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COLUMN/コラム2021.12.10
時代ごとにアップデートされる“A STAR IS BORN”の物語。『アリー/スター誕生』
1932年に製作された、ジョージ・キューカー監督の『栄光のハリウッド』を下敷きにして生まれた、“スター誕生=A STAR IS BORN”の物語。 最初の映画化作品は、ウィリアム・A・ウェルマン監督、ジャネット・ゲイナー、フレドリック・マーチ主演の『スタア誕生』(1937)。 続いてはジュディ・ガーランドとジェームズ・メイスン主演で、邦題も同じ『スタア誕生』(54)。こちらは、“オリジナル”である『栄光のハリウッド』のジョージ・キューカーが、メガフォンを取った。 この2作の『スタア誕生』は、舞台が映画界だった。それを音楽界に変えた3度目の映画化が、『スター誕生』(76)。監督はフランク・ピアソン、主演はミュージシャンとしても一流の、バーブラ・ストライサンドとクリス・クリストファーソンだった。 そして4度目となったのが、現代の歌姫レディー・ガガをヒロインに迎え、その相手役と監督を、ブラッドリー・クーパーが務めた、本作『アリー/スター誕生』(2018)である。こちらの舞台もまた、音楽の世界となっている。 ここで、物語の基本的なフォーマットを紹介する。才能がありながら、埋もれている女性アーティストが居る。一方で、TOPスターでありながらも、アルコールに溺れるなどで札付きとなっている、男性アーティストが居る。 偶然の出会いから、男性が女性の才能を見出して、引き上げる役割を果たす。女性がTOPスターの座に就くと同時に、愛し合うようになっていた2人は、ゴールイン!結婚生活をスタートする。 しかし女性が輝かしいスター街道を驀進するのと反比例するかのように、男性のキャリアは、下降の一途を辿る。やがて、女性が最高の栄誉を授与されるステージ(映画界→アカデミー賞/音楽界→グラミー賞)に、泥酔して現れた男性は、最悪の失態を犯してしまう。 アルコールなどへの依存から、何とか立ち直ろうとする男性だが、このままでは最愛の女性の輝かしき未来をも傷つけてしまうことを自覚。遂には、自ら命を絶つ。 悲しみの底に沈む女性だったが、やがて深く愛した男性のためにもと、再びステージに立つ…。 原題は同じ「A STAR IS BORN」4回の映画化に於いて、紹介したような物語の流れは、大きくは変わらない。しかし邦題が時代の移り変わりと共に変遷していったように、1937年、54年、76年、そして2018年と、その時代やキャストに応じてのアレンジが為されている。「37年版」と「54年版」の『スタア誕生』は、先に記した通り、映画界=ハリウッドが舞台。両作共にヒロインの名は、エスター・ブロジェットで、彼女を引き上げる男性スターの名は、ノーマン・メインである。 37年版で初代ヒロインとなったジャネット・ゲイナー(1906~1984)は、清楚で健気な印象と確かな演技力で、1920年代後半から30年代に掛けて絶大な人気を誇った、TOPスター。10代の頃に映画界に入るも、2年間は鳴かず飛ばず。しかし二十歳の時に主演作を得て、それから間もなくアカデミー賞主演女優賞を獲得している。 そんなゲイナーは、田舎からスターを夢見て、ハリウッド入りし、やがて銀幕のヒロインの座を掴むエスターの役には、ぴったりであった。逆に言えばこの作品では、ゲイナーの魅力と演技力とに頼ってしまってか、フレドリック・マーチ(1897~1975)が演じるノーマンが、エスターの俳優としての“才能”を見出すシーンが、存在しない。ただ彼女に惹かれて、情実でハリウッドに導いたようにしか見えないのが、難点と言える。 とはいえ、オープニングとエンディングで、「これこそ映画の夢の物語だ!」と明示する「37年版」は、ハリウッドというステージを舞台にした、寓話とも言える作りとなっている。そんなお固いことは、指摘するだけ野暮なのかも知れない。 2本目の『スタア誕生』=「54年版」も、ハリウッドを舞台にしたエスターとノーマンの物語である。こちらでエスターを演じたのは、ジュディ・ガーランド(1922~69)。 10代の頃に『オズの魔法使い』(39)で、少女スターとして人気を博したジュディだったが、早くから神経症と薬物中毒に悩まされるようになる。20代の頃の彼女は、撮影現場では遅刻やすっぽかしの常習犯として、トラブルメーカーとなっていた。 そのため映画出演も途絶えた彼女にとって、「54年版」は、実に4年振りの映画出演。当時の夫であるシドニー・ラフトがプロデューサーを務め、ジュディにとってはまさにカムバックを賭けた、起死回生の1作だった。 そんな背景もあって「54年版」は、エンターテイナーとしてのジュディの実力が、遺憾なく発揮される仕掛けとなっている。ヒロインのエスターは、全国を巡演するバンドの歌い手。彼女が歌と踊りを披露するステージに、ジェームズ・メイスン(1909~84)が扮する泥酔したノーマンが乱入するのが、2人の出会いとなる。 これがきっかけで、やがてノーマンは、エスターの歌声に触れることになる。「37年版」と違って、ノーマンがエスターの才能を発見する描写が、きちんとされているのだ。 やがてスターダムにのし上がった彼女が主演するミュージカル映画のシーンが、本編のストーリーと直接関係ないにも拘わらず、ふんだんに盛り込まれる。そんなこともあって、「37年版」が2時間足らずの上映時間だったのに対して、「54年版」の現行観られるバージョンは、3時間近い長尺となっている。 さて「37年版」「54年版」共に、ラストは有名な、エスターのスピーチ。亡き夫に最大限の哀悼を示す言葉として、「私はノーマン・メイン夫人です」と名乗ったところで終幕となる。これは長らく、感動的な名ラストと謳われ続けた。 邦題で“スタア”が“スター”へと変わる、「76年版」の『スター誕生』。バーブラ・ストライサンド(1942~ )とクリス・クリストファーソン(1936~ )という、当時人気・実力ともTOPクラスのミュージシャンを擁した“音楽版”としての魅力としては、コンサートなどステージでのパフォーマンスや、主人公2人が楽曲を作り上げていくシーンなどが挙げられる。前2作の“映画版”にはなかった、2人の才能のコラボを堪能できるわけだ。 それに加えて、バーブラという時代のスター、“70年代の顔”が自ら製作総指揮に乗り出し、ヒロインを演じたことによって生じた、改変が散見される。 バーブラの役名は、エスター・ホフマン。「37年版」「54年版」のヒロインから、エスターの名は残しながらも、“ホフマン”というユダヤ系に多い姓に変えている。しかも前作までのエスターが、撮影所の所長や広報マンの意見で、芸名をヴィッキー・レスターに変えられるくだりは、カット。エスターが本名のままで芸能活動を続けていくのは、バーブラ本人の“ユダヤ系アメリカ人”という、アイデンティティへのこだわりであろう。 相手役であるクリストファーソンが演じる、ノーマン・メインならぬジョン・ノーマン・ハワードの取る行動は、まさに70年代のロッカー。酒とドラッグに塗れる日々を送り、バイクでステージに乗り入れて音響装置を大破させるような無茶苦茶をやらかしてしまう。 前2作では、ジャネットとジュディのエスターは、ノーマンのやらかすことを、心配こそすれ、彼に声を荒げるようなマネは、決してしなかった。それに対しバーブラのエスターは、パートナーのジョンの無茶な行動に対し、時には怒りを爆発させ、別れを告げようとさえする。 最も大きな違いは、ラストシーン。ステージに立ったエスターは、「私はノーマン・メイン夫人です」などと名乗らない。そして2人の想い出の曲を熱唱して、〆となる。このラストが、77年の日本公開時には、かなりの論議を呼んだことを、鮮明に憶えている。ジュディの『スタア誕生』を懐かしむ者が多かった頃、バーブラの『スター誕生』を、彼女の自己主張が強く出過ぎと批判したり嫌悪する声は、決して小さくなかったのである。 いま観るとさほどのことはなく、このラストは、続く「2018年版」でも踏襲されている。しかし「76年版」が作られたのは、まだまだそんなことが論議になる、時代だったのである。 そして本作=「2018年版」の『アリー/スター誕生』。前作から実に42年の歳月を経てのリメイクとなる。これほどの間が空いたのは、“ボーイ・ミーツ・ガール”且つ、地位のある男性が年下の女性を引き立てるような古臭い物語が、もはや有効ではないと、見限られたからではなかったのか? しかしそこに、新たな息吹をもたらす者が、現れた。本作の監督であり、ミュージシャンのジャクソン(ジャック)・メインを演じた、ブラッドリー・クーパー(1975~ )である。 2010年代はじめの頃は、クリント・イーストウッド監督がビヨンセとレオナルド・ディカプリオ主演で、『スター誕生』を映画化というニュースが、大々的に流されたこともあった。結局は、『アメリカン・スナイパー』(2014)でイーストウッドの薫陶を受けたクーパーが、その企画を引き継いで、初監督に挑戦することとなった。 ヒロインのアリーに決まったのが、レディー・ガガ(1986~ )。この起用はクーパーの熱望によるものだが、その期待に応えた彼女は、歌唱やパフォーマンスのみならず、本格的な主演は初めてとは思えないほどの、見事な演技を見せる。「76年版」と同じく、“音楽版”として、主人公2人が、楽曲を作り上げていくシーンが見せ場のひとつとなる。演じるのが、プロのミュージシャン同士だった前作と違って、今作のためにブラッドリー・クーパーは、ギターとピアノ、ヴォーカルを猛レッスン。特にヴォイストレーニングには、1日4時間・週5日というペースで、半年間を費やしたという。 そのかいもあって、クーパーがレディー・ガガと共に作り上げたサウンドトラックは、多くの国で第1位を獲得するに至った。主題歌の「シャロウ 〜『アリー/ スター誕生』 愛のうた」は、アカデミー賞で歌曲賞を受賞。グラミー賞ではガガとクーパーは、“最優秀ポップ・デュオ/グループ・パフォーマンス”に輝いた。 そんな「2018年版」に於いて、前3作との大きな違いとして挙げられるのが、男性像が実に細やかに描かれていることである。「37年版」「54年版」のノーマン、「76年版」のジョンも、ヒロインに対しては優しい男だったが、「2018年版」のジャックは、彼ら以上に“男性的優位性”や“マッチョイムズ”とは縁遠い。それだけにヒロインに対しては、「対等」の意識を以て、より優しく振舞う。 ジャックが壊れていく背景も、明確に描かれる。まずはアルコール依存症の父に育てられたという、家庭環境。それに加えて“難聴”という、ミュージシャンにとっては致命的な疾患の進行がある。 ジャックはそうした苦悩を抱えている故に、アルコール漬けとなっていくわけだが、それははっきりと、心身を脅かす“病”として描かれている。愛するアリーの支えだけでは、どうにもならないのだ。 クーパー監督によって行われた、こうした男性側の描き方のアップデート。これこそが、古臭い物語と一蹴されかねない“A STAR IS BORN”を、現代に通じる物語に再構築する肝だったとも言える。 因みにヒロインがはっきりと、自分の才能を披露するシーンがあるのは、これまでに書いてきた通り、「54年版」「76年版」「2018年版」の3作。そのヒロインである、ジュディ・ガーランド、バーブラ・ストライサンド、レディー・ガガの3人が、それぞれの時代を代表する“ゲイ・アイコン”として、セクシャル・マイノリティの者たちから、圧倒的な支持を得る存在であったことは、単なる偶然とは思えない。 3人ともいわゆる、見目麗しい美女などではなく、その中身と才能で眩い輝きを放つタイプである。ハリウッドの歴史の中で、“A STAR IS BORN”の物語が永らえてきたのには、その時代ごとにそうしたヒロインを得てきたことも、必要不可欠な要素だったと言えよう。■ 『アリー/スター誕生』© Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2021.12.03
ハマー・ホラーからの影響も濃厚なSFホラー超大作!『スペースバンパイア』
古典的な侵略型SF映画の進化版 ‘80年代を代表するSFホラー映画の傑作のひとつであり、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった映画会社キャノン・フィルムズが総力を挙げて製作したブロックバスター映画『スペースバンパイア』(’85)。監督は『悪魔のいけにえ』(’74)の鬼才トビー・フーパーである。『未知との遭遇』(’78)や『E.T.』(’82)の大成功によって、ハリウッド映画で地球を訪れるエイリアンが軒並み友好的だった時代、宇宙からやって来た全裸の美女エイリアンがロンドンを火の海にしてしまうというストーリーは、古典的な侵略型SF映画の進化版として温故知新的な魅力に溢れていた。スピルバーグ映画的なSFXやゾンビ映画的な特殊メイクも盛りだくさん。巨匠ヘンリー・マンシーニが手掛けた壮大なオーケストラ・スコアがまた素晴らしく、当時高校生だった筆者も映画館の暗がりでワクワクと胸を躍らせながらスクリーンを見上げたものだ。 76年ぶりに地球へ最接近するハレー彗星の話題で持ちきりの現代(実際にハレー彗星は翌’86年に地球へ接近)。米国人船長カールセン大佐(スティーヴ・レイルズバック)が率いる英国のスペースシャトル「チャーチル号」は、ハレー彗星のコマ(星雲状のガスやダスト)に紛れた謎の巨大宇宙船を発見する。捜索のために船内へと向かった飛行士たちが発見したのは、まるでコウモリのような姿をした不気味なクリーチャーの無数の死骸、そして透明カプセルに収められた人間そっくりの女性1名男性2名だった。その透明カプセルを回収して地球への帰路に就くチャーチル号。ところが、シャトル内で異常な事態が発生し、チャーチル号は地球との連絡を絶ってしまう。 それから1か月後。救助に向かった米国のスペースシャトル「コロンビア号」の乗組員は、火災によってシャトル内が焼き尽くされたチャーチル号を発見し、3名の男女が眠る無傷のカプセルを地球へと持ち帰る。この男女はいったい「何」なのか。ロンドンにある宇宙調査センターのケイン大佐(コリン・ファース)とファラーダ博士(フランク・フィンレイ)、ブコフスキー博士(マイケル・ゴザード)は、正体不明の男女を解剖することに決めるのだが、しかし突然起き上がった女性エイリアン(マチルダ・メイ)が警備員を襲って逃亡する。 駆けつけたファラーダ博士らが発見したのは、女性エイリアンに生命エネルギーを吸い尽くされてミイラ化した警備員の遺体。しかも、これがまた解剖しようとした執刀医の生命エネルギーを吸い取って人間の姿に戻る。どうやらエイリアンたちは人間の精気を吸収するヴァンパイアで、犠牲者もまたヴァンパイアとなって他人の生命エネルギーを奪い、さらなる犠牲者を増やしていくことになるらしい。ただし、2時間ごとにやって来る「飢え」を満たさないと、ヴァンパイア化した人間は炭化して死んでしまう。その頃、眠っていた2名の男性エイリアンも覚醒してセンターから脱走。この不測の事態にケイン大佐やファラーダ博士は頭を抱える。 一方、遠く離れたアメリカのテキサス州でチャーチル号の脱出ポッドが回収され、死んだと思われていたカールセン大佐が生還する。すぐにロンドンへと赴いたカールセン大佐は、スペースシャトル内で復活したエイリアンたちが乗組員を次々に殺し、このまま地球へ帰還すれば人類に危険が及ぶと考えてシャトルを破壊したと説明。彼が女性エイリアンとテレパシーで繋がっていると知ったケイン大佐は、カールセン大佐を伴って彼女の足取りを追うことに。その傍ら、エイリアンを倒す方法を探っていたファラーダ博士は、彼らこそがヴァンパイア伝説の起源であり、これまでにもハレー彗星と共に地球へ飛来していたことを突き止める。そうこうしているうちに、市中へ解き放たれたエイリアンたちが次々と犠牲者を増やし、ロンドンは未曽有の大パニックに陥ってしまう…。 超一流スタッフによるスペクタクルな特撮 原作はイギリスの作家コリン・ウィルソンが1976年に発表したSF小説「宇宙ヴァンパイアー」。しかし映画版ではそのストーリーを大幅に改変しており、むしろ英国ホラーの殿堂ハマー・プロによるSF映画「クォーターマス」シリーズ、中でも3作目『火星人地球大襲撃』(’67)に酷似している点が少なくない。例えば、本作ではハレー彗星と共にやって来たエイリアンがヴァンパイア伝説の原型とされているが、『火星人地球大襲撃』でも太古の昔に地球へ飛来した火星人が「悪魔」の原型だった。クライマックスでロンドンが大パニックに陥るという展開もそっくりである。 さらに言うと、人間の生命エネルギーを吸い取るエイリアンたちの設定も、映画版ではより古典的なヴァンパイア像に近づけられており、ゴシック的なムードを漂わせた美術デザインとも相まって、ハマー・プロが得意とした一連のヴァンパイア映画との類似性も見て取れるだろう。エイリアンが人間の性的な欲望を利用して精気を奪うというエロティックな要素は、「カルシュタイン三部作」を筆頭とする’70年代ハマーのセクシー・ヴァンパイア路線を想起させる。「自分のルーツであるハマー映画の大作版」とトビー・フーパー監督自身も述べているように、往年のハマー・ホラーから多大な影響を受けた作品であることは間違いないだろう。 そのトビー・フーパーがキャノン・フィルムズから本作の企画をオファーされたのは、スピルバーグ製作のホラー映画『ポルターガイスト』(’82)が完成した直後のこと。当時、キャノン・フィルムズで3本の映画を撮る契約を結んだフーパー監督は、その第1弾としてコリン・ウィルソンの原作本を社長メナハム・ゴーランから手渡されたという。ちょうど『バタリアン』の企画から降板したばかりだったフーパー監督は、同作の監督を引き継いだ友人ダン・オバノンに脚本を依頼。あの『エイリアン』の脚本を書いたオバノンはまさしく適任だったと言えよう。 製作準備だけで2年を要した本作は、’84年2月から約半年間に渡ってロンドンで撮影を敢行。チャック・ノリスやチャールズ・ブロンソンが主演する低予算のB級映画で知られていたキャノン・フィルムズは、当時の同社にとって史上最高額となる2500万ドル(現在の金額に換算すると約6500万ドル)もの莫大な予算を用意していた。フーパー監督によると、撮影にあたってゴーラン社長が要求したのは、女性エイリアンを全裸で登場させることだけ。それ以外は一切口出しすることがなかったそうだ。 やはり真っ先に目を引くのは、ミニチュアや実物大セットを駆使したスペクタクルな特撮シーン。オープニングに登場するエイリアンの宇宙船内部は、ロンドン近郊にあるエルストリー・スタジオの巨大なステージ6、通称「スター・ウォーズ・ステージ」に作られた本物のセットである。『戦争と冒険』(’72)や『ラグタイム』(’81)でオスカー候補になったジョン・グレイスマークの美術デザインは、どことなく古典的なゴシック・ホラーの雰囲気を漂わせていて秀逸。また、ロンドン市街が文字通り火の海と化すクライマックスのパニック・シーンも、『スター・ウォーズ』(’77)や『スタートレック』(’79)でお馴染みジョン・ダイクストラの特撮チームが良い仕事をしている。その圧倒的なスケール感は見応え十分だ。 さらに、『スター・ウォーズ』のヨーダを制作したことで知られ、当時は『銀河伝説クルール』(’83)や『ザ・キープ』(’83)などの特撮映画で引っ張りだこだった特殊メイクマン、ニック・メイリーによるミイラ化したヴァンパイアの造形も素晴らしい。今だったらCGで済ませてしまうところだろうが、やはり機械仕掛けのダミーボディを現場でスタッフが操作するアニマトロニクスのリアル感は格別。細やかな表情の変化など見事な仕上がりだ。 最大の見どころはフランス女優マチルダ・メイ しかし、そんな本作の最大の見どころは、実のところ巨額の予算を投じた特撮でも特殊メイクでもなく、一糸まとわぬ姿で女性エイリアンを演じた美女マチルダ・メイだ。フーパー監督自身も「マチルダ・メイがいなければ、この映画は成立しなかった」と断言しているように、その非の打ちどころのない美貌と完璧な肉体で表現される女性エイリアンの、まるでこの世のものとは思えない神秘性こそが、本作の原動力になっていると言えよう。撮影当時まだ19歳だったマチルダは、これが映画出演2作目となるフランス出身のバレリーナ。演劇を学んだこともなければ女優になるつもりもなかったというが、バレエで鍛えたしなやかな動きが女性エイリアンの超然とした存在感を醸し出している。 さらに、テレビ『ヘルター・スケルター』(’76)のチャールズ・マンソン役で有名なスティーヴ・レイルズバック、『エクウス』(’77)や『テス』(’79)で高く評価されたピーター・ファース、ローレンス・オリヴィエの『オセロ』(’65)でオスカー候補になったシェイクスピア俳優フランク・フィンレイなど、キャストに実力のある名優ばかりを揃えたことも、荒唐無稽なストーリーに説得力を与えるという意味で功を奏している。『悪魔のいけにえ』のマリリン・バーンズが『ヘルター・スケルター』にも出演していたことから、フーパー監督は同作の撮影現場を見学に訪れたことがあり、その当時からレイルズバックとは友人だったらしい。 さらに、ファラーダ博士に退治される男性エイリアン役は、あのミック・ジャガーの弟クリス・ジャガー。『ドラゴンVS.7人の吸血鬼』(’74)のドラキュラ役で知られるジョン・フォーブス・ロバートソンなど、ハマー・ホラーに縁の深い英国俳優たちも出演している。もちろん、ピカード艦長役やプロフェッサーX役でお馴染みのパトリック・スチュワートの登場も見逃せない。 ちなみに、当初はケイン大佐役にクラウス・キンスキー、ファラーダ博士役にジョン・ギールグッドがアナウンスされていたが、どちらも諸事情によって降板している。また、フーパー監督がビリー・アイドルのヒット曲「ダンシン・ウィズ・マイセルフ」のMV演出を手掛けたことから、2人目の男性エイリアン役にビリー・アイドルを起用するという話もあったが、スケジュールの都合が合わずに実現しなかった。ビリー・アイドルのエイリアン役は是非とも見てみたかった。 なお、アメリカではエイリアンの宇宙船を舞台にしたオープニングを大幅にカットした短縮版が劇場公開され、そのせいなのかどうかは定かでないものの、当時は興行的な惨敗を喫してしまった本作。エロティックな要素もブロックバスター映画向きではなかったと言われているが、しかしイギリスやフランスなどのヨーロッパでは反対に大ヒットを記録し、今ではカルト映画として日本を含む世界中で熱愛されている。マチルダ・メイはレナード・シュレイダー監督の『ネイキッド・タンゴ』(’91)やビガス・ルナ監督の『おっぱいとお月さま』(’94)で高く評価され、一時はフランスを代表する女優のひとりとなった。先述したようにキャノン・フィルムズと3本の契約を結んでいたフーパー監督は、本作に続いて『スペースインベーダー』(’86)と『悪魔のいけにえ2』(’86)を手掛けることとなる。■ 『スペースバンパイア』© 1985 Easedram Limited. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2021.12.02
ハイテクな近未来を’80年代テイストで描いたSFサイバーパンク・アクション『アップグレード』
ホラー映画脚本家リー・ワネルが初挑戦した本格的なSF世界 ホラー映画『ソウ』シリーズや『インシディアス』シリーズで知られる脚本家リー・ワネルが、長年の盟友ジェームズ・ワンとのコラボではなく単独で監督・脚本を手掛けた近未来SFアクションである。もともとオーストラリアのメルボルン出身で、地元の名門RMIT大学メディア・コミュニケーション学科に入学したワネルは、周囲の学生がヨーロッパのアート映画を志向する中にあって、「ジェームズ・キャメロンが好き」と臆せず公言する同級生ジェームズ・ワンと意気投合。一緒にホラー映画の脚本を書くようになった2人のデビュー作が、世界規模のサプライズヒットとなった『ソウ』(’04)だった。 ジェームズ・ワンが監督を、リー・ワネルが脚本をという役割分担で、以降も『デッド・サイレンス』(’07)や『インシディアス』(’10)をヒットさせた2人。その傍らで、『ソウ』と『インシディアス』の続編シリーズなどの脚本も手掛けていたワネルだが、しかし学生時代から映画監督志望だった彼は、シリーズ3作目に当たる『インシディアス 序章』(’15)で念願の監督デビューを果たす。そして、盟友ワンが『ワイルド・スピード SKY MISSION』(‘15)でブロックバスター映画へと大きく飛躍したのを機に、インディペンデント志向の強いワネルは予てから温めていたSF映画の企画を低予算で実現することとなる。それがこの『アップグレード』(’18)だったというわけだ。 舞台はそう遠くない近未来。社会がますますテクノロジーに依存していく中、昔ながらのアナログ技術にこだわり続ける自動車整備士グレイ(ローガン・マーシャル=グリーン)は、大手のハイテク企業に勤める愛妻アイシャ(メラニー・バレイヨ)と満ち足りた生活を送っていた。そんなある日、ハイテク業界の風雲児エロン・キーン(ハリソン・ギルバートソン)に依頼されていた自動車の修理を終えたグレイは、納品のため妻を伴ってエロンのもとへ向かう。そこでエロンが開発した革命的なAIチップ「STEM」を紹介された2人。その帰り道、夫婦の乗った自動運転車が突然制御不能となり、暴走を繰り広げた挙句に横転してしまう。そこへ襲いかかる4人の男たち。彼らはグレイに暴行を加えたばかりか、冷酷にもアイシャを殺害して姿を消す。 それから3か月後、辛うじて一命を取り留めたものの四肢が麻痺してしまったグレイ。妻を失った悲しみに加え、車いす生活を余儀なくされて絶望した彼は、思い余って自殺を図るものの失敗する。そこへ現れたのがエロン。彼はグレイにある提案を持ちかける。例のAIチップ「STEM」を脊髄に埋め込む人体実験に協力してみないかというのだ。人間の脳に反応する「STEM」は、脳からの信号を切断された神経へ送り届ける役割を果たす。つまり、以前のように手足を自由に動かせるようになるのだ。結果的に手術は成功。守秘義務契約書にサインしたグレイは、すっかり体の機能が回復したものの、表向きは車いすの生活を続けることになる。 ところが、自宅へ戻ったグレイに何者かが突然語りかける。それは人格を持った「STEM」の声だった。脊髄から鼓膜を通して音声を送るため、その声はグレイにしか聞こえない。想定外の事態に困惑するグレイだったが、しかしそれは同時に天の恵みでもあった。高度な知能を持ち、様々なハイテクマシンにアクセス可能な「STEM」は、彼の‟ある目的“を叶えるために有効だったのだ。それは妻アイシャを殺した犯人グループを自らの手で探し出すこと。警察のコルテス刑事(ベティ・ガブリエル)による捜査はなかなか進展せず、グレイは苛立ちを募らせていたのである。 監視ドローンの記録映像を検証した「STEM」は、犯人グループのひとりブラントナーの居所を突き止めることに成功。ブラントナーの留守宅で、警察へ届け出るための証拠を探していたグレイだったが、そこへ運悪く本人が帰ってくる。しかも、ブラントナーは肉体改造されたサイボーグだった。襲いかかるブレントナーになす術もないグレイ。すると、にわかに「STEM」が彼の身体機能を制御し、超人的なパワーを発揮してブラントナーを殺してしまう。思いがけない強力な武器(=ハイテクな肉体と頭脳)を手に入れたグレイは、さらに残りの犯人グループを突き止めようとするものの、やがて襲撃事件の驚くべき真相を知ることになる…。 CGでは再現できないリアルな臨場感にこだわった撮影 テクノロジーの進化に疑問を抱いてアナログに強くこだわる昔気質な主人公が、人体実験によって最先端のAIテクノロジーを備えたスーパーヒーローに生まれ変わるという皮肉な話。はじめのうちこそ『ナイトライダー』のマイケル・ナイトと「K.I.T.T.」のごとく、お互いに持ちつ持たれつの関係で謎の犯人グループを追跡していくグレイと「STEM」だが、しかし次第にグレイは「STEM」なしでは何もできなくなってしまい、やがて科学技術を利用する立場だった人間が科学技術によって支配されていく。 『アイアンマン』や『ブラックパンサー』などのスーパーヒーロー映画において、高度なテクノロジーは諸刃の刃ではあれども人類に恩恵をもたらすものとして描かれるが、しかし本作はむしろ人間の生命や存在までをも脅かすものとして捉えられ、過度な技術革新がもたらす未来に強い警鐘が鳴らされる。冒頭の制御不能となる自動運転車などはまさに象徴的だ。そのダークでサイバーパンクな映像美を含め、『ターミネーター』(’84)や『ハードウェア』(’90)など、ハイテクの暴走を描いた古典的なSFアクション映画の延長線上にある作品と言えよう。この傾向はワネル監督の次回作『透明人間』(’20)にも相通じる。 ワネル監督が本作のアイディアを思いついたのは2010年前後のこと。そもそもは「車いすに座った四肢麻痺の男性がいきなり立ち上がり、よく見ると首の後ろに埋め込まれたコンピューターに操作されていた」という光景を思い浮かべたことがきっかけだったという。この漠然としたイメージを基にして脚本を書き上げたワネル監督は、作品自体もテクノロジーに頼り過ぎないオーガニックな世界観を目指した。CGで作り込まれた派手な特殊視覚効果よりも、昔ならではのプラクティカルな特撮や特殊メイクが好きだというワネル監督は、もしかすると主人公グレイと似たようなアナログ人間なのかもしれない。 その際に参考としたのが、まさしく『ターミネーター』に『ハードウェア』、そして『ロボコップ』(’86)といった、CG以前のアナログ技術を使ったSFアクション映画群だったという。サイボーグ同士の格闘を描く激しいスタント・シーンは、そのものズバリな『サイボーグ』(’86)や『ネメシス』(’92)などのアルバート・ピュン作品を彷彿とさせるものがある。撮影もグリーンバックではなくロケや実物セットが中心。もちろん、低予算映画ゆえの諸事情もあったとは思うが、しかし作品のテーマと傾向を考えれば正しいアプローチだったと思う。 ちなみに、徹底してリアルな臨場感にこだわったワネル監督は、主人公グレイと人工知能「STEM」の会話もアフレコではなく撮影現場で同時録音している。「STEM」の声を担当する俳優サイモン・メイデンがモニター画面を見ながらセリフを喋り、それをグレイ役のローガン・マーシャル=グリーンが耳に装着した超小型イアピースで聞き取ることで、まさしく劇中のグレイと「STEM」のようなコミュニケーションを成立させているだ。 また、アクション・シーンでは「STEM」に制御されたグレイの素早い動作を細かく捉えた独特なカメラワークが印象的で、後からデジタル加工を施したようにも見えるのだが、実はこれにも意外なトリックが隠されている。専用アプリを使ってiPhoneとデジカメ「Alexa Mini」を同期させ、そのiPhoneをローガン・マーシャル=グリーンの衣装に仕込むことで、ローガンの動きとカメラレンズの動きを完璧にシンクロさせているのだ。これによって、主人公グレイの動作に超人的な印象が与えられているのである。シンプルだが非常に効果的な演出だ。 300万ドルというハリウッド基準ではかなりの低予算映画ながら、興行収入1700万ドルのスマッシュヒットを記録した本作。続編の可能性を予感させるようなエンディングに対して、劇場公開時には「続編を撮る予定はなし」「これはこれで完結した作品」と断言していたワネル監督だが、しかし昨年になってテレビシリーズ化の企画が浮上。医療ドラマ『シカゴP.D.』の脚本家ティム・ウォルシュとワネル監督が共同でクリエイターを務め、本作から数年後のさらに進化した人工知能「STEM」を埋め込まれた新たなキャラクターを主人公に、アメリカ政府がハイテク技術を犯罪捜査のため利用する世界が描かれるという。現時点ではまだ脚本準備の段階だが、ひとまず平凡なSF犯罪ドラマになってしまったテレビ版『マイノリティ・リポート』の二の舞だけは避けて欲しいところだ。■ 『アップグレード』© 2018 Universal City Studios Productoins LLLP. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2021.12.02
『マーウェン』芸術が持つ癒しの“力”
◆実在の人物を描いた半フィクション映画 『フォレスト・ガンプ/一期一会』(94)でアカデミー賞を獲得し、そしてなによりも『バック・トゥ・ザ・フューチャー』トリロジー(85〜90)で圧倒的な支持を得た、現代ハリウッドの巨匠ロバート・ゼメキス。そんな彼が2018年に発表した映画『マーウェン』は、白人至上主義者たちの暴力によって瀕死の重傷を負ったヘイトクライムの被害者、マーク・ホーガンキャンプ(スティーヴ・カレル)の実話をもとにしている。この事件のPTSD(心的外傷後ストレス障害)によって彼は名前を書くことができなくなり、自身の個人的な生活について何も覚えておらず、またアーティストとしての、絵を描く能力さえも失ってしまったのだ。 そんなマークだが、自宅の裏庭に「マーウェン」と名づけた第二次世界大戦のミニチュアの村を作り、それを写真におさめることで、芸術家としての立地点に立ち戻ろうとする。いつしかマーウェンは、現実でつらい思いをしたマークのストレスを抑える擬似コミュニティの役割を果たすようになる。それをよりどころに、マークが肉体的にも精神的にも回復をはかろうと努力する姿は、2010年に公開されたドキュメンタリー長編『Marwencol(原題)』で描かれ、多くの人に知られるところとなった。 このドキュメンタリーを観たロバート・ゼメキスは大いに感銘を受け、ティム・バートン作品の常連脚本家として知られるキャロライン・トンプソンと共にマークの半生を脚本化し、映画『マーウェン』を作り上げたのだ。しかも完全なバイオグラフィものではなく、フィギュアが配置されたミニチュアの村で、独自の世界が形成されているというファンタジックなセクションを交え、現実とフィクションが交錯する野心的な作品づくりを試みたのである。 「占領下のフランスの小さな村」という設定のマーウェンで展開されるサイドストーリーはとてもユニークで、ホーガンキャンプが自己投影したG.Iジョーのホーギー大佐が、6人のガールズ部隊と共にナチス親衛隊を討伐するというものだ。このマーウェン村の人形たちは、マークの実生活に関わりを持つ人々が投影され、ガールズ部隊はマークが出会うすべての女性のアバターである。親衛隊はマークが酔って女装していると告白したとき、悪意を持って暴力をふるった5人の男たちになぞらえている。連中は全員白人だが、そのうちの1人には鉤十字のタトゥーが彫られていたからだ。この人形世界はそう、マークがいま直面している感情的なジレンマを象徴する空間なのだ。 ◆CGアニメーション三部作の技術を応用した人形たち こうした作品の性質上、『マーウェン』はゼメキスの諸作と同様、視覚効果に重点を置かれた映画となっている。特にフィギュアが動き出す描写では、監督が『ポーラー・エクスプレス』(04)を起点とするフォトリアリスティックなCGアニメーション三部作で導入した、パフォーマンス・キャプチャー・テクノロジーが用いられている。同テクは人体のモーションを記録してCGキャラクターに反映するモーション・キャプチャーを発展させ、動きの取得範囲を顔の表情変化にまで拡げたものだ。しかしこうした表現の人工的な再現は、写実度が高まるほどに違和感や嫌悪感を覚える「不気味の谷」現象を観る者に抱かせてしまい、フィギュアへの共感を必要とする本作では再考の余地があったようだ。 そこで『マーウェン』では、じっさいの俳優の顔をCGキャラクターに合成するという手法を採用。この方法によって前述の現象を緩和させ、また個々の人形キャラクターが誰のアバターなのか、判別しやすい利点を生み出している。 しかし、フィギュアを基にしたCGキャラクターの開発は、プロダクションの早い段階からキャストを決定し、俳優たちのさまざまなデータを取得しておかねばならず、『マーウェン』は融通の利きづらい企画だったようだ。「俳優はすべて前もってキャスティングされ、スキャンされ、それに応じて人形に彫刻をほどこし、特徴や表情などを固定する必要があったんだ。そして髪の毛をデザインし、顔をペイントし、衣装を作らなければならない。通常、映画のキャスティングでは、最後の一人を確保するために、撮影の前日まで検討することができるけれど、このような映画ではそれができないからね」(*1) と、ゼメキスは開発のリードタイムが長かったことをインタビューで答えている。 ◆賛否を分けたファンタジー描写 『マーウェン』は公開後、さまざまな評価をもって迎えられた。多くの映画ファンにとっては、デジタルエフェクトの先導者であるゼメキスが、かつての『ロジャー・ラビット』(88)や『永遠に美しく』(92)の頃のようなVFX主体の作品を手がけたことに対して賞賛を贈った。しかしいっぽうで、現実の問題をファンタジーに落とし込むことにより、物事の本質から目を逸らそうとしているといった評価も散見された。米「ローリング・ストーン誌」の権威ある映画評論家ピーター・トラヴァースは「現実世界の問題が盛り上がってきたところで、ゼメキス監督はすべての女性を人形のように変えてしまい、映画は再びファンタジーに委ねられてしまう。実に残念なことだ」(*2)と述べ、また英「サイト&サウンド」誌のトレヴァー・ジョンストンは「アクション人形のような軽薄さは、風変わりな性を明確に認識している一人の男の、自己受容に向けた悩める旅を描く本作の舞台装置に過ぎない。メインストリームの作品という意味では、この映画は予想外の画期的なものだが、そのハイブリッドな性質がときに不愉快ではある」(*3)と手厳しい。 また事実と映画との違いに対する追及もあり、たとえばマークの支えとなったのは女性だけでなく、少数の善良な男性がいたことや、また彼に暴力をふるった容疑者すべてが白人至上主義やネオナチではないなど、映画化されるさいの変更点として指摘されている。またマークの祖父が第二次世界大戦中にドイツ軍の側で戦っていたために、彼はナチスに対して複雑な感情を抱いていることも映画の不足要素として挙げられている。 確かにドキュメンタリーを見る限り、それらは意図的に加工された印象を与えるが、ただ現実をあるがままに再現するのならば、そこはゼメキスを必要とするところではないだろう。この映画は、トラウマに対処する人間の回復力と創造の可能性や、芸術が持つ癒しの力に対し、視覚効果の申し子が最良のアプローチをしたのだ。それを否定するのは、ひいては創造の力や芸術そのものを否定しかねない。■ 『マーウェン』© 2018 Universal Studios, Storyteller Distribution Co., LLC and Perfect Universe Investment Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2021.11.10
“ロマコメ女王”2人を生んだ、未だ色褪せないおとなの恋愛映画『恋人たちの予感』
恋愛をテーマにしたコメディ映画“ロマンティック・コメディ”、略して“ロマコメ”。『或る夜の出来事』(1934)『ローマの休日』(53)『アパートの鍵貸します』(60)等々、ハリウッドでは古より、このジャンルから数多くの名作が生み出されている。 1989年に製作された本作『恋人たちの予感』も、そんな系譜に連なる、“ロマコメ”マスターピースの1本。この後90年代を席捲する、2人の“ロマコメ女王”を生み出したという意味でも、記念すべき作品である。 2人の“ロマコメ女王”の1人目は、もちろんメグ・ライアン(1961~ )。『トップガン』(86)『インナースペース』(87)などで若手女優として売り出し中だった折りに、本作の主演で、その人気が決定的なものとなった。 以降、『キスへのプレリュード』(92)『めぐり逢えたら』(93)『フレンチ・キス』(95)『恋におぼれて』(97)『ユー・ガット・メール』(98)『ニューヨークの恋人』(2001)といった、同ジャンルの作品に次々と主演。齢四十に至る頃まで10年強に渡って、キュートな魅力を全開に、“ロマコメの女王”の名を恣にした。 “ロマコメ女王”のもう一人は、本作の脚本を担当したノーラ・エフロン(1941~2012)である。脚本家になる前には、ホワイトハウスのインターン、「ニューヨーク・ポスト」紙の記者、コラムニストなどの多彩な職歴がある彼女だが、実は両親のヘンリー&フィービー・エフロンが、名作『ショウほどすてきな商売はない』(54)などのシナリオをコンビで書いた、有名脚本家夫婦。蛙の子は蛙と言うべきか、転身後には、アリス・アーレンと共同で脚本を書いた社会派の秀作『シルクウッド』(83)が、アカデミー賞の候補になるなど、気鋭の脚本家として注目の存在となった。 本作以降、90年代は監督としても活躍。特にメグ・ライアン主演で、エフロンが脚本・監督を担当した『めぐり逢えたら』『ユー・ガット・メール』は、本作と合わせて、エフロン&メグの“ロマコメ3部作”などと謳われる。 この2人の“女王”の誕生のきっかけを作ったのは、本作のプロデューサーであり、監督のロブ・ライナー(1945~ )。『スタンド・バイ・ミー』(86)『ミザリー』(90)といった、スティーヴン・キング原作の映画化作品などで知られるライナーのフィルモグラフィーを覗くと、本作のような“ロマコメ”の監督の印象は、ほとんどない。 ではなぜ、『恋人たちの予感』を手掛けるに至ったのか?実は本作は、彼の実体験をベースにして作られたものなのである。 ***** 1977年、シカゴ大学を卒業したサリー(演:メグ・ライアン)は、同じく卒業したてで、親友の彼氏であるハリー(演:ビリー・クリスタル)を車に同乗させて、ニューヨークへと移る旅に出る。2人の初対面は、ほぼ「最悪の部類」。18時間もの道中で会話を交わすも、何かにつけて意見が合わない。 しかしその時にハリーがサリーに言った、「男と女はセックスが邪魔をして、友達になれない」という言葉が、その後の人生に大きな影響をもたらすとは、2人とも思ってもみなかった。 5年後ニューヨークの空港で、サリーは付き合い始めたばかりの恋人の男性に見送られて出張先に向かおうとしている時に、偶然ハリーと再会。搭乗する飛行機まで同じだった2人は、5年前と同じように、機内で口論になってしまう。ハリーから近々結婚するという話を聞きながら、サリーはまたも彼と、喧嘩別れのような形となる。 更に5年後。ハリーは妻に浮気されて、やむなく離婚し、サリーも5年前から付き合っていた彼氏と、破局に至った。お互いにそんな傷心の状態にあるタイミングで、3度目の出会いが訪れた。 ようやく友達同士になれて、頻繁にデートするようになる2人だったが、話題になるのは、お互いの恋愛の悩みばかり。時にはロマンティックなムードになりかかることもあったが、“友情”を守るのが第一と、その度にお互いのそうした気持ちは振り払っていた。 そんな付き合いをずっと続けていこうと、ハリーはジェス(演:ブルーノ・カービィ)、サリーはマリー(演:キャリー・フィッシャー)という、お互いの同性の親友を紹介し合って、交際させようとする。しかし目論見は見事に外れて、ジェスとマリーが意気投合。ハリーとサリーは、お互いの親友同士が結婚することになってしまう。 そんな予想外の出来事もありながら、「セックスはしない」ことで、あくまでもお互いの友人関係を守り続けていこうとする2人。しかし遂に、一線を越えてしまう局面が訪れて…。 ***** 監督のロブ・ライナーは、自分のことを“ピーターパン・シンドローム”であると自己分析していた。即ち、彼の心の中にはいつまでも子どもでいたいという気持ちが潜んでいて、己が年をとったことをなかなか受け入れられない…。 12歳の少年が姿かたちだけ大人になってしまう、『ビッグ』(88)という作品がある。当時30代だったトム・ハンクスが演じたこの主人公のモデルとなったのが、実はライナー。そしてこの作品を作ったのは、ライナーの元妻である、女性監督のペニー・マーシャルだった。 ライナーとマーシャルの10年続いた結婚生活は、81年に終わりを告げる。“ピーターパン”である彼にとって、自分の結婚がうまくいかなかったという現実を受け入れるのは、非常に困難なことであった。 そしてそんなタイミングで、本作『恋人たちの予感』の構想が浮かび上がる。「男女の友情は成立するのか?」「そのときセックスはどうなるのか?」といったモチーフが、ライナーの中に湧き出てきたのである。 そうしたアイディアが、具体的に動き出すのは、84年。ノーラ・エフロンがライナーのチームに呼び出され、新しい映画のプロジェクトについて話し合いを持つようになってから。 幾つかの企画が挙がったが、決め手に欠けた。そんな中で、ライナーたち男性陣とエフロンの雑談中に、盛り上がった話題があった。 ライナーたちは、「女性とは絶対に友人関係になれない」と主張。その理由は、「セックスの問題が必ず入り込んで、友情関係の邪魔をする」というものだった。それに対してエフロンは、そんなはずはないと反論。両者の間で応酬が繰り広げられた。 ライナーはこの雑談の内容を受けて、「友情を育む男女の物語」を映画化しようと提案。物語を具体的に編む上で、主人公たちは親友であり続けるために、「決してセックスをしない」のを決め事にした。 その提案にエフロンが乗って、脚本作りがスタート。主人公の男の方に関しては、エフロンはライナーのキャラクターをベースにした。こうして、ひょうきんな半面、陰気で内省的な部分の持ち主でもある“ハリー”が生まれた。 一方で女性の方の“サリー”には、エフロン自身が投影されているところが多い。ライナーによればエフロンは、陽気で楽観的で、ある種の完璧主義者だった。サリーがレストランで、パンやベーコンの焼き方やマヨネーズの添え方などについて細々と注文を付けるのは、完全にエフロン本人の流儀であることを、彼女自身が認めている。 さてこのようにしてシナリオが出来上がり、キャスティングの段階になって、ライナーは必然的に、自分の身近な人間から俳優を選ぶこととなった。彼にとって、自身がモデルとなったハリー役のビリー・クリスタル(1948~ )は、長年の親友。ハリーとサリーが、それぞれのベッドから電話して慰め合うシーンがあるが、あれはライナーとクリスタルが、お互いの離婚後にやっていたことそのままだという。 ハリーの同性の親友ジェスを演じたブルーノ・カービィ(1949~2006)も、そうだ。彼はライナーが離婚で打ちのめされている時に、ジェスがハリーにしたように、優しく接してくれた人物だった。 一方でメグ・ライアンに関しては、それまでにライナーの過去作のオーディションを受けていたことが、きっかけになった。ライナーが“サリー”役に彼女はどうかと思い付き、先に決まっていたクリスタルに会わせたところ、2人の雰囲気がぴったりだったので、ヒロインに決めたという。 サリーの同性の親友マリー役に、キャリー・フィッシャー(1956~2016)を決めたのも、ライナー。こうして主要なキャスティングが、固まった。 因みに映画の冒頭から何組も出てくるのが、長年連れ添った老夫婦のインタビュー。リアルな装いなので、この部分はドキュメンタリーかと思うが、実は違う。エピソードだけを集めて、俳優たちをキャスティングして撮影した。その方が、実話の面白さをより伝えられるという判断だった。 余談はさて置き、このようにして決まった俳優陣、特にハリーとサリー役の2人が、いかに奇跡のような組み合わせであったか! エフロンの脚本、ライナーの演出を大きく広げる役割を果たした。 例えばメグ・ライアンが演じるに当たっての解釈は、「ハリーもサリーも、初めて会った瞬間からお互いに激しい恋心を抱いていたと思う。ただそのことに気づくまで11年もかかってしまっている」というもの。この考えをベースにした役作りが、長年に渡る2人の関係性の変化を描く上で、見事に機能している。 本作で最も有名だと言っても良いのが、ニューヨークのマンハッタンにあるカッツ・デリカテッセンで繰り広げられる「フェイクオーガズム」のシーンである。これは元々、脚本の打合せの際に、「女性の多くは(セックスの際に)オーガズムの“フリ”をした経験があるはず」と、エフロンが語ったことに衝撃を受けたライナーたちが、是非脚本に盛り込んでくれとオーダーしたことから生まれたもの。 しかしエフロンの脚本だと、自分とセックスした女性はすべてオーガズムに達していると自信満々に語るハリーと、それを否定するサリーという、食事中の会話止まりだった。ところが実際に撮影されたのは、店内が満席なのにも拘わらず、堂々とオーガズムでイッテるふりを演じて見せ、女性がセックス中に演技していても、男性には見分けがつかないことを、サリーがハリーに見せつけるというシーンだった。 これはメグ・ライアンが脚本を読んで、サリーが会話の最後に、その“フリ”を実演するようにしたいと提案したのを受けて、アレンジしたものだった。更にはこのシーンのオチとして、隣席の女性が「あの女性と同じものを」と注文する絶妙なギャグが入るが、これはコメディアンであるビリー・クリスタルのアイディア。因みにその女性を演じているのは、ロブ・ライナーの実の母親である。 こんなエピソードからも本作では、脚本の作成段階から撮影現場まで、今で言うジェンダー間のギャップを乗り越えようとする努力が行われていた様が窺える。80年代末という時代を考えれば、かなり先進的な試みだったと言える。そしてそれ故に本作は、「男女が出会って喧嘩して、しかし時の経過と共に離れられない間柄になっていく」という、“ロマコメ”の王道のような、ある意味古くさい構成でありながら、製作から32年経った今でも、色褪せない作品になったのである。 さて先に記した通り、ライナーの実体験を基にスタートした本作。ラストに訪れるハリーとサリーの“結末”も、撮影中にライナーの身に訪れた僥倖によって決まった。 当初ライナーは、離婚によって深く傷ついたハリーが、もう一度結婚してみようという気になるのには、あれだけの時間では無理なのではないかと考えていた。ところがライナー本人が、本作の撮影中に知り合った女性と、再婚することになったのだ。 そこで彼は、自分に出来ることならば、ハリーにも出来ないわけはないという気持ちになった。そして“ラスト”が、今の形に決まったのだという。 エフロンが書いた脚本には、こうした奇跡のような出来事を呼び起こす、魔法のような力があったのかも知れない。■ 『恋人たちの予感』© 1989 CASTLE ROCK ENTERTAINMENT. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2021.11.04
『最後の戦い』に視認されるフランス・コミックの幻像
◆バンド・デシネ作家の意匠を実写で再現 ハリウッドスタイルのアクションやハリウッドスターを自国フランスに呼び込むことで、独自の映画様式を築き上げてきた“ヨーロッパ・コープ”。リーアム・ニーソン(『96時間』シリーズ)をシニアのアクションスターとして開眼させ、あるいは『アルティメット』(04)のピエール・モレルや『トランスポーター』(02)のルイ・レテリエら、アクションセンスに長けたフランス人監督を世界に台頭させるなど、いつしかその勢いはハリウッドに「影響を与える側」へと同社を転じさせている。 そんなヨーロッパ・コープの総帥として、自国フランスはおろかアメリカ映画にも大きな影響を及ぼしてきたのがリュック・ベッソンだ。監督としても潜水に闘志を燃やす男たちの生き様を描いた『グラン・ブルー(グレート・ブルー)』(88)で、おりしの単館系作品ブームと連動するようにカルトな人気を得て、後に『ニキータ』(90)や『レオン』(94)といった哀愁のスナイパーアクション作品で、その名を大きく拡大させた。 そんなベッソンだが、キャリアの初めは一部のSFファンから熱視線が注がれており、その注目の対象となったのが、1983年に公開された長編映画デビュー作『最後の戦い』である。退廃した未来を舞台に、残された人類が資源をめぐり争う野心作だ。なにより初の劇場作品は、端的なまでに監督の趣意や志向、その後に連なるフィルモグラフィの指標を力強く示している。 『最後の戦い』が筆者の視界に入ってきたのは、SF映画専門誌「日本版スターログ」だった。同誌においてSF/ファンタジー作品を中心にしたアボリアッツ国際ファンタスティック映画祭の記事が掲載され、この映画祭で本作が審査員特別賞と批評家賞を受賞した旨がそこに記述されていた。加えて載っていたのは、主人公の男(ピエール・ジョリベ)の全身を捉えた一枚のスチール写真で、それがもたらすインパクトはあまりにも大きかった。 「こ、これはバンド・デシネだ!」 バンド・デシネとはフランス漫画の通名で、今や有数のジャンルとして日本の漫画やアメリカンコミックと並び世界の漫画ファンの支持を得ている。とりわけ『最後の戦い』のそれはバンド・デシネの巨匠メビウスことジャン・ジローの諸作を彷彿とさせるもので、氏の独特な描画タッチを実写に置換したかのような外観を、この作品は持っていたのだ。 さらに本編に触れてみると、その影響は一枚のスチールだけにとどまるものではなかった。特徴的な装飾感覚とレリーフ描写、モノクロによって強調された陰影のコントラストは、まさに「劇場でバンド・デシネを観る」というべき感覚をもたらした。セリフを必要としない設定や展開も、視覚を主体とする自信をおのずと主張し、またポスト黙示録ともいえる設定とストーリーは、メビウスが創刊に尽力したSFコミック誌「メタル・ユルラン」に掲載されてもおかしくないファンタジー性の強さを放っていた。近年『ヘルボーイ』(04)『パシフィック・リム』(13)で知られるギレルモ・デル・トロ監督も、 「『最後の戦い』は生の「メタル・ユルラン」映画だ」 と、ベッソンのデビュー作を正鵠を射た形でツイートしている。 LE DERNIER COMBAT by Luc Besson. Living Metal Hurlant film w a great, young Jean Reno. No dialogue, all visuals, action & character. Fab.— Guillermo del Toro (@RealGDT) November 19, 2015 しかし『最後の戦い』が発表された80年代初めの日本では、バンド・デシネという呼称も今のように周知されたものではなく、メビウスも『エイリアン』(79)や『トロン』(82)といったアメリカ映画の美術デザインなどで活躍の範囲を広げていたものの、かろうじて映画ファンの間で知られる存在だった。ゆえに『最後の戦い』の先述した印象を共有してもらうことが難しく、また同作とバンド・デシネとの関連に触れた文献が当時から見当たらず、プレス資料や92年リバイバル公開時の厚いパンフレット、そして後年に出版された『最後の戦い』を知るうえで良著ともいえるメイキング書『最後の戦い―リュック・ベッソンの世界』(ソニーマガジンズ)においてさえ一点の言及もなかったため、自分の見立てが間違っているのではと疑心暗鬼になった。 ただベッソンが『最後の戦い』の後に手がけたSFアクション大作『フィフス・エレメント』(97)において、メビウスがコンセプトデザインを担当。これこそがおそらく自分の見立てを立証する根拠だと信じ、機会あれば監督本人に確認してみたいと思い続けていたのだ。 ◆べッソン自身に問うたバンド・デシネへの熱情 そんな『最後の戦い』への膠着した思いが、ついに報われる機会が訪れた。2006年、リュック・ベッソンが手がけた初の3DCG長編アニメーション『アーサーとミニモイの不思議な国』(以下:『アーサー』)の公開にあたり、彼がプロモーション来日を果たし、個別インタビューをすることになったのだ(*1)。奇しくも同作はベッソンが以前より宣言していた「監督作を10本撮ったら引退」の10本目にあたり、なんとか間に合ったという安堵もそこには強くあった。 なので初めての邂逅に緊張と興奮を覚えつつ、『最後の戦い』について制限時間内に言及することができるかどうか気を揉んだものの、そのチャンスは早々に訪れた。まず初問として「引退を撤回する気はないのか?」と訊くと、ベッソンは筆者の言葉を否定することなく、さまざまな媒体から寄せられたであろう疑問に対して食傷気味に「その話は本当だ。なんせ30年も監督をやらせてもらったんだから、そろそろいいんじゃないかと思ってね」と愛想なく答えた。ところが『アーサー』でアニメに初めて着手した動機を問い「昔からバンド・デシネやアニメが好きだったから」という回答に弾みを得た自分は、 「あなたの長編デビュー作である『最後の戦い』は、バンド・デシネの巨匠メビウスにインスパイアされたものなんですか? と言うや、ベッソンは晴れたような笑顔を見せて、以下の返答をくれたのである。 「もちろんメビウスだ。彼は僕のアイディアの源泉で、『最後の戦い』は彼の描く世界を実写で置換した実験作といってもいい。名誉なことにメビウスも『最後の戦い』を観てくれていて(*2)、僕の存在を気にかけてくれてたんだ。だから『フィフス・エレメント』で彼をデザイナーに起用できたんだよ」 もはや『アーサー』の取材を副次的なものだと思うくらい『最後の戦い』とメビウスの存在が確信をもってリンクづけられ、嬉しさのあまり涙腺が決壊しそうになった。しかし、そこは仕事としてグッとこらえ、インタビュー記事の掲載が少年マンガ誌(「週刊少年チャンピオン」)であることを告げ、読者向けにベッソンが勧めるバンド・デシネを訊いてみることにした。すると、 「『フィフス・エレメント』でメビウスと一緒にデザインをお願いしたジャン=クロード・メジエールというアーティストがいるんだけど、彼の連作『ヴァレリアン』シリーズを勧めたいね。日本のコミック読者はレベルが高いから、きっと満足してもらえると思うよ」 このインタビューから現在までに17年が経過したが、その間にリュック・ベッソンは監督宣言を撤回。2021年の時点で10本の倍に迫ろうかという18本もの長編作品を手がけ、自分の質問を快く裏切った。しかも彼がメビウスと共に勧めてくれたメジエールのバンド・デシネを、自身が映画化(『ヴァレリアン 千の惑星の救世主』(17)するという尾ひれまで華麗にたなびかせて。 しかし引退が反古となったことで、彼のフィルモグラフィをつらぬくバンド・デシネの軸芯を感じることができた。そして前述したように『最後の戦い』が、監督の志向や、その後に連なるフィルモグラフィの指標となったことを、改めて力強く示してくれたのだ。■ 『最後の戦い』© 1983 Gaumont
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COLUMN/コラム2021.11.01
新生『ハロウィン』はシリーズ過去作へのオマージュも満載!
※注意:以下の作品解説コラムにはネタバレが含まれます。本編鑑賞後にお読みください。 ホラー映画の金字塔『ハロウィン』とは? 1978年のハロウィン・シーズン、一本のB級ホラー映画がアメリカで劇場公開された。アメリカのどこにでもある田舎町で、精神病院から脱走した殺人鬼マイケル・マイヤーズがティーンエージャーたちを次々と惨殺していく。そう、ジョン・カーペンター監督によるホラー映画の金字塔『ハロウィン』である。低予算のインディーズ映画に過ぎなかったこの作品は、予算30万ドルに対して世界興収7000万ドルという驚異的な大ヒットを記録。その後の『13日の金曜日』(’80)を筆頭とする’80年代スラッシャー映画ブームの先駆けとなったばかりか、リメイク版を含めて現時点までに通算12本が製作されるほどのロングラン・シリーズとなっている。 そもそもの始まりは1963年のハロウィン。イリノイ州の田舎町ハドンフィールドに住む6歳の少年マイケル・マイヤーズは、両親の留守中に高校生の姉ジュディスを包丁で殺害し、精神病院送りとなってしまう。時は移って1978年のハロウィン当日。スミスズ・グローヴ療養所に幽閉されていたマイケルが脱走。生まれ故郷のハドンフィールドへ向かった彼は、金物店でハロウィンマスクとロープとナイフを盗み、平凡な女子高生ローリー・ストロード(ジェイミー・リー・カーティス)をつけ回す。マイケルの主治医ルーミス(ドナルド・プレザンス)は地元のブラケット保安官(チャールズ・サイファーズ)に警戒を訴えるも、その間にブラケット保安官の娘アンを含む高校生男女3人がマイケルに殺され、幼い子供トミー・ドイル(ブライアン・アンドリュース)とリンジー・ウォレス(カイル・リチャーズ)の子守をしていたローリーも命を狙われるものの、間一髪のところで駆け付けたルーミス医師に救われる。だが、博士の銃弾を受けてバルコニーから転落したはずのマイケルは、跡形もなく忽然と姿を消してしまう。 以上が記念すべき元祖『ハロウィン』のあらましである。余計な説明を極力省いたシンプルなストーリーは、それゆえ本能のままに殺戮を繰り返していくマイケルの、まるで得体の知れない超自然的な怪物性を際立たせて秀逸。無感情にして無言で何を考えているか分からず、人並外れた怪力を持つ不死身の殺人マシン。『スタートレック』のカーク船長のお面を改造したという、どこか哀しげで不気味な白いマスクがまたインパクト強烈だ。このマイケル・マイヤーズという唯一無二のキャラクターこそ、『ハロウィン』が関係者の誰も予想しなかった大ヒットを記録し、長きに渡って愛されることとなった最大の理由であろう。もちろん、当時まだ無名の新人だったジェイミー・リー・カーティスのスター性、ジョン・カーペンター監督自身による不気味な音楽スコアの魅力も外せない。 そして、それから40年後、再びハドンフィールドへ舞い戻ったマイケルとローリーの宿命的な戦いを描いた作品が、リメイク版2本を挟んで16年ぶりにジェイミー・リー・カーティスがシリーズ復活した新生『ハロウィン』(’18)。ただしこれ、実は1作目の直接的な続編として作られており、2作目以降のストーリーはなかったことになっている。なので、ホラー映画ファンには常識である「マイケルとローリーは実の兄妹」という設定もなし。長年に渡って『ハロウィン』シリーズに親しんできたマニアほど戸惑うだろうし、同時に新鮮味も感じられることだろう。そこで、まずは本題に入る前に過去シリーズの変遷(リメイク版シリーズは除く)を駆け足で振り返ってみたい。 シリーズの変遷をたどる 第2弾『ブギーマン』(’81)物語は前作の続き。惨劇を生き延びたものの大怪我を負ったローリー(ジェイミー・リー・カーティス)は、ハドンフィールド総合病院に担ぎ込まれるものの、後をつけてきたマイケルによって再び殺戮が繰り返される。ローリーがマイケルの実の妹であることが初めて明かされるのは本作。ルーミス医師(ドナルド・プレザンス)の元部下である看護婦マリオン(前作にも同役で出演したナンシー・スティーブンス)が発見した機密ファイルによって、1963年の事件当時ローリーはまだ2歳で、その直後に両親が死亡したことからストロード家へ養子に出され、プライバシー保護のため出生の秘密が隠されてきたことが判明する。15年前に姉を殺したマイケルは、今度は妹の命も狙っていたというわけだ。また、劇中のフラッシュバックでは、幼少期のローリーが精神病院に幽閉されたマイケルを見舞っていたことも描かれる。 第3弾『ハロウィンⅢ』(’82)『ハロウィン』シリーズのタイトルを冠しただけで、ストーリー的には全く関係のない番外編的な作品。ハロウィンのルーツである古代ケルトのドルイド教を信仰するカルト集団が、ハロウィンマスクを使って子供たちを神への生贄にしようとする。もちろん、マイケル・マイヤーズもルーミス医師もローリーも出て来ず。案の定、興行的には大コケした。 第4弾『ハロウィン4/ブギーマン復活』(’88)舞台設定はハドンフィールドの惨劇から10年後。ローリーは夫と共に交通事故で亡くなったことになっており、本作ではその幼い娘ジェイミー(ダニエル・ハリス)が主人公となる。昏睡状態のまま病院に収容されていたマイケルは、自分に姪がいることを知って意識を取り戻し脱走。ハロウィンで賑わうハドンフィールドへ再び姿を現し、今は別の家庭の養女となったジェイミーの命を狙う。ジェイミーが恐怖体験の後遺症でマイケル化してしまい、その姿を見たルーミス医師(ドナルド・プレザンス)がショックのあまり絶叫するラストが印象的だ。 第5弾『ハロウィン5/ブギーマン逆襲』(’89)前作の1年後。PTSDでハドンフィールド児童病院に入院していたジェイミー(ダニエル・ハリス)が、意識を取り戻したマイケルとテレパシーで繋がってしまい、再び惨劇の幕が切って落とされる。ラストはフードを被った謎の人物がマイケルとジェイミーを連れ去るという衝撃の展開に。ジェイミーに「おじさん」と呼ばれたマイケルが、マスクを脱いで涙を流す場面もある。 第6弾『ハロウィン6/最後の戦い』(’95)前作から6年後の本作では、まずマイケルとジェイミーを連れ去った人物が、ドルイド教のカルト教祖であることが判明。さらに、マイケルが不死身なのはドルイド教の呪いが原因だと明かされる。まあ、確かに2作目『ブギーマン』でもマイケルとドルイド教の関連を匂わせるセリフはあったが、まさかそういうことだったとは(笑)。今回のマイケルが狙うのは、ジェイミーが出産した息子。スティーブンと名付けられたその赤ん坊を守るため、1作目でローリーが子守をしていたトミー・ドイル(ポール・ラッド)とルーミス医師(ドナルド・プレザンス)が、マイケルとカルト教団を相手に戦うこととなる。 第7弾『ハロウィンH20』(’98)ジェイミー・リー・カーティス演じるローリーが復活したシリーズ20周年記念作。こちらは2作目の直接的な続編となっており、それ以降の設定はなかったことにされている。全くもって、ややこしいですな(笑)。で、全米各地で殺人事件を繰り返す兄マイケルから身を守るために死を偽装したローリーは、名前を変えて全寮制高校の校長を務めながら一人息子ジョン(ジョシュ・ハートネット)を育てている。事情を知っているのは旧知の看護婦マリオン(ナンシー・スティーブンス)だけなのだが、そのマリオンがマイケルに殺されて書類が盗まれたことから、ついに居場所を突き止められてしまう。マイケルが自分を殺しに来るとの強迫観念にとらわれ、息子を守らんがため神経質になっているローリーは、まさしく新生『ハロウィン』のローリーそのものだ。 第8弾『ハロウィン レザレクション』(’02)前作に続いてジェイミー・リー・カーティスが登板した作品だが、しかしローリーが出てくるのは序盤だけ。PTSDを装って精神病院へ入院していたローリーは、来るべき兄マイケルの襲撃に備えて罠を仕掛けていたものの、なんとあえなく殺されてしまう!以降は、ウェブ番組の肝試し企画でマイヤーズ家の廃墟に潜入した若者たちが、次々とマイケルの餌食になっていくという凡庸なストーリーが展開。どうやら、ローリー役のジェイミーはこれを以て『ハロウィン』シリーズに終止符を打つつもりだったらしい。 全編に散りばめられたオマージュを探せ! かように、人物設定や相関関係が複雑怪奇になってしまった『ハロウィン』シリーズ。本作を1作目の直接的な続編にした理由のひとつは、それらのストーリーラインをカバーしきれなかったからだという。そもそも、1作目が大成功したのはストーリーも設定も極めてシンプルだったから。この機会に原点回帰を図るという意図もあったのだろう。なので、ローリーとマイケルが兄妹だという事実もなければ、娘ジェイミーや息子ジョンの存在もなし。そればかりか、実は1作目のあとでマイケルは警察に逮捕され、40年間に渡って精神病院に幽閉されてきたことになっているのだから驚かされる。 ハドンフィールドの惨劇から40年後の現在。ローリー(ジェイミー・リー・カーティス)は今なお深刻なPTSDを抱えており、いつか必ずマイケルが自分を殺しにやって来るという強迫観念に囚われていた。そのため、自宅を要塞のように改造して引きこもり、酒に溺れる毎日を送っている。そんな母親を娘カレン(ジュディ・グリア)は疎ましく思っているが、しかし高校生の孫娘アリソン(アンディ・マティチャック)は祖母を理解しようと努めていた。やがて訪れるハロウィン・シーズン。精神病院から刑務所へ移送中のバスからマイケルが脱走し、40年前の決着をつけるためにハドンフィードへと舞い戻ってくる…というわけだ。 終盤はローリーと娘カレン、孫娘アリソンが団結し、様々なトラップを仕掛けた自宅を舞台にマイケルとの死闘を演じる。故ルーミス医師が「純粋なる邪悪」と呼んだマイケルは、子供だろうが女性だろうが、はたまた善人だろうが悪人だろうが容赦なく襲いかかるという意味において、さながら地震や台風など自然災害の如し。そんな理屈の通用しない理不尽な暴力に対し、口ばかりで役に立たない男たちを差し置いて、愛と勇気で結ばれた三世代の聡明な女性たちが連帯して立ち向かうという筋書きは、女性のエンパワーメントとジェンダーロールの再定義を掲げる第4派フェミニズムの時代に相応しいとも言えよう。 既に述べたように、シリーズ2作目以降のストーリーや設定をリセットしてしまった本作だが、しかしその一方で「ファンのため、過去作の全てにオマージュと敬意を捧げている」と脚本家デニー・マクブライドが語っているように、全編に渡ってシリーズ各作品からの引用が見受けられる。どれだけオマージュを探し当てられるかも、ファンにとっては大きな楽しみだろう。 そこで最後に、筆者が気付いたオマージュ・ネタを幾つかご紹介してみたい。 「教室の窓から外を眺めるアリソン」 元ネタ:オリジナル版『ハロウィン』恐らくこれは最も分かりやすいオマージュであろう。1作目では授業中にローリーが教室の窓から外を眺めるとマイケル・マイヤーズが立っているが、今回の新生『ハロウィン』でアリソンの視線の先にいるのはローリー。ファンなら思わずニヤリとするはずだ。 「公衆トイレにマイケル襲来!」 元ネタ:『ハロウィンH20』ガソリンスタンドの公衆トイレでジャーナリストたちがマイケルに殺されるシーン。これとよく似ているのが、道路脇の公衆トイレに立ち寄った母親と幼い息子がマイケルと遭遇する『ハロウィンH20』のワンシーンだ。ただし、こちらの母子は殺されずに済むのだが。 「キッチンから包丁を奪うマイケル」 元ネタ:『ブギーマン』ハドンフィールドへ戻ったマイケルは、まずは凶器を調達!とばかりに民家のキッチンへ押し入り、赤いガウンを着たオバサンを殺して包丁を奪うのだが、2作目『ブギーマン』にも似たシーンがある。ただし、こちらのオバサンはピンクのガウン姿で、幸いにも殺されずに済む。 「電話で事件を知った主婦を背後から襲撃するマイケル」 元ネタ:『ブギーマン』こちらも2作目のオマージュ。本編に登場する順番まで一緒だ。『ブギーマン』では友達との電話で惨劇を知った女子高生が、「まじ?怖くね?」と言っている間に背後から忍び寄ったマイケルに殺されるのだが、本作ではマイケルの逃亡を電話で聞いて戸締りしようとした主婦が同様の目に遭う。 「白いお化けシーツを被ったヴィッキー」 元ネタ:オリジナル版『ハロウィン』マイケルに殺されたアリソンの親友ヴィッキー。まるでハロウィンの仮装のごとく、その死体には白いお化けシーツが被されているのだが、これは1作目で恋人ボブのふりをしたマイケルに、ローリーの親友リンダが殺されるシーンのオマージュと思われる。 「何も知らずに夜道を歩くアリソン」 元ネタ:『ハロウィン4/ブギーマン復活』マイケルがハドンフィールドに戻ったことも、警察が安否確認のため行方を探していることも知らず、パーティ会場を出て友達と夜道をとぼとぼ歩くアリソン。目の前で友達が殺されたことで、ようやく事態に気付いて周辺住民に助けを求めた彼女を、保安官とサルテイン医師がパトカーで迎えに来る。これと同様に、4作目でもマイケルが町に戻って、警察が自分を探していると知らないジェイミーは、トリック・オア・トリートのために夜道を歩いていたところ、やはりパトカーに乗った保安官とルーミス医師に助けられる。 「マイケルをトラップで迎え撃つローリー」 元ネタ:『ハロウィン レザレクション』いよいよマイケルと対峙することになったローリーは、家のあちこちに仕掛けたトラップでマイケルを迎え撃つわけだが、同様に『ハロウィン レザレクション』のローリーも、マイケルが自分を殺しに来た時のため、精神病院の屋上にトラップを仕掛けていた。 「2階から転落したローリーを見下ろすマイケル」 元ネタ:オリジナル版『ハロウィン』これは’78年版クライマックスへのオマージュ。1作目ではルーミス医師の銃弾を浴びたマイケルが2階から転落。ローリーが無事か確認したルーミス医師が再び下を見下ろすと、既にマイケルの姿は消えているのだが、本作ではローリーが2階から突き落とされ、マイケルが見下ろすこととなる。 「マイケルの背後の暗闇から浮かび上がるローリー」 元ネタ:オリジナル版『ハロウィン』犠牲者の背後の暗闇から白いマスクを被ったマイケルが浮かび上がる…というのはシリーズを通してのお約束だが、その原点はもちろん’78年のオリジナル版。しかし本作では、反対にローリーがマイケルの背後の暗闇から姿を現し、「ハッピー・ハロウィン」の決め台詞と共に一撃をお見舞いする。 「ガス大爆発」 元ネタ:『ブギーマン』本作のクライマックス、マイケルを地下室に閉じ込めたローリーたちが、家中にガスを充満させて火を点け大爆発させる。一方の『ブギーマン』では、病院の物置部屋に追い詰められたローリーとルーミス医師が、部屋中に置かれたガスボンベの栓を開いてガスを充満させ、先にローリーを逃がしたルーミス医師が火を点けてマイケルもろとも吹っ飛ぶ。 他にも様々なオマージュが散りばめられていると思うので、ぜひ探してみて欲しい。 なお、現在劇場公開中の『ハロウィンKILLS』(’21)は本作の直後から始まり、ハドンフィールドの町を舞台にマイケルが大量殺戮を繰り広げることになる。オリジナル版からはリンジー役のカイル・リチャーズにブラケット保安官役のチャールズ・サイファーズ、さらには7作目で殺された看護婦マリオン役のナンシー・スティーブンスが再登場。’22年のハロウィン・シーズンには、シリーズ完結編となる『Halloween Ends』(邦題未定)も公開される予定だ。■ 『ハロウィン(2018)』© 2018 Night Blade Holdings LLC. 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COLUMN/コラム2021.11.01
ジョン・ウーの名声を決定づけた『男たちの挽歌』までの道
ジョン・ウーは、1990年代に香港からアメリカに移り住み、ハリウッドに進出。『ブロークン・アロー』(96)『ファイス/オフ』(97)『M:I-2 ミッション:インポッシブル2』(2000)といった監督作が、続けてボックスオフィスのTOPを飾った。 2000年代後半になると、アジアに拠点を移し、“三国志”ものの『レッドクリフ partⅠ』(08)『レッドクリフ partⅡ -未来への最終決戦-』(09)を製作・監督。中国本土で当時の興収新記録を打ち立てた。 ウーは、1946年生まれ。生誕地は中国の広州だが、49年に中華人民共和国が成立すると、一家で香港へと移住した。そこでは、時には路上で生活することもあったほどの、赤貧洗うが如しの幼少期を送ったという。 キリスト教会を通じてアメリカの篤志家の援助を受け、10歳を前に、やっと学校に通えるようになったウーが、母親の影響もあって映画に夢中になったのは、中学生の頃から。彼が青春時代を送った60年代の香港では、黒澤明や溝口健二など巨匠の作品に続いて、日活や東映の作品が、大量に上映されるようになった。日本映画専門の映画館チェーンまであったという。 そんな中でウーは、アメリカやヨーロッパの映画に親しむのと同時に、黒澤明を崇め、石井輝男や深作欣二の監督作品を熱烈に愛した。彼のヒーローは、高倉健や小林旭であった。 17の歳に学校をやめたウーは、働きながら映画を学ぶ。そして19歳の時には、8mmや16mmフィルムで実験映画を撮り始める。映画会社に職を得たのは、23歳の時だった。 71年、25歳の時に大手のショウ・ブラザースに籍を移したウーは、武侠映画の巨匠チャン・チェーの下で助監督を務めた。1年半という短い間であったが、ここで多くのことを学んだという。 そして73年に、初監督作の『カラテ愚連隊』を撮る。諸事情から香港では、2年後の75年まで公開されなかったが、我が国では、地元より一足先の74年に公開されている。これは、73年暮れにブルース・リー主演の『燃えよドラゴン』が日本公開されるや沸き起こった、空前の“クンフー映画ブーム”に乗ってのことだった。 そんな処女作を評価したレイモンド・チョウに誘われ、彼が率いるゴールデン・ハーベストへと移ると、当時ただ1人の社員監督として重用され、コメディや広東オペラのヒット作を放つようになる。マイケル、リッキー、サミュエルの“ホイ3兄弟”主演で、監督はその長兄マイケル・ホイ名義のコメディ『Mr.Boo!ミスター・ブー ギャンブル大将』(74)なども、実際の監督を務めたのは、ウーだったと言われる。 このように会社に多大な貢献をしながらも、自分が本当に撮りたいと思ったものは、なかなか撮らせてもらえなかった。それに対して不満を募らせるようになったウーは、83年の戦争映画『ソルジャー・ドッグス』の製作中に、ゴールデン・ハーベストとトラブり、退社に至る。 そして新興のシネマ・シティへと移籍するが、大手であるゴールデン・ハーベストへの体面などもあって、84年から85年に掛けては、台湾の支社へと出向せざるを得なくなる。いわば、“島流し”の憂き目に遭ったのである。 2年間の辛酸の後、86年に香港に帰ったウーが、当時気鋭のプロデューサーであり監督だった、ツイ・ハークの製作により取り掛かったのが、本当に撮りたかった企画である『英雄本色』。即ち本作、『男たちの挽歌』だった。 ***** 極道の世界に身を置くホーは、偽札作りのシンジゲートの幹部。相棒のマークとは、固い絆で結ばれていた。 ホーには病を抱えた父と、弟のキットという家族がいた。キットは兄の正体を知らないまま警察学校に通っており、ホーはそんな弟のために、次の仕事を済ませたら、足を洗うことを決めていた。 その仕事で台湾に飛んだホーだが、取引相手から裏切りに遭い、逮捕されてしまう。そのためシンジケートは、ホーが口を割らないようにと、彼の家族を急襲。キットの目の前で、兄弟の父は殺されてしまう。 一方ホーの復讐のために、マークが台湾に飛ぶ。ターゲットは討ち果すも、右足を撃たれたたマークは、不自由な身体になってしまう。 それから3年が経ち、台湾での刑期を終えたホーが、香港へ帰って来る。刑事になったキットは、父の死を招いた兄を、決して許そうとはしない。更には兄の属していたシンジケートの捜査から、「関係者の身内」という理由で外されたため、怒りを膨らませる。 ホーは更生のため、タクシー会社で働き始めるが、そんな時にうらぶれた姿になったマークと再会する。今やシンジケートは、ホーとマークの舎弟だったシンが実質的なTOPとなり、右足を引きずるマークは、雑用係となっていた。 シンはホーを呼び出し、弟のキットを警察からの情報提供者として抱き込んで欲しいと持ち掛ける。ホーが拒否すると、相棒のマークがリンチに掛けられ、勤務先のタクシー会社も、嫌がらせを受けるようになる。 キットを守るためにもホーは、シンが率いるシンジケートと対決する決意を固める。そして相棒のマーク、更にはキットと共に、命を賭けた大銃撃戦へと臨んでいく…。 ***** 1967年に製作された、ロン・コン監督の『英雄本色』をベースにしたリメイク作品である、『男たちの挽歌』。ジョン・ウーがそれまで培ってきた、キャリアと知識、テクニックのすべてを注いだ作品と言える。「チャン・チェーの映画の登場人物が、刀を銃に持ちかえたような作品だ」という評論があったように、中国時代劇の世界を暗黒街に置き換えて、アクションの撮り方から、男の情熱、騎士道といった、師匠から学んだ技術や精神をブチ込んだ。 また映画を撮ることのモチベーションは“仁義”であると、ウー本人が公言するように、日本のヤクザ映画や、ジャン=ピエール・メルヴィル監督の『サムライ』(67)といった、フレンチ・ノワールからの影響も大。もちろん銃撃戦で多用される“スローモーション”は、「死の舞踏」と謳われた、ヴァイオレンスの巨匠サム・ペキンパー作品にインスパイアされ、ウーが発展させたものである。 キャストやその演じるキャラクターに関しても、ウーの思い入れがたっぷりである。主役のホーを演じるティ・ロンは、チャン・チェー門下。70年代は武侠映画の大スターとして鳴らしたが、80年代に入って、本作に出る頃までは、「過去の人」扱いだったという。 マーク役のチョウ・ユンファは、TVドラマから映画へと、軸足を移した頃に本作に出演。役作りに於いては、その容貌が似ている、日活アクションの大スター・小林旭の動きや所作を、積極的に取り入れたという。もちろんこの役作りは、来日して本人に会えた時には、足下に跪いたほどの熱烈な旭ファンである、ウーの意向もあってのことだろう。 ホーが逮捕された後、足を負傷したマークは、洗車や掃き掃除などの雑用を命じられる。そんなところまで落ちぶれながら、友の出獄を待ち、巻き返しを図る日を心待ちにしている。これは台湾に“島流し”になっていた時のジョン・ウー自身が投影されている。実際に彼を持て余した現地スタッフから、箒を渡されて事務所の掃除をさせられたこともあったそうだ。 そしてホーとマークの間に結ばれる熱い絆は、正に当時のウーとツイ・ハークの関係をモデルにしたものだという。そもそもは、5歳年下のハークがまだ売れない頃、ウーがゴールデン・ハーベストに紹介して、ハークの道を開いた。そして台湾から香港に戻ったウーが、かねてから温めていた本作の構想を語ると、ハークは強く映画化を勧め、プロデューサーを買って出た。 もっともこの2人は後に、『男たちの挽歌』の続編や契約問題を巡って、衝突。友情は、瓦解してしまうのだが…。 因みにホーの弟のキットを演じたレスリー・チャンは、それまではアイドル歌手として、主に青春映画に出演していたのだが、本作出演以降、本格的に映画スターの道を歩み始める。 後に“ウー印”とも言われる彼の作品のトレードマーク、“白い鳩”も、2人の男が銃を至近距離で突きつけ合う“メキシカン・スタンドオフ”も、本作ではまだ登場しない。しかし間違いなく、ここからすべてが始まったのである。 本作は86年8月に香港で公開されると、記録破りの大ヒット! 長いコートにサングラス、くわえマッチというチョウ・ユンファの出で立ちを、若者がこぞってマネをするような社会現象となった。 日本では、翌87年4月に公開。ある程度話題にはなったが、それほど多くの観客を集めることはなかった。火が点いたのは、ビデオソフト化されて、当時急増していたレンタルビデオ店に出回るようになってからであった。 何はともかく本作によって、“英雄片”日本で言うところの“香港ノワール”というジャンルが確立し、香港映画界を席巻する。この大波はやがて海を越え、クエンティン・タランティーノ監督作品を筆頭に、世界のアクション映画シーンにも大きな影響を及ぼすようになる。 当時40代で、このムーブメントをリードし、その後ハリウッドのTOPランナーの1人にまで上り詰めたジョン・ウーも、今や70代中盤となった。近作である『The Crossing ザ・クロッシング Part I / PartⅡ』(14/15) や『マンハント』(17)などには、かつての輝きが見られないのは、偏に加齢のせいなのだろうか? それと同時に、ご存知のような国際情勢である。“香港ノワール”を生み出した頃の熱い香港の風土は、完全に過去のものとなってしまった。 35年前に常軌を逸した激しいドンパチが、とにかく衝撃的だった『男たちの挽歌』を、今このタイミングで鑑賞する。後には“亜州影帝=アジア映画界の帝王”と呼ばれるほどのスーパースターになる、若き日のチョウ・ユンファが、超スローモーションでロングコートを翻しながら二丁拳銃をぶっ放す姿に改めて痺れながらも、過ぎ去った日々の、その取り返しのつかなさに、愕然ともしてしまう。■ 『男たちの挽歌』© 2010 Fortune Star Media Limited. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2021.10.12
エドワード・ズウィック積年の夢の実現と、それに応えて羽ばたいた日本人キャストたち『ラスト サムライ』
エドワード・ズウィックにとって、本作『ラスト サムライ』(2003)の製作は、長年抱いてきた夢だった。 1952年生まれの彼は、17歳の時に黒澤明監督の『七人の侍』(54)を観て、黒澤映画を1本残らず研究しようと決意。それが、フィルムメイカーへの道に繋がった。 ハーヴァード大学に進むと、彼を指導したのは、エドウィン・O・ライシャワー。日本で生まれ育ったライシャワーは、61年から5年間、駐日アメリカ大使を務め、ハーヴァードでは、日本研究所所長の任に就いていた。 その門下で歴史を学ぶようになったズウィックが、特に興味を持ったのが、日本の“明治維新”。ズウィック曰く、「どの文化においても、古代から近代への移行期というのはとりわけ感動的でドラマティックです…」「周りを取り巻く文化全体も混乱を極めている時代に、個人的な変容を経験していく登場人物を観察するということには、感動する何か、我を忘れるほどの魅力があるのです」 ズウィックは、『グローリー』(89)や『レジェンド・オブ・フォール/果てしなき想い』(94)といった監督作、アカデミー賞作品賞を獲った『恋に落ちたシェイクスピア』(98)といったプロデュース作などで評価を得ながら、本作の構想を固めていく。そして『グラディエーター』(00)などの脚本家ジョン・ローガンと組んで、シナリオ執筆を進めた。 出来上がったシナリオを、トム・クルーズに送ると、日本人の“サムライ魂”に関心があったというトムはすぐに気に入り、主演及びプロデューサーとして、本作に参加することが決定。スーパースターを得たことで、本作の製作は、本格的に進められることとなった。 アクションには、ノースタントで挑むことで知られるトム・クルーズが、本作で演じるのは、元アメリカ軍人で日本へと渡るネイサン・オールグレン。二刀流の剣術や格闘術、乗馬をこなす必要があったため、撮影までの約1年間、毎日数時間掛けて厳しいトレーニングを行ったという。 *** 時は1870年代。かつては南北戦争の英雄と讃えられたネイサンだったが、ネイティブ・アメリカン虐殺に加担して受けた心の疵が癒えないまま、酒浸りの日々を送っていた。 そんな彼が、大金を積まれてのオファーを受けて、軍事教官として日本に赴くことに。雇い主は、誕生して日も浅い明治新政府の要人・大村(演;映画監督の原田眞人)だった。 新兵たちの訓練が行き届かない内に、政府への反乱を討伐するための、出動命令が下る。ネイサンの「まだ戦える状態ではない」との主張は退けられ、彼もやむなく同行することとなる。 反乱を率いるのは、明治維新の立役者の一人だった、勝元盛次(演:渡辺謙)。大村らを軸に近代化政策が進められる中で、かつてのサムライたちがないがしろにされていく流れに抗して、野に下っていた。 ネイサンの危惧通り、出動した部隊は、サムライたちの猛攻にひとたまりもなかった。ネイサンは孤軍奮闘するも、瀕死の重傷を負い、囚われの身となる。 山中の農村へと運ばれたネイサンは、勝元の妹たか(演:小雪)の看病を受け、次第に回復。村人たちの素朴な生活に癒され、やがてサムライたちの精神世界に魅せられていく。 剣術の鍛錬を始めたネイサンは、サムライたちのリーダー格である氏尾(演:真田広之)と手合わせを行う。はじめは歯が立たなかったが、遂には引き分けるまでに腕を上げる。 ネイサンは、勝元とも固い絆で結ばれていく。そして、信念に敢えて殉じようとする勝元たちと、最後まで行動を共にすることを決意するのだったが…。 *** ズウィックが影響を受けたことを認めているのが、日本文学研究者のアイヴァン・モリスの著書「高貴なる敗北―日本史の悲劇の英雄たち」。この中で取り上げられた、新政府の樹立に加担するも、やがて叛旗を翻す西郷隆盛の物語に強く惹かれたという。 本作に於ける勝元盛次が、不平士族の反乱を起こした、西郷や江藤新平をモデルにしているのは、明らかだ。舞台設定である1877年は、実際に西郷が“西南戦争”を戦い、命を落とした年である。 また敵役となる大村の名は、明治政府で兵制の近代化と日本陸軍の創設に尽力した大村益次郎から取ったものと思われる。但しキャラ設定的には、当時政商として暗躍した岩崎彌太郎と、西郷を失脚に追い込んだ大久保利通を、足して2で割ったようなイメージだが。 さてトム・クルーズ主演作であるが、本作の場合、日本人俳優のキャスティングが肝要だった。その役割を担ったのは、日本では作詞家・演出家としても著名な、奈良橋陽子。日本やアジア圏の俳優をハリウッド映画などに紹介する、キャスティング・ディレクターとしての歩みを、本格化させていった頃の仕事である。 奈良橋はズウィックに、様々な映像資料等を送付して、やり取り。彼が来日するまでにある程度の人数に絞り込んでは、オーディションのセッティングを行った。 日本でのキャスティングは、トムの参加が決まる前、即ち本作製作に正式なGOサインが出る前から、秘かに進められていた。ある時はズウィックの来日に合わせて体育館を借り切り、真田広之をはじめ殺陣ができる俳優たちを集め、ショーを見せたという。 カメラマンも一緒に来日して撮影したというこの殺陣ショーに、監督は大喜びで、「この映画を絶対に撮るんだ」と決意も新たに帰国。トムの主演が決まったのは、それから数か月後のことだった。 その後真田をはじめ、小雪や明治天皇役の中村七之助等々、キャストが次々と決まっていく。そんな中で難航したのが、最も重要な勝元役だった。 実は奈良橋は、NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」(87)をはじめ、時代劇俳優の印象が強い渡辺を、ズウィックに最初に紹介して、京都のホテルでインタビューを受けてもらっている。しかしこの時は渡辺の印象が、なぜか監督の頭に残ることがなかった。 勝元役が決まらない中で、奈良橋はズウィックに、もう1回渡辺と会ってもらえないかと頼み、帝国ホテルのスイートルームでのオーディションをセッティングした。渡辺の英語力はまだそれほどではなかったというが、気負うことなく楽に役を演じたのが良かったか、ズウィックの目はオーディションの最中から輝き、終了して渡辺が部屋を出た瞬間には、「彼こそ勝元だ!」とガッツポーズを取ったという。 そんなズウィックが、クランクインが近づいた頃、新しい役を作ったと奈良橋に連絡してきた。その役名は“サイレント・サムライ”。農村に囚われの身となったネイサンを常に見張り、話しかけられても一切返事をしない、名前を名乗ることもない、“沈黙の侍”である。 奈良橋の著書によると、その時ふと思い浮かんだのが、福本清三だったという。東映の大部屋俳優で、その当時にして40年以上映画やTVドラマに出ては、2万回以上斬られてきたという、「日本一の斬られ役」である。 この辺り、福本にインタビューした書籍によると、彼のファンクラブのメンバーが、『ラスト サムライ』が製作されることを報じたスポーツ紙の記事を読んで、奈良橋に連絡を取り資料を送ったのが、きっかけだったという。福本本人は、そんなこととはつゆ知らず、ある時突然奈良橋から携帯に電話が掛かってきて、吃驚した。 福本は東京に呼ばれ、奈良橋の事務所で、半袖シャツにチノパンという出で立ちで、立ち回りや、彼の十八番である、斬られて海老反りで倒れるところなどを撮影。また“サイレント・サムライ”役ということで、「無表情の演技」も撮った。 そのビデオを監督に見せると、すぐに出演が決まった。東映太秦撮影所で旧知だった真田広之も、福本出演を聞いて、大喜びだったという。 さて『ラスト サムライ』は、日本でクランク・イン。姫路の圓教寺でのロケ後は、京都の知恩院で撮影を行った。 悲しいことに、日本のロケ事情の問題で、後は海外に19世紀の日本を再現しての撮影となる。ロサンゼルスのワーナー・ブラザースがスタジオ近くに持つ野外撮影用地は、普段はニューヨーク通りと言われ、西洋風の建造物が建ち並んでいる。ここを木材やファイバーグラスのタイルなど使って外観を飾り替えることで、文明開化の頃の東京、通称“エド村”を作り上げた。 “エド村”での撮影を終えると、ニュージーランドへ移動。田舎町に10億円を投じて借り切り、キャストやスタッフのための住宅を用意した。その近くの山の中には、畑、家屋、畦道まで精緻な仕上がりの、日本の農村が完成。クライマックスの戦闘シーンも、ニュージーランドでの撮影であるが、そのために日本から500人のエキストラを参加させ、本番のために数カ月間、本物の軍隊と同じ訓練を施した。 ズウィックの本作への思い入れもあってか、時代考証などは内外の専門家の意見を受けて慎重に進められた。ハリウッド映画に度々登場するような「おかしな日本」にならないように、最大限の努力を行っている。 またこの点では、真田広之の尽力も大きい。彼は出番のない日でも、セットを訪れて、衣装、小道具、美術などをチェックし、資料ではわからない着こなしや道具の使い方などのアドバイスを行ったという。 それでも「おかしな」ところは、見受けられる。例えば勝元の村に、暗殺部隊である“忍者”集団が現れたり、戦闘シーンではサムライたちが、明治時代にもなって甲冑を身に纏っていたり…。 この辺りは、監督はじめ主要スタッフも「あり得ない」ことは、理解していた。全世界で公開される“サムライムービー”として、観客のニーズに応えたと言うべきか?或いは黒澤映画の大ファンであるズウィックが、“時代劇”を撮る以上は、絶対やりたかった要素だったのかも知れない。 それから逆に考えて、なぜ日本の観客が「おかしい」と思うのかにも、思いを至らせた方が良い場合もある。当たり前のことだが、明治の日本や侍の時代を、実際に体験したことがある者は既に居ない。我々の基準は、日本のテレビや映画で観た“時代劇”から生まれている可能性が大いにある。 衣装デザイナーのナイラ・ディクソンは、素材の豊富な在り処を日本で見付け、衣装の多くをそこで作った。甲冑なども彼女の担当だったが、ある時に兜のデザインを、渡辺と真田に見せたことがある。すると2人とも、「日本にこんなものはない」という反応。そこで彼女は、分厚い写真集を持ち出して、2人に見せた。それは確かに、日本の兜だったのである。 さてご存知の方が多いと思うが、世界的に大ヒットとなったこの作品で、渡辺謙は見事アカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。その後は頻繁にハリウッド映画に出演する他、ブロードウェイの舞台「王様と私」に主演し、トニー賞にもノミネートされている。 真田広之もこの作品がきっかけとなって、拠点をロサンゼルスに移し、国際的な活躍を続けている。近作はジョニー・デップ主演の『MINAMATA―ミナマター』(21)だが、この作品でも舞台である1970年代の日本に見えるよう、少し早めに現場に入っては、小道具を選別したり、旗やゼッケンの日本語をチェックして自分で書いたりなどしたという。 さて本稿は、ニュージーランドでのロケ中は、他の侍役の俳優たちを呼んでは、よくカレーを作って振舞っていたという、福本清三の話で〆たい。彼が本作で演じた「サイレント・サムライ」は、先にも記した通り、とにかく無言を通す男。そんな男が、たった一言だけセリフを放つシーンがある。ここは結構な泣かせどころにして、福本の最大の見せ場である。 今年の元旦、77歳で亡くなった「日本一の斬られ役」に哀悼の意を捧げながら、皆さん心して観て下さい。■ 『ラスト サムライ』© Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2021.10.11
本家シリーズとは一味違うスパイアクション系のバディ・ムービー『ワイルド・スピード/スーパーコンボ』
犬猿の仲のホブスとデッカードが迷コンビに!? 映画史上最も成功したフランチャイズのひとつとも呼ばれる『ワイルド・スピード』シリーズ。これはその初めてとなるスピンオフ映画だ。主人公は元DSS(アメリカ外交保安部)捜査官のルーク・ホブス(ドウェイン・ジョンソン)と、元MI6(イギリス秘密諜報部)エージェントのデッカード・ショウ(ジェイソン・ステイサム)。お互いに顔を合わせれば憎まれ口ばかり叩く犬猿の仲の2人が、人類の滅亡を招く危険なウィルスを巡って、謎の巨大ハイテク組織の陰謀を阻止するべくタッグを組む。当初はストリートレース物としてスタートしながらも、作品を重ねるごとに『ミッション:インポッシブル』化の進んでいる本家シリーズだが、本作などはまさにスパイ映画の王道とも呼ぶべき作品に仕上がっている。 もともとは本家5作目『ワイルド・スピード MEGA MAX』(’11)で、国際指名手配されたドミニク(ヴィン・ディーゼル)とブライアン(ポール・ウォーカー)を追いつめる捜査官として登場したホブス。一方のデッカードは、6作目『ワイルド・スピード EURO MISSION』(’13)のメイン・ヴィラン、オーウェン・ショウ(ルーク・エヴァンズ)の兄としてクライマックスに登場し、次作『ワイルド・スピード SKY MISSION』(’15)では大怪我をした弟の復讐のため主人公たちの前に立ちはだかった。それが、どちらも紆余曲折を経てドミニクらファミリーとタッグを組むことに。8作目『ワイルド・スピード ICE BREAK』(’17)では、ひょんなことから行動を共にするようになったホブスとデッカードのコミカルないがみ合いが大きな見どころのひとつとなった。 このホブスとデッカードの凸凹コンビの面白さにプロデューサー陣が着目したことから、兼ねてより計画されていたシリーズ初のスピンオフ映画を、ホブスとデッカードのコンビで作ることが決まったのだという。ただ、この2人を主人公とすることには本家シリーズのレギュラー・キャストから異論もあったらしく、ヴィン・ディーゼルとドウェイン・ジョンソンが仲違いする原因になったとも伝えられている。本家シリーズのプロデューサーでもあるディーゼルが本作には参加せず、最新作『ワイルド・スピード/ジェットブレイク』(’21)にジョンソンが出演しなかった理由もそこにあるのかもしれない。 殺人ウィルスの脅威から世界を守れ! 舞台はイギリスのロンドン。MI6の特殊部隊がハイテク・テロ組織「エティオン」のトラックを襲撃する。正体不明の黒幕「ディレクター」が率いるエティオンは、テクノロジーで人類の未来を救うという目標を掲げており、そのために邪魔な弱者を抹殺する殺人ウィルスを開発していた。特殊部隊の使命はその殺人ウィルスを奪うことだったが、しかしそこへエティオンによって肉体改造された無敵の暗殺者ブリクストン(イドリス・エルバ)が現れ、チームは皆殺しにされてしまう。唯一生き残ったMI6工作員ハッティ(ヴァネッサ・カービー)は、ウィルスを自らの体内に注入して逃走。ところが、エティオンの情報操作によって裏切り者に仕立てられ、指名手配されることとなってしまう。 一刻も早くウィルスを回収せねば人類は存亡の危機に瀕する。合同で捜査に当たることとなったCIAとMI6は、ハッティを生け捕りにするために2人の最強エージェントに協力を要請する。元DSSのルーク・ホブスと元MI6のデッカード・ショウだ。しかしこの2人、顔を合わせればお互いに悪態をつかずにはいられない犬猿の仲。たちまち罵り合いとなり、けんか別れしてしまう。だが、実は逃亡中のハッティはデッカードの妹。真相を探るべく妹の部屋へ忍び込んだ彼は、エティオンの一味に襲撃され、ハッティが罠にはめられたことに気付く。一方、ロンドン市内の監視カメラをチェックしたホブスは、ハッティの行動を先読みして捕らえることに成功する。 CIAのロンドン・オフィスでハッティを尋問するホブス。妹を助けようと乗り込んで来るデッカード。するとそこへ、ブリクストン率いるエティオンの特殊部隊が乱入し、ハッティを連れ去ろうとする。なんとか彼女を取り戻し、激しいカーチェイスの末に逃げおおせたホブスとデッカードだったが、しかしまたもやエティオンはメディア報道を操作し、彼らをテロ計画の主犯格に仕立ててしまう。今や揃ってお尋ね者となったホブスとデッカード、ハッティの3人。ウィルスを開発したロシア人科学者アンドレイコ(エディ・マーサン)から情報を得た彼らは、ハッティの体内からウィルスを抽出して保管するための装置を略奪すべく、ウクライナにあるエティオンの秘密研究所へ忍び込もうとするのだが…!? サモアの全面対決では日本映画へのオマージュも! 『ワイルド・スピード』シリーズらしい派手なカーチェイスを交えつつも、本家とは違ったスピンオフならではの路線を摸索し、スパイアクション系のバディ物に仕上げたのは『アトミック・ブロンド』(’17)や『デッドプール2』(’18)のデヴィッド・リーチ監督。ノークレジットで『ジョン・ウィック』(’14)の共同監督を務めたのはご存知の通り。『ファイト・クラブ』(’99)や『オーシャンズ11』(’01)などでブラッド・ピットのボディダブルを担当し、『300<スリーハンドレッド>』(’07)や『ボーン・アルティメイタム』(’07)にも参加した元スタントマンだけあって、特にファイト・シーンの演出が凝っている。中でも見ものは、スプリットスクリーンを交えながら同時進行する2つのアクションを交互に見せることで、登場人物たちの個性や特徴を際立たせていく手法であろう。 例えば、ロサンゼルスのホブスとロンドンのデッカードが、それぞれ犯罪組織のアジトを襲撃する冒頭シーン。腕力と勢いでアジア系ギャングをなぎ倒していくホブスと、華麗な格闘技でクールにロシアン・マフィアを一網打尽にするデッカードの対比は、2人がまるで正反対な個性の持ち主であることを如実に表している。前者が華やかな暖色系で後者がスタイリッシュなネオンカラーと、使用されるライティングも対照的だ。しかし、よく見るとその戦術には不思議と共通するものがあり、本質的には2人が似た者同士であるということも示唆される。だからこそ、お互いのことが疎ましく感じられるのだろう。また、ハッティの部屋でエティオンの一味と戦うデッカード、裏通りで待ち伏せしていたホブスと戦うハッティの対比も、そのよく似た格闘スタイルから2人が兄妹であることがよく分かる。さらにこのシーンでは、まるでペアダンスを踊るように息の合ったホブスとハッティの戦いっぷりを通して、いずれ2人の関係が親密になるであろうことも予想させる。どちらもスタントマン出身のデヴィッド・リーチ監督だからこその、アクションがただのアクションに終わらない名シーンと言えるだろう。 そのホブスとハッティの関係性を友達以上恋人未満のままに止め、あえて余計な恋愛要素を絡めなかったクリス・モーガンの脚本も賢明だ。あくまでも本作の主軸はホブスとデッカードのちょい捻くれたブロマンス。男女の色恋はそこに水を差すことになってしまう。そもそも、ハッティはホブスやデッカードに負けないほど強くて賢い女性。3人が対等な関係を築くうえでも、恋愛要素は邪魔になるだけだ。その代わりと言ってはなんだが、本作の裏テーマ(?)と呼ぶべきなのが「ファミリーの絆」であろう。これは本家シリーズから継承された大切な要素。デッカードとハッティの母親マグダレーン(ヘレン・ミレン)も登場し、過去の誤解が原因で断ち切られた息子と娘の関係修復を願う。だが、さらに大きくフォーカスされるのはホブスのファミリー。本作では初めて彼のルーツが明かされる。 実は南太平洋の島国サモアの出身だったホブス。終盤では数十年ぶりにサモアへ戻ったホブスが家族と和解し、デッカードやハッティとも協力して宿敵ブリクストン一味との全面対決に挑む。ご存じの通り、演じるドウェイン・ジョンソン自身も国籍・出身こそアメリカだが、しかし家族のルーツはサモア。父親のロッキー・ジョンソンはアフリカ系アメリカ人だったが、しかし母方の祖父ピーター・メイビアはサモア出身の移民一世で、サモア系プロレスの名門アノアイ・ファミリーの一員でもあった伝説的なプロレスラーだ。サモアでの対決シーンでは、ホブスが敵の顔面に噛みつく場面があるのだが、実はこれが祖父へのオマージュなのだという。かつて2度に渡って来日したことのあるメイビアは、東京の居酒屋で飲んでいた際に別のレスラーと喧嘩騒ぎを起こし、相手の顔面に噛みついたことがあったらしい。この武勇伝(?)をジョンソンは本作で再現したのである。さらに、アノアイ・ファミリーの仲間で遠縁の親戚でもあるプロレスラー、ジョー・アノアイ(別名ロマン・レインズ)がホブスの弟役で登場。ロケ撮影にはジョンソンの母親も見学に訪れたらしいが、これはホブスだけでなくドウェイン・ジョンソンにとっても、自らのルーツにリスペクトを捧げる重要なストーリーラインだったと言えよう。 なお、サモアのシーンはハワイでの撮影。ホブスたちが敵を迎え撃つため、島の砂糖工場跡に罠を仕掛けるという筋書きは、デヴィッド・リーチ監督が大好きだという日本映画『十三人の刺客』(恐らく三池崇史版)へのオマージュだ。また、前半のハイライトであるロンドン市街でのカーチェイスは主にグラスゴーで撮影され、さらにロサンゼルスのユニバーサル・スタジオに組んだオープンセットでの追加撮影映像を編集で混ぜ込んでいる。リーチ監督によると、オリジナルのディレクターズ・カットは2時間40分にも及んだらしい。 果たして、邪悪なテロ組織エティオンを操るディレクターとは一体何者なのか?という大きな謎を残して終わる本作。当然ながら続編となる第2弾も予定されており、既に企画も動き出しているという。脚本にはクリス・モーガンが再登板。撮影時期や公開時期は未定だが、そもそも本家シリーズでシャーリーズ・セロンが演じた悪女サイファーが主人公のスピンオフも控えているため、どちらが先になるのか気になるところだ。■ 『ワイルド・スピード/スーパーコンボ』© 2019 UNIVERSAL CITY STUDIOS PRODUCTIONS LLLP. ALL RIGHTS RESERVED.