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COLUMN/コラム2022.03.01
メキシコの生んだ伝説の悪霊ラ・ヨローナが甦る!『ラ・ヨローナ ~泣く女~』
映画界でも脈々と受け継がれたラ・ヨローナの恐怖 日本でも大人気のホラー映画『死霊館』ユニバースの第6弾に当たる作品だが、しかしストーリー上の直接的な関連性は薄いため、厳密には単独で成立するスピンオフ映画と見做しても構わないだろう。テーマはメキシコに古くから伝わる怪談「ラ・ヨローナ(泣く女)」伝説。ラテン・アメリカ圏では広く知られた話で、過去に幾度となく映画化もされてきているが、しかし日本でちゃんと紹介されたのは、これが初めてだったのではないかとも思う。そこでまずは、「ラ・ヨローナ」の伝説とはいかなるものなのか?というところから話を始めたい。 それは昔々のこと。メキシコの小さな村に美しい女性が住んでいた。ある時、彼女は村へやって来た裕福な男性と恋に落ちて結婚し、2人の子宝にも恵まれるものの、やがて夫は別の若い女性と浮気をしてしまう。これに怒り狂った女性は、仕返しとして子供たちを川で溺死させてしまった。すぐ我に返って子供らを助けようとしたもののすでに手遅れ。深い喪失感と後悔の念に打ちひしがれた女性は、自らも川に身投げをして命を絶つ。しかし、神の罰を受けた彼女は白いドレス姿の亡霊としてこの世に甦り、我が子を探し求めて泣きながら永遠に地上を彷徨うこととなる。そして、運悪くラ・ヨローナに遭遇してしまった人間は、亡き子供たちの身代わりとして連れ去られてしまうのだ。 地域によって多少の違いはあるものの、一般的に知られているラ・ヨローナ伝説の大まかな内容は以上の通り。メキシコのみならずプエルトリコやベネズエラなど中南米各国に似たような話が存在し、昔から大人が子供を躾けるための怪談として語り継がれてきたという。「悪いことをするとラ・ヨローナにさらわれちゃうよ」と。さらに、中南米からの移民によってアメリカへも伝説は持ち込まれ、かつて1990年代にはマイアミやニューオーリンズ、シカゴなどの各地で、ホームレスの子供たちが黒い涙を流すラ・ヨローナを目撃したという噂が広がったこともあった。 ラ・ヨローナのルーツについては諸説ある。そのひとつが、古代アステカの神話に出てくる女神シワコアトル。亡き息子を探し求めて泣きながら現れる、死の予兆を感じると泣きながら現れるなどの言い伝えがあるらしいが、いずれにせよ彼女がラ・ヨローナ伝説の元になったという説が最も有力だ。また、エウリピデスのギリシャ悲劇「メディア」との類似性を見出すこともできるだろう。夫の裏切りに怒り狂った王女メディアが、復讐のため我が子を手にかけるという下りは非常によく似ている。さらに、アステカ帝国を征服したスペインの侵略者エルナン・コルテスに棄てられたインディオの愛人マリンチェが、奪い去られそうになった息子をテスココ湖のほとりで殺害し、死後に亡霊となって泣きながら地上を彷徨ったという逸話もあるそうだが、しかし彼女とコルテスの息子マルティンはスペインでちゃんと育っているので、これは裏切り者の代名詞として憎まれたマリンチェを貶めるために生まれた作り話と思われる。 そんなラ・ヨローナが初めて映画に登場したのは、メキシコで最初のホラー映画とも呼ばれる『La Llorona(泣く女)』(’33)。これはラ・ヨローナの呪いをかけられた一家の話で、ホラーというよりもミステリー仕立てのメロドラマという印象だ。続く『La Herencia de la Llorona(泣く女の遺産)』(’47)は幻の映画とされており、筆者も見たことはないのだが、推理ミステリーの要素が強かったらしい。’60年代には有名なB級映画監督ルネ・カルドナが『La Llorona(泣く女)』(’60)という作品を残しているが、しかしラ・ヨローナ映画の最高傑作として名高いのは、メキシカン・ホラーの巨匠ラファエル・バレドンの『La Maldición de la Llorona(泣く女の呪い)』(’61)であろう。ここでは黒装束に黒い眼をしたラ・ヨローナが登場。ラ・ヨローナを復活させるための生贄に選ばれた女性の恐怖を描き、マリオ・バーヴァ監督の『血ぬられた墓標』(’60)を彷彿とさせるゴシックな映像美が素晴らしい。 以降も、覆面レスラーのサントがラ・ヨローナと対決するルチャ・リブレ映画『La Venganza de la Llorona(泣く女の復讐)』(’74)、ラ・ヨローナ伝説にフェミニズムを絡めたシリアスな幽霊譚『Las Lloronas(泣く女たち)』(’04)、珍しく日本でDVD発売された『31km』(’06)、マヤ語の方言でラ・ヨローナを意味する悪霊ジョッケルが出てくる『J-ok'el』、ラ・ヨローナ伝説を子供向けにアレンジしたアニメ『La leyenda de la Llorona(ラ・ヨローナの伝説)』(’11)が登場。その中でも『Las Lloronas』は女性監督らしい視点の光る秀作だ。また、アメリカでもラ・ヨローナ伝説にエクソシストを絡めた『Spirit Hunter: La Llorona』(’05)、『死霊のはらわた』風にアレンジした『The Wailer』(’05)、スラッシャー映画仕立ての『The River: Legend of La Llorona』(’06)などが作られており、『The Wailer』と『The River: Legend of La Llorona』はシリーズ化もされている。ただ、’00年代のアメリカ版ラ・ヨローナ映画は、いずれもウルトラ・ローバジェットのインディーズ映画で、残念ながら決して出来が良いとは言えない。 ハリウッドが初めて本格的に取り組んだラ・ヨローナ映画 そして、ハリウッドのメジャー映画が初めてラ・ヨローナを取り上げたのが本作『ラ・ヨローナ~泣く女~』(’19)。冒頭でも述べたように『死霊館』ユニバースのひとつとして作られたわけだが、しかしシリーズ作品との関連性は『アナベル 死霊館の人形』(’14)のペレズ神父がサブキャラとして出てくることと、フラッシュバックで一瞬だけアナベル人形が姿を見せるくらいしかない。 映画の冒頭はオリジン・ストーリー。1673年のメキシコで、夫に浮気された女性が復讐のため2人の息子を川で溺死させ、自らも命を絶って白いドレスの悪霊ラ・ヨローナとなる。舞台は移って1973年のロサンゼルス。時代設定は『アナベル 死霊博物館』(’19)の1年後に当たる。警官の夫に先立たれた女性アンナ(リンダ・カーデリーニ)は、ソーシャルワーカーとして働きながら2人の子供を女手ひとつで育てている。ある時、アンナは担当するメキシコ系のシングルマザー、パトリシア(パトリシア・ヴェラスケス)と連絡が取れないとの報告を受け、無事を確認するため彼女の自宅へ訪問すると、物置部屋に監禁されたパトリシアの息子たちを発見する。児童虐待を疑われて逮捕されたパトリシアだが、しかし本人は子供たちを守るためだと必死になって懇願する。そして翌晩、施設に預けられていたパトリシアの子供たちが、なぜか近くの川で溺死体となって発見された。 真夜中に亡き夫の元相棒クーパー刑事(ショーン・パトリック・トーマス)から呼び出され、息子クリス(ローマン・クリストウ)と娘サマンサ(ジェイニー・リン=キンチェン)を連れて現場へ駆けつけるアンナ。大きなショックを受ける彼女に、半狂乱になったパトリシアが「あんたのせいだ」と激しく詰め寄り、子供たちはラ・ヨローナに殺されたと主張する。その頃、車で待っていたクリスとサマンサは悪霊ラ・ヨローナ(マリソル・ラミレス)に襲われるが、言っても信じては貰えまいと母親には内緒にする。それ以来、アンナの自宅では奇妙な現象が相次ぎ、やがて彼女自身もラ・ヨローナの姿を目撃。悪霊は明らかに子供たちを狙っていた。恐ろしくなったアンナは教会のペレズ神父(トニー・アルメイダ)に相談し、強力なシャーマンである呪術医ラファエル(レイモンド・クルス)を紹介してもらう。愛する我が子を守るため、ラファエルの力を借りてラ・ヨローナに立ち向かうアンナだったが…? ロサンゼルスが舞台となっているのは、ここがかつてメキシコ領だったこと、現在に至るまでメキシコ系住民の多いことが主な理由であろう。’70年代を時代設定に選んだのは、もちろん当時のオカルト映画ブームへのオマージュという意味もあろうが、同時に本作が女性の映画、母親の映画であることにも深く関係しているように思う。ウーマンリブ運動の台頭によって女性の権利向上が飛躍的に進んだ’70年代のアメリカだが、それでもまだ女性の社会的地位は決して高いとは言えず、マーティン・スコセッシ監督の『アリスの恋』(’74)など当時の映画を見ても分かる通り、シングルマザーが子育てをするには依然として厳しい社会環境だった。周囲の理解やサポートをなかなか得られないシングルマザーが、子供を守るため悪霊に立ち向かっていくという本作のストーリーにとって、そうした時代背景はとても重要な要素とも言えるだろう。 アメリカでもラテン・コミュニティの間では誰もが知る有名な怪談だったラ・ヨローナの物語。これが長編映画デビューだったマイケル・チャベス監督も、ロサンゼルスで育ったことからラ・ヨローナを知っていたそうだが、しかし一般的な知名度はそれほど高くなかった。そのため、本作はラ・ヨローナ伝説の基本へと立ち返り、その存在を初めて知る平均的なアメリカ人女性を主人公に据えることで、予備知識のない観客でも理解できるオーソドックスなオカルト映画に仕立てられている。一部を除いてCGやグリーンバックの使用をなるべく避け、アナログな特殊メイクでラ・ヨローナを描写している点も、古き良きオカルト・ホラーの雰囲気を醸し出して効果的だ。ラ・ヨローナという題材以外に目新しさはないものの、そのぶん安心して楽しめる王道的なホラー・エンターテインメントと言えよう。 なお、本作の直後にはグアテマラ内戦時代に起きた先住民の大量虐殺事件とラ・ヨローナ伝説を結び付けたグアテマラ映画『La Llorona(泣く女)』(’19)が、さらに最近ではメキシコを旅した米国人一家がラ・ヨローナに襲われる『The Legend of La Llorona』(’22)が作られている。果たして、ラテン・アメリカの生んだ永遠不滅の亡霊ラ・ヨローナは、フレディやジェイソン、キャンディマンなどに続くホラー・アイコンとなり得るだろうか…?■ 『ラ・ヨローナ 〜泣く女〜』© Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2022.02.15
製作から30年余。ホラーのジャンルを超え、アメリカ映画史に輝く“マスターピース”『羊たちの沈黙』
アメリカでは、オスカー狙いの作品というのは、秋から冬に掛けて公開されるのが、通常のパターンである。春頃の公開だと、その作品がどんなに素晴らしい出来栄えであっても、翌年投票する頃には、投票権を持つアカデミーの会員たちに忘れられてしまう。 本作『羊たちの沈黙』は、1991年2月にアメリカで公開。それに拘わらず、公開から1年以上経った92年3月開催の「第64回アカデミー賞」で、作品賞、監督賞、脚色賞、主演男優賞、主演女優賞の、文字通りド真ん中の主要5部門を搔っ攫った。 この5部門を受賞した作品というのは、アカデミー賞の長い歴史の中でも、『或る夜の出来事』(34)『カッコーの巣の上で』(75)と本作の3本しかない。本作は、“ホラー”というジャンルで作品賞を受賞した、唯一の作品としても知られる。 アカデミー賞で栄冠を得ても、時の経過と共に忘れられてしまう作品も珍しくはない。しかし本作は、公開から20年後=2011年、「文化的に、歴史的にも、美的にも」重要であると、アメリカ議会図書館が宣言。アメリカ国立フィルム登録簿に登録・保存されることとなった。 製作から30年経った今では、クラシックの1本とも言える本作。その原作は、トマス・ハリスの筆による。 ハリスは若き日、テキサス州のベイラ―大学で英語学を専攻しながら、地元紙に犯罪記事を提供して身を立てていた。次いでAP通信のニューヨーク支社へと移り、国際報道にも携わったという。 そんな記者時代の体験と得た知識を基に、75年に処女作として「ブラック・サンデー」を発表した。アメリカ国内で大規模なテロを引き起こそうとするパレスチナゲリラのメンバーと、イスラエルの諜報員の対決を描いたこのサスペンススリラー小説は、そのアクチュアルさも評判となって、77年にはジョン・フランケンハイマー監督によって映画化。ヒットを飛ばした。 ハリスの次の小説、81年刊行の「レッド・ドラゴン」で初お目見えしたキャラクターが、ハンニバル・レクター博士。好評につき彼が再登場するのが、88年に書かれた、ハリスにとって3作目となる、本作の原作である。 ***** FBIアカデミーの女性訓練生クラリス・スターリング。ある日行動科学課のクロフォード捜査官に呼び出され、異例の任務を命じられる。 それは元精神科医ながら、自らの患者9人を手に掛けたため、逮捕・収監されている、レクター博士との面会。レクターは犠牲者の身体の一部を食していたことから、“人喰いハンニバル”との異名を取っていた。 クロフォードの狙いは、世間を騒がせている凶悪犯“バッファロー・ビル”の正体を突き止めること。若く大柄な女性を誘拐しては、殺害後に皮を剥いで遺棄する手口のこのシリアルキラーについて、稀代の連続殺人犯で高い知能を持つレクターから助言を得るために、クラリスを差し向けたのだった。 当初は協力を拒んだレクター。しかし彼は、クラリスが、自らのトラウマとなった過去の出来事を明かすことと引き換えに、“バッファロー・ビル”についての手がかりを、少しずつ示唆するようになる。 しかし上院議員の娘が“ビル”に誘拐されると、レクターの収監先の精神病院の院長チルトンが、出世欲に駆られてFBIを出し抜く。チルトンの主導で、上院議員との面会のために移送されたレクターは、隙を突いて警備の警察官らを惨殺。姿を消す。 一方、レクターから得たヒントによって、犠牲者の足跡を追ったクラリスは、遂に犯人の正体に辿り着く。“ビル”と直接対決することとなった、クラリスの運命は?そして、レクターの行方は? ***** テッド・タリーの脚本は、原作に準拠しながらも、物語の省略を効果的に行った上で、登場人物たちの奥行きを保っている。この脚本を当初監督する予定だったのは、俳優のジーン・ハックマン。実はタリーを脚本に推したのも、ハックマンだったという。 しかし、監督と同時にクロフォード捜査官を演じる予定だったハックマンは、出来上がった脚本が「あまりにも暴力的」という理由で、降板する。そこで白羽の矢がたったのが、それまでのキャリアでは、ロジャー・コーマン門下のB級作品を経てコメディ調の作品が多かった、ジョナサン・デミだった。 デミは“シリアルキラー”の映画を作ることには、「…反発さえも感じていた…」。しかし原作本を読んで、キャラクターや物語に惹かれて、この話を引き受けることに。 特に彼が興味を持ったのは、ヒロインの描写。それまでの作品でも、女性を主人公にすることを好んできたデミとしては、クラリスとの出会いは、運命的と言えた。 デミは以前に『愛されちゃって、マフィア』(88/日本では劇場未公開)で組んだミシェル・ファイファーに、まずはオファーした。しかしファイファーは題材の強烈さに難色を示し、その依頼を断った。 続いてデミがアプローチしたのが、ジョディ・フォスターだった。 幼き頃から名子役と謳われた、ジョディ。10代前半にはマーティン・スコセッシ監督の『タクシードライバー』(76)の少女娼婦役で、アカデミー賞助演女優賞にノミネートされている。 イェール大学在学中には、彼女のストーカーによって、時のレーガン大統領の暗殺未遂事件が起こる。キャリアの危機を迎えたジョディだったが、その難局を見事に切り抜け、20代後半を迎えた頃、レイプを告発する女性を演じた『告発の行方』(88)で、待望の主演女優賞のオスカーを手にした。 デミは「どこにでも居そうな普通の女性が、危機に対して雄々しく立ち向かう。『告発の行方』でレイプ犯に毅然と立ち向かったジョディには、クラリス役が要求する“気丈さ”が百パーセント備わっていた」と、その起用の理由を説明している。 それを受けたジョディは、クラリス役をどう解釈したか?少女の頃に警察官だった父親が殉職したという彼女の設定を捉えて、「…悲劇的な欠点を持つがゆえにヒーローとなり、自分の醜さと向き合いながら、犯罪を解明していく…」と語っている。また本作のキャンペーンのため来日した際にはクラリスを、「…アメリカ映画において画期的な存在…」「おそらく、本当の意味で女性ヒーローが現れたのは、これが初めてではないでしょうか…」と、重ねて強調している。 そうしたジョディをこの映画で輝かしたのは、クローズアップで芝居どころをきっちりと見せたデミの演出に加えて、共演者たちの力も大きい。ハックマン降板を受けてクロフォード役を演じたスコット・グレンは、実際に役のモデルとなったFBI捜査官ジョン・ダグラスに付いて、役作りに当たった。ある時期まで男臭い持ち味を売りにしていたグレンだが、『レッド・オクトーバーを追え!』(90)の原子力潜水艦艦長役に続いて本作では、理知的且つ冷静な役どころがハマった。 しかし何と言っても圧巻だったのは、やはりアンソニー・ホプキンス! 本作に登場するシリアル・キラー、“バッファロー・ビル”とハンニバル・レクターは、世界各地に実在した様々な連続殺人犯を融合させて、トマス・ハリスが創造したもの。獄中に居ながら捜査に協力するという、レクターの設定は、少なくとも30人の若い女性や少女に性的暴行を加えて殺害した、頭脳明晰な殺人者テッド・バンディのエピソードにヒントを得た。 またレクターのキャラクターには、ハリスが若き日に、メキシコの刑務所を取材した際の経験が強く反映されている。その時ハリスは、落ち着いた物腰の、人当たりの良い知的な紳士の応対を受け、すっかり気に入った。しかし別れの挨拶を交わすまで、ハリスが刑務所医だと思い込んでいたその男は、実は医学の知識を利用して、殺した相手の死体を小さな箱に収めた、元外科医の服役囚だったのである。 ローレンス・オリヴィエなどの伝統を継ぐ英国俳優で、いわゆる“メソッド俳優”とは一線を画すアンソニー・ホプキンス。ショーン・コネリーが断った後に、本作のレクター役が回ってきた。 ホプキンスは、「他の俳優なら、実際の精神病院へ何か月も通ってリサーチするものも居ようが、私は演技することにそんな必要があると思わない…」と語る。レクター博士を演じるに当たっては、「役柄にイマジネーションをめぐらせたことぐらい…」しかやらなかったという。 例えばレクターを怖く見せるために、ホプキンスが考えた表現は、「まばたきをしないこと」。これは彼がロンドンに住んでいた時、道端でおかしな行動をしている男性と遭遇し、「かなり怖い」思いをした際、その男性がまばたきをしていなかったことから、インスピレーションを得たという。 またクラリスとレクターの最初の対面シーンでは、見事な即興演技で、ジョディの感情を揺るがした。クラリスが身に付けたものなどから、レクターが、彼女が田舎の貧しい出身であることを見破るこのシーン。それを指摘した後レクターは、彼女が隠していた訛りを、そっくりそのままマネしてみせる。実はこの訛りの部分は、ホプキンスによる、まったくのアドリブだった。 それを受けたジョディは、目に涙が浮かび、「…あいつを引っぱたいてやりたい…」と本気で思ったという。そしてクラリスと、演じる自分の境界が、すっかりわからなくなったと、後に述懐している。 ジョディはホプキンスに対して、「あなたの演技のせいで、あなたが怖かった」などとも発言している。 ジョディとホプキンス。まさにプロvsプロの対峙によって生まれた化学反応が、ジョディには2度目、ホプキンスには初のアカデミー賞をもたらした。 特にホプキンスは、本作での出演時間は、僅か12分間。それにも拘わらず、ウォーレン・ベイティ、ロバート・デ・ニーロ、ニック・ノルティ、ロビン・ウィリアムズといった強力なライバルたちを打ち破って主演男優賞のオスカーが贈られたのも、至極納得と言える。 それまで主演作はあれども、映画では地味な演技派俳優の印象が強かったホプキンスだったが、50代に出演した本作以降、名優としての評価は確固たるものとなる。レクター博士は当たり役となり、本作の後日譚『ハンニバル』(01)、前日譚の『レッド・ドラゴン』(02)で、三度演じている。 また80歳を越えて認知症の老人を演じた『ファーザー』(10)では、29年振り2度目となるアカデミー賞主演男優賞に、史上最年長で輝いた。彼の長い俳優生活でも、本作出演は今日に至る意味で、重要なリスタートだったと言えるだろう。 この作品でアカデミー賞監督賞を得たジョナサン・デミは、2017年に73歳で亡くなる。本作後も様々な作品を手掛けて、高い評価を得ているものの、そのフィルモグラフィーを振り返ると、やはり第一に『羊たちの沈黙』が挙がってしまう。 本人としてそれが本意か不本意かは、もはや知る由もないが、“サイコサスペンス”という枠組みを確立し、後に続く多くの作品に影響を与えた本作は、デミ、ジョディ、ホプキンスの名と共に、アメリカ映画史に燦然と輝いている。■ 『羊たちの沈黙』THE SILENCE OF THE LAMBS © 1991 ORION PICTURES CORPORATION. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2022.02.08
韓国映画史に輝く『下女』に敢然と挑んだリメイク作品『ハウスメイド』
韓国映画史を紐解くと、必ずタイトルが挙がる作品のひとつに、キム・ギヨン監督(1919~98)の『下女』(1960)がある。 主人公は、紡績工場の女性工員向けに設けられた夜間学校で、音楽を教えている中年男。平穏な日常を送っていた彼だが、行員の1人から恋文を送られたことが発端となって、徐々に日々が粟立っていく。 男の家庭は、妻と子ども2人との4人家族。住居を増築するのに、音楽教師の給料だけでは足らず、妻が内職をしている。 しかし妻が過労で倒れたため、家事を任せる“下女”として、若い娘を雇い入れる。ある時彼女に誘惑された男は、気の迷いから関係を持ってしまう。 そこから男と、その家族の“地獄”が始まる…。 都市部の保守的な中産階級の一家が、“下女”によって、破滅へと追い込まれていく。“階級”や“格差”が、1人の女の魔性によってひっくり返されていく様を、ギヨンは、アバンギャルドにして精緻な画面設計で描き出した。 この作品をはじめ、60~70年代はヒットメーカーとして鳴らしたギヨンだったが、80年代中盤以降はなかなか新作が撮れず、完成してもお蔵入りになったりした。ところが90年代半ばからパリ、香港、東京といった国外で『下女』が上映され、絶賛されたことがきっかけで再評価が進み、97年には本国でも、「釜山映画祭」でレトロスペクティヴが組まれるに至った。 翌98年ギヨンは、回顧展が行われる「ベルリン映画祭」へと旅立つ前夜に、自宅の火災で不幸な最期を遂げる。しかし死後も、国内外でその声価は高まっていく。 2008年にはマーティン・スコセッシが主宰する財団と韓国映画資料院が組んで、『下女』のデジタル修復版を完成。「カンヌ映画祭」でお披露目するに至った。 ポン・ジュノやパク・チャヌクといった、現代韓国映画のリーダーたちに与えた影響も大きい。特に近年、ポン・ジュノの『パラサイト 半地下の家族』(19)が、「カンヌ」のパルムドールに続いて、米「アカデミー賞」の作品賞や監督賞などを受賞するという、国際的な快挙を成し遂げた際には、改めて『下女』にスポットが当たった。『下女』と『パラサイト』両作を観ればわかるが、豊かな家庭を下層の者が侵食するという物語の構図や、展開の中で“階段落ち”が効果的に用いられているところなど、明らかな共通点が見出せる。事実『パラサイト』製作に当たっては、キム・ギヨンから最も大きなインスピレーションを受けたことを、ポン・ジュノ本人が明かしている。 また「アカデミー賞」で言えば、昨年『ミナリ』(20)でユン・ヨジョンが韓国人俳優として初めて栄冠(助演女優賞)に輝いた時のスピーチも、印象深い。ヨジョンはこの晴れの舞台で、自らの映画デビュー作の監督だったギヨンを「天才的な監督」と賞賛し、感謝の意を表したのである。 死して尚、「韓国映画史上の怪物」と称えられるキム・ギヨン。その代表作『下女』は、ギヨン自らが『火女』(71)『火女'82』(82)とタイトルを変えながら、2度に渡ってリメイクしている。 他者によるリメイクは、オリジナル公開からちょうど半世紀経った2010年に、初めて製作された。それが本作、『ハウスメイド』である。『ハウスメイド』のプロデューサーであるジェイソン・チェは、元記者。レトロスペクティヴが開催された97年の「釜山」で、ギヨンと出会った。 翌98年には、「ベルリン」を皮切りにスタートするギヨンの回顧展のヨーロッパツアーを、チェは共に回る予定だった。しかし先に記した通り、ギヨンはその直前に、不慮の死を遂げてしまう。 その後映画界入りしたチェは、『下女』の50周年記念プロジェクトを、立ち上げ。オリジナル版のリバイバル上映と、リメイクである本作の製作に取り組むこととなった。 本作監督に起用されたのは、『浮気な家族』(03)『ユゴ 大統領有故』(05)などで高い評価を得ていた、イム・サンス。「脚本と演出は自由にさせてくれる」という条件で、このプロジェクトを引き受けた。韓国映画史に残る『下女』を、「超えてみたい」という抱負を持って本作に取り組んだというサンスだが、それを口にしたため、韓国では「生意気だ」と非難を受けたという。 それではサンス版『下女』である『ハウスメイド』は、ギヨンの『下女』をどのように踏まえ、そしていかに「自由に」アレンジを行ったのだろうか?そしてオリジナルの出来に、どこまで迫ることができたのか? 旧作から引き継いだ点として、まず挙げられるのは、「韓国社会の階級問題を正面から描く」ということ。ただ、朝鮮戦争休戦から7年しか経ってない1960年と、『ハウスメイド』が製作された2010年とでは、社会の事情が全く違っている。 オリジナルは、中産階級の家庭で“下女”が働くストーリー。それに対して半世紀を経た、リメイク版の製作時には、“下女”即ち住み込みのメイドを雇えるのは、「韓国全体の1%くらいの富裕層の人たちだけ」になっていた。新自由主義経済によって、中産階級が崩壊していたのである。 監督は、こうした富裕層こそ、現代の韓国社会の重要なカギを握っていると考え、そこを描くことを重視。そのため主人公も、一家の主の男性ではなく、“下女=メイド”の側とした。社会的に下層にいる彼女が富裕層の生態をウォッチする内に、その傲慢さに傷つけられていく物語にしたのである。 ***** 上流階級の豪邸で、ウニはメイドとして働くことになった。 一家の主は、礼儀正しく穏やかな物腰のフン。その妻ヘラは、現在双子を妊娠中で、大きなお腹を抱えていた。2人の間の6歳の娘ナミは、すぐにウニに懐く。 この家に長年仕える先輩メイドのビョンシクの指導の下、懸命に働くウニ。しかし、一家のお伴で付き添った別荘で、主のフンと男女の仲になってしまったことから、歯車が軋み始める。 邸宅に帰ってからも関係を持つも、翌朝フンから呆気なく手切れ金を渡されて、ウニは深く傷つく。しかしそのまま、働き続けるしかない。 数週間後、ウニが妊娠していることを、本人も気付かない内に、ビョンシクが感づく。その話はやがてヘラまで届き、ウニは憎しみの対象となった。 邸宅を離れ、ひとりで子どもを産もうと考えたウニ。しかし一家はそれを許さず、やがて彼女の身に悲劇がもたらされる。 ウニは「復讐」を宣言する。徒手空拳の彼女が取ったのは、あまりにも苛烈で悲しい手段だった…。 ***** ウニを演じたのは、当時30代後半のチョン・ドヨン。デビュー以来着実にキャリアを積み、2007年にはイ・チャンドン監督の『シークレット・サンシャイン』での演技が高く評価されて、「カンヌ」で女優賞に輝いた。本作主演の頃には、名実ともに韓国のNo.1女優と言えた。 ウニの主人夫婦を演じたのは、イ・ジョンジェとソウ。オリジナル『下女』の夫婦が、小市民的な体面を守ろうとしたことも手伝い、破滅への道へと進んでいくのと違って、こちらのカップルは、傲岸不遜な上流階級を体現。“下女”を踏みにじることに、何ら痛痒を感じない。 ウニの様子を主人たちに注進するかと思えば、遂には彼女に同情するようになる先輩メイドのビョンシク役は、後のオスカー女優ユン・ヨジョン。先にギヨン監督の作品でスクリーンデビューを飾ったと記したが、その作品とは、実は『火女』。ギヨン自らが『下女』をリメイクした2本の内の1本の主演女優だったのである。 イム・サンス作品の常連でもあったヨジョンが、新たなる“下女”の先輩役を演じているのは、意味深且つ巧みなキャスティングと言える。そして彼女は、見事にその期待に応えて、画面を引き締める。 プロデューサーのジェイソン・チョは、『ハウスメイド』製作に至る道程で、『下女』のリメイクを、「自分たちにやり遂げる力と資質があるか」思い悩んだという。しかしサンス監督の下、韓国映画界きっての実力派キャスティングが決まっていって、「よし、闘ってやろうじゃないか!」と決意が固まった。 そうして出来上がった『ハウスメイド』は、監督の願い通り、オリジナルの『下女』を超えられたのか?それは観る方々の判断に任せたいが、2010年の韓国社会の問題を抉る作品になっていたことだけは、間違いない。 イム・サンスは本作の後、『蜜の味~テイスト オブ マネー』(02)を監督した。やはり上流階級の腐敗を描いたこちらの作品は、『ハウスメイド』の“精神的続編”と言える。『ハウスメイド』でウニが取った「復讐」とは、自分に懐いていたナミの心に消し難いトラウマを残すことだった。そして『蜜の味』には、大人になったナミが登場し、幼き日に目撃したその「復讐」について語る。『ハウスメイド』と合わせて、オリジナルの『下女』、そして『蜜の味』もご覧いただきたい。韓国社会の変化や韓国映画の歴史など、色々味わい深く感じられると思う。■ 『ハウスメイド』© 2010 MIROVISION Inc. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2022.02.03
大西部を舞台に復讐と贖罪を描くサム・ペキンパー監督の映画デビュー作『荒野のガンマン』
テレビ西部劇をステップに映画進出したペキンパー バイオレンス映画の巨匠サム・ペキンパー監督の処女作である。もともと’40年代末にテレビ業界でキャリアをスタートしたペキンパー。ロサンゼルスのローカル局で裏方スタッフとして働きながら映画界でのチャンスを狙っていた彼は、やがて『第十一号監房の暴動』(’54)や『地獄の掟』(’54)などドン・シーゲル監督作品のダイアログ・コーチに起用され、そのシーゲル監督の推薦で『ガンスモーク』や『西部のパラディン』などテレビ西部劇の脚本家となる。その『ガンスモーク』のために書いて却下された脚本が元となって、人気シリーズ『ライフルマン』(‘58~’63)が誕生。同作でエピソード監督も経験した彼は、自らクリエイターを務めた西部劇シリーズ『遥かなる西部』(‘59~’60)の脚本と監督を手掛ける。 だが、この『遥かなる西部』は高い評価を受けたわりに視聴率が伸びず、たったの13話でキャンセルされてしまった。その後、同作で主演を務めた俳優ブライアン・キースが低予算の西部劇映画に出演が決まり、『遥かなる西部』で組んだペキンパーを監督としてプロデューサーに推薦する。それが待望の映画監督デビュー作となった『荒野のガンマン』というわけだ。 舞台は19世紀後半のテキサス。元北軍将校の流れ者イエローレッグ(ブライアン・キース)は、かつて南軍兵士にナイフで頭の皮を剥がされそうになり、その際に出来た額の大きな傷跡を隠すため常に帽子を被っていた。必ずやあの男を探し出して復讐してやる。それだけを生き甲斐に西部を転々としてきた彼は、たまたま立ち寄った酒場でついに宿敵ターク(チル・ウィルス)と遭遇する。どうやら、向こうはこちらの顔を全く覚えていないようだ。タークにはビリー(スティーヴ・コクラン)という相棒がいた。「ヒーラの町に新しく銀行が出来た。保安官は老いぼれだから楽に稼げる」と言って、ビリーとタークを銀行強盗に誘うイエローレッグ。もちろん、憎きタークを陥れるための策略だ。 賑やかな町ヒーラへ到着し、銀行周辺の様子を探る3人。そんな彼らが見かけたのは、町の人々から後ろ指を指される美しい踊り子キット(モーリン・オハラ)とその幼い息子ミード(ビリー・ヴォーン)だった。結婚したばかりの夫を旅の途中でアパッチ族に殺され、ひとり辿り着いたヒーラで息子を出産したキット。だが、偏見にまみれた住民たちはキットが父親の分からない子供を産んだと決めつけ、普段から親子に冷たい眼差しを向けていたのだ。すると、突然銀行の周辺で銃声が鳴り響く。別のならず者たちが先に強盗を働いたのだ。逃げようとする犯人に拳銃を向けるイエローレッグ。ところが、手元が狂ってミードを射殺してしまう。実は戦争で受けた銃弾のせいで、イエローレッグは右肩を痛めていたのだ。 最愛の息子を失って悲嘆にくれるキット。町長や牧師たちはミードの葬儀と埋葬を申し出るが、しかし彼女は毅然とした態度で頑なに断る。これまで町の人々にどれだけ傷つけられてきたことか。今さら同情などされたくない。亡き夫が眠るシリンゴの町へ行き、息子を父親の墓の隣に埋葬しよう。そう決意したキットだったが、しかし廃墟と化したシリンゴはアパッチ族の領地にある。道中は非常に危険だ。それでも旅の支度を済ませて出かけようとするキットに、罪の意識を感じたイエローレッグが護衛として同行を申し出る。そんな彼にありったけの憎しみをぶつけて拒絶し、ひとりで出発してしまうキット。どうしても放っておけないイエローレッグは、反対するビリーやタークを連れて彼女の後を追いかける…。 実は脚本に手を加えることすら許されなかった…!? もともと主演女優モーリン・オハラのスター映画として企画された本作。『我が谷は緑なりき』(’41)や『リオ・グランデの砦』(’50)、『静かなる男』(’52)などジョン・フォード映画のヒロインとして活躍したオハラだが、中でも当時はジョン・ウェインと共演した西部劇の数々で世界中の映画ファンに愛されていた。意志が強くて誇り高い踊り子キット役は、鉄火肌の赤毛女優として気丈なヒロイン像を演じ続けたオハラにはうってつけ。ストーリーを牽引していくのは流れ者イエローレッグだが、しかし後述する作品のテーマを担うのは、間違いなくオハラの演じる女性キットだ。 そんな本作のプロデュースを手掛けたのが、オハラの実弟であるチャールズ・B・フィッツシモンズ。たまたま読んだ30ページほどの草稿を気に入り、すぐさま脚本エージェントに問い合わせたフィッツシモンズだったが、当時は既にマーロン・ブランドが映画化権を押さえていたらしい。しかしその1年後、ブランドが別の企画を選んだことからフィッツシモンズが権利を入手。姉モーリン・オハラの主演を念頭に置いて、プロジェクトの陣頭指揮を執ることになる。シド・フライシュマンの書いた脚本も、基本的にはフィッツシモンズの意向を汲んだもの。完成した脚本を基にしてフライシュマンに小説版を執筆させ、映画への出資金を集めやすくするため先に出版させたのもフィッツシモンズの指示だし、ジョン・ウェインに雰囲気が似ているという理由でブライアン・キースをイエローレッグ役に起用したのもフィッツシモンズの判断だった。要するに、本作は紛うごとなき「プロデューサーの映画」だったのである。 そう考えると、本作が「サム・ペキンパーらしからぬ映画」と呼ばれるのも無理はないだろう。実際、ロケハンの時点から自分のカラーを出そうという姿勢を見せるペキンパーに対し、フィッツシモンズは脚本の改変も独自の解釈も一切許さなかった。脚本に書かれた通り忠実に映像化すること。それがペキンパーに与えられた役割だったのである。しかも、これが初めての長編劇映画であるペキンパーは現場に不慣れだったため、撮影中はずっとフィッツシモンズが付きっきりで演出に口を挟んだらしい。なにしろ、製作費50万ドルと予算が少ないため、撮影スケジュールを伸ばすわけにはいかない。当然ながら、根っからの反逆児であるペキンパーとフィッツシモンズは対立し、現場では喧嘩が絶えなかったという。 それでもなお、どこかマカロニ・ウエスタンにも通じるドライな映像美や荒々しい暴力描写、憎悪や復讐という人間心理のダークサイドを掘り下げたストーリーには、もちろん当時の修正主義西部劇という大きな潮流の影響もあるだろうとはいえ、その後のサム・ペキンパー映画を予感させるものを見出すことは可能だろう。中でも、銀行から奪った金で黒人奴隷や先住民を買い揃えて軍隊を作り、南部連合の夢よ今一度とばかりに自分だけの共和国を建設するという妄想に取りつかれたタークは、いかにもペキンパーが好みそうな狂人キャラのように思える。そういう意味で、本作の監督にペキンパーを推したブライアン・キースは間違っていなかった。 ただ、映画そのもののテーマは非常に道徳的で、なおかつ宗教的でもある。復讐だけを心の拠り所にしてきたイエローレッグは、それゆえに子供殺しという取り返しのつかない罪を犯してしまう。キットを危険から守るためのシリンゴ行きは、彼にとっていわば贖罪の旅だ。その過程で我が身を振り返った彼は復讐の虚しさを噛みしめ、キットとの愛情に人生の新たな意味を見出していく。一方のキットもまた、世の中の理不尽に対して怒りや憎しみを抱き続けていたが、しかし己の罪と真摯に向き合おうとするイエローレッグの姿に心動かされ、やがて深い愛情と寛容の心で荒み切った彼の魂を救うことになる。新約聖書でいうところの「復讐するは我にあり」。つまり、復讐というのは神の役目であって人間のすべきことではない。悪に対して悪で報いるのではなく、善き行いによって悪を克服すべきである。それこそが本作の言わんとするところであろう。 結局、ペキンパー本人にとっては少なからず不本意な映画となった『荒野のガンマン』。インディペンデント映画であったため劇場公開時はあまり話題にならず、興行的にも制作陣が期待したような結果を残すことが出来なかった。これを教訓とした彼は、脚本に手を加えることが許されないような仕事は一切引き受けないと心に誓ったという。とはいえ、そこかしこに「バイオレンスの巨匠」の片鱗を垣間見ることが出来るのも確かであり、映画監督サム・ペキンパーの原点として見逃せない作品だ。■ 『荒野のガンマン』© 1996 LAKESHORE INTERNATIONAL CORP. ALL RIGHTS RESERVED
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COLUMN/コラム2022.02.03
シリアルキラーの脳内世界をポップに描いたシュールなブラック・コメディ『ハッピーボイス・キラー』
監督は傑作『ペルセポリス』のマルジャン・サトラピ シリアルキラーの深層心理へと観客を誘い、その目から見える世界をポップ&ユーモラスに描いたシュールなブラック・コメディ。フリッツ・ラング監督の『M』(’31)を筆頭に、アルフレッド・ヒッチコック監督の『サイコ』(’60)からファティ・アキン監督の『屋根裏の殺人鬼フリッツ・ホンカ』(’19)に至るまで、シリアルキラーを主人公にした映画は古今東西少なくないものの、しかし精神を病んでしまった連続殺人鬼の人間的な内側にこれほど寄り添った作品はなかなか珍しいかもしれない。 演出を手掛けたのはイラン出身のマルジャン・サトラピ。そう、あの傑作アニメ『ペルセポリス』(’07)で有名な女性監督である。近代化と経済成長に沸く’70年代のイランに育ち、裕福でリベラルな両親から西欧的な教育を受けたサトラピだったが、しかし10歳の時にイスラム教の伝統的な価値観への回帰を目指すイラン革命が勃発。それまで比較的自由だった女性の権利も著しく抑圧されてしまう。娘の将来を案じた両親によってヨーロッパへ送り出された彼女は、フランスの美術学校でイラストレーションを学んだ後、パリを拠点にバンドデシネ(フランスの漫画)作家として活動するように。そんな彼女が、自らの少女時代をモデルに描いた漫画が『ペルセポリス』だった。アメリカをはじめ世界中でベストセラーとなった同作を、サトラピ自身が監督したアニメ版『ペルセポリス』もカンヌ国際映画祭で審査員賞を獲得し、アカデミー賞の長編アニメ部門にもノミネート。以降、バンドデシネ作家としてだけでなく映画監督としてもコンスタントに作品を発表した彼女にとって、初めてアメリカ資本で撮った英語作品がこの『ハッピーボイス・キラー』(’14)だった。 舞台はアメリカ北東部の寂れた田舎町ミルトン。地元のバスタブ工場で働く男性ジェリー(ライアン・レイノルズ)は、一見したところごく普通の明るくて爽やかな好青年なのだが、しかし実は少年時代の悲惨なトラウマが原因で長いこと心の病を患っていた。裁判所の命令によって精神科医ウォーレン博士(ジャッキー・ウィーヴァー)の監督下に置かれた彼は、廃墟となったボーリング場の2階に部屋を借り、社会人としての自立を目指していたのである。 そんな彼の同居人が愛犬ボスコと愛猫Mr.ウィスカーズ。仕事から帰ったジェリーを出迎えた彼らは、なんと人間の言葉でペラペラとしゃべり始める。というのも、ジェリーはウォーレン博士から処方された薬を飲まず、言ってみれば常にナチュラルハイの状態だったのだ。いつも妙に明るくて元気でテンションが高いのも、普段から薬を服用していないため。確かに薬を飲めば精神は安定するものの、しかし冷静になって見えてくる現実世界は孤独で殺伐としていて寂しい。それをどうしても受け入れがたいジェリーは、動物たちとおしゃべりできるパステルカラーに彩られたキラキラな自分だけの世界に居心地の良さを見出していたのだ。 ある日、職場で年に1度のパーティが開かれることとなり、その準備を手伝うことになったジェリーは、経理部に勤めるイギリス人女性フィオナ(ジェマ・アータートン)に一目惚れしてしまう。まるで初めて恋をした少年のように浮足立ち、困惑するフィオナに猛アタックするジェリー。はた目から見ればちょっとヤバい人だが、もちろん本人にその自覚は全くない。それどころか、遠回しに断ろうとするフィオナの言葉もまるで耳に入らず、一方的にデートの約束を取り付けてしまう。しかし、その日は経理部の女子会。悪い人じゃないかもしれないけど、あまり気乗りしないなあ…ということで、フィオナはジェリーとのデートをすっぽかしてしまう。 女子会を終えて帰ろうとしたフィオナだが、肝心の車が故障して動かない。困っていたところへ通りがかったのがジェリーの車だった。少々気まずいけれど仕方ない。ジェリーに家まで送ってもらうことにしたフィオナだったが、しかしその途中で飛び出してきた鹿と車が衝突。「この痛みから解放してくれ…」という鹿の声が聞こえたジェリーは、取り出したナイフで鹿の喉を掻っ切る。周囲に飛び散る鮮血。パニックを起こしたフィオナは近くの森へと逃げ、それを追いかけたジェリーはうっかり転倒して彼女を刺し殺してしまう。慌てて自宅へ戻ったジェリーに「警察へ通報するべきだ」と諭す愛犬ボスコ、反対に隠蔽しろと囁く愛猫Mr.ウィスカーズ。フィオナの遺体を回収してバラバラにしたジェリーは、生首だけを冷蔵庫の中に保存する。すると、今度はフィオナの生首がしゃべり出し、「ひとりじゃ寂しい」と懇願。かくして、ジェリーはフィオナの生首友達を集めるため、経理部のリサ(アナ・ケンドリック)やアリソン(エラ・スミス)を次々と手にかけていく…。 ライアン・レイノルズの起用も大正解! なんとも奇想天外かつブッ飛んだ映画である。’50年代風のレトロでカラフルでクリーンな田舎町、人間の言葉を喋るキュートな動物たち、思わず胸を躍らせる軽やかな音楽。まるでスタンリー・ドーネン監督のMGMミュージカル映画のようであり、はたまたヒュー・ロフティング原作の『ドリトル先生不思議な旅』(’67)のようでもある。だが、それはあくまでも精神病を患った主人公ジェリーの目から見える虚構の世界。ひとたび精神安定薬を服用して落ち着くと、明るくて整理整頓された小ぎれいな部屋は暗くて薄汚いゴミ屋敷へ、愛犬や愛猫は人間の言葉など理解しない普通のペットへ、おしゃべりな生首も腐敗臭が漂う腐乱死体へと戻ってしまう。この日常と非日常の極端な対比を、様々な映像スタイルを用いながら織り交ぜることで、現実と空想が複雑に交錯したジェリーの心象世界を鮮やかに再現していく。さすがはコミック作家出身のサトラピ監督らしい、的確で洗練されたビジュアルセンスだ。 脚本を書いたのは『LAW & ORDER:性犯罪特捜班』や『堕ちた弁護士-ニック・フォーリンー』、『オルタード・カーボン』など、テレビの犯罪ドラマやミステリードラマで知られる脚本家マイケル・R・ペリー。とある番組で監修を務めるFBI行動分析官と知り合ったペリーは、「連続殺人犯の行動が不明瞭だった場合はどうするのか?」と素朴な疑問を投げかけたところ、「犯人が見ている世界を映画のように想像する」との答えが帰って来たという。ぜひその映画を見てみたい!と思ったのが、この脚本を執筆するきっかけだったそうだ。 2009年には映画化されていない優れた脚本を評価する「ブラックリスト」の年次リストに選ばれた本作。同じ年には『ソーシャル・ネットワーク』(’10)や『英国王のスピーチ』(’10)、『ウォール・ストリート』(’10)などもランキングされたが、しかし本作はなかなか映画化が決まらなかった。その理由は、一歩間違えると不謹慎になりかねない題材にあったようだ。なにしろ、シリアルキラーや血生臭い殺人をポップなノリで軽妙洒脱に描くわけだから。実際、オファーを受けたサトラピ監督も最初に脚本を読んでビックリし、主人公ジェリーに観客が共感を抱くにはどうすればいいのか悩んだという。 そこで監督が撮った手段が、ジェリーを子供のまま成長が止まった青年として最後まで愛らしく描くこと。幼い頃に乱暴な父親から虐待を受け、母親の自殺を幇助したことで心に深い傷を負った彼は、そこから大人になることを拒否してしまったのだ。だからこそ厳しい現実世界に向き合うことが出来ず、キラキラとしたバラ色の空想世界に逃避している。いつまでも無邪気で無垢な少年なのだ。だが、そんな彼の中には善と悪が常に拮抗し、しゃべる動物や生首を通して自分自身に語りかける。ジェリー自身は善き人間として社会に溶け込みたい。だから滑稽なくらい一生懸命に明るく振る舞い、仕事に恋愛に前向きに取り組んでいくわけだが、しかし見えている世界が違うために現実とのズレが生じ、やがて苦悩と葛藤の中で内なる悪魔が囁きかけていく。可笑しくもやがて恐ろしく哀しきかな。シリアルキラーを単なる異常なサイコパスとしてではなく、あなたも私も人生の歯車が狂えばそう成り得る平凡な人間として描いているところは白眉だ。 『ブレアウィッチ・プロジェクト』が怖すぎて、冒頭6分で脱落したというくらいホラー映画が苦手だというサトラピ監督。まるでウェス・アンダーソンがサイコパスの頭の中を解析したような本作の演出には、むしろ適任だったかもしれない。それでも、人殺しは忌避すべき邪悪なものとして、決して美化することなく描いている。内臓や肉片を小分けにしたタッパーの山などはゾッとする光景だ。そこは映画自体の根幹的なモラル意識に関わるポイントだけあって、やはり有耶無耶にはできないだろう。あくまでも犯罪は犯罪として絶対的な悪としつつ、そのうえでシリアルキラーの脳内世界を不条理なファンタジーとして描くことで、狂気へと追い込まれていく人間の痛みと悲哀を浮き彫りにする。主要キャラが勢揃いするミュージカル仕立てのエンディングがまた妙に切ない。 また、ジェリー役にライアン・レイノルズを起用したことも大正解だった。どこか初心な少年の面影を残すチャーミングなオール・アメリカンボーイ。中でもコメディは最も得意とするジャンルだ。そんなイメージを逆手にとって、不器用で無邪気で愛らしい青年ジェリーがふとした瞬間に垣間見せるゾッとするような狂気までをも見事に演じている。これはキャスティングの勝利であろう。ライアン本人も本作に深い思い入れがあるようで、自身の最も好きな出演作のひとつに『ハッピーボイス・キラー』を挙げている。ちなみに、愛犬ボスコと愛猫Mr.ウィスカーズはもちろんのこと、蝶々や鹿、さらには靴下で作ったウサギのぬいぐるみの声も、実は全てライアンが吹き替えている。そりゃそうだ。いずれも主人公ジェリーの心の声だもの。ジェリー役を演じるライアンが声を当てるのは当然と言えば当然だろう。 ‘14年のサンダンス映画祭で初お披露目されたものの、配給会社ライオンズゲートが興行的に見込めないと判断したためなのか、アメリカでは大都市のみの限定公開、それ以外はビデオ・オン・デマンドで配信されるにとどまった作品。確かに取り扱い要注意な内容ゆえに賛否は分かれるかもしれないが、しかしシリアルキラー物の変化球として非常にユニークな切り口の映画であることは間違いない。■ 『ハッピーボイス・キラー』© 2014 SERIAL KILLER, LLC. ALL RIGHTS RESERVED
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COLUMN/コラム2022.01.21
“観るバンド・デシネ”を実現させた『バンカー・パレス・ホテル』
◆描画スタイルを徹底して実写へと置換 マンガ家が映画監督として、商業長編映画を手がけることはままある。日本だと石井隆や、あるいは大友克洋あたりが周知の例だろう。しかしアニメーションならいざしらず、実写映画に自分の描画スタイルや色調、あるいは構図などを徹底して置換したような、そんな作家純度の高い作品を目にすることなどまれだ。 そうした前提において、1989年に公開されたSF映画『バンカー・パレス・ホテル』は衝撃的だった。監督を務めたエンキ・ビラルの、自身がマンガ家として描く画のような世界が、見事なまでに実写へと置き換えられていたからだ。沈んだ色調やソフトフォーカス、建造物のレリーフに加え、深く皺の刻まれた顔相やスキンヘッドの男、はてはヒロインのヘアカラーに至るまで、徹頭徹尾ビラルのバンド・デシネそのままなのである。 念のために説明しておくと、バンド・デシネとはフランス語で「バンド(帯)状のデッサン」を意味し、同国やベルギーにおけるコミックのことを指す。由来はコミックアーティスト、クリストフのレイアウトが原型とされており、左から横に流れていくように絵ゴマが並列し、下部に状況説明のキャプションが添えられるスタイルが、延いては呼称となったのだ。 ◆バンド・デシネの貴公子ビラル ビラルは、そんなバンド・デシネを代表する作家の重要人物といえる。1951年に旧ユーゴスラビアのベオグラードで生まれ、5歳のときに父が政治亡命者としてパリに移住。エンキと残りの家族は4年後に後を追い、パリ近郊のラガレンヌ=コロンブに住み始める。フランス語の勉強も重ねてバンド・デシネの雑誌を読みあさり、それがきっかけとなって71年にコミック雑誌「ピロット」のコンクールに投稿して入賞。編集者ルネ・ゴシニの支援を受け、21歳でマンガ家デビューを果たした。 その後、脚本家のビエール・クリスタンと出会い、彼の原作による "Partie de chasse"の連載をスタートさせ、75年には初となる単行本 "La Croisiére des Oubliés"を出版。政治的なテーマへの取り組みやリアリティにあふれたタッチを確立させている。 そんなビラルをSFジャンルに傾倒させたのは 1976年からファンタジーやSFジャンルを専門としたコミック誌「メタル-ユルラン」に参加したことが起点となっている。ジャン“メビウス”ジローやフィリップ・ドリュイエ、ベルナール・ファルカといった気鋭のマンガ家たちが創刊した同誌は、「ヘビー・メタル」の誌名でアメリカで翻訳出版され、バンド・デシネの世界進出に大きく貢献した。ビラルもそんな経緯を一助に、1980年から1992年にわたって自身の代表作ともいえる「ニコボル3部作」などを完成させ、メビウスと並んでバンド・デシネを代表する存在となったのだ。 ◆オムニバス短編から発展した企画 同時にビラルは映画界との接点を持ち、アラン・レネの監督による『アメリカの伯父さん』(80)や、ヴェルナー・ヘルツォークが手がけた『緑のアリが夢見るところ』(84)のボスターイラストを担当。また別のアラン・レネ作品" La vie est un roman "(82)ではプロダクションデザインに就き、セット美術を手がけたり、さらにはマイケル・マンの『ザ・キープ』(84)においてクリーチャーデザインを、86年にはジャン=ジャック・アノーの『薔薇の名前』のストーリー・ボードを描くなど、直接的に本編の制作へと関与していく。 こうした経験を経て、ついに自らが監督となる転機が訪れる。それは1985年から86年にかけて、マンガ家が短編映画を共同制作するアンソロジーの企画が浮上したことに端を発する。参加メンバーはビラルを含め、先のメビウスやドリュイエ、ジャック・タルディにルネ・ペティヨンといった、バンド・デシネ界を代表するアーティストたちで、彼らがそれぞれ15分の短編を監督するという豪華プロジェクトである。残念ながら諸々の事情で実現は叶わなかったが、このときにビラルの準備したプロットが『バンカー・バレス・ホテル』の原型となり、それを長編用へと発展させたのが本作となったのだ。 また作品内容もビラルがこれまでにバンド・デシネで取り上げてきたような、重苦しく体制的な世界が描かれている。舞台は近未来における、大統領による独裁政権が崩壊した都市。政府の高官たちは革命の戦火から逃れるために、秘密のホテルに参集する。ここは居住者を守るために地下深くに建造されたバンカー(陣地壕)であり、同時に派手な贅沢を好む高官にふさわしいパレス(宮殿)でもある。ところが不思議なことに、大統領の到着が遅れているではないか。彼は死んだのか? それとも彼らを見捨てたのか——? リーダーを失い、バンカー・パレス・ホテルの人々は次第に混乱に陥っていく。そして、追い詰められた彼らの不安がもたらしたものとは、いったい……。 ◆不条理と強大な権力の狂気がテーマ 映画はバルカン半島とベオグラードで撮影が敢行された。理由はおおまかにふたつあり、ひとつは街にある建築物の外観と内装がそのまま撮影に使えるくらい風雅に満ち、そして趣きがあったことだ。とりもなおさずそれは、ビラルの描画に見られるタッチの源泉として、彼の生まれ故郷の風景があるということを証明している。そしてもうひとつは、この映画が20世紀における、政治体制の本質についての物語だということを認識し、そこには独裁的に自身の生まれ故郷を統治した、ミロシェヴィッチ政権への皮肉に満ちた糾弾が込められているからだ。不条理と強大な権力の狂気が作品のテーマだ、とビラルは言う。「特権階級を持つ者は、絶対に絶対権力を持つことになる。そうなると、その者の人間性を喪失してしまうのだ」と——。 『バンカー・パレス・ホテル』は観念的な内容ながらも好評を博し、エンキ・ビラルはマンガ家活動と並行させて『ティコ・ムーン』(97)や『ゴッド・ディーバ』(04)といった諸作を監督。どちらも視覚効果が比重を増し、より自身のアート世界に近づいた絵作りを提供していく。そういう点では、本作が自分の原作とは違う、映画用に用意されたオリジナルのストーリーだという事実にも驚きを禁じ得ない。つまり既存するイメージの転写ではなく、まったく無からビラル的世界が生み出されているのだから。 ちなみに『ゴッド・ディーバ』の日本公開時、同作のプロモーションでビラルは来日を果たし、筆者は彼にインタビューをする機会に恵まれた。そこで前述した「なぜここまで自分の絵に近づけた映像づくりができるのか?」を訊いたところ、「映画とバンド・デシネとの表現方式の違いから、そこはむしろ意識的に異なるよう心がけているのに、どうしても同一のイメージに落ち着いてしまうんだ」と苦笑しながら答えてくれた。また自身の作品づくりを刺激するものとして、『風の谷のナウシカ』(84)や『もののけ姫』(97)など、宮﨑駿監督への敬意を挙げていたのが興味深く思い出される。■ *『バンカー・パレス・ホテル』エンキ・ビラル監督が自著に描き入れたサイン(筆者所有) 『バンカー・パレス・ホテル』© 1988-TF1 INTERNATIONAL-FRANCE 3 CINEMA-ARTE-TELEMA
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COLUMN/コラム2022.01.07
タランティーノの名を世界に轟かせたデビュー作『レザボア・ドッグス』
クエンティン・タランティーノは、焦っていた。1963年生まれの彼は、映画監督デビューを目論んで、20代前半から5年の間に、『トゥルー・ロマンス』『ナチュラル・ボーン・キラーズ』という、2本の脚本を執筆。しかし夢の先行きは、まったく見えてこなかった…。 これらの脚本は、高値と言える額ではないが、売れて、彼をバイト生活から脱け出させてくれた。しかしそれと同時に、嫌というほど思い知らされたのである。無名の存在である自分に大金を注いで、監督をやらそうなどという奇特な御仁は、この世には存在しないことを。 彼は思い至った。「…3万㌦で撮れる映画を書こう…」と。ストーリーは、強盗たちが主役のクライムもの。しかし犯行の様子は描かず、物語のほとんどは倉庫の中で展開する。16mmのモノクロフィルムを使用し、キャストは友人たちで固める。 これだったら、今までに脚本料として得た金を製作費にして、短期間で撮り上げられるに違いない。やっと、自分の監督作品が撮れる! しかし神はタランティーノに、そこまでチープな作品作りをすることを、許さなかった。彼が出席したあるパーティの場で、1人の男と出会わせ、大いなる伝説の幕開けを演出したのである。 その男の名は、ローレンス・ベンダー。タランティーノより6つほど年上で30代前半だったこの男は、役者崩れのプロデューサー。と言っても、まだ駆け出しだった。彼は、タランティーノが映画化権を手放した、『トゥルー・ロマンス』の脚本をたまたま読んでおり、その書き手にいたく興味を抱いていたのである。 それがきっかけとなって、タランティーノはベンダーに、自分が監督しようと思って書き進めている、『レザボア・ドッグス』というタイトルの脚本のことを話した。その内容に感銘を受けたベンダーは、映画化の企画を一緒に進めたいと伝え、製作費の調達のために、1年間の猶予が欲しいと申し出た。 しかしタランティーノは、もう待てなかった。この5年間、映画監督になろうと費やした労力は、まったくの無駄に終わっている。更に1年なんて、冗談じゃない。 話し合いの結果、ベンダーには2カ月だけ猶予が与えられた。2カ月経ってメドが立たなかったら、手持ちの製作費3万㌦で撮ると。その時に2人の間で交わされた同意書は、紙の切れ端にお互いが殴り書きのようにサインしたものだったという。 仕上がった脚本を手に、ベンダーの奔走が始まる。すぐにリアクションがあったのが、アメリカン・ニューシネマのカルト作品『断絶』(1971)などの監督として知られる、モンテ・ヘルマン。当初はこの脚本を、自分の監督作品として映画化したいという意向だったヘルマンだが、タランティーノの「自ら監督したい」という情熱を買って、プロデューサーの立場からサポートすることを、決めた。 タランティーノもベンダーも、是非とも出演して欲しいと願っていた俳優がいた。『ミーン・ストリート』(73)『タクシードライバー』(76)などのマーティン・スコセッシ作品で世に出た後、長き不遇の時を経て、90年代に入ると、『テルマ&ルイーズ』(91)『バグジー』(91)などの作品で高い評価を得るに至った、ハーヴェイ・カイテルである。 ベンダーが知己である演技コーチに、その旨を話すと、何とそのコーチの妻が、カイテルとは若き日からの知り合いだった。こうした伝手で、脚本を届けてもらうことになって数日後、ベンダーの元に電話が入った。「…読ませてもらったよ。これについて君とぜひ話をさせてもらいたいんだが」 カイテルの声だった。物事は、俄然良い方向へと転がり出す。 製作に入った「LIVEエンターテインメント」がノリ気になって、160万㌦まで出資してくれることになった。ハリウッドの基準で言えば、相当な低予算ではあるが、はじめにタランティーノが考えていた3万㌦の、実に50倍以上のバジェットである。 カイテルは、自分以外のキャストを探すのに、協力を惜しまなかった。オーディションの会場を提供したり、タランティーノとベンダーが俳優たちに会うための旅費まで負担してくれた。こうしてティム・ロスやマイケル・マドセン、スティーヴ・ブシェミといった、当時はまだ無名に近かったが、実力を持った俳優陣が、『レザボア・ドッグス』に出演することが決まっていった。 タランティーノとベンダーは、カイテルの労に報いるため、彼を“共同製作者”としてもクレジットすることを提案した。カイテルもまた、その申し出を喜んで受けたのだった。 この作品が飛躍するのには、ロバート・レッドフォードが興した、若手映画人の登龍門「サンダンス映画祭」も一役買った。本作のクランクイン前、タランティーノはヘルマンの推薦で、「サンダンス」のワークショップに参加。クランクインに先駆けて、『レザボア・ドッグス』の数シーンをテスト撮影し、有名フィルムメーカーから指導を受けることとなった。 タランティーノは、後に彼の作品の特徴となる、冗長とも取れる長回し撮影を敢行。仕上がったものを見て、軌道修正を求める講師が少なくなかったが、その逆に強く勇気づけてくれる者が現れた。モンティ・パイソンのメンバーで、『未来世紀ブラジル』(85)などを監督した、テリー・ギリアムである。「自分を信じろ」これが、ギリアムからタランティーノへのエールだった。 こうしたプロセスを経て、『レザボア・ドッグス』が撮影されたのは1991年、猛暑の夏であった。 ***** ダイナーで朝食を取りながら、マドンナの大ヒット曲「ライク・ア・ヴァージン」の歌詞の解釈について、無駄話を繰り広げる一団が居た。黒いスーツに白いシャツ、黒のネクタイに身を包んだ6人の男と、リーダーらしき年輩の男、そしてその息子だ。 彼らは、宝石店の襲撃計画を立てている強盗団。お互いの素性も知らず、リーダーに割り当てられた“色”を、お互いの呼び名にしていた…。 市街を猛スピードで走る、一台の車を運転するのは、強盗団の1人で、Mr.ホワイトと呼ばれる男(演:ハーヴェイ・カイテル)。そしてバックシートには、腹を撃たれて苦悶にのたうち回る、Mr.オレンジ(演:ティム・ロス)が居た。 強盗後の集合場所だった倉庫に着くと、Mr.ピンク(演:スティーヴ・ブシェミ)も逃げ込んで来る。彼らの犯行は、店の警報が鳴り始めた時に、Mr.ブロンド(演:マイケル・マドセン)がいきなり銃を乱射したため、無残な失敗に終わっていた。追跡する警官に撃たれて、命を落とす仲間も出たようだ。 ピンクは、警官隊の動きがあまりにも早かったことを指摘。自分たちが罠にハメられたこと、メンバーの中に裏切り者が居ることなどを、まくし立てる。 あまりの苦痛に気絶したオレンジの扱いについて、ホワイトとピンクは対立。銃を向け合っているところに、ブロンドが現れる。彼は1人の若い警官を、人質として拉致して来たのだった…。 ***** 処女作には、その監督のすべてが詰まっているというが、本編の内容と直接は関係ない無駄話という、タランティーノ作品のアイコンのようなシーンから幕開けとなる、『レザボア・ドッグス』。 先にも記したが、強盗団を主役としつつも、犯行の様子を直接描くことはなく、物語のほとんどは倉庫の中で展開していく。その中で、主要メンバーが強盗団に加わった経緯や犯行後の逃走劇など、過去の出来事が織り交ぜられていく構成である。裏切り者の正体も、その中で明かされる。 時間の流れを、タランティーノは観客に見せたい順番に並べ替える。この手法はこの後、監督第2作の『パルプ・フィクション』(94)で究極の冴えを見せることになるが、それに先立つ本作でも、見事にハマっている。 本作のお披露目上映となったのは、92年1月、ゆかりの「サンダンス映画祭」にて。その際には本作の、こうした斬新なアプローチが、大きな反響を沸き起こした。それと同時に、Mr.ブロンドがダンスをしながら、人質の警官の耳を削ぐという衝撃的な拷問シーンに、席を立って退場する者も相次いだという…。 何はともあれこの時の「サンダンス」で、『レザボア・ドッグス』は賞こそ逃したものの、№1の注目を集めた。批評家たちから熱い支持の声が上がると同時に、配給会社間の争奪戦が勃発。結果的にはハーヴェイ・ワインスタイン率いる「ミラマックス」が、本作を掌中に収めた。 その後「カンヌ」「トロント」といった国際映画祭を経て、92年10月に本作はアメリカ公開された。興行収入は、283万2,029㌦。160万㌦の製作費は回収できたが、ヒットと言える数字ではなかった。しかしタランティーノ本人は、その独特な風貌と、インタビューなどでの当意即妙な受け答えがウケて、一躍マスコミの寵児となる。 その後タランティーノは、『レザボア・ドッグス』を上映するヨーロッパ全土の映画祭、そしてアジアへと足を延ばす。その一環で93年2月には、北海道の「ゆうばり国際冒険・ファンタスティック映画祭」に参加。余談になるが、「ゆうばり」滞在中に『パルプ・フィクション』のシナリオを執筆していたことや、後に『キル・ビル vol.1』(93)で日本を舞台にしたシーンに登場する、栗山千明演じる女子高生殺し屋に、“GOGO夕張”という役名を付けたのは、広く知られている。 世界のどこに行っても映画ファンの心を掴み、人気者となったタランティーノ。アメリカでは「今イチ」の成績に終わった劇場公開だが、フランスでは、1年以上のロングランに。またイギリスでは、600万㌦もの興収を上げる大成功を収めた。 こうした人気は、本国に逆輸入された。本作のビデオがアメリカで発売されると、90万本という、予想の3倍に上る売り上げを記録したのである。 このようなタランティーノ旋風の中で、突如盗作疑惑が持ち上がった。本作のプロットが、チョウ・ユンファ扮する刑事が宝石強盗団への潜入捜査を行う、リンゴ・ラム監督の香港映画『友は風の彼方に』(87)のパクりであるとの指摘がされたのである。特にラスト20分の展開が酷似しているのは、両作を観た者の目には、明らかだった。 これに対してタランティーノは、「俺はこれまで作られたすべての映画から盗んでいる」と応えた。更には、黒澤明の『羅生門』(50)や、スタンリー・キューブリックの『現金に体を張れ』(56)等々の影響も、胸を張って認めたのである。 狂的な映画マニアであるタランティーノは、この後は作品を発表する度に、元ネタとなった作品たちのことを、喜々として語るようになる。そのため「盗作」などという指摘は、まったく有効ではなくなった。 すべてのタランティーノ作品は、様々な過去の作品のコラージュであり、パッチワークであることが、今では広く知られている。オリジナリティーがないことを自ら吐露しながら、魅力的な作品を世に放ち続けるなど、凡百の作り手には到底マネできない。 そんなタランティーノも、本作で監督デビューしてから、今年でちょうど30年。かねてより、長編映画を10本撮ったら、映画監督を引退すると公言しているタランティーノだが、『vol.1』『vol.2』の2部作となった『キル・ビル』を1本とカウントして、次回作がちょうど10本目となる。 ここは是非、宮崎駿やスティーヴン・ソダーバーグなどの先人の振舞いをパクって、10本撮った時点での「引退」撤回を期待したいところであるが…。■ 『レザボア・ドッグス』© 2020 Lions Gate Entertainment. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.01.06
「シネラマ」方式の醍醐味を存分に味わえるスペクタクルなウエスタン巨編!『西部開拓史』
映画界に革命を起こした「シネラマ」とは? 激動する開拓時代のアメリカ西部を舞台に、フロンティア精神を胸に新天地を切り拓いた家族三代の50年間に渡る足跡を、当時「世界最高の劇場体験」とも謳われた上映システム「シネラマ」方式の超ワイドスクリーンで描いた壮大なウエスタン叙事詩である。全5章で構成されたストーリーを演出するのは、西部劇映画の神様ジョン・フォードに『悪の花園』(’54)や『アラスカ魂』(60)のヘンリー・ハサウェイ、喜劇『底抜け』シリーズのジョージ・マーシャルという顔ぶれ。役者陣はジェームズ・スチュワートにグレゴリー・ペック、デビー・レイノルズ、ヘンリー・フォンダ、キャロル・ベイカー、ジョージ・ペパード、そしてジョン・ウェインなどの豪華オールスター・キャストが勢揃いする。1963年(欧州では’62年に先行公開)の全米年間興行収入ランキングでは『クレオパトラ』(’63)に次いで堂々の第2位をマーク。アカデミー賞でも作品賞を筆頭に合計8部門でノミネートされ、脚本賞や編集賞など3部門を獲得した名作だ。 本稿ではまず「シネラマとは何ぞや?」というところから話をはじめたい。というのも、映画界の革命とまで呼ばれて一世を風靡した「シネラマ」方式だが、しかしその本来の規格に準じて作られた劇映画は本作および同時期に撮影された『不思議な世界の物語』(’62)の2本しか存在しないのだ。今ではほぼ忘れ去られた「シネラマ」方式とはどのようなものだったのか。なるべく分かりやすく振り返ってみたいと思う。 「シネラマ」とは3本に分割された70mmフィルムを同時に再生してひとつの映像として繋げ、アスペクト比2.88:1という超横長サイズのワイドスクリーンで上映する特殊規格のこと。撮影には3つのレンズとフィルム・カートリッジを備えた巨大な専用カメラを使用し、劇場で上映する際にも3カ所の映写室から別々のフィルムを同時に専用スクリーンへ投影する。その専用スクリーンも縦9m、横30mという巨大サイズ。しかも、観客席を包み込むようにして146度にカーブしていた。さらに、サウンドトラックは7チャンネルのステレオサラウンドを採用。各映画館には専門の音響エンジニアが配置され、劇場の広さや観客数などを考慮しながらサウンド調整をしていた。このような特殊技術によって、まるで観客自身が映画の中に迷い込んでしまったような臨場感を体験できる。いわば、現在のIMAXのご先祖様みたいなシステムだったのだ。 考案者はパラマウント映画の特殊効果マンだったフレッド・ウォーラー。人間の視覚を映像で忠実に再現しようと考えた彼は、実に14年以上もの歳月をかけて「シネラマ」方式のシステムを開発したのだ。その第一号が1952年9月30日にニューヨークで封切られた『これがシネラマだ!』(’52)。まだ長距離の旅行が一般的ではなかった当時、アメリカ各地の雄大な自然や観光名所を鮮やかに捉えたこの映画は、その画期的な上映システムと共に観光旅行を疑似体験できる内容も大きな反響を呼んだ。以降、シネラマ社は10年間で8本の紀行ドキュメンタリー映画を製作する。 この「シネラマ」方式の大成功に刺激を受けたのがハリウッドのスタジオ各社。当時のハリウッド映画はテレビの急速な普及に押され、全盛期に比べると観客動員数は半分近くにまで激減していた。映画館へ客足を戻すべく頭を悩ませていた各スタジオ関係者にとって、『これがシネラマだ!』の大ヒットは重要なヒントとなる。そうだ!テレビの小さな箱では体験できない巨大な横長画面で勝負すればいいんだ!というわけで、20世紀フォックスの「シネマスコープ」を皮切りに、パラマウントの「ヴィスタヴィジョン」にRKOの「スーパースコープ」、「シネラマ」の出資者でもあった映画製作者マイケル・トッドの「トッド=AO」など、ハリウッド各社が独自のワイドスクリーン方式を次々と開発。これを機にハリウッド映画はワイドスクリーンが主流となっていく。とはいえ、いずれもアナモルフィックレンズで左右を圧縮したり、通常の35mmフィルムの上下をマスキングしたりなど、カメラもフィルムも映写機もひとつだけという似て非なる代物で、映像と音声の臨場感においても迫力においても「シネラマ」方式には及ばなかった。 とはいえ、アトラクション的な傾向の強いシネラマ映画は鮮度が命で、なおかつ似たような紀行ドキュメンタリーばかり続いたことから、ほどなくして観客から飽きられてしまう。そこで、危機感を持ったシネラマ社はハリウッドのメジャースタジオMGMと組んで、史上初の「シネラマ」方式による劇映画を製作することに。その第1弾が『不思議な世界の物語』と『西部開拓史』だったのである。 西部開拓時代の苦難の歴史を描く壮大な叙事詩 ここからは、エピソードごとに順を追って『西部開拓史』の見どころを解説していこう。 第1章「河」 監督:ヘンリー・ハサウェイ 天下の名優スペンサー・トレイシーによるナレーションで幕を開ける第1章は、西部開拓時代の黎明期である1838年が舞台。オープニングのロッキー山脈の空撮映像は『これがシネラマだ!』からの流用だ。アメリカ東部から西部開拓地を目指して移動する農民のプレスコット一家。父親ゼブロン(カール・マルデン)に妻レベッカ(アグネス・ムーアヘッド)、娘のイヴ(キャロル・ベイカー)とリリス(デビー・レイノルズ)は、旅の途中で毛皮猟師ライナス・ローリングス(ジェームズ・スチュワート)と親しくなる。大自然と共に生きる逞しいライナスに惹かれるイヴだったが、しかし自由を愛するライナスは家庭を持って落ち着くつもりなどない。ところが、近隣の洞窟を根城にする盗賊ホーキンズ(ウォルター・ブレナン)の一味がプレスコット一家を襲撃。助けに駆け付けたライナスはイヴへの深い愛情を確信する。 アメリカン・ドリームを夢見て大西部を目指す農民一家を待ち受けるのは、美しくも厳しい雄大な自然と素朴な開拓民を餌食にする無法者たち。当時の西部開拓民がどれほどの危険に晒されていたのかがよく分かるだろう。オハイオ州立公園やガニソン川でロケをした圧倒的スケールの映像美に息を呑む。中でも見どころなのはイカダでの激流下り。臨場感満点の主観ショットはシネラマ映画の醍醐味であり、見ているだけで船酔いしそうなほどの迫力だ。ちなみに、盗賊一味が旅人を罠にかける洞窟酒場のロケ地となったオハイオ州のケイヴ・イン・ロックスでは、実際に19世紀初頭にジェームズ・ウィルソンという盗賊が酒場の看板を掲げ、仲間と共に誘拐や強盗、偽金作りを行っていたらしい。なお、盗賊ホーキンズの手下として、あのリー・ヴァン・クリーフが顔を出しているのでお見逃しなきよう。 第2章「平地」 監督:ヘンリー・ハサウェイ それから十数年後。農民の暮らしを嫌って東部へ舞い戻ったリリス(デビー・レイノルズ)は、セントルイスの酒場でショーガールとして働いていたところ、亡くなった祖父からカリフォルニアの金山を相続したと知らされる。これを立ち聞きしていたのが、借金で首が回らなくなった詐欺師クリーヴ(グレゴリー・ペック)。西へ向かう幌馬車隊があることを知り、気のいい中年女性アガタ(セルマ・リッター)の幌馬車に乗せてもらうリリス。そんな彼女に遺産目当てで近づいたクリーヴは、自分と似たような野心家のリリスに思いがけず惹かれていくのだが、しかし幌馬車隊のリーダー、ロジャー(ロバート・プレストン)もまたリリスに想いを寄せていた。 ロマンスありユーモアありミュージカルあり、そしてもちろんアクションもありの賑やかなエピソード。ここは『雨に唄えば』(’52)のミュージカル女優デビー・レイノルズの独壇場で、彼女のダイナミックな歌とダンス、チャーミングなツンデレぶりがストーリーを牽引する。イカサマ紳士を軽妙に演じるグレゴリー・ペックとの相性も抜群。そんな第2章のハイライトは、なんといっても『駅馬車』(’39)も真っ青な先住民の襲撃シーン。「シネラマ」方式の奥行きがあるワイド画面を生かした、大規模な集団騎馬アクションを堪能させてくれる。 第3章「南北戦争」 監督:ジョン・フォード 夫ライナスが南北戦争で北軍に加わり、女手ひとつで小さな農場を守るイヴ(キャロル・ベイカー)。血気盛んな若者へと成長した長男ゼブ(ジョージ・ペパード)は、自分も同じように戦場へ行って戦いたいと願っている。そんな折、旧知の北軍兵士ピーターソン(アンディ・ディヴァイン)が、ゼブをリクルートしにやって来る。はじめは頑なに拒否するイヴだったが、しかし本人の強い希望で息子を戦場へ送り出すことに。意気揚々と最前線へ向かうゼブだったが、しかし実際に目の当たりにする戦場は彼が想像していたものとは全く違っていた。 冒頭ではカナダの名優レイモンド・マッセイがリンカーン大統領として登場し、ジョン・ウェインがシャーマン将軍を、ハリー・モーガンがグラント将軍を演じる第2章。アメリカ史に名高い激戦「シャイローの戦い」を背景に、同じ国民同士が互いに血を流した南北戦争の悲劇を通じて、勝者にも敗者にも深い傷跡を残す戦争の虚しさを描く。全編を通して最も西部劇要素の薄いエピソードを、西部劇の神様たるジョン・フォードが担当。平和な農村地帯の牧歌的で美しい風景と、血まみれの死体が山積みになった戦場の悲惨な光景の対比が印象的だ。なお、砲弾飛び交う戦闘シーンの映像は『愛情の花咲く樹』からの流用だ。 第4章「鉄道」 監督:ジョージ・マーシャル 大陸横断鉄道の建設が急ピッチで進む1868年。西からはセントラル・パシフィック社が、東からはユニオン・パシフィック社が線路を敷設していたのだが、両者は少しでも長く線路を敷くためにしのぎを削っていた。なぜなら、担当した線路周辺の土地を政府が与えてくれるから。つまり、より早く敷設工事を進めた方が、より多くの土地を獲得できるのである。騎兵隊の隊長としてユニオン・パシフィック社の警備を担当するゼブ(ジョージ・ペパード)だったが、しかし先住民との土地契約を破ったり、作業員の生命を軽んじたりする現場責任者キング(リチャード・ウィドマーク)の強引なやり方に眉をひそめていた。亡き父ライナスの盟友ジェスロ(ヘンリー・フォンダ)の仲介で、先住民との良好な関係を維持しようとするゼブ。しかし、またもやキングが先住民を裏切ったことから最悪の事態が起きてしまう。 まだまだアメリカ先住民を野蛮な敵とみなす西部劇が多かった当時にあって、本作では彼らを白人から土地を奪われた被害者として描いているのだが、その傾向がハッキリと見て取れるのがこの第4章。ここでは、大西部にも近代化の波が徐々に押し寄せつつある時代を映し出しながら、その陰で犠牲になった者たちに焦点を当てる。最大の見せ場は、大量の野牛が一斉に押し寄せ、開通したばかりの鉄道を破壊し尽くす阿鼻叫喚のパニックシーン。牛のスタンピード(集団暴走)はハリウッド西部劇の伝統的な見せ場のひとつだが、本作は「シネラマ」方式のワイドスクリーン効果で格段にスペクタクルな仕上がりだ。 第5章「無法者」 監督:ヘンリー・ハサウェイ 西部開拓時代もそろそろ終焉を迎えつつあった1880年代末。亡き夫クリーヴと暮らした大都会サンフランシスコを離れることに決めたリリー(デビー・レイノルズ)は、屋敷や財産を全て売り払って現金に変え、懐かしき故郷アリゾナの牧場へ向かう。近隣の鉄道駅で彼女を出迎えたのは、保安官を引退したばかりの甥っ子ゼブ(ジョージ・ペパード)と妻ジュリー(キャロリン・ジョーンズ)、そして彼らの幼い息子たち。そこでゼブは、かつての宿敵チャーリー・ガント(イーライ・ウォラック)の一味と遭遇する。兄をゼブに殺された恨みを持つチャーリー。家族に危険が及ぶことを恐れたゼブは、チャーリーたちが列車強盗を企んでいることに気付くが、しかし後任の保安官ラムジー(リー・J・コッブ)は協力を拒む。たったひとりでチャーリー一味の強盗計画を阻止する覚悟を決めるゼブだったが…? 時速50キロで走行中の蒸気機関車で激しい銃撃戦を繰り広げる、圧巻の列車強盗シーンが素晴らしい最終章。手に汗握るとはまさにこのこと。サイレント時代のアクション映画スターで、ハリウッドにおけるスタントマンの草分け的存在でもあったリチャード・タルマッジのアクション演出は見事というほかない。ジョン・フォード映画でもお馴染みのモニュメント・ヴァレーでのロケも印象的。チャーリーの手下のひとりはハリー・ディーン・スタントンだ。ちなみに、ジョージ・ペパードのスタント代役を務めたボブ・モーガンが、列車から転落して大怪我を負うという悲劇に見舞われている。ほぼ全身を骨折した上に、顔の右半分が潰れて眼球まで飛び出していたそうだ。辛うじて一命は取りとめたものの、片脚を失ってしまったとのこと。第3章に出演しているジョン・ウェインはモーガンの友人で、この不幸な事故に胸を痛めたことから、翌年の主演作『マクリントック!』(’63)にモーガン夫人の女優イヴォンヌ・デ・カーロを起用している。 シネラマ映画はなぜ短命に終わったのか? まさしくハリウッド西部劇の集大成とも呼ぶべき2時間44分のスペクタクル映画。70mmフィルムを3本も同時に使って撮影されたスケールの大きな映像は、北米大陸の雄大な自然を余すところなく捉えて見応え十分だ。しかも、「シネラマ」方式はカメラの手前から数キロ先の背景まで焦点がブレず、解像度が高いので通常の35mm映画であれば潰れてしまうようなディテールまできめ細かく再現する。そのため、最初に用意した衣装はミシン目が肉眼で確認できてしまったことから、全て手縫いで作り直したのだそうだ。なにしろ、西部開拓時代にミシンなんて存在するはずないのだから。誤魔化しが利かないというのはスタッフにとって相当なプレッシャーだったはずだ。 また、アルフレッド・ニューマンとケン・ダービーの手掛けた音楽スコアも素晴らしい。テーマ曲は本作のために書き下ろされたオリジナルだが、その一方でアメリカの様々な古い民謡を映画の内容に合わせてアレンジし、パッチワークのように散りばめている。中でも特に印象的なのが、劇中でデビー・レイノルズ演じるリリスが繰り返し歌う「牧場の我が家(Home in the Meadow)」。これは16世紀のイングランド民謡「グリーンスリーヴス」の歌詞を本作用に書き直したもの。原曲はザ・ヴェンチャーズからジョン・コルトレーン、オリヴィア・ニュートン・ジョンから平原綾香まで様々なアーティストがカバーしている名曲なので、日本でも聞き覚えがあるという人も多いだろう。ちなみに、本作はもともとビング・クロスビーがMGMに持ち込んだ企画を、シネラマ社とのコラボ作品のひとつとしてピックアップしたもの。クロスビーは’59年にアメリカ民謡を集めた2枚組アルバム「西部開拓史」をリリースしている。 1962年11月1日にロンドンでプレミアが行われ、その後もパリ、東京、メルボルンなど世界各地で封切られた本作。アメリカでは1963年2月20日にロサンゼルスのワーナー劇場(現ハリウッド・パシフィック劇場)でプレミア上映され、シネラマ劇場の存在しない地方都市では35mmのシネスコサイズで公開された。同時期に製作されたシネラマ映画『不思議な世界の物語』と並んで、世界的な大ヒットを飛ばした本作。しかし、本来の「シネラマ」方式で撮影・上映された劇映画はこの2本だけで、以降の『おかしなおかしなおかしな世界』(’63)や『偉大な生涯の物語』(’65)、『2001年宇宙の旅』(’68)といったシネラマ映画は、どれも70mmプリントを映写機1台で専用スクリーンに投影するだけの疑似シネラマ映画となってしまった。その理由は、「シネラマ」方式が抱えた諸問題だ。 もともと3分割されたフィルムを3台の映写機で同時に投影するという構造上、どうしても繋ぎ目が目立ってしまうという問題があった「シネラマ」方式。本作ではシーンによって繋ぎ目部分に垂直の物体を配置するという対策が取られ、なおかつ現在のデジタル・リマスター版では目立たぬよう修復・補正作業が施されているのだが、それでも所々で繋ぎ目の跡が見受けられる。加えて、専用カメラに備わった3つのレンズがそれぞれ別の方角を向いてクロス(右レンズは左側、中央レンズは中央、左レンズは右側)しているため、例えば中央と右側に立つ2人の役者が向き合って芝居をする場合、撮影現場では相手役の立ち位置から微妙にズレた方角を向かねばならない。つまり、画面上は向き合っていても実際は向き合っていないのである。これではなかなか芝居に集中できない。男女の親密な会話など重要なシーンで、メインの役者が中央にしか映っていないケースが多いのはそのためだ。 また、シネラマ専用カメラはズームレンズに対応していないため、クロースアップを撮影するには被写体にカメラが接近するしか方法がなく、どれだけアップにしてもバストショットが限界だった。さらに、人間の視界範囲の再現を特色としていることから、被写界が広すぎることも悩みの種だった。要するに、映ってはいけないものまで映ってしまうのだ。そのため、撮影開始の合図とともにスタッフは物陰に隠れなくてはならず、音を拾うガンマイクも使えないのでセットの見えないところに複数の小型マイクを仕込まねばならないし、危険なスタントシーンで安全装置を使うことも出来ない。先述した列車強盗シーンでの転落事故もそれが原因だった。 こうした撮影上の様々な困難に加えて、配給の面でも制約があった。恐らくこれが最大の問題であろう。「シネラマ」方式に対応した劇場は全米でも大都市圏にしかなく、しかもその数は60館程度にしか過ぎなかった。新たに建設しようにも莫大なコストがかかる。そのうえ、運営費用だって普通の映画館より高い。初期の紀行ドキュメンタリー映画ならば採算も合っただろうが、スターのギャラやセットの建設費など予算のかかる劇映画では難しい。そのため、シネラマ社はこれ以降、3分割での撮影や上映を廃止してしまい、「シネラマ」方式は有名無実の宣伝文句と化すことになったのだ。■
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COLUMN/コラム2021.12.31
ツイ・ハークやアン・リーにも多大な影響を与えた巨匠キン・フーによる武侠映画の決定版!『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』
武侠映画に革命をもたらしたキン・フー監督 武侠映画(中華時代劇)の神様とも呼ばれる香港・台湾映画の巨匠キン・フー監督の代表作である。1932年に中国本土の北京で生まれ、第二次世界大戦後の1949年に香港へと移住したキン・フー監督。もともと美術スタッフや俳優として映画に携わっていた彼は、同じく本土出身の名監督リー・ハンシャンに影響を受けて’58年に映画会社ショウ・ブラザーズと契約。リー・ハンシャン監督作で俳優や助監督を務めたのち、’64年に監督デビューを果たす。そんなキン・フー監督の出世作となったのが、武侠映画に新風を吹き込んだと言われる名作『大酔侠』(’66)。それまでの大時代的な古めかしい武侠映画から脱却し、アクションとバイオレンスと幻想美を融合した斬新な演出は「新派武侠片」とも呼ばれ、香港映画界に革命をもたらした。興行的にも香港だけでなく東南アジア各国でも大ヒットを記録。キン・フー監督も一躍注目の的となる。 ところが、その直後にキン・フー監督はショウ・ブラザーズを去ることになってしまう。社長ラン・ラン・ショウと衝突したためと言われているが、もともと俳優としてショウ・ブラザーズと契約をしていたというキン・フー監督には、当時まだ2本の出演契約が残されていたらしい。そのためラン・ラン・ショウはいたく憤慨したそうで、2人の間にはその後もわだかまりが残されることとなった。そんなキン・フー監督の向かった先が台湾。当時、まだ設立されたばかりだった映画会社・聨邦影業公司に招かれた彼は、そこで『大酔侠』をさらにスケールアップさせた武侠映画を撮ることとなる。それがこの『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』(’67)だった。 舞台は1457年、明朝・景泰帝の時代。朝廷では宦官ツァオ(バイ・イン)が特務機関・東廠(とうしょう)と秘密警察・錦衣衛(きんいえい)を配下において実権を握り、人望の厚い大臣ユー・チェンを罠にはめて処刑してしまう。大臣の3人の子供たちは流刑処分となったが、しかし彼らが大人になって復讐を企てるのではないかと危惧したツァオは、秘かに刺客を送り込んでユー一門を皆殺しにしようとする。 その任務に就いたのは東廠のピイ(ミャオ・ティエン)とその右腕マオ(ハン・インチェ)。大勢の手下を引き連れた彼らは、ユー一門が立ち寄る場所へと先回りする。そこは人里離れた荒野の真ん中にポツンと建つ古い宿屋「龍門客棧」。近くの国境警備隊を皆殺しにして店を強引に占拠した暗殺部隊は、宿泊客のふりをしてターゲットの到着を待ち構える。すると、そこへ宿屋の主人ウー(ツァオ・ジエン)の友人だという謎めいた風来坊シャオ(シー・チュン)がやって来る。さらに、旅の途中で立ち寄ったチュウ兄弟(シュエ・ハン、シャンカン・リンフォン)も到着。ピイ一味は彼らを宿屋から追い出そうとするが、しかしいずれも並外れた武術の達人であることから苦戦し、仕方なく彼らが宿泊することを許す。 実は、宿屋の主人ウーは処刑された大臣ユーの腹心で、その子供たちを守るために弟分シャオを呼び寄せていたのだ。しかも、チョウ兄弟(弟の正体は男装した女性なので実は兄妹)はウーの親友の子供で、彼らもまた大臣の子供たちを守るため「龍門客棧」へ先回りしていたのだ。ピイ一味の目的に気付いた彼らは、一致団結して暗殺計画を阻止することに。やがてユー一門が「龍門客棧」へと到着し、血で血を洗う壮絶な闘いが繰り広げられる。ツァオに恨みを持つ韃靼(だったん)人の兄弟も加わり、東廠の暗殺部隊を圧倒するシャオたち。業を煮やしたツァオが自ら軍隊を率いて現れ、ついに全面戦争の火蓋が切って落とされる…! 登場人物の個性を際立たせるシンプルなプロット 前作『大酔侠』でも宿屋を重要な舞台のひとつにしていたキン・フー監督だが、本作ではその宿屋がメインの舞台となり、悪徳宦官によって殺された大臣の子供たちを守らんとする忠義の剣士たちと、その宦官が差し向けた東廠の暗殺部隊が死闘を繰り広げる。刺客たちが待伏せする宿屋に予期せぬ客人が次々と現れ、お互いの腹を探りながらもやがて彼らの正体が明かされていくというスリリングな展開は、さながらクエンティン・タランティーノ監督の西部劇『ヘイトフル・エイト』(’15)。かつてタランティーノが『大酔侠』をリメイクするなんて企画もあったくらいなので、仮に『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』の影響を受けていたとしても不思議はないだろう。もちろん、本作自体がジョン・フォード監督の『駅馬車』(’39)やラオール・ウォルシュ監督の『リオ・ブラボー』(’59)といった西部劇に影響されているであろうことも否めない。映画にしろ音楽にしろ文学にしろ、芸術というのはお互いに影響を与え合いながら創造されていくものだ。 そもそもキン・フー監督が舞台設定に宿屋を好んで使うのは、本人曰く「『三國志』の時代から人々が行き交う宿屋は対立を起こすのに格好の場所」だから。さらに、吹き抜けの2階建てとしてデザインされた宿屋は、その垂直で奥行きがある構造のおかげで立体的なアクションを演出しやすい。ひとつのセットで多彩なシーンを撮れるという利点があるのだ。そのため、キン・フー監督は香港へ戻って作った『迎春閣之風波』(’73)では、ほとんどの舞台を宿屋に設定している。『大酔侠』と本作、そして『迎春閣之風波』が「宿屋三部作」と呼ばれる所以だ。 舞台設定もプロットも極めてシンプル。なおかつ余計な人間ドラマもバッサリと省いてスピーディに展開していく本作だが、その代わりに細かなディテールの描写に手間暇をかけ、登場人物それぞれのユニークな個性を際立たせていく。中でも、主人公である剣士シャオの超人的な達人ぶりにはビックリ。飛んできた弓矢を手元の徳利で受け止めたかと思えば、その矢を瞬時に素手で打ち返して暗殺者を仕留める。敵の投げつけた小刀だって箸の先で見事にキャッチ(笑)。どんぶりに入ったうどんを隣のテーブルに放り投げても汁一滴こぼれない。果たして、どんぶり投げが武術とどう関係あるのかは分からないが、とにかく常人離れしたスキルを持つ剣士であることはよく分かるだろう。また、『大酔侠』のヒロイン金燕子に続いて、本作でも男装の麗人キャラが登場。当時まだ17歳だったシャンカン・リンフォン演じるチョウ兄妹の妹である。ひと目で女性であることが分かってしまうのは玉に瑕だが、冷静沈着で颯爽とした美剣士ぶりはカッコいいし、短気で血の気の多い兄との凸凹コンビぶりもユーモラスだ。 もちろん、悪人だって負けないくらい魅力的だ。それぞれに個性的な敵キャラとの戦いが3段階に分かれており、ひとり倒すごとに対戦相手がレベルアップしていくというビデオゲーム的な構成も面白いのだが、この最後に登場するラスボスの宦官ツァオがまたインパクト強烈!なにしろ、『ドラゴンボール』の「かめはめ波」ではないが、剣を一振りしただけで敵を吹っ飛ばしてしまうような気功の達人にして、木々の間を軽やかに瞬間移動していくというスーパーパワー(?)の持ち主。まさしく相手にとって不足なし。やはり、こういう映画は敵役が強くないと面白くない。ただ、クライマックスでヒーローたちが寄って集ってツァオをボコボコにするのは如何なもんかとも思うのだが。しかも、下半身をネタにして嘲笑うというゲスっぷり(笑)。そう、ツァオは宦官なので男性器がないのだが、みんなでそれをバカにして挑発するのだ。さすがにこれはツァオがちょっと気の毒になる。 ダイナミックな剣劇アクションと映像美も見どころ 京劇の伝統的な舞踊スタイルを踏襲した優美なチャンバラも見どころだろう。武術指導を手掛けたのは、暗殺部隊の副官マオを演じているハン・インチェ。キン・フー作品に欠かせないスタント・コーディネーターである彼自身も、実は9歳から18歳まで北京の劇団に所属する京劇俳優だった。この舞うように戦う古典的なチャンバラにフレッシュな躍動感をもたらすのが、随所に盛り込まれる雑技団的な曲芸技である。当時はまだワイヤーワークの技術が確立されていないため、本作では主にトランポリンワークを多用。ここで披露される飛んだり跳ねたりの曲芸アクションが、その後の『侠女』(’71)では大胆なワイヤーワークによってさらなる発展を遂げ、武侠映画特有のファンタジックな剣劇アクションを完成させていくこととなる。 このように、基本的には『大酔侠』で打ち出した「新派武侠片」路線の延長線上にある本作だが、恐らく最大の違いはロケーション撮影の大幅な導入であろう。当時の香港映画は舞台が森だろうと山だろうと荒野だろうとスタジオにセットを組んで撮影するのが一般的で、キン・フー監督の『大酔侠』も御多分に漏れずだったが、しかし台湾で撮影された本作では屋内シーン以外の全てがスタジオの外へ出たロケ。台湾中部の雄大な自然を捉えたスケールの大きなビジュアルと、実際のロケーションだからこそのダイナミックなカメラワークに目を奪われる。このロケ撮影の利点を十二分に生かした映像美は『侠女』で芸術的なレベルにまで昇華され、カンヌ国際映画祭で高等技術委員会グランプリを獲得することになる。 ちなみに、キン・フー監督は本作と同様に『侠女』でも東廠を悪役として登場させているのだが、これは当時世界中で大流行していた『007』映画への反発だったという。権力の手先であるスパイを美化するとは何ごとか!というわけだ。もちろん、本作のストーリーに政治的な意図があるわけではないが、しかし劇中で描かれるユー大臣の処刑やその家族に対する残酷な処遇に、キン・フー監督が祖国・中国で当時吹き荒れていた文化大革命の弾圧と殺戮を投影していたであろうことは想像に難くない。 1967年に台湾で封切られるや映画館に長蛇の列ができ、10日間で10万通以上のファンレターが映画会社に届くほどの大ヒットを記録した本作。台湾のオスカーとも呼ぶべき金馬奨では最優秀脚本賞にも輝いた。ただ、香港や東南アジアでの配給を担当したショウ・ブラザーズは、社長ラン・ラン・ショウとキン・フー監督のイザコザもあったためか、『大酔侠』の続編『大女侠』(’68)の公開後まで本作の封切を延期。それでもなお、香港でも『007は二度死ぬ』に次いで年間興行成績ランキングの2位をマークするほどの大成功を収めた。これ以降のキン・フー作品のプロトタイプともなった映画であり、『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』(’87)や『グリーン・デスティニー』(’00)も本作がなければ生まれなかったかもしれない。■ 『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』© 1967 Union Film Co., Ltd. / © 2014 Taiwan Film Institute All rights reserved (for Dragon Inn)
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COLUMN/コラム2021.12.28
16年振りのシリーズ最終作。『ゴッドファーザーPARTⅢ』で、コッポラが本当に描きたかったものとは!?
アメリカ映画史に燦然と輝く、『ゴッドファーザー』シリーズ。 イタリア系移民のマフィアファミリーの物語を、凄惨で血みどろの抗争を交えて、歴史劇のように描き、今日では「クラシック」のように評されている。少なくともシリーズ第1作、第2作に関しては。 本作『ゴッドファーザーPARTⅢ』に関しては、その存在を好んで語る者は、数多くない。「黙殺」する向きさえある…。 ファミリーの首領=ドン・ヴィトー・コルレオーネをマーロン・ブランドが重厚に演じた、1972年の第1作『ゴッドファーザー』。当時の興行新記録を打ち立て、アカデミー賞では、作品賞・主演男優賞・脚色賞の3部門を獲得した。 ジェームズ・カーン、アル・パチーノ、ロバート・デュバル、ダイアン・キートン、タリア・シャイアといった、70年代をリードしていくことになる若手俳優たちの旅立ちの場であったことも、映画史的には重要と言える。 74年の第2作『ゴッドファーザーPARTⅡ』。ファミリーを継いだ若きドン、マイケル・コルレオーネの戦いの日々と、先代であるヴィト―の若き日をクロスさせる大胆な構成が、前作以上に高く評価された。 興行成績こそ前作に及ばなかったものの、アカデミー賞では、作品賞・監督賞・助演男優賞・脚色賞・作曲賞・美術賞の6部門を受賞。作品賞を獲った映画の続編が、再び作品賞を得たのは、アカデミー賞の長きに渡る歴史の中でも、この作品だけである。 前作に続いてマイケルを演じたアル・パチーノは、堂々たる主演スターの座に就いた。そしてヴィト―の若き日にキャスティングされたロバート・デ・ニーロは、アカデミー賞の助演男優賞を得て、一気にスターダムを駆け上った。 余談になるが、続編のタイトルに「PARTⅡ」といった数字を付けるムーブメントは、この作品が作ったものである。 そんな偉大な2作から16年の歳月を経て登場したのが、1990年のシリーズ第3作、『ゴッドファーザーPARTⅢ』。主役は前作に続き、アル・パチーノが演じる、マイケル・コルレオーネである。 ********* 1979年、老境に差し掛かったマイケルは、資産を“浄化”するため、ヴァチカンとの取引に乗り出す。コルレオーネファミリーを犯罪組織から脱却させ、別れた妻ケイ(演:ダイアン・キートン)との間に儲けた子どもたちに引き継ぐのが、大きな目的だった。 しかし後を継ぐべき息子のアンソニーは、ファミリーの仕事を嫌って、オペラ歌手の道へと進む。一方、娘のメアリー(演:ソフィア・コッポラ)は、ファミリーが作った財団の顔として、慈善事業の寄付金集めに勤しんでいた。 そんな時マイケルの前に、妹のコニー(演:タリア・シャイア)が、長兄ソニーの隠し子であるヴィンセント(演:アンディ・ガルシア)を連れてくる。マイケルはヴィンセントの、今は亡き兄譲りの血気盛んで短気な気性を不安に思いながらも、自らの配下とする。 ニューヨークの縄張りを引き継がせた、ジョーイ・ザザが叛旗を翻した。ザザは、マイケルが仲間のドンたちを集結させたホテルを、ヘリコプターからマシンガンで襲撃。多くの死傷者が出る中、九死に一生を得たマイケルは、ザザを操る黒幕の存在を直感する。 血と暴力の世界から、抜け出そうとしても抜けられない。そんな己の人生を振り返って、マイケルは、かつて次兄のフレドまで手に掛けたことへの悔恨の念を深くする。ヴィンセントと愛娘のメアリーが恋に落ちたことも、彼を苦悩させた。 ヴァチカンとの取引も暗礁に乗り上げる中、マイケルはヴィンセントに命じて、諸々のトラブルの裏とその黒幕を探らせる。そして彼を、ファミリーの後継者に任ずると同時に、娘との恋を諦めるように諭す。 イタリア・パレルモのオペラ劇場での、息子アンソニーのデビューの夜。ファミリーが集結するそのウラで、またもや血と報復の惨劇が繰り広げられていく。 そしてマイケルには、己が死ぬことよりも辛い“悲劇”が待ち受けていた。 ********* 1990年のクリスマスにアメリカで公開された本作は、アカデミー賞では7部門でノミネートされながらも、結局受賞には至らなかった。興行的にも批評的にも、前2作には、遠く及ばない結果となった『PARYTⅢ』は、同じコッポラを監督としながらも、『ゴッドファーザー』3部作の中では、まるで「鬼っ子」のような扱いを受けるに至ったのである。 そもそも前2作の絶大なる成功がありながら、なぜ『PARTⅢ』の登場までには、16年の歳月が掛かったのか? それは一言で言えばコッポラが、「やりたくなかった」からである。 それとは逆に、製作した「パラマウント・ピクチャーズ」は、この16年の間、折に触れてはこのドル箱シリーズの第3弾を、コッポラに作らせようと働きかけた。80年代前半には、シルベスター・スタローンの監督・主演、ジョン・トラボルタの共演で、『PARTⅢ』の製作をぶち上げたこともある。 これはスタローンの『ロッキー』シリーズで主人公の妻役を演じ続けたタリア・シャイアが、実の兄であるコッポラとスタローンの橋渡し役を務めて、実現しかかった話と言われている。結局コッポラが、スタローンに『ゴッドファーザー』を任せることには翻意して、企画が流れたと伝えられる。 では「やりたくなかった」『PARTⅢ』を、なぜコッポラ本人が手掛けるに至ったのか?大きな理由は、彼の過去作である『ワン・フロム・ザ・ハート』(82)にある。 ラスベガスをセットで再現するために、スタジオまで買い取って製作した『ワン・フロム…』は、当初1,200万ドル=約35億円を予定していた製作費が、2,700万ドル=約78億円にまで跳ね上がった。しかも劇場に観客を呼ぶことは出来ず、コッポラは破産に至ってしまったのだ。 その後コッポラは、『アウトサイダー』(83)『ランブルフィッシュ』(83)『コットンクラブ』(84)等々の小品や雇われ仕事を多くこなし、借金の返済に務めることになる。しかしディズニーランドのアトラクション用である、マイケル・ジャクソン主演の『キャプテンEO』(86)まで手掛けながらも、経済的苦境から抜け出すことは、なかなか出来なかった。 そこでようやく、自分の意図を最大限尊重するという確約を取った上で、「パラマウント」の提案に乗った。コッポラにとって、最後の切り札とも言える、『ゴッドファーザーPARTⅢ』の製作に乗り出すことを決めたのだ。 コッポラは89年4月から、『ゴッドファーザー』の原作者で、シリーズの脚本を共に手掛けてきたマリオ・プーヅォと、『PARTⅢ』の脚本執筆に取り掛かった。そしてその年の11月下旬にクランクイン。 ほぼ1年後にアメリカ公開となったわけだが、先に書いた通り批評家からも観客からも、大きな支持を得ることは出来なかった。 主演のアル・パチーノも指摘していることだが、その理由は大きく2つ挙げられる。まずは、ロバート・デュバルの不在である。 前2作を通じて、ファミリーの参謀役でマイケルの義兄弟に当たるトム・ヘーゲンを演じてきたデュバルは、『PARTⅢ』への出演を断った。コッポラの妻エレノアの著書によると、デュバルが気に入るよう何度もシナリオを書き直したのに、彼が首を縦に振ることは、遂になかった。 実際はギャラの面で折り合いが付かなかったと言われているが、結果的にヘーゲンは、既に亡くなっている設定にせざるを得なくなった。もしもデュバルが出演していたら、マイケルがヴァチカンと関わることになる触媒的な役割を果たしたという。 そして『PARTⅢ』バッシングの際に、必ず俎上に上げられたのが、マイケルの娘メアリー役のキャスティング。当初この役は、当時人気上昇中だったウィノナ・ライダーが演じることになっていた。しかし突然、「気分が良くないから、参加できない」と降板。 彼女のスケジュールに合わせて3週間も、別のシーンの撮影などで時間稼ぎをしていたのが、パーとなった。そこでコッポラは急遽、実の娘であるソフィアを、メアリー役に充てたのである。「パラマウント」などの反対を押し切ってのこの起用は、マスコミの格好の餌食となった。まるでスキャンダルのように、書き立てられたのである。 デュバルとライダーが出演しなかったことに加えて、アル・パチーノは、本作の大きな間違いとして、「マイケル・コルレオーネを裁き、償わせた」ことを挙げる。「マイケルが報いを受けて、罪の意識に苦しめられるのを誰も見たくなかった」というのだ。『PARTⅢ』のクライマックス、当初の脚本では、マイケルは敵の放った暗殺者に撃たれて、人生の幕を閉じることになっていた。しかしコッポラはそのプランを変更し、マイケルが最も大切なものを失い、その魂が死を迎えるという結末に書き変えた。 まるでシェイクスピアの「リア王」や、それを原作とした、黒澤明監督の『乱』(85)の主人公が迎える結末と重なる。黒澤が、コッポラの最も敬愛する監督であることは、多くが知る通りである。 コッポラは、自らの経験をマイケルに重ねていたとも思われる。『PARTⅢ』の準備に入る3年ほど前=1986年に、コッポラは当時22歳だった長男のジャン=カルロを、ボート事故で失っているのである。 アル・パチーノが指摘する本作の大きな間違いは、実はコッポラにとって、最も譲れない部分だったのではないだろうか? さて『ゴッドファーザー』シリーズを愛する気持ちでは、人後に落ちない自負がある私だが、91年春、日本での劇場公開時に『PARTⅢ』を鑑賞した時の感想を、率直に書かせていただく。それは第1作・第2作に比べれば見劣りするが、「悪くない」というものだった。『ワン・フロム…』後の紆余曲折を目の当たりにしてきただけに、コッポラは『ゴッドファーザー』を撮らせると、やっぱり違う。この風格は彼にしか出せないと、素直に思えた。 そして前2作が、パチーノやデ・ニーロといったニュースターを生み出したのと同じ意味で、マイケルの跡目を引き継ぐことになる、ヴィンセント役のアンディ・ガルシアの登場を歓迎した。ガルシアは、『アンタッチャブル』(87)『ブラックレイン』(89)で注目を集めた、まさに伸び盛りの30代前半に本作に出演。アカデミー賞の助演男優賞にもノミネートされるような、素晴らしい演技を見せている。 本作の後、彼の主演で、レオナルド・ディカプリオを共演に迎えて、『ゴッドファーザーPARTⅣ』が企画されたのにも、納得がいく。残念ながらガルシアは、パチーノやデ・ニーロのようには、ビッグにはならなかったが…。 実はコッポラは本作に、『PARTⅢ』というタイトルを付けたくなかったという。彼が当初構想したタイトルは、『Mario Puzo's The Godfather Coda: The Death of Michael Corleone』。翻訳すれば『ゴッドファーザー:マイケル・コルレオーネの最期』である。 そしてコッポラは、『PARTⅢ』公開30周年となる昨年=2020年、フィルムと音声を修復。新たなオープニングとエンディング及び音楽を付け加えて再構成を行い、当初の構想に基づくタイトルに変えて、リリースを行った。 このニューバージョンに対し、アル・パチーノは「良くなったと確信した」と賞賛。それまで『PARTⅢ』を「好きじゃなかった」というダイアン・キートンも、この再編集版を「人生最高の出来事のひとつ」と、手放しで絶賛している。 私ももちろん、この『』を鑑賞しているが、何がどのように「良くなった」かは、今回は敢えて触れない。それはまた、別の話である。■ 『ゴッドファーザーPARTⅢ』TM & COPYRIGHT © 2022 BY PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED