COLUMN & NEWS
コラム・ニュース一覧
-
COLUMN/コラム2024.10.02
世界的ポップスターと数学教師の格差婚から、働く女性の理想の恋愛と結婚を考察する正統派ロマンティック・コメディ『マリー・ミー』
住む世界も価値観も正反対な男女の結婚の行方とは…? 女優・歌手・ダンサーと三つの顔を併せ持ち、今や映画界でも音楽界でも不動の地位を築いたハリウッドの女王ジェニファー・ロペス(aka J. Lo)が、自身を彷彿とさせる世界的な歌姫を演じたロマンティック・コメディである。 主人公は長いキャリアと世界的な人気を誇る音楽界のスーパースター、キャット・ヴァルデス(ジェニファー・ロペス)。年下の若いグラミー賞歌手バスティアン(マルーマ)とのデュエット曲「マリー・ミー」が目下大ヒット中の彼女は、プライベートでもバスティアンと交際して世間の注目を集めており、いよいよニューヨーク公演のステージで彼との結婚を発表することとなる。もちろん、この現代の御伽噺のようなビッグネーム同士の結婚に世間は話題騒然。コンサートはウェブでもライブ中継され、会場はもとより世界中の2000万人以上のファンが固唾を飲んで結婚発表を見守る。 ところが、コンサートの最中にバスティアンがキャットのアシスタントと浮気していたことが発覚。ウェブのゴシップサイトで大々的に報道され、会場に詰めかけたファンもスマホでニュースを知って困惑する。あまりのショックと屈辱にステージ上で茫然とするキャット。そこで彼女の目に入って来たのは、客席で「マリー・ミー」のプラカードを持つ中年男性チャーリー・ギルバート(オーウェン・ウィルソン)の姿だった。何事もなかったようにバスティアンとの結婚を発表なんて出来ないが、しかしかといってこのまま黙って引き下がるわけにもいかない。何らかの行動を起こさねばと焦った彼女は、思い余って見ず知らずのチャーリーとの結婚を発表してしまう。 チャーリーはニューヨーク市内の小学校に勤める平凡な数学教師。善良で心優しい男性だが生真面目で堅苦しいところがあり、それゆえ元妻と離婚する羽目となってしまい、近ごろは同居する年頃の娘ルー(クロエ・コールマン)からも敬遠されがちだ。アナログレコードと古いポップスを愛する彼は、最近の音楽トレンドや芸能ゴシップなどさっぱり。キャットのコンサートに足を運んだのも、小学校の同僚教師パーカー(サラ・シルヴァーマン)に誘われたからで、娘との親子関係を改善するきっかけになればと考えたのだ。なので、いきなりステージ上のキャットからプロポーズされてドン引きするチャーリーだったが、しかし彼女の切羽詰まったような表情からのっぴきならないものを感じ、その場の流れに任せてキャットとの結婚を世界中のファンの前で誓う。 かくして、当人たちにとっても想定外の展開で夫婦になったキャットとチャーリー。どうせスターの気まぐれ、すぐに守秘義務契約を交わして離婚すればいいと考えていたマネージャーのコリン(ジョン・ブラッドリー)だが、しかしキャットは当面のところ離婚するつもりなどないという。これまで幾度となく普通に恋愛をして結婚したが、そのたびに裏切られてきたキャット。そんな人生を変えるには、なにか違ったことをせねばと考えたのだ。それに、浮ついた業界人と違って地に足のついた、真面目で謙虚なチャーリーに少なからず好感を抱いていたのである。 一方のチャーリーもまた、マスコミが面白おかしく作り上げたイメージと違って実際は長所も短所もある普通の女性であるキャットに親近感を覚え、なおかつプロのエンターテイナーとして一切の妥協を許さず仕事へ臨む彼女に尊敬の念を抱いていく。確かに住む世界も価値観も全く違う2人だが、しかし相手を理解していくうちにキャットは忘れかけていた「普通」の感覚を思い出し、チャーリーは自分の殻を破って新しいことに挑戦しようとする。こうしてお互いの交流によって人間として成長し、やがてなくてはならない存在となっていくキャットとチャーリーだったが…? ジェニファー・ロペスの実体験が投影されたヒロイン像 原作は’12年に出版されたボビー・クロスビー原作のグラフィック・ノベル。コロナ禍の影響で全米公開が’22年2月へ大幅にずれ込んでしまったが、実際は完成する8年前にジェニファー・ロペスの製作会社ヌーヨリカン・プロダクションが原作の映画化権を取得し、コロナ前の’19年11月には撮影を終えていたらしい。パンデミックという不測の事態があったことを差し引いても、たっぷりと時間をかけて大切に温められた企画であったろうことは想像に難くない。 J. Loのチームが恐らく最もこだわったのは、ヒロインのキャットにジェニファー自身を重ね合わせることであろう。劇中のキャットと同じくジェニファーもまた、マスコミによってあることないこと面白おかしくゴシップ記事を書きまくられ、「気が強くて我がままな女王様気質のセレブ」というイメージを一方的に作り上げられてきた経緯がある。残念ながら男運があまりないのもキャットと一緒。恋多き女性として知られるジェニファーだが、しかし有名人ゆえ金に目のくらんだ最初の夫(一般人)からは暴露本やプライベートビデオをネタに食い物にされかけ、本人が「本物の愛で結ばれていた」という俳優ベン・アフレックとは彼がマスコミの注目を嫌うため上手くいかず、後に復縁・結婚しても長続きしなかった。いわば有名税みたいなもの。たとえば、結婚を機に芸能界を引退して家庭に入りますとなれば、もしかすると結婚生活も上手くいったのかもしれないが、しかしキャットと同じく天性のエンターテイナーであるジェニファーにそれは到底無理な話であろう。 そのうえで、本作は良くも悪くも世間の注目に晒される側の視点から「スーパースター」と呼ばれる女性セレブの人間的な実像に迫り、さらにはキャリア志向の強い「働く女性」にとって理想の恋愛と結婚、そして男性像とはどういうものかを考察していく。だいたい、主人公キャットだって別に多くを求めているわけじゃない。金持ちじゃなくてもイケメンじゃなくても構いません。とりあえずちゃんと仕事をしていて誠実で良識があればオッケー。大事なのは女性を対等の人間として扱ってくれて、その能力や仕事を正当に評価して尊重してくれること。そういう意味で、地味で真面目な数学教師チャーリーはまさに理想の男性なのだ。 そうしたフェミニスト的な視点は、ブレインとなる主要スタッフの大半が女性で固められていることと無関係ではなかろう。監督はインディーズ出身で本作が初のメジャー進出となったカット・コイロ。脚本家チームも3人のうち2人が女性だ。中でも特に重要な役割を果たしたのが、ジェニファー・ロペスと並んでプロデューサーに名を連ねているエレイン・ゴールドスミス=トーマスである。 もともとハリウッドのタレント・エージェントとしてジュリア・ロバーツやスーザン・サランドン、ジェニファー・コネリーなどの大物女優を顧客に持ってたゴールドスミス=トーマスは、ジュリア・ロバーツの製作会社レッド・オム・フィルムズに加わってプロデューサーへと転向。そこでの初プロデュース作品が、ジェニファー・ロペス主演の大ヒット・ロマンティック・コメディ『メイド・イン・マンハッタン』(’02)だった。その後、J. Loのヌーヨリカン・プロダクションへ移籍して社長(ジェニファーはCEO)に収まった彼女は、『ジェニファー・ロペス 戦慄の誘惑』(’15)以降のヌーヨリカン製作作品の殆んどでプロデュースを担当。本作のグラフィック・ノベルを読んで、脚本家たちに女性視点で脚色するよう指示したのはゴールドスミス=トーマスだったという。 観客5万人が詰めかけた本物のコンサート会場で撮影!? さらに、本作は主人公キャットの恋人である若手トップスター歌手バスティアン役として、コロンビア出身で南米はもとより北米でも絶大な人気を誇るラテンポップ・アーティスト、マルーマを起用したことでも話題に。これが演技初挑戦かつ映画デビューだったマルーマは、ジェニファーとデュエットするテーマ曲「マリー・ミー」などの楽曲も提供している。サントラで使用された楽曲の大半は本作のために書き下ろされたオリジナル曲だが、キャットが自らのコンサートで尼僧や僧侶に扮したダンサーをバックに歌い踊るダンスナンバー「Church」は、ジェニファーが以前よりストックしていた未発表曲を掘り起こしたものだという。J. Loが最も影響を受けたスターのひとり、マドンナの「Like A Prayer」を彷彿とさせる楽曲だ。 ちなみに、終盤でキャットがバスティアンのコンサートにゲスト出演し、デュエット曲「マリー・ミー」を披露するシーンは、バスティアンを演じるマルーマのマディソン・スクエア・ガーデン公演に便乗して撮影している。会場に詰めかけた5万人の聴衆は、映画のエキストラではなくコンサートの来場客だ。ただし、テーマ曲「マリー・ミー」がリリース前に流出しては困るため、同曲のパフォーマンス・シーンは事前に無観客で撮影を完了。そのうえで、観客の前ではテンポの良く似たジェニファーの楽曲「No Me Ames」(ファースト・アルバムに収録されたマーク・アンソニーとのデュエット曲)をマルーマとデュエットしてもらい、そのステージを見守る観客の映像を「マリー・ミー」のパフォーマンス映像と編集で混ぜ合わせたのである。 ロマンティック・コメディの大ヒットが減少している昨今、『ノッティング・ヒルの恋人』や『ローマの休日』を彷彿とさせる正統派ロムコムの本作も、予算2300万ドルに対して興行収入5000万ドル強と、必ずしも大成功とは言えない結果となってしまったが、しかし公開翌週の2月14日には全米興行成績ランキングで1位をマーク。バレンタイン・デーにロマンティック・コメディがトップに輝くのは史上初めてのことだったそうだ。むしろ本作は映画館よりも配信サービスやテレビ放送で好成績を記録しているらしい。そのホッコリとする温かな後味の良さも含め、自宅でのんびり寛ぎながら楽しむにうってつけの作品なのかもしれない。■ 『マリー・ミー』© 2022 Universal Studios. All Rights Reserved.
-
COLUMN/コラム2024.09.30
「すべて本当にあったこと」を描いた、ロマン・ポランスキー畢生の傑作は今…。『戦場のピアニスト』
実話ベースの本作『戦場のピアニスト』(2002)の原作本に、ロマン・ポランスキーが出会ったのは、1999年のこと。パリで監督作『ナインスゲート』がプレミア上映された際に、友人から渡されたのである。 一読したポランスキーは、長年待ち望んだものに出会った気持ちになった…。 ***** 1939年9月、ポーランドの著名な若手ピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンはいつものように、首都ワルシャワのラジオ局でショパンを演奏していた。しかしその日、ヒトラー率いるナチス・ドイツが、ポーランドに侵攻。シュピルマンの人生は、大きく変転する。 老父母や弟妹など、家族と暮らしていたシュピルマン。ユダヤ系だったため、街を占領したドイツ軍の弾圧対象となる。 ナチスがポーランド各地に作ったユダヤ人ゲットーへの移住が命じられ、住み慣れた我が家から強制退去。移った先では、ドイツ兵による“人間狩り”や“虐殺”が横行する。 42年8月、ゲットーのユダヤ人たちの多くが、強制収容所に送られることになった。しかし列車へ乗り込まされる直前、シュピルマンは、ユダヤ系ながらナチスの手先となった友人から、家族と引き剥がされ、この場を去るように促される。 家族で唯一人、収容所行きを免れたシュピルマンは、ゲットーに戻り、肉体労働に従事。このままではいつか命を落とすと考え、脱出を決行する。 ナチスに抵抗する、旧知の人々らの協力を得て、隠れ家を移りながら、命を繋ぐ。 44年、ワルシャワ蜂起が始まり、戦場となった街が、灰燼と帰していく。そんな中で必死に生き延びようとする、シュピルマンの逃走が続く…。 ***** 33年パリで生まれたポランスキーは、3歳の時に、家族でポーランドに移り住んだ。青年時代にウッチ映画大学で監督を志し、やがて長編第1作『水の中のナイフ』(62)で、国際的な評価を得る。 その後は海外へ。イギリスで、『反撥』(65)『袋小路』(66)『吸血鬼』(67)を成功させると、ハリウッドに渡って『ローズマリーの赤ちゃん』(68)を監督。更に声価を高めた。 しかし69年、妊娠中だったポランスキーの若妻シャロン・テートが、カルト集団に惨殺されるという悲劇に見舞われる。強いショックを受けた彼は、一時ヨーロッパへと移るが、『チャイナタウン』(74)の監督依頼を受けて、アメリカに戻る。 ところが77年、ポランスキーは13歳の少女を強姦するという事件を起こし、アメリカ国外へと逃亡。以降は主にフランスをベースに、監督作品を発表し続けている。 紆余曲折ある彼の監督人生の中で、ずっと胸に抱いていたこと。それは、いつかポーランドの「痛ましい時代の出来事を映画化したい」という思いだった。 ユダヤ系であるポランスキーは、ナチスの占領下で過ごした少年時代に、ゲットーでの過酷な暮らしを経験。その後両親と共に、強制収容所へ送られそうになる。寸前に、父の手で逃がされた彼は、終戦を迎えるまで、幾つもの預け先を転々とすることになった。 戦後になって、父とは再会。しかし母は、収容所で虐殺されていた…。 自分が経験した、そんな時代に起こった事々を作品にしたい。しかしながら、自伝的な内容にはしたくない…。 ポランスキーは、スティーヴン・スピルバーグから、『シンドラーのリスト』の監督オファーを受けながら、断っている。その舞台となるクスクフのゲットーが、実際に自分が暮らした地であり、描かれることが、自身の体験にあまりにも近かったためだ。「ふさわしい素材」を得て、「映画監督として、しっかりとした」ヴィジョンを持って臨まねばならない。そう心に秘めて待ち続けたポランスキーが、60代後半になって遂に出会ったのが、ウワディスワフ・シュピルマンの回想録である、「戦場のピアニスト」だったのだ! ポランスキー曰く、シュピルマンの体験と自分の間に、「ほどよい距離があった」。自分の住んでいた街とは舞台が違い、自分が知っている人間は、誰1人登場しない。それでいながら、「自分の知る事柄が書かれていた」。自らの体験を活かしつつも、客観的な視点で物語を紡ぐのに、これほど相応しいと思える原作はなかったのである。 シュピルマンの著書は、「ぞっとさせられる反面、その文章には前向きなところもあり、希望が満ちていた」。また、「加害者=ナチス/被害者=ユダヤ人」という単純な図式に陥ることなく、シュピルマンの命を救うのが、同胞から恐れられていた裏切り者のユダヤ人だったり、ナチスの将校だったりする。ナチスにも善人が存在し、ユダヤ人にも憎むべき者がいたという、原作の公平な視点にも、いたく感心したのだった。 ポランスキーは、戦後はポーランド音楽界の重鎮として後半生を送っていたシュピルマン本人と面会。映画化を正式に決めた。残念ながらその翌2000年、製作の準備中に、シュピルマンは88年の生涯を閉じたのだが…。 ポランスキーが、ポーランドで映画を撮るのは、『水の中のナイフ』以来、40年振り。資金はヨーロッパから出ており、アメリカの俳優は使わないという条件だった。 それでいながらセリフは英語とするため、ロンドンでオーディションを行うことになった。1,400人もの応募があったが、ポランスキーはその中からは、“シュピルマン”を見つけることはできなかった。 結局ポランスキーが白羽の矢を立てたのは、アメリカ人俳優。1973年生まれで、まだ20代後半。ニューヨーク・ブルックリン育ちのエイドリアン・ブロディだった。 シュピルマンに、風貌が似ていたわけではない。しかしポランスキーはブロディの出演作を数本観て、「彼こそ“戦場のピアニスト”」と思ったのだという。ポランスキーが「思い描いていた通りの人物になりきることのできる」俳優として、ブロディは選ばれたのである。 アメリカ人のブロディを起用するため、スポンサーを説得するのには、1カ月を要した。その上で、製作費の減額を余儀なくされた。 そこまでポランスキーが執心したブロディは、本作以前にスパイク・リーやケン・ローチなどの監督作品で主要な役を演じながらも、まだまだ新進俳優の身。ポランスキーの心意気に応え、戦時に大切なものをことごとく失ったシュピルマンになり切るため、住んでいたアパートや車、携帯電話など、すべてを手放して、単身ヨーロッパへと渡った。 ブロディの父は、ポーランド系ユダヤ人で、ホロコーストで家族を失った身。母は少女時代、ハンガリー動乱によって、アメリカに逃れてきた難民だった。ブロディ家では子どもの頃から、戦争のことやナチスの残虐さが、いつも話題になっていた。 クランク・インまでの準備期間は、6週間。部屋に籠りきりで行ったのは、まずはピアノの練習。少年時代にピアノを習った経験が役立ったものの、毎日4時間ものレッスンを受けた。 同時に進められたのが、ダイエット。摂取するものが細かく指示されて、体重を10数㌔落とした。撮影中に遊びに来たブロディのガールフレンドが、彼を抱き上げてベッドに運べるほど、瘦身になったという。 他には、ヴォイストレーニングや方言の練習、演技のリハーサルが繰り返される毎日を送った。 本作でもう一方の“主役”と言えるのが、1939年から45年に掛けての、ワルシャワの市街。しかしゲットーの在った地をはじめ、ほとんどの場所は戦後に再建されており、撮影に使えるような場所は、ほとんど残っていなかった。 そのためポランスキーは、広範なリサーチと自分自身の記憶を頼りに、美術のアラン・スタルスキと共に、ワルシャワとベルリン周辺で、数ヶ月のロケハンを敢行。本作の100を超える場面に必要な撮影地を、探し回った。 最終的には、ベルリンの撮影所の敷地内に、ワルシャワの街並みを建造。また、同じくベルリンに在った、旧ソ連兵舎を全面的に取り壊して、広大な廃墟を作り上げた。これは、全市の80%が壊滅したと言われるワルシャワ蜂起の、すさまじい戦禍を再現したものだった。 本作の撮影は、この廃墟が雪に覆われたシーンからスタートした。ブロディ演じるシュピルマンが、壁を上って、その向こう側に行くと、どこまでも荒涼たる光景が広がっている。「これが自分の住む街だったら」と思うと、ブロディは自然に涙がこぼれたという。 ワルシャワでは、屋内・屋外ロケを敢行。様々なシーンの撮影を行った。 ロケ地探しで至極役立った、ポランスキーの記憶力。ナチの軍服や兵士たちの歩き方、ゴミ箱の大きさに至るまで、当時の再現に、大いに寄与した。記憶でカバーできない部分は、終戦直後の46年に書かれた、シュピルマンの原作に頼った。 戦時のワルシャワで起こった様々な事件を再現するためには、多くのリサーチが行われた。クランク・イン前には、歴史家やゲットーの生存者の話を聞き、スタッフには、ワルシャワ・ゲットーについてのドキュメンタリーを何本も観てもらった。 ポランスキーは本作に、当時彼自身が体験したことも、織り込んだ。その一つが、シュピルマンが、収容所に送られていく家族からひとり引き離されるシーン。 原作ではシュピルマンは、その場から走って逃げたと記している。しかしポランスキーは、歩いて去るように、変更した。 これはポランスキーがゲットーを脱出した際に、ドイツ兵に見つかった経験が元になっている。そのドイツ兵はみじろぎひとつせずに、「走らない方がいい」とだけ、ポランスキーに言った。走るとかえって、注意を引いてしまうからである。 そんなことも含めて、本作で描かれているのは、「すべて本当にあったこと」だった。 撮影は、2001年2月9日から半年間に及んだ。その期間中、ポランスキーは当時の辛かった思い出の“フラッシュバック”に、度々襲われることになる。しかし撮影前のリサーチ段階での苦痛のほうが大きかったため、憔悴するには至らなかった。 本作のクライマックス。シュピルマンが隠れ家とした場所でナチスの将校に見つかり、ピアニストであることを証明するためピアノを演奏する、4分以上に及ぶシーンがある。 こちらはドイツのポツダムに在る、住宅街の古い屋敷でのロケーション撮影。画面から伝わってくる通りの寒さの中で、カメラが回された。 スタッフが皆、分厚いコートを来ている中で、ブロディは着たきりのスーツだけ。しかし監督は画作りのため、すべての窓を開け放しにした。ブロディは死ぬほどの寒さの中で、演技をしなければならなかった。 このシーンに登場する、トーマス・クレッチマンが演じるドイツ国防軍将校の名は、ヴィルム・ホーゼンフェルト大尉。シュピルマンを連行することなく、隠れ家の彼に食事や外套を提供して、サバイバルを手助けする。 本作で詳しく描かれることはなかったが、実在したこの大尉は、ナチスの方針に疑問を抱き、迫害に遭ったユダヤ人らを、実は60人以上も救っている。シュピルマンを助けたのは、偶然や気まぐれではなかったのである。 不運にも彼はワルシャワから撤退中に、ソ連軍の捕虜となった。そしてシベリアなどの捕虜収容所に、長く拘置されることになる。 シュピルマンは戦後、自分を助けてくれたドイツ人将校を救おうと、手を尽して行方を捜索。収容所に居ることがわかると、当時はソ連の衛星国家だった、ポーランドの政界に解放を働きかけた。しかしホーゼンフェルトが自由の身になることはなく、52年に心臓病のため57歳で獄死してしまう…。 さて6ヶ月間、本作に打ち込んだエイドリアン・ブロディは、シュピルマンの“孤立感”を体感しようと試み、飢えをも経験する中で、感じ方や考え方に変化が生じた。そのため撮影が終わってから、何と1年近くも、鬱状態から抜け出せなかった。 一方でブロディは、本作に出たことによって、俳優としての自分がやりたいことが何なのか、はっきりと自覚することができたという。 ちなみにブロディがレッスンを経て、楽譜を見ずにピアノを弾けたようになったことを、ピアノ教師が絶賛。この後も続けるように勧められたが、本作が撮了するとモチベーションを保てず、やめてしまったという。 監督のポランスキー、主演のブロディが報われたのは、まずは2002年5月の「カンヌ国際映画祭」。そのコンペ上映で15分間のスタンディング・オヴェーションを得て、最高賞のパルムドールに輝いた。そして翌03年3月には「アカデミー賞」で、ポランスキーに“監督賞”、ブロディに“主演男優賞”が贈られた。 それまでは、“鬼才”という呼称こそがしっくりくる感があったポランスキー。件の事情で国外逃亡中の身だったため、オスカー授与の場に立つことはなかったが、本作『戦場のピアニスト』によって、紛うことなき“巨匠”の地位を得たのである。 しかしそれから歳月を経て、90を超えたポランスキー、そして本作への評価も、今や安泰とは言えない。 2017年に大物プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインによる数多くの性加害が告発されて以降、大きな高まりを見せた#MeToo運動。その文脈の中では、少女を強姦してアメリカ国外へ逃亡したポランスキーの、“巨匠”としての地位も、揺るがざるを得ない。 ポランスキーに性的虐待を加えられたと告発する者は、他にもいる。アカデミー賞受賞後、彼のアメリカ入国を認めさせようという機運が一時高まったが、もはや取り沙汰されることはない。 そして現在、イスラエルが、ガザ地区で戦争を続けている。 ナチスに母を、カルト集団に妻子を奪われた“被害者"である一方、レイプで女性の人生を狂わせた“加害者”であるポランスキー。 ナチスのジェノサイドの犠牲者であるユダヤ民族が作った国家イスラエルは、国際的な批判の高まりを無視して、パレスチナの民への攻撃を行っている。『戦場のピアニスト』は、製作から20年以上経った今観ても、衝撃的且つ感動的な作品である。ポランスキーが意図した通り、「ナチス=悪/ユダヤ=善」という単純な図式を回避したからこその素晴らしさがある。 しかしながら、2024年の今日。そんな作品だからこそ、複雑な気持ちを抱きながら観ざるを得なくなってしまったのも、紛れもない事実である。■ 『戦場のピアニスト』© 2002 / STUDIOCANAL - Heritage Films - Studio Babelsberg - Runteam Ltd
-
COLUMN/コラム2024.09.24
コロナ禍で追求された、全編アクションの可能性『アンビュランス』
◆破壊王マイケル・ベイの挑戦 機動力に満ちたカメラワークや、過剰なほどに爆発を散りばめたショットなど、それらを素早い編集で組み合わせ、監督マイケル・ベイはキャリア早期より迫力ある映像サーカスを展開してきた。「ベイヘム」と呼称されるそれは、氏を認識する視覚スタイルとして周知され、皮肉も尊敬も交えて氏を象徴する重要なワードとなっている。1995年の初長編監督作『バッドボーイズ』を起点に、ベイはそのほとんどを破壊的なアクションに費やし、さらには機械生命体が車に変形するSFシリーズ『トランスフォーマー』と関わりを持つことで、ベイヘムを必要不可欠とするステージへと自らを追いやっている。そしてショットの多くをCGキャラクターやVFXに依存する本シリーズにおいて、爆発や破壊のプラクティカルな要素をどこまで追求することができるのか、彼はそれを実践してきたのである。 そんなマイケル・ベイに、大きな試練と挑戦の機会が訪れる。それは2020年に起こった、世界的なパンデミックの拡大だ。いわゆる新型コロナウイルス(COVID-19)の蔓延によって、映画業界全体の作品製作や公開が頓挫してしまったのだ。 しかし、ベイはこうした困難の中で、どれだけ過激なアクション演出を成し遂げられるのかという実験に挑んだのだ。それが2022年に公開された『アンビュランス』である。 病に侵された妻を助けたいと、元軍人のウィル(ヤーヤ・アブドゥル=マティーン2世)はカリスマ的な犯罪者ダニー(ジェイク・ギレンホール)の誘いにより、3,200万ドルの銀行強盗に加担する。 だがロサンゼルス史上かつてない巨額の奪取に成功したものの、彼らは捜査組織の容赦ない追跡を受けることになる。しかもウィルたちが逃亡のためにジャックしたのは、救命士キャム(エイザ・ゴンザレス)が負傷した警官を救護中のアンビュランス(救急車)だった……。ウィルとダニーは内も外も予断を許さぬ状況下で、二転三転する事態と、重くのしかかる善悪の葛藤に対処せねばならなくなる。 映画はこうした破壊と変転に満ちたカーチェイスを、わずか24時間のオンタイムで描いていく。ベイは配信を発表手段とした前監督作『6アンダーグラウンド』(2019)でも、開巻から延々20分間に及ぶカーチェイスを披露し、その様相は狂気を放っていた。しかし、今回は同作の規模を超えるものが、冒頭から終わりまで絶え間なく続くのである。 新型コロナウイルス感染によるロックダウンのなか、全編アクションの映画を撮影する—。そんな『アンビュランス』の叩き台となった脚本は、2005年にデンマークで製作されたスリラー『25ミニッツ』がベースとなっている。同作は心臓発作の患者を乗せた救急車をジャックした、2人の銀行強盗を主人公にしたものだ。『アンビュランス』の脚本を手がけたクリス・フェダックは、デンマーク人のマネージャーであるミケル・ボンデセンがオプション契約した『25ミニッツ』を紹介されたのだ。 『25ミニッツ』の核となるコンセプトが気に入ったフェダックは、本作をロサンゼルスへと置き変え、考えうる限りのカーチェイスや設定をクレイジーに拡張させたのである。 ミニマルを極めた状況設定から、やがて大きな展開へと発展していくアクション映画。そんな『アンビュランス』のストーリーこそ、ベイはコロナ禍で全編アクションの可能性を追求する、自分のアプローチと完璧にマッチしていると確信。生まれ故郷であるロサンゼルスを中心に、40日間のタイトな撮影を実践しようと、同作の撮影に踏み切ったのだ。 さいわいにも、本作のプロデューサーであるジェームズ・ヴァンダービルトとウィリアム・シェラックは、前プロデュース作品の『スクリーム』(2022)で、パンデミックの制限下における撮影プロトコルを確立させたばかりだった。この方法に従うことを前提にして、『アンビュランス』の製作にゴーサインが出たのである。 ◆FPVドローンをフル活用した撮影 前述どおり、本作の撮影はすべてロサンゼルスとその近郊でおこなわれた。こうした限定空間を安っぽいものに見せぬよう、クルーはエリア照明や色彩、ロケーションや撮影方法に至るまで、過去にないアプローチで手がけることを至上とした。また常時5台のマルチカメラによる態勢はベイのスタイルだが、これは限定空間を多面的に捉えることに役立つことになる。そしてすべての爆発ショットは、関係各部署と綿密なリハーサルを施行し、一秒単位で時間を計って綿密に調整された。カメラクルーには細かな安全装備が施され、さらに管理者が付き添うことで、万全を期した撮影が徹底されたのだ。 さらに今回はドローンを最大限に活用することで、多動的で視覚的な拡がりを持つショットをものにしている。 しかも『アンビュランス』で使用されたドローンは撮影用カメラを吊り下げて動くヘビーリフトタイプのものとは異なり、RED社の超小型6Kシネマカメラ「Komodo」を一体化させた最軽量・高画質の最新鋭ツールだ。それはFPV(ファースト・パーソン・ビークル)ドローンと呼ばれ、カメラと連動したゴーグル越しに操縦して撮像を得る、シミュレーションスタイルの撮影手段を持つギアである。操縦者たちはFPVドローンの操作テクニックと撮影技を競うドローン・レーシングリーグで上位を占める精鋭たちが集められ、例えばカメラアイが時速160キロのスピードでオフィスビルの屋上から壁面をつたい、地上からわずか1フィートスレスレまで潜り込んだり、あるいはロサンゼルス・コンベンションセンターの地下駐車場でのワンショットによるチェイスシーンなど、通常のカメラ撮影では不可能な移動ショットを可能にしたのだ。 このように、FPVドローンの全面投入はパンデミック制限下での撮影に貢献しただけでなく、これまでのアクション映画にない視覚領域へと我々をいざなう、全く新しい空撮の概念を映画の世界にもたらしたのである。 ◆『トランスフォーマー』を凌駕する車の投入 しかしロックダウンのプロトコルに基づく作品とはいえ、本作には30台を超すパトカーやアンダーカバー車、それに主人公の救急車と複数のスタントカーが用意され、車をキーアイテムとする『トランスフォーマー』さえも凌駕する台数が『アンビュランス』に投入されている。 なによりアメリカ国防総省と太いパイプで繋がり、最新の現用兵器や重火器類を自作に投入してきた初物好きのベイらしく、本作で登場する警察と消防要員のオフサイト本部として機能するMCU(移動コマンドユニット)は市場に出ていない最新式だ。加えて同台に複数のモニターを設置し、後部座席やシートポジションをカスタマイズするなど、完全な映画オリジナルにしている。 そして、本作のもうひとりの主人公ともいえる救急車は、民間消防会社の世界的大手・ファルクが所有する最高級クラスのもので、それを2台レンタルし、同時にスタント用のものを3台ほど撮影用にストックされた。しかし激しいアクションに車体をさらしながら、それらすべてを完璧な状態に保って返却せねばならなかったので、プロップマスターは相当神経を使ったという。また救急車の内装は病院同様に白が基調となっており、俳優のライティングが通常のカーアクションよりも難しかった。この問題を解決するため、照明や機器、そしてライトアップスイッチも追加され、こうして大幅に加工した内装も元に戻さねばならなかったのだ。 大破壊のための、細心に支えられた創造心。「ベイヘム」とは、この矛盾を正当化させる、エスプリの宿ったワードといえるかもしれない。『アンビュランス』は、それをさらに確信させる映画となったのだ。■ 『アンビュランス』© 2022 Universal Studios. All Rights Reserved.
-
COLUMN/コラム2024.09.20
ティム・バートンが作り上げた、今日まで連なる“アメコミ”ムービーの原点『バットマン』
長らく「子どもの読み物」と揶揄されることが多かった、“アメコミ/アメリカン・コミック”の映画化作品で、最初に大きな成功を収めたのは、リチャード・ドナー監督、クリストファー・リーヴ主演の『スーパーマン』(1978)である。 1938年に生まれた、最古参の“アメコミ”ヒーロー「スーパーマン」を大スクリーンに乗せるこのプロジェクト。脇にマーロン・ブランド、ジーン・ハックマン等々といった大物スターを配した超大作映画として製作され、世界的な大ヒットとなった。 この成功に乗じて、「スーパーマン」と並ぶ「DCコミックス」の人気ヒーロー、「バットマン」を映画化しようという動きも、早速起こる。マイケル・E・ウスランとベンジャミン・メルニカーという2人のプロデューサーが、79年に「DC」から、その権利を買い取ったのである。 当初は『スーパーマン』のシナリオを書いたトム・マンキーウィッツが雇われたが、脚本化は不調に終わる。結局「バットマン」が、実際にその雄姿をスクリーンに躍らせるまでには、それから10年もの歳月を要することになった。 81年、この企画の軸となるプロデューサーが、ピーター・グーバーとジョン・ピーターズへと移る。2人はワーナー・ブラザース映画と契約を結び、製作費1,500万㌦でこの企画を進めることとなった。この予算は83年には、倍の3,000万㌦にまで膨らむ。 そうした中で、新たな脚本家が、雇われては消え雇われては消え…。その数は10人に達したという。 また監督としては、ジョー・ダンテやアイヴァン・ライトマンなどが取り沙汰された。しかしこちらも、なかなか正式決定には至らなかった。 ティム・バートンの名が挙がったのは、長編初監督作品だった『ピーウィーの大冒険』(85/日本では劇場未公開)の成功を受けてのこと。ちょうどその次作である『ビートルジュース』(88)をワーナーの撮影所で準備中だったバートンと会った、プロデューサーのピーターズは、「バットマン」の映画化に対するバートンの情熱と考え方を聞いて、1958年生まれでまだ20代だった彼を、最有力候補とした。 “オタク”出身の代表的な監督のように言われるバートンだが、実は“アメコミ”に夢中になったことは、ほとんどなかった。そんな中で「バットマン」は、バートンが共感できる、ただ1人のコミック・ヒーローだったという。「バットマン」の主人公は、表では大富豪で著名な慈善家であるブルース・ウェインだが、裏では日々“自警活動”で悪を制裁するバットマンであるという、2つの人格を持つ複雑なキャラクター。こうした点に強く惹かれた少年時代のバートンは、アダム・ウェスト主演のTVシリーズ「怪鳥人間バットマン」(66~68)を観るために、放送日は大急ぎで学校から帰宅したという。 また80年代に刊行された、「バットマン」をシリアスでダークな存在として描く、2つのシリーズものコミックには、強く影響を受けた。フランク・ミラーの「ダークナイト・リターンズ」(86)、アラン・ムーアの「ザ・キリング・ジョーク」(88)である。 これらの作品でも描かれる通り、バートンは、ヒーローである“バットマン”と、シリーズを通じて最強のヴィランである“ジョーカー”は、「ワンセット」で、「この2人は基本的に2つのおとぎ話。光と影」であると考えた。そしてそうした解釈に基づいて、「バットマン」の“映画化”にチャレンジしようと決めたのである。 しかし39年の初登場以来、半世紀もの間、大きな人気を得てきた“アメコミ”ヒーローを映画化するには、並大抵ではない覚悟が要る。 バートンは、78年にサンディエゴで開かれたコミコンに参加した際、ショッキングな光景を目の当たりにしていた。公開前の『スーパーマン』について、雄弁に語るリチャード・ドナー監督に対し、熱狂的なファンが、「あんたたちが伝説をぶち壊しにしてるとみんなに言いふらしてやる!」と罵声を浴びせたのである。しかもそれに対し、場内は割れんばかりの拍手喝采で沸きあがった。 そんな体験もあって、「バットマン」の映画化に挑むのは、イコールで「途方もない問題を抱え込むことになる」ことに、自覚的にならざるを得なかった。その上で、あくまでも自分の発想に忠実な映画を作ろうという、決意を固めたのであった。 バートンは、それまでに書かれたシナリオはすべて却下し、ジェリー・ヒックソンによる31頁の準備稿に基づいた新たなシナリオの執筆を、サム・ハムに依頼。『ビートルジュース』製作中にも拘わらず、週末にはハムと会って、脚本についての話し合いを進めたという。 しかしながらこの時点ではまだ、ティム・バートンを監督に据えることに、ワーナー・ブラザースは正式にはOKを出してしていなかった。88年3月、『ビートルジュース』が公開され、予想を超える大ヒットとなった時点で、ようやくGOサインとなったのである。 そしてその年の暮れ、本作『バットマン』(89)は、クランクイン。メインの撮影地は、イギリスのパインウッド・スタジオで、その95エーカーの用地と18のサウンドステージを駆使して、舞台となるゴッサム・シティが建造された。製作費は、3,500万㌦となっていた。 ***** 暴力がはびこる大都市ゴッサム・シティ。しかしこの街のギャングたちの間で、ある噂が囁かれていた。犯罪現場には巨大な蝙蝠の装いをした“バットマン”が現れ、犯罪者たちに制裁を加えては去っていくと…。 その噂を信じて取材を続ける新聞記者ノックスと女性カメラマンのヴィッキー・ベールは、調査の過程で大富豪のブルース・ウェインと出会う。ヴィッキーは謎めいたウェインの佇まいに惹かれるが、孤独な影を持つウェインは、彼女になかなか心を開けない。ヴィッキーが追う“バットマン”の正体が自分であることも、もちろん明かせなかった。 一方でゴッサムの裏社会を仕切るグリソムの右腕ジャック・ネーピアは、ボスの愛人に手を出したことがバレて、罠にハメられる。化学工場で警官隊に追い詰められたジャックの前に、“バットマン”が出現。ジャックは“バットマン”を拳銃で撃つが、強力なバットスーツに跳ね返され、逆に化学薬品のタンクへと突き落とされる。 警察の手を免れて、逃げおおせたジャック。しかし化学薬品の作用で肌は真っ白となり、顔面は極端に引きつった笑い顔に固定され、まるでトランプのジョーカーのようになってしまう。 ジャックは、自ら“ジョーカー”を名乗る。そして、グリソムをはじめ、暗黒街の大物を、次々と血祭りに上げる。 “ジョーカー”は恐るべき犯罪で街を支配。「市政200年記念祭」を乗っ取り “バットマン”に果たし状を叩きつける。ウェインは、“ジョーカー”との過去の因縁に気付き、復讐心を燃やしながら、対決に臨む…。 ***** “バットマン”役の候補となったのは、チャーリー・シーンやメル・ギブソン、ピアース・ブロスナンなど。しかしバートンは、いかにも“ヒーロー”然とした俳優を起用する気は、端からなかった。 “バットマン”が、例えばアーノルド・シュワルツェネッガーのような体格だったとしたら、それを隠すためのスーツなど着る必要はあるまい。バットスーツは、身体を保護するだけでなく、心を守る鎧でもある。そしてその外見に隠された、“人間性”を表せる俳優を求めた。 バートンが最初に思いついたのは、ビル・マーレイ。しかしプロデューサーのピーターズから、別の俳優を提案されると、即座にそちらに切り替えた。それは前作『ビートルジュース』で組んだばかりの、マイケル・キートンだった。 キートンならば、“バットマン”のマスクから覗く眼で、“狂気”を表現してくれるに違いない!彼の身長が175㌢で、筋骨隆々とは遠かったのも、ポイントが高かった。 しかし『ビートルジュース』以前は、『ラブ IN ニューヨーク』(82)や『ミスター・マム』(83)などで“コメディアン”としての印象が強かったキートンの抜擢には、ある意味想定通りのリアクションが起こった。従来の「バットマン」ファンから、ブーイングの嵐が寄せられたのだ。 キートンは原作のようにはアゴが尖ってない上、頭髪も薄いし背も高くない。コミックに引っ掛けて、これこそ究極の「キリング・ジョーク」だなどと嘲られ、抗議の手紙が5万通以上も届いたという。 一方“ジョーカー”役には、クリスチャン・スレイター、デヴィッド・ボウイ、ウィレム・デフォー、ロビン・ウィリアムズなどの名も挙がったが、ジャック・ニコルソンこそ“ジョーカー”に相応しいという声が、当初から高かった。スタンリー・キューブリック監督の『シャイニング』(80)で彼が演じた、狂気に陥る主人公とイメージが重なるのも、大きかったと見られる。実際バートンも、ニコルソン以外の“ジョーカー”を考えたことはなかったという。 ニコルソンのギャラは、製作費の6分の1以上を占める600万㌦に加えて、興行収入からの歩合。その上で、仕事時間を自分で決められるという条件付きだった。 監督のバートンを何よりも悩ませたのが、クランク・イン直前になっても出来上がらない、“脚本”だった。固まってないシークセンスが山のようにある中で、ワーナーが土壇場で脚本を書き直すと決定。エンディングは、何度もリライトされることとなった。 因みに脚本の初期段階では、コミックやTVシリーズではお馴染みの、バットマンの相棒ロビンも登場したという。配役としては、エディ・マーフィが候補だったというが、混乱の中でいつしかその存在は消えていった。 撮影開始2日前に、ヴィッキー・ベール役に決まっていたショーン・ヤングが、落馬して鎖骨を折り、出演不能になった。そこで急遽、代役としてキム・ベイシンガーがキャスティングされた(ショーン・ヤングは本作の続編『バットマン リターンズ』(92)で、ヴィランの“キャットウーマン”役を巡ってトラブルを起こすのだが、それはまた別の話)。 クランクイン後にバートンを大混乱に陥れたのは、何と、プロデューサーのジョン・ピーターズだった。撮影現場を訪れては、勝手に脚本の改訂やスタッフの解雇を繰り返すという暴挙に出たのである。 本作クライマックスで、“ジョーカー”はヴィッキー・ベールを人質に取って、鐘楼を上がっていく。この撮影の際ニコルソンがバートンに、「どうして私は階段を上がらなければならないんだ?」と尋ねる一幕があった。それに対してバートンは、「どうしてかな…。とにかく上がってくれ。そこで話し合おう」としか答えられなかったという。 とはいえニコルソンは、バートンに対して寛大な態度を守った。撮影中は、「君の必要としているもの、望んでるものを手に入れろ。そしてただ進み続けるんだ」と、励まし続けた。稀代の名優ニコルソンが、毎日2時間のメイク時間を経て現場に臨むと、6回の演技で6通りの異常者を演じてみせた。バートンはニコルソンに対し、リスペクトの念を強く抱いた。 ・『バットマン』撮影中のティム・バートン監督(左)とジャック・ニコルソン(右) マイケル・キートンに対しては先に記した通り、外部からのプレッシャーが大きかったが、それとは別の意味で、現場では悪戦苦闘の連続だった。基本的に彼は即興的な演技を得意としてきたのに、内向的な役柄とバットスーツで、それらを封印せざるを得なかったからだ。しかもシナリオが絶えず書き換えられ、撮影現場のムードは、ただただ重苦しかったという。「孤独」を強く感じたというキートンは、結果的にそれが“バットマン=ブルース・ウェイン”というキャラを演じる上で「幸いした」と後に述懐している。しかし撮影中はそんな考えに至るわけもなく、何とか眠れるように、「へとへとになるまで夜のロンドンを走った」のだという。 こうしたバートンやキートンの“悪戦苦闘”は、89年6月に本作が公開になると、空前の大ヒットという形で報われた。アメリカでの興収は10日間で1億㌦を超えた初めての映画となり、最終的な興行成績も、当時としては史上5番目にまで達した。 この作品以降、“アメコミ”出身のキャラクターでも、その性格を“人間ドラマ”として重層的に描くことが、「当たり前」となった。その流れは、それから35年経って、“アメコミ”映画が隆盛を極める今日まで続く。 さてバートンはと言うと、映画会社が当然のように望んだ、本作の続編にすぐに取り掛かることはなかった。大ヒットこそしたものの、自分の思い通りにいかなかった本作の内容に、大きな不満が残ったからである。 結局バートンが再びマイケル・キートンを主役に、『バットマン リターンズ』に臨んだのは、本作の3年後。その際は本作の体験に懲りて、要らぬ口出しをハネつけられるように、自ら製作にも当たった。そしてその後は多くの監督作品で、プロデューサーを兼ねるようになったのである。■ 『バットマン』BATMAN and all related characters and elements are TM and © of DC Comics. © 1989 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved.
-
COLUMN/コラム2024.09.06
主役は神に遣わされた“名無しの男”。イーストウッド1980年代唯一の西部劇『ペイルライダー』
「私たちのオリジナルと呼べるようなアメリカ固有の芸術形式はほとんどないと言っていい。たいていはヨーロッパから来たものばかりだ。わずかに例外と言えるのが西部劇とジャズまたはブルースだ」 これは1985年、本作『ペイルライダー』公開を前に、インタビューに応えた際の、クリント・イーストウッドの言。ヨーロッパ文化へのリスペクトと同時に、TVの西部劇シリーズ「ローハイド」(1959~65)で注目を集める存在となり、セルジオ・レオーネ監督のマカロニ・ウエスタン『荒野の用心棒』(64)『夕陽のガンマン』(65)『続・夕陽のガンマン』(66)の“ドル箱3部作”を機に、“映画スター”の座に就いたイーストウッドの、“自負心”が伝わってくる。『ペイルライダー』は、イーストウッドにとっては、『アウトロー』(76)以来9年振りの西部劇にして、11本目の監督作品。そして結果的には、彼が80年代に撮った、唯一の西部劇となった。 この企画は、『アウトロー』公開から間を置かない、1977年頃から始まっていた。発案は、イーストウッドが監督・主演した刑事アクション『ガントレット』(77)の脚本を書いた、マイケル・バトラーとデニス・シュリアック。日頃から「西部劇が好き」と言っていたこの2人と、イーストウッドはネタ出しを行うことにした。 そのプロセスで、脚本家2人がゴールドラッシュの時代について調査を進めると、鉱夫たちと強力な独占企業の間で対立があったことがわかった。そしてこの事実を手がかりに、本作の前身となる、最初の脚本ができたのだという。 しかしこの企画は暫し、引出しの中で眠ることになる。当時イーストウッド付きだったプロデューサーのフリッツ・マーネイズ曰く、「…ウエスタンに客が入らない時代だし、これより凄いウエスタンが現れて、先を越される心配もなかったから、少し様子を見ようということになった…」。 そうこうする内に1980年、ハリウッドを震撼させる“大事件”が起きる。騒動の主役は、かつてイーストウッド主演の『サンダーボルト』(74)で監督デビュー後、『ディア・ハンター』(78)でアカデミー賞作品賞・監督賞を獲得したマイケル・チミノ。彼が鳴り物入りで完成させた超大作西部劇『天国の門』(80)が、大コケ。製作したユナイテッド・アーティスツが、経営危機に追い込まれてしまったのである。 新たな西部劇を作るタイミングは、益々遠のく。しかし1984年になって、ある晴れた日、イーストウッドはふと思った。「西部劇が見たいな」と。 イーストウッドの作る映画のすべてには、共通する規則があるという。それは、「自分がスクリーンで見たいと思ったものを作る」ということだった。また、すごく魅力的に思える脚本があって、テーマがはっきりと掴めている場合、「他の人にそれを説明するのがめんどう」だと、彼は迷わず自らが監督することを決めるのだという。「機を見るに敏」という言葉があるが、イーストウッドの場合は、「機を待つに敏」とでも言うべきか?彼は眠っていた脚本を引っ張り出して、本作『ペイルライダー』の映画化に取り掛かった。 ***** ゴールド・ラッシュ時代のカリフォルニア、カーボン峡谷。鉱夫たちとその家族が居を構え、金の採掘に挑んでいるが、周辺一帯を仕切り、この峡谷の採掘権も得ようとするラフッド(演:リチャード・ダイサート)の一派の嫌がらせが続いている。 15歳の少女ミーガン(演:シドニー・ペニー)は、母のサラ(演:キャリー・スノッドグレス)と暮らしていたが、ラフッドの手下に愛犬を撃ち殺されてしまう。神に祈りを捧げ、救いを願うミーガン…。 峡谷のリーダー的存在であるハル(演: マイケル・モリアーティ)は、町に物資の調達に出向いた際、ラフッドの手下たちに、襲われる。しかしその場に、見知らぬよそ者の男(演:クリント・イーストウッド)が現れ、鮮やかな手際で、手下たちを叩きのめす。危機を救われたハルは、白馬に乗って去ろうとする男を、自分たちの集落へと誘う。 ミーガンはその男を、“神の使い”だと直感する。ならず者と夕食を共にしたくないと反発したサラも、男が牧師=プリーチャーの服装をしているのを見て、態度を一変する。 “プリーチャー”と呼ばれるようになった男は、お礼参りにやってきた、ラフッドの息子ジョッシュ(演:クリストファー・ペン)と、連れの大男(演:リチャード・ギール)も、軽く一蹴。集落から頼りにされる存在となる。 プリーチャーを懐柔し、集落を買収しようとしたラフッドだったが、交渉は決裂。連邦保安官を務めながら悪名高い、ストックバーン(演:ジョン・ラッセル)とその副官たちを呼び寄せ、一気に蹴りをつけようとする。 ストックバーンの名を聞いて表情をこわばらせたプリーチャーは、一旦峡谷から姿を消す。そして拳銃を携えて、戻ってくる…。 ***** “ドル箱3部作”で演じた“名無しの男”以来、イーストウッドの十八番とも言える、一匹狼の流れ者。本作でもヒゲをたくわえ、目を鋭く光らせるという、お馴染みのスタイルである。 しかし先に記した“ネタ出し“に於いて、聖書の話との対比を広げてゆく内に、イーストウッドの意向として、「…超自然的側面を少しばかり強調してしまうことになった」という。 少女ミーガンが、救いを求める祈りとして暗唱するのは、聖書の中の黙示録第4章。 ~そこで見ていると、見よ、蒼白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者(ペイルライダー)の名は“死”と言い、それに黄泉が従っていた~ イーストウッド曰く、それは「…一種の大天使、神話的人物…」。そして彼が演じる“プリーチャー”は、白い馬に乗って現れることとなった。 “プリーチャー”が着替える際、ハルがその背中に、6つの弾痕があるのを目撃する。イーストウッドは脚本家たちに“プリーチャー”が、「敵役の保安官と過去に関わりがあったようにする方がいい」との示唆もした。それによって“プリーチャー”のキャラクターに奥行が出て、黙示録の騎士というイメージにもぴったり合うという考えだった。 以前から、聖書の話の神話性と西部劇のつながりに、「興味があった」というイーストウッド。本作にそうした側面を盛り込むことによって、今まで沢山の西部劇を観てきた観客が、本作は「一味違う」と感じることを望んだ。その一方でそうした観客が好む、「ノスタルジックなところ」も併せ持つようにすることも忘れなかった。 流れ者が、世話になった一家を救い、殺し屋たちを倒して去って行くストーリーの構造。これはまさに、ジョージ・スティーヴンス監督、アラン・ラッド主演の名作西部劇『シェーン』(53)へのオマージュと言える。 本作のキャスティングで特徴的、というかイーストウッドらしいのは、“プリーチャー”の出現を好ましく思わなかったのに、やがて愛してしまうサラ役に、キャリー・スノッドグレスを起用したこと。イーストウッド曰く、「ジェシカ・ラングやサリー・フィールドやシシー・スパイセクだけが女優じゃない。彼女たちに負けないぐらい才能がある女優が、そこいら中にいる」 本作から40年近く経った今となってはピンと来ないかも知れないが、要はハリウッドが、「今いちばん人気がある俳優ばかり追い回している」ことへの批判である。スノッドグレスのような、「名前を知られていなくても腕のある俳優」を起用するのが、イーストウッド流というわけである。 因みに本作に起用されたことに小躍りしたのは、悪役であるラフッドの息子を演じた、クリストファー・ペン。ショーン・ペンの弟で、当時売り出し中の若手俳優だったが、子どもの頃から西部劇に出たいと思っていた彼にとって、出演作を全部観るほどファンだったイーストウッドとの共演は、まさに夢の実現。憧れの西部劇ヒーローである“名無しの男”に対し、「この町を出ていけ」というセリフを吐くのは、至福の体験だったのである。 撮影は、1984年9月にスタート。アイダホ州サンヴァレーを中心にロケ撮影を行い、イーストウッド流早撮りで、40日足らずでクランク・アップとなった。 80年代中盤は、映画作家としてのイーストウッドの評価が、フランスなどヨーロッパで高いものになりつつあった頃。本作は85年の「カンヌ国際映画祭」の“監督週間”に出品され、大評判となった。『ペイルライダー』は、やはりイーストウッドの監督・主演作である『荒野のストレンジャー』(73)と表裏一体の作品という解釈が、広く為された。『荒野の…』主人公が、死霊≒悪魔を象徴するキャラクターであるのに対し、本作の“プリーチャー”は、神に遣わされた復讐者ということからである。 本国アメリカでは、その年の6月に公開。10日間で2,150万㌦を売り上げ、最終的には興収4,000万㌦を突破する大ヒットとなった。 実は本作に取り掛かる頃、イーストウッドの元には、もう1本西部劇の脚本が届いていた。その中味を気に入ったイーストウッドは、映画化権を取得したが、『ペイルライダー』の製作を優先したため、そちらは一旦ペンディングとなった。 それが日の目を見たのは、7年後の92年。それまで無縁だった、アカデミー賞の作品賞・監督賞をイーストウッドにもたらした、『許されざる者』である。1930年生まれの彼がその主役、足を洗った老齢のガンマンを演じるのに適した、60代になってからの映画化だった。 イーストウッドはまさに、「機を待つに敏」な男である。■ 『ペイルライダー』© Warner Bros. Entertainment Inc.
-
COLUMN/コラム2024.09.04
下らなくてバカバカしいけど憎めない!今なお世界中(?)で愛されるキラートマト軍団の魅力に迫る!『アタック・オブ・ザ・キラートマト』
‘70年代のパロディ映画ブームが生んだ珍作 映画史上屈指の駄作として名高いZ級モンスター映画である。ある日突然、トマトが人間を襲い始めて全米がパニックに陥るというあまりにも下らないストーリー、アマチュアの自主制作映画とほぼ変わらないレベルの貧相で安っぽいビジュアル(なんと、予算はたったの10万ドル!)、見た目も演技力も素人丸出しの役者たちによるショボい芝居(実際にキャストの大半は素人の一般人)などなど、お世辞にも出来の良い映画とは言えないものの、しかしその屈託のないバカバカしさはなんだか妙に憎めないし、古き良き時代のモンスター映画にオマージュを捧げた頭の悪いギャグの数々も嫌いになれない。体に悪いと分かってはいても、ついつい手が出てしまうジャンク・フードみたいな映画。本作が今もなお、世界中でカルト的な人気を誇っている理由はそこにあると言えよう。 とある民家のキッチンで主婦が他殺体で発見され、捜査を担当する刑事たちは遺体に付着した赤い液体がトマトジュースだと知って困惑する。この日を境に、全米各地でトマトが罪のない人々を襲うという凄惨(?)な事件が多発。この異常事態を受け、ペンタゴンでは軍部が科学者を交えて対抗策「アンチ・トマト計画」を急ピッチで進める一方、ワシントンでは諜報部のトップ・エージェント、メイソン・ディクソン(デヴィッド・ミラー)や落下傘部隊出身のウィルバー・フィンレター(スティーブン・ピース)ら特殊部隊が、トマトたちの暴走を食い止めるために動き始める。 さらに、大統領の命を受けたホワイトハウス報道官ジム・リチャードソン(ジョージ・ウィルソン)も国民のパニックを防ぐべくプロパガンダ戦略を練り、政府の動きを察知した女性新聞記者ロイス・フェアチャイルド(シャロン・テイラー)がディクソンらの行動を追跡。だが、そうこうしているうちに狂暴化したトマトたちは巨大モンスターへと進化を遂げ、いよいよ軍が出動せねばならない事態となってしまう…! というのが大まかなあらすじ。古いB級特撮モンスター映画にありがちなプロットのパロディである。軍隊マーチ風の勇壮なサウンドに乗って「キラートマトが襲ってくる!キラートマトが襲ってくる!」と謳いあげるオープニングのテーマ曲からしてバカ丸出し(笑)。クレジットや本編の随所にサニー・ヴェール家具店なるショップの広告テロップ(昔のアメリカのテレビではこういうテロップCMが多かった)が流れたり、『北北西に進路を取れ』(’59)や『ジョーズ』(’75)など名作映画のパロディがあちこちで唐突にぶち込まれたり、そうかと思えば前触れもなく突然ミュージカルが始まったりする。この脈絡のなさときたら!あくまでも、ストーリーは映画としての体裁を整えるための建前みたいなもので、基本的には中学生レベルの下らない一発ギャグを適当に繋げているだけだ。 ちょうど’70年代当時は『ヤング・フランケンシュタイン』(’74)や『新サイコ』(’77)といったメル・ブルックス監督のウルトラ・ナンセンスなパロディ映画が大流行し、その人気に便乗して『名探偵登場』(’76)や『弾丸特急ジェット・バス』(’76)など似たようなパロディ映画が続々と登場した。本作も恐らくそのトレンドに乗って作られたと思うのだが、しかしどこまでも徹底した下らなさと意味のなさは、後のジム・エイブラハムズとザッカー兄弟による『フライングハイ!』(’80)シリーズや『トップ・シークレット』(’84)を先駆けていたとも言えよう。そこにはストーリーテリングの妙だとか、ユーモアに込められたメッセージだとかは一切なし。次から次へとバカバカしいギャグが繰り出されていくだけだ。そういう意味では、ケン・シャピロ監督の『ドムドム・ビジョン』(’74)とかジョン・ランディス監督の『ケンタッキー・フライド・ムービー』(’77)辺りと同列に語られるべき作品かもしれない。 元ネタになった日本映画とは…!? そんな本作を生み出したのは、監督・製作・脚本・編集を手掛けたジョン・デ・ベロ、製作・脚本・第二班撮影・出演(ウィルバー・フィンレター役)を兼ねるスティーブン・ピース、そして原案・脚本・助監督を務めたコンスタンチン・ディロンの3人である。彼らはいずれもカリフォルニア州のサンディエゴ出身で、高校時代から仲良しの映画仲間だった。これに大学で知り合ったマイケル・グラントが加わって4人組となった彼らは、学生映画集団「フォー・スクエア・プロダクションズ」を結成。この時期に『アタック・オブ・ザ・キラートマト』の原点となった自主制作映画を撮っている。それが8ミリフィルムで撮影された短編映画『Attack of the Killer Tomatoes』と『Gone with the Babusuland』の2本だ。 ある日突然、トマトが人間を襲い始めて全米が大パニックになるという基本プロットは長編版と全く同じで、なおかつソックリなシーンも多々あるのがオリジナル短編版『Attack of the Killer Tomatoes』。一方の『Gone with the Babusuland』は、FBIをもじった諜報機関FIA(連邦情報局)の捜査官マット・デリンジャー(まだ細くてイケメンだったデヴィッド・ミラー)と落下傘兵ウィルバー(当時も変わらずアクの強いスティーブン・ピース)の活躍を描いたジェームズ・ボンド風のスパイ・パロディ映画で、これが『アタック・オブ・ザ・キラートマト』におけるディクソン&フィンレターのコンビの元ネタとなったのである。 ちなみに、本編の冒頭テロップでヒッチコックの名作『鳥』(’63)に触れていることから、同作をヒントにした作品ではないかと思われがちだが、実はジョン・デ・ベロ監督らが高校時代にテレビで見た、とある日本の特撮モンスター映画が企画の元ネタになっているという。デ・ベロ監督が「素晴らしいくらい出来の悪い日本のホラー映画」と呼ぶその作品は、他でもない本多猪四郎監督による東宝特撮映画の名作『マタンゴ』(’63)!放射能に汚染されたキノコを食べてしまった人間が、世にも恐ろしいキノコ人間「マタンゴ」となって人間を襲うというお話だ。まあ、確かにプロット自体はバカバカしいかもしれないが、しかし極限状態に置かれた人間の怖さを徹底したリアリズムで描いた脚本の出来は素晴らしく、今ではカルト映画として世界中に熱狂的なファンがいる。 なので、なんだとぉ~!『マタンゴ』が出来の悪い映画とは何事だ!この不届き者め!と文句のひとつでも言いたくなるってもんだが、まあ、仕方あるまい。映画の感想は人それぞれである。しかも、テレビで見たということは、アメリカン・インターナショナル・ピクチャーズが配給した英語吹替のトリミング&短縮版である。恐らく安っぽく見えてしまったのだろう。本作に登場する日本人科学者フジ・ノキタファ博士の声だけがアフレコで、なおかつ口の動きとセリフが全く合っていないというのは、かつてアメリカの深夜テレビ放送やドライブイン・シアターを賑わせた、日本製B級娯楽映画の英語吹替版の低クオリティを揶揄したジョークだ。 閑話休題。その『マタンゴ』よりも下らなくてバカバカしい映画を作ろう、ということで生まれたのが、野菜のトマトが人間を襲って食い殺すという珍妙なコンセプト。ただし『マタンゴ』と大きく違ったのは、そこに社会風刺や文明批判などのメッセージを込めるつもりなど、デ・ベロ監督たちには初めからこれっぽっちもなかったことであろう(笑)。 さて、大学を卒業後に「フォー・スクエア・プロダクションズ」を正式な会社とし、主に産業映画やスポーツ映画、テレビ・コマーシャルなどを作っていたデ・ベロ監督たち。その傍らで劇場用映画への進出を模索していた彼らは、大学時代に作った短編映画『Attack of the Killer Tomatoes』と『Gone with the Babusuland』の2本をひとつにまとめてリメイクすることを思いつく。それがこの『アタック・オブ・ザ・キラートマト』だったというわけだ。 劇中のヘリ墜落シーンは本物の事故だった! 友人・知人などから借金してかき集めた予算はたったの10万ドル。キャストやスタッフの大半は学生時代からの映画仲間や家族、親戚、隣人で固め、撮影も全て地元サンディエゴで行った。学生時代の短編版で特撮を担当したマイケル・グラントは、会社の「本業」であるCM制作などのために不参加。一応、客寄せのために有名人キャストも起用されたが、当時テレビの人気シットコム『The Bob Newhart Show』(‘72~’78・日本未放送)で全米に親しまれた喜劇俳優ジャック・ライリー(保安官役)と、映画『ポーキーズ』(’81)シリーズの校長先生役でも知られる名バイプレイヤー、エリック・クリスマス(ポーク上院議員役)の2人のみ。そのジャック・ライリーは「どうせ誰も見ない映画だから、小遣い稼ぎに出とけ」とエージェントから薦められて出演したらしいが、結果としてテレビのニュース番組で大々的に報じられることとなってしまった。どういうことかというと、撮影現場で彼の乗ったヘリコプターが墜落事故を起こしてしまったのだ。 そう、劇中に出てくるヘリコプターの墜落シーンは、なんと「演出」ではなく「ガチ」。本来はパトカーの横にヘリを着陸させるつもりだったが、タイミングを間違えたパイロットが慌てたせいで操縦を誤り、尾部ローターが地面に触れて墜落してしまったのである。乗っていたジャック・ライリーと報道官リチャードソン役のジョージ・ウィルソン、パイロットの3人は奇跡的に無事。この予想外の出来事に監督も撮影監督もビックリ仰天し、思わず撮影を止めてしまったのだが、しかし第2班カメラマンを務めていたスティーブン・ピースだけはカメラを回し続け、ヘリが墜落する様子もライリーたちが脱出する様子も撮影していた。当然、一歩間違えれば死者も出かねなかった事故はテレビのニュースで報道され、無事に生還したライリーは国民的人気トーク番組「トゥナイト・ショー」に招かれ、本来なら出たことを秘密にしておきたかった映画について話す羽目に(笑)。そして、そのライリーが「どうせなら事故映像を本編でそのまま使ったら面白いのでは?」と監督に助言したことから、劇中の迫力満点(?)なヘリ墜落シーンが出来上がったのである。 また、劇中で人気アイドル歌手ロニー・デズモンドの最新ヒット曲として紹介される挿入歌「思春期の恋」にも要注目。実在しない架空の歌手ロニー・デズモンドは、’70年代のアメリカで国民的な人気を誇っていたアイドル歌手ダニー・オズモンドが元ネタで、「思春期の恋」は当時量産されていたティーン向けバブルガム・ポップスを小バカにしたパロディだったという。で、その「思春期の恋」を実際に歌っている歌手としてクレジットされているフー・キャメロンは、当時地元サンディエゴの高校生だった少年マット・キャメロンの偽名。後にロックバンド、サウンドガーデンのドラマーとして高く評価され、さらに’98年以降はパール・ジャムのメンバーとしても活躍、ロックンロールの殿堂入りも果たした大物ミュージシャンである。 そういえば、後に有名になった人物はもう一人。海水浴に興じる若者たちがトマトに襲われる『ジョーズ』のパロディ・シーンで、ヨットに乗っている幼い少年にどこか見覚えがあると思ったら、後にテレビドラマ『ツイン・ピークス』(‘90~’91)のボビー役で有名になる俳優ダナ・アシュブルックだった。彼もまたサンディエゴの出身で、当時はまだ10歳の小学生。その後、テレビドラマのゲストを幾つもこなした彼は、『バタリアン2』(’88)や『ワックスワーク』(’88)などのB級ホラー映画でカルト的な人気を得ることになる。 劇場公開時は各メディアでケチョンケチョンに酷評され、興行的にも決して大成功とは言えなかったという本作。しかし『ロッキー・ホラー・ショー』(’75)との二本立て上映が全米各地で好評を博すなど、いつしか口コミで評判が広まっていき、やがてカルト映画として熱狂的なファンを獲得することになった。デ・ベロ監督らフォー・スクエア・プロダクションズの面々は、これを足掛かりとしてハリウッド進出を図り、人気コメディアンを多数起用したコメディ映画『大爆笑!ビール戦争/ぷっつんU.S.A.』(’86)を発表するも残念ながら失敗。一方、『アタック・オブ・ザ・キラートマト』は’86年に初めてビデオゲーム化され、さらにはジム・ヘンソン製作の人気テレビ・アニメ『Muppet Babies』(‘84~’91・日本未放送)にキラートマトが登場するなど、カルト映画としての評価と知名度はどんどん高まっていく。そこへ転がり込んだのが、ニューワールド・ピクチャーズによる続編映画のオファーだった。 当初からシリーズ化するつもりなど全くなかったというデ・ベロ監督たち。しかし、当時のハリウッドではB級ホラー映画のフランチャイズ化がブームで、ニューワールド・ピクチャーズも『クリープショー2/怨霊』(’87)や『ガバリン2 タイムトラぶラー』(’87)に続く続編物の企画を探しており、『アタック・オブ・ザ・キラートマト』に白羽の矢が立てられたのだ。提示された条件が良かったため引き受けたというデ・ベロ監督曰く、「なるべく出来の悪い映画を作ってくれと映画会社から指示されたのは、恐らくハリウッド映画の歴史上で僕らが初めてだろう」とのこと(笑)。かくして完成したジョージ・クルーニー主演(!)の第2弾『リターン・オブ・ザ・キラートマト』(’88)はスマッシュヒットを記録し、さらなる続編『キラートマト/決戦は金曜日』(’90)と『キラートマト 赤いトマトソースの伝説』(’91)も矢継ぎ早に登場。さらに、フィンレターの甥っ子チャドを主人公にしたテレビ・アニメ『Attack of the Killer Tomatoes』(‘90~’91・日本未放送)やコミック版(’08年出版)、ノベライズ版(’23年出版)も作られるなど、今なお根強い人気を誇っている。■ 『アタック・オブ・ザ・キラートマト』© 1978 KILLER TOMATO ENTERTAINMENT
-
COLUMN/コラム2024.09.02
‘70年代アメリカ西海岸の甘酸っぱい青春を描いた珠玉の名作『リコリス・ピザ』の見どころを深掘り解説!
『ブギーナイツ』(’97)や『マグノリア』(’99)、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(’05)などで世界中の映画賞を席巻してきた鬼才ポール・トーマス・アンダーソンが、’70年代前半のロサンゼルスを舞台に、世渡り上手な男子高校生と10歳年上の不器用な女性のロマンスを瑞々しいタッチで描いた珠玉の青春映画である。 基本はいたって単純かつ古典的なボーイ・ミーツ・ガールのラブストーリー。とりとめのない日常的なエピソードを繋ぎ合わせつつ、そこかしこに実在の人物および実在の人物をモデルにした人物、実在したレストランやショップなどが次々と登場し、’70年代当時のトレンドやカルチャー、社会情勢が全編に渡って散りばめられている。いわば、虚実入り交じった古き良きロサンゼルスへの甘酸っぱいラブレター。さながらポール・トーマス・アンダーソン版『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』である。もちろん詳しい知識がなくとも十分に楽しめるとは思うが、しかし背景事情を知っていればより一層のこと興味深く鑑賞することが出来るはず。そこで今回は、全体のストーリーの流れに沿いながら、本作を楽しむうえで注目すべきトリビアについて解説していきたい。 主人公ゲイリーとアラナの実在モデルとは? 主な舞台となるのはロサンゼルスのサンフェルナンド・バレー。ハリウッドの北北西に位置するこの地域にはワーナーやユニバーサル、ディズニー、CBSにNBCなど映画&テレビの撮影スタジオが林立し、古くから映画スターやハリウッド関係者が大勢住んでいる。本作のポール・トーマス・アンダーソン監督もそのひとり。しかも、父親が有名なテレビ司会者だった彼にとって、サンフェルナンド・バレーは自身が生まれ育った故郷でもある。代表作の『ブギーナイツ』も『マグノリア』も『パンチドランク・ラブ』(’02)も舞台はサンフェルナンド・バレーだった。それくらい特別な思い入れのある土地の、自身が実際に少年時代を過ごした’70年代の景色を鮮やかに再現したのが本作。まるで、『がんばれベアーズ』(’76)や『ボーイズ・ボーイズ/ケニーと仲間たち』(’76)など’70年代のキッズ・ムービーを見ているような、あの時代の西海岸へタイムスリップして撮って来たような再現度の高さに思わず舌を巻く。 主人公である15歳の高校生ゲイリー・ヴァレンタイン(クーパー・ホフマン)のモデルとなったのは、アンダーソン監督の友人でもある映画プロデューサーのゲイリー・ゴーツマン。トム・ハンクスと共同で製作会社プレイトーンを経営し、『マイ・ビッグ・ファット・ウェディング』(’02)シリーズや『マンマ・ミーア!』(’08)シリーズなどのプロデューサーとして知られるゴーツマンは、劇中のゲイリーと同じくもともとハリウッドの子役スター出身。芸能界で行き詰ったゲイリーがウォーターベッドの販売を始めたり、後の大物映画製作者ジョン・ピーターズの自宅にウォーターベッドを設置したり、ピンボールの解禁に合わせてピンボール店を経営したりといった劇中のエピソードも、全てアンダーソン監督がゴーツマンから聞いた経験談を基にしている実話だ。 劇中でゲイリーが出演した映画『屋根の下』の元ネタは、ゴーツマンが子役時代に出演した映画『合併結婚』(’68)。8人の子供を持つ未亡人と10人の子供を持つ男やもめが再婚したことから巻き起こるドタバタ騒動を描いたコメディだ。主演女優のルーシー・ドゥーリトル(クリスティン・エバーソール)は、同作に主演したルシール・ボールがモデルとなっている。そう、今なお全米で愛される大人気シットコム『アイ・ラブ・ルーシー』(‘51~’57)や『ルーシー・ショー』(‘62~’68)などで、テレビ界の女王として君臨したアメリカの国民的大女優だ。『屋根の下』の子役たちが総出演するニューヨークのテレビ番組は、ビートルズが出演したことでも有名な伝説のバラエティ番組『エド・サリヴァン・ショー』が元ネタ。実際にゴーツマンも『合併結婚』のプロモーションで『エド・サリヴァン・ショー』に出演したことがある。ただし、劇中ではヒロインのアラナがゲイリーの母親に代わって保護者として付き添うが、実際はゴーツマン宅の近所に住んでいたバーレスク・ダンサーが保護者代わりを務めたのだそうだ。 そのアラナ・ケイン(アラナ・ハイム)のモデルとなったのは、高校時代のゴーツマンの彼女で、彼が経営するウォーターベッド販売店の店員でもあったハリウッド女優ケイ・レンツ。アンダーソン監督が本作を撮る際にお手本とした『アメリカン・グラフィティ』(’73)で映画デビューし、クリント・イーストウッドが監督を務めた『愛のそよ風』(’73)のヒッピー娘役で有名になった人だ。ただし、劇中のゲイリーやアラナと違って、レンツはゴーツマンのひとつ年下である。そもそも、本作の舞台は1973年だが、しかしゴーツマンやレンツの高校時代は’60年代末。ほかにも時代設定や時系列の改変が随所で見受けられるが、恐らく’70年代のサンフェルナンド・バレーを描くことが大前提だったためなのだろう。 ではなぜアラナがゲイリーの10歳年上という設定になったのかというと、実は本作の原点となった実際の出来事に由来する。それは2001年のこと。とある中学校を通りがかったアンダーソン監督は、写真撮影のために列をなしていた男子生徒のひとりが、撮影スタッフの女性に声をかけて電話番号を聞き出そうとする様子をたまたま目撃したという。あの2人がもし本当に付き合ったとしたら…?と考えたのが、本作の企画のそもそもの始まりだったらしい。それがオープニングで描かれるゲイリーとアラナの出会いシーン。ロケ地となったポートラ中学校は、アンダーソン監督が実際に中学生男子のナンパ現場を目撃した学校だ。ちなみにゲイリーが写真撮影の列に並んだ理由は、アメリカの学校生活の定番であるイヤーブックのため。日本では「卒業アルバム」と訳されることもあるイヤーブックだが、実際は卒業生だけでなく全校生徒のために毎年作られており、イヤーブックに載せる写真の撮影は毎年の恒例行事となっている。 「アジア人蔑視では?」と物議を醸したシーンも なお、ここでキャスティングについても言及しておきたい。ゲイリー役を演じるクーパー・ホフマンは、アンダーソン監督作品の常連でもあった亡き名優フィリップ・シーモア・ホフマンの息子。撮影当時17歳だった彼は本作が映画デビューだ。対するアラナ役のアラナ・ハイムは、実姉エスティとダニエルと共に結成した人気ポップ・バンド、ハイムのメンバーとして知られている。ハイム家はサンフェルナンド・バレー在住で、姉妹の母親はアンダーソン監督の少年時代の美術の先生。それゆえ長年に渡って家族ぐるみの付き合いがあり、バンドのミュージックビデオもアンダーソン監督が手掛けている。そのアラナの姉2人も、劇中のアラナの姉エスティ&ダニエルとして登場。両親役も姉妹の本当の両親だ。さらに、クーパーの姉妹タルラとウィラも生徒役で顔を出している。 こうしたアンダーソン監督の「身内」の出演も本作の見どころのひとつであろう。ゲイリーがオーディションを受けるキャスティング・ディレクター、ヴィックの助手ゲイルを演じるのは、アンダーソン監督のパートナーであるマヤ・ルドルフ。そのルドルフの継母であり、’70~’80年代にかけて活躍した日本人のジャズ歌手・笠井紀美子が、ゲイリーの行きつけのレストラン「テイル・オコック」の客として顔を出している。また、最近ではクラシック映画専門チャンネルTCMの経営再建のため一致協力するなど、大先輩スティーブン・スピルバーグと親しいアンダーソン監督だが、そのスピルバーグの長女サーシャが冒頭に出てくる写真撮影スタッフのシンディ、次女デストリーが日本料理店ミカドの従業員フリスビーを演じている。 さて、本作の劇場公開時に物議を醸したのが、その日本料理店ミカドにまつわる描写だ。現在もサンフェルナンド・バレーで営業する日本風ホテル・ミカドに、かつて併設されていた実在の日本料理店ミカド。本作に出てくる米国人オーナーのジェローム・フリック(ジョン・マイケル・ヒギンズ)も実在の人物である。問題となったのは、そのフリックが日本人妻に話しかける際、なぜかアジア風アクセントで喋るという描写。で、日本人妻は日本語で返答するのだが、一見したところ2人の会話は成立しているように見えて、実はフリックは妻の話す日本語がまるっきり分かっていなかったというオチが付く。どちらも純然たるギャグとして描かれているのだが、しかしこれが「アジア人蔑視ではないか?」と問題視されたのだ。 そもそも、本作には21世紀現在のアメリカでは決して許されないであろうセクハラ、パワハラ、シモネタが少なからず盛り込まれている。出張写真撮影スタジオのカメラマンはスタッフであるアラナのお尻をドサクサ紛れに触るし、ゲイリーは高校の同級生女子に「手コキ」当番をさせているし、最初に考え付いたウォーターベッドの商品名は「ソギー・ボトム(ぐっしょり下半身)」だし(笑)。もちろん、アンダーソン監督としては’70年代当時の価値観や世相を投影しただけであり、決してそれらの行為や発言を肯定しているわけではないのだが、折しも本作が封切られたコロナ禍のアメリカでは、よりによって合衆国大統領のドナルド・トランプが新型コロナを軽率にも「中国ウィルス」などと呼んだことが原因で、深刻なアジア人差別が蔓延してしまった。そのため、上記の日本語ジョークに関して、良識ある観客の間から疑問の声が沸きあがったのである。 実在したレストランといえば、ゲイリーの行きつけであるテイル・オコック(Tail o’ the Cock)もロサンゼルスの伝説的な名店だ。かつてウェスト・ハリウッドとシャーマン・オークスの2カ所で営業していたが、本作に登場するのはシャーマン・オークス店。すぐ近くにワーナー・スタジオやCBSスタジオ・センターがあったことから、劇中のように映画人のたまり場的な店になっていたという。残念ながら’87年に閉店してしまった。 ‘70年代前半はトレンドや価値観の転換期でもあった 劇中では10代半ばに差し掛かって、徐々に役者としての仕事がなくなってしまうゲイリー。そこで彼は、たまたま街中で見かけたウォーターベッドに商機を見出し、愛するアラナや弟グレッグ、さらには近所のティーンたちを誘ってウォーターベッドの販売代理店を立ち上げるのだが、彼らが最初にウォーターベッドを持ち込んだイベント「ティーンエイジ・フェア」は、かつて実際にハリウッド・パラディアムで毎年行われていたティーン向けコンベンション。テレビ・プロデューサーのアル・バートンが’62年に立ち上げ、10代の青少年をターゲットにしたファッションやトレンド・グッズの展示販売、さらには人気ロックバンドのライブイベントなどが行われていた。会場にはテレビの人気シットコム『マンスターズ』(‘64~’66)のブースが出展されており、主人公ハーマン・マンスターに扮した俳優フレッド・グウィンも登場するが、これを演じているのはアンダーソン監督作品の常連ジョン・C・ライリーである。 ちなみに、ウォーターベッドの宣伝モデルを務める女の子キキから「何しに来たの?」と訊かれたアラナが、とっさに「デヴィッド・キャシディに会いに来た」と返答する場面にも要注目。デヴィッド・キャシディといえば、’70年代のアメリカで空前絶後の人気を誇ったイケメンのティーン・アイドルで、当時は日本でも大人気だった。そのキャシディと電撃結婚を果たし、全米のティーン女子を敵に回したのが、アラナのモデルとなった女優ケイ・レンツ。これは、いわば内輪ネタのジョークである。また、ゲイリーがウォーターベッドを初めて見かけるウィッグ店の店長ミスター・ジャックとして、あのレオナルド・ディカプリオの実父ジョージ・ディカプリオが映画初出演を果たしているのも見逃せない。 さらに、ゲイリーはウォーターベッド販売店「ファット・バーニーズ」(モデルとなったゴーツマンが実際に経営していたウォーターベッド販売店と同名)のラジオCMを放送するのだが、そのFMラジオ局KCCPパサデナのDJとして登場するB・ミッチェル・リード(演じるは声優として有名なレイ・チェイス)も実在の人物だ。’73年当時の西海岸の音楽シーンでは’60年代の反体制的な空気が薄れ、今で言うところのAOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)的なソフトで洗練された大人のロックが主流となりつつあった。本作でも当時のウェスト・コースト・サウンドがふんだんに使用されているが、その普及に多大な貢献を果たした名物ラジオDJのひとりがリードだったと言われている。 また、女優活動を始めることになったアラナは、ゲイリーの紹介でタレント・エージェントのメアリー・グレイディ(ハリエット・サンソム・ハリス)と面接するのだが、このグレイディも『大草原の小さな家』のメリッサ・スー・アンダーソンや『フルハウス』のオルセン姉妹を発掘した実在の伝説的な子役エージェントである。このシーンでアラナはグレイディから「ユダヤ人らしい鼻」を褒められるのだが、実はかつてユダヤ人独特の大きな鼻は重大なハンデとなるため、ユダヤ系の女優は売れるために鼻を整形で小さくすることが多かった。この常識を覆したのがミュージカルの女王バーブラ・ストライサンド。むしろその大きな鼻がトレードマークとなったバーブラの大成功によって、「ユダヤ人らしい鼻」がハンデとなる時代は終焉を迎えたのだ。 こうして女優となったアラナがオーディションで知り合うハリウッドのベテラン大物スター、ジャック・ホールデン(ショーン・ペン)は、言わずと知れたオスカー俳優ウィリアム・ホールデンが元ネタ。なぜウィリアム・ホールデンなのかというと、アラナのモデルとなった女優ケイ・レンツが、出世作『愛のそよ風』でホールデンと共演していることもあるが、それ以前にもともとアンダーソン監督自身がホールデンの大ファンなのだという。劇中で言及されるジャックの出演作『トコサンの橋』は、ウィリアム・ホールデンとグレース・ケリーが共演した戦争映画の名作『トコリの橋』(’54)をもじったもの。その監督であるマーク・ロブソンが、ジャックとテイル・オコックで再会する映画監督レックス・ブラウ(トム・ウェイツ)のモデルとなっている。 ハリウッド映画界の悪名高き名物男も登場! やがて、1973年の10月に起きた第四次中東戦争によって第一次オイルショックが発生。OPEC加盟国による石油禁輸措置を伝えるテレビのニュース映像が、本作の時代設定が1973年であることを明確に物語る。ウォーターベッドの素材であるビニールは石油製品。店じまいをせねばならなくなったゲイリーたちが、最後にウォーターベッドを売った相手として登場するのが実在の映画製作者ジョン・ピーターズ(ブラッドリー・クーパー)だ。ピーター・グーバーとのコンビで『フラッシュダンス』(’84)や『レインマン』(’88)、『バットマン』(’89)などを大ヒットさせる一方、業界内では露骨なセクハラやパワハラで悪名を轟かせたピーターズだが、本作の舞台となる’73年当時はまだセレブ御用達の美容師で、なおかつエンタメ界の女王バーブラ・ストライサンドのボーイフレンドとして名を馳せていた。そのバーブラが主演した映画『スター誕生』(’76)でプロデューサーへと転身したのである。昔からハリウッドの美容師にはゲイが多かったのだが、ピーターズは珍しく(?)バリバリにストレートのマッチョ男で、なおかつ顧客を喰いまくることで有名な絶倫プレイボーイ。映画『シャンプー』(’76)でウォーレン・ベイティの演じたヤリ〇ン美容師は彼がモデルと言われている。 先述したように、これはゲイリー・ゴーツマンがピーターズにウォーターベッドを売ったという実話がベースのエピソード。ただし、劇中のピーターズが「もし俺の家を汚したら、お前の弟を目の前で殺してやる」とゲイリーを脅迫したり、車がガス欠になったことに腹を立てたピーターズが暴走したりするシーンは、本人の悪しきイメージをカリカチュアしたアンダーソン監督の脚色である。リメイク版の『アリー/スター誕生』(’18)でピーターズと仕事をしたブラッドリー・クーパーの紹介で、直接本人から実名でのキャラ使用の了承を得たそうだが、よくまあオッケーを貰えたもんだとは思う。なお、その際にピーターズが提示した交換条件は、本人がお気に入りだという「ピーナッツバターサンドは好き?」という女性の口説き文句を劇中で使用することだったらしい(笑)。 やがて、10代の悪ガキたちとつるむことに疑問を抱くようになったアラナは、ロサンゼルス市長選に出馬するリベラルな若手政治家ジョエル・ワックス(ベニー・サフディ)の選挙事務所で、ボランティア・スタッフとして働くようになる。このワックスも実在の人物で、彼がクローゼット・ゲイだったことも事実(後にカミングアウトしている)。’73年と’93年と’01年の3度に渡ってロサンゼルス市長選へ出馬しているが、いずれも残念ながら落選している。 その選挙事務所でアラナの手伝いをしたゲイリーは、それまでロサンゼルスで禁止されていたピンボールが解禁されることをいち早く知り、ピンボールマシンを買い集めてピンボール店を開業するわけだが、これもまた事実に基づいている。かつて、ピンボールマシンはギャンブル性が高いとして、全米各地の大都市で禁止されていた時代があった。ロサンゼルスでも’39年から禁止されていたのだが、しかしマシンの改良によってスキルを磨けば勝てるゲームとなったため、’74年6月にカリフォルニア州の最高裁で禁止が覆されたのである。 さて、『リコリス・ピザ』のトリビア解説もそろそろオシマイなのだが、最後にタイトルについても触れておきたい。これはリコリス(甘草)をトッピングに使ったピザが当時流行っていたから…というわけではなく、’70年代に南カリフォルニアでチェーン展開していたレコード店の名前から取られているという。加えて、アンダーソン監督にとって「リコリス」と「ピザ」は、少年時代の甘酸っぱい思い出と直結するキーワードなのだとか。なるほど、確かにリコリスを使ったキャンディやグミは、昔からアメリカやヨーロッパでは子供たちに人気の高い定番菓子(薬みたいな味が日本人には嫌われるけど)である。なおかつ、ピザはもはやアメリカの国民食みたいなもので、特に子供たちはみんなピザが大好きだ。この2つの言葉には、即座に「あの頃」へと連れ戻してくれる力があるというアンダーソン監督。もはや2度と戻ることのない、古き良きロサンゼルスへの郷愁がたっぷりと込められたタイトルなのだ。■ 『リコリス・ピザ』© 2021 Metro-Goldwyn-Mayer Pictures Inc. All rights reserved.
-
COLUMN/コラム2024.08.12
誰が『ポルターガイスト』を監督したのか?
「トビー・フーパーは撮影現場にはいたが、演出の実権を握っていたのはスピルバーグだ。(中略)映画には多くの人の協力が必要だが、彼は人の仕事にも手を出したがるんだよ」 クレイグ・リアドン ー『ポルターガイスト』スペシャル・メイクアップ担当(米「Cinefantastique」誌より) ◆『E.T.』と血を分けたサバービア怨霊ホラー ゴーストホラーの偉大なクラシックとして『ポルターガイスト』(1982)は映画史にその名を刻みつけた。郊外のサバービア(新興住宅地)に引っ越してきた、幸福なフリーリング一家に降りかかる心霊現象の数々。やがてそれは猛威を増し、彼らを窮地へと引きずり込んでいく。 映画はそんな一家の恐るべき体験と、怨霊とゴーストハンターたちとの壮絶な戦いを描き、作品は全米興行収入約7000万ドルのヒットを記録した。そして同作はシリーズ化されて2本の続編を生み、2015年にはリメイク版も製作されている。『アクアマン』(2018〜)や『死霊館』(2013〜)シリーズでその名をとどろかす映画監督ジェームズ・ワンも「心霊スリラーの偉大なる傑作」と同作を称え、その影響のもとに彼の数あるホラーフランチャイズは存在する。 だがワンが『ポルターガイスト』に心酔する背景には、自身の敬愛するスティーブン・スピルバーグの作品であるという意識がはたらいているともいえる。もちろん、その考え方に間違いはない。本作を製作したのはスピルバーグであり、氏はこの映画で脚本も兼任している。しかし『ポルターガイスト』には、トビー・フーパというれっきとした監督が存在する。アメリカンホラーの歴史に燦然と輝く『悪魔のいけにえ』(1974)の生みの親であり、フィアメーカー(恐怖の創造者)としてジャンルのトップに立つ偉大なマエストロだ。そんな人物を差し置いて『ポルターガイスト』を、スピルバーグの作品として認識している人は少なくない。 まずは本作が生まれるに至った経緯を記しておきたい。『ポルターガイスト』の創造は、知的生命体とのコンタクトを描いた『未知との遭遇』(1977)の続編として、スピルバーグがコロンビア・ピクチャーズに監督を約束していた企画『ナイト・スカイズ』を起点とする。この企画を実現させるために、スピルバーグはまず脚本家と監督の選出をした。前者は『セコーカス・セブン』(1980)の監督や『ピラニア』(1978)『ハウリング』(1981)の脚本家として知られるジョン・セイルズ、そして後者がトビー・フーパーである。だが平和的ではない、異星人との侵略的な遭遇を描いたはずの『ナイト・スカイズ』の草稿は『E.T.』(1982)へと枝分かれし、こちらはユニバーサルで映画化が決まったのだ。そしてもう片方の枝をMGMに持っていき、こちらが『ポルターガイスト』として映画化が決定したのである。『E.T.』とのバッティングを懸念したスピルバーグは、異星人を悪霊に変えることでどちらも企画を通したのだ。この流れから、両作がサバービアを舞台とする共通の設定に合点がいくだろう。 ただ『E.T.』を監督する関係上、スピルバーグは『ポルターガイスト』では製作に専念し、同作はフーパーの監督作品としてプロジェクトが進行する。しかしユニバーサルで『ファンハウス/惨劇の館』(1981)を監督中だったフーパーと往復書簡で固めたストーリーをもとに、マイケル・グレースとマイク・ピーターが執筆した脚本をスピルバーグは気に入らず、製作のフランク・マーシャルやキャスリーン・ケネディの尽力を経て大幅に改変。ここから彼の作品に対する支配欲が萌芽する。 さらに『E.T.』との差異を強化するため、自身の監督作の座組とは異なるキャストやスタッフを『ポルターガイスト』に配した。だがそれもスピルバーグの意思が細かく絡んだことで、より企画へののめり込みに拍車がかかったのだ。加えて自分が初めてホラージャンルに関わることに対する高揚感が、演出への介入を強く後押ししたともされている。 そして事態をややこしくしたのは、撮影現場における両者の立ち回りだ。スピルバーグは毎日セット入りし、ストーリーボードもほとんどを自身で手がけ、フーパーの指揮権をときに無自覚に、そして無意識のもとに剥奪している。それは特殊効果においても同様で、スピルバーグは多くのアイディアを自分で提案し、そして改善を求め、ただでさえ困難を極めたリチャード・エドランド(視覚効果スーパーバイザー)のVFX/SpFX作業をより煩雑にしたのである。 ◆近年において混沌と化すスピルバーグ説 こうした越権行為はやがて表面化し、スピルバーグとフーパーは互いの領分に関してマスコミを通じて正当性を主張。演出家組合はフーパーの権利を重んじ、スピルバーグに罰金の支払いと、自身が演出しているかのように思わせるプロモーション映像を取り下げるよう指示した。さらに和解策の一つとしてスピルバーグは米「バラエティ」誌の全一面に詫び状を掲載。『ポルターガイスト』の監督はフーパーであることを、よそよそしく触れ回ったのである。 しかし結果として、完成した『ポルターガイスト』は演出やレイアウトや構図の特徴、ならびにキャメラムーブの規則性などが完全にスピルバーグのそれと各シーンで一致したものとなっていた。エディターにマイケル・カーンを起用したことによって、編集の呼吸とタイミングもスピルバーグのメソッドを踏襲しており、『ポルターガイスト』は完全に彼の他の監督作と同期していたのだ。また公開時、顔を掻きむしって皮膚がボロボロと欠落していくグロテスクな描写などをフーパー由来とする指摘もあったが、2024年現在までのフィルモグラフィを俯瞰した場合、その残酷性もスピルバーグに依拠するものと認識されている。 しかし、ここまで大胆に介入していながら、なぜスピルバーグは自身を監督としてクレジットしなかったのか? それは同時に2本以上の監督作を公開することを禁じる全米映画監督協会の取り決めや、ストライキを懸念した急務対応で監督変更の手続きを踏めなかったことなどが起因としてある。 『ポルターガイスト』の公開から42年を経た現在、こうした「監督=スピルバーグ」は、新たな証言によってより混沌としたものとなっているようだ。2017年、『アナベル 死霊館の人形』(2014)の監督として知られるジョン・R・レオネッティは、ブラムハウスのポッドキャスト「Shockwave」に出演したさい、「撮影現場を指揮していたのはスピルバーグ」だと証言(※1)。彼は当時、アシスタントカメラマンとして同作に参加し、撮影監督の兄マシュー・レオネッティを現場でサポートしており、発言にはそれなりの信憑性がある。 だがレオネッティは言葉を付け加え、「それでもトビー・フーパーが偉大な存在であることは疑いようがない」と強調している。 また2022年、米「Vanity Fair」に主演のグレイグ・T・ネルソンとジョベス・ウィリアムズへの最新インタビューがアップされ(※2)、それによると『ポルターガイスト』はスピルバーグの現場介入はあったとしながら、あくまで同作は「フーパーとのコラボレーションの産物」なのだという見解を示している。 ◆それでもトビー・フーパーの名声は揺るぎない こうしたフーパー擁護の動きは世界的に波及し、後年『ポルターガイスト』をフーパーの監督作としてみなす主張も散見されている。たとえば我が国においては『CURE』(1997)『スパイの妻〈劇場版〉』(2020)の名匠・黒沢清が、同作からフーパーの演出の形跡を見い出して検証し、『悪魔のいけにえ』の偉大な監督の名誉回復に努めている。黒沢自身もキャリア初期の自作ホラー『スウィートホーム』(1989)をめぐり、プロデューサーだった伊丹十三と揉めた経緯があり、フーパーの受難をとても他人事とは思えないのだろう。 トビー・フーパーは後年、『ポルターガイスト』における悶着に関して積極的な主張や抗弁を避け、そして2017年8月26日、惜しまれつつこの世を去っている。言明はしていないものの、劇中のゴーストさながらに自らを責め苛んだスピルバーグの存在を、苦衷に感じていたことは想像に難くない。 そもそも、フーパーが『ナイト・スカイズ』から継続して『ポルターガイスト』の監督に起用されたのはなぜか? それはスピルバーグが『エイリアン』(1979)に心酔しており、同作に匹敵するようなホラー映画を撮りたがっていたこと。そして『エイリアン』の監督であるリドリー・スコットが、この映画のリファレンスとして『悪魔のいけにえ』を参考にしたことが、フーパー起用の流れやベースとして指摘できる。 スピルバーグも彼なりにフーパーの存在と、彼が手がけた『悪魔のいけにえ』の重要性を認識していたのだ。■ 『ポルターガイスト』© Turner Entertainment Co. (※1)https://www.independent.co.uk/arts-entertainment/films/news/poltergeist-steven-spielberg-director-conspiracy-theory-confirmed-tobe-hooper-a7846651.html (※2)https://www.vanityfair.com/hollywood/2022/09/poltergeist-at-40?utm_source=nl&utm_brand=vf&utm_mailing=VF_HWD_092222&utm_medium=email&bxid=5bd66dcf2ddf9c61943828dc&cndid=16589592&hasha=3ca14bfe2471e504eb115db7a2ff9a91&hashb=96d9312f53605901937a354eea3b47c76deaeeab&hashc=0abd56a6ab006be60ae79d00fb9e9dfb304b62a672a172fab699c03633832c4d&esrc=manage-page&mbid=mbid%3DCRMVYF012019&source=EDT_VYF_NEWSLETTER_0_HWD_ZZ&utm_campaign=VF_HWD_092222&utm_term=VYF_HWD
-
COLUMN/コラム2024.08.08
『スピード』が、キアヌ・リーヴス“アクションスター”への道を切り開いた!
1964年生まれ。今年還暦を迎えたキアヌ・リーヴスの、俳優としてのイメージを問われれば、代表作に『マトリックス』シリーズ(1999~2021)や『ジョン・ウィック』シリーズ(2014~23)等がある、“アクションスター”というのが、大勢だろう。 母はイギリス人、父は中国人とハワイアンのハーフ。東洋系を感じさせる風貌もあって、映画俳優として台頭し始めた20代中盤から、日本ではいち早く人気者となった。しかしその頃のキアヌには、“アクション”のイメージは、ほとんどない。 フィルモグラフィーを覗けば、ロックスターを夢見るおバカ高校生役の『ビルとテッドの大冒険』(89)、親友のリヴァー・フェニックスと共演し、男娼を演じた『マイ・プライベート・アイダホ』(91)、フランシス・フォード・コッポラ監督が手掛けたクラシックホラー『ドラキュラ』(92)、ベルナルド・ベルトルッチ監督の演出の下、仏教の開祖役にチャレンジした『リトル・ブッダ』(94)等々。彼がその頃に出演した中で、“アクション映画”と言えるのは、FBIの潜入捜査官を演じた、『ハートブルー』(91)ぐらいだ。 若き日のキアヌは、エッジが利いた、個性的な役どころを好んで演じていたのである。 そんなキアヌとアクションのイメージを強く結び付け、本人にとっても、恐らく開眼するきっかけになったと思われるのが、本作『スピード』(94)である。 ***** ロサンゼルス。オフィスビルのエレベーターに爆弾が仕掛けられ、乗客達が閉じ込められた。ロス市警SWAT隊員のジャック(演:キアヌ・リーヴス)は、相棒ハリーと、危機一髪で爆弾を除去。乗客達を救出した。 ジャックらは更に、犯人の爆弾魔(演:デニス・ホッパー)を追い詰める。ところが爆弾魔は、強烈な爆発と共に、姿を消す。 数日後、ジャックの眼の前で、知り合いが運転する路線バスが、大爆発。爆弾魔は生きていた。彼はジャックに直接電話を寄越し、別の路線バスにも爆弾を仕掛けた旨を伝え、370万㌦の身代金を要求する。 その爆弾は、バスが時速80㌔を超えると、起爆装置のスイッチが入り、その後は、時速80㌔を下回ると、大爆発を起こす…。 該当するバスに追いつき、ジャックが乗り移ると、すでに起爆装置のスイッチはオンに。更に予想外のアクシデントから、ドライバーが負傷。スピード違反で免停中のため、バス通勤していたアニー(演:サンドラ・ブロック)に、ハンドルを託すことになる。 次から次へとあわや爆発のピンチが訪れる。ジャックは、乗客たちの助けを借りて、危機を何とか乗り越えていく。 爆弾魔の正体が、警察に恨みを抱く元警官で爆発物処理班員だったハワード・ペインと判明。ハリーが逮捕に向かうが、ペインの罠に嵌って命を落とす。 危機を共に乗り越えていく中、ジャックとアニーは、お互いに好感を抱くようになる。 アニーがジャックに言う。「極限状況で始まった恋は長続きしない」 果して、止まれないバスの運命は!? ***** 速度を落とすと、乗り物に仕掛けた爆弾が爆発するという設定。『スピード』の日本公開時、海外公開もされた日本映画『新幹線大爆破』(75)に酷似していることが、大きな話題になった。 しかし脚本を書いたグレアム・ヨストによると、元ネタは別。「世界のクロサワ」こと黒澤明監督が、ハリウッド進出作として1960年代後半に準備していた、「暴走機関車」だという。「暴走機関車」は、ブレーキ系統のトラブルによって止める術がなくなり、猛スピードで突っ走り続ける機関車を主軸にした物語。ヘンリー・フォンダが主演する予定だったが、諸事情から頓挫した。 この「暴走機関車」に、ヨストの父が関わっていた。そこで彼はアウトラインを知り、後にシナリオを目にしたのだという。 因みにこのシナリオを原案にして、1985年にアンドレイ・コンチャロフスキー監督、ジョン・ボイド主演の『暴走機関車』が製作されている。オリジナルに様々な改変を加えたこちらの作品については、ヨストは特に参考にすることはなかったという。 それまでTVシリーズの製作や百科事典の執筆などを手掛けていたヨストにとって、『スピード』は、初めて書いた映画の脚本。まずパラマウントに持ち込むものの、ペンディングとなって、最終的に20世紀フォックスに拾われた。 いざ映画化となって、監督候補が何人かいた内から決まったのが、オランダ出身のヤン・デ・ポン。それまでには、『ダイ・ハード』(88)『ブラック・レイン』(89)『氷の微笑』(92) 『リーサル・ウェポン3』(92)等々、多くのアクション映画で撮影を務めてきた。 とはいえ、監督するのは初めてであるヤン・デ・ポンに依頼したことからもわかる通り、本作『スピード』に関してフォックスは、他の映画の穴埋めをするような、小さなB級作品として扱う心積もりだった。当初組まれた予算は、2,600万㌦。最終的には3,000万㌦程度になったが、当時の大作の製作費は、6,000万から6,500万㌦ほど。 更に言えばフォックスは、本作と同じ年に、ジェームズ・キャメロン監督、アーノルド・シュワルツェネッガ―主演の『トゥルーライズ』に、1億2,000万㌦もの製作費を投じていた。それと比べれば、僅か4分の1である。 本作『スピード』主役のジャック役の有力候補だったのは、ジョニー・デップ。しかしデップは、脚本に魅力を感じないという理由で、オファーを蹴る。 その他にも何人かの若手スターが候補になる中で浮上したのが、キアヌ・リーヴス。キアヌは、ストーリーには凄く惹かれながらも、「筋肉ひとつない自分には、到底この役は務まらない」と思ったという。ちょうど前の主演作『リトル・ブッダ』で、ガウタマ・シッダールタ=若き日のお釈迦様を演じた際に、断食をして体力を落としていたタイミングでもあった。 ヤン・デ・ポンは、キアヌの運動能力に不安を感じていた。そこで、それまでのキアヌの出演作で、ほぼ唯一のアクション作品『ハートブルー』(91)での演技をチェック。サーフィンにガンアクション、アメフトにスカイダイビング等々、ほとんどノースタントでこなしたキアヌの姿を見て、「イケる」と判断を下した。 正式にジャック役に決まると、まずは2か月間ジムに通って、ウェイト・トレーニング。と言ってもヤン・デ・ポンは、当時の流行りだった、スタローンやシュワルツェネッガーのような、巨大な筋肉をつけたアクション俳優になって欲しかったわけではない。身体の均整と運動能力を高めるためのトレーニングを課したのである。 キアヌはSWAT隊員を演じるに当たって、本物の警官に会ったり、ビデオを見たりしてその仕事ぶりを研究するのと同時に、ヘアスタイルは、頭皮が見えるくらいまで刈り上げて、監督の前に現れた。それは少々短すぎたが、その時点から撮影まで2週間あったので、ちょうど良い塩梅の、クルーカットになったという。 ヤン・デ・ポンが思い描いた主人公は、観客が感情移入できる、リアルで等身大のアクションヒーロー。鍛えた胸の筋肉を晒すこともなく、悪人をバタバタと殺していくわけでもない。イメージ的には、ヒッチコック作品に於けるケーリー・グラントや、ウィリアム・ホールデンだったという。 ヤン・デ・ポンは、ヨストの脚本にはあった、主人公の暗い過去などはすべてカットした。観客はそんなものを観たいと思ってないし、そもそもキャラクターについて知りたいことは、その行動を見ていれば、「すべてわかるはず」という考えだ。主人公だけでなく、犯人も含めて主要キャラすべての背景や心理状態など、敢えて描かなかったという。 アニー役のサンドラ・ブロックは、1967年生まれ。本作出演時は20代後半で、まだまだ売り出し中の頃。キアヌとのやり取りもフレッシュに映え、一躍ブレイクに至る。因みに彼女は、役のためにバス専用の運転免許を取得したという。 本作のヴィランは、デニス・ホッパー(1936~2010)。監督・主演したアメリカン・ニューシネマ『イージー・ライダー』(69)で天下を取りながら、その後ドラッグ漬けで低迷。『ブルー・ベルベッド』(86)で奇跡の復活を遂げて以来、改めて俳優・監督・写真家として活躍中だった。ホッパーの怪演は、キアヌとのコントラストも良く、インパクト大である。 本作は15週間の撮影スケジュールの内、7週間は大掛かりなバスの走行シーンに費やされた。ロスの空港近くから28㌔に渡って走る、開通前の新しいハイウェイでは、大規模なロケが行われた。 フリーウェイの朝の交通渋滞を再現するため、車に乗った400人のエキストラが集められた。まだ建設中だったため、作業員がコンクリートを流し込んだり、標識を立てている傍で、撮影スタッフが仕事をすることも多々あったという。 そんな中で、バスの走行シーンは通常4~6台のカメラを使用。特に複雑なスタントシーンには、カメラ、照明の他にも様々な機材を装備した、12台の車両を使って撮影が行われた。 メインの舞台はバスだが、この映画のアクションの舞台は3段構え。エレベーターの中で繰り広げられるオープニング・アクション用には、フォックスの敷地内に、地上5階の高さで、実際にエレベーターと、4本のエレベーターシャフトが入ったセットを組んだ。 バスが一段落した後は、爆弾魔が乗っ取った地下鉄で大アクションが繰り広げられる。こちらは、当時新しく完成したメトロレール・レッドラインでロケを行った。 15週に渡る撮影のまさに中盤、8週目に大きなアクシデントが襲った。本作と直接関係ないが、キアヌの親友であるリヴァー・フェニックスが、薬物の過剰摂取のため、23歳の若さで命を落としたのだ。 キアヌのショックを考えて、スケジュールの調整などが行われた。しかしヤン・デ・ポンは、キアヌのことを考えると、逆に忙しくしておくのが最良と考え、撮影を中断せずに、続行した。 ポスト・プロダクション。フォックスの重役たちは大した期待はせずに編集に立ち会って、本作の出来の良さに吃驚した。それまで出し渋っていた、SFXの仕上げに掛かる追加費用を、ポンと手渡すほどに。また公開日も、より良い日程にするため、早めることとなった。『スピード』は1994年6月、アメリカで公開されると、TOPを独走。シーズン最大のヒットとなり、国内で1億2,000万ドル、全世界で3億5,000万ドルの興行収入を上げた。その年の12月に正月映画として公開された日本でも、大ヒット。配給収入45億円は、現在で言えば100億円興行と言っても良いだろう。 フォックスの失態は、本作契約時、続編がある場合の継続契約に、キアヌにサインさせるのを怠っていたこと。そのため、ヤン・デ・ポン監督とサンドラ・ブロックは続投した『スピード2』(97)に、キアヌは出演することなく、同時期に製作された『ディアボロス/悪魔の扉』(97)で、アル・パチーノと共演することを選んでいる。 仕方なく『スピード2』では、本作のセリフ「極限状況で始まった恋は長続きしない」を伏線(?)として、アニーはジャックとすでに別れている設定に。アニーの新たな恋人として、ジェイソン・パトリックが演じる別のSWAT隊員が登場した。 キアヌはこうした経緯について、「サンドラには悪いことをした…」と述懐している。サンドラの方はというと、本作の撮影終盤、ハイな状態が続いてストレスをすごく感じていた時にキアヌだけが、「…黙って隣に座って、そっと背中をなでてくれた」ことなどもあって、根に持つようなことはなかった模様。後に韓国映画のラブストーリーをリメイクした『イルマーレ』(2006)で、2人は再共演を果している。 さて本作に関して当時、「アクション・ヒーローになるつもりはないよ。ジャックのキャラクターもアクション重視の性格ではないからね」などと言ってたキアヌ。『マトリックス』や『ジョン・ウィック』を経た、現在の彼の在り方を考えると、これは恐らく「若気の至り」が言わせたセリフだったのだろう。■ 『スピード』© 1994 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.
-
COLUMN/コラム2024.08.02
パレスチナ問題も見え隠れする’80年代の大型ミリタリー・アクション!『デルタ・フォース』
大作主義へ移行した’80年代半ばのキャノン・フィルムズ ‘80年代のハリウッドを席巻した独立系映画会社キャノン・フィルムズ。チャック・ノリスやチャールズ・ブロンソン主演のアクション映画を筆頭に、ホラーからミュージカル、コメディからエロスまで幅広いジャンルのB級娯楽映画を大量生産し、特に若年層の映画ファンから熱狂的に支持された会社だ。最盛期の製作本数はなんと年間30~40本にも上り、ハリウッドの各メジャー・スタジオを遥かに凌ぐほどの興行収入を記録。世界中の劇場チェーンやビデオメーカーも買収し、さながらハリウッド黄金期の如きスタジオ・システムを作り上げたのである。 その一方で、ジャン=リュック・ゴダールやフランコ・ゼフィレッリ、ロバート・アルトマンにジョン・カサヴェテスなど、国内外の巨匠・名匠たちのアート映画も積極的にプロデュースするなど、キャノンの作品ラインナップは極めてユニークかつバラエティ豊かだった。中でも、アメリカへ移住してから何年も仕事のなかったロシアの名匠アンドレイ・コンチャロフスキーに、ハリウッド・デビューのチャンスを与えた功績は高く評価されるべきだろう。もちろん、カサヴェテスの『ラブ・ストリームス』(’84)やバーベット・シュローダーの『バーフライ』(’87)など、大手スタジオであれば間違いなく却下されたであろう地味なアート映画に金を出したのも偉い。しかも、これらの作品をB級娯楽映画と抱き合わせで、つまりチャック・ノリスやチャールズ・ブロンソンの映画が欲しければ、カサヴェテスやアルトマンの映画も一緒に買わないと売りませんよ~という戦略で、一般受けしづらいアート映画を世界中に売り捌いたというのだから見上げたものである。 こうして力を付けて行ったキャノンは、’80年代半ばから徐々に大作主義へと移行。トビー・フーパー監督のSFホラー『スペース・バンパイア』(’85)にロマン・ポランスキー監督の海賊映画『ポランスキーのパイレーツ』(’86)、シルヴェスター・スタローン主演の刑事アクション『コブラ』(’86)などなど、予算に超シビアなキャノンらしからぬ潤沢な製作費を投じた大作映画を立て続けに製作していく。そんなキャノン・フィルムズ版ブロックバスター映画を象徴するヒット作のひとつが、オールスター・キャストの大型ミリタリー・アクション『デルタ・フォース』(’86)だ。 物語の始まりは1980年。中東イラクのテヘランへ派遣された米陸軍の対テロ特殊部隊デルタ・フォースは、真夜中の人質救出作戦に失敗して撤退することに。逃げ遅れた仲間を命がけで救ったスコット・マッコイ大尉(チャック・ノリス)は、明らかに無茶な作戦を強行させた軍上層部や政治家に嫌気がさし、上司のアレクサンダー大佐(リー・マーヴィン)に辞意を伝える。 それから5年後。アテネの空港を出発したニューヨーク行きの旅客機、アメリカン・トラベル・ウェイ(ATW)202便が2人組のアラブ人テロリストにハイジャックされる。イスラム過激派のリーダーである主犯格のアブドゥル(ロバート・フォースター)は、コクピットのキャンベル機長(ボー・スヴェンソン)にベイルートへ航路を変更するよう指示し、さらにフライト・パーサーのイングリッド(ハンナ・シグラ)に命じて乗客全員のパスポートを没収。その目的は乗客の中からユダヤ人を隔離してベイルートのアジトへ連行し、アメリカ政府を脅迫するための人質にすることだった。まるでナチスによるホロコーストの再現。ドイツ人であるイングリッドは猛反発するが、テロリストたちに従うしか選択肢はなかった。 一方、キャンベル機長がとっさの機転で発信したハイジャック信号をアテネの管制塔がキャッチし、アメリカ大使館を通じてホワイトハウスへ連絡が行く。報告を受けたペンタゴンのウェドブリッジ将軍(ロバート・ヴォーン)はデルタ・フォースを招集するようアレクサンダー大佐に指示。ニュースで事態を知ったマッコイも駆けつけ、少佐に昇進してデルタ・フォースへの復帰を果たす。ATW202便がベイルートを経由してアルジェリアへ向かったことから、デルタ・フォースもすぐさま現地へ急行。女性の乗員乗客全員が解放されたタイミングを見計らって、機内に残った2人のテロリストを急襲する手はずだったが、しかしイングリッドからユダヤ人男性たちがベイルートで降りたことを聞いて中止。作戦変更を迫られたマッコイらは、イスラエル軍の協力を得てテロ組織のアジトを突き止め、人質となったユダヤ人たちを救出せんとする…。 実在の事件を題材にして当時のアメリカ社会の世相を反映 監督はキャノン・フィルムズを含むグループ企業「キャノン・グループ」の総裁でもあったメナハム・ゴーラン。もともと母国イスラエルで’60年代から活躍していたゴーランは、地元の映画賞はもとより米国のアカデミー賞やゴールデン・グローブ賞の外国語映画賞も席巻して「イスラエルのクロサワ」と呼ばれた大物映画監督であり、日本でも大ヒットした性春コメディ『グローイング・アップ』(’78)シリーズなどを製作したイスラエル屈指の映画プロデューサーでもあった。そんな彼が従弟ヨーラム・グローバスと一緒にハリウッドでの成功を夢見て渡米し、倒産寸前の弱小映画会社キャノン・フィルムズを破格値で買収したのが’79年のこと。当初はなかなかヒットに恵まれなかったゴーラン&グローバスだが、しかしチャールズ・ブロンソンが主演した『狼よさらば』(’74)の続編『ロサンゼルス』(’82)が予算800万ドルに対して世界興収4000万ドルを記録。その後も、たったの3週間で撮りあげた『ブレイクダンス』(’84)が予算120万ドルで興行収入3800万ドル、チャック・ノリス主演の『地獄のヒーロー』(’84)が予算150万ドルで興行収入2600万ドルと大成功を収める。ブロンソンとノリスはキャノンの看板スターとなったわけだが、実はもともと本作はこの2人の夢の初共演として用意された企画だったという。 企画の発案者は当時キャノンの専属脚本家だったジェームズ・ブラナー。軍隊出身のブラナーは引退後に映画界を目指し、初めて書いた脚本を知人の紹介でチャック・ノリスに持ち込んだところ、それが『香港コネクション』(’81)として映画化されスマッシュヒットとなる。これで脚本のオファーが次々舞い込むと考えたブラナーだったが、しかし現実はそう甘くなく、それっきり映画の仕事は途絶えてしまった。その後、彼は『香港コネクション』のスタントマンに紹介された女性と結婚。この奥さんがノリスと親しかったらしく、彼女を介して久しぶりに依頼された仕事が『地獄のヒーロー』の脚本だった。 で、この『地獄のヒーロー』にテクニカル・アドバイザーとして参加していた元陸軍大尉ジム・モナハンが、実はデルタ・フォース創設時の訓練教官のひとりだったという。現在でも陸軍は公式に存在を認めていないデルタ・フォース。当時は一部の軍関係者しか存在を知らなかった。『地獄のヒーロー』の撮影現場でモナハンからデルタ・フォースに関する情報や逸話を聞いたブラナーは、これは映画の題材にもってこいだと考えて社長のメナハム・ゴーランに提案。当初は全く関心を示さなかったゴーランだが、しかし『地獄のコマンド』(’85)の撮影完了後に次回作としてゴーサインを出す。もちろん、最大の売りはチャック・ノリスとチャールズ・ブロンソンの初共演だ。すると、ちょうどその頃に中東で旅客機のハイジャック事件が発生。機を見るに敏なゴーランは、この事件を映画のストーリーに組み込むよう指示。そこでブルナーは、テレビや新聞のニュース報道をリアルタイムで追いかけながら脚本を書き進めた。 そう、本作にはモデルとなった実在の事件があるのだ。それが、’85年6月14日に起きた旅客機トランス・ワールド・アメリカ(TWA)847便のハイジャックテロ事件。アテネ発サンディエゴ行きのTWA847便がパレスチナ人のイスラム過激派テロリスト2名にハイジャックされたのである。犯人たちはイスラエルに囚われたシーア派活動家766名の解放などを要求。映画ではハッキリと言及されているわけではないが、アブドゥルと一緒にハイジャックを決行したムスタファはパレスチナ人と思われる。ユダヤ人だけが他の乗客と隔離されたり、たまたま乗り合わせた米海軍のダイバーが射殺されて滑走路へ投げ捨てられたり、中継地点(劇中ではベイルートだが実際の事件ではアルジェ)で武装した仲間のテロリストたちが乗り込んできたり、機長がコクピットでテロリストに銃を突き付けられながら記者会見に応じたりと、映画では実際の出来事をニュース映像やニュース写真を参考にしながら忠実に再現している。 ただし、終盤のデルタ・フォースによるテロ組織への総攻撃は完全なるフィクション。これは脚本の執筆中に実際の事件が解決しなかったからということもあるが、そもそも本作はデルタ・フォースの活躍を描くことが企画のベースであるし、なによりもこういうアクション・エンターテインメントには正義が悪を滅ぼしてメデタシメデタシのクライマックスが相応しい。それに、たとえ事件を最後まで見届けたうえで脚本に取り入れたとしても、恐らく映画としては全く面白味のないものになっていただろう。なにしろ、実際はギリシャやイスラエルなど各国の交渉によって乗客は段階的に解放され、テロリストの要求通りに766名のシーア派活動家たちも釈放され、犯人たちは罪に問われることなく事件の幕は下りたのだから。 いずれにせよ、当時のレーガン政権下におけるアメリカ社会の世相を考えても、本作の勧善懲悪なフィナーレは妥当と言えよう。「アメリカを再び偉大な国に!(Make America Great Again)」を合言葉に第40代米国大統領に当選したロナルド・レーガン大統領。前任者であるカーター大統領の平和外交を弱腰と非難した当時の米国民は、軍事予算を増やしてアメリカの軍備を強化し、中東でも南米でもアメリカに盾突く勢力は力でねじ伏せ、諸外国の事情など意に介さないという、レーガン大統領による自国中心主義の強気な外交を支持していた。本作はもちろんのこと、『ランボー/怒りの脱出』(’85)も『地獄のヒーロー』もそんな時代の産物と言えよう。 ちなみに、そのカーター大統領の支持率が急落する原因となり、後にレーガン政権が誕生するきっかけになったとされるのが、本作のオープニングの元ネタになった「イーグルクロー作戦」。’80年4月24日にイランで決行されたデルタ・フォースによる人質救出作戦だ。前年にイランのテヘランでアメリカ大使館人質事件が発生。軍事的手段を行使しないことを批判されたカーター大統領は、デルタ・フォースを含む米軍を総動員して「イーグルクロー作戦」と命名した人質救出作戦を行うのだが、これが見事に失敗してしまう。なので、いわばデルタ・フォースが過去の汚名を挽回する本作のクライマックスは、ある種の歴史修正主義的な側面があると言えよう。つまり、現実の世界でアメリカが受けた恥辱を、映画の中で晴らしたのである。なるほど、劇場公開時のアメリカで、「ナショナル・リベンジ・ファンタジー」と揶揄されたわけだ。 テロリストの描写に秘められたゴーラン監督のパレスチナへの想い こうして、実際に起きたハイジャックテロ事件をストーリーに取り入れることとなった本作。当初は『地獄のヒーロー』と『地獄のコマンド』でもチャック・ノリスと組んだジョセフ・ジトーが監督する予定だったが、ここへきて社長のメナハム・ゴーランが俄然やる気を出してしまう。というのも、かつてアカデミー賞外国語映画賞にもノミネートされた『サンダーボルト救出作戦』(’77)という、’76年に起きたエンテベ空港ハイジャック事件を題材にした類似映画を撮ったことのあるゴーランは、この手の実録ミリタリー・アクションが大好きだったのである。中盤までの荒唐無稽を排したシリアスなドキュメンタリータッチの演出はさすがの腕前。改めて見直して意外に思うのは、パレスチナ人のテロリストを極めて同情的に描いていることであろう。自身がパレスチナで生まれ育ったゴーラン監督は、アラブ人を冷酷非情な悪魔として描くことに強い抵抗があったらしい。’14年に85歳で亡くなったゴーランだが、もし彼が今も生きていたとしたら、現在のパレスチナで起きているイスラエル軍によるジェノサイドをどう考えるだろうか。当時とは違った見方の出来る映画でもある。それだけに、終盤へ差し掛かって突然、愛国ヒロイズムと米軍プロパガンダを全面に押し出したマンガ的な荒唐無稽アクションに方向転換してしまったのは残念だが、しかし当時の世相や観客受けを考えれば妥当な決断だったとも言えよう。 先述した通り、当初はチャック・ノリスとチャールズ・ブロンソンの初共演となるはずで、2人の写真を使った広告まで業界誌に出していたが、しかしブロンソンはスケジュールの都合がつかずに降板。代わりにアカデミー賞主演男優賞に輝くタフガイ俳優リー・マーヴィンが、代表作『特攻大作戦』(’67)を彷彿とさせるアレクサンダー大佐を演じている。脇を固める名優たちも、ジョージ・ケネディにシェリー・ウィンタース、ロバート・ヴォーンにロバート・フォースターなど、’70年代に流行ったオールスター・キャストのディザスター映画に出ていた顔触れ。そのほか、シナトラ一派のジョーイ・ビショップに’50年代の清純派アイドル女優スーザン・ストラスバーグ、『サイコ』(’60)や『ティファニーで朝食を』(’61)のマーティン・バルサムなど、全体的に古き良きハリウッド映画へのノスタルジーを感じるようなキャスティングだ。同時代のスターと呼べるのは、当時ドイツを代表するトップ女優だった客室乗務員イングリッド役のハンナ・シグラと、青春映画スターとして頭角を現していた若き尼僧メアリー役のキム・デラニーくらいか。なお、マッコイの右腕的な黒人隊員ボビー役のスティーヴ・ジェームズは、『アメリカン忍者』(’85)シリーズや『地獄の遊戯』(’86)でも主人公の相棒を演じたキャノン御用達の黒人スターだった。 日本での劇場公開版は118分、全米公開のオリジナル全長版は約130分の本作だが、実は最初に出来上がったバージョンは4時間近くもあったらしい。実際の事件で一躍英雄となった客室乗務員ウーリ・デリックソンをモデルにしたイングリッドのエピソードなど、乗員乗客を深掘りした人間ドラマが詳細に描かれていたようだが、さすがに長すぎるためバッサリとカットされてしまった。最終的にかかった製作費は900万ドルと意外に控えめだが、しかしアメリカ国内だけで1800万ドル近い興行収入を記録。おのずとシリーズ化されて『デルタフォース2』(’90)に『デルタフォース3』(’91)も作られる。キャノンの大作主義もますます加速。しかし、翌年のスタローン主演作『オーバー・ザ・トップ』(’87)とアメコミ・ヒーロー映画『スーパーマンⅣ/最強の敵』(’87)がコケてしまい、栄華を極めたキャノン・フィルムズの黄金時代はほどなくして終焉を迎えるのだった。■ 『デルタ・フォース』© 1986 Metro-Goldwyn-Mayer Studios Inc. All Rights Reserved.