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COLUMN/コラム2018.09.16
出てくるのは悪党だらけ!『ダーティハリー』に続くドン・シーゲル監督の痛快B級犯罪アクション!
‘70年代のハリウッドを代表するアクション映画といえば、『フレンチ・コネクション』(’71)と『ダーティハリー』(’71)。奇しくも同じ年に公開されたこの2本は、アメリカのみならず世界中のアクション映画に多大な影響を及ぼしたわけだが、中でも手段を選ばず問答無用で犯罪者を始末していく刑事ハリー・キャラハンの活躍を過激なバイオレンス描写満載で描いた『ダーティハリー』は、一部の良識派インテリ層から眉をひそめられつつ、折からの凶悪犯罪の増加や治安の悪化に不満を募らせていた大勢の庶民からは拍手喝采で迎えられた。おかげで、映画界では「なんちゃってダーティハリー」なアウトロー刑事がにわかに急増。一般市民が法で裁くことのできない犯罪者を成敗するという、『狼よさらば』(’74)に代表される一連のヴィジランテ(自警団員)映画ブームも、『ダーティハリー』の影響によるものと考えていいだろう。そんなアクション映画の金字塔『ダーティハリー』の生みの親が当時59歳のベテラン、ドン・シーゲル監督。それまでB級映画専門の職人監督としてコツコツとキャリアを築いてきたシーゲルは、これ1作でアクション映画の巨匠へと祭り上げられたわけだが、その彼が次回作として選んだ映画がこの『突破口!』だった。 主人公は農薬散布業者のチャーリー・ヴァリック(ウォルター・マッソー)。もともと曲技飛行のパイロットだったチャーリーだが、同僚だった妻ナディーン(ジャクリーン・スコット)との結婚を機に、ニューメキシコの片田舎で小さな農薬散布会社を立ち上げる。しかし、大手の業者に押されて経営は火の車。そこで彼は、妻や2人の従業員を従えて銀行強盗に乗り出す。といっても、狙うのは田舎町の小さな支店ばかり。一度に奪う金額はたかだか知れたものだが、しかしその方が銀行の警備が手薄で捕まるリスクも少ないからだ。そんなある日、いつもの手順通りに田舎町トレス・クルーセスの銀行を襲ったチャーリーたち。ところが、今度ばかりはちょっと勝手が違っていた。警備員の反撃で仲間のアルが殺され、運転手役のナディーンまで警官の銃弾に倒れてしまう。しかも、家に戻って奪った現金袋を開けてみたところ、中には76万ドルもの札束が入っていた。田舎の銀行にこれだけの大金があるのは明らかにおかしい。それがマフィアの違法資金だと気付いたチャーリーは、残った仲間ハーマン(アンディ・ロビンソン)と共にメキシコへの高飛びを画策するのだが、そんな彼らに警察やFBIの捜査網、さらにはマフィアの放った殺し屋モリー(ジョー・ドン・ベイカー)の魔手が迫る…というわけだ。 『ダーティハリー』という超特大級のヒットを放っておきながら、その直後に作った本作が紛うことなき筋金入りのB級アクションというのも、なるほど、娯楽職人ドン・シーゲルならではと言えるだろう。といっても『ダーティハリー』自体、当時ユニバーサルと専属契約を結んでいたシーゲルが、愛弟子クリント・イーストウッドの希望でワーナーへ貸し出されて撮った作品なので、もしかすると彼としては通常営業に戻りましたというだけのことだったのかもしれないが。いずれにせよ、決して多額の予算を注ぎ込んだ作品ではないし、撮影だって2か月弱程度という速さで済ませている。ロケ地もネバダ州周辺のみ。規模的にはかなりコンパクト・サイズだが、しかし最初から最後まで全く目が離せない痛快な犯罪アクション映画に仕上がっている。 だいたいオープニングからして素晴らしい。朝靄がたちこめるアメリカのありふれた田舎町。郵便局では老人が軒先に星条旗を掲げ、牧場ではカウボーイが牛の群れを世話する。民家の庭先では少女が芝刈り機でせっせと草を刈り、空き地ではフットボールに興じる少年たちが賑やかに駆け回っている。そんなのどかで平和な日常風景から一転、田舎町は銀行強盗の阿鼻叫喚に包まれるわけだが、そこへ至るまでに不穏な空気を高めながらジワジワと緊張感を煽っていく「溜め」の演出、そしていざ銃撃戦が起きてからは急転直下のスピーディな展開。この日常から非日常へのドラマチックな転換、大胆な緩急のさじ加減は実に見事だ。まさに掴みはバッチリ。『殺人者たち』(’64)にしろ『ダーティハリー』にしろそうだが、ドン・シーゲル監督は映画の冒頭で観客に強烈なパンチを食らわせることで、作品の世界へ一気に引き込んしまうのがとても上手い。これぞ職人技だ。 続くカーチェイスも迫力満点。銀行から飛び出してきたチャーリーとハーマンを乗せて走り出す黄色いリンカーン・コンチネンタル。しかし、傍に停めてあったパトカーにぶつかり、その衝撃でボンネットがパッカリと開いてしまう。視界が遮られたままハンドルを握る運転席のナディーン。そこへ駆けつけた別のパトカーが激突。パトカーは目の前の雑貨店の軒先を破壊して軽トラックに突っ込み、リンカーン・コンチネンタルはボンネットを振り落としてハイウェイへと逃げ去る。実はこの一連のカースタント、事前の計画通りには行かなかった。まずボンネットが開いたのは全くの計算外。激突したパトカーも本当は雑貨店に突っ込んで停車するはずだった。しかし撮り直しをしている余裕などないため、そのままオッケー・テイクとせざるを得なかった。低予算映画ゆえの妥協ではあるが、しかしそれがかえってアクションにリアルなライブ感をもたらしている。最大の見どころであるクライマックスの、複葉機VSクライスラー車の世にもイカレたカーチェイス(?)もほぼ一発撮り。これまた臨場感がハンパない。 中盤からは警察やマフィアの追手を上手いこと出し抜きつつ、高飛び計画の準備を着々と進めていくチャーリーの姿が描かれるわけだが、余計な説明の一切を省いた語り口が功を奏する。なぜ今その行動を取るのか、その行為に何の意味があるのか。一見しただけでは分からない描写も多いのだが、それらの巧妙に仕掛けられた伏線が最後の最後になって見事に結実し、どんでん返しという大きな答えとなって提示される。この、いわゆる「アハ体験」の気持ち良さときたら!なるほど、そういうことだったのね!と誰もが思わず膝を打ってしまうはずだ。出てくるのが悪党だらけというのも、「善人よりも悪人に感情移入してしまう」と公言していたシーゲル監督らしい設定。そういう意味では『殺人者たち』と双璧であろう。 主人公チャーリーを演じるのはウォルター・マッソー。この冷静沈着で抜け目のない犯罪者役に、喜劇俳優としてのイメージの強いマッソーを起用したことは、恐らく当時は意外なキャスティングだったに違いない。もっとも、本作以降立て続けてアクション映画に出演することになるのだが。それに、映画ファンならご存知の通り、マッソーはそのキャリアの初期において、『シャレード』(’73)や『蜃気楼』(’65)といったサスペンス映画で悪役を演じている。ただの面白いオジサンではないのだ。実際、本作では善とも悪ともつかないアンチヒーローを、人間味たっぷりに演じて魅力的だ。最愛の妻を目の前で亡くしながらも涙ひとつ見せず、淡々と銀行強盗の証拠隠滅作業を進めながらも、これが今生の別れとさりげなく妻の亡骸に口づけをする姿に、チャーリーという人間の複雑な本質が垣間見える。ちなみに、このキスシーンは脚本にはなく、マッソーの完全なアドリブだったそうだ。 そんなチャーリーの足を引っ張る愚かで軽率な若者ハーマンを演じるのが、『ダーティハリー』の殺人鬼スコーピオンで強烈な印象を残したアンディ・ロビンソン。もともと彼はドン・シーゲルの長男で当時人気俳優だったクリストファー・タボリの友人だった。スコーピオン役を探していたシーゲルが息子に「ニューヨークで一番才能のある若い舞台俳優は誰だ?」と尋ねたところ、クリストファーがアンディの名前を挙げたのだそうだ。実際に彼の芝居を見るためニューヨークへ足を運ぶ予定だったシーゲル監督だが、急な所用で断念することに。その代理としてクリント・イーストウッドがアンディの出演する舞台を観劇し、太鼓判を押したことからスコーピオン役に決まったのである。監督自身も彼のことをいたく気に入ったらしく、それゆえスコーピオン役でタイプキャストされることを心配したのか、『ダーティハリー』完成直後に「もしかすると君のキャリアを潰してしまったかもしれない」と漏らしていたという。前作のサイコパスとは全く違うハーマン役に起用したのは、もしかすると監督なりの気遣いだったのかもしれない。 マフィアの殺し屋モリー役には、ヴィジランテ映画の名作『ウォーキング・トール』(’73)でもお馴染み、’70年代を代表する強面タフガイ俳優の一人ジョー・ドン・ベイカー。そのほか、『ダーティハリー』の市長役でも有名なジョン・ヴァーノン、『刑事マディガン』や『テレフォン』(’77)にも出演したシェリー・ノース、『殺人者たち』の小悪党ミッキー・ファーマー役も印象深いノーマン・フェルなど、ドン・シーゲル・ファンには馴染みのある顔が揃う。銀行の警備員役として’30年代のB級西部劇スター、ボブ・スティールが顔を出しているのも興味深い。ちなみに、チャーリーとベッドインする銀行頭取秘書役のフェリシア・ファーは、ビリー・ワイルダーの『ねえ!キスしてよ』(’64)で嫉妬深い夫を狂わせる美人過ぎる奥さんを演じた女優だが、実はウォルター・マッソーの親友ジャック・レモンの妻でもある。 最後に小ネタ的なトリビアをまとめて。本作の撮影監督を務めるマイケル・C・バトラーは、ブルースクリーン合成を開発した伝説的な特撮マン、ラリー・バトラーの息子で、実はその父親の親友だったドン・シーゲル監督が名付け親だった。また、冒頭で警察無線のオペレーターをやっている女性は、若い頃シーゲル監督の恋人だった’40年代のコロンビア専属女優キャスリーン・オマーリー。さらに、オープニングではシーゲル監督の子供たちも出演している。スプリンクラーを跨いでいく幼い少女は当時7歳の娘キット、芝刈り機で庭の草を刈っている少女は13歳の長女アン、道行く女の子をひやかす少年3人組のうち真ん中が14歳の息子ノウェル。なお、ロバの背中にサドルを乗せようと悪戦苦闘する少年はウォルター・マッソーの息子チャールズである。彼は銀行強盗シーンにも登場。銀行前のブランコに乗っている手前の男の子がそうだ。というのも、当初は地元の少年がキャスティングされていたのだが、生々しい銃撃戦の撮影にビビッて逃げ出してしまったらしい。その代役としてチャールズが再登板することとなり、保安官に車のナンバーを教えるシーンではセリフもこなしている。▪️ © 1973 Universal City Studios, Inc. Copyright Renewed. All Rights Reserved. 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存
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COLUMN/コラム2018.09.11
『アニマル・ハウス』で輝いた、2人の“ジョン”の顛末
1962年のアメリカを舞台にした作品として有名なのは、“青春群像劇”の『アメリカン・グラフィティ』(1973)。若きジョージ・ルーカスが監督・脚本を手掛け、このジャンルの金字塔となった名作である。 しかし62年が舞台と言えばもう1本、忘れてはならない“青春群像劇”がある。それがこの、『アニマル・ハウス』だ。 本作の主な舞台は、アメリカ北東部に在る、「フェーバー大学」。主役は、学内でサイテー最悪の社交クラブ、「デルタハウス」のメンバーである。飲んだくれや女たらし、暴走バイカー等々、トラブルメーカーだらけ。彼らを憎悪する大学当局は、学内最高のエリート集団「オメガハウス」を焚き付け、「デルタ」追放に乗り出す。 それにも拘わらず、飽きることなく乱痴気騒ぎを繰り返す「デルタ」の面々。遂には全員退学となるが、一矢報いることを決意し、大学の在る町の祭典で行われるパレードを標的に、大逆襲作戦を展開する。 そんな内容の『アニマル・ハウス』は、まだ無名の若手俳優を大挙出演させる、低予算コメディという方法論を確立した作品である。同様なパターンで製作された、『ポーキーズ』(1982~85)や『ポリスアカデミー』(1984~94)などの、“おバカコメディ”シリーズの先駆け的存在と言える。「デルタ」の面々が、「オメガ」のような、エリートや差別主義者たちへの“反骨心”をベースに大破壊を行う辺り、凡百の“おバカコメディ”とは、一線を画すのだが。 「デルタ」の面々がパレードを壮大にぶっ壊した後に訪れる終幕は、『アメリカン・グラフィティ』のパロディ。『アメリカン・グラフィティ』では、主要登場人物4人のその後の人生が、「作家となって現在はカナダに住む」「ベトナム戦争で行方不明」といったように、顔写真と字幕で紹介される。『アニマル・ハウス』では、「デルタ」「オメガ」の主要キャラ12人の行く末が、ストップモーションと字幕で語られる。具体的な内容は、是非本編で確認して欲しい。 では、当時無名の若手俳優だった出演者たちの、リアルな“その後”は? 『アマデウス』(1984)のモーツァルト役でアカデミー賞候補になったトム・ハルス、TVドラマの監督・出演者として活動を続けるティム・マシソン、『インディ・ジョーンズ』シリーズ(1981~2008)で2度ヒロインを務めたカレン・アレン等々がいるが、出世頭と言えるのは、個性的な悪役などで現在も活躍する、ケヴィン・ベーコンか。因みにスクリーンデビューだった本作でも、ベーコンは仇役「オメガ」の一員である。 こうした俳優陣の“その後”を思いながらの鑑賞も、40年前に製作された本作の楽しみ方の一つである。しかしその一方で改めて注目したいのは、本作を輝かせた2人の“ジョン”の、大いなる“才能”である。 当時はまだ20代だった、主演のジョン・ベルーシ、そして監督のジョン・ランディス。進む道次第では、80年代以降のアメリカ映画シーンをリードし、「ハリウッドの王」になる可能性さえ感じさせた2人である。 ジョン・べルーシは本作出演時、すでにTVバラエティ「サタデー・ナイト・ライブ」(1975~)の人気者だったが、スクリーンで最初にその才を発揮したと言えるのは、この『アニマル・ハウス』。「デルタ」の古参メンバー、ブルタスキ―役で“主演”にクレジットされているものの、実際はストーリー展開とは直接関係のないところで、身勝手なまでに単独で暴れまわっている。 眉毛ピクピクに代表される顔芸、下品且つ豪快な喰いっぷり飲みっぷり、そして突発的に爆発させる破壊衝動の凄まじさ。本作の作品世界の中でベルーシの個性を生かす最良の方法を採った、ジョン・ランディスの演出もまた、冴え渡っている。 そんなベルーシの個性を、やはり『アニマル・ハウス』のような形で活かそうとした監督が、もう1人。ベルーシの次なる出演作『1941』(1979)の、スティーヴン・スピルバーグである。戦争スペクタクルコメディの『1941』でベルーシが演じた戦闘機パイロットは、ブルタスキ―と同じく、独り暴れては、壮絶な破壊を繰り広げる。 しかしながら『1941』は、稀代のヒットメーカーであるスピルバーグのフィルモグラフィーでは、TOPランクの失敗作。天才スピルバーグも、本格的なコメディは不得手だったようで、全編でギャグが滑りまくり。ベルーシも、空回りの感が強い。 それに比べ、べルーシの個性を最高に輝かせるのは、やはりジョン・ランディスだった。『アニマル・ハウス』の2年後、ランディス×べルーシの再タッグ作となったのが、かの『ブルース・ブラザース』(1980)。この作品では、タイトルロールのミュージシャン兄弟を演じるベルーシとダン・エイクロイドの、抜群のコンビネーションをベースにしながら、ベルーシの突発的な爆発力・破壊力を、十二分に活用している。 結果として、『ブルース・ブラザース』も大ヒット。ランディス×ベルーシ、2人の未来は、ただただ明るいものと思われた。 ところが、運命は暗転する。ベルーシはその後、『ネイバーズ』(1981)『Oh!べルーシ 絶体絶命』(1981)という、共に評判の芳しくない2本の作品に出演後、1982年3月に、薬物の過剰摂取で、33歳の生涯を閉じる。遺作『Oh!べルーシ 絶体絶命』の製作総指揮は、スピルバーグだった。 では、もう1人の“ジョン”の“その後”は!? 30代最初の作品であるホラーコメディ『狼男アメリカン』(1981)も好評を博したランディス。名実共に、ハリウッドのTOPランナーの1人に躍り出た。 そんなタイミングで取り組んだのが、『トワイライトゾーン/超次元の体験』(1983)。スピルバーグが呼びかけ、ランディス、ジョー・ダンテ、ジョージ・ミラーが参加。当時最注目の若手監督4人によって、オムニバス作品を製作するというプロジェクトだった。そしてこの作品が、ランディスの“その後”を大きく変えてしまう。 ランディス監督篇の撮影中に、アクシデントが発生。劇中に登場するヘリコプターが落下し、主役のヴィック・モローと子役2人が巻き込まれて死ぬという、大惨事となる。 『トワイライトゾーン』は、その後一部内容を変えて完成し、公開に至ったものの、ランディスの受けた精神的打撃は甚大なもので、その後の作品作りに大きく影を落とす。80年代中盤=30代半ばから、ランディスは長き低迷に入る。そして60代も終盤に差し掛かった現在まで、復活の兆しはない。 『アニマル・ハウス』で羽ばたき、「ハリウッドの王」になるかも知れなかった、2人の“ジョン”。そのキャリアの曲がり角には、なぜかスピルバーグが介在する。 もちろんスピルバーグに、悪意はあるまい。だが2人の“ジョン”が放った一瞬の光芒は、40年以上に渡ってTOPを走る “大王”スピルバーグが輝き続けるために、吸い込まれてしまったのかも知れない。いま『アニマル・ハウス』に触れると、ついついそんなことまで、考えてしまう…。◾️ © 1977 Universal City Studios, Inc. All Rights Reserved. 保存保存 保存保存 保存保存
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COLUMN/コラム2018.09.07
ストップモーション・モデルアニメの神様レイ・ハリーハウゼン。遭遇によって垣間見た創造者としての姿勢〜『アルゴ探検隊の大冒険』〜
■ギリシャ神話をモンスターファンタジーにした『アルゴ探検隊の大冒険』 1963年に製作された『アルゴ探検隊の大冒険』は、ギリシャ神話の叙事詩を現代的な物語に加工し、魅力的なファンタジーへと昇華させたアクション冒険映画だ。 アリスト王を殺害し、テッサリアの玉座に収まった奸臣ペリアス。だが神の予言によれば、その地位はアリストの息子イアソンによって覆されるという。王への復帰を目指すイアソンは、ヘラクレスを筆頭とするギリシャ最強の男たちと探検隊を結成し、帆船アルゴ号に乗って奇跡を呼ぶ「黄金の羊皮」を探す航海へと出発する。 ペリアスの妨害と、行く先々で待ち受けるモンスターによって、イアソンとアルゴ探検隊の旅は危機の連続だ。ジャン・リードのスリルに満ちた脚本、そして『恐竜100万年』(66)や『砂漠の潜航艇』(68)で知られる監督ドン・チャフィならではの弾むような演出が特徴的だが、なにより映画の魅力を占めるのは、レイ・ハリーハウゼンの想像力に富んだ特殊効果の数々だろう。『原始怪獣現わる』(53)を起点とし、『シンバッド七回目の航海』(58)に始まるシンドバッド三部作や『恐竜グワンジ』(69)etc、個性的なクリーチャーにコマ撮り撮影で命を吹き込んできた「ストップフレーム・モデルアニメーション」の熟練者は、本作で青銅の巨人タロスや、コウモリ型ヒューマノイドのハーピーなど異形きわまるモンスターをスクリーン狭しと大暴れさせている。 ■特撮映画史上に残る、ガイコツ戦士との戦い 特にクライマックスにおける、アルゴ探検隊とガイコツ兵団との戦いは観る者の口をあんぐりと開かせ、また世界のクリエーターの創造力に火を付ける至宝のシークエンスと呼んでいい。 なによりこの圧倒されるハリーハウゼンの仕事は、気の遠くなるほどアナログな手技・手法のもとに成り立っている。アーマチュア(金属関節の人形)と俳優の動きをマッチさせるために、俳優は一連の動きをダンスのように覚えるまでリハーサルを繰り返し、ライブ撮影をおこなう。さらにはこの映像をミニチュア台の背景スクリーンに1フレームずつ投影し、手前に置いたガイコツ戦士のアーマチュアを背景の動きに合わせて1コマずつ動かして撮影し、驚異的なシーンを完成させるのだ。これはハリーハウゼンの特殊効果すべてにおいて共通する手法だが、本作のガイコツ戦士は7体という数の多さに加え、それぞれ個別の動きをつけるため、ライブアクションとアニメイトの手間も7倍となり、プロセスは複雑で非常に時間を食う。そのため1日にわずか13コマしか撮影することができず、このシークエンス全体を撮り終えるまでに4ヶ月半もかかったのだ。 他にも7つの首と2本の尾を持つ巨竜ヒドラなど、可動部分のやたらと多いクリーチャーが複数登場したことも、この映画の創造のハードルを高いものにしている。本作の主な撮影は1961年後半から62年の初頭にかけ、ギリシャやイタリアでロケがおこなわれ、イギリスのシェパートンスタジオで撮影を完了。その後のポストプロダクションにおいてハリーハウゼンは、およそ2年間もの期間をかけて特撮を完成させたのである。 しかしその甲斐あって、この幻想的なイメージと優れたテクニックの融合は、モデルアニメの歴史の中でも突出したものであり、ハリーハウゼンのキャリアにおけるマイルストーンを形成している。本作がハリーハウゼンの手がけた長編作品の中でもトップに挙げられるのも納得の仕事といえよう。 ■来日したハリーハウゼンとの邂逅 そんな高度な職人技を持つ特撮の神様に、一度だけお会いしたことがある。 今から20年前の1998年、広島でおこなわれた「国際アニメーションフェスティバル」で、ハリーハウゼンが名誉会長に就き、同大会で講演をおこなうために来日したのだ。 筆者はまだ現在の仕事が軌道に乗る前のことで、一般客にすぎなかったが、ありがたいことに大学時代の恩師であり、国際アニメーション協会(ASIFA)会員として同大会に関わっていたアニメーション作家の相原信洋氏が、ハリーハウゼンの世話役として氏をサポートしていた。なので氏が会場から会場へと移動するさい、特権でハリーハウゼンに挨拶や握手をさせていただき、持参したガイコツ戦士のアーマチュアを間近で拝見するなど、厚意にたっぷりと甘えさせてもらった。アーマチュアの手触りはもはや忘却の彼方だが、当時すでに80歳に差しかかろうとしていたハリーハウゼンが思いのほか矍鑠(かくしゃく)としており、緊張と興奮のあまり周りに「本人がモデルアニメのようにカクカク動くんだな」と、不謹慎なコメントを放ったことだけはしっかりと憶えている。ちなみに「ガイコツ戦士は自分でもお気に入りのキャラクターなのか?」とハリーハウゼンに訊ねたところ、 「わたしの手がけたキャラクターでいちばん人気があるし、保存状態もいいから、イベントには彼を連れてくるんだ」 との弁。アーマチュアの肉体はスポンジ製の素材なので、経年によって骨組みしか残らないというケースが多い。しかしガイコツ戦士はラテックスをアーマチュアに薄く肉付けしたのが功を奏し、かろうじて形を保っていたのである。骨格をかたどったキャラクターがいちばん原型のままで残っているというのは、なんとも笑えぬ冗談みたいだが。 当然ながら、その日におこなわれた氏の講演、そして次世代の作家たちを相手におこなわれたティーチイン、ならびに記者会見にも参加したが、ハリーハウゼンは可能な限り聞き手の質問に答えると同時に「それはまだ発表する段階にない。後日に出版する自伝に事細かく記す予定だ」と回答を控えるケースもあった。このことに対して当時は「なんとビジネスライクな性格だろう」と思ったものだが、今となってはその行為の正当性に頷かされる。 ハリーハウゼンは1982年の『タイタンの戦い』を最後に現役を引退後、1986年4月10日に「レイ&ダイアナ・ハリーハウゼン ファウンデーション」を設立し、広範囲なアーカイブの保護や、自分が持つ技術やキャラクターの権利を確立させるための動きを本格化させていた。こうした布石を踏まえうたうえで、ああ、この人は商業映画の特殊効果マンという役職以上に、その技芸はもはや固有のアーティストなのだ。と認識をうながされるのである。 『スター・ウォーズ』(77)の登場と、同作を契機とするビジュアル・エフェクトの革命以降、ハリーハウゼンの魔法を「時代遅れ」とみなす見解が一部評論家の間で見られた。リアリティを標榜する最先端のVFXからすれば、その言説にはあたかも正当性があるかのように思える。だがデジタル全盛の現在、CGIがもたらすイメージは匿名性を強いものとし、視覚上は画一化され、作り手の個性を希求する性質のものではなくなってしまった。そんな時代の趨勢とも照らし合わせたとき、ハリーハウゼンの技術はまぎれもなく芸術であり、作家性を尊重すべき「文化遺産」だと強く感じるのである。 ■HD版で注目してほしいシーン 最後に本作、日本ではパッケージソフトが現時点(2018年11月現在)でDVDしか発売されておらず、HDの鑑賞は配信やCS放送など機会が限られている。もともと同作の特撮シーンは背景スクリーンに既撮影のフッテージを映し、さらに手前には投影による写り込みを防止するためのフォアグラウンドのプレートを配置して撮るため、本編シーンに比べると画質は粗めの傾向にある。なので高解像度のメディアでの鑑賞は理想的といえるだろう。なによりハリーハウゼンによるコンセプチュアルかつ手の込んだクリーチャーの質感や、ガイコツ戦士たちが持つ盾のエンブレムのディテールの細かな部分など、高精細であればあるほど気づかされる部分は沢山ある。 あと、高画質化にあたって修正されているところもあり、そこにも注目してほしい。特に知られているのは、コルキスにたどりついたイアソンとアルゴ探検隊が上陸をめぐり対立し、イアソンがアカスタスと格闘を繰り広げるシーン(本編開始から71分経過あたり)。ここは昼間に撮影がおこなわれ、視聴補正で夜のシーンに加工されていた(いわゆる「デイ・フォー・ナイト」と呼ばれる技法)。しかし初期のビデオ版ではそれが損なわれ、昼のままになって時間軸に狂いが生じていたのだ。現在は元に戻って夜のシーンとして直されているが、それでもハッキリとデイ・フォー・ナイトが分かるので、気をつけて見てみるのも一興だろう。▪︎ © 1963, renewed 1991 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2018.09.05
ロジャー・コーマン製作の『ジョーズ』亜流映画はバカの連鎖によって大惨事が引き起こされる痛快(?)ブラック・コメディ『ピラニア』
B級映画の帝王ロジャー・コーマンが弟ジーンと共に、'70年に設立したインディペンデント系映画会社ニューワールド・ピクチャーズ。'83年にコーマンがハリウッドの大物弁護士3人の合弁会社へ売却するまでの間、実に100本以上の低予算エンターテインメント映画を製作・配給した同社だが、その中でも興行的に最大のヒットを記録した作品がジョー・ダンテ監督の『ピラニア』('78)だった。 ニューワールド・ピクチャーズの基本方針といえば、言うまでもなく徹底したコストの削減である。人件費を浮かせるため撮影期間は最小限に抑えられ、キャストもギャラの安い無名の若手新人か落ちぶれたベテラン勢で固め、セットや衣装、大道具・小道具などは別の映画でも使い回しされた。時にはフィルムそのものを使い回すことも。さらに、リスクを取ることなく確実に当てるため、映画界のトレンドやブームには積極的に便乗。最初期の代表作『危ない看護婦』('72)シリーズは折からのソフトポルノ人気に着目しての企画だったし、ヨーロッパ産の女囚映画が当たり始めるとすかさず『残酷女刑務所』('71)や『残虐全裸女収容所』('72)などの女囚物をバンバン連発した。さらに、『バニシングIN 60”』('74)が大ヒットすれば『デスレース2000年』('75)や『バニシングIN TURBO』('76)を、『スター・ウォーズ』('77)がブームになれば『宇宙の七人』('80)や『スペース・レイダース』('83)を、『エイリアン』('79)が当たれば『ギャラクシー・オブ・テラー/恐怖の惑星』('81)や『禁断の惑星エグザビア』('82)をといった具合に、時流のジャンルや大ヒット映画を臆面もなくパクるのがコーマン流の成功術だったわけだ。 なので、当時のロジャー・コーマンが折からの『ジョーズ』ブームに目を付けたのも当然と言えよう。'75年の6月に全米公開されたスティーブン・スピルバーグ監督の『ジョーズ』('75)は、900万ドルの予算に対して4億7000万ドル以上を売り上げ、各映画会社が夏休みシーズンに目玉映画を公開するサマー・ブロックバスターの恒例行事を初めて確立し、自然界の生き物が人間を襲うという動物パニック映画のブームを巻き起こした。自然公園に出現したクマが人間を襲う『グリズリー』('76)、可愛い犬たちが集団で人間を襲撃する『ドッグ』('76)、さらにはオゾン層の破壊の影響で様々な動物が凶暴化する『アニマル大戦争』('77)などなど。ただ、『シャークジョーズ/人喰い鮫の逆襲』('76・旧テレビタイトル)と『オルカ』('77)、そしてイタリア産の巨大タコ映画『テンタクルズ』('78)の例外を除くと、『ジョーズ』の直接的な亜流に当たる水中生物系のパニック映画が量産されるようになるまでには少し時間がかかった。 そもそも、この『ピラニア』だって『ジョーズ』のヒットから3年も経って劇場公開されている。そのほか、鮫だけでなくワニやカマスや海洋モンスターなど、手を変え品を変えた一連の『ジョーズ』パクり映画群も、だいたい'78~'81年頃に集中して作られている。その理由の一つとして考えられるのは、陸上に比べると水中撮影は時間もコストもかかることであろう。また、『ジョーズ』のように撮影用の巨大な生物メカを製作するとなると、さらに費用がかかってしまう。懐に余裕のない独立系映画会社にとっては負担が大きい。しかし、多くのプロデューサーが『ジョーズ』の亜流映画製作に慎重となった最大の理由は、本家製作元のユニバーサルから訴えられることを恐れたためではないかと思われる。実際、あまりにもストーリーが『ジョーズ』と酷似したイタリア産の『ジョーズ・リターンズ』('81)は、案の定ユニバーサルから訴訟を起こされ、全米公開からたったの1か月で上映を差し止められている。それでも1800万ドルの興行収入を稼いだというのだから立派なものなのだが。 そういうわけで、巨大な鮫に対して小さいピラニアだったら、仮に訴えられても言い訳できるだろうと考えたロジャー・コーマン。ところが、当時『ジョーズ2』('78)を劇場公開したばかりだったユニバーサルは、著作権侵害を理由に『ピラニア』の公開差し止めを求めようと動いていた。うちの客を奪われちゃかなわん!ってことなのだろう。それを思いとどまらせたのが、なんとほかでもない本家『ジョーズ』の生みの親スピルバーグ監督だったと言われている。事前に『ピラニア』本編の完成版を見て気に入ったスピルバーグは、ジョー・ダンテ監督の腕前を高く評価していたらしいのだ。そのことをダンテ監督自身は、後にオムニバス映画『トワイライトゾーン/異次元の体験』('83)の監督の一人として、スピルバーグから声がかかるまで全く知らなかったらしい。その後、『グレムリン』('84)や『インナースペース』('87)などでもダンテと組むことになるスピルバーグだが、この頃から既に彼の才能に着目していたのである。 そんなスピルバーグをも認めさせた映画『ピラニア』の面白さとは、一言で言うなら「開き直りのパワー」であろうか。どうせ低予算のパクり映画なんだから、思い切って好きなことやって楽しんじゃおうぜ!という若いスタッフの情熱と意気込みが、スクリーンから溢れ出ているのである。先述したように、ロジャー・コーマンは徹底して予算を抑えた映画作りをしていたわけだが、その一方で経験が豊富とは言えない若いスタッフたちに積極的にチャンスを与え、クリエイティブ面でも彼らの意見を最大限に尊重し、その才能を後押しすることを惜しまなかった。まあ、それもまたコーマン流の人件費削減術(経験の浅いスタッフはギャラも安い)なのだが、結果的に多くの優秀な映画人が彼のもとから育ったわけだから全然オッケーでしょう。実際、ニューワールド作品からも、ロン・ハワードやジョナサン・デミ、ジョナサン・カプラン、ポール・バーテルなどの監督が巣立っていった。もちろん、『ピラニア』のジョー・ダンテもその一人だ。 もともと、ニューワールド作品の予告編編集マンとして腕を磨いてきたダンテ監督。『ハリウッド・ブルバード』('76)での共同監督を経て、初めて単独で演出を任されたのが『ピラニア』だった。当時のダンテ監督は31歳。脚本のジョン・セイルズは26歳だし、そのほか編集のマーク・ゴールドブラットやクリーチャー・デザインのフィル・ティペット、特殊効果担当のクリス・ウェイラスなど、後にオスカーを賑わせる豪華なスタッフたちも、みんな当時は20~30代のチャレンジ精神旺盛な若者だった。当初オファーされていたリック・ベイカーの推薦で、特殊メイク担当の代役に起用されたロブ・ボッティンなどは、まだ18歳の少年だったというのだから驚きだ。そんな彼らの、お金も経験もないけれどアイディアでは負けないぜ!という向上心と貪欲さが、本作の屋台骨をしっかり支えていると言えよう。 オープニングはテキサスの山奥の怪しげな施設。そこへ迷い込んだ10代男女のバックパッカーが、「あ!プールあるじゃん!まじラッキー!」とばかりに素っ裸になって飛び込み、案の定というかなんというか、水中に潜む正体不明の何かに殺されてしまう。で、そんな2人の行方を捜しにやって来た家出捜索人マギー(ヘザー・メンジーズ)は、飲んだくれの自然ガイド、ポール(ブラッドフォード・ディルマン)の案内で若者たちが足を延ばしたであろう例の施設へ。プールの水を抜けば何か分かるかもしれないと考えた2人は、彼らの様子を陰でうかがっていた科学者ホーク博士(ケヴィン・マッカーシー)が必死になって止めるのも聞かず…というか、なんかヤバいオッサンが出てきた!こんな××××は問答無用で倒すべし!とばかりに、博士を殴って気絶させてプールの排水蛇口をひねってしまう。近くの川へと流れ出るプールの水。しかし、そこには米軍がベトナム戦争の生物兵器として開発した獰猛なピラニアの大群が潜んでいたのだ…! というわけで、この映画、基本的に愚かでバカな連中が愚かでバカなことをやらかし続けた挙句、そのバカの連鎖によって大惨事が引き起こされるという痛快(?)なブラック・コメディなのである。冒頭のティーン男女然り、主人公のマギーとポール然り、ピラニアを遺伝子操作したホーク博士然り、さらには隠蔽工作をする米軍大佐(ブルース・ゴードン)やその片腕のメンジャーズ博士(バーバラ・スティール)、リゾート施設の悪徳経営者ガードナー(ディック・ミラー)といった憎まれ役に至るまで、みーんな後先のことなど深く考えずに間違った選択をしてしまう。しかも、誰一人として反省しない(笑)。その究極がクライマックスの無謀としか思えないピラニア撃退作戦ですよ。結局、人類にとって最大の害悪は人類そのもの。そんな大いなる皮肉をシニカルなユーモアで描いたジョン・セイルズの脚本は実に秀逸だ。 とはいえ、やはり最大の見どころはピラニアの大群が人間を襲う阿鼻叫喚のパニック・シーン。しかも、子供たちが楽しげに水遊びをするサマー・キャンプ、大勢の観光客で賑わう川べりのリゾート施設と、2か所でピラニアたちが派手に大暴れしてくれる。ここで才能を大いに発揮するのが、フィル・ティペットやクリス・ウェイラス、ロブ・ボッティンといった、'80年代以降のハリウッド映画を引っ張っていくことになる若き天才特撮マン&天才特殊メイクマンたちだ。人間を食い殺すピラニアたちは、いずれもゴム製のパペットに長い棒を通して、手元の引き金で口をパクパクさせるだけの単純な代物だが、絶妙なカメラアングルと細かな操作によってリアルに見せているし、後に『ターミネーター』シリーズで名を上げる編集者マーク・ゴールドプラットのスピーディで細かいカット割りがアナログ技術の粗を上手いこと隠している。子供だろうが女性だろうが容赦なく血祭りにあげていく大胆さも小気味いい。まさにやりたい放題。しかも、毎日上がってくる未編集フィルムをチェックしていたロジャー・コーマンが、唯一現場に要求したのは「もっと血糊を」だったというのだから、御大もよく分かっていらっしゃる(笑)。 水面に生首が浮かぶシーンには少々ギョッとさせられるが、実はこれ、ロブ・ボッティンが自分の頭部をモデルに製作したダミーヘッドだ。そういえば、前半の軍施設に登場するストップモーション・アニメのミニ・クリーチャーは、特撮映画の神様レイ・ハリーハウゼンの『地球へ2千万マイル』('57)に出てくる怪物イーマへのオマージュだし、劇中のテレビには『大怪獣出現』('57)のワンシーンも映し出される。そうした、ダンテ監督やスタッフの映画マニアっぷりを感じさせる小ネタを含め、そこかしこにお茶目な遊びが散りばめられているところも本作の大きな魅力だ。もしかすると、スピルバーグはそういったところに感じるものがあったのかもしれない。低予算のB級エンターテインメントとして良く出来ているのは勿論のこと、とにかく全編を通してすこぶる楽しいのだ。 かくして、興行収入1600万ドルのスマッシュ・ヒットを記録した『ピラニア』。3年後にはジェームズ・キャメロン監督による続編『殺人魚フライングキラー』('81)が作られ、さらにはオリジナルの特撮シーンを流用したテレビ版リメイク『ザ・ピラニア/殺戮生命体』('95)、フランスの鬼才アレクサンドル・アジャによる新たなリメイク『ピラニア3D』('10)とその続編『ピラニア リターンズ』('12)まで生まれるという、本家『ジョーズ』も顔負けのフランチャイズと化したことは、恐らくロジャー・コーマンもジョー・ダンテも想像していなかっただろう。これに関しては、もともとコーマンのもとへ企画を持ち込んだ元日活女優・筑波久子こと、チャコ・ヴァン・リューウェンの尽力によるものと言える。しかしそれにしても、本来『ジョーズ』のパクりである本作が、さらにイタリアで『キラーフィッシュ』('79)としてパクられたのだから、映画ビジネスの世界というのは面白い。 なお、本作を足掛かりにダンテ監督は人狼映画の傑作『ハウリング』('81)を成功させ、さらに先述した通りスピルバーグとのコラボレーションを経てハリウッドの売れっ子監督に。一方のコーマン御大率いるニューワールド・ピクチャーズは、太古の巨大魚が人間を襲う『ジュラシック・ジョーズ』('79)に海洋モンスター軍団が海辺の町を襲う『モンスター・パニック』('80)を製作。さらに、ニューワールド売却後にコーマンが新設した映画会社ニューホライズンズでも、トカゲ人間がハワイのリゾート地に現れる『彼女がトカゲに喰われたら』('87)なるポンコツ映画を作っている。◾️ © 1978 THE PACIFIC TRUST D.B.A. PIRANHA PRODUCTIONS. 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NEWS/ニュース2018.08.01
【イベントレポート】『MERU/メルー』トークショー付特別試写会
▼イベント名:「特集:そこに山があるから」放送記念『MERU/メルー』トークショー付特別試写会▼登壇ゲスト(上部写真右より):平出和也(アルパインクライマー、山岳カメラマン)、中島健郎氏(山岳ガイド、山岳カメラマン)▼日時:2018年7月28日(土)▼場所:スペースFS汐留(東京・新橋)▼「特集:そこに山があるから」特設サイト:https://www.thecinema.jp/special/mountain/ ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 8月中旬より、トークショーの模様を動画配信サービス【ザ・シネマ メンバーズ】で無料配信します ▼ザ・シネマ メンバーズとは? ▼トークショーを見るには(8月中旬配信予定) ▼登録はコチラから ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ この日の東京は台風12号の接近により荒れ模様の天候となりましたが、それでも会場は大勢の観客が来場。「僕は基本的に晴れ男なんですが、今日は大変な天気になってしまいました。僕は今まで天気で苦労してきましたが、最後はハッピーエンドで終わることも多い。帰るまでが登山とは言いますが、きっと今日はハッピーな1日になると思います」と平出氏があいさつすると、中島氏も「山の天気のような、過酷な環境の中、来ていただいてありがとうございます」と続けました。 この日上映された『MERU/メルー』について、平出さんは「誰も行ったことのないラインで山を登りたいと思って。僕も何回も失敗しながら、だんだんと理想の登山ができるようになった。敗退をくりかえすたびに、登山家として何が足りないのか、人間として何が足りないのか。自分にとってのものさしのようなものを感じるんですが、『MERU/メルー』でも同じような思いを感じました。彼らはすごい人なんですけど、壁にぶち当たったりもしたわけで。彼らの弱さも知ることができて感動しました」と深く感銘を受けた様子。中島氏も「彼らも同じようなことを考えている人間なんだなと思い、共感しました」と続けました。 さらに「実は僕たちは彼らと会ったことがあるんですよ」と明かした平出氏は、ジャングルの中でレナン・オズダーグ氏と一緒に写した写真を披露しながらも「ちょうどメルーを登った後のことだったんですが、ちょこちょこと走り回っていて。やはり彼も山岳カメラマンなので、同じ匂いがしました。でもその時は(彼らの偉業を)知らなかったんで、もしそれを知っていたらもっと深い話もできたかなと思うんですけどね」とちょっぴり残念そうな様子。 その後も、山岳カメラマンの目から見た『MERU/メルー』の撮影方法、2015年に滑落事故で亡くなったアルパインクライマーの谷口けい氏への思いなどを披露する平出氏の話に、場内のお客さまも熱心に耳を傾けます。そして今回の特集について質問を受けると「わたしたちもエベレストに登ったことがありますが、その後に今回放送される映画の『エベレスト 』を観て、かなりリアルさがあるなと思いました。正直、エベレストの映画でもちょこちょこ違うところで撮影している作品が多いですが、この映画のエベレストは本当にリアルだと思いました。頂上の空撮など、ヘリコプターで飛ぶことができないところをあんなにきれいに再現しているのにビックリしました」とオススメコメントを。中島氏も「みんな命をかけて山に登っているんです。そういったことを意識して、なんで彼らは命をかけて山を登るんだろうと。そういうことを考えながら観ても面白いと思います」と付け加えました。 ================================特集:そこに山があるから 【放送日】8月11日(祝・山の日)ほか 【放送作品】(全6作品)『エベレスト』(2015)『K2 ~初登頂の真実~』(2012)『ヒマラヤ 運命の山』(2009)『MERU/メルー』(2015)『ビヨンド・ザ・エッジ 歴史を変えたエベレスト初登頂』(2013)『運命を分けたザイル』 (2003) 特設サイト:https://www.thecinema.jp/special/mountain/ ================================ ザ・シネマの視聴方法はこちらから https://goo.gl/mxgU3T ザ・シネマ カスタマーセンター TEL:045-330-2176(受付時間 土・日・祝除く 9:30-18:30) ================================ スカパーならお申込みから約30分で見られます! 「ザ・シネマ」1chだけでも契約できます。更に加入月は0円! (視聴料は月額700円(税抜)+基本料金 390円(税抜)) https://promo.skyperfectv.co.jp/guide/ TEL:0120-556-365(年中無休 10:00-10:20) ================================
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COLUMN/コラム2018.07.27
『ホビット 思いがけない冒険』オレのクリスマスは今年から、いとしいしと、マーイプレシャースなピージャク神を崇め奉る行事になった件について
視聴者の皆様、謹んでメリクリ申し上げます。ワタクシ、普段はザ・シネマの吹き替え担当をやっている者です。トールキニアン歴25年ということで、何故かこのたび筆をとることになりました。 さて、「『ホビット 思いがけない冒険』ジャパン・ホビット・デー ジャパン・プレミア イベント レッド・カーペットご観覧ご招待」という、当チャンネル史上もっとも長い名称の(多分)プレゼントを10組20名様に差し上げましたが、12月1日のそのイベントに当選された方、ホビット・デーはいかがでしたか? 六本木ヒルズにお越しいただけましたでしょうか? お楽しみいただけました? そうですか。それは何よりです。 その『ホビット 思いがけない冒険』が、いよいよ今日から公開されました! もう、待ちに待った、という感じですね。以前、当チャンネルで『ロード・オブ・ザ・リング』略して『LotR』を三部作一挙放送した際、このブログにもガッツリ長文を書いてヘロヘロになったもんですが、あっという間にあれから4年…。 そのブログ中でも『ホビットの冒険』映画化については言及しましたが、4年たってフタを開けてみればタイトルは『ホビット』。『LotR』と同じく三部作となり(これが最初の一発目で、以降、毎年公開予定)、さらに監督も、すったもんだがありました、で結局変わらず神ピーター・ジャクソンのまま、ということになりました。前作ファンにとってはまさにベストな形で落ち着いてくれて一安心。この間、紆余曲折ありましたからねぇ…。 この作品、『LotR』も『ホビット』も、熱狂的ファンがたくさんいます。映画版だけでなく原作からのファンも多い。また、RPGの原点ともされているため、ゲームから本作に興味を持ったというファンも少なくないはず。昨今の映画で人気大河シリーズは数あれど、映画版、原作、さらにはゲームの影響と、三方から各ファンが大量に結集してきているような超・超人気シリーズは、本作ぐらいではないでしょうか。 ワタクシも中1以来、ゲーム→原作→映画というルートを歩んできたファンで、もう四半世紀近くファンを続けてるんですが、それでもこの作品の場合は新参者・若輩者です。それぐらいファン層が厚い。この奥深さ、まさしく一生モノなのです。こういう場でワタクシごとき豎子が駄文を披露するのは、諸先輩がたに申し訳ない気持ちでいっぱいであります、ハイ。 さて、そんな作品だけに、『ホビットの冒険』を映画化した今作『ホビット 思いがけない冒険』には、原作ファンならではの心配事というのも、実はありました。 『ホビット』は『LotR』のプリクエルなんですね。プリクエル、つまり前日譚です。原作だと、先に『ホビットの冒険』の方がトールキンによって書かれました。しかも、児童文学として。実際、日本でも岩波少年文庫などから出ていますが、ボリュームも、文字の大きさも、漢字の割合も、続編『指輪物語』こと『LotR』と比べて明らかに子ども向けの小説です。『LotR』のような歴史や言語の創造という領域にまで踏み込んだ、壮大な叙事詩というより、ちょっとしたフィンタジーアドベンチャー小説といった気軽さです。私が中1にして人生初読破した小説が、この『ホビットの冒険』上下巻でした。 それが、心配事です。あの『LotR』の壮大なスケールに大感動し、号泣し、この映画が人生ベストだ!と断言して回っているような人種(オレ)にとって、その前日譚で児童文学の『ホビットの冒険』は、スケールダウンしたように映っちゃうのでは…? で、観ました。杞憂でした! 全国のトールキニアンの皆様、ご安心ください! もう、凄いことになっちゃってます!! 4年前のブログにも書きましたが、ピージャック神、この人は原作ファンにとっては神です! 昨今「お前、原作を全っ然わかってねぇーな!」という文化冒涜事件が多発しておりますここ日本ですが、そういうことが神には皆無です。神自身が原作マニア。原作を愛し抜いているマニアの中の真性どマニアが、原作を最大限リスペクトしながら、愛を込めて、原作に付け足したり原作から差し引いたりして使った、映画版。よくぞ!よくぞと言う他に言葉がありません!よくぞやってくれたという出来です!! まず、なにをどうやったらこうなるのか、『ホビットの冒険』が大人向けになっちゃってます! しかも、原作の魅力もまったく損なわれていない! 『LotR』のテンションで『ホビットの冒険』を映画にしているのです。これ凄くないですか? 神は、またも奇蹟を見せてくれました。これによって、原作を知らない映画から参入組のファンは、『LotR』と同水準の超ハイクオリティな物語を、期待通りに楽しめます。かつ、原作からどっぷりファンという層も、大人として『ホビットの冒険』を楽しめるという予想だにしなかった体験をすることができるのです。もう、全員が得してる!これぞまさしくWin-Win関係! さて、この物語は、『LotR』にも出てきたホビット族のおじいちゃん、ビルボ・バギンズの若かりし日々のお話です。バギンズ家(『LotR』でフロドが継いだ家)に、ある晩、ガンダルフに導かれた、トーリンをリーダーとする13人のドワーフ族が押しかけてきます。そして、ドラゴンに奪われた祖国とそこに眠る財宝を奪回しに行こう、という話になり、何故か、初対面でしかもノンビリ系のビルボ・バギンズまでが、“忍びの者”というポジションでそのメンバーに加わることになっちゃって、壮大な冒険に身を投じていくのです。その道中で、ビルボ・バギンズは、例の指輪を手に入れることになります。あの、ゴラムから…。 「ドラゴンに奪われた祖国と財宝」と書きましたけど、原作の児童文学の方では、どちらかというと「財宝奪還」の方がメイン。しかしこの映画版だと「祖国の再興」の方に重点が移っている印象です。ドワーフ族は、祖国を失い、異種族の土地に流れて行き、各地に分散して小集団で暮らす「流浪の民族」として、かなり判りやすくメタファー的な描かれ方をしています。 ドワーフ族と言えばゲームでもお馴染み。見た目はお約束的に、長いヒゲを伸ばしている年老いた頑固な小人、というステレオタイプがあって(白雪姫の例の7人も実はドワーフです)、『LotR』三部作のギムリなんかはまさにそのステレオタイプ通りのキャラでした。でも、今作ではイケメン・ドワーフやヤング・ドワーフなども出てきて、ピージャック神はあえてお約束を崩しにかかっているようにワタクシは見受けました。 『ホビットの冒険』という子ども向け小説を、流浪の民族の物語に、宿命に立ち向かって失われし祖国を再興しようという漢どもの熱きドラマに再構築する。しかも『LotR』水準の壮大なスケールで、大人の観客に滂沱たる大号泣をさせるクオリティで映画として再構築するためには、この手しかありません。ステレオタイプを脱し、彼らドワーフ族を人間的に描くしかありません。そうでなければ深いレベルでの感情移入ができない。ピージャック超アタマいいな!こんなところに神の奇蹟が顕現しています。 さて、今作で我々は、原作にも登場してくる灰色のガンダルフ(『LotR』1作目のようにまだ灰色です)と、裂け谷のエルロンド卿、そしてあのゴラムは言うまでもなく、さらにはガラドリエルの奥方や、白のサルマン、イアン・ホルム演じる老いたビルボ、そしてフロドとまで再会を果たすことになります。これは原作ファンにとっても予期せぬ再会。泣くしかない! さらに、『LotR』で何度も観た、牧歌的なホビット庄や、この世ならぬ幽邃美に満ちた裂け谷といった、懐かしい土地を、我々は今作でまた再訪することになります。もう泣くしかない! 加えてサントラです。『LotR』を愛する者の耳に残って一生離れることはないであろう、魂の旋律の数々。ホビット庄のライトモチーフ。エルフ族のライトモチーフ。そして、あの、ひとつの指輪のライトモチーフが今作でも流れ、懐かしさと同時に、ファンならイントロを聞いただけで、今スクリーンで何が描かれているのか、たちどころに理解できてしまうことでしょう。もはやほとんどワーグナー!本当に泣くしかない! おまけに、映画としての『LotR』にたった一つだけ欠けていた魅力、3D、ということまでも、今作からは加わったのですから、もはや泣かない理由がありません。 嗚呼、神よ感謝します。以下、突然ではありますが、去る12月1日、レッドカーペットの前に開かれた来日記者会見の席にて発せられた、ピージャック神のありがたい御言葉をこの場を借りて伝えますので、どうか心してお読みいただき、明日の心の糧としてください。 「この物語は、『LotR』の60年前という設定です。本作での行動がこの後どういう結果を招いたかということを、観客の皆さんは『LotR』を観てすでにご存知のことでしょう。今作の劇中で、ビルボにはゴラムを殺す機会があります。だが、ビルボは哀れみを見せる。正義感から彼がそこでゴラムを殺さなかったために、この物語は『LotR』の火山にまでつながっていくことになるのです。今作は『LotR』の様々な出来事の序章となっていますが、今、『LotR』から十年以上が経ち、このことは私にとっても大変感慨深く迫ってきます」 そしてこの作品、1秒48フレームという高い描画速度で3D撮影されておりまして、一部劇場ではHFR3D(ハイフレームレート3D)版で公開されておりますが、そんなテクニカル天上界語が難しすぎてアワアワしていた我ら人間界の迷える衆生に対し、神は、噛んで含めるようにして、易しくその神意を説いてくださったのでした。 「1927年、トーキーが誕生して映画に音が付くまで、撮影は手回しで行われていました。手動ですからフレームのスピードが一定ではなかった。しかし、やがてフィルムに音も同時に録音できるようになると、手回しでは音が安定しなくなった。では24フレームに決めよう、という基準がそこで作られたのです。これなら録音は安定する。当時35mmフィルムは高価だったため、24というフレーム数になったのです。 (筆者注:1秒間を24コマで撮影するということ。倍の48コマで1秒とするなら、画はなめらかな動きになるが、フィルムを倍の長さ消費することになり、当然フィルム代が倍かかることになる。逆に1秒12コマに減らせばフィルムは長さ半分、半額で済むが、絵がカクカク動くことに) 以降85年間、それがずっとスタンダードであり続けました。何千台もの映写機やキャメラが作られてしまい、今さら変えようがなかったからです。しかし近年デジタル化が進んで、映写機もキャメラも、フレームレートを変更可能になりました。 では、24から48にフレームレートを増やすことで、何がどう変わるか? 世界にリアリティが生まれるのです。本物の世界により近づけるのです。つまり3Dとハイフレームの融合は、実に素晴らしいコンビネーションだと言えるでしょう。本物の世界観を観客に見せられる。 さらに、映画館に行く動機にしてもらいたいという願いもありました。iPhoneやiPadで映画が観られるご時世です。この『ホビット』のような大作を、新しいテクノロジーで映画館で観て欲しい。人々を映画館に取り戻したい、という想いを、私はこの48フレームに込めました」 動いている対象を1秒間に24枚パシャパシャパシャパシャっと連続撮影し、その写真24枚を1秒間に等間隔でパラパラパラパラっとパラパラ漫画にすると、それは動いているように見える。1秒間の映像になります。これが映画の原理です。お金もないし面倒だから1秒間の動きを8枚の絵に描き、その8枚を1秒かけてパラパラ漫画にする、それが日本のアニメの原理です(スイマセン、かなり強引に単純化して話してます)。 で、このたび最高神は、神の持つ天地創造の御力により、1秒間を48に分割し、その48枚の静止画を1秒間に等間隔でパラパラ漫画にする、という、時間と世界の作り替えをおやりになられた、ということなのです。嗚呼、奇蹟だ! つまり、理論上は絵が倍なめらかに動くようになった訳です。しかも3D! これは『アバター』ショック以降の映画史において最大級のセカンド・インパクトではないでしょうか? まさに我々観客は、映画『ホビット 思いがけない冒険』を観ている間中ずっと、オレ中つ国に迷い込んじゃった!オレそこにいるわ!というアンビリバボーな奇跡体験をすることになるのです! 人類は、ここまできたか! 映画は、ここまでのことをできるようになったか! オレがこの歳まで映画を観続けてきたのは、すべてこれを体験するためだったのか! 泣くしかない。ただ黙って泣くしかない。もう本当に、冗談ではなく泣くしかない。ワタクシなんか170分間常時涙目、時に号泣でしたわ!皆さん、これは観ましょう。■ ©2012 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND METRO-GOLDWYN-MAYER PICTURES INC.
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COLUMN/コラム2018.07.11
『ロッキーの英雄・伝説絶ゆる時』と『荒野を歩け』に出てくるテックス・メックス料理「チリコンカン」のレシピに挑む!!!
写真/studio louise 今回のレシピは当企画史上最簡単。でもその前に、まずそもそもチリコンカンとは何ぞや!?ですが、これは“豆入りミートソース”と説明するのが、知らない日本人に対しては一番解りやすい。作り方もスパゲティ・ミートソースのミートソースとそうは違わんのですが、ただし、決定的に大違いなのが「チリパウダー」と呼ばれるスパイスが味の決め手となっている点。なんか赤唐辛子の粉末みたいな鬼のような響きですけれど、全く違います。辛くはありません。これのおかげでミートソースとは全然違う味です。 ウチは貧乏子沢山で子供が多いのですが、入園前の幼児の頃から全員の大好物。子供の味覚は兄弟姉妹間では遺伝しないものらしく各自バラバラで、満場一致で好きな食べ物など滅多に無くて、こっちが好きなものはあっちが嫌い、あっちの好物はこっちが口つけずと、作る親としては「いいから出されたもんは文句言わずに黙って残さず食え!」と毎回叱ってはみるものの、子供相手には詮無きこと。しかしこのチリコンカンは、カレーだとかコロッケだとか並ぶ、例外的な全員の好物です。つまり、お子様向け・万人向けの、割とわっかりやすい味だということ。だから辛くない。少々スパイシーではありますけど。 かく言う父親のワタクシ当年とって43歳も、小学生の頃に金曜ロードショーで「刑事コロンボ」見ててその存在を知り(コロンボの大好物という設定)、そんなに美味いんだったら喰ってみたい!と子供ながらに思ったものの母親はそんな得体の知れんものは作らず肉ジャガとか作ってる。夢が叶ったのはもちろん、皆さんご存知ウェンディーズで、でした。当時は「ウェンディーズチリ」こそが日本にいて一番容易に食べられるチリコンカンだったのです。そして「この世にこんな美味いものがあるのか!」と感動したのがワタクシとチリコンカンの最初の出会いでした。確か所は@地元ららぽーとTOKYO-BAYじゃなかったかな?80年代後半の話です。そこにウェンディーズが入ってたのです(森永LOVEもあったな)。ちなみに、その頃の初期ららぽーと、当時の東洋一のショッピングモール(日本にはモール自体なくアメリカの匂いがした)の威容は、菊池桃子主演の『テラ戦士Ψ(サイ)BOY』という日本映画に記録されていて、何らかファストフード店も映ったような記憶があるのですが、ウェンディーズだったかな?覚えてないや。もう一度見たい!が、なんと未DVD化で中古VHSがAmazonで¥7,500もするのかよ!?くそ〜邦画じゃなかったらウチの「シネマ解放区」でオレがやるんだけどなぁ! まぁそれはいいや。次に「テックス・メックス料理」とは何ぞや!?ですが、単にテキサス&メキシコ料理という意味です。伝統的なメキシコ料理では決してなくて、テキサスでアメリカナイズされた、なんちゃってメキシカンフード。日本の洋食が本場の西洋料理とは似て非なるものであるのと同じ。これが、あんまし上等な食い物じゃないんだ、エンチラーダとかブリトーとか。でも、どんな上等な食い物よりここらへんは美味いっすね!少なくとも個人的にはブッチギリ好みですわ。 上等な食い物じゃない、というポジションを踏まえた上で、このチリコンカンが登場する前出2本の映画での扱いにご注目いただきたい。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ まずは、1972年の『ロッキーの英雄・伝説絶ゆる時』。これはVHS含め過去に一度もソフト化されたことがない(はず)掛け値無しのお宝作品で、ワタクシ、映画ライターなかざわひでゆきさんと過去にガッツリ語り合ってもおりますので、詳しくはその対談をご笑覧ください。ここでは簡単にあらすじだけ。 親を亡くし独り山中で暮らすネイティヴ・アメリカンの野生児ブラック・ブルは、文明暮らしに馴染めないまま成長した。彼には荒馬を乗りこなす才能があり、ある日それが老ロデオコーチの目に留まり、引き取られ訓練を積みロデオ乗りとして成功する。この老人はブラック・ブルにとって足を向けては寝られない恩人であり、酒場で絡んできた白人レイシストを殴り倒すなど親身になってくれ、育ての親とも慕う存在なのだが、しかし… でもって映画前半、老ロデオコーチの馬場で猛特訓を積み、特訓を終えるとメシの時間で、元選手でケガで引退した住み込みのオッサンが1人おり、そいつが作る絶品チリコンカンを3人でドカ食いする。「どんどん食え、筋肉を付けろ」などと老コーチから主人公は指導されますから、米国版ちゃんこですなこれは。これが、見るっからに美味そうなんです!住み込みのオッサンはレッドホットソースを振りかけて食ってる。ワタクシの場合は緑タバスコと決めていますが。チリコンカン自体は全く辛くないので、辛いもの好きにはホットソースは不可欠です。 とにかく、どちらかと言うとガテンな感じの食い物なのです。そもそもカウボーイが荒野で野宿しながらダッヂオーブンで作ってたぐらいのものなので。そして、ちゃんこ替わりにロデオライダーが体作り目的で喰うのがこれなので。お上品な食い物では全然ないのです。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 2本目の映画、1962年の『荒野を歩け』。こちらは隠れた名作なのにウチのチャンネル内でもあまり大々的に宣伝してこなかったので、この場を借りて若干長めに語らせといてください。レシピしばしお待ちを。 監督は名匠エドワード・ドミトリク(代表作は54年『ケイン号の叛乱』、56年『山』、59年『ワーロック』など)、主演がローレンス・ハーヴェイで、ウチのチャンネル的には超有名作『アラモ』(60年)と超無名作『肉体のすきま風』(61年。でも傑作です!)でおなじみ。実は『ドミノ』(05年)でキーラ・ナイトレイが演じた実在の女賞金稼ぎドミノ・ハーヴェイの父親だったりもします。クールな父娘だぜ! さて、時は大恐慌の時代1930年代初頭。主人公ローレンス・ハーヴェイはカウボーイ・デニム・スタイルで上下キメてる流れ者のテキサン(テキサスっ子)。上が明らかに「Lee101J」で、下は「Leeカウボーイ」でしょう。LEVI'Sはこの当時ゴールドラッシュの金鉱掘り坑夫が履くようなダボっとした作業ズボン風シルエットだったのですが、Leeはカウボーイ専用ジーンズとして「Leeカウボーイ」というラインを1924年に発表。今に続く「Leeライダース」の原点です。これが、年々タイトな若々しいシルエットに細まっていき、作業着の実用性よりファッション性に重きを置いていき、それが革命的だったのです。ジージャン「Lee101J」の方もタイトだった。1926年には社会の窓ジッパー化もいち早く成し遂げており、デニム業界の最先端をLeeは走っていました(Leeの歴史)。劇中のローレンス・ハーヴェイはそれを着ているはず。考証的に30年代初頭にしては細すぎるシルエットですが、細身で苦み走ったシャープな二枚目の彼に実にお似合いです。 で大不況下のイケメン浮浪者ローレンス・ハーヴェイが一夜の野宿の寝床にと空き地の土管にもぐり込もうとすると、先客ジェーン・フォンダが寝てた。彼女は1960年のデビュー作カレッジ・ラブコメ『のっぽ物語』に続いての映画出演ですが、2作目にしていきなりのとんでもないビッチ汚れ役!ニンフォマニアな未成年で、ローレンス・ハーヴェイに迫るものの「愛する女が待ってるから」とフラれ、2人してホーボーとなって無賃乗車したり(ホーボーとは何ぞや!?はこの秋放送の『北国の帝王』を見よ)、或る夜の出来事式色じかけヒッチハイクをしたりして(或る夜の出来事式色じかけヒッチハイクとは何ぞや!?は放送中の『或る夜の出来事』を見よ)、その運命の女がいるはずのニューオリンズを目指します。 ニューオリンズの手前にて、いよいよチリコンカンが登場。2人は街道沿いのホコリっぽいおんぼろダイナーの前を通りかかり、「いい匂いだ」とローレンス・ハーヴェイが引き寄せられて店に入る。そこの女将が大女優①アン・バクスター。メキシコ系テキサス女性で、ローレンス・ハーヴェイとはテックス・メックス風メニューあれこれのグルメトークで盛り上がってすぐに意気投合。「どれも美味そうだがとにかく今はチリコンカンが喰いたい」と彼はオーダーします。連れのジェーン・フォンダは焼きもちから「まともなアメリカ料理の方がアタイの口には合うね。この料理の名前は一体何語さ?ちゃんとした英語でお書きよ!ここはアメリカだよ!」などとネトウヨのようなヘイトスピーチを吐きちらかす。大女優①アン・バクスターは困った人への大人の対応で受け流すが、ローレンス・ハーヴェイは彼女の人品骨柄の卑しさに愛想を尽かし、2人で会話もなく黙々と不味そうにチリコンカンを喰う羽目に。美味そうに見せるシーンじゃないのとモノクロ映画なのと監督が食に興味ないのかも、とのトリプル理由から、この映画では全然チリコンカンが美味そうには見えず、そもそもどんな食い物か映しもしません。が、チリコンカンがどんなポジションの食い物かは一番よく解る映画です。 その後、ビッチにもほどがあるジェーン・フォンダと縁を切り、大女優①アン・バクスターの場末ダイナーで肉体労働住み込みバイトをしながらニューオリンズの運命の女の居場所を探し続けるローレンス・ハーヴェイ。アン・バクスター女将に惚れられてしまったりもしますが、ついに運命の女の所在が判った!ということでニューオリンズに行ってみると…運命の女ことキャプシーヌは、大女優②バーバラ・スタンウィックが女楼主として君臨する高級娼館のトップ娼婦として苦界に身を沈めていた…。 と、ここから先は実際にご覧になっていただくとして、一言で言うと“SEXワーカーと付き合う問題”について描いた映画なのですが、それより皆さん、ジェーン・フォンダにアン・バクスターにキャプシーヌにバーバラ・スタンウィックですよ!凄くないですか!? この映画、DVDはおろかVHS時代含め未ソフト化らしいのですが(多分)、チリコンカンはともかくとしてこのメンツだけでも見るに値します。あとこの大女優4人の中では、個人的にはやっぱジェーン・フォンダっすね!ヒロインのキャプシーヌはさすがに運命の女役だけあり、人間離れして彫刻的に美しく、ウエストもコルセットでもしているように細くて凄いスタイルで、神々しいばかりなんですが、ジェーン・フォンダはムッチムチ!そして若い!バ〜ン!と言うかドスコ〜イ!と言うかドレスからハミ出る勢いの圧倒的な肉体の説得力で、下流でビッチなナチュラル・ボーン・フッカー役に挑んでいます。『コールガール』(71年)の頃よりか一回り太い。ただし、ヘイズコード撤廃前なのでヌードはありません。そちらがお目当の殿方は当チャンネルで絶賛放送中の『バーバレラ』(67年)の方もあわせてご覧ください。 あとニューオリンズのフレンチクォーターなのかな?の娼館のセットも素敵。インテリアのお手本にしたい。コロニアルな魅力の『プリティ・ベビー』(78年)娼館を越えてますね。 ちょっと映画の話で長くなりすぎたな。いい加減レシピ紹介を始めます。これ、作るの簡単すぎて、余談で引っ張らないとすぐに記事終わっちゃうから。 【材料(2人分)】 ・タマネギ×3/4個・ニンニク×1片・牛ひき肉×400g(合挽きでも全然OK)・トマト缶×1缶・レッドキドニービーンズ缶×1缶・クミンシード×小さじ1・オレガノシード×小さじ1・コンソメ×1個・チリパウダー×小さじ2 ※以下はお好みで・スライス・ハラペーニョ・タバスコ緑・タマネギ×1/4個・溶けるチェダーチーズ・サワークリーム 【作り方】 ① 鍋にサラダ油(材料外)を引きタマネギ3/4個分みじん切りを中火で炒め(1/4個分みじん切りは取っておく)、しんなりしたらニンニクみじん切りを加え1分。続いて牛ひき肉を投下。赤味がなくなって色が変わるまで炒める。 ② トマト缶とレッドキドニービーンズ缶の中身を入れる。そして、具材がヒタヒタになるまで水を足す。空になったトマト缶に水を入れ、その水を空のビーンズ缶に移し、それを鍋に入れると、缶に残留物を残さず鍋に注げてモッタイナイお化けが出ないで済む。 ③ クミンシードとオレガノシードをすり鉢で擦って鍋へ。 ④ 最後にコンソメ1個とチリパウダーを入れて終了。あとはただ煮込むだけ。30分以上。なお、書き忘れたのではなく本当に塩は一粒も使わないでOK。これだけでちゃんと濃い味がする。 ⑤ この状態まで(水分がほとんど無くなり、汁物というよりどちらかと言うとホロホロの固形物に近くなるまで)汁気を飛ばして完成。30分煮込んでも汁気がまだ無くならなかったら、無くなるまで煮込んでください。 【実食】 はぁ〜、こいつを皿いっぱい喰える、この至福ときたら!肉ジャガ喰ってたガキの頃には夢にも思わなかったぜ。ウェンディーズではLサイズでもこのボリュームには満たない。スーパーカップぐらいの容器に入ってますが、足りないよ!こっちはドカ喰いしたいんだよ!『ロッキーの英雄』のアメリカンちゃんこみたいに。 え〜今回は純然たるお仕事ということで、材料代は経費で落とします。なので牛ひき肉200gパック×2と大奮発しましたが(奮発も何もオレの金じゃないがな)、自腹切る時は全然合挽き300gで作ってます。でもやっぱ牛肉はいいね!ワンランク上な味がする。 あと各種お好み材料も経費で買ったのですが、このうちマジで必需品なのは、ワタクシにとっては緑タバスコだけ。まぁ本物のスライス・ハラペーニョもあればさらにシャープな辛さになって夏にピッタリに。取りよけておいたタマネギみじん切り1/4個分を、ここで生のままパラパラと振りかけ、ネギっ臭さを加味してもまた良し。まず子供は喰えなくなりますが。 なお、溶けるチェダーチーズだのサワークリームだのは、それとは逆に、マッタリとクリーミィーかつ濃厚な味になり、シャープな辛さや生タマネギの青臭さとは真逆の、お子様好みな味が加わっていきます。でも、それもまた良し。 それらを“全部のせ”にするのであれば、よくかき混ぜてから食べてください。 最後に、普段我が家では、クラフトのマカロニ&チーズも同時に作ります。これはインスタント食品みたいなもので作るのは箱の説明書きに従えば超簡単。カルディとかで売ってます。それを“ライス”に見立て、チリコンカンを“カレールー”のように見立てて上からかけ流し、カレーライスならぬ「チリコンカンマカロニチーズ」として食べています。ここまでやれば立派な一食として分量に不足なし。コーンブレッドというブレッドとは名ばかりの南部の主食スポンジケーキみたいなものとも相性が良く、それも作るのは簡単。さらに言えば分量問題は豆を2缶に増やしても解決できます。とにかく超簡単なので、チリコンカン、映画のお供に一度お試しあれ。■ 『ロッキーの英雄・伝説絶ゆる時』© 1972 Twentieth Century Fox Film Corporation. Renewed 2000 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved. 『荒野を歩け』© 1962, renewed 1990 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved. 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存
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COLUMN/コラム2018.07.10
民主主義と愛国精神の原点とあり方を問う、2018年の今だからこそ見直すべき傑作『スミス都へ行く』
1929年10月24日に起きた株価の大暴落、いわゆる「暗黒の木曜日」が引き金となり、アメリカのみならず世界中を未曽有の経済不況が襲った1930年代。この歴史的な「世界大恐慌」によってアメリカ経済はどん底に突き落とされ、全米中に失業者や浮浪者が溢れかえった。そんな先行きの見えない暗闇の時代、アメリカの庶民にとって数少ない安価な娯楽の一つが映画だった。大勢の人々が限られた僅かな時間だけでも辛い日常を忘れようと映画館に押し寄せ、皮肉にもそのおかげでハリウッド映画界は空前絶後の黄金期を迎える。そうした中、どこまでも貧しい庶民の心に寄り添うような映画を作り続け、西部劇の巨匠ジョン・フォードと並んでアメリカの一般大衆に最も愛された映画監督がフランク・キャプラだ。 貧しいイタリア系移民の息子として育ち、アメリカ社会の底辺で様々な職を転々とした後、1920年代当時まだ新興産業だった映画界にチャンスを見出したキャプラ。マック・セネットが製作する一連のスラップスティック・コメディで映画監督となり、1928年コロムビア映画(現ソニー・ピクチャーズ)へと入社する。とはいえ、当時のコロムビア映画はMGMやパラマウントなど大手5社の「ビッグ5」に対し、ユニバーサルおよびユナイテッド・アーティスツと共に「リトル3」と呼ばれた弱小の零細スタジオ。キャプラも当初は低予算のコメディばかりを撮っていた。そんな彼の名前を一躍高めたのが、貧しいリンゴ売りの老女が街のギャングの助けで貴婦人に化け、自分を社交界の淑女だと信じる修道院育ちの我が娘と再会するという人情喜劇『一日だけの淑女』(’33)。これでアカデミー賞の作品賞以下4部門の候補に挙がったキャプラは、さらにMGMからクラーク・ゲイブル、パラマウントからクローデット・コルベールと、他社のトップスターをレンタルして撮ったロマンティック・コメディの金字塔『或る夜の出来事』(’34)でアカデミー賞主要5部門制覇という史上初の快挙を達成。いよいよコロムビア映画は大手スタジオの仲間入りを果たし、キャプラは同社の看板監督として、その名前だけで観客を呼べる「スター」となったのである。 しかし、キャプラが真の意味で巨匠と呼ばれるようになったのは、アメリカの腐敗した権力を痛烈に批判し、人間の善意と良識に真の価値を見出す『オペラハット』(’36)と『我が家の楽園』(’38)、そして『スミス都へ行く』(’39)の3本の成功によってであろう。大富豪の遺産相続人となった田舎者の純朴な青年(ゲイリー・クーパー)が、あり余った大金を困窮した失業者たちのために分配しようとしたところ、強欲な資本家たちの激しい妨害に遭ってしまう『オペラハット』。弱肉強食の経済界を勝ち抜いてきた冷酷非情な実業家(エドワード・アーノルド)が、息子と貧しい庶民の娘の恋愛を全力で阻止しようとするも、やがて金と権力に憑りつかれた我が人生の虚しさに気付いていく『我が家の楽園』。そして、ある日突然、上院議員に抜擢された理想家の純粋な愛国青年が、政治家と資本家が結託した巨大な汚職を暴くために孤独な戦いを強いられる『スミス都へ行く』。いずれも行き過ぎた資本主義の弊害と過ちを糾弾し、それによって生じたアメリカ社会の歪みを指摘しつつ、だからこそ今一度アメリカの失われた大義、すなわち自由と平等と博愛の精神に立ち返るべきだと強く説く。キャプラが「アメリカの理想と良心を体現する映画監督」と呼ばれる所以だが、中でもその真骨頂が『スミス都へ行く』だ。 主人公は少年警備隊の隊長ジェフ・スミス(ジェームズ・スチュワート)。山火事を消したことで全米の青少年たちの英雄となった彼は、初代大統領ジョージ・ワシントンの辞任挨拶を暗唱できるほどの熱烈な愛国者だ。亡くなった上院議員の後任として、尊敬する大物政治家ペイン議員(クロード・レインズ)から指名されたスミスは、愛する祖国のために貢献するという大志を抱いて首都ワシントンへ到着するも、そこで彼が目の当たりにしたのは、アメリカ建国の崇高な精神とは程遠い腐り切った政治の実態だった。 政界の黒幕である大物実業家テイラー(エドワード・アーノルド)が裏で実権を握り、表向きの大義名分とは裏腹に一部の権力者が利益を貪る政治の世界。スミスが上院議員に担ぎ上げられたのも、テイラーが推し進めるダム建設計画の法案を上院で通すための数合わせが理由だった。というのも、テイラーはペイン議員や州知事ら「お友達」の政治家と結託し、ダム建設を口実にした大規模な土地転がしを企んでいたのだ。彼らは政治経験がない上に純粋でナイーブなスミスなら簡単に騙して利用できると考えたのだが、やがてそれが大きな誤算であったことに気付かされる。アメリカ建国以来の民主主義の基本理念を心から信じるスミスは、私利私欲にまみれたテイラーたちには到底理解し難いほど筋金入りの愛国者だったのだ…! 「小さな親切がなければ憲法など意味がない」「我々には思いやりの心が必要だ」と力説するスミス。彼にとって愛国とは、一人でも多くの国民が幸福に暮らせる平和で平等な社会を実現すること。そして、そのためには国民の権利を脅かす国家権力の不正に真っ向から立ち向かうことも厭わない。その博愛精神に根差した愛国心は、トランプ政権下のアメリカや世界各地で不気味に増殖する盲目的で偏狭な人々とは、ある意味で対極にあると言えるだろう。その根底には、自らがイタリア系移民の子として言われなき差別を受け、長いこと貧困のどん底であえぎ苦しみながらも、その一方で機会均等の社会システムと庶民の間に根強いキリスト教的な隣人愛に支えられ、無一文からハリウッドの巨匠へと立身出世したキャプラの、いわばアメリカの光と影の両方を目の当たりにしてきた苦労人だからこその強い信念が貫かれている。「あらゆる人種と階層の子供たちを集め、お互いが同じ人間であることを学ばせたい」というスミスの言葉にも、キャプラの思い描く理想的な社会への想いが込められていると言えよう。監督自身もまた、紛うことなき愛国者だったのだ。 その一方で、本作を含むキャプラの作品群は「理想主義的なファンタジー」と揶揄されることも多い。現実はそんなに甘くない、というわけだ。確かに現実の社会は善悪の境界線など曖昧で、道徳の教科書に出てくるような正論が通用するほど単純ではない。どこかで折り合いをつけて賢く立ち回る方が得策だし、長い目で見れば理想の1つや2つくらいは実現できるかもしれない。だが、そうしたニヒリズムや安易な妥協こそが権力を腐敗させる原因になるのではないかと、キャプラは本作で警鐘を鳴らす。 もともとは清廉潔白な理想主義者だったものの、それでは政策を実現できないからとテイラーに魂を売ったペイン議員は、我が州の失業率が最低なのも、国からの補助金が最高額なのも、私が妥協したおかげだと自らを正当化する。そんな彼の秘書サンダース(ジーン・アーサー)も、生活のためだと自分に言い聞かせて上司の不正を見て見ぬ振りし、政治を皮肉ることで自らの罪悪感をごまかしている。マスコミだって国会が茶番であることを重々知りながら、資本力にものを言わせたテイラーの圧力を恐れて黙り込み、右も左も分からない新人議員スミスのように叩いても安全なターゲットを茶化して留飲を下げている。なんだか、近頃どっかで見たような光景だが、それでは権力の不正を野放しにするばかりであろう。おかげで、大物政治家がお友達のために法案を通そうとする、それに協力すればおこぼれに与れるけど反対すれば潰される。もはや既視感しか覚えない腐敗政治の一丁出来上がりだ。どこまでも愚直でバカ正直なスミスに共感したサンダースが、劇中でこう言う。「信念を持つバカが世の中を良くしてきた。あなたの常識的な正義感こそ、この国には必要、いえ歪んだ世界の全てに必要なのよ」と。 そんなサンダースの言葉に突き動かされ、たった一人で強大な権力に立ち向かうことを決意するスミスだが、しかし敵はどこまでも姑息で邪悪だ。それ以前に公文書を捏造してスミスの汚職事件をでっち上げた彼らは、さらにマスコミへの圧力や支持者による草の根活動を総動員して世論をミスリードし、議会でテイラーたちの不正を暴こうと孤軍奮闘するスミスを「大衆の敵」に仕立てることで、彼の信念を粉々に打ち砕こうとする。それはちょうど、『オペラハット』の主人公ディーズ氏が精神病のレッテルを貼られ財産を奪われそうになったように、そして『我が家の楽園』の庶民一家が土地買収計画に呑み込まれざるを得なくなったように。善良な人々はその善良さゆえ、理不尽な困難に直面せざるを得ない。そう、キャプラの映画は確かにハリウッド的な夢物語かもしれないが、しかし決して楽天主義にばかり終始するわけではない。あくまでも、不正がまかり通る世界で正義を貫くことの難しさを大前提としている。そこを見誤ってはいけないだろう。 ストーリーの基本的な構造そのものは『オペラハット』の焼き直しだが、しかし民主主義や愛国精神の原点とそのあり方を問うメッセージは、劇場公開から80年を経た現代でも全く古さを感じさせない。むしろ、2018年の今だからこそ見直すべき映画と言えるだろう。その後、彼自身が愛国者ゆえに第二次世界大戦の国家プロパガンダに利用されてしまったキャプラは、その反省を踏まえて戦後の傑作『素晴らしき哉、人生!』(’46)でさらに強く深く、人間が本来持つべき善意と愛情の尊さを描き、ベトナム戦争の際にはアメリカ政府の姿勢を強く非難した。果たして、もし彼が今生きていたら21世紀のアメリカを、そして日本を含む世界をどのように見ていただろうか。 © 1939, renewed 1967 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved. 保存保存 保存保存
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COLUMN/コラム2018.07.03
グラインドハウスなき時代の正統派グラインドハウス・ムービー。エロ・グロ・ナンセンスの三拍子揃ったシリーズ最高傑作!?『スピーシーズ2』
映画ファンであれば必ず1つや2つ、世間的な評価が低いにも関わらず愛してやまない映画というものがあるだろう。いわゆるGuilty Pleasure(罪悪感のある歓び)というやつだ。そもそも、人間の好みなんて千差万別。当たり前のことだが、不朽の名作と呼ばれる映画にしたって、必ずしも観客の100人中100人が満足するわけじゃない。反対に、10人しか満足しなかった映画が駄作だとも限らないだろう。たとえ一般受けはせずとも、一部観客層の琴線にはビシバシ触れる!という作品は少なくない。それが巡り巡ってカルト映画と呼ばれるようになるわけだが、筆者にとってはこの『スピーシーズ2』(’98)もその一つだ。 とりあえず、天下のimdbにおける評価は10点満点中半分以下の4.3点、映画批評サイト、ロッテン・トマトの評価に至っては100%中たったの9%である。世間の評価はかなり厳しいようだ。まあ、正直なところ低評価の理由も分からなくはない。なにしろ、基本はエログロ満載のB級SFホラー映画。全編に渡って血飛沫と内臓とオッパイがいっぱい(笑)。しまいにゃ、エイリアン同士の発情&交尾という、映画史上稀に見る珍シーンまで登場するナンセンスぶり。ハリウッドの老舗メジャー・スタジオMGMが製作したとは思えないようなえげつなさだ。しかし、それでもあえて声を大にして叫ぼう。エログロのいったい何が悪い!ゲテモノ上等!ナンセンス最高!エイリアンが交尾したって別にいいじゃないか!と。 ご存知の通り、’95年に劇場公開された1作目『スピーシーズ/種の起源』は、批評家から酷評されながらも興行収入1億1300万ドル以上の大ヒットを記録。おのずと続編が作られることになったわけだが、その2作目『スピーシーズ2』は、劇場の売り上げだけでは製作費を回収できないほど大コケしてしまった。しかし、である。その後シリーズが4作目まで継続されたことからも想像できるように、一部の観客層からは確実に支持されたのである。察するに、いろいろな意味でやり過ぎたのかもしれない。エロもグロもほどほどだった前作は、この種のカルト性の高い映画に免疫のないライトな映画ファンでも楽しめたと思うが、本作の場合は「さすがにここまで遠慮がないとぶっちゃけドン引くわ~」という反応が多くても不思議ではない。それほどまでに、今回は性描写も残酷描写も過激で露骨。逆に言うと、それが筆者のような好事家にとってたまらないポイントであり、本作が桁違いに大ヒットした1作目よりも遥かに愛おしい理由なのである。 まずは前作を簡単に振り返ってみよう。アメリカ政府の秘密研究機関から一人の少女(無名時代のミシェル・ウィリアムズ!)が脱走。その正体は、宇宙から届けられたメッセージに含まれた情報を基に、人間とエイリアンのDNAを融合させて作られたハイブリッド生命体「シル」だった。政府は早速、各方面の専門家を集めたチームを編成して追跡を開始。しかし、驚異的な速さで成人女性へと成長したシルは、やがて種を残すという生存本能のままに、生殖相手を求めて男たちを次々と襲っていく。先述したようにエロもグロもわりと控えめではあったものの、トップモデル出身で女優初挑戦のシル役ナターシャ・ヘンストリッジは魅力的だし、なによりも『エイリアン』(’79)で有名な芸術家H・R・ギーガーの手掛けた、艶めかしくもスタイリッシュな女性エイリアンのクリーチャー・デザインが素晴らしかった。このデザインはそのまま続編にも引き継がれている。 で、それから数年後の出来事を描く本作。アメリカは人類史上初の火星探査を成功させ、帰還した3人の宇宙飛行士たちは国民の英雄として歓迎されたのだが、実は彼らは知らぬ間にエイリアンに寄生されていた。一方、米軍施設ではシルのクローン、イヴ(ナターシャ・ヘンストリッジ再登板)を厳重な監視下に置き、エイリアン対策のためにその生態を徹底研究していた。そんな折、殺人事件の犠牲者の死体からエイリアンのDNAが発見され、宇宙飛行士たちの感染が発覚。イヴがテレパシーで彼らと繋がっていることを知った軍は、それを利用して再びエイリアン狩りに乗り出すこととなる…。 とまあ、ネタバレを避けるための大雑把なストーリー解説となったが、話の本筋としては前作の焼き直しに近いことがご理解いただけるだろう。つまり、生殖のため人間の異性を求めて殺人を繰り返すエイリアンと、その行方を捜して最悪の事態を食い止めようとする追跡チームの戦いだ。ただし、今回の追われる側は男性エイリアン。上院議員の息子であり、将来の大統領候補と目される宇宙飛行士パトリックだ。前作のシルと瓜二つの女性エイリアン、イヴは基本的に追う方の側。従って、前作では男たちが次々とシルの毒牙にかかったが、今回の犠牲者は大半が女性となる。死因は「妊娠」。どういうことかというと、エイリアンに寄生されたパトリックとセックスすることで「種付け」された女性たちが、その場でエイリアンの子供を妊娠。見る見るうちに腹が膨れ上がり、『エイリアン』のチェストバスターのごとく、赤ん坊が腹を破って飛び出してくるのだ。 なので、おのずと大胆なセックス・シーン&血みどろシーンのオンパレードとなる。もちろん、1作目でも同様のエログロ要素はあったものの、さすがにここまで露骨ではなかった(笑)。ある意味、R指定の限界に挑戦といった感じか。前作よりもっと過激に、もっとショッキングにというのは、この種の娯楽映画シリーズの鉄則みたいなものだが、それにしてもなかなか思い切っている。文字通り酒池肉林の3Pシーンなどは本作の白眉。そもそも本来、こうした下世話なキワモノ映画というのは、インディペンデント系の弱小スタジオがグラインドハウスと呼ばれる場末の映画館向けに低予算で製作・配給するものだったが、それをMGMのような大手スタジオが多額の予算をかけて作ったのだから、よくよく考えればまことに贅沢な話だ。ホームビデオの普及と大都市の再開発によって、グラインドハウスが消滅してしまった’90年代ならではの副産物と言えなくもないだろう。まあ、それゆえに一般受けの厳しいカルト映画になってしまったことも否めないのだけど。 また、特殊効果におけるCGの使用を最小限に抑えたことも良かった。例えばH・R・ギーガーのデザインしたエイリアン。1作目ではスティーヴ・ジョンソン率いる特殊効果チームが見事なまでにフェティッシュ感溢れるクリーチャー・スーツを作り上げたが、しかしアクション・シークエンスでは当時まだ発展途上にあったCGで再現してしまったため、その部分が明らかに見劣りしてしまうことは否めなかった。そこで、続編を作るにあたってプロデューサーのフランク・マンキューソ・ジュニア(『13日の金曜日』の製作者フランク・マンキューソの息子)から、特殊効果用の予算を「好きなように使って構わない」と別枠で丸ごと与えられたジョンソンは、CGを含むVFXよりも従来のSFXにこだわることを決めたという。これが結果的には大正解だったと言えるだろう。 実際に本編をご覧になれば分かると思うが、どの特殊効果シーンも仕上がりは非常にリアルだ。例えば、セックスの最中に興奮したパトリックがエイリアンへと変身しかけるシーン。実は、正常位で腰を振っているパトリックはシリコン製のダミーボディだ。体のあちこちから飛び出す触覚もCGではなく本物。スティーヴ・ジョンソンとスタッフの仕事ぶりは完璧で、そう言われなければ全く気付かない。後半で全身から触覚が飛び出すエイリアンのハイブリッド少年も同様にダミーボディ。鼻から触覚がニョロッと見えるシーンは、少年の顔を実物より大きめにシリコン素材で製作して使っている。当然、メインとなるエイリアンも人間が中に入ったクリーチャー・スーツと機械仕掛けのアニマトロニクス※を併用しており、おかげでクライマックスの交尾シーンも妙に生々しいものとなった。まあ、ヒューマノイド型の女性エイリアンと違って、四つ足動物型の男性エイリアンはさすがに作り物感が否めないものの、それでも当時の安っぽいCGで処理するよりは全然マシだ。もちろん、部分的にはCGも使用されているが、あくまでも補足的な加工手段に徹している。 ※アニマトロニクスとは生体を模したロボットを操作して撮影する特殊効果技術のこと 単純明快で分かりやすいストーリー展開も悪くない。変に高尚なメッセージ性を込めたりなどせず、どこまでも見世物映画に徹している潔さはむしろ評価すべきだろう。もったいぶった説明や前置きなども殆どなし。それは前作から一貫している。なので、ストーリーの進行はとても速い。監督は『チェンジリング』(’80)や『蜘蛛女』(’93)のピーター・メダック。あの職人肌の名匠がこんなトンデモ映画を!?と意外に思う向きもあるかもしれないが、しかしパワフルでタフな女と破滅へ向かって突き進む男の物語として、『蜘蛛女』と相通じるものも見出せるだろう。それに、そもそも何でもこなせるからこその職人監督。むしろ作り手としての懐の深さすら感じさせられるのではないか。 ちなみに、脚本家クリス・ブランカトーによると、当初の脚本では追う側のエイリアンも追われる側のエイリアンも女性という設定で、追われる側のエイリアン役にはナターシャ・ヘンストリッジと同じくモデル出身のシンディ・クロフォードを想定していたらしい。結局は製作者マンキューソ・ジュニアの要望で性別を変えることとなったわけだが、そちらのシンディ・クロフォード・バージョンも実現していたら面白かったように思う。なお、続く『スピーシーズ3 禁断の種』(’04)と『スピーシーズ4 新種覚醒』(’07)は、どちらもケーブル局Syfyで放送のテレビ・ムービーとして製作されている。 © 1998 METRO-GOLDWYN-MAYER PICTURES INC.. All Rights Reserved 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存
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COLUMN/コラム2018.06.01
大反撃メルヘンとバイオレンスが融合した異色の戦争映画!『大反撃』
第二次世界大戦中のフランスに入ったアメリカ陸軍の小隊についての戦争映画です。タイトルの『大反撃』は、主人公たちではなく、敵側であるドイツ軍の大反攻作戦を意味しています。いわゆる「バルジ大作戦」のことです。 バート・ランカスター率いる米軍の小隊が霧深い森を進んでいくと、中世のお城が現れる。そして城主の伯爵から「この城を戦火から守ってくれ」と頼まれます。さらに、伯爵は小隊長に「世継ぎが欲しいが生まれない。だから私の妻を抱いてくれ」とも頼まれる。それだけでも変な戦争映画ですが、その城の周りにある村は、小隊の1人ひとりの願いが叶う不思議な村なんです。酒も女も、パン屋さんのピーター・フォークはパン屋の主人として迎えられ、メカマニアの若い兵士はフォルクスワーゲンを手に入れて大喜び。つまり、おとぎ話なんですよ、この映画。で、メルヘンだなあと思ってると、ドイツの戦車軍団が襲来して、突然、リアルでバイオレントで凄まじいアクションになっていきます。 監督はシドニー・ポラック。『追憶』(73年)や『トッツィー』(82年)など軽いコメディや、女性向けの映画とかで有名ですが、元々は男性的なアクション映画の監督でした。『ザ・ヤクザ』(74年)も僕は大好きです。ポラックのロマンチックな側面と、アクション監督としての側面が入り混じったのがこの『大反撃』という怪作です。クライマックスの破壊の美学をぜひご覧ください。■ (談/町山智浩) MORE★INFO. 原作は従軍経験のあるウィリアム・イーストレイクの未訳小説『Castle Keep』(65年)。ロケ地ユーゴに実物大の城のセットを建て、それをクライマックスで惜しげもなく爆破・炎上させたのでスタッフ&キャストも驚いたという。主演のバート・ランカスターによれば本作は反ベトナム戦争をテーマにした寓話だと発言している。監督のポラックとランカスターは67年の西部劇『インディアン狩り』で初コンビを組み、『泳ぐひと』を仕上げ、そして本作と連続でコンビを組んでいた。 CASTLE KEEP/69年米/監:シドニー・ポラック/原:ウィリアム・イーストレイク/脚:ダニエル・タラダッシュ、デヴィッド・レイフィール/出:バート・ランカスター、ピーター・フォーク/108分/© 1969, renewed 1997 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.