、赤の他人でありながら20年以上にわたってコンビを組み続けるチームが存在する。ジェイソン・フリードバーグとアーロン・セルツァーである。 二人が出会ったのは90年代初頭、カリフォルニア大学サンタバーバラ校(UCSB)の映画クラスでのことだった。せっかく楽しい映画を作るノウハウを学ぶために入学したのに、高尚な芸術論議ばかり戦わされている……そんなクラスの雰囲気にジェイソンとアーロンはそれぞれ孤独に欲求不満を募らせていたという。「俺が撮りたいのは芸術なんかじゃない。コメディ、それもパロディ映画なんだ!」そんな同好の士が出会うまで時間はかからなかった。二人はすぐに”腹心の友”となり、まんが道ならぬパロディ映画道を歩んでいくことを決心したのだった。 既存のヒット映画の名シーンをパロったギャグを数珠つなぎにしてストーリーを構成する。そんな形式を持ったパロディ映画の歴史は70年代に始まる。創始者はメル・ブルックス。彼は西部劇をパロった『ブレージングサドル』、ホラー映画をパロった『ヤング・フランケンシュタイン』(ともに74年公開。つまり今年はパロディ映画創立40周年なのだ!)の二作で現在に通じる基本パターンを作りあげた。 このジャンルを更に発展させたのがデヴィッドとジェリーのザッカー兄弟とジム・エイブラハムスによるトリオ“ZAZ”だった。ZAZはパニック映画をパロった『フライング・ハイ』(80年)に始まり、刑事パロディ『裸の銃を持つ男』シリーズ(88〜94年)、マッチョ・アクションをパロった『ホット・ショット』シリーズ(91〜93年)などヒット作を連発した。 こうした先輩たちに倣ってジェイソンとアーロンは「007」シリーズに注目してパロディ映画の脚本を書き始めた。ある程度出来上がった段階でジェイソンは、テレビ監督を務める父親リック・フリードバーグに助言を仰いだ。すると思わぬ幸運が転がりこんできた。リックはちょうど『裸の銃を持つ男』の主演俳優レスリー・ニールセンとビデオ作品『Bad Golf My Way』 (94年)の仕事をしていたのだ。脚本はレスリーにも気に入られ、リック監督、レスリー主演、ジェイソンとアーロンが脚本を手がけた『スパイ・ハード』(96年)が作られることになった。映画は興行収入2600万ドルのスマッシュヒットを記録した。 ジェイソンとアーロンは、続いて当時流行していた『スクリーム』(96年)や『ラストサマー』(97年)といったティーン向けホラーのパロディ脚本を書き上げた。これに飛びついてきたのが、他でもない『スクリーム』の製作会社ミラマックスだった。脚本は高額で買い取られ、『ポップ・ガン』(96年)でブラックムービーのパロディ映画に挑戦していた黒人コメディアン、ウェイアンズ兄弟の手で『最終絶叫計画』(00年)として映画化された。製作会社が自らパロディを手がけたことで生じる本物っぽさ、そして主演に抜擢されたアンナ・ファリスのコメディ・センスが炸裂したこの作品は、1億5700万ドルというメガヒットを記録。『最終絶叫計画』シリーズは、翌年にパート2、ウェイアンズ兄弟が降板した後もZAZのデヴィッド・ザッカーの製作&監督でこれまでパート5まで製作されるヒットシリーズとなっている。 だがこうした作品は、ジェイソンとアーロンに納得がいく出来ではなかったようだ。二人の脚本は映画完成までに他のライターによって変更が加えられていたからだ。「自分たちの構想通りのパロディ映画を作りたい!」二人は脚本買い取りのオファーには頑として応じず、製作と監督も自分達に任せてくれるスタジオが現れるのをひたすら待った。 06年、ジェイソンとアーロンの努力は報われ、二人はアリソン・ハニガン主演の『最”愛”絶叫計画』(06年)でプロデューサー兼監督デビューを果たす。『ブリジット・ジョーンズの日記』(01年)や『ベスト・フレンズ・ウェディング』(97年)といったロマンティック・コメディをパロったこの作品は4800万ドルのヒットを記録した。翌年、彼らは『ナルニア国物語』(05年)をベースに『ダ・ヴィンチ・コード』(06年)から『スネークフライト』(06年)のパロディまで盛り込んだ『鉄板英雄伝説』(07年)を発表。インド系俳優カル・ペンが主演し、『アメリカン・パイ』シリーズ(99〜12年)の熟女ジェニファー・クーリッジや『アリス・イン・ワンダーランド』(10年)の”ハートのジャック”で知られるクリスピン・グローバー(『アリス…』で共演したジョニー・デップの代表作『パイレーツ・オブ・カリビアン』のジャック船長のパロディ・キャラをやっていることに注目!)らが脇を固めたこの作品は、最近ヒットした映画だったらジャンルは無関係、それどころか時事ネタやゴシップネタまでブチ込むという二人のスタイルが完成した重要作だ。 同作以降も、ジェイソンとアーロンは、『300』(07年)をリアルタイムでパロった『ほぼ300 <スリーハンドレッド>』(08年)やパニック映画をネタにした『ディザスター・ムービー! 最'難'絶叫計画』(08年)を製作&監督。10年には「俺たちがやらなきゃ誰がやる!」的な勢いで『トワイライト』サーガ(08〜12年)をネタにした『ほぼトワイライト』をヒットさせている。近年の作品では珍しくネタを『トワイライト』に絞り込んでいるのが印象的だが、ヒロインを取り合うエドワードとジェイコブそれぞれの少女ファンたちが戦ったり、『ハングオーバー』シリーズ(09〜13年)のケン・チョンが意味なくボケ倒していたりするところはいかにも二人の映画らしい。 笑いを取るためなら下ネタだろうと手段を選ばず、しかもストーリーと無関係にギャグを挟んでいく。そんなジェイソンとアーロンの映画は、評論家から高く評価された試しがない。それどころか”幼稚”、”西洋文明衰退の象徴”、”文化の疫病”とまで批判されている。だがそもそも彼らがパロっているハリウッド映画は文明的で文化的なものなのだろうか? 本来なら子ども向きのスーパーヒーロー映画を何百億円もかけて製作し、時にそれが何百億円の赤字を記録してしまう。そんなハリウッドの現実の方がよっぽどコメディである。”幼稚”なのは当たり前。二人は「王様は裸だ」と囃し立てる子どもなのだから。 そんな彼らの次回作は、来年公開予定の『Super Fast』。タイトルから想像出来る通り『ワイルド・スピード』シリーズ(01年〜)をネタにしたコメディである。そう、二人のパロディ映画道はまだまだ続く。■ © 2007 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved