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COLUMN/コラム2016.02.15
男たちのシネマ愛④愛すべき、キラキラ★ソフィアたん(2)
なかざわ:では、そろそろ作品の方に話題を移しましょうか。 飯森:まずは「ヴァージン・スーサイズ」【注22】と「ブリングリング」【注23】をセットにしてお話したいと思います。 なかざわ:なるほど。どちらの作品も、ある特定の時期の少女たちに顕著な感受性というものを、ソフィア・コッポラならではの視点から描いているように思えますよね。 飯森:確か彼女って、一時期タランティーノ【注24】と付き合っていたことありましたよね?あれ彼女の方がファンだったんじゃないですか?まぁタラの方にもコッポラ一族とコネクションが欲しかったというのもあったのかもしれませんが。というのも、今回改めて「ヴァージン・スーサイズ」を見て、タランティーノの影響がかなりあるなって気がしたんですよ。 なかざわ:とおっしゃいますと? 飯森:ソフィアたんというと音楽のセンスが良くて、過去のポップミュージックから「よくぞこれを選びました!」という絶妙な楽曲を引っ張り出してくる。それが、その後も彼女の顕著なスタイルであり続けるわけですが、「ヴァージン・スーサイズ」にはタランティーノに共通するような音楽使いの良い意味での“雑さ”がある気がするんですよ。例えば、カットが変わると同時に引用した音楽もぶつ切りに終わらせちゃうとか。「この雑な感じ、70’sっぽくてダサかっこいいっしょ?」というのが’90年代のタランティーノの大発明だったじゃないですか。あの頃は’70年代がリバイバルで流行ってましたから。音楽だけでなく洋服のセンス、車のセンス、テロップや編集の過剰なケレン味なども含め、クール70’sの匂いが妙にタラ臭いんですよ。あれの女子版。まあ時代設定が’70年代の映画だからそうしてるってこともあるのでしょうが。 なかざわ:王道的な名曲とマニアックな楽曲を無造作に混ぜ込むあたりもタランティーノ的かもしれませんね。彼女って、幼少期に当たる’70年代の楽曲は結構王道寄りだけど、思春期に差しかかった’80年代以降の楽曲になると途端にエッジが効いていたりする。そんな選曲の傾向を見ていると、’90年代の申し子だなという印象を受けます。 飯森:それ!僕がタラっぽいと言っているのは、まさにその点なんです。非常に’90年代っぽい。タランティーノのフォロワーというか、ポスト・タランティーノというか。ただ、だから悪いと言っているわけじゃないですよ、「ヴァージン・スーサイズ」は事実上の長編デビュー作ですから、誰かの影響があるのは当然のことだと思います。と言っても、僕の気のせいかもしれませんけどね。 なかざわ:でも間違ってはいないように思いますよ。 飯森:で、この作品。冒頭でナレーションが入って、いきなり映画のオチを明かしちゃうんです。リズボン家の5人姉妹が自殺したと。なぜ彼女たちは自殺してしまったのか…ということを、近所に住んでいた、もしくは学校で同じクラスだった男子たちが、大人になった25年後に回想するというお話なんです。でも、結局その理由は最後まではっきりとは分からない。特に、一番下の妹がリストカットをし、一度は助かったのに結局投身自殺してしまう動機は一番不可解です。 映画開始直後、理由を描く暇もなく早速自殺しようとする。後からも答えは一切描かれない。でも、答えはその娘自身が最初の未遂の時に医師に向かってハッキリと明言してるんですけどね。 で、上のお姉ちゃんたち4人が遺されるわけですが、彼女らも特段に号泣したり精神的に荒れたりなどすることもなく、淡々と日常へ戻ってしまうのも、映画的には控え目すぎる気がするし、およそドラマチックじゃない。男の子たちに誘われて夜遊びなどもするけど、それも大して悪さをするわけじゃない。で、お母さんから厳しく叱られる。でも「厳しく」と言っても常識の範囲内ですよ?どの家でもあれぐらいは怒られる。「キャリー」【注25】の狂った母親みたいではないから、そこにも映画的な大げささは盛っていない。なのに、どうやらそれを苦にして自殺しちゃったみたいなんですよ。4人の姉妹全員が同じ屋根の下で同時に。これは何なのか?と。 なかざわ:唐突で意味が分からないですよね。死ぬほどのことなのか?と。 飯森:でもね、我々は今は分からなくなっちゃったかもしれない。なぜならオジサンになったから。最初に自殺未遂をしでかした妹が冒頭で医者にハッキリ明言してるんですよ、「10代の女の子じゃなければ死のうとした理由は分からない。先生には絶対分からない。オジサンだから」って。これは原作小説にはないから、脚本も書いてるソフィアたんが加えたと思われるセリフなんですが、答えは映画開始直後に出てたんです。「理由は10代にしか分からない」がこの物語にソフィアたんが出した結論なんですよ。 お姉ちゃん達の場合は、夜遊びの罰として外出禁止にされたから、って理由っぽいものが一応あるにはある。でもだからって「死んでやる!」という、その二つの釣り合わなさということは、我々はオジサンだから分かる。そんな損な話はないと。でも、それが分からなかった時期ってあるんじゃないですか?っていうことを描いた映画だと思うんですよ。 もう一方の「ブリングリング」ですが、こちらはある男の子がロサンゼルスに引っ越してきて、一人の中国系の女子と意気投合をする。お互いにお洒落とかファッションが好きなんですよね。この二人が学校帰りに旅行中の知人の家に空き巣へ入ろうということになり、味をしめて次からはパリス・ヒルトン【注26】やオーランド・ブルーム【注27】など有名人の豪邸を狙うようになる。有名人のフェイスブックを見ると「今パリにいます」とか書いてあるけど、それって家が留守ってことじゃん?だったら住所もセレブマップですぐ分かるから、空き巣に入って盗もうよ♪みたいな軽いノリで。そこに他の女子も仲間として加わって、次から次へとセレブの豪邸に忍び込んでは高級ブランド品を盗んでいく。でも、彼らにとっては盗みが本当の目的なんではなくて、ただ単にセレブの自宅やワードローブの中身を見て、友達同士「わー!」「すごーい!」「ステキー!」ってキャッキャやりたいだけなんですよね。そのついでに戦利品も頂いていっちゃう。 なかざわ:それっていうのは、今のSNS文化【注28】はもちろんのことですけれど、若者たちの過剰なセレブ崇拝というのもバックグラウンドにあると思います。ある時期から、アメリカではゴシップ誌を賑わせる“セレブ”と呼ばれる人々が、テレビのリアリティー番組で自分の豪邸や華やかな暮らしぶりを自慢げに披露するようになり、若い人たちがやたらと興味を惹かれて憧れるようになったんですよね。 飯森:とはいえ、興味があるからといって空き巣に入るというのも発想が飛躍している。でも一番理解不能なのは、その犯行をSNSでイエーイ!みたいな感じでアップして自ら晒しちゃう感覚ですよ。それは捕まるに決まってるよね?と。確かに、悪いとは分かっていても衝動が抑えられないってことはあるかもしれない。それは分かる。でも、証拠隠滅するなり何なり自分が逮捕されない悪知恵も普通は働かせるはずですよ。それを、シッポ出さないようにするんじゃなくて逆に自らネットに晒すとは!これもまた、大人になった今なら「バカなクソガキどもめ」と思うだけかもしれないけれど、ある限られた年頃だったら理解できるんじゃない?と感じるんです。 なかざわ:そうですね。人間の死だとか犯罪だとか、そういった重大な事柄に対する想像力の欠如ですよね。モノを知らない若者ならではの無軌道というか。 飯森:かといって、その無軌道をソフィアたんは批判しているようにも見えない。もちろん共感しているわけでも推奨しているわけでもないとは思うのですが。しかし高校生くらいのガキが調子に乗って、ここではそれこそ警察に捕まるような悪いことをしているわけですけれど、刑務所に入れられたら大変だ、家族や周りにも迷惑がかかる、という大人の理性がストッパーにならない年頃ってあるじゃないですか。友達と一緒になって、いいじゃん!やっちゃおうよ!と盛り上がっている時の楽しさ。それを得意気に自慢する楽しさ。つまりは調子ぶっこいている楽しさ。もちろん犯罪行為までは普通いかないけれど、10代の頃を振り返ってみた時に、誰しも多かれ少なかれ身に覚えがある、あの感覚。ソフィアたんはその年代の子供たちにしか見えないであろう世界の“キラキラ感”を描いているんですよ。“キラキラ感”って言葉も作ってみたんですが、これもどうにもオジサン臭いな(笑)。 なかざわ:言うなれば危険な冒険ですよね。一歩間違えれば犯罪に巻き込まれてしまう、もしくはその行為そのものが犯罪になりかねない。でも楽しいからやってしまった。そういう経験がある人は多いと思いますよ。 飯森:それはさっきの「ヴァージン・スーサイズ」も同様で、夜遊びで無断外泊して親から怒られるなんて、「ブリングリング」の空き巣以上に誰にでも経験がありますよね?それが原因で自殺するというのは、一見すると飛躍ですけど、彼女らのような10代だったら共感できるかも知れない。一切の外出を禁じられてしまったことで、姉妹は日々変化していく学校生活や友達関係に参画できなくなってしまう。1ヶ月後に外出禁止が解かれたとき、どんな顔をして学校へ行けばいいのか。長い人生の中で後から振り返れば取るに足らないことですが、いま10代だったらそれがどれほど重大かは、我々も何十年か昔を思い出せば共感できると思うんです。そんなの堪えられない!そうなるぐらいならいっそ死んでしまいたい!って衝動的に思うのも、10代ならありうる。 なかざわ:彼女たちにとっては生き地獄だったのかもしれませんね。 飯森:かといって全然地獄っぽくは描かれてないですけれどね。むしろきれいに描かれている。地獄だから自殺したんじゃなくて、世界がきれいすぎて見えるほど感受性が敏感な年頃だったから自殺しちゃった。だから全編、徹底的にきれい。この映画、とにかく景色がきれいなんですよ。もう異常なんです。25年前の出来事の回想なので、思い出の中の風景のようにも見えるし。美人姉妹の目には世界がこういう風に見えていたのかとも思える。世界がキラキラに描かれているんです。大人にとってはなんの面白みもない住宅街の退屈な風景であっても、10代の女の子の目を通すと、世界はこんなにも輝いて見えるのか!と思うわけです。あるいは、あれは男子たちの目線なのかもしれない。遺された近所の男の子達が、あの25年前の夏の集団自殺は何だったのだろう?と40歳ぐらいになってから思い返す映画なので、男子目線のノスタルジックな美しさなのかもしれない。どちらにせよ、ティーンの頃に我々の目にも確かに見えていたはずの、信じられないくらいの世界の“キラキラ感”を視覚化することに成功しているんです。 なかざわ:確かに、感受性が豊かで多感な時期の記憶というのは、実際よりもかなり美化されて脳裏に焼き付きますからね。 飯森:これを描ける人はソフィアたん以外にはなかなかいない!才能ですね。親のコネだけじゃ無理です。偉大すぎる親父さんでもこれだけは描けそうにない。オジサンだから(笑)。 <注22>1999年制作、アメリカ映画。 <注23>2013年制作、アメリカ映画。 <注24>クエンティン・タランティーノ。1963年生まれ。アメリカの映画監督。「レザボア・ドッグス」(’92)で脚光を浴び、カンヌ映画祭で最高賞パルム・ドールを獲得した「パルプフィクション」(’94)で時代の寵児となる。<注25>1976年制作、アメリカ映画。狂信者の母親に悪魔の子と冷遇されて育った超能力イジメられっ娘のパワーが、イジメのエスカレートにより暴走して大惨劇を引き起こす。<注26>1981年生まれ。アメリカのソーシャライト(社交界の名士)。ヒルトンホテル創業者一族の出身で、お騒がせセレブとしても有名。劇中に登場する自宅は本物。 <注27>1977年生まれ。イギリスの俳優。「ロード・オブ・ザ・リング」(’01)シリーズのレゴラス役でブレイクし、その後も「パイレーツ・オブ・カリビアン」(’03)シリーズや「キングダム・オブ・ヘブン」(’05)などのヒット作に出演。<注28>TwitterやFacebookなどのSNSを利用した生活様式のこと。 次ページ>> 「ロスト・イン・トランスレーション」&「SOMEWHERE」 『ヴァージン・スーサイズ』©1999 by Paramount Classics, a division of Paramount Pictures, All Rights Reserved『ロスト・イン・トランスレーション』©2003, Focus Features all rights reserved『マリー・アントワネット(2006)』©2005 I Want Candy LLC.『SOMEWHERE』© 2010 - Somewhere LLC『ブリングリング』© 2013 Somewhere Else, LLC. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2016.02.15
男たちのシネマ愛④愛すべき、キラキラ★ソフィアたん(1)
なかざわ:今月は「シネマ・ソムリエ」枠で放送される、映画監督ソフィア・コッポラ【注1】の特集企画が対談テーマですね。 雑食系映画ライター なかざわひでゆき 飯森:ザ・シネマというのは基本的に40~60代の男性視聴者が多いオジサン向けチャンネルなので、ガーリームービー【注2】の教祖的なソフィア・コッポラを特集しても見ない方が多いかもしれない。ちなみに、“ガーリームービーの教祖”ってキャッチフレーズは僕が考えたんですけど、そのネーミングセンス自体が既にオジサン臭い(笑)。教祖なんてナウなヤングは絶対言わない。とはいえ、そういうオジサンたちに今回ここではあえてオススメしたいんです。 なかざわ:個人的に彼女は、映画界の巨匠フランシス・フォード・コッポラ【注3】の娘として育った、裕福でインテリなお嬢様という印象があって、作品そのものに関しても、そうした生い立ちが色濃く出ているようにも思います。 飯森:アメリカ映画界の最高峰と呼べる巨匠のもとで、彼の映画作りを間近で見ながら育ったわけですから、ありえないほど恵まれた環境ですよね。しかも、例えばファッションの勉強がしたいと言ったら、誰のもとで修行をすることになったかというと、あのカール・ラガーフェルド【注4】なんですよ。太ってた頃の。父親の口利きなのかどうかは分かりませんが、いずれにせよパリス・ヒルトンみたいな単なるお金持ちのお嬢様ではない。最高レベルのクリエーターたちに実地で手とり足とり教えられ、監督デビューのレールを敷いてもらえたという、完全に姫。「ブリングリング」を見ると、若干パリスのことを見下しているような印象も受ける。「金だけ持ってたってダメなのよ。あんたと違って私はクリエイティブ帝王学を学んでるよの」と。 ザ・シネマ編成部 飯森盛良 なかざわ:まさに究極のサラブレッド。恐らく、映画ばかりか芸術の世界を志したことのある人にとっては、羨望の的のような人ですね。ただ、基本的に自分の経験や興味の対象から外れるものは描かない。それこそ、アガサ・クリスティ【注5】が「私はパブに集うような男たちの話は書けない」と言っていたように、自分のテリトリーから外れるような題材はよく分からないので手を付けません、という姿勢が感じられます。 飯森:職人監督のように様々なジャンルを股にかけるのではなくて「私には描きたいものがあるし、描けるものはこれしかない」ということで、同じ主題を描き続けている。それこそが作家性というものでしょう。 なかざわ:どの作品を見ても、彼女独自の感性で見える世界を描いているように思います。 飯森:実は、僕はある時期からソフィア・コッポラ映画が嫌いになったんですよ。今回も、対談のかなり直前まで、僕は嫌がってましたよね(笑)? なかざわ:嫌がっているとまでは思いませんでしたが、でも躊躇されているのはありありでしたよ(笑)。どうしよー、難しいなあーって仰ってましたし。 飯森:もう一度見直さなくちゃいけないのかと思うと憂鬱だったんです。でもね、これが結果的には良かった!これは本当に今の本心なんですけれど、ソフィア・コッポラのことが大好きになりましたね。だから心からの萌えの情を示すために「ソフィアたん」と呼ばせてください(笑)。およそガーリーとは縁のないオジサンたちにも、これは是非とも見ていただきたい!と思うようになったわけです。 なかざわ:なるほど、そうだったんですね! 飯森:改めて彼女の全作品を短期一気見したことで、ソフィアたんが描きたいテーマはこれじゃないか!?というものが明確に見えてきた気がする。それが各作品の公開時にリアルタイムでは分からなかった。公開に数年タイムラグがあると気づきにくいんですよ。短期間で一気見したからこそ魅力に気づけた。で、今回ウチでも一挙放送しますから、これはお客さんにも是非とも一気に全作見ていただきたいんです。 今日は彼女の作品を幾つかに分類してお話しながら、僕が考えるソフィアたんの作家性、そのテーマについてトークしたいと思います。まあ、僕の気のせいというか、思い込みに過ぎないのかもしれないですけれど(笑)。 なかざわ:ただ、ちょっとその前に触れておきたいのは、監督デビュー前の女優としてのキャリアについて。ホント、女優を続けなくて良かったね!って思うんですけれど(笑)。 飯森:あれこそ親のコネ以外の何物でもない。「ゴッドファーザーPARTⅢ」【注6】でラジー賞【注7】を取ったんでしたっけ? なかざわ:そうです。「スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス」【注8】では再度ノミネートされています。 飯森:あれは、どこに出ていたのか未だに分からない。まさかジャー・ジャー・ビンクス【注9】の中の人だったんじゃないでしょうね? なかざわ:いやいや、あれはCGですから! 飯森:声を担当した黒人の俳優さんが、モーション・キャプチャーのモデルもやってたんでしたっけ。 なかざわ:アミダラ【注10】の脇にいる侍女の役です。1人がキーラ・ナイトレイ【注11】で、もう1人がソフィア。もっとも、セリフは殆どないので、あれでラジー賞というのも気の毒だとは思いますけど。 飯森:完全にやっかみでしょう。でも親父さんの友達のルーカスに使わせるってところが、これぞまさしくゴリ押しというやつですね。 なかざわ:ただ、やはり「ゴッドファーザーPARTⅢ」を見たときは、さすがの巨匠コッポラも娘に関しては贔屓の引き倒しなのかな~、やっちまったなあ~と思いましたね。 飯森:あれは事前に当時人気絶頂のウィノナ・ライダー【注12】が決まっていたんですよね。それが直前になって降板したため、急遽代役を探さねばならなくなったわけですけど、あのブリジット・フォンダ【注13】にどうでもいい役を振っておきながら、よりによって自分の娘を、あまつさえあの最盛期ウィノの代役でヒロインに据えちまうのかよ!?と(笑)。せめて逆にしなさいよ!と。当時は親の七光りだとかブ●だとか散々なことを言われて、僕も正気なところ同じように思っていました。あれはものすごいバッシングで、姫は姫でもマリー・アントワネットになっちゃった(笑)。まあブリジット・フォンダも七光りですが、あっちは文句のつけようも無い絶世の美人ですからね。でも、今見るとソフィアたんもそんなに悪くないんですよ。むしろ案外良い!確かにウィノナ・ライダーほど可愛くはないかもしれないけれど、普通にそこらへん歩いてたら結構良い方だぞ、あそこまでバッシングされるほど悪くないぞ、いや全然有りだぞ!と。なんか可哀想という気になってくる。アイドルグループでそんなに人気の無いブ●カワな娘を一番応援したくなる心理に似ている(笑)。 それと、あの時のソフィアたんの、バブル時代を象徴するような、ワンレンボディコン【注14】が似合うサラサラのストレートヘア。以降彼女はボブにしちゃってますけど、あのワンレン姿は今見るとゴージャスで意外とイケてますよね。ちなみに、あの映画って時代設定がいつだか知っていますか? なかざわ:え、’80年代とか’90年代とかじゃないんですか? 飯森:そう思うでしょ?公開年イコール劇中年で1990年が舞台なのかと。ところがですね、実はリアルタイムの話じゃないんですよ!今回、野沢那智吹き替え特集で仕事で改めて見ていて気がついたんですが、冒頭に1970年代のニューヨークってテロップが出てくるんですよ。 なかざわ:マジっすか!? それ全く記憶にない! 飯森:あれはバブル時代の工藤静香【注15】とか千堂あきほ【注16】のワンレンではなくて、アグネス・チャン【注17】とか栗田ひろみ【注18】のロングヘアだったんです(笑)。 なかざわ:麻丘めぐみ【注19】とか小林麻美【注20】とかの(笑)。 飯森:そうそう、そっちなの。それをやりたくて、あのロングヘアーにしていたのかもしれないけど、そうは見えねえよバカヤロー!っていう(笑)。ある意味でラジー賞も仕方がない。 なかざわ:随分な衝撃ですね。 飯森:でしょ?恐らく、コルレオーネ家の“ファミリー・ヒストリー”をきちんと年表に整理していくと、あの時点が’70年代という設定でなければ辻褄が合わなくなるんですよ。しかし、そうは全く見えない。アメリカ映画って古い時代の雰囲気を出そうと思えば余裕で出せるじゃないですか。そこは日本映画が苦手としているところで、どんなに「ALWAYS 三丁目の夕日」【注21】が頑張ってみても、リアルに再現はできない。その点、「ゴッドファーザーPARTⅢ」は最初からそこ放棄してたってことですね。 <注1>1971年5月14日生まれ。ニューヨーク出身。アメリカの映画監督で元女優。「ロスト・イン・トランスレーション」(’03)でアカデミー賞脚本賞を受賞、監督賞にノミネート。 <注2>若い女性向け映画のことを意味する俗称。 <注3>1939年生まれ。アメリカの映画監督。代表作「ゴッドファーザー」(’73)でアカデミー賞脚本賞を、続く「ゴッドファーザーPART2」(’74)でアカデミー賞作品賞や監督賞など3部門を受賞。「地獄の黙示録」(’79)ではカンヌ映画祭の最高賞パルム・ドールなどを獲得。 <注4>1933年生まれ。ドイツ出身の世界的ファッション・デザイナー。 <注5>1890年生まれ。イギリスの女流ミステリー作家。「オリエント急行の殺人」や「そして誰もいなくなった」などの名作を世に送り出し、ミス・マープルやエルキュール・ポワロなどの名探偵を生んだ。1976年死去。<注6>1990年制作、アメリカ映画。アカデミー賞で2部門にノミネート。フランシス・フォード・コッポラ監督。 <注7>正式にはゴールデンラズベリー賞。その年の“最低”映画を部門ごとに表彰する。 <注8>1999年制作、アメリカ映画。「スター・ウォーズ」シリーズの第4弾。ジョージ・ルーカス監督。 <注9>「スター・ウォーズ」エピソード1~3に登場するエイリアン。ファンからは総スカンを食らった。 <注10>「スター・ウォーズ」エピソード1~3のヒロイン。惑星ナプーの女王。 <注11>1985年生まれ。イギリスの女優。代表作は「パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち」など。「プライドと偏見」(’05)ではアカデミー賞主演女優賞にノミネート。 <注12>1971年生まれ。アメリカの女優。「若草物語」(’94)でアカデミー主演女優賞にノミネート。その他、「シザーハンズ」(’90)や「リアリティ・バイツ」(’94)などが代表作。 <注13>1964年生まれ。アメリカの女優。父は俳優ピーター・フォンダ、祖父はオスカー俳優ヘンリー・フォンダ。代表作は「ルームメイト」(’92)、「アサシン 暗・殺・者」(’93)など。 <注14>ワンレングスの髪型にボディコンシャスな服装という、バブル期の典型的な女性のファッションスタイルのこと。 <注15>1970年生まれ。日本の歌手。元おニャン子クラブのメンバーで「禁断のテレパシー」(’87)でソロデビュー。その他、代表曲に「嵐の素顔」(’89)、「恋一夜」(’89)など。夫はSMAPの木村拓哉。<注16>1969年生まれ、日本の女優。’90年代初頭に“学園祭の女王”として活躍。「マジカル頭脳パワー!!」(’90〜’99)などのバラエティや、「振り返れば奴がいる」、(’93)などのドラマで活躍。<注17>1955年生まれ。香港出身の日本の元アイドル歌手。’72年に「ひなげしの花」でデビューして大ブレイク。当時は真ん中分けのロングヘアもトレードマークだった。 <注18>1957年生まれ、日本の女優。代表作は「夏の妹」(’72)、「放課後」(’73)など。丸ポチャで清純派風のルックスとヌードも厭わない大胆さで、’70年代前半に活躍。<注19>1955年生まれ。日本の女優で元アイドル歌手。モデルを経て、’72年の歌手デビュー曲「芽生え」が大ヒット。翌年の「私の彼は左きき」でトップアイドルに。おかっぱのロングヘアを真似する女性ファンも多かった。 <注20>1953年生まれ。日本の女優で元アイドル歌手。’72年にデビュー。華奢な体と長い黒髪で多数の化粧品CMでも活躍。’84年のシングル「雨音はショパンの調べ」が大ヒット。<注21>2005年制作、日本映画。昭和30年代の東京を舞台にした人情劇。日本アカデミー賞の最優秀作品賞など12部門を獲得。山崎貴監督。 次ページ>> 「ヴァージン・スーサイズ」&「ブリングリング」 『ヴァージン・スーサイズ』©1999 by Paramount Classics, a division of Paramount Pictures, All Rights Reserved『ロスト・イン・トランスレーション』©2003, Focus Features all rights reserved『マリー・アントワネット(2006)』©2005 I Want Candy LLC.『SOMEWHERE』© 2010 - Somewhere LLC『ブリングリング』© 2013 Somewhere Else, LLC. 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COLUMN/コラム2016.02.08
抗いようのない恐怖にさらされるヒロイン! 『恐怖ノ黒電話』は、多層的構造による恐怖が見もの!!
原題の“THE CALLER”には、呼び出す者や訪問者の意味がある。でも邦題では、ストレートに電話機が恐怖の題材だと明確化している。電話をかけてくる者と電話を受ける者は物理的な距離は離れているのに、相手が恐ろしい人物だと分かった途端、一気にその距離が縮まるという衝撃性を併せもつ……それが電話機だ。怪しい人物であれば、もしや身近にいて身を潜めているのでは?なんて不安感に苛まれてしまう。電話をかけてきた相手の姿が見えない分、恐怖感や切迫感が増幅され、真綿でジワリジワリと首が絞められてゆくような感覚に苛まれる。 過去のホラー映画にも、電話を用いて恐怖表現に秀でた作品が多数あった。精神的に孤立してゆくヒロインに、猟奇殺人鬼から電話がかかってきてショックを受け、やがて電話機そのものが恐ろしいモノに見えてくる。 例えば、『暗闇にベルが鳴る』(74年)、『夕暮れにベルが鳴る』(79年)、『スクリーム』(96年)等の代表作がある。かと思えば、電話線を通じて高電圧を流して感電死させるという『ベル』(82年)だとか、怨念が電話機を通じて不気味な電子音を放ったり、公衆電話からコインを飛ばして殺害するというキッカイな見せ場を盛り込んだ『ダイヤル・ヘルプ』(88年、監督は『食人族』のルッジェロ・デオダートだ!)など、異色作やカルトな珍品まである。日本では、円谷プロの特撮TVシリーズ『怪奇大作戦』(68年)の第4話「恐怖の電話」(監督は実相寺昭雄)があって、これは前述の『ベル』の先駆けともいえるようなアイデアが用いられていたし、携帯電話を通じて呪いが連鎖・拡散していく三池崇史監督のJホラー『着信アリ』(04年)が有名だ。 でも『恐怖ノ黒電話』は、それらの作品と比しても恐怖度はもちろん、一筋縄ではいかない展開に思わず唸ってしまう秀作である。本来なら、まっさらな状態で作品に触れて欲しいところだが、スター俳優が出演していないためか、認知度があまり高くない。そこで斬新性の一端を記しておきたい。 DV夫スティーヴンと離婚訴訟中のメアリー・キーが、年代物の古びたアパートに引っ越してくる。メアリー役には、スティーヴン・キング原作のTVシリーズ『アンダー・ザ・ドーム』のヒロイン、レイチェル・レフィブレ(※ラシェル・ルフェーブルの日本語表記もあり)が演じた。『~ザ・ドーム』のジュリア役のように、果敢に行動する気丈な女性像を作りあげている。 DV夫はメアリーに対し、150m以内接近禁止令が出ているほどの暴力魔。そのため一刻も早く、密かに新たな住居を決める必要があったため、物件をあれこれ吟味する余裕がなかった。そのアパートの部屋には、黒い電話機が設置されていて、引っ越してまもなく、激しくベルが鳴り出した。 メアリーは、最初は夫からの嫌がらせ電話か?と思ったが、電話に出てみると中年女性の声だった。その女は、「夕べ、部屋の前を通ったら、窓際にボビーの姿を見たわ」と言った。彼女はボビーをとても愛しているらしいが、メアリーには何のことかサッパリ分からない。ボビーが住むアパート名を聞くと、エル・フランステリオL2号室だという。それは、メアリーが住みはじめたアパートの部屋だった。 その日以来、メアリーは時々、フラッシュバックのような幻覚に悩まされ、毎日かかってくる黒電話のベルにうんざり。メアリーは、間違い電話につきあう暇はないと中年女性に激しく言うと、「ボビーはベトナム戦争から帰還し、告白してくれたのよ」と言う。 “ベトナム戦争”の言葉に引っかかったメアリーに対し、中年女性は、「こっちは、1979年9月4日よ」と言う。部屋の窓から見ると、通りの向こう側に黒い人影が見える……。 中年女性からの電話は、DV夫スティーヴンによる嫌がらせかも?と思うが、どうも違うらしい。DV夫の怪しげな行動(どこで調べたのか、彼女のアパートにいきなり押しかけてくる)と中年女性の謎の電話攻撃によって、メアリーに不安が押し寄せる。ここで、原題の“THE CALLER”の2つの意味(訪問者と呼び出す者)の真意が理解できるはずだ。そして心配と不安がいっぱいの新天地で生活するメアリーに対し、観る者は、一気に共感し感情移入することになる。 頻繁に電話をかけてくる中年女性は41歳で、名はローズ・ラザー。孤独で誰かと話したがっているローズは、「台所に収納庫があるでしょ? 入って右手の壁に絵を描くわ。その絵が、私が過去にいる証拠になるはず。確認してみて」と言い、電話を切った。メアリーは収納庫の内側の壁を見るが、絵はなかった。だがヘラで壁紙を剥がしてみると、そこにバラの絵が描いてあった。 メアリーは、前の部屋に住む古株のジョージに、昔の住人のことを尋ねた。「1979年にメアリーの部屋に住んでいたのは、暗い感じのローズ婦人だった。軍人と交際していてね、時々ケンカしていた。でもある日から男の姿を見かけなくなり、ローズがその部屋に越してきたんだよ。そして電話線を天井にかけ、首を吊ったんだ」と言う……。 79年に生きるローズからの電話が、なぜ現代のメアリーが住む部屋の黒電話にかかってきたのか? なんらかの理由で電話が繋がってしまったと説明があるぐらいで、それ以上の詳細な理由は語られていないものの、意外な展開と緻密に練られた幾つもの恐怖に魅せられ、観る者も理不尽な設定にのまれてゆく。しかもDV夫スティーヴンが、メアリーの周囲にたびたび現れて混乱させるから、たまったものじゃない(観ている方は、実に愉しいんだけど!)。 さらにローズが、メアリーの新たな恋人の79年に生きる両親に接近してたことが判明したり、79年に生きる少女期のメアリーに近づく等、タイムパラドックス物としての醍醐味(メアリーからしてみれば、それは恐怖!)もプラス。言うなれば、過去が変われば、現代も変化してしまう。生きている時代が違っていても、実に身近な恐怖として迫ってくるわけだ。 ここで映画ファンなら、電話機は用いていないが、『恐怖ノ黒電話』と似たようなアイデアを用いた作品が過去にあったことを思い出すだろう。父子が30年の時空を超えて無線機で語り合い、連続殺人事件の犯人を追いつめてゆくSFアクション・スリラー『オーロラの彼方へ』(00年)だ。太陽フレアの活発化により、NY上空にオーロラが出現した1999年、ある警察官が亡き父の無線機の電源を入れてみると、かつてNY上空にオーロラが出現した1969年の父と交信することに! それにより、消防士の父は死ぬはずだった火災から命拾いをし、しかも父親は容疑をかけられたナイチンゲール(看護婦)連続殺人事件の真犯人を追いつめることに……。 初公開時、アイデアは秀逸だがあまりに都合のいい展開と綺麗なまとめ方に少々落胆した覚えがあった。ちなみに同じ時期、別の時代を生きる若い男女が、無線機を通じて時空を超えて語り合う、韓国のラヴロマンス物の秀作『リメンバー・ミー』(00年)もあったと思いだした。 『恐怖ノ黒電話』の最大の面白さは、DV夫の恐怖に脅えながら、過去からの電話ストーカーの数々の行為により、現代に浸食してくるタイムパラドックスの恐怖にさらされるところにある。W(二重)の恐怖……いや、様々な恐怖が織りなす四面楚歌状態から逃れることができないメアリーの姿は、心に深い痛手を負いながらも難関に対峙しなければならない現代女性の代表かもしれない。■ ©The Caller Productions, LLC 2010
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COLUMN/コラム2016.02.03
ドリー・尾崎の映画技術概論 〜第1回:フィルムとデジタル〜
映画はその誕生から1世紀の長きにわたり、フィルムという記録媒体によって記録され、それを映写機でスクリーンに投影することで形を成してきたメディアである。しかし現在、映画はフィルムを使わない、チップやセンサーを用いて電子的に撮像を記録する「デジタルシネマ」が主流となった。 かつて映画におけるデジタル技術は、劇中におけるCGI(視覚効果)や編集、そしてドルビーデジタルなどのサウンド・システムに用いられてきた。しかし、デジタルを映画の構成要素として使うのではなく、フォーマットそのもののデジタル化を図る動きが2000年代初めに台頭してきたのだ。 商業長編映画の世界では、2001年にピトフ監督のフランス映画『ヴィドック』(撮影:ジャン=ピエール・ソヴェール)が、そして2002年にジョージ・ルーカス監督が『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』(撮影:デヴィッド・タッターサル)においてこれを実現させた。ルーカスはソニーとパナビジョン社に依頼し、両社はHD-1080/24Pを共同で開発。[シネアルタ]と呼ばれるHDW-F900型のそれは、毎秒24pというフィルムと同じフレームレート(コマ速度)をもち、35mmフィルムカメラに使用されていたレンズの共有など、既存の映画制作フォーマットとの互換性に優れたデジタルHD24pカメラだ。 同カメラの開発がソニーの厚木研究所でもおこなわれたことから、日本映画でのシネアルタの活用は『スター・ウォーズ エピソード2』の撮影とほぼ時期を同じくしている。我が国のデジタルシネマ、すなわちHDW-F900で全編撮影が行われた長編映画は、2001年の田崎竜太監督作『劇場版 仮面ライダーアギト PROJECT G4』(撮影:松村文雄)が嚆矢となった。それに続いて岩井俊二監督の『リリィ・シュシュのすべて』(撮影:篠田昇)や、高橋巌監督の『infinity ∞ ~波の上の甲虫~』(撮影:八巻恒存)などが同年に発表されていく。また、デジタルHD24pカメラはソニーのみならずパナソニックでも開発が進められ、撮影監督の坂本善尚が開発に関わったAJ-HDC27F型デジタル24pカメラ[バリカム]は、原田眞人監督『突入せよ! あさま山荘事件』(02)の撮影に用いられ、シネアルタに引けをとらない性能を発揮した。 ■デジタルシネマの現況 それからおよそ15年を経た2016年。映画撮影の現場は、ほぼフィルムからデジタルにとって代わられ、カメラも[ジェネシス]や[レッドワン]といった2K、4K、さらには8K(シネアルタの後継機[F65])といった高解像度のハイスペック機が生み出されている。これらは35mmフィルムとフィルムカメラが持つポテンシャルを、もはや凌駕しているといっていいだろう。 画質の向上だけではない。何度も加工や上映をしても映像の劣化がないことや、撮影で自由にテイクが重ねられるなど、製作において妥協を余儀なくされる点が低減されている。 「高感度のデジタル24Pが開発されたことで、照明設計が簡易になり、低予算で作品を実現できた」 上記のように筆者に話してくれたのは、侵略SF映画『スカイラインー征服ー』(10/撮影:マイケル・ワトソン)のグレッグ・ストラウス監督だが、こうした経済面での利点も無視できない。なによりもフィルムにあった、ネガフィルムからのプリント現像にかかるコストが抑えられ、DLP上映との連携を図ることができる。 そう、映画は上映に関しても方式が大きく変わった。フィルム映写ではなく光半導体を用い、デジタルデータをスクリーンに投影するDLP(デジタル・ライト・プロセッシング)が、アメリカでは1999年、ロサンゼルスとニューヨークでの『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』(99)プレミア上映を皮切りに実用化された。国内では2000年より採用され、同システムの設置された日劇プラザでは『トイ・ストーリー2』(00)が初のDLP上映となった。『トイ・ストーリー2』はデジタルベースによる3DCGアニメーションで、コンピュータ上からダイレクトにDCP(デジタル・シネマ・パッケージ=DLP上映のためのデータパッケージ)を作ることが容易だったが、『スター・ウォーズ エピソード1』のようにフィルム撮影された映画はネガをスキャンし、データ化する行程を経なければならない。しかしデジタルシネマはそれを省き、フルデジタルによって撮影から完パケまでを一貫させ、物質的、コスト的なムダを省くことができる。映画興行主にとっての利便性や経済性を考えれば、デジタルシネマの普及は必然といっていいかもしれない。 事実、今や国内のスクリーン数3.437のうちデジタル設備は3.351と全体の約97.5パーセントを占め(一般社団法人 日本映画製作者連盟「日本映画産業統計2015年12月」より)、フィルムプリント上映による映画の時代は終わりを迎えている。 そんなフィルムからの解放は、映画の作り方を大きく飛躍させた。映像加工をひときわ容易にし、どこまでが実写でどこまでがバーチャルな映像なのか、判別不可能なイメージ作りを実現させたうえ、立体視をもたらすデジタル3Dや、ドルビーサラウンド7.1、ドルビーアトモスといった音響の多チャンネル化を促している。そしてコマ数を毎秒24フレームから48フレームへと上げ、映像を高精細化するハイフレームレイト(2012年に『ホビット 思いがけない冒険』で実施)など、多様な展開を劇場長編作品にもたらしたのである。 もはや映画は、フィルムでは踏み込めなかった領域に足を下ろしているのだ。 ■フィルムにこだわる監督たち しかし、フィルムが持つ粒状性や質感こそが「映画を映画らしいものにしている」という考え方も根強く、120年にも及ぶフィルム映画の歴史を、やすやすと消滅させるわけにはいかないとする見方もある。特に日本では「デジタルか?」「フィルムか?」という芸術的観点からの議論が慎重になされないまま、シネコンへのDLP設置が早駆けで進み、また2013年に富士フィルムが映画用35mmフィルムの生産を廃止するなど、なし崩しのようにフィルムからデジタルへの移行がなされてきた。そのためデジタルシネマに対し「単にシステムの合理化にすぎないのでは?」という声も出ているのだ。 そんな声に呼応するかのごとく、映画作家の中には今もフィルム撮影を敢行する者たちがいる。 たとえば山田洋次監督は最新作『家族はつらいよ』(15/撮影:近森眞史)をフィルムで撮り、自身の半世紀以上にわたる監督人生において、フィルム主義をまっとうする構えだ。また同じ松竹で製作された『ソロモンの偽証』(15/撮影:藤澤順一)も、成島出監督にインタビューしたさい「中学生役の子たちの未熟な演技を、映画的な外観でカバーするべくフィルム撮影に踏み切った」と答え、フィルムの優位性を唱えた。 他にも周防正行監督の『舞妓はレディ』(14)では実景部分を富士フィルム、それ以外のセットなどのシーンをコダックフィルムで撮るという、ハイブリッドなフィルム撮影の手法がとられている。これは「京都の風景と舞妓のあでやかな姿をフィルムで撮りたい」という寺田緑郎撮影監督の希望に、プロデューサーが「フィルムが無くなるのならば、富士フィルムとコダックを両方使いたい」と相乗する形で実現したものだ。いずれもフィルムプリントによる上映配給が難しい現状「撮影はフィルムでも完パケはDCP」という制限はあるが、そこには映画人ならではの、滅びゆくフィルムへの愛着が深く感じられてならない。 いっぽうハリウッドでも、クリストファー・ノーラン(『ダークナイト』シリーズ『インターステラー』)やスティーブン・スピルバーグ(『ブリッジ・オブ・スパイ』)、そしてクエンティン・タランティーノ(『ヘイトフル・エイト』)といった、強い影響力と発言権を持つ映画監督たちがフィルム撮影を現在も続けることで、同手法への啓蒙がなされている。 ポール・トーマス・アンダーソン監督が『ザ・マスター』(12/撮影:ミハイ・マライメア・Jr)を65mmフィルムで手がけた理由は、舞台となる第二次世界大戦前後の時代がフィルムのスチールカメラで記録され、同時代のイメージがフィルムと同化していることに言及するためだ。 またフィルムは時代性だけでなく、劇中で描かれている舞台の空気や、キャラクターの心境をすくいとって演出する。キャスリン・ビグロー監督のイラク戦争映画『ハート・ロッカー』(08/撮影:バリー・アクロイド)は、戦場における爆弾処理班たちの緊迫したドラマを描いているが、その緊迫感を盛り上げるのは独特の荒々しい画調だ。これは16㎜フィルムで撮影した画を35㎜にブローアップしたもので(使用カメラはAatonのスーパー16㎜撮影用カメラ)、報道映像のようなリアリティに併せ、死を隣人とした主人公ウィリアム(ジェレミー・レナー)の感情をあらわしている。はたしてこれが、デジタルのスキッと鮮明な映像でアプローチできるのだろうか? あるいは現在公開中の『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(15/撮影:ダン・ミンデル)。シリーズの創造者ルーカスが推し進めてきたデジタル撮影の轍を踏まず、フィルム撮影に徹した本作は、単にフィルム撮りだったエピソード1ならびに4から6までのスタイルに倣ったのではない。35mmアナモフィック(歪像)レンズ撮影で得られるフレア効果や、被写界深度の浅いメリハリの利いた画など、監督であるJ・J・エイブラムス(『スーパー8』『スター・トレック イントゥ・ダークネス』)が、フィルム固有の表現にこだわっているからだ。 こうしたこだわりが反映された作品は、いずれはこの「ザ・シネマ」で放映される機会もあることだろう。そのときには是非じっくりと観賞していただき、デジタル興隆のなかフィルムがもたらす映像の意味を、意識しながら確認していただきたい。フィルムかデジタルかを明確に判別できなくとも、直感的に感じ得られるものはあるはずだ。■ ©2008 Hurt Locker, LLC. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2016.01.30
男たちのシネマ愛③愛すべき、ボロフチック監督作品(6)
飯森:最後に、今回はせっかくこういうテーマだったので、ちょっとばかりモザイクの話をしたいと思います。まず、映画屋でありテレビ屋でもある僕は、個人的に映画館とテレビとでは倫理の基準が違って然るべきだと思っているんですが、海外ではどうなんですかね。さすがにテレビでは規制がかかりますでしょ? なかざわ:アメリカの場合で言えば、ネットワークかケーブルかによっても基準が分かれますよね。ケーブルだとモロ出しもありだと思います。 飯森:HBO【注70】とかですかね。 雑食系映画ライター なかざわひでゆき「ダン・オバノン監督『ヘルハザード/禁断の黙示録』(‘91)のドイツ盤ブルーレイを購入。日本盤未収録の特典映像&オーディオコメンタリーてんこ盛りで、まさに至福のひと時を過ごしております」 なかざわ:そうですね、あとはStarz【注71】とか、Showtime【注72】とか、いわゆるプレミアム・チャンネルですよね。ケーブルの基本契約料金に加えて、別料金を支払わないと見れないチャンネル。HBOやStarzのオリジナルドラマだと、女性のヘアや男性器のモロ出しも珍しくありません。親が番組の視聴制限を設定できる仕組みになっているようですし。 飯森:「ウォーキング・デッド」【注73】なんかも、ケーブル局だから残酷シーンの規制がないって聞きますしね。日本の場合ですと、うちも子供がいるからよく分かるんですが、簡単にチャンネルを合わせることが出来るんですよね。さんざん陰毛を映して何が悪いと言っておきながら恐縮ですけれど、我が家で子供がそうしたものを見てしまうというケースが起こり得ると想定すると、それはよろしくないなと思うわけです。 なかざわ:それは確かにその通りですね。 飯森:なので、テレビに関しては仕方がない。我が国では、たとえCS放送であったとしても、リモコンでザッピングすれば子供でも見れてしまう状況ですので。何かしらの対応策は講じなくてはならない。ただ、劇場なりパッケージ商品なり、入口できちんと観客を選別できるものに関しては、日本ももうちょっと進んでいて欲しかったなと残念には思いますね。僕が生まれた日のキネ旬で、ポルノに関して日本はあまりにも遅れていると書かれ、ボロフチックさんにも昔は春画のような素晴らしい文化があったのに酷い有様だねと苦言を呈されていて、それから40年経っても大して変わってはいない。 なかざわ:それもケースバイケースですけれどね。配給会社の姿勢にもよるとは思います。最近であれば、男性器でも勃起さえしていなければモザイクなしでOK…かも?とか(笑)。結局、基準が明確化されていないので、確実に大丈夫なのかどうかは誰もハッキリと太鼓判を押せない。だから、例えば最近だと「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」【注74】なんかはガッチガチに修正されていましたし。もう、今時こんなのアリか!?ってくらい真っ黒でした(笑)。 飯森:あれは話題作でしたから、なおさら神経を使ったんでしょうね。その昔、「黒い雪事件」【注75】という“猥褻と芸術”裁判があったのご存知ですか? 映倫【注76】の審査を通った映画が、わいせつ図画公然陳列罪【注77】で起訴されちゃったんですよ。後出しジャンケンじゃないですか!でもよく考えると、そもそも映倫って公的機関ではない。あくまでもお上とのトラブルを避けるために、これだったら問題ないんじゃないですか、映画館でお客さんに見せても大丈夫だと思いますよ、というお墨付きを与える業界団体に過ぎないんです。だから、先ほどなかざわさんが仰ったように、どこからがアウトなのかは当局の気分次第という側面があるんです。とはいえ、この40年の間にヘアヌードも解禁になったわけだし、男性器でもちょっと写っているくらいなら問題視されなくなりましたけれど。 なかざわ:実際、映画版「セックス・アンド・ザ・シティ」【注78】の日本公開バージョンでも、堂々と男性器が写っていましたからね。 飯森:なんとなく、なし崩し的にはなっているけれど、まだまだ遅れていますよね。 なかざわ:欧米の常識に比べるとですね。 飯森:レイティング【注79】の基準があるんだからいいのでは?とも思うんですけれど。 なかざわ:海外でもそれを基にして、青少年の目に触れないようになっているわけですから。 飯森:とはいえ、やはりテレビは別です。そこは視聴者の方にも理解して頂きたい。自宅に小さな子供がいることを想定すれば分かると思うんですが、簡単にアクセスできてしまいますから。今の時代、インターネットの海外ポルノサイトで何でも見れるじゃないかという声もありますが、それは大人の感覚で、Googleのエロブロックフィルター外して画像・動画検索し、そこまでたどり着ける子供はなかなかいない。テレビの場合は、少なくとも日本だと子供でも見れてしまうので、そこは一線を引かないといけない。テレビは一番保守的であって然るべきでしょうね。 (終) <注70>1972年に創設されたケーブルテレビ局。「ザ・ソプラノズ 哀愁のマフィア」や「セックス・アンド・ザ・シティ」、「ゲーム・オブ・スローンズ」などのドラマを生んでいる。<注71>1994年に設立されたケーブルテレビ局。もともとは映画専門チャンネルだが、近年は「スパルタカス」シリーズや「アウトランダー」などのドラマも放送。<注72>1976年に設立されたケーブルテレビ局。「デクスター 警察官は殺人鬼」や「Lの世界」、「HOMELAND」などの問題作ドラマを次々と放送している。<注73>2010年より米ケーブルテレビ局AMCで放送されているドラマ。ゾンビの蔓延によって文明の崩壊した世界で、僅かな生存者が決死のサバイバルを試みる。<注74>2015年製作。過激な性描写が各国で問題視された。ダコタ・ジョンソン主演。<注75>1965年に公開された日本映画「黒い雪」の関係者が警察に書類送検され、武智鉄二監督が起訴された。69年に無罪確定。<注76>映画倫理委員会。1956年に設立され、映画作品の内容を審査してレイティングを設定する日本の任意団体。<注77>わいせつな図画を頒布し、販売し、又は公然と陳列した者を罰金若しくは科料に処すこと。<注78>2008年製作。同名テレビシリーズの劇場用映画版。ニューヨークに住む大人の女性4人組の恋愛とセックスを描く。<注79>映画やテレビ番組などの内容に応じて、その対象年齢の制限を設定するシステム。 『インモラル物語』"CONTES IMMORAUX" by Walerian Borowczyk © 1974 Argos Films 『夜明けのマルジュ』©ROBERT ET RAYMOND HAKIM PRO.
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COLUMN/コラム2016.01.27
男たちのシネマ愛③愛すべき、ボロフチック監督作品(5)
飯森:本当にこれこそボロフチック監督の実力が遺憾なく発揮された作品だということで、もうちょっと注目されても良かったんじゃないかなと思っているのが「罪物語」なんです。 なかざわ:日本では’81年の劇場公開ですが、実は「邪淫の館・獣人」と同じ’75年に作られている。日本へ輸入されるのがかなり遅かったんですね。 飯森:これがまた、格調高い大河メロドラマみたいな作品なんですよ。今回、うちでこれを放送できるのはとても良かったと思います。あらゆるエロがショーケース的に詰まった「インモラル物語」、当時の大スターを招いてフランスらしい雰囲気を醸し出した「夜明けのマルジュ」、そして重厚な文芸大作と呼ぶべき「罪物語」。ボロフチック監督の多様な作家性を象徴する3つの作品が揃ったわけです。 なかざわ:これは母国ポーランドに戻って撮った映画ですよね。当時のポーランドは共産圏だったので、性的な描写がけっこう問題視されたとも聞いていますが。 飯森:ただね、当時のキネ旬の映画評には「ポルノ解禁度が日本よりずっと進んでいるポーランド(後略)」って書かれているんですよ。 なかざわ:そう言われると確かに、アンジェイ・ワイダ監督【注61】の映画でもけっこう過激なエロ描写があったりしますもんね。 飯森:僕は大学時代に東ヨーロッパを専攻したんですが、助教授の研究室にエロ本が置いてあったんですよ。ベルリンの壁の崩壊前にハンガリーで買ってきたと言っていましたが、ヘアも女性器も丸出しでした。旧東側ブロックというと、各国がそれぞれ共産党の一党独裁体制で、ソ連の指示を仰いでえらく怖い社会だった、表現の自由なんてカケラすらあるわけがない、という印象を持つかもしれませんが、必ずしもそんなことはなかった。特に中央ヨーロッパ。具体的にいうと、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリーの3カ国ですけれど。かつて政治的に東側陣営に属していた、地理的には中欧国ですね。ここはもともと文化先進地域だったんですよ。神聖ローマ帝国【注62】が栄えて、ハプスブルグ家【注63】が君臨して、モーツァルト【注64】が訪れて。例えば、モーツァルトのオペラというのは当然ウィーンで初演されましたが、代表作の中にはプラハで初演されたものもある。それはチェコの話ですけど、ポーランドだってショパン【注65】を生んでますし。もともとポーランドはハプスブルグではないですがヨーロッパの超大国だったし、政治的に開けた、進んだ国だった。だから、その後の歴史で国を分割されたり、ナチスに荒らされたり、解放だと称してやって来た共産軍によってソ連の衛星国に落とされちゃったりしても、そう簡単に先進国だった頃の栄光は消えない。「罪物語」を見ると、そういうことがよく分かります。 なかざわ:確かに、’80年代初頭だったと思うんですけれど、うちの父親がポーランドのワルシャワに出張で行って、街の様子などを撮影してきた写真を見せてもらったことがあるんですけれど、街頭のキオスクで普通にポルノ雑誌を売っているんですよ。中には、ゲイ雑誌なのか分かりませんが、全裸の男性が表紙になっているものもあったりして。もちろんモロ出しですよ。ソ連とは大違いだなと思った記憶があります。 飯森:旧ソ連といいますかロシアは、歴史上、先進国になった経験があんましないんですよね。帝政ロシア【注66】後期にやっとたどり着けたプーシキンとかトルストイとかチャイコフスキーといったせっかくの輝かしい文化的な豊穣も、革命によって自分でぶち壊しちゃったし。まして政治的先進性からはずっと縁遠いまま。せっかくの革命も、ツァーリズムがぐるっと回ってスターリニズムになっちゃったという、悪い冗談のような事態になってしまった。 なかざわ:そもそもロシアという国自体、他のヨーロッパ諸国に比べると歴史が浅いですしね。もともとは未開地ですから。 飯森:帝政ロシア時代の皇帝ツァーリというのも、東ローマ皇帝の後継者を自任しているけど、どっちかって言うと蒙古の皇帝ハーンに似ているという。白人の顔をしているのに、なんともアジアの専制主義【注67】的な政治制度を導入しちゃっている不思議なヨーロッパの国。そもそもヨーロッパなのかどうかも疑問なんですけれど。そんな国が革命によってソビエト連邦を形成して、ちょっとヨーロッパのメインストリームとは違う近代史を歩んできちゃっているから、考え方も独特なんですよね。その前の中世にはずっとモンゴル帝国の奴隷だったし。その点、ポーランドやハンガリーやチェコはヨーロッパの王道の近代史を歩んできたから、ロシアと同じように弾圧したり禁止したりはできない文化的な素地がある。「罪物語」では、そんなポーランドがプロイセン王国【注68】とオーストリア帝国【注69】、そしてロシア帝国によって三分割された時代が舞台になっている。要は、ポーランドという国自体が実質的になくなってしまった悲劇の時代です。ポーランド分割というのは高校時代に世界史の授業で習いますが、この時代のポーランドの様子を描いた映画はなかなかありませんから、それだけでも貴重な作品です。 なかざわ:日本でポーランド映画というと、どうしてもアンジェイ・ワイダとか一部の巨匠の作品しか見る機会がありませんもんね。 飯森:この映画では冒頭にカトリックのお坊さんが出てきて、懺悔に来たヒロインに「あなたはものすごく綺麗で可愛いから、男たちが言い寄ってくるだろうけれど、誘惑に負けちゃだめだ」と釘を刺すわけです。つまり、彼女は誰が見ても美しい汚れなき処女で、男が隙あらば言い寄ってくるくらいの美少女というわけ。そんな彼女に、神父は「自由な性欲に身を委ねちゃダメだよ」と禁圧するわけです。ボロフチック監督って、普段ならこういうものを批判的に描こうとしますよね。自由にやったらいいじゃないかと。でもこの映画だとね、神父の言うことを聞かなかったヒロインは、実家の下宿屋に部屋を借りた胡散臭い男に惚れちゃう。こいつが、どうしようもないクズなんですよ。最初からおかしい。実は俺には妻がいる、でも妻のことはもう愛していない。離婚調停中で近々別れる予定だっていうことで、2人は出来ちゃうわけです。 なかざわ:よくあるパターンですね(笑)。 飯森:はい、つい最近もあったばかりです(笑)。で、結局やっぱり無理でしたと。妻が難条件を突きつけてきたせいで離婚が不成立になりました、って手紙を送りつけただけで姿をくらます。ゴメン、離婚はもうないから諦めてくれってことですね。すると、ヒロインは仕事も手がつかなくなっちゃって、彼を探してヨーロッパ中を追い掛け回すんですよ。つまらない喧嘩から決闘沙汰を起こして死にかけた男を病院に見舞いに行ったり、今度は詐欺か何かで逮捕された男を探してイタリアの刑務所まで行ったり。そうした過程が多言語で描かれる。普段はポーランド語、ロシア領のポーランドにいるから時々ロシア語、イタリアではイタリア語という感じで、セリフの言語も次々と変わる。これぞヨーロッパです!で、とにかくこの男をつかまえて幸せになりたいと奔走しているうちに、ヒロインはどんどん身を持ち崩していくわけです。 なかざわ:ダメだと分かっていても、どうしようもできない人間の性(さが)を描いているんでしょうね。そういう激情こそが、実は人を人たらしめるものなんじゃないですか?という。好きになったら最後っていうのは、恋愛においてよくある話ですし。こればっかりは、理性ではどうにもならない。ダメ男ばかり好きになる女性ってのも実際にいますしね。 飯森:ボロフチック映画の中において、この作品はエロというものがそこまで前面に出ておらず、一番普通の映画の装いをしているんです。主人公を駆り立てて暴走させるものも、今回は性欲ではなくて恋。あくまでも、恋に狂った女が果てしなく堕ちていくという物語になっている。 なかざわ:ボロフチックの懐の深さというか、作家としての幅広さががよく分かりますね。 <注61>1926年生まれ。ポーランドの映画監督。代表作は「灰とダイヤモンド」(’58)、「大理石の男」(’77)、「コルチャック先生」(’90)など。<注62>10世紀~19世紀初頭にかけて、現在の中央ヨーロッパの一帯に存在した国家。<注63>中世から20世紀初頭まで、中央ヨーロッパ各国の皇帝や大公などの権力者を輩出した名門貴族の家系。<注64>ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。1756年生まれ。オーストリアの作曲家。1791年没。<注65>フレデリック・ショパン。1810年生まれ。ポーランドの作曲家。男装の麗人ジョルジュ・サンドとの恋愛でも有名。1849年没。<注66>16世紀半ば~20世紀初頭まで存在した国家。現在のロシアを中心にフィンランドから極東まで支配していたが、ロシア革命で消滅した。<注67>君主が絶対的な権力を有する政治形態のこと。<注68>18世紀から20世紀初頭にかけて、現在のドイツを中心に栄えた王国。<注69>1804~1867年までオーストリアに存在したハプスブルグ家の国家。 次ページ >> 男性器でも勃起してなければモザイクなしでOK…かも?(なかざわ) 『インモラル物語』"CONTES IMMORAUX" by Walerian Borowczyk © 1974 Argos Films 『夜明けのマルジュ』©ROBERT ET RAYMOND HAKIM PRO.
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COLUMN/コラム2016.01.26
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2016年2月】キャロル
舞台は1920年代のニューヨーク。レッド・ニコルズはコルネット奏者として大成功を収め、愛する妻と可愛い娘とともに順風満帆な人生を送っていました。しかしその矢先に娘が難病にかかってしまい、音楽をやめる決断をします。地元で再就職し、家族に寄り添いながら愛に溢れる日々を送るレッドでしたが、やはり音楽への未練を断ち切れず・・・。 「仕事か、家族か」。誰しも一度はぶつかるであろうこの問題は、1920年代当時でも普遍的なテーマだったんですね。レッドは娘のために生きがいだった音楽を手放しますが、かつてレッドのバンドメンバーだったグレン・ミラーは、国を代表する音楽家になった後でさえも、夢よりも実体のある幸せを掴んだレッドの方が羨ましいと言います。 本作を通して感じることは、このテーマに正解はないということ。意地やプライドに邪魔されながらも、周囲の助けを借りながら、何事にも一生懸命取り組むことが大事なんだなぁと前向きな気持ちにさせてくれる一品です。2月のザ・シネマで是非ご覧下さい。 TM, ® & © 2015 by Paramount Pictures. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2016.01.22
男たちのシネマ愛③愛すべき、ボロフチック監督作品(4)
飯森:そんなこんなで、ちょうど“猥褻と芸術”の問題がクロースアップされている時期に、この「インモラル物語」が鳴り物入りで日本へ入ってきたものの、ボロフチックさんはだんだんとそこまでの大きな扱いを受けなくなっていった。でもまだまだ注目はされていた、という時期に日本公開されたのが「夜明けのマルジュ」です。 なかざわ:これはシルヴィア・クリステル【注53】にジョー・ダレッサンドロ【注54】が主演。エマニエル夫人とアンディ・ウォーホル【注55】一派という、当時のまさに旬な顔合わせです。 飯森:特にシルヴィア・クリステルは全盛期でしたよね。 なかざわ:その後に「エアポート’80」【注56】でハリウッド進出もしていますし。ヨーロッパを代表する大物セクシー女優でした。 飯森:これがまた話しづらい映画でしてね。とんでもないネタバレがあるんですよ。ジョー・ダレッサンドロふんする主人公は、フランスの郊外にあるプールもあるような豪邸で、奥さんと可愛い息子と一緒に暮らしていて、お手伝いさんもいるかなり裕福な人物なんです。しかも、奥さんとはやりまくり(笑)。朝一番に花を摘んできてね、全裸でベッドに横たわっている奥さんの体に花びらを撒く。そこに大きな窓から注ぎ込む朝日が、胸の谷間や股間の谷間に花びらの散らばった奥さんの体を美しく照らし出すわけですよ。そんな状態でセックスをする。すごくロマンチックな感じで、いやらしい感じの全くしない、とても綺麗なラブシーンです。性的にも満たされていて、なおかつ小さな可愛い息子までいる。そんな主人公が出張でパリへ行く事になるわけですが、家族に見送られて大都会へやって来た彼が真っ先にすることというのが、赤線地帯で売春婦探しなんです。まあ、別腹ってことなんですかね(笑)。 なかざわ:当時は紳士の嗜みだったのかもしれませんしね。 ■ ■ ■この先ネタバレを含みます。■ ■ ■ 飯森:で、彼の買った売春婦というのがシルヴィア・クリステル。妻ではない女をお金で買って抱きました、ああスッキリした、と。その翌日、彼は手紙を取りに行くんです。もともと事前に家族と約束をしているんですよ。連絡をするならここへ手紙を送ってくれと。で、それをチェックしに行くわけです。すると、案の定手紙が届いている。中身を確認すると、家政婦からで、奥さんが亡くなったと書いているんです!ところが、それを読んだ彼は黙って懐に入れちゃう!そして、またもやシルヴィア・クリステルを探して夜の街をさまよい、そのあとも何度か寝ちゃう!このあたりの展開は、かなり難解かもしれません。なにしろ主人公が何を考えているんだか、さっぱり理解不能なので。 なかざわ:これは20年以上前にビデオで見たきりなので、記憶はかなり曖昧ですね。 飯森:で、ここからがネタバレ全開なんですが、ラストで例の手紙を取り出してもう一度読むんですよ。すると、息子も死んだってことが書いてある。あの可愛い息子が自宅のプールに落ちて死んじゃって、それで半狂乱になった奥さんが衝動的に自殺したというのが事の全貌だったわけなんですが、我々観客には奥さんが死んだ部分しか明かされていなかったわけです。それまで売春婦と何度もやった主人公は、夜が白々と明けていく中、車の中でその手紙を改めて読みながらさめざめと泣いて、次の瞬間にバーンと銃声がこだまして終わり。恐らく自殺したんでしょう。何を言いたいのか分かりづらい映画です。で、当時の監督のインタビューを読むと、実は奥さんとシルヴィア・クリステル演じる売春婦が似ているという設定らしいんですね。奥さんが死んじゃったことで気が動転した主人公は、瓜二つの売春婦を抱くことで現実逃避しようと思ったらしいんですよ。でも、映画に出てくる奥さん役の女優とシルヴィア・クリステルは全然似ていない。だから、インタビューを読んでビックリしました。 なかざわ:他人の空似じゃないですけれど、その人にしか分からない共通点みたいなものはあるんでしょうけれどね。 飯森:でもそれは映像として描かないとダメですよ!シルヴィア・クリステルに聖女と娼婦の一人二役やらせるとか。あと、時系列も本来は違ったみたいですね。原作だと出張へ向かっている最中に訃報が届くらしいんです。なので、家族がみんな死んじゃったと分かった状態で、それでもパリへ行って夜の街をさまようという話になっているようなんですね。でも、映画だと単に出張先でハメを外して女遊びしたところ、その翌日に奥さんの訃報が届いて、それでも遊びを続けた挙句、改めて手紙を読むと息子も死んでいたことが分かり、あの家にはもう誰もいないからということで自殺する。そういう、ちょっと理解しがたい作りになっています。どうやら原作では、手紙で奥さんが死んだという一文を見つけて、動転のあまり手紙を畳んで読まなかったらしいんですよ。 なかざわ:すると、そもそも手紙をちゃんと読んではいなかったわけですね。 飯森:ともかく、驚くくらい唐突な展開の映画なんですけれど、ボロフチックさんにとっては勝負作だったのではないかなという気もします。なにしろ、プロデューサーのレイモン・アキム【注57】も、キネマ旬報のインタビューで「第二の『ラスト・タンゴ・イン・パリ』【注58】以上のものです」と豪語しているし(笑)。少なくとも、「エマニエル夫人」を上回る!くらいの意気込みで作られたのではないかと思いますね。 なかざわ:確かに主演も美男美女の旬なスターを揃えているし、作品のテイストにしても薫り高き文芸映画という趣ですから、ここでひとつ評価を固めておきたいという野心はあったのかもしれないですね。なにしろ、「インモラル物語」や「邪淫の館・獣人」で好奇の目に晒された後ですし。 飯森:とはいえ、そこまでの評価は得られなかった。当時はベルトルッチやポランスキー【注59】に続く逸材として将来を嘱望されていたようですが、このあとは次第に「結局ポルノの人なんでしょ?」みたいな扱いをされてしまう。 なかざわ:キワモノ系の監督なんかと一緒にされてしまった感はありますね。 飯森:ただ、今お話したような裏話的な解釈を踏まえた上で見ると、いろいろな謎解きとかメタファーに満ちた映画のようにも思えるんですよ。深読みを楽しめる奥の深い作品だとも言えます。あとはシルヴィア・クリステルですよ。彼女がとんでもなく美しい!格調が高いというか。彼女の場合、服を着てる時より脱いだ時の美しさですよね。裸身が高貴! なかざわ:彼女は当時のポルノ女優の一般的なイメージとは一線を画す存在ですよね。儚げだし、体も華奢だし。グラマラスからは程遠い。竹久夢二【注60】のイラストに描かれてもおかしくない。 飯森:そういう意味では、日本人受けするタイプかもしれませんね。その究極の女体美を堪能するという一点においてもオススメです。 <注53>1952年生まれ。映画「エマニエル夫人」(’74)で世界中に大旋風を巻き起こした。2012年没。<注54>1948年生まれ。ヌード・モデルを経てアンディ・ウォーホルに見出され、彼のアングラ映画に次々と主演して’70年代サブカルチャーの申し子となる。<注55>1928年生まれ。アメリカの芸術家でポップ・アートの生みの親。絵画や音楽、映画にまでその才能を発揮し、彼の取り巻きグループからはモデルのイーディ・セジウィックやキャンディ・ダーリン、ジョー・ダレッサンドロなどのスターが生まれた。<注56>1979年製作。映画「エアポート」シリーズの第4弾。超音速旅客機コンコルドがミサイルに狙われる。アラン・ドロンとシルヴィア・クリステルが主演。<注57>1909年生まれ。フランスの映画製作者。兄のロベールと共同で、「望郷」(’36)や「太陽がいっぱい」(’60)、「昼顔」(’67)などの名作を手がける。1980年没。<注58>1972年製作。主演のマーロン・ブランドとマリア・シュナイダーの大胆な性描写が物議を醸した。ベルナルド・ベルトルッチ監督。<注59>ロマン・ポランスキー。1933年生まれ。ポーランドの映画監督。代表作は「反撥」(’65)、「ローズマリーの赤ちゃん」(’68)、「テス」(’80)、「戦場のピアニスト」(’02)など。<注60>1884年生まれ。日本の画家。アンニュイな美人画で知られる。1934年没。 次ページ >> 『罪物語』…俺には妻がいるがもう愛してない、離婚調停中で近々別れる予定、という、よくあるパターン 『インモラル物語』"CONTES IMMORAUX" by Walerian Borowczyk © 1974 Argos Films 『夜明けのマルジュ』©ROBERT ET RAYMOND HAKIM PRO.
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COLUMN/コラム2016.01.20
人の死が蔓延した時代に生まれた、グラフィックノベルのような『夜明けのゾンビ』
21世紀に入り、ゾンビ系ゲームの人気と共にゾンビ映画が量産され、さらに伝説的なカルト映画『ナイト・オブ・リビング・デッド/ゾンビの誕生』(1968)、そして数多くの熱狂的信者を生みつつ、のちのゾンビ映画やゾンビ系ゲームに多大な影響を与えた名作『ゾンビ』(1977)等を生んだジョージ・A・ロメロ監督は、多くのリスペクトを浴びて“リビングデッド・サーガ”の待望の新作を発表した。と同時に、それまでの鈍い動きしか見せなかったゾンビとは異なり、敏捷性と怪力をも兼ね備えた現代型ゾンビが登場する作品も多数作られたのが印象深かった。 そして、ゾンビ熱が冷めかかった2011年に製作された『夜明けのゾンビ』は、ゾンビ映画としてはかなりの異色作だ。ゾンビ映画のほとんどの時代設定が現代か近未来だが、南北戦争終焉の1865年から始まる物語。 なぜ、ゾンビと南北戦争なのか?と推測してみると、南北戦争開戦から、ちょうど150年の節目でもあるし、スティーヴン・スピルバーグ監督のメジャー大作『リンカーン』が2012年公開のため、タイミングをちょうど見計らった(または便乗するともいう)という穿った見方もできる(ちなみに2012年には、南北戦争末期を舞台にした『リンカーン vs ゾンビ』なる低予算映画も作られた)。でも死が隣り合わせの戦争と“ゾンビ=生ける屍”を交錯させることで、生と死が混沌とした時代を表現したかったとも解釈できる。 とはいえ、ゾンビが人肉に咬みついて皮膚を引き裂くような描写は少なからずあるが、内臓をむんずとつかみ出したり、肉や骨が剥き出しになった咬傷に、これでもかとカメラが寄って露骨なグロさを強調することはない。あくまでアメリカ史にゾンビが存在したという時代を表現したかったのだろう(だからゾンビ映画にありがちな、グチャグロな描写はほぼ皆無なので、それらを期待してはダメです)。 それは、随所にグラフィック的なアニメを挿入していることからも伝わってくる。これには、アニメで表現した異色ドキュメンタリー映画『戦場でワルツを』(2008)の影響が少なからずあると思う。この映画は、アニメ表現の可能性及び多面性を大きく広げたといってもいい。 『夜明けのゾンビ』は、ヤング家に代々受け継がれてきた日記が残されていて、末裔のマルコム・ヤング(『X-MEN2』『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』のブライアン・コックス)が語る形式になっている。いうなれば、彼がナレーションの役目を担っているわけだ。 南北戦争を生きのびたエドワード・ヤング(TVシリーズ『HEROES Reborn/ヒーローズ・リボーン』のマーク・ギブソン)の葛藤と死闘の日々が、序章から第7章にかけて描かれる。 南北戦争が終わって6年後、墨絵のように薄暗く、寒々とした山林の中に居を構えたエドワードだが、2日間狩りに出ている間に妻がゾンビに咬まれてしまい、ゾンビ化した妻を撃ち殺してしまった。しかも11歳の愛息アダムが行方不明に! エドワードは、地獄のような世界で、いつゾンビになるかもしれないため、自らが生きた証しを残そうと全てを記録しはじめた。そこにはゾンビの弱点とか、動作が鈍い特徴も記しておいた。そして、馬にまたがって愛息アダム捜索の旅に出ると、日々ゾンビが増えていることに気づき、ゾンビになった息子を発見する。アダムを撃ち殺した彼は、生前息子と一緒に行きたがっていたエリスの滝に、息子の遺灰を撒くために旅を続ける……。 大自然を背景にエドワードの姿がナレーションと共に語られるため、常に客観的な視点で映ることになる。エドワードのアップを捉えていても、淡々と語られるナレーションに耳を傾けながら、エドワードの言動を静かに見つめる感じだ。しかしエドワードやゾンビらが自然の中を徘徊するその映像が、時折見事なグラフィック映像のように映し出される。それらが、随所に挿入されたアニメと共に編集されて、一連の流れの中に紡ぎ出されると、映画全体がある種のグラフィックノベルのように見えてくる。 グラフィックノベルとは、表現のみならず、アート志向の絵柄で構築された大人向けのコミックスのこと。今までは『ロード・トゥ・パーディション』(2002)や『ヒストリー・オブ・バイオレンス』(2005)等、グラフィックノベルの原作が映画化された作品はたくさんあったが、その逆、映画というメディアを使ってグラフィックノベルのような形式にした作品は珍しい。果たしてそれが、作り手の真意かは定かでないが、本作の新鮮な驚きはそこにこそあると思う。 エリスの滝を目指すエドワードの前に、ゾンビ以外に様々な人間が現れる。南軍の残党の将軍ウィリアムズ(『悪魔のいけにえ2』『マーター・ライド・ショー』のビル・モーズリィ)は、北軍に多くの部下を殺されて気がふれてしまい、腹心の部下2人とジョンソン軍医を従え、強姦や略奪を繰り返し、人をさらってきてはゾンビ免疫を探し続けていた。ゾンビ免疫さえ手に入れば、ゾンビの群れを引き連れ、“元南部を奪い返す”という途方もない謀略を抱いている。人をさらうのは、ゾンビ研究とゾンビ免疫を探すため。将軍ウィリアムズは、唾液が血流に侵入することで感染することを突きとめていて、ゾンビは決して自然現象ではなく、人間が作ったものだとわめき散らしている。 将軍ウィリアムズらに誘拐された妹のエマ(TVシリーズ『HELIX―黒い遺伝子―』のジョーダン・ヘイズ)を奪い返そうと考えるアイザックは、エドワードに協力を要請する。 そしてエドワードやアイザックを助けるのが、森の中で孤独に静かに暮らしている女祈祷師イブ(『ハウリング』『E.T.』のディー・ウォーレス)だった。しかも彼女は、ゾンビ誕生の秘密を握っていた。さらに彼女が隠し持っていた巻物には、世界各地で数世紀に渡って、ゾンビの事例があることが記してあった。古代アフリカでは、部族の聖職者が巻物を使い、死者を蘇らせていた。その1200年後、ヨーロッパ人が廃墟の下から、その巻物を発見し、自らを神と思い込んだ者たちが、“人間の生き死に”を操ろうとした。その過程で、何千もの命、あるいは魂が奪われたのだ。ゾンビの伝説は全て繋がっていて、先の事例から250年後、奴隷船で感染が起きた。元々邪悪な目的のための奴隷船は、やがて7つの海に呪いを広げていった。こうしてゾンビは、感染力と傲慢な者たちによって増殖していったという。 人間の邪悪な歴史的事件において、ゾンビが必ず関わってきたことを匂わせている。ゾンビがあるところ、人間の邪悪さが蔓延しているという証しか。 エドワード、アイザック、エマ、イブがそれぞれの痛みを感じていて、その痛みが彼ら自身に“生”への実感を与えている。確かに“生”を最も強く感じる瞬間は、恐怖や死を間近に感じる時である。筆者がホラー映画を愛するのは、緊迫感溢れる恐怖を描くと同時に、そこに“生”への執着を感じるためだ。 エドワードは言う。「この恐怖の中でも変わらない、自然の美しさに驚いた。久しぶりに生きていることを実感できた……」 末裔マルコム・ヤングのナレーションがこう語る。「世界は痛みに溢れている。いつの世も変わらない。だが大したことではない。周囲の人々が、生きる喜びを教えてくれる……」 そして、こう付け加えた。「歴史とは、生存すること。暗闇に包まれた人生、傷ついた心の日々。他に生きがいはないのか。金色の夕陽や滝の水のきらめきでもなかった……だが今は、全て違って考えることができる。ゾンビが彷徨う世界でも、希望を失わない限り、なんだって可能になる」 『夜明けのゾンビ』は過去の時代が舞台であるが、世界に不穏な空気……徐々にキナ臭くなっている今の映画でもある。“ゾンビ=生ける屍”にならないため、希望を持って生きること。作品からそんなメッセージ性をほのかに感じ取ることができる。■ ©2011 Foresight Features Inc.
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COLUMN/コラム2016.01.16
男たちのシネマ愛③愛すべき、ボロフチック監督作品(3)
飯森:そろそろ「インモラル物語」の話題に移りましょうか。これはセックスにまつわる4つの短編で構成されたオムニバス映画ですが、第1話の「満潮」というのがフェラチオの話なんですよね。この中でいきなり、可愛い女の子の唇のドアップが映る。先ほど述べた、肖像画がポッと出てくるような独特のテンポ感で、ワイド画面いっぱいに唇が写るんです。これは何なんだろう、という気がするんですよ。ボロフチックさんは、女性の体は本当に美しいんだ、それをフィルムに収めたかったんだということを語っているので、単純に引いて美しく寄っても美しいという理由だけなのかもしれないですが。 なかざわ:そもそも彼は、被写体=オブジェクトに対して強い執着というか、こだわりがあったみたいですね。なので、自分の映画に出てくる小道具や美術セットも、重要なものは彼自身がデザインをして作っていたらしいんですよ。彼の映画には、自分が好きなものや興味あるもの、こだわっているものだけで完璧な世界を作り上げたいという執念のようなものを感じます。以前に見た’83年撮影のインタビュー映像で、一番好きなのは短編アニメーションを作ることだと言っていました。なぜなら、他人とコラボレーションをする必要がないから。自分だけで全てをコントロールし、支配できるからなんでしょう。 飯森:「インモラル物語」でも、監督だけじゃなく撮影、編集、美術とか、何でもかんでも自分でやっていますよね。 なかざわ:そう、だからボロフチック以外の撮影監督や美術デザイナーが仮にクレジットされていたとしても、彼らは監督から指示されたことを実行するだけの人たちに過ぎないらしいんです。ボロフチック作品のイギリス盤ブルーレイ・シリーズには、初期短編時代から携わってきたスタッフのインタビュー映像が収録されているんですけれど、彼らの話によるとボロフチック作品においてスタッフが自分のアイデアを持ち込むということは、一番やっちゃいけないことだったみたいですね。良かれと思って照明の位置を変えるとか。監督の意図に沿わないものは全てやり直しさせられる。彼の頭の中では具体的なディテールに至るまでビジョンが既に出来上がっていて、あとはスタッフに命じてそれを再現するだけ、ということなんでしょうね。 飯森:ただ、もともと僕は変にアートぶった難解至極な映画ってあまり好きじゃなくて、うちで放送しないからぶっちゃけて言っちゃいますけれど、そういう意味でボロフチックさんの「愛の島ゴトー」も実は苦手なんですが、そんな僕でも「インモラル物語」は非常に楽しく見ることができる。なにか特別に言いたいことがあるわけじゃなくて、ただひたすら美しくエロを撮りたかっただけじゃないのかなって思うんです。 なかざわ:人間の営みとしてのセックスであったり、欲望としてのセックスであったりと、そのまま包み隠さずに描くことが恐らく目的ではないかなとも思います。そこに何かしらの、理に適ったストーリーを求めちゃいけない。 飯森:第1話の「満潮」にしたって、「お前ちょっとフェラしてくれよ」ってことで、可愛い従姉妹を連れて海へ行き、しゃぶってもらって、はいスッキリした、はいオシマイ!っていうね(笑)。ただ、例えばフランスのノルマンディ地方の荒涼としたような海辺の家から2人が連れ立って行く姿とか、自転車で坂を登り詰めていくと突然目の前にバーンと海岸が広がる様子とか、一つ一つのシーンのどれを取っても極めて美しく撮られている。それだけで大いに満足できるんですよ。あれが「インモラル物語」の中では一番無内容なエピソードなのかな、恐らく。 なかざわ:そうですね。 飯森:その次の第2話「哲学者テレーズ」というのも、これまたこれで無内容だった。厳格なカトリックの家庭に育てられている女の子が、大したことじゃないんだけど外出して遊んできたところを母親に見つかって、反省しなさい!ということでお仕置き部屋に入れられる。で、最初はしおらしく泣いているんだけれど、そのうちやることなくて独りエッチを始めるという、延々それだけを映している話です。 なかざわ:一応、宗教的な要素は強いですけれどね。 飯森:そうですね、ボロフチックさんは宗教も嫌いだったのかもしれない。宗教的な人たちが出てきて、そんなことやっちゃいけません!と言うような展開はよく出てきますよね。でも、そんなこと言ったってやりたいものはやりたいんだよ!と。「修道女の悶え」も同様ですが、やるなって言う方が無理な話じゃないですか、というのが彼の基本的なスタンスなんでしょう。 なかざわ:ポーランドという共産圏に生まれ育ったという、彼自身のバックグランドも影響しているかもしれません。 飯森:ポーランドは共産圏でありながら熱心なカトリック国ですからね。だからロシア語と似た言語なのにアルファベットがキリル文字じゃなくてローマ字なんです。ローマ教皇のヨハネ・パウロ2世【注43】もポーランド出身でしたしね。そういう国なので、共産党への反発なのか、それとも厳格なカトリシズムへの反発なのか、それとも単に抑圧的な権力のメタファーとして描いているのか、そのへんは定かじゃないんですけれど。 なかざわ:個人的には、カトリック教会への反発があるようにも感じます。彼はグラフィック・デサイナーとして、長いこと共産党プロパガンダのポスターを作っていましたから、さほど共産主義の理念に対して抵抗を持っていたようにも思えないので。 飯森:いずれにせよ、女性が欲望を催して、自らの指で処理するまでの過程を、丁寧かつ美しく描いた「哲学者テレーズ」は、出歯亀的な好奇心をそそるという意味でも興味深く見ることができます。で、その次からですよね、凄いことになるのは。第3話「エルザベット・バトリ」の題材はバートリ・エルジェーベト【注44】という、中世のハンガリーに実在した女性貴族。“血の伯爵夫人”として有名で、よくホラー映画の題材にもなります。ハマー・フィルム【注45】の「鮮血の処女狩り」【注46】とか。 なかざわ:若い処女の血を浴びて自らの若さを保つという。 飯森:ただこの伝説、話が話なだけに、どうしてもエログロなトラッシュ映画【注47】になりがちで。村中の処女という処女を集めてきて虐殺し、その血で満たされたバスタブに浸かったらお肌がツルッツルになった美魔女、という、まさに悪趣味としか言いようのない伝説なわけですから。でもそれをボロフチックさんが描くと、一気にハイレベルなアートになってしまう。村の若い娘達をさらってきて、一堂に集めて裸にした時の、髪の色の違い、胸の形の違い、乳首の色の違い、あとテレビでは見せられませんが陰毛の色の違い。それらがまさに十人十色で、女性の裸体というのは集団になるとこれほどまでに個性的で美しいのかと驚かされます。 なかざわ:そういえば、バートリ・エルジェーベトの話は、中田秀夫監督【注48】の「劇場霊」【注49】でも描かれていましたよね。劇中劇ですけれど。 飯森:あと彼女が着ているドレスなども、トルコ支配の影響を受けた、いかにもハンガリーらしい東西折衷の独特のエスニックなテイストがあって、西欧文化圏との違いがよく分かります。絢爛たる歴史絵巻の風情ですよ。 なかざわ:しかも演じているのはパロマ・ピカソ【注50】。あのパブロ・ピカソ【注51】の娘です。本業は確かファッション・デザイナーだったと思いますけれど。 飯森:演技力のあまり要求されない役柄ですからね。セリフもないですし。で、最後の第4話「ルクレチア・ボルジア」がルクレツィア・ボルジア【注52】の話ですね。ボルジア家の乱れに乱れた、それこそ近親相姦までやっているような、権力者の性の倒錯を描いている。 なかざわ:親子でサンドイッチ3Pしちゃいますからね。しかも、パパはローマ教皇。 飯森:にも関わらず、批判めいた感じがあまりない。最後には教会の腐敗を大声で糾弾していた修道士が処刑され、それと交互するようにルクレツィアが近親相姦で産んだ子供の誕生をにこやかに祝福する姿が描かれているのだけれど、一体どっちを悪者として捉えているのか分からない。つまり、近親相姦で乱交3Pしている方を批判的に見ているとは思えないんです。それこそ、楽しげにやってるね♪くらいのノリで。逆に、説教台の上からヒステリックに「バチカンは腐っている!」って叫んでいる奴の方を、グロテスクに描いているように見えるわけです。 <注43>1920年生まれ。在位期間は’78年~’05年。2度の暗殺未遂事件も話題になった。’05年没。<注44>1560年生まれ。自らの若さと美貌を保つため、農村の若い処女を次々と殺害しては、その血を浴びていた。有力な名門貴族だったため、その残虐行為は見逃されていたが、被害者の脱走がきっかけで逮捕され有罪となった。1614年没。<注45>’50年代~’70年代に一世を風靡したイギリスの映画会社。ホラー映画やSF映画で人気を博した。<注46>1971年製作。実の娘の若さと美貌に嫉妬した中年の貴婦人が、村の若い娘たちを殺してはその血の風呂に浸かり、まんまと若返ることに成功する。イングリッド・ピット主演。<注47>文字通りトラッシュ=ゴミ映画のこと。一部のコアな映画マニアは、親愛の情と皮肉を込めて低予算のB級C級映画をそう呼ぶ。<注48>1961年生まれ。日本の映画監督。代表作は「リング」(’98)、「仄暗い水の底から」(’02)など。リメイク版「リング2」(’05)でハリウッド進出。<注49>2015年製作。舞台劇の小道具に使われる呪われた人形が、次々と関係者を殺していく。<注50>1949年生まれ。ティファニーの宝飾デザイナーとして知られる。<注51>1881年生まれ。スペイン出身の20世紀を代表する世界的な芸術家。1973年没。<注52>1480年生まれ。ルネッサンス期のイタリアを支配したボルジア家の出身で、汚職で悪名高いローマ教皇アレクサンデル6世の娘。1519年死去。 次ページ >> 『夜明けのマルジュ』…家族に見送られ都会へやって来て真っ先にするのが赤線で売春婦探し 『インモラル物語』"CONTES IMMORAUX" by Walerian Borowczyk © 1974 Argos Films 『夜明けのマルジュ』©ROBERT ET RAYMOND HAKIM PRO.