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COLUMN/コラム2017.10.15
多重人格(?)ジョニー・トー監督の本領発揮作『MAD探偵 7人の容疑者』〜10月05日(木)ほか
香港。西九龍署のバン刑事は、人が内に秘めた人格を察知する特殊な能力を持つ刑事。さらに被害者や加害者の状況を疑似体験して事件の真相を知ることで、数々の難事件を解決してきた有名刑事である。しかしバン刑事の異常行動は、事件捜査の際だけでなく、署長退任時に自身の右耳を切り取ってプレゼントするなどエスカレート。バン刑事は、状態的に奇行を繰り返すようになっていき、ついには精神病と診断されて警察も追われてしまった。 『MAD探偵 7人の容疑者』は衝撃的かつ不可解な始まり方をする映画だ。説明が極力省略されていることで、バン刑事の周囲で起こる異常な状態と異常な行動を、観客はバン刑事の周囲の人物たちと同様に「一体何が起こっているのか?」という目線で見始めることになる。 5年後、バンのもとにホー刑事がやってくる。ホー刑事は新人刑事時代に、バンと共に殺人事件を担当し、その衝撃的な捜査スタイルが強く印象に残っており、今自身が担当している事件への協力を依頼したのだ。その事件とは“ウォン刑事失踪事件”。1年半前のある夜、同僚のコウ刑事と共に窃盗事件の捜査中だったウォン刑事は、犯人を追う中で山中で姿を消した。しかしウォン刑事の拳銃が複数の強盗事件で使用され、4人の死者も出る事態となっていたのだ。ウォン刑事の生死も不明な中で事件捜査は難航し、担当のホー刑事はバンに助けを求めたのだった。 バンはコウ刑事を見るなり、コウ刑事が内面に秘める7人の人格を察知。ウォン刑事失踪事件の犯人は、コウ刑事であることを断定する。突飛で不可解な行動を繰り返しながらも事件解決に向けて少しずつ前進するバンを理解しようと努力するホー刑事だったが、バンはホー刑事の警察手帳と拳銃を持ち去って勝手に捜査を開始してしまう事態になってしまい……。 バンの持つ能力は、サイコメトリー能力(残留思念を読み取る能力)であり、ビジュアライズされたテレパシー能力(相手の考えていることが分かる能力)。サイコメトリーと言えばデヴィッド・クローネンバーグの『デッドゾーン』(83年)を想起するが、『デッドゾーン』と違ってその能力の具体的な裏付けの説明が一切ないため、バンが超能力者なのか、実はただのサイコパスなのかは最後まで明確にされることは無いというのが特徴的な作品。 監督はジョニー・トーとワイ・カーファイのゴールデンコンビ。主役のバン役には目力が強力な野性味あふれるラウ・チンワン。バンに事件解決依頼をしたために本当にひどい目に遭うホー刑事役には、アクション映画で実力を発揮するアンディ・オン。事件の当事者であるコウ刑事役は、香港の蟹江敬三ことラム・カートン。ビジュアライズ化されたコウ刑事の7人の人格役にはラウ・カムリン、ラム・シュー、チョン・シウファイらが配役されている。 89分というタイトな映画であるが、中身がギュウギュウに詰まった映画で、ラウ・チンワンが同じ食べ物を何度も注文する食事シーンや、ラウ・カムリンの立ちションシーンなど印象的なシーンの目白押し。メキシカン・スタンドオフが炸裂するドラマティックなクライマックスと、唐突に終わる間抜けにもほどがあるラストのコントラストは衝撃的だ。 さて、本作の監督であるジョニー・トーは、もちろんご存じの通り香港を代表する世界的な監督であるのだが、筆者はトー監督もまた多重人格なのではないかと疑っている。 ジョニー・トーは1955年生まれの62歳。香港の九龍に生まれたトーは、17歳の時に香港最大のテレビ局TVBでアシスタントとしてキャリアをスタートする。翌年にはバラエティ番組のディレクターとして演出家デビュー。数々のテレビ番組やテレビドラマを演出した後、1980年には『碧水寒山奪命金』で映画監督デビュー。1989年にはチョウ・ユンファ主演の『過ぎゆく時の中で』を監督し、スマッシュヒットを飛ばす。アンディ・ラウの『raiders レイダース』(91年)やチャウ・シンチーの『チャウ・シンチーの熱血弁護士』(92年)など、若手の有望株の主演作を次々と監督し、その実力を認められたトー監督は、1993年に香港版『チャーリーズ・エンジェル』とも言うべき『ワンダー・ガールズ 東方三侠』を監督。アニタ・ムイ、ミシェル・ヨー、マギー・チャンという美女三人が大活躍するアクションコメディは大ヒットを記録し、同年中に続編も制作されている。また第二次世界大戦中の中国空軍兵のラブロマンス『戦火の絆』(96年)、ラウ・チンワンと初タッグを組んだ消防士アクション映画『ファイヤーライン』(96年)と、佳作を量産体制に入る。また1996年には、TVBでプロデューサーとして活躍していた同い年のワイ・カーファイと銀河映像を設立しており、トー監督作品はこの銀河映像で制作されることになる。 1998年、名曲『上を向いて歩こう』をバックに敵対する組織に属する殺し屋2人の絆を描く『ヒーロー・ネバー・ダイ』(98年)で、カルト的な人気が爆発。さらにヤクザの親分のボディガードたちの死闘と友情を描く『ザ・ミッション 非情の掟』(99年)で、香港電影金像奨の最優秀監督賞を受賞して完全に覚醒する。『ヒーロー~』と『ザ・ミッション』で新世代香港ノワールの旗手として完全に認識されたトー監督だったが、翌年には盟友ワイ・カーファイと共同監督した『Needing You』が香港で凄まじい大ヒットを記録する。本作はアンディ・ラウと歌手として大活躍するサミー・チェンがドタバタを繰り返しながら接近していく様子を描く胸キュンラブコメディで、トー監督が香港ノワールの監督とレッテルを貼っていたファンは度肝を抜かれることとなる。 さらにアンディ・ラウとサミー・チェンを続けて起用した、香港版『ナッティ・プロフェッサー/クランプ教授の場合』とも言うべき『ダイエット・ラブ』(01年)を発表。特殊メイクで激太りさせた主演2人のドタバタ喜劇は、またまた大ヒットしている。 香港ノワールの巨匠、ラブコメの帝王の名を欲しいままにしたトー監督だったが、その後は日本から反町隆史を招いて制作された『フルタイム・キラー』(01年)を発表。アンディ・ラウが謎日本語を駆使し、謎が謎を呼ぶ悪夢のような展開によって、ヘンテコ映画として認識されることになる。さらに2003年にはジョニー・トーのヘンテコ路線の究極系である『マッスルモンク』を発表。未見の読者には是非観て頂きたいのであるが、とにかく凄まじく変な映画で、前半のスチャラカコメディタッチのデタラメ展開から、後半のシリアス展開へのギャップも凄く、唖然とすることを請け合いの怪作である(しかし本作は香港電影金像奨で13部門にノミネートされ、最優秀作品賞を受賞するという快挙を成し遂げる……謎である)。 ここで「ジョニー・トーもすっかり変な監督になっちまったな……」と思わせておいて発表されたのが『PTU』(03年)。香港警察特殊機動部隊の一夜を描く『PTU』は、改めてトー監督の実力を満天下に知らしめる大傑作。香港電影金像奨で10部門にノミネートされ、トー監督は最優秀監督賞を受賞している。かと思えば同年には金城武主演の軽いテイストのラブコメディ『ターンレフト・ターンライト』(03年)を発表。2003年にはノワール、ラブコメ、ヘンテコの3作品を発表しているのだ(さらにSARSでパニックになった香港を励ますために『1:99 電影行動』も監督している)。 その後もヘンテコ路線として『柔道龍虎房』(04年)、『強奪のトライアングル』(07年)、『僕は君のために蝶になる』(08年)を、ノワール路線として『ブレイキング・ニュース』(04年)、『エレクション』シリーズ(04年~)、『エグザイル/絆』(06年)、『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』(09年)を、さらにラブコメ路線として『イエスタデイ、ワンスモア』(04年)、『単身男女』(11年)、『香港、華麗なるオフィス・ライフ』(15年)を監督している。 さらにこの3つのジャンルをそれぞれミックスしたようなハイブリッド作品として、『MAD探偵 7人の容疑者』(ノワール+ヘンテコ)のような作品も発表する。3つのジャンルを縦横無尽に行き来しながら年に3本も4本も映画を監督し、しかも次々と傑作・怪作・ヒット作を連発するという芸当は並みのことではない。こんな作品を発表し続けるトー監督は、やはり多重人格なのではないかと思うのだ。■ © 2007 One Hundred Years Of Film Company Limited All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2017.10.10
【再掲載】3つの『ブレードランナー』、そのどれもが『ブレードランナー』の正しい姿だ!
例えば『ゾンビ』のように、公開エリアによって権利保持者が違ったため、各々独自の編集が施されたケースもあれば、『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズや『アバター』のように、劇場公開版とは別の価値を持つものとして、DVDやBlu-rayなど制約のないメディアで長時間版を発表する場合もある。 『ブレードランナー』もそれらのように、いくつもの別バージョンが存在する作品として有名だ。しかし、先に挙げた作品とは「発生の理由」がまったく異なる。いったいどのような経緯によって、同作にはこうしたバージョン違いが生まれたのだろうか? なぜバージョン違いが生まれたのか? それは最初に劇場公開されたものが「監督の意図に忠実な作品ではなかった」というのが最大の理由だ。 映画の完成を定める「最終編集権」は、作品を手がけた「監督」にあると思われがちだ。しかし、その多くは作品の「製作者」が握っており、監督が望む形で完成へと到らないケースがある。『ブレードランナー』もまさしくそのひとつで、1982年に劇場公開された「通常版」は、製作者の権利行使によって完成されたものなのだ。 当然、それに納得いかなかったのが、監督のリドリー・スコットである。醇美にして荘厳な映像スタイルを自作で展開させ「ビジュアリスト」の名を欲しいままにする希代の名匠。そんな完璧主義の鬼が、自らの意図と異なるものに寛容であるはずがない。そう、もともと『ブレードランナー』は、リドリーの意図に忠実に編集されていたのである。しかし製作側が完成前にテスト試写をおこない、参加者にアンケートをとったところ、以下のような驚くべき意見が寄せられてしまったのだ。 「映画に出てくる単語や用語が難しい。“レプリカント”って何? そもそも“ブレードランナー”って何なの?」 「ラストが暗すぎる。デッカード(ハリソン・フォード)とレイチェル(ショーン・ヤング)は、あの後どうなったの?」 こうした意見に製作側が戦々恐々となったのは言うまでもない。そして収益に響いては困るとばかりに、編集に修正を加えるのである。「用語が難しい」という問題には、劇中にわかりやすいナレーションを入れることで対応し、そして「ラストが暗い」には、「レイチェルには限られた寿命がなく(レプリカントは4年しか生きられない)、ふたりは生き延びて仲良く暮らしました」とでも言いたげなハッピーエンド・シーンを追加した。 しかし、今となっては考えられないことかもしれないが、こうした製作側の配慮もむなしく、『ブレードランナー』はヒットには到らなかったのである。 何が問題だったのか? それは懸念された「内容の難解さや暗さ」ではなく、ダークなセンスこそ光る本作を「SFアクション劇」で売ろうとした製作側の大きな宣伝ミスだったのだ。そして皮肉にも、その退廃的な未来図像や哲学的なストーリーが目の利いた映画ファンから絶賛され、『ブレードランナー』は年を追うごとに注目を集め、マスターピースとしてその名を高めていくのである。 ■「ディレクターズ・カット/最終版」(1992年)の誕生 商業性を優先した製作側に、作品を曲解されてしまったとリドリー・スコット監督は考えていた。作品の評価が高まるにつれ、彼は今そこにある『ブレードランナー』が、自分の意図どおりのものでないことにジレンマをつのらせたのである。そして「いつか私の『ブレードランナー』を作る」と、来るべき機会をじっと待っていたのだ。 そして、ついにその祈願が果たされるときがやってくる。1991年、ワーナー・ブラザースが同作のファンの需要に応え、「通常版」の前のバージョンの公開を局地的に展開していた。そう、リドリーの意向に沿った編集版だ。 それに対してリドリーは、 「あの編集バージョンはあくまで粗編集で、未完成のものだ。公開を承認することはできない。これはビジネスの問題じゃなくて芸術の問題だ」 と、公開にストップをかけたのだ。そしてワーナーに対し、ある代案を呈示したのである。 「監督である私の意図にしたがい、新たに編集したものならば公開してもいい」。 この代案が受け入れられ、編集権はリドリーに譲渡される形となった。そしてリドリーは自分どおりの、新たな編集による『ブレードランナー』を発表することになったのだ。それが「ディレクターズ・カット/最終版」である。 ■「通常版」と「ディレクターズ・カット」、ここを見比べよう! 監督の意図に忠実な「ディレクターズ・カット/最終版」は、「通常版」に入れられたナレーションをすべて取り払い、そして最後に追加されたハッピーエンド・シーンも削除したバージョンだ。そこには監督の「混沌とした未来像をありのままに受け止めてほしい」という演出プランが息づいている。 こうした点にこだわりながら、改めて両バージョンを見比べてほしい。ナレーションのない「ディレクターズ・カット/最終版」は、耳からくる情報収集で聴覚を奪われないぶん、視覚を集中して働かせられる。そのため、映像が放つインパクトをより強く受け取ることができるのだ。公開当時、革命的で前代未聞といわれたデッドテックな未来像。その視覚的ショックを、監督の思う通りに実感できるという次第だ。 さらにリドリーは「ディレクターズ・カット/最終版」に新たなショットを付け加えることで、観客がこれまで抱いてきた『ブレードランナー』の固定観念を覆すことに成功している。それが「森を駆けるユニコーン(一角獣)」のイメージ・シーンである。 デッカードが見る「夢」として挿入されるユニコーンの映像。それは彼の同僚ガフ(エドワード・ジェームズ・オルモス)が捜索現場に残した「折り紙のユニコーン」と重なり合う。デッカードの脳内イメージを第三者であるガフが知っているということは、「デッカード自身もレプリカントなのでは?」という疑念を観る者に抱かせるのだ。そしてその疑念こそが「ディレクターズ・カット/最終版」の、もうひとつの変更点=“ハッピーエンドの否定”へとリンクしていく。 「ならば『通常版』は、監督の意図と違うからダメなのか?」 と訊かれれば、それはノーだ。「通常版」固有のナレーションは、1940?50年代に量産された「フィルム・ノワール(犯罪映画)」や「ハードボイルド小説」のスタイルを彷彿とさせる。『マルタの鷹』や『三つ数えろ』『ロング・グッドバイ』など、主人公が自身の行動や考え、感情をストーリーの流れに沿って口述する文体は、フィルム・ノワール、特にハードボイルド小説の「探偵ジャンル」に顕著なものだ。そうした古来の語り口を介することで、『ブレードランナー』もまた「孤独な主人公が犯罪者を追う」古典的な物語であることを認識させてくれるのである。 そういう観点からすれば「通常版」は“未来版フィルム・ノワール”として独自の価値を持つものであり、監督が思うほど「ディレクターズ・カット/最終版」に劣るものでは決してないのである。 ■さらに作品を極めたい?そして「ファイナル・カット版」(2007年)へ リドリーは紆余曲折を経て、自分の意向に沿った『ブレードランナー』を世に出すことに成功した。だが、それだけでは満足しないのがアーティストの性(さが)だろう。「さらに極めたものを作りたい」という思いは、完璧主義者としての彼の奥底に深く根を張っていたのだ。 そうした自身の思いと、多くのファンの作品に対する支持はワーナー・ブラザースを動かした。同社は『ブレードランナー』公開から25周年を迎えるにあたり、改めて同作の権利契約を結び、“究極”ともいえる「ファイナル・カット版」の製作にゴーサインを出したのである。 「ファイナル・カット版」は、基本的には前述の「ディレクターズ・カット/最終版」をアップデートしたものだ。なので「通常版」→「ディレクターズ・カット/最終版」に見られたような大きな違いはなく、下記のようにディテールの修正が主だった変更点である。 【1】撮影・編集ミスによる矛盾の修正 撮影ミスや編集ミスで、カットごとに違うものが映し出されるシーン(不統一な看板の文字など)や、または矛盾を生じるセリフの修正などが徹底しておこなわれている。特に代表的なのは、ブライアント(M・エメット・ウォルシュ)がレプリカントに言及するセリフで「(6体の逃亡したレプリカントのうち)1匹は死んだ」としゃべっていたものを、「2匹が死んだ」と変えている場面だ。これはデッカードが追う残り4体のレプリカント(ロイ、ゾーラ、リオン、プリス)の数に合致させるための変更である。 あるいは修正のために、新たに映像素材を撮影したシーンもある。デッカードに撃たれたゾーラが倒れるシーンで、スタントの代役が如実に分かるミスショットがあるが、ゾーラ役のジョアンナ・キャシディを招いて撮ったアップショットを代役にリプレイスメント(交換)することで解決へと導いている。また人口蛇をめぐってデッカードがアブドルと話すシーンでの、声と口の動きが一致していない問題点には、ハリソン・フォードの実子ベンジャミン・フォード(お父さんそっくり!)の口もとを合成し、同様に解決されている。 【2】特殊効果シーンの一部変更ならびに修正 オプチカル(光学)による合成ショットのブレや、シーンによって左右反転するデッカードの頬傷メイク、あるいはスピナーが浮上するさいに見える、吊り上げるためのワイヤーなど、ミスや製作当時の技術的な限界を露呈した点がデジタル処理で修正されている。またバックプレート(背景画像)が大きく入れ替えられている部分もあり、たとえばロイの死の直後にハトが飛び去るショットは、前カットとの連続性を持たせるために晴天から雨天へとレタッチされ、下部分に写る建造物も新たにデジタル・ペイントされて、違和感をなくしている。 【3】未公開シーンの挿入 デッカードがゾーラを訪ねるシークエンスで、繁華街に登場するホッケーマスクのダンサーなど、未公開だったショットが追加されている。またユニコーンのシーンも1ショット追加され、それにともないデッカードのアップにユニコーンのショットがインサートされる編集処理となり、ユニコーンのシーンはディゾルブ(オーバーラップ)でなくなった。 すべてのバージョンが『ブレードランナー』である ! そう、1982年の『ブレードランナー』初公開から四半世紀の間に、映画の世界には大きな変革が及んだ。「デジタル技術」の導入により、そのメイキング・プロセスや作品の仕上がりに高いクオリティが与えられたのだ。監督とスタッフは「ファイナル・カット版」作成に際し、オリジナルの本編シーン35mmネガ、そして視覚効果シーンの65mmと70mmオリジナルネガをスキャンしてデジタルデータに変換し、すべての編集や修正をコンピュータベースでおこなっている。 その結果、同バージョンは「ディレクターズ・カット/最終版」と比較(あるいは「通常版」と比較)しても、とにかく映像の美しさという点で勝っている。デジタルによる高解像度のスキャンによって、これまでの別バージョンに較べて画面の隅々までが明瞭に見えるようになったし、照明効果の暗かった場面の光度や輝度をデジタル処理で上げることで、暗部に隠れた被写体の可視化に「ファイナル・カット版」は成功している。 また映像面だけでなく、サウンドにおいても微細に加工が施されている。セリフ、効果音、スコアそれぞれのトラックからノイズをデジタルで消去し、それらをリミックスして響きのいい音を提供している。またナレーションを排したために、ところどころで音の隙間が出来てしまった場面においても。スピナー飛行時の通信ノイズや街の雑踏など新たなサウンドエフェクトで補っているのだ。 こうした丹念な修正作業と、リドリー・スコット監督の執念によって、「ファイナル・カット版」は『ブレードランナー』の“完成型”といえるものに仕上がった。とはいえ、デジタルという態勢下で加工された「ファイナル・カット版」に対し、あくまでフィルムベースで存在する「通常版」「ディレクターズ・カット/完全版」の“映画らしい質感”を称揚する者も少なくない。なにより私(筆者)自身、作家性を重んじる立場から「ファイナル・カット版」に感動しつつも、「最初に劇場公開されたものこそオリジナル」という主義でもあるので、すべてのバージョンを観るたびに心が揺れる。だからどの『ブレードランナー』を支持するかは、観る者の嗜好によって一定ではないだろう。 しかし、誰がいかなるバージョンに触れたとしても、やはり『ブレードランナー』という作品そのものが持つ「魅力」と「偉大さ」を、改めてすべての人が感じるに違いない。■ 【3月放送日】 『ブレードランナー』…5日、25日 『ディレクターズカット/ブレードランナー 最終版』…11日、29日 『ブレードランナー ファイナル・カット』…20日、26日 『(吹)ブレードランナー ファイナル・カット』…20日、26日 『デンジャラス・デイズ/メイキング・オブ・ブレードランナー』…5日、20日 TM & © The Blade Runner Partnership. 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COLUMN/コラム2017.10.09
26世紀青年
2005年のある日。米軍勤務(といっても最前線で戦う兵士ではなく、軍事基地の資料室で受付係をしている)ジョー・バウアーズは、極秘の人体実験への参加を命じられる。その内容とは1年間の冷凍睡眠。「一般人は冷凍睡眠に耐えられるのか」を実証するために、最も平均的なスペックを持つジョーが選ばれたのだ。彼は渋々ながら、やはり平均的な女性リタ(但しその正体は起訴処分取り下げを条件に実験に応じた売春婦)とともに眠りについた。ところが実験の存在は忘れられてしまい、ふたりが目覚めたのは500年後のことだった。 そこでジョーが見たものは、ジャンクフードとTVとセックスにしか興味のない未来人とゴミの山。21世紀に入って、優秀な人間が子どもを作ることに慎重になった一方で、バカは相変わらず避妊せずにセックスして子どもをバンバン作ったことで<逆自然淘汰>が起こり、人類はバカばっかりになってしまっていたのだ。合衆国政府はタコベルに買収され、スターバックスは風俗チェーンに業態変更。テレビでは男がひたすら金玉を痛めつけられる「タマが痛い」が高視聴率を獲得し、尻だけがひたすら映し出される映画がアカデミー賞を独占していた。 そんな中、ジョーは不審人物として逮捕されてしまう。だが連れていかれた先は刑務所ではなくホワイトハウスだった。理由は逮捕時に受けたテストでの信じられない高得点。大統領は、深刻な食料危機の解決をジョーに命令する。しかし彼は26世紀では世界一の天才でも、あくまで普通の男にすぎないのだ……。 『26世紀青年』は、ピクサーが2008年に放った大ヒットアニメ『ウォーリー』を2年も先駆けて公開されたディストピアSFコメディだ。二作は、長い時空を超えてきた平凡な主人公にゴミの山、そして退化した未来人など設定の多くが共通している。しかし家族揃って見られる『ウォーリー』と比べると、未来人の醜悪さがこれでもかと言うほどリアルに描かれているため、毒は遥かに強烈だ。 監督と脚本を手掛けたのは、『サウスパーク』に多大な影響を与えた『ビーバス&バットヘッド』(93〜97年)や『キング・オブ・ザ・ヒル』(97〜10年)といったシニカルなアニメで知られる鬼才マイク・ジャッジ。脚本にはジャッジのアニメ作品に参加してきた右腕的存在のイータン・コーエンも参加している。 徹底的に普通の男ジョーを演じたのは、『キューティ・ブロンド』シリーズ(01〜03年)や『Gガール 破壊的な彼女』(06年)といった作品でのイイ人ぶりが印象に残るルーク・ウィルソン。リタ役に『SNL』出身で、ポール・トーマス・アンダーソンのパートナーとしても知られるコメディエンヌ、マヤ・ルドルフ、未来社会の弁護士フリート役に『ザスーラ』(05年)の宇宙飛行士役で注目されたばかりのダックス・シェパードが扮している。メガヒットとは言わないまでもスマッシュ・ヒットが期待出来そうなメンツだ。 ところが映画は2005年に完成したにもかかわらず、製作会社の20世紀フォックスは1年以上塩漬けに。翌年やっと公開を決めたものの、試写会を一切開催しなかったばかりか、予告編すら作らなかった。そして全米130スクリーンだけでひっそりと上映し、さっさと打ち切ってしまったのだった。『26世紀青年』は闇へと葬り去られたのだ。 製作会社のそんな不可解な対応に対し、マイク・ジャッジのファンから怒りと疑問の声があがった。やがてある噂がネット上を飛び交い出した。20世紀フォックスは、系列のFOXニュースに配慮して『26世紀青年』を実質お蔵入りにしたのではないか? FOXニュースは、CNNのライバル局として1996年に設立されたニュース専門チャンネルだ。中立的な報道を行なうCNNに対して、FOXニュースは、「彼らはリベラルに偏向している。我々こそが中立」と主張。アメリカ人に都合が良いニュースばかりをオンエアした。そしてアメリカ同時多発テロ事件を機にCNNを視聴率で逆転したのである。 そんな局にとって『26世紀青年』のどこが都合が悪いのか? それは映画で描かれる未来人たちの姿にある。昼からビールを飲みまくり、プロレスやストックカーレースが大好きな彼らは明らかに現代のプアホワイト(白人低所得者層、ホワイト・トラッシュとも呼ばれる)を戯画化したものだった。そしてFOXニュースのメインターゲットこそがそのプアホワイトだったのだ。 噂が本当なら、マイク・ジャッジは「FOXニュースばかり観るとバカになるよ」と主張する映画を、こともあろうに総本山で撮ってしまったことになる。当のジャッジはというと、インタビューで「シークレットで行った試写の結果がものすごく悪かったと製作会社から言われた」と発言している。個人的にはその可能性はゼロではないと思う。マイク・ジャッジとイータン・コーエンはそれぞれエクアドルとイスラエル生まれの移民なので、プアホワイトの知り合いはいないはずだ。だが観客の多くを占めるヨーロッパ系白人の場合、もし本人がそうでもなくても親戚の誰かがプアホワイトであってもおかしくない。彼らは未来どころではない醜悪な現在を再確認してゲンナリしてしまった可能性もある。もっとも事実は藪の中なのだけど。 『26世紀青年』はそんなわけで興行的に失敗に終わったものの、ジャッジはT.J.ミラーをスターにしたコメディ・ドラマ『シリコンバレー』(14年)を大成功させ、イータン・コーエンは『トロピック・サンダー/史上最低の作戦』(08年)や『メン・イン・ブラック3』(12年)の脚本を手がけたあと、ウィル・フェレルとケヴィン・ハートの共演作『ゲット・ハード/Get Hard』(15年)で監督デビュー。フェレルがシャーロック・ホームズに扮する『Holmes and Watson』(18年)でも監督と脚本を手がけるなど、いずれもアメリカン・コメディ界のキーパーソンになりつつある。 一方、アメリカ合衆国はというと、2009年にティーパーティー運動が勃興。初の黒人大統領となっていたバラク・オバマがアメリカ国籍を持っていないとか、イスラム教徒だというデマを撒き散らすようになった。彼らの裏付けのない主張には共和党主流派も批判的なほどだったが、やがて共和党はティーパーティー的な考えに飲み込まれていった。 その結果が、2016年大統領選における共和党候補ドナルド・トランプの勝利である。『26世紀青年』でテリー・クルーズが演じるバカの塊のような合衆国大統領コマーチョは元プロレスラーでポルノ俳優という設定だったが、トランプもプロレス団体WWEに参戦経験があり、ヌードビデオ「プレイボーイ・センターフォールド」に出演したことがある。プアホワイト好みのこうしたメディアに露出することによって、人気者になって大統領にまでなってしまった点においてトランプとコマーチョは瓜二つなのだ……いや、黒人のコマーチョは人種差別は行っていないようなのでトランプの方がヒドいかもしれない。 『26世紀青年』の原題は『Idiocracy(IdiotとDemocracyを合成した造語、バカ主義とでも言うべきか)』という。トランプが大統領選に当選した際にメディアは一斉に「アメリカはIdiocracyの国になってしまった」と嘆き、10年前の上映以来、久々に『26世紀青年』に注目が集まったのだった。しかも今回は「現在を予言した黙示録的映画」として。もっともマイク・ジャッジはインタビューでこう答えたようだ。「僕は預言者なんかじゃないよ。だって予言の時期を490年も外しちゃったんだからね」 © 2006 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2017.10.05
「ロシアSFアクション大作」を開拓した記念碑的作品『プリズナー・オブ・パワー 囚われの惑星』〜10月10日(火)ほか
■ロシア映画史上最大規模のSFファンタジー ロシアのSF映画で即座に思い浮かぶ作品というと、未だにアンドレイ・タルコフスキー監督の『惑星ソラリス』(72)や『ストーカー』(80)あたりが、日本人の一般的認識として幅を利かせているような気がしてならない。もちろん、これらが歴史的名作であることは言を俟たないが、我が国におけるロシア映画の市場が先細りしている影響もあって、最近の作品があまり視野に入ってこないのも事実だ。 しかし2000年代を境に、ロシアではハリウッドスタイルのスケールの大きな映画が興隆を成し、SFジャンルも観念的でアート志向なものばかりではなく、エンタテインメントに徹した作品が量産されている。 こうしたロシアの映画事情の様変わりは、2004年製作のダークファンタジー『ナイト・ウォッチ』に端を発する。同作を手がけた監督ティムール・ベクマンベトフが、当時小さく散らばっていたロシア国内の特殊効果スタジオをひとつにまとめ、大型の作品にも対応できる製作体制を整えた。これはジョージ・ルーカスが『スター・ウォーズ』(77)を手がけ、視覚効果スタジオの大手であるILM(インダストリアル・ライト&マジック)設立をうながし、後のSPFX映画のムーブメントを発生させたのと同じ流れである。つまり映画技術のインフラ整理によって、ロシアは「エンタテインメント大作」としてのSF映画の開発に勢いをつけたのだ。(『ナイト・ウォッチ』『デイ・ウォッチ』に関しては、今冬の「シネマ解放区」にて解説の予定) この『プリズナー・オブ・パワー』も、日本円にして約37億という、当時のロシア映画史上最高額の製作費をかけた大作SFとして公開され、国内で20億円という興行成績を記録している。「それ、赤字じゃないのか?」と思われるだろうが、本作は全世界展開を視野に入れた作りをほどこし、さらに21億円という外貨を稼いでいるのである。1シークエンスにつき1セットという豪華なセット撮影や、完成度の高いCGに支えられたVFXショットの数々。バルクールを取り入れた肉体アクションはハリウッドにも劣らぬものとして観る者の目を奪い、また音楽も当初は『ダークナイト』『パイレーツ・カリビアン』シリーズなどハリウッドアクションスコアの巨匠ハンス・ジマーが担当する予定だったというから、世界市場に打って出ようとする、その本気の度合いがうかがえるだろう。 なにより専制君主の強大な権力を打ち負かそうとする自由な主人公は、ハリウッド映画のヒーローキャラクターを彷彿とさせるものだ。この明快さこそが、本作を「ロシアSFアクション大作」たらしめる牽引力といっていい。 ■ストルガツキー兄弟の小説に最も忠実な映画化作品 しかし意外にも、この『プリズナー・オブ・パワー』、物語に関してはロシアらしいメンタリティを強く放っている。原作は同国を代表するSF文学の大家・アルカージー&ボリス・ストルガツキーの手による長編小説『収容所惑星』。ストルガツキー兄弟は前述したタルコフスキーの『ストーカー』や、2015年の「キネマ旬報」外国映画ベスト・テンで6位に選出されたアレクセイ・ゲルマン監督の『神々のたそがれ』(13)など、映画との関わりは深い。 ただ『ストーカー』や『神々のたそがれ』が原作と大きく異なるのに比べ、『プリズナー・オブ・パワー』は意外にも、原作にほぼ忠実な形で映画化がなされている。こうした大作ともなれば、原作は名義貸し程度であるかのごとく大幅に改変されるが、ストルガツキー原作映画の中でも、最もその世界観に肉薄したものとなっているのだ。 とはいえ、原作と異なる点もなくはない。たとえば主人公マクシム(ワシリー・ステパノフ)の容姿は、映画では青い目をしたブロンド髪だが、原作では黒い瞳のブルネットだ。そして彼の乗る宇宙船は、映画だと小惑星との衝突によって破壊されるが、原作では自動対空砲で撃墜されている。またマクシムは惑星サラクシの住人の言葉を自動翻訳機を通じて理解するが、原作では徐々に現地語を覚えていくのである。 他にもクライマックスでは、国家検察官ユニーク(フョードル・ホンダルチュク)が責任を回避するため自ら死を選ぶが、原作における彼の最後は不明のままになっているし、マクシムと影の統治者ストランニック(アレクセイ・セレブリャコフ/原作では〈遍歴者〉と呼称)との壮絶な一騎打ちも、原作だと淡白な話し合いにとどまり、過激なアクション展開は映画の中だけのことだ。もっとも、これらあくまでディテールの差異にすぎず、物語を大きく激変るようなアレンジではない。 それよりも原作に忠実であるがゆえに、映画も出版当時の社会主義を批判する内容となっているところに注目すべきだろう。マクシムが敵対する惑星サラクシは、政府が「防衛塔」と呼ぶ電波塔からコントロール波を流し、国民を従属させている全体主義国家だ。彼らの服装にはナチス・ドイツのような意匠が見られるが、根底にあるのは社会主義国時代のソ連の姿である。 ロシアNIS貿易会の機関紙「ロシアNIS調査月報」の連載ページ「シネマ見比べ隊」で、記事担当者である佐藤千登勢は、 「保守派政党である統一ロシアの党員である監督が、面と向かってロシア批判をするはずがない。なので惑星サラクシの独裁体制をナチス・ドイツ的に描くことで、反体制的なメッセージをカモフラージュしているのではないか?」 といった旨の考察をしている。確かにそのような考えも成り立つが、この映画の場合は単純に、ストランニックの「ドイツ語をしゃべる地球人」というキャラクター設定にリンクさせたり、また世界展開を視野に入れた作りのため、わかりやすい悪役像としてナチス・ドイツの意匠が用いられたのだと考えられる。 ちなみにこの『プリズナー・オブ・パワー』の監督を務めたフョードル・ホンダルチュクは、名作『戦争と平和』(66)『ネレトバの戦い』(69)で知られる俳優セルゲイ・ボンダルチュクの息子で、姉は『惑星ソラリス』でケルヴィン博士の妻を演じた女優、ナタリヤ・ボンダルチュクという芸能一家の出身である。『プリズナー~』以降は、スターリングラード攻防戦をソ連軍の視点から描いた戦争アクション『スターリングラード 史上最大の市街戦』(13)など、統一ロシア党員らしい作品を手がけたりしているが、『パシフィック・リム』(12)のキービジュアルを模したポスターであらぬ誤解を受けた戦争ファンタジー『オーガストウォーズ』(12)や、今年公開された侵略SF『アトラクション 制圧』など、ロシア映画のエンタテインメント大作化に寄与している監督だ。自身の政治的スタンスがいかにあれ、今いちばん評価が待たれる作家といっていいだろう。 ■「インターナショナル版」と「全長版」との違い ところで、この『プリズナー・オブ・パワー』には「インターナショナル版」と、ロシアで公開された「全長版」がある。日本で公開されたのは前者で、ザ・シネマで放送されるバージョンもそれに準ずる。後者は第一章『Обитаемый остров(有人島)』と第二章『Схватка(武力衝突)』の二部からなる構成なのだが、上映時間の総計は217分と「インターナショナル版」より97分も長い。 こう触れると、やはり気になるのは後者の存在だろう。なので両バージョンの相違をここで具体的に記したいのだが、とにかく当該箇所が多いので、大まかに触れるだけに留めておく。なんせ開巻、いきなりマクシムが惑星に不時着するオープニングからして縮められているし、他にも「全長版」はマクシムが牢獄で再会するゼフ(セルゲイ・ガルマッシュ)が収監される経緯や、ストランニックを筆頭とする高官のいびつな人間関係、あるいは政府軍の軍人だったガイ(ピョートル・フョードロフ)が支配の陰謀を知り、マクシムと共に戦おうとする改心のプロセスなどがスムーズに描かれている。加えて同バージョンでは、マクシムとガイの妹ラダ(ユーリヤ・スニギル)が互いに心を通わせていくところを丁寧に描き、捕虜となった彼女を救う意味がきちんと納得できる編集になっているのだが、「インターナショナル版」ではそのあたりが完全に削り取られ、唐突感の否めない構成になってしまっている。 他にも政府がテレビや新聞などメディア報道を徹底的にコントロールし、厳しい統制をおこなっている描写も広範囲にわたって削られているし、ミサイル攻撃を受けたマクシムとガイが政府の潜水艦に潜入し、軍のミュータント虐待を知る重要なシーンも「インターナショナル版」にはない。 このように列記していくと、「インターナショナル版」はドラマ部分をタイトにまとめ、アクションシーンに重点を置いたバージョンのように感じるだろう。しかし、そのアクションシーンも実のところ、かなり刈り込まれているのだ。特にカフェの出口でマキシムが暴漢に襲撃され、それを見事に返り討ちにするアクションシーンは、2009年の「ロシアMTVムービーアワード」で「ベストアクション賞」を獲た名場面でありながら、後半部がかなり短縮されているのだ。加えてクライマックスの凄絶な戦車戦も「全長版」より3分短かくされ、その編集の暴威はとどまるところをしらない。 放送に合わせたコラムなので、本来ならば「無駄な部分を削ぎ落としたぶん、すっきりして見やすい」とフォローしたいところだが、作品を深掘りしていく「シネマ解放区」の趣旨からすれば、正直「インターナショナル版」は短くなってしまったことで、かえって映画が分かりにくくなっている点を主張せねばならない。現状では権利の関係もあって「全長版」の放送は難しいようだが、いずれは朗報を伝えることができるかもしれない。ともあれ、ひとまず今回放送の「インターナショナル版」に優位性を指摘するならば、日本ではDVD(SD画質)でしかリリースされていない本作を、HDで観られる点にある。ハリウッド映画に拮抗するそのゴージャスな作りは、HDで観てこそ価値を放つ。その満足感たるや『惑星ソラリス』で時代が止まっていた人の、ロシア製SF映画に対する認識を一新させるに違いない。 ちなみに「全長版」にはないが「インターナショナル版」にある要素も存在しており、それがアヴァンタイトルを経て登場する、コミック調のオープニング・クレジットだ。擬音に日本語のカタカナ表記が使われているのと、ラダが日本のアニメやコミックに登場しそうな巨乳美少女に描かれているなど、いかにも海外市場に目配りしたかのような映像だが、そうではない。じつは本作、映画化に合わせてコミックスが刊行され、いわゆるメディアミックス的な展開が図られている。つまりあのオープニングタイトルの絵は、本作のコミック版なのである。序文を原作者のボリス・ストルガツキーが手がけ、映画以上に原作の精神を受け継いでいるとのこと。機会があれば、そのコミックス版も読んでみたいものだ。■ ©OOO “BUSSINES CONTACT”.2010
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NEWS/ニュース2017.10.05
9月9日公開。クリストファー・ノーラン監督待望の新作『ダンケルク』監督来日記者会見レポート!!
▼登壇ゲスト 監督:クリストファー・ノーラン ファン代表:岩田剛典(EXILE/三代目J Soul Brothers) 日時:2017年8月24日(木) 場所:六本木アカデミーヒルズ タワーホール 司会:荘口彰久(以下司会) 通訳:今井美穂子 作品の巨大垂れ幕が印象的な記者会見会場。クリストファー・ノーラン監督を紹介するVTR上映後、監督本人が登壇。 司会:『ダークナイト』『インセプション』のクリストファー・ノーラン監督が初めて実話に挑んだ最新作『ダンケルク』。今見ていただいた映像やプロデューサーのエマ・トーマスさんが言っていたように、新たな究極の映像体験できる、まさにノーラン監督の最高傑作と言える作品です。いち早く全世界で公開されて、大ヒットを記録しておりますが、すでに多くのメディアでアカデミー賞を有力視されております。早速ご紹介しましょう。大きな拍手でお迎えください。『インセプション』以来、7年ぶりの来日を果たされました。クリストファー・ノーラン監督です。 クリストファー・ノーラン監督(以下監督):皆さん、今日は誠にありがとうございます。今回7年ぶりの来日となるわけですが、再び日本に来れてとても光栄に思います。訪れる場所としては世界の中でも一番好きな国のひとつです。日本の観客の皆さんにこうやって新作を届けることができ、ワクワクした気持ちでいっぱいです。 質問1:圧倒的な映像体験と臨場感がある作品と感じました。この作品は実話ということもあり、臨場感のある映像に込めた思いは? 監督:歴史的な史実に基づく映画を作るのは初めてですので、かなり徹底的にリサーチを重ねました。ダンケルクにいた方々の証言を聞き、入念に彼らの実体験を調べていきました。緊迫感溢れる映画、観客がまるで当事者であったかのような疑似体験できるような映画を作りたかった。作品を撮るにあたり、帰還兵たちの証言を集めている史学者のジョシュア・レヴィーンさんに歴史アドバイザーとして参加して頂きました。この映画を企画していく中で、まだご存命でダンケルクを体験された方々をジョシュアさんが紹介してくださり、彼らにインタビューすることができました。直接お話を聞くことができ、非常に心揺さぶられるものがありました。実際に彼らの実体験、体験談は反映されていて、脚本を書いていく上で取ったアプローチは、架空の人物に彼らの体験談を語ってもらう、そういう手法を取りました。 質問2:この作品は戦争映画ではつきものである残虐なシーンがあまり描かれていない印象です。今回そのような手法を取られた理由は? 監督:今回なぜその手法を取らなかったのか、つまり血を見せなかったのか。それはダンケルクの話は、他の戦争とそもそも性質が違うからです。これは戦闘の話ではなくて撤退作戦なわけです。この物語を語る手法として、サスペンススリラーを描くというアプローチを取りました。従来の戦争映画であれば、戦争がいかに恐ろしいか、目を背けたくなるホラーとして語る手法がありますが、ダンケルクはホラーではなく、サスペンスを語るという手法にしました。目をそむけたくなるどころか、目が釘付けになってしまう、そういうアプローチを取っています。この作品にある緊張感は他の戦争映画とはちょっと違うモノだと思います。グロテスクなもの、敵の姿さえも見せていません。これはサバイバルの話であり、何かジリジリと寄ってくる敵の存在感を感じさせる、そういう手法でサスペンスフルな映画にしています。そして何よりも、タイムリミットがあるという部分も非常にこの作品を緊迫感あるものにしています。 質問3:監督はスピルバーグやジョージ・ルーカスがお好きと伺っております。本作の製作にあたってまたは、同じフィルムメーカーとして彼らから影響を受けたことは? 監督:スピルバーグ監督やルーカス監督から影響は受けています。僕が7歳の時に見た『スターウォーズ』は、非常に決定的な出来事でした。映画を撮ることとなる私にとって非常に影響を受けました。またスピルバーグ監督は、自身が持っていた『プライベート・ライアン』の35ミリのプリントを貸してくださいました。それをスタッフ全員で観させて頂き、非常に参考になりました。今見ても名作ですし、この作品と競争するわけにはいかないと思いました。スピルバーグ監督が『プライベート・ライアン』で成し遂げた緊張感というのは、私たちが『ダンケルク』で狙っている緊張感とは違うこともわかりました。またスピルバーグ監督は水上で撮影する時はどうしたらいいのかという、貴重なアドバイスもたくさん下さいました。ジョージ・ルーカス監督やスピルバーグ監督に加え、ヒッチコック監督、デビッド・リーン監督の影響も受けています。監督として重要だと思うのは、彼らがどういったことをどのようにして成し遂げたのか、これを学ぶということです。これらを参考にして自分の映画作りをしていくということが大事だと思っています。 質問4:世界中で対立が深まっている中、あえて逃げるという題材を選んだ監督の思いは? 監督:映画の作り手として、世の中で起きていることに影響を受けずにはいられないので、少なからず映画の中に反映されているかもしれませんが、故意にそうしているのではありません。世の中で起きていることを描くためにモチーフ使って描き、あるいは説教するというつもりは全くありません。今日の世界は、個人の業績などをもてはやす傾向にありますが、そうではなくみんなが協力し合ってできるものの偉大さ。『ダンケルク』は英国人であれば昔から聞いている物語であり、みんなで力を合わせればどんな逆境でも超えることができるということを思い出させてくれる話なんです。この話はイギリスのみならずどんな文化圏であっても、どんな地域の方々でも共感してもらえると思います。~ノーラン監督のファン代表、EXILE/三代目J Soul Brothers 岩田剛典さんが登壇~ 司会:目の前にノーラン監督がいらっしゃいます。今の気持ちどうですか。 岩田さん:感激です。本物のノーランだと思って。すごく光栄です。この作品は本当に今までのノーラン作品とテイストもどれも違いますし、実話をもとに作られた作品ということで、いい意味でノーランっぽくない作品なのかなと思って拝見しました。作品が始まってすぐ5秒くらいで一気に戦場に連れていかれる。本当に自分があたかも戦場にいるかのような、VR体験じゃないですが、そういう疑似体験をさせてもらえる、映画ならではの表現というか、そういうところも細部までこだわってらっしゃって。エンターテインメント作品でもあり、本当にドキドキハラハラさせられる映画っていう意味ではテーマ性というのは抜きにしても楽しめるし、登場人物ひとりひとりにストーリーがあるので共感できる作品と思いました。監督:どんな年齢の観客でもご堪能いただけるような映画になっていると思いますが、特に若い世代に訴えかけるような映画になればと思います。キャスティングをする上でも、ハリウッドにありがちな、例えば40歳の俳優に若い兵士役をやってもらうとか、そういうことはやりたくなかった。実際、戦場で戦っていたのは18歳、19歳、20歳そこそこの兵士でしたから、色んな若者を見てきました。例えばドラマスクール、演劇学校に行ってスカウトしたり、まだ駆け出しの若い俳優さんを見てみたりと。キャスティングするにあたって、映画初出演という方々にも出てもらっています。これは非常に大事なポイントでした。戦場の現実というものを見せていかなければならないと思ったからです。自分の年齢の人たちがこういう現状を突き付けられていた現実を共感していただければと思います。 司会:岩田さんはインタビューの中で、ノーラン監督が「頭の中をのぞいてみたい人ナンバー1」とおっしゃっていました。 岩田さん:監督の作る作品は、完成図を想定してどう作り上げていくのかというところを、結果がわかった上で逆算して作っているようなイメージをもっています。その映像を撮るにあたって色んなインスピレーションや表現したいものが明確になっていないと、色んなスタッフ、や様々な人の協力がないと形にすることが難しいと思います。それをハリウッドで毎回、作りたいものを作っているという監督は本当に稀有な存在と感じています。この人の頭の中どうなっているだろうと。才能がうらやましいです。 監督:優しいお言葉ありがとうございます(笑)。監督業の面白いところは、何かひとつのことに秀でてなくても構わない(笑)。やるべきことは自分の興味を持った対象、思ったことだとか、やり遂げたいことをやるのに、才能ある人々を集めればいいわけです。彼らの意見やと視点を束ねる、これが監督業の仕事だと思います。つまり、色んな意見に一貫性を持たせるということ。カメラに例えるならばレンズの部分かもしれません。色んな視点の焦点を定めるというとことだと思います。それがうまくいけば、洗練された映画ができると思います。映画のビジョンをうまく明確にし、様々なパズルを一緒にくっつけ合わせるという作業です。他の職業に例えるならば、例えば建築家。図面をスケッチするのは建築家であっても、実際に現場で働くのは色んなスタッフであるわけです。あるいは才能あるミュージシャンを束ねていく、楽団の指揮者にも似ているかもしれません。 司会:岩田さん、せっかくですので監督に質問はありますか? 岩田さん:シンプルに、現場感を大切にされる監督だと伺っていて、いつもモニターというよりは、カメラのすぐわきでディレクションされているそうですが、作品作りで最も重点を置いていることというか、大切にしているポイントを伺いたいと思います。 監督:映画作りは色んな段階を経て完成します。撮影当初は、みんなエネルギッシュで意気揚々と取り組めて、現場は楽しいです。撮影がしばらく続くとそのうち疲弊して、皆疲れ切った状態になりますが、それが終了すると今度は編集です。撮った映像をどういう風につなぎ合わせて、どういう風にベストな映画を作るかというのを四苦八苦しながら、色々考えながらやっていくわけですが、楽しい作業であります。中でも一番好きなのは音のミックシング。これは数か月がかりですが、その頃には編集も終わっていて、絵としては完成しています。サウンドミックシングは、何千という音や効果音と音楽をつなげ合わせて、より良い作品にするにはどうしたらいいのかを考えます。そしてお客様にとってベストな体験となるように工夫していく、非常に充実感のある作業です。 岩田さん:世界各国を飛び回られて映画のことばかり聞かれていると思いますので、日本の訪れた場所で好きな場所、好きな食べ物は何ですか? 監督:前回は家族と一緒に来日しました。新幹線で京都へ行って、旅館に泊まりました。子供たちも連れていけたので、非常にいい思い出になりました。子供たちもよく覚えてくれていて。木刀を買って障子に穴をあけてしまった(笑)。私たちも非常に京都旅行はいい思い出になっています。もう一回来たいと思っています。 司会:実はここでノーラン監督から岩田さんにサプライズプレゼントが 監督:『ダンケルク』の英語版の脚本です。中の方にサインを入れています。岩田さん、今日は本当にご一緒させてもらって本当にありがとうございました。優しい言葉もたくさんいただけて、とても楽しいひと時を過ごせました。本当にありがとうございます。 岩田さん:むちゃくちゃ嬉しいです。童心に帰りました。ありがとうございます。 フォトセッション後、会見終了となりました。■ 『ダンケルク』 原題:Dunkirk上映時間:106分監督・脚本・製作:クリストファー・ノーラン出演:トム・ハーディ、キリアン・マーフィー、ケネス・ブラナー、 マーク・ライランス、ハリー・スタイルズ、フィン・ホワイトヘッドほか2017年/アメリカ/2D・MX4D・IMAX©2017 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. ALL RIGHTS RESERVED配給:ワーナー・ブラザーズ映画2017年9月9日(土)より全国公開
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COLUMN/コラム2017.10.05
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2017年10月】うず潮
不慮な事故で死んでしまった彼女がゾンビになっても彼を愛し続ける!元カノ(ゾンビ)と今カノの間で揺れる青年の顛末を描くゾンビ・コメディ!監督は『グレムリン』シリーズなどのヒット作を手がけたジョー・ダンテ。御年70歳を迎えても精力的に作品を造り続ける彼は、『冒険野郎マクガイバー』の新TVシリーズ『MACGYVER/マクガイバー』でも監督しています(スゴイ!)。そんな彼が66歳の時に撮ったのがこの『ゾンビ・ガール』。熟練の技によるおバカ加減が絶妙で、『シッチェス映画祭ファンタスティック・セレクション2015』にて全国劇場公開された話題をさらいました! 三角関係で揺れるホラー映画マニア青年マックス役を、『ターミネーター4』『スター・トレック』新シリーズに出演した新鋭アントン・イェルチンが軽妙に演じ、その彼女でゾンビになっても彼を愛し続けるイタイ役を、『トワイライト・サーガ』シリーズに出演したアシュリー・グリーンがウザさMAXで好演。さらに2012年の「世界で最も美しい顔100人」の第3位に輝いたアレクサンドラ・ダダリオがキュートに今カノを演じています。彼女は『パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々』シリーズ(ザ・シネマで10月放送)にも出演していて、そのお顔はお美しいのひと言。元カノ(ゾンビ)と今カノの美女ふたりに言い寄られる彼の行動にツッコミを入れながら見るとより楽しい1本です!■ ©2014 BTX NEVADA, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2017.10.05
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2017年10月】飯森盛良
実は昔っからロマコメがキュンキュンに一番好きという42歳中年ヘテロ妻子ありオヤジです。そういう男子もいるのだ。趣味で見る映画では野郎キャストはどうでもいい。ただヒロインを消費したいだけなんだ。アグリー?あと、バッドエンドなんてお仕事以外では見たかないねえ、嫌な気分は最近のニュースだけで沢山さ。ハッピーエンドだけ見ていたい。アグリー?アグリーな人にだけ全力でオススメしたいのが、近年稀に見るベストだと感じた本作。僕の座右の銘は「いつも心にトレンディを」。イカしたリア充都会暮らし、軽妙洒脱な会話、当然のごとくハッピーエンド。この感じだけで人生を満たしたいんだ僕は!そして一番はヒロインのイモージェン・プーツの愛らしさ。恋に落ちて僕は君をこう呼ぶことにした、「芋ぷぅ」と。■ © 2013 AWOD Productions, LLC. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2017.10.02
ニール・ジョーダンのアイルランド愛が充満する現代のおとぎ話『オンディーヌ 海辺の恋人』には、苦い隠し味も〜10月12日(木)ほか
■かつて水の精霊を演じた女優たち オンディーヌとは、もともとドイツの作家、フリードリッヒ・フーケ(1777~1843)が書いたおとぎ話『Undine』に登場する"水の精霊"の名前。人間の世界に憧れ、年老いた漁師夫婦の養女となったオンディーヌが、騎士のハンスに恋してしまい、その恋が破綻するまでを描いたその物語は、後にフランスの劇作家、ジャン・ジロドゥの手によって戯曲化される。1954年にはそれを基にした舞台『オンディーヌ』がブロードウェーで上演され、主演のオードリー・ヘプバーンは見事トニー賞を受賞。余談だが、オードリーが『ローマの休日』(53)でアカデミー賞の主演女優賞に輝いた時、ニューヨークの授賞式会場に現れた彼女のアイメイクが異常に濃かったのは、まだ上演中だったオンディーヌのメイクを落とす時間がなかったためだと言われている。余談ついでに、それから7年後、ロンドンのロイヤル・シェイクスピア・カンパニーが再演した『オンディーヌ』で主役を演じたのは、レスリー・キャロン。オードリーが一躍その名を知られるきっかけになった舞台『ジジ』のミュージカル映画版で、9個のオスカーを独占した『恋のてほどき』(58)でヒロインを演じた女優である。映画界にはよくある"因縁の関係"というヤツだ。 ■脚本はほぼ100%ジョーダンのオリジナル さて、ニール・ジョーダンが脚本と監督を手がけた『オンディーヌ 海辺の恋人』は、幾多の脚色と因縁を紡いできた戯曲とはほぼ無関係の100%オリジナル。しかし!神秘的なオープニングは何やらマジカルで悲劇的なことが起きそうな予感を掻き立てる。舞台は現代のアイルランド南部、コリン・ファレル扮する漁師のシラキュースが、いつものように海中から引き上げた網に、見知らぬ美女が引っかかって来るところから始まる。彼女はシラキュースに名前を聞かれて、「オンディーヌ」と震えながら答えるのだった。 そこから始まる、過去に傷を持つ孤独で貧しいフィッシャーマンと、同じく、背後に謎めいた空気を漂わせる"水の妖精"の如き美女のラブロマンスは、ところどころに、貧困、離婚、アルコール依存、肉体のハンデ、麻薬犯罪、等々、タイトルとは縁遠い生々しい要素を書き加えつつ進んでいく。本作が2009年に世界各地で公開された際(日本ではなぜかDVDスルー、故に必見!)、多くの批評家たちが及第点を与えつつも、散らばった要素が一気に束ねられる現実的過ぎる幕切れに疑問符が付いた。それをカバーして余りあるのがジョーダンの母国アイルランドへの愛だ。 ■ロケ地を設定したプロダクション・デザインが秀逸だ シラキュースが日々船出する入江の漁港の、寂れてはいてもほのかな陽光に輝く姿と、その先に広がる灰色の海の絶妙な配色。ダークグリーンに澱んだ海中を引き摺られていく黒い網と水の泡、そして、緑濃い岬の先に立つ真っ白い灯台。すべてが中間色で統一された絵画のような風景描写は、理屈抜きに、観客を映画の世界へと引き込んで行く。映画のロケ地をアイルランド南部のコーク州に設定し、作品の成否を分けるとも言われるオープニングシーンをセッティングし、それを監督のジョーダンに託したのは、ロケ地の選択やセット作りまでをトータルで受け持つプロダクション・デザイナーのアナ・ラッカード。ラッカードが本作のプロダクション・デザインで、主演のファレル等と共にアイリッシュ・フィルム&テレビジョン・アワードにノミネートされたのも頷ける。 ■コーク州には美しい灯台がいっぱい ラッカードはコーク州内をロケハンで周遊し、大西洋に向けてエッジィな半島が何本か突き出る中の1つで、美しい漁港があるビーラ半島のキャッスルタウンベア、それを観るためにわさわざ観光客がやってくるというコーク名物の灯台の中から、ローンキャリングモア灯台、アードナキナ・ポイント灯台をロケ地としてピックアップ。灯台は映画のクライマックスでも印象的に登場する。海と灯台、半島、漁港、網漁、神話、、、それら、どこか懐かしく、それでいてワンダーランドのような世界は、同じ島国に暮らす我々日本人のノスタルジーを掻き立てもする。撮影監督として本プロジェクトに加わったクリストファー・ドイルが、同じく港町シドニーの生まれで、香港映画や日本映画でカメラを回してきたことも、作品の世界観を決定づける要因の1つだっただろう。 ■アイルランド人は基本的に魚を食べない? ニール・ジョーダンはコークとは反対側に位置するアイルランド北部の都市で、同じ入江を望むスライゴーの生まれだ。南部に美しい山々と湖水地帯を望むスライゴーの主産業は主に牧畜と漁業。画家と大学教授を両親に持つジョーダンが、少年時代に漁業と接点を持ったかどうかは定かではないが、劇中には、港町の祭でレガッタや綱引きに興じる漁師たちの逞しい姿が映し出される。それは、アイルライドでは漁業が1つの文化として今も息づいていることを証明するシーケンスだと思う。一方で、島国でありながらアイルランドでは漁業が発達できない理由があった。カトリックの教えに従い、多くの国民にとって魚は肉食を禁じられる金曜日と断食日にのみ食する肉の代用品と位置付けられ、貧しい人の食べ物という認識が浸透しているのだ。中でも、海で獲れる魚は最下層の食材と受け取られるのだとか。つまり、そもそも漁業は需要の少ない産業なのだ。国土が海に囲まれていながら。シラキュースが貧しさから酒に溺れた過去を引き摺っているのには、そのような社会的かつ宗教的背景があるのだろう。だからこそ、彼はオンディーヌとの出会いに希望を見出し、がむしゃらに絶望からの脱却を図ろうとする。そこに深く共感し、大切なプロットとして書き加えたジョーダンの思いが(脚本も兼任)、半ばファンタジーとして推移する物語に真実味をもたらしている。 ■漁師と人魚はセットの外でも恋に落ちた!! 普段、ハリウッド映画では封印しているアイリッシュ訛りの早口英語を、水を得たように流暢に操るコリン・ファレルが、本来のワイルドに回帰してとても生き生きしている。オンディーヌ役のアリシア・バックレーダはメキシコ生まれのポーランド人女優で、弱冠15歳で祖国が誇る映画界のレジェンド、アンジェイ・ワイダ監督の『Pan Tadeusz』(99)で映画デビュー後、世界へと羽ばたいた。歌手でもある彼女が劇中で人魚の歌を口ずさむシーンがある。そして、美しい裸体や下着姿で無意識という意識でコリンを誘惑する場面も。オードリー、レスリー・キャロンに続く現代のオンディーヌは、そのカジュアルさで先人たちを軽く凌駕している。 やがて、とても自然な成り行きでコリンとアリシアはセット外でも恋に落ち、アシリアはコリンの子供を妊娠→出産。コリンは生まれた息子を彼女に託して、結婚はしないまま、その後別れて現在に至っている。 ■現在、ジョーダンはダブリンで新作を撮影中です! そして、ニール・ジョーダンは2012年に同郷の女優、シアーシャ・ローナン主演で『インタビュー・ウィズ・ザ・ヴァンパイア』(94)以来の吸血鬼映画『ビザンチウム』を監督したのを最後に、新作が途絶えている。と思ってデータベースをチェックしてみたら、さにあらず。現在、若いヒロインが歳の離れた未亡人と交流するうちにミステリアスな世界に誘われていくというスリラーを、クロエ・グレース・モレッツ、イザベル・ユペール共演で撮影中であった。それも、やっぱりアイルランドの首都、ダブリンで。ジョーダンの母国愛は不滅なのだ。■ ©Wayfare Entertainment Ventures LLC 2010
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COLUMN/コラム2017.09.15
【未DVD化】バーブラ・ストライサンド執念の監督デビュー作『愛のイエントル』、完成までの長~い道のり~09月07日(木) ほか
■バーブラは高らかにビグローの名前を読み上げた! 思い出して欲しい。第82回アカデミー賞で栄えある監督賞のプレゼンターとしてステージに登壇したバーブラ・ストライサンドが、封筒を開いた途端、思わず口走った「the time has come!(遂にこの時が来たわ)」という台詞を。そうして、バーブラは誇らしげにキャサリン・ビグローの名前を読み上げたのだ。対象作は言うまでもなく『ハート・ロッカー』。オスカー史上初めて女性が監督賞を手にした瞬間だった。 DVD未発売「愛のイエントル」の苦難の道程 当夜、バーブラが手渡し役を務めたのには訳があった。と言うか、まるで予め受賞者を知っていたかのようなキャスティングだった。何しろ、バーブラにはビグローよりもずっと前に監督賞受賞の可能性があったにも関わらず、候補にすら挙がらないという苦渋を、1度ならず2度も味わっていたからだ。『サウス・キャロライナ/愛と追憶の彼方』(91)と、彼女の監督デビュー作である『愛のイエントル』(83)だ。今月は、日本語字幕付きVHSは国内で流通したものの、DVDは未発売の女傑、バーブラ・ストライサンドによる初監督作について、その舞台裏を簡単に振り返ってみたい。 ■思い立ったのは『ファニー・ガール』の直後 バーブラがポーランド生まれのアメリカ人ノーベル賞作家、アイザック・バシェヴィス・シンガーの短編"イェシバ・ボーイ"を読み、映画化を思い立ったのは、自ら主演したブロードウェー・ミュージカルの映画化で、巨匠、ウィリアム・ワイラーが監督した『ファニー・ガール』(68)でアカデミー主演女優賞を獲得した直後、1969年のことだった。映画化を思い立った、というのは温い表現で、資料に因ると、次は絶対これで行く!と強く確信したというのが正しいようだ。すでにグラミー賞を受賞する等、その歌手としての類い稀な才能を認められてはいたものの、『ファニー・ガール』でハリウッドデビューしたばかりの映画女優としてはまだ新人の彼女が、である。なぜか? 1904年のポーランド、ヤネブの町。学問は男の専門分野で、女はそれ以外の雑事を受け持つものと教えられていた時代に、ヒロインのイエントルは、あっけなく旅立った父が秘かに教えてくれたタルムード(ユダヤ教の聖典)に触発され、何と大胆にも、男に変装してイェシバ(ユダヤ教神学校)に入学してしまう。そうして、イエントルは性別を偽ることで、人々の偏見を巧みにかわしながらも、それ故に激しい自己矛盾に苦しむことになる。これが『愛のイエントル』のプロットでありテーマだ。 ■動機は亡き父親への熱い思いか? バーブラ自身は1942年にニューヨーク、ブルックリンでロシア系ユダヤ人の母親、ダイアナと、イエントルの父と同じくポーランド系ユダヤ人の父親、エマニュエルとの間に生まれている。しかし、高校で文法学の教師をしていたという父親は、彼女が生後15ヶ月の時に他界。その後、ダイアナは中古車セールスを生業にしていたルイス・カインドと再婚するが、継父とバーブラの折り合いは悪く、彼女の中では幼い頃に接し、薄れゆく記憶の中で生き続ける実父の面影の中に、自分の体の中に流れるユダヤ人としてのルーツを見出していく。 ■バーブラに立ちはだかった年齢の壁 自らのユダヤ人としてのアイデンティティを映像で手繰り寄せ、実感し、広く告知したい!!そう願った時から、バーブラの苦難が始まる。彼女が原作の映画化権を取得するのは前記の通り、1969年のこと。製作はバーブラがポール・ニューマンやスティーヴ・マックイーン等と共に成立したスタープロの草分け"ファースト・アーティスト"が受け持ち、原作者のシンガーが脚本を、チェコのイヴァン・パッセルが監督を各々担当することで一旦話は進むが、シンガーは当時40歳のバーブラが10代のイエントルを演じることに難色を示し、プロジェクトから退出。そこで、バーブラは当時の恋人だったヘアスタイリスト上がりのイケイケプロデューサー、ジョン・ピータースに脚本を渡すが、彼もパッセルと同じ理由で乗り気になれなかったという。厳しくもちょっと笑える話ではないか!? ■ピータースを驚愕させた荒技とは? 時は流れて1976年。ピータースと『スター誕生』を撮り終えた時、バーブラはさすがに自分がイエントルを演じるのは無理があると判断し、監督に回ることを決意する。当然、会社側は彼女の監督としての才能には懐疑的だった。2年後、遅々として進まない状況を見かねたバーブラの友人、作詩家のアラン&マーヴィン・バーグマン夫妻(『愛のイエントル』も担当。作曲はミシェル・ルグラン)は、作品をミュージカル映画にすることを提言。それならバーブラのネームバリューで企画が実現すると踏んだからだ。一方、まだイエントル役に固執していたバーブラは男装で自宅に乱入し、ソファで寛いでいたピータースを驚愕させると共に、男装なら年齢が目立たないという利点に気づかせるという荒技に出て、遂にピータースを屈服させる。 その後、一旦製作を請け負ったオライオンが『天国の門』(80/マイケル・チミノ監督によるデザスタームービーの代名詞)が原因ですべての巨額プロジェクトの中止を発表。最終的にユナイテッド・アーティストとMGMの製作で『愛のイエントル』にGOサインが出たのは、バーブラが映画化を思い立ってから13年後の1982年4月のこと。その間、20回も脚本が書き直されていた。 結果的に、バーブラは製作、監督、脚本、主演、主題歌の1人5役を兼任。イエントルが恋する学友のアヴィドールを演じたマンディ・パティンキンには、ブロードウェーのトップスターでありながら、劇中で一曲も歌わせず、歌唱シーンを独り占めしたのは、苦節を耐えて夢を実現させた彼女流の"落とし前"だったのか?恐るべき女優の執念をそこに見た気がする。 ■わがままバーブラはマッチメイカーだった!! ところで、ユダヤの世界にはマッチメイカー、日本で言う縁結び役が存在する。同じユダヤ人コミュニティが舞台の『屋根の上のバイオリン弾き』(71)でもマッチメイカーは歌に登場するほどお馴染みだ。『愛のイエントル』の編集段階でバーブラに協力したと言われているスティーヴン・スピルバーグは、それが縁で一時は関係を絶っていたエイミー・アーヴィング(アヴィドールのフィアンセ、ハダスを演じてバーブラを差し置いてアカデミー助演女優賞候補に)とよりを戻し、1985年に結婚。その後、アーヴィングと離婚したスピルバーグは『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』(84)に出演したケイト・キャプショーと再婚し、今も仲睦まじい。実は、キャプショーをスピルバーグに紹介し、『魔宮の伝説』へのきっかけを作ったのもバーブラだった。場所は『愛のイエントル』の編集室。嫌味なくらい自分の希望を押し通したバーブラが、舞台裏では縁結び役を演じていたという皮肉。世紀のディーバには、そんな風に人を幸せにする才能があるのかも知れない。例え、是が非でも欲しかったアカデミー監督賞はその手をすり抜けたとしても。■ YENTL © 1983 LADBROKE ENTERTAINMENTS LIMITED. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2017.09.10
「考えるな、感じるな、ただ下らなさに笑え」香港ナンセンスコメディの正当後継映画『ドラゴン・コップス -微笑(ほほえみ)捜査線-』〜09月11日(月)ほか
おそらくほとんどの方はブルース・リーの一連の作品やジャッキー・チェンの作品のような「カンフー映画」ではなかろうか。その他にジョン・ウーの『男たちの挽歌』や『インファナル・アフェア』、ジョニー・トーの一連の作品のような「香港ノワール」を思い浮かべる方もおられるであろうし、中にはウォン・カーワイやピーター・チャンのようなアート寄りな作品を連想される方もいるのではないだろうか。 そしてそうしたジャンルと並んで、香港映画の代表的ジャンルとして今なお人気を博しているのが、コメディ映画、特にナンセンスコメディ映画なのである。 香港映画は日本の技術者の協力の下、京劇ベースの武侠映画からスタートし、キン・フーやチャン・チェのようなアクション映画に骨太な人間ドラマを持ち込んだ名監督が登場。さらにブルース・リーの登場によって、本物の武術のバックグラウンドを持つ俳優たちによる別次元のアクション映画が登場することで、最初の全盛期を迎える。ブルース・リーの急逝によってその勢いは陰りを見せるかに思えたが、ブルース・リーの遺産である「カンフー映画」というジャンルは次世代のスターを生み出せずにいた香港映画界を延命させることに成功した。 ブルース・リーによって、東アジア最大の映画会社ショウ・ブラザースと並ぶ規模に成長したゴールデン・ハーベスト社は、次なるドル箱の映画を探していた。そこで目を付けたのが、ブルース・リーと同窓で、TV番組の司会者として人気を博し、映画界に活動の場を移していたマイケル・ホイだった。 マイケル・ホイは『Mr.BOO!』シリーズ(日本の配給会社によって一連のシリーズのようなタイトルを付けられているが、それぞれが独立した作品)を立ち上げて、香港映画史上に残るメガヒットを記録。カンフーアクション映画一辺倒であった香港映画界に大きな風穴を空け、この大ヒットがジャッキー・チェン、サモ・ハン・キンポーらを輩出するコメディ・カンフー映画の呼び水になったことは言うまでもない。 『Mr.BOO!』の特徴は、言うまでもなくナンセンスギャグの連発、そして社会風刺の効いたストーリー展開だ(もちろん日本では吹替版の故・広川太一郎氏の絶大な貢献があるが、本稿では無関係なので泣く泣く割愛する)。これ以降、香港には様々な種類の映画が登場し、いよいよアジアのハリウッドとしての地位を確立していくことになる。マイケル・ホイの系譜は、さらに香港映画史上最大級のヒット作となった『悪漢探偵』シリーズに繋がり、ジャッキー・チェンやサモ・ハン・キンポーの『福星』シリーズや『霊幻道士』シリーズといったアクションコメディの大流行に繋がっていくことになる。 そして80年代後半になると、現在に至るまでヒットメーカーとして活躍する一人の天才監督が登場する。バリー・ウォン(ウォン・ジン)だ。芸能一家に育ち、テレビ局の脚本家から映画監督に転身したバリー・ウォンの名を一気に知らしめたのは、何と言っても『ゴッド・ギャンブラー』シリーズだろう。1989年にノワール食の強いギャンブルアクション映画『カジノ・レイダース』を撮りあげたバリー・ウォンは、同時期にナンセンスコメディ、エンタメ方向に思いっきり振り切ったギャンブルアクション映画『ゴッド・ギャンブラー』も制作。香港ノワールのハードコアで陰惨な世界に飽いていた香港の映画ファンは、笑って燃えて最後にホロリとさせる『ゴッド・ギャンブラー』の上映館に押し寄せたのだった。 バリー・ウォンは次々とヒット作の制作・監督・脚本を担当し、そのコメディ作品ではチョウ・ユンファやアンディ・ラウといった人気俳優の新たな側面を引き出すことに成功。そのため多くの有名スターが、こぞってバリー・ウォンの作品に出演するようになっていく。 しかしバリー・ウォンの最大の功績は、コメディ映画の次世代スーパースターを次々と発掘したことであろう。その中でも最大のスターに成長したのがチャウ・シンチーだ。チャウ・シンチーはバリー・ウォンのナンセンスコメディのあり方をさらに進化させて世界的な映画人へと成長していくことになるが、こちらも本稿とは直接関係は無いため割愛する。 さて、このバリー・ウォンの確立したナンセンス・コメディで大化けした俳優もいる。前述のチョウ・ユンファやアンディ・ラウだけでなく、『ドラゴン・コップス』の主役の一人を演じたジェット・リーだ。『少林寺』で大ブレイクした後、不遇な10年を経てコメディ要素を強くしたワイヤーアクション超大作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』シリーズでマネーメイキングスターの地位を確立したジェット・リー(当時はリー・リンチェイ)。『ワンチャイ』シリーズの監督ツイ・ハークと揉めてシリーズを降板した後に出演したのが、バリー・ウォンの『ラスト・ヒーロー・イン・チャイナ/烈火風雲』だった。ここで『ワンチャイ』以上にワルノリしたコメディ演技を開花させたジェット・リーは次々とバリー・ウォン作品に出演。中でも今回紹介している『ドラゴン・コップス』との類似点の多い『ハイリスク』は、香港映画マニアの好事家の間でも非常に評価の高い作品だった。しかしジェット・リーはハリウッドに進出し、再びシリアス路線に戻ってコメディ演技を封印。実に8年ぶりに本格コメディ映画に復帰したのが、この『ドラゴン・コップス』なのである。 セレブリティの連続死亡事件。死体は常に微笑んでいるという怪異な事件だ。この事件を追っていた刑事プーアル(ウェン・ジャン)と相棒のフェイフォン(ジェット・リー)、そして彼らの女性上司のアンジェラ(ミシェル・チェン)は、死んだ者たちに共通点を見出す。彼らはすべて売れない映画女優のチンシュイ(リウ・シーシー)と関係していたのだった。プーアルはチンシュイから事情を聞くが、チンシュイを迎えにきた姉のイーイー(リウ・イェン)は怪しさ満開。捜査を進めていると、死んだ者たちには保険金がかけられており、その受取人はすべてイーイーだったのだ……。 映画のビジュアル的にジェット・リー主演映画のように思えるだろうが、本作の主演はプーアル刑事役のウェン・ジャンだ。テレビ俳優としてブレイクした後、ジェット・リーがアクションを封印したヒューマンドラマ『海洋天堂』で、ジェット・リーの自閉症の息子役で本格的に映画界に進出。チャウ・シンチーの『西遊記~はじまりのはじまり~』や『人魚姫』でブレイクした若手俳優だ。実生活でもジェット・リーを「パパ」と呼ぶほど仲の良いウェン・ジャンは、共演2作目となる本作でも息の合ったコメディ演技を見せており、コスプレも厭わない自信満々なポンコツという点で前述の『ハイリスク』でのジャッキー・チュンを彷彿とさせる。 またバリー・ウォンは、自作でチンミー・ヤウのような常軌を逸したような超美人女優にムチャブリを繰り返すことで有名だったが、『ドラゴン・コップス』も負けていない。台湾で大ヒットした青春ドラマ『あの頃、君を追いかけた』でブレイクしたミシェル・チェン。本作ではアクションに挑戦したり、壁に激突したりと大活躍を見せる。そして行定勲監督の『真夜中の五分前』で双子の姉妹を演じたリウ・シーシーはワイヤーアクションにも挑戦。さらにシンガーやテレビ番組の司会者として有名で、中国の美人ランキングで1位にもなったリウ・イェンは、パブリックイメージ通りの豊満なバストを半分放り出したまま登場する。 そしてジェット・リーファンなら期待するアクションも盛り沢山。オープニングではジェット・リーとの共演は『カンフー・カルト・マスター』以来6作品というコリン・チョウは、相変わらず息の合ったアクションを展開。監督・主演を務めた映画『戦狼 II』が興行収入800億円超えという世界興行収入を塗り替える大ヒットを記録しているウー・ジンも登場。そして最後には時空を超えた人物との最終決戦が待っている。 ……改めて申し上げるが、本作はハードなバディアクションものではなく、あくまでもナンセンスコメディ映画だ。真面目な作品や、コメディタッチのアクションという期待をして観るとその落差に呆然とする類の作品である。しかしあえて言いたい。 「おれ達の好きな香港映画はこれだ!」 と。 まさにマイケル・ホイが切り開き、バリー・ウォンが再構築し、チャウ・シンチーが世界を制した香港コメディ映画の正当なスタイル。本当に下らないギャグが連発し、ヒット作のパロディが随所に取り込まれ、凄まじい人数のカメオ出演者が登場するというオールスターかくし芸大会的な、香港映画が本来持っていたサービス精神の塊のような作品。その正当後継者が、この『ドラゴン・コップス -微笑捜査線-』なのだ。■ ©2013 BEIJING ENLIGHT PICTURES CO., LTD. HONG KONG PICTURES INTERNATIONAL LIMITED ALL RIGHTS RESERVED