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COLUMN/コラム2022.04.28
「スウィンギン・ロンドン」前夜の自由な空気を今に伝えるお洒落でシュールなコメディ『ナック』
ユース・カルチャーが台頭した’60年代半ばのロンドン 時代の空気と息吹を鮮やかに封じ込めた、さながらタイムカプセルのような映画である。時は1960年代半ば、場所はイギリスのロンドン。ヨーロッパ諸国に比べて第二次世界大戦後の経済復興が遅れたイギリスだが、しかし’60年代に入ると国民生活も次第に豊かとなり、さらにベビーブーム世代に当たる中流層の若者が経済力を持つことで、本格的な消費社会が到来する。’64年にはそれまでの保守党に代わって、中道左派の労働党政権が誕生。そうした中でファッションやポピュラー音楽などの若者文化が大きく花開き、首都ロンドンは世界に冠たるトレンド発信地へと成長する。 ビートルズにミニスカート、モッズ・カルチャーにカーナビー・ストリート。いわゆる「スウィンギン・ロンドン」の時代だ。’50年代を通して重苦しい空気に包まれたロンドンは、見違えるほど華やかでカラフルな街へと生まれ変わる。欧米のマスコミがロンドンをスウィンギン・シティ(イケてる都市)と呼ぶようになるのは’65~’66年にかけてのこと。’64年に撮影されて’65年に公開された映画『ナック』は、新たな時代へ向けて急速に変わりゆくロンドンの、若さ溢れる楽天的なエネルギーを思う存分に吸い込んだ作品だったのである。 主人公はちょっとばかり神経質な若き学校教師コリン(マイケル・クロフォード)。自宅の部屋を他人に貸している彼は、女性の出入りが激しいモテ男の下宿人トーレン(レイ・ブルックス)にイラっとしており、そのせいで無関係な女性たちにも厳しく当たってしまうのだが、しかし本音を言うと自分もモテたくて仕方がない。女性をゲットするにはどうすればいいのか。このままじゃ将来は欲求不満のスケベおじさんになってしまう! 思いつめた彼は恥を忍んで、トーレンに女性からモテる「コツ(英語でナック)」を伝授してもらおうとする。ところが、面倒くさがりで無責任なトーレンは、「んー、やっぱ食い物じゃね? チーズとかミルクとか肉とか。要するにプロテインよ」「っていうか、直感は大事だよね。でも、こればっかりは生まれつきの才能だからなあ」とテキトーなことばかり。最終的に「女は強気で支配するに限るね」などと言い出す。 その頃、故郷の田舎から長距離バスでロンドンへやって来た若い女性ナンシー(リタ・トゥシンハム)。右も左も分からない大都会に少々面喰いつつも、とりあえずYWCA(キリスト教女子青年会)を探して歩き回るナンシーだったが、しかしなかなか辿り着くことが出来ない。すれ違う人々に道を尋ねても、知らないと首を横に振られたり、間違った道順を教えられたり。そればかりか、見るからに田舎者といった感じの彼女を言いくるめて騙そうとしたり、バカにして軽んじたりする威圧的な男性ばかりに出会う。とはいえ、純朴そうに見えて実は意外としたたかなナンシーは、天性の勘と機転で「女性の危機」を上手いことやり過ごしていく。 一方、女性にモテたいならまずはベッドを大きくしなくちゃね!というナゾ理論に落ち着いたコリンは、部屋を真っ白に塗り替えないと気が済まない新たな下宿人トム(ドナル・ドネリー)に付き添われてベッドを新調することに。スクラップ置場で理想の中古ベッドを発見した彼は、そこへ迷い込んできたナンシーと仲良くなり、3人で意気揚々とロンドンの街を駆け抜けながら自宅へベッドを運ぶ。そこへ現れたトーレンはナンシーに興味津々。コリンも彼女に気があるものの、そんなこと全くお構いなしのトーレンは、チョロそうな田舎娘ナンシーを強気で口説こうとするのだが…!? 新進気鋭の鬼才リチャード・レスターとフリー・シネマの総本山ウッドフォール 本作の基になったのはアン・ジェリコーの同名舞台劇。’62年にロンドンのロイヤル・コートで初演されて評判になった同作は、古い貞操観念や男女の役割に凝り固まった旧世代の保守的なモラルを笑い飛ばす風刺喜劇だった。この舞台版をプロデュースしたのがオスカー・レウェンスタイン。ロンドンの有名な舞台製作者だったレウェンスタインは、その一方で友人トニー・リチャードソンやジョン・オズボーンの設立した映画会社ウッドフォール・フィルムにも深く関わっていた。 ウッドフォール・フィルムといえば、『怒りをこめて振り返れ』(’56)や『土曜の夜と日曜の朝』(’60)、『長距離ランナーの孤独』(’62)などの名作を次々と生み出し、同時期に起きたフランスのヌーヴェルヴァーグと並ぶ重要な映画運動「フリー・シネマ」の中心的な役割を果たしたスタジオである。この舞台版を見て映画化を思いついたリチャードソンは、舞台演出家時代から気心の知れたレウェンスタインに映画版のプロデュースも任せることに。そんな彼らが本作の演出に白羽の矢を立てたのが、当時ビートルズ映画で大当たりを取っていた新進気鋭の映画監督リチャード・レスターだった。 フィラデルフィアで生まれた生粋のアメリカ人だが、少年時代からハリウッド映画よりもヨーロッパ映画を好んで育ったというレスター。19歳で大学を卒業して大手テレビ局CBSに就職したものの、なんとなくアメリカの水が肌に合わないと感じていた彼は、’55年に開局したイギリスのテレビ局ITVの立ち上げに携わり、そのまま同局の番組ディレクターとしてロンドンに居ついてしまう。やがてテレビCMの世界にも進出し、仕事を通じてピーター・セラーズと意気投合したレスターは、セラーズ主演の短編コメディ『とんだりはねたりとまったり』(’59)で映画監督デビュー。そして、この映画の大ファンだったビートルズの指名によって、『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』(’64)と『ヘルプ!4人はアイドル』(’65)の監督に起用され、テレビCMで培ったポップで斬新な映像感覚が注目される。本作はその合間に手掛けた作品だった。 当時まだ32歳のフレッシュな才能リチャード・レスターと、フリー・シネマの総本山ウッドフォール・フィルム。「スウィンギン・ロンドン」時代の幕開けを告げる映画として、これほど理想的な顔合わせはないだろう。根っからのビジュアリストであるレスター監督は、原作の舞台劇をそのまま映画化するのではなく大胆に改変。重要な要素である「性の解放」と「世代間ギャップ」というテーマはしっかり残しつつ、現実と妄想が巧みに交錯するシュールでお洒落なブラック・コメディへと昇華させている。 早回しや逆再生、ジャンプカットなどの映像技法を凝らした自由奔放な演出は、まさしくビートルズ映画で世に知らしめた当時の彼のトレードマーク。早口で飛び交うリズミカルなセリフのやり取りは、まるでメロディのないミュージカル映画のようだ。バスター・キートンやジャック・タチを彷彿とさせる、とぼけたビジュアル・ギャグの数々も皮肉が効いている。自分たちを縛ろうとする固定概念にノーを突きつけ、今まさに生まれ変わろうとするロンドンの街を、自由気ままに駆け抜けていく4人の若い男女に思わずウキウキワクワク。そんな彼らを見て眉をひそめ、陰口をたたくオジサンやオバサンたちの様子がまた面白い。実はこれ、ロケ現場でたまたま居合わせた通行人を隠し撮りした映像を使っている。そこへ後からセリフを被せているのだ。当時のイギリスの中高年層が、ベビーブーム世代の若者たちをどのような目で見ていたのか分かるだろう。 ヒロインのナンシーを演じるのは、舞台版に引き続いてのリタ・トゥシンハム。当時の彼女はトニー・リチャードソンの『蜜の味』(’61)やデズモンド・デイヴィスの『みどりの瞳』(’64)に主演し、文字通り「フリー・シネマのミューズ」とも呼ぶべき存在だった。そういえば彼女、’60年代のロンドンを描いた『ラストナイト・イン・ソーホー』(’21)にも出ていたが、あの映画のヒロイン、エリーとサンディは本作のナンシーの暗黒バージョンみたいなものと言えよう。後にロンドンとブロードウェイの初演版『オペラ座の怪人』などに主演し、ミュージカル界の大スターとなるマイケル・クロフォードもウルトラ・チャーミング。そのピュアな少年っぽさは、どことなくエディ・レッドメインを彷彿とさせる。 さらに本作は、無名時代のジェーン・バーキンにジャクリーン・ビセット、シャーロット・ランプリングが出演していることでも知られている。夢とも現実ともつかぬオープニング・シーンで、モテ男トーレンに会うため階段にズラリと並んで列を作っている美女たち。ドアを開けたコリンの目の前に立っている女性がジャクリーン・ビセットだ。さらに、コリンの部屋に椅子を借りに来て、その後トーレンのバイクに乗って颯爽と去っていく美女がジェーン・バーキン。また、トーレンやコリンと水上スキーを楽しむダイビングスーツ美女2人の片割れがシャーロット・ランプリングである。 同年のカンヌ国際映画祭ではパルム・ドールと青少年向映画国際批評家賞の2部門に輝き、リチャード・レスター監督の名声を決定的なものにした『ナック』。当時は斬新だった映像技法やユーモアも、時代と共に色褪せてしまった感は否めないものの、しかし「スウィンギン・ロンドン」前夜の活気溢れるロンドンの空気を今に伝える作品として、映画ファンならずとも見逃せない作品だ。■ 『ナック』© 1965 Woodfall Film Productions Limited. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.04.22
ジョン・ウェインのターニングポイントとなった、巨匠ハワード・ホークス初の“西部劇”『赤い河』
“デューク(公爵)”の愛称で、長くハリウッドTOPスターの座に君臨した、ジョン・ウェイン(1907~79)。“戦争映画”などの出演も多かったが、特に“西部劇”というジャンルで、数多の名作・ヒット作の主演を務め、絶大なる人気を誇った。 ジョン・ウェインと言えば、やはり“西部劇の神様”ジョン・フォード(1894~1973)作品のイメージが強い。出世作となった『駅馬車』(39)をはじめ、『アパッチ砦』(48)『黄色いリボン』(49)『リオ・グランデの砦』(50)の“騎兵隊三部作”や『捜索者』(56) 『リバティ・バランスを射った男』(62)等々、フォード監督作には、20数本に渡って出演している。 生涯、フォードを尊敬して止まなかったと言われるウェイン。しかしインタビューでは、こんな本音も覗かせている。 「わたしがスターになれたのは、たしかに『駅馬車』のおかげだ。しかし、ジョン・フォード監督はわたしを俳優として認めてくれなかった-ハワード・ホークス監督の『赤い河』に出たわたしを見るまでは」 ハワード・ホークス(1896~1977)は、サイレント期に監督デビューし、以降40年以上に渡って、スクリュー・ボール・コメディからミュージカル、メロドラマ、ギャング映画、航空映画、そして西部劇等々、様々なジャンルの作品を世に送り出した。ハリウッドではその多様性から、長らく“職人監督”として軽視されるきらいがあったが、フランスのヌーヴェルヴァーグの映画作家などに熱狂的に支持されたのを機に、本国でも60年代から70年代に掛けて、「再評価」の機運が高まった。今日では彼を紹介する際、“巨匠”と冠することに、躊躇する者は居ない。 そんなホークスは、こんな風に語っている。 「ジョン・ウェインくらいウエスタン・ヒーローにふさわしく、肉体的にも精神的にも、がっしりとした、たくましい男はいない。しかも、彼くらい的確な映画的感覚を持った俳優をわたしは知らない」 ホークスがウェインと組んだ作品は、5本で、その内4本が“西部劇”。初顔合わせとなったのが、本作『赤い河』(48)である。そしてこれは、ホークスにとって初の“西部劇”でもあった。 ***** 19世紀半ば、開拓民の幌馬車隊に同行していたトーマス・ダンソン(演:ジョン・ウェイン)は、牧畜に適した土地の目星を付け、そこに向かうことにする。相棒のグルート(演:ウォルター・ブレナン)1人と、自分の牛数頭を引き連れて。 その際に恋人フェンも同行を望んだが、危険な道中を思って、ダンソンは頑なに拒む。そして、牧場を持ったあかつきには、彼女を必ず迎えに行くことを誓う。 しかしダンソンたちが離れた隊は、先住民に襲われ、フェンも殺されてしまう。隊の唯一の生き残りとなった、12歳の少年マットを仲間に入れて、ダンソンたちは“レッド・リバー”を越え、テキサスへと向かった。 占有権を主張するメキシコ人との対決を経て、広大な土地を我がものとした、ダンソン。大牧場主として君臨する、第一歩を踏み出した。 それから14年…。南北戦争が終結した頃、テキサスでは食肉が捌けなくなり、牧場が抱える1万頭もの牛も、二束三文の価値しかなくなってしまう。そこでダンソンは、食肉の需要が見込める、北部のミズーリへと牛たちを大移動させる計画を立てる。 彼と共にロングドライブに挑むのは、相棒グルートに、成長したマット(演:モンゴメリー・クリフト)、そしてダンソンが雇ったカウボーイたち。道中では彼らに、次々と苦難が襲い掛かる。長雨や食糧不足、牛の大群のスタンピード=大暴走、山賊や先住民の脅威…。 リーダーとして、時には仲間の命を奪ってでも、統率を図ろうとするダンソンに、不満や反発が強まっていく。まったく聞く耳を持たない強権的で頑迷なダンソンに、遂に彼が我が子同様に育ててきたマットも、叛旗を翻す。 ロングドライブから置き去りにされたダンソンは復讐を誓い、マットたちの後を追うが…。 ***** 1万頭もの牛を、テキサスの10倍の値が付く北部へと大移動させる、“キャトル・ドライブ=牛追い旅”。『赤い河』の原案になったのは、その2,000㌔前後にも及ぶ行程で起こる様々な軋轢や事件を、史実に基づいて描いた、ボーデン・チェイスの小説である。 アメリカの“フロンティア・スピリット”を象徴するかのようなこの題材に惹かれたホークスは、映画化権を買い、チェイスに脚本も依頼した。しかし実際に作業に入ると、チェイスは原作の改変に抵抗。共同脚本のチャールズ・シュニーと一緒に仕事をしようとはせず、後々までホークスのことを悪し様に言い続けることになった。そんなチェイスについてホークスは、「…余り虫が好かなかった。彼は単なる馬鹿だ…」などと、後に斬り捨てている。 ダンソンの演者として、ホークスが当初イメージしていたのは、ゲーリー・クーパー。しかしクーパーには断わられ、ジョン・ウェインに依頼することに。 当時40代を手前にしたウェインは、それまではフォード以外には、一流と言える監督と仕事をしたことがなかった。ホークスからのオファーに喜びを感じつつ、一点気ががりだったのが、年を取った男を演じることだった。 そんなウェインにホークスは、声を掛けた。「デューク、君ももうすぐ老人になる。その練習をしておいたらどうだ」 ウェインはそれで、納得させられた。いざ撮影に入ると、自分をいつまでも“新人”のように扱うフォードと違って、ホークスとは対等な関係が築けたという。 マット役には、当時の全米ロデオチャンピオンである、ケイシー・ティッブズを考えた。しかし演技経験のない若者と、ウェインの組み合わせに、ホークスがリスクを感じるようになった頃、ティッブスが腕を骨折。彼が映画スターとなる機会は、失われた。 その後他の候補を経て、行き着いたのが、当時ブロードウェイの舞台で高い注目を集めていた、モンゴメリー・クリフト(1920~66)だった。アクターズ・スタジオ仕込みの、いわゆる“メソッド俳優”だったクリフトは、映画初出演作に『赤い河』が決まると、すぐにロケ地のアリゾナへと飛んだ。そこで一級のカウボーイと3週間を過ごして、乗馬・投げ縄・射撃を学び、クランクインする頃には、“西部劇”の所作を自分のものとしていた。 撮影現場ではクリフトと、ウェイン&ホークスの相性は、必ずしも良いものではなかったと伝えられる。しかし、撮影は本作の後ではあったが、同じ年に先んじて公開された、フレッド・ジンネマン監督の『山河遙かなり』(48)と合わせて、クリフトは映画の世界でも、一躍脚光を浴びる存在となる。 ダンソンの相棒グルート役には、ウォルター・ブレナン(1894~1974)がキャスティングされた。ブレナンはアカデミー賞史上でただ一人、助演男優賞を3回受賞している名脇役であるが、ホークスとの出会いとなった作品は、『バーバリー・コースト』(35~日本では劇場未公開)。 初めて会った時に、ホークスがセリフのテストをしようとすると、ブレナンは、「なしで、それとも、ありで?」と尋ねたという。ホークスが何のことかわからずにいると、それは“入れ歯”を入れたままセリフを言うか、それとも外して言うかという意味だった。ブレナンは30代の頃、撮影中に馬に蹴られて、歯を欠いてしまっていたのだ。 その後すっかり、ブレナンはホークスのお気に入りとなった。実は『赤い河』では、ブレナンと出会った時の“入れ歯”のエピソードをアレンジした、秀逸なギャグが登場する。具体的には観てのお楽しみとしておくが、その背景を知っておくと、ホークスとブレナンの信頼関係が伝わってきて、実に楽しい。 ロング・ドライブの終盤で、マットと恋に落ちるテス・ミレー役を演じたのは、ジョアン・ドルー(1922~96)。ドルーの役どころは、ホークスの諸作に登場する、いわゆる“ホークス的女性像”の典型と言える。機知とカリスマ性を持って、男性に対して強気な物言いをする。そして欲しいと思ったものを得るためには、行動的になるキャラクターである。 原住民の襲撃に出遭い、ミレーの肩に矢が突き刺さる場面がある。そしてこれが、マットとの運命的な出会いともなる。痛みを訴えることもなく、顔色ひとつ変えないミレーと、彼女を助けようとするマットのやり取りは、まさに“ホークス的女性像”を象徴する、見せ場となっている。 本作のクライマックスは、ダンソン=ウェインVSマット=クリフトの対決。壮絶な殴り合いとなるのだが、義理の父子は拳を交わす中で、お互いへの想いを確認していく。こうした展開は、ホークスの他の作品にも見受けられるのだが、彼は「…わたし自身がそういうかたちで親友を得たという体験にもとづいているのかもしれない…」と語っている。 ダンソンとマットは、親子という以上に、ライバルの意識を持っており、そんな人間同士の関わりがどのようにして生まれるか? ホークスはそれを、表現しようとしたのだという。 本作でウェイン演じるダンソンは、“レッド・リバー”とダンソンの頭文字であるDを象ったデザインのマークを、牧場の門柱に掲げ、牛の焼き印として使用している。本作撮影を記念して、このデザインをあしらったガンベルトのバックルが作られ、監督や主要キャストに配られた。 そしてウェインはその後、“西部劇”に出演する際はいつも、このバックルを身に付けるようになる。その理由を、彼は次のように語っている。「…ウエスタン・ベルトにぴったりのデザインだし、幸運がついているんだよ…」 先に記した通り、それまでウェインを「俳優として認めてくれなかった」ジョン・フォードだったが、本作を観て、「あの木偶の坊が演技できるとは知らなかった」と、親友だったホークス相手につぶやいたという。そしてそれをきっかけに、フォード作品に於けるウェインも、人間的に深みのある役どころが多くなっていく。 またウェインは、本作の大ヒットによって、翌年初めてボックス・オフィス・スターの4位にランクイン。以降20年以上、ベスト10入りを続けた。『赤い河』は紛れもなく、ウェインのターニングポイントとなり、映画俳優としての地位を盤石なものとしていく、記念碑的な作品だったのである。そして本作は、「AFI=アメリカ映画協会」が2008年に選定した「西部劇ベスト10」では、第5位にランクインしている。■ 『赤い河』© 1948 Metro-Goldwyn-Mayer Studios Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.04.11
ブルース・ウィリスのやりたい放題が炸裂したトンデモ超大作『ハドソン・ホーク』
今年3月30日、ブルース・ウィリスが“失語症”のために、俳優業を引退するという、衝撃的なニュースが飛び込んできた。この病気は、脳卒中や脳外傷などによって発症することが多く、会話や読み書きを含む言語能力が低下するというもの。 近年のウィリスと言えば、やたらと出演作が多く、しかもその大半が、劇場公開にまで至らない、いわゆるビデオストレート作品。そこから推して知るべしだが、評判が芳しくないものがほとんどであった。 そのため、アカデミー賞開催前夜に、「サイテー」の映画を選んで表彰する「ラジー賞=ゴールデンラズベリー賞」では、昨年=2021年にリリースされたウィリスの出演作8本を対象に、「ブルース・ウィリスが2021年に見せた最低演技部門」を新設。3月27日にはその中から、『コズミック・シン』(日本では昨年11月にDVD発売)が、「サイテー賞」に選出された。 しかしその3日後に、ウィリス引退の報が流れると、「ラジー賞」の主催団体は、この賞の設置を撤回。「もしも誰かの健康状態がその人の意思決定やパフォーマンスの要因になっているのならば、その人にラジー賞を与えるのは不適切…」との説明を行った。 いずれにしても、まだ67歳。ウィリスがスターダムにのし上がっていくのを、リアルタイムで目撃していた世代としては、「残念」という他はない。 ゴールデングローブ賞やエミー賞の獲得歴はあれど、アカデミー賞には、まったく縁のない俳優であった。そしてその逆に、件の「ラジー賞」の常連でもあった。今となってはそれも、“バカ映画”も含めて数多くの娯楽作品に出演を続けた、彼の勲章と言えるかも知れない。 ウィリスが世に出たのは、30歳の時。85年スタートのTVシリーズ「こちらブルームーン探偵社」(~89)に、当時は格上のスターだったシビル・シェパードの相手役として、オーディションで3,000人の候補者の中から選ばれたのである。 そこで人気を得た彼は、スクリーンの世界を目指す。その決定打となったのが、『ダイ・ハード』(88)のジョン・マクレーン役だった。たまたま事件現場に居合わせてしまった平凡な中年刑事が、愚痴をボヤきながらも機知の限りを尽くして、犯罪集団を壊滅へと追い込んでいく。 当時はシルベスター・スタローンやアーノルド・シュワルツェネッガーなど、バリバリ大殺戮を繰り広げるような、筋骨隆々な無敵のヒーローものの全盛期。そんな中、見た目は冴えない中年男で、はじめは拳銃を撃つのも躊躇するようなマクレーン刑事は、至極新鮮に映ったものである(もっともそんな『ダイ・ハード』も、シリーズ化されて回を重ねていく内に、マクレーンの無敵ぶり・不死身ぶりが、ジェット戦闘機相手に、素手で挑んでも勝ってしまうほどに、インフレ化していくのだが…)。 何はともかく90年代は、『パルプ・フィクション』(94)『12モンキーズ』(96)『フィフス・エレメント』(97)『アルマゲドン』(98)『シックス・センス』(99)等々、非アクションも含めて、数多くのメガヒット作に出演。ウィリスは、TOPスターの地位を揺るぎないものにしていく。 しかしそんな最中でも、もちろんうまくいかなかった作品はある。近年ほどではないにしろ、当時から出演作が多かったウィリスの場合、結構な死屍累々。そんな中でもとびきりの“爆死”作品として語り継がれることになったのが、本作『ハドソン・ホーク』(91)である。 ***** 10年間のムショ暮らしをようやく終えた、エディ(演:ブルース・ウィリス)。彼は“ハドソン・ホーク”と異名を取る怪盗で、悪徳観察官から新たな“仕事”を持ち掛けられるも、今はただ落ち着いた生活を送りたため、その依頼を断わる。 かつての仲間で親友のトミー(演:ダニー・アイエロ)の元に身を寄せたエディだったが、悪の誘いは引きも切らない。結局エディは、マフィアのマリオ・ブラザースの脅迫に屈し、トミーと共にレオナルド・ダ・ヴィンチ作の芸術作品「スフォルツア」を盗み出すハメになる。 見事犯行に成功した2人だが、ニュースでは、失敗したものとして報じられる。そして盗んだ筈の「スフォルツア」が、オークションへと出品される。 エディは、オークション会場へと乗り込む。「スフォルツア」は、怪しげな富豪のメイフラワー夫妻に競り落とされるが、その瞬間に会場では大爆発が起こる。エディは隣り合わせた謎の美女アナ(演:アンディ・マクダウェル)の命を救うも、自らは落下物のために気を失う。 気付くと走る救急車の中で、マリオ・ブラザースの囚われの身となっていたエディ。決死の脱出に成功すると、今度は彼の前に、過去に因縁のあったCIA捜査官キャプラン(演:ジェームズ・コバーン)の一味が現れる。 再び気絶させられたエディが、次に目が覚めたのは、ローマ。そしてメイフラワー夫妻をTOPに頂く犯罪組織が、世界征服のために必要なものを、自分を使ってバチカンから盗ませようとしていることを知る。 マフィアにCIA、そしてバチカンまで絡んだ世紀の大陰謀に、エディは相棒トミー、謎の美女アナと共に立ち向かっていく…。 ***** 日本の劇場用プログラムに掲載されている、複数の解説コラムでは、お馴染みの「ルパン三世」に、やたらと言及している。なるほど、一流の腕を持つ怪盗ながら、ちょっと間抜けなところもあり、またセクシーな美女にはからっきし弱い辺り、「ルパン」的ではある。 実際に物語のベースとして参考にしたのは、『泥棒成金』(55)や『トプカピ』(64)『ピンクの豹』(63)『おしゃれ泥棒』(66)といった、往年の“泥棒映画”群。また大富豪夫妻が、珍奇な発明品を用いて世界征服を企む辺りは、60年代に『007』シリーズの大ヒットで次々と製作された、荒唐無稽なスパイ映画シリーズ『サイレンサー』(66~68)や『電撃フリント』(66~67)などの影響と言われる。『電撃フリント』の主役だったジェームズ・コバーンがCIAのエージェントを演じるのは、その流れであろう。 さてそんな本作誕生のきっかけは、製作から遡ること10年以上前の、1980年のある夜。ロバート・クラフトというミュージシャンが、ニューヨークのグリニッジビレッジにあるナイトクラブで演奏していた際、観客の1人だったウィリスが、ハーモニカを吹いたことに始まる。 2人は仲良くなり、当時はバーテンダーで生計を立てていたウィリスは、しばしばクラフトのステージに参加するようになった。クラフトのレパートリーの中でも、ウィリスが特にお気に入りだった楽曲が、「ハドソン・ホーク」。 これはクラフトがある昼下がりに、マンハッタンのウエストサイドを歩いていた際に、ハドソン川の方から風が吹いてきたのにインスピレーションを得て、作った曲だった。“ホーク”というのは、ミシガン湖を襲った暴風に付けられた名前で、それをハドソン側からの風に結び付けて、「ハドソン・ホーク」というタイトルにしたのである。 ウィリスはこの由来を聞いて、古典的なエンタメ作品のキャラのテーマにぴったりだと感じた。そしてクラフトの依頼で、この曲に歌詞を付けた。その際に、“ハドソン・ホーク”とその相棒トニーのキャラクターも出来上がったという。 しかし、当時はまだ無名の存在だったウィリスとクラフト。もしどちらかが映画を製作する立場になったら、「世界一の怪盗映画」にしようと誓い合ったが、これらのアイディアは暫し、凍結となった。 それから月日が流れて、TVの人気者となったウィリスは、『キャデラック・カウボーイ』(88/日本未公開)という作品に主演する際、“ハドソン・ホーク・プロ”と名付けた、自らのプロダクションで製作に参画した。この作品は当たらなかったが、次に主演したのが、『ダイ・ハード』。 その2年後には続編『ダイ・ハード2』(90)も大ヒットとなって、ウィリスは“スーパースター”の座を手に入れる。彼は勇躍、クラフトと共に、本作の製作に乗り出したわけである。 ウィリスは、本作のプロデューサーを、『ダイ・ハード』シリーズはじめ、『リーサル・ウェポン』シリーズ(87~98)、『マトリックス』シリーズ(99~ )など、ド派手なアクション大作で勇名を馳せた、ジョエル・シルバーに依頼。シルバーは、ドル箱シリーズの主演スターからの頼みを、むげには出来なかったものと思われる。 監督に決まったのは、フランシス・フォード・コッポラ門下の出身で、『ヘザース/ベロニカの熱い日』(89)という青春もののブラック・コメディが評判となった、マイケル・レーマン。相棒トニー役には、ウィリスと以前からの知り合いだった、ダニー・アイエロがキャスティングされる。アイエロはスパイク・リー監督の『ドゥ・ザ・ライト・シング』(89)で、アカデミー賞助演男優賞にノミネートされ、そのキャリアがピークを迎えた頃だった。 元々ミュージシャンでありコメディアンであったウィリスは本作に関して、「…出来るだけ突拍子もないコメディにしたかった」と語っている。ある意味でその願いは、実現することとなる…。 ニューヨーク、ロサンゼルスから、ローマ、ブダペスト、ロンドンと、大々的なロケーションを行うと同時に、複数の巨大セットを建てて行われた本作の撮影は、トラブルの連続。謎のヒロイン役は、イザベラ・ロッセリーニやイザベル・アジャーニの名が挙がった後、マルーシュカ・デートメルスに決まるも、クランクインして6週間後に、彼女は背中を痛めて降板となる。 その代役となったアンディ・マクダウェルによると、本作の撮影に臨んでは、セリフを覚えることよりも、製作側の突然の要求に柔軟な対応ができるよう準備していたという。現場がいかに混乱していたか、伝わってくる証言である。 主要スタッフの交代劇もあり、脚本の最後も書き直しが行われるなど、相次ぐトラブルに、製作費はどんどん膨れ上がる。最終的に、当時としては破格の4,000万㌦に達した。 アクションとミュージカルとコメディを融合させた本作で、“スーパースター”ブルース・ウィリスの思うがままに進行させたツケは、高くついた。全米公開の興収は、製作費の半分にも満たない、大コケ。 その年度の「ゴールデンラズベリー賞」では、作品賞、監督賞、脚本賞の3部門にわたって受賞を果たし、正真正銘の“サイテー作品”と認定された。思えばウィリスの引退まで続いた「ラジー賞」との因縁は、この時に始まったわけである。 本作後、先にも記した通り、ブルース・ウィリスは数々のメガヒット作に出演し、“スーパースター”としての地位を確固たるものにしていく。その中ではプロデューサーとして参画した作品もあるが、脚本にまで手を出した作品は、後にも先にも、本作1本に終わった。 本作を賞賛する声はほとんど聞かないが、30年余に渡って我々映画ファンを楽しませてくれた、稀代のアクションスター、ブルース・ウィリスが心底やりたかったことを、やり尽くした作品である。『ハドソン・ホーク』は、彼のフィルモグラフィーを振り返る上で、ある意味ハズせない1本と言える。■ 『ハドソン・ホーク』© 1991 TriStar Pictures, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.04.06
『ジョーズ』ブームの流れを汲むエログロ満載の海洋モンスター映画!『モンスター・パニック』
男は殺して女はレイプする!残酷でスケベな半魚人軍団が漁村を襲撃! ハリウッド映画にセックスとバイオレンスが溢れていた時代を象徴するようなモンスター映画である。1934年に映画界の自主規制条項ヘイズ・コードが実施されて以降、キリスト教のモラルに反するような性描写や暴力描写などが半ばご法度となってしまったハリウッド。ヘイズ・コード自体に法的な強制力があったわけではないが、しかし全米の映画館の大半はアメリカ映画製作者配給者協会(現在の映画協会)の承認した映画しか上映せず、その承認を得るためにはヘイズ・コードの条項を遵守したうえで審査を受ける必要があった。そのため、草創期のアメリカ映画には存在したセックスとバイオレンスが、30年以上に渡ってほとんど影をひそめてしまったのである。 もちろん、そうした実質上の「検閲」を意に介さないフィルムメーカーたちも存在はした。ハリウッドの映画業界とは縁もゆかりもなく、従ってヘイズ・コードの審査を通す必要もないインディペンデント映画の製作者たちだ。彼らはメジャーな映画をレンタルする経済的な余裕がない場末の映画館やドライブイン・シアターのため、安上がりで刺激的な内容の性教育映画やヌーディスト映画、スプラッター映画を供給したのである。ただ、それらの作品は上映できる場所が限られていたため、一般的な映画ファンの目に触れる機会はあまりなかった。しかし、社会の意識改革が進んだ’60年代半ばになるとヘイズ・コードの影響力も薄れ、’68年には廃止されて現在のレーティング・システムが導入されることに。’70年代以降はハリウッドのメインストリーム映画でもセックスとバイオレンスが本格的に解禁され、中でも商魂たくましいB級エンターテインメントの世界では我先にと過激さを競うようになる。血みどろの残酷描写とあられもない女体ヌードが満載の本作『モンスター・パニック』(’80)も、そんなハリウッドのエログロ全盛期に誕生した映画のひとつだった。 舞台はカリフォルニア州の小さな漁村ノヨ。豊かな自然に恵まれた平和な場所だが、しかしその水面下では住民同士の対立が深まっていた。というのも、数年前から地元に大きな缶詰工場の建設が計画され、その経済効果に期待する推進派と環境破壊を懸念する反対派が互いにいがみ合っていたのである。中でも推進派の代表格ハンク(ヴィック・モロー)と、反対派のリーダーであるネイティブ・アメリカンの青年ジョニー(アンソニー・ペーニャ)は犬猿の仲。人種差別主義者でもあるハンクはジョニーを目の敵にし、子分どもを率いてたびたび嫌がらせをしていたのだが、村人からの信頼も厚い中立派のジム(ダグ・マクルーア)の仲裁で、なんとか決定的な衝突が避けられているような状態だった。 そんなある日、沖合に出ていた漁船が正体不明の巨大生物に襲われて大破し、さらに地域で放し飼いにされていた犬たちが大量に殺される。これを反対派の仕業だと勝手に思い込んで報復を計画するハンク一味。しかし、真犯人は海から陸へ上がって来た半魚人の群れだった。やがて、海岸でデートをしている若いカップルが次々と半魚人に襲撃されていくのだが、しかし殺されるのは男性だけ。一方の女性は片っ端からレイプされてしまう。ジョニーの自宅でバーベキューを楽しんでいたジムの弟トミーと恋人リンダも被害に遭い、辛うじてトミーは一命を取り留めたものの、助けを呼ぶため車を走らせたリンダは、半魚人に襲われて端から転落死してしまった。ジョニーの証言によって村の危機を知ったジムは、缶詰工場の顧問を務める生物学者スーザン(アン・ターケル)の協力を得て真相究明に乗り出す。 以前から運営会社に環境破壊の危険性を警告していたスーザンは、会社が秘密裏に遺伝子操作で開発した新種のサーモンが工場から流出し、それを食べた海洋生物が突然変異でヒューマノイド化したと推測する。しかも、彼らは種を進化させるために人間の女性との交配を目論み、不要な男性は容赦なく殺していたのである。折しも、村では毎年恒例のサーモン祭が開かれようとしていた。住民や観光客に警戒を呼び掛けようとするジムとスーザン。しかし時すでに遅く、大量の半魚人軍団に襲撃されたサーモン祭は阿鼻叫喚の地獄と化してしまう…! 『モンスター・パニック』© 1980 New World Productions, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.04.06
ヌーヴェルヴァーグの先駆者シャブロルの代表作『いとこ同志』
「フランスのヒッチコック」とも呼ばれたシャブロルとは? ‘50年代後半から’60年代にかけて、フランス映画界を席巻した「ヌーヴェルヴァーグ」の大きな波。当時のヨーロッパではイギリスのフリー・シネマやドイツのニュー・ジャーマン・シネマなど、各国で新世代の先進的な若手映像作家が急速に台頭し、旧態依然とした映画界に変革を起こしつつあった。それはヨーロッパ最大の映画大国フランスでも同様。従来のスタジオシステムに囚われない若い才能が次々と登場し、その大きなうねりを人々は「新たな波=ヌーヴェルヴァーグ」と呼んだのである。 このヌーヴェルヴァーグのムーブメントには、大きく分けて「カイエ・デュ・シネマ派」と「セーヌ左岸派」が存在した。前者は雑誌「カイエ・デュ・シネマ」に寄稿していたフランソワ・トリュフォーやジャン・リュック・ゴダール、ジャック・リヴェット、エリック・ロメールなどの映画批評家たち、後者はパリのセーヌ左岸に集ったアラン・レネやアニエス・ヴァルダ、ルイ・マルなど主にドキュメンタリー出身の作家たち。その「カイエ・デュ・シネマ派」の中でも先陣を切って映画制作に乗り出し、トリュフォーやゴダールと並んでヌーヴェルヴァーグの旗手と目されたのがクロード・シャブロルだった。 とはいえ、当時のヌーヴェルヴァーグ作家群の中でも、シャブロルは少なからず異質な存在だったと言えよう。ゴダールは自己表現のために映画を利用し、シャブロルは映画そのものに奉仕すると言われるように、彼は特定のジャンルやイデオロギーに囚われることなく様々なタイプの映画に取り組む、純粋な意味での「映画作家」だった。なので、やがてヌーヴェルヴァーグの勢いが落ち着いていくと、商業映画に背を向けたゴダールやリヴェットが政治的に先鋭化し、資金繰りに窮したロメールはテレビへ活路を見出し、トリュフォーはメインストリームのアート映画を志向するなど、ヌーヴェルヴァーグの仲間たちが各々別の道を模索していく中、シャブロルは折から流行のスパイ・コメディなど大衆娯楽映画に進出する。恐らく彼にとっては、たとえ低予算のプログラム・ピクチャーであろうと、大好きな映画を撮り続けることが重要だったのだろう。 中でも彼が最も得意としたのはミステリー映画。アルフレッド・ヒッチコックやフリッツ・ラング、ジョゼフ・L・マンキーウィッツなどをこよなく愛し、ロメールと共著でヒッチコックの研究書も執筆したことのあるシャブロルは、’60年代後半から’70年代にかけて『女鹿』(’68)や『肉屋』(’69)など数々の優れたミステリー映画を発表し、一時は「フランスのヒッチコック」とも評されるようになる。ヌーヴェルヴァーグを一躍世に知らしめたと言われ、ベルリン国際映画祭では金熊賞を獲得した監督2作目『いとこ同志』(’59)にも、既にその兆候を垣間見ることが出来るだろう。 明暗を分ける「いとこ同志」の青春残酷物語 法学の試験を受けるため、田舎から大都会パリへとやって来た若者シャルル(ジェラール・ブラン)。真面目でシャイなお人好しの彼は、同じく法律を学ぶ従兄弟ポール(ジャン=クロード・ブリアリー)と同居することを条件に、過保護な母親の許しを得ることが出来たのだ。そのポールは、シャルルとまるで正反対の破天荒で不真面目なプレイボーイ。広い高級アパートに遊び仲間を集めては、夜な夜なドンチャン騒ぎを繰り広げている。その贅沢な暮らしぶりに圧倒される田舎者のシャルルだったが、少しずつグループの輪にも慣れていき、大都会での暮らしを満喫しつつ勉学に励む。日頃から傲慢で自堕落なポールも、実のところ根は悪い人間ではなかった。 そんなある日、シャルルはポールの取り巻きグループの女性フロランス(ジュリエット・メニエル)に一目惚れする。恋に落ちると周りが見えなくなってしまう初心で不器用なシャルル。それなりに恋愛遍歴を重ねてきたフロランスも、今どき珍しく純情で一途なシャルルに好感を抱き、デートの誘いに応じるようになる。ところがある時、約束の時間を間違えたフロランスがアパートでシャルルを待っていたところ、ポールとその悪友クロヴィス(クロード・セルヴァル)に忠告される。真面目過ぎるシャルルと遊び慣れた君とでは絶対に合わない、いずれ退屈して彼を傷つけることになるだけだ…と。なんとなくその場の雰囲気でポールとキスしたフロランスは、そのまま彼の恋人として同居することになる。 この予期せぬ展開に大きなショックを受けるシャルルだったが、それでもなんとか平静を装い、試験に合格して見返してやろうとする。なにより、女手ひとつで育ててくれた母親の恩に報いるためにも、試験に落ちるわけにはいかなかった。とはいえ、目の前でいちゃつく2人との共同生活はストレスで、なかなか勉強にも身が入らない。そんなシャルルの複雑な心境も考えず、勉強ばかりしないで一緒に遊ぼうよ!と無邪気に誘うポールとフロランス。おかげで、シャルルはあえなく試験に落第してしまう。一方、ろくに勉強などしなかったポールは、賄賂とコネを使ってちゃっかり合格を手に入れていた。恋人を横取りされたうえに、試験でも負けてしまったシャルル。やはり貧乏人は金持ちに敵わないのか。無力感と敗北感に苛まれた彼の心に、やがてポールへの殺意が芽生えていく…。 また、本作はシャブロルにとって最大の協力者である脚本家ポール・ジェゴフとの初仕事でもあった。ルイ・マル監督の『太陽がいっぱい』(’60)の脚本家としても知られ、シャブロルとは「カイエ・デュ・シネマ」時代からの親友だったジェゴフ。実は『美しきセルジュ』でも彼に手伝ってもらうつもりだったシャブロルだが、しかし当時のジェゴフは20世紀フォックス広報部の業務で忙しかったために叶わなかった。まあ、もとはといえば先にフォックスで仕事をしていたシャブロルが、スタッフ増員の際にジェゴフを引き入れたので、その経緯を考えれば無理を言えた義理ではなかったのだろう。その後、仕事に嫌気のさしたジェゴフはフォックスを退社。めでたく(?)本作での初コラボが実現することとなったわけだ。 基本的にジェゴフが草稿を書き上げ、そこにシャブロルが加筆・修正を加えていくというスタイルで完成した本作の脚本。元になったあらすじはシャブロルのものだが、しかし出来上がった脚本の99.5%はジェゴフのものだという。そんなジェゴフは相当に破天荒な人物だったそうで、なおかつ女性関係にもだらしなかったという。もしかすると、ポールのモデルは彼だったのかもしれない。ただまあ、若い頃のシャブロルもなかなかのヤンチャ坊主で、しかも女癖の悪さを治すために結婚したというほどの遊び人だったらしいので、反対にジェゴフがシャブロルをもとにしてポールの人物像を作り上げたとも考え得る。その辺りも興味深いところだ。 ちなみに、本作は後にシャブロルのミューズとして数々の映画に主演し、2番目の妻ともなる女優ステファーヌ・オードランとの初仕事でもある。ポールの友人で生真面目すぎる若者フィリップを振り回す、プラチナブロンドの浮気性女フランソワーズを演じているのがオードランだ。主演のジェラール・ブランとジャン=クロード・ブリアリーは、前作『美しきセルジュ』からの再登板。これが本格的な映画デビューだったフロランス役のジュリエット・メニエルは、化粧石鹸の広告で彼女を見かけたシャブロルによってスカウトされたという。■ 『いとこ同志』© 1959 GAUMONT
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COLUMN/コラム2022.03.25
スティーヴ・マックィーン晩年の素顔も投影された遺作『ハンター』
もう40年以上の歳月が、流れてしまった。1980年11月7日…稀代のアクションスター、スティーヴ・マックィーン死去が報じられた際の衝撃を、今の若い映画ファンに伝えるのは、もはや至難の業かも知れない。 家庭環境に恵まれない不良少年だったマックィーンは、折り合いの悪かった継父によって、少年院に送り込まれる。退所後は数々の職を経て、海兵隊に入隊。3年間の軍隊生活を送った。 彼が演劇の勉強を始めたのは、20代になってから。そして30前後からスター街道をひた走り、やがて“キング・オブ・クール”と異名を取る、世界的な人気者となった。 1930年生まれ。思えばクリント・イーストウッドと、同い年である。マックィーンは「拳銃無宿」(58~61)、イーストウッドは「ローハイド」(59~65)という、それぞれTVの西部劇シリーズで世に出て、その後『ブリット』(68)『ダーティハリー』(71)という、それぞれに刑事アクションの歴史を塗り替える、大ヒット作のタイトルロールを演じた。 齢90を超えて未だに監督・主演作をリリースする、イーストウッドの驚くような頑健さ。それを思うと、マックィーンの享年50という短命には、改めてもの悲しい気分に襲われる。 筆者はマックィーンの、それほど熱心なファンだったわけではない。しかし70年代中盤から映画に夢中になった身には、マックィーンは、「絶対的なスター」と言える存在であった。 各民放が毎週ゴールデンタイムに劇場用映画を放送していた、TVの洋画劇場の全盛期。その頃確実に視聴率を取れる“四天王”と言われたのが、アラン・ドロン、ジュリアーノ・ジェンマ、チャールズ・ブロンソン、そしてスティーヴ・マックィーンだった。 マックィーンの他にポール・ニューマンやウィリアム・ホールデン、フェイ・ダナウェイら大スター競演のパニック映画超大作『タワーリング・インフェルノ』(74=日本公開は翌75年)以来、新作の日本公開が途絶えても(1976年にヘンリック・イプセンの戯曲『民衆の敵』を映画化した作品の製作・主演を務めたが、アメリカ本国でもまともに公開されず、日本では83年までお蔵入りとなった)、TVや名画座で彼と会うことは、困難ではなかった。筆者はまだビルになる前の池袋の文芸坐で、『荒野の七人』(60)『大脱走』(63)という、彼の代表作2本立てを楽しんだ記憶がある。 そんなマックィーン待望の新作が、5年振りに、しかも立て続けに日本公開されたのが、1980年だった。4月に『トム・ホーン』、そして12月に本作『ハンター』。しかし『ハンター』が公開された頃には、マックィーンはもう、この世の人ではなかったのだ…。 ***** 現代社会を生きる“バウンティ・ハンター=賞金稼ぎ”のラルフ・ソーソン、通称“パパ”。彼はロサンゼルスから逃げ出した犯罪者を追って、アメリカ各地へと赴いては逮捕し、ロスに戻って警察に引き渡すのが、主な仕事である。 彼の依頼主は、犯罪者に保釈金を貸し付ける業務を行っている、リッチー。逃亡されて、保釈金がパーになることを防ぐため、ソーソンに依頼を行うのである。 ソーソンの家は、いつも多くの人間が集まっては、ポーカーに勤しんでいる。時には、まったく面識のない者まで。 そんなザワついた家で、ソーソンを優しく迎えてくれるのは、彼よりかなり年下の女性ドティー。小学校の教師である彼女は、現在ソーソンの子どもを妊っている。 粗暴な大男、爆弾魔の兄弟、逃亡中に電車をジャックする凶悪犯、日々そんな者たちと、命を危険に晒しながら渡り合っているソーソンの悩みは深い。こんな自分が、父親になって良いのだろうか? 臨月を迎えて出産目前のドティーとソーソンの関係が、ギクシャクし始める。そんな時に、彼の命を狙う者が現れた。かつてソーソンがムショ送りにした男、ロッコだ。 ある夜、仕事を終えて自宅に戻ったソーソンは、ドティーがロッコに連れ去られたことを知る。その監禁先は、彼女が教壇に立つ小学校。 急ぎ車を飛ばすソーソンは、愛する女性と、生まれてくる我が子を救うことは、できるのか? ***** アメリカでは、西部の開拓時代さながらに、現代でも“賞金稼ぎ”という職業が認めらている。そして本作でマックィーンが演じる、ラルフ“パパ”ソーソンは、実在の“賞金稼ぎ”である。 マックィーンは“ディスレクシア=難読症”で、読書は苦手であったが、76年に出版されたソーソンの伝記は、むさぼるように一気に読み上げたという。そして彼を演じたいという気持ちを、強く持った。「少なくとも50年生まれてくるのが遅かった」と、常々口にしていたというマックィーン。その晩年に生活を共にした、3番目の妻であるバーバラは、彼のソーソンを演じたい気持ちには、「…善悪がはっきりしていた、あまり複雑ではなかった古い時代に戻りたいというロマンチックな考えが影響していたのではないか…」と分析している。 実際のソーソンは、マックィーンよりだいぶ大柄で髭面の巨漢。本作には、セリフもあるバーテンダーの役で登場しているが、バーバラは、ソーソンとマックィーンには、多くの共通点があることを指摘している。曰く、「カリスマ性」「年齢も同じぐらい」「誰からも軽く見られることを許さない」「自分独自のルールで行動する反逆児」等々。 いずれにしてもマックィーンがこの題材に惹かれたのには、彼のキャリアも大いに関係あるだろう。若き日の彼をスターダムに押し上げるきっかけとなったTVシリーズ「拳銃無宿」の主人公ジョッシュ・ランダルは、まさに開拓時代の“賞金稼ぎ”。それから20年が経ち、現代に生きる初老の“賞金稼ぎ”を演じることを決めたわけである。こうしてマックィーンの栄光のキャリアは、奇しくも“賞金稼ぎ”で始まり、“賞金稼ぎ”で幕を下ろすこととなったのだ。 『ハンター』の監督は、当初ピーター・ハイアムズが務める予定だった。ハイアムズは『破壊!』(74)『カプリコン1』(77)『アウトランド』(86)『シカゴ・コネクション/夢みて走れ』(86)など、一級のアクション演出で知られる監督。 ところが稀代のアクションスターであると同時に、稀代のトラブルメーカーとして知られるマックィーンとは、意見がぶつかってしまった。マックィーンは打合せの席で銃をぶっ放し、ハイアムズは脚本のみを残して、敢えなく降板となった。 後を受けたのが、バズ・クーリック。本作は、実際にソーソンが遭遇した事件をベースに、脚色してアクションを加味した構成となっているが、主にTVシリーズやTVムービーの監督として活躍してきたクーリックのアクション演出の腕前は、ハイアムズに遠く及ばない。そのため本作が、激しいアクションシーンを見せ場にしながらも、些か切れ味に欠け、ヌルく見える構成になったのは、否定できない。 時は80年代の頭、間もなくシルヴェスター・スタローンやアーノルド・シュワルツェネッガーの時代が訪れる直前。60年代から70年代をリードしたアクションスター、マックィーンの遺作が、こんな形になってしまったのは、ある意味象徴的とも言える。 しかし案外、本作はマックィーン本人がそんな作りを望んだのではないかと思わせる部分も、多い。ソーソンは若い女性をパートナーにしながら、古い自動車やおもちゃをこよなく愛するという設定。これは実際のソーソンをベースにしながらも、25歳下のバーバラと暮らし、アンティーク玩具のコレクターであったマックィーンの私生活も投影されている。 そうした意味で本作に於けるソーソンと、そのパートナーであるドティーや周囲の人物とのやり取りを追っていくと、他作品ではあまり見られない、マックィーンの柔和な表情が横溢していることがわかる。こうなると、微温的でヌルく見える構成・演出が、心地よく感じられるようにもなる。 本作の撮影中マックィーンは、ロケ地のシカゴで知り合った、家庭環境に恵まれない10代の少女の保護者になったり、田舎町でのロケでは、農場の夫婦と家族のような交流をしたり。これらの心温まるエピソードは、後年バーバラが明らかにしたことだが、その一方で死の影が、彼の肉体を確実に蝕み始めてもいた。 俳優人生を通して、多くのスタントシーンを自分自身で演じてきたことに、マックィーンは誇りを持っていた。しかし本作撮影に当たっては、「スタントをするには年を取り過ぎたし金を持ち過ぎた…」と、走る高架鉄道のパンタグラフにぶら下がる有名なシーンなどに取り組むのは、スタントマンに譲った。 異変が現れたのは、逃げる犯罪者を走って追いかけるシーンを、マックィーン自らが演じた際。シーン終わりには、ぜいぜいと息を切らして、そのまま立っていられなくなった。撮影後半の数週間は、絶えず咳き込んでいる状態であったという。 79年9月から始まった本作の撮影が一段落した12月、バーバラとの約束通りマックィーンが検査を受けると、右肺に大きな腫瘍が見つかり、致死性の高いがんである“中皮腫”であることがわかった。 翌80年春には、タブロイド紙が彼の余命が僅かであることを、すっぱ抜く。マックィーンは怪しげな民間療法も含めて、がんと戦い続けた。 随時伝えられる彼の病状に、世界中のファンがヤキモキしながら生還を祈った。しかしその願いもむなしく、マックィーンは、末期がんと判明して1年も経たない11月7日に、力尽きてこの世を去ったのである。 人生の最期に彼を慰めたのは、25歳下の若妻バーバラと、晩年に改宗して熱心に信仰した、福音主義教会。彼の遺灰は太平洋へと散骨されたが、バーバラと共に、ニール・アダムス、アリ・マッグロウと、別れた妻2人も列席したという…。■ 『ハンター』TM & Copyright © 2022 by Paramount Pictures Corporation. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2022.03.15
実写のように細心に、漫画のように大胆に!——『かちこみ!ドラゴン・タイガー・ゲート』
◆香港大河アクション漫画の実写映画化 正義感の強い蹴りの達人・タイガーは、ある日レストランで不作法をはたらく秘密結社“江湖”と争い、脅威的なまでに強い用心棒に圧倒されてしまう。その用心棒はタイガーと同じ武術道場「龍虎門」で学び、長く彼の前から姿を消していた兄・ドラゴンだった……。 2006年に公開された『かちこみ!ドラゴン・タイガー・ゲート』(以下:『DTG』)は、香港の伝統あるコミックス「龍虎門」の映画化で、タイトルは身寄りのない子どもたちが格闘を学ぶ養成校の名だ。邦題の頭につく「かちこみ」は「殴り込み」を意味し、物語は龍虎門で育った2人の兄弟と1人のアウトロー=突き技の神ドラゴン(ドニー・イェン)、蹴りの達人タイガー(ニコラス・ツェー)、そしてヌンチャクの天才ターボ(ショーン・ユー)が、師匠を殺した悪の大ボスを相手に人間のレベルを超えた戦いを繰り広げていく。 『DTG』の製作は香港内で注目の的となった。なぜならば当時、香港映画でコミックスの長編実写化といえば、その多くが日本のマンガ原作が主流をなしていたからだ。しかも「龍虎門」は香港コミックスの格闘ジャンルを確立させた、歴史の古い大河アクションである。1970年に発表されてから今日まで、途絶えることなく新作が発表され、作品の歴史は半世紀以上にわたる。「香港の若者なら必ず読んでいる、通過儀礼のような格闘コミックスなんだ。そんな作品のキャラクターを演じるなんて、信じがたい機会だよ」 とターボ役のショーン・ユーが筆者に語ったように、またとない題材への取り組みとなったのである。 また全編において展開される高速アクションと一体化した音楽は『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(95)の川井憲次が担当。川井の起用はドニーの強い要望からきたもので、彼が日本でアクション監督を担当した『修羅雪姫』(01)のスコアに感銘を受けたという。その後、ツイ・ハークに推薦して『セブンソード』(05)の作曲に招き入れたことをきっかけに、自身の主演作に川井を指名していったという経緯がある。ドニーは「私のアクションの“リズム”を支える要素として、川井さんの音楽が果たす役割はとても大きい」と称賛してやまない。 ◆「アクション映画の真の勝負は数年後」とドニーは言った 「僕はアクション映画は公開したそのときよりも、公開されて数年後が勝負だと考えているんだ」 この『かちこみ!ドラゴン・タイガー・ゲート』のプロモーションを通じ、筆者はドニー・イェンにインタビューをした過去がある。忘れもしない2007年2月12日、ハーバープラザ ホンコンに部屋をとっておこなわれた同取材は、ドニーが新作の撮影にかかりっきりで進行が遅れ、夕方の開始がなんと深夜の23時になってしまった。そんなアクシデントと併せ、忘れがたいイヴェントとして今も自分の中にある。取材が大幅に遅れたことへの苛立ちは不思議となく、むしろ強く覚えたのは、優先的にアクションに身を置こうとするドニーへの尊敬心だ。 なにより取材前、ドニーは撮影現場では決して妥協をしない、厳しい俳優だと仄聞していた。確かに本人に会ってみると、常にアクションのことを考えており、じつにストイックな印象を受ける。だが言葉に余計な飾りがないぶん、彼の口から出るアクション哲学には重い響きがあり、強い説得力を放っていたのだ(前チャプターで記したメイキングの事情は、そのときのドニーやショーンとの会話から起こしたものである)。 『かちこみ!ドラゴン・タイガー・ゲート』© 2006 Mandarin Films Ltd. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.03.08
同性愛者を矯正する「救済プログラム」の実態を描く問題作『ある少年の告白』
19歳で矯正施設へ送られた少年の実話 同性愛は精神疾患でも性倒錯でもなく、異性愛と同じく本人の意思で変えることのできない先天的性質である。これは世界保健機関やアメリカ精神医学会など世界中の専門組織が認めた事実であり、少なくとも現在の先進諸国においては共通の認識であるはずだが、しかしその一方で様々な理由(主に宗教的な偏見)から同性愛を犯罪として禁じる、あるいは心の病気だとして「治療」しようとする国や地域も依然として存在する。 実はLGBTQ先進国アメリカもそのひとつ。’15年に国内全州での同性婚が認められるなど、同性愛への社会的な理解が進んでいるアメリカだが、しかし今なお伝統的なキリスト教の価値観が根強い保守的な地域も多く、中には同性愛者を異性愛者に矯正する救済プログラムを実施している団体も存在する。これまでに70万人以上のアメリカ人が、そうした救済プラグラムを受けており、そのおよそ半分がティーンエージャーなのだそうだ。えっ、21世紀のアメリカで?未だに?と驚きたくもなる話だが、そんな前時代的かつ非人道的な救済プログラムの実態を、実際に体験した当事者の手記を基にして描いた作品が、この『ある少年の告白』(’18)である。 原作はNYタイムズのベストセラーにも選ばれた回顧録「Boy Erased: A Memoir」(’16年出版)。著者のガラード・コンリーは、大学生だった’04年に自らが同性愛者であることを両親に打ち明けたところ、父親の命令でキリスト教系団体Love In Action(LIA)が主催する同性愛者の救済プログラムに参加させられる。なにしろ、彼の故郷であるアメリカ南部アーカンソー州のマウンテン・ホームは保守的な田舎町で、なおかつ父親はバプテスト教会の牧師。福音派の指導者ビリー・グラハムを敬愛する原理主義者の父親によって、幼い頃から「天国と地獄は実在する」「進化論は邪悪な嘘だ」などと教え込まれた彼は、同性愛は罪深い病気だと本気で信じていたという。映画でも描かれている通り、そもそもカミングアウトの原因は大学の同級生男子にレイプされたことだったが、しかしその際にも「これは神が自分に与えた罰だ」と自分を責めたのだそうだ。いやはや、刷り込みというのは恐ろしいものである。しかも、家父長制的なクリスチャンの家庭では父親の言うことが絶対。母親も口出しは出来ない。それゆえ、当時まだ19歳のコンリーにしてみれば、父親の指示に従って救済プログラムを受ける以外に選択肢はなかったのである。 テネシー州のメンフィスにあるLIAの施設でコンリーを待ち受けていたのは、’86年から長きに渡って救済プログラムを指導してきた主任セラピストのジョン・スミッド。「同性愛は生まれつきではなく行動と選択の結果だ」と主張するスミッドは、同性愛の罪を悔いて異性愛者に生まれ変わらねば神から愛されないと若い参加者たちを脅し、君たちが同性愛者になったのは両親の育て方が悪かったからだ、家庭に欠陥があるからだ、母親が過保護なせいだなどとして、家族に憎悪を向けさせるようなセラピーを行ったという。いわば、同性愛が後天的な性質だと信じ込ませるための洗脳である。 さらに、施設内では髪型から下着まで「ゲイっぽい」かどうかのチェックが事細かく行われ、携帯電話やノートなどの私物も勝手に検閲される。男は男らしく、女は女らしく立ち振る舞わねばならない。スポーツトレーニング後に利用するシャワールームでは、マスターベーションを禁じるための砂時計まで用意されていたという。要するに、短時間でさっさとシャワーを終えろ、余計なことは一切するな、考えるなというわけだ。ほかにも、聴いてはいけない音楽や立ち寄ってはいけない場所など、施設の外で守らねばならないルールもあった。ただし、こうした救済プログラムの詳細は他言無用。家族に話すことすら禁じられていた。恐らく、プログラムの内容が重大な人権侵害であることをスミッド自身も認識していたのだろう。 もちろん、このような非科学的かつ非合理的な救済プログラムによって、同性愛者が異性愛者になれるはずなどない。実際、後にジョン・スミッド本人が「救済プログラムで変えられるのは上辺だけ」「実際に同性愛者から異性愛者への転換に成功した者はひとりもいない」と告白している。結局、救済プログラムの実態というのは、参加者に本来の自分を否定させ、強制的に異性愛者のふりをさせること。そのせいで、精神的に追い詰められた参加者が自殺するというケースも起きている。コンリーの場合は幸いにも、母親マーサが息子のSOSをちゃんと受け止め、施設へ乗り込んで救い出してくれた。「自分はまだ幸運だった」とコンリー本人も振り返っている。 皮肉なのは、同性愛者を矯正するという誤った使命感に取りつかれたジョン・スミッド自身が、実は同性愛者だったということだろう。世間からの批判を受けて’08年に教官を辞任してLIAを去った彼は、’14年にパートナー男性との同性婚を果たしている。若い頃に女性と結婚して子供をもうけたというスミッド。恐らく、彼自身が自らの性的指向に強い罪悪感を覚えていたのだろう。それゆえ、同性愛は矯正できると実証したかったのかもしれないが、結果的に身をもって「性的指向は変えられない」ことを証明してしまったのである。原作者の想いを丹念に汲み取ったジョエル・エドガートン監督 そんな日本人の知らないアメリカ社会の暗い一面を映し出す実話を描いた本作。演出を手掛けたのは、俳優のみならず映画監督としても高い評価を得ているジョエル・エドガートンだ。出版当時に原作を読んで自ら映画化することを熱望したそうだが、しかしひとつだけ大きな懸念材料があった。それは、異性愛者である自分に、果たして本作の監督が務まるのだろうか?ということ。ただ、彼にはガラード・コンリーの原作本に強く共感する理由があった。 ご存知の通り、オーストラリアの出身であるエドガートン。彼の故郷ニューサウス・ウェールズ州ブラックタウンは、コンリーの故郷マウンテン・ホームと同じく保守的かつ閉鎖的な田舎町で、エドガートン曰く「みんなが同じでなくてはならず、誰もが仲間外れにされることを恐れて、普通のふりをしながら暮らす町」だったという。しかも、両親は敬虔なカトリック教徒。当然のように彼自身も同性愛者への偏見を持っていた。「当時は周囲の価値観に染まっていただけで、実際は同性愛のことなど深くは考えていなかった」と振り返るエドガートン。しかし、16歳の時に初めて同性愛者の男性と知り合い、さらに演劇学校で学ぶため大都会シドニーへ出て視野が広がったことで、ようやくセクシャリティについてちゃんと理解するようになったという。異性愛者と同性愛者という違いこそあれ、コンリーの生い立ちには自らの生い立ちと重なる点が多かったのだ。 結局、諦めきれずに自ら映画化権を獲得したエドガートンは、原作者コンリーのみならず救済プログラムの関係者や体験者に直接会って話を聞き、さらに客観的な資料も徹底的にリサーチして脚本を書き上げたという。脚本だけでなく撮影した映像も全てコンリーの確認を取り、さらにはLGBTQのメディアモニタリングを行う組織GLAADにも本編をチェックしてもらった。なにしろ、センシティブな題材を門外漢が描くわけだから、間違った表現などがないよう細心の注意を払ったのである。 出来上がった作品は、登場人物の名前こそ架空のものに変更されているものの、それ以外は実際の出来事をほぼ忠実に再現。決してセンセーショナリズムに訴えることなく、あえて誰かを悪者に仕立てることもなく、無知や偏見に基づいた救済プログラムの危険性を訴えつつ、お互いを労わり合う親子の衝突と和解を描くファミリー・ドラマとしてまとめあげている。重苦しさよりも優しさ、憎しみや疑念よりも愛し合う家族の絆が際立つ。原作者自身が「両親を恨んでなどいない」と語っているが、その心情を丹念に汲み取ったエドガートン監督の慈しみ溢れる眼差しが印象的だ。中でも、ニコール・キッドマン演じる母親ナンシーの愛情深さには胸を打たれる。慎ましやかな南部の女性として常に夫や周囲の男性を立て、たとえ不平不満があっても黙って彼らに従ってきたナンシーが、最愛の息子を守るために「もう黙ったりしない」と夫に反旗を翻す。まさしく「母は強し」。これはクイアー映画であると同時にフェミニズム映画でもあるのだ。 結局のところ、「お前のためだ」という父親マーシャル(ラッセル・クロウ)も、「君のためだ」というセラピストのサイクス(ジョエル・エドガートン)も、実は自分の個人的なイデオロギーや信仰心のために主人公ジャレッド(ルーカス・ヘッジズ)を変えようとする。もちろん本人たちに悪意などなく、むしろ良かれと思ってやっているわけだが、それでもなお彼らが自分本位であることには変わりがない。他者が好むと好まざるとに関わらず、人にはそれぞれ持って生まれた特性というものがある。それはなにも性的指向だけに限らないだろう。本当に誰かのためを想うのならば、その人のありのままをまずは受け入れるべきではないのか。その大前提がないと、たとえ家族であっても信頼関係を構築することはできないだろう。 ちなみに、サイクス役を自らが演じるにあたって、エドガートン監督はモデルとなったジョン・スミッド本人にも面会したという。ニューヨークで行われた映画のプレミアにもスミッドは参加。救済プログラムのセラピストを辞任後、メディアを通じて公に謝罪をした彼だが、しかし原作者コンリーによると彼の家族への直接的な謝罪はされていないそうだ。父親はようやく息子の同性愛を受け入れたというが、それでも親子の関係には少なからぬ傷跡が残されたままだとも語っている。その後、LIAは名称を変えて救済プログラムも廃止されたが、現在は既に組織自体が解散してしまった模様。それでもなお、同種の救済プログラムを法律で禁じているのは、’20年の時点で全米50州中20州のみ。それ以外の地域では、いまだに行われているところがあるという。■ 『ある少年の告白』© 2018 FOCUS FEATURES LLC. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2022.03.08
“実話”の強みを最大限に生かしたヒーロー物語『エリン・ブロコビッチ』
アメリカ映画の保存・振興を目的とした、「AFI=アメリカン・フィルム・インスティチュート」という機関がある。この「AFI」が1998年から2008年に掛け、「アメリカ映画100年シリーズ」として、「アメリカ映画ベスト100」「映画スターベスト100」など、様々な「ベスト100」を発表した。 その中で、2003年に発表されたのが、「ヒーローと悪役ベスト100」。映画史上に輝く、ヒーローと悪役それぞれ50人(人間とは限らないが…)が選出された。 ヒーローの第1位は、『アラバマ物語』(1962)でグレゴリー・ペックが演じた、人種差別と闘う弁護士、アティカス・フィンチ。続いては、インディ・ジョーンズやジェームズ・ボンド、『カサブランカ』(42)でハンフリー・ボガートが演じたリックなど、錚々たる顔触れが並んでいく。 ヒーローと銘打ちながらも、闘うヒロインたちも、ランクインしている。第6位『羊たちの沈黙』のクラリス・スターリングを筆頭に、『エイリアン』シリーズ(79~ )のリプリー、『ノーマ・レイ』(79)『テルマ&ルイーズ』(91)のヒロインたち、そして第31位に、本作『エリン・ブロコビッチ』(2000)でジュリア・ロバーツが演じた、タイトルロールが挙がる。 エリン・ブロコビッチ、それはクラリスやリプリーと違って、実在の人物。本作は、実話の映画化なのである。 彼女の物語の映画化は、カーラという女性が、カイロプラクティックを受ける時に、施術者から信じがたい話を耳にしたことに始まる。その施術者の友人に、日々の生活費にも困っているような、バツ2で3人の子持ちの女性がいた。そんな彼女が、法律知識はゼロだったにも拘わらず、大企業を相手取った公害訴訟で、数多くの被害者たちのために、莫大な和解金を勝ち取ったというのだ。 カーラはその話を、自分の夫に伝えた。その夫とは、本作を製作することになる、ジャージー・フィルムズの経営者の1人、マイケル・シャンバーグだった。 *** ロサンゼルス郊外の小さな町ヒンクリーに住む、エリン・ブロコビッチは、今まさに窮地に立たされていた。離婚歴2回で、乳呑み児を含む3人の子どもを抱えたシングルマザーの彼女は、貯金が底を突きそうなのに、高卒で何の資格もないため、就職活動もままならない状態。 そんな最中、職探しのドライブ中に、信号無視の車に追突されて、鞭打ちになってしまう。老弁護士のエド・アスリーは、相手が一方的に悪いので、賠償金が取れると請け負うが、法廷でのエリンの暴言などから陪審員の心証が悪かったせいか、びた一文得ることができなかった。 お先真っ暗のエリンは、エドの法律事務所に押し掛け、無理矢理雇用してもらうことに。豊満なバストをはじめ、常にボディラインを強調するような服装の彼女に、同僚たちは良い顔をしなかったが、本人は注意されても言い返し、直そうとはしない。 ファイルの整理という、誰でもできるような仕事を命じられたエリンは、その中の不動産案件の書類に、引っ掛かるものを感じる。地元の大企業PG&E社が、自社工場の近隣住民の土地を買おうとしているのだが、不審に思える点があったのだ。 エリンが独自に調査を始めると、その土地が工場からの排出物に混ざった六価クロムによって、汚染されている疑いが強いことがわかる。そして近隣の住民には、癌など健康被害が続出していることが、明らかになる。 事務所に現れないエリンが、サボっていると誤解して、エドは彼女を解雇する。しかしエリンが探り当てた事実を知ると、最初は及び腰ではあったが、やがて彼女と共に、大企業相手の訴訟に乗り出す。 新たな恋人となった、隣人のジョージの愛にも支えられながら、エリンの熱い戦いが繰り広げられていく…。 *** “六価クロム”は、電気メッキ、酸化剤、金属の洗浄、黄色顔料など、広く使用されている化合物。非常に強い毒性があり、肌に付着すると皮膚炎や腫瘍を起こし、また長期間体内に取り入れると、肝臓障害・貧血・肺がん・大腸がん・胃がんなどの原因になる可能性がある。 日本でも60歳前後ならば、記憶に残っている方が多いだろう。1970年代前半から後半に掛けて、東京・江東区の化学メーカー工場が、“六価クロム”を排出。近隣の土壌が汚染されて、大きな社会問題となった。 PG&E社は、そんな有害物を大量に排出しながら、適切な処理を怠り、長年近隣住民を騙し、隠蔽し続けていたのである。エリンとエドは、634人の住民を原告に立ててPG&E社と戦い、1996年に3億3,300万㌦=約350億円という、全米史上最高額(当時)の和解金を勝ち取った。 一連の顛末を映画化した本作のことを、エリン本人は「実話度98%」と評価する。事実でない残りの2%は、例えば原告となる住民たちが実名ではないことや、エリンが実際には高卒ではなく、カンザス州立大学を卒業しているということなど。いずれにしろそれらの改変は、“実話”である強みを、損なうほどのことではない。 映画化に当たって、スティーヴン・ソダーバーグ監督へのオファーを決めたのは、マイケル・シャンバーグ、ダニー・デヴィートと共に、ジャージー・フィルムズを経営する、ステイシー・シャー。『アウト・オブ・サイト』(98)で組んだ経験から、「…あまりにもドラマティックでおもしろい…」このストーリーを、「地に足のついた現実的な映画にしてくれる」監督は、ソダーバーグしかないと、白羽の矢を立てたのである。 1963年生まれのソダーバーグは、20代中盤に撮った長編第1作『セックスと嘘とビデオテープ』(89)が、カンヌ国際映画祭で最高賞=パルム・ドールを獲るという、華々しいデビューを飾った。しかしその後はスランプに陥り、興行的にも作品の評価的にも、暫しの低迷が続いた。 そんな彼にとって、『アウト・オブ・サイト』は、久々の成功作。そのプロデューサーから依頼された本作の脚本を読んだ時、エリンのストーリーに思わず惹き込まれて、プロジェクトに参加することを決めたという。 それまでこの訴訟についてはまったく知らなかったソダーバーグは、事実のリサーチを進めていく中で、「…不必要に刺激的にしたり、ドラマティックな効果を狙うためだけのシーンがないようにすることが大切だ…」と見極めた。彼を起用した、プロデューサーの狙い通りとなったわけである。 本作の内容を精査すると、大企業側からの妨害や、エリンの強烈なキャラによって起こる軋轢などは、実にサラリと描かれている。こうした題材を映画化するに当たっては、通常は強調されるであろう、そうしたエピソードには主眼を置かず、一直線な“ヒーロー譚”に仕立て上げている。それが本作を成功に導いたと言える。 もちろんそれらは、バッチリとハマったキャスティングによるところも大きい。エリンを演じたジュリア・ロバーツは、本作の10年前に出演した『プリティ・ウーマン』(90)以来、TOPスターの1人として、活躍。30代前半となって、そろそろ大きな“勲章”を手にしたい頃であった。 そんな時に出会った本作に臨むのに、エリン・ブロコビッチ本人に会ったり、取材したりなどは、一切行わなかったという。本人を真似た役作りではなく、自分自身が『エリン・ブロコビッチ』という作品の中で、そのキャラクターを創り上げるというチョイスを行ったわけである。 エリンは実在の人物とはいえ、誰もが顔を知っているような存在というわけではなかったので、このアプローチは成立。結果的に、大成功を収めた。 因みにジュリアがエリン本人と初めて会ったのは、本作の撮影で、ジュリア演じるエリンが、子ども3人を連れて、ダイナーで食事をするシーンだった。このシーンで、エリンがカメオ出演。ウェイトレスを演じている。 自分が演じている本人とセリフのやり取りをするのは、「…とても奇妙な感じで…」戸惑いを覚えていたというジュリア。ふとエリンの胸元のネームプレートを見たら、“ジュリア”と書いてあって、「…もう少しで気が違うかと…」思ったという。 何はともかく、ジュリアは本作が代表作の1本となった。そして念願の、“アカデミー賞主演女優賞”の獲得に至った。 老弁護士エド役のアルバート・フィニーの好演も、ジュリアが栄冠を得るための、大いなるアシストになった。それほどこの作品での、エドとエリンの老若押し引きのコンビネーションは、見事である。 ソダーバーグは、この役を誰が演じるか話し合った時に、真っ先にフィニーの名を挙げた。1960年代からの彼の長いキャリアをリスペクトしていたというソダーバーグの狙いは、ここでも見事に当たったと言える。惜しむらくはフィニーが、アカデミー賞のノミネートから漏れたことである。 さてソダーバーグはこの年2000年は、本作に続いて、麻薬戦争を扱った『トラフィック』が公開されて、こちらも大成功を収めた。アカデミー賞では、『エリン・ブロコビッチ』と『トラフィック』両作で、“アカデミー賞監督賞”にノミネートされるという、62年振り2人目の快挙を成し遂げた。即ち5人の監督賞候補者の内、2人分を彼が占めたということである。 こうなると票が割れて、賞自体を逃すこともありえたが、『トラフィック』の方で、見事に受賞を遂げた。実質的には同年にこの2作があったからこそ、高い評価を得たと言えるだろう。 その後は度々「引退」を匂わせながらも、現代の巨匠の1人として、活躍を続けているのは、多くの方が知る通り。本作がそのステップに向かう、大きな役割を果たしたことは、疑うべくもない。 さて「実話度98%」の本作であったが、エリン・ブロコビッチ本人のその後の人生も、なかなか凄まじい。 本作内ではアーロン・エッカートが演じ、エリンを優しく支える存在として描かれた恋人のジョージは、実際はベビーシッターとしてエリンから報酬を貰っていた上、その後更なる金銭を求めて、彼女を相手に訴訟を起こしている。また本作で描かれる物語以前に別れた夫とも、訴訟沙汰となった。 本作では、育児もそっちのけで大企業との戦いに奔走する母エリンに、子ども達も理解を示す描写が為されている。実際は十代になった子ども達は、ドラッグ漬けになり、その治療で大変な目に遭ったという。 その後も環境活動家として、公害企業との戦いに身を投じているエリンだが、2012年には3度目の離婚となった。 本作で描かれた物語以降も、「事実は小説よりも奇なり」を地で行くエリン・ブロコビッチの人生。また新たに映画化される日が来ても、不思議ではない。■ 『エリン・ブロコビッチ』© 2000 Universal City Studios, Inc. and Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.03.01
メキシコの生んだ伝説の悪霊ラ・ヨローナが甦る!『ラ・ヨローナ ~泣く女~』
映画界でも脈々と受け継がれたラ・ヨローナの恐怖 日本でも大人気のホラー映画『死霊館』ユニバースの第6弾に当たる作品だが、しかしストーリー上の直接的な関連性は薄いため、厳密には単独で成立するスピンオフ映画と見做しても構わないだろう。テーマはメキシコに古くから伝わる怪談「ラ・ヨローナ(泣く女)」伝説。ラテン・アメリカ圏では広く知られた話で、過去に幾度となく映画化もされてきているが、しかし日本でちゃんと紹介されたのは、これが初めてだったのではないかとも思う。そこでまずは、「ラ・ヨローナ」の伝説とはいかなるものなのか?というところから話を始めたい。 それは昔々のこと。メキシコの小さな村に美しい女性が住んでいた。ある時、彼女は村へやって来た裕福な男性と恋に落ちて結婚し、2人の子宝にも恵まれるものの、やがて夫は別の若い女性と浮気をしてしまう。これに怒り狂った女性は、仕返しとして子供たちを川で溺死させてしまった。すぐ我に返って子供らを助けようとしたもののすでに手遅れ。深い喪失感と後悔の念に打ちひしがれた女性は、自らも川に身投げをして命を絶つ。しかし、神の罰を受けた彼女は白いドレス姿の亡霊としてこの世に甦り、我が子を探し求めて泣きながら永遠に地上を彷徨うこととなる。そして、運悪くラ・ヨローナに遭遇してしまった人間は、亡き子供たちの身代わりとして連れ去られてしまうのだ。 地域によって多少の違いはあるものの、一般的に知られているラ・ヨローナ伝説の大まかな内容は以上の通り。メキシコのみならずプエルトリコやベネズエラなど中南米各国に似たような話が存在し、昔から大人が子供を躾けるための怪談として語り継がれてきたという。「悪いことをするとラ・ヨローナにさらわれちゃうよ」と。さらに、中南米からの移民によってアメリカへも伝説は持ち込まれ、かつて1990年代にはマイアミやニューオーリンズ、シカゴなどの各地で、ホームレスの子供たちが黒い涙を流すラ・ヨローナを目撃したという噂が広がったこともあった。 ラ・ヨローナのルーツについては諸説ある。そのひとつが、古代アステカの神話に出てくる女神シワコアトル。亡き息子を探し求めて泣きながら現れる、死の予兆を感じると泣きながら現れるなどの言い伝えがあるらしいが、いずれにせよ彼女がラ・ヨローナ伝説の元になったという説が最も有力だ。また、エウリピデスのギリシャ悲劇「メディア」との類似性を見出すこともできるだろう。夫の裏切りに怒り狂った王女メディアが、復讐のため我が子を手にかけるという下りは非常によく似ている。さらに、アステカ帝国を征服したスペインの侵略者エルナン・コルテスに棄てられたインディオの愛人マリンチェが、奪い去られそうになった息子をテスココ湖のほとりで殺害し、死後に亡霊となって泣きながら地上を彷徨ったという逸話もあるそうだが、しかし彼女とコルテスの息子マルティンはスペインでちゃんと育っているので、これは裏切り者の代名詞として憎まれたマリンチェを貶めるために生まれた作り話と思われる。 そんなラ・ヨローナが初めて映画に登場したのは、メキシコで最初のホラー映画とも呼ばれる『La Llorona(泣く女)』(’33)。これはラ・ヨローナの呪いをかけられた一家の話で、ホラーというよりもミステリー仕立てのメロドラマという印象だ。続く『La Herencia de la Llorona(泣く女の遺産)』(’47)は幻の映画とされており、筆者も見たことはないのだが、推理ミステリーの要素が強かったらしい。’60年代には有名なB級映画監督ルネ・カルドナが『La Llorona(泣く女)』(’60)という作品を残しているが、しかしラ・ヨローナ映画の最高傑作として名高いのは、メキシカン・ホラーの巨匠ラファエル・バレドンの『La Maldición de la Llorona(泣く女の呪い)』(’61)であろう。ここでは黒装束に黒い眼をしたラ・ヨローナが登場。ラ・ヨローナを復活させるための生贄に選ばれた女性の恐怖を描き、マリオ・バーヴァ監督の『血ぬられた墓標』(’60)を彷彿とさせるゴシックな映像美が素晴らしい。 以降も、覆面レスラーのサントがラ・ヨローナと対決するルチャ・リブレ映画『La Venganza de la Llorona(泣く女の復讐)』(’74)、ラ・ヨローナ伝説にフェミニズムを絡めたシリアスな幽霊譚『Las Lloronas(泣く女たち)』(’04)、珍しく日本でDVD発売された『31km』(’06)、マヤ語の方言でラ・ヨローナを意味する悪霊ジョッケルが出てくる『J-ok'el』、ラ・ヨローナ伝説を子供向けにアレンジしたアニメ『La leyenda de la Llorona(ラ・ヨローナの伝説)』(’11)が登場。その中でも『Las Lloronas』は女性監督らしい視点の光る秀作だ。また、アメリカでもラ・ヨローナ伝説にエクソシストを絡めた『Spirit Hunter: La Llorona』(’05)、『死霊のはらわた』風にアレンジした『The Wailer』(’05)、スラッシャー映画仕立ての『The River: Legend of La Llorona』(’06)などが作られており、『The Wailer』と『The River: Legend of La Llorona』はシリーズ化もされている。ただ、’00年代のアメリカ版ラ・ヨローナ映画は、いずれもウルトラ・ローバジェットのインディーズ映画で、残念ながら決して出来が良いとは言えない。 ハリウッドが初めて本格的に取り組んだラ・ヨローナ映画 そして、ハリウッドのメジャー映画が初めてラ・ヨローナを取り上げたのが本作『ラ・ヨローナ~泣く女~』(’19)。冒頭でも述べたように『死霊館』ユニバースのひとつとして作られたわけだが、しかしシリーズ作品との関連性は『アナベル 死霊館の人形』(’14)のペレズ神父がサブキャラとして出てくることと、フラッシュバックで一瞬だけアナベル人形が姿を見せるくらいしかない。 映画の冒頭はオリジン・ストーリー。1673年のメキシコで、夫に浮気された女性が復讐のため2人の息子を川で溺死させ、自らも命を絶って白いドレスの悪霊ラ・ヨローナとなる。舞台は移って1973年のロサンゼルス。時代設定は『アナベル 死霊博物館』(’19)の1年後に当たる。警官の夫に先立たれた女性アンナ(リンダ・カーデリーニ)は、ソーシャルワーカーとして働きながら2人の子供を女手ひとつで育てている。ある時、アンナは担当するメキシコ系のシングルマザー、パトリシア(パトリシア・ヴェラスケス)と連絡が取れないとの報告を受け、無事を確認するため彼女の自宅へ訪問すると、物置部屋に監禁されたパトリシアの息子たちを発見する。児童虐待を疑われて逮捕されたパトリシアだが、しかし本人は子供たちを守るためだと必死になって懇願する。そして翌晩、施設に預けられていたパトリシアの子供たちが、なぜか近くの川で溺死体となって発見された。 真夜中に亡き夫の元相棒クーパー刑事(ショーン・パトリック・トーマス)から呼び出され、息子クリス(ローマン・クリストウ)と娘サマンサ(ジェイニー・リン=キンチェン)を連れて現場へ駆けつけるアンナ。大きなショックを受ける彼女に、半狂乱になったパトリシアが「あんたのせいだ」と激しく詰め寄り、子供たちはラ・ヨローナに殺されたと主張する。その頃、車で待っていたクリスとサマンサは悪霊ラ・ヨローナ(マリソル・ラミレス)に襲われるが、言っても信じては貰えまいと母親には内緒にする。それ以来、アンナの自宅では奇妙な現象が相次ぎ、やがて彼女自身もラ・ヨローナの姿を目撃。悪霊は明らかに子供たちを狙っていた。恐ろしくなったアンナは教会のペレズ神父(トニー・アルメイダ)に相談し、強力なシャーマンである呪術医ラファエル(レイモンド・クルス)を紹介してもらう。愛する我が子を守るため、ラファエルの力を借りてラ・ヨローナに立ち向かうアンナだったが…? ロサンゼルスが舞台となっているのは、ここがかつてメキシコ領だったこと、現在に至るまでメキシコ系住民の多いことが主な理由であろう。’70年代を時代設定に選んだのは、もちろん当時のオカルト映画ブームへのオマージュという意味もあろうが、同時に本作が女性の映画、母親の映画であることにも深く関係しているように思う。ウーマンリブ運動の台頭によって女性の権利向上が飛躍的に進んだ’70年代のアメリカだが、それでもまだ女性の社会的地位は決して高いとは言えず、マーティン・スコセッシ監督の『アリスの恋』(’74)など当時の映画を見ても分かる通り、シングルマザーが子育てをするには依然として厳しい社会環境だった。周囲の理解やサポートをなかなか得られないシングルマザーが、子供を守るため悪霊に立ち向かっていくという本作のストーリーにとって、そうした時代背景はとても重要な要素とも言えるだろう。 アメリカでもラテン・コミュニティの間では誰もが知る有名な怪談だったラ・ヨローナの物語。これが長編映画デビューだったマイケル・チャベス監督も、ロサンゼルスで育ったことからラ・ヨローナを知っていたそうだが、しかし一般的な知名度はそれほど高くなかった。そのため、本作はラ・ヨローナ伝説の基本へと立ち返り、その存在を初めて知る平均的なアメリカ人女性を主人公に据えることで、予備知識のない観客でも理解できるオーソドックスなオカルト映画に仕立てられている。一部を除いてCGやグリーンバックの使用をなるべく避け、アナログな特殊メイクでラ・ヨローナを描写している点も、古き良きオカルト・ホラーの雰囲気を醸し出して効果的だ。ラ・ヨローナという題材以外に目新しさはないものの、そのぶん安心して楽しめる王道的なホラー・エンターテインメントと言えよう。 なお、本作の直後にはグアテマラ内戦時代に起きた先住民の大量虐殺事件とラ・ヨローナ伝説を結び付けたグアテマラ映画『La Llorona(泣く女)』(’19)が、さらに最近ではメキシコを旅した米国人一家がラ・ヨローナに襲われる『The Legend of La Llorona』(’22)が作られている。果たして、ラテン・アメリカの生んだ永遠不滅の亡霊ラ・ヨローナは、フレディやジェイソン、キャンディマンなどに続くホラー・アイコンとなり得るだろうか…?■ 『ラ・ヨローナ 〜泣く女〜』© Warner Bros. Entertainment Inc.