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COLUMN/コラム2021.06.04
夢は、悪夢のような現実から逃れるために…。『未来世紀ブラジル』
テリー・ギリアム監督が、本作『未来世紀ブラジル』(1985)の着想を得たのは、初の単独監督作品『ジャバ―ウォッキー』(77)を撮っていた頃、イギリスはサウス・ウェールズのある浜辺でのことだった。そこは大きな鉄工所に隣接し、砂浜は薄い膜のような煤に覆われていた。「誰かが石炭がらで真っ黒になった裸の浜辺に腰かけていると、コンベア・ベルトや醜い鉄の塔のむこうに緑あふれる素晴らしい世界がきっとどこかにあるって、現実から逃避するようなラジオからのロマンティックな歌がどこからともなく聞こえてくる―」 ギリアムの頭に浮かんだ、そんなイメージから、本作はスタートしたのだった。 *** 20世紀のどこかの国。個人のプライバシーはすべて政府のコンピューターに管理され、情報省が人々を支配していた。その一方で、反体制派による爆弾テロも相次ぐ。 クリスマスの日、情報省のコンピュータートラブルで、当局がテロリストと目すタトルと、一般人のバトルが取り違えられる。バトルは何の罪もないのに、情報剝奪局に急襲され、家族の前で連行されてしまう。 情報省の記録局に働くサム・ラウリーは、出世などには興味がない男。近頃は羽の生えた騎士の格好で空を舞い、囚われの身の美女を救い出す夢を、毎夜のように見ていた。 上司に頼まれ、バトルの件の責任回避に取り組むサムだったが、ある時夢に登場する美女と瓜二つの女性に出会う。サムは彼女を探し求めるが、その姿を見失う。 そんなある時、サムの部屋の暖房装置が故障。正規の修理サービスに連絡が取れないで困っていると、もぐりの鉛管修理工が現れる。その男こそ、当局がテロリストとして追っている、タトルだった。 夢の美女とそっくりの女性が、バトル家の階上に住む、トラック運転手のジルであることがわかる。サムはジルの情報を職場で詳しく調べようとするが、彼女は、バトルの誤認逮捕について抗議を行っていたことから、当局に“要注意人物”とマークされ、その情報は機密扱いとなっていた。 サムは彼女を見付けるため、断っていた栄転を受け入れることにする。異動先となる情報剥奪局ならば、ジルの情報にアクセス出来るからだ。 情報剥奪局で、逮捕者を尋問に掛ける役割を担っているのは、サムの親友であるジャック・リント。誤認逮捕されたバトルも、彼の拷問によって、すでに命を奪われていた。 そんなジャックから、ジルが逮捕される手筈となっていることを聞かされたサムは、彼女を救うために奔走。ジルもサムに、心を許すようになる。 しかし、そのために様々な規約を破ってしまったサムにも、魔の手が迫ってくる…。 *** 目の前の現実の方が悪夢のようで、そこから逃れるために、ひとは美しい夢を見る…。当初ギリアムがイメージした、煤に塗れた浜辺からはだいぶかけ離れたものになってしまったが、そんなコンセプトを発展させて、本作のストーリーは編まれた。 当初構想した美しい音楽は、ライ・クーダーの「マリー・エレナ」。それはやがて、アリ・バローソによる「Aquarela do Brasil=ブラジルの水彩画」という、1939年に生まれたラブソングへと変わる。 心はずむ六月を過ごしこはく色の月の下ふたりで「きっといつか」とささやいたブラジルぼくたちはここでキスしからみあったでもそれは一晩のこと朝がくると君は何マイルも離れぼくに言いたいことが山ほどいっぱい今、空は暮れなずみふたりの愛のときめきが甦るたしかなことは一つだけ…戻るよ、ぼくは想い出のブラジルに…(「Aquarela do Brasil」訳詞 『未来世紀ブラジル』劇場用プログラムより) 1940年にアメリカで生まれたギリアムにとって、南米のブラジルに逃げるというのは、最もロマンティックなことという感覚があった。そのためこの歌に惹かれ、遂には映画のタイトルまで、『Brazil』(原題)にしてしまった。舞台はブラジルとは、まったく関係ないのに。 本作が、全体主義国家によって統治された近未来世界の恐怖を描いた、ジョージ・オーウェルの「1984年」の影響を受けているのは、明らかと言える。しかしギリアムは、「1984年」を読んではいないという。未読でもわかってしまう、それぐらい自明なイメージに惹かれたと述懐している。 その上で、本作についてギリアムは、当初こんな表現をしていた。“虹を摑む男ウォルター・ミティがカフカと出会った映画”。 ダニー・ケイ主演の『虹を摑む男』(47)と、その原作「ウォルター・ミティの秘密の生活」で、主人公のウォルター・ミティは、空想に耽って自分を英雄に仕立てる。そんなミティのような男≒サムが、フランツ・カフカが書くような不条理の世界に紛れ込んでしまったというわけだ。 そうした本作のイメージが形作られた背景には、ギリアム自身の体験もある。20代後半、アメリカで雑誌編集者やアニメーターとして活動していたギリアムだったが、1967年にロサンゼルスで、警官隊の暴行事件に遭遇。アメリカ政府のベトナム政策に抗議して集まった群衆が、警官隊によって滅多打ちにされるのを、目の当たりにしたのだ。 これはギリアムにとって、「現実で初めて経験した悪夢」。罪なき人々が無差別に、官憲から残忍な仕打ちを受けるという、正に「カフカ的イメージ」が具現化されたものだった。 付記すればギリアムは、この体験がきっかけで母国に見切りをつけて、イギリスへと渡る。そしてコメディグループ「モンティ・パイソン」の唯一のアメリカ人メンバーとなり、やがて世界的な人気を得ることとなる。 因みに「モンティ・パイソン」の仲間である、テリー・ジョーンズから借りた、魔女狩り関係の書物も、本作を構成する重要な要素となった。例えば本作で情報剥奪局は、逮捕者を連行し処罰する費用を、逮捕された本人に請求する。これは中世の魔女狩りに於いて、実際に行われていたことである。魔女として告発された者は、裁判や留置場の費用、拷問、そして焼き殺されるための薪代まで、負担しなければならなかったという。 さて1970年代後半からギリアムが構想していた本作が、実際に製作に向かって大きく動き出したのは、彼の前作『バンデッドQ』(81)が、製作費500万ドルに対し、アメリカだけで4,200万ドルを売り上げるという、大ヒットを記録してから。 82年3月、ギリアムは知人の紹介で出会った、イスラエル出身のプロデューサー、アーノン・ミルチャンと意気投合。彼が本作の製作を行うこととなる。 脚本は、元々はギリアムが、『ジャバ―ウォッキー』の共同脚本を手掛けた友人チャールズ・アルヴァーソンと書いていたが、まとまりに欠けるものだった。そこでギリアムは、「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」などの戯曲で知られる、世界的な劇作家トム・ストッパードに、脚本化を依頼することにした。 ストッパードはいつでも、「ひとりで書く」という仕事の仕方だったため、共同作業を望むギリアムにとっては、不満が募る結果となった。しかし第4稿まで書いたストッパードの脚本で、本作の骨組みは固まった。 例えば開巻間もなく、低級官僚が書類を丸めて、ピシャリと叩いたハエが、コンピューターの中に落ちたことで、TUTTLEの文字がBUTTLEとミスプリントされてしまうシーンがある。すべての発端であるこのくだりは、正にストッパードのアイディアだった。 最終的にギリアムは、チャールズ・マッキオンとの共同作業で、脚本を仕上げた。 一方ミルチャンは、1,500万ドルという製作費を捻出するため、各映画会社と交渉。ユニヴァーサルと20世紀フォックスの競り合いになり、最終的には、フォックスが600万ドルの出資で海外市場、ユニヴァーサルが900万ドルでアメリカ、カナダの北米市場の公開を展開するという契約で、まとまる。 ここでキャスティングについて、触れよう。主演のジョナサン・プライスは、本作の構想が始まって間もない頃に、ギリアムと邂逅。ギリアムはプライスのことが気に入り、サム・ラウリーの役を、彼への当て書きのようにして、原案を書いたという。 しかしいざ製作が本格化した段階では、サムの設定は、22~23歳の青年に。当時の若手スターだった、アイダン・クイン、ピーター・スコラーリ、ルパート・エヴァレットなどが候補になった。特にサム役を熱望したのは、あのトム・クルーズだったという。 その頃プライスは、すでに30代後半。しかし脚本を読んでみると、サムの役は33歳という設定にしても無理がないと感じて、そのままギリアムに提案した。それを受けてスクリーンテストを行った結果、彼が本決まりとなったのである。 サムの夢の美女≒ジル役の候補となったのは、ケリー・マクギリス、ジャミ―・リー・カーティス、レベッカ・デモーネイ、ロザンナ・アークエット、そしてまだメジャーになる以前のマドンナなど。一旦はエレン・バーキンに決まったものの、最後の最後で、キム・グライストがジル役となった。 ギリアム曰く、「スクリーン・テストの彼女は最高だった。でも撮影が始まるとそうはいかなかった」。元々の脚本では、ジルの役割はもっと大きいものだったが、撮影が進行する内に、どんどん削られていった。 ミルチャンの提案で作品の箔付けとして、大スターのロバート・デ・ニーロの出演が決まった。ミルチャンが本作の前に製作した、マーティン・スコセッシ監督の『キング・オブ・コメディ』(82)、セルジオ・レオーネ監督の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(84)の2作の主演を務めた縁である。 デ・ニーロは当初、サムの親友で拷問者であるジャック・リントの役を希望した。しかしその役はすでに、「モンティ・パイソン」の仲間マイケル・ペリンに決まっていた。 デ・ニーロはギリアムの説得により、配管工にして当局にテロリストとして追われるタトルの役を演じることとなった。当時のデ・ニーロが、このような脇役で出演するなど、異例中の異例。彼は、脇役であっても手を抜くことはなく、いわゆる“デ・ニーロアプローチ”で、完璧な役作りをやってのけた。 本作は1983年11月にクランク・イン。パリの巨大なポスト・モダン様式のアパート地区マルヌ・ラ・ヴァレで、サムのアパートなどのシーン、当時再開発前だったイギリス・ロンドン港湾地区の廃棄された発電所の冷却塔で、ジャックの拷問室のシーンといったように、ギリアムのセンスが遺憾なく発揮されたロケ撮影を行った。 因みに『未来世紀ブラジル』という邦題は、作品の雰囲気を表すのに悪くはないと思うが、実はミスリード。先にも記したが、これは「未来」の話ではない。“20世紀のどこか”が舞台なのである。登場人物の服装は1940~50年代。サムが運転している車も、ドイツのメッサーシュミットのその頃のモデルである。ギリアムの言を借りれば、“過去に根ざしたありうべき未来の様相”あるいは“現在のB面”を描いているのである。 さて本作は撮影途中で、このままでは撮り切れないとの判断から、2週間休止して、脚本を切り詰める作業を行ったり、ギリアムがストレスから1週間近く起き上がれなくなるというアクシデントが発生。サムの飛翔シーンの特撮に時間が掛かったこともあって、84年2月のクランクアップ予定は、半年延びて、8月になってしまった。 しかし1,500万ドルの予算を超過することはなく、作品は完成。85年2月には、20世紀フォックスの配給で、ヨーロッパで142分のバージョンが無事公開された。 ところがアメリカでは、製作スタート時にはそのポストには居なかった、ユニヴァーサルの責任者シドニー・J・シャインバーグが、ギリアムの前に立ちはだかることとなる。その顛末は、有名な「バトル・オブ・ブラジル」という1冊の書籍にまとめられたほどのボリュームなので、本稿では細かくは言及はしない。 何はともかくシャインバーグは、ギリアムによって11分のカットを行った、アメリカ公開用の131分版に同意せず。別に編集チームを編成。映画の3分の1をカットした上で、ロマンス要素を増強し、ハッピーエンドに終わらせるという、“暴挙”に出たのである。 結果的にはギリアムvsシャインバーグのバトルは、マスコミや批評家などを巻き込んだギリアムの勝利と言える形に終わった。85年12月のアメリカ公開はギリアムの131分版となり、シャインバーグのハッピーエンド版は、後にTV放送されるに止まった。 しかしながらこのゴタゴタの結果、きちんとプロモーションが行き届かず、アメリカ公開ではヒットという果実を得ることはできなかった…。 因みに日本初公開は、86年10月。インターネットなき時代、そのようなトラブルがあったことなど、ほとんどの観客が知らなかった。日本ではユニヴァーサルではなく、20世紀フォックスの配給だったこともあって、ヨーロッパで公開された142分版が観られた。また劇場用プログラムの内容にも、トラブルのトの字もない。 皮肉なものだと思う。テリー・ギリアムの前作『バンデッドQ』が83年に日本公開された際は、子ども向けの作品として売りたかった配給会社の東宝東和によって、悪名高き改竄が行われたからだ。 オリジナルから残酷な要素を取り除いて13分もカットし、ラストまで改変してしまった。ビデオソフトでオリジナル版を観て、劇場で観たのと全く違っているのに、吃驚した映画ファンが続出したものだ。 さて余談はここまでにして、ギリアムはこの後「ほら吹き男爵の冒険」の映画化『バロン』(88)に取り組む。そこでは本作を超えた災厄が待ち受けているのだが、それはまた別の話…。■ 『未来世紀ブラジル』© 1984 Embassy International Pictures, N.V. © 2002 Monarchy Enterprises S.a.r.l. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2021.05.31
『ホーンティング』再評価に向けて言及したい二、三の事柄
●本格的ゴーストホラーを目指した意欲作 “その建物はいかにも不気味な感じだった。彼女はゾッとしながらそう思った——するとたちまち心の中で声がした。「〈山荘〉は気味が悪い……不気味だ……今すぐ立ち去ったほうがいい」”(*1) 山荘と呼ばれる洋館で、四人の男女が体験する恐ろしい霊的現象を描いたシャーリイ・ジャクスンの『山荘綺談』は、最も優れた、そして最も恐ろしいゴーストストーリーのひとつとして知られている。恐怖体験に関する研究プロジェクトのため、マロー博士はそれぞれに個人的な問題を抱えた3人の被験者をこの場所に誘う。しかし彼らがそこへ到着した夜から、山荘は超常的な怒りを彼らにぶつけることになる——。 1999年公開の『ホーンティング』は、同小説の二度目となる映画化作品だ。監督はシネマトグラファーとして『ダイ・ハード』(88)や『レッド・オクトーバーを追え!』(90)などに参加し、キアヌ・リーブス主演のサスペンスアクション『スピード』(94)で監督デビューを果たしたヤン・デ・ボン。スピード感あふれる演出と機動性を極めたカメラワークを主スタイルとするが、『ホーンティング』はそれとは打って変わって被写体を舐るように、そしてじっくりと捉えて恐怖を創出していく。登場人物たちの恐れの感情を高めていくために準撮り(劇中の順番に撮影していくこと)を実行し、また撮影時には音響デザインのゲイリー・ライドストロームが録音していた効果音を俳優たちに聞かせることで、音や気配に対するリアルな反応を引き出している。 なにより舞台となる洋館の外観はイギリス、リンカンシャーのハーラックストンにあるカントリーハウス〈ハーラックストンマナー〉を用いて撮影し、そのジャコビアン様式とエリザベス朝スタイルをバロック建築に融合させた異様さは、作品の真の“主役”として禍々しい存在感を放つ。加えて巨大航空機格納庫のスプルース・グース・ハンガーに建設された洋館内のセットは、ハリウッド映画における最大級のインテリアセットを誇るものだ。 だが惜しいことに、『ホーンティング』は、評論家からは芳しい評価を受けてはいない。興行的には成功を得たものの、たとえば米「サンフランシスコ・クロニクル」紙の映画評論家ミック・ラサールなどは「『ホーンティング』がもたらす唯一のいいニュースは、映画製作者たちが技術だけで名作が作れることを証明しようとしたが、うまくいかなかったということだ」(*2)となかなかに手厳しい。 こうして映画を非難する文言の中には的を射たものもあるが、じつのところ作品をとりまくいくつかの要素が、映画の評価にネガティブな影響を与えているケースも否めない。うちひとつには『山荘綺談』の最初の映画化作品である、ロバート・ワイズ監督の『たたり』(63)の存在だ。 モダンホラー文学の大家スティーブン・キングは「恐怖」について語った随筆集「死の舞踏」の中で、優れた恐怖描写は扉を開けず、その扉の向こう側にいるものの正体を見せないことだと綴り、『たたり』を絶賛している。確かに『たたり』は、奇怪な音がもたらす恐怖感や、見たり聞いたりしたものが実際にあったのかどうかを登場人物たちに疑問に思わせる創造性が、ひとつの成果をあげているといえる。 ただ『たたり』に関しては、製作予算が110万ドルと限られたものだったことと、当時の視覚表現の限界もあって、必然的に物事を見せない方法を択っている。『ホーンティング』はむしろ8000万ドルという潤沢な製作費を活かし、ゴーストを明確に可視化させることで、精神的ストレスで心に傷を負っていたエレノア(リリ・テイラー)が実際にゴーストを見たのか、それとも彼女の意識が生んだ妄想なのかを観る者に対して巧妙にミスリードしている。こうした映像への積極的な試みが、CGへの過度な依存だと受け取られたようだ。 なにより『ホーンティング』は『たたり』のリメイクではなく、原作の再映画化という位置付けにある。権利上の問題から『たたり』にアクセスすることはできず、同作にあるアイディアを汲み取ってはいない。エレノアを物語の中心人物として描いたのも原作由来のもので、ジャクスンの小説を新たな試みで映画化し、『たたり』とは根本的にアプローチを異にしている。 もうひとつ、ネガティブな作品評価を誘引したのは、製作元のドリームワークスに最終的な編集の権利があり、映画の方向性が変えられたというゴシップだ。スタジオが原作に忠実な心理的スリラーを手がけようとしていたデ・ボンのアプローチを嫌い、観客が即座に恐怖を覚えるような方向へと軌道修正し、ポストプロダクションをスティーブン・スピルバーグが引き継いだ、というものである。 しかし近年、同作のBlu-rayリリースを機にデ・ボンが語ったところによれば、『ツイスター』(96)の後の監督作として企画中だった『マイノリティ・リポート』(02)が、主演のトム・クルーズのスケジュールに空きができたことで急浮上。代わりにスピルバーグが監督を務め、彼が本来監督する予定だった『ホーンティング』をデ・ボンに譲り渡した経緯があったという。そこにスピルバーグとの確執や因縁はなく、先のような実態を欠く噂がスキャンダラスに流布されたようだ。 こうした背景には、かつてスピルバーグが監督であるトビー・フーパーを差し置いて、自ら現場で演出をしたと噂された『ポルターガイスト』(82)のゴシップが重なってくる。この問題は現在に至るも真相は藪の中で、『ホーンティング』が同じホラージャンルであることから、格好のネタとして蒸し返されてしまったとも考えられる。 もちろん、作品そのものの不評を全てスキャンダルのせいにするつもりはないが、不正確な情報が作品にバイアスをかけ、鑑識眼を曇らせてしまうケースもある。それを取り除いて評価が大きく変わるのであれば、すでに評価の定まった作品だからと禁欲的になる必要もないだろう。 ●ヤン・デ・ボン自身が語った『ホーンティング』のこと アメリカで最も影響力のあった映画評論家のひとり、ロジャー・エバートは「ロケーション、セット、アートディレクション、サウンドデザイン、そして全体的な映像の素晴らしさに基づき、わたしはこの映画を推薦したい」と、公開時に『ホーンティング』を激賞している(*3)。筆者もエバートのような感触を同作に覚えたひとりで、ヤン・デ・ボン監督に『トゥームレイダー2』(03)の取材で会ったとき、同作に対する質問を以下のようにぶつけ、高度なクリエイティビティのもとで本作が手がけられたことを確認している。 ——「アメリカン・シネマトグラファー」誌に『ホーンティング』の照明設計図が掲載されていましたが、ライトの設置が複雑すぎて、僕のような門外漢には監督が何を目指しているのか分かりかねました(笑)。 デ・ボン「専門誌まで読んでくれたんだね。屋敷の恐ろしい性質をライティングで表現したかったんだ。この映画はCGでゴーストをクリエイトしているけど、同時にできるだけオンカメラ(撮りきり)で、ゴーストの存在を表現しようと試みたんだよ。撮影現場にいるキャストが、その場で恐怖を実感できるようにね」 ——効果音もその場でできる限り聞かせて、俳優たちの恐怖感を引き出していったとか。 デ・ボン「そう、完成した作品にサウンドエフェクトを挿れず、役者の演技だけで音を感じられるならそれが究極的で理想的だよ。僕は黒澤明監督の『乱』(84)が好きで、武将の父を城ごと燃やそうとする長男と次男の謀反が描かれていたよね。あの合戦場面に黒澤さんは効果音をいっさい使わず、アンダースコア(音楽)だけを用いている。その演出がむしろ戦闘の激しい音を想像させるんだから、あの境地を目指したいものだ」 ——俳優たちのリアクションは実際どうだったんですか? デ・ボン「効果は絶大だったね。特にリーアム(・ニーソン)とキャサリン(・ゼタ=ジョーンズ)は、積極的にスタジオに入りがらないくらいだったからね。二人には相当に怖い思いをさせてしまったよ(笑)」 そう、「〈山荘〉は気味が悪い……不気味だ……今すぐ立ち去ったほうがいい」——。■ (*)『ホーンティング』撮影中のヤン・デ・ボン監督
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COLUMN/コラム2021.05.07
ヴェンダース×サム・シェパードのコラボが生んだ、深すぎる愛の物語『パリ、テキサス』
本作『パリ、テキサス』(1984)の日本公開は、1985年9月。 大学1年だった私は、同級生の女の子とアルタ前で待ち合わせし、新宿文化シネマへと向かった。今はシネマート新宿かEJアニメシアター新宿に名を変えている、2スクリーンの内のどちらかの劇場での鑑賞だった。 当時日本の映画業界では、「カンヌ国際映画祭」の最高賞を、パルム・ドールという正確な呼称は使わず、“グランプリ”と謳っていた。その「カンヌでグランプリ」の触れ込みで、今はなきフランス映画社が配給だった。 監督のヴィム・ヴェンダースの名は、映画マニアの間では知られていたが、過去作の日本公開は、まだ数少なかった。そしてそれらを全く観ていない私の、彼に関しての知識は、「小津安二郎を敬愛する、ドイツ人監督」で、『ゴッドファーザー』(72)のフランシス・フォード・コッポラに招かれてハリウッドで作品を撮ったが、色々とトラブってうまくいかなかったというぐらいだった。 ヴェンダース作品が日本で、一般の口の端に上るようになったのは、それから3年近く後。『ベルリン・天使の詩』(87)が88年春に公開され、アート映画や単館系作品として、記録的なヒットを飛ばしてからだったと思う。 私はヴェンダースよりも、脚本のサム・シェパードの名に惹かれた。アメリカの劇作家であると同時に俳優だったシェパードに関しては、本作の前年=84年に日本公開された、フィリップ・カウフマン監督の『ライトスタッフ』(83)で演じた、孤高のテストパイロット、チャック・イェーガーがあまりに格好良く、強烈な印象が残っていたからである。彼はこの役で、アカデミー賞助演男優賞の候補になっている。 因みに目が早い映画ファンの間では、更にその前年=83年に公開した、テレンス・マリック監督の『天国の日々』(78)でのシェパードが話題になっていた。この作品での彼は、若くして死病に侵された、農場主の役だった。 5年もオクラになっていた『天国の日々』が突然公開に至ったのは、82年暮れに公開された、『愛と青春の旅立ち』(82)の大ヒットがきっかけ。リチャード・ギア人気に火が点き、その過去の主演作として掘り起こされたためだ。そして公開館に「ギア様目当て」で駆け付けた中に、結果としてサム・シェパードの方に熱を上げるようになった女性ファンが、少なからず居たのである。 些か余談が過ぎたが、『パリ、テキサス』が、私が当時はあまり好んでは観なかった「アート系」(そんな言葉は当時はなかったが…)であることは、フランス映画社が買った作品であることからも、察しがついた。しかしまあ「カンヌ」であるし、当時日本でも美人女優として人気があった、ナスターシャ・キンスキーも出てるし等々で、デートムービーとしてチョイスしたのであろう。 終わってみると、私より何倍も感受性が強かった連れの女の子は一言、「悲しいね」。色々と感じ入ってたようであったが、それに対して私は、正直ピンと来ていなかった。その理由は、後ほど記す。 *** テキサスの砂漠を、彷徨う男がひとり。水を求めて入った、ガソリンスタンドの売店で、氷を口にすると、気を失った…。 ロスアンゼルスで働くウォルトの元に、1本の電話が入る。4年前に失踪し、死んだと思っていた兄トラヴィスらしき男が、行倒れて入院していると。ウォルトは兄を迎えに、テキサスへと向かった。 トラヴィスは何を聞いても口を開かず、すぐに逃げ出そうとする。挙げ句は飛行機での移動を拒否したため、ウォルトはレンタカーで、ロスまでの遠路を連れ帰ることにする。 途切れ途切れに記憶を取り戻すトラヴィスは、通信販売で買ったという土地の写真を弟に見せる。それは=テキサス州のパリという、辺鄙な場所。かつて兄弟の両親が初めて愛を交わし、トラヴィスが生を受けた地だという。トラヴィスも愛する者たちと、その地に暮らすのを夢見たのだろうか? ロスで待っていたのは、ウォルトの妻アンヌと、トラヴィスの息子で間もなく8歳になる、ハンター。トラヴィスの失踪後に、その妻ジェーンが、ハンターをウォルト邸の前に置き去りにしたのだ。それ以降ハンターは、ウォルトとアンナを両親として育った。 トラヴィスを実の父親と知りながらも、なかなか心を開かないハンター。しかしウォルトとアンナが5年前、幸せだった頃のトラヴィス一家を訪れた際に撮った、8mmフィルムのホームムービーの映写を機に、2人の距離が縮まる。 アンナはハンターを失うことになるのではと恐れながらも、ジェーンから毎月息子宛に送金があることを、トラヴィスに伝える。彼女が金を振り込んでいる銀行は、テキサス州のヒューストンにあるという。 トラヴィスは中古のフォードを駆って、ジェーンを探しに行くことを決める。そしてその旅には、「ママに会いたい」という思いが募ったハンターも、同行する。 ヒューストンの銀行前で、車を運転するジェーンを遂に見付けた2人。彼女の後を追っていくと…。 *** 77年、ヴェンダースはコッポラ率いるゾーエトロープ社から依頼を受け、ハードボイルド小説の著名な書き手ダシール・ハメットを主人公にした小説「ハメット」の映画化に取り掛かる。サム・シェパードによると、まずは脚本を書いて欲しいと、ヴェンダースから依頼があったという。 60年代はじめに21歳で劇作家として、デビュー。映画でもミケランジェロ・アントニオーニ監督の『砂丘』(70)やボブ・ディランが監督・主演した『レナルド&クララ』(78)などの脚本を手掛けたシェパードだが、撮影所システムの中で脚本を書くことには気乗りせず、その依頼を断った。 そうすると今度は、「主演してくれ」との依頼。ヴェンダースは、『天国の日々』で観たシェパードの演技を、気に入っていたのだ。 ところが当時のシェパードは、「知名度不足」のため、製作会社からNGが出る。そのため彼が、映画『ハメット』(82)に参加することはなかった。 しかしここで、いずれは一緒に仕事をしようと、2人の間で約束が交わされた。具体的な一歩を踏み出したのは81年、シェパードの初めての本「モーテル・クロニクルズ」の草稿を、ヴェンダースが読んだ時点からだった。 モーテルからモーテルへと旅をしながら綴った詩と散文が収められたこの書物のイメージを膨らませて映画にしたいと考えたヴェンダースは、ラフに脚色したものを書き上げる。しかしシェパードが内容を気に入らず。そのシナリオは流れた。 その後2人で過ごす内に、「砂漠にいきなり現れた記憶喪失の男」というアイディアが浮かんだ。そしてそれを基に、共同で脚本を書き進めていくことになる。 はじめは兄弟を軸とした話で、妻を探し求めるエピソードはあったものの、妻が見付かるかどうかは、決まっていなかった。子どもを登場させることになって、大体のアウトラインが固まったという。 トラヴィスが失踪する原因として、第1稿では妻が師事する“教戒師”が登場した。それが転じて、トラヴィスが古いアルバムを頼りに、自分の謎めいた家系を辿るために、あらゆる人を至る所に訪ねていくという話になっていく。 更にそこから変わって、ジェーンの父親がテキサスの大地主で、彼女を閉じ込めているという設定が、考え出された。シェパードは父親役として、ジョン・ヒューストンにオファーすることを考えていた。 「この映画は、アメリカについて私がずっと語りたいと思ってきたことを入りくんだ形で語っています…」 ヴェンダースが完成後にそう述懐する本作の物語の出発の地として、シェパードはテキサス州を挙げる。そこにアメリカを凝縮して、描こうという提案だった。ヴェンダースは3カ月掛けてテキサスを旅し、ロケハンを行った。 主演のトラヴィスには、ハリー・ディーン・スタントン。ヴェンダースにとっては意中のキャスティングだったが、50年代後半から脇役として活動してきたスタントンのことを、シェパードはまったく知らなかった。 しかしたまたま、コッポラ主催の映画祭で邂逅。スタントンと飲み明かして意気投合したシェパードは、「…トラヴィスについてぼくが思い描いたことをすべてもちあわせている…」と、ヴェンダースに電話を掛けてきたという。 トラヴィスの妻のジェーン役には、ナスターシャ・キンスキー。13歳の時のデビュー作が、ヴェンダースの『まわり道』(74)だった彼女は、その後トーマス・ハーディの原作をロマン・ポランスキー監督が映画化した文芸作品『テス』(79)などに主演。先に記した通り日本でも人気が出て、「ナタキン」などという略称で呼ばれた。 彼女とスタントンでは、随分と歳が離れた夫婦という印象になる。スタントンは1926年生まれ。ナタキンは61年生まれで、歳の差は実に35。まさに「親子ほど歳が離れた」2人だが、その歳の差が、結果的には本作の展開には効果的であった…。 ジェーンの父親が夫婦間の最大の障害になるというシナリオには、ヴェンダースは納得がいかず、後半部が未完のまま、本作は83年9月29日に、クランクイン。現場にはシェパードが居着きの予定だったため、ほぼ物語の進行通りに順撮りで撮影を進めながら、未完の部分を考えていこうというプランだった。 ところがフランスやドイツなど、主にヨーロッパから製作費を得た本作は、急激なドル高の影響などを受け、何度か撮影の中断を余儀なくされる。そのためシェパードが、時間切れ。彼は出演作の撮影に参加するため、本作の現場から去らねばならなくなった。 それ以降のヴェンダースは、脚本家のL・M・キット・カーソンと作業を進めることになる。カーソンは、トラヴィス夫妻の息子を演じた子役のハンター・カーソンの、実際の父親であった。そして2人で、次のようなクライマックスへと、辿り着く。 ヒューストンでジェーンを見つけたトラヴィスが、その後を追うと、彼女がのぞき部屋で働いていることがわかる。客はマジックミラー越しに彼女の姿が見えるが、彼女の方からは客が見えない。電話越しに問いかける客に、彼女が応えるというシステムだ。 客になりすましたトラヴィスは、ジェーンに相対して会話することになる。その中でトラヴィスは、自らの気持ちにも対峙し、やがて思いの丈を語ることになる。そしてジェーンも、客が失踪した自分の夫だと、気付く…。 カーソンと共に思い付いたこの展開を、ヴェンダースがシェパードに送った。すると、「ようやく、ぼくたちが延々と語り合ったことがやっと見つかったね」と、シェパードは言い、そのシーンのためのセリフを書いて、電話で伝えてきたという。 こうして本作は完成へと向かい、「カンヌ」での最高賞をはじめ、世界的に高く評価されることになる。トラヴィスの失踪の原因が明らかになり、夫婦の、そして家族のこれからが提示される、覗き部屋でのくだりは、特に高く評価されていたと思う。 ここでいきなり話を戻すが、新宿で本作を観た際に、私がピンと来なかったのも、このくだりに集約されている。これからご覧の方のために詳細は省くが、まだお互いに愛があるのを確認したのに、なぜトラヴィスは去らねばならないのか?よくわからなかったのだ。 撮影現場でも、私と同じような感情を抱いた者が居たという。主演のハリー・ディーン・スタントンだ。彼は、~せっかくジェーンとハンターという家族と再会できたのにまたひとりで去ってゆくなんて嫌だ~と本気で怒ったのだという まあスタントンの場合は、トラヴィスになり切ったが故の反発であろう。二十歳そこそこの未熟な鑑賞者であった私と一緒のわけは、もちろんないのだが。 そんな私でも、初鑑賞から36年近く経って本作を見返すと、今ならわかる気がする。「こんなに想っているのに」「こんなに愛しているのに」という気持ちが高ぶり過ぎると、自分も相手も深く傷つけることになる。トラヴィスは、年が離れた美しいジェーンを愛しすぎて、失踪せざるを得なくなった。そして残されたジェーンは、我が子を手放す他はなかった。 覗き部屋で何人もの男に応じてきたジェーンは、トラヴィスに言う。「どの男の声も…あなただった」 トラヴィスは、わかった。まだジェーンのことを愛している。それも狂おしいほどに。だから一緒に居るわけには、いかないのだ。 サム・シェパードは本作の結末に関して、次のように語っている。 「私なりに言うなら、すでに壊れたものをくっつけなおしただけでは不十分だということですね。本当に壊れたものは彼自身のなかにある。それを満たすためには、壊れたものの正体を見るためには、彼は自分ひとりで見つめるべきなのです。彼は母親と子供を一緒にした。今度は彼自身も一緒にできるように旅立つのです」 最後にもう一つ。今回再見して、私の記憶が改竄されていたことに気が付いた。 ラストでトラヴィスが、ジェーンとハンターを再会させるのは砂漠で、それを見届けたトラヴィスは再び、荒野に去っていくのだと思い込んでいた。観ていただければわかる通り、そんなシーンはない。 因みに作者たちの構想の中のひとつとしては、ラストでトラヴィスとハンターの父子が、一家の愛の原点とも言うべきに向かって、砂漠に消えていくといったアイディアもあったという…。■ 『パリ、テキサス』© 1984 REVERSE ANGLE LIBRARY GMBH ARGOS FILMS S.A. and CHRIS SIEVERNICH PRO-JECT FILMPRODUKTION IM FILMVERLAG DER AUTOREN GMBH & CO. KG LOGO REVERSE ANGLE
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COLUMN/コラム2021.04.30
世界のクロサワ作品が大いなる“西部劇”にアレンジされるまで。『荒野の七人』
村民たちが農作業で細々と生計を立てている、メキシコの寒村。ところが収穫期になると、山賊の頭目カルヴェラが、35人もの手下を引き連れて襲来し、農民たちの汗と涙の結晶を、「殺さぬ程度に」残して、奪っていってしまう。 毎年繰り返される傍若無人な振舞いに耐えかねて、反抗を企てる村民もいた。しかしそうした者を、カルヴェラは容赦なく、撃ち殺すのだった…。 困り果てた村民たちは、長老に相談する。そして、「銃を買って、戦うべし」との声に従い、ミゲルら3人は、村民たちから集めた金を持って、国境の街へと出掛けた。 そこで彼らは、目にした。先住民の埋葬を巡って起こった騒動を、度胸とガンさばきで見事に収めた、2人の拳銃使い、クリスとヴィンの姿を。 クリスを頼れる人物と見込んだミゲルたちは、「銃の買い方と撃ち方を教えてくれ」と、彼に懇願。それに対しクリスは、「銃を買うよりは、ガンマンを雇った方が良い」と教え、結果的に自ら助っ人となった。 そんなクリスに、ヴィンも合流。しかし40名近くの盗賊に対抗するには、2人では到底足りない。 1人僅か20㌦の報酬にも拘わらず、クリスの昔馴染みやお尋ね者など、腕利きのガンマンたちが、集まった。そして最後に、先住民の埋葬騒ぎに居合わせ、クリスとヴィンに憧れを抱いた青二才の若者チコが、仲間に加わる。これで助っ人は、“7人”となった。 ミゲルたちの寒村まで案内された“7人”と、カルヴェラ率いる山賊団の、命懸けの戦いが始まる…。 *** 本作『荒野の七人』(1960)は、多くの方がご存知の通り、本邦が誇る「世界のクロサワ」こと、黒澤明監督の不朽の名作『七人の侍』(54)の、“西部劇”版リメイクである。そしてここから、スティーヴ・マックィーンやチャールズ・ブロンソン、ジェームズ・コバーン、ロバート・ヴォーンなど、次々とスターが育ったことでも、広く知られる作品である。 オリジナルの『七人の侍』が、アメリカで公開されたのは、1956年の7月。「これは西部劇の傑作になる!」と最初に目を付け、僅か250㌦で、東宝からリメイク権を買ったのは、プロデューサーのルー・モーハイムだった。 その後本作に関わる多くの人物が、モーハイムと同じような思いを抱いたが、それは至極当然のこと。黒澤が最も尊敬し、その後を追ったのは、「西部劇の神様」ジョン・フォードだったからだ。 因みに東宝はリメイク権を売るに当たって、『七人の侍』の脚本を執筆した原作者たち=黒澤、橋本忍、小国英雄の3人には、何の断りもなかったという…。 リメイクが動き始めた当初の構想では、やはり『七人の侍』を観て大いに気に入った、オスカー俳優のアンソニー・クインが主演。そしてクインに薦められて『七人の侍』を鑑賞後、夢中になって、モーハイムからリメイク権を買い取るに至ったユル・ブリンナーが、監督を務める筈だった。 当時のブリンナーは、『王様と私』(56)でアカデミー賞主演男優賞を獲得した、スター俳優。その初めての監督作になるかも知れなかった本作だが、結局彼は監督デビューを断念する。そして、後に『ハッド』(63)や『ノーマ・レイ』(79)などの社会派作品を手掛けることになる、マーティン・リットに監督を依頼した。 リットは脚本に、ウォルター・バーンスタインを起用。実は『荒野の七人』の原型は、この時にバーンスタインが書いたものと言われる。彼の名は諸事情があって、作品にクレジットされてはいないのだが。 その後リットは、このプロジェクトから去る。余談ではあるが、彼と黒澤作品の縁はこの後も続き、『羅生門』(50)をポール・ニューマン主演で、やはり“西部劇”にリメイクした、『暴行』(64)の監督を務めている。 リットと入れ替わるように、独立系のプロデューサーである、ウォルター・ミリッシュが、本作に参画。そして彼が白羽の矢を立てたのが、『OK牧場の決斗』(57)などで、“西部劇”をはじめとする“男性アクション”の担い手として評価が高かった、ジョン・スタージェスだった。 スタージェスが監督に本決まりとなり、更には製作者としてもクレジットされることとなった。そんなプロセスの中で、キャスティング作業も本格化していく。 オリジナルの『七人の侍』で志村喬が演じた、リーダーの勘兵衛に当たるクリス役には、ユル・ブリンナー。そしてスタージェスの前作『戦雲』(59)の出演者から、スティーヴ・マックィーン、チャールズ・ブロンソンが抜擢された。 マックィーンの役名は、ヴィン。オリジナルでは、加東大介が演じた勘兵衛の腹心の部下・七郎次と、稲葉義男が演じた参謀的存在の五郎兵衛をミックスした存在である。ブロンソンのオライリーは、千秋実がやった平八に当たるが、オリジナル版のムードメーカー的な存在と違って、腕が立つキャラクターとなっている。 三船敏郎の菊千代と、木村功の勝四郎を合わせた若造キャラのチコ役には、1950年代に「ドイツのジェームス・ディーン」と呼ばれて人気を博した後、ハリウッドへと進出した、ホルスト・ブッフホルツが決まる。 カウントしてもらえばわかるが、ここまでの4人で、『七人の侍』の内の6人分のキャラが、消化されてしまっている。即ち、ブラッド・デクスターが演じたハリーと、ロバート・ヴォーンが演じたリーの2人は、オリジナルの『七人の侍』には存在しない。本作『荒野の七人』のために創造された、キャラクターなのである。 七面倒な書き方になってしまったが、これはオリジナル版とそのリメイク版である本作の違いを示す上で、避けて通ることができない部分である。 因みにデクスターは、スタージェスの『ガンヒルの決斗』(59)に出演していた縁からの出演。ヴォーンは、『都会のジャングル』(59)でアカデミー賞助演男優賞候補となったことが注目されての、起用だったと言われる。 ここでヴォーンの出演を決めたことが、ジェームズ・コバーンの起用にも繋がる。ヴォーンとコバーンは、大学時代からの友人同士。コバーンは『七人の侍』のリメイク企画が進められていることを、ヴォーンから聞いて、スタージェスに連絡を取ったのである。 実は本作の製作された1960年のハリウッドは、俳優たちのストライキが予定されていた。無事にクランクインするためには、スト突入の前に、主要キャストの契約を済ませねばならない。 そのため急ピッチでキャスティングを進めている最中に、コバーンがやって来た。彼に当てられたのは、宮口精二が演じた、『七人の侍』の中で最も腕利きの、剣の達人久蔵に相当するブリット役。オリジナル版のアメリカ公開時、連日劇場に足を運ぶほどの熱烈なファンだったというコバーンは、配役を聞いて、小躍りしたという。 こうして“7人”が、遂に決まった。本作が『七人の侍』の忠実なリメイクと言われることが多い割りには、“西部劇”に翻案するに当たっては、登場するキャラクターから、様々な点で知恵を巡らしてアレンジしたのである。 そもそも最初の脚本では“7人”は、南北戦争の敗残兵という設定。オリジナル版での、戦国時代の戦乱の中で主家を失った侍=浪人者に準拠していた。リーダーも老成した勘兵衛により近いキャラで、スペンサー・トレイシーが演じるイメージだったという。 黒澤は後に、南北戦争の敗残兵の方が良かったと語っている。しかしこれは、オリジナルに忠実であって欲しいという、原作者の欲目であろう。 結果的に『荒野の七人』は、南北戦争の敗残兵ではなく、“ならず者”のガンマンの集まりとなった。各々のガンマンは、これまで少なからぬ悪行を行ってきたことを窺わせる。それがきっかけを得て、弱者である農民たちの味方となる。 これはハリウッド製西部劇の伝統とも言える、“グッド・バッド・マン”のパターンに則っている。悪い奴ではあっても、心の底に人間味を持っており、最終的には善行を施すというわけだ。 因みに『荒野の七人』が、オリジナル版から離れた原因のひとつには、メキシコロケもあった。本作に先立ってメキシコで撮影された、ロバート・アルドリッチ監督、ゲイリー・クーパー×バート・ランカスターの2大スター共演作『ベラクルス』(54)に於ける、メキシコ人の描き方に問題があったため、「アメリカ映画は来るな!」という声が高まっていた中での、ロケだったのである。 撮影現場には、メキシコ政府から派遣された検閲官が同席。脚本がチェックされ、何度も手直しせざるを得なかった。 オリジナル版で農民たちは、野武士の襲来を撃退するのに、端から浪人者を用心棒として雇うことを目的に、町へと出る。しかし、先に記した通り本作では、「銃を買って、戦う」ために、農民は街に出る。クリスのアドバイスを受けて初めて、ガンマンたちを雇うことを決心するのである。 こうした回りくどい展開になったのは、正にメキシコ政府の横槍に応じた結果である。付け加えれば、農作業に勤しむ村民たちが、その割りには、汚れひとつないような真っ白なシャツを着ているのも、検閲官の指示によるものだったという。 随所に施した“西部劇”仕様に加えて、本作はこのような、当初は想定しなかった改変も加えられている。そして上映時間は、オリジナル版の207分という長尺に対して、その6割ほどの128分。 “7人”と野武士の対決に於いて、オリジナル版では、緻密な作戦計画が段階的に実行されていく。それに対して本作は、山賊との対決が、かなりシンプル且つ直線的に描かれる。 あまりに機能的に事を運び過ぎるため、ちょっと納得し難い展開もある。優勢に立ったカルヴェラが、“7人”の命を奪わずに、わざわざ逃がす際に、銃器まで返す。これは、ご愛嬌で済ますべきなのか? 今どきの言い方では、あからさまな「死亡フラグ」である。 戦いの顛末として、“7人”の内4人までが斃れるのは、オリジナル版と同じ。だが長丁場となった対決の中で、1人また1人と命を落としていくオリジナル版に対し、本作では最終決戦で、4人の命が一気に奪われる。とにかく、簡潔且つスピーディなのだ。 ここで、敢えて言いたい! だからこそ本作は、ワールドワイドに大衆的な人気を得たのではないだろうか? 私が本作を初めて観たのは、今から40年以上前の十代前半=中坊の頃。池袋文芸坐で、本作後にスタージェスが、マックィーン、ブロンソン、コバーンを再度起用した、『大脱走』(63)との2本立てだった。 そして『七人の侍』の何度目かのリバイバル上映を観たのは、それよりも後。正直に言えばその時は、オリジナル版の重さや暗さ、そして長さにノレず、「『荒野の七人』の方が面白い」と思ったのである。 その後何度も鑑賞を繰り返す内に、社会的なテーマや哲学的な深みまで持った『七人の侍』の素晴らしさを、「格別のもの」と感じるようになっていく。しかしながら両作初見の際に、当時の映画少年として感じたことは、必ずしも間違ってはいまい。 何はともあれ、『七人の侍』から本作『荒野の七人』が受け継いだ、野盗の略奪に苦しむ農民を救うために、プロフェッショナルが集結して力を尽くすというプロットは、ハリウッドの黄金期を支えたジャンルのひとつ“西部劇”に、新風を巻き起こすこととなる。 ガンマンに、「家族も、子どもも、帰る家もない」などと嘆かせ、そのキャラに陰影を持たせる。これもまた、それまでの“西部劇”とは一味違った、極めて斬新なアプローチだったと言われる。 そして本作は、ジョン・フォードらが作った、大いなる“西部劇”の時代の終末期の作品となった。4年後には、セルジオ・レオーネ監督による、イタリア製西部劇=マカロニ・ウエスタンの『荒野の用心棒』(64)が登場。“西部劇”の歴史は塗り替えられる。 『荒野の用心棒』は、やはり黒澤明監督の『用心棒』(61)のリメイク。…と言っても、無断でパクった作品であり、後に裁判を経て、公式なリメイクとなったのであるが。『荒野の用心棒』の主演は、クリント・イーストウッドに決まる前、有力候補だったのが、チャールズ・ブロンソン。レオーネが、本作のオライリー役を見ての、オファーだった。 そんなこんなも含めて、『荒野の用心棒』が本作の影響下にあったのは、多くが指摘するところである。付記すればレオーネは、『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』(66)に、本作でカルヴェラを演じたイーライ・ウォラックを起用。これもウォラックが、オリジナル版の野武士の頭目にはなかったユーモアや愛嬌を、カルヴェラ役に加えたのを、買ってのことだったと思われる。 『荒野の七人』は、ハリウッド製の大いなる“西部劇”と“マカロニ・ウエスタン”の、ミッシングリンク的な位置にある作品と言える。そして後々まで、多くのファンに愛され続ける作品となった。 続編が3本製作され、1990年代末にはTVシリーズ化。更にアントワン・フークア監督、デンゼル・ワシントン主演で、リメイク版『マグニフィセント・セブン』(2016)が製作されている。 それは偉大なる『七人の侍』に、“西部劇”としての創意工夫を加えて見事にアレンジした、本作『荒野の七人』の素晴らしさの証左と言えよう。■ 『荒野の七人』© 1960 METRO-GOLDWYN-MAYER STUDIOS INC.. 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COLUMN/コラム2021.04.30
『クローバーフィールド/HAKAISHA』史上もっとも緊迫した怪獣映画
■POV&ファウンドフッテージの様式を用いた革新性 2007年、ネットで流布されたあるビデオ映像が、全世界を震撼させた。それは若者たちが友人のために送別パーティーを開催する様子を写したものだ。しかし次の瞬間、マンハッタン方面で大規模な爆発が起こり、自由の女神の頭部が彼らのエリアに向かって落下してくるという、この衝撃的なフッテージにネットユーザーたちは騒然となったのである。 マット・リーヴス監督が手がけた2008年製作の映画『クローバーフィールド/HAKAISHA』(以下:『クローバーフィールド』)は、テレビ業界を出自とするJ・J・エイブラムス(製作)らしい、ハッタリに満ちた上述の予告でインパクトを与えた。筆者(尾崎)は、この異様な作品の全貌をいち早く探ろうと、2008年1月18日の全米公開時、香港のAMCシアターズで観た(日本での公開は同年4月5日)。そしてもたらされたのは、作品の全容や正体が明かされたことへの驚きではなく、本作が「映画史上もっとも緊迫したモンスタームービー」であることに衝撃を禁じ得なかった。 謎に満ちた『クローバーフィールド』の正体は、怪獣映画だった。軍によって押収され、機密扱いとなったハンディカム(ビデオ)の録画テープが外部流出したという体裁をとっている。テープに撮影されていたものは日本に赴任する若者の送別パーティの模様で、その途中からカメラは突如起こった巨大怪獣のマンハッタン襲撃と、会場にいた彼らが避難を余儀なくされていくプロセスの一部始終を捉えている。その様式はPOV(一人称視点)で捉えたファウンドフッテージ(未公開映像)という形で主旨一貫され、おそらく現実に怪獣が現れたら、我々はこういう風景を見るのだろうという迫真を帯びた映像がそこに展開されるのである。 このPOV&ファウンドフッテージ自体は商業映画において真新しいものではなく、1999年に公開された『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』に端を発する。森にまつわる魔女の伝説を追い、森の中でこつ然と消えた映画学科の大学生たち。その行方不明から1年後に発見された撮影テープには、彼らが遭遇した恐怖の一部始終が写っていたーー。それらはまるでドキュメンタリーでも観ているかのような迫真性と、未公開映像の中に写り込んでいる、正体の全く分からない怪奇現象の数々をもって、今もトラウマを抱えている者は多い。 その後、スペイン産ホラー『REC/レック [●REC]』(07)でこのスタイルは再生され、ゾンビ映画のマスター、ジョージ ロメロのウェルメイドな新作ゾンビホラー『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』や、定点観測カメラを用いたゴーストホラー『パラノーマル・アクティビティ』など、『クローバーフィールド』が公開される前年には世界で同時多発的に送り出されており、この革新的な怪獣映画の登場を正当化させるものといっていい。 ■参考にされた9.11 アメリカ同時多発テロ事件のハンディカム映像 『クローバーフィールド』の企画は、監督作『M:i:III』(06)のプロモーションで来日したJ・J・エイブラムスが、ゴジラの人形を見かけたことに端を発する。 「日本にはゴジラを筆頭に、伝統的なモンスター映画の歴史がある。ひるがえってアメリカにはキング・コングしか見当たらない。我々で新たな怪獣映画の開発ができないものだろうか?」(*1) そこで、かつて共に映画を撮っていたマット・リーヴスに打診し、リアリティという方向に独自性を求めた怪獣映画を、ハンディカムによって撮ることを目指したのだ。作品の革新性に加え、なにより2001年に起こった9.11アメリカ同時多発テロでの、貿易センタービルの崩落をさまざまな視点から捉えたハンディカムによる映像の数々が大きなヒントとなっており、いわゆる「グラウンドゼロ」のメタファーとしても機能する、象徴的な怪獣映画である。 しかし、この手法を『クローバーフィールド』のようなジャンルに適合させるのは難しい。なぜなら大掛かりで数の多い合成ショットを作らねばならず、加えて手持ちカメラのような規則性のない映像で合成をする場合、マッチムーブが困難を極めるのである。ちなみにマッチムーブとは、動きを含むプレートどうしを一致させて合成させるさいのプロダクション処理で、巨大な怪獣映画を描くジャンルにおいて、極めて手間のかかるものだったのだ。 そこで合成素材を扱うために元データのクオリティを維持する役割もあり、ベースとなる映像はHD24pの映画用デジタルカメラで撮影が行われている(パーティなどのショットでは俳優が実際にハンディカムを操作しているが)。懸念されたマッチムーブの問題も、30人近くのマッチムーブ・アーティストを配してプロジェクトに取り組み、難しいレベルでのPOVショットの作成が本作において成しえられている。 またモンスターの造形はティペット・スタジオが担当。特徴的な逆関節型の複数の手脚は、人間型のフォルムを回避するためのもので、着ぐるみを用いて撮影されたゴジラへのアンチテーゼである。 ■監督マット・リーヴスが筆者に語った『クローバーフィールド』のこと さて、以下は筆者(尾崎)が監督のマット・リーヴスに取材したときの『クローバーフィールド』に関するやりとりを再録する。再録といっても、このインタビューはポスト吸血鬼映画『モールス』(10)のプロモーションで彼に電話取材をしたときのもので、同作以外の部分は意識的に取り除いた未公開のテキストであることをお断りしておきたい。 ——『クローバーフィールド』に関して、リーヴス監督の口から続編について話せる部分だけでもお聞きしたいんですけども。 マット・リーヴス監督(以下:リーヴス) 『クローバーフィールド』の次は本作を離れ、『透明人間』の映画をやるつもりだったんだ。でも話がダークすぎて、製作会社が難色を示していてね。それでもうひとつ、企画を追いかけていた『モールス』に着手したんだ。だから僕もJ・Jもお互いの作品で忙しかったから、まだどういうふうにやるか決めてないんだ。若干面白いアイディアは二人とも持ってるんだけどね。彼と製作会社バッドロボットの仕事のやり方というのは徹底した秘密主義が第一原則、もしここで一言でもここでばらしてしまうと、僕は消されてしまうので(笑)。 ――ちなみに『クローバーフィールド』の劇中にアンダースコアは用いられませんが、唯一ラストに流れる印象的な曲は、やぱり日本のゴジラにオマージュを捧げたんですか? リーヴス:まさにそのとおりで、作曲にマイケル・ジアッキーノを起用したんだけど、もともと彼とのやりとりの歴史は長く、J・Jとテレビの『フェリシティの青春』(98〜02)から『エイリアス』(01〜06)までいろいろやっていて、その後にクローバーフィールドが決まったさい「僕にやらせてくれ。だってゴジラが大好きだから、これ以上の適任者はいないと思うんだ」と言ってくれたんだ。けど「ごめん、ハンディカムを使ってかなりリアルに録るんで、音楽は使わないように考えてるんだ」って答えたら「ええ~!」ってものすごく落胆してね(笑)。結局、もしトラディショナルな形でこの映画を作ったのならば、こういうふうに作曲したんだろうというトラックをエンディングに使おうということで、ジアッキーノのあの曲になったんだ。でも話によるとあの曲は、予算がないのでインターネット上で録音してたって言ってたよ。・『クローバーフィールド/HAKAISHA』撮影中のマット・リーヴス監督(右) 映画の最後、勇壮にかかるテーマは多くのファンたちから『ゴジラ』のテーマなのではないかという指摘を受けたが、それを見事に裏付ける監督の発言を本稿の締めとしたい。ゴジラへのカウンターとして起案したはずのものが、そこにはしっかりとゴジラのDNAが息づいているのだ。 ちなみに『クローバーフィールド』続編の企画は『10 クローバーフィールド・レーン』(16)そして『クローバーフィールド・パラドックス』(18)へと成就し、立派なフランチャイズとして育てられていったが、個人的には独自性と拡張に溢れたこれらの続編も、一作目のインパクトと革新さを超えるものではなかったと実感している。 そしてなにより『クローバーフィールド』の興行的成功と技術性は、ハリウッドにおける怪獣映画の興隆に少なからず影響をもたらした。今やこのジャンルは枚挙にいとまがなく、今年はエイブラムスの言及したゴジラとキング・コングが戦う『ゴジラVSコング』(21)までもが製作されている。中国市場の拡大など副次的な要素はあるが、こうした動向ははたして『クローバーフィールド』なくして実現したかどうか定かではない。■ (*1) 『クローバーフィールド/HAKAISHA』Blu-ray(発売元/パラマウント・ジャパン)映像特典「視覚効果」より抜粋 © 2021 BY PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2021.04.07
ペキンパー自身を投影したような負け犬中年男の意地と暴走『ガルシアの首』
良き理解者を得て実現した究極のペキンパー映画 そのキャリアを通じて他に類を見ない「暴力の美学」を追求し、一切の妥協を許さぬ厳しい姿勢ゆえに映画会社との衝突が絶えなかった孤高の映画監督サム・ペキンパー。彼ほどスタジオからの横やりに悩まされた監督はいなかったとも言われているが、そんなペキンパーが「自分のやりたいように作った」と自負した数少ない映画のひとつであり、「良くも悪くも、好むと好まざるに関わらず、これは自分の映画だ」とまで言い切った作品が『ガルシアの首』(’74)である。 その前年に公開された西部劇『ビリー・ザ・キッド/21歳の生涯』(’73)では撮影中から製作会社MGM社長との対立や自身のアルコール問題の悪化、さらにはインフルエンザの蔓延など次々とトラブルに見舞われ、さらにはフィルムの編集権を取り上げられズタズタに切り刻まれるという憂き目に遭ってしまったペキンパー。そんな彼のある意味で救世主となったのが、後にペキンパーのエージェントともなる映画製作者マーティン・ボームだった。ペキンパーの良き理解者であったボームは、映画界の問題児として既に悪名高かった監督から持ち込まれた企画を引き受けたばかりか、彼が自由に映画を撮れるよう取り計らったという。メキシコの大地主の娘を孕ませた男ガルシアの首を巡って、殺し屋たちが凄まじい争奪戦を繰り広げて死体の山が積みあがっていく…基本的にただそれだけの映画のために資金繰りなど奔走するわけだから、よっぽど監督への理解と信頼がなければ実現不可能だったはずだ。 メキシコの大地主エル・ヘフェ(エミリオ・フェルナンデス)の娘テレサが妊娠する。子供の父親が誰なのか問い詰めるエル・ヘフェ。頑として口を割らなかったテレサだったが、しかし激しい拷問に耐えかねて「アルフレド・ガルシア」という名前を口にする。かつてエル・ヘフェが息子のように可愛がっていた部下だった。怒りの収まらない彼は「ガルシアの首を持ってきた奴には賞金100万ドルを払う」と宣言。グリンゴ(白人)の忠実な右腕マックス(ヘルムート・ダンティーネ)にその任務が託される。ちなみに、日本の資料では大地主とされているエル・ヘフェはスペイン語で「ボス」という意味。劇中で具体的な説明や描写がないため解釈は分かれるが、犯罪組織のボスとも考えられる。 それから数か月後、マックスのもとでガルシアの行方を追うスーツ姿の殺し屋コンビ、サペンスリー(ロバート・ウェッバー)とクイル(ギグ・ヤング)は、メキシコシティの小さな酒場へ立ち寄る。2人から報奨金と引き換えにガルシアのことを尋ねられ、これ見よがしに答えをはぐらかす元米兵のピアニスト、ベニー(ウォーレン・オーツ)。ガルシアは店の常連だったのだが、報奨金を吊り上げられると睨んで黙っていたのだ。店の従業員から自分の恋人エリータ(イセラ・ヴェガ)がガルシアと浮気していたと聞かされ憤慨するベニー。彼女を問い詰めてガルシアの居場所を聞き出そうとしたベニーだが、そこでエリータは思いがけない事実を彼に伝える。ガルシアは1週間ほど前に飲酒運転で事故死していたのだ。 たまげると同時にホッとするベニー。なんだ、もう死んでいるんだったら殺す手間も省ける。埋葬された死体から首を切り落とし、証拠として差し出せば済むじゃないか。こんな旨い儲け話はないぞ、というわけだ。元締めマックスのもとへ意気揚々と乗り込んだベニーは、既にガルシアが死んでいることを隠して報奨金を1万ドルに吊り上げ、ガルシアの首は俺が持ってくるから任せろと自信たっぷりに仕事を引き受ける。だが、ガルシアが埋葬された墓地を知っているのはエリータだけ。そこで、彼は一緒にピクニックへ行こうと彼女を誘い出し、生死を確認するだけだと誤魔化してガルシアの墓へ案内させようとする。 ベニーの言い訳がましい説明に首を傾げつつも、久々に2人きりで過ごす時間に満ち足りた幸福を感じるエリータ。長い付き合いとなる2人だったが、しかしいつも肝心な話題になると逃げてしまうベニーは、これまでちゃんとエリータに愛を告白したことがなかった。彼女がガルシアと浮気をしてしまった理由も、ベニーのその煮え切らない態度のせいだ。ここへきてようやく、大金が手に入った暁には結婚式を挙げようというベニー。なぜ今までプロポーズしなかったのかと問い詰めるエリータに、思わず彼は「分からない。今なら分かるが」と言葉を詰まらせる。本音を言えば「男のプライド」が邪魔したのだろう。しがない貧乏人のピアノ弾きのままでは、愛する女と結婚する資格などないと。一緒に苦労する覚悟のあるエリータにしてみれば、2人で暮らせるならそれだけで幸せなのだが、しかし男は女に楽をさせてこそ一人前という、下らない「男のプライド」に縛られたベニーにはその覚悟がなかったのだ。 ちなみに、このシーンはベニーが言葉を詰まらせる場面で終わるはずだったという。だが、役に入り込んだエリータ役のイセラ・ヴェガが「だったら今すぐプロポーズして」と台本にないセリフを続け、そのアドリブに呼応するようにベニー役のウォーレン・オーツが演技をつなげ、2人して喜びにむせび泣くという実に味わい深くも感動的な大人のラブシーンが出来上がったのである。実は事前にヴェガとペキンパーは打ち合わせをしていたとも言われているが、しかしそれにしても監督の言わんとするところを十二分に理解し、何も知らされていない共演者を巻き込みながら、求められる以上の芝居へと昇華させた女優イセラ・ヴェガの鋭い勘と豊かな才能には舌を巻く。もちろん、この予期せぬ展開にきっちりと応えてみせたオーツも素晴らしい。これこそが役者魂というものだろう。 身の破滅を招く「男らしさ」という幻想 しかし、これを境にベニーとエリータの運命は雲行きが怪しくなっていく。車のエンジントラブルで野宿することにした2人だったが、通りがかった2人組のバイカー(クリス・クリストファーソン&ドニー・フリッツ)に拳銃で脅され、エリータがレイプされてしまう。奪った拳銃でバイカーどもを射殺するベニー。2人はいよいよガルシアの故郷へと到着する。死体の首を切り取って持ち帰るというベニーに呆れるエリータ。お金なんてなくたっていい、このまま引き返しましょうと訴える彼女だったが、しかし意固地になったベニーは全く耳を貸さず、仕方なしに折れたエリータは真夜中に墓地へ向かう彼に同行する。意を決してガルシアの墓を掘り起こすベニー。ところが次の瞬間、背後から忍び寄った何者かに頭を殴られて気絶し、意識を取り戻すと既にガルシアの首は持ち去られており、ベニーの横には愛するエリータの亡骸が横たわっていた。にわかに状況を呑み込めずにいたものの、しかしふつふつと湧き上がる怒りと悲しみに打ちのめされ、やがて激しい憎悪に駆られていくベニー。もはや復讐の鬼と化した彼は、ガルシアの首を奪い返してエリータの仇を討つべく暴走していく…。 もともと本作の企画はペキンパーが『砂漠の流れ者』(’70)の撮影中、同作でセリフ監修を務めた盟友フランク・コワルスキーの何気ないアイディアによって生まれたのだという。「首に懸賞金のかかった男が実は既に死んでいた」という設定を気に入ったペキンパーは、当時彼の愛弟子的な存在だった脚本家ゴードン・ドーソンに脚本の草稿を依頼する。『ダンディー少佐』(’65)の衣装アシスタントだったドーソンは、そのケンカの強さをペキンパーに気に入られ、以降も『ワイルド・バンチ』(’68)や『砂漠の流れ者』、『ゲッタウェイ』(’72)などに関わってきたという親しい仲。彼は師匠であるペキンパーをモデルに主人公ベニーを書き上げ、主演のウォーレン・オーツもペキンパーの特徴を模倣しながら演じたという。ドーソンによると、いつものようにペキンパーが脚本を自由に書き換えると思っていたそうなのだが、最終的にベニーのキャラだけがそのままになっていて驚いたらしい。 本当は心優しくて気が弱い男なのに、タフで男臭いアウトローを演じてみせるベニー。心から愛する女に対しても素直になれず、ついつい粗末に扱ってしまう。なんとも矛盾した格好悪い男なのだが、しかしそれゆえに憎めないというか、なぜか愛さずにはいられない。なるほど、確かに近しい関係者から伝え聞くペキンパーの実像に似たものが感じられるだろう。もしかすると、ペキンパーも自分がベニーの元ネタであることを重々承知のうえだったのかもしれない。なにしろ、当時のペキンパーは『ビリー・ザ・キッド~』の一件で打ちのめされていた時期。自信を失い卑屈になった負け犬ベニーに、自らの姿を投影していたとも考えられる。「これば自分の映画」という彼の言葉には、そういう意味も含まれているのだろう。 そもそも、本作に出てくる男たちは揃いも揃ってみんな矛盾を抱えている。思考と行動が首尾一貫しているのはエリータとエル・ヘフェの娘テレサくらい。つまりは女性だけだ。父親の威厳を保つため手下に最愛の我が娘を拷問させるエル・ヘフェをはじめ、クールなビジネスマン風の紳士コンビを気取ったゲイ・カップルの殺し屋サペンスリーとクイル、見ず知らずの子供たちを可愛がりつつ平然と人を殺す手下のチャロとクエト。エリータをレイプするバイカーたちだって中身は無邪気な子供も同然だ。誰もが人間らしい感情や愛情を内に秘めながらも、しかしなぜかそれが相反する暴力へと向かい、最終的には悲惨な末路を辿ることになってしまう。彼らが執拗にこだわり続け、それゆえに身の破滅を招く原因になったもの。それはマチズモ、つまり「男らしさ」という幻想であろう。彼ら(ゲイ・カップルを含め)は男らしさを誇示するため女を粗末にし、そればかりか自分より弱い男も暴力で踏みつけ力を誇示する。自身も男らしさにこだわり男らしく振る舞っていたというペキンパーだが、実のところそれが内面の弱さの裏返しであることに自覚があり、社会にとって害悪を及ぼすものであると考えていたのではないか。本作を見ているとそんな風にも思えてくる。 なお、今でこそペキンパーの隠れた名作として世界的に高く評価され、当時の彼にとって渾身の一作であったはずの『ガルシアの首』だが、しかし劇場公開時は批評家からも観客からも理解されずに総スカンを食らってしまった。当時ヒットしたのは日本だけだったとも言われる。そのことを我々は誇ってもいいかもしれない。■ 『ガルシアの首』© 1974 Metro-Goldwyn-Mayer Studios Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2021.04.07
血まみれサムとマックィーンの黄金時代『ゲッタウェイ』
本作『ゲッタウェイ』(1972)の監督は、サム・ペキンパー。その異名“血まみれサム”は、多くの方がご存知の通り、彼の作品の特徴である、血飛沫飛び散るヴァイオレンス描写に由来するものである。 しかし“血まみれ”なのは、撮影現場やスクリーン上だけの話ではなかった。ペキンパーは常に、製作会社やプロデューサーと、血で血を洗う戦いを繰り広げていた。その戦いについて、彼は本作が製作・公開された年のインタビューで、こんな風に語っている。「西部のガンマンの対決なんか、製作費の問題での対決にくらべれば屁みたいなものさ。俺はいつもケチなプロデューサーを相手に、嘘をつき、ゴマ化し、チョロマカす。でもこれまで大方、この闘いは負けだった。いつも、プロデューサーとケンカして、クビさ。じっさい、この世界には、寄生虫やハイエナがウヨウヨだ。殺されるなんてものじゃない。生きたまま食われちまうんだぜ」 そんな血みどろの戦いの中で、“血まみれサム”は自らのスタッフをも、次々と血祭りに上げたことでも、知られる…。 ドン・シーゲル門下ということでは、現代の巨匠クリント・イーストウッドの兄弟子に当たる、ペキンパー。1925年生まれの彼が、TVドラマの西部劇シリーズなどを経て、映画監督としてのスタートを切ったのは、齢にして30代中盤だった。 デビュー作は、『荒野のガンマン』(60)。それに続く『昼下がりの決斗』(61)では、興行的な成果こそ得られなかったものの、新しい時代の西部劇の担い手として、注目されるに至った。 そしてこの作品では、フィルムを大量に回し、膨大なそのすべてを把握して編集するという、彼一流の手法が、確立した。ペキンパー組の常連俳優だったL・Q・ジョーンズ曰く、「脚本を壊し、全てを断片にし、それから組み合わせる」やり方である。 続いて手掛けたのが、『ダンディー少佐』(65)。主演のチャールトン・ヘストンが、『昼下がりの決斗』に感銘を受けたのが、ペキンパー起用の決め手となった作品だ。 しかし『ダンディー少佐』は、ペキンパーに悪名を与える、決定打となった。いわく、「予算もスケジュールも守らない」「スタッフに過大な要求をし、出来なければ情け容赦なくクビにする」「大酒飲みのトラブルメーカー」といった具合に。 製作したコロムビアと大揉めに揉めたこの作品では、ペキンパーは最終的に編集権を奪われる。そして彼が編集したものより、大幅に短縮された作品が、公開されるに至った。 このパターンは、その後のペキンパー作品について回る。しかしそれ以前の段階としてペキンパーは、『ダンディー少佐』から4年以上の間、干されることとなった。 雌伏の時を経て、ペキンパーが69年に放ったのが、代表作『ワイルドバンチ』である。この作品でペキンパーは、彼の代名詞とも言える、銃撃戦などアクションを“スローモーション”で捉える手法を、初めて用いた。これが、「デス・バレエ=死の舞踏」などと評され、正にペキンパーの「血の美学」が、世界中にセンセーションを巻き起こしたのである。 後に続くフィルムメーカーたちに多大な影響を与え、映画史に残るマスターピースとなった『ワイルドバンチ』。しかしこの作品も、ペキンパー作品の辿る悪しきパターンから、逃れられなかった。 ペキンパーが当初完成させたバージョンは、2時間24分だったが、公開後興行成績が思ったほど伸びなかったため、製作元のワーナーはペキンパーに無断で、フラッシュバックなどをカット。2時間12分版を作って、全米の劇場に掛けたのである。 それはともかく、『ワイルドバンチ』で悪名以上の勇名を得たペキンパーは、続けて「恐らく私のベストフィルム」と胸を張る、『ケーブル・ホーグのバラード』(70)(日本初公開時のタイトルは『砂漠の流れ者』)を完成。更にダスティン・ホフマンを主演に迎え、イギリスで撮影した初の現代劇『わらの犬』(71)では、その暴力描写が、賛否両論の嵐となった。 キャリア的には正にピークを迎えんとするタイミングで、ペキンパーは、当時名実と共にNo.1アクションスターだった、スティーヴ・マックィーンと組むことになる。その作品は西部を舞台に、ロデオの選手を主人公にした現代劇、『ジュニア・ボナー 華麗なる挑戦』(72)。ペキンパーのフィルモグラフィーでは、銃撃と死体の登場しない、唯一の作品である。 実はペキンパーはこの作品以前に、マックィーンとの邂逅があった。それはマックィーンがポーカーの名手を演じた、『シンシナティ・キッド』(65)である。時期的には『ダンディー少佐』で、悪名を轟かせた直後。そしてペキンパーは、『シンシナティ・キッド』の撮影開始から1週間足らずで、監督をクビになったのである。 この時マックィーンは、ペキンパーの解雇に同意したという経緯があった。『ジュニア・ボナー』で、そんなペキンパーとの因縁の組み合わせが決まった時のことを、後にマックィーンはこう思い起こしている。「俺はいつも完璧主義者だから、多くの人の頭痛の種だったし、サムも悪評高かった。彼と俺で、大したコンビさ。スタジオ側は頭痛薬をたっぷり用意してたと思うよ」 いざ『ジュニア・ボナー』の撮影が始まると、2人の間には最初こそ緊張感が生じたものの、次第に解消していったという。マックィーンが頻繁に自分の登場シーンを書き換えることで、対立などもあったが、両者の関係は概ね良好だった。 ペキンパーはマックィーンについて、「…奴のことを好きな人間はあまりいないみたいだが、私は好きだね」と語っている。一方でマックィーンは、「サム・ペキンパーは傑出した映画作家だ…」と、リスペクトを表明している。『ジュニア・ボナー』は、評判の高さに比して、興行は期待外れに終わった。しかしマックィーン×ペキンパーの両雄は、続けて組むこととなる。 それが、本作『ゲッタウェイ』である。 ジム・トンプソンの犯罪小説を映画化するというこの企画は、『ローズマリーの赤ちゃん』(68)『ゴッドファーザー』(72)などのヒット作を手掛けた、パラマウントのプロデューサー、ロバート・エヴァンスがスタートさせた。ペキンパーに監督させるというプロジェクトだったのだが、不調に終わり、一旦ご破算になった。 続いてパラマウントの別のプロデューサーが、マックィーン主演作として企画を進めることとなったが、それも頓挫。マックィーンは、ポール・ニューマンやシドニー・ポワチエ、バーブラ・ストライサンドらと設立した製作会社ファースト・アーティストの第1回作品として、本作の製作を決める。 脚本は、原作者のトンプソン自らが手掛けたが、マックィーンがその内容を気に入らず、没に。当時新進の脚本家だった、ウォルター・ヒルが担当することとなった。 マックィーンが、監督の第一候補と考えていたのは、ピーター・ボグダノヴィッチ。当時『ラスト・ショー』(71)で高い評価を得ていた、新進気鋭の若手監督だった。しかしスケジュールの問題などで、実現せず。 そこで白羽の矢が立てられたのが、ペキンパーだった。彼にとっては、元より興味があった企画の上、次なる監督作として取り組んでいた『大いなる勇者』『北国の帝王』などが、諸事情によって、他の監督の手に渡ってしまったタイミング。そこで『ジュニア・ボナー』に続けて、マックィーンと組むこととなった。 テキサスの刑務所に、銀行強盗の罪で服役していた男が、10年の刑期を半分も務めることなく、4年で仮釈放となった。男の名は、ドク・マッコイ(演:スティーヴ・マックィーン)。迎えに来た妻キャロル(演:アリ・マッグロー)と、4年振りの熱い夜を過ごす。 ドクの早すぎる仮釈放は、地方政界の実力者ベニヨン(演:ベン・ジョンソン)との裏取引によるもの。出所と引き換えに、田舎町の小さな銀行を襲って、その分け前をベニヨンに納めるという約束だった。 ベニヨンはドクに、銀行強盗の仲間として、ルディ(演:アル・レッティエリ)、ジャクソン(演:ボー・ジャクソン)という2人を引き合わせる。綿密な計画が立てられ、キャロルを含めて4人での、決行の日がやってくる。 すべてがスムースにいくと思われたが、青二才のジャクソンが、銀行の守衛を射殺したことから、全ての歯車が狂い出す。ドクとキャロル、ルディとジャクソンの二手に分かれて逃走を図るも、ルディはジャクソンを突然射殺。集合場所でドクも撃ち殺して、金を独り占めしようと図るが、気配を察したドクに、逆に撃ち倒される。 ドクは黒幕のベニヨンの元に、取り引きに行く。ベニヨンは、今回の銀行強盗の裏事情を明かし、ドクを釈放させた背景に、キャロルとの情事があることを仄めかす。ショックを受けるドクの背後に、突然キャロルが現れた。そしてベニヨンに、銃弾をぶち込む。 互いに傷つき、その絆が揺らぎながらも、逃避行を続けるドクとキャロルの夫婦に、次々とアクシデントが襲い掛かる。更にはベニヨンの手下たち、そしてドクに撃たれながらも、生きながらえていたルディが、追っ手となって迫る。 ドクとキャロル、犯罪者の夫婦が大金を手にしたまま国境越えを目指す、“ゲッタウェイ”逃走劇は、果して成功するのか!? キャロル役のアリ・マッグローは、白血病のヒロインを演じて観客の涙を絞った『ある愛の詩』(70)が、大ヒットして間もない頃。私生活では、本作を当初プロデュースする予定だったロバート・エヴァンスと、結婚生活を送っていた。本作のヒロインにキャスティングされたのも、その流れからと思われる。 ところが『ゲッタウェイ』の撮影中、マッグローは、前妻と15年の結婚生活にピリオドを打ったばかりのマックィーンと、恋に落ちてしまう。結局マックィーンによる略奪婚という形で、マッグローはエヴァンスと別れ、撮影終了後に2人は夫婦となった。 72年2月にクランクインした本作は、そんなスキャンダラスな話題も交えながら、順撮り、即ち物語の進行の順番通りに、撮影を進めていった。そして5月には、クランクアップ。予算的にもスケジュール的にも、ペキンパー作品としては大過ない、進行と言えた。 しかしポストプロダクションで、トラブる。ペキンパーは、『ワイルドバンチ』『わらの犬』に続いて、音楽をジェリー・フィールディングに依頼するも、完成したスコアは、マックィーンの意向で、すべて差し替え。画面を彩ったのは、クインシー・ジョーンズのジャズっぽいスコアとなった。 更にマックィーンは、最終編集権をペキンパーには渡さずに、作品を完成させた。アクション映画の諷刺を目指して本作に挑んだというペキンパーは、完成版を目にした時に、「これは俺の映画じゃない!」と、叫んだと伝えられる。 本作の次に撮った『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』(73)では、MGMの判断で勝手に編集が行われた際、ペキンパーはその経営者に、メキシコから殺し屋を差し向けようとまで思い詰めたという。それでは本作のマックィーンに対しての怒りは、どんな形で発露されたのか? 意外や意外、2人の友情は、その後も続いたという。それは一体、なぜだろうか? 一見、いつもの悪しきパターンにはまり込んだかのような『ゲッタウェイ』だったが、興行の結果が他のペキンパー作品とは、大きく違った。彼のフィルモグラフィーに於いて、最大のヒット作となったのである。 ペキンパーは、興収から多額の歩合も貰える契約を、マックィーンと結んでいた。これでは、矛を収める他はなかったのかも知れない。 だが、そんな裏事情を敢えて無視して、本作を眺めてみよう!すると、ごく単純化されたストーリーラインの中で、至極楽しめる極上の娯楽作品となっていることが、わかる。 公開時は、42才。ノースタントのアクションスターとして、まさに脂が乗り切っていた、マックィーンの身のこなし。そして、銃器の扱いに関しては、右に出る者がないと言われた彼が魅せる、ガンアクション。 ペキンパーは、47才。お得意の“スローモーション”を駆使した、ヴァイオレンスシーンの演出に磨きがかかり、観る者の度肝を抜く。 本作では、そんな両者の技能が、まさに融合。“映画的瞬間”を、作り出しているのである。 そして2021年の我々は、知っている。1972年にピークを迎えた、2人のその後の運命を。 マックィーンはこの後、たった8年しか生きられず、50歳でこの世を去ってしまう。ペキンパーの余命も、あと12年。60才を迎える前に、彼の心臓は止まってしまう。 そんな彼らが全盛期に手を組んで、輝きを放つ、『ゲッタウェイ』。今こそ感慨を新たに、フィルムに焼き付けられた、2人の“黄金時代”を、凝視したい。■ 『ゲッタウェイ』© Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2021.04.06
女性同士の友情を超えた固い絆を通してフェミニズムの発芽を描く女性映画の佳作『女ともだち』
戦争によって運命を翻弄され、愛のない結婚生活に縛られた2人の女性 筆者が大学時代に映画館で見て強い感銘を受けた作品のひとつである。日本公開は本国フランスから遅れること約3年の1986年1月だが、当時高校3年生だった筆者は受験勉強に忙しくて映画を見る暇などなかったため、恐らく日本大学芸術学部に入学してから都内の名画座で見たと記憶している。都営浅草線の西馬込から五反田で山手線に乗り換え、池袋経由で西武池袋線の江古田へ通っていた筆者は、その沿線にある五反田東映シネマや目黒シネマ、早稲田松竹に文芸座といった名画座へ足繁く通っていた。今となっては、そのうちのどこで本作を見たのか定かではないが、1940~50年代のフランスを舞台としたノスタルジックな映像美、ありきたりな友情を超えた女性同士の固い絆を描く繊細なドラマ、そして映画音楽の名匠ルイス・バカロフの紡ぎ出す抒情的な美しいメロディ、そのいずれもが忘れ難く、輸入盤で手に入れたセミダブル・ジャケットのサントラLPを溝が擦り切れるまで繰り返し聴いて映画の余韻に浸ったものだった。 物語の始まりは1942年。ドイツ占領下のフランスではユダヤ人の排斥が進み、この頃になると外国系ユダヤ人の取り締まりが一層のこと厳しくなっていた。その背景には、外国籍のユダヤ人をナチスに売り渡すことで、フランス国籍のユダヤ人を守ろうとした在仏ユダヤ人総連合の協力があったと言われている。南仏ピレネー=オリアンタルのユダヤ人収容所へ到着したヒロイン、レナ(イザベル・ユペール)もユダヤ系ベルギー人だ。劇中では具体的な収容所の名前は出てこないものの、恐らくピレネー=オリアンタルに実在したリヴザルト収容所と思われる。ここはいわゆる通過収容所で、最終的にはドイツ及び各国の強制収容所へ送られることになる。42年から43年にかけて、4000人近くのユダヤ人がリヴザルトからアウシュヴィッツへ送られたらしいが、本作のレナもまた同じ運命を辿るはずだった…。 ところが、ある日彼女は見知らぬ男性から手紙を受け取る。送り主は給食係の冴えない兵士ミシェル(ギュイ・マルシャン)。一方的にレナに一目惚れしたミシェルは、フランス人である自分と結婚すれば収容所を出られると持ち掛けてきたのだ。突然の申し出に面食らうレナだったが、しかし背に腹は代えられないため、この奇妙なプロポーズを受けることにする。収容所の外へ出たらサヨナラすればいい。そう考えていたものの、財産も行く当てもない彼女はそのままミシェルと暮らすことに。しかも、なんと彼もまた生粋のユダヤ人だった。先述したように、当時はフランス国籍のユダヤ人は収容所送りを免れていたのである。しかし、その後ユダヤ人排斥のターゲットはフランス国籍保持者にも及び、レナとミシェルは徒歩で国境を越えてイタリアへと脱出。いつしか夫婦の絆のようなものが生まれていた。 そのちょうど同じ頃、美大生のマドレーヌ(ミュウ=ミュウ)は同級生レイモン(ロバン・レヌッチ)と結婚して幸せの頂点にあった。ところが、恩師カルリエ教授(パトリック・ボーショー)の逮捕に抗議する学生が集まった際、レジスタンスとゲシュタポの銃撃戦が勃発し、マドレーヌを守ろうとしたレイモンが銃殺されてしまう。最愛の人を失ったことから生きる気力を失った彼女は、終戦後に知り合った売れない役者コスタ(ジャン=ピエール・バクリ)と成り行きで結婚する。 時は移って1952年。たまたま子供たちが同じ学校に通っていたことから、学芸会で知り合ったレナとマドレーヌはたちまち意気投合する。自動車整備工場を経営するミシェルとの間に2人の娘をもうけたレナ。夫の仕事は順調で羽振りも良く、何不自由ない生活を送っているレナだったが、必ずしも幸せとは言い切れないでいた。家庭を大事にする善良なミシェルは良き夫であり良き父親だが、無教養で車とスポーツ以外には関心がなく、知的好奇心の旺盛なレナは物足りなさを感じていた。一方のマドレーヌもコスタとの間に一人息子をもうけたが、しかし夫は相変わらず売れない役者のままで、一獲千金を夢見ては怪しげな商売に手を出して借金を作っている。どちらも生活のために愛のない結婚をし、不満の多い日常生活に縛られた女性同士。やがて、お互いに胸の内をさらけ出せる親友として、なくてはならない存在となっていく…。 ヒロインたちのモデルとなったのは監督の母親とその親友 物語の焦点となるのは、お互いに最大の理解者として深い友情を育みながら、やがて女性としての自我と自立心に目覚めていくヒロインたちと、そんな妻たちの精神的な成長を一家の大黒柱たる男として受け入れることの出来ない夫たちの葛藤だ。戦時中は激動する社会に運命を翻弄され、戦後の平和な時代になると今度は家庭に縛られ、常に誰かに人生をコントロールされてきたレナとマドレーヌ。私たちも自身の力で何かを選択して挑戦したい。そう考えた2人は共同でブティックを開業しようと計画するが、しかしレナの夫ミシェルは彼女が自分のもとを離れるのではないかと恐れてマドレーヌとの交際を禁じ、マドレーヌの夫コスタは家族を養うべき男としてのプライドを傷つけられたと憤慨する。これは女性の自立が叫ばれるようになる以前の時代、2人の平凡な主婦を通してフェミニズムのささやかな発芽を描いた物語と言えるだろう。 監督はこれが長編劇映画3作目だった元女優のディアーヌ・キュリス。ルイ・デリュック賞に輝く処女作の青春映画『ペパーミント・ソーダ』(‘77・日本未公開)では自身の少女時代を瑞々しく描き、カンヌ国際映画祭のコンペティションに出品された『ア・マン・イラブ』(’88)では妻子あるハリウッド俳優と恋に落ちる無名女優に自身の体験を投影したキュリス監督だが、実はアカデミー外国語映画賞候補になった本作も実話を基にしている。ヒロインのレナとマドレーヌのモデルとなったのは、キュリス監督の実の母親とその親友なのだ。彼女の両親(名前もレナとミシェル)は’42年にリヴザルト収容所で出会い結婚し、’53年に離婚している。マドレーヌは本作が完成する2年前に亡くなったという。初公開時にレナとマドレーヌの関係は同性愛とも解釈されたが、実際の2人を知るキュリス監督によると、そうとも言えるし、そうとも言えない、つまり定義付けの出来ない特別な関係だったのだそうだ。 また、先述したようにルイス・バカロフの手掛けた音楽スコアも本作の大きな魅力のひとつである。アカデミー作曲賞に輝いた『イル・ポスティーノ』(’96)をはじめ、クエンティン・タランティーノの『キル・ビル』にも引用された『怒りのガンマン/銀山の大虐殺』(’71)やジャンゴ映画の元祖『続・荒野の用心棒』(’66)、巨匠フェリーニの『女の都』(’80)など、主にイタリア映画で活躍したアルゼンチン出身の作曲家バカロフにとって、本作は初めてのフランス映画だった。東欧ユダヤの伝統音楽クレズマーをモチーフ(バカロフ自身もユダヤ系)にしたテーマ曲をはじめ、ジャズやシャンソン、民謡などを巧みにブレンドしたノスタルジックでセンチメンタルな音楽スコアがとにかく素晴らしい。2010年にボーナストラック入りの完全版が500枚限定プレスでCD化され、筆者も迷わず手に入れて家宝にしているが、より幅広く知ってもらうためにも改めての再発が望まれる。 ちなみに、キュリス監督は近作『女性たちへ』(‘13年・日本未公開)でも両親をモデルにしている。母親レナ役はメラニー・ティエリー、父親ミシェル役はブノワ・マジメル。今度は終戦直後にフランスへ戻ってからマドレーヌと知り合うまで、つまり『女ともだち』では描かれなかった空白の期間を題材に、夫ミシェルの生き別れた弟と惹かれあうレナの葛藤が描かれているという。日本で見ることの出来ないのが惜しい。■ 『女ともだち』© 1983 STUDIOCANAL - Appaloosa Dvpt - Hachette Première || "&" || Cie - France 2 Cinéma
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COLUMN/コラム2021.03.26
“天国”で地獄を見た男が、起死回生を賭けた一作『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』
1979年4月9日に開催された、「第51回アカデミー賞」の主役となったのは、40歳になったばかりのマイケル・チミノ。この日に作品賞や監督賞をはじめ、最多5部門でオスカーに輝いた、『ディア・ハンター』(1978)の監督であり、プロデューサーの1人だった。 チミノは、広告業界を経て、映画界入り。まずは脚本家として、『サイレント・ランニング』(72)『ダーティハリー2』(73)の2本を共同執筆した。 監督デビュー作は、クリント・イーストウッド主演の、『サンダーボルト』(74)。ベトナム戦争に出征した、ロシア移民の若者たちの運命を描いた『ディア・ハンター』は、まだ監督2作目だった。 この日「アカデミー賞」監督賞のプレゼンターとして登場したのは、フランシス・フォード・コッポラ。チミノと同年の生まれだが、70年代前半には、『ゴッドファーザー』(72) 『カンバセーション…盗聴…』(74)、そして『ゴッドファーザー PARTⅡ』(74)の3本で、観客の支持を集めると同時に、「アカデミー賞」や「カンヌ国際映画祭」などを席捲。正に飛ぶ鳥を落とす勢いの、時代の寵児となっていた。 しかし70年代後半のコッポラは、ベトナム戦争を舞台に、アメリカの侵略を批判的に描くという、当時としては野心的な試みであった、『地獄の黙示録』(79)の製作が難航。同じく“ベトナム”を題材にした『ディア・ハンター』の方が、製作開始が後だったにも拘らず、先に公開されたのである。 そして迎えた、この日。『地獄の…』が未だ完成に至らないコッポラの手から、チミノにオスカーが渡されるというのは、極めて象徴的な出来事と言えた。 作品賞の授与は、更にドラマチックな展開となった。プレゼンターは、長きに渡ってハリウッドの帝王として君臨した、大スターのジョン・ウェイン。間もなく72才にならんとする彼は、末期がんに侵されており、瘦せ衰えた姿での登壇であった。 ウェインと言えば、“赤狩り”の積極的な旗振り役を務めたほどの、典型的なタカ派。“ベトナム”に関しては、“反戦運動”の高まりに抗し、アメリカ軍を正義の味方として描くプロバガンダ映画『グリーン・ベレー』(68)を、製作・監督・主演で発表している。 そんな彼が最後の晴れ舞台(ウェインはこの式典の2か月後に死去)で、『グリーン…』のちょうど10年後に製作された“ベトナム反戦映画”『ディア・ハンター』の名を読み上げ、オスカー像を手渡したわけである。歴史の皮肉であると同時に、その後の展開次第では、ハリウッド帝国の「王位の引継ぎ式」として、映画史に残る可能性さえあった そう。この時のマイケル・チミノは、新たに玉座に就いたかのような、輝かしい存在であった。そして、オスカーを手にした日からちょうど2週間後=4月16日には、監督第3作がクランクインしたのである。 その作品の名は、『天国の門』。オスカー戦線を再び目指す構えで、翌80年の10月19日に、ニューヨークでプレミア上映が行われた。しかし、まさかそのお披露目の瞬間に、チミノが『ディア・ハンター』で得た栄光が、灰燼に帰してしまうとは…。『天国の門』は、1890年前後のワイオミング州で起こった「ジョンソン郡戦争」をモチーフに、入植者である東欧系移民の悲劇を描いた西部劇である。1,100万ドルの予算でスタートしながらも、チミノの完全主義にオスカーの余勢もあって、製作費が当初の4倍=4,400万ドルという、当時としては前代未聞の規模にまで膨らんでしまった。 そして、3時間39分という長尺で完成した『天国の門』は、件のプレミア上映で、観客からも評論家からも総スカンを喰らう。公開から1週間後には、製作会社のユナイテッド・アーティスツが、フィルムを映画館から引き上げ、全米及び海外での公開は、延期となってしまった。 翌春には2時間29分まで尺を詰めた再編集版が公開されたものの、結局4,400万ドル掛かった製作費の10分の1も回収できず、大失敗に終わった。この災禍により、ユナイテッド・アーティスツは経営危機に陥り、60年以上に及ぶその歴史に、幕を下ろすこととなった。 ハリウッドの新たな帝王、少なくともその最有力候補であったチミノの名誉は、この歴史に残る「映画災害」で、地に堕ちた。そして彼は、長い沈黙を余儀なくされる。 80年代前半、『天国の門』以前からチミノが準備を進めていた幾つかの企画は、雲散霧消。捲土重来を期して新たに取り組んだ企画に関しても、『天国の門』の二の舞を避けたい各製作会社の判断で、製作中に解雇されるケースが相次いだ。 そんなチミノが、表舞台へと復帰したのが、本作『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』(85)である。 1981年に出版された、本作の原作小説の映画化権を獲得したのは、プロデューサーのディノ・デ・ラウレンティス。フェデリコ・フェリーニ監督の名作『道』(54)や、『キングコング』(76)などの製作で知られる。 ラウレンティスは映画化権を得るとすぐに、チミノに連絡。しかしチミノは当初、この企画に関心を示さなかったという。 他の人材を使って映画用の脚本を作成しようと試みたラウレンティスだったが、うまくいかず、再びチミノにお鉢が回る。他の企画が次々と頓挫していったこともあってか、チミノは一度は断ったこのオファーを、ストーリーや登場人物を、原作から自由に改変できることを条件に、受けることにした。『ミッドナイト・エクスプレス』(78)や『スカーフェイス』(83)などで、当時気鋭の脚本家として注目されていたオリヴァー・ストーンを共同脚本に引き入れたチミノは、メインの舞台となるチャイナタウンへと赴いて取材を重ね、脚本を完成。遂に5年振りとなる新作の、クランクインへと漕ぎつけた。 ニューヨークのチャイナタウン。小さな飲食店で仲間と会していた、“チャイニーズ・マフィア”TOPのワンが、突然刺殺された。犯人が捕まらぬまま、その壮大な葬儀を仕切ったのは、ワンの娘婿であるジョーイ・タイ(演:ジョン・ローン)。 そんな葬儀の様子を見やっていたのは、新しくこの地域の担当となった、市警の刑事スタンリー・ホワイト(演:ミッキー・ローク)だった。ホワイトは麻薬取引などで暗躍する、中国系犯罪組織の壊滅を狙って、動き出す。 マスコミの力を利用しようと考えたホワイトは、TV局の女性キャスターで、中国系のトレーシーに近づく。チャイナタウン内の高級中華料理店に彼女を招き、密議を持ち掛けていると、突然覆面をした2人の男が乱入し、機関銃を無差別に乱射。店内は、パニックに陥る。ホワイトはトレーシーを庇いながら、発砲。犯人たちに深傷を負わせながらも、取り逃がしてしまう。 観光客などに多数の死傷者を出した、この襲撃の黒幕は、ジョーイ・タイだった。彼は店の主人である組織の長老の面子を潰し、その影響力を削ぐために、虐殺劇を演出したのである。 一方、妻との不和を抱えていたホワイトは、この一件をきっかけに、トレイシーとの仲が深まり、やがて不倫の関係となる。それと同時にホワイトは、“チャイニーズ・マフィア”の若きリーダーとなったタイに、全面戦争を仕掛ける。 タイは麻薬の供給量を拡大するため、東南アジアの“黄金の三角地帯”に自ら出向いた際には、商売敵の生首を手土産とするような、残虐な振舞いを躊躇しない。遂には、敵対するホワイトだけでなく、その周辺の者たちにまで、刺客を差し向ける。 怒り心頭に達したホワイトは、タイにとって正念場となる、麻薬取引の現場を急襲!命を懸けた、2人の最後の対決が始まった…。 先に記した通り、ストーリーや登場人物を自由に改変できることを条件に、本作に取り組んだチミノ。主人公の刑事を、原作にはない、ポーランド系に設定にした上、ベトナム戦争帰りのため、アジア系に偏見を持つという要素を加えた。 彼と恋に陥る女性キャスターに関しても、原作とは変更。40代の白人女性だったのを、20代の中国系女性に変えている。 中国系であるタイに、偏見と共に強烈な敵愾心を燃やしながらも、同じ中国系のトレーシーにのめり込んでしまう、ポーランド系の刑事。チミノ曰く、「移民の国アメリカでは、―――系アメリカ人と系がつく人種が多いのが現実。だからアメリカの現実を描こうとしたらエスニックは避けて通れない」。 自身はイタリア系の三世である、チミノ。彼の中では、ロシア系移民が主人公だった『ディア・ハンター』、東欧系の『天国の門』と合わせて、本作はアメリカを描く三部作という位置付けだった。 こうしたチミノのこだわりによって誕生したホワイト刑事役には当初、クリント・イーストウッド、ポール・ニューマン、ニック・ノルティ、ジェフ・ブリッジスらが想定されていたという。しかし最終的に、チミノの前作『天国の門』にも出演していた、ミッキー・ロークに決まる。 当時のロークは、セックスシンボル的に、女性人気がグングンと高まっていった頃で、まだ30代前半。ベトナム帰りで40代後半のホワイトを演じるには、白髪に染めるなどの工夫を凝らしても、些か若すぎたように思える。 しかしチミノは、ロークの身体能力の高さを買って、激しいアクションシーンが多い本作の主役に、彼を据えたという。そうは言っても公開当時は、“チャイニーズ・マフィア”の若きドンを演じたジョン・ローンの、冷酷非情でありながらも貴公子然とした佇まいに対し、ミッキー・ロークより高く評価する声が多かった。それから35年以上の歳月が流れ、チミノの判断が正しかったか否かは、鑑賞者各自の判断に委ねたい。 因みにジョン・ローンは本作の後、ベルナルド・ベルトルッチ監督作で、アカデミー賞9部門を制した『ラスト・エンペラー』(87)に主演。皇帝溥儀を、見事に演じている。 さて本作は、『天国の門』の再現を恐れてか、ラウレンティスがチミノに最終的な編集権を渡さなかった。それが効を奏して(?)、スケジュールも予算をオーバーすることもなく、1985年8月に無事公開に至った。 ノースカロライナ州に在るラウレンティスのスタジオに建て込まれた、ニューヨークのチャイナタウンは、誰もがセットとは思えないほど、精緻な仕上がりであった。そこをメインの舞台として、強烈なヴァイオレンスシーンなど、見どころ満載で展開される“対決”の物語は、134分の上映時間を飽きさせことなく駆け抜ける。 アメリカより半年遅れて、日本では86年2月に公開となった。その際の劇場用プログラムには、~前作『天国の門』の失敗のツケを十二分にカバーする起死回生のホームランになった~などと記されている。 また本作のプロモーションで、チミノとジョン・ローンが来日。その際の記者会見が採録されているが、本作で中国系の俳優を起用して成功したことで、西部開拓時代に中国からの移民が多く従事した、鉄道建設の物語を映画化する、チミノの構想が、実現する可能性が大きくなったなどと、書かれている。 しかし実際のところは、これらはインターネットなき時代に、日本の映画会社がお得意とした、事実の塗り替えであった。本作『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』はアメリカ公開の際、スタート時こそまずまずの成績を上げたものの、アジア系アメリカ人や映画批評家などから、人種差別や性差別的な傾向を指摘され、批判や抗議を受けたことなどが一因となり、動員は下降の一途を辿った。 これに対しチミノは、「『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』は人種差別を描いた映画だけども、人種差別的な映画ではありません」と反論。実際に本編の中でも、偏見を抱き続けていた主人公が、己の過ちを認めるシーンなどが盛り込まれている。 しかし結局は、2,400万ドルの製作費に対して、興行収入は1,800万ドルに止まり、赤字に終わった。チミノの名誉挽回は、失敗に終わったのである。 本作以降のチミノは、『シシリアン』(87)『逃亡者』(90)『心の指紋』(96)といった作品を監督するも、いずれも興行は不発。最後の長編監督作となった『心の指紋』に至っては、ほとんど劇場公開されずに、いわゆる「ビデオスルー」となる始末だった。 その後は「カンヌ国際映画祭」の60回記念として製作された、世界の著名監督34組によるオムニバス映画『それぞれのシネマ』(2007)の中の上映時間3分の一篇を手掛けただけ。2016年、チミノは77才で、この世を去った。 死に至る4年前=2012年に、『天国の門』をチミノ自らが、3時間36分に再編集。ディレクターズ・カット版として、「ヴェネチア映画祭」でお披露目後にアメリカ公開された際、「初公開当時の評価が誤りであった」などと、再評価の声が高らかに上がった。 映画作家として、不遇な後半生を送ったチミノにとって、それはせめてもの慰めだったかも知れない。■
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COLUMN/コラム2021.03.09
『サボテン・ブラザース』が愛される理由
日本の映画市場で長らく鬼門と言われ続けてきたジャンルの一つが、“アメリカン・コメディ”だ。たとえ本国でNo.1ヒットを飛ばした作品でも、日本公開では一部の例外を除いて、その多くが爆死を遂げてきた。公開されるのはまだマシな方で、日本のスクリーンには掛からずじまいだった作品も、少なくない。 その原因として繰り返し言及されたのが、文化的な差異による“笑い”の違い。その説明には、日本を代表する喜劇映画シリーズ『男はつらいよ』が、例として挙げられるパターンが多かった。いわく、日本的な人情風味が満載の寅さん映画を、仮に欧米で字幕付きで上映しても、ウケはしないだろうと。“アメリカン・コメディ”が日本でウケないのも、それと同じようなことだと。 何はともかく死屍累々の中、劇場公開時にヒットしたという話はきかないながらも、『¡Three Amigos!』を、「好きな作品」として挙げるケースには、よく遭遇してきた。邦題は、日本での“アメリカン・コメディ”の例外的なヒット作である『ブルース・ブラザース』(80)に因んで付けられたと思われる、『サボテン・ブラザース』(86)のことである。 監督が『ブルース…』と同じ、ジョン・ランディスなのはともかく、プロデューサーのローン・マイケルズと3人の主演陣は、アメリカのTV界を代表するコメディバラエティ番組「サタデー・ナイト・ライブ」ゆかりの面々。チェビー・チェイスとマーティン・ショートは、「サタデー…」にレギュラー出演して人気を博した時期があり、スティーヴ・マーティンは、ホストとして度々ゲスト出演して、評判になった。そうした意味で、正に“アメリカン・コメディ”の王道的なメンバーが集結している。 こうなると、これはホントに危うい。日本では、最もウケないパターンである。例えばランディス監督の前作で、チェビー・チェイスと、やはり「サタデー…」組のダン・アイクロイドが共演した『スパイ・ライク・アス』(85)のように。 ところが先に書いた通り、本作は日本でも「愛される」1本となった。それは劇場公開時よりも、むしろその後のレンタルビデオやTV放送を通じてとは思われるが。 本作の人気が高かった理由のまず一つは、物語の構造であろう。悪党に蹂躙される村人の声に応えて、勇者たちが心意気で助けに向かうというのは、『七人の侍』(54)や、そのリメイクである西部劇『荒野の七人』(60)などでお馴染みのパターンであるが、コメディとして、そこからの捻り方が絶妙である。 主人公たちが演じる勇者を見て、「本物」と“勘違い”した村人からの願い。それを「俳優の仕事」としての依頼と“勘違い”して受けた主人公たち。真実に気付いた時は、一旦逃げ出しかかるが、最終的には勇気を振り絞って、村人たちのために戦う。 この構図は後に、『スタートレック』シリーズへのオマージュが満載の『ギャラクシー・クエスト』(99)にも、転用される。こちらでは、宇宙船のクルー役を演じた俳優たちを、「本物」と宇宙人が勘違い。助けを求められた俳優たちは、“宇宙戦争”を戦うことになる。 他に、ピクサーのCGアニメ『バグズ・ライフ』(98)など、『サボテン・ブラザース』の影響下にあると思われる作品は、少なくない。 先に挙げた、本作の熱心なファンである三谷幸喜も、このパターンを自作に取り込んでいる。役所広司主演のTVドラマ「合い言葉は勇気」(00)は、本物の弁護士と勘違いされた俳優が、不法投棄を行う産廃業者を相手取った住民訴訟を戦う。また監督作である映画『ザ・マジックアワー』(08)も、ヤクザの組織が、佐藤浩市が演じる売れない俳優をプロの殺し屋と勘違いする話であり、このバリエーションと言える。三谷の作風として、登場人物たちの勘違いに勘違いが重なって、物語があらぬ方向に暴走していく展開があるのだが、本作の骨組みは正に、「ズバリ」だったのであろう。 こうした構成の下、繰り広げられるのが、本作の主演にして、製作総指揮・脚本も兼ねたスティーヴ・マーティンが言うところの、「セックスもドラッグも4文字言葉も出ていない」コメディである。日本の観客が一番お手上げになる、英語での言葉遊びのギャグなどよりも、体を張ったギャグの方が、際立つ仕掛けである。 『サボテン・ブラザース』© 1986 ORION PICTURES CORPORATION. All Rights Reserved