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COLUMN/コラム2024.09.06
主役は神に遣わされた“名無しの男”。イーストウッド1980年代唯一の西部劇『ペイルライダー』
「私たちのオリジナルと呼べるようなアメリカ固有の芸術形式はほとんどないと言っていい。たいていはヨーロッパから来たものばかりだ。わずかに例外と言えるのが西部劇とジャズまたはブルースだ」 これは1985年、本作『ペイルライダー』公開を前に、インタビューに応えた際の、クリント・イーストウッドの言。ヨーロッパ文化へのリスペクトと同時に、TVの西部劇シリーズ「ローハイド」(1959~65)で注目を集める存在となり、セルジオ・レオーネ監督のマカロニ・ウエスタン『荒野の用心棒』(64)『夕陽のガンマン』(65)『続・夕陽のガンマン』(66)の“ドル箱3部作”を機に、“映画スター”の座に就いたイーストウッドの、“自負心”が伝わってくる。『ペイルライダー』は、イーストウッドにとっては、『アウトロー』(76)以来9年振りの西部劇にして、11本目の監督作品。そして結果的には、彼が80年代に撮った、唯一の西部劇となった。 この企画は、『アウトロー』公開から間を置かない、1977年頃から始まっていた。発案は、イーストウッドが監督・主演した刑事アクション『ガントレット』(77)の脚本を書いた、マイケル・バトラーとデニス・シュリアック。日頃から「西部劇が好き」と言っていたこの2人と、イーストウッドはネタ出しを行うことにした。 そのプロセスで、脚本家2人がゴールドラッシュの時代について調査を進めると、鉱夫たちと強力な独占企業の間で対立があったことがわかった。そしてこの事実を手がかりに、本作の前身となる、最初の脚本ができたのだという。 しかしこの企画は暫し、引出しの中で眠ることになる。当時イーストウッド付きだったプロデューサーのフリッツ・マーネイズ曰く、「…ウエスタンに客が入らない時代だし、これより凄いウエスタンが現れて、先を越される心配もなかったから、少し様子を見ようということになった…」。 そうこうする内に1980年、ハリウッドを震撼させる“大事件”が起きる。騒動の主役は、かつてイーストウッド主演の『サンダーボルト』(74)で監督デビュー後、『ディア・ハンター』(78)でアカデミー賞作品賞・監督賞を獲得したマイケル・チミノ。彼が鳴り物入りで完成させた超大作西部劇『天国の門』(80)が、大コケ。製作したユナイテッド・アーティスツが、経営危機に追い込まれてしまったのである。 新たな西部劇を作るタイミングは、益々遠のく。しかし1984年になって、ある晴れた日、イーストウッドはふと思った。「西部劇が見たいな」と。 イーストウッドの作る映画のすべてには、共通する規則があるという。それは、「自分がスクリーンで見たいと思ったものを作る」ということだった。また、すごく魅力的に思える脚本があって、テーマがはっきりと掴めている場合、「他の人にそれを説明するのがめんどう」だと、彼は迷わず自らが監督することを決めるのだという。「機を見るに敏」という言葉があるが、イーストウッドの場合は、「機を待つに敏」とでも言うべきか?彼は眠っていた脚本を引っ張り出して、本作『ペイルライダー』の映画化に取り掛かった。 ***** ゴールド・ラッシュ時代のカリフォルニア、カーボン峡谷。鉱夫たちとその家族が居を構え、金の採掘に挑んでいるが、周辺一帯を仕切り、この峡谷の採掘権も得ようとするラフッド(演:リチャード・ダイサート)の一派の嫌がらせが続いている。 15歳の少女ミーガン(演:シドニー・ペニー)は、母のサラ(演:キャリー・スノッドグレス)と暮らしていたが、ラフッドの手下に愛犬を撃ち殺されてしまう。神に祈りを捧げ、救いを願うミーガン…。 峡谷のリーダー的存在であるハル(演: マイケル・モリアーティ)は、町に物資の調達に出向いた際、ラフッドの手下たちに、襲われる。しかしその場に、見知らぬよそ者の男(演:クリント・イーストウッド)が現れ、鮮やかな手際で、手下たちを叩きのめす。危機を救われたハルは、白馬に乗って去ろうとする男を、自分たちの集落へと誘う。 ミーガンはその男を、“神の使い”だと直感する。ならず者と夕食を共にしたくないと反発したサラも、男が牧師=プリーチャーの服装をしているのを見て、態度を一変する。 “プリーチャー”と呼ばれるようになった男は、お礼参りにやってきた、ラフッドの息子ジョッシュ(演:クリストファー・ペン)と、連れの大男(演:リチャード・ギール)も、軽く一蹴。集落から頼りにされる存在となる。 プリーチャーを懐柔し、集落を買収しようとしたラフッドだったが、交渉は決裂。連邦保安官を務めながら悪名高い、ストックバーン(演:ジョン・ラッセル)とその副官たちを呼び寄せ、一気に蹴りをつけようとする。 ストックバーンの名を聞いて表情をこわばらせたプリーチャーは、一旦峡谷から姿を消す。そして拳銃を携えて、戻ってくる…。 ***** “ドル箱3部作”で演じた“名無しの男”以来、イーストウッドの十八番とも言える、一匹狼の流れ者。本作でもヒゲをたくわえ、目を鋭く光らせるという、お馴染みのスタイルである。 しかし先に記した“ネタ出し“に於いて、聖書の話との対比を広げてゆく内に、イーストウッドの意向として、「…超自然的側面を少しばかり強調してしまうことになった」という。 少女ミーガンが、救いを求める祈りとして暗唱するのは、聖書の中の黙示録第4章。 ~そこで見ていると、見よ、蒼白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者(ペイルライダー)の名は“死”と言い、それに黄泉が従っていた~ イーストウッド曰く、それは「…一種の大天使、神話的人物…」。そして彼が演じる“プリーチャー”は、白い馬に乗って現れることとなった。 “プリーチャー”が着替える際、ハルがその背中に、6つの弾痕があるのを目撃する。イーストウッドは脚本家たちに“プリーチャー”が、「敵役の保安官と過去に関わりがあったようにする方がいい」との示唆もした。それによって“プリーチャー”のキャラクターに奥行が出て、黙示録の騎士というイメージにもぴったり合うという考えだった。 以前から、聖書の話の神話性と西部劇のつながりに、「興味があった」というイーストウッド。本作にそうした側面を盛り込むことによって、今まで沢山の西部劇を観てきた観客が、本作は「一味違う」と感じることを望んだ。その一方でそうした観客が好む、「ノスタルジックなところ」も併せ持つようにすることも忘れなかった。 流れ者が、世話になった一家を救い、殺し屋たちを倒して去って行くストーリーの構造。これはまさに、ジョージ・スティーヴンス監督、アラン・ラッド主演の名作西部劇『シェーン』(53)へのオマージュと言える。 本作のキャスティングで特徴的、というかイーストウッドらしいのは、“プリーチャー”の出現を好ましく思わなかったのに、やがて愛してしまうサラ役に、キャリー・スノッドグレスを起用したこと。イーストウッド曰く、「ジェシカ・ラングやサリー・フィールドやシシー・スパイセクだけが女優じゃない。彼女たちに負けないぐらい才能がある女優が、そこいら中にいる」 本作から40年近く経った今となってはピンと来ないかも知れないが、要はハリウッドが、「今いちばん人気がある俳優ばかり追い回している」ことへの批判である。スノッドグレスのような、「名前を知られていなくても腕のある俳優」を起用するのが、イーストウッド流というわけである。 因みに本作に起用されたことに小躍りしたのは、悪役であるラフッドの息子を演じた、クリストファー・ペン。ショーン・ペンの弟で、当時売り出し中の若手俳優だったが、子どもの頃から西部劇に出たいと思っていた彼にとって、出演作を全部観るほどファンだったイーストウッドとの共演は、まさに夢の実現。憧れの西部劇ヒーローである“名無しの男”に対し、「この町を出ていけ」というセリフを吐くのは、至福の体験だったのである。 撮影は、1984年9月にスタート。アイダホ州サンヴァレーを中心にロケ撮影を行い、イーストウッド流早撮りで、40日足らずでクランク・アップとなった。 80年代中盤は、映画作家としてのイーストウッドの評価が、フランスなどヨーロッパで高いものになりつつあった頃。本作は85年の「カンヌ国際映画祭」の“監督週間”に出品され、大評判となった。『ペイルライダー』は、やはりイーストウッドの監督・主演作である『荒野のストレンジャー』(73)と表裏一体の作品という解釈が、広く為された。『荒野の…』主人公が、死霊≒悪魔を象徴するキャラクターであるのに対し、本作の“プリーチャー”は、神に遣わされた復讐者ということからである。 本国アメリカでは、その年の6月に公開。10日間で2,150万㌦を売り上げ、最終的には興収4,000万㌦を突破する大ヒットとなった。 実は本作に取り掛かる頃、イーストウッドの元には、もう1本西部劇の脚本が届いていた。その中味を気に入ったイーストウッドは、映画化権を取得したが、『ペイルライダー』の製作を優先したため、そちらは一旦ペンディングとなった。 それが日の目を見たのは、7年後の92年。それまで無縁だった、アカデミー賞の作品賞・監督賞をイーストウッドにもたらした、『許されざる者』である。1930年生まれの彼がその主役、足を洗った老齢のガンマンを演じるのに適した、60代になってからの映画化だった。 イーストウッドはまさに、「機を待つに敏」な男である。■ 『ペイルライダー』© Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2024.09.04
下らなくてバカバカしいけど憎めない!今なお世界中(?)で愛されるキラートマト軍団の魅力に迫る!『アタック・オブ・ザ・キラートマト』
‘70年代のパロディ映画ブームが生んだ珍作 映画史上屈指の駄作として名高いZ級モンスター映画である。ある日突然、トマトが人間を襲い始めて全米がパニックに陥るというあまりにも下らないストーリー、アマチュアの自主制作映画とほぼ変わらないレベルの貧相で安っぽいビジュアル(なんと、予算はたったの10万ドル!)、見た目も演技力も素人丸出しの役者たちによるショボい芝居(実際にキャストの大半は素人の一般人)などなど、お世辞にも出来の良い映画とは言えないものの、しかしその屈託のないバカバカしさはなんだか妙に憎めないし、古き良き時代のモンスター映画にオマージュを捧げた頭の悪いギャグの数々も嫌いになれない。体に悪いと分かってはいても、ついつい手が出てしまうジャンク・フードみたいな映画。本作が今もなお、世界中でカルト的な人気を誇っている理由はそこにあると言えよう。 とある民家のキッチンで主婦が他殺体で発見され、捜査を担当する刑事たちは遺体に付着した赤い液体がトマトジュースだと知って困惑する。この日を境に、全米各地でトマトが罪のない人々を襲うという凄惨(?)な事件が多発。この異常事態を受け、ペンタゴンでは軍部が科学者を交えて対抗策「アンチ・トマト計画」を急ピッチで進める一方、ワシントンでは諜報部のトップ・エージェント、メイソン・ディクソン(デヴィッド・ミラー)や落下傘部隊出身のウィルバー・フィンレター(スティーブン・ピース)ら特殊部隊が、トマトたちの暴走を食い止めるために動き始める。 さらに、大統領の命を受けたホワイトハウス報道官ジム・リチャードソン(ジョージ・ウィルソン)も国民のパニックを防ぐべくプロパガンダ戦略を練り、政府の動きを察知した女性新聞記者ロイス・フェアチャイルド(シャロン・テイラー)がディクソンらの行動を追跡。だが、そうこうしているうちに狂暴化したトマトたちは巨大モンスターへと進化を遂げ、いよいよ軍が出動せねばならない事態となってしまう…! というのが大まかなあらすじ。古いB級特撮モンスター映画にありがちなプロットのパロディである。軍隊マーチ風の勇壮なサウンドに乗って「キラートマトが襲ってくる!キラートマトが襲ってくる!」と謳いあげるオープニングのテーマ曲からしてバカ丸出し(笑)。クレジットや本編の随所にサニー・ヴェール家具店なるショップの広告テロップ(昔のアメリカのテレビではこういうテロップCMが多かった)が流れたり、『北北西に進路を取れ』(’59)や『ジョーズ』(’75)など名作映画のパロディがあちこちで唐突にぶち込まれたり、そうかと思えば前触れもなく突然ミュージカルが始まったりする。この脈絡のなさときたら!あくまでも、ストーリーは映画としての体裁を整えるための建前みたいなもので、基本的には中学生レベルの下らない一発ギャグを適当に繋げているだけだ。 ちょうど’70年代当時は『ヤング・フランケンシュタイン』(’74)や『新サイコ』(’77)といったメル・ブルックス監督のウルトラ・ナンセンスなパロディ映画が大流行し、その人気に便乗して『名探偵登場』(’76)や『弾丸特急ジェット・バス』(’76)など似たようなパロディ映画が続々と登場した。本作も恐らくそのトレンドに乗って作られたと思うのだが、しかしどこまでも徹底した下らなさと意味のなさは、後のジム・エイブラハムズとザッカー兄弟による『フライングハイ!』(’80)シリーズや『トップ・シークレット』(’84)を先駆けていたとも言えよう。そこにはストーリーテリングの妙だとか、ユーモアに込められたメッセージだとかは一切なし。次から次へとバカバカしいギャグが繰り出されていくだけだ。そういう意味では、ケン・シャピロ監督の『ドムドム・ビジョン』(’74)とかジョン・ランディス監督の『ケンタッキー・フライド・ムービー』(’77)辺りと同列に語られるべき作品かもしれない。 元ネタになった日本映画とは…!? そんな本作を生み出したのは、監督・製作・脚本・編集を手掛けたジョン・デ・ベロ、製作・脚本・第二班撮影・出演(ウィルバー・フィンレター役)を兼ねるスティーブン・ピース、そして原案・脚本・助監督を務めたコンスタンチン・ディロンの3人である。彼らはいずれもカリフォルニア州のサンディエゴ出身で、高校時代から仲良しの映画仲間だった。これに大学で知り合ったマイケル・グラントが加わって4人組となった彼らは、学生映画集団「フォー・スクエア・プロダクションズ」を結成。この時期に『アタック・オブ・ザ・キラートマト』の原点となった自主制作映画を撮っている。それが8ミリフィルムで撮影された短編映画『Attack of the Killer Tomatoes』と『Gone with the Babusuland』の2本だ。 ある日突然、トマトが人間を襲い始めて全米が大パニックになるという基本プロットは長編版と全く同じで、なおかつソックリなシーンも多々あるのがオリジナル短編版『Attack of the Killer Tomatoes』。一方の『Gone with the Babusuland』は、FBIをもじった諜報機関FIA(連邦情報局)の捜査官マット・デリンジャー(まだ細くてイケメンだったデヴィッド・ミラー)と落下傘兵ウィルバー(当時も変わらずアクの強いスティーブン・ピース)の活躍を描いたジェームズ・ボンド風のスパイ・パロディ映画で、これが『アタック・オブ・ザ・キラートマト』におけるディクソン&フィンレターのコンビの元ネタとなったのである。 ちなみに、本編の冒頭テロップでヒッチコックの名作『鳥』(’63)に触れていることから、同作をヒントにした作品ではないかと思われがちだが、実はジョン・デ・ベロ監督らが高校時代にテレビで見た、とある日本の特撮モンスター映画が企画の元ネタになっているという。デ・ベロ監督が「素晴らしいくらい出来の悪い日本のホラー映画」と呼ぶその作品は、他でもない本多猪四郎監督による東宝特撮映画の名作『マタンゴ』(’63)!放射能に汚染されたキノコを食べてしまった人間が、世にも恐ろしいキノコ人間「マタンゴ」となって人間を襲うというお話だ。まあ、確かにプロット自体はバカバカしいかもしれないが、しかし極限状態に置かれた人間の怖さを徹底したリアリズムで描いた脚本の出来は素晴らしく、今ではカルト映画として世界中に熱狂的なファンがいる。 なので、なんだとぉ~!『マタンゴ』が出来の悪い映画とは何事だ!この不届き者め!と文句のひとつでも言いたくなるってもんだが、まあ、仕方あるまい。映画の感想は人それぞれである。しかも、テレビで見たということは、アメリカン・インターナショナル・ピクチャーズが配給した英語吹替のトリミング&短縮版である。恐らく安っぽく見えてしまったのだろう。本作に登場する日本人科学者フジ・ノキタファ博士の声だけがアフレコで、なおかつ口の動きとセリフが全く合っていないというのは、かつてアメリカの深夜テレビ放送やドライブイン・シアターを賑わせた、日本製B級娯楽映画の英語吹替版の低クオリティを揶揄したジョークだ。 閑話休題。その『マタンゴ』よりも下らなくてバカバカしい映画を作ろう、ということで生まれたのが、野菜のトマトが人間を襲って食い殺すという珍妙なコンセプト。ただし『マタンゴ』と大きく違ったのは、そこに社会風刺や文明批判などのメッセージを込めるつもりなど、デ・ベロ監督たちには初めからこれっぽっちもなかったことであろう(笑)。 さて、大学を卒業後に「フォー・スクエア・プロダクションズ」を正式な会社とし、主に産業映画やスポーツ映画、テレビ・コマーシャルなどを作っていたデ・ベロ監督たち。その傍らで劇場用映画への進出を模索していた彼らは、大学時代に作った短編映画『Attack of the Killer Tomatoes』と『Gone with the Babusuland』の2本をひとつにまとめてリメイクすることを思いつく。それがこの『アタック・オブ・ザ・キラートマト』だったというわけだ。 劇中のヘリ墜落シーンは本物の事故だった! 友人・知人などから借金してかき集めた予算はたったの10万ドル。キャストやスタッフの大半は学生時代からの映画仲間や家族、親戚、隣人で固め、撮影も全て地元サンディエゴで行った。学生時代の短編版で特撮を担当したマイケル・グラントは、会社の「本業」であるCM制作などのために不参加。一応、客寄せのために有名人キャストも起用されたが、当時テレビの人気シットコム『The Bob Newhart Show』(‘72~’78・日本未放送)で全米に親しまれた喜劇俳優ジャック・ライリー(保安官役)と、映画『ポーキーズ』(’81)シリーズの校長先生役でも知られる名バイプレイヤー、エリック・クリスマス(ポーク上院議員役)の2人のみ。そのジャック・ライリーは「どうせ誰も見ない映画だから、小遣い稼ぎに出とけ」とエージェントから薦められて出演したらしいが、結果としてテレビのニュース番組で大々的に報じられることとなってしまった。どういうことかというと、撮影現場で彼の乗ったヘリコプターが墜落事故を起こしてしまったのだ。 そう、劇中に出てくるヘリコプターの墜落シーンは、なんと「演出」ではなく「ガチ」。本来はパトカーの横にヘリを着陸させるつもりだったが、タイミングを間違えたパイロットが慌てたせいで操縦を誤り、尾部ローターが地面に触れて墜落してしまったのである。乗っていたジャック・ライリーと報道官リチャードソン役のジョージ・ウィルソン、パイロットの3人は奇跡的に無事。この予想外の出来事に監督も撮影監督もビックリ仰天し、思わず撮影を止めてしまったのだが、しかし第2班カメラマンを務めていたスティーブン・ピースだけはカメラを回し続け、ヘリが墜落する様子もライリーたちが脱出する様子も撮影していた。当然、一歩間違えれば死者も出かねなかった事故はテレビのニュースで報道され、無事に生還したライリーは国民的人気トーク番組「トゥナイト・ショー」に招かれ、本来なら出たことを秘密にしておきたかった映画について話す羽目に(笑)。そして、そのライリーが「どうせなら事故映像を本編でそのまま使ったら面白いのでは?」と監督に助言したことから、劇中の迫力満点(?)なヘリ墜落シーンが出来上がったのである。 また、劇中で人気アイドル歌手ロニー・デズモンドの最新ヒット曲として紹介される挿入歌「思春期の恋」にも要注目。実在しない架空の歌手ロニー・デズモンドは、’70年代のアメリカで国民的な人気を誇っていたアイドル歌手ダニー・オズモンドが元ネタで、「思春期の恋」は当時量産されていたティーン向けバブルガム・ポップスを小バカにしたパロディだったという。で、その「思春期の恋」を実際に歌っている歌手としてクレジットされているフー・キャメロンは、当時地元サンディエゴの高校生だった少年マット・キャメロンの偽名。後にロックバンド、サウンドガーデンのドラマーとして高く評価され、さらに’98年以降はパール・ジャムのメンバーとしても活躍、ロックンロールの殿堂入りも果たした大物ミュージシャンである。 そういえば、後に有名になった人物はもう一人。海水浴に興じる若者たちがトマトに襲われる『ジョーズ』のパロディ・シーンで、ヨットに乗っている幼い少年にどこか見覚えがあると思ったら、後にテレビドラマ『ツイン・ピークス』(‘90~’91)のボビー役で有名になる俳優ダナ・アシュブルックだった。彼もまたサンディエゴの出身で、当時はまだ10歳の小学生。その後、テレビドラマのゲストを幾つもこなした彼は、『バタリアン2』(’88)や『ワックスワーク』(’88)などのB級ホラー映画でカルト的な人気を得ることになる。 劇場公開時は各メディアでケチョンケチョンに酷評され、興行的にも決して大成功とは言えなかったという本作。しかし『ロッキー・ホラー・ショー』(’75)との二本立て上映が全米各地で好評を博すなど、いつしか口コミで評判が広まっていき、やがてカルト映画として熱狂的なファンを獲得することになった。デ・ベロ監督らフォー・スクエア・プロダクションズの面々は、これを足掛かりとしてハリウッド進出を図り、人気コメディアンを多数起用したコメディ映画『大爆笑!ビール戦争/ぷっつんU.S.A.』(’86)を発表するも残念ながら失敗。一方、『アタック・オブ・ザ・キラートマト』は’86年に初めてビデオゲーム化され、さらにはジム・ヘンソン製作の人気テレビ・アニメ『Muppet Babies』(‘84~’91・日本未放送)にキラートマトが登場するなど、カルト映画としての評価と知名度はどんどん高まっていく。そこへ転がり込んだのが、ニューワールド・ピクチャーズによる続編映画のオファーだった。 当初からシリーズ化するつもりなど全くなかったというデ・ベロ監督たち。しかし、当時のハリウッドではB級ホラー映画のフランチャイズ化がブームで、ニューワールド・ピクチャーズも『クリープショー2/怨霊』(’87)や『ガバリン2 タイムトラぶラー』(’87)に続く続編物の企画を探しており、『アタック・オブ・ザ・キラートマト』に白羽の矢が立てられたのだ。提示された条件が良かったため引き受けたというデ・ベロ監督曰く、「なるべく出来の悪い映画を作ってくれと映画会社から指示されたのは、恐らくハリウッド映画の歴史上で僕らが初めてだろう」とのこと(笑)。かくして完成したジョージ・クルーニー主演(!)の第2弾『リターン・オブ・ザ・キラートマト』(’88)はスマッシュヒットを記録し、さらなる続編『キラートマト/決戦は金曜日』(’90)と『キラートマト 赤いトマトソースの伝説』(’91)も矢継ぎ早に登場。さらに、フィンレターの甥っ子チャドを主人公にしたテレビ・アニメ『Attack of the Killer Tomatoes』(‘90~’91・日本未放送)やコミック版(’08年出版)、ノベライズ版(’23年出版)も作られるなど、今なお根強い人気を誇っている。■ 『アタック・オブ・ザ・キラートマト』© 1978 KILLER TOMATO ENTERTAINMENT
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COLUMN/コラム2024.09.02
‘70年代アメリカ西海岸の甘酸っぱい青春を描いた珠玉の名作『リコリス・ピザ』の見どころを深掘り解説!
『ブギーナイツ』(’97)や『マグノリア』(’99)、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(’05)などで世界中の映画賞を席巻してきた鬼才ポール・トーマス・アンダーソンが、’70年代前半のロサンゼルスを舞台に、世渡り上手な男子高校生と10歳年上の不器用な女性のロマンスを瑞々しいタッチで描いた珠玉の青春映画である。 基本はいたって単純かつ古典的なボーイ・ミーツ・ガールのラブストーリー。とりとめのない日常的なエピソードを繋ぎ合わせつつ、そこかしこに実在の人物および実在の人物をモデルにした人物、実在したレストランやショップなどが次々と登場し、’70年代当時のトレンドやカルチャー、社会情勢が全編に渡って散りばめられている。いわば、虚実入り交じった古き良きロサンゼルスへの甘酸っぱいラブレター。さながらポール・トーマス・アンダーソン版『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』である。もちろん詳しい知識がなくとも十分に楽しめるとは思うが、しかし背景事情を知っていればより一層のこと興味深く鑑賞することが出来るはず。そこで今回は、全体のストーリーの流れに沿いながら、本作を楽しむうえで注目すべきトリビアについて解説していきたい。 主人公ゲイリーとアラナの実在モデルとは? 主な舞台となるのはロサンゼルスのサンフェルナンド・バレー。ハリウッドの北北西に位置するこの地域にはワーナーやユニバーサル、ディズニー、CBSにNBCなど映画&テレビの撮影スタジオが林立し、古くから映画スターやハリウッド関係者が大勢住んでいる。本作のポール・トーマス・アンダーソン監督もそのひとり。しかも、父親が有名なテレビ司会者だった彼にとって、サンフェルナンド・バレーは自身が生まれ育った故郷でもある。代表作の『ブギーナイツ』も『マグノリア』も『パンチドランク・ラブ』(’02)も舞台はサンフェルナンド・バレーだった。それくらい特別な思い入れのある土地の、自身が実際に少年時代を過ごした’70年代の景色を鮮やかに再現したのが本作。まるで、『がんばれベアーズ』(’76)や『ボーイズ・ボーイズ/ケニーと仲間たち』(’76)など’70年代のキッズ・ムービーを見ているような、あの時代の西海岸へタイムスリップして撮って来たような再現度の高さに思わず舌を巻く。 主人公である15歳の高校生ゲイリー・ヴァレンタイン(クーパー・ホフマン)のモデルとなったのは、アンダーソン監督の友人でもある映画プロデューサーのゲイリー・ゴーツマン。トム・ハンクスと共同で製作会社プレイトーンを経営し、『マイ・ビッグ・ファット・ウェディング』(’02)シリーズや『マンマ・ミーア!』(’08)シリーズなどのプロデューサーとして知られるゴーツマンは、劇中のゲイリーと同じくもともとハリウッドの子役スター出身。芸能界で行き詰ったゲイリーがウォーターベッドの販売を始めたり、後の大物映画製作者ジョン・ピーターズの自宅にウォーターベッドを設置したり、ピンボールの解禁に合わせてピンボール店を経営したりといった劇中のエピソードも、全てアンダーソン監督がゴーツマンから聞いた経験談を基にしている実話だ。 劇中でゲイリーが出演した映画『屋根の下』の元ネタは、ゴーツマンが子役時代に出演した映画『合併結婚』(’68)。8人の子供を持つ未亡人と10人の子供を持つ男やもめが再婚したことから巻き起こるドタバタ騒動を描いたコメディだ。主演女優のルーシー・ドゥーリトル(クリスティン・エバーソール)は、同作に主演したルシール・ボールがモデルとなっている。そう、今なお全米で愛される大人気シットコム『アイ・ラブ・ルーシー』(‘51~’57)や『ルーシー・ショー』(‘62~’68)などで、テレビ界の女王として君臨したアメリカの国民的大女優だ。『屋根の下』の子役たちが総出演するニューヨークのテレビ番組は、ビートルズが出演したことでも有名な伝説のバラエティ番組『エド・サリヴァン・ショー』が元ネタ。実際にゴーツマンも『合併結婚』のプロモーションで『エド・サリヴァン・ショー』に出演したことがある。ただし、劇中ではヒロインのアラナがゲイリーの母親に代わって保護者として付き添うが、実際はゴーツマン宅の近所に住んでいたバーレスク・ダンサーが保護者代わりを務めたのだそうだ。 そのアラナ・ケイン(アラナ・ハイム)のモデルとなったのは、高校時代のゴーツマンの彼女で、彼が経営するウォーターベッド販売店の店員でもあったハリウッド女優ケイ・レンツ。アンダーソン監督が本作を撮る際にお手本とした『アメリカン・グラフィティ』(’73)で映画デビューし、クリント・イーストウッドが監督を務めた『愛のそよ風』(’73)のヒッピー娘役で有名になった人だ。ただし、劇中のゲイリーやアラナと違って、レンツはゴーツマンのひとつ年下である。そもそも、本作の舞台は1973年だが、しかしゴーツマンやレンツの高校時代は’60年代末。ほかにも時代設定や時系列の改変が随所で見受けられるが、恐らく’70年代のサンフェルナンド・バレーを描くことが大前提だったためなのだろう。 ではなぜアラナがゲイリーの10歳年上という設定になったのかというと、実は本作の原点となった実際の出来事に由来する。それは2001年のこと。とある中学校を通りがかったアンダーソン監督は、写真撮影のために列をなしていた男子生徒のひとりが、撮影スタッフの女性に声をかけて電話番号を聞き出そうとする様子をたまたま目撃したという。あの2人がもし本当に付き合ったとしたら…?と考えたのが、本作の企画のそもそもの始まりだったらしい。それがオープニングで描かれるゲイリーとアラナの出会いシーン。ロケ地となったポートラ中学校は、アンダーソン監督が実際に中学生男子のナンパ現場を目撃した学校だ。ちなみにゲイリーが写真撮影の列に並んだ理由は、アメリカの学校生活の定番であるイヤーブックのため。日本では「卒業アルバム」と訳されることもあるイヤーブックだが、実際は卒業生だけでなく全校生徒のために毎年作られており、イヤーブックに載せる写真の撮影は毎年の恒例行事となっている。 「アジア人蔑視では?」と物議を醸したシーンも なお、ここでキャスティングについても言及しておきたい。ゲイリー役を演じるクーパー・ホフマンは、アンダーソン監督作品の常連でもあった亡き名優フィリップ・シーモア・ホフマンの息子。撮影当時17歳だった彼は本作が映画デビューだ。対するアラナ役のアラナ・ハイムは、実姉エスティとダニエルと共に結成した人気ポップ・バンド、ハイムのメンバーとして知られている。ハイム家はサンフェルナンド・バレー在住で、姉妹の母親はアンダーソン監督の少年時代の美術の先生。それゆえ長年に渡って家族ぐるみの付き合いがあり、バンドのミュージックビデオもアンダーソン監督が手掛けている。そのアラナの姉2人も、劇中のアラナの姉エスティ&ダニエルとして登場。両親役も姉妹の本当の両親だ。さらに、クーパーの姉妹タルラとウィラも生徒役で顔を出している。 こうしたアンダーソン監督の「身内」の出演も本作の見どころのひとつであろう。ゲイリーがオーディションを受けるキャスティング・ディレクター、ヴィックの助手ゲイルを演じるのは、アンダーソン監督のパートナーであるマヤ・ルドルフ。そのルドルフの継母であり、’70~’80年代にかけて活躍した日本人のジャズ歌手・笠井紀美子が、ゲイリーの行きつけのレストラン「テイル・オコック」の客として顔を出している。また、最近ではクラシック映画専門チャンネルTCMの経営再建のため一致協力するなど、大先輩スティーブン・スピルバーグと親しいアンダーソン監督だが、そのスピルバーグの長女サーシャが冒頭に出てくる写真撮影スタッフのシンディ、次女デストリーが日本料理店ミカドの従業員フリスビーを演じている。 さて、本作の劇場公開時に物議を醸したのが、その日本料理店ミカドにまつわる描写だ。現在もサンフェルナンド・バレーで営業する日本風ホテル・ミカドに、かつて併設されていた実在の日本料理店ミカド。本作に出てくる米国人オーナーのジェローム・フリック(ジョン・マイケル・ヒギンズ)も実在の人物である。問題となったのは、そのフリックが日本人妻に話しかける際、なぜかアジア風アクセントで喋るという描写。で、日本人妻は日本語で返答するのだが、一見したところ2人の会話は成立しているように見えて、実はフリックは妻の話す日本語がまるっきり分かっていなかったというオチが付く。どちらも純然たるギャグとして描かれているのだが、しかしこれが「アジア人蔑視ではないか?」と問題視されたのだ。 そもそも、本作には21世紀現在のアメリカでは決して許されないであろうセクハラ、パワハラ、シモネタが少なからず盛り込まれている。出張写真撮影スタジオのカメラマンはスタッフであるアラナのお尻をドサクサ紛れに触るし、ゲイリーは高校の同級生女子に「手コキ」当番をさせているし、最初に考え付いたウォーターベッドの商品名は「ソギー・ボトム(ぐっしょり下半身)」だし(笑)。もちろん、アンダーソン監督としては’70年代当時の価値観や世相を投影しただけであり、決してそれらの行為や発言を肯定しているわけではないのだが、折しも本作が封切られたコロナ禍のアメリカでは、よりによって合衆国大統領のドナルド・トランプが新型コロナを軽率にも「中国ウィルス」などと呼んだことが原因で、深刻なアジア人差別が蔓延してしまった。そのため、上記の日本語ジョークに関して、良識ある観客の間から疑問の声が沸きあがったのである。 実在したレストランといえば、ゲイリーの行きつけであるテイル・オコック(Tail o’ the Cock)もロサンゼルスの伝説的な名店だ。かつてウェスト・ハリウッドとシャーマン・オークスの2カ所で営業していたが、本作に登場するのはシャーマン・オークス店。すぐ近くにワーナー・スタジオやCBSスタジオ・センターがあったことから、劇中のように映画人のたまり場的な店になっていたという。残念ながら’87年に閉店してしまった。 ‘70年代前半はトレンドや価値観の転換期でもあった 劇中では10代半ばに差し掛かって、徐々に役者としての仕事がなくなってしまうゲイリー。そこで彼は、たまたま街中で見かけたウォーターベッドに商機を見出し、愛するアラナや弟グレッグ、さらには近所のティーンたちを誘ってウォーターベッドの販売代理店を立ち上げるのだが、彼らが最初にウォーターベッドを持ち込んだイベント「ティーンエイジ・フェア」は、かつて実際にハリウッド・パラディアムで毎年行われていたティーン向けコンベンション。テレビ・プロデューサーのアル・バートンが’62年に立ち上げ、10代の青少年をターゲットにしたファッションやトレンド・グッズの展示販売、さらには人気ロックバンドのライブイベントなどが行われていた。会場にはテレビの人気シットコム『マンスターズ』(‘64~’66)のブースが出展されており、主人公ハーマン・マンスターに扮した俳優フレッド・グウィンも登場するが、これを演じているのはアンダーソン監督作品の常連ジョン・C・ライリーである。 ちなみに、ウォーターベッドの宣伝モデルを務める女の子キキから「何しに来たの?」と訊かれたアラナが、とっさに「デヴィッド・キャシディに会いに来た」と返答する場面にも要注目。デヴィッド・キャシディといえば、’70年代のアメリカで空前絶後の人気を誇ったイケメンのティーン・アイドルで、当時は日本でも大人気だった。そのキャシディと電撃結婚を果たし、全米のティーン女子を敵に回したのが、アラナのモデルとなった女優ケイ・レンツ。これは、いわば内輪ネタのジョークである。また、ゲイリーがウォーターベッドを初めて見かけるウィッグ店の店長ミスター・ジャックとして、あのレオナルド・ディカプリオの実父ジョージ・ディカプリオが映画初出演を果たしているのも見逃せない。 さらに、ゲイリーはウォーターベッド販売店「ファット・バーニーズ」(モデルとなったゴーツマンが実際に経営していたウォーターベッド販売店と同名)のラジオCMを放送するのだが、そのFMラジオ局KCCPパサデナのDJとして登場するB・ミッチェル・リード(演じるは声優として有名なレイ・チェイス)も実在の人物だ。’73年当時の西海岸の音楽シーンでは’60年代の反体制的な空気が薄れ、今で言うところのAOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)的なソフトで洗練された大人のロックが主流となりつつあった。本作でも当時のウェスト・コースト・サウンドがふんだんに使用されているが、その普及に多大な貢献を果たした名物ラジオDJのひとりがリードだったと言われている。 また、女優活動を始めることになったアラナは、ゲイリーの紹介でタレント・エージェントのメアリー・グレイディ(ハリエット・サンソム・ハリス)と面接するのだが、このグレイディも『大草原の小さな家』のメリッサ・スー・アンダーソンや『フルハウス』のオルセン姉妹を発掘した実在の伝説的な子役エージェントである。このシーンでアラナはグレイディから「ユダヤ人らしい鼻」を褒められるのだが、実はかつてユダヤ人独特の大きな鼻は重大なハンデとなるため、ユダヤ系の女優は売れるために鼻を整形で小さくすることが多かった。この常識を覆したのがミュージカルの女王バーブラ・ストライサンド。むしろその大きな鼻がトレードマークとなったバーブラの大成功によって、「ユダヤ人らしい鼻」がハンデとなる時代は終焉を迎えたのだ。 こうして女優となったアラナがオーディションで知り合うハリウッドのベテラン大物スター、ジャック・ホールデン(ショーン・ペン)は、言わずと知れたオスカー俳優ウィリアム・ホールデンが元ネタ。なぜウィリアム・ホールデンなのかというと、アラナのモデルとなった女優ケイ・レンツが、出世作『愛のそよ風』でホールデンと共演していることもあるが、それ以前にもともとアンダーソン監督自身がホールデンの大ファンなのだという。劇中で言及されるジャックの出演作『トコサンの橋』は、ウィリアム・ホールデンとグレース・ケリーが共演した戦争映画の名作『トコリの橋』(’54)をもじったもの。その監督であるマーク・ロブソンが、ジャックとテイル・オコックで再会する映画監督レックス・ブラウ(トム・ウェイツ)のモデルとなっている。 ハリウッド映画界の悪名高き名物男も登場! やがて、1973年の10月に起きた第四次中東戦争によって第一次オイルショックが発生。OPEC加盟国による石油禁輸措置を伝えるテレビのニュース映像が、本作の時代設定が1973年であることを明確に物語る。ウォーターベッドの素材であるビニールは石油製品。店じまいをせねばならなくなったゲイリーたちが、最後にウォーターベッドを売った相手として登場するのが実在の映画製作者ジョン・ピーターズ(ブラッドリー・クーパー)だ。ピーター・グーバーとのコンビで『フラッシュダンス』(’84)や『レインマン』(’88)、『バットマン』(’89)などを大ヒットさせる一方、業界内では露骨なセクハラやパワハラで悪名を轟かせたピーターズだが、本作の舞台となる’73年当時はまだセレブ御用達の美容師で、なおかつエンタメ界の女王バーブラ・ストライサンドのボーイフレンドとして名を馳せていた。そのバーブラが主演した映画『スター誕生』(’76)でプロデューサーへと転身したのである。昔からハリウッドの美容師にはゲイが多かったのだが、ピーターズは珍しく(?)バリバリにストレートのマッチョ男で、なおかつ顧客を喰いまくることで有名な絶倫プレイボーイ。映画『シャンプー』(’76)でウォーレン・ベイティの演じたヤリ〇ン美容師は彼がモデルと言われている。 先述したように、これはゲイリー・ゴーツマンがピーターズにウォーターベッドを売ったという実話がベースのエピソード。ただし、劇中のピーターズが「もし俺の家を汚したら、お前の弟を目の前で殺してやる」とゲイリーを脅迫したり、車がガス欠になったことに腹を立てたピーターズが暴走したりするシーンは、本人の悪しきイメージをカリカチュアしたアンダーソン監督の脚色である。リメイク版の『アリー/スター誕生』(’18)でピーターズと仕事をしたブラッドリー・クーパーの紹介で、直接本人から実名でのキャラ使用の了承を得たそうだが、よくまあオッケーを貰えたもんだとは思う。なお、その際にピーターズが提示した交換条件は、本人がお気に入りだという「ピーナッツバターサンドは好き?」という女性の口説き文句を劇中で使用することだったらしい(笑)。 やがて、10代の悪ガキたちとつるむことに疑問を抱くようになったアラナは、ロサンゼルス市長選に出馬するリベラルな若手政治家ジョエル・ワックス(ベニー・サフディ)の選挙事務所で、ボランティア・スタッフとして働くようになる。このワックスも実在の人物で、彼がクローゼット・ゲイだったことも事実(後にカミングアウトしている)。’73年と’93年と’01年の3度に渡ってロサンゼルス市長選へ出馬しているが、いずれも残念ながら落選している。 その選挙事務所でアラナの手伝いをしたゲイリーは、それまでロサンゼルスで禁止されていたピンボールが解禁されることをいち早く知り、ピンボールマシンを買い集めてピンボール店を開業するわけだが、これもまた事実に基づいている。かつて、ピンボールマシンはギャンブル性が高いとして、全米各地の大都市で禁止されていた時代があった。ロサンゼルスでも’39年から禁止されていたのだが、しかしマシンの改良によってスキルを磨けば勝てるゲームとなったため、’74年6月にカリフォルニア州の最高裁で禁止が覆されたのである。 さて、『リコリス・ピザ』のトリビア解説もそろそろオシマイなのだが、最後にタイトルについても触れておきたい。これはリコリス(甘草)をトッピングに使ったピザが当時流行っていたから…というわけではなく、’70年代に南カリフォルニアでチェーン展開していたレコード店の名前から取られているという。加えて、アンダーソン監督にとって「リコリス」と「ピザ」は、少年時代の甘酸っぱい思い出と直結するキーワードなのだとか。なるほど、確かにリコリスを使ったキャンディやグミは、昔からアメリカやヨーロッパでは子供たちに人気の高い定番菓子(薬みたいな味が日本人には嫌われるけど)である。なおかつ、ピザはもはやアメリカの国民食みたいなもので、特に子供たちはみんなピザが大好きだ。この2つの言葉には、即座に「あの頃」へと連れ戻してくれる力があるというアンダーソン監督。もはや2度と戻ることのない、古き良きロサンゼルスへの郷愁がたっぷりと込められたタイトルなのだ。■ 『リコリス・ピザ』© 2021 Metro-Goldwyn-Mayer Pictures Inc. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2024.08.12
誰が『ポルターガイスト』を監督したのか?
「トビー・フーパーは撮影現場にはいたが、演出の実権を握っていたのはスピルバーグだ。(中略)映画には多くの人の協力が必要だが、彼は人の仕事にも手を出したがるんだよ」 クレイグ・リアドン ー『ポルターガイスト』スペシャル・メイクアップ担当(米「Cinefantastique」誌より) ◆『E.T.』と血を分けたサバービア怨霊ホラー ゴーストホラーの偉大なクラシックとして『ポルターガイスト』(1982)は映画史にその名を刻みつけた。郊外のサバービア(新興住宅地)に引っ越してきた、幸福なフリーリング一家に降りかかる心霊現象の数々。やがてそれは猛威を増し、彼らを窮地へと引きずり込んでいく。 映画はそんな一家の恐るべき体験と、怨霊とゴーストハンターたちとの壮絶な戦いを描き、作品は全米興行収入約7000万ドルのヒットを記録した。そして同作はシリーズ化されて2本の続編を生み、2015年にはリメイク版も製作されている。『アクアマン』(2018〜)や『死霊館』(2013〜)シリーズでその名をとどろかす映画監督ジェームズ・ワンも「心霊スリラーの偉大なる傑作」と同作を称え、その影響のもとに彼の数あるホラーフランチャイズは存在する。 だがワンが『ポルターガイスト』に心酔する背景には、自身の敬愛するスティーブン・スピルバーグの作品であるという意識がはたらいているともいえる。もちろん、その考え方に間違いはない。本作を製作したのはスピルバーグであり、氏はこの映画で脚本も兼任している。しかし『ポルターガイスト』には、トビー・フーパというれっきとした監督が存在する。アメリカンホラーの歴史に燦然と輝く『悪魔のいけにえ』(1974)の生みの親であり、フィアメーカー(恐怖の創造者)としてジャンルのトップに立つ偉大なマエストロだ。そんな人物を差し置いて『ポルターガイスト』を、スピルバーグの作品として認識している人は少なくない。 まずは本作が生まれるに至った経緯を記しておきたい。『ポルターガイスト』の創造は、知的生命体とのコンタクトを描いた『未知との遭遇』(1977)の続編として、スピルバーグがコロンビア・ピクチャーズに監督を約束していた企画『ナイト・スカイズ』を起点とする。この企画を実現させるために、スピルバーグはまず脚本家と監督の選出をした。前者は『セコーカス・セブン』(1980)の監督や『ピラニア』(1978)『ハウリング』(1981)の脚本家として知られるジョン・セイルズ、そして後者がトビー・フーパーである。だが平和的ではない、異星人との侵略的な遭遇を描いたはずの『ナイト・スカイズ』の草稿は『E.T.』(1982)へと枝分かれし、こちらはユニバーサルで映画化が決まったのだ。そしてもう片方の枝をMGMに持っていき、こちらが『ポルターガイスト』として映画化が決定したのである。『E.T.』とのバッティングを懸念したスピルバーグは、異星人を悪霊に変えることでどちらも企画を通したのだ。この流れから、両作がサバービアを舞台とする共通の設定に合点がいくだろう。 ただ『E.T.』を監督する関係上、スピルバーグは『ポルターガイスト』では製作に専念し、同作はフーパーの監督作品としてプロジェクトが進行する。しかしユニバーサルで『ファンハウス/惨劇の館』(1981)を監督中だったフーパーと往復書簡で固めたストーリーをもとに、マイケル・グレースとマイク・ピーターが執筆した脚本をスピルバーグは気に入らず、製作のフランク・マーシャルやキャスリーン・ケネディの尽力を経て大幅に改変。ここから彼の作品に対する支配欲が萌芽する。 さらに『E.T.』との差異を強化するため、自身の監督作の座組とは異なるキャストやスタッフを『ポルターガイスト』に配した。だがそれもスピルバーグの意思が細かく絡んだことで、より企画へののめり込みに拍車がかかったのだ。加えて自分が初めてホラージャンルに関わることに対する高揚感が、演出への介入を強く後押ししたともされている。 そして事態をややこしくしたのは、撮影現場における両者の立ち回りだ。スピルバーグは毎日セット入りし、ストーリーボードもほとんどを自身で手がけ、フーパーの指揮権をときに無自覚に、そして無意識のもとに剥奪している。それは特殊効果においても同様で、スピルバーグは多くのアイディアを自分で提案し、そして改善を求め、ただでさえ困難を極めたリチャード・エドランド(視覚効果スーパーバイザー)のVFX/SpFX作業をより煩雑にしたのである。 ◆近年において混沌と化すスピルバーグ説 こうした越権行為はやがて表面化し、スピルバーグとフーパーは互いの領分に関してマスコミを通じて正当性を主張。演出家組合はフーパーの権利を重んじ、スピルバーグに罰金の支払いと、自身が演出しているかのように思わせるプロモーション映像を取り下げるよう指示した。さらに和解策の一つとしてスピルバーグは米「バラエティ」誌の全一面に詫び状を掲載。『ポルターガイスト』の監督はフーパーであることを、よそよそしく触れ回ったのである。 しかし結果として、完成した『ポルターガイスト』は演出やレイアウトや構図の特徴、ならびにキャメラムーブの規則性などが完全にスピルバーグのそれと各シーンで一致したものとなっていた。エディターにマイケル・カーンを起用したことによって、編集の呼吸とタイミングもスピルバーグのメソッドを踏襲しており、『ポルターガイスト』は完全に彼の他の監督作と同期していたのだ。また公開時、顔を掻きむしって皮膚がボロボロと欠落していくグロテスクな描写などをフーパー由来とする指摘もあったが、2024年現在までのフィルモグラフィを俯瞰した場合、その残酷性もスピルバーグに依拠するものと認識されている。 しかし、ここまで大胆に介入していながら、なぜスピルバーグは自身を監督としてクレジットしなかったのか? それは同時に2本以上の監督作を公開することを禁じる全米映画監督協会の取り決めや、ストライキを懸念した急務対応で監督変更の手続きを踏めなかったことなどが起因としてある。 『ポルターガイスト』の公開から42年を経た現在、こうした「監督=スピルバーグ」は、新たな証言によってより混沌としたものとなっているようだ。2017年、『アナベル 死霊館の人形』(2014)の監督として知られるジョン・R・レオネッティは、ブラムハウスのポッドキャスト「Shockwave」に出演したさい、「撮影現場を指揮していたのはスピルバーグ」だと証言(※1)。彼は当時、アシスタントカメラマンとして同作に参加し、撮影監督の兄マシュー・レオネッティを現場でサポートしており、発言にはそれなりの信憑性がある。 だがレオネッティは言葉を付け加え、「それでもトビー・フーパーが偉大な存在であることは疑いようがない」と強調している。 また2022年、米「Vanity Fair」に主演のグレイグ・T・ネルソンとジョベス・ウィリアムズへの最新インタビューがアップされ(※2)、それによると『ポルターガイスト』はスピルバーグの現場介入はあったとしながら、あくまで同作は「フーパーとのコラボレーションの産物」なのだという見解を示している。 ◆それでもトビー・フーパーの名声は揺るぎない こうしたフーパー擁護の動きは世界的に波及し、後年『ポルターガイスト』をフーパーの監督作としてみなす主張も散見されている。たとえば我が国においては『CURE』(1997)『スパイの妻〈劇場版〉』(2020)の名匠・黒沢清が、同作からフーパーの演出の形跡を見い出して検証し、『悪魔のいけにえ』の偉大な監督の名誉回復に努めている。黒沢自身もキャリア初期の自作ホラー『スウィートホーム』(1989)をめぐり、プロデューサーだった伊丹十三と揉めた経緯があり、フーパーの受難をとても他人事とは思えないのだろう。 トビー・フーパーは後年、『ポルターガイスト』における悶着に関して積極的な主張や抗弁を避け、そして2017年8月26日、惜しまれつつこの世を去っている。言明はしていないものの、劇中のゴーストさながらに自らを責め苛んだスピルバーグの存在を、苦衷に感じていたことは想像に難くない。 そもそも、フーパーが『ナイト・スカイズ』から継続して『ポルターガイスト』の監督に起用されたのはなぜか? それはスピルバーグが『エイリアン』(1979)に心酔しており、同作に匹敵するようなホラー映画を撮りたがっていたこと。そして『エイリアン』の監督であるリドリー・スコットが、この映画のリファレンスとして『悪魔のいけにえ』を参考にしたことが、フーパー起用の流れやベースとして指摘できる。 スピルバーグも彼なりにフーパーの存在と、彼が手がけた『悪魔のいけにえ』の重要性を認識していたのだ。■ 『ポルターガイスト』© Turner Entertainment Co. (※1)https://www.independent.co.uk/arts-entertainment/films/news/poltergeist-steven-spielberg-director-conspiracy-theory-confirmed-tobe-hooper-a7846651.html (※2)https://www.vanityfair.com/hollywood/2022/09/poltergeist-at-40?utm_source=nl&utm_brand=vf&utm_mailing=VF_HWD_092222&utm_medium=email&bxid=5bd66dcf2ddf9c61943828dc&cndid=16589592&hasha=3ca14bfe2471e504eb115db7a2ff9a91&hashb=96d9312f53605901937a354eea3b47c76deaeeab&hashc=0abd56a6ab006be60ae79d00fb9e9dfb304b62a672a172fab699c03633832c4d&esrc=manage-page&mbid=mbid%3DCRMVYF012019&source=EDT_VYF_NEWSLETTER_0_HWD_ZZ&utm_campaign=VF_HWD_092222&utm_term=VYF_HWD
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COLUMN/コラム2024.08.08
『スピード』が、キアヌ・リーヴス“アクションスター”への道を切り開いた!
1964年生まれ。今年還暦を迎えたキアヌ・リーヴスの、俳優としてのイメージを問われれば、代表作に『マトリックス』シリーズ(1999~2021)や『ジョン・ウィック』シリーズ(2014~23)等がある、“アクションスター”というのが、大勢だろう。 母はイギリス人、父は中国人とハワイアンのハーフ。東洋系を感じさせる風貌もあって、映画俳優として台頭し始めた20代中盤から、日本ではいち早く人気者となった。しかしその頃のキアヌには、“アクション”のイメージは、ほとんどない。 フィルモグラフィーを覗けば、ロックスターを夢見るおバカ高校生役の『ビルとテッドの大冒険』(89)、親友のリヴァー・フェニックスと共演し、男娼を演じた『マイ・プライベート・アイダホ』(91)、フランシス・フォード・コッポラ監督が手掛けたクラシックホラー『ドラキュラ』(92)、ベルナルド・ベルトルッチ監督の演出の下、仏教の開祖役にチャレンジした『リトル・ブッダ』(94)等々。彼がその頃に出演した中で、“アクション映画”と言えるのは、FBIの潜入捜査官を演じた、『ハートブルー』(91)ぐらいだ。 若き日のキアヌは、エッジが利いた、個性的な役どころを好んで演じていたのである。 そんなキアヌとアクションのイメージを強く結び付け、本人にとっても、恐らく開眼するきっかけになったと思われるのが、本作『スピード』(94)である。 ***** ロサンゼルス。オフィスビルのエレベーターに爆弾が仕掛けられ、乗客達が閉じ込められた。ロス市警SWAT隊員のジャック(演:キアヌ・リーヴス)は、相棒ハリーと、危機一髪で爆弾を除去。乗客達を救出した。 ジャックらは更に、犯人の爆弾魔(演:デニス・ホッパー)を追い詰める。ところが爆弾魔は、強烈な爆発と共に、姿を消す。 数日後、ジャックの眼の前で、知り合いが運転する路線バスが、大爆発。爆弾魔は生きていた。彼はジャックに直接電話を寄越し、別の路線バスにも爆弾を仕掛けた旨を伝え、370万㌦の身代金を要求する。 その爆弾は、バスが時速80㌔を超えると、起爆装置のスイッチが入り、その後は、時速80㌔を下回ると、大爆発を起こす…。 該当するバスに追いつき、ジャックが乗り移ると、すでに起爆装置のスイッチはオンに。更に予想外のアクシデントから、ドライバーが負傷。スピード違反で免停中のため、バス通勤していたアニー(演:サンドラ・ブロック)に、ハンドルを託すことになる。 次から次へとあわや爆発のピンチが訪れる。ジャックは、乗客たちの助けを借りて、危機を何とか乗り越えていく。 爆弾魔の正体が、警察に恨みを抱く元警官で爆発物処理班員だったハワード・ペインと判明。ハリーが逮捕に向かうが、ペインの罠に嵌って命を落とす。 危機を共に乗り越えていく中、ジャックとアニーは、お互いに好感を抱くようになる。 アニーがジャックに言う。「極限状況で始まった恋は長続きしない」 果して、止まれないバスの運命は!? ***** 速度を落とすと、乗り物に仕掛けた爆弾が爆発するという設定。『スピード』の日本公開時、海外公開もされた日本映画『新幹線大爆破』(75)に酷似していることが、大きな話題になった。 しかし脚本を書いたグレアム・ヨストによると、元ネタは別。「世界のクロサワ」こと黒澤明監督が、ハリウッド進出作として1960年代後半に準備していた、「暴走機関車」だという。「暴走機関車」は、ブレーキ系統のトラブルによって止める術がなくなり、猛スピードで突っ走り続ける機関車を主軸にした物語。ヘンリー・フォンダが主演する予定だったが、諸事情から頓挫した。 この「暴走機関車」に、ヨストの父が関わっていた。そこで彼はアウトラインを知り、後にシナリオを目にしたのだという。 因みにこのシナリオを原案にして、1985年にアンドレイ・コンチャロフスキー監督、ジョン・ボイド主演の『暴走機関車』が製作されている。オリジナルに様々な改変を加えたこちらの作品については、ヨストは特に参考にすることはなかったという。 それまでTVシリーズの製作や百科事典の執筆などを手掛けていたヨストにとって、『スピード』は、初めて書いた映画の脚本。まずパラマウントに持ち込むものの、ペンディングとなって、最終的に20世紀フォックスに拾われた。 いざ映画化となって、監督候補が何人かいた内から決まったのが、オランダ出身のヤン・デ・ポン。それまでには、『ダイ・ハード』(88)『ブラック・レイン』(89)『氷の微笑』(92) 『リーサル・ウェポン3』(92)等々、多くのアクション映画で撮影を務めてきた。 とはいえ、監督するのは初めてであるヤン・デ・ポンに依頼したことからもわかる通り、本作『スピード』に関してフォックスは、他の映画の穴埋めをするような、小さなB級作品として扱う心積もりだった。当初組まれた予算は、2,600万㌦。最終的には3,000万㌦程度になったが、当時の大作の製作費は、6,000万から6,500万㌦ほど。 更に言えばフォックスは、本作と同じ年に、ジェームズ・キャメロン監督、アーノルド・シュワルツェネッガ―主演の『トゥルーライズ』に、1億2,000万㌦もの製作費を投じていた。それと比べれば、僅か4分の1である。 本作『スピード』主役のジャック役の有力候補だったのは、ジョニー・デップ。しかしデップは、脚本に魅力を感じないという理由で、オファーを蹴る。 その他にも何人かの若手スターが候補になる中で浮上したのが、キアヌ・リーヴス。キアヌは、ストーリーには凄く惹かれながらも、「筋肉ひとつない自分には、到底この役は務まらない」と思ったという。ちょうど前の主演作『リトル・ブッダ』で、ガウタマ・シッダールタ=若き日のお釈迦様を演じた際に、断食をして体力を落としていたタイミングでもあった。 ヤン・デ・ポンは、キアヌの運動能力に不安を感じていた。そこで、それまでのキアヌの出演作で、ほぼ唯一のアクション作品『ハートブルー』(91)での演技をチェック。サーフィンにガンアクション、アメフトにスカイダイビング等々、ほとんどノースタントでこなしたキアヌの姿を見て、「イケる」と判断を下した。 正式にジャック役に決まると、まずは2か月間ジムに通って、ウェイト・トレーニング。と言ってもヤン・デ・ポンは、当時の流行りだった、スタローンやシュワルツェネッガーのような、巨大な筋肉をつけたアクション俳優になって欲しかったわけではない。身体の均整と運動能力を高めるためのトレーニングを課したのである。 キアヌはSWAT隊員を演じるに当たって、本物の警官に会ったり、ビデオを見たりしてその仕事ぶりを研究するのと同時に、ヘアスタイルは、頭皮が見えるくらいまで刈り上げて、監督の前に現れた。それは少々短すぎたが、その時点から撮影まで2週間あったので、ちょうど良い塩梅の、クルーカットになったという。 ヤン・デ・ポンが思い描いた主人公は、観客が感情移入できる、リアルで等身大のアクションヒーロー。鍛えた胸の筋肉を晒すこともなく、悪人をバタバタと殺していくわけでもない。イメージ的には、ヒッチコック作品に於けるケーリー・グラントや、ウィリアム・ホールデンだったという。 ヤン・デ・ポンは、ヨストの脚本にはあった、主人公の暗い過去などはすべてカットした。観客はそんなものを観たいと思ってないし、そもそもキャラクターについて知りたいことは、その行動を見ていれば、「すべてわかるはず」という考えだ。主人公だけでなく、犯人も含めて主要キャラすべての背景や心理状態など、敢えて描かなかったという。 アニー役のサンドラ・ブロックは、1967年生まれ。本作出演時は20代後半で、まだまだ売り出し中の頃。キアヌとのやり取りもフレッシュに映え、一躍ブレイクに至る。因みに彼女は、役のためにバス専用の運転免許を取得したという。 本作のヴィランは、デニス・ホッパー(1936~2010)。監督・主演したアメリカン・ニューシネマ『イージー・ライダー』(69)で天下を取りながら、その後ドラッグ漬けで低迷。『ブルー・ベルベッド』(86)で奇跡の復活を遂げて以来、改めて俳優・監督・写真家として活躍中だった。ホッパーの怪演は、キアヌとのコントラストも良く、インパクト大である。 本作は15週間の撮影スケジュールの内、7週間は大掛かりなバスの走行シーンに費やされた。ロスの空港近くから28㌔に渡って走る、開通前の新しいハイウェイでは、大規模なロケが行われた。 フリーウェイの朝の交通渋滞を再現するため、車に乗った400人のエキストラが集められた。まだ建設中だったため、作業員がコンクリートを流し込んだり、標識を立てている傍で、撮影スタッフが仕事をすることも多々あったという。 そんな中で、バスの走行シーンは通常4~6台のカメラを使用。特に複雑なスタントシーンには、カメラ、照明の他にも様々な機材を装備した、12台の車両を使って撮影が行われた。 メインの舞台はバスだが、この映画のアクションの舞台は3段構え。エレベーターの中で繰り広げられるオープニング・アクション用には、フォックスの敷地内に、地上5階の高さで、実際にエレベーターと、4本のエレベーターシャフトが入ったセットを組んだ。 バスが一段落した後は、爆弾魔が乗っ取った地下鉄で大アクションが繰り広げられる。こちらは、当時新しく完成したメトロレール・レッドラインでロケを行った。 15週に渡る撮影のまさに中盤、8週目に大きなアクシデントが襲った。本作と直接関係ないが、キアヌの親友であるリヴァー・フェニックスが、薬物の過剰摂取のため、23歳の若さで命を落としたのだ。 キアヌのショックを考えて、スケジュールの調整などが行われた。しかしヤン・デ・ポンは、キアヌのことを考えると、逆に忙しくしておくのが最良と考え、撮影を中断せずに、続行した。 ポスト・プロダクション。フォックスの重役たちは大した期待はせずに編集に立ち会って、本作の出来の良さに吃驚した。それまで出し渋っていた、SFXの仕上げに掛かる追加費用を、ポンと手渡すほどに。また公開日も、より良い日程にするため、早めることとなった。『スピード』は1994年6月、アメリカで公開されると、TOPを独走。シーズン最大のヒットとなり、国内で1億2,000万ドル、全世界で3億5,000万ドルの興行収入を上げた。その年の12月に正月映画として公開された日本でも、大ヒット。配給収入45億円は、現在で言えば100億円興行と言っても良いだろう。 フォックスの失態は、本作契約時、続編がある場合の継続契約に、キアヌにサインさせるのを怠っていたこと。そのため、ヤン・デ・ポン監督とサンドラ・ブロックは続投した『スピード2』(97)に、キアヌは出演することなく、同時期に製作された『ディアボロス/悪魔の扉』(97)で、アル・パチーノと共演することを選んでいる。 仕方なく『スピード2』では、本作のセリフ「極限状況で始まった恋は長続きしない」を伏線(?)として、アニーはジャックとすでに別れている設定に。アニーの新たな恋人として、ジェイソン・パトリックが演じる別のSWAT隊員が登場した。 キアヌはこうした経緯について、「サンドラには悪いことをした…」と述懐している。サンドラの方はというと、本作の撮影終盤、ハイな状態が続いてストレスをすごく感じていた時にキアヌだけが、「…黙って隣に座って、そっと背中をなでてくれた」ことなどもあって、根に持つようなことはなかった模様。後に韓国映画のラブストーリーをリメイクした『イルマーレ』(2006)で、2人は再共演を果している。 さて本作に関して当時、「アクション・ヒーローになるつもりはないよ。ジャックのキャラクターもアクション重視の性格ではないからね」などと言ってたキアヌ。『マトリックス』や『ジョン・ウィック』を経た、現在の彼の在り方を考えると、これは恐らく「若気の至り」が言わせたセリフだったのだろう。■ 『スピード』© 1994 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2024.08.02
パレスチナ問題も見え隠れする’80年代の大型ミリタリー・アクション!『デルタ・フォース』
大作主義へ移行した’80年代半ばのキャノン・フィルムズ ‘80年代のハリウッドを席巻した独立系映画会社キャノン・フィルムズ。チャック・ノリスやチャールズ・ブロンソン主演のアクション映画を筆頭に、ホラーからミュージカル、コメディからエロスまで幅広いジャンルのB級娯楽映画を大量生産し、特に若年層の映画ファンから熱狂的に支持された会社だ。最盛期の製作本数はなんと年間30~40本にも上り、ハリウッドの各メジャー・スタジオを遥かに凌ぐほどの興行収入を記録。世界中の劇場チェーンやビデオメーカーも買収し、さながらハリウッド黄金期の如きスタジオ・システムを作り上げたのである。 その一方で、ジャン=リュック・ゴダールやフランコ・ゼフィレッリ、ロバート・アルトマンにジョン・カサヴェテスなど、国内外の巨匠・名匠たちのアート映画も積極的にプロデュースするなど、キャノンの作品ラインナップは極めてユニークかつバラエティ豊かだった。中でも、アメリカへ移住してから何年も仕事のなかったロシアの名匠アンドレイ・コンチャロフスキーに、ハリウッド・デビューのチャンスを与えた功績は高く評価されるべきだろう。もちろん、カサヴェテスの『ラブ・ストリームス』(’84)やバーベット・シュローダーの『バーフライ』(’87)など、大手スタジオであれば間違いなく却下されたであろう地味なアート映画に金を出したのも偉い。しかも、これらの作品をB級娯楽映画と抱き合わせで、つまりチャック・ノリスやチャールズ・ブロンソンの映画が欲しければ、カサヴェテスやアルトマンの映画も一緒に買わないと売りませんよ~という戦略で、一般受けしづらいアート映画を世界中に売り捌いたというのだから見上げたものである。 こうして力を付けて行ったキャノンは、’80年代半ばから徐々に大作主義へと移行。トビー・フーパー監督のSFホラー『スペース・バンパイア』(’85)にロマン・ポランスキー監督の海賊映画『ポランスキーのパイレーツ』(’86)、シルヴェスター・スタローン主演の刑事アクション『コブラ』(’86)などなど、予算に超シビアなキャノンらしからぬ潤沢な製作費を投じた大作映画を立て続けに製作していく。そんなキャノン・フィルムズ版ブロックバスター映画を象徴するヒット作のひとつが、オールスター・キャストの大型ミリタリー・アクション『デルタ・フォース』(’86)だ。 物語の始まりは1980年。中東イラクのテヘランへ派遣された米陸軍の対テロ特殊部隊デルタ・フォースは、真夜中の人質救出作戦に失敗して撤退することに。逃げ遅れた仲間を命がけで救ったスコット・マッコイ大尉(チャック・ノリス)は、明らかに無茶な作戦を強行させた軍上層部や政治家に嫌気がさし、上司のアレクサンダー大佐(リー・マーヴィン)に辞意を伝える。 それから5年後。アテネの空港を出発したニューヨーク行きの旅客機、アメリカン・トラベル・ウェイ(ATW)202便が2人組のアラブ人テロリストにハイジャックされる。イスラム過激派のリーダーである主犯格のアブドゥル(ロバート・フォースター)は、コクピットのキャンベル機長(ボー・スヴェンソン)にベイルートへ航路を変更するよう指示し、さらにフライト・パーサーのイングリッド(ハンナ・シグラ)に命じて乗客全員のパスポートを没収。その目的は乗客の中からユダヤ人を隔離してベイルートのアジトへ連行し、アメリカ政府を脅迫するための人質にすることだった。まるでナチスによるホロコーストの再現。ドイツ人であるイングリッドは猛反発するが、テロリストたちに従うしか選択肢はなかった。 一方、キャンベル機長がとっさの機転で発信したハイジャック信号をアテネの管制塔がキャッチし、アメリカ大使館を通じてホワイトハウスへ連絡が行く。報告を受けたペンタゴンのウェドブリッジ将軍(ロバート・ヴォーン)はデルタ・フォースを招集するようアレクサンダー大佐に指示。ニュースで事態を知ったマッコイも駆けつけ、少佐に昇進してデルタ・フォースへの復帰を果たす。ATW202便がベイルートを経由してアルジェリアへ向かったことから、デルタ・フォースもすぐさま現地へ急行。女性の乗員乗客全員が解放されたタイミングを見計らって、機内に残った2人のテロリストを急襲する手はずだったが、しかしイングリッドからユダヤ人男性たちがベイルートで降りたことを聞いて中止。作戦変更を迫られたマッコイらは、イスラエル軍の協力を得てテロ組織のアジトを突き止め、人質となったユダヤ人たちを救出せんとする…。 実在の事件を題材にして当時のアメリカ社会の世相を反映 監督はキャノン・フィルムズを含むグループ企業「キャノン・グループ」の総裁でもあったメナハム・ゴーラン。もともと母国イスラエルで’60年代から活躍していたゴーランは、地元の映画賞はもとより米国のアカデミー賞やゴールデン・グローブ賞の外国語映画賞も席巻して「イスラエルのクロサワ」と呼ばれた大物映画監督であり、日本でも大ヒットした性春コメディ『グローイング・アップ』(’78)シリーズなどを製作したイスラエル屈指の映画プロデューサーでもあった。そんな彼が従弟ヨーラム・グローバスと一緒にハリウッドでの成功を夢見て渡米し、倒産寸前の弱小映画会社キャノン・フィルムズを破格値で買収したのが’79年のこと。当初はなかなかヒットに恵まれなかったゴーラン&グローバスだが、しかしチャールズ・ブロンソンが主演した『狼よさらば』(’74)の続編『ロサンゼルス』(’82)が予算800万ドルに対して世界興収4000万ドルを記録。その後も、たったの3週間で撮りあげた『ブレイクダンス』(’84)が予算120万ドルで興行収入3800万ドル、チャック・ノリス主演の『地獄のヒーロー』(’84)が予算150万ドルで興行収入2600万ドルと大成功を収める。ブロンソンとノリスはキャノンの看板スターとなったわけだが、実はもともと本作はこの2人の夢の初共演として用意された企画だったという。 企画の発案者は当時キャノンの専属脚本家だったジェームズ・ブラナー。軍隊出身のブラナーは引退後に映画界を目指し、初めて書いた脚本を知人の紹介でチャック・ノリスに持ち込んだところ、それが『香港コネクション』(’81)として映画化されスマッシュヒットとなる。これで脚本のオファーが次々舞い込むと考えたブラナーだったが、しかし現実はそう甘くなく、それっきり映画の仕事は途絶えてしまった。その後、彼は『香港コネクション』のスタントマンに紹介された女性と結婚。この奥さんがノリスと親しかったらしく、彼女を介して久しぶりに依頼された仕事が『地獄のヒーロー』の脚本だった。 で、この『地獄のヒーロー』にテクニカル・アドバイザーとして参加していた元陸軍大尉ジム・モナハンが、実はデルタ・フォース創設時の訓練教官のひとりだったという。現在でも陸軍は公式に存在を認めていないデルタ・フォース。当時は一部の軍関係者しか存在を知らなかった。『地獄のヒーロー』の撮影現場でモナハンからデルタ・フォースに関する情報や逸話を聞いたブラナーは、これは映画の題材にもってこいだと考えて社長のメナハム・ゴーランに提案。当初は全く関心を示さなかったゴーランだが、しかし『地獄のコマンド』(’85)の撮影完了後に次回作としてゴーサインを出す。もちろん、最大の売りはチャック・ノリスとチャールズ・ブロンソンの初共演だ。すると、ちょうどその頃に中東で旅客機のハイジャック事件が発生。機を見るに敏なゴーランは、この事件を映画のストーリーに組み込むよう指示。そこでブルナーは、テレビや新聞のニュース報道をリアルタイムで追いかけながら脚本を書き進めた。 そう、本作にはモデルとなった実在の事件があるのだ。それが、’85年6月14日に起きた旅客機トランス・ワールド・アメリカ(TWA)847便のハイジャックテロ事件。アテネ発サンディエゴ行きのTWA847便がパレスチナ人のイスラム過激派テロリスト2名にハイジャックされたのである。犯人たちはイスラエルに囚われたシーア派活動家766名の解放などを要求。映画ではハッキリと言及されているわけではないが、アブドゥルと一緒にハイジャックを決行したムスタファはパレスチナ人と思われる。ユダヤ人だけが他の乗客と隔離されたり、たまたま乗り合わせた米海軍のダイバーが射殺されて滑走路へ投げ捨てられたり、中継地点(劇中ではベイルートだが実際の事件ではアルジェ)で武装した仲間のテロリストたちが乗り込んできたり、機長がコクピットでテロリストに銃を突き付けられながら記者会見に応じたりと、映画では実際の出来事をニュース映像やニュース写真を参考にしながら忠実に再現している。 ただし、終盤のデルタ・フォースによるテロ組織への総攻撃は完全なるフィクション。これは脚本の執筆中に実際の事件が解決しなかったからということもあるが、そもそも本作はデルタ・フォースの活躍を描くことが企画のベースであるし、なによりもこういうアクション・エンターテインメントには正義が悪を滅ぼしてメデタシメデタシのクライマックスが相応しい。それに、たとえ事件を最後まで見届けたうえで脚本に取り入れたとしても、恐らく映画としては全く面白味のないものになっていただろう。なにしろ、実際はギリシャやイスラエルなど各国の交渉によって乗客は段階的に解放され、テロリストの要求通りに766名のシーア派活動家たちも釈放され、犯人たちは罪に問われることなく事件の幕は下りたのだから。 いずれにせよ、当時のレーガン政権下におけるアメリカ社会の世相を考えても、本作の勧善懲悪なフィナーレは妥当と言えよう。「アメリカを再び偉大な国に!(Make America Great Again)」を合言葉に第40代米国大統領に当選したロナルド・レーガン大統領。前任者であるカーター大統領の平和外交を弱腰と非難した当時の米国民は、軍事予算を増やしてアメリカの軍備を強化し、中東でも南米でもアメリカに盾突く勢力は力でねじ伏せ、諸外国の事情など意に介さないという、レーガン大統領による自国中心主義の強気な外交を支持していた。本作はもちろんのこと、『ランボー/怒りの脱出』(’85)も『地獄のヒーロー』もそんな時代の産物と言えよう。 ちなみに、そのカーター大統領の支持率が急落する原因となり、後にレーガン政権が誕生するきっかけになったとされるのが、本作のオープニングの元ネタになった「イーグルクロー作戦」。’80年4月24日にイランで決行されたデルタ・フォースによる人質救出作戦だ。前年にイランのテヘランでアメリカ大使館人質事件が発生。軍事的手段を行使しないことを批判されたカーター大統領は、デルタ・フォースを含む米軍を総動員して「イーグルクロー作戦」と命名した人質救出作戦を行うのだが、これが見事に失敗してしまう。なので、いわばデルタ・フォースが過去の汚名を挽回する本作のクライマックスは、ある種の歴史修正主義的な側面があると言えよう。つまり、現実の世界でアメリカが受けた恥辱を、映画の中で晴らしたのである。なるほど、劇場公開時のアメリカで、「ナショナル・リベンジ・ファンタジー」と揶揄されたわけだ。 テロリストの描写に秘められたゴーラン監督のパレスチナへの想い こうして、実際に起きたハイジャックテロ事件をストーリーに取り入れることとなった本作。当初は『地獄のヒーロー』と『地獄のコマンド』でもチャック・ノリスと組んだジョセフ・ジトーが監督する予定だったが、ここへきて社長のメナハム・ゴーランが俄然やる気を出してしまう。というのも、かつてアカデミー賞外国語映画賞にもノミネートされた『サンダーボルト救出作戦』(’77)という、’76年に起きたエンテベ空港ハイジャック事件を題材にした類似映画を撮ったことのあるゴーランは、この手の実録ミリタリー・アクションが大好きだったのである。中盤までの荒唐無稽を排したシリアスなドキュメンタリータッチの演出はさすがの腕前。改めて見直して意外に思うのは、パレスチナ人のテロリストを極めて同情的に描いていることであろう。自身がパレスチナで生まれ育ったゴーラン監督は、アラブ人を冷酷非情な悪魔として描くことに強い抵抗があったらしい。’14年に85歳で亡くなったゴーランだが、もし彼が今も生きていたとしたら、現在のパレスチナで起きているイスラエル軍によるジェノサイドをどう考えるだろうか。当時とは違った見方の出来る映画でもある。それだけに、終盤へ差し掛かって突然、愛国ヒロイズムと米軍プロパガンダを全面に押し出したマンガ的な荒唐無稽アクションに方向転換してしまったのは残念だが、しかし当時の世相や観客受けを考えれば妥当な決断だったとも言えよう。 先述した通り、当初はチャック・ノリスとチャールズ・ブロンソンの初共演となるはずで、2人の写真を使った広告まで業界誌に出していたが、しかしブロンソンはスケジュールの都合がつかずに降板。代わりにアカデミー賞主演男優賞に輝くタフガイ俳優リー・マーヴィンが、代表作『特攻大作戦』(’67)を彷彿とさせるアレクサンダー大佐を演じている。脇を固める名優たちも、ジョージ・ケネディにシェリー・ウィンタース、ロバート・ヴォーンにロバート・フォースターなど、’70年代に流行ったオールスター・キャストのディザスター映画に出ていた顔触れ。そのほか、シナトラ一派のジョーイ・ビショップに’50年代の清純派アイドル女優スーザン・ストラスバーグ、『サイコ』(’60)や『ティファニーで朝食を』(’61)のマーティン・バルサムなど、全体的に古き良きハリウッド映画へのノスタルジーを感じるようなキャスティングだ。同時代のスターと呼べるのは、当時ドイツを代表するトップ女優だった客室乗務員イングリッド役のハンナ・シグラと、青春映画スターとして頭角を現していた若き尼僧メアリー役のキム・デラニーくらいか。なお、マッコイの右腕的な黒人隊員ボビー役のスティーヴ・ジェームズは、『アメリカン忍者』(’85)シリーズや『地獄の遊戯』(’86)でも主人公の相棒を演じたキャノン御用達の黒人スターだった。 日本での劇場公開版は118分、全米公開のオリジナル全長版は約130分の本作だが、実は最初に出来上がったバージョンは4時間近くもあったらしい。実際の事件で一躍英雄となった客室乗務員ウーリ・デリックソンをモデルにしたイングリッドのエピソードなど、乗員乗客を深掘りした人間ドラマが詳細に描かれていたようだが、さすがに長すぎるためバッサリとカットされてしまった。最終的にかかった製作費は900万ドルと意外に控えめだが、しかしアメリカ国内だけで1800万ドル近い興行収入を記録。おのずとシリーズ化されて『デルタフォース2』(’90)に『デルタフォース3』(’91)も作られる。キャノンの大作主義もますます加速。しかし、翌年のスタローン主演作『オーバー・ザ・トップ』(’87)とアメコミ・ヒーロー映画『スーパーマンⅣ/最強の敵』(’87)がコケてしまい、栄華を極めたキャノン・フィルムズの黄金時代はほどなくして終焉を迎えるのだった。■ 『デルタ・フォース』© 1986 Metro-Goldwyn-Mayer Studios Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2024.08.02
若き天才デイミアン・チャゼルが、『ラ・ラ・ランド』で成し遂げたこと
1985年生まれの、デイミアン・チャゼル。ハイスクール時代はミュージシャンを目指してジャズを学ぶが、ハーバード大学に進む頃には、幼き日の夢だった映画監督への想いが甦る。チャゼルは貪るように古今東西の映画を観まくったというが、そんな中でも、“ミュージカル映画”に夢中になった。 本作『ラ・ラ・ランド』(2016)のアイディアが浮かんだのは、ハーバード在学中。チャゼルは学友で、その後共に歩むことになる、作曲家ジャスティン・ハーウィッツと、ストーリーを練り始めた。 そのハーウィッツと共に、ハーバードの卒業製作として作り上げたのは、16mmフィルムで撮影した、全編モノクロのミュージカル『Guy and Madeline on a Park Bench』(2009)。ジャズに執心する主人公Guyのキャラクターは、チャゼルのその後の作品にも、引き継がれていく。 この卒業製作が評判となり、小規模ながら劇場公開に至った。ちょうどその頃、2010年にチャゼルは、『ラ・ラ・ランド』の脚本初稿を書き上げる。 プロデューサーを雇っての売込みに、『ラ・ラ・ランド』に興味を持つ製作会社が現れた。しかし、主人公が愛する音楽をジャズでなくてロックに変更することや、オープニングの曲の差し替え等を求められたため、プロジェクトは頓挫する。 チャゼルは、方針を転換。商業映画デビュー作としては、『ラ・ラ・ランド』よりは低予算でイケる、『セッション』(14)に、取り組むことにした。 ハイスクール時代の自身の経験も多く盛り込んだという『セッション』は、名門音楽学校に入学した若きドラマーと伝説の鬼教師の攻防を、息も突かせぬド迫力で描いた作品。 330万ドルの製作費に対し、世界中で5,000万ドルの興行収入を上げ、またその年度のアカデミー賞で、5部門にノミネートされた。結果として、作品賞及びチャゼルがノミネートされた脚色賞は逃したものの、鬼教師を演じたJ・K・シモンズに助演男優賞、更に編集賞、録音賞の計3部門での受賞となった。『セッション』をリリースした際、まだ30歳になる前だったチャゼルは、「若き天才」との呼称を恣にする。ここに、『ラ・ラ・ランド』映画化の機は熟した。製作会社のライオンズゲートに提案すると、製作費3,000万㌦を掛けて、チャゼルが思い描いた通りの内容で撮れることになったのだ。 当初主役のカップルには、エマ・ワトソンと、『セッション』の主演だったマイルズ・テイラーの名が挙がった。しかしワトソンは、ディズニーの実写版『美女と野獣』(17)ヒロインのオファーを選ぶ。そしてテイラーとの交渉も不調に終わったため、新たなキャスティングが進められることとなった。決まったのは、同じエマでも、エマ・ストーン、そしてライアン・ゴズリングである。 ***** クリスマスが近くても暑い、冬のロサンゼルス。 女優になる夢を叶えるためこの街に来たミア(演:エマ・ストーン)は、映画スタジオ内のコーヒーショップに勤めながら、様々なオーディションを受ける日々。 ある日、ピアノの音色に誘われて足を踏み入れたレストランで、その奏者に感動を伝えようとする。しかし当のピアニスト、セブことセバスチャン(演:ライアン・ゴズリング)は、店長の指示に従わず、勝手な曲を演奏したため、その場でクビに。セブは近寄ってきたミアを無視し、店外へと消えた…。 春が訪れ、ミアとセブは再会。偶然の出会いが続き、2人は言葉を交わすようになる。「時代遅れ」と揶揄されるようなジャズをこよなく愛するセブの夢は、いつか好きな曲を好きなだけ演奏する、自分の店を持つこと。お互いの夢を熱く語り合う内に、2人は惹かれ合い、やがて結ばれる。 夏が来る頃には、ミアとセブは同棲。互いの夢を支え合い、幸せの絶頂にいた。 生活のための術が必要と考えたセブは、かつての音楽仲間が組んだバンドに、キーボード奏者として参加。その楽曲は、セブが愛するフリージャズとはかけ離れており、ライヴに出向いたミアは、戸惑いを覚える。 しかしバンドは大人気となり、セブはツアーやレコーディングで多忙に。2人は、会えない時間が多くなる…。 秋。ツアーを抜け出して、ミアにサプライズを仕掛けたセブ。しかしミアのちょっとした一言から、大喧嘩となってしまう。 そんな折り、ミアがセブの勧めで書き上げたひとり芝居が、幕を開ける。しかし客席はガラ空き。公演後には酷評が耳に届く。打ちのめされたミアは、仕事のため公演に間に合わなかったセブに、「何もかも終わり」と告げ、故郷に帰ってしまう。 数日後、ひとり残されたセブの元に、ミアを探す配役事務所から電話が入るが…。 ***** ミア役のエマ・ストーンは、ブロードウェイでミュージカル「キャバレー」に出演。評判になったのを受けてのキャスティングだった。 チャゼルは、セブ役にライアン・ゴズリングを得たことを、本作の「製作の長いプロセスのキーになった」ポイントとして、挙げている。 ストーンとゴズリングの共演は、『ラブ・アゲイン』(11)『L.A. ギャング ストーリー』(13)に続いて、本作で3度目。そのすべてでカップルを演じている2人の相性が、フレッド・アステア&ジンジャー・ロジャース、ハンフリー・ボガート&ローレン・バコール、マーナ・ロイ&ウィリアム・パウエルといった、ハリウッドの伝説のカップルのように、「しっくり合っている」と、チャゼルには感じられたのだ。 撮影前の準備期間、ゴズリングはジャズ・ピアノを、3ヶ月練習。その成果として、本作では全編、本人による演奏が見られる。手元のクローズアップでも、代役は使っていない。 セブが加入するバンドのリーダーを演じた、ミュージシャンのジョン・レジェンドは、ゴズリングのあまりの習得の早さに驚愕。嫉妬すら覚えたという。 ピアノと同時に、ゴズリングはエマ・ストーンと、ダンスの練習にも励んだ。ストーン曰く、2人は売れないアーティストの役なので、圧倒的な歌唱力やダンスといったものは、「求められなかった」という。2人の関係がある意味では未熟に見えることを、チャゼルが望んだが故である。 さて本作のタイトル『ラ・ラ・ランド』は、チャゼルによると、ロサンゼルスを「からかうような感じで呼ぶとき」に使うという。それに加えて、空想にふけるという意味もあり、夢を見るのはすてきなことだというメッセージも籠めたのである。 そんな『ラ・ラ・ランド』は、40日間掛けて、グリフィス天文台から歴史あるジャズクラブまで、ロサンゼルスの各所でロケ撮影が行われた。 チャゼルが愛する、1930年代から50年代に掛けての、アステア&ロジャースやジーン・ケリーが主演したミュージカルは、スタジオにセットを組み、先に歌声を録音した楽曲を流しながら、ダンスシーンを撮った。しかし本作は、ロケ地で演者が歌って踊り、生歌を同時に録音する方式で、撮影が行われた。 しかもすっかりデジタル撮影が主流になっていたこの時代に、フィルムを使用。並大抵の準備では、済まなかった。 オープニングのつかみとなる、ハイウェイの大渋滞を縫っての群舞シーン。警察の協力で、高速道路を封鎖して、ロケが行われた。 驚異のワンカット撮影を、限られた時間で行わなければならないため、スタジオの駐車場に、作り物の分離帯や車を沢山置いて、丁寧にリハーサル。いざ本番は、気温が43度という猛暑の中で行われた。 一発OKとはいかないため、撮影が終わる度にダンサーたちはアシスタントに抱えられて、スタート地点に戻る。そして汗を拭き取り予備の衣装に着替えてから、リテイクに臨んだという。 因みに本作の振り付けを担当したのは、TVのミュージカルドラマ「glee/グリー」で評判をとった、マンディ・ムーア。高速道路のシーンでは、撮影中に写り込んでしまうことを避けるため、車の下に隠れて指示を出したという。 ハリウッドの丘の上で、ストーンとゴズリングが踊るシーンも、現地ロケ。日没直後のマジックアワーを狙ったため、撮影のチャンスは、2日間で30分ほど。そんな中で2人は、長回しのダンスシーンを、繰り返し撮影した。 先に記した、ハリウッド黄金期のミュージカル以上に、チャゼルが影響を受けたのは、実はフレンチ・ミュージカル。ジャック・ドゥミー監督、ミシェル・ルグランが音楽を担当した『シェルブールの雨傘』(1964)こそが最大級の意味で、「僕を成長させてくれた映画」と、語っている。そして当然のように本作でも、オマージュが捧げられている。 その一方でチャゼルが腐心したのは、ノスタルジックや演劇的になり過ぎないようにすること。曰く、「ミュージカルには他のジャンルにない楽しさ、高揚感があるけれど、同時に現実的で正直なストーリーが必要だ。ファンタジーとリアルがね」 ファンタジーとリアル/夢と現実が一体となった、新しいミュージカル映画のスタイルを作り出すための一助となったのが、マーティン・スコセッシ監督のボクシング映画『レイジング・ブル』(80)。この作品では、カメラをボクシングのリング内に持ち込んで、常にボクサーの動きに焦点を合わせる形で、撮影が行われている。スコセッシは、リング上では観客がボクサーの眼を持ち、殴られているのは自分だという意識を持たせるために、この手法を考案した。 これを「表現主義的なカメラワーク」と言うチャゼルは、スコセッシがリングの中にカメラを置いたように、自分はダンスの中にカメラを置きたかったと語っている。 スコセッシ作品からの影響という意味では、『ニューヨーク・ニューヨーク』(77)も忘れてはいけない。この作品でカップルを演じたのは、ライザ・ミネリとロバート・デ・ニーロ。ミネリは無名の俳優からハリウッドの大スターに、デ・ニーロは売れないサックス奏者からジャズ・クラブのオーナーへと成功の道を歩みながら、別れ別れとなっていく。『ラ・ラ・ランド』のミアとセブの軌跡は、『ニューヨーク・ニューヨーク』の2人の歩みと、ほぼほぼカブる。 さて本作『ラ・ラ・ランド』の別れた2人は、ラスト近くになって、5年振りに再会。そこで実際にはそうならなかった、2人が添い遂げる人生が、イメージの中で展開する。 チャゼルが「ただの夢じゃない」と語るこのシーン。たとえ今は別々の人生を送っていても、あの時2人で愛し合った、素晴らしき時間があったからこそ、今の自分たちがある。「あり得た人生」を想うのは、単なる後悔ではなく、希望ともなる…。 『ラ・ラ・ランド』はクランクアップから、編集に1年掛けて完成。まずは2016年秋の「ヴェネチア映画祭」オープニング作品として、大きな話題をさらった。 その後本国アメリカで大ヒットを記録すると同時に、各映画賞で受賞ラッシュとなる。その本命と言うべき、2017年2月に開催されたアカデミー賞では、史上最多タイの14ノミネート。監督賞、主演女優賞など6部門で受賞を果したが、それ以上に前代未聞のアクシデントに巻き込まれたことが、大ニュースとなった。 この年の“作品賞”のプレゼンター、ウォーレン・ベイティが受賞作品の封筒を開け、『ラ・ラ・ランド』と発表を行った。しかし受賞スピーチが始まった直後に、これがスタッフのミスによる封筒取り違えと判明。改めて『ムーンライト』(16)に“作品賞”が与えられるという、大珍事が起きてしまったのだ。 “作品賞”という大魚を逃しながらも、それ以上にインパクトの残る形で、記録や記憶に残った、『ラ・ラ・ランド』。それもまたデイミアン・チャゼル、当時の「若き天才」ぶりに贈られた、勲章のようにも思える。■ 『ラ・ラ・ランド』© 2017 Summit Entertainment, LLC. All Rights Reserved. Sebastian (Ryan Gosling) and Mia (Emma Stone) in LA LA LAND. Photo courtesy of Lionsgate.
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COLUMN/コラム2024.07.31
シュワちゃん人気を不動のものにした’80年代バトル・アクションの快作!『コマンドー』
映画は当たっても2流スター扱いだった当時のシュワルツェネッガー ‘80年代のハリウッドを代表するアクション映画スター、アーノルド・シュワルツェネッガーの人気を決定づけた大ヒット作である。ご存知の通り、世界的なボディビルダーから俳優へと転向したオーストリア出身のシュワルツェネッガー。役者デビューは’70年にまで遡るのだが、しかしその人並外れたマッチョ体型と外国訛りの強い発音、さらには長くて覚えにくい名前がハンデとなってしまい、なかなか良い仕事に恵まれなかった。 大きな転機となったのは有名なファンタジー小説「英雄コナン」シリーズを映画化したヒーロー映画『コナン・ザ・グレート』(’82)。魔法や怪物が存在する太古の昔を舞台にした冒険活劇で、超人的な肉体を持つ英雄コナンはシュワルツェネッガーにしか演じられないハマリ役となる。なにしろ、それまで映画関係者から「気味が悪い」とまで言われたマッチョ体型がここでは存分に活かせるし、そもそも舞台設定が有史以前の世界なので英語のセリフに訛りがあっても不自然ではない。映画自体も世界的な大ヒットを記録し、シュワルツェネッガーは一躍注目の的に。続編『キング・オブ・デストロイヤー/コナンPART2』(’84)や姉妹編的な『レッドソニア』(’85)にも出演した。 その英雄コナン以上の当たり役となったのが、ジェームズ・キャメロン監督の出世作でもあるSFアクション映画『ターミネーター』(’84)で演じた、未来から現代へと送り込まれた無表情・無感情の殺人サイボーグ「ターミネーター」だ。同作は低予算のB級アクション映画ながらブロックバスター級のメガヒットとなり、これまでに5本の続編映画やテレビのスピンオフ・シリーズなどが誕生、シュワルツェネッガーのキャリアにおいて最大の代表作となったわけだが、しかしそれでもなお、当時のハリウッドにおける彼はまだまだぽっと出のB級映画スター、規格外の体型で原始人やロボットを演じるキワモノ俳優というイメージが強く、次から次へと現れては短命で消えていくアクション映画俳優のひとりと見做されていた。 実際、本作のヒロイン役を20名以上の有名女優にオファーしたものの、その全員からことごとく共演を断られてしまったという。要は2流扱いされていたのである。そんなシュワルツェネッガーが初めて等身大の人間臭いヒーローを演じ、大物シルヴェスター・スタローンの向こうを張るアクション映画スターとしての地位を不動のものにしたヒット作が、いかにも’80年代らしい勧善懲悪のバトル・アクション『コマンドー』(’85)である。 心優しき父親にして最強の殺人マシン、ジョン・メイトリックス! 主人公はアメリカ陸軍特殊作戦コマンドーの指揮官だったジョン・メイトリックス(アーノルド・シュワルツェネッガー)。今は陸軍を引退して大自然に囲まれた山荘で暮らし、愛娘ジェニー(アリッサ・ミラノ)と平凡だが満ち足りた幸福な毎日を送っているメイトリックスだが、そんな彼のもとへ陸軍時代の元上司・カービー将軍(ジェームズ・オルソン)が急遽やって来る。実は、メイトリックスの部隊に所属していた元隊員たちが、何者かによって次々と暗殺されているという。敵はメイトリックスの命も狙っているに違いない。そう警告しに来たカービー将軍は、護衛の兵士を置いて去っていくのだが、その直後に謎の武装集団が山荘を襲撃する。万が一のために備えていた武器で応戦するメイトリックス。しかし護衛の兵士たちは殺され、娘ジェニーも人質として連れ去られてしまう。決死の覚悟で敵を追跡するメイトリックスだが、結局は彼自身も捕らわれの身となってしまった。 敵のアジトへと連れて行かれたメイトリックス。そこで待ち受けていた黒幕は、かつて彼の部隊によって失脚させられた南米バルベルデ共和国の独裁者アリアス(ダン・ヘダヤ)だった。しかも、その一味の中には元部下ベネット(ヴァーノン・ウェルズ)も含まれている。メイトリックスに個人的な恨みを抱いているベネットは、アリアスに10万ドルの報酬で雇われ、己の死を偽装して一味の計画に加担していたのだ。その計画とは、バルベルデで英雄視されているメイトリックスを現地へ送り込み、彼を信頼する現職大統領を暗殺させてアリアスが再び権力へ返り咲くというもの。そのための人質として、娘のジェニーを誘拐したのだ。 協力を拒めば娘の命はない。仕方なく任務を引き受けたメイトリックスだが、しかし同行する監視役を殺してバルベルデ行きの飛行機から秘密裏に脱出する。というのも、任務が成功しても失敗しても敵はジェニーを殺すだろう。ならば相手が油断している隙に隠れ家を突き止め、監禁されているジェニーを救い出すべきだと考えたのである。ただし、飛行機がバルベルデへ到着すれば、こちらの動きもバレてしまう。残された猶予は11時間。それまでにジェニーを救出せねばならない。空港へ戻ったメイトリックスは、手がかりを知る敵の仲間サリー(デヴィッド・パトリック・ケリー)を尾行。たまたま居合わせた航空会社の客室乗務員シンディ(レイ・ドーン・チョン)を無理やり巻き込み、スパイも顔負けの秘密工作と諜報活動を駆使して、アリアス一味の隠れ家へ迫らんとするのだが…? ハードなアクションと軽妙洒脱なユーモアの組み合わせは、さながら古き良きジェームズ・ボンド映画の如し。実際、マーク・L・レスター監督はボンド映画を多分に意識したという。真面目な顔をしてジョークをかますのはシュワルツェネッガーの十八番だが、その原点はまさに本作。後に『ツインズ』(’88)や『キンダーガートン・コップ』(’90)を大成功させたことからも分かるように、コメディのセンスと才能に恵まれているのは、ライバルのシルヴェスター・スタローンにはないシュワルツェネッガーの長所と言えよう。なおかつ、本作では元特殊部隊の屈強な殺人マシンでありながら、心優しい普通の父親の顔も持ち合わせた正義の味方という頼もしいヒーロー像を体現。やがて日本でも「シュワちゃん」と親しみを込めて呼ばれることになる、「気は優しくて力持ち」的なイメージは本作で初めて確立したのではないかと思う。 もともと本作の脚本は、当時まだ無名の新人だったジョセフ・ローブとマシュー・ワイズマンが、ロックバンド「KISS」のジーン・シモンズのために書いたもの。しかし、シモンズ本人から却下されたためにお蔵入りしていたらしい。それを20世紀フォックスの書庫から発掘したのが、『48時間』(’82)シリーズや『リーサル・ウェポン』(’87)シリーズ、『プレデター』(’87)シリーズに『ダイ・ハード』(’88)シリーズなどでお馴染みの大物プロデューサー、ジョエル・シルヴァー。当初からシュワルツェネッガーの主演を念頭に脚本を探していたシルヴァーは、SFでもファンタジーでもない純然たるアクションが良いと考えてチョイスしたそうだが、しかしオリジナル脚本では主人公が元イスラエル兵だったりとシュワルツェネッガーが演じるには無理のある設定が多かったため、『48時間』や『ダイ・ハード』でもシルヴァーと組んだ売れっ子脚本家スティーブン・E・デ・スーザがリライトを任された。 監督に抜擢されたのは、ジョエル・シルヴァーがヒュー・ヘフナーのプレイボーイ・マンションのパーティへ招かれた際、たまたま知り合って親しくなったマーク・L・レスター。『スタントマン殺人事件』(’77)や『処刑教室』(’82)など良質なB級アクションで知られるレスター監督だが、しかし当時は自身初のメジャー大作『炎の少女チャーリー』(’84)が大コケしたばかり。それでもシルヴァーが彼を起用したというのは、恐らくよほどウマが合ったのかもしれない。そのレスター監督とデ・スーザを伴ってシュワルツェネッガーのもとを訪れ。出演交渉を行ったというシルヴァー。まだ脚本の最終版が仕上がっていなかったため、デ・スーザが口頭で内容を説明したのだそうだが、それを聞いたシュワルツェネッガーは「裸で走り回る石器人でもなければサイボーグでもない、普通の人間をようやく演じられる」と喜んだらしい。 とはいえ、切り倒した大木をひょいと肩に乗せて運んだり、公衆電話ボックスを中に人が入ったまま放り投げたり、サリー役デヴィッド・パトリック・ケリーの足を片手で掴んで逆さ吊りにしたり、なんだかんだと常人にはあり得ない怪力ぶりを発揮する主人公メイトリックス。演じるシュワルツェネッガーも現実にはそこまでの超人ではないため、劇中に出てくる大木も公衆電話ボックスも、実は本物より軽い撮影用のニセモノを使用している。もちろん、ボックスに入っている人間もダミー。また、デヴィッド・パトリック・ケリーを片手で逆さ吊りにするシーンでは、カメラに写らないようにしてクレーン車でケリーを吊り上げている。 実はメイトリックスに対するベネットの倒錯したラブストーリーだった!? ヒロインのシンディ役には、伝説的な音楽デュオにしてお笑いコンビ「チーチ&チョン」のトミー・チョンを父親に持つ黒人女優(厳密には父親が中国系とアイルランド系などのミックス、母親がアフリカ系と先住民チェロキー族のミックス)レイ・ドーン・チョン。彼女もまた父親譲りでコメディの才能に長けている人で、シュワルツェネッガーとの相性も抜群だ。また、メイトリックスの娘ジェニーを演じるアリッサ・ミラノは、当時テレビのシットコム『Who’s the Boss?』(‘84~’92)で大人気だったティーン女優。同番組が未放送だった日本では、本作をきっかけに美少女アイドルとして人気が沸騰し、日本市場向けに歌手デビューしたり、日本のテレビCMにも出演したりと大活躍だった。映画雑誌「スクリーン」や「ロードショー」のグラビアページや付録ポスターにもたびたび登場。50代以上の映画ファンには懐かしいスターと言えよう。 一方、メイトリックスの元部下で最大の宿敵ベネットには、『マッドマックス2』(’81)のモヒカン刈り暴走族ウェズの怪演で注目されたオーストラリア人俳優ヴァーノン・ウェルズ。もともとは別の役者がキャスティングされていたが、しかし撮影現場で演技を見たレスター監督はベネット役に向いていないと判断して初日でクビに。『マッドマックス2』で印象に残っていたウェルズを急きょ起用することになったという。また、南米の独裁者アリアス将軍役も当初は名優ラウル・ジュリアを想定していたが、しかし配給を担当する20世紀フォックスの重役から友人のダン・ヘダヤを使うよう指定されたという。体は小さいが態度はデカい小悪党サリーには、『ウォリアーズ』(’79)や『48時間』などウォルター・ヒル作品でお馴染みのデヴィッド・パトリック・ケリー。彼も本作を機に売れっ子の性格俳優となった。なお、メイトリックスとシンディが乗る水上セスナ機に無線で警告を発する、沿岸警備隊防空部の通信オペレーター役として、無名時代のビル・パクストンが顔を出しているのも要注目だ。 ちなみに、劇中ではいまひとつ曖昧にされているベネットがメイトリックスを恨む理由だが、レスター監督曰く撮影現場でキャストやスタッフに共有していた裏設定があるという。それによると、ある任務でベネットは自分が置き去りにされたと勘違いし、メイトリックスのことを「自分を見殺しにした男」として一方的に恨んでしまった…ということらしい。ただし、ファンの間ではベネットの服装がゲイっぽいことから、実はメイトリックスに片想いしているんじゃないかとの説も根強かったりする。反抗的な態度を取るのもメイトリックスの気を引きたいから。まさしく「可愛さ余って憎さ百倍」。俺のものにならないなら、いっそのこと殺してしまいたい!というわけだ。それを大前提にベネットの一挙一動を追っていくと、クライマックスの一騎打ちもやけに生々しく感じられるだろう。 映画をポップアートだと考えるというレスター監督は、プロデューサーであるジョエル・シルヴァーと相談のうえで、あえて本作のアクションも芝居も徹底して大袈裟に演出したという。そう言われると確かに、『処刑教室』にしろ『クラス・オブ・1999』(’90)にしろ『リトルトーキョー殺人課』(’91)にしろ、レスター監督のアクション映画はマンガ的な誇張が多いと言えよう。そのトゥーマッチ感こそが本作の面白さであり、興行的に成功した理由でもあったはずだ。中盤のハイライトであるショッピング・モールでの大立ち回りにおける、縦横無尽に駆け回るシュワルツェネッガーの大暴走ぶりなどはその好例。ちなみにロケ地となったショッピング・モールは、’80年代の西海岸で最大の若者トレンドの発信地と呼ばれ、『初体験/リッジモントハイ』(’82)や『ヴァレー・ガール』(’83)、『ナイト・オブ・ザ・コメット』(’84)に『キルボット』(’86)などなど、数多くのティーン向け娯楽映画の撮影に使われた「シャーマン・オークス・ガレリア」である。 およそ900万ドルという意外に控えめな予算に対し、世界興収5750万ドルという爆発的なヒットを記録した『コマンドー』。イタリア産アクション『ストライク・コマンドー』(’87)やフレッド・オーレン・レイ監督の『コマンド・スクワッド』(’87)などのパクり映画が世界中で量産されたほか、日本でも『必殺コマンド』(’85)や『コマンドー者』(’88)など勝手に邦題でコマンドー(ないしコマンド)を名乗ったB級C級アクション映画がビデオレンタル店にズラリと並ぶこととなった。なお、今回ザ・シネマで放送されるのは劇場公開版よりも2分ほど長いディレクターズ・カット版。メイトリックスがシングルファーザーになった経緯などの背景を説明するセリフや、アクション・シーンにおける過激な残酷描写カットが増やされており、より見応えのある映画に仕上がっている。■ 『コマンドー【ディレクターズカット版】』© 1985 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2024.07.22
韓国ホラーのルネッサンスを再考する ― 監督が語った恐怖へのこだわりと『ボイス』―
◆韓国学校ホラーの奇々たる分枝 韓国映画におけるホラージャンルのルネッサンスは、1998年公開の日本映画『リング』を端緒とするジャパン・ホラーの興隆が起爆剤になったものと傍証されている。しかし実のところ、韓国ホラーは独自の歩みを経て興隆の轍をたどっている。特に同年に公開された『囁く廊下-女校怪談-』の誕生は、興行的な成功を得て同作をシリーズ化させただけでなく、韓国映画内でジャンルとして衰退していたホラーを活性化。さらには分枝ともいえるホラー映画群の根幹となり、本稿で触れるアン・ビョンギのような、ジャンルに特化した監督の台頭をうながすきっかけとなったのだ。 では何故、前掲のような印象をもたらしたのだろう? それは本作『ボイス』(2002)が起因のひとつとして挙げられる。まずはストーリーを概説しよう。援助交際のルポを手がけたことから、脅迫電話に悩まされていたジャーナリストのジウォン(ハ・ジウォン)。そんな状況を見かねた親友ホジョン(キム・ユミ)の勧めで彼女は携帯番号を変えるが、誰も知らないはずのその番号に、謎の着信が寄せられる。しかも、その着信による通話を偶然に聴いてしまったホジュンの娘ヨンジュ(ウン・ソウ)が、まるで何かに取り憑かれたように豹変してしまうのだ。 このプロットからも明らかなように、携帯電話を媒介とし、人間を襲う怨霊を描いている点で、本作はビデオという近代ツールが伝染的な呪死をもたらす『リング』にインスパイアされたものと見なされていたからだ。恥ずかしいことに、筆者(尾崎)も『ボイス』が『リング』をネタ元にしていると決めてかかり、本作の日本公開プロモーションでアン・ビョンギと会ったさい、それをしつこく問いただした。そのような遠慮会釈のないクエスチョンに対して監督は、 「恐怖という概念を文学や映画、そしてコミックといった媒体で幅広く大衆化させたのは、東洋のなかでも日本だけなのではないかと一目置いている」 と我が国の恐怖文化に対して慎重な態度でリスペクトを示しながら、 「だから僕は『ボイス』を手がけるさい、日本の『リング』や他のホラーと違うモノを作ろうと努力しました。にも関わらず『リング』があまりにも秀逸であるため、観た人たちが似た作品のように印象を持たれても仕方がないのかな? と思っています」 と、『リング』の価値を認めつつ、『ボイス』がその傍流ではないことを強く主張している。もちろん、まったくの無縁だと抗弁するには共有材料か揃いすぎているが、むしろ強い影響力という点では、女子高生や学校というコミュニティをストーリーの根幹に置いた時点で『囁く廊下-女校怪談-』の系譜に連なる割合のほうが高い。そこを公開時に指摘できなかったのは、韓国映画史に理解の足りていなかった自分の怠慢として悔いが残る。しかも本作の携帯への言及は、同ツールを呪殺の媒介とした『着信アリ』(2003)というシリーズの成立をうながし、優れた恐怖描写で世界を震撼させながら、ジャパンホラーの文脈になかった日本の異才・三池崇史のジャンル的アリバイ作りに貢献したという捉え方もできるだろう。なので『ボイス』は韓国ホラールネッサンスのマスターピースとして、その存在価値を改めて見直す時期にきている。ちなみにアン・ビョンギは『着信アリ』を手がけた三池が1999年に発表した『オーディション』のリメイクを打診されたが、あの恐ろしさに自分が迫ることはできないとオファーを断っている。 だがなかなかどうして、アン・ビョンギの恐怖演出も、ホラーの先任監督として磨きのかかったものだ。ショットには常に消失点が置かれ、不安定な感情を煽りながらも構図は常に整い、ショッカー描写も一定の間合いと秩序を保ち、ふいな出会い頭や小細工で人を驚かしはしない、そこにはいっさいの妥協がなく、それはこの『ボイス』を観れば一目瞭然だ。 ◆サブジャンルを深化させる新世代の台頭 そんなビョンギのようにジャンルを固定した監督の台頭は、韓国映画ルネッサンス期の前説が無くては語れない。1996年、韓国の文民統制化にともない、同国の映画制度は大きく変化した。憲法裁判所が検閲行為を違憲とし、脚本と完成作品の提出を義務とした検閲システムが廃止となった。これによって映画製作に自由が設けられ、物語が制限されることなく描けるようになったのである。 それと並走するかのように、韓国民主化を旗印とする金大中は、国益のために映画産業を政府がバックアップすることを選挙公約として掲げた。そして98年に大統領当選が決まると、それまで国の機関だった「映画振興公社」を民間に委ね、映画の改革を始めるのである。こうした改革が大きな原動力となり、韓国映画は飛躍的な進化を遂げていく。 こうした変動に応じて韓国映画に流入したのは、ビデオの普及やシネマテーク運動が生んだ、シネフィル世代の監督である。『パラサイト 半地下の家族』(2019)のポン・ジュノや『別れる決心』(2022)のパク・チャヌク、さらには『モガディシュ 脱出までの14日間』(2021)のリュ・スンワンなど、いずれも特定のジャンルを深く追求し、優れた芸術性を持つ作品を生む新世代の作り手だ。 アン・ビョンギも、そうしたシネフィル世代の監督の一人に該当する。ソウル芸術大学映画科を出た彼は、所属していた同校の映画同好会で日本映画のビデオを浴びるように観たという。しかし日本映画との固いリンクとは逆に、ホラー映画への傾倒は欧米の『エクソシスト』(1973)が強く誘導したと語っている。 「無意識のうちに影響が出てくる、偉大な映画」 と同作を称賛し、なるほど、『ボイス』で霊に憑依されたヨンジュの凶暴化は、『エクソシスト』のリーガン(リンダ・ブレア)のそれと一致する。 ちなみに監督へのインタビューにおいて、好みのホラー映画を幾つか挙げて欲しいと頼んだところ、『エクソシスト』を筆頭に以下のようなラインナップとなった。 ①『エクソシスト』(1973 アメリカ) ②『オーメン』(1976 アメリカ) ③『サスペリア』(1977 イタリア) ④『シャイニング』(1980 アメリカ) ⑤『オーディション』(1999 日本) ①と⑤に関する心酔と影響に関しては前述したが、ほかいずれもホラー映画のマスターピースにして、それぞれが『ボイス』の恐怖演出に漆黒の影を落としている。②からは悪魔の子ダミアンに通ずる児童モンスターキャラクターの要素が散見されるし、また③の、美女が犠牲者となるジャーロ映画と監督ダリオ・アルジェントの嗜好を『ボイス』は共有している。そして④の高度なアート性と優れたイメージの数々は、ホラーも“芸術”になることを信じて取り組むビョンギの希求心を鼓舞させるものだったに違いない。 ◆ホラー映画に固執するのは、自身のプライド それにしても、なぜここまでビョンギはホラーというジャンルに固執してきたのだろう。そんな疑問に、彼は照れながらこう答えてくれた。 「自分がホラーを撮る理由は、個人的なプライドにあると思います。韓国映画界では商業的成功を重視し、人気スターに頼る傾向にありますが、ホラー映画は総合的に監督の演出力や、スタッフ全体の能力が優れていないと、撮ることが容易でないと実感しています。なによりホラーは、監督と観客との間で知恵比べができる手段であり、作り手にも刺激的なジャンルなんです」 『ボイス』が初公開されてから、現在までに22年の歳月が流れた。劇中で効果的に恐怖を演出した携帯電話は、より多機能性を有したスマートフォンへと進化し、本作をさらに古典の領域へと押し進めた。しかしそこにある恐怖哲学は、韓国ホラーの経典として普遍的な価値を放っているのではないだろうか。『ボイス』は今観てもなお、鑑賞者に高度な知恵比べを要求し、そして力強い刺激を与えてくれる。■ 『ボイス』© TOILET PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2024.07.18
巨匠リドリー・スコットが描く、よくできた昼ドラのような、俗悪で愉快で悲劇的な物語『ハウス・オブ・グッチ』
知らぬ者は居ないであろう、イタリア発のファッションブランド、「グッチ」。 1921年にグッチオ・グッチが、フィレンツェに開いた靴屋が、その始まり。世界進出はその息子の代で、三男のアルド・グッチが父親の反対を押し切って成功させたもの。「グッチ」の有名なアイコンデザイン「GG柄」も、商才溢れるアルドが考案した。 アルドの後も、「グッチ」のTOPは、グッチ家の者が務め、その王国は引き継がれていく筈だった。しかし21世紀の今、「グッチ」の経営陣には、グッチ家の者はいない…。 2000年に出版されたサラ・ゲイ・フォーデンの著書「ハウス・オブ・グッチ」は、原題のサブタイトルが、「A Sensational Story of Murder, Madness, Glamour, and Greed(殺人、狂気、魅力、そして強欲のセンセーショナルな物語)」。この書籍でグッチ家の30年間を描いた彼女は、「グッチの話はいろいろな意味で、私のつくり話よりもずっととんでもない話だと思った」としている。 その「とんでもない話」に魅了され、ほぼ20年間、映画化を模索し続けたのが、プロデューサーのジャンニーナ・スコット。監督や出演者の候補には、様々な名前が浮かんでは消えた。結局メガフォンを握ることになったのは、ジャンニーナの夫で現代の巨匠、リドリー・スコットだった。 リドリーは、グッチ家はまるで「ファッション界のイタリア王室」のようで、その興亡には、「ボルジア家やメディチ家」を想起させられたという。即ちこの題材は、「面白くならないわけがない!」と。 2019年11月、リドリーの監督就任と時を同じくして、主演も決まった。”歌姫”にして、『アリー/スター誕生』(2018)で演技者としても一流なことを証明したばかりの、レディー・ガガである。 翌夏=2021年8月、アカデミー賞受賞者やノミネート経験者がズラリと並ぶ、豪華キャストが発表された。そして本作『ハウス・オブ・グッチ』は、2021年2月から5月まで主にイタリアで撮影を敢行。その年の11月に、公開に至った。 ***** 1970年、父がオーナーの運送会社で働くパトリツィア(演:レディ・ガガ)は、弁護士を目指すマウリツィオ(演:アダム・ドライバー)と知り合い、交際を始める。彼は有名ブランド「グッチ」の、創業者一族だった。 マウリツィオは父ロドルフォ(演:ジェレミー・アイアンズ)から結婚を認められず、パトリツィアの実家へと転がり込む。2人はゴールインし、やがて娘が生まれる。 ロドルフォがこの世を去ると、彼の兄で「グッチ」の屋台骨を支えるアルド(演:アル・パチーノ)は、甥のマウリツィオを「グッチ」へと呼び寄せる。 アルドは、息子パオロ(演:ジャレッド・レト)の無能さに、悩んでいた。その一方で、高齢にも拘わらず、TOPを後進に譲る素振りを見せない。パトリツィアは夫が軽視されていることや、自分を「グッチ」の一員と認めないことに、不満を溜めていく。 パトリツィアは一計を案じ、パオロを味方とし、アルドの脱税を告発させる。アルドは獄中の人となり、またパオロも追放して、マウリツィオは、「グッチ」のTOPとなる。 しかし妻の振舞いに、徐々に嫌気がさしてきたマウリツィオは、家を出て、別の女性と暮らすようになる。パトリツィアは、もはや夫の愛情を取り戻すことはできなかった。 怪しげな女占い師のピーナ(演:サルマ・ハエック)に傾倒したパトリツィアは、彼女の力を借りて、夫を殺害する計画を立てる。一方で経営の才覚がなかったマウリツィオは、親の代からの腹心の部下の裏切りに遭って、社長の座を追われる。 1995年、マウリツィオは自宅の前で銃撃されて、命を落とす。悲劇の未亡人を装うパトリツィアだったが…。 ***** 脚本家の1人に起用されたのは、イタリア育ちのロベルト・ベンティヴェーニャ。母がデザイナーだったこともあって、彼には馴染みのある世界だったという。 リドリー・スコットはベンティヴェーニャとの打ち合わせに際し、登場人物たちをシェイクスピアのキャラクターに例えた。マウリツィオは、悩める王子ハムレット。パトリツィアは、奸計を巡らすマクベス夫人。そしてパオロは、道化だと。 実際に起こった事件をベースにした本作だが、『プロメテウス』(2012)以降、リドリー・スコット作品のカメラを任されている撮影監督のダリウス・ウォルスキーは、この作品はドキュメントドラマというよりも、「よくできた昼ドラのような、俗悪で愉快で悲劇的な惨事」だと語っている。 こうした世界観の中で、俳優陣は躍った。“カメレオン俳優”の名を恣にするアダム・ドライバーは、世間知らずの青年マウリツィオが、パトリツィアとの庶民的な生活に喜びを見出しながらも、名門ブランドTOPの地位を得て、己を見失っていく姿を的確に演じた。 ジャレッド・レトは、「グッチ」TOPのアルドの頭痛の種である、ボンクラ息子パオロ・グッチを演じるに当たって、自らのアイディアで、白髪交じりのハゲ頭で小太り体型に、特殊メイクで変身。毎日6時間のメイク時間は、集中してキャラクターについて瞑想するには、「最高の時間」だったという。 アル・パチーノ、ジェレミー・アイアンズの両ベテランも、それぞれの持ち味を生かしながら、見事に実在の人物を演じてみせた。 しかし本作で特筆すべきは、何とも言ってもパトリツィアを演じた、レディー・ガガであろう。 役作りのために、イタリア語なまりの英語を半年もの間訓練。パトリツィアについての文献を読み漁り、映像を見まくったというが、その際には、パトリツィアが実在の人物で、インタビューではよく嘘をつくことがあったため、ジャーナリストのような視点が必要だったという。ガガは正体を隠して、イタリアの街頭に立って、彼女のイメージの聞き込みまで行った。 役作りに於いては、3種類の動物をイメージした。30年近くに及ぶ物語の中で、20代前半の若き日々は、飼い猫。中盤は、遊び心を持って狩りをするキツネ。そして終盤は、獲物を引きつけてから飛び掛かる、ヒョウを観察して、パトリツィア像を作り上げた。 因みに稀代の悪女のイメージが強いパトリツィアだが、ガガはそうした既成のイメージからも距離を置いた。曰く「彼女がマウリツィオ・グッチと結婚したとき、彼は自分の一族全員に見放されたので、お金のために結婚したわけではなかった」。そして彼を殺害した時には、二人はすでに離婚しており、「金銭的なことが懸かっていたわけでは全くなかった」。即ち凶行に至ったのは、「彼女の心が傷ついたから、そして愛のために違いない」という解釈で、パトリツィアを演じているのである。 本作でパトリツィアは、「グッチ」の経営に参画したいと考え、自分にはその能力があると思っていたのに、“部外者”扱いされ、男性社会の中で疎外され続けた女性として描かれる。この辺りは、『エイリアン』(1979)のリプリーにはじまり、『テルマ&ルイーズ』(91)や近作『ゲティ家の身代金』(2017)『最後の決闘裁判』(21)等々、“男性優位社会”の現実に抗する女性像を描き続けてきた、リドリー・スコットの面目躍如でもある。 撮影に際し、ガガのためには、ウィッグが15種類用意された。それはパトリツィアの各時代の実際の髪のレプリカで、髪を染める化学薬品も、それぞれの時代のものを使用したという。 ファッション業界の物語の中で、ガガはシーン毎に衣装を変えた。劇中で披露したその数は、全部で54ルック。衣裳担当のジェンティ・イエーツによると、シーン毎に4~5着の候補を持ち寄ると、ガガからその組合せの提案が返され、コーディネートを「完璧に」仕上げていった。 こうして内面及び外見で、パトリツィアになり切ったレディー・ガガ。劇中に登場する「Father, Son, and House Of Gucci (父と子とグッチ家の御名において)」というセリフは、脚本にはなく、ガガが現場で放ったアドリブだったという。 2021年11月、本作が公開されると、アルド・グッチの子孫らは、本作では、グッチ家の人々が、「悪党で無知で無神経な者たち」として描かれ、事実が捻じ曲げられていると、異議を唱えた。パトリツィアが、「男性的でマッチョな企業文化」を乗り越えようとした「被害者」として描かれていることが「不愉快だ」とも、述べている。 それに対してリドリー・スコットは、「グッチ家の一人が殺され、もう一人が脱税で刑務所に入ったことを忘れてはならない」と、こうした異議を一蹴している。 因みにパトリツィアは、本作についてどんなリアクションを示しているのか?彼女は1998年、裁判で有罪判決を受け、29年の懲役を宣告されたが、2016年には出所。現在はミラノに住み、ペットのオウムを肩に乗せて街を歩いている姿が、よく目撃されているという。 70代となった彼女は、レディー・ガガが自分の役を演じることに対して、「…腹立たしいと思っている」と不快感を示している。ガガが自分に会いにも来なかったことが、いたく不愉快だったようだ。ついでにパトリツィアは、自分をモデルにした映画からは、1銭たりとも収益がもたらされないことも、明らかにした。 これに対してガガは、パトリツィアに会わなかったのは、「この女性はこの殺人を美化されたがっていて、犯罪者として記憶されたがっているとすぐに分かったから」だと語っている。演じるに当たって、そうした危険を察知。敢えて本人との面会を避けたわけである。「よくできた昼ドラのような、俗悪で愉快で悲劇的な惨事」を描いた『ハウス・オブ・グッチ』。スキャンダラスなヒロインのモデルと、演じた“歌姫”を巡る、インサイド・ストーリーである。■ 『ハウス・オブ・グッチ』© 2021 Metro-Goldwyn-Mayer Pictures Inc. All Rights Reserved.