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コラム・ニュース一覧
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COLUMN/コラム2023.07.27
“生身の戦い”に勝るものなし『レイジング・ファイア』
◆香港アクションの旗手ベニー・チャン最後の作品 正義感に燃えるチョン警部(ドニー・イェン)は、何年も追っていた凶悪犯ウォンによる麻薬取引現場への踏み込み捜査を直前に外され、代わりに向かった捜査員らが何者かによって殺害、麻薬も奪われてしまう。そして容疑者として浮かび上がったのは、チョンに恨みを抱く元警官のンゴウ(ニコラス・ツェー)だった……。 2021年公開の香港・中国合作によるアクション映画『レイジング・ファイア』は、かつては同じ警察組織で正義を全うしようとした二人の男が、善と悪とに立場をたがえ、怒りの拳を交える対立を描いた、身を切るような悲壮さに満ちた復讐劇だ。 本作はもともとメキシコの麻薬カルテルと香港警察との対立を描いたストーリーを映画化する予定で、撮影もおこなったが、製作費が莫大となって企画がペンディング状態に陥った。そんな窮状を見かねたドニー・イェンが監督のベニー・チャンを励まし、映画は軌道修正されて『レイジング・ファイア』として完成をみたのである。 だが残念なことに、ベニー・チャンは映画が公開される前年の8月に上咽頭がんのため亡くなり、作品の興行的成功を見届けることはできなかった。『香港国際警察/NEW POLICE STORY』(2004)を筆頭とするジャッキー・チェンとの一連のアクション作品や、ラリー・コーエン原案の携帯スリラー『セルラー』(2004)のリメイク『コネクテッド』(2008)など、堅実な職人ぶりで幅広い層のファンを得ていただけに、早逝を惜しむ声は多かった。そんなベニーの形見のような作品として、本作は忘れがたい印象を放つものとなったのである。 特に監督と同い年だったドニーの落胆は大きく、「ベニーの死は、人生には多くの悲しみを目撃しないといけないことや、手放さなければならないことがあるのを悟らせる。私は今も彼の笑顔を感じて、自分のもとを去っていったような気がしないんだ」と語っている。テレビドラマ『クンフー・マスター 洪熙官』(1994)や、『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972)のテレビ版リメイク『精武門』(1995)で仕事を共にし、以来、違う道程で同時代を走ってきた仲間への、惜しみない賞賛を含んだ別れのメッセージだ。 ◆善と悪とに袂を分つ、かっての同志 二人の警察官が袂を分かち、戦い合うという設定は、ハリウッド映画では定番ともいえるエモーショナルなものだ。たとえばコンピュータハッカーたちの決別と対立をテーマにした『スニーカーズ』(1992年 監督/フィル・アルデン・ロビンソン)や、秘密任務の犠牲となった部隊が国家に復讐をなそうとする『ザ・ロック』(1996年 監督/マイケル・ベイ)などが、その代表格といえるだろう。最近だと、キャプテン・アメリカとアイアンマンが正義行動の行方をめぐって対立する『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』(2016年 監督/ジョー&アンソニー・ルッソ)が、この条件に合致するものとして記憶に新しい。 このようなテンプレートはアクションを際立たせ、特に顕著なのは映画のクライマックスで展開される、市街地での白昼の銃撃戦だろう。同シークエンスはマイケル・マン監督によるクライムアクション『ヒート』(95)を彷彿とさせるもので、発砲が始まると同時にかの名作を連想した人は少なくないだろう。奇しくも『ヒート』がアル・パチーノとロバート・デ・ニーロという二大俳優の顔合わせで耳目をさらったように、ドニーとニコラスの15年ぶりの共演も、これになぞらえることができる。 ドニー・イェンとニコラス・ツェーの共演は、香港の伝統的アクションコミックを映画化した『かちこみ!ドラゴン・タイガー・ゲート』(2006)以来となる。単に同じ作品に出演したというだけならば、二人には2007年公開の『孫文の義士団』(監督/テディ・チャン)があるが、本作では二人が同じフレームに収まり、そして彼にアクション指導をしたという、密接なコラボレーションを果たしているのだ。 そして『レイジング・ファイア』は『ヒート』の反復などではなく、さらにそこから先を大胆に攻め込んでいる。それが最後の、ドニーとニコラスが教会で繰り広げる格闘シーンだ。 片や両手にバタフライナイフ、片やスティックを手にした凶器戦から、ステゴロ(素手喧嘩)のバトルへとなだれ込んでいくこの展開にこそ、本作の価値と独自性を実感することができるのだ。そしてかつての盟友どうしが拳を交える、悲壮なクライマックスを繰り広げていくのである。 ドニーがディレクションしたアクションは、持てる力をすべて振り絞って出したようなハイレベルなもので、谷垣健治を筆頭に、ドニーのスタイルを映画に落とし込むことのできる優秀なスタントコーディネーターが配された。その成果は2022年の香港フィルムアワードの最優秀アクション・コレオグラフィー賞(電影金像奨 最佳動作設計)を受賞したことで明白だろう。 ◆ドニー・イェンを体現する劇中のキャラクター なにより筆者はこの最終バトルに、かって『かちこみ!ドラゴン・タイガー・ゲート』のインタビューでドニー・イェンが放った、以下の発言を思い出さずにはおれない。 「このジャンルはワイヤーワークやCGの発達によって、年を追うごとに見せ場の演出がエスカレートしていく。なので、それが常に新鮮であるのはとても難しいんだ。だからこそ、生身の戦いやファイター同士の精神こそが、いつの時代にも新鮮さを保つんだよ」 まさにその言葉を体現するかのような、ドニーとニコラスの一騎打ち。そこにドニー・イェンの役者哲学の実践を見たように感じられてならない。“生身の戦い”に勝る普遍性などあろうか、と——。 なにより、ドニーのアクションに対する真摯で実直な姿勢は、そのまま劇中、聞き取り調査の席で警視監に正義への理念を吐露する、チョン警部にぴったりと重なるのである。 「(警察は)命を懸けて全うする仕事なのか? と若い警官たちは思うだろう。だがいつしか、プライドを持って奮闘することになる。危険を顧みず、犠牲をも恐れない。そして(自分たちがなすべきは)仕事を減らすことではなく、より良い仕事をすることだと考えるのだ」 腐敗した警官組織の中で正しさを維持しようとする主人公の言行は、アクションスターとしてのドニーの哲学に重なっていく。市場の拡大と共に映画のスケールも巨大化したアジア映画において、こうした基本をまっとうするドニー・イェンの姿に、映画においてもっとも重要な不変の魂を感じるのである。 ちなみに本作の最初のバージョンは、ランニングタイムが約3時間におよぶ「ディレクターズ・カット版」が編集で調整され、このバージョンはそれをさらにタイトにまとめたものとなる。カットの影響としては、ニコラス・ツェーの役が本来もっと邪悪な存在だったものが、ややソフトになったとのこと。いつか完全版が公開される日を待ちたい。■ 『レイジング・ファイア』© 2021 Emperor Film Production Company Limited Tencent Pictures Culture Media Company Limited Super Bullet Pictures Limited ALL RIGHTS RESERVED
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COLUMN/コラム2023.07.26
‘80年代最強のゾンビ・コメディ映画!その見どころと製作舞台裏を徹底解説!『バタリアン』
知られざる『バタリアン』誕生秘話 日本でも大変な話題となった’80年代ゾンビ映画の傑作である。いわゆる「走るゾンビ」の先駆け的な存在。そればかりか、本作の「生ける屍」たちは言葉を喋るうえに知恵だって働く。食料(=人間の脳みそ)をまとめて調達するために罠を仕掛けるなんて芸当も朝飯前だ。これぞまさしくゾンビ界の新人類(?)。『エイリアン』(’79)の脚本で一躍頭角を現し、本作が満を持しての監督デビューとなったダン・オバノンは、ゾンビ映画の巨匠ジョージ・A・ロメロ監督作品との差別化を図ってコメディ路線を採用したのだが、その際にホラー映画として肝心要である「恐怖」にも手を抜かなかったことが成功の秘訣だったと言えよう。シニカルな皮肉を効かせたブラック・ユーモアのセンスも抜群。賑やかで楽しいけれど怖いところはしっかりと怖い。もちろん、血みどろのゴア描写も容赦なし!やはりメリハリって大事ですな。 また、日本では『バタリアン』という邦題をはじめ、劇中に登場するオバンバやらタールマンやらハーゲンタフやらのゾンビ・キャラなど、キャッチーなネーミングを駆使したプロモーション作戦も大いに功を奏したと思う。そこはさすが、『サランドラ』(’77)のジョギリ・ショックに『バーニング』(’81)の絶叫保険など、とりあえず目立ってナンボのハッタリ宣伝で鳴らした配給会社・東宝東和である。そういえば、本作も「バイオSFX方式上映」とか勝手に銘打ってたっけ。なんじゃそりゃですよ(笑)。いずれにせよ、ちょうど当時は『狼男アメリカン』(’81)や『死霊のはらわた』(’81)、『死霊のしたたり』(’85)に『ガバリン』(’86)などなど、シリアスな恐怖とブラックな笑いのハイブリッドはホラー映画界のちょっとしたトレンドだったわけで、その中でも本作は最も成功した作品のひとつだった。 原題は「The Return of the Living Dead」。勘の鋭いホラー映画ファンであれば、このタイトルだけで本作がジョージ・A・ロメロ監督によるゾンビ映画の金字塔『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(’68・以下『NOTLD』と表記)の続編的な作品であることに気付くはずだ。実際、劇中では『NOTLD』の存在がセリフで言及され、その内容が実話であったとされている。つまり、これは間接的な後日譚に当たるのだ。とはいえ、製作陣が公式に「続編」を名乗ったことは一度もない。そもそも、本作には『NOTLD』の「続編」を名乗ることのできない理由があった。その辺の裏事情も含め、まずは『バタリアン』の知られざる生い立ちから振り返ってみよう。 本作の生みの親はジョン・A・ルッソ。そう、『NOTLD』の脚本を共同執筆したロメロの盟友である。『There’s Always Vanilla』(’71・日本未公開)を最後にロメロと袂を分かったルッソは、その直後にラッセル・ストレイナー(『NOTLD』のプロデューサー)やルディ・リッチと共に製作会社ニュー・アメリカン・フィルムズを立ち上げ、独自に『NOTLD』続編の企画を準備し始めたという。なにしろ彼にとっては唯一にして最大の代表作である。しかも、共同脚本家として著作権はロメロとルッソの双方が所有。なので、続編を作る権利はルッソにもあったのだ。しかも、一連のアル・アダムソン監督作品で知られる配給会社インディペンデント=インターナショナル・ピクチャーズの社長サム・シャーマンから、『NOTLD』の続編があればうちで配給したいと声をかけられていたらしい。そりゃ、ご要望にお応えしないわけにはいくまい。 かくして、ストレイナーやリッチの協力のもと『The Return of the Living Dead』のタイトルで脚本執筆に取りかかったルッソ。しかし、幾度となく修正を重ねたために時間がかかり、なおかつ製作資金の調達も難航したという。そこで、ルッソは企画の宣伝も兼ねてノベライズ本を’77年に発表。ホラー・マニアの間では評判となったが、あいにく出版社が弱小だったため5万部しか売れなかった。そんな折、ロメロが『NOTLD』の続編『ゾンビ』(’78)を撮ることになり、ルッソとの間で著作権を巡って裁判が勃発。当人同士は穏便に済ませたかったそうだが、しかし第三者も関わるビジネスの問題なのでそうもいかなかったのだろう。その結果、ロメロの『ゾンビ』が『NOTLD』の正式な続編となり、そのためルッソの脚本は対外的に続編を名乗ることが出来なくなったのである。 それから3年後の’81年、ルッソは『The Return of the Living Dead』の映画化権を知人の紹介で無名の映画製作者ポール・フォックスへ売却する。もともとシカゴ出身の投資銀行家だったというフォックスは、その傍らで映画界への進出を目論んでいたらしく、安上がりに儲けることが出来るホラー映画は優良な投資物件と考えたのだろう。とはいえ、金融の世界ではプロかもしれないが、しかし映画作りに関しては素人も同然。あちこちの製作会社へ企画を売り込んだものの、手を組んでくれる相手はなかなか現れなかった。ようやく企画が動き始めたのは’83年のこと。後に『ターミネーター』(’84)や『プラトーン』(’86)で大当たりを取る製作会社ヘムデイルがパートナーとして名乗りをあげ、同社と提携を結んでいたオライオンが配給を担当することになったのだ。監督にはオカルト映画『ポルターガイスト』(’82)を大ヒットさせたばかりのトビー・フーパーも決定。そこで、予てよりオリジナル脚本に不満を持っていたフォックスは、『エイリアン』でお馴染みのダン・オバノンに脚本のリライトを依頼したのだ。 ところが…!である。ヘムデイルの資金調達に思いがけず時間がかかったため、その間にトビー・フーパーはキャノン・フィルムと専属契約を結んで、やはりダン・オバノンが脚本に参加したSFホラー『スペースバンパイア』(’85)をロンドンで撮影することとなってしまったのだ。そこで制作陣は、代打としてオバノンに監督のポジションをオファー。自分で作るのであればロメロの真似だけは避けたいと考えたオバノンは、全面的な脚本の書き直しを条件にオファーを引き受け、実質的に『NOTLD』の続編的な内容だったオリジナル脚本のストーリーを刷新する。ルッソやオバノンの証言によれば、オリジナル版と完成版の脚本はタイトル以外に殆ど共通点がないそうだ。 ‘69年に起きたゾンビ・パニックの真実とは…!? オープニング・テロップ曰く、「この映画で描かれる出来事は全て事実であり、登場する人物や組織の名前も実在する」とのこと。時は1984年7月3日、場所はケンタッキー州ルイビル。人体標本などの医療用品を供給する会社に就職した若者フレディ(トム・マシューズ)は、先輩のベテラン社員フランク(ジェームズ・カレン)から信じられないような話を聞かされる。有名なゾンビ映画『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』が、実際に起きた出来事を基にしているというのだ。 それは1969年のこと。ピッツバーグの陸軍病院で「トライオキシン245」という化学兵器がガス漏れを起こし、その影響で墓地に埋められた死者が次々と甦って生者を食い殺したのである。事態を収拾した陸軍は事件の隠蔽工作を図ったのだが、しかし配送ミスによって闇へ葬られるはずのゾンビがこの会社へ届いてしまい、今もなお倉庫の地下室に保管されているのだという。半信半疑のフレディを納得させるため、実際に地下室へ案内して本物のゾンビを見せるフランク。ところが、調子に乗ったフランクがゾンビを保管するタンクを叩いたところ、中に充満していた「トライオキシン245」が外へ漏れ出してしまい、思いきりガスを吸ったフレディとフランクは気を失ってしまう。 暫くして意識を取り戻したフレディとフランク。よく見るとタンクの中のゾンビは姿を消し、倉庫の冷凍室では実験用の死体が甦って大暴れしている。警察に通報しても信じてもらえないだろうし、ましてや軍隊に知れたら口封じのため何をされるか分からない。慌てた2人は社長バート(クルー・ギャラガー)を呼び出し、ゾンビ化した実験用の死体を捕らえて頭部を破壊する。「ゾンビを殺すなら頭を狙え」はゾンビ映画の鉄則だ。ところが、頭を破壊しても首を切断してもゾンビは元気いっぱいに走り回っている。「なにこれ!まさか映画は嘘だったわけ!?」と困り果てる3人。バラバラにしても死なないゾンビをどう始末すればいいのか。そこでバートは近所の葬儀屋アーニー(ドン・カルファ)に相談し、ゾンビを焼却炉で火葬してもらう。さすがのゾンビも焼かれて灰になったらオシマイだ。ところが、ゾンビを焼いた煙には「トライオキシン245」が含まれており、折からの悪天候によって雨と一緒に地上へ降り注いでしまう。 その頃、倉庫近くの古い墓地では、フレディの仕事終わりを待つ友人たちがパーティを開いていた。そこへ急に雨が降ってくるのだが、しかしこれがどうもおかしい。酸性雨なのか何なのか分からないが、肌に触れるとヒリヒリして痛いのだ。慌てて雨宿りをする若者たち。そんな彼らの目の前で、墓場の底から次々と死者が甦る。雨に含まれた「トライオキシン245」が埋葬された遺体をゾンビ化させてしまったのだ。やがて大群となって襲いかかってくるゾンビたち。生存者は会社の倉庫や葬儀屋のビルに立て籠もるのだが、しかし動きが速くて言葉を理解して知能の高いゾンビ軍団に警察もまるで歯が立たない。そのうえ、ガスを吸い込んだフレディとフランクも体調に異変をきたし、生きながらにしてゾンビへと変貌しつつあった。果たして、この未曽有のゾンビ・パニックを無事に収集することは出来るのだろうか…!? 撮影現場では嫌われてしまったオバノン監督 この軽妙洒脱なテンポの良さ、適度に抑制を効かせたテンションの高さ。これみよがしなドタバタのスラップスティック・コメディではなく、極限の状況下に置かれた人々による必死のリアクションが笑いを生み出していくというスクリューボール・コメディ的なオバノン監督の演出は、それゆえにシリアスで残酷で血生臭いホラー要素との相性も抜群だ。ジャンルのクリシェを逆手に取ったジョークを含め、その語り口は実にインテリジェントである。しかも、カメラの動きから役者のポジションに至るまで、全編これ徹底的に計算されていることがひと目で分かる。実際、オバノン監督は撮影前の2週間に渡って入念なリハーサルを行い、役者の立ち位置や動作、セリフのスピードやタイミングなどを細かく決め、相談のない勝手なアドリブは許さなかったらしい。少々大袈裟で演劇的な群像劇も監督の指示通り。あえて「わざとらしさ」を狙ったという。根っからの完璧主義者である彼は、どうやら映画の総てを自分のコントロール下に置こうとしたようだ。 そして、その強権的な姿勢が現場でトラブルを招いてしまう。あまりにも注文が多いうえに要求レベルが高いため、オバノン監督はスタッフやキャストから総スカンを食らってしまったのだ。当時を振り返って口々に「現場は地獄だった」と言う関係者たち。予算も時間も無視したオバノン監督の要求に対応できなくなった特殊メイク担当のビル・マンズは途中降板することになり、その代役としてケニー・マイヤーズとクレイグ・ケントンが呼び出されたのだが、彼らもまたいきなり初日からオバノン監督に怒鳴り散らされて面食らったという。 また、演じる役柄と同様に大人しくて控えめなティナ役のビヴァリー・ランドルフも、もしかするとそれゆえターゲットにされたのかもしれないが、監督が人一倍厳しく接した相手のひとりだったらしい。タールマンと遭遇したティナが逃げようとしたところ、階段から落ちて怪我をするシーンでは、オバノン監督は演じるビヴァリーに階段の板が外れることを黙っていたという。いやあ、現在のハリウッドでそんなことしたら大問題になりますな。結局、何も知らないビヴァリーは、本当に階段から転落して足を捻挫してしまった。なかなか起き上がれずに苦悶の表情を浮かべているのは芝居じゃないのだ。 さらに、撮影開始の直前になってキャスティングされ、そのためリハーサルに参加できなかったベテラン俳優クルー・ギャラガーは、監督からの有無を言わせぬ一方的な要求に「俳優への敬意がない!」とブチ切れ、小道具のバットだか何かを振り回しながら監督を追いかけたこともあったという。それを見て、ビヴァリーら若手俳優たちは内心スカッとしたのだとか(笑)。生前のオバノン監督自身も当時の自分がサイテーだったことを素直に認めており、監督としての初仕事ゆえ多大なプレッシャーを抱えていたとはいえ、あんな態度でスタッフやキャストに接するべきではなかった、もっと自分の感情をコントロールすべきだった、みんなから嫌われたのは私の自業自得だと大いに反省していたようだ。 そんな本作で抜きん出て良い仕事をしたのは、上半身裸の老女ゾンビ=オバンバのデザイン・造形・操演を担当した特殊メイクマン、トニー・ガードナー。ダフト・パンクのロボット・ヘルメットなどのデザイナーとして、名前を聞いたことのある人も少なくないだろう。もともとリック・ベイカーのアシスタントで、撮影当時まだ19歳の若者だった彼にとって、本作は初めて名前がクレジットされた大仕事だった。実はモヒカン頭のパンク少年スクーズを演じるブライアン・ペックの友人だったガードナー。普段はナード系のペックをパンク少年らしくイメチェンさせるため、コワモテっぽく見えるような義歯をオーディション用に作ってあげたところ、これがオバノン監督の目に留まって特殊メイク班に起用されたのである。ちなみに、トビー・フーパーが本作を降りて『スペースバンパイア』を撮ったことは先述した通りだが、そういえば『スペースバンパイア』に出てくる精気を吸われてミイラ化した女性被害者とオバンバがどことなく似ているような…? おっちょこちょいなダメオジサン、フランクの切ない名場面は脚本になかった? そうそう、人間味あふれるベテラン俳優たちの顔ぶれも、本作の大きな強みだったように思う。中でもフランク役を演じるジェームズ・カレンはマジ最高ですな!ゾンビ化していくことに絶望したフランクが、自らの意思によって焼却炉で焼かれるシーンの切なさは筆舌に尽くしがたい。実はこのシーン、ジェームズ・カレン自身のアイディアだったという。もともとオバノンの書いた脚本では、フレディと同じくフランクも凶暴なゾンビとなってしまうはずだったのだが、それでは面白くないとカレン本人が出した代案をオバノンが採用したのだそうだ。そのカレンをフランク役に起用したのは、実はトビー・フーパー監督だったとのこと。いわば置き土産だったわけだ。前作『ポルターガイスト』にも登場し、幽霊騒動の元凶を作った強欲な不動産会社社長を演じていたカレンを、恐らくフーパー監督は贔屓にしていたのだろう。この翌年、フーパー監督は『スペースバンパイア』に続いて『スペースインベーダー』(’86)でも再びオバノンとタッグを組むのだが、そこではジェームズ・カレンもまた海兵隊の将軍役で大活躍することになる。 なお、ハリウッド業界で人望が厚く交友関係の広かったカレンは、本作の撮影中に親しい友人だった天下の名優ジェイソン・ロバーズをロケ現場へ招いているのだが、その際に撮影されたスナップ写真をプロデューサー陣はロビーカードなどの宣材として使っている。全く、ちゃっかりとしてますな(笑)。 医療品会社の社長バート役には、ドン・シーゲルの『殺人者たち』(’64)やピーター・ボグダノヴィッチの『ラスト・ショー』(’71)でもお馴染みの名優クルー・ギャラガー。もともとこの役は往年のB級西部劇スター、スコット・ブレイディに決まっていたものの病気で降板し、レスリー・ニールセンなど複数の俳優に断られた末にギャラガーが引き受けた。これが初めてのホラー映画出演だった彼は、その後『エルム街の悪夢2 フレディの復讐』(’85)や『ヒドゥン』(’87)など数々のホラー映画へ出ることになる。また、アーニー役のドン・カルファはボグダノヴィッチの『ニッケルオデオン』(’76)やスピルバーグの『1941』(’79)などに端役で出ていた人で、その強烈なマスクと芝居で印象を残す「名前は知らないけど顔は知っている俳優」のひとりだったが、本作以降はメジャーどころの役柄も増えていく。実際、この人が出てくると一挙一動から目が離せない。いやあ、実に芸達者! 一方の若手俳優に目を移すと、『13日の金曜日 PART6/ジェイソンは生きていた!』(’86)と『13日の金曜日 PART7/新しい恐怖』(’87)でトミー・ジャーヴィス(ジェイソンと対峙したトラウマからジェイソン化していく若者)を演じたトム・マシューズ、『新・13日の金曜日』(’85)の屋外トイレでジェイソンに殺される黒人の不良デーモンを演じたミゲル・A・ヌネス・ジュニア(スパイダー役)、同じく『新・13日の金曜日』で患者仲間を殺してしまう精神病患者ヴィックを演じたマーク・ヴェンチュリーニ(スーサイド役)と、『13金』シリーズ繋がりのキャストが目立つ。要するに、それくらい当時は大勢の無名若手俳優が『13金』シリーズに出ていたのである。 ちなみに、トム・マシューズが劇中で着用しているノースリーブシャツ。「DOMO ARIGATO」と日本語をあしらった旭日旗デザインが印象的なのだが、これは当時マシューズが広告モデルを務めていた衣料品メーカー、VISAGEのもの。なぜ「DOMO ARIGATO」なのかというと、やはりスティックスの全米トップ10ヒット「ミスター・ロボット」の影響力でしょうな。当時のアメリカではニンジャ映画が流行るなど日本ブームの真っ只中だったわけだし。で、マシューズはそのVISAGE関係者を『バタリアン』の試写会にも招いたそうなのだが、どうやら相手はホラー映画が大の苦手だったらしく機嫌を損ねてしまい、それっきり広告モデルに呼ばれなくなったという。なんたる藪蛇…。 とはいえ、やはり若手キャストの中で最も目立つのは、露出狂のパンク娘トラッシュを演じたスクリーム・クィーン、リニア・クイグリーであろう。彼女が夜の墓地で繰り広げる全裸ストリップは本作の名場面のひとつだ。もちろん、撮影では前貼りで局部を隠しているのだが、当初は何も付けない文字通りのスッポンポンだったらしい。しかし、たまたま現場を見学に訪れた製作者ポール・フォックスがビックリして、「ダメダメ!毛が丸出しじゃないか!」と注意。ところが、何を考えたのかオバノン監督はリニアにアンダーヘアを剃らせたという。いやいや、そうじゃないだろう(笑)。案の定、「違うってば!それもっとダメじゃん!」とフォックスに突っ込まれ、特殊メイク班に前貼りを作らせることに。その結果、リニアの股間はツルッツルで何もない「バービー人形状態」となったのである。ちなみに、パーティガールのケイシーを演じているジュエル・シェパードは、もともとオバノン監督が常連客だった会員制高級クラブのストリッパーで、当初は彼女にトラッシュ役がオファーされていたそうだが、映画では脱ぎたくないという理由から断ったらしい。 ジョージ・A・ロメロのゾンビ3部作最終編『死霊のえじき』(’85)が全米で封切られたのは’85年7月。当初は年末公開を目指していたという『バタリアン』だが、しかし本家の話題性に便乗せんとばかり8月に繰り上げ公開され、予算300万ドルに対して興行収入1400万ドル以上というスマッシュヒットを記録する。これまでに5本の『バタリアン』シリーズが制作されており、「ロミオとジュリエット」を下敷きにしたブライアン・ユズナ監督の3作目『バタリアン・リターンズ』(’93)は個人的に隠れた傑作だと思っているが、しかしそうは言ってもやはり、この1作目がベストであることに変わりはないだろう。結局、H・P・ラヴクラフト原作の監督第2弾『ヘルハザード・禁断の黙示録』(’91)が製作会社から勝手に編集されたうえ、アメリカ本国では劇場未公開のビデオスルーという憂き目に遭ってしまい(それでも数あるラヴクラフト映画の中では傑出した1本)、映画監督として必ずしも大成することの出来なかったオバノン。それでもなお、みんなが大好きな『バタリアン』を世に送り出してくれたことの功績は計り知れない。■ 『バタリアン』© 1984 Metro-Goldwyn-Mayer Studios Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2023.07.12
社会派の巨匠ルメットが、アル・パチーノと生み出した、実話ベースの傑作悲喜劇。『狼たちの午後』
1972年8月22日のニューヨーク。ブルックリンのチェース・マンハッタン銀行支店に、武装した3人組の強盗が押し入るという事件が、発生した。 計画したのはベトナム帰還兵で、27歳のジョン・ウォトヴィッツ。彼は60年代に、銀行で働いた経験があった。 一緒に押し入ったのは、18歳のサルバトーレ・ナチュラーレと、20歳のロバート・ウェステンバーグ。しかしウェステンバーグは、ビビって現場からすぐに逃走したため、ウォトヴィッツはナチュラーレと2人で、男性の支店長と女性従業員たち合わせて8名を人質に、14時間銀行に立て籠もることとなった…。「ライフ」誌に載った、この事件のあらましをまとめた「The Boys in the Bank」という記事に目を付けたのは、プロデューサーのマーティン・ブレグマンとマーティン・エルファンド。彼らの興味をまず惹いたのは、ウォトヴィッツのプロフィールとキャラクターにあったものと思われる。 ウォトヴィッツは妻との間に2人の子どもをもうけながら、69年に別居。71年に男性と結婚式を挙げていた。銀行強盗を企てたのは、そのパートナーが女性になるための性別適合、当時の言い方ならば、性転換の手術費用を稼ぐのが、目的の一つにあった。 籠城を続ける中で、ウォトヴィッツの振舞いや言動に、人質たちが共感を寄せたり、銀行を囲んだ野次馬たちが、熱烈な支持を表明するなどの現象が起こった。 事件当時そんな言葉はなかったが、ウォトヴィッツに起因するところの、“LGBTQ”や“ストックホルム症候群”等々といった事象に、プロデューサー陣はピンと来たのであろう。もっと下世話な言い方をすれば、「これは見世物になる」「商売になる」という直感が働いたわけだ。 世間の規範に対しての、叛逆やドロップアウトがテーマとなる、“アメリカン・ニューシネマ”の時代。この事件は映画化するには、格好の題材と言えた。「ライフ」の記事には、ウォトヴィッツの容姿について、アル・パチーノやダスティン・ホフマンに似ているという一文があった。プロデューサーのブレグマンは、実際にウォトヴィッツの写真を見て、主役をパチーノに依頼。ブレグマンとパチーノは、エージェントと俳優として、長い付き合いだった。 パチーノは題材に興味を持ちながらも、オファーを断った。前の出演作『ゴッドファーザーPARTⅡ』(1974)の撮影で疲れ切っており、しばらく映画には出たくないという気持ちと、舞台こそ自分の本分だという想いが強くなっていたのである。 パチーノの後には、元記事の表記通りに、ダスティン・ホフマンに出演交渉が行われた。しかしホフマンにも断られ、パチーノへと、オファーが戻る。 この再オファーを、パチーノは受けることにした。決め手になったのは、フランク・ピアソンが書いた脚本が、「すごい傑作」だったからだという。 ピアソンは執筆に当たって、重点を置いてまず考えたのは、視点をどこに持たせるかということ。警察なのか?人質なのか?野次馬なのか?はたまた犯人の家族なのか? 絞り込んでいって、最も興味深いのは、やはり強盗側の視点というところに行き着いた。それによって、立て籠もった銀行内が、主な舞台に決まった。 ピアソンを悩ませたのは、ウォトヴィッツから、直に話を聞けなかったこと。本人が、映画化の権料で製作陣と揉めてしまってため、刑務所での面会を拒絶されたからだ。 それならばと、彼と関わった家族や恋人、友人、事件の人質や警察等々にリサーチを敢行。しかしそれぞれの目には、ウォトヴィッツの人物像はまったく違って映っていた。 どこかに共通点はないか?探しに探して浮かび上がったのが、彼が「面倒見の良い男」であるということだった。 ピアソンは、その「面倒見の良い男」を突破口にして、『狼たちの午後』のストーリーを作り上げた。監督のシドニー・ルメットに脚本を渡す際には、「自分が皆を幸せにする魔術師と勘違いしている男の話」と伝えたという。 そして、この脚本があったからこそ、ルメットも、『狼たちの午後』の監督を引き受けたのである。 『セルピコ』(73)に続いて、ルメットと2回目の組合せになったパチーノ曰く、ルメットは「俳優を動かす天才」。子役として5歳の時からブロードウエイの舞台に立っていた経験もあって、俳優の気持ちがわかり、俳優の視点から演技を理解できる、「actor's director=俳優の監督=」と言われた。 ルメット曰く、「私自身、俳優だったから、自分の心の中を探らねばならないのは辛いということは解っている。良い演技は自分の本心を知ることで生まれる。俳優たちはそれが解っているし、私もそれが解っている」「俳優の監督」であると同時に、ルメットと言えば、“社会派”。しかも、社会派とエンタメを同時に成立させる、希有な監督としての評価が高かった。陪審員制度を描いた映画監督デビュー作『十二人の怒れる男』(57)から、ナチスの強制収容所で家族を失った男が主人公の『質屋』(64)、冷戦時代の核戦争の恐怖を描いた『未知への飛行』(64)、軍刑務所内の非人道な在り方を訴える『丘』(65)等々。 そして、『狼たちの午後』を手掛けた頃には、まさにキャリアのピーク!70年代は本作の前に、『セルピコ』(73)『オリエント急行殺人事件』(74)、本作の後に『ネットワーク』(76)といった作品を放って、社会派エンタメ監督且つ、ヒットメーカーとして異彩を放っていたのである。「俳優の監督」であるルメットが重視するのは、“リハーサル”。曰く、「自分の感じられるところまで進め、自分が望むだけやれ。望まないことはできるだけやるな。心に感じるものがあるなら、それを外に高く飛ばせ。その勘定が正しいか誤っているかは気にするな。じきにわかる。それがリハーサルのねらいだ」 ルメットは映画界に入る前、TVで生放送のドラマを、5年間で500本手掛けた。その経験もあって、入念なリハーサルを行い、いわば舞台的な演出を行った。 彼の遺作となった『その土曜日、7時58分』(2007)の出演者イーサン・ホークは、こんなことを言っている。「2週間ほどかけて入念にリハーサルした。僕らのクリエイティブな仕事の大半は、撮影開始以前に終わっていた。結論は既に出ているから、あとはそれを実行するだけ」 ルメットの初監督作『十二人の怒れる男』(1957)で、リー・J・コッブがヘンリー・フォンダと言い争そうシーンがあった。この作品は順撮りではなく、シーンの途中で撮影を終えた後、1週間ほど経ってから続きを撮ることとなった。 これだけ間が空いてしまうと、前に撮った時の感情を保つのは、困難である。しかし撮影前に、2週間に及ぶリハーサルでシーンを作り上げていたため、どういった感情で演じれば良いか、ルメットも俳優たちも、はっきりと認識できていた。 入念なリハーサルをベースに、舞台的な演出を行いながらも、映像は映画的なのも、ルメットの特徴。作品に合わせて撮影のスタイルを変えるなど、融通無碍でもあった。『狼たちの午後』は、ルメットのそうした特性が、最も有機的に作用した作品とも言える。もちろん本作も御多分に漏れず、撮影前に3週間のリハーサルが行われた。しかし本作のリハーサルに関しては、即興の演技を引き出すためのものという位置づけだった。 具体的には、リハーサルの際に脚本のセリフを言わせるのではなく、その状況の中で俳優たちにアドリブを言わせる方式を取った。そして毎晩リハーサルの後、録音してあった即興のセリフを、タイプで清書したのである。こうして練りだされたセリフが、映画で使われることになった。因みに脚本の構成は、全く変わってはいない。 本作に、実際の事件を捉えているような、ドキュメンタリーな臨場感が出たのは、こうした演出法も明らかに作用している。 ルメットがデビュー以来お得意の密室劇でもある本作で、メインの舞台となるのは、銀行。ブルックリンの、実際の事件現場からほど近い場所に空き倉庫を見つけて、外観も内装も、銀行に作り変えた。ルメットは本作に関して、スタジオで撮ることは、まったく考えなかったという。 ルメットの監督作品は、全部で43本。その内で実に29本が、己が生まれ育ったニューヨークでロケを行なっている。ルメットが生粋のニューヨーカー監督であったことも、本作にはうってつけだったと言えよう。 撮影は7週間。通常の照明ではなく、例えば銀行内は蛍光灯を軸にするなどして、リアルなルックを狙った。 因みにキャスティングには、主演のパチーノの意向が大きく働いた。舞台の共演がきっかけで信頼関係を築いた、ジョン・カザール、チャールズ・ダーニング、ランス・ヘンリセンなどが起用されることになった。『ゴッドファーザー』シリーズではパチーノの兄を演じたジョン・カザールは、本作では、強盗の共犯者役。実は脚本では、15~16歳の少年という設定だった。 それなのに、40歳に近いカザールを推してくるパチーノに、ルメットは怪訝な思いを抱いた。実際にカザールに会ってみても、30代にしか見えず、失望しかなかったという。 しかし彼の演技を目の当たりにして、考えが変わり、役の設定を変えた。結果的にパチーノは、間違ってなかったのだ。 主人公と“同性結婚”をした、トランスジェンダーの役には、クリス・サランドンが選ばれた。サランドンはそれまで、舞台が専門で、映画は初出演。彼をオーディションで選んだのは、ルメット。そしてその場に立ち合った、パチーノだった。 パチーノはクランクイン前、リハーサルも含めて、ルメットやピアソンと、役作りに関して、十分に詰めたつもりだった。しかしいざ撮影が始まって主人公を演じてみると、なぜか違和感が拭えなかった。何かが違う…。 銀行に押し入るシーンのラッシュを見たパチーノは、「ここには誰も写っていない」と主張し撮り直しを要求。その日は家に帰ると、一晩掛けてどうすれば良いかを考えた。「…おれはサングラスをかけて銀行へ入ってゆく。で、思った。ちがう。あいつはサングラスはしない。サングラスは決行の日に家に忘れてくるんだ。なぜなら、本心ではつかまりたいと思っているんだ」 そう思い至ったパチーノは、サングラスを掛けずに撮り直しを行った。そして、そこからは順調に、撮影が進んだ。 本作では様々な形で、アドリブが生かされた。代表的と言えるのが、銀行から出てきたパチーノが、野次馬たちに「アッティカ!アッティカ!」と連呼して、歓声を浴びるシーン。 アッティカとは、ニューヨーク州に在る刑務所で、71年9月、囚人たちが所内の劣悪な環境の改善を訴えて暴動を起こすという事件が起こった。本作の主人公は公権力の横暴を批判するために、この一件を引き合いに出して群衆にアピールしたわけだが、実はこのセリフは、助監督のアイディアを、パチーノが採り入れたものだった。 この「アッティカ! アッティカ!」は、本作製作後30年経った2005年に、「アメリカン・フィルム・インスティチュート」によって、名台詞ベスト100中第86位に選ばれている。 本作終盤近く、パチーノが同性の妻であるクリス・サランドンと電話で話すシーンは、リハーサルの時の即興を元に演じられた。パチーノは続けて、今度は子をなした妻の方と電話で話す。ここはパチーノの部分は即興だが、妻役のスーザン・ペレスは、脚本で書かれているオリジナルのセリフを喋っている。 この2人の妻とのやり取りは、カメラを止めず、続けて撮影された。気合い十分のパチーノは素晴らしい演技を見せたが、実はルメットは1テイク目の出来がどうであれ、2テイク目に行くことを決めていた。 1テイク目で全力を出して、すでにグッタリしていたパチーノ。そのため、本人は予想していなかった2テイク目は、気負いや虚飾が一切剥ぎ取られ、反射的に対応するようになる。 その結果はルメット曰く、「あの十四分間は、それまでわたしが見たこともないほどすばらしいシーンのひとつだった」 こんな調子で、本物の怒りや焦燥を引き出されたパチーノは、撮影終了後に過労で入院。今度こそ本当に、一時映画を離れて舞台を優先することとなる…。 完成に至った本作は、マスコミからも観客からも、熱狂的に迎えられた。アカデミー賞では、作品賞、監督賞、主演男優賞など6部門でノミネート。しかし受賞は、ピアソンの脚本賞だけに止まった。 この年の作品賞のライバルは、スタンリー・キューブリック監督の『バリー・リンドン』、ロバート・アルトマン監督の『ナッシュビル』、スティーヴン・スピルバーグ監督の『ジョーズ』、ミロス・フォアマン監督の『カッコーの巣の上で』と、強敵揃い。その中でも『カッコー…』が圧倒的な強さを見せ、作品賞はじめ主要部門を掻っ攫っていった。 ルメットがノミネートされた監督賞は、フォアマンに、パチーノの主演男優賞は、やはり『カッコー…』のジャック・ニコルソンの手へと渡った。この時が主演・助演合わせて4度目のノミネートだったパチーノが、オスカーを実際に手にするには、17年後の『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』(92)まで待たねばならなかった。 一方ルメットは、生涯で4度候補になった監督賞のオスカーを手にすることは、結局なかった。彼に贈られたオスカーは、2004年度アカデミー賞の名誉賞のみ。 ルメットほどの名匠にとっては、ただただ巡り合わせが悪かったという他はない。しかし2011年に86歳で没したルメットのフィルモグラフィーの内、少なくない数の作品が、映画史の中で語り続けられ、今でも燦然と輝いている。 本作『狼たちの午後』も、明らかにそんな1本。2009年にはアメリカ議会図書館が、「文化的・歴史的・美的価値がきわめて高い」作品と見なし、アメリカ国立フィルム登録簿に保存する作品に選んでいる。 最後に余談になるが、撮影前の取材を断ったウォトヴィッツにも、大ヒットした本作の収益の一部が支払われた。彼はその金の一部を、男性妻の性転換手術に使ったという。■ 『狼たちの午後』© Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2023.07.04
パク・チャヌクが描いた、「ヴァンパイア神父 meets テレーズ・ラカン」『渇き』
本作『渇き』は、2009年の作品。パク・チャヌク監督が、『JSA』(00)、そしていわゆる“復讐三部作”『復讐者に憐れみを』(02)『オールド・ボーイ』(03)『親切なクムジャさん』(05)などを経て、韓国映画界のTOPランナーの一人として、十分な名声を得た後に発表した作品である。 しかしその構想は、『JSA』の頃には既にあった。またそのアイディアの原点は、監督の少年時代にまで遡るという。 幼い頃は、カトリックの信者だったというチャヌク。毎週教会に通っており、聖職者に関心があった。 しかし高校生の時に、知人の神父が父親を訪ねてきたのが、転機になる。神父はチャヌクの熱心さを見て、神学校に通わせるのを薦めた。しかし当の本人には、結婚願望があったのだ。 生涯妻帯を許されず、即ち童貞のまま生きていかねばならない。そんな“神の道”を、チャヌクは選ぶことはできず、結果的には、宗教から遠ざかることとなる。 しかし、聖職者という存在への興味は止むことはなかった。更に言えば、「人間の原罪」というものへの意識は、常に抱いていたという。『渇き』の根源にあったアイディアは、チャヌク曰く「…あくまでも“神父の映画”を作るというものでした。この世で最も高潔な職種と見られている神父。その中でも人一倍高潔な人類愛に溢れ、自己犠牲的な精神を持った一人の神父が、神学校時代の親友がAIDSに罹って終末期にあることを知り、新薬開発のための人体実験の素材となるべく自ら志願してパリの研究所に行く。けれどもそこで彼自身が同じ不治の病を感染してしまう…」 これはチャヌクがたまたま目にした雑誌の記事にインスパイアされて、浮かんだストーリー。実際にAIDS治療薬開発のための被験者を募ったところ、多くの宗教者や医師が応じたという。 そこにチャヌクが、幼少期から目の当たりにしていた光景を思い出しての、閃きが加わった。カソリックに於けるミサの儀式では、イエス・キリストの血に見立てた葡萄酒を飲む。イエスの血を毎日口にする神父が、己が生きていくために、本物の人の血を飲まなければいけなくなったら、どうなるだろうか?神父がヴァンパイアになったら、一体どんな振舞いをするのか? 考える内に、より背徳的な筋立てになっていく。人の血を求めるようになった神父は、同時に本能を抑えることができなくなり、最終的には、性的な快楽をも追及してしまう。しかしこうした構想を煮詰めていく中でも、神父が愛してしまう女性像というのが、なかなか明確にはならなかった。 本作は当初、“復讐三部作”にピリオドを打った、『親切なクムジャさん』の前後に撮影が予定されていた。しかしそんなこともあって、製作が延び延びになっていく。 同時にチャヌクには、別にやりたい企画が浮かんでいた。それは19世紀のフランスの文豪エミール・ゾラの小説「テレーズ・ラカン」。 愛人と結託して、病弱な夫との不幸な結婚生活にピリオドを打ちながらも、良心の呵責から、やがて愛人共々破滅へと向かう若い女性テレーズの物語である。サイレントの頃から、時にはアレンジを加えながら、幾度か映像作品が製作されてきたこの物語だが、チャヌクは19世紀のパリを舞台に、原作に忠実な映画化を構想した。 ヴァンパイア神父と「テレーズ・ラカン」の融合を思い付いたのは、女性プロデューサーのアン・スジョンだった。『渇き』を作るお膳立てはとうに出来ているのに、別の企画ばかり優先しようとするチャヌクに対して、彼女の焦りもあったのかも知れない。 しかしこのミクスチャーは、チャヌクにとっても腑に落ちるものだった。すべてのパズルがハマって、いよいよ本作は製作に至ったのである。 ***** 孤児院出身で、謹厳実直なカソリックの神父サンヒョン。病院で重病患者を看取ることに無力感を募らせた彼は、アフリカの荒野に佇む研究所に向かう。 そこでは、死のウィルスのワクチン開発が進められていた。サンヒョンは、その実験台を志願したのだ。 発病し死に至った彼だが、提供者不明の輸血で、奇跡的に復活。ミイラ男のような姿で帰国し、“包帯の聖者”と崇められる。 サンヒョンは幼馴染みのガンウと、期せずして再会。彼の家に出入りするように。 ガンウの家族は、一人息子の彼を溺愛する母親のラ夫人と、妻のテジュ。地味で無愛想なテジュだったが、あどけなさの中に不思議な色香を漂わせ、サンヒョンの心は掻き乱される。 実はサンヒョンの身には、恐ろしい異変が起こっていた。人の血を吸わなければ生きていけない、ヴァンパイアになっていたのだ。しかし神父の身で、人殺しはできない。彼は病院に忍び込んでは、昏睡中の入院患者の血をチューブで吸って、飢えをしのいだ。 太陽光を浴びられないなどの不自由さと引換えに、驚異的な治癒能力や、跳躍力などを身に付けたサンヒョンは、お互いを強く意識するようになったテジュと、やがて男女の仲になる。サンヒョンの正体を知って、一時は恐れおののいたテジュだったが、2人の関係はどんどん深みにはまっていく。 やがては己の幼馴染みで、テジュの夫であるガンウに強い殺意を抱くようになったサンヒョン。彼はテジュと共に、越えてはならない一線を、ついに踏み越えてしまう…。 ***** マザコンで病弱な夫に仕え、義母の営む服店で働くテジュの設定は、「テレーズ・ラカン」とほぼ同じ。サンヒョンとテジュが共謀し、ボート遊びに誘ったガンウを溺死させる件や、その後病に倒れて口がきけなくなったラ夫人の目線に、2人が脅かされる展開など、小説をベースにしている部分は多い。 本作の最初の構想が浮かんだのは、ちょうど『JSA』を製作していた頃。撮影の合間にその内容を一番初めに話した相手は、ソン・ガンホだったという。そんなこともあって、ガンホが本作の主演を務めるのは、どちらからともなく自然に決まっていた。 ガンホは10㌔減量。神父にしてヴァンパイアという、それまで主に欧米で映画化されてきた、数多もの吸血鬼ものの類型を脱した役作りに挑んだ。 テジュ役のキム・オクビンに、チャヌクが最初に会ったのは、知人の薦め。彼のイメージでいけば、オクビンの年齢が若すぎるため、正直なところあまり気乗りしないまま、“キャスティング”を前提としない、面会だった。 ところがいざ対面してみると、彼女の掴み所の無い、不安定な印象に魅了された。そしてもう一点、チャヌクの心を鷲づかみにしたのが、オクビンの“手”であった。 韓国では一般的に、色白で小さい手の持ち主が、美人とされる。ところがオクビンの手は、指が長くて掌も広かった。この力強い“手”が、サンヒョンのことを一度摑んだら離さないという、テジュのイメージと合致したのである。 テジュの役にオクビンの抜擢を決めると、チャヌクは彼女に、アンジェイ・ズラウスキー監督の『ポゼッション』(1981)を観るように指示した。イザベル・アジャーニの人妻が、自らの妄想が生み出した魔物とセックスするシーンがあるこの作品のように、臆病にならずに演技をして欲しいという、意図からだった。因みにテジュの衣裳が、後半で印象的な“青”となるのは、『ポゼッション』でヒロインが着ていた衣裳に対する、リスペクトの意味も籠められているという。 もっとも、“青”になるのは、それだけが理由ではない。初登場からしばらくの間、義母と夫に抑圧されながら暮らすテジュの顔色は青白い。髪にもほとんど櫛を入れることはなく、身に纏うのは、すべて地味な色の洋服。 ところがサンヒョンと出会ってから、活力を得た彼女の頬の色は、ピンクに輝くようになる。髪も整えるようになった彼女が着るのが、真っ青な服。頬の色を強調するためにも、対照的な色彩の“青”が不可欠だったわけである。 因みにサンヒョンの出で立ちにも触れると、登場時は無色で柔らかな素材の、いかにも聖職者らしい服装だったのが、ヴァンパイアになった後の服装はラフになり、ボサボサの髪型。先に挙げた通りの、役作りでの減量も効果的に、少し若返った印象に映る。 チャヌクは演出に当たっては、ヴァイオレンスとセックスをどう結合させるかを、テーマにした。暴力に馴染んでしまった官能性、そしてエロスの中にある暴力。その2つのものが完全に融合するということを、強く意識したという。 本作のポスターやチラシのメインヴィジュアルでは、オクビンが情事の時に見せるような表情をしながら、ガンホの首を絞めている。この図は本作の作品のコンセプトを、見事に表していると言える。 2000年代から10年代に掛けてのパク・チャヌク監督作品は、過剰なまでに、エロスとヴァイオレンスが溢れかえっていた印象が強いかも知れない。しかしそんな中で、『親切なクムジャさん』から『お嬢さん』(2016)に掛けての10年余で、彼の“フェミニスト”的な視点が確立していくのも、決して見落としてはならない。 チャヌクが、肉体の欲望に裏打ちされた愛の姿を特に強調して描きたかったという本作も、そうした文脈の中で語られるべき1本である。 最新作『別れる決心』(2022)では、根底に流れるものには共通性を感じさせながらも、敢えてヴァイオレンスとセックスの描写を封印してみせたパク・チャヌク監督。彼の作品には、まだまだ驚かされることが、多そうである。■ 『渇き』© 2009 CJ ENTERTAINMENT INC., FOCUS FEATURES INTERNATIONAL & MOHO FILM. ALL RIGHTS RESERVED
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COLUMN/コラム2023.06.30
#MeTooとSNSの時代を映し出す古典的SFホラーの見事な新解釈版『透明人間』
かつて透明人間は日本映画でも人気者だった! 『ミイラ再生』(’32)をリメイクした『ハムナプトラ/失われた砂漠の都』(’99)の大成功とシリーズ化をきっかけに、『ヴァン・ヘルシング』(’04)や『ウルフマン』(’10)、『ドラキュラZERO』(’14)など、往年のクラシック・モンスター映画をコンスタントにリメイク&リブートしてきたユニバーサル・スタジオ。’14年にはフランチャイズ化(後に「ダーク・ユニバース」と命名)も発表され、MCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)やDCEU(DCエクステンデッド・ユニバース)にも匹敵する壮大なシェアード・ユニバースが展開されるはずだった。 ところが、その第1弾『ザ・マミー/呪われた砂漠の女王』(’17)がまさかの大失敗に終わり、フランチャイズ化の計画は一転して白紙撤回されることに。トム・クルーズにジョニー・デップ、ハヴィエル・バルデムにラッセル・クロウと、錚々たるビッグネームを揃えた「ダーク・ユニバース」のコンセプト写真に、企画発表の当時からワクワクしていた筆者は思わずガッカリしたものである。そして、その代わりとなる単独映画として作られたのが、本作『透明人間』(’20)だった。 ご存知、オリジナルはSF小説の大家H・G・ウェルズの同名小説を、巨匠ジェームズ・ホエールが映画化したユニバーサル・ホラーの名作『透明人間』(’33)。人間を透明にする薬品を開発した科学者グリフィン博士(クロード・レインズ)が、自ら実験台となって透明化に成功するものの、しかし薬品の副作用によって狂暴化してしまう…というお話。いわば、「ジキル博士とハイド氏」の系譜に属するマッド・サイエンティスト物である。グリフィン博士が頭部に巻いていた包帯を解いていくと、なんと中身は透明で何も見えません!という特撮は、今となっては極めて原始的な合成技術に過ぎないのだが、しかし90年前の公開当時はこれが大変な評判となった。そもそも、この透明効果を映像化するのが技術的に困難ゆえ、それまでウェルズの原作は1度も映画化されたことがなかったのだ。1933年といえば、あの特撮怪獣映画の金字塔『キング・コング』(’33)も公開されている。ハリウッドの特撮技術が飛躍的な進化を遂げた記念すべき年だったと言えよう。 これ以降、ユニバーサルは『透明人間の逆襲』(’40)など合計で4本(1作目を含めると5本)の続編シリーズを製作。中でも最終作『The Invisible Man’s Revenge』(’44)は、徐々に透明化していく過程を移動撮影で描いたことが画期的だった。また、人気コメディアン・コンビ、アボット&コステロ主演の『凸凹透明人間』(’51)や、透明エイリアンが地球を侵略する『インベーダー侵略 ゾンビ来襲』(’59)、ギャング組織が透明技術を悪用する『驚異の透明人間』(’60)など、パロディ映画や亜流映画も各映画会社で続々と作られ、やがて透明人間はSFホラーの定番キャラクターへと成長する。 ちなみに、戦後の日本映画でも透明人間が流行った。その原点は円谷英二が特撮を手掛けた大映の『透明人間現わる』(’49)。ユニバーサルの『透明人間』を徹底的に研究した円谷は、透明人間が煙草をふかすシーンなど、当時としては画期的な特撮の見せ場を披露するも、しかし本人は「力量不足」と満足しなかったそうで、その後も東宝の『透明人間』(’54)で再挑戦している。また、大映は的場徹に特撮を任せた『透明人間と蠅男』(’57)を発表。興味深いのは、ハリウッド映画の透明人間が基本的にヴィランであるのに対し、国産の東宝版と大映版2作目は透明人間を正義の味方として描いていることだろう。いわば変身ヒーローの先駆けだ。そのほか、怪人二十面相が透明化する『少年探偵団 透明怪人』(’58)や、南蛮の秘薬で透明化した武士が復讐に走る特撮時代劇『透明天狗』(’60)などが作られている。 そもそも、ディズニー俳優ディーン・ジョーンズがイタリアで主演した『透明人間大冒険』(’70)や、ドイツの犯罪アクション映画「マブゼ博士」シリーズのひとつ『怪人マブゼ博士・姿なき恐怖』(’62)など、それこそ世界中の映画に登場してきた透明人間。やはり、透明になって姿を消すことは人類共通の夢みたいなものなのだろうか。また、ハイレベルな特撮技術を求められるため、透明人間映画は作り手の創造力を刺激するのかもしれない。そういう意味で、初めて透明人間をCGで描写したジョン・カーペンター監督の『透明人間』(’92)は画期的だったし、透明化していく過程の血管やら筋肉やら骨やらまで見せるポール・ヴァーホーヴェン監督の『インビジブル』(’01)はまたグロテスクでインパクト強烈だった。 なので、CG技術が飛躍的に進化した現代に『透明人間』のリメイクというのは理に適っているのかもしれないが、しかしこの2020年版『透明人間』で最も評価されるべき点は、実は最新のデジタル技術を駆使したVFXよりも、古典的な題材を現代的にアップデートした脚本の妙にあると言えよう。 ヒロインだけでなく観客も追いつめられるガスライティングの恐怖 真夜中に防犯システムを完備した大豪邸からこっそりと逃げ出す女性セシリア(エリザベス・モス)。彼女は世界的な光学研究の第一人者エイドリアン・グリフィン博士(オリヴァー・ジャクソン=コーエン)の恋人なのだが、しかし嫉妬深くて束縛が強くて支配的な彼との暮らしは生き地獄だったため、いよいよ覚悟を決めて脱出を企てたのである。睡眠薬で眠らせたはずのエイドリアンが、文字通り鬼の形相で追いかけてきたものの、電話連絡を受けて駆け付けた妹エミリー(ハリエット・ダイヤー)の車で逃げ切ることに成功したセシリア。その後、彼女は警察官である友人ジェームズ(オルディス・ホッジ)の自宅に匿われたが、しかしエイドリアンから受け続けた精神的な暴力によるトラウマはなかなか癒えなかった。 そんな折、驚くべきニュースが飛び込む。エイドリアンが自殺を遂げたというのだ。彼の兄である弁護士トム(マイケル・ドーマン)に呼び出され、500万ドルの遺産まで相続することになったセシリア。しかし、彼女はエイドリアンの死をにわかに信じることが出来ない。なぜなら、彼は自己愛の強いソシオパスで、全てを自分の思い通りにせねば気が済まない性格の持ち主。とてもじゃないが自殺をするような人間ではない。他人の目を欺くことにだって長けている。ましてや彼は世界的な科学者だ。自殺を偽装するなど朝飯前であろう。 やがて彼女の周辺では奇妙な出来事が起きるようになり、エイドリアンに見張られているのではないかと感じ始めるセシリア。当然、ジェームズやエミリーは思い過ごしだと受け流すが、しかしセシリアは送った覚えのない誹謗中傷メールでエミリーと絶縁する羽目になり、さらにジェームズの娘シドニー(ストーム・リード)を殴ったと疑われてしまう。私は何もしていない。エイドリアンが透明人間になって私を陥れようとしているのだ。証拠を掴むためエイドリアンの自宅へ行ったセシリアは、そこで人体を透明化する特殊スーツを発見。やはりそうだったのか。疑惑が確信へと変わった彼女は、エミリーに全てを打ち明けようとするのだが、しかしそこで最悪の悲劇が起きてしまう。果たして、エイドリアンは本当にまだ生きているのか、それとも全てはセシリアの被害妄想の産物なのか…? もちろん、一連の出来事は透明人間になったエイドリアンの仕組んだ罠なのだが、いずれにせよ主人公の名前(グリフィン博士)および透明人間という設定を継承しただけで、それ以外はほとんど原形をとどめていない大胆なアレンジに驚くホラー映画ファンも多いことだろう。オリジナル版の天才科学者グリフィン博士も、透明薬の副作用が少なからず影響しているとはいえ、優性思想に染まった誇大妄想狂のクソ野郎だったが、このリメイク版のグリフィン博士は典型的なDVモラハラ男として描かれる。まさしく、#MeToo時代に相応しい新解釈版『透明人間』だ。 被害者が精神的におかしいのではないか?と本人だけでなく周囲にも信じ込ませ、巧みに窮地へと追い詰めていく心理的虐待をガスライティングと呼ぶのだが、なるほど確かにガスライティングと透明人間は驚くほど親和性が高い。姿が見えなければやり放題だ。これまでありそうでなかった新しい切り口と言えよう。加えて、己の姿を一切見せることのないグリフィン博士の執拗な嫌がらせは、いわゆるソーシャルメディア・ハラスメントをも想起させる。SNSで匿名に隠れて他者を攻撃する加害者などは、まさに透明人間みたいなものだ。そういう意味でも、これは極めて今日的なテーマを扱った作品だ。 しかも、本作は透明人間ではなくその被害者の視点でストーリーが語られるため、観客はヒロインに降りかかる心理的な恐怖や絶望を生々しく追体験することになる。この息の詰まるような恐ろしさときたら!それゆえ、DVやハラスメントの被害者はフラッシュバックする恐れがあるので、鑑賞する際には注意が必要かもしれない。 監督と脚本を手掛けたのは、盟友ジェームズ・ワンと共に『ソウ』(’04)シリーズや『インシディアス』(’10)シリーズを生んだオーストラリア出身の脚本家リー・ワネル。前作『アップグレード』(’18)では、『狼よさらば』(’74)的なリベンジ・アクションを『ターミネーター』(’84)的な科学の暴走へと昇華させたていたワネル監督だが、本作ではその逆パターンを採用している。要するに、「科学の暴走」そのものである『透明人間』の物語を、『狼よさらば』というよりは『リップスティック』(’76)や『天使の復讐』(’81)的な性暴力被害者の復讐譚として仕上げたのだ。 さらに本作で目を引くのは透明人間のカラクリだ。ご存知の通り、H・G・ウェルズの原作小説や’33年版のグリフィン博士は、特殊な薬品を投与することで透明人間となる。その後の透明人間映画の多くも、この透明薬を採用してきた。その他にも、原子力を用いた放射能光線や透明化装置などもポピュラーだったが、本作では着用すると透明になれる特殊なボディスーツが使用される。 これがどういう仕組みかというと、スーツ全体に無数の小型カメラレンズが埋め込まれており、それぞれのレンズが周囲の様子をリアルタイムで細かくホログラム化。その映像で全身を覆い隠すことによって、周囲に溶け込んで透明化したように見える…ということらしい。なので、一度投与したら透明化したままの薬品と違って、それこそプレデターのように姿を見せたり隠したりが自在に出来るのだ。ある意味、CG加工と似たような原理である。実際、本作では透明人間役のスタントマンが全身グリーンのボディスーツを着用し、ポストプロダクションの際にはその部分だけをデジタル消去することで透明化している。なるほど、現実が空想科学にだんだんと追いついてきたわけだ。 ヒロインのセシリア役にエリザベス・モスを選んだのもドンピシャ。なにしろ、出世作『マッドメン』(‘07~’15)では男社会の会社組織で女性差別やセクハラに苦しむキャリア女性ペギー・オルセンを、初主演作『ハンドメイズ・テイル/侍女の物語』(‘17~)では全体主義国家アメリカで妊娠出産に奉仕させられる侍女ジューンを演じた、いわば#MeToo時代のハリウッドを象徴するような女優である。金持ち男性が囲い込む女性としては容姿が地味過ぎやしないか…との声も一部にあったようだが、しかし見た目が地味で大人しそうな女性ほど性暴力被害に遭いやすいとも言われる。まあ、そりゃそうだろう。DV男やモラハラ男は、自分に自信がなくて支配しやすい女性を狙うものだ。そう考えると、彼女の起用は十分に説得力があると思う。 ちなみに、『マトリックス』シリーズのゴースト役で知られる俳優アンソニー・ウォンが、交通事故に遭った車からフラフラしながら出てくるドライバー役でチラリと登場。その直後、セシリアが彼の車を奪って精神病院から逃走するのだが、その際にほんの一瞬だけ「ソウ人形」の落書きが画面に映る。くれぐれもお見逃しなきよう。 そんなこんなで、コロナ禍での劇場公開という圧倒的に不利な状況にも関わらず、世界興収1億4300万ドルというスマッシュヒットを記録し、ハリウッド批評家協会賞やサターン賞といった賞レースを席巻するなど、批評的にも極めて高い評価を得た本作。目下のところリー・ワネル監督による続編映画、そしてエリザベス・バンクスを監督に起用したスピンオフ映画の企画が進行しているという。それより前に、ホラー映画ファンとしては『スクリーム』製作チームによる、’24年春公開予定のタイトル未定ユニバーサル・モンスター映画というのが大いに気になるところですな!■ 『透明人間(2020)』© 2020 Universal City Studios Productions LLLP. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2023.06.28
古き良きモンスター映画の魅力を現代に受け継いだ正統派ゴシック・ホラー『ウルフマン』
※本レビューには一部ネタバレが含まれるため、鑑賞後にお読み頂くことを推奨します。 狼男はいかにしてホラー映画のメジャースターとなったのか? ハリウッド産ホラー映画の殿堂ユニバーサルが、往年の名作『狼男』(’41)を21世紀に甦らせたリメイク映画『ウルフマン』(’10)。「吸血鬼」や「フランケンシュタインの怪物」などと並ぶ、古典的ホラー・モンスターの代表格「狼男」だが、しかし映画の世界では長いこと不遇の扱いを受けることが多かった。そこでまずは、狼男伝説の基本をおさらいしつつ、人狼映画の変遷を振り返ってみたい。 普段は平穏に暮らしている普通の人間が、満月の夜になると全身が狼のように毛むくじゃらの怪物へと変身し、文字通り野獣本能の赴くままに殺戮を繰り広げる狼男(=人狼)。襲われた人間もまた人狼となってしまう。唯一の弱点は銀製の弾丸や武器だが、この設定は19世紀に加わったものと言われる。ヨーロッパの民間伝承では古くから知られており、そのルーツは遠くギリシャ神話やローマ神話の時代にまで遡るという。アルカディア王リュカオンの伝説だ。詩人オウィディウスの叙事詩「変身物語」には、自分のもとへ訪れた最高神ゼウスを本物かどうか試そうとしたリュカオンが、そのことでゼウスの怒りを買って狼へ変えられたという記述がある。このリュカオンこそが、人狼=ライカンスロープの語源となったのだ。 さらに、中世ヨーロッパでは各地に人狼事件の記録が残っており、特に魔女狩りの嵐が吹き荒れた16世紀から17世紀にかけては、実に3万件もの人狼裁判が行われたそうだ。また、1764~67年にフランスのジェヴォーダン地方で100人近くが狼のような野獣に襲われたという、いわゆる「ジェヴォーダンの獣」事件にも人狼説が存在する。ただ、この頃になると「狼憑き」は精神疾患の一種と見做されるようになっていたようだ。実際、ライ麦パンを主食とする貧困層が、そのライ麦に寄生した麦角菌の中毒が原因で「狼憑き」状態に陥ったケースも多かったらしい。 かように長い歴史と伝統を誇る怪物・狼男(=人狼)だが、しかし映画のスクリーンで暴れまわるまでには時間がかかった。世界初の人狼映画と呼ばれるのは、ユニバーサルが配給した『The Werewolf』(’13)という短編サイレント映画。これは、先住民ナバホ族の呪術師が、白人侵略者を殺すため我が娘を狼に変えるという話だった。しかし、サイレント期に作られた人狼映画は、これとジョージ・チェセブロ主演の『Wolf Blood』(’25)くらいのもの。吸血鬼およびフランケンシュタインの怪物に比べて人狼が不人気だったのは、「吸血鬼ドラキュラ」や「フランケンシュタイン」のように著名な原作が存在しなかったからと考えられる。また、人間→モンスターへ変身する過程の描写が、当時の映像技術では極めて難しかったことも理由として挙げられるだろう。 やがて、’30年代に入ると『魔人ドラキュラ』(’31)と『フランケンシュタイン』(’31)の大ヒットを皮切りに、いわゆるユニバーサル・モンスター映画ブームが到来。フランケンシュタインの怪物を演じたボリス・カーロフが一躍注目されたことから、そのカーロフを単独主演に据えた次回作として、実はスタジオ側が人狼映画の企画を準備していたらしい。監督と脚本も『モルグ街の殺人』(’32)のロバート・フローリーに決まっていたという。ところが、人間が野獣に変身するのは冒涜的ではないか?と、カトリック系団体からの反発を恐れたユニバーサルが途中で企画を断念。その代わりとして製作したのが『倫敦の人狼』(’35)だった。ただし、人狼治癒効果のある希少な植物を研究する学者が人狼に変身するというストーリーは、「ジキル博士とハイド氏」のバリエーションという印象。劇中に登場する人狼の特殊メイク(ジャック・ピアースが担当)も、なるべくショッキングになり過ぎないよう配慮され、あえて野獣的なイメージが薄められてしまった。 そのユニバーサルが、ようやく本腰を入れて世に送り出した本格的な人狼映画がジョージ・ワグナー監督の『狼男』(’41)。兄の死をきっかけに故郷へ戻った名家の御曹司ローレンス・タルボット(ロン・チェイニー・ジュニア)が、夜の森で狼に襲われたことから、満月の夜になると人狼へと変身してしまう。普段は善良で心優しい青年が、理性なき凶暴なケダモノと化してしまう衝撃。そして、己の残酷な運命に苦悩した彼が、さらなる惨劇を防ぐため自らの死を望むという悲劇。そのドラマチックなストーリーは、原作小説のないオリジナル作品でありながら文学的な香りが色濃く漂う。脚本を手掛けたのはSF作家としても知られるカート・シオドマク。ジャック・ピアースによる野獣的な特殊メイクの仕上がりも素晴らしく、以降の人狼映画におけるプロトタイプとなる。技術的な粗を巧みに隠した変身シーンの演出も上出来だった。 この『狼男』が大ヒットしたおかげで、いよいよ人気ホラー・モンスターの仲間入りを果たした人狼。ユニバーサルは引き続きロン・チェイニー・ジュニアをローレンス・タルボット(=狼男)役に起用し、『フランケンシュタインと狼男』(’43)や『フランケンシュタインの館』(’44)、『ドラキュラとせむし女』(’45)などのモンスター競演映画を製作する。また、20世紀フォックスもジョン・ブラーム監督の『不死の怪物』(’42)という人狼映画の隠れた名作を発表。ただ、やはり特殊メイクに手間暇がかかるうえ、当時の技術では変身プロセスをリアルに見せることが困難だったためか、’50年代以降のハリウッドはあまり作られなくなっていく。 一方、ヨーロッパではオリヴァー・リードの出世作となったハマー・プロの英国ホラー『吸血狼男』(’60)や、『吸血鬼ドラキュラ対狼男』に始まるポール・ナッシー主演のスパニッシュ・ホラー「狼男ヴァルデマル・ダニンスキー」シリーズなどが登場し、アメリカへも上陸してヒットしている。さらに、’80年代になるとハリウッドの特殊メイクや視覚効果の技術が飛躍的に向上。ジョー・ダンテ監督の『ハウリング』(’81)とジョン・ランディス監督の『狼男アメリカン』(’81)が相次いで全米公開され、いずれも当時としては画期的な人狼の変身シーンが話題となった。人狼映画にとって長年の課題が遂に解決したのである。中でも、リック・ベイカーが特殊メイクを担当した『狼男アメリカン』は、人間から野獣へと変化していく過程を細部まで克明に表現。もはや特殊メイクの世界そのものに革命を巻き起こしたと言えよう。 こうして、長年に渡って進化を遂げてきた人狼映画。やがてCG全盛の時代が訪れると、毛の質感をいかにデジタルで表現するかが新たな課題となったが、しかし『アンダーワールド』(’03)シリーズや『トワイライト』(’05)シリーズを見ても分かるように、それもまた着実に改善されてきているだろう。とはいえ、デジタル処理された昨今の狼男に少なからず物足りなさを感じることも否定できまい。特に『トワイライト』シリーズの人狼は、もはや人狼というより狼そのものだし、なによりも変身シーンのあまりの呆気なさときたら(笑)。なので、『ドッグ・ソルジャー』(’02)や『ローンウルフ 真夜中の死闘』(’14)のような、極力CGを最小限に抑えてフィジカルな特殊メイクやアニマトロニクスにこだわった作品に、どうしてもシンパシーを覚えてしまう。いずれにせよ、そんな過渡期の時代にあえて登場したのが、人狼映画の古典にして金字塔『狼男』をリメイクした本作だった。 脚本・演出・特殊メイクの総てに溢れるオリジナルへのリスペクト! 舞台は19世紀末のイギリス。兄弟ベンが行方不明になったとの一報を、彼の婚約者グエン(エミリー・ブラント)より受けたシェイクスピア俳優ローレンス・タルボット(ベニチオ・デル・トロ)は、公演先のロンドンから故郷の村ブラックムーアへ25年ぶりに戻って来る。生家のタルボット城へ到着した彼を待っていたのは、長いこと複雑な関係にある父親ジョン(アンソニー・ホプキンス)。幼い頃に愛する母親を自殺で失い、その現場を目撃してしまったローレンスは、父親によって精神病院へと入れられ、退院後はアメリカに住む叔母のもとへ預けられたのだ。その父親ジョンの口から告げられたのはベンの訃報。遺体は無残にも引き裂かれており、まるで獰猛な野獣に襲われたようだった。いったいベンの身に何が起きたのか。ローレンスは真相を突き止めることを誓う。 実は、ローレンスの母親が亡くなった25年前の満月の夜にも、村では同様の事件が起きていた。一部の村人は人狼の仕業と信じているようだ。亡きベンが流浪民と関わっていたことを知ったローレンスは、手がかりを掴むために流浪民の野営地を訪ねるのだが、そこへ突然現れた人狼が大殺戮を繰り広げ、ローレンスもまた襲われて重傷を負ってしまう。瀕死の彼を助けたのは流浪民の占い師マレバ(ジェラルディン・チャップリン)。辛うじて一命を取り留めたローレンスは、驚くほどのスピードで回復。そんな彼の身辺を、警察庁のアバライン警部(ヒューゴ・ウィーヴィング)が調べ始める。精神疾患の過去があるローレンスに大量殺人の疑いを向けたのだ。徐々に自らの身体的な変化に違和感を覚えていくローレンス。そして訪れた満月の晩、彼はみるみるうちに狼人間へと姿を変えて村人を襲う。果たして、ベンを殺してローレンスを襲撃した人狼の思いがけない正体とは?そして、やがて明らかとなる母親の死の真相とは…? オリジナル版のストーリーを下敷きにしつつ、主人公ローレンスを舞台俳優に変えるなど随所で様々な設定変更を施し、さらに母親の死という新たな設定を加えた本作。ヒロインのグウェンも、オリジナル版ではローレンスの恋人となる骨董品店の娘だった。しかし恐らく最大の違いは父親ジョンの設定であろう。旧作のジョンは息子を誰よりも愛する理知的で温厚な天文学者だったが、本作のジョンはシニカルで冷笑的な名門貴族の隠居老人で、息子に対してもどこか冷淡なところがある。そればかりか、実は彼こそがベンを殺してローレンスを襲った人狼だった。この大胆な新解釈によって、ストーリー後半の展開も旧作とは意味合いが異なるものとなっている。 人狼としての野獣的な本能を受け入れ、むしろ優越感をもってそれを愉しむようになったジョン。一方の息子ローレンスは、抗いたくても抗うことのできない野獣的な本能に苦悩し、全ての元凶である父親に復讐を果たして自らも死を選ぼうとする。本編後半で繰り広げられる両者の全面対決は、それすなわち人間的な理性と動物的な本能の葛藤だと言えよう。確かに、父と子の死闘は旧作のクライマックスでも描かれるが、しかしオリジナル版の父親ジョンは目の前の人狼が我が子ローレンスだとは知らなかった。血を分けた親子の戦いというのは多分にシェイクスピア的であり、このリメイク版ではその宿命的な悲劇性がなおさらのこと際立つ。ローレンスの職業をシェイクスピア俳優に変えたことには、そういう意図も含まれていたに違いない。『セブン』(’95)のアンドリュー・ケヴィン・ウォーカーが手掛けた脚本を、『ロード・トゥ・パーディション』(’02)のデヴィッド・セルフがリライトしたそうだが、この肉親同士の非情な対立と隔絶の要素には後者の個性が色濃く出ているようにも思う。 ちなみに、グエンのナレーションによって読み上げられる冒頭の「清らかな心を持ち/祈りを欠かさぬ者も/トリカブトの咲く/秋月の輝く夜に/人狼にその姿を変える」という一文は、旧作『狼男』を筆頭にユニバーサル・ホラーでたびたび登場する人狼伝説の有名なフレーズ。一部では実在する東欧系流浪民の言い伝えだとも噂されてきたが、実際はオリジナル版の脚本家カート・シオドマクが考え出したものだった。 かように文学的で品格のある脚本を、正統派のゴシック・ホラーとして映像化したジョー・ジョンストンの演出も評価されて然るべきだろう。濃い霧の立ち込めるダークで重厚な映像美は、オリジナル版のイメージを最大限に尊重したもの。さらに、舞台設定を旧作の現代から19世紀末に移し替えたことで、メアリー・シェリーやブラム・ストーカーの小説にも相通じるクラシカルな怪奇幻想譚の世界を創出している。VFXの使用を必要最小限に抑えたことも、物語にリアリズムを与える上で非常に効果的だったと言えよう。中でも特に、昔ながらのフィジカルな特殊メイクで人狼を表現したのは賢明な選択だ。 特殊メイクのデザインを担当したのは、先述した『狼男アメリカン』の画期的な人狼メイクで業界に革命を巻き起こした巨匠リック・ベイカー。なにしろ、少年時代に見た旧作『狼男』や『フランケンシュタイン』に感化されて、特殊メイク・アーティストを目指した人物である。これほど適した人選もなかろう。事実、本作の企画を知ったベイカーは、「何が何でも俺がやりたい!」と自ら名乗りをあげたそうだ。その『狼男アメリカン』や『ハウリング』の成功以来、人間よりも本物の狼に寄せたデザインが主流となっていたハリウッド映画の人狼だが、本作ではベイカーも尊敬するジャック・ピアースが手掛けた旧作の人間寄りデザインを採用。そこに最先端の特殊メイク技術を活用したアップデートを施している。 例えば、趾行動物の特徴を受け継いだ人狼の独特な歩き方。旧作では単純に役者がつま先立ちをしているだけだったが、本作では競技用義足を応用することで、より動物的な歩行を表現している。また、旧作の狼男は材質が固かったため表情を変えることが難しかったが、その点も本作では大きく改善されており、なおかつ役者本人の顔つきや身体的な特徴を生かしたデザインが考案された。おかげで、CG人狼にありがちなアニメっぽさが感じられないのは有難い。なにより、古き良き伝統的な狼男を甦らせてくれたことは、ホラー映画ファンとして素直に嬉しいと言えよう。とはいえ、さすがに変身プロセスではCGを使用。一応、見せるパーツを選ぶことでデジタルの粗を隠しているが、それでも部分的には隠しきれていないところも見受けられる。そこは本作で唯一不満の残る点であろう。 なお、今回ザ・シネマにて放送されるのは、劇場版よりも17分ほど長いディレクターズ・カット版。オープニングのスタジオ・ロゴも、オリジナル版が公開された’40年代当時のものを再現している。また、劇場版ではグウェンからベン失踪を告げる手紙を受け取ったローレンスが、故郷のブラックムーアへ急いで向かう様子を駆け足で手短にまとめていたが、ディレクターズ・カット版ではそこへ至るまでの過程が詳しく描かれる。注目すべきは、クレジットにない名優マックス・フォン・シドーの登場であろう。ローレンスが機関車のコンパートメントで知り合う謎めいた老人役。終盤のストーリーで重要な役割を果たす純銀製のステッキは、この老人から譲り受けたものだったのだ。しかも、ジェヴォーダンで作られたものだというのだから、分かる人なら思わずニンマリとするに違いない。 特殊メイクを手掛けたリック・ベイカーとデイヴ・エルシーが第83回アカデミー賞に輝いたものの、しかし公開当時の批評は決して高かったとは言えず、興行的にも残念な結果に終わってしまった本作。正直なところ、理不尽なほどの過小評価だったと言わざるを得まい。実際は極めて良質なゴシック・ホラー映画。特に、ローレンス・タルボットやヴァルデマル・ダニンスキーの名前を聞いて思わず胸がキュンとなるような、筋金入りのクラシック・モンスター映画ファンならば必見である。現在、ユニバーサルは新たなリブート版の企画を進めているとのこと。大いに期待して待ちたい。■ 『ウルフマン [ディレクターズカット版]』© 2010 Universal Studios. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2023.06.21
デップとディカプリオ、美しき兄弟“黄金の瞬間”を名匠ハルストレムが紡ぐ『ギルバート・グレイプ』
スウェーデン出身のラッセ・ハルストレム(1946年~ )は、70年代中盤に監督デビュー。ワールドワイドな人気を博した、自国の音楽グループABBAのコンサートを追ったセミドキュメンタリー『アバ/ザ・ムービー』(77)でヒットを飛ばしたが、より大きな注目を集めたのは、1985年製作の『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』だった。 1950年代後半を舞台に、母の結核が悪化したために田舎の親戚に預けられた、12歳の少年の1年を描く。主人公を悲劇的な境遇に置きながらも、その成長をユーモラスにスケッチしたこの作品の人気は、自国に止まらなかった。 当時「アメリカで最もヒットした外国語映画」となり、ゴールデングローブ賞の最優秀外国語映画賞を受賞。またアカデミー賞でも、監督賞と脚本賞にノミネートされ、ハルストレムがハリウッドに招かれるきっかけとなった。 アメリカでの第1作『ワンス・アラウンド』(90/日本未公開)を経て、ハルストレムが取り組んだのが。本作『ギルバート・グレイプ』(93)である。 ハルストレムがプロデューサーに、「やっと見つけたよ」と伝えたという、この物語。「悲劇と喜劇がうまくミックスされていて楽しいけれど、どこか悲しい」まさに彼の求めていたものだった。 ピーター・ヘッジスによる原作小説が書店に並んで数日後に、ハルストレムは「映画化」のオファーを行った。そしてそれまで戯曲を中心に書いてきたヘッジスに、本作に関して、「絶対に脚本も書くべきだ」と勧めたのだという。原作の「…楽しいけれど、どこか悲しい」感じを、大切にしたかったのだろう。 ***** アイオワ州エンドーラ。人口1,000人ほどのスモールタウンに、24歳のギルバート・グレイプは暮らしていた。 大型スーパー進出の影響で客が来なくなった食料品店に勤務する彼の家族は、母と妹2人、そして末弟のアーニー。母は17年前に夫が自殺して以来引きこもりとなり、気付くと体重が250㌔を超え、この7年間は一歩も外出していない。 知的障害を抱えたアーニーは、生まれた時に10歳まで生きないと言われたが、間もなく18歳となる。時々町の給水塔に上っては、警察から注意されるのが、家族にとっては悩みの種となっていた。 エンドーラはシーズンになると、トレーラーを駆る多くの旅行者が通り掛かる。そのほとんどが素通りしていく中で、車が故障したために足止めを喰らったのが、祖母と旅をしているベッキーだった。 街の保険会社の社長夫人と不倫の仲だったギルバートだが、アーニーに対して偏見なく接するベッキーに、出会った時から心惹かれる。しかし車が直れば、彼女は居なくなってしまう…。 問題だらけの家族を棄てて、旅立つことなど決してできない。自分は「どこへも行けない」と思うギルバート。 そんな日々の苛立ちが爆発し、ある時アーニーの無邪気なふるまいに、つい手を上げてしまう。そのショックで家を飛び出したギルバートは、エンドーラから出て行こうとするのだが…。 ***** 典型的なアメリカのスモールタウンであるエンドーラは、架空の街。撮影はテキサス州のオースティンで、3ヶ月に渡って行われた。 主演のギルバート役に決まったのは、ジョニー・デップ。1990年に『クライ・ベイビー』で映画初主演を果たし、同年の『シザーハンズ』で大ヒットを飛ばして、スターの仲間入り。『アリゾナ・ドリーム』『妹の恋人』に続く主演作として本作を選んだのは、ハルストレムの監督作ということが、大きかった。 デップはフロリダの南東にある、小さな町ミラマーで育った。デップの両親は、幼い頃に離婚。彼は憔悴する母親を気遣って、父親から送られてくる小切手を、受け取りに行っていた。 そんな彼にとって、母親と知的障害の弟の面倒を見るギルバートは、自分に近く、役作りは楽だったという。 デップはギルバート役について、こんな風に解釈していた。環境のせいで夢見ることをあきらめてきたが、心の奥に何かを秘めている。何もかも投げ捨てて、そこから逃れ、新しい人生を始めたいという強い思いを持ちながらも、いつの日からか自分を殺すようになっていった。その歪みによって、ある時に愛と献身は怒りと罪悪感に変わって、遂には自分自身を見失ってしまう…。 ギルバートと重なる部分が多かったことが、撮影中逆にデップを苦しめることになる。当時彼が抱えていた、私的な問題と相まって…。 ギルバートと恋に落ちるベッキー役には、ジュリエット・ルイス。ハルストレムは、マーティン・スコセッシ監督の『ケープ・フィアー』(91)で彼女を観た時から、いつか仕事をしたいと考えていた。そしてルイスも、「監督がラッセ・ハルストレムなら…」と、オファーを快諾した。 アーニー役に選ばれたのは、レオナルド・ディカプリオ。14歳から子役の活動を始めたディカプリオは、本作に先立つ『ボーイズ・ライフ』(93)に、ロバート・デ・ニーロ直々の指名を受けて出演。その演技が高く評価された。 ハルストレムはアーニー役に関しては、「実はあまりルックスがいいとは言えない役者を探していたんだ」と語っている。ところがオーディションに集まった役者の中で、ピンと来たのが、ディカプリオだった。 ディカプリオはそのオーディションで、「一週間で役作りする」と宣言。アーニーと同じようなハンディキャップを持った人々と数日間一緒に過ごし、彼らの雰囲気を摑んだ。更に本を読んだり、ビデオを撮って仕種などを研究した。その上で、自分の想像をミックス。顔の表情を作るため、口に特製のマウスピースを入れて、アーニー役を作り上げた。 ハルストレムはそもそも、「俳優の創造力を助けるのが監督の仕事」という考え方の持ち主。ディカプリオのやることをいちいち気に入って、自由にやらせたという。 ハルストレム言うところの「知的な天才」ディカプリオは、カメラが回ってない時でも、アーニー役が抜けず、木に上ったり水をかけたりして、スタッフを困らせた。あまりにハイになり過ぎて、ハルストレムに嘔吐物をかけてしまったこともあったという。 そんな彼と兄役のデップの関係は、ディカプリオ曰く「…優しくて、僕のことをいつも笑わせてくれた」。実年齢では11歳上のデップと、本当の兄弟のような関係が築けたという。 劇中でアーニーは、嫌なことがあると、顔をクシャとさせる。その表情が気に入ったデップは、ギャラを払っては、ディカプリオに腐った卵やソーセージの酢漬け、朽ちた蜂の巣などの匂いを嗅がせては、その演技をさせるという遊びを行った。ギャラの合計は、500ドルほどに達したという。 因みに撮影中は、共演者とはあまりフレンドシップを結んだりはしないというジュリエット・ルイスだったが、彼女は『ケープ・フィアー』で、ディカプリオは『ボーイズ・ライフ』で、それぞれロバート・デ・ニーロの洗礼を浴びた同士。ディカプリオには、「あんたは私の男版よ」と、親しみを示したという。 奇しくもジュリエット・ルイスが、『ケープ・フィアー』でアカデミー賞助演女優賞にノミネートされてブレイクを果したのと同様、ディカプリオは本作でオスカーの助演男優賞候補となり、大注目の存在となっていく。 ディカプリオが本作の中で、「特別に好き」というのが、母役のダーレン・ケイツとのシーン。主演のデップも、ケイツの演技と人柄には、深く感動を覚えたという。 実際に250㌔を超える身体の持ち主であるケイツは、本作が初めての演技だった。92年に出演したTVのトーク番組で、“肥満を苦にしての外出恐怖症”で5年間家から出なかった経験を語ったのを、原作&脚本のピーター・ヘッジスに見出されての抜擢だった。 彼女が出演をOKしたのは、肥満の人々がどれだけの偏見や残酷な眼差しにさらされているかを、伝えたいという考えから。「この映画で人々がより寛大になってくれれば嬉しい」と語る彼女の勇気に、デップは感銘を受けたのだった。 さてそんなデップは、義歯を入れて、長髪をさえない赤に染めて、ギルバート役に挑んだ。先に記した通り、「まともじゃない家族とその面倒を見るギルバート」のジレンマに痛いほど共感できたのが一因となって、撮影中は鬱状態。眠らず食事を摂らず、ひらすら酒を飲み煙草を吸い続けていた。またこの頃は、ドラッグに最もハマっていた時期だったという。 デップの問題は、役への共感だけではなかった。長く恋愛関係にあった女優のウィノナ・ライダーとの仲が、ちょうど暗礁に乗り上げた頃だった。 そんなこんながあって、デップ個人にとっては、「…無意識のうちに自分を追い込んでいたのかもしれない…」本作の撮影現場は、決して楽しいものではなかった。作品が完成して公開されても、その後ずっと本作を観ることができなかったほどに。 そんな中でもハルストレムは、デップの心の拠りどころになった。デップはスウェーデン語を教えてくれと、せがんだという。 ハルストレムもデップに対しては、絶対的な信頼感を示した。「目で演技する若者で、その演技たるやとても繊細だから私が口を出す必要は全然ない」と考えて。 そうは言っても、やっぱり監督は監督である。ハルストレムは、ロケ地から役者の演技まで、確固たるイメージを持っていたため、何度もリテイクを重ねることもあった。「50テイク撮っても、使えるのはせいぜい2、3テイク目までだよ」と、デップが愚痴をこぼしたこともある。 そんな2人だったが、7年後に『ショコラ』(2000)で再び組んでいる。デップにとっては意外なオファーだったというが、ハルストレムにとってデップは、やはり得難い俳優だったということだろう。 ハルストレムは言う。「監督業の醍醐味は、カメラの前で何かを作り出すその瞬間生まれると思う。予想もしていなかったことがパッと起こり、真実に近いものができる。その黄金の瞬間がつぎつぎに生まれてくるのを見るとき、監督になって本当に良かった、と思う…」『ギルバート・グレイプ』は、まさにそんな瞬間が結実した作品である。若き日のデップやディカプリオの“美しさ”も楽しみながら、皆様もその目で確かめていただきたい。■ 『ギルバート・グレイプ』© 1993 DORSET SQUARE FILM PRODUCTION AND DISTRIBUTION KFT / TM & Copyright © MCMXCIII by PARAMOUNT PICTURES CORPORATION All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2023.06.19
“愛のシネアスト”のはじまり。トリュフォーが描いた「純愛の三角関係」『突然炎のごとく』
フランソワ・トリュフォー(1932~84)が、批評家から監督へと転じて撮った、初の長編作品は、『大人は判ってくれない』(1959)。主人公のアントワール・ドワネルに、自らの子ども時代を投影したこの作品で、トリュフォーは「カンヌ国際映画祭」の監督賞を受賞し、ゴダールらと共に、一躍“ヌーヴェル・ヴァーグ”の旗手の1人となった。 後に「愛もしくは女、子供、そして書物が、わたしの人生の三大テーマだ」と語ったトリュフォー。実は処女長編として最初に考えていたのは、「子供」ではなく、「愛もしくは女」を題材にした作品だった。 1953年、トリュフォー21歳の時。出版されたばかりの1冊の小説を読んで、「雷の一撃」を喰らった。そして「いつか映画をつくることができたら、この小説を映画にしたい」と思ったという。 トリュフォー曰く「映画人生を決定的にした」その小説のタイトルは、「ジュールとジム」。それは芸術家であるアンリ=ピエール・ロシェが、74歳にして初めて書いた小説だった。その内容は、20世紀初頭のミュンヘン、パリ、ベルリンを舞台に、現代芸術の周縁でロシェ自身が繰り広げた、若き日の冒険、愛と友情を書き綴ったものだった。 トリュフォーはある批評の中で、この小説について、こんな風に紹介した。「…ひとりの女性が、美意識と一体になった新しいモラルのおかげで、しかしたえずそのモラルを問うという形で、ほとんど一生のあいだ、ふたりの男性を同じように愛しつづけるという物語…」 この文を目にしたロシェは感激し、トリュフォーに手紙を書いた。そしてそこから、2人の交流が始まった。 トリュフォーはロシェに会って、映画にしたいという希望を述べた。それから2人は随時手紙をやり取りし、映画化についてのアイディアを交換し合ったという。 しかし先に書いた通り、トリュフォーが短編を何本か手掛けた後に、初めての長編監督作に選んだのは、「ジュールとジム」ではなく、『大人は判ってくれない』だった。それは、ロシェのような「愛の人生のベテラン」の筆による小説を映画にするのは、若い自分には「…むずかしく野心的すぎる…」と感じたからだという。後に“愛のシネアスト”と呼ばれるようになるトリュフォーだが、まだその時は訪れていなかったのだ。 機が熟して、「ジュールとジム」を映画化する夢が実現したのは、『大人は判ってくれない』が評判となり、続いて『ピアニストを撃て』(60)を発表した後のこと。それがトリュフォーの長編3本目となる本作、日本での公開タイトル『突然炎のごとく』(62)である。 ***** オーストリア人の青年ジュール(演:オスカー・ヴェルナー)が、フランス人の青年ジム(演:アンリ・セール)と、1912年のパリで出会う。2人は意気投合。親友となった。 ある時知人に見せられたスライドに、2人は心を奪われた。それは、アドリア海の島にある、女神を象った石の彫像の写真。2人はわざわざ現地まで実物を見に行く。 パリに戻った2人は、その彫像を思わせる容貌を持つカトリーヌ(演:ジャンヌ・モロー)という女性と知り合う。ジュールは彼女にプロポーズ。生活を共にするようになる。 ある時ジムは、ジュールとカトリーヌと共に3人で芝居見物に行く。男2人が芝居の議論に熱中すると、カトリーヌは突然セーヌ河に飛び込ぶ。この時ジムは、自分もカトリーヌに惹かれていることを自覚する。 第一次世界大戦が始まり、ジュールとジムはそれぞれの国の軍人として、敵味方に分かれて戦線へと赴く。共に生きて還れたが、再会の時までは、暫しの時を要した。 ジュールとカトリーヌが暮らす、ライン河上流の田舎の山小屋に、ジムは招待された。ジュールとカトリーヌの間には、6歳の娘もいたが、夫婦仲はうまくいってなかった。 ジュールはジムに、彼女と結婚してくれと頼む。それは、自分も側に置いてもらうという条件付きだった。 3人の奇妙な共同生活が始まるが、カトリーヌには、他にも愛人がいた。ジムは刹那的に男を愛する彼女に絶望し、パリに暮らす昔の恋人の元に戻る。 数ヶ月後、3人は再会した。カトリーヌは自分の運転する車にジムを乗せると、ジュールの目の前で暴走。壊れた橋から、車ごとダイブするのだった…。 ****** カトリーヌを演じたジャンヌ・モローに、トリュフォーが初めて会ったのは、1957年。「カンヌ国際映画祭」会場内の廊下だった。モローは主演作『死刑台のエレベーター』(58)を撮り終えたばかりで、その監督で当時恋人だったルイ・マルと一緒に居た。 トリュフォーは「ジュールとジム」の小説に出会った時と同じく、その時「雷の一撃」を受けた。そしてモローをヒロインにすれば、「ジュールとジム」を映画にできるのではと、感じたという。 その後トリュフォーとモローは、週に1度、ランチを共にするようになる。トリュフォーの口数が多くないため、むしろ並行して行った、手紙でのやり取りの方が、内容が濃かったようだが。 モローは、トリュフォーの初長編『大人は判ってくれない』に、ジャン=クロード・ブリアリと共に、友情出演。「ジュールとジム」の小説を読むように渡されたのは、その前後だったと思われる。すでにスターだったモローは、トリュフォーの当時の知り合いの中では、「予算も脚本も、特別手当もない、とんでもない企画」に参加してくれる、ただ1人の女優だった。 1959年の4月、トリュフォーは原作者のロシェにジャンヌ・モローの写真を送って、カトリーヌの役について助言して欲しいと頼む。ロシェは「彼女は素晴らしい。彼女についてもっと知りたいと思います。私のところに連れてきて下さい」と返事を書いたが、2人の面会は叶わなかった。手紙を書いた4日後に、ロシェがこの世を去ってしまったからだ。 トリュフォーは、原作の謳い文句だった「純愛の三角関係」の感動を、忠実にスクリーンに移し替えようと試みた。「ひとりの女がふたりの男とずっと人生をともにするという、このうえなく淫らなシチュエーションから出発して、このうえなく純粋な愛の映画をつくること」それを目標に、ジャン・グリュオーと共同で、脚色を行った。 タイトルロールである「ジュールとジム」のキャスティングも、重要だった。トリュフォーはジュールの役には、原作通りに外国人を希望した。フランス語を話す際のアクセントや言いよどみによって、キャラクターをより感動的にできると考えたからだ。 一時、イタリア人のマルチェロ・マストロヤンニの名も挙がったが、トリュフォーは原作に忠実に、ゲルマン系の俳優にこだわった。それがオスカー・ウェルナーだった。トリュフォーはマックス・オフェルス監督の『歴史は女で作られる』(55)に出演しているウェルナーを見て、「彼以外にありえない」と、白羽の矢を立てたという。 すでにドイツやオーストリアでは有名だったウェルナーに対して、ジム役に選ばれたアンリ・セールは、まったく無名の存在。パリのキャバレーのステージで寸劇を演じていた芸人で、映画に出たこともなかった。トリュフォーは、セールの背の高さや物腰の柔らかさ、敏捷さなどが、原作者ロシェの若い頃を髣髴させるという理由で、彼をジム役に抜擢した。 因みにジュール役にウェルナー、ジム役にセールを決定する際には、トリュフォーはモローに立ち会ってもらったという。 1961年4月、遂にクランクイン。撮影に当たってトリュフォーは、「あたかも、この物語は、余り信用出来ないといった思いで、古い写真帳をめくっていくかのごとき感じ…」を出すことを意識した。そのため、登場人物も場所も、遠めから撮影。それは観客に凝視させながらも、その中には決して入っては行けない世界という意味付けだった。 先に記した通り、「予算も…特別手当もない、とんでもない企画」だった本作は、撮影クルーは15名ほどと、極めてミニマム。多くのシーンは、トリュフォーや関係者が友人知人に頼んで借りた場所で、ロケを行った。 音声の同時録音はされず、セリフはその場では適当に喋っておいて、ポストプロダクションで10日ほど掛けて吹き込んだ。因みに、衣裳はすべて自前。自分たちで作るか、見付けてくるかして、揃えたものだった。 本作に於いてジャンヌ・モローは、劇中のヒロインという以上の働きをした。彼女曰く「私はトリュフォーと一緒にこの映画を共同製作したの。私たちはありったけのお金をすべて投資したのよ」アルザスのロケでは、出演者とスタッフ合わせて22人分の昼食を、毎日彼女が作ったのだという。 それでも撮影の終盤には、製作費が底を尽き、プロデューサーがその調達に奔走するハメになったというが…。 モロー曰く、撮影は「幸福の時…」であった。トリュフォーの現場では、誰もが映画のことだけを考える。「全体として荘重で深みのある雰囲気で、それでいて絶え間のない笑い声に満ちた開放的な雰囲気…」それは悲しい物語でありながらも、ディティールはおかしさに彩られている、「ジュールとジム」の世界観と重なる現場であったと言えるかも知れない。 トリュフォーは、撮影中やその合間に起こる事柄を捉え、うまく活用して映画の中に取り入れる能力があった。即興演出も、しばしば行われた。 劇中でモローが、ボリス・バシアクのつま弾くギターで歌う、有名な「つむじ風」という歌。トリュフォー曰く、元から友人同士だったモローとバシアクが、撮影合間に楽しみながら作った曲が素晴らしかったので、「…なんとかわたしの映画に使いたい…」と頼んだのだという。 モローの証言だと、そのディティールは、少し違っている。彼女と元夫のジャン=ルイ・リシャール、そしてバシアクと3人で、以前からよく口ずさんでいた歌を、トリュフォーが採用したのだという。 いずれにしろ、映画史にも残る「つむじ風」という歌が、元は本作のために作られた曲ではなかったのは、間違いない。因みに同時録音なしで進められた本作の撮影で、このシーンだけは、録音技師を招いて撮影された。何回かカメラを回した中で採用されたのは、ジャンヌ・モローがリアルに節の順番を間違えて、一瞬ジェスチャーをするテイクだった。「幸福の時…」を共にしたトリュフォーとモロー。恋多き男と恋多き女の組合せ故、「恋人同士だった」という指摘もある。しかしながら、トリュフォーはモローとの関係は、「双子の兄弟」のように感じていたと表現。モローは、2人の恋愛関係を否定した上で、「…私たちは、お互いの技術と知性と感性に惹きつけられていたの…」と語っている。 『突然炎のごとく』は、61年6月にクランクアップ。編集とアフレコに4ヶ月ほど掛けて、翌62年の1月にパリで公開された。 公開後、トリュフォーが驚くと同時に喜びを感じたのは、彼の元に届いた2通の手紙。1通は、原作者ロシェの未亡人からで、その内容は、「…ピエールが観たらさぞ喜んだことでしょう」というもの。 そしてもう1通には、こんな自己紹介がしたためられていた。「私は75歳で、ピエール・ロシェの小説『ジュールとジム』の恐るべきヒロイン、カート(カトリーヌ)の成れの果てです…」「ジュールとジム」は、ロシェが自らの若き日について書き綴った小説であることは、先に書いた通り。ロシェ自身が投影されているのは、ジムのキャラクター。そしてジュールとカトリーヌのモデルとなったのは、ベルリンで活躍したユダヤ系ドイツ人作家のフランツ・ヘッセルと、その妻であったヘレン・カタリーナ・グルントであった。 ヘッセルはナチの台頭から逃れ、フランスに亡命した後、1941年に客死していたが、グルントはまだ存命だったのだ。彼女からの手紙には『突然炎のごとく』の感想が、こんな風に綴られていた。「わたしは映画を見て、生涯の最も美しい瞬間を生き直した心地がします」 トリュフォーは是非お会いしたいと返事を書いた。しかしグルントは、ジャンヌ・モローと比較されたくなかったからなのか、「会えない」という返信を寄越した。 モデルとなった、老婦人のお墨付きを得ただけではない。『突然炎のごとく』は、ヨーロッパの主要都市やアメリカ・ニューヨークなどで次々と公開され、絶賛を博した。そしてその後、映画のみならず、様々なジャンルの創作物にただならぬ影響を及ぼす。 製作から60年以上経った今日では、作り手が本作の存在を知ることなしに、「純愛の三角関係」のDNAが息づく作品も、少なくない。■ 『突然炎のごとく』© 1962 LES FILMS DU CARROSSE / SEDIF
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COLUMN/コラム2023.05.31
‘70年代アメリカの殺伐とした世相を映し出すパニック・サスペンス巨編『パニック・イン・スタジアム』
ディザスター映画ブームの最盛期に誕生した異色作 ‘70年代のハリウッドで大流行したディザスター映画。日本ではパニック映画とも呼ばれた同ジャンルは、地震や洪水のような自然災害からテロやハイジャックのような犯罪事件に至るまで、様々な危機的状況に巻き込まれた人々による決死のサバイバルを描き、’50年代半ばにスタジオシステムが崩壊して以降、斜陽の一途を辿っていたハリウッド映画の復興に一役買った。 トレンドの口火を切ったのは「エアポート」シリーズの第1弾『大空港』(’70)。これを皮切りに『ポセイドン・アドベンチャー』(’72)や『タワーリング・インフェルノ』(’74)、『大地震』(’74)に『カサンドラ・クロス』(’76)、さらには『大空港』の続編に当たる『エアポート’75』(’74)や『エアポート’77』(’77)などのディザスター映画が次々と大ヒットする。いずれも大掛かりな特撮やスタントを駆使した派手なスペクタクル描写と、新旧の有名スターを総動員した煌びやかなオールスターキャストの顔ぶれが人気の秘密。ブームの最盛期に登場した本作『パニック・イン・スタジアム』(’76)も同様だが、しかしこの作品がその他大勢のディザスター映画群と一線を画したのは、あくまでもスペクタクル描写はオマケに付いてくる豪華特典であり、基本的にはリアリズムを重視した社会派の犯罪サスペンスだったことだ。 舞台は現代のロサンゼルス。日曜日の早朝、市内のホテルに宿泊する正体不明の男が、おもむろに取り出したライフルでランニング中の中年夫婦を銃撃する。すぐにホテルをチェックアウトした男が向かったのは、アメフトの試合が行われるロサンゼルス・メモリアル・コロシアム。地元のロサンゼルス・ラムズ対ボルチモア・コルツの対戦だ。続々と入場する大勢の観客に紛れてコロシアムへ侵入した男は、会場全体を一望できる時計台の屋上に陣取り、試合の開始を待って静かに息をひそめる。 一方、会場には様々な事情を抱えつつも試合を心待ちにするアメフト・ファンたちが集まってくる。ワケアリな中年カップルのスティーヴ(デヴィッド・ジャンセン)とジャネット(ジーナ・ローランズ)、ギャンブル中毒で多額の借金を抱えた中年男スチュー(ジャック・クラグマン)、幼い子供が2人もいるのに失業した若い父親マイク(ボー・ブリッジス)と妻ペギー(パメラ・ベルウッド)、彼氏に誘われただけでアメフトには興味のない美女ルーシー(マリリン・ハセット)、そんな彼女に一目惚れして口説き始める男性アル(デヴィッド・グロー)、友人のスター選手チャーリー(ジョー・キャップ)を応援しに来た教会の牧師(ミッチェル・ライアン)、そして浮かれた観客のポケットから財布を盗むスリの老人(ウォルター・ピジョン)などなど。誰一人として会場に狙撃犯が潜んでいることなど気付かず、やがて大歓声に包まれて試合がスタートする。 ライフルの照射眼鏡を覗きながら客席の様子をじっと観察しつつ、しかし一向に行動を起こす様子のない狙撃犯。ほどなくしてテレビ中継カメラのひとつが彼の姿を捉え、不審に思ったスタッフが警備担当者サム(マーティン・バルサム)に報告する。ライフルを構えた狙撃犯の姿を見て戦慄し、慌ててロス市警の分署長ピーター・ホリー(チャールトン・ヘストン)に連絡するサム。通報を受けて現場へ到着したホリー署長と警官隊は、人目を引かぬよう注意深く時計台の男を観察する。 果たして彼は本気で凶行に及ぶつもりなのか。だとすれば単独犯なのか、それとも仲間がいるのか。会場には市長や議員も訪れているが、いったいターゲットは誰なのか。すると、事態を知った管理責任者ポール(ブロック・ピータース)が、時計台へ上がろうとして男に突き落とされ死亡する。すぐさまホリー署長はSWAT(特殊部隊)チームを招集。観客の安全を最優先に考えつつ、会場の各所に隊員を待機させて犯人確保のタイミングを狙うSWATのバトン隊長(ジョン・カサヴェテス)。やがてアメフトの試合はクライマックスへと差し掛かり、終了2分前のタイムアウト(ツー・ミニッツ・ウォーミング)が訪れる…。 ラリー・ピアース監督の代表作『ある戦慄』との類似性とは? 肝心の見せ場であるパニック・シーンは終盤の20分ほど。コロシアムに集まった9万1000人の観客が、次々と狙撃犯の凶弾に倒れる犠牲者や会場に響き渡る銃声に青ざめ、大混乱を起こして一斉にコロシアムの外へ向かって逃げ出す。もちろん、実際に9万人以上のエキストラを逃げ惑わせることなど不可能であるため、撮影はシーンやカットごとに何週間もかけて行われたのだが、それでもなお最大で1日3000人近くのエキストラを動員したという群衆パニックは圧倒的な迫力だ。これぞディザスター映画の醍醐味。しかも、ただスケールが大きいだけではなく、危機的状況に陥って冷静な判断力を失った人々の行動をつぶさに捉え、いざという時の群集心理の恐ろしさと危うさをこれでもかと見せつける。 とはいえ、本作のキモはそこへ至るまでの生々しいサスペンス描写にあると言えよう。狙撃犯の素性も動機も目的も劇中では一切明かされず、クライマックスへ至るまで顔すら殆んど映し出されず、辛うじて最後に所持品から名前が判明するだけ。その得体の知れなさが漠然とした不安と恐怖を徐々に煽り、ケネディ大統領暗殺事件やテキサスタワー乱射事件より以降の、アメリカ社会を包み込む殺伐とした空気をリアルに浮かび上がらせていく。’60年代末から顕著になったアメリカの治安悪化は、’70年代に入ってますます深刻となり、犯罪発生件数は増加の一途を辿っていた。もはやこの国に安全な場所など残されていない。平和な日常のどこに犯罪者が潜んでいるか分からないし、いつ凶悪犯罪に巻き込まれたっておかしくない。それこそが本作の核心的なテーマであり、あえて犯人像を透明化した理由であろう。 監督はテレビ出身のラリー・ピアース。黒人男性と再婚した白人女性に立ちはだかる困難に人種問題の根深さを投影した『わかれ道』(’64)や、富裕層のお嬢さまと平凡な若者の格差恋愛を通して階級間や世代間のギャップを描いた『さよならコロンバス』(’69)など、アメリカ社会の「今」を鮮やかに捉えた人間ドラマで定評のある名匠だが、中でも最高傑作との呼び声も高い『ある戦慄』(’67)と本作の類似性は見逃せない。 ニューヨークの地下鉄にたまたま乗り合わせた平凡な人々が、傍若無人なチンピラに絡まれるという理不尽な恐怖体験を描いた『ある戦慄』。『パニック・イン・スタジアム』でアメフトの試合会場に集まってくる観客たちと同様、『ある戦慄』の地下鉄乗客たちもそれぞれに複雑な事情を抱えており、そのひとつひとつに貧困や格差や差別などの社会問題が映し出される。そのうえで、まるで自然災害のごとく理屈の通用しない凶暴なチンピラたちの脅威に晒されることによって、善良な市民の赤裸々な醜い本性が暴かれていくことになるのだ。 日常空間に突如として現れる得体の知れない暴力、極限状態に置かれた人間のパニック心理、そこから浮かび上がるアメリカ社会の殺伐とした暗い世相。クライマックスの衝撃へ向けて、少しずつ不安と恐怖を煽っていくヒリヒリとした演出も含め、犯罪の増加やベトナム戦争の泥沼化などに揺れる’60年代末アメリカのリアルな実像に迫る『ある戦慄』は、それゆえに『パニック・イン・スタジアム』と符合する点が少なくない。前作『あの空に太陽が』(’75)をきっかけに、本作を含めて4本の映画で組んだ製作者エドワード・S・フェルドマンが、『ある戦慄』を念頭に置いてオファーしたのかどうかは定かでないものの、しかしピアース監督が本作を演出するに最適な人物であったことは間違いないだろう。 主演のチャールトン・ヘストンを筆頭に、ジョン・カサヴェテスとジーナ・ローランズの夫婦、『十二人の怒れる男』(’57)でも共演したマーティン・バルサムにジャック・クラグマン、ハリウッド黄金時代を代表する二枚目スターのひとりウォルター・ピジョン、テレビ界の人気者だったデヴィッド・ジャンセンにデヴィッド・グローなどの名優たちを起用した豪華キャストも魅力。後にピアース監督夫人になったマリリン・ハセット、『ある戦慄』でも共演したボー・ブリッジスにブロック・ピータースなど、ピアース作品の常連組も揃う。ヘストンはピアース監督の仕事ぶりを気に入り、『原子力潜水艦浮上せず』(’78)の演出をオファーしたそうだが、しかし監督は好みのジャンルでないことを理由に断ったという。 当時まだ新人だったパメラ・ベルウッドは、その後一世を風靡したドラマ『ダイナスティ』(‘81~’89)でテレビ界のトップスターとなる。また、ウォルター・ピジョン扮するスリの相方を演じている女優ジュリー・ブリッジスは、当時すでに離婚していたボー・ブリッジスの元奥さんである。当時まだ無名だった『エクスタミネーター』(’80)のB級アクション俳優ロバート・ギンティが、売店のお兄ちゃん役で顔を出すのも見逃せない。それにしても、群衆に巻き込まれながらのメインキャストの芝居など、さぞかし大変だったろうと思うのだが、実は周囲に10~15名のスタントマンを配置してスペースを確保したり誘導したりしていたのだそうだ。 なお、劇中で展開するアメフトの試合は学生リーグで、ユニフォームを見れば一目瞭然だが、実はスタンフォード大学と南カリフォルニア大学の対戦。テレビ中継のディレクターとして登場するのは、当時実際にスポーツ中継ディレクターの第一人者だったアンディ・シダリス。そう、後に『グラマー・エンジェル危機一発』(’88)や『ピカソ・トリガー/殺しのコード・ネーム』(’88)など、一連のB級ビキニ・アクション映画を手掛けるアンディ・シダリス監督その人である。 幻のテレビ放送版も徹底検証! ちなみに、本作は1979年2月6日に米ネットワーク局NBCにて、3時間の特別枠でテレビ放送されたのだが、その際に大幅な追加撮影と再編集が行われている。かつてのアメリカでは劇場でヒットした話題作映画をテレビ放送する際、様々な理由から追加撮影や再編集を施したテレビ向けのロング・バージョンを作ることが少なくなかった。『大地震』や『キングコング』(’76)、『スーパーマン』(’78)などが有名であろう。この『パニック・イン・スタジアム』の場合は、理由なき無差別殺人という題材や血生臭い暴力描写が子供や老人も見るテレビには不向きと見做され、ゴールデンタイムの特別枠を欲しかった権利元ユニバーサルが独断で追加撮影と再編集に合意したらしい。 準備された予算は50万ドル。当時は低予算のインディーズ映画を1本撮れる金額だ。おのずと劇場版の監督であるラリー・ピアースに追加撮影の依頼があったそうだが、しかし『大地震』のテレビ放送版にも携わったフランチェスカ・ターナーの脚本が酷かったため断ったという。最終的に誰が追加撮影分の演出を担当したのか分かっていないが、完成版ではジーン・パーカーという匿名でクレジットされている。 このテレビ放送版と劇場公開版の最大の違いは、狙撃犯の正体が美術品強盗グループの一味と設定されていることだ。どういうことかというと、テレビ放送版には美術品強盗作戦というサブプロットが存在するのである。実はロサンゼルス・メモリアル・コロシアムの向かいに美術館があり、そこに展示されている国宝級の美術品を盗もうと画策する強盗グループが、目眩ましとして狙撃犯を試合会場に送り込んだというのだ。あくまでも目的は警察の注意をコロシアム側に引いて、その隙に仲間が美術品を盗み出すこと。人は殺さないというのが大前提だ。なので、狙撃犯のターゲットは会場の照明器具や誰も座っていない空席。その銃声で観客はパニックに陥るのだが、最後までメインの登場人物は誰一人として死なない。たまたま照明の陰に隠れていたSWAT隊員が1人、運悪く銃弾に当たって殺されるだけだ。 さらに、劇場公開版では最後に名前が判明するだけで、その素性も動機も目的も分からず、顔も殆んど見せなかった狙撃犯だが、テレビ放送版では最初から顔も名前も堂々と明らかにされ、美術品強盗グループの仲間であることはもちろん、実はベトナム帰還兵だったという設定まで加わっている。なるほど、ラリー・ピアース監督が関わり合いになることを拒否したのも納得。これじゃ映画本来の意図が台無しである。しかも、恐らく相当急ピッチで撮影された様子で、例えば車のリアウィンドウに映る景色がグリーンバックのままになっていたりする。これはさすがに不味いだろう(笑)。 こうした追加撮影分のサブプロットが本編に混ぜ込まれる一方、劇場公開版に存在するシーンの多くがテレビ放送版ではカットされている。例えば、ランニング中の夫婦が銃撃されるオープニングのホテル・シーンは丸ごと全て消えているし、狙撃犯が会場へ向かうドライブ・シーンや観客たちの背景を描く人間ドラマも大幅に短縮。バトン隊長の家族も一切出てこないし、狙撃犯の仲間と疑われた迷惑客を手荒に尋問するシーンも存在しない。その結果、最終的にCMを含む3時間の放送枠に収まるよう再編集された、合計で約2時間半のテレビ向けロング・バージョンが出来上がったのである。 追加撮影分に登場する主なキャストは以下の通り。美術品強盗グループのリーダー、リチャード役には『コマンドー』(’85)のカービー将軍役でお馴染みのジェームズ・オルソン。本作でもベトナム帰りの元陸軍将校という設定だ。同じく強盗グループのブレーンである美大教授には、ハリウッド・ミュージカル『南太平洋』(’58)でも有名なイタリアの名優ロッサノ・ブラッツィ。狙われる美術品のオーナーである大富豪アダムス氏は、『カーネギー・ホール』(’47)や『ガントレット』(’77)のウィリアム・プリンス。その恋人で実は強盗グループの仲間である美女パトリシアには、『007/カジノ・ロワイヤル』(’67)のマタ・ボンド役で知られるジョアンナ・ペティット。後に『スカーフェイス』(’83)で南米カルテルのボスを演じるポール・シェナーも強盗グループの一員、トニー役を演じている。なかなか豪華な顔ぶれだ。 さらに、主演のチャールトン・ヘストンも追加撮影に参加。強盗計画のタレこみ情報を受けた美術館の警備担当者からホリー署長が電話連絡を受けるシーンと、終盤でホリー署長が警官隊を美術館へ向かわせるシーンに登場するのだが、よく見ると劇場公開版の映像に比べて髪型が微妙に違う。そういえば、『大地震』のテレビ放送版でも、追加撮影シーンに出てくるヴィクトリア・プリンシパルのアフロ・ウィッグが明らかに別物だったっけ(笑)。また、追加撮影では狙撃犯役のウォーレン・ミラーも再登板。劇場公開版と同じ衣装を着用している。残念(?)ながら、日本では見ることのできない『パニック・イン・スタジアム』テレビ放送版だが、米盤ブルーレイの映像特典として収録されている。好事家の映画マニアであれば一見の価値くらいはアリだろう。■ ◆本作撮影中のラリー・ピアース監督 『パニック・イン・スタジアム』© 1976 Universal Pictures, Ltd. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2023.05.29
「カンフー映画の王様」の誕生を告げるブルース・リーの記念すべき初主演作!『ドラゴン危機一発』
ハリウッドを振り向かせるために香港へ戻ったブルース 永遠不滅のカンフー映画スター、ブルース・リーの初主演映画であり、’70年代カンフー映画ブームの原点とも呼ぶべき作品だ。’71年10月23日に香港で封切られるや大反響を巻き起こし、これを皮切りにアジア各国はもとより中東やヨーロッパ、アメリカでも大ヒットを記録。もともと予算10万ドルのB級映画だった本作だが、最終的には当時の香港映画として史上最高額となる5000万ドルの興行収入を稼ぎ出してしまう。 当時すでに香港のカンフー映画はアジア諸国で人気を博していたものの、しかし世界規模で成功した作品は『ドラゴン危機一発』が初めてだったとされる。おかげで、長いことハリウッドで燻っていたブルースは、一夜にして香港映画界を代表するトップスターへと飛躍。韓国や日本など一部の国では’73年7月20日のブルースの死後、ハリウッドでの初主演作『燃えよドラゴン』(’73)の爆発的ヒットを受けて劇場公開されているが、いずれにせよ『ドラゴン危機一発』の大成功が来るべきカンフー映画ブームの素地を作ったことは間違いないだろう。 アメリカ生まれで香港育ちのブルース・リー。日頃の素行不良を心配した両親の薦めもあって、13歳の頃から伝説的な武術家イップ・マンのもとに弟子入りをした彼は、そこで初めて生まれ持った武術の才能を開花させるわけだが、しかし喧嘩っ早い性格は一向に治らず問題ばかり起こすため、有名な俳優だった父親は当時まだ18歳のブルースに100ドルを持たせて渡米させる。「可愛い子には旅をさせよ」というわけだ。アメリカでは学業の傍らで武術道場を開いたブルース。やがて大学を中退した彼は道場の経営に専念し、自らが理想とする武術の追求と普及に邁進していくこととなる。 大きな転機が訪れたのは’66年。その2年前にカリフォルニアで開催された第1回ロングビーチ国際空手大会に参加したブルースは、そこで自らの編み出した驚異的な技を披露して観衆の度肝を抜いたのだが、これを見て強い感銘を受けたハリウッドのTVプロデューサー、ウィリアム・ドジャーの推薦によって、ドジャーが大ヒット作『バットマン』(‘66~’68)に続いて製作したヒーロー活劇ドラマ『グリーン・ホーネット』(‘66~’67)の準主演に抜擢されたのである。 ブルースが演じたのは覆面ヒーロー、グリーン・ホーネットの運転手兼助手である日本人カトー。残念ながら番組は1シーズンで打ち切りとなったが、しかし劇中でブルースが披露した中国武術のインパクトは大きく、これを機に彼のもとには脚本家スターリング・シリファントや俳優ジェームズ・コバーンにスティーヴ・マックイーンなどなど、ハリウッドの大物セレブたちが門下生として続々と集まってくる。中でもマックイーンとはお互いに固い友情で結ばれたというブルース。その一方で、彼はマックイーンに対して激しいライバル意識も燃やしていたという。なぜなら、自分もマックイーンのようなトップスターになりたかったからだ。 シリファントの紹介で映画のスタント監修やテレビドラマのゲスト出演をこなしつつ、ハリウッドでの成功を夢見て各スタジオに自らの企画を売り込んだというブルースだが、しかしどこへ行っても門前払いを食らってしまう。最大のネックは彼が中国人ということ。ドラマ『燃えよ!カンフー』(‘72~’75)がブルースの原案を下敷きにしているというのは実のところ誤情報だったらしいが、しかし当初は劇場用映画として企画された同作の主演スターとして、ワーナー・ブラザーズの重役フレッド・ワイントローブ(後に『燃えよドラゴン』をプロデュース)がブルース・リーに白羽の矢を立てていたことは事実だそうで、しかしやはり中国人が主役ではヒットが望めないとして却下されてしまったという。 一流の人材を求めているはずのハリウッドのスタジオが、なぜ一流の武術家である自分を受け入れてくれないのか?と思い悩んだというブルース。そんな彼にワイントローブやコバーンが香港行きを強く勧める。ハリウッド業界を振り向かせたいならば、映画スターとしての実力を証明しなくてはいけない。そのためには格闘技だけでなく演技力も磨かねばならないし、名刺代わりとなる主演映画だって必要だ。ハリウッドではハードルが高いかもしれないが、しかし香港であればそれも可能だろう。要するに「急がば回れ」である。そこでブルースは故郷・香港へ戻り、当時同地で最大の映画会社だったショウ・ブラザーズと交渉するのだが、しかしギャラの金額が折り合わずに決裂する。 そんな彼に声をかけたのが、’70年にショウブラから独立して新会社ゴールデン・ハーヴェストを立ち上げたばかりの製作者レイモンド・チョウ。ちょうど当時、香港では『グリーン・ホーネット』が再放送されており、ブルースの知名度も高かったことから商機ありと見込んだのだろう。かくして、’71年の夏にゴールデン・ハーヴェストとの契約を結んだブルース。その第1回出演作となったのが本作『ドラゴン危機一発』だった。 『燃えよドラゴン』へと繋がった舞台裏秘話とは? 舞台は東南アジアのタイ。親戚を頼って出稼ぎにきた中国人の若者チェン(ブルース・リー)は、初めて会う従兄弟シュウ(ジェームズ・ティエン)やその妹チャオ・メイ(マリア・イー)らと共同生活を送りつつ、彼らの勤務先である地元の製氷工場で働くことになる。ところがこの製氷工場、実は麻薬密売の拠点となっていた。社長マイ(ハン・インチェ)はマフィアのボスで、出荷される氷の中に麻薬を隠して売りさばいていたのである。そのことに気付いた従兄弟たちが次々と消され、ついにはシュウまで殺されてしまう。喧嘩はしないと母親に誓っていたチェンは、余計なトラブルに巻き込まれないよう事態を静観していたものの、兄の安否を心配するチャオ・メイのためにも真相を探り始めるのだったが…? もともと本作は当時すでにスターだったジェームズ・ティエンの主演作であり、新参者のブルースは準主演として起用されたという。しかし、格闘シーンの凄まじい迫力を目の当たりにし、感心した制作陣は彼を主演へ格上げすることを決定。おのずと脚本も書き直されることとなった。実際、映画そのものは必ずしも上出来とは言えず、脚本や演出にも突っ込みどころは少なくないのだが、しかしブルース・リーがいざ戦い始めると途端に雰囲気は一変。その圧倒的なスターのオーラと鍛え抜かれた肉体の美しさ、人並外れた身体能力に目が釘付けとなる。たとえ格闘技のことに詳しくなくとも、もはや彼が別格の存在であることは誰が見ても一目瞭然。ただひたすらカッコいいのである。当時は香港でもアメリカでも、興奮した観客がスクリーンのブルース・リーに向かって、声援や拍手を送って大騒ぎだったと伝えられているが、然もありなんといったところである。 ロケ地はタイのパークチョン郡。当時は劣悪な環境だったそうで、ホテルの水道の蛇口をひねれば黄色い水が出るわ、そこら中に蚊やゴキブリがいるわという状態だったらしい。そのうえ高温多湿の気候が厳しく、新鮮な食材も手に入りにくいため、さすがのブルースも体調管理に難儀したとされ、撮影中に体重が激減してしまったという。また、アクションシーンの撮影にトランポリンを使ったり、敵役が壁を突き抜けると人型の穴が開いたりといった、マンガ的に誇張されたロー・ウェイ監督の演出にもブルースは不満を示したと言われる。確かに、生真面目で本物志向なブルースの趣味でなかっただろうことは想像に難くないが、まあ、いかんせん荒唐無稽が身上のロー・ウェイ作品なので…。 そのアクションシーンの武術指導を手掛けたのが、俳優として製氷工場の極悪社長役を演じているハン・インチェ。巨匠キン・フー監督による一連の武侠映画でも俳優兼武術指導を担当した人物で、それこそトランポリンを用いたアクロバティックなスタントも彼の十八番だった。格闘シーンでブルースが口元で血を拭ってみせる仕草は、ハン・インチェが『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』(’67)で演じた刺客マオの真似だとも言われている。また、次回作『ドラゴン怒りの鉄拳』(’72)でヒロインを演じる女優ノラ・ミャオが、かき氷屋の娘としてゲスト出演しているのも見逃せない。 なお、本作は合計で3種類の音楽スコアが存在することでも知られている。まずは香港での初公開時に使用されたワン・フーリンの音楽スコア。良くも悪くも印象に残らない平凡なカンフー映画の音楽スコアなのだが、これを「東洋的すぎる」と考えた西ドイツの配給会社は、’60年代に同国の人気スパイ映画「ジェリー・コットン」シリーズのテーマ曲などを手掛け、ジャーマン・ラウンジミュージックの巨匠としても知られる作曲家ピーター・トーマスに新たな音楽スコアを発注。これがドイツ語吹替版のみならず全米公開された英語吹替版でも使われている。さらに、日本公開された別の英語吹替版でも独自の音楽スコアを使用。これは広東ポップスの作曲家としても有名なジョセフ・クーが手掛けたもので、エンディングには日本公開版オリジナルの主題歌「鋼鉄の男」(歌:マイク・レメディオス)が流れる。ただし、実際に聞き比べてみると分かるのだが、この日本公開版ではピーター・トーマスの音楽スコアも一部で使われている。 ちなみに、ゴールデン・ハーヴェストは’82年のリバイバル公開時に広東語吹替版を製作。これが現在に至るまでスタンダードなオリジナル音声として流通しているのだが、しかし一部の(特に日本の)ファンからはすこぶる評判が悪い。というのも、もともと本作ではまだブルース・リーのトレードマークである「怪鳥音」は存在しなかったのだが、このリバイバル公開版では別のブルース・リー作品から切り抜いたと思しき「怪鳥音」を無理やり被せているのだ。そればかりか、ピンク・フロイドやキング・クリムゾンの楽曲パーツまで勝手にサンプリング…というか無断使用(笑)。いったいどういう経緯でこうなったのか首を傾げるところではある。 とにもかくにも、ハリウッドでは見向きもされなかったブルース・リーにとって念願の映画初主演となった本作。彼に香港行きを勧めたワーナー重役フレッド・ワイントローブによると、本作の完成直後にブルースから本編フィルムが彼のもとへ送られてきたという。これを当時のワーナー会長テッド・アシュリーに見せると大変気に入ったらしく、すかさずワイントローブが「ブルースのために脚本を用意してはどうだろうか」と提言したところ、とんとん拍子で話がまとまって企画が実現する。それがワーナーとゴールデン・ハーヴェストの共同制作による、ブルース・リーのハリウッド初主演作『燃えよドラゴン』だったというわけだ。■ 『ドラゴン危機一発』© 2010 Fortune Star Media Limited. All Rights Reserved.