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COLUMN/コラム2024.08.02
若き天才デイミアン・チャゼルが、『ラ・ラ・ランド』で成し遂げたこと
1985年生まれの、デイミアン・チャゼル。ハイスクール時代はミュージシャンを目指してジャズを学ぶが、ハーバード大学に進む頃には、幼き日の夢だった映画監督への想いが甦る。チャゼルは貪るように古今東西の映画を観まくったというが、そんな中でも、“ミュージカル映画”に夢中になった。 本作『ラ・ラ・ランド』(2016)のアイディアが浮かんだのは、ハーバード在学中。チャゼルは学友で、その後共に歩むことになる、作曲家ジャスティン・ハーウィッツと、ストーリーを練り始めた。 そのハーウィッツと共に、ハーバードの卒業製作として作り上げたのは、16mmフィルムで撮影した、全編モノクロのミュージカル『Guy and Madeline on a Park Bench』(2009)。ジャズに執心する主人公Guyのキャラクターは、チャゼルのその後の作品にも、引き継がれていく。 この卒業製作が評判となり、小規模ながら劇場公開に至った。ちょうどその頃、2010年にチャゼルは、『ラ・ラ・ランド』の脚本初稿を書き上げる。 プロデューサーを雇っての売込みに、『ラ・ラ・ランド』に興味を持つ製作会社が現れた。しかし、主人公が愛する音楽をジャズでなくてロックに変更することや、オープニングの曲の差し替え等を求められたため、プロジェクトは頓挫する。 チャゼルは、方針を転換。商業映画デビュー作としては、『ラ・ラ・ランド』よりは低予算でイケる、『セッション』(14)に、取り組むことにした。 ハイスクール時代の自身の経験も多く盛り込んだという『セッション』は、名門音楽学校に入学した若きドラマーと伝説の鬼教師の攻防を、息も突かせぬド迫力で描いた作品。 330万ドルの製作費に対し、世界中で5,000万ドルの興行収入を上げ、またその年度のアカデミー賞で、5部門にノミネートされた。結果として、作品賞及びチャゼルがノミネートされた脚色賞は逃したものの、鬼教師を演じたJ・K・シモンズに助演男優賞、更に編集賞、録音賞の計3部門での受賞となった。『セッション』をリリースした際、まだ30歳になる前だったチャゼルは、「若き天才」との呼称を恣にする。ここに、『ラ・ラ・ランド』映画化の機は熟した。製作会社のライオンズゲートに提案すると、製作費3,000万㌦を掛けて、チャゼルが思い描いた通りの内容で撮れることになったのだ。 当初主役のカップルには、エマ・ワトソンと、『セッション』の主演だったマイルズ・テイラーの名が挙がった。しかしワトソンは、ディズニーの実写版『美女と野獣』(17)ヒロインのオファーを選ぶ。そしてテイラーとの交渉も不調に終わったため、新たなキャスティングが進められることとなった。決まったのは、同じエマでも、エマ・ストーン、そしてライアン・ゴズリングである。 ***** クリスマスが近くても暑い、冬のロサンゼルス。 女優になる夢を叶えるためこの街に来たミア(演:エマ・ストーン)は、映画スタジオ内のコーヒーショップに勤めながら、様々なオーディションを受ける日々。 ある日、ピアノの音色に誘われて足を踏み入れたレストランで、その奏者に感動を伝えようとする。しかし当のピアニスト、セブことセバスチャン(演:ライアン・ゴズリング)は、店長の指示に従わず、勝手な曲を演奏したため、その場でクビに。セブは近寄ってきたミアを無視し、店外へと消えた…。 春が訪れ、ミアとセブは再会。偶然の出会いが続き、2人は言葉を交わすようになる。「時代遅れ」と揶揄されるようなジャズをこよなく愛するセブの夢は、いつか好きな曲を好きなだけ演奏する、自分の店を持つこと。お互いの夢を熱く語り合う内に、2人は惹かれ合い、やがて結ばれる。 夏が来る頃には、ミアとセブは同棲。互いの夢を支え合い、幸せの絶頂にいた。 生活のための術が必要と考えたセブは、かつての音楽仲間が組んだバンドに、キーボード奏者として参加。その楽曲は、セブが愛するフリージャズとはかけ離れており、ライヴに出向いたミアは、戸惑いを覚える。 しかしバンドは大人気となり、セブはツアーやレコーディングで多忙に。2人は、会えない時間が多くなる…。 秋。ツアーを抜け出して、ミアにサプライズを仕掛けたセブ。しかしミアのちょっとした一言から、大喧嘩となってしまう。 そんな折り、ミアがセブの勧めで書き上げたひとり芝居が、幕を開ける。しかし客席はガラ空き。公演後には酷評が耳に届く。打ちのめされたミアは、仕事のため公演に間に合わなかったセブに、「何もかも終わり」と告げ、故郷に帰ってしまう。 数日後、ひとり残されたセブの元に、ミアを探す配役事務所から電話が入るが…。 ***** ミア役のエマ・ストーンは、ブロードウェイでミュージカル「キャバレー」に出演。評判になったのを受けてのキャスティングだった。 チャゼルは、セブ役にライアン・ゴズリングを得たことを、本作の「製作の長いプロセスのキーになった」ポイントとして、挙げている。 ストーンとゴズリングの共演は、『ラブ・アゲイン』(11)『L.A. ギャング ストーリー』(13)に続いて、本作で3度目。そのすべてでカップルを演じている2人の相性が、フレッド・アステア&ジンジャー・ロジャース、ハンフリー・ボガート&ローレン・バコール、マーナ・ロイ&ウィリアム・パウエルといった、ハリウッドの伝説のカップルのように、「しっくり合っている」と、チャゼルには感じられたのだ。 撮影前の準備期間、ゴズリングはジャズ・ピアノを、3ヶ月練習。その成果として、本作では全編、本人による演奏が見られる。手元のクローズアップでも、代役は使っていない。 セブが加入するバンドのリーダーを演じた、ミュージシャンのジョン・レジェンドは、ゴズリングのあまりの習得の早さに驚愕。嫉妬すら覚えたという。 ピアノと同時に、ゴズリングはエマ・ストーンと、ダンスの練習にも励んだ。ストーン曰く、2人は売れないアーティストの役なので、圧倒的な歌唱力やダンスといったものは、「求められなかった」という。2人の関係がある意味では未熟に見えることを、チャゼルが望んだが故である。 さて本作のタイトル『ラ・ラ・ランド』は、チャゼルによると、ロサンゼルスを「からかうような感じで呼ぶとき」に使うという。それに加えて、空想にふけるという意味もあり、夢を見るのはすてきなことだというメッセージも籠めたのである。 そんな『ラ・ラ・ランド』は、40日間掛けて、グリフィス天文台から歴史あるジャズクラブまで、ロサンゼルスの各所でロケ撮影が行われた。 チャゼルが愛する、1930年代から50年代に掛けての、アステア&ロジャースやジーン・ケリーが主演したミュージカルは、スタジオにセットを組み、先に歌声を録音した楽曲を流しながら、ダンスシーンを撮った。しかし本作は、ロケ地で演者が歌って踊り、生歌を同時に録音する方式で、撮影が行われた。 しかもすっかりデジタル撮影が主流になっていたこの時代に、フィルムを使用。並大抵の準備では、済まなかった。 オープニングのつかみとなる、ハイウェイの大渋滞を縫っての群舞シーン。警察の協力で、高速道路を封鎖して、ロケが行われた。 驚異のワンカット撮影を、限られた時間で行わなければならないため、スタジオの駐車場に、作り物の分離帯や車を沢山置いて、丁寧にリハーサル。いざ本番は、気温が43度という猛暑の中で行われた。 一発OKとはいかないため、撮影が終わる度にダンサーたちはアシスタントに抱えられて、スタート地点に戻る。そして汗を拭き取り予備の衣装に着替えてから、リテイクに臨んだという。 因みに本作の振り付けを担当したのは、TVのミュージカルドラマ「glee/グリー」で評判をとった、マンディ・ムーア。高速道路のシーンでは、撮影中に写り込んでしまうことを避けるため、車の下に隠れて指示を出したという。 ハリウッドの丘の上で、ストーンとゴズリングが踊るシーンも、現地ロケ。日没直後のマジックアワーを狙ったため、撮影のチャンスは、2日間で30分ほど。そんな中で2人は、長回しのダンスシーンを、繰り返し撮影した。 先に記した、ハリウッド黄金期のミュージカル以上に、チャゼルが影響を受けたのは、実はフレンチ・ミュージカル。ジャック・ドゥミー監督、ミシェル・ルグランが音楽を担当した『シェルブールの雨傘』(1964)こそが最大級の意味で、「僕を成長させてくれた映画」と、語っている。そして当然のように本作でも、オマージュが捧げられている。 その一方でチャゼルが腐心したのは、ノスタルジックや演劇的になり過ぎないようにすること。曰く、「ミュージカルには他のジャンルにない楽しさ、高揚感があるけれど、同時に現実的で正直なストーリーが必要だ。ファンタジーとリアルがね」 ファンタジーとリアル/夢と現実が一体となった、新しいミュージカル映画のスタイルを作り出すための一助となったのが、マーティン・スコセッシ監督のボクシング映画『レイジング・ブル』(80)。この作品では、カメラをボクシングのリング内に持ち込んで、常にボクサーの動きに焦点を合わせる形で、撮影が行われている。スコセッシは、リング上では観客がボクサーの眼を持ち、殴られているのは自分だという意識を持たせるために、この手法を考案した。 これを「表現主義的なカメラワーク」と言うチャゼルは、スコセッシがリングの中にカメラを置いたように、自分はダンスの中にカメラを置きたかったと語っている。 スコセッシ作品からの影響という意味では、『ニューヨーク・ニューヨーク』(77)も忘れてはいけない。この作品でカップルを演じたのは、ライザ・ミネリとロバート・デ・ニーロ。ミネリは無名の俳優からハリウッドの大スターに、デ・ニーロは売れないサックス奏者からジャズ・クラブのオーナーへと成功の道を歩みながら、別れ別れとなっていく。『ラ・ラ・ランド』のミアとセブの軌跡は、『ニューヨーク・ニューヨーク』の2人の歩みと、ほぼほぼカブる。 さて本作『ラ・ラ・ランド』の別れた2人は、ラスト近くになって、5年振りに再会。そこで実際にはそうならなかった、2人が添い遂げる人生が、イメージの中で展開する。 チャゼルが「ただの夢じゃない」と語るこのシーン。たとえ今は別々の人生を送っていても、あの時2人で愛し合った、素晴らしき時間があったからこそ、今の自分たちがある。「あり得た人生」を想うのは、単なる後悔ではなく、希望ともなる…。 『ラ・ラ・ランド』はクランクアップから、編集に1年掛けて完成。まずは2016年秋の「ヴェネチア映画祭」オープニング作品として、大きな話題をさらった。 その後本国アメリカで大ヒットを記録すると同時に、各映画賞で受賞ラッシュとなる。その本命と言うべき、2017年2月に開催されたアカデミー賞では、史上最多タイの14ノミネート。監督賞、主演女優賞など6部門で受賞を果したが、それ以上に前代未聞のアクシデントに巻き込まれたことが、大ニュースとなった。 この年の“作品賞”のプレゼンター、ウォーレン・ベイティが受賞作品の封筒を開け、『ラ・ラ・ランド』と発表を行った。しかし受賞スピーチが始まった直後に、これがスタッフのミスによる封筒取り違えと判明。改めて『ムーンライト』(16)に“作品賞”が与えられるという、大珍事が起きてしまったのだ。 “作品賞”という大魚を逃しながらも、それ以上にインパクトの残る形で、記録や記憶に残った、『ラ・ラ・ランド』。それもまたデイミアン・チャゼル、当時の「若き天才」ぶりに贈られた、勲章のようにも思える。■ 『ラ・ラ・ランド』© 2017 Summit Entertainment, LLC. All Rights Reserved. Sebastian (Ryan Gosling) and Mia (Emma Stone) in LA LA LAND. Photo courtesy of Lionsgate.
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COLUMN/コラム2024.07.31
シュワちゃん人気を不動のものにした’80年代バトル・アクションの快作!『コマンドー』
映画は当たっても2流スター扱いだった当時のシュワルツェネッガー ‘80年代のハリウッドを代表するアクション映画スター、アーノルド・シュワルツェネッガーの人気を決定づけた大ヒット作である。ご存知の通り、世界的なボディビルダーから俳優へと転向したオーストリア出身のシュワルツェネッガー。役者デビューは’70年にまで遡るのだが、しかしその人並外れたマッチョ体型と外国訛りの強い発音、さらには長くて覚えにくい名前がハンデとなってしまい、なかなか良い仕事に恵まれなかった。 大きな転機となったのは有名なファンタジー小説「英雄コナン」シリーズを映画化したヒーロー映画『コナン・ザ・グレート』(’82)。魔法や怪物が存在する太古の昔を舞台にした冒険活劇で、超人的な肉体を持つ英雄コナンはシュワルツェネッガーにしか演じられないハマリ役となる。なにしろ、それまで映画関係者から「気味が悪い」とまで言われたマッチョ体型がここでは存分に活かせるし、そもそも舞台設定が有史以前の世界なので英語のセリフに訛りがあっても不自然ではない。映画自体も世界的な大ヒットを記録し、シュワルツェネッガーは一躍注目の的に。続編『キング・オブ・デストロイヤー/コナンPART2』(’84)や姉妹編的な『レッドソニア』(’85)にも出演した。 その英雄コナン以上の当たり役となったのが、ジェームズ・キャメロン監督の出世作でもあるSFアクション映画『ターミネーター』(’84)で演じた、未来から現代へと送り込まれた無表情・無感情の殺人サイボーグ「ターミネーター」だ。同作は低予算のB級アクション映画ながらブロックバスター級のメガヒットとなり、これまでに5本の続編映画やテレビのスピンオフ・シリーズなどが誕生、シュワルツェネッガーのキャリアにおいて最大の代表作となったわけだが、しかしそれでもなお、当時のハリウッドにおける彼はまだまだぽっと出のB級映画スター、規格外の体型で原始人やロボットを演じるキワモノ俳優というイメージが強く、次から次へと現れては短命で消えていくアクション映画俳優のひとりと見做されていた。 実際、本作のヒロイン役を20名以上の有名女優にオファーしたものの、その全員からことごとく共演を断られてしまったという。要は2流扱いされていたのである。そんなシュワルツェネッガーが初めて等身大の人間臭いヒーローを演じ、大物シルヴェスター・スタローンの向こうを張るアクション映画スターとしての地位を不動のものにしたヒット作が、いかにも’80年代らしい勧善懲悪のバトル・アクション『コマンドー』(’85)である。 心優しき父親にして最強の殺人マシン、ジョン・メイトリックス! 主人公はアメリカ陸軍特殊作戦コマンドーの指揮官だったジョン・メイトリックス(アーノルド・シュワルツェネッガー)。今は陸軍を引退して大自然に囲まれた山荘で暮らし、愛娘ジェニー(アリッサ・ミラノ)と平凡だが満ち足りた幸福な毎日を送っているメイトリックスだが、そんな彼のもとへ陸軍時代の元上司・カービー将軍(ジェームズ・オルソン)が急遽やって来る。実は、メイトリックスの部隊に所属していた元隊員たちが、何者かによって次々と暗殺されているという。敵はメイトリックスの命も狙っているに違いない。そう警告しに来たカービー将軍は、護衛の兵士を置いて去っていくのだが、その直後に謎の武装集団が山荘を襲撃する。万が一のために備えていた武器で応戦するメイトリックス。しかし護衛の兵士たちは殺され、娘ジェニーも人質として連れ去られてしまう。決死の覚悟で敵を追跡するメイトリックスだが、結局は彼自身も捕らわれの身となってしまった。 敵のアジトへと連れて行かれたメイトリックス。そこで待ち受けていた黒幕は、かつて彼の部隊によって失脚させられた南米バルベルデ共和国の独裁者アリアス(ダン・ヘダヤ)だった。しかも、その一味の中には元部下ベネット(ヴァーノン・ウェルズ)も含まれている。メイトリックスに個人的な恨みを抱いているベネットは、アリアスに10万ドルの報酬で雇われ、己の死を偽装して一味の計画に加担していたのだ。その計画とは、バルベルデで英雄視されているメイトリックスを現地へ送り込み、彼を信頼する現職大統領を暗殺させてアリアスが再び権力へ返り咲くというもの。そのための人質として、娘のジェニーを誘拐したのだ。 協力を拒めば娘の命はない。仕方なく任務を引き受けたメイトリックスだが、しかし同行する監視役を殺してバルベルデ行きの飛行機から秘密裏に脱出する。というのも、任務が成功しても失敗しても敵はジェニーを殺すだろう。ならば相手が油断している隙に隠れ家を突き止め、監禁されているジェニーを救い出すべきだと考えたのである。ただし、飛行機がバルベルデへ到着すれば、こちらの動きもバレてしまう。残された猶予は11時間。それまでにジェニーを救出せねばならない。空港へ戻ったメイトリックスは、手がかりを知る敵の仲間サリー(デヴィッド・パトリック・ケリー)を尾行。たまたま居合わせた航空会社の客室乗務員シンディ(レイ・ドーン・チョン)を無理やり巻き込み、スパイも顔負けの秘密工作と諜報活動を駆使して、アリアス一味の隠れ家へ迫らんとするのだが…? ハードなアクションと軽妙洒脱なユーモアの組み合わせは、さながら古き良きジェームズ・ボンド映画の如し。実際、マーク・L・レスター監督はボンド映画を多分に意識したという。真面目な顔をしてジョークをかますのはシュワルツェネッガーの十八番だが、その原点はまさに本作。後に『ツインズ』(’88)や『キンダーガートン・コップ』(’90)を大成功させたことからも分かるように、コメディのセンスと才能に恵まれているのは、ライバルのシルヴェスター・スタローンにはないシュワルツェネッガーの長所と言えよう。なおかつ、本作では元特殊部隊の屈強な殺人マシンでありながら、心優しい普通の父親の顔も持ち合わせた正義の味方という頼もしいヒーロー像を体現。やがて日本でも「シュワちゃん」と親しみを込めて呼ばれることになる、「気は優しくて力持ち」的なイメージは本作で初めて確立したのではないかと思う。 もともと本作の脚本は、当時まだ無名の新人だったジョセフ・ローブとマシュー・ワイズマンが、ロックバンド「KISS」のジーン・シモンズのために書いたもの。しかし、シモンズ本人から却下されたためにお蔵入りしていたらしい。それを20世紀フォックスの書庫から発掘したのが、『48時間』(’82)シリーズや『リーサル・ウェポン』(’87)シリーズ、『プレデター』(’87)シリーズに『ダイ・ハード』(’88)シリーズなどでお馴染みの大物プロデューサー、ジョエル・シルヴァー。当初からシュワルツェネッガーの主演を念頭に脚本を探していたシルヴァーは、SFでもファンタジーでもない純然たるアクションが良いと考えてチョイスしたそうだが、しかしオリジナル脚本では主人公が元イスラエル兵だったりとシュワルツェネッガーが演じるには無理のある設定が多かったため、『48時間』や『ダイ・ハード』でもシルヴァーと組んだ売れっ子脚本家スティーブン・E・デ・スーザがリライトを任された。 監督に抜擢されたのは、ジョエル・シルヴァーがヒュー・ヘフナーのプレイボーイ・マンションのパーティへ招かれた際、たまたま知り合って親しくなったマーク・L・レスター。『スタントマン殺人事件』(’77)や『処刑教室』(’82)など良質なB級アクションで知られるレスター監督だが、しかし当時は自身初のメジャー大作『炎の少女チャーリー』(’84)が大コケしたばかり。それでもシルヴァーが彼を起用したというのは、恐らくよほどウマが合ったのかもしれない。そのレスター監督とデ・スーザを伴ってシュワルツェネッガーのもとを訪れ。出演交渉を行ったというシルヴァー。まだ脚本の最終版が仕上がっていなかったため、デ・スーザが口頭で内容を説明したのだそうだが、それを聞いたシュワルツェネッガーは「裸で走り回る石器人でもなければサイボーグでもない、普通の人間をようやく演じられる」と喜んだらしい。 とはいえ、切り倒した大木をひょいと肩に乗せて運んだり、公衆電話ボックスを中に人が入ったまま放り投げたり、サリー役デヴィッド・パトリック・ケリーの足を片手で掴んで逆さ吊りにしたり、なんだかんだと常人にはあり得ない怪力ぶりを発揮する主人公メイトリックス。演じるシュワルツェネッガーも現実にはそこまでの超人ではないため、劇中に出てくる大木も公衆電話ボックスも、実は本物より軽い撮影用のニセモノを使用している。もちろん、ボックスに入っている人間もダミー。また、デヴィッド・パトリック・ケリーを片手で逆さ吊りにするシーンでは、カメラに写らないようにしてクレーン車でケリーを吊り上げている。 実はメイトリックスに対するベネットの倒錯したラブストーリーだった!? ヒロインのシンディ役には、伝説的な音楽デュオにしてお笑いコンビ「チーチ&チョン」のトミー・チョンを父親に持つ黒人女優(厳密には父親が中国系とアイルランド系などのミックス、母親がアフリカ系と先住民チェロキー族のミックス)レイ・ドーン・チョン。彼女もまた父親譲りでコメディの才能に長けている人で、シュワルツェネッガーとの相性も抜群だ。また、メイトリックスの娘ジェニーを演じるアリッサ・ミラノは、当時テレビのシットコム『Who’s the Boss?』(‘84~’92)で大人気だったティーン女優。同番組が未放送だった日本では、本作をきっかけに美少女アイドルとして人気が沸騰し、日本市場向けに歌手デビューしたり、日本のテレビCMにも出演したりと大活躍だった。映画雑誌「スクリーン」や「ロードショー」のグラビアページや付録ポスターにもたびたび登場。50代以上の映画ファンには懐かしいスターと言えよう。 一方、メイトリックスの元部下で最大の宿敵ベネットには、『マッドマックス2』(’81)のモヒカン刈り暴走族ウェズの怪演で注目されたオーストラリア人俳優ヴァーノン・ウェルズ。もともとは別の役者がキャスティングされていたが、しかし撮影現場で演技を見たレスター監督はベネット役に向いていないと判断して初日でクビに。『マッドマックス2』で印象に残っていたウェルズを急きょ起用することになったという。また、南米の独裁者アリアス将軍役も当初は名優ラウル・ジュリアを想定していたが、しかし配給を担当する20世紀フォックスの重役から友人のダン・ヘダヤを使うよう指定されたという。体は小さいが態度はデカい小悪党サリーには、『ウォリアーズ』(’79)や『48時間』などウォルター・ヒル作品でお馴染みのデヴィッド・パトリック・ケリー。彼も本作を機に売れっ子の性格俳優となった。なお、メイトリックスとシンディが乗る水上セスナ機に無線で警告を発する、沿岸警備隊防空部の通信オペレーター役として、無名時代のビル・パクストンが顔を出しているのも要注目だ。 ちなみに、劇中ではいまひとつ曖昧にされているベネットがメイトリックスを恨む理由だが、レスター監督曰く撮影現場でキャストやスタッフに共有していた裏設定があるという。それによると、ある任務でベネットは自分が置き去りにされたと勘違いし、メイトリックスのことを「自分を見殺しにした男」として一方的に恨んでしまった…ということらしい。ただし、ファンの間ではベネットの服装がゲイっぽいことから、実はメイトリックスに片想いしているんじゃないかとの説も根強かったりする。反抗的な態度を取るのもメイトリックスの気を引きたいから。まさしく「可愛さ余って憎さ百倍」。俺のものにならないなら、いっそのこと殺してしまいたい!というわけだ。それを大前提にベネットの一挙一動を追っていくと、クライマックスの一騎打ちもやけに生々しく感じられるだろう。 映画をポップアートだと考えるというレスター監督は、プロデューサーであるジョエル・シルヴァーと相談のうえで、あえて本作のアクションも芝居も徹底して大袈裟に演出したという。そう言われると確かに、『処刑教室』にしろ『クラス・オブ・1999』(’90)にしろ『リトルトーキョー殺人課』(’91)にしろ、レスター監督のアクション映画はマンガ的な誇張が多いと言えよう。そのトゥーマッチ感こそが本作の面白さであり、興行的に成功した理由でもあったはずだ。中盤のハイライトであるショッピング・モールでの大立ち回りにおける、縦横無尽に駆け回るシュワルツェネッガーの大暴走ぶりなどはその好例。ちなみにロケ地となったショッピング・モールは、’80年代の西海岸で最大の若者トレンドの発信地と呼ばれ、『初体験/リッジモントハイ』(’82)や『ヴァレー・ガール』(’83)、『ナイト・オブ・ザ・コメット』(’84)に『キルボット』(’86)などなど、数多くのティーン向け娯楽映画の撮影に使われた「シャーマン・オークス・ガレリア」である。 およそ900万ドルという意外に控えめな予算に対し、世界興収5750万ドルという爆発的なヒットを記録した『コマンドー』。イタリア産アクション『ストライク・コマンドー』(’87)やフレッド・オーレン・レイ監督の『コマンド・スクワッド』(’87)などのパクり映画が世界中で量産されたほか、日本でも『必殺コマンド』(’85)や『コマンドー者』(’88)など勝手に邦題でコマンドー(ないしコマンド)を名乗ったB級C級アクション映画がビデオレンタル店にズラリと並ぶこととなった。なお、今回ザ・シネマで放送されるのは劇場公開版よりも2分ほど長いディレクターズ・カット版。メイトリックスがシングルファーザーになった経緯などの背景を説明するセリフや、アクション・シーンにおける過激な残酷描写カットが増やされており、より見応えのある映画に仕上がっている。■ 『コマンドー【ディレクターズカット版】』© 1985 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2024.07.22
韓国ホラーのルネッサンスを再考する ― 監督が語った恐怖へのこだわりと『ボイス』―
◆韓国学校ホラーの奇々たる分枝 韓国映画におけるホラージャンルのルネッサンスは、1998年公開の日本映画『リング』を端緒とするジャパン・ホラーの興隆が起爆剤になったものと傍証されている。しかし実のところ、韓国ホラーは独自の歩みを経て興隆の轍をたどっている。特に同年に公開された『囁く廊下-女校怪談-』の誕生は、興行的な成功を得て同作をシリーズ化させただけでなく、韓国映画内でジャンルとして衰退していたホラーを活性化。さらには分枝ともいえるホラー映画群の根幹となり、本稿で触れるアン・ビョンギのような、ジャンルに特化した監督の台頭をうながすきっかけとなったのだ。 では何故、前掲のような印象をもたらしたのだろう? それは本作『ボイス』(2002)が起因のひとつとして挙げられる。まずはストーリーを概説しよう。援助交際のルポを手がけたことから、脅迫電話に悩まされていたジャーナリストのジウォン(ハ・ジウォン)。そんな状況を見かねた親友ホジョン(キム・ユミ)の勧めで彼女は携帯番号を変えるが、誰も知らないはずのその番号に、謎の着信が寄せられる。しかも、その着信による通話を偶然に聴いてしまったホジュンの娘ヨンジュ(ウン・ソウ)が、まるで何かに取り憑かれたように豹変してしまうのだ。 このプロットからも明らかなように、携帯電話を媒介とし、人間を襲う怨霊を描いている点で、本作はビデオという近代ツールが伝染的な呪死をもたらす『リング』にインスパイアされたものと見なされていたからだ。恥ずかしいことに、筆者(尾崎)も『ボイス』が『リング』をネタ元にしていると決めてかかり、本作の日本公開プロモーションでアン・ビョンギと会ったさい、それをしつこく問いただした。そのような遠慮会釈のないクエスチョンに対して監督は、 「恐怖という概念を文学や映画、そしてコミックといった媒体で幅広く大衆化させたのは、東洋のなかでも日本だけなのではないかと一目置いている」 と我が国の恐怖文化に対して慎重な態度でリスペクトを示しながら、 「だから僕は『ボイス』を手がけるさい、日本の『リング』や他のホラーと違うモノを作ろうと努力しました。にも関わらず『リング』があまりにも秀逸であるため、観た人たちが似た作品のように印象を持たれても仕方がないのかな? と思っています」 と、『リング』の価値を認めつつ、『ボイス』がその傍流ではないことを強く主張している。もちろん、まったくの無縁だと抗弁するには共有材料か揃いすぎているが、むしろ強い影響力という点では、女子高生や学校というコミュニティをストーリーの根幹に置いた時点で『囁く廊下-女校怪談-』の系譜に連なる割合のほうが高い。そこを公開時に指摘できなかったのは、韓国映画史に理解の足りていなかった自分の怠慢として悔いが残る。しかも本作の携帯への言及は、同ツールを呪殺の媒介とした『着信アリ』(2003)というシリーズの成立をうながし、優れた恐怖描写で世界を震撼させながら、ジャパンホラーの文脈になかった日本の異才・三池崇史のジャンル的アリバイ作りに貢献したという捉え方もできるだろう。なので『ボイス』は韓国ホラールネッサンスのマスターピースとして、その存在価値を改めて見直す時期にきている。ちなみにアン・ビョンギは『着信アリ』を手がけた三池が1999年に発表した『オーディション』のリメイクを打診されたが、あの恐ろしさに自分が迫ることはできないとオファーを断っている。 だがなかなかどうして、アン・ビョンギの恐怖演出も、ホラーの先任監督として磨きのかかったものだ。ショットには常に消失点が置かれ、不安定な感情を煽りながらも構図は常に整い、ショッカー描写も一定の間合いと秩序を保ち、ふいな出会い頭や小細工で人を驚かしはしない、そこにはいっさいの妥協がなく、それはこの『ボイス』を観れば一目瞭然だ。 ◆サブジャンルを深化させる新世代の台頭 そんなビョンギのようにジャンルを固定した監督の台頭は、韓国映画ルネッサンス期の前説が無くては語れない。1996年、韓国の文民統制化にともない、同国の映画制度は大きく変化した。憲法裁判所が検閲行為を違憲とし、脚本と完成作品の提出を義務とした検閲システムが廃止となった。これによって映画製作に自由が設けられ、物語が制限されることなく描けるようになったのである。 それと並走するかのように、韓国民主化を旗印とする金大中は、国益のために映画産業を政府がバックアップすることを選挙公約として掲げた。そして98年に大統領当選が決まると、それまで国の機関だった「映画振興公社」を民間に委ね、映画の改革を始めるのである。こうした改革が大きな原動力となり、韓国映画は飛躍的な進化を遂げていく。 こうした変動に応じて韓国映画に流入したのは、ビデオの普及やシネマテーク運動が生んだ、シネフィル世代の監督である。『パラサイト 半地下の家族』(2019)のポン・ジュノや『別れる決心』(2022)のパク・チャヌク、さらには『モガディシュ 脱出までの14日間』(2021)のリュ・スンワンなど、いずれも特定のジャンルを深く追求し、優れた芸術性を持つ作品を生む新世代の作り手だ。 アン・ビョンギも、そうしたシネフィル世代の監督の一人に該当する。ソウル芸術大学映画科を出た彼は、所属していた同校の映画同好会で日本映画のビデオを浴びるように観たという。しかし日本映画との固いリンクとは逆に、ホラー映画への傾倒は欧米の『エクソシスト』(1973)が強く誘導したと語っている。 「無意識のうちに影響が出てくる、偉大な映画」 と同作を称賛し、なるほど、『ボイス』で霊に憑依されたヨンジュの凶暴化は、『エクソシスト』のリーガン(リンダ・ブレア)のそれと一致する。 ちなみに監督へのインタビューにおいて、好みのホラー映画を幾つか挙げて欲しいと頼んだところ、『エクソシスト』を筆頭に以下のようなラインナップとなった。 ①『エクソシスト』(1973 アメリカ) ②『オーメン』(1976 アメリカ) ③『サスペリア』(1977 イタリア) ④『シャイニング』(1980 アメリカ) ⑤『オーディション』(1999 日本) ①と⑤に関する心酔と影響に関しては前述したが、ほかいずれもホラー映画のマスターピースにして、それぞれが『ボイス』の恐怖演出に漆黒の影を落としている。②からは悪魔の子ダミアンに通ずる児童モンスターキャラクターの要素が散見されるし、また③の、美女が犠牲者となるジャーロ映画と監督ダリオ・アルジェントの嗜好を『ボイス』は共有している。そして④の高度なアート性と優れたイメージの数々は、ホラーも“芸術”になることを信じて取り組むビョンギの希求心を鼓舞させるものだったに違いない。 ◆ホラー映画に固執するのは、自身のプライド それにしても、なぜここまでビョンギはホラーというジャンルに固執してきたのだろう。そんな疑問に、彼は照れながらこう答えてくれた。 「自分がホラーを撮る理由は、個人的なプライドにあると思います。韓国映画界では商業的成功を重視し、人気スターに頼る傾向にありますが、ホラー映画は総合的に監督の演出力や、スタッフ全体の能力が優れていないと、撮ることが容易でないと実感しています。なによりホラーは、監督と観客との間で知恵比べができる手段であり、作り手にも刺激的なジャンルなんです」 『ボイス』が初公開されてから、現在までに22年の歳月が流れた。劇中で効果的に恐怖を演出した携帯電話は、より多機能性を有したスマートフォンへと進化し、本作をさらに古典の領域へと押し進めた。しかしそこにある恐怖哲学は、韓国ホラーの経典として普遍的な価値を放っているのではないだろうか。『ボイス』は今観てもなお、鑑賞者に高度な知恵比べを要求し、そして力強い刺激を与えてくれる。■ 『ボイス』© TOILET PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2024.07.18
巨匠リドリー・スコットが描く、よくできた昼ドラのような、俗悪で愉快で悲劇的な物語『ハウス・オブ・グッチ』
知らぬ者は居ないであろう、イタリア発のファッションブランド、「グッチ」。 1921年にグッチオ・グッチが、フィレンツェに開いた靴屋が、その始まり。世界進出はその息子の代で、三男のアルド・グッチが父親の反対を押し切って成功させたもの。「グッチ」の有名なアイコンデザイン「GG柄」も、商才溢れるアルドが考案した。 アルドの後も、「グッチ」のTOPは、グッチ家の者が務め、その王国は引き継がれていく筈だった。しかし21世紀の今、「グッチ」の経営陣には、グッチ家の者はいない…。 2000年に出版されたサラ・ゲイ・フォーデンの著書「ハウス・オブ・グッチ」は、原題のサブタイトルが、「A Sensational Story of Murder, Madness, Glamour, and Greed(殺人、狂気、魅力、そして強欲のセンセーショナルな物語)」。この書籍でグッチ家の30年間を描いた彼女は、「グッチの話はいろいろな意味で、私のつくり話よりもずっととんでもない話だと思った」としている。 その「とんでもない話」に魅了され、ほぼ20年間、映画化を模索し続けたのが、プロデューサーのジャンニーナ・スコット。監督や出演者の候補には、様々な名前が浮かんでは消えた。結局メガフォンを握ることになったのは、ジャンニーナの夫で現代の巨匠、リドリー・スコットだった。 リドリーは、グッチ家はまるで「ファッション界のイタリア王室」のようで、その興亡には、「ボルジア家やメディチ家」を想起させられたという。即ちこの題材は、「面白くならないわけがない!」と。 2019年11月、リドリーの監督就任と時を同じくして、主演も決まった。”歌姫”にして、『アリー/スター誕生』(2018)で演技者としても一流なことを証明したばかりの、レディー・ガガである。 翌夏=2021年8月、アカデミー賞受賞者やノミネート経験者がズラリと並ぶ、豪華キャストが発表された。そして本作『ハウス・オブ・グッチ』は、2021年2月から5月まで主にイタリアで撮影を敢行。その年の11月に、公開に至った。 ***** 1970年、父がオーナーの運送会社で働くパトリツィア(演:レディ・ガガ)は、弁護士を目指すマウリツィオ(演:アダム・ドライバー)と知り合い、交際を始める。彼は有名ブランド「グッチ」の、創業者一族だった。 マウリツィオは父ロドルフォ(演:ジェレミー・アイアンズ)から結婚を認められず、パトリツィアの実家へと転がり込む。2人はゴールインし、やがて娘が生まれる。 ロドルフォがこの世を去ると、彼の兄で「グッチ」の屋台骨を支えるアルド(演:アル・パチーノ)は、甥のマウリツィオを「グッチ」へと呼び寄せる。 アルドは、息子パオロ(演:ジャレッド・レト)の無能さに、悩んでいた。その一方で、高齢にも拘わらず、TOPを後進に譲る素振りを見せない。パトリツィアは夫が軽視されていることや、自分を「グッチ」の一員と認めないことに、不満を溜めていく。 パトリツィアは一計を案じ、パオロを味方とし、アルドの脱税を告発させる。アルドは獄中の人となり、またパオロも追放して、マウリツィオは、「グッチ」のTOPとなる。 しかし妻の振舞いに、徐々に嫌気がさしてきたマウリツィオは、家を出て、別の女性と暮らすようになる。パトリツィアは、もはや夫の愛情を取り戻すことはできなかった。 怪しげな女占い師のピーナ(演:サルマ・ハエック)に傾倒したパトリツィアは、彼女の力を借りて、夫を殺害する計画を立てる。一方で経営の才覚がなかったマウリツィオは、親の代からの腹心の部下の裏切りに遭って、社長の座を追われる。 1995年、マウリツィオは自宅の前で銃撃されて、命を落とす。悲劇の未亡人を装うパトリツィアだったが…。 ***** 脚本家の1人に起用されたのは、イタリア育ちのロベルト・ベンティヴェーニャ。母がデザイナーだったこともあって、彼には馴染みのある世界だったという。 リドリー・スコットはベンティヴェーニャとの打ち合わせに際し、登場人物たちをシェイクスピアのキャラクターに例えた。マウリツィオは、悩める王子ハムレット。パトリツィアは、奸計を巡らすマクベス夫人。そしてパオロは、道化だと。 実際に起こった事件をベースにした本作だが、『プロメテウス』(2012)以降、リドリー・スコット作品のカメラを任されている撮影監督のダリウス・ウォルスキーは、この作品はドキュメントドラマというよりも、「よくできた昼ドラのような、俗悪で愉快で悲劇的な惨事」だと語っている。 こうした世界観の中で、俳優陣は躍った。“カメレオン俳優”の名を恣にするアダム・ドライバーは、世間知らずの青年マウリツィオが、パトリツィアとの庶民的な生活に喜びを見出しながらも、名門ブランドTOPの地位を得て、己を見失っていく姿を的確に演じた。 ジャレッド・レトは、「グッチ」TOPのアルドの頭痛の種である、ボンクラ息子パオロ・グッチを演じるに当たって、自らのアイディアで、白髪交じりのハゲ頭で小太り体型に、特殊メイクで変身。毎日6時間のメイク時間は、集中してキャラクターについて瞑想するには、「最高の時間」だったという。 アル・パチーノ、ジェレミー・アイアンズの両ベテランも、それぞれの持ち味を生かしながら、見事に実在の人物を演じてみせた。 しかし本作で特筆すべきは、何とも言ってもパトリツィアを演じた、レディー・ガガであろう。 役作りのために、イタリア語なまりの英語を半年もの間訓練。パトリツィアについての文献を読み漁り、映像を見まくったというが、その際には、パトリツィアが実在の人物で、インタビューではよく嘘をつくことがあったため、ジャーナリストのような視点が必要だったという。ガガは正体を隠して、イタリアの街頭に立って、彼女のイメージの聞き込みまで行った。 役作りに於いては、3種類の動物をイメージした。30年近くに及ぶ物語の中で、20代前半の若き日々は、飼い猫。中盤は、遊び心を持って狩りをするキツネ。そして終盤は、獲物を引きつけてから飛び掛かる、ヒョウを観察して、パトリツィア像を作り上げた。 因みに稀代の悪女のイメージが強いパトリツィアだが、ガガはそうした既成のイメージからも距離を置いた。曰く「彼女がマウリツィオ・グッチと結婚したとき、彼は自分の一族全員に見放されたので、お金のために結婚したわけではなかった」。そして彼を殺害した時には、二人はすでに離婚しており、「金銭的なことが懸かっていたわけでは全くなかった」。即ち凶行に至ったのは、「彼女の心が傷ついたから、そして愛のために違いない」という解釈で、パトリツィアを演じているのである。 本作でパトリツィアは、「グッチ」の経営に参画したいと考え、自分にはその能力があると思っていたのに、“部外者”扱いされ、男性社会の中で疎外され続けた女性として描かれる。この辺りは、『エイリアン』(1979)のリプリーにはじまり、『テルマ&ルイーズ』(91)や近作『ゲティ家の身代金』(2017)『最後の決闘裁判』(21)等々、“男性優位社会”の現実に抗する女性像を描き続けてきた、リドリー・スコットの面目躍如でもある。 撮影に際し、ガガのためには、ウィッグが15種類用意された。それはパトリツィアの各時代の実際の髪のレプリカで、髪を染める化学薬品も、それぞれの時代のものを使用したという。 ファッション業界の物語の中で、ガガはシーン毎に衣装を変えた。劇中で披露したその数は、全部で54ルック。衣裳担当のジェンティ・イエーツによると、シーン毎に4~5着の候補を持ち寄ると、ガガからその組合せの提案が返され、コーディネートを「完璧に」仕上げていった。 こうして内面及び外見で、パトリツィアになり切ったレディー・ガガ。劇中に登場する「Father, Son, and House Of Gucci (父と子とグッチ家の御名において)」というセリフは、脚本にはなく、ガガが現場で放ったアドリブだったという。 2021年11月、本作が公開されると、アルド・グッチの子孫らは、本作では、グッチ家の人々が、「悪党で無知で無神経な者たち」として描かれ、事実が捻じ曲げられていると、異議を唱えた。パトリツィアが、「男性的でマッチョな企業文化」を乗り越えようとした「被害者」として描かれていることが「不愉快だ」とも、述べている。 それに対してリドリー・スコットは、「グッチ家の一人が殺され、もう一人が脱税で刑務所に入ったことを忘れてはならない」と、こうした異議を一蹴している。 因みにパトリツィアは、本作についてどんなリアクションを示しているのか?彼女は1998年、裁判で有罪判決を受け、29年の懲役を宣告されたが、2016年には出所。現在はミラノに住み、ペットのオウムを肩に乗せて街を歩いている姿が、よく目撃されているという。 70代となった彼女は、レディー・ガガが自分の役を演じることに対して、「…腹立たしいと思っている」と不快感を示している。ガガが自分に会いにも来なかったことが、いたく不愉快だったようだ。ついでにパトリツィアは、自分をモデルにした映画からは、1銭たりとも収益がもたらされないことも、明らかにした。 これに対してガガは、パトリツィアに会わなかったのは、「この女性はこの殺人を美化されたがっていて、犯罪者として記憶されたがっているとすぐに分かったから」だと語っている。演じるに当たって、そうした危険を察知。敢えて本人との面会を避けたわけである。「よくできた昼ドラのような、俗悪で愉快で悲劇的な惨事」を描いた『ハウス・オブ・グッチ』。スキャンダラスなヒロインのモデルと、演じた“歌姫”を巡る、インサイド・ストーリーである。■ 『ハウス・オブ・グッチ』© 2021 Metro-Goldwyn-Mayer Pictures Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2024.07.03
サム・ライミの『死霊のはらわた』シリーズ第3弾!なぜか邦題は、『キャプテン・スーパーマーケット』
“アクション”“SF”“恋愛”“コメディ”“ホラー”…云々。映画のジャンルを大別すると、例えばこのような区分けが為されるのが、一般的だ。 一方で、そんな真っ当なジャンル分けを、無効化してしまうようなジャンルもある。“ジョーズもの”“マッドマックスもの”“エイリアンもの”“ランボーもの”“ターミネーターもの”“ジュラシック・パークもの”…。メガヒット作など大きな話題になった映画の後を追って作られた、バッタもん、パチもん度が強い作品群だ。 “ホラー映画”に於いては、例えば“エクソシストもの”や“悪魔のいけにえもの”等々が存在する。今や真っ当な映画ジャンルに育ってしまった“ゾンビもの”は、元々はジョージ・A・ロメロ監督の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(1968)や『ゾンビ』(78)のパチもの群がスタートだったのは、誰も否定できまい。 サム・ライミ監督の記念すべき長編デビュー作『死霊のはらわた』(81)は、ロメロの影響を受けた“ゾンビもの”の一端を担いながらも、新たに“死霊のはらわたもの”というジャンルを生んだ、記念すべきオリジンと言える。この作品以降、森の奥深い山小屋を舞台に、そこを訪れた者たちが死霊に憑依され、スプラッタ描写満載の惨劇が繰り広げられるホラーが、どれほどの数この世に送り出されたことか。 元々は「ホラーは苦手」だったというサム・ライミ。大学時代からの映画仲間ロバート・タパートに、「世に出るなら、低予算のホラーだ」と説き伏せられたことから、様々なホラー作品に触れて研究を重ね、『死霊のはらわた』を生み出すこととなった。 製作費は35万㌦という超低予算のこの作品は、国内外で話題となり、多くのシンパが誕生した。「ホラーの帝王」スティーヴン・キングは応援団長となって、大物プロデューサーであるディノ・デ・ラウレンティスを、ライミたちに紹介。その結果生まれたのが、前作の10倍=350万㌦の製作費を掛けた続編、『死霊のはらわたⅡ』(87)だった。「僕は8ミリ映画時代から、観客にウケさえすれば続編を作って来たからね」というライミだが、同じことをやるのは嫌だった。そこで『Ⅱ』では、ライミの高校時代からの親友であるブルース・キャンベルが前作で演じたアッシュというキャラが、中世ヨーロッパにタイムスリップし、そこで死霊憑きの軍団と戦うという内容を考えた。 しかし、この構想に乗る者はなかった。ラウレンティスからは、「前作と同じテイスト」をと、事実上の「リメイク」を求められ、「中世編」のアイディアは、お蔵入りとなった。 結果的に生まれた『死霊のはらわたⅡ』は、第1作の粗筋をなぞりつつ、ライミがこよなく愛するスラップスティック・コメディ「三ばか大将」風のギャグが満載された内容となった。観客層を広げるために、残酷描写は前作より抑えたが、その分レイ・ハリーハウゼン風のモデルアニメーションを導入したり、片腕を失ったアッシュが、“チェンソー”を装着して死霊と戦うなど、サービス精神も旺盛な、エンタメ作品に仕上がっている。『Ⅱ』のラストでは、アッシュが中世へとタイムスリップ。その時代の民に、“死霊ハンター”の英雄として迎えられる。このように、棚上げされた「中世編」のネタまで盛り込んだのは、映画作家としてのライミの意地と言うべきか? この『死霊のはらわたⅡ』が興行的な成功を収めたことによって、更にその続編に、ラウレンティスが製作資金を提供することになった。今度は好きな内容をやっても良いということだったので、ライミは『Ⅱ』のエンディングの続き、1度は棚上げになった、「中世編」のプロットを本格的に復活させることにした。 そして製作されたのが本作、『死霊のはらわた』シリーズ第3作となる、『キャプテン・スーパーマーケット』(93)である。 ***** スーパーの店員だったアッシュは、死霊との戦いの末に、中世イングランドへとタイムスリップ。その地を治めるアーサー王に、敵のヘンリー王一味と間違われて、死霊の巣喰う穴へと放り込まれる。 あわやの瞬間に彼を救ったのは、“片腕チェンソー”とライフル銃。民衆は掌を返したように、アッシュを“英雄”として迎える。 街の娘シーラと恋に落ちたアッシュ。民衆を死霊たちから守り、自らは元の時代に戻るためには、「死者の書」が必要なことを知る。「死者の書」を求めて、死霊の巣食う墓地へ向けて旅立つアッシュ。死霊に襲われ、逃げ込んだ風車小屋の中で、自分にそっくりの姿をした小人の悪霊の一団と戦うが、その1人に体内へと入り込まれた挙げ句、分身として“悪霊のアッシュ”が誕生してしまう。 アッシュはその分身を、ライフルで倒しチェンソーでバラバラにして埋葬する。そして遂に、「死者の書」の元へと辿り着く。 しかしアッシュは、「死者の書」を手に取る際に必要な呪文を忘れてしまっており、適当に誤魔化しながら持ち出したため、死霊軍団が復活。そのリーダーの座には、一旦は葬った筈の分身、“悪霊のアッシュ”が就く。 死霊軍団がアーサー王の城へと迫るも、アッシュは、自らが元の時代に戻ることしか頭にない。しかしシーラが死霊にさらわれると、一転。戦いの先頭に立つ決意をするが…。 ***** 開巻間もなく、前作の内容をダイジェスト風に紹介。その際に死霊に身体を乗っ取られる、アッシュの恋人リンダを、当時若手俳優として人気が高かった、ブリジット・フォンダが演じている。 実はブリジットは、『死霊のはらわたⅡ』の大ファン。僅かな出番ではあるが、シリーズを通じて最もネームバリューの高いスターの出演は、本人が熱望して決まったものだったという。 本作の原題は、「Army of Darkness」。『死霊のはらわた』の原題である、「Evil of Dead」が入っていない。これは、配給を担当したユニヴァーサルが公開タイトルを、「Evil of Dead Ⅲ」とすることに反対したためである。ライミは「Evil of Dead 中世編」とすることも考えたようだが、結局はユニヴァーサルの意向によって、シリーズの第3弾だとは、まったくわからないようなタイトルになってしまった。 因みに日本での公開タイトルが、アッシュがスーパーの店員という設定ぐらいしか由来がない、『キャプテン・スーパーマーケット』になってしまったのも、極めて不可解。実際に当時多くの映画ファンが、『死霊のはらわた』シリーズだとは気付かないままに、公開されている。 因みに後にサム・ライミのプロデュースで、ハリウッド映画を撮った清水崇監督によると、ライミにもこの邦題が伝わっていたという。その上で、「日本人はクレイジーだ」と面白がっていたそうな。 それにしても「Evil of Dead=死霊のはらわた」を外したタイトルになったのは、本作が前2作と違って、“ホラー”要素が極めて薄かったからなのか? 実際に本作では、「臆病で自惚れ屋でほら吹き」というアッシュのキャラの方向性が定まり、前作以上に、「三ばか大将」に影響を受けた笑いの要素が強くなっている。アッシュは1人でバカ騒ぎをして、酷い目に遭うギャグが繰り返される。 演じるブルース・キャンベルは、先にも記した通り、サム・ライミの高校時代からの親友。8㎜フィルムでインディーズ映画を撮ってきた仲間である。 演技を学ぶために大学に進学するも、『死霊のはらわた』を作るために退学し、アッシュを演じることとなった。そして彼は、最後まで生き残るファイナルガールならぬ“ファイナルボーイ”として、シリーズ全般で主役を演じることとなった。 『死霊のはらわた』第1作の後には、ライミが「エンバシー・ピクチャーズ」という、名の通った映画会社と初めて組んだ作品『XYZマーダーズ』(85)で主演する筈だった。しかし、無名の俳優は主役には据えられないという、「エンバシー」からの“口出し”によって、脇役に回る憂き目に遭う。『死霊のはらわたⅡ』の後には、ライミ初のハリウッドメジャー作品『ダークマン』(90)の蹉跌が待ち受けていた。こちらも主演にキャンベルを当てる構想が、ユニヴァーサルの意向によって、リーアム・ニーソンへと差し替えられたのだ。この作品のラストでは、ニーソンが変装したキャラの顔がキャンベルその人で、そのままストップしてエンドロールが流れる。これはライミとキャンベルによる、ユニヴァーサルへの意趣返しとしては、痛快ではあったが…。 インディーズ出身の監督が、出世していくプロセスで、その頃からの主演俳優をそのまま使っていくのが、いかに難しいことであるか。そうした意味で本作『キャプテン・スーパーマーケット』は、それまでに散々踏みにじられてきたライミとキャンベルの親友コンビにとって、メジャー作品でありながらその組合せが守られた、待望の作品だったわけである しかし本作でも、『ダークマン』に続いて、アメリカ国内配給を担当したユニヴァーサルによる、ポスト・プロダクションでの介入が行われた。ユニヴァーサルの意見は、「長すぎるし、最後が暗い」。そこで本作は15分カットされた上、アッシュが元の時代に戻る、事の顛末が大きく改変された。 ユニヴァーサルの命によって追加撮影されたヴァージョンでは、アッシュはスーパーの店員として平凡な日常に戻るも、その際にまたも呪文を唱え間違えたせいか、その場に死霊が出現。対決したアッシュは、見事に勝利を収め、拍手喝采を浴びる。 ご丁寧にもこの追加撮影分には、ブリジット・フォンダが再び出演しているが、今回放送されるヴァージョンは、ライミによるディレクターズ・カット版。ユニヴァーサルに「暗い」と断じられたラストが、どのようなものかは、その目で確かめて欲しい。 ラウレンティスとユニヴァーサル間のトラブルもあって、公開時期が遅くもなった本作。そうしたドタバタが続いたものの、「目指すのはエンターテイメント」「皆が笑ったりビックリするような映画を撮りたい」という、ライミの本領が見られる作品となっている。 因みに『死霊のはらわた』シリーズ以降のブルース・キャンベルは、ライミ作品に関しては、本編のどこかにちょこっと特別出演するような形が多い。例えば『スパイダーマン』3部作(2002~07)などは、全作違う役で出演している。 そしてドラマシリーズとしてライミがプロデュース、第1話を監督した、「死霊のはらわた リターンズ」(2015~18)には、30年後のアッシュ役で主演。再び、「臆病で自惚れ屋でほら吹き」ぶりを、たっぷりと見せてくれたのである。■ 『キャプテン・スーパーマーケット』© 1993 Orion Pictures Corporation. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2024.07.03
巨匠ジョン・カーペンターによるSFホラーの金字塔!その恐怖の舞台裏に迫る!『遊星からの物体X』
実は2度目の映画化だった ホラー映画の巨匠ジョン・カーペンター監督が手掛けた、SFホラー映画史上屈指の傑作である。舞台は雪に閉ざされた冬の南極観測基地。殺した人間や動物を体内に取り込んで細胞レベルからコピーし、本物と成り代わってしまう謎のエイリアンが犬を介して基地内へ秘かに侵入。一人また一人と隊員を殺しては同化し、さらにそこから分裂と増殖を繰り返していく。気心の知れた同僚が気付かぬうちに本人ソックリの怪物と入れ替わってしまう恐怖。誰が本物で誰が偽者なのか…?という疑心暗鬼とパラノイアを描いた、アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』を彷彿とさせる緊迫したストーリーの面白さも然ることながら、特定の形状を持たず自由自在に擬態・変態を繰り広げるグロテスクなエイリアンを、当時の最先端テクノロジーを駆使して表現したドロドロ&グチャグチャなSFXシーンの強烈なこと!あんな映像、当時は他で見たことなかった。いわゆるクリーチャー・エフェクトに革命をもたらした映画でもあったのだ。筆者は高校生だった’80年代半ばに東京都内の名画座で初めて見たのだが、あの時のスリルとショックと興奮は未だに忘れられない。 原作はアメリカの大物SF作家ジョン・W・キャンベルが、1938年にドン・A・スチュアートのペンネーム(元ネタは最初の妻ドナ・スチュアート)で発表した短編小説「影が行く」。キャンベルの母親は一卵性双生児だったそうで、息子でも見分けがつかないほど母親と瓜二つだが性格は真逆のおばさんと彼は折り合いが悪かったらしく、そこから「愛する人の中身が邪悪な別人だったら?」という小説のベースとなるアイディアが生まれたという。これが今までに2度、ハリウッドで映画化されている。 最初の映画化は’51年。『暗黒街の顔役』(’32)や『赤ちゃん教育』(’38)、『三つ数えろ』(’46)などでお馴染みの巨匠ハワード・ホークスがプロデュースを担当し、ホークス作品の編集者だったクリスチャン・ネイビイが監督を任されたRKO配給作品『遊星よりの物体X』である。実際は大半のシーンをホークスが演出したとも噂される同作は、ロバート・ワイズ監督の『地球の静止する日』(‘’51)と並んで、’50年代SF映画ブームの起爆剤となった名作。しかし、当時の技術では忠実な映画化が困難だったためか、原作の内容はだいぶ改変されてしまった。中でも最大の違いは地球外生命体の「物体X」である。フランケンシュタインの怪物みたいな容姿の「物体X」は植物が進化した知的生命体で、そのため感情や感覚がなく武器も通用しないという設定。一応、短時間で繁殖が可能という設定だけは残されたが、しかし他の生物を体内へ取り込んで擬態することはなく、ただ単に人間や動物の血を吸って殺すだけ。極めてオーソドックスなモンスターとなってしまった。 ‘51年版に多大な影響を受けていたカーペンター監督 それから20年以上の歳月が流れた’70年代半ば、ある人物が原作小説の再映画化に動き出す。当時、主にテレビ業界で活動していた新進の若手プロデューサー、スチュアート・コーエンだ。「影が行く」の映画化権を手に入れた彼は、知人だった『ゲッタウェイ』(’72)や『新・動く標的』(’75)のプロデューサー、デヴィッド・フォスターに再映画化を提案。これを気に入ったフォスターは、当時コンビを組んでいた『卒業』(’68)の名プロデューサー、ローレンス・ターマンと一緒にユニバーサルへ企画を持ち込んだところ承認されたというわけだ。さらにユニバーサルは、当時RKO作品の権利を所有していたウィルバー・スタークから『遊星よりの物体X』のリメイク権も獲得。その際の交換条件として、スタークは本作の製作総指揮に名前がクレジットされている。後にスタークは自分が脚本執筆に関わったと主張したそうだが、しかし実際は製作過程に一切タッチしていないという。 こうして企画の動き出した『遊星からの物体X』。発案者であるスチュアート・コーエンが当初より監督に想定していたのは、南カリフォルニア大学映画芸術学部時代の友人ジョン・カーペンターだった。そもそも彼が再映画化を思いついたきっかけは、自主制作のデビュー作『ダークスター』(’74)が劇場公開へ漕ぎ着けたばかりのカーペンターやダン・オバノンと、ロサンゼルスで食事をした際に『遊星よりの物体X』が話題に上ったこと。少年時代に同作を見て夢中になったというカーペンターは、当然ながらジョン・W・キャンベルの原作小説も熟読していた。何よりもカーペンターはハワード・ホークスの熱狂的な崇拝者である。再映画化の演出を任せるに適任と思われたが、しかし当時のカーペンターはまだ無名に等しかったため、ユニバーサルの重役陣が首を縦に振らなかった。 代わりにユニバーサルが企画を任せようとしたのが、『悪魔のいけにえ』(’74)を大ヒットさせたトビー・フーパー監督とその盟友の脚本家キム・ヘンケル。しかし、方向性を巡って制作陣と意見が折り合わなかったために2人は降板し、その後も様々な人物が入れ代わり立ち代わり携わったが、なかなか企画は前に進まなかったという。そうこうしているうちに、カーペンター監督の出世作『ハロウィン』(’78)が口コミで空前の大ヒットを記録。さらに、リドリー・スコット監督の『エイリアン』(’79)の大成功でSFホラーが注目されたことから、ユニバーサルは今や時の人となったカーペンター監督を起用して企画に本腰を入れるようになったのだ。 ちなみに、『ハロウィン』の劇中で『遊星よりの物体X』がテレビ放送されているのはご存知の通り。これがユニバーサルへのアピールだったのかどうかは定かでないが、しかし撮影監督のディーン・カンディが明かしたところによると、『ハロウィン』の撮影に入る前にカーペンター監督の自宅で見せられた「参考作品」が、他でもない『遊星よりの物体X』のビデオテープだったという。それくらい、同作はカーペンター監督に多大な影響を与えているのだろう。 閑話休題。予てより適任の脚本家を探していたコーエンは、『がんばれベアーズ』(’76)シリーズの脚本に感心して、同作の脚本家ビル・ランカスター(俳優バート・ランカスターの息子)を起用。改めて事前にRKO版を見たカーペンター監督とランカスター、そしてプロデューサー陣は、『遊星よりの物体X』のリメイクではなく原作小説の忠実な映画化という方向性で意見が一致したという。当時『ザ・フォッグ』(’80)のポストプロダクションに取り掛かっていたカーペンター監督は、その合間を縫ってランカスターと脚本の内容を打ち合わせたという。そのうえで、ランカスターはカーペンター監督が『ニューヨーク1997』(’81)を撮影中に脚本を執筆。’80年の暮れ頃には第一稿が完成していたという。それまで自作の脚本は自ら書いていたカーペンター監督だが、本作で初めて他人が書いた脚本に満足できたのだそうだ。 屋外シーンのロケ撮影にこだわったカーペンター監督だが、しかし南極大陸での撮影はさすがに不可能。そこで代替のロケ地として選ばれたのが、極北のアラスカおよびカナダのブリティッシュ・コロンビア州だった。撮影監督には『ハロウィン』以来の常連ディーン・カンディを起用。’81年6月(一部に8月説もあり)にアラスカで撮影はスタートした。冒頭のノルウェー隊のヘリがハスキー犬を追いかけるシーンだ。8月に入るとロサンゼルスのユニバーサル・スタジオで屋内シーンの撮影も開始、その一方で、ブリティッシュ・コロンビア州のスチュワート近郊の鉱山跡に理想的なロケ地を発見した制作チームは、まだ雪の少ない夏を利用して南極観測基地の実物大セットを建設し、そのまま冬を待つこととなる。 ロサンゼルスの屋内シーン撮影は10月に終了。12月に入るとカナダでのロケ撮影が始まる。その頃になるとスチュアート近郊も一面銀世界。夏の間に建てられた南極観測基地のセットは、すっかり降り積もった雪に覆われており、とても撮影用のセットとは思えない「本物」らしさ醸し出す。初日に現場へ着いたキャスト陣も「まるで、ずっとそこに建っていたみたいだ」と驚いたそうだ。プロダクション・デザインを担当したのはユニバーサル専属のベテラン、ジョン・ロイド。これは屋内シーンにも言えることだが、まるで実際にそこで人が暮らして来たような生活感の滲み出る彼の撮影用セットは、本作の陰鬱とした禍々しい空気感に圧倒的なリアリズムを与えていると言えよう。 ・『遊星からの物体X』撮影現場でのキャスト集合写真 特殊メイクの若き天才ロブ・ボッティンの功績 生活感が滲み出ると言えば、地味ながらも渋い名優たちが揃ったキャスティングも良かった。とりあえずメジャースタジオの大作映画であるため、主人公マクレディ役にはカーペンター映画の常連俳優でもある人気スター、カート・ラッセルを起用。かつてディズニー映画の人気ティーン・アイドル・スターだったラッセルは、カーペンター監督のテレビ映画『ザ・シンガー』(’79)のエルヴィス・プレスリー役で大人の俳優への脱却に成功し、『ニューヨーク1997』のスネーク・プリスキン役でタフガイ・スターの仲間入りを果たしたばかりだった。 そのラッセルの脇を固めるのは、西部劇スタントマン出身のカウボーイ俳優ウィルフォード・ブリムリー(生物学者ブレア役)にロバート・アルトマン作品の常連俳優ドナルド・モファット(観測隊隊長ギャリー役)、テレビ『L.A.ロー/七人の弁護士』(‘86~’94)も懐かしいリチャード・ダイサート(コッパー医師役)、『チャンス』(’80)の弁護士役や『ミッシング』(’81)の米国領事役が印象深いデヴィッド・クレノン(ヘリ操縦士パーマー役)などなど、名前は知らずとも顔は知っている’80年代ハリウッド映画の名脇役ばかり。後に『プラトーン』(’86)や『オールウェイズ』(’89)などで有名になる黒人俳優キース・デイヴィッドは、本作の最期まで生き残る機械技師チャイルズ役で映画デビューを果たし、カーペンター監督とは『ゼイリブ』(’88)でも組むことになる。 さて、本作の撮影と同時に進められたのが肝心要となるクリーチャー・エフェクトの制作。当初、プロデューサーのデヴィッド・フォスターとローレンス・ターマンは、自らが製作した『おかしなおかしな石器人』(’81)でユニークなクリーチャーをデザインしたデイル・カイパーズに白羽の矢を立てた。カーペンター監督がこだわったのは「着ぐるみモンスターだけは絶対に避ける」こと。その要望を基にデザインされたカイパーズのアイディアをカーペンターは気に入ったそうだが、しかしそのカイパーズが怪我で企画から降板せざるを得なくなる。そこでカーペンターが声をかけた代役が、製作スタート当時まだ21歳だった若手特殊メイクアップ・アーティスト、ロブ・ボッティンだった。 根っからのホラー&SF映画マニアだったボッティンは、弱冠14歳にして特殊メイクの神様リック・ベイカーに弟子入り。『ハロウィン』を見てカーペンター監督の大ファンになった彼は、『ロックンロール・ハイスクール』(’79)で仕事をしたディーン・カンディに頼んでカーペンター監督を紹介してもらい、『ザ・フォッグ』の特殊メイクに参加したほか幽霊船の船長役で出演まで果たしていた。その後、ボッティンは『ハウリング』(’81)で披露した狼人間の変身シーンでセンセーションを巻き起こし、その見事な仕事ぶりに感心したカーペンター監督によって本作に起用されたというわけだ。 ただし、もともとカーペンター監督はクリーチャー・エフェクトの造形・操作だけをボッティンに任せる予定で、クリーチャー・デザイン自体はデイル・カイパーズのものを採用するつもりだったらしい。当然ながら、若くて創造力とやる気に溢れるボッティンは、他人のデザインを実現するだけの仕事なんて不満でしかなく、そのうえカイパーズのデザインが『エイリアン』のギーガーのデザインに似ていることも気になった。そこでボッティンが出したデザイン代案が、まさに原作や脚本のイメージをそのまま具現化したような、まるでH・P・ラヴクラフトのクトゥルフ神話に出てくるようなニョロニョログチャグチャの異形のモンスター。独創性においてもインパクトにおいても格段に優れているのは一目瞭然で、おのずとこのロブ・ボッティン案が採用されることとなったのである。 ただ、やはりこの複雑怪奇で斬新すぎるクリーチャー・デザインを実際に映像化するのは至難の業だったようで、おかげでSFXシーンの撮影は延びに延びてしまう。全米公開の予定は’82年6月。しかし、3月に入ってもSFX撮影は終わらず、休日返上で1日18時間働きづくめだったボッティンは、食事の暇も惜しんでキャンディバーとソーダだけで腹ごしらえをしていたこともあり、極度の疲労で病院に担ぎ込まれてしまった。そこで助っ人として呼ばれたのが『ターミネーター2』(’91)や『ジュラシック・パーク』(’93)などでオスカーに輝くスタン・ウィンストン。犬小屋の変態シーンはウィンストンの仕事だ。また、エイリアンが巨大化するクライマックスはストップモーション・アニメで制作することになり、『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズのVFXマン、ランドール・ウィリアム・クックがミニチュア撮影を担当。ようやく完成したのはプレビュー試写の直前だったという。 劇場公開時に過小評価されてしまった理由とは? かくして、ユニバーサルが自信をもって贈るサマーシーズンのブロックバスター映画として、’82年7月25日に全米840の映画館で一斉に封切られた『遊星からの物体X』。ところが、今となっては信じられないことだが、批評的にも興行的にも当時は大惨敗を喫してしまう。その最大の原因が、過剰なまでにグロテスクなクリーチャー・エフェクト。犬の顔が食肉植物みたいにパカッ!と開いて無数の触手がヒュルヒュルと飛び出したり、人間の頭部が勝手にギューッと伸びて首から引きちぎれて転げ落ちたと思ったら、口から蜘蛛の脚みたいなものがニョキニョキと生えて歩き始めたり、人間や犬のボディパーツがグッチャグチャに入り交じったモンスターが巨大化したりと、思わず笑いがこぼれてしまうほどトゥーマッチなゴア描写は、それこそ特撮マニアであれば狂喜乱舞する見事な出来栄えだったが、しかし当時の大方の映画観客や批評家には刺激が強すぎたようで、「気持ちが悪すぎる!」「紛れもないゴミだ!」などと散々な言われようだった。中には「こんな映画、子供には見せられない!」との批評もあったそうで、それを読んだキース・デイヴィッドは「なら子供に見せなけりゃいいだろ!」と突っ込んだのだとか(笑)。ただ、確かに本作はその過激なゴア描写のせいでR指定を受けてしまい、それが客足の鈍化につながったことは否定できない事実だろう。特にサマーシーズンのブロックバスター映画にとって、子供連れのファミリー層に見てもらえないR指定は大きな痛手である。 さらに、本作は公開されたタイミングも悪かった。なにしろ、’82年サマーシーズンのブロックバスター映画といえば、『コナン・ザ・グレート』に『ロッキー3』、『マッドマックス2』(本国オーストラリアでは’81年12月公開)に『スタートレックⅡカーンの逆襲』、さらには『E.T.』に『ポルターガイスト』に『トロン』に『愛と青春の旅立ち』に『初体験リッジモントハイ』に『13日の金曜日3』にと、例年になく話題作が勢ぞろいした文字通りの「豊作の年」だったのだ。 もともとハリウッド映画の稼ぎ時というのは年末のホリデー・シーズンを軸とした冬だったが、しかしスティーブン・スピルバーグの『ジョーズ』(’75)やジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』(’77)の大成功をきっかけに、従来は映画館に客が入らないと言われた夏休みシーズンに、大手スタジオ各社がイチオシの大作映画を封切るケースが増えて行く。そのサマー・ブロックバスターが本格化した最初の年が、他でもない’82年だったとも言われるのだ。しかも、2週間前に公開されたのがまるで正反対の心温まるファミリー向けSF超大作『E.T.』、本作の同日公開がリドリー・スコットの『ブレードランナー』である。あまりにも話題作が目白押しすぎるうえ、社会現象となった『E.T.』ブームの真っ只中とあれば、さすがに分が悪すぎたと言えよう。 おかげで、カーペンター監督は次回作として予定されていたユニバーサルの『炎の少女チャーリー』をクビになったばかりか、同社で複数の映画を撮るという契約も破棄されてしまうことに。当然ながら、当時のカーペンターは大変なショックだったらしく、その後数年間はインタビューでも本作の話題を避けるほど深いトラウマを残したという。本作が正当な評価を得るようになったのは、’80年代半ばにビデオ発売されてからのこと。今ではエンターテインメント・ウィークリーやローリング・ストーン、エスクワイアやヴァラエティなど、各主要メディアの選ぶSF映画やホラー映画の歴代名作ランキングでは必ず上位に入って来るし、ギレルモ・デル・トロやエドガー・ライト、J・J・エイブラムスなど本作に影響を受けたと公言する映像作家も少なくない。筆者もVHSにLD、DVDにブルーレイと本作のソフトを買い続け、これまでにどれだけ繰り返し見てきたことか!もちろん、何度見たって飽きることなどナシ!これぞ理屈を超えた面白さ、紛うことなき「不朽の名作」である。■ 『遊星からの物体X』© 1982 Universal City Studios Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2024.07.01
大ヒットホラー『X エックス』と『Pearl パール』の生みの親タイ・ウェストの魅力に迫る!
出世作は惜しくも日本未公開 『ヘレディタリー/継承』(’18)や『ミッドサマー』(’19)の製作会社A24が新たに放つホラー映画として、ここ日本でも話題となったタイ・ウェスト監督のスラッシャー映画『X エックス』(’22)と、その前日譚に当たるサイコホラー『Pearl パール』(’22)が、7月のザ・シネマにて一挙放送される。そこで今回は、アメリカでは高く評価されながらも日本ではまだ知名度の低いタイ・ウェスト監督の作家性を紐解きつつ、その代表作となった『X エックス』と『Pearl パール』の見どころをご紹介したい。 アメリカ東海岸はデラウェア州の商業都市ウィルミントンに生まれ、本人曰く「典型的な郊外の中流家庭」に育ったというタイ・ウェスト監督。1980年生まれの「ミレニアル世代」だが、しかし少年時代にレンタル・ビデオで見た’70~’80年代のホラー映画に影響を受けて映画監督を志すようになった。本人が最も好きな映画として度々挙げているのは、ピーター・メダック監督の『チェンジリング』(’80)にニコラス・ローグ監督の『赤い影』(’73)、スタンリー・キューブリック監督の『シャイニング』(’80)にウィリアム・フリードキン監督の『エクソシスト』(’73)。なるほど、好みの傾向が分かろうというものですな。派手なショック演出よりも禍々しい雰囲気を重視し、ホラー要素よりも人間ドラマやテーマ性に比重が置かれ、じっくりと時間をかけて徐々に恐怖を盛り上げていく知的なホラー映画。それは、後のタイ・ウェスト監督作品にも共通する特徴と言えよう。 ニューヨークのスクール・オブ・ビジュアル・アーツで映画作りを学んだウェスト監督は、恩師ケリー・ライカート(!)に紹介されたニューヨーク・インディーズ界の鬼才ラリー・フェッセンデンのプロデュースで、自身初の商業用長編作品となるヴァンパイア映画『The Roost』(’05・日本未公開)を発表。これがテキサス州で毎年開催される映画と音楽の大規模見本市「サウス・バイ・サウスウェスト」で評判となり、さらにハリウッド大手のパラマウントからDVD発売されたことから、ウェスト監督はイーライ・ロス監督の大ヒット・ホラー『キャビン・フィーバー』(’03)の続編『キャビン・フィーバー2』(’09)の演出を任されることとなる。 ところが、作品の方向性を巡ってウェスト監督とプロデューサー陣が真っ向から対立。あえてブラック・コメディ路線を狙った監督だが、しかしプロデューサーたちはその意図を理解してくれなかったという。『キャビン・フィーバー2』の撮影自体は’07年4月にクランクアップしていたそうだが、しかし劇場公開まで2年以上もお蔵入りすることに。その間に、プロデューサー側はウェスト監督に無断で追加撮影と再編集を行っており、これに強い不満を持ったウェスト監督は「アラン・スミシー名義」の使用を要求したが、しかし当時まだ彼は全米監督協会の会員でなかったために使用許可が下りなかったという。すこぶる評判の悪い同作だが、実はこういう裏事情があったのだ。 そんなタイ・ウェスト監督の出世作となったのが、’80年代のスラッシャー映画ブームにオマージュを捧げた『The House of the Devil』(‘09年・日本未公開)。これは、筆者がウェスト監督の才能に注目するきっかけとなった作品でもある。舞台は「悪魔崇拝者が子供たちを誘拐・虐待している」という噂が全米に広まり、いわゆる「サタニック・パニック」と呼ばれる集団ヒステリーが巻き起こった’80年代前半のアメリカ北東部。アパートの家賃支払いに困った10代の女子大生が、やけに時給の高いベビーシッターのアルバイトに応募したところ、それは生贄を求める悪魔崇拝カルトの仕掛けた罠だった…というお話だ。 生まれて初めて独り暮らしをすることになった貧乏学生のヒロイン。そんな彼女の抱える不安や心細さが、いかにも怪しげな古い大豪邸で過ごすひとりぼっちのアルバイトの不安や心細さと絶妙にシンクロし、やがてその漠然とした恐怖が現実のものとなっていく。細やかなディテールの積み重ねで、徐々に恐怖を煽っていくストーリーは地味ながらも圧倒的な真実味がある。なによりも、まるで本当に’80年代に作られた映画のような雰囲気に驚かされた。撮影では16ミリフィルムを使用。セットや衣装はもちろんのこと、オープニング・クレジットのフォントデザインからエンディング・クレジットの表示形式、劇中のカメラワークからチープな音楽スコアまで、’80年代の低予算スラッシャー映画のクリシェを徹底して模倣することで、当時の空気感までリアルに再現してしまうウェスト監督の演出力に感心させられる。この見事な作品が、いまだ日本で見ることが出来ないというのは実に惜しい。 タイ・ウェストの描くホラー映画の真髄とは? ちなみに、ここで注目したいのが『The House of the Devil』で主人公の親友を演じたグレタ・ガーウィグと、同作で911オペレーターの声を担当したレナ・ダナムの存在だ。ダナムは次作『インキーパーズ』(’11)にも脇役で出演している。ご存知、どちらも現在のアメリカのインディペンデント映画界を代表する女性作家にして、’00年代初頭にインディーズ映画のメジャー化に対抗する形で派生したサブジャンル「マンブルコア」(これを映画運動と見る向きもある)の代表的なフィルムメーカーに数えられている人たちだ。 マンブルコアとは自主製作映画の原点に立ち返り、現代アメリカ社会の日常に根差した身近なテーマを、自然体の即興芝居やモゴモゴとした聞き取りにくいセリフ(=マンブルコアの語源)、シンプルかつ自由な演出などを駆使して描いた、ウルトラ低予算の私小説的な映画群のこと。そのルーツはジョン・カサヴェテスやウディ・アレン、ミケランジェロ・アントニオーニやエリック・ロメールに求められる。アメリカでは’00年代に一世を風靡したマンブルコアだが、しかし日本では多くの作品が未公開のため認知度はそれほど高くない。とりあえず、ガーウィグが主演したノア・バームバック監督の『フランシス・ハ』(’12)や、そのガーウィグが監督した『レディ・バード』(’17)辺りは、’10年代以降のいわゆる「ポスト・マンブルコア」の系譜に属する作品。レナ・ダナムのテレビシリーズ『GIRLS/ガールズ』(‘12~’17)もマンブルコアの影響下にあると言えよう。他にもアダム・ウィンガードやジョー・スワンバーグ、デュプラス兄弟にアーロン・カッツ、「マンブルコアのゴッドファーザー」と呼ばれるアンドリュー・ブジャルスキーなどがマンブルコアの重要な作家と言われているが、実はタイ・ウェストもその仲間だった。 まあ、よくよく考えてみれば学生時代の恩師からして、マンブルコアの作家たちと親和性の高そうな「アメリカン・インディーズの至宝」ケリー・ライカートである。ガーウィグやダナムがウェスト作品に関わったように、ウェスト監督もウィンガードやスワンバーグの作品に役者として出演。マンブルコアの作家たちは互いの交流が活発だ。そもそもウェスト監督の『The House of the Devil』や『インキーパーズ』、ウィンガード監督の『サプライズ』(’11)や『ザ・ゲスト』(’14)などはマンブルコアのホラー版とも見做され、マンブルコアならぬ「マンブルゴア(マンブルコア+ゴア)」という造語まで生まれた。そういう視点でウェスト監督作品を改めて見返すと、「自分をホラー映画監督だとは思っていない」という彼の言葉にも少なからず納得できるだろう。 「恐怖というのは日常の延長線上にあるもの」というタイ・ウェスト監督。そのうえで、自身が作っているのはホラー映画ではなく、「ホラー映画へと変化する普通の映画」だと述べている。そういえば彼は『エクソシスト』や『シャイニング』を評価する理由として、前者は「病気の娘を抱えた女性」を描いており、後者は「家族を憎むアル中男」を描いている、どちらも「まずはドラマが優先でホラーは2番目」であることを挙げていたが、確かに彼自身の作品もホラー要素と同じかそれ以上にドラマ要素が重視される。そこはホラー映画ファンの間でも賛否の分かれるところで、実際にウェスト監督自身は「ハードコアなホラー映画マニアは僕のことを嫌っている」と感じているそうだ。 さて、その『The House of the Devil』でスクリームフェストやサターン賞などのジャンル系賞レースを賑わせたウェスト監督は、続くお化け屋敷映画『インキーパーズ』が初めて興行収入100万ドルを超えるスマッシュヒットを記録。友人のウィンガードやスワンバーグも参加したオムニバス・ホラー『V/H/Sシンドローム』(’12)や『ABC・オブ・デス』(’12)にも短編作品を提供し、かの有名な人民寺院の集団自殺事件をモデルにした実録恐怖譚『サクラメント 死の楽園』(’13)も話題となったが、しかし「ホラー映画だけの監督と思われたくない」との理由から挑んだ西部劇『バレー・オブ・バイオレンス』(’16)がまさかの大コケ。なんと、興行収入6万ドル強という桁外れ(?)の大失敗作となってしまったのだ。 それっきり、暫く映画の世界から姿を消してしまったウェスト監督。その間、『ウェイワード・パインズ 出口のない街』シーズン2や『アウトキャスト』、『エクソシスト』に『チェンバース:邪悪なハート』などなど、ホラー系やミステリー系のテレビシリーズのエピソード監督として活躍。脚本の執筆から資金集め、予算のやり繰りから完成後のプロモーションまで監督自身が奔走せねばならないインディペンデント映画に対して、完全なる雇われ仕事のテレビシリーズは余計なストレスが少ないため、色々な意味で良い骨休めになったという。そうして長い充電期間を過ごしたタイ・ウェスト監督が、およそ6年ぶりに挑んだ映画復帰作が『X エックス』だった。 極めてアメリカ的なメンタリティが根底に流れる『X エックス』 舞台は1979年。有名になることを夢見るポルノ女優志望のストリッパー、マキシーン(ミア・ゴス)は、映画プロデューサーを自称する恋人ウェイン(マーティン・ヘンダーソン)やその仲間たちと共に、自主制作のハードコアポルノ映画を撮影するためにテキサスの田舎へと向かう。彼らが辿り着いた先は、ハワード(スティーブン・ユーレ)にパール(ミア・ゴス)という高齢の老夫婦が暮らす広大な農場。その一角に建つ古い納屋を借りた一行は、老夫婦に内緒でこっそりとポルノ映画の撮影を始めるのだが、しかしマキシーンだけは老女パールの怪しげな様子が気にかかる。 実は、若い頃はマキシーンと同じくスターになることを夢見ていたパール。しかし、夢を実行に移すだけの勇気が彼女にはなく、田舎の片隅で後悔と不満を抱えたまま年老いていたのだ。そして今、フレッシュな若者たちの出現がパールの歪んだ承認欲求を刺激し、彼女を狂気へと駆り立てていく…。 以前から「いつか一緒に仕事をしよう」と言いながら実現しなかったA24の重役ノア・サッコに、ダメもとで脚本を送ったところすんなり企画が通ってしまったというウェスト監督。トビー・フーパー監督の『悪魔のいけにえ』(’74)から多大な影響を受けた作品であることは明白だが、それにしても’70年代のインディペンデント系ホラー映画の雰囲気が驚くほど忠実に再現されている。さすがはタイ・ウェスト監督。『The House of the Devil』と同じく、まるで実際に当時作られた映画みたいだ。ただし、今回は16ミリフィルムでの撮影は叶わなかった。’70~’80年代のインディーズ系ホラー映画の多くがそうだったように、当初は16ミリフィルムの使用を検討したというウェスト監督。しかし、本作が撮影されたのはコロナ禍のニュージーランド。通常よりもフィルムを現像するのに時間がかかるため、撮影期間中にラッシュを確認することが難しいことから断念、デジタルカメラで撮影せざるを得なかったという。 そんな本作でウェスト監督が描かんとしたのは、いわばアメリカ的な「起業家精神」。舞台となる’79年といえば、いわゆる「ポルノ黄金時代」の真っ只中である。今となっては信じられない話かもしれないが、当時は成人指定のハードコアポルノが映画市場を席巻し、中には『ディープ・スロート』(’72)や『ミス・ジョーンズの背徳』(’73)、『Debbie Does Dallas』(‘78・日本未公開)などのように、それこそメジャー映画並みの興行収入を稼ぐ作品まで登場、その『ディープ・スロート』の主演女優リンダ・ラヴレースや『グリーンドア』(’72)のマリリン・チェンバースなどはハリウッド・スターばりのセレブとなった。しかも、大半の作品は自主製作映画も同然のものばかり。つまり、無名の素人でも成功への足掛かりを掴むことが可能だったのだ。そんな一獲千金のチャンスを夢見てポルノ映画を撮影する、いわば「起業家精神」溢れるハングリーな若者たちを、田舎の片隅で叶わなかった若い頃の夢と満たされぬ欲望を抱えたまま年齢を重ね、静かに狂ってしまった老女パールがひとりまたひとりと殺していく不条理に、ある種の憐れみを込めた本作の恐怖の根源があると言えよう。 ちなみに、主人公をポルノ映画の撮影隊にした理由について、ウェスト監督は「ポルノとホラーは似ているから」と答えている。なるほど確かにその通り。どちらも低予算で作れるうえに、キャストやスタッフが無名でも客入りが期待できるため、他のジャンルに比べると極めて敷居が低い。特に’70年代当時は、それこそ本作に影響を与えた自主制作映画『悪魔のいけにえ』がメジャー級の大ヒットを記録し、そのおかげでトビー・フーパー監督もハリウッド入りしたように、ホラー映画はポルノ映画と同じく、映画界にコネのない人間がキャリアをスタートするに最適なジャンルだった。と同時に、その気軽さゆえ安易に量産されやすく、なおかつ金儲けのためにポルノなら本番シーン、ホラーならゴアシーンと刺激ばかりを追究するようになり、映画として大事なストーリー性や芸術性が蔑ろにされやすいという点でも似たものがあると言えよう。 ‘22年3月に全米公開され、興行収入1500万ドル超えというタイ・ウェスト監督のキャリアで最大のヒットを記録した『X エックス』。その半年後という異例のスピードで封切られたのが、若き日のパールを主人公にした前日譚『Pearl パール』である。 古き良きアメリカのダークサイドを浮き彫りにする『Pearl パール』 時は第一次世界大戦下の1918年。テキサスの田舎の農場に暮らす若い女性パール(ミア・ゴス)はハリウッド映画が大好きで、秘かに自分もスターとなることを夢見ている。しかし現実の彼女は保守的で厳格な母親(タンディ・ライト)に支配され、体の不自由な父親(マシュー・サンダーランド)の介護と農場の仕事に忙しく追われる毎日。そのうえ、若くして結婚した彼女は戦地へ出征した夫ハワード(アリステア・シーウェル)の帰りを待たねばならない。妻として娘として家庭に縛り付けられたパールに、自分の夢を追いかける自由などなかったのだ。 彼女の抑圧された願望や承認欲求を刺激するのが、街の小さな映画館のハンサムな若い映写技師(デヴィッド・コレンスウェット)。彼から「夢を追いかけるべきだ」と励まされるパールだが、しかし彼女にはそれだけの勇気も行動力もなかった。そんな折、義妹ミッツィ(エマ・ジェンキンス=プーロ)から軍隊慰問ショーのダンサーのオーディションがあると聞いたパール。この狭くて息苦しい田舎町から出ていく千載一遇のチャンスだ。ようやく人生に希望の光を見出した彼女は、親に内緒でミッツィと一緒にオーディションを受けることを決意。なにがなんでも合格して、スターになる夢を叶えたい。もはやそれしか考えられなくなったパールは、邪魔になる人間を次々と殺して狂気を暴走させていく…。 前作が’70年代のインディーズ系ホラー映画風だとすると、今回はハリウッド黄金期のテクニカラー映画風。中でも『オズの魔法使い』(’39)や’50年代のダグラス・サーク映画からの影響はかなり濃厚だ。当初はドイツ表現主義風のモノクロ映画にするという案もあったという。確かに、精神を病んだ人間の心象世界を表現するのにドイツ表現主義は適したスタイルだが、しかしパールの場合はちょっと病み方が違う。華やかな映画スターに憧れる彼女の心象世界は、むしろカラフルで煌びやかで狂気に満ちたものと考える方がしっくりとくる。ウェスト監督が言うところの「歪んだディズニー映画」だ。そこで落ちついたのが、ハリウッド黄金期のテクニカラー映画風スタイル。まだ映画がモノクロ&サイレントだった1910年代という時代設定からはズレるが、まあ、同時代を舞台にした『武器よさらば』(’57)とか『マイ・フェア・レディ』(‘64)みたいなものと受け止めればよかろう。 もともと『X エックス』の製作がスタートした当初は、シリーズ化の企画などなかったというウェスト監督。しかし以前に『サクラメント 死の楽園』で、撮影のために何もないところから建てた新興宗教コミュニティの巨大セットを取り壊した際に「勿体ない」と感じた彼は、今回もテキサスに見立ててニュージーランドに建てた農場のセットを、映画一本だけで取り壊してしまうのは惜しいと考え、同じセットを使ってもう一本映画を撮ろうと考えたという。そこで思いついたのが、殺人鬼の老婆パールがなぜサイコパスと化したか?を描く前日譚だったというわけだ。 脚本の執筆にはパール役のミア・ゴスも参加。たったの2週間で書き上げたそうで、『X エックス』の撮影が始まる前には既に『Pearl パール』の脚本も完成していたという。おかげで、後者のネタを前者に忍び込ませることも出来た。例えば、『X エックス』でパールは「ブロンドが嫌い」だと呟くが、その理由は続編『Pearl パール』で詳らかにされる。ほぼ同時に作られたからこそ可能になった仕掛けだ。実際、『X エックス』のクランクアップから3週間後に『Pearl パール』の撮影は始まっている。 浮かび上がるのは保守的な田舎の伝統的な家父長制にがんじがらめとなり、女というだけで人生の選択肢を狭められてしまったヒロイン、パールの痛みと哀しみだ。一見したところ平和で長閑な日常の裏で抑圧され、少しずつ狂気を醸成させていくパール。古き良き理想のアメリカが、誰のどんな犠牲の上に成り立っていたのか分かろうというものだろう。演じるミア・ゴスは、「もしパールが別の時代に生まれていて、もっと理解のある両親に恵まれていたら、あんな殺人鬼にはなっていなかったと思う」と語っているが、確かにその通りかもしれない。いわば、周りの環境が彼女をモンスターにしてしまったようなもの。だからこそ、本作は恐ろしくも哀しく切ないのだ。 そうそう、主演女優のミア・ゴスについても触れねばならないだろう。ラース・フォン・トリアーの『ニンフォマニアック』(’13)でデビューした頃から、そのクセの強い個性と大胆不敵な芝居が映画ファンの間で評判となりながら、しかし決定打と呼べるような代表作になかなか恵まれなかったゴス。この『X エックス』と『Pearl パール』の2作品で初の単独主演を果たし、ようやく女優としてブレイクすることとなった。「ミアが引き受けてくれなければ(『X エックス』も『Pearl パール』も)作ることはなかっただろう」というウェスト監督だが、なるほどマキシーン役もパール役も彼女以外に考えられないほどハマっている。ミア・ゴスなしではシリーズの成功もなかったはずだ。 なお、『X エックス』の後日譚に当たるトリロジー最終章『MaXXXine』(‘24・日本公開未定)もすでに完成しており、去る’24年6月24日にロサンゼルスのチャイニーズ・シアターでプレミア上映が行われたばかり。今回は1985年のロサンゼルスが舞台で、夢を叶えて有名なポルノ・スターとなったマキシーン(ミア・ゴス)が、一般作へのステップアップに挑む一方で謎の連続殺人鬼に命を狙われる。ウェスト監督曰く、ポール・シュレイダー監督の『ハードコアの夜』(’79)やゲイリー・シャーマン監督の『ザ・モンスター』(’82)、さらにはジェームズ・キャメロン監督の『ターミネーター』(’84)やイタリアのジャッロ映画などに影響を受けたとのこと。共演陣もエリザベス・デビッキにケヴィン・ベーコン、ミシェル・モナハン、リリー・コリンズ、ジャンカルロ・エスポジトなどシリーズ中で最も豪華だ。’80年代キッズの映画マニアとしては期待度満点!日本公開の時期はまだ未定だが、とりあえずトリロジーの最終章をしっかりと見届けるためにも、ぜひこの機会にザ・シネマで『X エックス』と『Pearl パール』を楽しんでおいて頂きたい。■ 『X エックス』© 2022 Over The Hill Pictures LLC All Rights Reserved. 『Pearl パール』© 2022 ORIGIN PICTURE SHOW LLC. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2024.06.21
ハリウッド映画のアクションを再定義した、監督ポール・グリーングラスのキャメラスタイル『ボーン・スプレマシー』
◆ダグ・リーマンが降りた理由 記憶を失くした男が自身のアイデンティティ(存在証明)を明らかにする過程で、命を狙われる危機に幾度となく遭遇する。だがそのつど、彼は高度な挌闘センスと優れた身体能力を発揮し、自分に危害を加えようとする者を瞬殺するのだ。それもまったくの無意識で——。 2002年に公開された『ボーン・アイデンティティー』は、「出自を追い求めるヒーロー」という、異色の設定を持つアクションスリラーとして観客の心を捉えた。スパイ小説の巨匠ロバート・ラドラムの古典的名作「暗殺者」の権利を取得した監督ダグ・リーマンが、さまざまな障壁を乗り越えて映画化へとこぎつけた執念の企画である。その甲斐あって、作品は全米興行成績1億2000万ドルを稼ぎだし、同ジャンルのものとしては空前の大ヒットを記録した。 ヒット映画の慣例として当然、続編製作のプロジェクトは動き出したものの、そこに最大の功労者であるリーマンの名はなかった。『ボーン・アイデンティティー』でリアリティを追求し、ハンドヘルト(手持ち)カメラや即興性を徹底させたその撮影スタイルにスタジオは難色を示し、見栄えのする派手なアクションシーンを追加するようリーマンに要求。彼はそれを拒んでファイナルカット(最終編集)の権利を剥奪されるなど、双方の間に深い溝が生じたのだ。だがこうしたリーマンの抵抗こそが、前述のようなシリーズを象徴する視覚スタイルを決定づけたのは言を俟たない。 ◆シネマヴェリテ 『ボーン・アイデンティティー』の続編として2004年に発表された本作『ボーン・スプレマシー』は、こうしたリーマンの意匠を汲みながら、新しい才能へのアクセスを余儀なくされた。そこで白羽の矢が立ったのが、イングランド出身のイギリス人監督ポール・グリーングラスだ。 グリーングラスのキャリアは、アルカイダのテロリストによるハイジャックを描いた『ユナイテッド93』(2006)のコラム「現場目撃のないテロ行為の再現『ユナイテッド93』」に詳しいのでそちらを読んでほしい。概略して補足すると、彼はドキュメンタリーやテレビドラマのディレクターから映像作家のキャリアを始め、ヘレナ・ボナム=カーターとケネス・ブラナー共演による1998年公開のラブコメディ『ヴァージン・フライト』で劇場映画監督デビューを果たす。そして2002年、北アイルランドでの差別撤廃を掲げる国民デモで軍隊が発砲し、13人の犠牲者を出した「黒い日曜日」の映画化『ブラディ・サンデー』を監督し、同作は第52回ベルリン国際映画祭金熊賞を、宮崎(﨑)駿監督の『千と千尋の神隠し』(2001)と共に受賞する。 この写実的映画の古典『アルジェの戦い』(1966)を彷彿とさせるようなセミドキュメンタリー調の作品を観た『ボーン・アイデンティティー』の製作総指揮フランク・マーシャルが、彼を『ボーン・スプレマシー』の監督にどうかとスカウトしたのである。もともと続編の監督選考条件として、「ダグ・リーマンと同じインディ系の監督を」という意向もあり、そこはリーマンと符号が合う。しかもマーシャルが観た『ブラディ・サンデー』は16mmネガフィルムで撮ったものを35mmにブローアップし、撮像のほとんどをハンドヘルトによって得た、いわゆる“シネマヴェリテ”的なリアル志向の強い作品だった。グリーングラスもメジャーを舞台にする新たな挑戦として、マーシャルからのオファーを受けることにしたのだ。 ◆暗殺者ジェイソン・ボーンの贖罪 そんなグリーングラスが『ボーン・スプレマシー』で目指したのは、「ボーン自身が暗殺者である事実とどう向き合うのか?」という“贖罪”をテーマに持つことだった。自分が暗殺者として存在し、誰かを殺めてきたことや、己れと関わる者が犠牲になってしまうことへの重責が、ジェイソン・ボーンを苛んでいく。 「重いテーマになるが、それが彼の宿命であり、もう一度ボーンの物語を描くのならば、宿命を避けることはできない」(※1) とグリーングラスは語る。本作の『ボーン・アイデンティティー』にない暗いトーンは、こうした作品志向に起因するものだ。 前作の最後、マリー(フランカ・ポテンテ)と一緒になって新たな人生を歩むはずのボーンは、あれからまだ記憶を取り戻せず、依然として追われる逃亡生活を続けていた。そしてある日、彼は潜伏していたインドのゴアで殺し屋に狙われ、追撃戦の果てにマリーを死なせてしまう。 いっぽうCIAではエージェントのパメラ・ランディ(ジョアン・アレン)が、組織内の公金横領事件の捜査にあたっており、その手がかりを追っていくうち、ボーンを生んだ殺人兵士の養成プロジェクト「トレッドストーン計画」の存在へと行き着く。そして容疑者が殺され巨額が消えたこの事件にボーンが関わっているのではと、彼との接触を図ろうとする——。 グリーングラスはトニー・ギルロイによって書かれていた第1稿を11ヶ月かけてさらに膨らませ、このようなボーン試練の章を組み立てたのである。ちなみにラドラムの同名原作(小説邦題「殺戮のオデッセイ」)は中国での副首相暗殺に端を発する物語で、拉致されたマリーを救うべくボーンが自分の名を騙る偽の人物と対峙する。このように映画において原作の影は薄いが、ボーンが唯一心を開いたマリーの受難と、ボーンの名が一人歩きし、陰謀に加担させられる状況のみ原作と共有している。 ◆強化されたアクションとリアリティ こうして『ボーン・スプレマシー』は、前作の優れた点をより鋭利にしただけでなく、さらなる進化を作品にもたらしている。とりわけ視覚的なリアリティに関しては、前作以上に強化されたレベルのものを提供しているのだ。 今回もインドのゴア、ドイツのミュンヘンやベルリン、モスクワという広範囲のロケ撮影を敢行。そして「スタイルはできるだけシンプルに」を目指したグリーングラスの演出は、劇中で交わされるセリフをより排除し、登場人物のソリッドな行動だけでストーリーを観客に提示する。「俳優が考えすぎると直感力を無くし、演技にリアリティが失せてしまう」と主張し、リハーサルを抜いて俳優に演技をさせたりもしている。 また過去にドキュメンタリー作品を何本も手がけてきたグリーングラスは、前作のダグ・リーマンが求めたリアリティをさらに突き詰め、アクション映画として影響力の高いスタイルを創造している。例えばリーマンがステディカムとハンドヘルトを併用した撮影だったのに対し、グリーングラスはほとんどのシーンをハンドヘルトで撮影した。キャメラを被写体と観客を結ぶ“間”の存在ではなく、キャメラそのものを観客の“眼”に見立てたのだ。グリーングラスは言う。 「フィックス(固定)撮影ではリアルな映像は生まれない。カメラがアクションを観客と同時体験することで臨場感は引き出せる」(※2) そうしたアプローチで得たラフショットのような画を、平均2秒とジッとしていない細切れのカッティングで編集している。構成されたショットはその総数3500。しかしノンリニアなデジタル編集以降の流れにありがちな、眼前で何が起きているのか分かりにくいカオス編集ではなく、被写体の目線誘導や距離関係を把握させる編集で、観る者を混乱させることはない。この巧技を提供したクリストファー・ラウズは、その後『ユナイテッド93』そして『キャプテン・フィリップス』 (2013) 『ジェイソン・ボーン』 (2016) と、グリーングラスの専属的なエディターとなっていく。また前作から連続登板したジョン・パウエルによるアンダースコアも、本作ではバングラドールという大型の両面太鼓を導入し、多動性を極めるショット構成にマッチした律動感で演出した。グリーングラスはリーマンの構築したボーンの世界観を踏襲しつつ、彼独自のボーンを創り上げたのだ。 こうしたアレンジのもとに完成した『ボーン・スプレマシー』は、2004年7月15日に公開され、全米興行成績で1億7600万ドルを稼ぎ出し、前作以上の成果をみせた。そしてジェイソン・ボーンの物語はシリーズへと拡張し、ラドラムが遺したもうひとつのボーン登場作『ボーン・アルティメイタム』の映画化 (2007)へと発展していく。 ・『ボーン・アルティメイタム』撮影中のマット・デイモン(中央)とポール・グリーングラス監督(右) ◆真のスタイルとは何か? 後年、グリーングラスはインタラクティブな質疑応答インタビュー「Reddit AMA」でのセッション(※3)で、自身の映像スタイルに関し、 「(手持ちカメラのスタイルは)三脚を買う金銭的な余裕がなかったのさ、なんてね(笑)。私は20代でドキュメンタリーを作り始め、それはしばしば危険な場所で撮影された。だからカメラを三脚で固定する時間がなく、カメラは自分の肩や手の中になければならなかったんだ。その後、映画を作り始めたとき、ドリーやトラックなどの古典的なスタイルで撮影することを学んだが、それには結婚式でスーツを着ているような居心地の悪さを覚えたよ。だから40代でドキュメンタリーを撮影していた頃の撮影に戻り、すべてがうまくいっているように感じたんだ」 と冗談混じりでユーザーに語っている。しかしグリーングラスはあくまで「スタイルは自分の内側からくるもの」と提言し、経験を通してより固定された視点を持つことこそ、映画制作の中心だと話題を結んでいる。これは若い映画製作者への助言ではあるが、同時にジェイソン・ボーンのシリーズ以降、自身のスタイルが乱用される傾向への戒めを含んだ文言といえるかもしれない。■ 『ボーン・アイデンティティー』(C) 2002 Universal Studios. All rights Reserved. 『ボーン・スプレマシー』(C) 2004 Universal Studios. All Rights Reserved.『ボーン・アルティメイタム』(C) 2007 Universal Studios. All Rights Reserved. Photo Credit: David Lee
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COLUMN/コラム2024.06.12
デ・パルマ“ギャング映画3部作”の最終便!円熟の業が光る『カリートの道』
『キャリー』(1976)『殺しのドレス』(80)など、ホラーやサスペンス作品のヒットを放ち、70年代後半からそうしたジャンルの旗手のように謳われた、ブライアン・デ・パルマ監督。 “スプリット・スクリーン”“360度パン”“スローモーション”…。華麗な技巧を駆使する彼を指して、「映像の魔術師」などと称賛する、熱烈なファンが生まれた。それと同時に、「ヒッチコックのエピゴーネン(亜流/模倣)」とディスる向きも、決して少なくはなかった。 80年代以降、そんなデ・パルマの新たなキャリアを切り開いたと言えるのが、“ギャング映画3部作”である。 その第1弾は、『スカーフェイス』(83)。キューバ移民の青年トニー・モンタナが、コカインの密売でのし上がるも、やがて自滅していくまでの物語。アル・パチーノを主演に迎え、ヒット作となるも、批評家の評価は高くなかった。しかしやがてカルト作として、熱狂的に支持されるようになる。 第2弾は、『アンタッチャブル』(87)。禁酒法時代のシカゴを舞台に、暗黒街の帝王アル・カポネを摘発しようとする、エリオット・ネスら捜査官たちの戦いの日々を描いた。 デ・パルマは、『ボディ・ダブル』(84)『Wise Guys』(86/日本では劇場未公開)といった作品が不振だったため、キャリアのピンチを迎えていたが、『アンタッチャブル』が大ヒットとなり、“信用”を取り戻す。 しかしその“信用”も、続く『カジュアリティーズ』(89)『虚栄のかがり火』(90)両作の大コケで、雲散霧消。その後、ある意味先祖返りのようなサイコ・サスペンス『レイジング・ケイン』(92)で、まあまあの興行成績と評価を得たが…、というタイミングで手掛けたのが、本作『カリートの道』(93)。デ・パルマの“ギャング映画”第3弾だった。 ***** 時は1970年代中盤。かつては、プエルトリコ系ギャングの出世頭だった、カリート・ブリガンテ。麻薬の密売で30年の刑期を喰らったが、親友の弁護士クラインフェルドの尽力によって、僅か5年で釈放され、生まれ育ったニューヨークのスパニッシュ・ハーレムへと帰還する。 カリートはすぐ、麻薬取引に絡むいざこざに巻き込まれ、手を血で染めてしまう。しかし足を洗うという覚悟は、揺るがなかった。 カリートは、ディスコの経営に勤しみながら、やがてバハマのパラダイス・アイランドに渡って、レンタカー屋を営むことを夢見る。そんな時、5年前に別れた恋人ゲイルと再会。ブロードウェイのダンサーを目指していた彼女は、ストリッパーに身を落としていたが、2人は再び愛し合うようになる。 夢の実現に邁進するカリートの行く手に、暗雲が差し込む。かつての仲間が、検事の手先となってカリートをハメようとしたり、のし上がってきたチンピラが、彼に挑発的な態度を取ったり…。 そんな時、クラインフェルドがカリートに救いを求めてきた。マフィアのボスの脱獄を手伝ってくれというのだ。 躊躇するも、自分を獄から放ってくれた親友の頼みを、断れない。カリートは、ゲイルの制止も振り切って、クラインフェルドの手助けをすることを決めたのだが…。 ***** 本作の原作者は、エドウィン・トレス。ニューヨークはスパニッシュ・ハーレムで生まれ育った、プエルトリコ系アメリカ人だが、法曹界に進み、地方検事補、弁護士を経て、ニューヨーク州最高裁判事にまでなった。 トレスは、厳しい判決を下す裁判官として名を馳せながら、小説家としてもデビュー。自らの出身地を主な舞台に、実際に会った人物や自らの目で見たものを書いたのが、「カリートの道」「After Hours」という、本作の原作となった2作である。 若き主人公カリート・ブリガンテが、麻薬ビジネスに足を踏み込んでから、伝説の麻薬王になり逮捕されるまでを描いたのが、「カリートの道」。投獄後、不当裁判で無罪を勝ち取ったカリートが、出所してから最期を迎えるまでのストーリーが、「After Hours」である。 カリートのキャラで、その生い立ちに関しては、トレス自身が投影されている部分もある。しかしカリートは、犯罪者。主要な要素は、トレスが友人たちからいただいたもので、名前を明かせない3人のモデルがいるという。 これらの小説には、発表後に直ぐ映画化の話が持ち上がる。プロデューサーのマーティン・ブレグマンの元に、脚本化されたものを持ち込んだのは、アル・パチーノだった。 ブレグマンは元々は、パチーノのエージェント。そうした関係性もあって、『セルピコ』(73)『狼たちの午後』(75)そして『スカーフェイス』(83)等、パチーノ主演作の製作を行ってきた。 今となっては誰が書いたかも知れない、この時点での脚本は、2つの小説「カリートの道」「After Hours」 を折衷したような、酷い仕上がりだったという。それを読んだブレグマンは、全くやる気が湧かなかったが、パチーノが主人公のカリートに惚れ込んでいた。やむなく原作に触れてみると、そこに描かれた、ストリートの生々しい雰囲気に、惹かれたという。 ブレグマンは、『ジュラシック・パーク』(93)の脚色が評判になっていたデヴィッド・コープに、仕事を依頼。原作に対するコープの第一印象は、「映画化するには分量が多すぎる」というものだった。 コープは、自分が70年代のスパニッシュ・ハーレムについて何も知らないのも気掛かりだった。この点は原作者のトレスの助力を得てリサーチし、クリアーしたという。 分量的な問題は、当時50代前半だったパチーノの年齢を考慮し、20代後半から30代前半のカリートが活躍する「カリートの道」ではなく、それ以降の物語である「After Hours」を軸に脚色することで、解決した。それなのにタイトルが『カリートの道』になったのは、マーティン・スコセッシ監督の『アフター・アワーズ』(85)があったからである。 ブレグマンは、かつて『スカーフェイス』で組み、成果を出したブライアン・デ・パルマに監督をオファー。しかしデ・パルマの当初のリアクションは、芳しいものではなかった。「ラテン系ギャングの話」は、もうやりたくなかったのだ。 彼が考えを変えたのは、コープの脚本を読んでから。パチーノと再び仕事ができるのも、決め手になったという。かくて『スカーフェイス』から10年振りに、ブライアン・デ・パルマとアル・パチーノが組んだ、“ギャング映画”が誕生することとなった。 デ・パルマは原作者のトレスに、スパニッシュ・ハーレムを案内してもらった。ここで誰が撃たれ誰が刺された等々、事件の現場を巡りながら、スペイン系ギャングの生態をウォッチング。デ・パルマはそこで、彼らが持つ家族愛や宗教心、更には独自のラテン音楽などを見出した。 そしてクランク・イン。ロケは、原作者の生まれた場所にごく近い地域などで行われた。『スカーフェイス』でお互いのやり方を心得ていた、デ・パルマとパチーノのコミュニュケーションは、スムースだった。パチーノは、彼の動作の美しさを捉え、その演技を際立たせるようなデ・パルマ演出を、至極気に入っていたという。 本作は冒頭、駅で撃たれたカリートが搬送されていくさなかに、彼のモノローグによって回想が始まり、ここに至るまでの日々が描かれていく。これは“フィルム・ノワール”、代表的な例としては、プールに浮かぶ死体の回想から始まる、『サンセット大通り』(50)などで用いられた手法の、援用と言える。 そのような形で語られる物語には、数々の個性的な人物が登場する。中でも強烈な印象を残すのが、カリートの親友で、コカイン中毒の弁護士クラインフェルド。原作者がこれまでに会ってきた、ろくでもない弁護士たちの集合体で、悪の世界にどっぷりと浸かっているキャラクターである。 演じるショーン・ペンは、初監督作品『インディアン・ランナー』(91)が絶賛され、監督業に専念することを真剣に検討していたのを翻しての、本作への出演。それだけ、この役に入れ込んでいたのだろう。薄毛のカーリーヘアという、あまりにもインパクトの強い外見は、ペン本人のアイディア。この見た目を作るのに、自毛をかなり抜いたのだという。 後にアカデミー賞主演男優賞を2度受賞する、メソッド俳優の面目躍如であるが、ペンの執拗なリテイク要求が、デ・パルマをげんなりさせる局面もあったという。とはいえ両者の関係は、概ね良好に運んだ。 カリートが愛するゲイルには、ペネロープ・アン・ミラーがキャスティングされた。『レナードの朝』(90)『キンダガートン・コップ』(90)『チャーリー』(92)など、話題作・ヒット作への出演が続き、彼女への注目が高まっていた頃だった。 カリートが共に“楽園”に行こうとする、天使のように理想化された存在でありつつ、バストトップを曝しての、70年代っぽいストリップのシーンなども印象的である。 パチーノが作品の肝としてこだわったのは、クラインフェルドの裏切りが露見し、カリートとの関係が、決定的に断絶に至るシーンだった。そのシーンには、25ものパターンを用意。更には、脚本家のコープが撮影に立ち会ったのは、パチーノのリクエストだった。 最終的には、コープが撮影直前に書き直した脚本で、決まりとなった。カリートは負傷したクラインフェルドが入院する病室を訪ね、彼なりのやり方で落とし前をつける。因みにパチーノが訪れる病院の外観は、彼が出世作『ゴッドファーザー』(72)で、マーロン・ブランドを見舞ったのと同じ場所が使われた。 本作は、クライマックスの地下鉄を使っての逃走劇や、それに続くグランド・セントラル・ステーションのエスカレーターでの銃撃戦など、さすが「映像の魔術師」デ・パルマと思わせるシーンも、随所にある。しかし全般的には、これ見よがしな技巧に走り過ぎたりは、決してしていない。日本の任侠物などにも通じる“仁義の世界“の住人故に、足を洗い切れなかった男の悲劇が、鮮烈且つ抑制的に描かれている。 公開当時、大きな成果を上げることはなかった。またパチーノ×ブレグマン×デ・パルマの前作、『スカーフェイス』のようなカルト人気を得ることも叶わなかった。しかし、当時53歳。デ・パルマのフィルモグラフィーの中でも、彼の円熟したスキルが、最も楽しめる1本に仕上がっている。 そしてデ・パルマは、次作『ミッション:インポッシブル』(96)で再びデヴィッド・コープの脚本を得て(ロバート・タウンと共同)、彼のキャリアの中で最大のヒットをものする。■ 『カリートの道』© 1993 Universal City Studios, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2024.06.05
巨匠サム・ペキンパーが放った映画史上屈指の壮絶な反戦バイオレンス映画。『戦争のはらわた』
超有名なブロックバスター映画を断って本作を選んだペキンパー 「バイオレンス映画の巨匠」として名高いハリウッドの鬼才サム・ペキンパーが、それこそ人間のはらわたも飛び散る戦場の地獄を生々しく描いた凄まじい戦争映画だ。しかも、第二次世界大戦時のナチス・ドイツ軍部隊が主人公で、なおかつ彼らを血の通った人間として描いている。第3回アカデミー賞作品賞に輝いたルイス・マイルストーンの『西部戦線異状なし』(’30)やフランク・ボーゼージの『三人の仲間』(’38)など、第一次世界大戦を題材にした映画に限っていえば、ハリウッドの映画人がドイツ兵を人間らしく描いた作品は少なからず存在するものの、しかし第二次世界大戦となるとまた話は別。ホロコーストという人類史上最悪の戦争犯罪に手を染めたナチス・ドイツの軍人たちを、ハリウッドの映画人は往々にして許されざる絶対悪として描いてきた。ところが、本作でペキンパーは彼らを完全なる善人でもなければ完全なる悪人でもない、長所もあれば短所もある泥臭い人間の集団として描く。前年に封切られたジョン・スタージェスの『鷲は舞いおりた』(’76)と並んで、当時としては斬新な視点の戦争映画だったと言えよう。 ただしこの作品、厳密に言うとハリウッド映画ではない。まずはその辺りの背景事情から解説していこう。以前に本サイトに寄稿した『バイオレント・サタデー』(’83)のレビューでも言及したように、『ビリー・ザ・キッド/21歳の生涯』(’73)を最後に興行的・批評的な失敗が続き、なおかつ頑固者で気難しいアルコール&ドラッグ依存症のトラブルメーカーとして悪名を馳せたことから、すっかり映画界の鼻つまみ者となってしまったペキンパー。それでも『キングコング』(’76)に『スーパーマン』(’78)というブロックバスター映画のオファーを立て続けに受けたらしいが、しかしどちらも本人の好むような企画ではなかったため、仕事がないにも関わらずあえなく断ってしまう。そんな折に舞い込んだのが、本作『戦争のはらわた』の企画だった。 発起人は西ドイツの映画プロデューサー、ヴォルフ・C・ハイドリッヒ。’50年代から主に低予算のB級娯楽映画を手掛けてきたドイツ版ロジャー・コーマンみたいな人で、中でも若い女性のセックス事情を疑似ドキュメンタリー形式でセンセーショナルに描いたソフトポルノ映画『女学生(秘)レポート』(‘70~’80)シリーズを世界的に大ヒットさせた商売人である。「ドイツ人がドイツを題材に国際規模のメジャー映画を作って成功できるかどうか試したかった」というハイドリッヒは、ドイツ側の視点から第二次世界大戦の東部戦線を描いたヴィリー・ハインリッヒの小説「Das Geduldige Fleisch(患者の肉体)」の映画化権を獲得。世界に通用する大作映画として仕上げるべく、ヨーロッパでも知名度の高い巨匠ペキンパーに白羽の矢を立てたというわけだ。ただし、今のようにネットニュースなど影も形も存在しない時代、どうやらペキンパーの悪評はハリウッドから遠く離れた西ドイツにまで届いていなかったらしく、いざ撮影が始まるとハイドリッヒは頑固で気難しい映画界の問題児に悩まされることとなる。 もともとドイツ人脚本家の用意した脚本原案があったそうで、それを土台に『カサブランカ』(’42)でオスカーに輝く大ベテランのジュリアス・エプスタインがオリジナル脚本を完成。しかし、エプスタインの脚本は極めてオーソドックスな正統派の戦争物だったらしく、これを気に入らなかったペキンパーは無名の若手ジョシュ・ハミルトンにリライトを任せ、さらに撮影中も愛弟子ウォルター・ケリーに随時指示しながら修正や追加を繰り返したという。ケリーは脚本のみならず一部シーンでペキンパーに代わって演出も手掛けている。 ロケ地は鉄のカーテンの向こう側! ロケ地に選ばれたのは旧東欧圏のユーゴスラヴィア。当時の共産圏陣営にあって一定の自由市場経済や言論の自由が認められ、ソ連ともアメリカとも距離を置いていた同国は、当時のチトー大統領が大変な映画好きだったこともあり、西側からの映画撮影誘致に積極的だった。イタリアの戦争映画や一部のマカロニ・ウエスタンはユーゴで撮影されたものが多かったし、バート・ランカスター主演の『大反撃』(’69)やクリント・イーストウッド主演の『戦略大作戦』(’70)などのハリウッド映画もユーゴでロケしている。’60年代の西ドイツではカール・メイ原作の国産西部劇映画(いわゆるザワークラウト・ウエスタン)が大変な人気を集めたが、それらも実は主に現在のクロアチアのパクレニツァ国立公園辺りをアメリカ西部に見立てて撮影されていた。人件費は安いし経験豊富なスタッフも撮影機材も揃っている。なるべくコストを抑えたい映画プロデューサーにとっては理想的なロケ地であろう。 ユーゴスラヴィア政府も撮影にはとても協力的で、戦闘シーンではユーゴスラヴィア人民軍がエキストラのみならず第二次世界大戦で実際に使われたロシア製やドイツ製の武器・戦車などを提供(ただし、ロシア製戦車は3台しか調達できず、なおかつそのうち1台は動かなかったため、編集技術で何台もあるように見せている)。しかしその一方、ディテールにまで強くこだわるペキンパー監督の演出方針に加えて、クルーやキャストがギャラの週給制度を要求し、毎週金曜日の給料日に支払いが遅れるとみんなで仕事をボイコットしたため、撮影スケジュールが大幅に伸びてしまった。また、現地の食事がお気に召さなかったペキンパーは、製作スタッフにイタリアで大量の牛肉の塊を買ってこさせ、ロケ地で薪や枯れ木を集めて火を焚き、自ら肉を切り分けてクルーやキャストにバーベキューを振る舞ったという。 そんなこんなで、当初400万ドルだった予算は最終的に600万ドルへと膨れ上がり、資金調達に行き詰まったプロデューサーたちがロケ地へ乗り込んで撮影を強制終了。「今日でクランクアップだ」と言われたペキンパーは目に涙を浮かべながら猛抗議し、主演のジェームズ・コバーンも激怒したそうだがプロデューサー陣には通用せず、仕方なく4台のカメラをフル稼働して最低限必要なシーンを滑り込みで撮り終えたのだそうだ。ペキンパー本人によると、本当ならあと数日で完了するはずだったという。その後、ロンドンでのポスト・プロダクション費用は共同制作を担当したイギリスのEMIフィルムが追加提供。当時、ドイツ映画としては戦後最高額の予算をかけた超大作と宣伝されたが、しかし例えば『遠すぎた橋』(’77)の2500万ドルや『ナヴァロンの嵐』(’78)の1050万ドルなど、同時代の戦争大作映画と比べると明らかに安価で作られている。そもそもストーリーの規模を考えてみれば、当初の400万ドルという数字自体が少なすぎたのだ。 そこに描かれるのは戦場のリアルな地獄 時は第二次世界大戦下の1943年、場所は東部戦線のクリミア半島。ソ連軍の猛反撃にナチス・ドイツ軍が苦戦を強いられる中、怖いもの知らずの英雄シュタイナー伍長(ジェームズ・コバーン)率いるならず者部隊が孤軍奮闘する。自由気ままで粗野で反抗的なシュタイナーだが、しかしリーダーシップは抜群で部下からの信頼も絶大ゆえ、上司であるブラント大佐(ジェームズ・メイソン)やキーゼル大尉(デヴィッド・ワーナー)も一目を置く存在だ。そんなところへ、西部戦線のフランスからエリート将校シュトランスキー大尉(マクシミリアン・シェル)が新たに赴任してくる。ドイツ軍人最高の栄誉である鉄十字勲章が喉から手が出るほど欲しいシュトランスキーは、劣勢の東部戦線で武勲を立てれば必ずや受勲できると考えて志願したのだ。 そんなシュトランスキーのことをシュタイナーははなから軽んじる。なにしろ、見るからに威張りくさった優等生。ソ連軍の砲弾が飛んでくる度ビクビクしている様子から察するに、ろくに前線で戦った経験がないことは明らかだ。実際、戦闘中は安全な塹壕の会議室から一歩も外へ出ようとしない臆病者。そのくせ自己評価とエリート意識だけは高くて尊大なクソ野郎だ。一方、プロイセン貴族出身であることを最大の誇りにする権威主義者シュトランスキーにしてみれば、一介の無名兵士に過ぎない平民出身のシュタイナーが、生まれも育ちも特権階級である高級将校の自分に敬意を払わないことが許せない。それでも、鉄十字勲章を得るにはシュタイナーを味方につけた方が得策と考えたシュトランスキーは、彼を曹長に昇格させてご機嫌を取ろうとするものの、名誉だの階級だのに無関心なシュタイナーの反応は素っ気なかった。 ソ連軍の大規模攻撃によりナチス・ドイツ軍は大勢の犠牲を出し、さすがのシュタイナーも重傷を負ってしまう。収容された病院で久々に平穏な時間を過ごし、担当看護婦エヴァ(センタ・バーガー)と束の間の愛を交わすシュタイナー。しかし、負傷兵たちの慰問に訪れたエリート将校たちの他人事な態度に憤慨し、たまたま病院を訪れた部下の顔を見て戦場へ戻ることを決意する。そこで彼を待っていたのは、戦死したマイヤー少尉(イゴール・ガロ)の手柄を自分のものにして、念願の鉄十字勲章を手に入れようと画策するシュトランスキー。既に、右腕トリービヒ中尉(ロジャー・フリッツ)は同性愛者であることをネタに脅され、本来ならマイヤー少尉のものである武勲をシュトランスキーのものと偽証する宣誓書にサインをしていた。シュタイナーにも同様の推薦書を書いて欲しいと頼むシュトランスキー。しかし、ひと足先に鉄十字勲章を授与されたシュタイナーは「こんな鉄くずの塊に何の価値があるのか?」と、呆れるようにしてシュトランスキーの申し入れを断る。これを深く恨んだシュトランスキーは、わざとシュタイナーの小部隊だけに退却命令を伝えず、彼らを敵陣に取り残して部隊ごと皆殺しにしてしまおうとするのだが…? 砲弾で吹っ飛ばされた兵士の内臓が飛び出し、機関銃で蜂の巣にされた兵士の全身から血が噴き出し、亡骸となった兵士が戦車の下敷きでペチャンコにされる。そんな見るも無残で醜くて恐ろしい戦場のリアルな地獄を、ペキンパー監督のトレードマークであるスローモーションをフル稼働して、余すことなくスクリーンにぶちまけてくれるのだから恐れ入る。もはや戦場のヒロイズムなど微塵もなし。劇場公開当時、ペキンパーは「(観客に)戦場の匂いや空気まで感じ取って欲しい」と語っていたが、これほど戦争というものの非人間性をまざまざと見せつけるような映画は稀であろう。さながら『プライベート・ライアン』(’98)の先駆的な作品であり、映画史上屈指の見事な反戦映画であると言えよう。 そのうえで、本作は軍組織が象徴する階級制度や権威主義などを真っ向から否定しつつ、ナチス・ドイツを生んだものとは何だったのか、なぜ一度は興隆を極めた第三帝国が破滅へ向かったのかを、一介の無名兵士シュタイナーの視点から考察していく。その主軸となるのがシュタイナーと上官シュトランスキーの対立である。古き封建時代のヨーロッパを体現する支配階級出身のシュトランスキーと、どれだけ戦果を挙げようとエリートの仲間入りなど出来ない労働者階級出身のシュタイナー。前者にとって戦場は出世の踏み台だが、後者にとっては純然たるサバイバルだ。生まれながらの特権を持つシュトランスキーは最前線に立つ必要もなければ、たとえ戦争に負けたとしても社会的地位や莫大な財産を失うことなどないが、しかしシュタイナーにとって戦争の勝ち負けは自身の生死をも左右する。なんたる不公平。なんたる理不尽。シュタイナーの怒りと不満はごもっとも。戦争も軍隊も階級制度も権威主義も、みんなまとめてクソ食らえである。 お気に入り女優が振り返るスランプ期のペキンパー そのシュタイナー役にはペキンパー作品の常連でもある親友ジェームズ・コバーン。最初から候補は彼以外にいなかったという。対する宿敵シュトランスキー役を任されたのは、オーストリア出身の世界的な名優マクシミリアン・シェル。英国映画界の重鎮ジェームズ・メイソンは、節税対策のため西ドイツからもユーゴからも比較的近いスイスに住んでいたらしい。ただ、やはり大ベテランゆえギャラも高かったため、契約書で定められた拘束期間はたったの8日間。それゆえ、彼の出番を最初にまとめて撮影したそうだ。キーゼル大尉役のデヴィッド・ワーナーは、『砂漠の流れ者/ケーブル・ホーグのバラード』(’70)と『わらの犬』(’71)に続いてのペキンパー作品で、当時は『オーメン』(’76)の写真家役が話題となったばかりだった。 もともとオリジナル脚本には存在しなかった看護婦エヴァ役には、数少ないペキンパーお気に入り女優のひとりセンタ・バーガー。’60年代にハリウッドへと進出し、ペキンパーの『ダンディー少佐』(’65)にも出演していた彼女は、当時すでに活動の拠点を母国・西ドイツに移していたのだが、本作の製作準備のためミュンヘンを訪れていたペキンパーと偶然にも業界パーティで再会。その場で出演をオファーされ、ペキンパーは彼女のために看護婦エヴァというキャラを追加したのである。そのバーガー曰く、当時のペキンパーは「イエスマンばかりに囲まれ、彼らのいいように利用されていた。本人がそのことに全く気付いていない様子だったのが残念」だったそうだ。 ちなみに、冒頭でシュタイナーの小部隊が命を助けるロシア人少年兵を演じているスラヴコ・スティマツはクロアチア出身の有名な子役スターで、後にエミール・クストリッツァ監督の『ドリー・ベルを覚えているかい?』(’81)と『ライフ・イズ・ミラクル』(’04)に主演し、カンヌ国際映画祭のパルムドールに輝いた『アンダーグランド』(’95)でも主人公マルコの弟イヴァンを演じていた。 こうして完成した『戦争のはらわた』は、ヨーロッパやアジアの各国で大ヒットを記録。中でも日本での成功は抜きん出ていたらしい。当時、宣伝キャンペーンのため来日したサム・ペキンパーとジェームズ・コバーンは、日本のアパレル企業ダイトウボウの紳士服「ロッキンガム」のCMをペキンパー演出・コバーン出演で撮っている。ただ、肝心のアメリカでは折からの『スター・ウォーズ』ブームの陰に隠れ、残念ながら全米興行では惨敗を喫してしまった。■ 『戦争のはらわた』© 1977 Rapid Film GMBH - Terra Filmkunst Gmbh - STUDIOCANAL FILMS Ltd